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子育てとその周辺

1ミラー:2005/02/23(水) 22:43:34
独りごとスレに書き込んでおりましたが、あらためてスレを一つ
立てさせてください。

子育てを通して見えてくる共通の問題点を考えていければと思い
ます。

32ぽむぽむ:2005/04/10(日) 11:08:44
ミラーさん、こんにちは。
息子さんにcocoさんの言葉が届いてよかったですね^^

人ってたくさんの人に支えられて、縁して生きているんだなぁ。
素敵なお話ありがとうございます。

33coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/04/11(月) 01:26:14
>>31 ミラーさん

現在進行形の話だったのですね.
試験結果についての会話を交わす友人の息子さんとミラーさんの情景が
シルエットのように浮かんできて,感無量です.

疎外感や孤独感は,子どもにとっていちばん辛く寂しく,不安な心理状態だといいます.
理屈ではなく,彼を思うミラーさんの心そのものが彼の心を動かしたのだと思います.

私の拙いレスが少しでも彼の心に何かを残せるとすれば,それはミラーさんが渡したからです.
信頼する人の言葉であれば,人は素直に,ポジティブに受け入れることができます.
それにしても恐縮です...

彼の人生にとってミラーさんとの出会いは,ひとつのターニングポイントになるでしょう.

人と人との出会いこそ・・・人が生きること.
ミラーさんのすばらしい話を伺って,そんなことを思いました.

34coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/04/11(月) 01:27:13
>>32 ぽむぽむさん

>人ってたくさんの人に支えられて、縁して生きているんだなぁ。

ほんとうに,ほんとうに そのとおりだと思います.

35ミラー:2005/04/20(水) 23:14:39
前回のスレで、この話を打ち切るつもりでいましたが、大事なことを一つ言い
残していました。それは、この息子の母親のことです。

入試発表から1週間ほどして、母親が訪ねてきた。息子が合格したことで、母親
も安堵していた。

「今回のことで、私も自分の子供への接し方を考えた。私、母子家庭でしょ。
だから、世間から、あのうちの子は母子家庭だからと、うしろ指さされないよう
にしようと、無理してたんだと思った」

 私の周りにも、以前に比べて母子家庭の家族が増えている。そして、同じ気負
いを感じることがある。

「今、月に1度、父親に会わせているんだ。前は絶対に許さなかったけど、子供
の気持ちを考えたら、父親に会わせることも必要かなと考えるようになった」

 父親に会わせることが良いかどうか、私には分からない。よかったと思える
ようになって欲しいと思う。
 彼女が今までの自分のいき方を考え、子供への接し方を真剣に見つめだした
ことは、きっと彼女と彼女の周囲との関係を良い方向へと導くと思う。
 世間の評価という殻から抜け出して、自分自身への成長という自己評価へと
彼女の視点が変わるとき、そこに新たな自分の発見があると思う。

 数日後、息子から電話が入った。
「今、お母さんと有名なお菓子屋さんに来ているんだけど、これからミラーさん
にお菓子を持っていくから、楽しみに待っていてください」
 崩れかかった親子の絆を、この息子が身をもって救ったのかもしれない。
 今年も桜の花がもうすぐ咲き出しそうな春の日であった。(終)

36ミラー:2005/04/20(水) 23:19:24
ぽむぽむさん。こんにちは。

>>32人ってたくさんの人に支えられて、縁して生きているんだなぁ。

こうして、ぽむぽむさんとお話できたのも、きっと何かの縁かもしれませんね。
私は一人で何か行うより、たくさんの人と行うのが好きなんです。
一人で出来ることも多くの人が関わることで、いろんな発見もあるし、なんと
言っても喜びを共感できるところがいいと思います。
 今回の話も、ぽむぽむさんやcocoさんがコメントをくださったことで、私自身、
勇気付けられ、共に喜びを共感できることができました。
『喜びを分かち合える喜びはない』と思います。感謝いたします。

37ミラー:2005/04/20(水) 23:36:50
cocoさん。

>>疎外感や孤独感は、子供にとっていちばん辛く寂しく、不安な心理状態だと
いいます。

 その通りだと思います。疎外感や孤独感は、ある意味、人間にとって一番辛い
ことなのだと思います。そして、それは子供だけでなく大人の世界でも言えるこ
とではないでしょうか。
 いじめの問題でも、暴力的なものも悲惨ですが、「無視する」ことは、それ以上
に陰湿で精神的に相手を追い込むことになると思います。それを乗り越えるには、
cocoさんが言われたように、「親や環境ではない、君だ」という強い精神性を子供
たちに育む必要があると思います。
 その強い精神性は、どのように育まれるかというと、「愛された経験」と、私は
考えます。愛されて育った人は、精神的にたくましい。
 言葉や態度や行動、私たちができる具体的な表現方法で愛していることを、子供
たちに伝えて、その何分の一が子供たちに伝わるのでしょう。子供たちと触れ合う
時間に出来る限りそのことを伝えることの大切さを感じます。
 しかし、愛された経験がないという方は、どうしたらいいのかという問題が残り
ます。もしそうなら、私は「自分で自分を愛してあげたらいい」と思っています。
それは、ナルシストとは全く違います。その違いを説明すると長くなるので控えま
す。簡単に言えば『ありのままの自分を受け入れる』ということになるでしょうか。

cocoさん、いまひとつ嬉しいことがあったんですよ。この件とは別な高校生の子が、
1月頃から、不登校になりかけていて相談を受けていたんですが、その子との細い
細い絆が、何とかつながって少しずつ動き出し登校するようになりました。
 
ほんの少しだけ、書き込むつもりが長々と書き綴ってしまいました。
これもcocoさんの暖かい眼差しがあったからこそと思います。

また思うことがありましたら、書き込ませていただきます。
ありがとうございました。

38ぽむぽむ:2005/04/22(金) 15:50:07
^^
勇気付けられ、喜びを感じることができたのは私も同じです。
このような素敵な場を提供してくださった、ミラーさん&cocoさんに感謝致します。
これからも、色々とお話聞かせてください。

39coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/04/30(土) 15:43:28
>>37 ミラーさん

>その強い精神性は、どのように育まれるかというと、「愛された経験」と、私は考えます。愛されて育った人は、精神的にたくましい。

そのとおりだと思います.
「愛されているという実感」を持たぬままに育ってきた子ども,つまり基本的信頼(ベーシック・トラスト)が育まれていない子どもは人を信ずることができないといいます.そして人を信じる力が弱いということは,自分を信じる力も弱いということなのですね.ところが現代の社会では,人を信じる力,つまり自分を信じる力がこどもに限らず大人も非常に弱くなってきているように思います.(言うまでもありませんが,ここで言う信じる力というのは「人に騙されやすいこと」と同義ではありません.)

基本的に,子どもに人を信頼する力がしっかり身についていれば,自分のいたらなさを注意されたり,過ちを叱られたからといって,深く傷ついてしまう,自信を失う,相手を逆恨みする,自分自身を信頼しなくなる,といったようなことはないと思うのです.そして,それに先立つものは何よりも「人から信じられている,愛されている」という実感なんですね.

