したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

妄想世界における戦後日本について

1サラ:2007/04/20(金) 23:55:48
火葬世界における戦後日本の歩み

1945年4月1日
 米軍は嘉手納、読谷の飛行場と日本軍の戦力分断を狙って沖縄中部に上陸を開始。オペレーションアイスバーグが始まった。
 当初、米軍はそれまでの戦闘経験から日本軍による強固な水際防御を警戒し、砲爆撃の嵐を上陸予想地点に叩きつけた。しかし、実際には日本軍の反撃は微弱であり、事故による損失以外は損害らしい損害もないままに上陸第1日目は過ぎていった。
 これは沖縄防衛を担当する第32軍(司令官:牛島満大将)の主力だった第9師団がフィリピン戦に引き抜かれ戦力が低下していたことと、それまでの戦闘経験から水際での防御は戦艦の大口径砲の艦砲射撃を受けると容易に破壊されてしまうが判明したためであり、内陸での持久戦は理にかなった選択だった。また、沖縄戦を本土決戦の前哨線であると捉えていた大本営陸軍部にとっても、内陸部で長期間の持久を行なうことは本土決戦のための時間を稼ぐために有効であると判定されていた。
 しかし、早期に嘉手納、読谷飛行場を失ったことは大本営(特に海軍部)とっては大いなる失望だった。海軍は沖縄を米艦隊撃滅のための決戦場であると捉えており、九州の縦深のある航空要塞をして、米空母機動部隊を壊滅させるつもりだった。しかし、嘉手納、読谷の飛行場を失ったことによって、飛行場からはP−51、P−47などの米陸軍航空隊が早期に展開することによって沖縄周辺の制空権は米軍の手におちることになり、米空母機動部隊の分厚い対空防御を合わさって、神風特攻作戦の効果は急減することが予想された。以後、帝国海軍の描いた決戦戦略は半ば破綻したも同然となる。
こうした声は軍令部においては強く、逆に聯合艦隊内部で弱いものだった。海軍内部にはこの時点で奇妙な温度差が生じており、軍令部においては読谷、嘉手納奪回のために再三に渡って陸軍に第32軍による反撃を要求しようとするのを聯合艦隊が諌めることがしばしばであり、ついに第32軍は当初の持久戦略を最後まで維持することになる。
 そうした状況の中で、天一号作戦は開始される。
 戦艦大和を中心とする第2艦隊(司令官:伊藤整一中将)は4月6日、徳山沖を出撃し、豊後水道を通過して沖縄へ向かった。
 既にこの頃になると日本海軍の暗号は完全に解読されており、作戦は完全に筒抜けだった。帝国海軍のただでさえ低い対潜戦闘能力は技量低下と装備の不足によってさらに低下しており、本土近海にも米潜水艦隊は跳梁するようになっており、豊後水道を抜けると同時に米潜水艦に出撃が探知されてしまう。さらにF13(偵察タイプのB29)の航空偵察によって第2艦隊の出撃準備は察知されており、第7艦隊(司令官:スプールアンス)は万全の準備を整えてこれを迎え撃つ用意を整えていた。
 しかし、潜水艦からの報告には当初予定されていなかった未知の巨艦の存在を知らせていた。
 それこそ、日本海軍の最後の正規空母であり、未だに米軍のその所在を掴んでいなかった幻の巨大空母「信濃」だった。
 大和型戦艦の3番艦はミッドウェー海戦で南雲空母機動部隊壊滅を受けて、空母に改装されることになり、乏しい資材と既存艦の修理を優先の方針の中で必死の工事が続けられていた。一時はB29の空襲圏に入った横須賀から呉に移動させようという意見も出されたが、実際はどちらもB29の空襲圏であることが判明し、さらに艦内での火災事故などによりさらに工事が遅れることによって、取りやめになっていた。
 もしも、呉への移動が強行され、工事未了のままで航海に出て潜水艦の雷撃でも受ければ、信濃はダメージコントロールもままならないままに撃沈されてしまっただろう。しかし、火災事故という悪運による工事延長がなされ、呉へ移動することなく横須賀で工事が続けられた。
 さらに信濃には悪運が続き、最低限の工事が終了した後で呉に移動しようとしたその直前で米空母機動部隊による呉空襲があり、呉に在泊した鑑定の殆どが撃沈された大空襲を逃れることに成功している。それどころか撃沈、大破、中破した船から資材と装備を引き剥がすことによって残っていた未完了の工事を早期に完了させることにが出来ていた。
 米軍は日本軍の最後の獲物である巨大空母を血眼になって探していたが、徹底した対空擬装による偵察の目を逃れ、第2艦隊出撃のその日まで信濃は米軍の執拗な追跡を逃れることに成功していた。
 当初、この第2艦隊の出撃を知ったスプールアンス提督は戦艦による迎撃を考えていたが、艦隊に空母が伴うことを知って第58任務部隊(司令官:ミッチャー中将)に航空攻撃を命じた。
 この命令を受けて第58任務部隊の8隻の空母から400機の攻撃隊が発艦し、第2艦隊は激しい空襲を受けることになる。

2サラ:2007/04/20(金) 23:56:35
当初、スプールアンス提督は第1次攻撃隊のみで艦隊を全滅できると楽観しており、艦隊司令部も同様の楽観ムードに包まれていた。
 しかし、そうした楽観が裏切られるのにさほどの時間はかからなかった。
 信濃は当初から海上移動できる飛行基地としての役割が与えられており、飛行甲板には800kg爆弾に耐える装甲を施し、艦載機も全て戦闘機で固められていた。
 この時も、信濃には攻撃機は1機も搭載されておらず、露天繋止を含めて80機の戦闘機が搭載されていた。そして、その全てが海軍新鋭戦闘機である紫電改と烈風で固められていた。
 パイロットの全てが5機以上の撃墜経験をもつエースであり、1800馬力の誉エンジンを搭載し、やっとF6Fと互角に戦えるだけの性能をもつにいたった紫電改と組み合わせることで小兵力ながら侮れない戦力といえた。
 さらに三菱重工でテストが続けられていた烈風は帝国海軍初の完全なる2000馬力エンジンであるハ43を搭載し、艦攻なみの巨体ながら時速630kmを発揮する期待の新鋭戦闘機であり、この時信濃に搭載されていたのは試作機の僅かに2機ながらも零戦の再来として非常に期待されていた。
 信濃搭載機の迎撃、さらに陸上基地から発進した上空援護の零戦隊(100機以上)は帝都や八幡製鉄所の防空など、海軍航空隊が本土決戦と本土防空のために温存しようとしていた最後のまともな航空戦力であり、米軍の第1次攻撃隊の攻撃から第2艦隊を守ることに成功した。
 この時点で既に日本陸海軍の航空部隊では水平飛行さえままならないほどまでに練度が低下しており、護衛のF6FやF4Uを操る第2艦隊に信濃が存在し、上空援護の戦闘機が存在することが予想されていたにも係らず、完全に日本軍を舐めきっており、帝国海軍の最後の精鋭を集めた迎撃によって大損害を出すことになった。
出撃した400機のうち、25%が撃墜され、さらに半数が廃棄処分するしかないほどの損害を受けたことで第58任務部隊の面々はやっと相手がかつて真珠湾を炎上させ、ソロモンにおいて自分達を散々に苦しめた日本海軍であることを思いだした。
 さすがに陸上基地から発進した零戦隊は長時間の援護は難しく、特に戦闘機動となれば大量の燃料を消費するため第2次、第3次攻撃時には信濃の艦載機だけで対応するしかなく、第2艦隊にも被害がでた。
 しかし、攻撃は信濃と大和に分散され、多数装備された多連装対空ロケット砲の活躍もあり、有効な打撃を与えることはできなかった。
 さらに米空母機動部隊の関心が第2艦隊に集中した隙をつく形で、それまで沈黙していた基地航空部隊は米空母への反撃を開始し、500機を超える特攻機を発進させ、第58任務部隊は大打撃を受けることになる。
 米空母機動部隊の攻撃隊発進のタイムスケジュールを完全に読みきった上で放たれた特攻攻撃隊は第2艦隊への攻撃のために直援戦闘機の数を減らしていた第58任務部隊の殺到した。これは一種の飽和攻撃であり、航空機発進能力のキャパシティが大きい陸上基地ならではの大編隊攻撃だった。
 海上護衛総体から引き抜いた電探装備の96式陸上攻撃機(中古機)を誘導機として、未熟なパイロットが大半の攻撃隊をサポートさせ、多方向から同時攻撃を仕掛けた特攻攻撃隊は多数が直援のF6FやVT信管つきの高角砲、さらに対空機銃に撃墜されたものの、
30機以上が突入に成功する。特に1式陸攻を母機として艦隊上空で切り離され、ロケット推進で加速し、1tに近い爆薬で敵空母を葬りさる桜花はこの戦闘で空母ベローウッドを爆沈させるという大戦果を挙げ、さらに大型巡洋艦アラスカを大破させている。
 このころになると米海軍のダメージコントルールは完成期に達しており、特攻機の突入した空母はダメージコントルールによって速やかに火災を鎮火させ、軽微な損傷なら見る間に修復してしまう。おかげで特攻機が3機も突入したにもかかわらず、バンカーヒルやハンコックは沈没を免れる。しかし、飛行甲板を破壊され、離着艦能力を奪われた空母に戦力的価値はなく、特攻機の嵐が去った後に戦闘可能な空母はエセックスとイントレピッドのみという有様になる。事実上、艦隊は壊滅したといっても過言ではない損害だった。
 米空母機動部隊は第2艦隊の相手をするために日本海軍の基地航空隊の空襲圏にあまりにも長い間留まり続け、このときのために戦力を温存していた日本海軍の最後の攻勢を受けて、それまでの仇を討たれることになってしまったのである。
 さらに空襲に対する対処に時間をとられ、第58任務部隊がどうにか態勢を立て直したときには既に日没近くだった。

