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FKとの対話
1
:
FK
:2008/09/08(月) 22:25:40
このスレッドはもろに、私、FKとのお話し、
いえ、 おしゃべりコーナーです。
ご自由に、どうぞ。
2
:
ヽ(^鼻^)ノ
:2008/09/09(火) 01:12:20
FKさん(?)は秋期休暇はないんですか?
もしかして毎日出勤でしたり?
3
:
FK
:2008/09/09(火) 07:32:13
「FK」と呼び捨て? でいいですよ。
ないんですよね、秋のお休みとしては。
夏の方は「夏季休暇」として5日あるのですが、これは6-9月の間で取れ
ることになってます。(すでに取りました)
みんなの秋休み中は、いろいろデスクワークがあって今のところ連日、学
校ですね。遊びに来てください、いえ、勉強しに来てください。(笑)
4
:
FK
:2008/09/12(金) 09:58:53
今、生徒のあなたへ
学校は勉強する所だからといって、それだけで終わるものではありませ。
生きた感情を持つ私たちですから、人間的なふれあいが欲しいのです。考えようによっては授業などの勉強よりも、人間的に成長することのほうに、より大きな意味があるでしょう。
ふれあいというと、教師とのふれあい、友達とのふれあいがあります。いろんな人がいますから、その中には自分と波長のあう人ばかりとはいえません。むしろ、あう人は少ないのが現実でしょう。とくに教師とは年令差もあって、なかなかあわないかもしれません。
しかし学校生活を気持ちよく楽しく送りたければ、たった一人でもいいですから、自分という人間、その考え方や感じ方などをそっくり受けとめてくれるような人を見つけることです。あなたのまわりにいる友達や教師の中から、そんな人を捜してみてください。
学校や人間にたいするあなたの考え方が変わると思います。
−−1987年6月10日付毎日新聞「みんなの広場」掲載−−
5
:
FK
:2008/09/16(火) 20:06:24
中退は「負け犬」か
高校だけは行っておかないと一人前ではない、という考え方が支配的です。それでも中退者が少なくないのはなぜでしょう。彼らは「自分勝手な理由」でやめていったのでしょうか。
高校には友達がおり、楽しいことばかりではないにせよ青春をいろどる高校生活がそこにはあるわけです。それらを捨て去って、ほとんど展望もないままにやめていく−−それが中退です。
やめたくて、やめたのではないでしょう。もうそれ以上、高校にとどまっていられないせっば詰まった理由があり、その苦しい選択の結果が中退だったと思うのです。はた目には、安易な選択、逃避のようにも見えるかもしれませんが、「負け犬」というレッテルを貼られる屈辱や、将来に対する大きな不安を感じながらやめていくのです。
中退した人たちは、どうか自分の勇気ある選択に自信をもって、高校の「三年間を耐えられないような人は、どこに出ても中途半端な人生を送る」という世間の常識(?)に負けないよう頑張ってください。
また在学中のみんなには、耐えなければならないような高校というものを考え直してもらいたいと思います。
(1987年7月11日付朝日新聞「声」掲載)
6
:
エココア
:2008/09/17(水) 13:58:08
先程部屋の掃除をしていたら蒼井優特集のananを見つけました。
処分するのもアレだし、良かったら貰っていただけませんか?
