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みてね

1709X:2009/06/22(月) 21:47:59
オウムと創価学会の準軍事的関係がはじめて公的に明らかになったのは、1995年4月4日、オウム広報部長上祐史浩の外国通信記者クラブでの会見であった。上祐は、諜報省がオウム防衛組織の背景を調べた結果、少なくとも27人は元創価学会員であったと公表した。この部門は、噂によれば、教団の諜報省とともに、オウム施設への強制捜査を導いた仮谷拉致殺人疑惑を含む、拉致者の殺害、殺人、肉体的懲罰の責任があるという。

オウムの元創価学会員の多くは、犯行後、なぜか消えた、と上祐はつけ加えた。上祐の情報部は、創価学会とオウムの関係について内部調査を行なったのである。これらの隠された創価学会侵入者を彼は「スパイ」と呼んだが、彼らは、もしオウム真理教が警察の攻撃を受けてきたのであれば判決のために尋問されなければならない。そして、創価学会準軍事的軍隊は、東京地下鉄毒ガス事件を、おそらくは朝鮮半島で訓練されたテロリストといっしょに組織し、着手したことがわかるし、このことは、二つの教団のあいだの致命的な仲違い――それとも創価学会が海外情報組織から恩義を受けていたということのどちらかを指し示している(創価学会は北京・クレムリンと強力に結びついており、在日朝鮮半島人会員が上層部から下部に至るまで広くその教団に浸透している)。
この消えた元創価学会員は、なぜ追及されなかったのか?そこか事件の核心だったからである。創価がらみの事件は、警察もマスコミも深追いしない。だから、隠蔽できた
創価は、オウムの残った幹部とも取引した。事件をオウムの仕業と認めさせる代わりに、上祐に資金提供をした。
口の軽い村井を殺した後、麻原も拘束して、オウムは上祐の天下となった。早川は巧く騙して、刑務所にぶち込み、発言の自由を奪った。
上祐は、創価と妥協して教団を生き長らえさせることを選んだ


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