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【1999年】煌月の鎮魂歌【ユリウス×アルカード】

1煌月の鎮魂歌 prologue 1/2:2015/02/25(水) 09:03:07
PROLOGUE 一九九九年 七月


 白い部屋だった。
 彼の目にはそれしか映っていなかった。白。ただ一色の白。
 ときおり、影のように視界をよぎっていく何者かが見えたような気もしたが、
それらはみな、彼の意識にまでは入り込むことなく、ゆらゆらと揺れながら近づき、
遠ざかり、近づいてはまた離れていった。
 自分は誰なのか、あるいは、何なのか。
 生きているのか、死んでいるのか。
 ベッドの上の「これ」が生物であるのか、そうでないのかすら、彼にはわから
なかった。呼吸をし、心臓は動き、血は音もなく血管をめぐっていたが、それらは
すべて彼の知らぬことであり、石が坂を転がるのと、木が風に揺れるのと、ほとんど
変わりのない単なる事実でしかなかった。
 ただ白いだけの、水底のように音のない空間で、まばたきもせず空を見据えながら、
彼はときどき夢を見た。生物でないものが夢を見るならばだが。
 そこで彼は長い鞭を持ち、影の中からわき出てくるさらに昏いものどもと戦い、
暗黒の中を駆け抜けていった。
 そばにはいつも、地上に降りた月のような銀色の姿があった。それはときおり
哀しげな蒼い瞳で彼を見つめ、また、黙って視線を伏せた。
 夢は、止まったままの彼の時間を奇妙に揺り動かし、見失った魂のどこかに、
小さなひっかき傷を残した。肉体はこわばったまま動かず、そもそも、存在するのか
どうかあやしかったが、この地上の月を見るたびに、彼の両手は痛みに疼いた。
 何か言わなければならないことが、どうしても、この美しい銀の月に告げなくては
ならないことがあるような気がしたが、それが形を取ることはついになかった。彼は
ただ、無限の白い虚無に、形のない空白として漂っていた。

2煌月の鎮魂歌 prologue 2/2:2015/02/25(水) 09:04:02
 ……光がさした。
 白い空虚の中に、一筋の、銀色の光が射し込んできた。
 彼はまばたき、自分に、目があったことに気がついた。まぶたがあり、顔があって、
顔には頬があり、その頬に、冷たく柔らかい銀色の月光が流れ落ちていた。
 夢の中の月が、自分を見下ろしていた。
 彼は口を開けた。
 何かが喉のすぐ下まで上がってきて、つかむ前に消滅した。苦痛と、それに倍する
どうしようもない胸の痛みが突き刺さってきて、彼は思わずうめき声をあげた。
「動かない方がいい」
 ごく低い声で、月は言った。その髪と同じく、やわらかく、ひやりとした、透き通る
ような銀色の声だった。
「お前はひどい傷を負った。命を取り留めたのが奇跡だと言っていい。自分の名は
わかるか? 言ってみろ」
 もう一度口を開けようとしたが、声は出なかった。彼の中には空虚しかなく、答えに
なるような何物も、そこには残っていなかった。
「――わ、から、ない」
 ようやく、そう言った。
 月の白い顔に、かすかな翳が走ったようだった。
「本当に、わからないのか」
 しばしの間をおいて、思い切ったように月は言った。
「──私の、名も?」
 わかる、と叫びたかった。わかる、あんたは月だ、夢の中でずっと俺のそばにいた。
 だがそれもまた、言葉になる前にこなごなにくだけて白い闇の中にのまれていった。
彼はただ弱々しく首を振った。
「……そうか」
 銀の月はつと視線を外した。
 長い髪からのぞく肩がかすかに震えているように思えて、彼は思わず手を伸ばそうと
したが、やはり身体は動かないままだった。全身が包帯に包まれ、ベッドに縛りつけ
られていることに、彼は突然気がついた。
 ここは病院だ。俺は生きている。そして怪我をしている。
 だが、何故だ。
 俺は、誰だ。
「あんた……は……誰だ」
 ようやく声を絞り出して、彼は言った。
 銀の月は目を上げ、彼を見た。その蒼い瞳に、夢の中と同じ哀しみが浮かんでいる
のを見て、彼の胸は貫かれるように痛んだ。
「そのことはあとで話そう」
 低い声でそれだけ言って、月の髪をした青年は立ち上がった。
「今はまだ眠れ。傷が酷い。考えるのは、身体が治ってからでも遅くはない。ゆっくり
養生しろ」
 違う。待ってくれ。
 そう声にしようとしたが、その前に、全身が砕けるような痛みが走った。白い闇から
あわてたように影が一つ走ってきて、肩を押さえてベッドに押し戻そうとする。
(だめですようごかないであなたはなんどもしにかけたんですよだれかちんせいざいを)
 うるさい。うるさい。
 俺はあいつを知ってる。俺はあいつを知ってるんだ。
 言わなければ。ちゃんと言わなければ。忘れたりなんかしていない、と。約束した、
俺はおまえを、おまえを、おまえ、を。
 腕に注射針が突きささり、流し込まれる薬液が視界に霞をかけていく。伸ばそうと
した手は無理やり下ろされ、点滴の管が突き立てられる。
 銀の月は哀しい目をして立ちつくし、闇のむこうから自分を見ている。
(……ア、ル、)
 引きずり込まれるように意識が暗闇に包まれる。
 ──最後まで見えていたのは、仄かに輝く銀色の月と、哀しみをたたえた、二つの
青い瞳。