7
:
FK
:2008/09/17(水) 14:09:14
気をつかってもらって、ありがとう。喜んでいただきたいと思います。
受け渡しの方法についてはまた連絡してください。よろしくお願いします。
8
:
FK
:2008/09/20(土) 09:31:10
学歴社会
学歴社会の良い所はその人に傑出した能力がなくても、そこそこのもので通用していくというところです。
誤解されているのは、だれでもが学歴を獲得しないとやってけないと思い込んでいるところ。じつはそうではなく、本当に実力のある人であれば学歴は不必要です。
ところが、だれでもがそんな傑出した能力に恵まれているわけではありません。そもそも人間一人ひとりの能力には個人差があり、それはまたきわめて不公平かつ理不尽なものです。そこに多くの人たちにとっての学歴の意味があるのです。
つまり学歴社会は私たちに学歴さえあれば公平に機会を与えてくれる社会だということです。もちろんどんな社会であれ、仕組みであれ不公平はあります。しかしそれは理不尽なものであってはなりません。
だれにでも公平に機会が開かれていなければ学歴社会は窒息していきます。(1990年9月)
9
:
FK
:2008/09/22(月) 18:22:43
個性とエゴと協調性
今の学校で生徒たちの人権、あるいは個性が「尊重されている」とはとても言いがたい側面のあることはご存じだと思います。
服装や髪形などに対する数多くの規則を見るかぎり個性尊重には程遠く、それはエゴともいえないようなささやかな生徒たちの願いすら入り込む余地がないものです。
これではまともな人間扱いをされていないと、生徒たちが感じたとしても仕方がないでしょう。
そのような生徒たちのおかれた現状を象徴しているのが「運動会などで指揮に従って行動する子供たち」の姿であり、「同じ服を着て演説を聞く高校生」の姿だとある高校生は指摘しています。
これらをおかしいとも何とも思わないところにすでに私たちの目にくもりがあるというわけです。
よく使われる言葉に「協調性」があります。
これが必要だといわれるのは学校にかぎりません。社会生活を送るうえで、その秩序を守り協調性を持つことは必要なことでしょう。
ただそれが強調され、たとえば「あなたは協調性がない」という言葉は十分、脅し文句たりうるのです(社会秩序からはみだした人間だ、との断罪です)。つまり「協調性」の強調は、個人と個人とが力を合わせていくという本来の意味ではなく、他方への服従の強制になっているからでしょう。
もちろん「協調性」という言葉は、即その社会や集団に服従することを意味しません。「協調性」によって自分の権利や個性が否定されてはなりません。(たとえ孤立し、エゴイズムと言われても、自分らしさを失った協調性では意味がないでしょう)。
これをしっかり意識しておかないと、いまの学校では太刀打ちできません。単なるわがままではないかを自問しつつも、自分を個性的に生きていきたいものです。
(1987年7月17日付毎日新聞「みんなの広場」掲載、一部改稿)
10
:
FK
:2008/09/23(火) 11:18:02
教育とは
普段なにげなく使っているこの言葉だが、それは大人の側からの一方的な価値観を反映するものだ。そこで一度、視点を子供のほうに移して考えてみたらどうだろうか。
「教育される」子どもの側からみればこの「教育」という言葉の本質がよくわかる。つまり大人がその利害から意図するところのものを注入しようというのが「教育」だ。もともと子どもたちが欲してないもの(子どもたちが嫌がること)が、そこに要求されてくる。それは学校の制度や教育課程などに顕著に表れている(制服や細々した規則など)。
このような学校に対して、少なからぬ子どもたちが造反を起こすのも無理のないことだ。しかし大半の子どもたちは、おとなしい。デリケートな子どもたちにとっては、学校という場所はそこの空気を吸うことすら耐えられない。不登校は必然とも言えよう。
*
やはり「教育」を子どもの側から考え直してみる必要がある。今、一般的に流布している教育観は、はたして子どもたちの願望を満たすものなのかどうか。
子どもたちの姿は今の「教育観」とそれに基づく学校教育に否定的であるとは言えまいか。言葉では批判できなくても、態度や行動で分かるのではないか。
*
本来、人間はみずから「学び育つ」ことを欲するものだ。大人たちはその手助けをするだけで十分であったはずだ。
ところが現実はおせっかいともいえるほどに、子どもたちを学校に縛り付け、長時間にわたり多くの勉強を押し付け、子どもたちの自由な時間を奪い続けている。
その結果として子どもたちのものの考え方は、大人や社会にとって都合のいいものにされていき、子どもたちの価値観の中心に学校がどっかりと居すわることになる。
*
