したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

徒然なるままに

1FK:2008/09/08(月) 21:09:30
『徒然草』ではありませんが、日々、感じたこと・考えたことを、
話したいこと・聞いてもらいたいことを、すらすらと、気楽に綴
ってみるスレッドです。
 どうぞ遊んでみてください。

2FK:2008/09/09(火) 23:03:41
 重陽の節句、『走れメロス』、『相棒』−−いずれも男性同士の友情を扱ったもの。
 菊花の契りは、間に合わなくて、死んで霊魂だけが飛んでいく。
 メロスは間に合って目出度し、目出度し。
 相棒−−語感もいいし、男性同士だけではなく、それ以外の組み合わせでもいい。ペットもオーケーかも。
 みんなにも良い相棒がいるといいですね。

3コムシ:2008/09/10(水) 08:52:25
ソニーが出していた犬のロボットのアイボは
相棒からきているそうですよ。

AIBOの名前は、Artificial Intelligence roBOt の略で、
AI(人工知能)、EYE(目、視覚)そして「相棒(aiboh)」にちなむ。(ウィキペディアより)

4FK:2008/09/10(水) 09:56:34
 アイボは相棒ですか。なるほど。
 人間は生きていく上でどうしても相棒が必要なのかも知れませんね。身内であれ、他人であれ、同性であれ、異性であれ、ロボットであれ(?)
 ふと淋しいことを思いました。そう、相棒との別れ、です。
 縁あって素敵な出会いを出会い、しかしいつかは何らかのかたちで別れを別れなければならないときがやってくるのです。
 −−秋、ですかね。

5FK:2008/09/13(土) 11:46:41

 人を好きになろう

 人の命は地球よりも重く大切なもの!
 ――いくら強くこのように主張されても、正直なところ実感として迫ってこない。あたまではそういうことなのであり、そうしておかないとマズイ、といったところ。だが実際はこうだ。
 「私に直接かかわりのない人の命なんて関係ないよ。どうなったっていいよ。...」

 これをエゴだと非難することは誰にもできない。その通りなのだ。



 だから「人を好きになろう!」

 みんなが他の人のことを順繰りに好きになっていったら、この世の中にほかの人から好かれてない人はいなくなる。みんな誰かが誰かを好きでいる。そんな状態ができれば声高に「人の命は地球よりも重く大切なもの!」なんて言わなくても、いいことになるのだ。

 なぜ?
 みんなそれぞれに好きな人がいれば、その人のことを大切に思い大事にしたいと思うのが当然。その人が毎日無事に元気で生きていて欲しいと思うもの。

 命の大切さなどと、ことさらにいわなくても、それぞれが大事にしたいかけがえのない人がいたら、当然、その一緒にいたい人の命そして私の命が大切なことになる。

 そしてそれが保証されるためには、他人同士であってもお互いにお互いの命を大事にするしかないのだ。片方だけではだめ、お互いに大事にしあわなくてはそれは成立しないのだから。



 だからだから「人を好きになろう!」

 人を好きになるというのは、むずかしいことではありません。「好きになっちゃう」ものなのです。「愛する」という言葉は大げさに聞こえるかもしれませんが、人はほっといても人を好きになってしまうものなのです、時がくれば、自然に。

 人は人から好きになられたら、またその人のことを好きになっちゃうものなのです。例はよくありませんが、まるであくびが人から人へうつるように。
 また笑顔を振り向けられたらその笑顔が相手にうつっていくものなのです。素直な気持ちでその笑顔をもらっちゃえばいいのです。思わず笑顔が浮かび、人は人を好きになっていくのです。それを別の言葉でいえば、「愛する」ということなのでしょう。

 だから「人を好きになろう!」

6FK:2008/09/21(日) 21:54:58

 教師は世間知らず

 「教師は世間知らず」というのは俗耳に入りやすく、きわめて有効な殺し文句である。
 だから世間を知り、「幅の広い人間」になるために会社で研修をという短絡した結論が導き出されるのだ。
 教師に要求される資質とは、そんなに単純なものだろうか。

