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雑談スレ2
77
:
名無しさん@速読練習中
:2007/02/01(木) 00:46:58 ID:nPG/P6/k
安岡正篤からの伝言
安岡 正篤(やすおか まさひろ) 1898〜1983
明治31年、大阪市生まれ。大正11年、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東洋政治哲学・人間学の権威。
既に20代後半から陽明学者として政財界、陸海軍関係者に広く知られ、昭和2年に財団法人金鶏学院、次いで日本農士学校を創立、
東洋思想の研究と後進の育成に従事。戦後、昭和24年に師友会を設立。財界リーダーの啓発・教化につとめ歴代首相より諮問を受く。
平成の年号の考案者として知られている。昭和58年12月13日逝去。
■ 読書はただ読むだけでは駄目で、読みながらもその本を自己内部で賦活する必要がある。これを活読という。読みっぱなしならば、むしろ本に読まれていることになる。
*****
◇士大夫三日書を読まざれば則ち理義胸中に交はらず。
便ち覚ゆ、面目・憎むべく、語言・味なきを。
これは黄山谷という中国の古人の言葉です。
三日間、読書をしなくなると、言葉にも味がなくなり、面構えも緩んでくる。
たしかに琴線に響くような書物を読んだ後というのは、数日もの間、余韻が続くものです。
我が意を得たり! というような書物に出会ったときには、
それこそ空中をプカプカ浮いているような、そんな心境になることさえあります。
こんなときは、たぶんとてもいい顔つきをしているはずです。
「どの面下げて」などという言葉がありますが、
まさに見る人が観れば、こちらの心など一目瞭然。隠そうにも隠しきれない。
彫刻家はノミをもって顔を彫り上げますが、わたしたちは読書を、それもよい書物を読んで、
自分の顔を彫り上げていかなければなりません。
一昨日だったか、契約している生命保険会社の青年が家に訪れてきました。
歴史の話で盛り上がり、私の書棚を見せてくれというので、案内したら、
自分にはとうてい読めない難しい本が並んでいると言っていました。
これはお互い様で、たぶんわたしが彼の書棚を見ても同じセリフを吐いたに違いありません。
どんな本を読んだらいいかと聞くので、明解な答えになるかどうか分からないが、
少々躊躇しながら、わたしなりの読書論を話しました。
「木にたとえると、根っこを養うための読書と、枝葉を茂らせる読書がある。
根っこを養う読書は、人間形成のための修養書で、歴史のふるいにかけられた古典がいい。
枝葉を養う読書は、処世のためのもので、専門書やハウツー本などはこのたぐいに入る。
どちらも大切な読書だが、立派な花をつけ果実を実らせるには、まず根を養うための読書が大切」
ところが根っこを養う読書というのは本当に難儀です。
ちょうどスルメをガシガシとかみ砕くようなもの。これは噛めば噛むほど味がでる。
例えば偉人が残した文献を直接読むとします。
そうなると時代背景も研究しなければならないし、
なんといっても漢文や文語体の文章を一字一字追っていかなければならない。
相当な努力と忍耐力と時間を要します。だからエネルギー旺盛な若いときにやっておかないと、
年をとってからではとうてい出来ない作業です。
それに比べて、書店に並んでいる解説書は軟らかい。お粥みたいなもの。
著者のフィルターを通して分かりやすく書かれていますから、誰にでも簡単に読めます。
枝葉を養い、知識を豊富にするには、こちらの読書が最適。
どちらも大切なものに違いありませんが、私の経験からすると、
偉人のエネルギーに直接触れて、吸収するためには、
どうしても原典にあたるよりほかにないようです。
原典(原点)にあたるというのは、より自然に近づくこと、自然に還ることにほかなりません。
偉人に学ぶというのは、その言葉に学ぶのではなくて、その生きざま、
その存在そのもの(エネルギー)に学ぶということです。
言葉は、存在を伝えるための手段にほかなりません。
安岡正篤先生が言うように、「活読」することができれば、言葉にも魂が宿ることになり、
わたしたちの進むべき道を明るく照らしてくれる「あかり」ともなります。
読書は、時に孤独を癒してくれ、時に別世界に遊ばせてくれる、本当にありがたい存在です。
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