子どもの自殺は痛ましい。そしてその原因をたどれば多くの場合、「学校」が、かかわっているのだ。本当にものごとをよく考え真剣に生きている子どもたちが、学校を批判しながらも、その学校から精神的に離れることができずに自殺していく。これほど悲劇的なことはない。
大人たちの都合によって作られた、ある意味で子どもたちの幸せを願って作られたはずの学校によって、子どもたちがあるいは自殺し、あるいは精神的にスポイルされていく。
子どもを奪われた親たちには予期できなかったことかもしれない。多くの親たちは学校に対して絶大な信頼を寄せているからである。学校にさえ行っておけばとか、学校だけはどんなことがあっても行っておきなさい、という言葉にそれは、はしなくも表れている。「学校信仰」である。
ところが親たちの善意の期待に反して、学校は子どもを自死にいたらしめ、あるいは心をずたずたにして家庭に帰してくるのだ。
*
大切なことは、そもそも国家のほどこす教育が「誰」のため「何」のために存在するのか、と考えてみることだろう。なぜ子どもたちに教育を受けさせる義務が、親たちに課されているのかを考えてみることだ。
ともあれ子どもたちには、学校だけが人生のすべてなのではない、ということや(脱教育)、あるいは脱学校の考え方もあるんだということを親もふくめて認識しておくことだろう。
フリースクールもあり、高校へ行かなくても大学へ行くという手もあるのだ。学校も人生も様々な選択ができるということをこそ「教え」ておく必要があるだろう。
(1986年 2月11日)
11
:
FK
:2008/09/24(水) 21:56:49
家庭の役割
大人も子供も一日が終わるころには心身ともに疲れ、明日のためにもその疲れをとり、自己を回復することが必要です。
家庭は子供たちの心が安らぎ、自己を回復できる場所です。親やきょうだいの中で、自分の存在価値を確認し、外の世界で疲れ傷ついた心をいやすわけです。
このような居心地のいい家庭が私たちには必要なわけです。
しかし今、親たちは仕事に忙しすぎて、子供たちにかまっていられず、その結果、子供たちの心の安定が失われがちなのです。大人たちに必要なことは、子供たちとゆっくり触れ合える時間的、経済的なゆとりだと思います。
12
:
FK
:2008/09/25(木) 22:40:04
標準
毎日の生活の中で私たちは様々な多くの商品と付き合っている。価格一つとっても千差万別。頻繁に買い足していくものから、一生に一回使うだけのものもあるかもしれない。
しかしどのような商品であれ、それを提供する企業はその社会的責任としてきちんとした製品を提供する責務を負っているわけだ。世界中のどこに出しても恥ずかしくないだけの品質を維持し、長期にわたって安定的に提供し続けるという姿勢が必要だ。
そこで標準(スタンダード)ということだが、それはそれ以上品質のレベルが下がれば使用に耐えない、あるいはメーカーとして誇りを持って販売できないという基準だろう。
この標準というものに対するシビアな考え方。スタンダードというのはかくあるべし、という哲学ともいえるものが日本の企業にあるかどうか。コストダウンのためには見えないところを手抜きしたりしていないか、と私は不安を感じてしまう。
基準が厳しく競争が激しい国に対してはきちんと対応しているのに(もちろん対応していなければ販売できない)、競争がなく基準の甘い国に対してはその装備を省くといったことをしてはいないか。
JIS(日本工業規格)のSはまさしくスタンダードである。各種の部品や工業製品はその規格のもと優秀な製品なのだろう。しかしそこから出てきた商品はどうだろう。世界に誇れるスタンダードたりえているだろうか。
13
:
H・K
:2008/09/26(金) 00:34:08
みんな同じでみんな幸せとも言うが、
みんな違ってみんな良いとも言う。
出る杭は打たれると言うが、
十人十色とも言う。
ダブルスタンダードが文字通りスタンダードになったこの世界で
一体どう生きればいいのだろう。
行き着く答えだけは、オンリーワンであってほしいものである。
14
:
H・K
:2008/09/26(金) 00:43:52
人は生まれつき平等ではないという事はもう既に言われている事ですが
人間皆平等になれば皆幸せになれるのでしょうか。
そもそも今の世界で全員が平等になる事は可能なのでしょうか。
倫理的な謎はつきません。
無意味なぼやきでした。
15
:
渦森六郎
:2008/09/26(金) 01:04:21
「百万円と苦虫女」の蒼井優の最後の台詞は、「くるわけないか」だったような気がしますよ。
映画欄に書こうか迷いましたが、とりあえずこっちに書きました。
16
:
FK
:2008/09/26(金) 14:36:56
「百万円と苦虫女」の蒼井優の最後の台詞は?