3サラ:2007/04/20(金) 23:57:08
それでもミッチャー提督は残存したエセックスとイントレピッドから夜間攻撃隊を発進させようとした。日本軍にはまともなレーダーがないために夜間戦闘能力は低く、攻撃隊を出せばそれなりの戦果が望めた。これはB29による夜間低空爆撃の大成功(東京大空襲)によって証明されており、昼間の失点を少しでも取り戻したいミッチャー提督の焦りの表れでもあった。
 しかし、そうした米軍の動きを日本側は完全に読みきっており、エセックスとイントレピッドには芙蓉部隊の彗星艦爆隊が忍び寄っていた。
 芙蓉部隊は美濃部達吉少佐を指揮官として、半ば海軍航空隊の独立空軍とも呼べる存在であり、海軍の組織としての末期的な混乱を示す部隊であり、同時に特攻を拒否して少数機による夜間銃爆撃(夜襲)による通常攻撃を主張し、実践して戦果を挙げ続けている異色の部隊だった。
 芙蓉部隊の夜間戦闘能力はこの時期の日本陸海軍の航空部隊の中では望みうる最高峰といっても差し支えなく、250kg爆弾を搭載した彗星艦爆は高速で艦隊上空に達すると「悪魔のような技量」を以ってエセックスとイントレピッドに250kg爆弾を命中させた。
 十分な運動エネルギーを与えられた250kg徹甲爆弾はそれだけでも十分に致命的な打撃だったが、夜間攻撃部隊の発進準備を進めていたエセックスとイントレピッドには燃料と爆弾、魚雷を満載した攻撃隊が飛行甲板に横たわっており、即座に誘爆したこれらはエセックスとイントレピッドを吹き飛ばしてしまった。
 これによって第58任務部隊の稼動空母が0となり、それまで1隻の沈没艦を出すことなく無敵艦隊の象徴ともいえたエセックス級空母が立て続けに撃沈されたことに大きなショックを受けたスプールアンス提督は翌朝を待って航空攻撃をによって第2艦隊の壊滅を主張する航空参謀の意見を抑えて夜間砲雷撃戦による迎撃を支持した。
 この時のスプールアンス提督の姿は憔悴は激しく、第58任務部隊の稼動空母が0になった時点で、「この戦いは我々の負け」だとも呟くほどだった。正規空母8隻を投入し、延べ400機の攻撃隊を送り込んで大和と信濃に与えた命中弾は僅かに爆弾2発、魚雷1発であり、反撃によってエセックス級空母3隻を失い、ほかの空母も全て被弾して戦線から脱落したことを考えれば、敗北と表現する他のない事態だった。

4サラ:2007/05/08(火) 00:10:37
 日本海軍の最後の組織的反撃となった坊の岬沖海戦は夜半過ぎにクライマックスに達した。
 米空母機動部隊の実質的な戦闘能力の喪失により、海戦の決着は水上艦同士の砲撃戦に持ち越されることになり、日米最後の夜間砲雷撃戦が開始されることになる。
 このとき、日本側は戦艦大和を中心に駆逐艦5隻を残すだけになっており、軽巡矢矧、駆逐磯風、浜風は昼間の空襲ですでに脱落していた。
 それに対して米海軍は戦艦だけでも6隻を投入しており、多数の巡洋艦、駆逐艦を引きつれ万全の状態で待ち構えていた。
 海戦は午前10時過ぎから始まり、レーダー装備の駆逐艦による哨戒線に大和以下第2艦隊が捉えられたところから始まる。
 既に第2艦隊の概略位置を掴んでいた米軍は第2艦隊の発見から1時間ほどで主力の戦艦部隊が現場海域に到着し、砲戦に突入した。
 このとき、戦艦部隊の指揮を執っていたリー中将が最も恐れていたことは、大和が夜陰に乗じて本土に逃げ帰ることや、接触に失敗して沖縄に到達することを許してしまうことだった。リー中将にとって、この坊の岬沖海戦は砲戦の専門家であった彼が手柄を立てる最後のチャンスであり、同時に彼が海軍士官になってからこのかた夢見てきた本物の艦隊決戦だったからである。もちろん、ソロモンやガダルカナルで指揮をとってきた幾多の戦いもリアルな現実の戦闘であるけれど、相手は駆逐艦や巡洋艦、大きくて巡洋戦艦だった。決して不満ではないし、もう一度やれと言われたら躊躇するほどの熾烈な戦いだったけれど、彼の夢見てきた「何か」とはほんの少しだが、違っていた。
 彼にとって、この海戦はやはりその「何か」とは少しだが違うものではあるけれど、相手は旧式の巡洋戦艦ではなく、ミステリアス・ヤマトクラスなのだ。この海戦に望む彼は日本海軍の理解しがたい行動(水上特攻作戦)には全く首を傾げているけれど、最後の最後で晴れの舞台を用意してくれたことについては感謝していた。
 最後の最後でこれだけの舞台を用意してくれたのだから、彼は最高の役者と演出を以ってそれに答えるつもりだったし、全く手抜かりなく迎撃の準備を整えていた。負けることはありえない。恐ろしいのは敵が戦闘を回避したり、臆病風に吹かれて尻尾を巻いて逃げ帰ることだった。
 そうした下らない結末を回避するために、彼は6隻の戦艦をあまりにも広範囲に分散配置させすぎており、また足の速いアイオワ型とサウスダコタ型の連携についても些か配慮が足りていなかった。彼は決して間違っていなかったけれど、大和の逃走や戦闘回避を許さないために足の速いアイオワ型だけを先行させて大和を拘束させるというのは無駄な配慮といえた。
どうして彼がこのような無駄な心配をしたのか?
それは彼にとって、特攻作戦のような明らかに組織的にみて末期的な戦い(ヤケクソ)を行なうようになった日本海軍に対する不信感が原因といえた。リー中将は日本海軍をこの頃既にプロのプレイヤーとは見なしておらず、精神異常者か狂信者の集団と見なしていた可能性がある。
不思議な表現になるかもしれないが、彼は日本海軍を信じていなかったのである。
 しかし、大和以下第2艦隊は見敵必殺の覚悟でこの戦闘に望んでおり、逃走や戦闘回避など全く考えていなかったのである。リー中将は余計な心配をすることなく6隻の戦艦を一度の全部投入していれば、この海戦はもっとも別の結末があったはずである。しかしリー中将は無意味な心配により、海戦は意外な結末を迎えることになった。
 日米は電探と逆探を併用して、ほぼ同時に彼我の戦艦を発見し、大和はそれから15分後には46サンチ砲の斉射を放っていた。
 このとき大和の前に立ちふさがったのは大和を遠距離からの牽制砲撃で大和の逃走を阻止する任務を与えられたニュージャージーとウィンシスコンだった。2隻の戦艦は遠距離から牽制の砲撃を行ないつつ、別働の4隻(ミズーリ、サウスダコタ、インディアナ、マサチューセッチュ)の到着を待つ予定だったが、ニュージャージーとウィンシスコンは牽制のためとはいえ、あまりに大和に接近しすぎていた。

5サラ:2007/05/08(火) 00:11:52
 米海軍の実質的な最大砲戦距離である35000m付近は実質的には米海軍にとっては安全距離といえた。16インチ砲や14インチ砲ではこの距離において命中弾を得るのはよほどの幸運がなければ不可能である。最新のレーダー射撃を使っても無理だった。特にアイオワ型の遠距離砲戦能力は高速の生み出すためのスマートな船体を採用しており、これに攻撃力を高めるために高初速砲(装薬が多いために反動が激しい)を組み合わせたことで軍事機密指定にされるほど命中率が低下していた。
 それに対して35000mは大和の18インチ(46サンチ砲)にとっては有効射程距離圏内だった。よってニュージャージーとウィンシスコンは一方的な砲撃を浴びることになる。2対1という数的優位がありながらも、それを生かす間もなく初弾命中によりニュージャージーが主砲塔直撃、貫通、弾薬庫誘爆による轟沈によって撃沈され、続いたウィンシスコンも退避する暇もなく大和からの5斉射を浴びて撃沈に追い込まれる。
 ウィンシスコンとニュージャージーの沈没から10分後にリー中将率いる残存の4戦艦及び巡洋艦、駆逐艦が戦闘に参加して、海戦は最高潮を迎えた。
 先頭を行く旗艦ミズーリは米海軍の常識を超えた距離から放たれる砲撃(彼らは最後まで大和が18インチ砲搭載戦艦であることに気付かなかった)によって、砲撃開始前に大破させられ戦線を離脱、2番艦のサウスダコタが砲撃を開始するころにはサウスダコタに2発の46サンチ砲弾を命中させていた。全ては長大な射程距離と大威力を両立させた46サンチ砲の勝利であり、米戦艦部隊は自らが戦闘の舞台に上がるまえにアウトレンジされ戦力の25%を喪失したのである。
 残されたサウスダコタ、インディアナ、マサチューセッチュの砲撃は熾烈を極めたが、距離25000mで46サンチ砲に砲撃にさえ耐える大和の重防御を撃ちぬくことは当然のように不可能な話だった。
 もちろん、戦闘開始から30分後には艦中央の高角砲郡や対空機銃も全壊しており、煙突、後部艦橋は軒並み凪ぎ倒れていたが、主砲と機関、その他戦闘能力を維持するために必要なものをおさめたバイタルパートは1発の主砲弾の貫通も許していなかった。
 それに対して、米戦艦は距離25000mにおいて、46サンチ砲の砲撃にバイタルパートの装甲はその意味をなさず、船体のあらゆる部分に砲弾の直撃、貫通を受けていた。サウスダコタが16インチ砲弾に耐えるはずの甲板装甲をボール紙のように撃ちぬかれ、船体、機関内部で爆発した零式徹甲弾により動力を奪い取られて戦線を脱落、続くインディアナは主砲塔と船体中央部を撃ちぬかれCICが壊滅、手の施しようのない大火災を起こして大破漂流した。
 最後まで粘ったマサチューセッチュは大和5発以上の16インチ砲を命中させていたが、大和の戦闘能力を奪うことはできず、逆に4斉射を浴びて5発の46サンチ砲弾を浴びて機関と推進軸に致命的な打撃を受けて漂流することになった。
 米戦艦部隊は壊滅し、砲戦は日本側の勝利に終ったのである。
 しかし、米戦艦の壊滅は海戦の終りを意味しておらず、米戦艦群が理不尽ともいえる46サンチ砲の圧倒的な暴力に曝されている間に米駆逐艦部隊が大和から3000mの近距離まで接近を果たしていた。
 機関の寿命を加速度的に縮めながら最高速力で突進した米駆逐艦部隊は第2水雷戦隊の残存部隊と激突し、圧倒的な物量によってこの防御バリアを突破し、至近距離から魚雷を放ったのである。
 この戦闘で2水戦は壊滅し、大和を駆逐艦の襲撃から守る戦力は消滅した。また、大和自信の防衛火器である副砲と高角砲は米戦艦との砲撃戦で破壊されており、有賀艦長に残されたのは武器は回避運動だけだった。
 この無謀ともいえる敢闘精神の発露といえた米駆逐艦の水雷襲撃は大和に6本以上の魚雷を一度の命中させて大浸水を引き起こしていた。もちろん、全て大型で炸薬量も多い最新のトーペックス炸薬を使用した艦船搭載型の53サンチ魚雷である。また、巡洋艦部隊も8インチ砲や6インチ砲を驟雨のように大和に浴びせかけ、大和の艦上では暴風を巻き起こしていた。