3煌月の鎮魂歌 & ◆cog2T/Z1mk:2015/02/25(水) 09:13:48
 Ⅰ   一九九九年  一月

          1

 黒いリムジンは油のようになめらかに素早く、音もなく、ごみだらけの路地に
滑りこんできて停止した。
 ドラム缶に焚かれた火に集まった汚れはてた集団がわずかに身じろぎし、その場
で口を開けた。磨き上げられた車体が、ビル群の向こうで燃え尽きかけている陽光を
鈍く照り返していた。ちりひとつないスモークガラスの窓に、いくつかの黒い顔、
汚れた顔、なにもかもに疲れ果て荒みきった人々の、度肝を抜かれた顔が亡霊のように
映っていた。冬のさなかの寒風が切れた電線をかすかに揺らしていた。
 ドアが開いた。光があふれ出したようだった。
 魅入られたように固まっている住人たちの口から声にならないためいきが漏れた。
 曇天の下でも自ら光を放つような月の色の銀髪だった。氷河の底の青の瞳と抜ける
ように白い顔、通った鼻筋、小さく形のよい唇。
 それらが造化の神が自ら丹念に手を下したとしか思えない完璧さで、細面のなめら
かな顔に収まっていた。あわい睫毛が氷青の瞳の色をわずかに煙らせ、非人間的なまで
の美貌の近寄りがたさをかろうじてやわらげている。ゆるく波打った長い銀髪は上質な
黒いスーツの肩に背に散りかかり、均整のとれた長身が動くたびに霞のようになびく。
息の止まるほどの美貌はともすれば女性的とさえ見えるものだったが、おだやかな、
だが強い意志が結ばれた口もとと伏せた瞳に現れ、そのしなやかな体にはあなどり
がたい力が秘められていることを告げていた。
 青年は大型の猫のように優雅な一動作で路肩に降り立ち、振り向きもせずに低く
告げた。
「ここから先は一人で行く。お前たちはここで待て」
「しかし」
 運転席の男は困惑したように体をねじ向けていた。ほかにも数名の黒いスーツの男
たちがリムジンの座席に並び、困惑したように目と目を見交わしていた。
「ラファエル様からは、けっしてお一人にしないようにと──」
「彼には私だけで会う」
 青年ははっきりと言った。他人に命令することに慣れた者の口調で、ただ口にすれば
相手が従うことを知っている声だった。運転手は口をなかば開けたままの状態で
固まった。
「私は自分の身は自分で守れる。知っているはずだ。それに」
 ひと息おいて彼は言った。
「会わねばならない相手は、おそらく護衛をぞろぞろ連れた使者など信用しないだろう。
彼は私ひとりが対せねばならない相手だ。心配ない。私のことより、彼がこの要請を
受けてくれるかどうかを心配するといい」
「アルカード様、しかし」
 だがすでに会話は打ち切られており、青年はリムジンを離れて、ごみと汚物にまみれた
穴だらけの街路をすべるように歩き始めていた。

4煌月の鎮魂歌 1 2/10:2015/02/25(水) 09:15:25
 ──アメリカ、ニューヨーク、一九九九年。
 新しい千年紀を控えて、世界一の超大国は目に見えない経済と策謀、富と貧困の
高楼の上で揺れていた。
 陰謀好きの人々は古来から取りざたされる『一九九九年の魔王』に恐怖と期待の胸
をときめかせ、コンピュータ・エンジニアは迫る二○○○年問題に頭を悩ませ、信心
深い人々は祈り、そしてほとんどの人々はなにも気にかけることなく、普段通りの
生活を楽しんでいた。
 だが、この街には世紀の終わりなど関わりのないことだった。
 住人にとってはここが世界の始まりであり、終わりであった。
 ハドスン川を挟んだ対岸には、世界の経済と富を吸い込み吐き出す心臓であるマン
ハッタンがうずくまる。世界の冨の象徴であるツイン・タワーの影に見下ろされながら、
だが、ここにあるのは赤色砂岩の崩れかけた共同住宅、失敗したドミノ倒しのように
傾いたバラックの山、度重なる放火のために黒こげになったなにかの残骸だけだ。
 灰色のコンクリートやへこんだシャッターにはスプレーで卑猥な言葉や髑髏やスト
リート・ギャングの名前が殴り書きされ、下地などほとんど見えない。アスファルトは
ひび割れ穴があき、下水と糞尿の臭いが常に漂っている。ときおり姿を見せる住人
たちの目は一様にどろりと濁り、光を失っているか、逆に肉食動物のように飢えに
ぎらつき、油断なくあたりをうかがっている。
 赤黒い血だまりがまだ乾ききらずに、壁や地面に残っていることなど日常の一部に
すぎない。殺されたばかりの死体すらも例外ではない。そうした死体はすぐに衣服を
含めたすべてのものを身ぐるみはぎ取られ、時には死体そのものすらもどこかへ
運ばれて消え失せる。ここは都会の中のジャングルであり、住んでいるのはただ肉食の
獣と、その餌食となる者だった。弱肉強食がここでは法律の代理だった。光り輝く
高層ビルや、ネオンきらめくブロードウェイの夢とは、ここは無縁の別世界だった。
 ニューヨーク、サウス・ブロンクス。数あるニューヨークのスラムの中でも最悪の
ひとつに数えられる危険な一角。
 住民の多くは夜行性の生き物のように昼間は姿を隠しているが、夜の闇とともに、
街はゆっくりと目を覚ます。消えかける陽光に呼ばれるように、すでにいくつかの
バーやいかがわしい店にはけばけばしいピンクや蛍光イエローのネオンがまたたき
はじめていた。
 ヤンキースの帽子をまぶかに引き下ろした男たちが、だぶだぶのズボンのポケットに
手をつっこんで、所在ない様子を装いつつ客を待っている。ズボンのあらゆる場所には
粗悪な各種の薬物が隠されている。騒々しい音楽の流れてくるバーの入り口には、
すでに泥酔した男が陸揚げされた魚のように長々と延びている。街灯の下で落ちつき
なく身を揺すり、ブツブツとなにかを呟きつづける男の指には、カチャカチャと音を
たてる折りたたみナイフがせわしなく弄ばれている。