大人達に必要なのは,ミラーさんの仰るように「言葉や態度や行動、私たちができる具体的な表現方法で愛していることを、子供たちに伝えて、その何分の一が子供たちに伝わるのでしょう。子供たちと触れ合う時間に出来る限りそのことを伝えることの大切さを感じます。」という認識,子どもへの具体的働きかけであると思います.

>しかし、愛された経験がないという方は、どうしたらいいのかという問題が残ります。もしそうなら、私は「自分で自分を愛してあげたらいい」と思っています。

そうですね.そしてそのきっかけをつくってやるのも大人達の役割であると思います.「君は大切な存在だ」という,親に限らず周囲や地域のおとな達の働きかけ,社会全体からの子どもへの継続的な存在肯定のメッセージが必要であると思うのです.

近年,「自分を大切にして生きよう,個性的に生きよう」という考えや風潮が主流になっていますが,いつのまにか,自分を大切にというより,自分だけを大切に という生き方をするようになってしまったのかもしれません.それは大人達のなかに「子どもを持ったために自分の自由や人生が犠牲にるなんてかなわない」といったような気持も育ててきたように思います.それは確実に子どもへ伝わっています.
そういう自分だけを大切にする生き方は,結局「自分を生かすことのできない社会」をつくることになると気付いていないのですね.

エーリッヒ・フロムは「あらゆる人間の向かう処は,孤立を避けるためだ」ということを言っています.人間は本来,孤立したくない,人と交わりたい,人に認めてもらいたい,人に誉められたい,という感情をもっているものだと思います.
本当に自分を大切に生きるということは,他の人を大切にすることによって,自分も大切にされながら生きる ということではないでしょうか.自分を省みてもなかなか難しいことですけれど,人間とはそういう存在だと考えたいのです.

>この件とは別な高校生の子が、1月頃から、不登校になりかけていて相談を受けていたんですが、その子との細い細い絆が、何とかつながって少しずつ動き出し登校するようになりました。

それはよかったですね! そういう子にとって,自分のことを気にかけてくれる存在,親身になって話しを聞いてくれる存在が一人でもあることが,どんなに大きな心の支えになるかということですね.そして,それはその子の親にも言えることかもしれません.
そういう存在を自ら実践されているミラーさんには頭が下がるばかりです.そういう大人が一人でも多くなってほしいと思いますし,私自身も少しでも見習っていきたいと思います.
ぜひ,これからもミラーさんのペースで話しを聞かせてください.

40coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/04/30(土) 15:46:06
>>38  ぽむぽむさん

こちらこそ.ぽむぽむさんのレスで,幾度はっと気付くことができたり和んだりしたことでしょう〜 (人-)謝謝
これからもよろしくお願い致しまする.

41さかなこ:2005/05/12(木) 10:38:42
おひさしぶりです。ぱるぱるさんに教えてもらったきました。
PC変えたらURLが分からなくなってしまって…(゚Д゚;)

スレッド興味深く読ませていただきました♪

別の掲示板で少年犯罪のことが話題になってましたが
少年犯罪を犯すほとんどの少年が思春期時代に
「絶対の孤独感」を味わうのだということでした。

現在、幼児虐待ものの本を読んでます〜。人間って不思議ですね〜。

42ミラー:2005/05/15(日) 11:59:08
こんにちは。お久しぶりです。

最近、思うこと。
私の息子たちが使う言葉。
「俺的にはさぁ…」
この「俺的」という言葉遣い。最近の若者が多く使うようです。
私は、息子がこの言葉を使うたびに、それは、私のようなという意味だから、
自分の考えではないことを表明していると指摘します。
「的」という文字を辞書で調べてみると、「〜のような」という意味と共に
「親しみ・侮蔑」の意味をこめて使うとあります。
どのような感覚で、また意味をこめて使うのか、それは分かりません。
息子たちに聞いてみても、あまり深く考えて使ってはいないようです。
しかし、私はこのような印象を受けます。

私は、若者の言葉、例えば最近では「超○○」のような使い方など、むしろ
微笑ましく受け取るほうですが、なぜか、この「俺的」には抵抗を感じます。

なぜか?
それは、この表現には、自分の発言に対する責任の所在をぼかしてしまう意
味合いを感じるからだと思います。
「自分はこう思う」という自己主張がしにくい世情が反映しているのかも知
ません。
失敗や間違いから学ぶことより、正解でなければ認められないことも影響し
ていると思います。
こうなると子供たちは、自信を失い自分の気持ちを素直に表現できなくなる
のではないでしょうか。

自分の視点がどこを向いているか、それを測る目安として
子供がテストで100点とれば褒めるが、99点のときはどうだろうか?
99点でも褒めているか、それともマイナスだった1点を責めているか?
を考えてみるのも良いと思います。

cocoさん。エーリッヒ・フロムの本を読み始めています。
私は、この方を知りませんでしたが、私が感じていたことを論理的に説明
しており、とても興味深いです。

43coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/05/18(水) 11:26:07
>>41
さかなこさん^^
お元気そうでなによりです.c⌒っ・。・ミφ

>人間って不思議ですね〜。

得体の知れない不思議な生き物ですヨネ..

44coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/05/18(水) 11:41:14
>>42 ミラーさん

そういえば最近テレビなどでも若い人がよく「俺的」「わたし的」という
言い方をよくしています.何にでも「的」をつけるのが流行っているけれど,
とうとう自分にまで「的」をくっつけるようになったか・・と思っていました.

ミラーさんの仰るように,発言の責任の所在をぼかすような感じを受けますし,
自分の発言に曖昧なニュアンスを残すことで,聞き手との対立を微妙に
回避しようとしているようにも感じます.
そのうち「わたし的には」という評論家なんかも出てきそうです・・(笑)
うちの息子(小6)はまだ毎日がオレ主張大会な時期ですが,いずれ
「オレ的には,チョー腹へったって感じ〜」とか,ほざくのでしょうか..

>「自分はこう思う」という自己主張がしにくい世情が反映しているのかも知
ません。

どこかで読んだのですが,最近の若者の友だち関係について
「お互いにあまり深いところに立ち入った話をしない.
傷ついたり傷つけたりしないように 非常に気を使いあって喋る.
面と向かって反論されることに弱い.喧嘩を恐れる.」
といったような分析をしていたと記憶します.

最近のこうした傾向は子どもだけではなく大人どうしの関係にも
あてはまるような気がします.やはりその根底には,
孤立に対する不安感や自信のなさがあるのかもしれません.
そしてそれをさらに遡れば,いままでの話とリンクするのだと思います.

ちょっと話はズレてしまいますが,「俺的」という言葉で連想したのが
新聞やテレビなどでよく見聞きする「〜が望まれる.」「〜と思われる.」
というような言い方.論説委員なんていう言葉のプロがよく使います.
語り手の意見であるなら「〜を望む.」「〜と思う.」と言えばいいところを,
高みから批評だけして責任の所在は曖昧にごまかす といった言い回し.
滲み出る狡猾な感じが,どうにも好きになれません.

