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女性に大変親切な日本大学

120兵は凶器なり:2019/03/13(水) 08:26:35
帰国後、1万5000字からなる建軍策を提出したが、そこには次のような文章がある。
「兵何を以て至要なるや。兵は凶器なり。而して能く巨万の金額を費やし、人民を労し、少壮の事業を妨げ、
その学問を礙し、その性を障害し、その才を束縛し、その刑罰を厳酷にし、或いはまた醜業に慣習し、密陰を盛んにし、
梅毒を繁殖す。しかるにいわんや大砲銃諸器も上は頂上より下は跛底まで、人体軍用諸物、ことごとく皆外国に仰ぐに於いておや
―中略―今日、文明の世に於いて無用なるものは兵か。しからず兵は抵抗の器なり。人抵抗の気あれば武勇なかるべからず。
また軍事なかるべからず。
人生欠くべからざるものは、文武なり。国また然り」
 
この建言書は明治国家の形成には取り入れられず、「幻の建白書」といもいわれている。
山田は「兵を敵対抵抗の器なり」とし、必要悪としての軍隊の本質を衝き、徴兵制についても
教育を先にする漸進論を掲げ、山縣の進める徴兵制に異を唱えた。
 
その結果、山田は司法畑に転じ、伊藤の組閣した内閣では初代司法大臣に就任、
その後四代の総理大臣の下で八年にわたり大臣の職にあり民法、商法の整備に挺身した。
また、一方で教育に力を尽くし、日本法律学校(日本大学の前身)や國學院大學の創立にも関与した。
教育重視の面でも木戸の衣鉢を継いだといえる。その思想の根底には、自然の摂理を尊ぶ
「天地生成の意」の思想があった。視察先の生野銀山で卒倒し急死、49才だった。


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