5煌月の鎮魂歌 1 3/10:2015/02/25(水) 09:16:04
 ゆっくりと降りてくる夕闇と同じように、青年は足音もたてずにこの夜のジャングル
へと踏み込んでいった。
 たちまち街が身じろぎし、数十の視線がいっせいに向けられた。
 ここでは侵入者は敵か、あるいは犠牲者のいずれかだ。この怖い者知らずはどちら
なのか、警戒の、あるいは貪欲な捕食者の目を向けようとした彼らは、次の瞬間、
まぶしすぎる光をあびた鳥のように凍りついた。
 崩れかけた戸口にもたれた飲んだくれは、安いジンの瓶を口まであげかけたまま
動きをとめた。ポケットの小型拳銃をさぐっていたストリート・ギャングはいつも
のように値踏みすることすら忘れて、ただぽかんと突っ立っていた。ぼろにくるまって
暗がりに寝転がっていた麻薬中毒者は、薬の夢に迷い込んできた光り輝く幻影にただ
恍惚とした。段ボールをかぶったホームレスは垢まみれの手をふるわせ、胸をさぐって、
ひび割れた唇で、長年忘れていた神の名を呟いた。
 派手な看板のポルノ・ショップや、割れた街灯の下で手ぐすね引いていた娼婦たちは
湯を浴びたように真っ赤になり、それから紙のように青ざめた。荒れた生活と薬物に
痛めつけられた顔を化粧でぬりこめた彼女たちにはとうてい太刀打ちできない、足もと
にすら寄れない美貌に、誘惑どころか嫉妬すら許されないことを知ったからだった。
 青年は静かに、美しい影のように街路を進んでいった。
 躓くことも、よろめくこともなく、アスファルトがはがれ凹み穴だらけの汚れきった
街路も、彼の歩みを邪魔することを恐れるかのようだった。
 黒人とヒスパニックとイタリア系移民がせめぎ合うこの地区で、まばゆいばかりに
白い彼の肌と輝く銀髪はそれだけで異質だった。一目で高級品とわかるスーツや靴も、
身ごなしにそなわる優雅さも、すべてが彼をこの世界から浮き立たせていた。またその
美貌も。
おそらくヨーロッパ系であろうとだけは思えても、それ以上はどことも見当のつけよう
がない。人間離れしたとさえいえる、あたりを圧倒するばかりの純粋な美だった。
 彼の周りだけは別世界のように、空気すら変わった。充満している腐ったごみの
悪臭や強烈な安酒の臭い、酔っぱらいの吐瀉物の酸っぱい臭気、汚れた人間の体や排泄物
がつまった、一息吸っただけで息の詰まりそうな空気も、彼には道をあけた。人間世界
のどんな汚穢も、この美しい生き物には指一本触れられないように思われた。晴れた日
の快い草原を進むかのように、彼の足は軽やかで着実だった。
 半壊し、錆びて煤けた鉄骨をさらした廃墟の前で、彼はふと思いついたかのように
足をとめた。
 氷青の瞳があたりを見回し、道の向かい側で、膝にビールがこぼれるのも気がつかずに
唖然としている老人の上で止まった。
 軽い一歩で陥没した道路をのりこえ、次の一瞬には老人の前に立っていた。歯も抜け、
ほとんど毛髪を失った頭をぼろぼろの毛糸の帽子で覆った老人は、いきなり天使の訪問
を受けた放蕩息子のように、のどの奥で息を吸う音を立てて身を引いた。
「訊きたいのだが」
 やわらかな、心地よい声音で天使は言った。
「ユリウス・ベルモンドという男を捜している。どこに行けば会えるか、知っていれば、
教えてほしい」

6煌月の鎮魂歌 1 4/10:2015/02/25(水) 09:16:53
「ユ、ユリウス・ベルモンド? ジェイ──あの〈赤い毒蛇〉の?」
 老人はあえいだ。
 その名を聞きつけた周囲からざわめきが波のように広がり、明らかな動揺と恐れが
確実にあたりに浸透していった。青年の美しさに対する畏怖にも似た沈黙ではなく、
あからさまな嫌悪と、それに倍する恐怖の輪が色を失った顔や身震いする肩となって
現れた。
「あ、あんた、あんたが何者かは知らんが、あの男には近づいちゃいかん」
 老人はしぼんだ風船のような顔をまじりけのない恐怖にこわばらせ、わななく手で
青年の袖をつかもうとした。手から放れたビール缶が転がりながら階段を落ちていく。
そちらへは目を向けもせず、すがるように、
「あいつは悪魔だ。本物の、地獄から這い出てきた悪魔なんだ。あんたみたいなよそ者
が会えるような相手じゃないし、会っちゃあいかん。もし会えたとしても、そいつは
悪魔の口に自分から頭を突っ込みにいくようなもんだ。あんたみたいないい服を着た、
金持ちの美人は特にだ。あっという間もなく一口に食われちまう。五体満足でここから
歩いて出て行きたかったら、あいつにだけは、会っちゃあいかん」
「どこにいる?」
 震える声で告げられた警告を風のように受け流して、青年は繰り返した。長い睫毛
の下の瞳が光の加減か、わずかな金色をおびてきらめいたと見えた。
 老人はびくっと身をひきつらせ、「聖クリストバル教会」と、何者かに背を押された
かのように答えた。
「四十一丁目の真ん中あたりにある、というか、あった。最後の司祭が逃げ出してから
もう何年も経つ。今じゃ見る影もない。その教会跡を根城にしてるんだ。神の家だった
ところが、最悪の悪魔の棲処になっちまってる。行っちゃあいかんよ、あんた、行っ
ちゃあいかん。自殺しに行くようなもんだ。あの男にはかかわらんほうがいい、本気で
言ってるんだ。あいつは悪魔なんだよ、あんた」
「悪魔の相手には慣れている」
 青年は老人が思わずびくっと背筋をのばしたほど、優美な笑みを片頬に浮かべて
すぐに消した。
「邪魔をした。感謝する。聖クリストバル教会、だな」
 いつのまにか手にしていた新しいビール缶をそっと老人の手に握らせ、青年は身を
ひるがえした。長い銀髪が翼のように宙に躍った。
 缶をにぎらされたことにも気づかないまま、老人は何か異世界の者に触れられた
ような魂の抜けた顔で、しなやかな背中を見送った。
「行っちゃあいかんよ、あんた!」
 ようやく我に返って、老人はしわがれた声をあげた。
 だがその時にはもはや青年の姿はなく、いつも通りの腐りはてた街の、悪臭と汚濁に
満ちた街路が怠惰に広がっているばかりだった。