フロムを読んだミラーさんの感想,いつか気が向かれましたら
ぜひお話を伺いたいです.^^

45ぽむぽむ:2005/05/18(水) 22:36:24
ドキっ!

私的・・・
私的には時々使うかも・・・
私は若者ですw ^^;;

46coco </b><font color=#FF0000>(ZJ72Luss)</font><b>:2005/05/18(水) 23:28:55
そ,そうね ぽむぽむさん!
私的には〜 オバさんになったら使わなくなるだろナ〜〜
なんて思ったりして〜 (’’;)

47ぽむぽむ:2005/05/19(木) 09:31:08
自分で若者というのは、若者ではない証拠です。
^^えへ

48ミラー:2005/05/22(日) 21:46:23
>>44cocoさん。
>自分の発言に曖昧なニュアンスを残すことで,聞き手との対立を微妙に
回避しようとしているようにも感じます

そうですね。人間関係、その方が楽と言えば楽でしょうから。
でも、結果的には自分を抑えることになるから、ストレスがかかるのでしょうね。

>やはりその根底には,
孤立に対する不安感や自信のなさがあるのかもしれません.

私も、孤立に対する不安が根底にあるのではないかと考えていました。
「人は、一人では生きて行けない」という言葉は、いろいろな所で聞きますが、
『生命誕生四十五億年』などでも、人類は家族単位、血族単位で社会を形成し
協力していたようですから、人間にとって孤立することは、本能的に生命の
危機を予感させるのかもしれません。
その辺りのことも含めて、フロムの本を読んでいきたいと思います。
読み終わったら、自分の頭の中を整理する意味でも、感想を書きたいと思いま
す。そのときは、フォローをお願いします。m(_ _)m

>語り手の意見であるなら「〜を望む.」「〜と思う.」と言えばいいところを,
高みから批評だけして責任の所在は曖昧にごまかす といった言い回し.
滲み出る狡猾な感じが,どうにも好きになれません

cocoさんもそう感じていましたか。私も同感です。
一時期流行った「いかがなものか?」というのも、しっくりこなかったです。

49ミラー:2005/05/22(日) 21:55:16
>>45ぽむぽむさん。

そうですか〜。ぽむぽむさん、使われてましたか。
それは、若者の証拠です。
いつの頃から、若者言葉を使わなくなったのだろうか。
でも、気持ちは若い(つもり)なんですが…。f・・;)

50ミラー:2005/06/09(木) 15:09:46
「愛すること」エーリッヒ・フロム
少しずつ、まとめてみます。

《概要その1》
 人間は孤独で、自然や社会の中では無力である。孤立しているという意識から
不安が生まれる。孤立こそがあらゆる不安の源なのだ。
 孤立しているということは、他の一切から切り離され、自分の人間としての能
力を発揮できない。孤立している人間は無力で、能動的に外界と関わることがで
きない。そればかりか、孤立は恥と罪悪感を生む。

 だから人間は、孤立を克服し孤独の牢獄から抜け出したいという欲求を持ち、
その欲求が人間の行動を決めている。
 どの時代のどの社会においても、人間は同じ1つの問題の解決に迫られている。
それは、いかに孤立を克服するか、いかに合一するか、いかに個人的な生活を
超越して他者との一体感を得るか、という問題である。
「祝祭的な融合・集団への同調・生産的活動(物作り)」で得られる一体感では
真の一体感を得ることが出来ない。なぜなら、これらの一体感は「一時的・偽り
の一体感・人間同士の一体感ではない」からだ。

 孤立に対する問題の答えは、人間同士の一体化、他者との融合で得られる『愛』
である。
 フロムの言う『愛』とは、自分の全体性と個性を保ったままでの結合であり、
愛は、人間の中の能動的な力である。
 人々を隔てている壁をぶち破る力であり、人と人を結びつける力である。愛に
よって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、
自分の全体性を失わない成熟した関係を築くものである。
 
 孤独な人間が孤独を癒そうとする営みが愛であり、愛こそが現実の社会生活の
中で、より幸福に生きるための最高の技術である。
 その技術を習得するには、理論に精通することと習練に励むことである。
 そして、技術を習得することが自分にとっての究極の関心ごとにすることである。

 とりあえず、今、読んだ範囲での概要です。
 また、読み進めましたら、感想なども述べてみたいと思います。

51coco ◆O8ZJ72Luss:2005/06/10(金) 20:47:22
>>50 ミラーさん

すばらしく簡潔にわかりやすくまとめていらっしゃるので,
改めてフロムの思想のエキスを味わうことができました.
ミラーさんの感想も楽しみにしております.

52ミラー:2005/06/17(金) 14:06:37
《概要その2  真実の愛=能動的な力》

 人は孤独である。孤独であるが故、他者との一体感を求める。その営みが愛
である。だから、人は愛を求めるのであるが、そこには危険な罠も待ち受けて
いる。それは、巧に私達の身近に存在し、知らぬ間に私たちから真実の愛を奪
っていく。麻薬が、ある種の脳内物質と酷似していて、快楽を求め摂取し続け
ると、いつしか人の心を蝕んでいくように。

 例えば、妻や子供に暴力を振るいギャンブルに明け暮れる男がいる。その妻
は言う。
「暴力は振るうが、優しく声をかけてくれるときもある。いつかは立ち直って
くれるはずだ」
と。いつかは立ち直ることもあるかもしれないが、いつか自分とわが子が殺さ
れる可能性もある。にもかかわらず、ときたま見せる優しさが愛と思いこんで
しまう。そうしてお互いの間には、支配・被支配の相互関係が成り立っていく。
これを共依存と言う。

フロムは言う。真実の愛を知るべきだと。
『真実の愛とは、能動的な力であり、自分の全体性を失わない成熟した関係を
 築くものである』

 能動的な力とは何なのか。目標を自分の外側に設定して、やみくもに行動す
ることではない。目標に追い立てられ、仕事に駆り立てられる。どちらも情熱
の奴隷になっていて、自分の意志でなく活動している。
 その根底には強い不安と孤独にさいなまれている自分がいる。これは受動的
な愛である。
 静かに椅子に座り、自分自身の声に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと
以外、何の目的も持たずにひたすら物思いにふけっている人は、外見は受動的
であるが、内面的な自由と独立がないとできない魂の活動である。

『(愛は能動的な活動)であり、受動的な感情ではない』

 私は人の喜ぶ姿を見ると、たまらなく嬉しくなる。そういう経験も持つ方は
多いのではないだろうか。相手に与えることで、実は自分が与えられている。
親は子供に教えられ、医者は患者に癒される、そういうことは私達の身の回り
にたくさんある。
 与えるのは物質ではない、また、代償を求めるものでも、自己犠牲によるも
のでもない。与える行為そのものに喜びを見出している。ありのままの自分、
今、自分に出来ることを相手に与えたとき、そこに相手との共感が生まれ、お
互いの生命感を高めあうことになる。
 能動的活動は、喜びを伴うものである。