6サラ:2007/05/08(火) 00:13:17
 しかし、水線下を破る魚雷については再装填装置を持たない米駆逐艦では一度しか発射できず、大和に対して巡洋艦の8インチ砲や6インチ砲は実質的に無意味だった。大和の反撃によりすぐさま3隻の巡洋艦が轟沈させられている。
 大量の浸水で行き足が8ktまで低下した大和とそれを執拗に襲撃する米駆逐艦との先頭は夜明け方まで続き、実質的に大和を沈める手段のない米水上艦部隊と大量の浸水と雨あられと降り注ぐ小口径砲弾との悪戦苦闘を続けた大和が艦の沈没を避けるために奄美大島の海岸に乗り上げたことで戦闘は実質的に終了したと言えた。そして、これは日本海軍にとって戦争の終りを意味していた。
 なぜならば、全ての残存戦力となけなしの燃料を全て使い尽くした日本海軍の戦闘能力はここに完全に消滅したからである。
 日本海軍がその最後の力を振り絞ったとしても、大和が沖縄に突入することは不可能であり、それこそがこの時点の日本海軍のもっていた全てを出し切った上のベストを尽くした上の結論といえた。
 そして、全ての手札を絞りつくした日本海軍は戦闘の継続をやっと諦めたのである。
 1945年4月8日。戦艦大和が奄美大島で座礁したとの連絡が受けた横須賀海軍陸戦隊はかねてからの計画どおりに行動を開始、宮城、首相官邸や国会議事堂、陸海軍相、陸軍参謀本部、海軍軍令部、さらに主要な官公庁、放送局や警視庁を制圧したのである。
 終戦クーデターと呼ばれる一連の海軍の軍事行動により戦争継続を訴える陸海軍の強硬派は一斉に拘束、無力化され、天皇は完全な沈黙を守りとおして実質的な黙認を示すと即座に鈴木貫太郎を首班とする臨時内閣を組閣し、4月8日の深夜にはラジオを使って連合国向けに条件付き降伏を認める声明を発表した。
 こうした海軍の終戦に向けた動きは近衛師団を中心に陸軍の強い反発を呼び、一時的に日本は内戦状態に突入した。主に宮城と天皇奪回を目指す近衛師団と海軍陸戦隊が行なった帝都市街戦がそれにあたり、近衛師団の一部はバリケードと防御陣地を戦車隊の砲撃によって破壊しながら進む強引な作戦をとっていた。このことが天皇の耳に入り、逆鱗に触れたことから、昭和帝はそれまでの沈黙を完全に捨て去り、海軍の拘束下にあった阿南陸相に戦闘停止を厳命し、その命令を受けた阿南陸相が停戦の使者となり近衛師団の説得したことから帝都での戦闘は1週間程度で終結することになる。
 こうした一連の国内の混乱は東京から離れるほど拡大し、特に海を越えた大陸戦線においては政府からの停戦命令を無視して戦闘継続を叫ぶ強硬派が大半だった。
 それに対して、絶望的な沖縄戦を戦っていた第32軍やフィリピン南部で飢餓地獄を彷徨っていた第14方面軍では停戦命令から数時間後には米軍に対して軍使を派遣し、停戦のための交渉を開始している。比較的日本軍有利だった大陸戦線と米軍と相対し絶望的な戦闘を行なっていた太平洋戦線での意識に差をあらわすエピソードの1つを言えるだろう。
 混乱の集結には、天皇自らの玉音放送を待つ必要があったが連合国(米国)との交渉は混乱の最中にも継続され、戦後日本のアウトラインの基礎がこの時点で形成されていくことになる。
 まさしく、歴史の転換点ともいえる出来事といえるだろう。

7サラ:2007/05/08(火) 22:31:15
 日本と連合国との停戦は4月22日に発効し、太平洋から戦火は去った。しかし、これは第2次世界大戦の終結を意味するものではなかった。それでも、第2次世界大戦の結末は既に先が見えていたといえるだろう。
 同じ日に地球の反対側では絶望的な抵抗を続けていたドイツ軍がソ連軍のベルリン突入を許し、その8日後の4月30日にはヒトラーの自殺によってドイツ第3帝国は瓦解、さらに5月7日には新総統のカール・デーニッツが降伏文書に調印し、正式に第2次世界大戦は終結した。
 しかし、それは新しい戦争の始まりを意味していた。つまり、冷戦という新しい戦争である。
 特に満州の帰属を巡る問題は米ソ中を巻き込んだ大きな問題になっていた。
 日本は帝国海軍によるクーデター(終戦クーデター)により、ドイツ降伏直前になって条件付き降伏を受け入れ、日本と連合国との戦争は既に終っていた。太平洋における戦争は実質的には日本とアメリカの戦争であるので、連合国全てとの戦争というわけではないが、それでも実質的には戦争は終っていた。
 よって、ヤルタ会談による秘密協定によって定められたソ連の対日参戦はこの時点で無効化されたといえる。秘密協定ではドイツ降伏後の3ヶ月以内にソ連は対日参戦を行なう取り決めになっていたが、ドイツ降伏以前に日本は条件付きで降伏を受け入れ、太平洋戦争は終結していたのである。
 秘密協定によるソ連の対日参戦はドイツ降伏後の頑強に抵抗を続けるだろう日本を降伏させるための措置であって、既に日本が降伏を認めている以上は無意味といえた。
 こうした見地にたったアメリカの行動は非常に迅速であり、満州地域における日本軍抵抗勢力を武装解除するという名目により満州に陸軍を送り込み、米軍による満州地域の軍政統治を半ば既成事実化していくことになる。
 これはソ連と中華民国の激しい反発を呼んだが、ソ連は既に対独戦により疲弊しきっており、この上でアメリカとことを構えることは不可能だった。中華民国も日本との戦争で疲弊しきっており、米国の支援がなければ国家崩壊寸前だったことを考えれば、ここで最大のパトロンであるアメリカの威光に逆らうことは不可能だった。但し、満州の中華民国への帰属を確認したカイロ宣言の手前もあるため、最終的に中国中央部の内戦状態が解消された段階で住民投票によって満州はその帰属を決めるとされた。
 ソ連は対独戦に勝利したものの、国土が戦場になったことから国力は疲弊しきっており、スターリンは満州地域の制圧によって膨大な日本資産を略奪することにより経済の建て直しを図る計画を立てていたが、それは日本の早期降伏によりもくろみが外された。ソ連は戦争さえ辞さないという強硬姿勢で米軍の撤退を要求したが、アメリカ政府はその全てを黙殺した。
 こうしたアメリカの強行姿勢の背景にあったのは親ソ派だったルーズベルト大統領が脳溢血により死去し、反共主義者のトルーマンが副大統領から昇格してそれまで容共的な外交政策の転換を図っていたことが上げられる。
彼は何を考えているか分からないアルカイックスマイルの東洋人を好いていなかったが、それよりも共産主義とロシア人を嫌っていた。生理的に嫌悪していたとさえいえるかもしれない。
 特にポーランドやドイツの占領統治に関する問題について、スターリンが度々協定を違反していたことに業を煮やしており、日本の早期降伏につけこんで満州を米軍の軍政下におくことで溜飲を下げた格好だった。