 たしかに教師には多様な資質が求められようが、一人の教師にそのすべてを求めるのは無理な話である。またその必要もない。学校には何人もの様々な個性・資質をもつ教師がいるからである。

 職場としての学校のいいところは、教師歴の長短や年齢の上下にかかわらずヒラの教師間は対等に意見が言え、仕事ができるということだ。ただ最近は学校も会社化してきてだんだんとものが言いづらくなってきているかもしれない。
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 何かあれば教師批判が噴出するが、その批判の一つに「教師は世間知らず」というのがある。私など逆にそれでいいんだと言いたくなるのだが、気の弱い人間にはなかなかそう言い通せないところがある。まさしく俗耳に入りやすいからであろう。

7FK:2008/09/24(水) 17:07:24

 公衆道徳の欠如

 公衆道徳の欠如は、残念ながら日本のどこででも見られます。そこで「公衆道徳は学校で教えよ」ということになるのでしょう(そう何でも学校でできるわけはありませんが)。

 しかし学校で教えられることは、教科書にあるように整理された知識が中心であり、道徳や愛情・ヒューマニズムといった人間の精神に深くかかわるものは不得意とするところです。

 たとえばお年寄りには席を譲るべきだという知識は、だれでももっています。しかしその知識をもつひとが現実の場面で席を譲るとはかぎりません。
 知識としての道徳観念は、現実の利益不利益の前には無力なのです。

 公衆道徳が実現されるには、各自の心の中にしっかりと根づき、息づいた道徳観念がなければなりません。そしてこのような道徳観念は罰や強制によって身につくものではないのです。心からの共感に裏打ちされた理解によって体得されるものです。(1990年 2月 1日)

8H・K:2008/09/26(金) 00:59:54
過去から漠然と受け継いだ道徳的な概念による束縛がなくなったのかもしれません。

前に驚いたのが、テレビで「なぜ人は殺してはいけないんですか」という事を
訊く子供が居たのですが、説明できるタレントが誰も居なかったのです。
(テレビに出るタレントはアホだという事は抜きにして…
 人を殺してはいけないという事は誰でも知っていることです)

コレは説明できないのが罪な事ではなく、
人を何故殺してはいけないと言う真実を追求する事自体が
罪になっているからだと私は個人的に思っています。
そして、これも一種の道徳的な概念なのかもしれません。

追求しなければ、説明する事もできない。
そして、過去からの漠然とした道徳的な概念を持たない若者が
誰にも説明されないまま公衆道徳を欠如したまま育っていく…のかもしれません。

「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない。」
 マックス・ウェーバー

9FK:2008/09/26(金) 14:22:03

「シーザーを理解するために、シーザーである必要はない。」とはマックス・ウェーバーの著書『理解社会学のカテゴリー』のなかの一節のようです。
 よくこんなの知ってるなと、まずは感心しました。というかこちらの勉強不足なのかもしれませんが。
 これは簡単に言えば「あなたを理解するために、あなたである必要はない。」なんて言い換えたらどうでしょう? 顰蹙を買いますかね。

 なぜ殺してはいけないのか、と問うこと自体を禁忌とするのは、要するに実は殺してもいい、というか、現実に殺してきているからでしょうね。
 そしてそも、道徳なんて支配者による支配体制維持のための手段なのだから!?

10FK:2008/09/29(月) 10:56:57

 ポール・ニューマン
 
 この26日、ポール・ニューマンが亡くなりました。83才。
 私にとっては青春時代の映画スターです。[明日に向かって撃て]とか[スティング]ですね。
 2007年5月に俳優を引退していたようですが、その時の弁が「もう満足できるレベルでの役者でいられなくなった」とのこと。

 私もそう思ったときにこの仕事を引退したいものだと思います。
 とまれ、こうして自分自身が年をとっていくにしたがい、私の記憶の中のいろんな人や事物が消え去っていくものなのですね。

11FK:2008/09/30(火) 21:51:11

 ブレーキは左足で

 スーパーに車が突っ込んで一人が亡くなる事故があった。これまでも実は同じ事故が絶えないのだが、いまだに解決できないでいる。つまりなくすことが出来ないのだ。アクセルとブレーキの踏み間違い。
 しかし実は簡単なことなのだ。「左足ブレーキ」にすればいいのだ。