7煌月の鎮魂歌 1 5/10:2015/02/25(水) 09:17:27
かぎりをつくした言葉がスプレーされ、骸骨や死神や尖った尻尾の悪魔が炎の中で踊り狂っていた。
 頭が割れんばかりの音量でラップ音楽が鳴り響いている。ちかちか光るLEDライトが崩
れ落ちた屋根から壁、外れたままの扉、地面のそこここにまで這い回って、あたり一帯
を狂人が飾りつけたクリスマス・ツリーのように極彩色に染めている。明滅する影の中
にひときわ大きく、念入りに縁取られた文字、〈RED VIPER〉が揺らめいた。
 かろうじて残った尖塔のてっぺんには、もぎとられたキリストの磔刑像がさかさまに
くくりつけられていた。同じくLEDライトにぐるぐる巻きにされた逆さまのキリストは、
蛍光ピンクに輝くLEDの冠を茨のかわりに頭に巻き、白目をむいて舌をつきだした嘲笑の
顔をさらしていた。腰布にはピンクの冠と同じく蛍光するピンクのディルドがとりつけら
れ、地面に向かってそそり立ったまま、うねうねと卑猥な動きを繰り返している。まるで
このキリストの戯画が、腰を動かして誘いをかけているかのように。
 にたにた笑いに裂けた口をゆがめる悪魔の、三つ叉フォークに突き刺された人間の稚拙
な絵を眺めて、青年はかすかに口もとをゆるめた。がんぜない子供の落書きを見るかのよ
うな、かすかな呆れと諦観のないまぜになった微笑だった。影から歩み出て、青年は最後
の通りを越えた。
 それまで息を殺していた者たちの間にたちまち緊張が走った。黒人、ヒスパニック、ニ
キビ面のイタリア系。おそらくざっと三十人。
 無関心を装って壁にもたれていたもの、階段に腰掛けて煙草をふかしていたもの、トラ
ンプ博打に精を出しているように見せかけていたもの、それら人の形の獣たちが、いっせ
いに警戒の牙をむいて立ち上がった。
「あんた、道をまちがえてるぜ。どこへ行くつもりだったんだか知らねえが」
 煙草を吸っていた男が痰といっしょに吸い殻を吐き捨てて言った。
「どこのもんだ? トニー・マーカスの奴か、〈ブラックシェイド〉のくそがきどもか、
それとも使命感に燃えた新米ソーシャルワーカーが、深夜のブロンクス訪問てとこか」
 一分の隙もないスーツとなんの動揺も浮かべていない美貌をなめるように見上げる。
「いや、違うな。あんたはどうもここに属するような人間じゃない。何しに来た? ここ
が〈赤い毒蛇〉のシマだとわかって来たんだろうな」
「それとも、俺たちのお楽しみに混ぜてもらいに来たのかい?」
 汚れた作業ズボンに片手をつっこんだ男が荒い息を吐いた。青年が近づいてきたときか
ら、男の目はその驚くべき美貌に釘付けだった。ズボンにつっこんだ手が股間のあたりで
せわしなく動いている。
「そんなら歓迎するぜ。あんたとなら楽しそうだ、いろいろとな」
 下卑た笑いが重なった。「べっぴんさんだ」トランプのカードを叩きつけた小男が黄色
い声を張り上げた。

8煌月の鎮魂歌 1 6/10:2015/02/25(水) 09:18:13
「べっぴんさんのお金持ちだ。お嬢ちゃん、ここはお散歩に向いてる場所じゃねえぜ。俺
たちと遊ぶ気がないんなら、早いとこ後ろを向いて逃げだしな。まあ、間に合うかどうか
は保証しねえがな」
 どっとまた笑いがあがった。LEDのまたたく光にちらつく暗闇から、じりじりといくつ
もの人影が近づきつつあった。どれも荒い息を吐き、手にナイフやメリケンサックをちゃ
らつかせ、飛び込んできた『お楽しみ』を隅から隅まで味わい尽くそうと手ぐすねひいて
いる。
「ここにユリウス・ベルモンドがいると聞いてきた」
 青年は澄んだ声で言った。水晶を叩いたように、揺らぎも曇りもない声だった。
 ちんぴらどもの動きが凍りついたように止まった。
「用のあるのは彼だけだ。彼と話がしたい。ここにいるのなら、会わせてほしい」
「……てめえ、死にてえのか」
 気圧されたような沈黙を破って、ようやく一言、顔面に傷のある黒人男がうめくように
言葉を吐き出した。
「ここじゃその名前は口にしねえことになってんだ。ジェイの野郎に聞こえてたら、てめ
え、どうなるかわかってんだろうな」
「ジェイ。ユリウスのことか」
 青年は氷河の青の瞳を相手に向けた。
 麻薬と酒で血走ったちんぴらは理由のわからぬ突然の恐怖におそわれ、息をのんで一歩
後ずさった。
「ここにいるのか、ユリウス・ベルモンドは?」
「……そ、その名前を、口に出すんじゃねえ、クソ野郎が!」
 男たちがいっせいに動いた。LEDライトにナイフがきらめき、懐から拳銃が次々と現れ
た。メリケンサックを両手にはめた男がわけのわからぬ叫び声をあげながら突進してきた。
 青年はそよ風を受けるようにそれを受け流した。ほとんど動いたとも見えなかったの
に、メリケンサック男は空を切った拳の勢いのまま、とっとっとよろめき、信じられぬ
ように後ろを振り返った。
 青年はさきほどとほとんど変わらない位置に、変わらない姿勢で立っている。冷たく整
った顔には、髪の毛一筋の変化もない。
「こ、コケにしやがって──」
 四、五人の男がいっせいにナイフを抜いて飛びかかった。背後でさらに拳銃を持った者
が引き金をひいた。連続する銃声とナイフの鈍い光が交錯した。硝煙がさかさまのキリス
ト像にまで立ち上った。

