したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

超名門 日大法学部

470名無しさん:2020/07/14(火) 09:49:14
の次男として 1911 年,ワイパフに生まれた二朗は,オア フ島のマノア・ヴァレーにある Mid Pacific Institute に進学する(写 真 8, 9)。公立高校に進学する二世が多いなか,大学進学を目的 とする私立学校に通えたのも,キミエの場合と同じく,利作の経 済的成功が背後にある。二朗は,勉学とともに音楽やスポーツも この学校(通称:ミッドパック)で覚えた。
その後,二朗は東京の明治大学に入学する(写真 10)。先行研 究でも明らかなように,当時,ハワイの二世が,地元ハワイや米 国本土ではなく,日本の大学に留学することは珍しくなかった。
写真 6 加藤重夫と加藤キミエ (広島県で撮影)
写真 7 女学校時代の加藤キミ エと同級生(広島市で
撮影)
写真 8 加藤二朗(ミッドパシ フィック・インスティ
テュート時代)
- 114 -

末裔から見た移民と日本留学(神田)
日本の有名大学卒という学歴は,ハワイに戻った後も,ある種の ステイタスになった。また,米日の為替の関係で,ひとりの子弟 をハワイの大学で教育を受けさせる総費用でふたり以上の子弟 を日本の旧制中学・女学校・大学に入学させても,ハワイからの 仕送りで授業料や生活費をカバーできたという。このような経済 的事由も「二世の日本留学」が活発化した原因のひとつと考えら れる。
さて,二朗の明治大学における活動は,皮肉なことに,あまり 得意ではなかったアメリカン・フットボールの選手(写真 11) として,また,幼少期に広島県からカリフォルニア州へ移住した 経験をもつ松本瀧藏教授が設立した,二世男子のみによる学生社 交組織(フラタニティー)「シグマ・ヌ・カッパ」のメンバーと してその姿が残されている(写真 12)。
明治大学はハワイや米国本土の二世を受け入れた大学のひとつ であり,松本瀧藏のような米国の文化・スポーツ(野球やアメリ カン・フットボール)に詳しい教授が二世の面倒をみたこともあ り,他の大学に先んじてアメリカン・フットボール部が創設され た。諸説あるが,関西学院大学 OB で日本のアメリカン・フット ボール史を研究する川口仁によれば,日本で最初のカレッジ・ フットボールの公式戦は,明治大学在籍の二世チームと明治大学 以外の二世を集めたチームとの試合であり,二朗もその試合に出 場している。
なお,日系アメリカ人二世が日本のアメリカン・フットボール 黎明期に果たした役割については,『1934 フットボール元年―” 父 ” ポール・ラッシュの真実』井尻俊之・白石孝次,に詳しい。 同書には「東京學生米式蹴球聯盟」の評議員のひとりとして,ま た,明治大学の選手として加藤二朗の名前が記載されている。二 朗は,関東の大学リーグ戦だけでなく,関西の大学や来日した米 国の大学チームとの試合にも出場しており,中心的な選手


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板