『与えるということは、自分の中にある人間的な力を信じ、目標達成のために
 は、自分の力に頼ろうとする勇気を獲得していく』

53ミラー:2005/06/27(月) 10:41:19
《概要その3 愛の能動的性質》

『愛の能動的性質を示しているのは、与えると言う要素だけではない。あらゆ
る形の愛に共通して、かならずいくつかの基本的な要素が見られるという事実
にも、愛の能動的性質があらわれている。その要素とは、配慮・責任・尊敬・
知である』

「配慮」
 わが子を愛するように、わが子が愛される子に育って欲しいと、大方の親は
思うのではないでしょうか。まさか、わが子が嫌われ憎まれる子供に育って欲
しいと願う親はまずいないと思います。母親が子供に接するとき、そのような
気持ちで接していると思います。その思いやりが配慮です。
 しかし、無意識のうちに子供への配慮が欠けるときがあります。子供以外の
ことで心配事や悩み事があると、心がそのことにとらわれ、子供への配慮を忘
れがちになります。
 ゆったりとした気持ちになれるように心がけたいですが、なかなか思うよう
にいかないのが現実生活です。
 子供からどう見られているか、もし分からなくなったら、子供にそっと尋ね
てみたらよいと思います。
「お母さんは、あなたの気持ちを理解しているかな」
と。

「責任」
 配慮が母性の愛なら、責任は父性の愛と言えると思います。社会の中で主体
的に試行錯誤し行動できる子供を育てるということです。
 父性の愛というと、母子家庭の親子間では成り立たないと言うことはありま
せん。母性が全てを受け入れる慈悲の心なら、父性は正義を貫く峻厳な精神性
です。そこには一切の妥協がありません。この相容れそうもない両者の根底に
は、限りない愛があります。ですから、両者ともに一人の人格の中に共存でき
るのです。
 主体的に生きることは、社会の中で、時に自己に厳しい生き方を求められま
す。自分を律する必要もあります。そして、孤独を感じることもあります。そ
うした時、幼いときに愛されたという実感があれば、子供はどれだけ勇気を持
って取り組んでいけることでしょうか。自分が正しいと思うことを貫く勇気が、
責任ある態度だと思います。

「尊敬」
 恐怖や畏怖から、真の尊敬は生まれません。ありのままの姿をそのまま受け
入れることです。
「今のあなたが素敵だよ」
「今のあなたがいるから、私も幸せだよ」
という、相手の生命への絶対的な尊敬を持つということです。
荒れた子供たちが何というかご存知でしょうか。子供たちはこう言います。
「どうせ私なんか、生まれなければよかったんだ。なんで私を生んだんだ」
どちらが生命の尊厳を大切にしているか、はっきりしています。
しかし、敢えて言わせていただくなら、どうせ私なんか…。という子ほど、
愛されたいという気持ちが強いのです。そして、そういうあなただからこそ、
私は、十分愛される存在だと思います。

「知」
 小さな子供を見ていると、不思議なほど同じことを楽しそうに繰り返します。
お気に入りの玩具があれば、寝ているときでさえ手元に置いています。小さな
子供はそうして外界を学んでいきます。そういう子供たちを見ていると、人間
は知的好奇心が旺盛なのだなと思います。
「なぜ、生まれてきたのか」
「人間って何なのか」
考えれば考えるほど、疑問は膨らみ尽きることがありません。
それほどまでに、私たちは日々の生活の中で知的作業を繰り返しています。
私たちは、相手のことを知りたい、相手をもっと理解したいという欲求をもち
ます。その欲求を満たすためには、2つの方法しかないとフロムは言います。
ひとつは、力づくで相手を知る方法です。暴力を振るい恐怖心を煽り、甘言を
弄し、自分の意のままに相手を動かすことで、相手を知る方法です。そこには
愛はありません。あるのは相手を苦しめたいという欲望だけです。
 もうひとつは、いうまでもなく愛です。相手をありのまま受け止め、自分自
身を与え、相手のうちへ入っていく行為です。くり返し述べますが、自分自身
を与えるということは、自己犠牲ではありません。自分の感情を抑え、我慢し
ながら行うことではありません。そこには喜びがないからです。

『配慮・責任・尊敬・知はたがいに依存しあっている。この一連の態度は、成
熟した人間に見られるものである。成熟した人間とは、自分の力を生産的に発
達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、全知全能と
いうナルシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的に活動からのみ得られる内的
な力に裏打ちされた謙虚さを身につけた人である』

54ミラー:2005/07/06(水) 10:45:33
ちょっと一息。
「女王の教室」というテレビドラマを観ました。
天海祐希さん演じる先生、就任早々いきなりテストをしたり、成績の悪い子
供はクラスの雑用係に任じたり、6%のエリートだけが特権を受けているなど、
刺激的な言葉が飛び出します。

今後のストーリー展開を見なければ、何ともいえませんが、この先生、子供達
に生きる術を伝えようとしているのではないか、というのが私の感想です。

服装のせいか、「奇跡の人」のサリバン先生を連想しました。
サリバン先生は、目が見えない、耳も聞こえない、だから、しゃべることがで
きないヘレン・ケラーに言葉を教えます。
 ヘレンの両親は、子供が不憫だからと甘やかしていました。だから、ヘレン
は人間として生きる術を身につけていませんでした。
 若いサリバン先生は自分の体験から、人間の姿をしながら獣のような生活を
しているヘレンに、人間らしく生きていけるようにと、情熱を注ぎます。
映画「奇跡の人」のラストシーンで、ヘレンが「water」としゃべったとき、
感動したのを思い出します。

さて、今後のドラマ展開がどうなるか、楽しみです。

55coco:2005/07/09(土) 15:07:06
>>52 >>53

孤立こそが人間のあらゆる不安の源である。

生きるということは、孤立を克服するための絶え間のない挑戦である。

孤立を克服するためには「愛」が必要である。

「愛」は「行為」を通してのみ表現できる。その行為は「愛される」ことではなく「愛する」という能動的な力に基づく。

愛する行為によって人は他者との一体化・融合をはかり、はじめて孤立を克服することができる。

「愛」とは特定の人に対する関係ではない。世界全体に対してどう関わるかを決定する態度のことである。

「愛」は「関係性」の中に存在する。

ミラーさんのフロム的愛の概要を読んでいて、なぜか「縁起説」が浮かんできてしまった。。

56coco:2005/07/09(土) 15:09:14
>>54
「女王の教室」面白そうですね。わたしも見てみます^^

ゆとり教育の見直しをはじめ、教育界も緒論噴出で方向が定まらないような・・
少年犯罪など特殊な事例ばかりに目を向けて、それを一般化・普遍化している
専門家と称する人たちの おかしな分析も目につきます。
子どもの前で動じない、強く暖かくゆったりと構えることのできる大人も
増えてほしい今日この頃。。

>映画「奇跡の人」のラストシーンで、ヘレンが「water」としゃべったとき、
>感動したのを思い出します。

ヘレンをサリバン先生が片腕で抱きかかえ、井戸の水に手を浸してやる・・
「water」という、言葉と実体の一致をヘレンが理解した瞬間でしたね。

ヘレンに生きる術‥ものごとを分別する力 自分の意志を相手に伝える方法
を与えたサリバン先生こそ「奇跡の人」だと感じたのを思い出しました。
知る喜びを教えることが、教育の原点かもしれません。

57 ◆fESm14xCnE:2005/07/12(火) 20:01:06
It's warm today. p(^o^)/@ ←ハム?