9煌月の鎮魂歌 1 7/10:2015/02/25(水) 09:18:47
「おう……!?」
 夢中で弾を撃ち尽くした男は、マガジンを手探りしようとして背筋に走った戦慄にはっ
と顔を上げた。
 天空の月の貌が間近にあった。かすかに金のきらめきを宿した瞳に見つめられ、男は自
分がはげしく勃起するのを感じた。白い指が手に添えられ、拳銃ごと指をつかむ。繊細な
指先の感触を夢のように感じた次の瞬間、すさまじい激痛が脳天を貫いた。
 女のような泣き声をあげて男はその場を転がり回った。拳銃ごと握りつぶされた手を胸
に抱き、恥も外聞もなく涙と鼻水を垂らしながらのたうちまわる。股間からじわりとアン
モニア臭のする染みが広がる。
 背後からやみくもに突きかかってきたナイフの嵐の前で、銀髪が優雅に翻った。
 目標を見失ったナイフ使いはお互い同士でぶつかり合い、相手の肩やら腕を突き刺すこ
とになってもつれ合って倒れ、呪いの声を上げた。
「う、撃て撃て! 撃ち殺せ! 蜂の巣にするんだよ!」
 やけになったような声が響いた。
 呆然としていた残りの男たちは、あわてて内懐をまさぐった。火線が集中してゆらめく
月の影をねらった。
 夢のように影は解けた。長い銀髪を光の靄のように一瞬まぼろしに残して、鉛弾の雨を
すり抜けた。
 男たちがぎょっとして息を吸い込む一瞬に、輝く姿は頭上にあった。ゆったりと、人魚
が泳ぐように身を翻して、軽く手を打ち払ったように見えた。あるいは指をひとつ曲げた
だけだったのか。
 正確なことは誰にもわからなかった。ただ、わかったのは次の瞬間に、その場にいた人
間の持っていた武器はすべて払い落とされ、ある者は腹部、別の者は頭部、頸部、背中、
手足とそれぞれ動きを封じる部分を痛打されて、その場に崩れ落ちていたことだけだった。
 青年はふたたびもとの場所に静かに立っていた。その場を動いたことも、襲われたこと
もなかったかのように。周囲に崩れ落ちて苦鳴をもらしている男たちだけが先と変わった
部分だった。
「ユリウス・ベルモンドに会いたい」
 穏やかに青年は繰り返した。
「それが私がここに来た目的だ。邪魔をしなければ何もしない。用があるのは、彼にだけだ」
「ジ、ジェイ! ジェーイ!」
 だらしなく四肢を広げてひっくりかえった男がわめいた。ぼさぼさの頭を狂ったように
振り立てて、
「ジェイ、来てくれ、ジェーイ! よそもんがお前を──」
「うるせえな。聞こえてるよ」
 崩れかけた教会の戸口で、うなるような声がした。
 もがいていてた男はぴたり動きを止めた。銀髪の青年はゆっくりと首をめぐらせてそち
らを見た。ゆるくウェーヴのかかった髪が雲のように広がる。

10煌月の鎮魂歌 1 8/10:2015/02/25(水) 09:19:23
 ひび割れた戸がまちに肘をよせかけて、若い男がだらしない格好でよりかかっていた。
 半裸で、ひきしまった上半身には何もまとっておらず、細いレザーパンツをはいているだけだった。ごついコンバット・ブーツを半分ずりさげるようにしてひっかけており、腰
の後ろに、たばねた縄のような輪が見えた。うんざりしたように髪をかきあげて、地面に
這った手下どもをあきれ果てた顔で見下した。
「せっかくいい気持ちで寝てたのに、バンバンドカドカ騒ぎ立てやがって。ぶちのめして
やろうと思ってたらこの始末だ。せめて俺が出てくるまで待てなかったのか、え、犬ども」
 そげた頬ととがった顎をした、剃刀めいた印象の顔だった。高い鼻の両側の目は青く冷
たく、深く落ちくぼんで燐光を放つように見えた。長い髪は赤く、まっすぐで、寝ていた
ことを明かすようにばらばらに肩から腰へと乱れかかかっている。
 やせていたが、むきだしの上半身は無駄のない筋肉にきっちりと覆われていた。穏やか
な表情であれば整った顔立ちといえただろうが、夜の中でも燃えているような、両目の冷
たい火がそれを裏切っていた。
「ご、ごめんよ、ジェイ、ごめんよ」
「さわるんじゃねえよ、クソ犬が」
 足もとへ這っていって手を伸ばそうとした男を蹴り飛ばし、無造作にコンバットブーツ
を踏みおろした。枯れ木を砕くような音がして、男はかぼそい悲鳴をあげた。
 踏み砕かれた手を抱えて苦悶する手下を見もせずに、ジェイと呼ばれた赤毛の男はさら
に一歩踏み出してすかすように前を見た。視線の先にはかわらず静かな、月色の銀髪の青
年が佇んでいた。
「ずいぶん毛艶のいいおぼっちゃんだな」
 あざけるように彼は言った。
「その格好で誰にも身ぐるみはがされずにここまで来たとは見上げたもんだ。しかし、あ
んたみたいな細っこいのに足もとすくわれてちゃ、こいつらも大したことはねえな。まあ
いいさ、こいつら腰抜けのことはあとで始末する。で」
 冷ややかな青い瞳がきつく細まった。
「あんた。何者だ」
「──おまえが、ユリウス・ベルモンドか」
 問いには答えず、青年は静かに言った。
 息のつまったような沈黙が落ちた。
 強い恐怖があたりにみなぎり、倒れて傷の痛みに悶えていた男たちも、一瞬苦痛を忘れ
て動きをとめた。
 赤毛の男はしばらく沈黙していた。垂れた前髪が表情を隠していた。薄い唇が笑みに似
てはいるが、それとはまったく違った何かを浮かべた。
「なあ、知ってるか、あんた」
 陽気と言っていい声で彼は言った。
「俺の耳にはいるところでその名を口にした奴は死ぬんだ。俺が特別、機嫌のいいときに
はな」
「では、悪いときには?」

11煌月の鎮魂歌 1 9/10:2015/02/25(水) 09:19:59
 あくまで静かに銀髪の青年は問い返した。
「──死んだ方がましだって目にあうんだよ!」
 悪魔の咆吼といっていい恫喝がとどろいた。
 とびかかる毒蛇のすばやさで赤毛の男は身をかがめ、腰の後ろに手をやった。常人の目
にはとまらない動きで、一筋の黒い影が飛んだ。
 空気を切る音はあとから響いたようだった。影は身じろぎもしない銀髪の青年をめがけ
てまっすぐ飛んだ。
 なにかが弾けるような音がした。
 息をのむ音が波のようにあたりに広がった。赤毛の男は、はじめて見る光景に愕然と目
を見開いた。
「悪くはない」
 青年の声はあくまで静かだった。姿勢もほとんど変わらない。
 ただ、あげた右の前腕に、ぎりぎりと巻き付いた鞭を素手でつかみ止めていた。まとも
に受ければ皮も肉も深々と裂く一撃を、子供が投げた縄のように、手袋もはめない手で受
け止めていたのだ。
「だが、やはり訓練ができていない。いらぬ動作が多い。それによけいなこけ脅しも」
 手を一振りして鞭を離した。鞭は生き物のようにはね戻って、赤毛の男の手に吸い込まれた。
 戻った鞭を輪にして、男は信じられぬ思いで鞭とほっそりした青年を見比べた。彼に
〈赤い毒蛇〉の異名を与えた鞭、これまで幾多の拳銃やナイフや、時には火炎瓶やダイ
ナマイトまでも使った出入りをこれ一つでくぐり抜けてきた無二の武器を、片手であし
らえる人間などこの世にいるとは思ってもいなかったのだ。
「私はお前を迎えに来た、ユリウス・ベルモンド」
 銀髪の青年はまっすぐに彼を見た。氷青色の双眸に鮮やかな金の炎が走り、ユリウス・
ベルモンドは背筋に、恍惚と畏怖の入り交じる衝撃が走るのを感じた。
「私は、アルカード」
 青年の澄んだ声は過去からの遠い鐘の音のように響いた。
「はるか昔からベルモンドと共に在った者。決戦の刻が近い。聖鞭ヴァンパイア・キラー
の使い手として、運命がお前を欲している。ユリウス・ベルモンド、ベルモンド家の血を
継ぐものとして、私と来てもらいたい」