 踏み間違えをなくすためには、それぞれの足で役割分担をしておく方が良いということだ。右足は必ずアクセル操作であり、左足は必ずブレーキ操作と決めておく。

 現状は右足一本であり、教習所でもアクセルもブレーキも右足だけで操作するように教えている。さて、左足ブレーキはいけないのか?
 私も今はずっとオートマチック車に乗っているので、いくつかの本にその答えを求めたところ、意外なことにプロドライバーや自動車評論家の中でも意見は分かれているようなのである。

 左足ブレーキの難点として、ある本には左足には従来のクラッチ感覚があり、つまり、ドンと踏んでしまうので、微妙なタッチの必要なブレーキ操作には不適当、だというのである。でもやってみれば分かるが、それは練習次第で私もさほど苦労することなく左足ブレーキに移行することができて今に至っているのだ。
 ブレーキは左足で、が正解なのだ。

12FK:2008/10/01(水) 20:36:32

 『論より詭弁 反論理的思考』(香西秀信 光文社 2007年 \700)より



 議論に世の中を変える力などありはしない。もし本当に何かを変えたいのなら、議論などせずに、裏の根回しで数工作でもした方がよほど確実であろう。
 実際に、本物のリアリストは、皆そうしている。世の中は、結局は数の多い方が勝つのである。(P.8)

 議論において、問いを出す側は、問いを構成する言葉を自分に都合よく選ぶことができるという特権をもっている。(中略)だから、答える側は、よほど用心しないと、相手が選んだその言葉に合わせて、問いに答えさせられる羽目になってしまう。(P.60 第1章 言葉で何かを表現することは詭弁である)

 論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。(中略)いつでも論理的に振る舞おうとする、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。(P.92 第3章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと)

               【お人好しではダメということか。】

13FK:2008/10/04(土) 22:39:02

  異論を唱えること

 私たちはあまりにも「ものわかりがよすぎるのではないか!」
 それは決してほめられることばかりではない。昔からの「長いものには巻かれろ」的な考え方の結果であろうか。それは生きるための智恵・美点だとして誇るべきか。

 みんながみんな、ものわかりがいいというのは、決して健全な社会のあり方とはいえない。異質な、考え方の違う人々が集まり、お互いに補い合っていくのが世の中だろう。
 そこに口うるさく文句をいう人、異論を唱える人がいなくては、健全な民主主義社会は成立しない。
 異論を唱えるには、その社会に対する愛着と勇気が必要だ。ただそれは簡単なことではない。



 異論があってもそれは心の中で思っても、考えることはあっても、なかなかそれを言葉や文章にしないのがごくごく普通の私たちである。
 (もっとも発言できる場所も多いとはいえないが。せいぜい新聞や雑誌の投書欄か。ただ最近ではホームページやメールマガジンという手も出てきた。)

 決してあきらめてしまっているというわけではないが、日々の生活の忙しさの中に埋没させられてしまい、高度な精神性と強い意志を要するそのような行動に時間とエネルギーをさくのが難しい現実があるのだ。(1989年1月24日)

14FK:2008/10/11(土) 11:17:25

 自信と笑顔

 何が大事といってこの二つほど生きていく上で大事なものはないでしょう。
 自信があればその余裕から笑顔が浮かぶ。笑顔は美しい。そして笑顔は笑顔を呼ぶ。
 笑顔は見ていて、すがすがしいし、気持ちがいい。そして人を幸せな気持ちにしてくれる。
 私たちには、笑顔で居られる場所と友だちが必要だ。

15zhenli:2008/10/12(日) 19:10:22
私は議論する事が得意ではないです。
何かを問われたときにその場でパッと答えることがすごーく苦手なのでその場では短く答えて、家に帰ってその日問われた質問を時間をかけて考えます。そして自分なりの答えを出します。
でも、昨日聞いた質問に次の日に答えられた時の相手の反応が怖いので、私の考えは口に出されることなく心の中だけに留まってしまう事が少なからずあります。
何人かの人はこういう理由があって、相手に迎合してしまうんじゃないかな、と思います。
時間をかけて考えたらちゃんと答えられるけど、すぐに答えられない。
そういう人たちは、自分の意見を言える環境に置かれたことがなかった、というのも原因のひとつなんじゃないかと思います。
だから、そういう環境に自ら入って意見を言う練習をしていく事は必要だし大事だと思うので、実践していきたいと思います。