8サラ:2007/05/08(火) 22:31:54
 アメリカにとって中国市場の獲得は永年の悲願であり、中華民国に肩入れしたもの、その過程で大日本帝国を潰したのも、中国という巨大な市場を手に入れるためだった。日本から派遣された停戦使節団は特にその点について強調し、米軍の満州派遣を強く希望していた。それはアメリカの国益に合致したし、反共主義のトルーマンの意向にも添っていた。
 内戦中の中国中央部よりも遥かに整った魅力的な市場である満州を手に入れたことはアメリカにとって今次大戦で手に入れた最高の果実とさえいえるだろう。
 こうしたアメリカの動きに対して、ソ連というよりはスターリンの対応は非常に直裁的なものだった。焦っていたといえるかもしれない。ヤルタ協定によって約束された極東の領土、利権の全てをアメリカに独り占めされようとしていた。彼には少なくともそう考えられた。ドイツ降伏によりポツダムで行なわれることになった米英ソの首脳会談に出発しようとしていたスターリンにとって、ポツダムで会談は極東の領土、利権分配を協議する会議でなければならず、その交渉で少しでも有利になるようにソ連の軍事力をアメリカに誇示する必要があった。
 そこで彼はソ連による南樺太と千島列島の占領を定めたヤルタ秘密協定に基づき、既に米軍の展開により手の出せなくなった満州ではなく樺太と千島列島への軍事的な侵攻を考えたのである。
 こうして一度去ったはずの戦火が北太平洋、オホーツク海に再び吹き荒れることになる。
 所謂、「継続戦争」の始まりだった。
 主戦場になったのは南樺太で、結局千島列島への上陸は見送られた。ソ連軍の準備は全く不足していたし、実際に南樺太へ侵攻したのはシベリア軍団から抽出された一部の戦車部隊と現地守備隊だけで、最初の1週間以降の軍事的な計画は全く立てられておらず、全く杜撰な侵略戦争といえた。
 その杜撰さはイタリアによりエチオピア侵攻か、ギリシャ侵攻に匹敵するほどの愚劣さで行なわれ、散々な失敗に終った。
 スターリンはアメリカに降伏した大日本帝国をドイツ第3帝国と同様の形骸に過ぎないと考え、簡単に南樺太を占領できると考えていたのである。
 そうしたスターリンの甘い考えを粉砕するように国境と防御陣地で日本陸軍は苛烈な抵抗を行なった。ツンドラ地形により戦車や重砲の移動がままならず、得意の機械力を生かせないソ連軍に対して陣地に篭って頑強な歩兵戦闘を行なった歩兵第125連隊の活躍によりソ連軍の進撃は完全にストップしてしまう。
 スターリンは航空兵力により事態の打開を図ったが、陸軍航空隊の本土防空部隊が千歳基地に進出し、制空戦闘を行なうようになるとそれも難しくなった。停戦協定により陸海軍機の飛行は禁止されていたが、トルーマン大統領は日本軍の行動を黙認し、それどころか航空機用ガソリンの供与など秘密裏に支援まで行い徹底的にスターリンの意図を妨害しようとしていたのである。
 日本政府は日ソ中立条約を完全に無視したソ連の攻撃を侵略として世界に訴え、自らの自衛行動の正当性を確保することにも成功。アメリカもこれに同調し、世界大戦終結によってやっと回復した平和を乱す悪の帝国としてソ連を徹底的に批判した。世界各国はやっと終ったはずの戦争をさらに続けようとしているソ連に対して嫌悪感を強めた。逆に大日本帝国には同情が集まったのである。
 日ソの戦闘はおよそ1ヶ月に渡って行なわれ、最終的に米空母機動部隊のオホーツク海進出とその圧倒的な海軍、航空戦力を背景としたアメリカによる停戦勧告をソ連が受け入れたことによって終結した。
 この継続戦争は、太平洋戦争とは明確に区分され、帝国陸海軍の行なった最後の戦争として記憶された。日本軍は南樺太の防衛に成功しただけではなく、ソ連の侵略を跳ね除けたことで敗戦という恥辱にまみれても国民の信頼を失わずに済んだのである。

9サラ:2007/05/09(水) 23:27:37
 辛うじて無条件降伏こそ免れたものの、天皇制の存続以外は全て白紙の降伏文書に調印することになった大日本帝国の運命は当初から過酷なものが予想された。
 しかし、ソ連の南樺太侵攻により米ソの緊張は一気に高まり、ポツダムで行なわれた米英ソの首脳会談が実質的に物別れで終ったことで、アメリカの対日占領政策は当初のそれから大幅な修正を強いられることになった。
 アメリカ政府は当初、日本の重工業及び帝国陸海軍を徹底的に解隊し、日本を軽武装の農業国として再出発させる腹積もりを立てていた。真珠湾、ソロモン、フィリピン、神風攻撃、そして沖縄での最後の決戦で示した日本軍の勇戦敢闘にアメリカは心底恐れを抱いており、永久に日本がアメリカにとって脅威にならないようにするために、徹底的に牙を抜くことを考えたのである。そして、それが成り立つ前提条件として、世界の2大超大国である米ソ協調による世界支配あった。
 もっとも、それは完全な絵空事に過ぎず、共産主義に対して無邪気な親近感さえもっていたルーズベルト前大統領の空想に近い戦後構想に過ぎなかった。その証拠に、米ソ協調による世界統治の道具を予定していた国際連合は拒否権と米ソの反目で設立当初から機能不全を起している。
 独立後に選挙によって民族自決の国家となるはずだった東欧諸国はソ連の支援を受けた共産主義政党の独裁国家となりはて、分割したドイツ国境では米ソの両軍は激しくにらみ合いを開始していた。
 極東アジアも例外ではなく、むしろ満州に駐留した米軍はシベリアと直接国境を接している分だけ、東欧よりも激しい緊張に曝されることになる。
 大連に連合国総司令部をおいたダグラス・マッカーサー元帥は満州を第2のフロンティアとして、ここに新たなるアメリカ合衆国を建国することを決意し、同時に共産主義の防波堤として満州国の存在価値を強く認識し、それをトルーマン大統領に進言したのだった。
 この進言を受けて、極東アジアにおける反共の砦として満州国の重要性を認識したアメリカは中華民国の抗議を無視する形で満州のアメリカ化を進めていくことになる。
 こうした情勢の中で、自然と日本には満州に駐留する在満米軍の後方支援基地として役割が浮上し、日本政府も積極的に自らの軍需工業力をアメリカに売り込んだ。中国大陸でも最も工業化されているとはいえ、満州国の工業インフラでは20万に及ぶ在満米軍を支えることなど不可能だった。そうなれば、残された選択肢はアメリカ本土から補給か、より近場の日本の工業力を利用するか、2つに1つになる。太平洋をまたがなければならない本土からの補給はコスト面から絶望的であり、アメリカが満州を手放さない以上は日本を後方支援基地として扱うほかなかった。
 戦争末期にマリアナ諸島から飛来するB29の戦略爆撃で日本の主要な工業地帯や軍需工場は打撃を受けていたものの損害は軽微であり、(史実においてB29の爆弾投下の大半が1945年4月以降に集中している。早期降伏した場合戦略爆撃の被害は極限される)工業原料と燃料資源の輸入が再開されれば、日本の工場群は直にでも再稼動が可能だった。
 日本の軍需産業は終戦から日本国防軍という形での軍の復活まで生き永らえることができたのは在満米軍の兵器修理、補修などの下請け仕事があったためである。
 中島飛行機や川崎飛行機、川西、昭和飛行機、愛知航空などの日本の航空機産業が生き残ったのも在満米軍の航空機の修理、補修の仕事があったからだった。実質的に40年代の日本にとって、軍需産業は重工業産業と同義語であったから、在満米軍のおかげで日本の近代重工業は生き残ったといっても過言ではない。
それどころか、アメリカ軍の高品質な航空機、トラックの修理、補修や様々な兵站物資の生産はそれまで品質管理や部品の標準化などまるで考えていなかった日本の工業界にとって大きなカルチャーショックであり、戦後日本の輸出産業の基礎を作ったといえる。
 戦前の日本の工業生産は員数主義に毒された安かろう悪かろうという前近代的なものほとんどであり、一部の高品位な製品は職人芸によって支えられていたといっても間違いではなかった。
 ただ単に大量の労働力を投入すれば生産性があがるという前時代的な発想が主流であり、それは勤労奉仕によって大量に狩り出された小中学生による戦時中の兵器の粗製濫造に繋がっていくことになる。
 「1機でも」という掛け声のなかで企業は粗製濫造に走り、出荷当初からマトモに動かない航空機エンジンが大量に生産され、日本軍の航空戦力は最初から壊滅したもの同然の状態になった。船舶生産でも大量建造された戦時標準船は戦前期に建造された輸送船に比べて簡単に撃沈された。それどころか機関の故障が頻発し航行さえままならないことが殆どで、修理待ちの船が港に溢れたのである。