12煌月の鎮魂歌 1補足:2015/02/25(水) 09:23:58
すいません4/10と5/10の間に次の数行が抜けてますorz

 数十分後、青年はすっかり暮れた街角の影の中に、ひそやかに佇んでいた。
 通りの向かいには発狂した神の家があった。少なくとも、中にいる者はそう装ってい
た。焦げ崩れた石壁には隙間なく、これまで見た中でもっともひどい涜神と冒涜と卑猥の

保管所収納の時はこちらを追加して入れてくださいまし……すみませんorz

13煌月の鎮魂歌 2 1/13:2015/03/11(水) 02:03:31
             2
 
 空虚な部屋だった。
 外のけばけばしさや騒々しさからは想像もつかないほど厳しいまでに簡素で、
本一冊、色のあるもの一つおかれていない。外の喧噪も地下へ下ったここからは遠い。
もとは石炭置き場だった名残が、天井や壁の隅に残った燃え殻やこびりついた煤に
感じられた。
 真四角なそっけないコンクリート造りの箱のような地下室。あるのは鉄製の枠の
シングルベッドと古びたマットレス、寝乱れたシーツと枕、どこかから拾われてきた
らしい小さなテーブルと、教会の備品だったらしい背もたれのまっすぐな木製の椅子
ひとつ。
 ユリウスがアルカードを導いたのはそんな部屋だった。裸電球が天井の片隅で
ぼんやりと灯っている。テーブルの上には三分の一ほどに減った安ウイスキーの瓶と
曇ったグラスが一つ。狭くて急な階段が地上との唯一の通路だ。むっつりとベッドに
腰をおろすユリウスに、左右を見回したアルカードは呟くように言った。
「こんなところに住んでいるのか」
「こんなところで悪かったな」ユリウスは歯を剥いた。
「あんたから見りゃ、そりゃ、薄汚れたあばらやだろうがよ」
 アルカードは黙ってユリウスを見返した。そのどこまでも静かな視線に出会うと、
続けようとしていたユリウスは口ごもり、逡巡し、忌々しげに舌を鳴らして再びベッド
に腰を沈めた。
 地面に転がったままうめいている手下どもの中に立って、銀髪の来訪者は平然とした
口調でユリウスとの二人だけの会談を望んだ。一瞬、屈辱が鋭く胸を噛んだ。だが
ユリウスも、必殺の鞭を片手で止められた以上、手下どもの前でこれ以上無様な様を
さらすわけにはいかなかった。
 本気で戦えば圧倒できるのではないかという気が頭をよぎりはしたが、危険は
犯さないほうがいいと貧民街を生き抜いてきた者の勘が告げた。

14煌月の鎮魂歌 2 2/13:2015/03/11(水) 02:04:34
 今はユリウスに従っている男たちも、もしユリウスが絶対の強者ではないと知れば、
たちまち反抗の牙を研ぎ出すだろう。競合する別のギャング、ベンベヌート一味や
マカヴォイ兄弟のもとに走る者も出るかもしれない。ユリウスとしてはあくまで威厳を
保ったまま、手下どもに手当と後始末をしておくように言いつけ、相手を内に請じ
入れるしかなかった。
 煤色に染まったコンクリートの壁に背をもたせ、顎をしゃくって座るようにうながす。アルカードはなんでもなさそうに粗末な、クッション一つついていない堅い椅子を引き
寄せて、腰を下ろした。服が汚れることも気にしていないようだった。
 アルカードの言葉の意味は悟っていた。「こんなところ」とは見下して言ったわけ
ではなく、「こんなに寂しいところにひとり住んでいるのか」という問いかけを含んで
いたのだった。
 哀れみは〈赤い毒蛇〉のもっとも嫌うところだ。それらは人を甘くする。苛立ちに
歯を噛み鳴らしながら、ユリウスは顎を胸につけ、刺すような青い眼でじっと銀髪の
麗人を眺めた。
 ベルモンド。ベルモンドとその〈組織〉。
 裏社会のみならず、表社会の権力者たちの中でもその名前は一種の禁忌であり、畏怖
とある種の恐怖をもってささやかれる存在だった。
 力を持つ者ほど迷信にすがりたがるのは今も昔も同じことだ。ギャングの大ボスたち
はそれぞれの特別な護符や習慣を身を守るためのまじないとして手放さないし、まつげ
を動かすだけで人を殺せるマフィアのグランドファーザーでさえ、毎週の礼拝出席と
教会への巨額の献金はかかさない。現米国大統領がお抱えの占星術師を頼ってスケ
ジュールを決めていることは周知の事実だし、験力が強いと評判の祈祷師のもとに、
政治家ややくざの組長が門前列をなすのは公然の秘密だ。
 だが、ベルモンド一族とその〈組織〉は違う。
 彼らは闇に属しながら、その中でもさらに深い闇にまぎれ、どんな権力にも従う
ことなく、ことあらば不意に姿を現して去っていく。時に世間を騒がせることがある
謎の殺人や奇妙な出来事、表に出ることのない怪異、それらの近くでは必ずベルモンド
の名がささやかれる。
s