先日BSでやってたね。家族で見ました。
あの「ぅおぉー」ってので涙止まらず。
そして畳み掛けるように続くふたりの言葉を得ていくやりとり。

もっと身近なところでは、たとえば自転車に乗れるようになるプロセス。
もうちょっともっちょっとで、どうしてもできなかったことがある時点で
突然の如くひょいっとできるようになる。
量質転化というらしいですね。

その飛躍的向上ポイントまでの継続は、信ずる心とは言うけれど
ひらたく言えば楽しみや情熱ってことだろうと思う。

乗れだしたらもう5分後には年上の子を真似て手放ししようとして転んで、
「ちっちゃいからこけるんじゃ。お兄ちゃんのような大きいんでないと
できんのんじゃ。こうて(買って)くれえ」と、全く自分勝手な要求をしてくる。
当然、却下。
すぐに何事もなかったように自転車乗りに戻る。
夜、風呂に入る時、はじめてキズがヒリヒリするのを思い出したりするんだよね。

このご時世、自分に何ができるかわかんないけれど
笑ってりゃいいんじゃないかな、なんて思っている。
キーッ、とか、胃がキリキリきゅうきゅう血が出るほど歯軋りしちゃうこと多いけどね。

あんまり犯人探しや分類ラベル学してもキリがないような。
いやこれも量質転化するのかもね。
たとえば宗教等も、宗教の中に宗教を求めるんじゃなくて
主体たる自分の中に宗教を求め実践していこうと思う。

ヘレン・ケラーの大学時代に書いた初著「楽天主義」にあやかってLet's GoGo!!だ。

大人の思い入れたっぷりでもいいじゃん。分析もそれはそれでいいじゃん。
子どもたちの言葉に第一ラウンドからノックアウトされちゃった。
「おぼえているよ。ママのおなかにいたときのこと」(池川明著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4576021532/249-5490862-9298753

58coco ◆O8ZJ72Luss:2005/07/17(日) 00:58:09
楽しみや情熱を持って何かをやるのって,ぶわーっと心がふくらむ.

胎児は驚く程,周囲の話し声や音がよく聞こえているらしいけど
羊水に甘い味をつけると,ばたばたして嬉しそうに笑うらしい.

59ミラー:2005/07/24(日) 23:10:18
>>55
おぉ!さすがはcocoさん。
素晴らしくまとめられています。

ミラー風フロムは、縁起説というかくし味が効いていますか。
最近、忙しくなりフロムも一休みです。

60ミラー:2005/07/24(日) 23:18:34
>>56

中山文科相はゆとり教育の見直しを表明し、競争原理を教育現場に導入するこ
とを明らかにしました。
その具体策の1つとして、小中高生1人一人に対して「学力テスト」の結果を
公表する意向のようです。

ゆとり教育が言われるようになった頃、加熱した受験競争で子供たちの心が荒
れたことが社会問題化したことが一因だったと思います。
同じ轍を踏むことにならなければと思います。

子供たちは、ただただ親に愛されたいだけなのです。
その気持ちをしっかりと受け止めてあげたいですね。

61ミラー:2005/07/24(日) 23:27:20
>>57
歩さん、お久しぶりです。
いやぁ、そうですよね。
お子さん、嬉しかったでしょうね。そのままを認められることほど、嬉しい
ことはない。

赤ちゃんが笑えば喜び、寝返りを打てば嬉しがり、這い這いすれば感動し、
何もかもが喜びであったのに。
いつの頃から、もっともっとという気持ちが強くなるのか。
子供にもらう勇気や感動、ついつい忘れがちになりますが、この夏休み、
じっくり味わいますか。

62coco ◆O8ZJ72Luss:2005/07/25(月) 23:11:39
>じっくり味わいますか。

おお,味わいつくして よれよれになる程に...

63 ◆fESm14xCnE:2005/07/29(金) 22:57:02
>>60-61 ミラーさん、こんにちは。

本当にそうですね。子ども達の気持ちをそのまま受け止めて、味わいたいものです。
ついついそれを疎かにしてしまってます。

逆に子ども達というか嬰児、赤ちゃんってのはそれができている。

すべてのものみな常に新しく、常に自分に真っ正直で、包み隠しなく自分を
生きている。正に一期一会そのものなんだと思いますね。
人間も元っこから、そのような振る舞いができるようにできている。
それがだんだんと、世に言う時代とともに自分勝手に解釈される常識といわれる魔物や
近似値科学知識、そして我偉しあんた関係ないって我が儘の虜となっていく。

三つ子の魂、百まで。ってのは、この生まれたばかりの子どもの気持ち振舞い
を生きている限り大切に持ち続けなさいよ、という教訓だとも言われます。
一期一会を貫けと。
常にまっさらに自分にも他人にも対峙し、いや赤ちゃんにとって自分と他人の
区別があるのかどうかわかりませんね。一緒に生きているでしょうから。
そして悲しい時は泣き嬉しい時は笑う。その仕草や様子はそれで周りの人の
喜びにつながる。
他人の喜びこそ一番の幸せ。

ちょっと仏教的、禅的な解釈すぎたかもしれませんね。
子どもに対してということに限らず、いいと思ったことはできることから
やっていきたいな、と思うこの頃です。

65coco ◆O8ZJ72Luss:2005/07/30(土) 17:57:50
「人の話しを聴かない」人っていうのは,昔からいたような気がするなー
そういえば,私も親にそう言われた ...( = =) トオイメ

聴き入ってしまう,面白い話しをする人も少なくなったかも.

子どもには,しっかりと目を見て話すように心掛けております.