16FK:2008/10/12(日) 21:37:15

 読んでて結局は、聞いてくれる人たちの存在や居場所が大事というのがいちばんのポイントのようですね。「自分の意見を言える環境に置かれたことがなかった」というところです。
 では順を追って話していきますと。

 まず「議論をするのが得意ではない」というのが本当のところなのではなく、もしちゃんと聞いてくれる人がいたり、ゆったりと話のできる場所があれば誰にだって可能なことなのです。
 またすぐに「その場でパッと答えることが」できないのもあなただけではなく、私もそうだし、みんな結構そうなのですよ。その場で言えないものだから、家に帰っても悶々と考えてしまう。でもその答を思いついたときは手遅れなのですね。永遠に口にされることなく消えてゆく! (悲しい!)

 で、「そういう環境に自ら入って意見を言う練習をしていくこと」が必要という結論にあなたは達するわけです。――そんな環境・居場所をぜひとも見つけ出したいし、作り出したいと思いますね。そんな中で考える練習・言う練習をのびのびと気兼ねなくしていく。そんな場所を作りたいですね。どうか一緒にやりませんか。日と時間と場所を決めて自由参加で。企画・提案してみてください。応援しますので。

17zhenli:2008/10/13(月) 23:24:30
書き込み遅れてすみません!!
はい!そういう場所欲しいです!
まぁ、結局は先生のおっしゃった通り聞いて欲しいんですよね(笑
みんなでお互いの話をまったり聞き合える温かい環境、良いですね。
企画・・・私にできるでしょうか(^^;)
また時間のあるときに訪ねていくのでその時に相談していいでしょうか?^^;

18FK:2008/10/14(火) 06:20:51

書き込み遅れて −−そんな心配は無用です。まさに「徒然なるままに」ですから!
そういう場所欲しいです! −−私も欲しかった、私の高校時代に(笑)
聞いて欲しいんですよね −−話したい・聞いてほしい=私という存在を認めてほしい、ということかな?
企画・・・私にできるでしょうか(^^;) −−そういった場所と友を熱望している人こそ、企画できるのではありませんか!
また 訪ねて 相談 −−もちろんです。私はそのために存在しているので?!

19FK:2008/10/16(木) 09:58:46

[七瀬ふたたび]

 先週の木曜から始まった筒井康隆原作のドラマ化。[キャットストリート]のあとなので、とりあえず録画して観てみた。
 おしまいの方で「未来が見える・分かる、だけどそれは変えられない」といった台詞を言っていたのが印象に残った。

 偉そうに言う気はないが、超能力がなくてもこれまでの経験から、その人の未来というのはある程度見える(推測できる)ものなのだ。でもそれが分かったところで、やはりどうしようないということ。無力感をドラマの人物も感じていたようだが、私にしてもそうだ。みすみす、といったところ。仕方がない。それはその人の選んだ道であり、それは肯定され最優先されるべき選択肢なのだから。ただそれを別の角度言えば「運命」とか「宿命」とかとなるのだろう。

20FK:2008/10/17(金) 22:15:20

 失恋の季節

 昨日、浜へ歩きながらしゃべっていたことから。
 夏は恋の季節、なら、秋は? そう秋は失恋の季節なのです。少なくとも私に関してはそうでした。あの暑い7、8月に得恋して、秋風の吹き始める9月に失恋、なのです。
 短いと思うでしょう。でも、それだけ中味が濃いものだったということです!

 なにごともそうなのですが、旬の季節・時間というのは本当に短いものです。またチャンスは一度失ったら、実はもう終わりなのです。同じチャンスは二度は来ないものです。だから、下手に遠慮して、人生の果実をみすみす逃すことのないよう、みんなには忠告したいのです!?


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板