15煌月の鎮魂歌 2 3/13:2015/03/11(水) 02:05:30
〈闇の狩人〉、それがベルモンド家の血筋につらなる者の異名であり、彼らが
どのようなまじない師とも祈祷師とも区別される点だった。彼らのみが抗しうる存在
がこの世の皮一枚の裏側にうごめいており、それが這い出てきたとき、彼らは現れて
それを狩るのだ。
 いっさいの区別が彼らには存在しない。権力におもねることもなければ金に従うこと
もなく、暴力ではなおさら彼らを従わせることなどできない。彼らは彼らのみの規範と
意志によって動く者たちであり、その前ではどんな国家権力もマフィアの最高ボスも
ひとしく無力だ。
 ベルモンドを頂く〈組織〉は影のような根をあらゆる場所にのばし、見えない網で
世界を囲い込んでいる。彼らのほんとうの目的は誰も知らず、正確なその姿を知るもの
もほとんどいない。知ろうとした者は例外なく影に飲み込まれ、永遠にこの世から
消え去ると囁かれている。同じことを数限りなくやってきたであろうギャングの元締め
たちさえ、ベルモンドの名を耳にしたときには、そのガラス玉のような眼にわずかな
動揺と畏怖を走らせるのだ。
「あんたのことは聞いてる」
 吐き捨てるようにユリウスは言った。
「ベルモンドのふたつの至宝。ひとつは聖鞭〈ヴァンパイア・キラー〉。そとてもう
ひとつは〈アルカード〉。裏社会じゃ知られた話だ。もっとも、鞭のほうも〈アルカ
ード〉のほうも、見た奴はほぼいやしない。特に、〈アルカード〉が人なのか物
なのか、なにかの象徴なのかさえ、知ってるやつには会ったことがない。それが今」
 ぐっと眉をひそめてユリウスは美しい青年の静かな面差しを視線で突き刺した。
「俺はじきじきにそのご当人と対面してるわけだ。光栄だね。〈アルカード〉がこんな
べっぴんのお嬢ちゃんだと知りゃ、欲しがる奴は星の数ほどいるだろうよ。ベルモンド
が隠したがるわけだ」

16煌月の鎮魂歌 2 4/13:2015/03/11(水) 02:06:13
「私は存在を秘匿されているが、お前が言うような理由からではない」
 アルカードは声音を変えずに穏やかに続けた。
「人は異質な者を怖れ、排除する。それだけのことだ。人の世では私は異端者だ。永遠
に生きる半吸血鬼の存在を受け入れる準備は、闇の存在に触れたことのない人間には
できていない」
「半吸血鬼……あんたが?」
 ユリウスは思わず問い返していた。
「私は吸血鬼であり魔王である父と人間である母の間に生まれた」
 なんでもないことのようにアルカードは言った。
 ほかの人間が口にすればたわごとにしか聞こえない言葉が、この青年の唇から漏れる
と異様な重みを帯びた。気の遠くなるような年月の積み重ねと、沈滞し凍りついて
しまった永い孤独が、短い言葉に真実の響きを与えていた。
「もう五百年も昔のことだ。私は父に反抗し、当時ベルモンドの当主でありヴァンパイ
ア・キラーの使い手であった男と協力して、父を討った」
 まるでおとぎ話か伝説のような内容が、この青年の静かな口調が語ると異様な真実味
を帯びた。
「その後私は眠りについたが、事情があって目覚め、再びベルモンド家に身を寄せる
ことになった。今のベルモンド家の血筋は、最初に父と戦った時のベルモンドの当主と
、その戦いの友であった女魔法使いのものだ。私は彼らの子孫を守り、彼らの使命
である闇の血の最終的、かつ完全な封印に手を貸すため、この二百年間を生きている」
 しばしユリウスは返す言葉を失って青年を見つめた。
 穏やかに見返してくる月輪のような顔にはしわ一つ、しみひとつなく、薄暗い裸電球
の光の下でも自ら光を放つように白い。雲のような銀髪が細い肩に散りかかり、聖者の
像を取り囲む光輪のように輝いている。
 閲してきた長い年月をうかがわせるのは、ただその瞳だった。氷河の底の青の瞳に、
ユリウスは五つの世紀を越えて生き続けてきた者の、もはや動かしがたいものとなって
いる孤独の堅い殻を見た。

17煌月の鎮魂歌 2 5/13:2015/03/11(水) 02:06:58
 この青年が見送ってきた人間たちの数の多さを知った。いつまでも若く美しいままの
彼の前で、どれほどの人間が生まれ、育ち、年老いて死んでいったことだろう。彼に
とって人の一生は蜻蛉にも似てはかなく、やるせないものだったに違いない。
「やめておくことだ」
 不意にアルカードが言った。
「なに?」
「人を哀れむことは」
 なめらかに彼は続けた。
「軽率に他人を哀れんだりするものではない。自分が哀れまれたくないのであれば、
ことに」
 ユリウスは動揺した。それから腹を立てた。自分の心を読まれたことと、ことも
あろうに自分が哀れみなどという感情を抱きかけたことを指摘されたこと両方に。
「誰が」
 ユリウスは乱暴に立ち上がるとテーブルからウイスキーの瓶をつかみ取り、歯で蓋を
開けて吐きとばした。ラッパ飲みで中身を飲み下す。焼けるような酒精が喉を下って
いき、怒りをさらにあおった。
「で?」
 ひと飲みで底が見えるほどに減った瓶を提げたまま口をぬぐい、脅すような視線で
銀髪の青年をねめつける。
「こんなところまでベルモンドの至宝の片割れがしゃしゃり出てきたのは、いったい
何の用だ。俺をわざわざあの名で呼んだ以上は、あんたは俺の名に用があるってわけ
だ。今まで放りっぱなしにしておいた私生児に、今さら何の意味がある」
「決戦の刻が迫っている」
 とげとげしい視線に貫かれながら、青年の顔は遠い月のように静かだった。
「一九九九年、七月。ベルモンド家が待ち望んだ、完全に魔王とその闇の血を封印
できる合の刻だ。魔王は現世に降臨し、すべてを破壊するだろう。その前にわれわれは
それを阻止し、永遠に彼を封じねばならない」