66ミラー:2005/08/16(火) 21:54:46
>>63-64 歩さん、こんにちは。

歩さんの文章を読んでいて、んっ?禅問答みたいと思っていたら、書かれて
いましたね。(^^)

ちょうど河合隼雄さんの本を読んでいたら、子育てと宗教について触れてい
る部分がありましたので、紹介させてください。

『だいたい(親が)「学校が悪い」とか言って逃げようと思っていても、子
供が親に対決を迫ってくることが多いんじゃないですか。「本来のおまえを
ここに出せ!」って、それぐらいのことを子どもが親に突きつけてくる。ぼ
くは「家庭禅」と言ってますが、子供が出してくる問題というのは、ほんと
に禅問答みたいです。
 それは近代から現代まで、人間はずっと合理的な考え方を推し進めすぎた
からなんです。儀式なんて迷信だとか言って、宗教的なものをどんどん否定
してきてしまったから、子どもが守りをなくしてしまった。宗教が、人間自
身の中にある無意識の深層というものの恐ろしい面から、ぼくらを守ってき
たんです。親はそこを知っていないといけません。だから家族の問題を考え
ていったら、どうしても宗教的なことになる』

宗教が、「人間とは何か」「いかに生きたらよいか」という命題を私たちに示
しているのなら、家族関係・子育てを考えるとき、切り離して考えることはで
きませんね。
子どもは親の鏡ですから、「一期一会」この言葉、大人にも当てはまります。
我が子と思うから、接し方もぞんざいになってしまう。他人の子どもに接す
るという意識も必要なのでしょう。

中国新聞のお話も、とても興味深いです。
『0歳児がことばを獲得するとき』(正高信男著 中公新書)にも、同様の
ことが書かれていました。
ヒトに自然に備わっている能力を自然に発揮すれば、幼児のシグナルを受け
とめられるのですが、母親が子どもに目が向けられないような状況にあると
見過ごしてしまうようです。特に現代社会では自然体でいることは容易では
ありません。
幼児の発するノイズをシグナルに変換するのは、よほど心が平生でなければ
難しそうです。
そう考えると「無心の境地」の世界になりますね。
とはいえ、俗世間に生きる私たちには「無我の境地」というのは、なかなか
難しいでしょうから、分からなくなったら「子どもに聞く」という姿勢を持
つことが、現実的と思います。

67ミラー:2005/08/18(木) 23:21:54
>>66の続き

>>64 親子だけでなく、様々なコミュニケーション場面での自分に当てはまること多く、
考えさせられたものだった。

そうですよね。歩さんのように考えるお父さん、お母さんなら子どもはどんな
に救われるでしょうか。

「子どもに聞く」について、少し補足。
子どもの気持ちは子どもにしか分からない。だから、大人は子どもの気持ちは
分かっていない、という謙虚な気持ちで子どもの声に耳を傾けるという意味です。
子どもは親(大人)に自分の気持ちを十分聞き入れられている、と感じることで、
他人の話にも耳を傾ける姿勢が育つようになると思います。

68ミラー:2005/12/16(金) 23:54:32
Cocoさん、お久しぶりです。
最近は忙しく過ごしております。
昔語りをひとつ。

むかし昔、私がある高校生の女の子の家庭教師をしたときのこと。
彼女の家は、小さいながらも事業を営んでいる父親と、事務方を担当している
母親と中学生になる弟がいました。
家庭教師をはじめてしばらくして知ったのですが、父親は裸一貫から今の会社
を立ち上げた人で、努力すれば何でもできる、と言うことを信条にしていた方
でした。
その一方で、中卒で働き始めたので、学歴に対するコンプレックスを強く持っ
ていました。きっと、今に至るまで苦労されることも多かったのだろうと思い
ます。だから、娘に対しては学問でそれなりに身を立ててほしい、という考え
が強かったのだと思います。
父親の娘に対する教育方針は
「いいか、女はとにかく勉強しなければだめだ。男は何とかなるが、女は教養
を身につけておかなければ、世の中を渡って行けない」
というものでした。
会社でも家庭内でも、ワンマンタイプの人柄でした。
「俺の言うとおりにしていればいい」
というのが言葉の端々に出てきます。そういう性格ですから、母親にも辛く当
たるときがあります。母親は黙々と従うタイプの女性でした。
子どもたちには「がまんしてね」というのが母親の口癖になっていました。
だから、いつしか彼女も我慢強い子どもに育っていました。
彼女が幼い頃のことを話してくれたことがあります。
両親の喧嘩(と言っても父親が一方的に怒鳴り散らすだけですが)が始まると、
幼い頃は2人の仲を取り持とうと冗談を言ったり、明るく振舞ったりしていた
そうですが、それも彼女の無力感を募らせたに過ぎません。いつしか彼女は母
親と同じように「がまん」するようになったようです。そして、ひたすら勉強
に打ち込むようになりました。そうしていれば、多少なりとも父親の機嫌が良
くなり、母親への仕打ちも和らぐからです。

69ミラー:2005/12/16(金) 23:55:24
続きです。

そういう家庭環境に育ちましたから、いつも家庭内は重苦しい雰囲気に包まれ
ていました。
特に父親が在宅しているときは、針の筵に座らせられる心境だったようです。
家庭が彼女にとっての安らぎの場所にはなっていませんでした。
しかし、たったひとつ、彼女にとっての安らぎの場所がありました。近所に住
む母方の祖母の家にいるときです。両親が家業で忙しかったので、祖母の家に
預けられることが多かったのです。
「おばあちゃんは優しかった」
と彼女が振り返るとき、本当に懐かしそうな表情を浮かべます。その優しかっ
た祖母も、彼女が中学2年生の時に亡くなっていました。
彼女は頭の賢い子でしたし、素直な子でした。ただ、我慢強い反面、自己主張が弱いという印象を受けました。きっと周りと衝突するのを避けていたのでしょう。周りで揉め事が起こると、彼女が悲しい気持ちになるのはこうした背景も影響していたと思います。

70ミラー:2005/12/16(金) 23:57:12
続きです。

彼女が高3になって6月頃のことです。
「私ね、看護婦さんになりたいんだ。この前、老人ホームに行ってお年寄りの人たちの世話をしたんだ。とても楽しかった。おばあちゃんたちが喜んでくれたんだ。私、おばあちゃん子だったでしょ。でも、私が一人前になる前におばあちゃんいなくなっちゃったし…。だけど、私、分かったんだ。私のやりたい仕事はこれだって」
「自分がそう思うなら、やってみたらいいじゃない」
「でも…」
「お父さんのことだね」
お父さんを説得するのは難しいと思えました。でも、自分の気持ちを伝えるこ
とは彼女にとって大事なことです。
「説得する自信がないなら、お父さんに話すのはやめておいたほうがいい」
少しきつい言い方であったかもしれません。でもそこまでの決心を示さなけれ
ば、到底、自分の意志を貫くことは難しいと思いました。
その後、彼女からはその件についての話は出ませんでした。私から話を持ちか
けることもありませんでした。

