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同志社を蹴って関学に行った人

1Kwansei Gakuin University:2017/10/22(日) 15:02:23


1980年代は国公立の共通一次試験(5教科7科目)が敬遠されて私大人気が 異常に高まって難関となり、東一工合格の早慶落ち、京阪神合格の関学・同志社落ち が普通にいました。 早慶と関学・同志社の間にはそれほど大きな差はありませんでしたが、関学・同志社と 関大・立命館の間には相当な差があり、早慶に軽く合格できる関西在住の受験生も、 わざわざお金を払って東京の早慶に行くより関学・同志社で十分という認識の人が 多かったです(特に下宿を嫌う女子はそうでした)。 関学と同志社の比較では、社会・経済・商の学部は関学のほうが上、文・法の学部は 同志社のほうが上で、理は関学、工は同志社という棲み分けがありました。社会的評価は、 関学>同志社だったので、総合的にも関学のほうが同志社よりやや上という認識でした。 私は1980年代に、私大最難関 だった早稲田・政経(政治)を落ちて第二志望の関学・社会に入学しました。 第三志望は同志社・文・社会(新聞)でした。ジャーナリスト志望でしたからね。

大阪大学をけって関学
阪大はご存知のとおり医学部と工学部は定評があります。もともと叔父と同じ阪大進学を 希望していたのですが、当時阪大経済学部卒で社会で活躍していた方は少なく、決して就職もいいとは 言えませんでした。その当時の関学経済卒の財界人の活躍は目覚しく、しばしばTV対談にも出演されてた のをご存知の方もあると思います。 阪大の経済はその当時阪大のお荷物的存在ではありましたが、やはり旧帝大ということもあって、 最後の最後まで選択に悩みましたが、当時毎日放送の役員であった関学経済卒のかた(祖父のコネで毎日放送に入社した方です) とお会いしたときにその方の人柄にも魅力を感じ、こんな方が卒業された大学へぜひ行きたいと思い、関学経済に決めました。 その当時の関学経済の評価の高さは私と同じ時代を過ごした人ならご存知のはずです。

80年代OBだが、法学部以外は、同志社蹴り関学は普通にいたよ。早稲田・商受かっても、就職は一緒やからゆうて、関学選んだ奴もいたし。立命蹴りの甲南も多かった。立命のイメージ相当悪かったからね。関学はようやくV字回復だね。これからどんどん復活するでしょう。地道なグローバル化改革も、SGU選出で実を結び 残るは医学部設置。これが実現できたら、慶応と肩を並べ、京大・阪大・関学の関西3強時代になるよ。

2Kwansei Gakuin University:2017/10/22(日) 15:02:55
日本(特に関西)の大学を何十年も見てきています。抜粋されたのは2人の関学OBの方の体験談ですね。全くそのとおりという以外ありません。

1つ目の方は関西在住だったジャーナリスト志向の方ですね。今も昔もジャーナリストになりたい人の最高峰は、早稲田大学政治経済学部政治学科でしょう。日本初のジャーナリズムスクールもそこが管轄していますからね。しかし1980年代当時、西日本のメディア研究で最も権威があった津金澤聡広先生が関学社会学部におられましたし、ジャーナリズムが専門で現在、日本出版学会の会長を務めておられる芝田正夫先生も関学社会学部におられましたので、東なら早稲田の政経(政治)、西なら関学の社会学部がジャーナリズムへの登竜門という評価がありました。同志社文学部社会学科新聞学専攻もそれなりに評価されていましたが、早稲田や関学に比べれば1段階格落ち、関大はさらに格落ち、立命館はもう一つ格落ちという感じでしたね。

2つ目の方は経済学部を希望しておられた方ですね。当時、関西で経済学部を受験する受験生にとって最高峰は京大経済学部でしたが、ここは当時マルクス経済学が主体で、経済界から警戒されていたふしがあり、京大の学内でもマイナーな学部でした(京大のずば抜けた看板は何と言っても理学部。文系では京都学派の文学部と法曹界で巨大な実績のあった法学部が強かった)。阪大経済学部は近代経済学のメッカと呼ばれていたものの、経済界からの評価は複雑なものがありました。なぜなら非常にアカデミックな印象で、輩出される学生は学究肌の者が多く、ビジネスマンとしては今一つの印象があったのです。神戸大経済学部は旧・三商大の伝統があるのですが、ここは経営学部のほうが主流でした。大阪市大経済学部も商学部のほうが主流でしたが、ここは学生運動が激しく、経済界から警戒感が根強くありました。