10サラ:2007/05/09(水) 23:28:27
 結局のところ、大日本帝国は農業国に毛が生えた軍事力だけ突出した発展途上国に過ぎなかったと言えるだろう。本当は戦争どころではなく、他に何かやるべきことが沢山あったとしか思えない。それができなかったからこそ戦争が起きたともいえるが。
 日本の工業界に品質管理や標準化といった発想が持ち込まれたのはこの時期であり、後に世界語になるトヨタ自動車の「カイゼン」の萌芽ともいえるかもしれない。日本工業規格(JIS)が制定されたのもこの時期だった。
 こうして壊滅の危機から辛うじて脱出した日本の産業界だったが、戦後の数年は国内の経済的な混乱はやはり不可避だった。
 膨大な戦時国債については、戦後のインフレによって相当圧縮されたものの、それでも財政は火の車だった。GHQというよりはマッカーサー元帥は満州国にかかりきりであまり日本には注意は払っていなかったが、さすがに極度のインフレによる経済の混乱と壊滅的な財政状況を放置するわけにもいかず、緊縮財政や広範囲な経済統制を行なうように日本政府に指示を出している。
 それでも、日本国警察がその叡智を絞ったところで闇市場を完全に取り締まることなどできるはずもなく、配給制だけでは食べていけない市民が農村に買出しにいく情景が日常化していくことになる。
 庶民の生活は苦しく、日本経済は戦後の不況に喘ぎ、日本政府は殆ど身売り同然の覚悟で膨大なドル借款をアメリカに願い出るしかないところまで追い詰められるのである。
 結局のところ、第2次世界大戦の勝者はアメリカしかなかった言えるだろう。例え、聯合艦隊が米太平洋艦隊を撃滅し、有利な条件で講和したところで、日本経済は1942年の時点の既に破綻しており、戦争終結直後に大規模なドル借款をアメリカに依頼するしかなく、早晩に日本経済はアメリカ経済に取り込まれる運命にあったのである。さらにアメリカは追加打撃として、独占禁止法の制定とそれによる財閥解体を行い、ここに日本経済は一度アメリカ経済に完全に飲み込まれた。
 経済の民主化と平行して政治の民主化が進められ、婦人参政権の付与や普通選挙法や労働組合法の制定、教育制度の改革、農地改革がGHQの指示のもとで行なわれた。
 とはいえ、日本政府がGHQの意向に完全に忠実だったかといえば、そうでもない部分が多々存在した。
 例えば、廃止するように命令が出されていた治安維持法や特別高等警察は破壊活動防止法や公安警察といった名前だけを変えた法と組織に生まれ変わり残り続け、相変わらず社会主義、共産主義政党は政府の監視下に置かれ、非合法路線に走る過激派は徹底的な弾圧の対象になっていた。
 非軍事化の目玉として行なわれた公職追放は実際には形式的に行なわれたに過ぎなかった。東京裁判においてもA級戦犯は罪一等を減じられ、終身刑が最高刑とされたし、BC級戦犯についてはその多くが証拠不十分で不起訴処分となっている。
 新憲法についても同様で、実際は明治憲法の焼きなおしであり、GHQはその一部(天皇を主権者から国家元首に変更し、統帥権の独立の明確な否定を盛り込んだ。また基本的人権等を明記)程度の干渉に収まっている。
 冷戦激化、特に極東アジアの緊張の高まりは日本の非軍事化などといった非現実的な政策の遂行を不可能にしており、米軍の主力が満州に駐留する以上は南樺太の防衛などは日本の自前の軍事力を保持しなければならなかった。

11サラ:2007/05/09(水) 23:30:05
 そうした、現実的な要求により1947年には早くも再編成(実質的な組織解体)を終えた新生日本軍がその姿を現すことになる。新憲法施行を祝う軍事パレードがそれにあたり、東京中心部と皇居前を通過した戦車隊はそれまでの日本軍のイメージを一新するかのような強力な機械力を国民に披露した。
 再編成された日本軍はその名を国防軍と改め、新たな軍種として空軍を含む陸海空の3軍によって構成されている。
 陸軍においては、太平洋戦争や日中戦争などの無謀な侵略戦争の原因は陸軍の暴走にあるというアメリカの強い主張から徹底的な組織解体が行なわれ、その戦術思想から装備、士官将校教育、兵員教育にいたるまで全てが完全なアメリカ式に改編されており、士官の多くも戦時中の予備士官から構成されており、戦前の帝国陸軍とのつながりは徹底的に断絶していた。
 国防陸軍は本土防衛に最低限必要な12個師団を揃え、その内1個師団が戦車師団及び空挺師団となっていた。
 戦車師団は南樺太に配置され、他の2個機械化歩兵師団もそれぞれ南樺太と北海道に配置されている。戦車師団、機械化歩兵師団の違いは保有する戦車大隊の割合の違いだけで高い機動力と衝撃力をもつ装甲化部隊である。
 装備は被服から小銃、戦車、通信機、トラックや果ては糧秣に至るまで全てアメリカ製となっていた。国防陸軍の再装備には第2次世界大戦中に大量生産され、その後の軍縮によって余剰になっていた中古装備が用いられている。
 一時期は旧軍の装備の利用も検討されたが、経済的な理由と軍需企業の多くが在満州の米軍の下請けによって食いつないでいる状況ではとうてい不可能だった。旧軍の弾薬や兵器の生産ラインは殆どが在満米軍向けの米国式装備の生産に転換され、旧軍装備の生産や保守管理は不可能になっていた。
 憲法施行記念と再軍備の記念に東京でパレードを行なった戦車隊の装備車両が4式中戦車や5式中戦車ではなく、M4中戦車だったのはそのような理由によるものだった。
 とはいえ、太平洋戦争で苦杯を舐め続けた日本軍戦車兵にとってM4に乗れるのはそう悪い話ではなかったし、通常の歩兵師団でさえ米国から供与されたトラックや装輪車両、ジープ等により完全な自動車化師団となっていたのだから、量は最盛期の半分以下になったとはいえ、質の面ではその戦力的価値は旧軍最精鋭だった近衛師団を凌駕するほどのものといえた。
 歩兵の装備においても、旧式なボルトアクションライフルだった38式歩兵銃や99式小銃から太平洋戦争において日本軍の万歳突撃を粉砕したM1ガーランドに切り替わり、BARやM2重機などの強力な銃火器を与えられた旧軍の下士官はかつてこのような装備があればあれほど苦戦することはなかっただろうと旧軍装備のレベルの低さを悔んだという。
 とはいえ、新生国防陸軍は書類上では十分な戦力を揃えているかのように見えたが、憲法により徴兵制が禁止され、さらに戦後処理において陸軍は特に軍国主義の扇動したとして槍玉に挙げられることが多かったために志願者が少なかった。よって兵員の充足率は6割程度で、本土の空挺師団と富士教導旅団を除けば本州にある師団は将校と下士官の占める率が異常に高いスケルトン状態だった。
 戦車隊や歩兵の行進に続いて、東京都民のにぎわせたのはスモークを炊きながら鮮やかなアクロバットを見せる国防空軍の新鋭戦闘機だった。
 大日本帝国は最後まで空軍をもつことがなかったため、国防空軍は日本にとって完全な新軍種であり、その創設と訓練には米陸軍航空隊(米空軍)があたり、帝国陸海軍航空隊との連続性は全くない。
 その証拠として、主力戦闘機として採用されたのは液伶式のマリーンエンジンを装備したP−51(後にF−51)があり、その装備機の殆どが空冷式だった陸海軍航空隊とは趣を異なるものにしている。
 主力戦闘機として採用されたP−51は第2次世界大戦最強の戦闘機と戦歴誉高く、太平洋と欧州で日独の戦闘機を圧倒した戦歴からしても、その採用は妥当なものといえた。

12サラ:2007/05/09(水) 23:30:50
 とはいえ、国防空軍が手にいれたのはH型のような最終発展モデルではなく中古のC型やD型が分解梱包された状態で日本に供与され、中島飛行機や三菱重工で組み立てられた上で空軍に納入された。
 それでも零戦や隼で最後まで戦うことを強いられた陸海軍の生き残りのベテランパイロットにとっては、世界大戦最強の戦闘機を飛ばせることは純粋な喜びであったとされている。
 攻撃機としては、余剰品だったB−26が採用されたが直にA−26が供与された。A−26は高速攻撃機で旧軍の銀河を超える高速と爆弾搭載量を与えられた優秀機だった。実際に60年代半ばまで米軍でも運用され、最後の機が退役したのは1966年である。 M2重機を機首に8門搭載した対地掃射タイプは輜重品を積んだトラックの補給段列攻撃に対して大きな威力を発揮している。
 その他、練習機や連絡機、輸送機にいたるまで全て米国製が採用され、旧軍の航空機は全く採用されていない。
 また、長大な後続能力をもつ4発爆撃機も配備されておらず、戦闘に比して攻撃機の数は少ない。さらに米空軍が持たない多数の高射砲部隊を保有している。よって国防空軍は対地攻撃よりも制空戦闘、防空能力に重点をおいた組織といえる。
 これは圧倒的な物量を用意できる米空軍ならともかくとして、日本ではそこまで大量の物量を用意することは不可能であり、少ない予算と資材のなかで爆撃機や攻撃機をそろえるよりも、比較的コストも安い戦闘機を大量配備し、友軍の地上部隊や艦隊に航空機の傘を差すことで支援する防空軍の方が有効であるという結論に基づいていた。
 実際に、潤沢とはいえない予算で十分な数の爆撃機と攻撃機を配備し、同時に制空権を獲得する戦闘機の配備を行なうことは不可能であり、防空一本に狙いを絞った国防空軍の先見性は高く評価されるべきだろう。
 最後に国防海軍の説明となるわけだが、その前に戦時賠償として連合国に引き渡された帝国海軍艦艇について述べる。
 太平洋戦争終結が4月になったことで、B29の戦略爆撃の被害が最小限に抑えられたが、他にも損害が抑えられたものがある。つまり、米空母機動部隊の空襲で撃沈されるはずだった帝国海軍の残存艦艇である。
 特に呉には燃料不足で逼塞していた多数の艦艇が残されており、これらは米空母機動部隊の本格的な襲撃を受けるまえに日本は降伏したために、燃料の補給と補修さえ行なうことができれば再稼動させることは容易だった。
 しかし、既に日本の財政状況は壊滅的な状況であり、艦隊再建など望むべくもなかった。さらに戦時賠償問題の支払いもあって、これらの艦艇を戦勝国に引渡し賠償金として充てることになったのである。