71ミラー:2005/12/16(金) 23:58:23
それから5ヶ月が過ぎた11月のことです。その日、私は彼女のご両親に夕食を
招待されました。彼女も同席しています。
父親が私に尋ねてきました。
「どうですか。娘の勉強のほうは」
その時です。彼女が突然、話を切り出しました。
「お父さん、話があります。私、看護学校に行きたいんです」
突然の言葉に父親は唖然とした表情を浮かべていましたが、やっと事態に気づ
いたようです。
「おまえ、何言ってるんだ。大学はどうするんだ」
「大学へは行きません」
父親の表情が動揺しているのがはっきりと分かりました。今まで素直でおとな
しいと思っていた娘から、初めてこのような言葉が飛び出したのですから。
そして、私に同意を促すように言いました。
「先生からも何か言ってください」
私は、おなかに力を入れて言いました。
「お嬢さんの希望をかなえてあげてください」
私の言葉を聞くと、父親の表情が戸惑いから怒りに変わるのがはっきりと分か
りました。
「そうか、あんたもグルなのか」
「お父さん、何言ってるの。先生は関係ない」
「お嬢さんが自分で決めたことです。お嬢さんの気持ちを受け止めてあげてください」
「何言ってるんだ。そんなこと認めるわけにいかん」
結局、話は平行線のままでした。
私が彼女の家を出て行くとき、彼女が言いました。
「先生、ごめんなさい」
「力になれなくてごめんね」
私は重い足取りで帰路につきました。

72ミラー:2005/12/16(金) 23:59:37
連投すみません。最後です。

翌日、母親から電話が入りました。
私は、家庭教師解雇の連絡だと覚悟していました。
「先生、昨日はすみませんでした。あれから家族で話し合って、娘の希望通りにさせることにしました。娘があれほど強い意志を持っていると知りませんでした。主人もすべて納得したわけではないようですが、娘の好きなようにしろと。それで、看護学校の入学試験のための勉強を引き続き見てあげてほしいのですが」
そう語る母親の声は、いつもと違い明るい声をしていました。
私が彼女の家を退出してからの経緯は詳しく知りませんが、きっと彼女は一生懸命に自分の気持ちを両親に訴えたに違いありません。
その熱意がご両親に通じたのでしょう。
あれから20年の月日が流れました。彼女はその後希望通り看護学校に入学し、数年後、結婚して子どもも授かりましたが、今も看護師として現場で働いていると風の便りに聞きました。父親も孫を目に入れても痛くないほど可愛がるおじいちゃんになったそうです。
あのとき、彼女が勇気を持って自分の気持ちを伝えたことで、彼女は自分らしさを取り戻したのかもしれません。

親が子どもの気持ちを聞く姿勢を持つのと同時に、子どもも自分の気持ちを伝えていくことが大切であると思います。

73 ◆fESm14xCnE:2005/12/17(土) 21:04:54
>>68-72 ミラーさん、こんにちは。

「親が子どもの気持ちを聞く姿勢を持つのと同時に、子どもも自分の気持ちを伝えていくことが大切」
とのお考え全く同感です。

子どもとの関わりに限らず、コミュニケーションは双方向の歩み寄りであり
心の架け橋のようなものであると仮定すると、お互いの切磋琢磨と、
その場に応じた努力協力が必要なのだろうと思います。
純情に発露でき、それをそのまま受けきる。これがなかなかできないのですよね。

何事にも答えを急ぐ、あるいは答えだけを求めようとする、
こんな風潮が強いよう感じてなりません。
マニュアル本の急激な普及や、自分でもどっぷりつかっているインターネットなどでの
調べ物もそうかもしれませんね。或いは、ちょっと危険な例として、子どもがヤケドした
というのに、その対処をMLやチャットに答えを求めたり。
ひとつの解決策であることも事実であるだけに、うまく活用しなければと思う。

74 ◆fESm14xCnE:2005/12/17(土) 21:06:56
>>73 何事にも答えを急ぐ、あるいは答えだけを求めようとする、ということに関して

よく「ゲーム脳」とか「ゲームが悪い」とか言われる。
私自身はTVゲーム系は全くといっていいほどしない(二十余年前の学生時代はファミコン
でパックランドとハットリくん持ってました)ので実感としてよくわからない。
いろいろなレポートや書籍など読むと悪い部分も確かにあるのかもと思いますが
私はゲームよりも

  マークシート と 共通一次(現センター試験)

がもっと罪が重いのではなどと思っている。
採点の平準化効率化のという名の下に考えるチカラ、自由な発想表現のなかにある
たくさんの回答(正答もたくさんあっていいじゃん)なんてのが、極論すれば拒否された。

妙ちくりんで平面的な平等意識もあるよう感じる。
二次試験があるないではなく、(いちおー)最高学府の入り口にこれを据えたのは大愚策だと感じる。
若人の金太郎アメを大量に作り上げ、教師も同じく金太郎アメにさせられた。
三択の女王だって、問題が全部三択だったら魅力半減じゃん。
って竹下恵子様にもお世話になりましたなあ。がはは。

出てきた問題に対する答えを素早く選ぶ。
出たら選ぶ出たら選ぶ、いかに早く選ぶか、パターンの組み合わせスピードを競う。
立派なゲーム脳のできありだ。

学力の一意的な把握評価だ? アホちゃうか。
やるなら車検と同じ年回りで、公立小中高の先生にやってもらってほしいもんだ。がはは。
小学校の先生も英語(他外国語選択可)やったほうがいいと思うし、指導とか体育・音楽芸術、
心理学、医療知識、マナーなんて科目も増やしてね。
それで給料もどーんと増やせばいいと思うよ。
ハイリターンもなきゃね、目指す人も多いほうがいい。

76coco ◆O8ZJ72Luss:2005/12/20(火) 16:53:09
>>69
ミラーさん お元気そうでなによりです.
貴重なお話をありがとうございました.

>「説得する自信がないなら、お父さんに話すのはやめておいたほうがいい」

このミラーさんの言葉,実は私にとってコミュニケーションの重要な一部を為す,とてもトラウマチックなものなのです.

というのも,私は小学生の頃より青年期に至るまで,由緒正しい子どものつとめを果すべく,常に親の期待を裏切り数々の反対を押し切って自分のしたいことを通してきたものですが,そのつど立ちはだかる猛母に言われたのが,
「どうしても自分を通したければ,ワタシを説得してみせなさい.ワタシを納得させてみなさいよ」
という言葉であったからです.
もちろん理屈だけで納得させろという意味ではなく,反対を押切ってやると言うからには,それなりの情熱と責任と覚悟を語ってみろ と言うことであったのでしょう.

そういうわけで,子どもの頃から何かしようという度に(たいてい待ったがかかる),精いっぱいの言葉と,ときには涙やら鼻水やらを総動員して,まずは我が母親に対し自分の思いを全身全霊で語り説得しにかからねばならなかったのです(母さえ落とせば父は楽勝).
しかし手強い相手でした.・・・あ,今もだワ.

最終的に納得してもらえない場合も,たいていは強引にやりたいことを通してきたわけですが,一応ことにあたる前に必ず なぜそうしたいか,という説明を試みなければならなかったわけです.そういう過程を経て自分の思いを通すことで,結果,たとえ後悔するはめになったとしても,すべては自分の責任であって誰のせいにもできない,ということだけは身につきました.

私の場合は極端な例ですから同じとは言えませんが,彼女に語ったミラーさんの言葉を読みながらそんなことを思い出しました.

