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217名無しの塾生:2014/08/13(水) 22:57:59
<奈良・都塚古墳>階段状だけでなく基壇の上に築かれた墳丘
毎日新聞 8月13日(水)19時50分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140813-00000082-mai-soci

 古墳の形と規模にはその時代の権力のありようが反映されている。奈良県明日香村の都塚古墳(6世紀後半ごろ)が、墳丘を5段以上の階段状に築いたピラミッド形の大型方墳と分かり、村教委と関西大考古学研究室から13日、発表された。古墳時代(3〜6世紀)から飛鳥時代(7世紀)への過渡期に築かれた都塚古墳が、同時期に例のない構造と分かったことは、新時代への変革がどのようにして起きたのかを探る手がかりにもなると考えられる。

 3世紀半ば、奈良盆地東南部で成立した大和王権は大王(天皇)の墓を日本独自の前方後円墳で築いた。大和王権と関係の近い豪族は前方後円墳や円墳に、遠い関係にある豪族は前方後方墳や方墳に葬られたと考えられている。

 前方後円墳を頂点とする体制は300年以上続いたが、欽明天皇(571年死去)と次の敏達(びだつ)天皇(591年に母の墓に追葬)を最後に大王陵は前方後円墳ではなくなった。

 続く用明、崇峻(すしゅん)、推古の3天皇を葬ったとみられる古墳はいずれも方墳だ。ともに蘇我稲目の娘を母としていることや、馬子(稲目の子)の墓とみられている石舞台古墳が方墳であることから、この墓制の大変革に蘇我氏が関与したとみられるが、国内でそれまでに築かれた方墳や、中国、朝鮮半島の方墳と違いがあり、直接のルーツが明らかではない。

 都塚の墳丘は、階段状になっているというだけでなく、テラス(基壇)の上に築かれたという特徴がある。大王陵の方墳、石舞台も四角のテラスの上に墳丘を乗せる構造になっており、都塚はそれらの先駆けだ。

 蘇我氏と血縁関係のない舒明(じょめい)天皇から後の天皇を葬ったとみられる古墳の墳丘は八角形になったが、四角のテラスの上に墳丘を乗せるスタイルは踏襲された。

 朝鮮半島の百済から仏教が伝えられ、蘇我稲目が家を寺としたのが552年。馬子が飛鳥寺の造営を始めたのが588年だ。基壇をしつられ、その上に仏像を安置するための金堂や塔を建てるという仏教寺院のあり方が、新しい古墳のスタイルに影響を与えた可能性も考えられるのではないだろうか。【専門編集委員・佐々木泰造】


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