13サラ:2007/05/09(水) 23:31:20
 連合国に引き渡された艦艇は以下のとおりである。
 戦艦、榛名、伊勢、日向、長門
 空母、伊吹、天城、葛城、竜鳳、隼鷹、鳳翔
 巡洋艦、妙高、高雄、青葉、利根、大淀、北上
 海防艦等多数
 このうち、天城と葛城は引き取られたフランスとオーストラリアで工事を完了させ、それぞれの海軍で長期間にわたって活躍している。戦艦は米国に引き渡された長門は原爆実験に使用され、他の戦艦はスクラップとして処分されている。
 巡洋艦については、引き取り手が多数あり、ソ連も戦時賠償として強く要求したが1隻も引き足されることなく、西側諸国に引き渡され、その後は中南米、さらに東南アジア諸国で改装を繰り返しながら長く旗艦や主力艦として親しまれている。
 駆逐艦は海軍再建のために研究用途を残して接収を免れており、松型駆逐艦や秋月型駆逐艦が新生日本海軍の礎となるのである。
 また、大和と共に菊水作戦で沖縄を目指した信濃は、米海軍の執拗な追跡を振り切って日本海へと脱出した。その後、触雷によって損傷して座礁したものの、奄美大島の海岸に乗り上げた大和を解体処分することで得たパーツで稼動状態に復帰し、1947年の再軍備に際しては国防海軍の旗艦としてその威容を横須賀市民に見せ付けていた。
 米軍は信濃の引渡しを要求していたが、海軍はこれに激しく抵抗し、「戦争を終らせた海軍」という国民の根強い人気を背景に折衝を重ね、信濃の引渡しをついに断念させたのだった(その代わりとして、長門が原爆実験に供されることになった)。
 アメリカは日本を再武装する際に、徹底して組織解体を行い米国式装備、編成、教育制度をもった全く新しい日本軍を作り上げたが、海軍だけはその例外であり、その再建については最低限の助言を行なっただけで、後は余剰物を供与するだけに留まっている。
 これは自分達をソロモン海やフィリピン、そして沖縄近海で徹底的に苦しめた日本海軍について、全幅の信頼を置いていた証拠であり、その信頼にこたえるかのように1947年の再軍備の際においては、米海軍の前で見事な艦隊運動を披露している。それはともても敗戦から僅か2年の海軍とは思えない練度であったという。
 今だ日本は連合国の占領下にあったものの、その軍事力は独立を守るのに必要十分なレベルに達していた。このことはアメリカの対日政策において大きな影響力を発揮したといえる。つまり、アメリカの極東戦略において、かつての日英同盟があったようにアメリカの極東権益を守る番犬として日本を位置づけ、日本を被占領国ではなく共通の敵をもつ同盟国として認識するようになるのである。
 しかし、最終的な結論が出るまでにはもう一度血が流れなければならなかった。
 つまり1948年の中華人民共和国(共産党政権)の建国と南部に逃れた中華民国(国民党政権)との休戦、そして1950年の中華人民共和国による中華民国への奇襲攻撃、中華南北戦争を待たなければならなかったのである。

14サラ:2007/05/19(土) 10:04:18
中国大陸における内戦の歴史は古い。
19世紀末から清朝が欧米列強の帝國主義の脅威に曝され弱体化したことにより内戦、反乱が頻発した。太平天国の乱、義和団事件がそれにあたり対外戦争の相次ぐ敗北により清朝の滅亡は確定的になった。さらに辛亥革命により清朝が倒れ、中華民国が成立してからも地方軍閥の専横や抗争が耐えなかった。各地で生まれた軍閥は離合集散を繰り返し、お互いに争いあった。
さらに共産主義革命を掲げる中華ソビエト(後の中国共産党)が誕生してからは、軍閥連合軍の国民党軍がそれを徹底的に弾圧したが、共産ゲリラを壊滅寸前にまで追い込んだが日中戦争により国共合作し、抗日という題目のもとに軍閥が結集したことで一時的に中国大陸は1つに纏まることになる。
しかし、そうした連合が長く続くわけはなかった。
日中戦争が最も激しかった時点でさえ、国民党軍と共産党軍はお互いを牽制しあっていたし、小競り合いは日常的に起きていた。日本軍との正面戦闘で兵力を損耗することを恐れた両軍はしばしば味方であるはずの相手を見殺しにすることさえした。
そうした不健康かつ不安定な連合軍は1945年4月の日本の降伏により速やかに崩壊に向かい、すぐさま全面的な衝突が始まった。大日本帝国の降伏から僅かに1ヶ月足らずのことである。
戦闘は250万(民兵を含む)にものぼる国民党軍の圧勝であるかと思われたが、いざ蓋をあけてみれば国民党軍の散々な敗北に終った。
よく訓練され、機能的な組織を持ち、高い士気と指揮統制能力をもっていた共産党軍に対して、国民党軍は兵力や装備そこ米軍からの無尽蔵の支援によって優勢だったものの、近代的な戦争を行なうには指揮統制能力に欠け、さらに軍閥連合という点から連携も悪く、内部の政治的な対立から足の引っ張り合いに終始しており、戦力を完全に発揮するには程遠い状態だったことが敗北の原因だったと言える。
さらに既に中国民衆の支持は蒋介石から離れていたことも大きかった。
1937年に以来、長期に渡った大日本帝国との戦争により中国全土は荒廃しきっており、特に蒋介石の権力基盤であった都市部の富裕層、地主、企業家、資本家などは軒並み戦火によって財産を失っていた。さらに蒋介石の独裁体制による汚職、腐敗が横行しており、官僚組織は疲弊の極みともいえる状態だったこともマイナスに働いている。
当時の日本も敗戦後のハイパーインフレによって国民の殆どが貧困層になっていたが、実際の戦場になった中国はそれ以上に劣悪な状態だったのである。そうした状況のなかで比較的まとまった権力基盤として生き残っていたのが地方の農民層だった。毛沢東率いる中国共産党は農民有利の共産主義的な農地改革によって地主層を倒し、一気に農民層の支持を広げたのである。都市部に支持基盤をもっていた蒋介石の国民党は戦火によって支持層を失い、共産党軍は戦火によって支持層を得たともいえる。
そうした共産党軍の政治的攻勢により、権力基盤が弱体化し、民衆の指示も失っていた国民党軍は日本帝国から奪還したばかりの北京から逃亡し、南部の南京に遷都を宣言したのが1948年のことだった。
首都防衛部隊には死守命令を出しておきながら自分だけは中国歴代王朝の至宝、財産を抱えて夜逃げ同然に逃げだす蒋介石と民衆の歓呼で迎えられた毛沢東の対照的な姿が、この時の中国における情勢を如実に物語っている。民衆は蒋介石ではなく、毛沢東を選んだのである。
そして、北京では毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言し、これで一気に中国大陸は統一されるかのように思われた。
しかし、中国共産党軍は勝利を重ねながらもこの時点で内部崩壊寸前だった。
なぜならば、北京解放までに使った戦費により既に彼らの財布は空っぽに近い状態だったからである。ソビエトの支援を受けてさえも、彼らが保有していた膨大な兵力を支えるには不足だった。(ソビエトの独ソ戦の後遺症で財政的に困窮を極めていた)
もしも仮に大日本帝国が占領していた満州、満州国がソ連に占領されていたとしたら、そこに存在した膨大な日本資産がソ連か、或いは中国共産党に奪い去られ、降伏した日本軍の膨大な兵器が中国共産党軍に引き渡されていただろう。そうして力を蓄えた中国共産党軍は国民党軍を圧倒し、一気に中国全土を統一していたかもしれない。
しかし、満州は米軍の軍政下に置かれることになり、ソ連も中国共産党も満州には指一本触れることはできなかった。日本の在満資産は米国の監理下におかれ、日本軍の兵器は全て国民党軍の引き渡されたのである。

15サラ:2007/05/19(土) 10:04:49
膨大な日本資産を得ることができず、日本軍の兵器もまたソ連からの供与のみにたよる中国共産党軍は連戦連勝によって消耗し、崩壊の瀬戸際に立っていた。満州の米軍は直接介入こそしなかったものの、常に国境に一定の警戒のために兵力を貼り付けておく必要があった。また、ソ連からの援助物資の満州鉄道ではなく、モンゴル経由や中央アジアからトラックで細々と送られてくるばかりであり、その輸送効率は劣悪といえた。
南京に遷都した国民党が辛うじて生き残ったのは、そうした背景によるものだった。
北京に入城した毛沢東がラジオ放送で中華人民共和国建国と中国南部のパルチザン蜂起を呼びかけたのは、婉曲な表現で自らの限界を認めたに等しい。
国連というよりは、アメリカの調停により停戦を受け入れたのも同じ意味である。
以後、中国大陸は長江を国境線として、南京の中華民国と北京の中華人民共和国の南北に分断され、長大な国境線を挟んでにらみ合いの状態が続くことになる。お互いに北と南の京に首都を有し、それぞれが自国の正当性を叫ぶ姿はさながら鏡の映った自分の姿に吼える犬に似ている。
6世紀の南北朝時代の再来ともなったこの中国大陸の分裂は1950年まで続く。
停戦合意から1950年6月25日の間は、国境は緊張しながらも平穏だったが、これは息切れ寸前だった中国共産党にとって、態勢を立て直し、大陸統一のための最後の攻勢を行なう準備期間といえた。
平和とは戦争と戦争の間にある次の戦争のための準備期間であるというは古代ローマの金言であるが、毛沢東は正しくこれを実行したのである。停戦によって安全になった海路を通じて大量の戦略物資、兵器がウラジオストックから運び込まれ、中国共産党軍は息を吹き返したのである。さらにこれ以上の戦火拡大を望まない西側諸国に対しても停戦遵守をアピールし、平和ムードを醸成することを忘れなかった。
この中国共産党の計略に乗せられたのはもう一方の当事者である蒋介石だった。アメリカの情報筋がもたらす共産党軍の活発化や港に運び込まれる大量の兵器に関する情報を握りつぶし、かつて国共合作において両者の仲を取り持った周恩来の説く国共統一国家に傾倒した。
こうした蒋介石の態度にアメリカは半ば愛想を尽かし、そして政府内部の親ソ派シンパによる工作活動もあってアメリカからの支援は削減される。国民党軍の再建は遅々として進まなくなる。また、財政状況はさらに悪化した。
そして、1950年6月25日を迎えて、やっと蒋介石は自分の過ちに気付くことになる。その時は既にどうにもならなくなっていた。
北中国軍は周到な準備を整えており、ゴムボートや高速艇により速やかに工兵を渡河させ、深夜にもかかわらず渡河作戦を成功させた。
これはソ連でもまだ生産が始められたばかりのK-90水陸両用軽戦車を優先的に供給され、強力な火砲を備えた装甲車両が反撃にでた国境守備隊を圧倒したことが大きく作用していた。
ソ連は第2次世界大戦後半に、反攻作戦を行なった際にドニエプルやヴィッスラ、オーデル河など無数の河川防御陣地に遭遇し、渡河作戦において多大な損害を蒙った苦い経験があったために水陸両用戦車の開発には並々ならぬ熱意で望んでいた。既に大戦前からソ連はT-33、T-37、T-38、T-40など多数の水陸両用戦車の開発を続けてきたが、K−90はその経験を生かした強力な水陸両用戦車であり、後に25000両も大量生産されたPT−76軽水陸両用戦車のプロトタイプといえる戦車だった。
北中国軍の攻撃は奇襲となり、電撃的な渡河作戦の成功。そして、コマンド部隊によって幾つかの橋梁も無傷で奪取されたことでT−34/85が迅速に南中国に侵入、900両に及ぶ圧倒的な戦車戦力により開戦から1週間で南京は陥落することになる。
南中国軍が北中国軍の一方的な侵攻を許した背景にあったのは対戦車戦能力を著しい不足があった。南中国軍(国民党軍)はそれまでライフル弾で正面装甲を貫通されるような貧弱な日本軍の戦車との戦闘しか経験がなく、またその数も少数であり対歩兵戦ならともかく本格的な対戦車戦経験がなかった。また、国民党軍が入手した大量の日本軍兵器についても最も上等な対戦車兵器は1式47mm速射砲がせいぜいであり、独ソ戦においてドイツ軍を震え上がらせたT−34の最終モデルであるT−34/85を相手にするには全く役不足だったのである。また、切り札のはずだった米軍のM1バズーカは火薬の経年劣化により使用不能になっており、T−34を先頭にして前進する北中国軍を止めることは不可能だった。