親子間も含め最近の傾向として,聞く耳もたぬ一方的な主張か尊重まがいの迎合が全盛で,「人を説得する」「相手を納得させる」といった互いにエネルギーのいるコミュニケーションが何だか希薄になっているような気もします.

>あのとき、彼女が勇気を持って自分の気持ちを伝えたことで、彼女は自分らしさを取り戻したのかもしれません。

彼女が一歩踏み出すための勇気を,後ろから支えたのがミラーさんの存在であったと思います.

子どもが殻を打ち破って前へ進もうとするとき,ものすごく不安でいっぱいなんですね.そんなときたった一人でいい,「よっしゃ!」と頷いてくれる大人がいたら,子どもはどんなに自信と勇気を持つことができるか・・・そう思います.
同時にもっと必要だと思うのは,「自分を決めるのは自分しかないのだ」・・・という社会からの力強いメッセージです.

77 ◆fESm14xCnE:2006/02/13(月) 19:11:49
先日、子どもを入試会場まで送っていった。
土曜で出勤するのに時間的余裕があったことと、女房殿の出身校だと言うことで
一度見てみたいななんて思いがあって。
車を入れたら試験開始まで出れないことその場で知った。知らぬは私ばかりだったのだが。
まあこれもいいかと、女房殿と学内を散策。ほろずっぱい、、、おっと脱線脱線。
保護者引率者控え室が用意されていたので、その教室にれっつらゴー。
入るなり、目を疑った。

えっ、菓子ひろげて食ってる。。。

まだ8時だよ。時間は関係ないか。
ここ学校の教室だよ。場所も関係ないか。
子ども入試なんだよ。状況も、、、関係ないのか。。。も。

78ミラー:2006/02/23(木) 00:53:39
Cocoさん、みなさま、遅くなりましたが明けましておめでとうございます。

>このミラーさんの言葉、実は私のとってのコミュニケーションの重要な一
部を為す、とてもトラウマチックなものなのです。
>精一杯の言葉と、ときには涙やら鼻水やらを総動員して、まずは我が母親
に対して自分の思いを全身全霊で語り説得しにかからねばならなかったの
です

Cocoさんの文章には、「説得力」を感じていましたが、そういう背景があっ
たのですね。ふと、ちびまるこちゃんをイメージしてしまいました。

>「人を説得する」「相手を納得させる」といった互いにエネルギーのいる
コミュニケーションが何だか希薄になっているような気もします。

たしかにそうですね。「自分の思いを熱く語る」場面と言うのが、普段の生
活の中で、あまり見られません。自分の思いを熱く語る大人がいないのも一
因でしょうね。怖いものの代表として「地震・雷・火事・親父」と言われて
いましたが、「親父」が死語になりつつあります。そういえば、最近、渡哲
也さん主演の「夫婦」というドラマを観ました。渡さんが演じる父親(夫)
というのは、追い求める理想の父親像を描き出しているのかもしれません。
父親は子どもの社会性を育てる役割を持つと思います。父親不在の社会環境
なのかもしれません。


>彼女が一歩踏み出すための勇気を、後ろから支えたのがミラーさんの存在で
あったと思います。

いえいえ、とんでもありません。そう在りたいと思いますが、残念ながらこの
ときの私は、そこまで考えてはいなかったと思います。ですが、彼女の力にな
ってあげたいとは考えていました。
今なら、また違ったアプローチの仕方もできたであろうと思います。
やって見せて、一緒にやって、やらせてみる。こうしたプロセスが必要だと思
います。でも、それ以前にお互いの信頼関係が大事だと思います。

>子どもが殻を打ち破って前へ進もうとするとき、ものすごく不安でいっぱい
なんですね。そんなときたった一人でいい、「よっしゃ!」と頷いてくれる大
人がいたら、子どもはどんなに自信と勇気を持つことができるか…そう思いま
す。

その通りだと思います。
大人は経験がありますから、やる前からある程度の結果が見える、だから、そ
の時点で子どもに歯止めをかける。私の経験上、禁止事項の多い家庭の子ども
は、覇気がなく意欲的でないことが多いです。そして新しいことに挑戦する気
概も希薄になりがちです。
あるとき、レストランで食事をしていると、私たちの隣の席の20代位のお母さ
んと3歳くらいの子どもが食事していました。
そのうち子どもが飲み物をこぼしたんです。あ〜という感じで見ていると、そ
のお母さんが、なんともゆったりと「あらあら」と濡れた服を拭いてあげたん
です。それを見ていて、こういうお母さんなら子どもは幸せだろうなと思いま
した。
子どもは失敗して当たり前、そのくらいゆとりを持って子どもと接してあげる
といいですね。

>同時にもっと必要だと思うのは,「自分を決めるのは自分しかないのだ」・・・という社会からの力強いメッセージです.

同感です。ところが、今の社会は依存型傾向が強いようです。
例えば、勉強は先生が教えてくれる。教えられて当たり前です。教えられなけ
ればできないとさえ思う子どもがいます。こうした教育環境の元で育てば、子
どもは、社会に出たときに、マニュアルがなければ自分から行動する子どもに
なりにくくなると思います。手取り足取り、親切と過保護は違うということを
今一度、考えてみる必要があると思います。

79ミラー:2006/02/23(木) 00:55:17
歩さん、あけましておめでとうございます。
遅くなり申し訳ありません。

「敵は本能…いえ、マークシートにあり」ですか。
効率性や利便性を求めた時代の産物と言えるのかもしれません。

マークシート然り、レンジでチン然り…。
個性よりも画一的に、手作りよりも規格品を、懇切丁寧より手軽で迅速が求め
られてきたのでしょうね。
効率や利便さを得た反面、失ったものも多いのではないでしょうか。
例えば、家族とのコミュニケーション。手作りの温もり、地域性、ご近所との
付き合いなどetc
人と人とのつながりが希薄になってしまったのかもしれません。

歩さんが仰るように、「コミュニケーションは双方向の歩み寄りであり、心の
架け橋のようなもの」だと思います。
最近、知り合った幼児教育に携わる方が、幼児期にとにかく親と一緒に遊ぶこ
と、それがその後の子供の将来をどれだけ安定したものにするか計り知れない
と話してくれました。楽しく遊ぶって大事なんですよね。子どもと遊ぶという
と、ついつい監視役になりがちですが、まずは楽しむということが大事なんで
す。子どもはお母さんの笑顔を見るだけで嬉しくなるんです。

お母さんが生き生きするには、お父さんの協力も欠かせません。子どもの教育
は女の仕事だ、とお母さんにだけ押し付けるのは言語道断です。とその方が話
していました。

>>77女房殿と学内を散策。ほろずっぱい、、、

そうそう、そこが素敵です。夫婦のコミュニケーションが大事なんです。
ちょっとしたお互いの心配りが必要なんですよね。
ほのぼのとしたお話、ありがとうございます。m(_ _)m

81代理:2007/02/25(日) 15:48:29
age


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