補足
しかも近代経済学が主体だったため、経済界からの評価は非常に高かったです。

ところで、別の回答者が立命館の大学改革について表層的な書き込みをしていますが、当方としては立命館の「研究力の強化」は評価する一方で、入試方法を細分化させつつ一般入試比率を下げ、偏差値操作を行なって意図的に偏差値を上げ、若い世代(主に受験生)に「立命館が伸びている」と思わせたイメージの悪さも社会に浸透しています。それが証拠に、現役進学率(現役本命率)では、関関同立の圧倒的な最下位です。また近年、学生の質の向上に対処しようとして一般入試比率を上げると、瞬く間に河合塾の偏差値で関関同立の最下位に転落してしまいました。まさに混迷を続ける大学であり、日大や東海大の後を追っているように見えます。

一方の関学は急激に復活しています。関関同立において現役進学率(現役本命率)もNO1、退学率の低さ(学生生活の満足度)もNO1、就職率もNO1、一部上場企業の社長数(OBの活躍)もNO1、さらにスーパーグローバル大学にも採択されましたから、あとは偏差値で同志社を抜き去ると、完全にかつての評価、関学>同志社>>関大=立命館に戻ることでしょう。

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3Kwansei Gakuin University:2017/10/22(日) 15:03:26
オレは1960年代の前半に慶應・早稲田・関学・同志社に
全部受かって、慶應・早稲田・同志社を蹴って関学に入学したわ。

オレは関西の進学校でも上位の成績やったから、
先生には、京大や阪大は受けへんのか?と言われとった。
滑り止めとして、二期校の国公立も受けられたしな。

当時の関西の進学校は今以上の国公立至上主義で、
成績のエエやつは京大や阪大を目指しとった。

ただ阪大に関しては、医学や理工系は良かったけど、
文系に関しては、関学や神戸大のほうが良かったな。

オレは独特の教育をしとる私学のほうが良かったから、
阪大くらい合格できる学力があっても、慶應・早稲田・関学・同志社
を受けた。

そのうち慶應と早稲田は単なる力試しと東京見物やった。
東京へ下宿して4年間も高い下宿代払う余裕もなかったしな。

本命は関学、第二志望が同志社やった。
関大・立命館? そんなレベルの低い大学はオレなんか
目つぶっても合格できたから受けんかった。

そんでめでたく関学に合格し、慶應・早稲田・同志社を蹴ったわけや。

オレはそんなに裕福な家庭やなかったけど、
関西在住の頭のええ私学志望の裕福なヤツでも、
力試しで合格した早慶を蹴って関学に入学しとったで。

同志社は関学にとって格下やから、関学と同志社やったら
英文・法科・工学を除けばほぼ全員が関学を選ぶわな。

4Kwansei Gakuin University:2018/12/22(土) 12:32:58
日本一のため同志社からKGへ 関学主将・光藤
寒空の下で10番が叫んだ。「俺たちが日本一や」。甲子園に響き渡るKG戦士たちの雄たけび。今シーズン最高の笑顔がはじけた。日大に負け、涙に暮れた1年前。10番は逆転を狙う第4クオーター(Q)に出場するも、わずか3プレーで交代。立ちつくすことしかできなかった。今年は早大を下し、2年ぶり29度目の学生日本一。主将に立候補するきっかけとなった舞台で、QB光藤航哉(みつどう、4年、同志社国際)は「やっと日本一になれた」と喜びをかみしめた。昨年とはまったく違う景色を味わえた。

アメフト 関学_2
甲子園ボウルでボールを大事に抱えながらタッチダウンを決める光藤
同志社国際高の恩師、後輩も観戦
その甲子園のバックネット裏。一番近くで光藤のプレーを見つめる人がいた。恩師である同志社国際高教諭の坂本智宏さん。高校生たちを連れて観戦に来ていた。試合前には「日本一になって、航哉(光藤)に男の中の男になってほしい。きっと頑張ってくれると思います」と話した。