16サラ:2007/05/19(土) 10:06:20
 また、北中国に対して優性なはずの航空戦力も開戦と同時の基地攻撃により地上で大半が破壊され、無力化されていた。
 首都陥落により広州に遷都した蒋介石は徹底抗戦を指示し、アメリカに支援を要請した。
 しかし、それ以前に満州のGHQとその司令官であるマッカーサー元帥は北中国に対する戦闘を開始しており、在満米空軍による北中国爆撃も既に始まっていた。これは完全なマッカーサー元帥の越権行為(暴走)であるが、6月27日には国連安全保障理事会でソ連が欠席する中で北中国弾劾決議案が採択され、その行動には国連とトルーマン大統領のお墨付きが与えられることになる。
 国連の安保理で弾劾決議が採択されたことで国連軍が編成されることになったが、既に戦況は絶望的であり、蒋介石の死守命令も虚しく全戦線において南中国軍は壊走し、戦線は崩壊してしまう。
 この時、華南に押しこまれた南中国軍と国連軍先遣部隊(実際は米軍)の最後の頼みの綱となったのが、米海軍空母機動部隊による航空支援だった。
 米空軍の華南、台湾への展開は遅れており、無線一本で直に航空支援を行なえる戦力は空母機動部隊の艦載機しかなかった。実際に、この中華南北戦争において核兵器の実用化によって無用の長物扱いされるようになっていた空母機動部隊は戦術レベル、戦域レベルにおいてその有効性を再認識されるようになる。
 現在では、地域紛争が勃発すればアメリカ大統領はまず最初に最も近くにいる空母がいつ展開できるのが確認するほどその信頼を勝ち得ているが、当時は核兵器の開発成功により廃棄処分寸前まで追いこまれていたのである。
 そしてこの時、中国大陸沿岸において必死の近接航空支援を行なう米空母機動部隊の中に日本国防海軍の姿もあった。
 正式にはまだ日本は連合国の統治下におかれていて独立していないので、米軍の一部隊という扱いであり、軍艦旗も日章旗ではなく国連旗だったが、その艦隊を動かしていたのは間違いなく日本人だった。
 米第7艦隊の指揮下に置かれた国防海軍第1艦隊(旗艦:信濃)は苦戦する南中国軍を支援するため連日の出撃を繰り返していた。
 この時の信濃は、帝国海軍時代の信濃とは若干ながらその容姿を変化させていた。
 特に艦橋回りの艤装品は大きく変化しており、帝国海軍の電探は撤去され米国製の電探や電探連動の高角砲射撃統制装置が複数装備されていた。また、対空火器も帝国海軍のホチキス25mm対空機銃から米海軍ご用達のエリコン20mm対空機関砲やボフォース40mm機関砲に換装されていた。高角砲も89式12.7サンチ高角砲から米海軍の5インチMk38両用砲に変更されている。信濃は船体と乗員は全て日本製だったが、装備についてはことごとくが米国製に変更された日米の最高の技術がそそぎこまれた異形のキメラである。
 艦載機はかつて日本海軍機を苦しめたF4Uとされ、2000馬力級エンジンにものを言わせた高速戦闘能力と日本軍の重爆なみの爆弾搭載量によって前線における近接航空支援に威力は発揮した。
 空母部隊が黄海、南支那海において展開した航空撃滅戦により当初は800機を数えた北中国空軍は壊滅寸前にまで追い込まれ、航空援護のないT−34の戦車旅団は次々に壊滅した。建設されたばかりの米空軍もB29やB26を持ち出し、激しい爆撃を加えた。
 しかし、そうした無制限の航空支援をもってしても人海戦術を展開する北中国軍を完全に阻止することは不可能だった。
 航空機は永遠に戦場に留まることはできなかったし、夜間の近接航空支援は技術上の問題で不可能だった。
 大量の迫撃砲を運用する北中国軍は前線において、数百門の迫撃砲で砲撃の雨を降らせて火力で南中国軍と米軍を圧倒し、その砲撃の雨のなかで突撃してくる自殺的な突撃によって米軍は戦場神経症になって倒れるものが続出した。
 200万に達する歩兵、民兵を肉弾攻撃として米軍陣地を正面から強襲し、これを死体の海に沈めたのである。
 こうした絶望的な状況を打開するために、国連軍というよりは米軍は禁断の封じ手に手を伸ばした。
 すなわち、原子爆弾の実戦投入である。
 既に原子爆弾自体は1945年に完成していたが、実戦投入するまえにドイツと日本が降伏したため第2次世界大戦には間に合わなかった。このことをさして膨大な国費を無駄遣いしたことで後に物笑いの種になるわけだが、もしも帝国海軍が終戦クーデターをおこさず、大日本帝国が絶望的な抵抗を続けていたとしたら、原子の炎に焼かれたのは日本人だったかもしれない。

17サラ:2007/05/19(土) 10:06:51
 ともあれ、実戦で使う機会のなかった原子爆弾をこの期に実戦投入し、その圧倒的な破壊力をソ連や北中国に見せつけ、実戦データを集めることは大きな意義があるとされた。崩壊寸前の戦線を支えるには原爆投入しかないというマッカーサー元帥の強い意向に押される形で原子爆弾の実戦投入が決行されることになる。
 原爆搭載機に選ばれたのは最新鋭のジェット爆撃機のB−47だった。ストラトジェットと呼ばれた純ジェット推進のB−47はドイツから手に入れた後退翼の情報をもとに再設計を繰り返してようやく完成にこぎつけたアメリカ航空技術の粋を集めた最新鋭機だったが、純ジェットの燃費の悪さから航続能力が短く、爆弾搭載量も米空軍の爆撃機としては少量だった。
 しかし、搭載していた兵器の破壊力はその爆弾搭載量を補ってあまりあるものであったし、そのような兵器を運用するために開発された爆撃機なのだから、少ない爆弾搭載量は最初から折込済みだったといえるだろう。
 北中国軍のいかなる迎撃機も手の届かない高度1万5千mの高空を時速900kmの高速で突入したB−47は強化型原爆を北中国軍の大規模物資集積所に投下。原子の炎はTNT換算で100ktの爆圧と熱風を生み出し、物資集積所とそれに付随するあらゆるものを吹き飛ばした。
 さらに翌日には北中国軍の厳重警戒をものともせずに楽々と北中国上空に侵入したB−47が強化型原爆を北中国軍の5個師団の上に投下、これを一瞬で壊滅させた。
 ここに至って、完全に北中国軍の動きはストップすることになる。
 ファッツマンとリトルボーイと呼ばれていた2発の強化型原爆が齎した被害については、戦時中であることと共産国の情報閉鎖のために長らく正確な数字が分からなかったが、ペレストロイカによって公開された資料によれば50万人を越えているとされている。
 北中国軍の動きが完全に停止した時間的猶予を利用して、態勢を立て直した国連軍は原爆によって士気低下を来していた北中国軍に反撃を開始、開戦から約半年ほどで元の国境線まで戦線を押し戻すことに成功する。
 ここで国連軍というよりは、米国は大きな決断を迫られる。
 すなわち国境を越えてこれを期に中国大陸を完全統一してしまうか、それとも長江の国境線で進撃を止め、北中国に停戦を呼びかけるか、という二者択一である。
 国連の安全保障理事会の非難決議はは北中国の侵略に対する軍事制裁を認めていたが、それは北中国の完全なる殲滅を是認するものではなかった。すくなくとも、長江を越えて北中国へ侵攻する理由にはならない。
 ここに来て国連において話し合いによって中国問題を解決しようという機運が両陣営の内部に芽生えることになる。特に追い詰められていた北中国にとってはこれを期に停戦に持ち込みたいのが本音だった。既に北中国軍は開戦当初に保有していた数百両の戦車は悉く壊滅していた。航空戦力も同じである。既に北中国軍はこの時点で烏合の衆に近い状態まで士気が低下していたのである。
 それに対してアメリカの緊急避難行為という側面があったものの、原爆の齎した凄まじい被害とその非人道性が調査によって明らかになるにつれて、国際的批判の矢面に立たされることになり、これ以上の戦争継続は難しくなっていた。
 双方の現実に対する妥協という健全な思考の末、戦争が国連のテーブルの上に移ろうとしていたが、一人だけ空気が読めない人間がいた。蒋介石だった。
 北中国軍が既に崩壊寸前であることを掴んでいた蒋介石は国連にも、アメリカにも無断で軍を動かし、休戦合意のしらせを受けて油断していた北中国軍の不意を撃つ形で長江を渡河し、北中国本土になだれ込んだのである。
 双方の外交努力をぶち壊しにした蒋介石の暴走に引きずられる形で、マッカーサー元帥の独断により北中国本土への戦略爆撃が強化され、戦火は北中国全土に拡大する。
 蒋介石とマッカーサー元帥の暴走に引きずられる形でアメリカ本国でも北中国の完全な壊滅と蒋介石による中国統一を掲げる強硬派が勢力を盛り返し、戦争は継続されることになった。
 この間に日本が行なっていたのは、信濃を中心とした空母機動部隊による対地攻撃支援と黄海の掃海だった。

