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超名門 日大法学部

239授業再開(⌒∇⌒) 近し:2020/05/18(月) 12:03:47
なんで法政大学って現実世界でも叩かれてるの?
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1576917981/l50

法政インテリヤクザ   安藤昇

15歳で感化院に入れられ、18歳で多摩少年院に収監されるなど、荒れた少年時代を送った。
予科練の試験に合格し恩赦で少年院を退院、三重海軍航空隊に入隊後海軍飛行予科練習生へ配属。
1945年(昭和20年)6月、神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に志願し配属が叶い生死を伴う苛酷な
訓練を受けるも、2ヶ月後に終戦となり、除隊。1946年(昭和21年)、法政大学予科に入学するが、
翌1947年(昭和22年)退学し、仲間達と共に愚連隊(不良青少年グループ)を作った。
1952年(昭和27年)、用心棒や賭博を手がける東興業を設立。これは後に「安藤組」となった。

安藤組は、従来の暴力団とは異なるファッショナブルなスタイル(背広の着用を推奨し、
刺青・指詰めを厳禁した等)で、当時の若者の絶大な支持を集めた。
最盛期には500人以上の構成員が在籍し、中には大学生や高校生の姿も珍しくなかったという。
安藤自身いわく、早大や慶大の学生も多くいた。安藤組の幹部には、後年 安藤組の回顧録
『修羅場の人間学』(1993年には映画化もされた)を執筆した森田雅や、本田靖春の小説
『疵・花形敬とその時代』の主人公として知られている花形敬らがいる。
また作家の安部譲二が安藤組に出入りしていた。

1958年(昭和33年)、横井英樹の債務取立てのトラブル処理を請け負うが、その話し合いの席上での
横井の態度に激怒した安藤は、組員に横井襲撃を命じる(横井英樹襲撃事件)。
恐喝などの容疑で安藤が逮捕され6年間服役した後、安藤組は解散した。
1965年(昭和40年)、自らの自叙伝を映画化した『血と掟』(松竹配給)に主演し映画俳優へ転向。
この作品がヒットを記録し、松竹と契約金2千万円、1本当たりの出演料が看板女優である岩下志麻を
凌ぐ500万円で専属契約を結んだ。松竹の子会社であるCAGに所属という形で、11本の映画
(但し、2本は確認されていない)に出演。その後、1967年(昭和42年)に東映に移籍した。
この移籍は本来なら五社協定違反であったが、映画界の慣習を知らない安藤が松竹に「(五社協定なんて)
知らない」と言うと、それで通ってしまった。
長身ではないが、端整な顔立ちに曰くありげな左頬の傷跡、有名暴力団の元組長という類い希な経歴から、
数々のヤクザ映画に出演し、人気を博した。
松竹・日活・東映各社で多くの主演作を持つ。自ら主題歌も歌い、レコードも数枚リリースしているが、
歌手としての評価は低く、話題にもならなかった。
俳優となった後も暴力団関係者との交流は続いており、友人がある一家の跡目を襲名した際には、
その記念に開かれた賭場に顔を出し、後日警察に逮捕されている
(安藤の話によると、この時警察で著書へのサインを頼まれたという) (Wikipedia)


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