出会いは光藤が高1のときだった。坂本さんが3年間の海外赴任から戻り、フットボールの指導現場に復帰。光藤は当時から、ウナギのように「にゅるっ」と相手をかわす走りとパス能力の高さが光る選手だった。坂本さんは1年生QBの光藤を中心とした戦術を組み立てた。

高2のとき、光藤は当時の3年生が引退した数日後、職員室の坂本さんのもとにやって来た。「必ず全国大会に行きたいです。キャプテンをやりたいです」。下級生の頃から上級生に混じってミーティングに参加し、責任感も人一倍のものがあった光藤だ。坂本さんは「志が高く、チームを強くしていきたいという気持ちが伝わった」と振り返る。珍しいQBの主将が誕生した。

伝説と言える出来事があった。高3春の京都府大会。勝てば6年ぶりの優勝が決まる立命館宇治戦。タイブレークにまでもつれ込む大接戦の末、35-28で勝った。仲間たちが歓喜に沸く中、光藤は痛みで防具を外せなかった。鎖骨が骨れていた。痛みを感じながらも試合に出続けていた。夏の定期戦でも同じ部位を骨折。本番の秋を前に涙を流した。なんとか秋のリーグで復帰。最後の全国大会に間に合った。初戦で敗れたが、坂本さんは当時を思い出し、「何があっても、決めたことはやり通す。航哉はそういう男です」と語った。

5Kwansei Gakuin University:2018/12/22(土) 12:33:42
日本一のため同志社からKGへ 関学主将・光藤
寒空の下で10番が叫んだ。「俺たちが日本一や」。甲子園に響き渡るKG戦士たちの雄たけび。今シーズン最高の笑顔がはじけた。日大に負け、涙に暮れた1年前。10番は逆転を狙う第4クオーター(Q)に出場するも、わずか3プレーで交代。立ちつくすことしかできなかった。今年は早大を下し、2年ぶり29度目の学生日本一。主将に立候補するきっかけとなった舞台で、QB光藤航哉(みつどう、4年、同志社国際)は「やっと日本一になれた」と喜びをかみしめた。昨年とはまったく違う景色を味わえた。

アメフト 関学_2
甲子園ボウルでボールを大事に抱えながらタッチダウンを決める光藤
同志社国際高の恩師、後輩も観戦
その甲子園のバックネット裏。一番近くで光藤のプレーを見つめる人がいた。恩師である同志社国際高教諭の坂本智宏さん。高校生たちを連れて観戦に来ていた。試合前には「日本一になって、航哉(光藤)に男の中の男になってほしい。きっと頑張ってくれると思います」と話した。

出会いは光藤が高1のときだった。坂本さんが3年間の海外赴任から戻り、フットボールの指導現場に復帰。光藤は当時から、ウナギのように「にゅるっ」と相手をかわす走りとパス能力の高さが光る選手だった。坂本さんは1年生QBの光藤を中心とした戦術を組み立てた。

高2のとき、光藤は当時の3年生が引退した数日後、職員室の坂本さんのもとにやって来た。「必ず全国大会に行きたいです。キャプテンをやりたいです」。下級生の頃から上級生に混じってミーティングに参加し、責任感も人一倍のものがあった光藤だ。坂本さんは「志が高く、チームを強くしていきたいという気持ちが伝わった」と振り返る。珍しいQBの主将が誕生した。

伝説と言える出来事があった。高3春の京都府大会。勝てば6年ぶりの優勝が決まる立命館宇治戦。タイブレークにまでもつれ込む大接戦の末、35-28で勝った。仲間たちが歓喜に沸く中、光藤は痛みで防具を外せなかった。鎖骨が骨れていた。痛みを感じながらも試合に出続けていた。夏の定期戦でも同じ部位を骨折。本番の秋を前に涙を流した。なんとか秋のリーグで復帰。最後の全国大会に間に合った。初戦で敗れたが、坂本さんは当時を思い出し、「何があっても、決めたことはやり通す。航哉はそういう男です」と語った。


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