「来るわけないか」か「そんなわけないか」?
気になりますが、言われてみたら、「来るわけないか」かなと思ったりします。
いずれにせよ、DVD待ちです。ただ一つ、原作の小説を読めば分かるかも。本屋へ直行しますか!
17
:
FK
:2008/09/26(金) 14:58:08
幸福論
「みんなと同じ」、だから幸せ!
「みんなと違う」、だから幸せ!
両方あるでしょうね、それぞれ。
でも大事だと思うのは、他の人との比較からではなく、自分を基準にして「だから幸せ!」と言えることでしょう。
自分に自信があり、余裕があり、満足していればいいんじゃないでしょうか。もちろん、そのとき人に迷惑をかけたりすることは、できるかぎり、ないようにしたいのですが。
でも無理でしょう。生きてる限り私たちは人に迷惑をかけずに生きていくことは無理。
そこで人の気持ちを害さないためにも「ダブルスタンダード」なのです!
平等論
人はみな平等であるべきだ、というのは理想論のようです。平等というのはそんなにも価値のあるもの・素晴らしいものなのですね。
でも一体、何が平等であればいいのでしょう。これを機にいちど考え始めてみてはどうでしょう。
18
:
FK
:2008/09/27(土) 17:24:43
大人とは
−−大人というのはその年令で決まるのでしょうか。
−−自分の行動に責任を持つのが大人ということでしょうか。
−−経済的な自立(お金儲けができること)が条件なのでしょうか。
−−清濁あわせ飲むことができるのが大人だという考え方もあります。
私はその答えの一つとして、「人のために何かができること」と考えますが、いかがでしょう。
19
:
FK
:2008/09/29(月) 11:09:44
日本の道路はクルマを敵視している?!
運転していてつくづく思うことの一つにこんなことがある。「日本の道路はクルマを敵視している」。
たとえばそれは駐停車が絶対出来ないように道路を狭めたりしていることである。もちろん道路自身がそんなことをするのではなく、それを作る人間の側の考え方なのである。
*
もともと狭い日本の道路にあって車を通行させ、さらに商業活動のためにも駐車余地を残さねばならないとしたらそれは大変なことだ。しかしそれができないと私たちの日常生活はたちまち困ることになる。
まして今日のようないわゆる宅配が一般化していると、道路は常に何らかの車両が駐車もしくは停車することを前提に作られねばならない。
ところが現実は不法駐車一掃の名目のもとに日常生活にとって欠かせないクルマの駐停車まで阻害してしまっているのである。鉄の杭やコンクリートなどで一旦停止さえしにくくしていること。こんなことなどがある。
もしそこにとめたらみんなが迷惑するようになり、だから駐車できないようにとの魂胆だろう。しかしとめる人間や仕事の人はそんなことにはかまっていられない。そんなことしてたら日本の道路では仕事にならないのだ。
したがって仕事のクルマはどんなところにでも強引にとめるし、またそうしなければ仕事にならないわけだ。これが現実だろう。ところがこれがひいては私たちの生活を危険に陥れ、社会の円滑な活動を阻害しているのだ。
*
私たちは駐車車両によって狭められた道路を疾駆するクルマから身を守りつつ通行しなければならないのだ。このような事態にいつになったら気づくのだろうか。クルマを敵視しているかぎり、そのような状況は変わらない。そして私たちの危険は無くならないだろう。(1994年)
20
:
FK
:2008/10/08(水) 21:24:03
私・FKの居場所
私を見つけるためには次の場所を探してください。(苦労させますが、よろしく)
1.3階 準備室(エレベータ下りてすぐ右の部屋)か308教室
2.2階 職員室かエレベータ下りてすぐ両横のベンチ付近、まれに図書室
3.1階 食堂内かその横のフロア
4.それでも居ないときは、3階 準備室前のベンチ(エレベータ下りてすぐ右)で待っててください。
5.確実なのはアポイントメントをメールで入れて、です。
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