18サラ:2007/05/19(土) 10:07:44
 黄海には北中国軍が大量に敷設した機雪原が存在し、北中国に侵攻した国連軍は海上からの補給路を設定する上で重大な障害になっていた。そこで掃海作業について、日本近海は第2次世界大戦中にB29から空中投下した機雷を処理したことで高い経験と技術を持っている日本国防海軍にその任務がわりあてられ、その期待に答える形で予定の70%の時間で掃海作業を終えてアメリカ海軍を驚かせている。
 圧倒的な物量と潤沢な補給、そして無限に近い航空支援に支えられて南中国軍は北上を続け、遂には北京の占領に成功する。
 しかし、既にこの時南中国軍の兵站線は延びきっていた。また、追い詰めたはずの北中国軍は延安等共産党の支持勢力が強く、要塞化された山岳地帯に逃れており、これを撃破することは容易ではなかった。
 手詰まりとなった戦況を打開するために、B29により絨毯爆撃を行い、数万発のナパーム弾で親共産党の村を焼き払ったが、毛沢東と共産主義を支持する数億人の農民層の抵抗の意思を挫くことはできなかった。むしろ、南中国軍は各地で行なった非人道的な赤狩りによって農民層を完全に敵に回していまい、都市部以外は全て敵という状態となって、国連軍は人民の海に沈められる寸前にまで陥っていた。
 そして、中国北部が冬季に入り、それまで米軍が経験したこともない寒波に襲われたとき、北中国軍の反撃が始まる。
 雪交じりの風に曝されながら雪原を前進する北中国軍の先頭に立っていたのはおなじみのT−34/85ではなく、ソ連軍戦車部隊最強最新のIS−3スターリン重戦車だった。
 しかも、それを操縦するのは技量不足の北中国軍兵士ではなく、義勇シベリア軍団と名乗る熟練したロシア人の戦車兵だったのである。
 義勇シベリア軍団と名乗るソ連軍の派兵に、欧州正面では遂に第3次世界大戦かと緊張が広がったが、タス通信などは義勇軍について異様に神経を使った報道を繰り返し、欧州正面の戦力については全く移動が見られなかったことから、国連軍側の暗黙の了解としてソ連が中国大陸の局地戦争を望んでいることを受けいれた。
 とはいえ、この時の国連軍というよりは米軍の壊乱ぶりからするに、アメリカにとって欧州での新たなる戦争など思いつきもしないことだったと言えるだろう。
 反撃の先頭にたったIS−3重戦車及びIS−2はアメリカ軍が持ち込んだあらゆる戦車の砲撃を弾き返し、辛うじて90mm砲を装備したM26パーシングとイギリス軍のセンチュリオンだけが対抗できるとされた。
 戦車戦を行なうにはあまりにも適した地形である華北平原を部隊にしたソ連義勇軍と北中国軍の反撃は完全に成功し、戦線を分断された国連軍は全面的な敗走を余儀なくされる。
 さらに空中での戦いもそれまでの国連軍の一方的な戦いから、互角の様相を呈するようになっていた。ソ連義勇軍のMig15が鮮烈なデビューを飾り、国連軍にミグショックと呼ばれる大きなセンセーショナルを巻き起こしたのある。
 アメリカ空軍の主力だったF−80やF−84はMig15に追い払われ、昼間爆撃の主力だったB−29やB−50は出撃のたびに壊滅的な打撃を受けるようになった。統計上では被撃墜は少ないものの、それは陸上での作戦が大半だったために緊急着陸や不時着によって墜落を免れただけで、攻撃を受けたB−29の大半がそのまま廃棄処分を余儀なくされるほどの損傷を受けるのが常だった。
 こうした絶望的な状況の中で、戦線を分断された国連軍の敗走が始まる。
 一度占領したはずの北京は容易く奪回され、蒋介石は再び北京から逃亡するはめになる。このことを指したマスコミでは蒋介石の3日天下とはやし立てたが、空路脱出した蒋介石はともかく、包囲された北京には数万の南中国軍の兵士が取り残されており、彼らの運命は全く絶望的だった。大半は捕虜となった後、即決裁判により処刑されている。
 蒋介石の逃亡によって指揮系統が消滅した南中国軍は敗走、それに巻き込まれる形で米軍も壊乱状態になり、ソ連義勇軍と北中国軍の追撃を止めるものは何もなくなった。
 そうした中で、懸命の航空支援を行なっていたのが日米海軍の機動部隊だった。
 特に日本国防軍の信濃航空隊はどんな悪天候であっても、必ず支援に駆けつけてくれることで絶望的な抵抗を続ける地上軍から熱烈な支持を集めるようになっていた。
 戦争を通じて士気について妖しいところが付きまとった米軍やその他国連軍に対して、国防軍の士気は常に高い水準が保たれていた。これは米軍指揮下で戦っていた国防軍の末端まで、この戦争において自分達の戦いが日本の講和条約を有利にすることに直結しているということが浸透しているためだった。一日でも早い日本の独立のために、少しでも有利な講和条約締結のために、兵士達は火の玉となって、中国大陸の空で散っていったのである。

19サラ:2007/05/19(土) 10:08:14
その努力は1951年のサンフランシスコ講和条約で実り、この時から国防海軍はアメリカ軍の一部隊から国連軍の一部隊としてこの戦争を最後まで戦い抜くことになる。
 戦闘は撤退する国連軍と追撃するソ連軍が長江に達した時点で再び膠着状態に戻る。
 これは追撃戦により北中国軍とソ連軍の兵站線が限界に来ていたことと、アメリカ空軍を恐怖のどんぞこに陥れたMig15の航続能力が短く、またその発進基地を前進させることができなかったために、長江付近で友好なエアカヴァーが得られなくなったことも大きな要因だった。対爆撃機迎撃戦闘機であるMig15の運用は地上のCGIに大きく依存しており、地上CGIの迅速な前進ができない以上、追撃を続ければ続けるほどエアカヴァーの密度は低下するのは当たり前の結論だった。
 さらにアメリカ空軍が投入した最新鋭のF−86セイバーにより性能面でもMig15に優位にたっており、一度失われた航空優勢は長江に戦線が戻ったころには再び国連軍のもとに戻ってくる。
 しかし、北中国軍及びソ連義勇軍が長江対岸に長大な防御陣地を築き、強固な防衛戦を築いていた。また、南中国に浸透した共産ゲリラの活発化により全土で爆弾テロや兵站線への攻撃が活発化しており、その鎮圧は容易ではなかった。
 結局、双方ともに強固な陣地を構築して長江を挟んでにらみ合いが2年も続く。
 その間に日本は戦争特需に沸き、国連軍向けの武器弾薬の生産や毛布や衣類などの繊維業、陣地構築に必要な鋼材やコンクリートの大量の発注が舞い込み、その後の高度経済成長のステップとなった。
 1951年に発表された経済白書において、「もはや戦後ではない」というキャッチフレーズが使われたのは、日本経済の復活を内外に伝えるものだった。日本の鉱工業生産は戦前のそれを上回り、さらに天井知らずの経済発展を続けていくのである。
 戦争は中華大陸を破壊しつくしただけで終り、1953年の停戦交渉により長江を国境線として南北分断が確定する。

20名無しさん:2007/12/10(月) 10:55:09
続き希望

21名無しさん:2007/12/13(木) 20:46:29
同じく希望

22サラ:2007/12/13(木) 22:03:16
といわれてもなぁ・・・・

なかなか難しいですねーこれが

23名無しさん:2008/01/03(木) 12:14:26
その他掲載の共産主義日本の連載化を

24サラ:2008/01/03(木) 14:35:29
今のは連載しているとはいえないのだろうか?

25名無しさん:2008/01/03(木) 20:16:43
言えるので安心してください

26名無しさん:2008/01/05(土) 07:18:53
すいません。「妄想世界における戦後日本について」みたいな長編という意味での
連載化希望と書いたつもりでした。サラさんごめんなさい。

27名無しさん:2008/01/17(木) 21:06:05
あげ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板