18煌月の鎮魂歌 2 6/13:2015/03/11(水) 02:07:40
 鼻を鳴らしただけでユリウスは横を向いた。
「……だが、鞭の使い手がいない」
 わずかに声のトーンが落ちた。長い髪が揺れ、けむるような睫毛が氷青の瞳に影を
落とした。
「現当主ラファエル・ベルモンドは先日、魔物の襲撃を受け、撃退には成功した
ものの、脊髄を損傷して下半身不随となった。もはや鞭を振るうことはできない。
前当主ミカエル・ベルモンドが急死し、当主を継いですぐのことだった。魔王封印には
〈ヴァンパイア・キラー〉、最初の戦いの時より魔王と闇を封じるために存在する
あの鞭と、その使い手が不可欠だ」
 ユリウスの眼が危険な色を帯びはじめていた。歯が牙のようにむき出され、薄い唇が
笑いににた形にひきつっている。ストリートの住人たちや、彼の手下どもが一目見た
とたんに震え上がる悪魔の微笑だ。
「それであんたが、俺を拾いに来たってわけだ」
 ほとんど陽気にすら聞こえる声でユリウスは言った。
「そうだ」
「使いもんにならなくなっちまったベルモンドの代わりに新しいベルモント、そういう
ことか? くそったれな魔王を封じるためにくそったれな鞭を使える別の人間が
必要だ、だからこのくそったれな街に放り出しておいたくそったれなあばずれに
生ませたガキを迎えに来たって?」
「そうだ」
 ユリウスは大きく腕を振りかぶると、ウイスキーの瓶をアルカードの白い顔めがけて
投げつけた。
 アルカードはまばたきもしなかった。瓶はぎりぎり彼の銀髪の先をかすめて飛び、
壁にぶち当たって砕けた。
 安いアルコールの臭いが立ちのぼった。飛び散ったかけらがアルカードのなめらかな
頬に赤い筋を一本つけていた。怒りに肩を上下させるユリウスの目の前で、その小さな
傷は溶けるように薄くなり、三秒とかからずに完全に消えてしまった。

19煌月の鎮魂歌 2 7/13:2015/03/11(水) 02:08:25
「ふざけるんじゃねえ」
 絞り出すようにユリウスは言った。
「今さら俺がベルモンドに何の用事があるってんだ。俺はこの街で一人で生きてきた、
いいか、一人でだ。おふくろは俺が三つの時に通りすがりのヤク中にめった刺しに
されて死んだ。誰も俺を助けちゃくれなかったし、頼るものなんぞ何もなかった。
泥水と腐った野菜で生き延びてたガキを、当主が使いもんにならなくなったからって
いきなり本家に迎える? お笑いだ。冗談もたいがいにしやがれ」
「おまえのことはいつも捕捉していた」
 壁際で砕けた瓶に、アルカードは目を向けもしなかった。
「母上のことも、境遇のこともミカエルは把握していた。何度かは迎えをやろうとした
こともあった。だが、彼の妻が拒否した。胎違いの兄弟の存在など、争いの元だと
言って」
 燃えるようなユリウスの視線を、揺るぐことなくアルカードは受け止めた。
「ラファエルは有能な使い手だった。十五歳の時にはすでに父親を凌駕する技量を
見せていた。彼がいれば決戦の刻も安泰だと誰もが言った。今さら後継者どうしの
内紛を招くような真似は不要だと」
「だから放っておいたと?」
 歯ぎしりの隙間からユリウスは問うた。
「そうではない」
 アルカードはゆっくりかぶりを振った。
「若い日とおまえの母上のことはミカエルも忘れたことなどない。おまえのことは
いつも把握していたと言ったはずだ。ベルモンドと〈組織〉は自ら表に出ることは
ない、それでも……できることはいくつかある」
 ユリウスの奥歯が大きくぎりっと鳴った。

20煌月の鎮魂歌 2 8/13:2015/03/11(水) 02:09:05
「つまり俺が生き延びてこれたのはベルモンドのおかげだってのか?」
 押し殺した声でユリウスは再び問いかけた。
「おふくろが挽き肉みたいになって道に倒れてたのもベルモンドのおかげか? 俺が
壁にかくれてそれを見てるしかなかったのも? 地面を這いずり回ってかじりかけの
ハンバーガーや泥みたいなジャガイモを拾い集めてたのも? 初めて武器を手に入れて
人を殺した時も? 全部あんたらの、ベルモンドの手の内だった、そういうこと
なのか?」
「……ミカエルは忘れてはいなかった」
 ただそう繰り返し、アルカードは目を伏せた。
「だが、彼は一私人である前に、ベルモンドの当主であり、〈組織〉の頂点に立つ
ものとして指揮を執らねばならなかった。彼にはなすべきことがあまりに多すぎた。
おまえの母上の死の直後に、すぐにおまえを引き取ろうとしたのだ。だがその時には
もうラファエルが産まれており、彼の妻とその一族が、こぞって反対した。〈組織〉
の分裂を防ぐために、彼は断念するしかなかった。彼にできることは、幼いおまえが
本当に危険な目にあわないよう、陰から守りつづけることしかなかったのだ」
 一瞬、目もくらむばかりの怒りと屈辱に、ユリウスは口もきけなくなった。
 これまで彼は、この弱肉強食の都市でたった一人で生き延び、道を切り開いてきた
のだと思っていた。汚辱の街で蛇と呼ばれ、悪魔と怖れられる彼の、それが誇りであり
矜持でもあった。
 だがそれが、実は顔も知らぬ父親の手がまわされており、憎み続けたベルモンドの
名によって庇護されていたのだと知らされた今、はらわたが怒りで痛みを感じる
ほどによじれた。
「そいつを聞いて俺にどうしろと?」
 声の震えを抑えられなかった。
「膝をついて感謝して、亡きクソ親父に祈りでもささげろってのか? それで言う
とおりにくそったれベルモンドの一員になって、魔王だかなんだか知らんがわけの
わからんたわごとに手を貸せと?」

21煌月の鎮魂歌 2 9/13:2015/03/11(水) 02:09:54
 アルカードは黙ってユリウスを見つめた。そこには何も映ってはおらず、どんな
意図も浮かんではいなかった。彼はただ真実を述べただけであり、それをユリウスに
対する担保として使おうとはしていないことが、ユリウスの鍛えられた目にはすぐに
理解できた。
 だが、感情は許さなかった。全身をめった刺しにされた母の死骸の上でジグを踊っ
ていたヤク中のぽっかり開いた口と、垢と母の血にまみれた裸足が目の前を行き来
した。異臭のするフライドチキンの骨からわずかな肉をかじりとった時の舌をさす味
をはっきりと感じた。
 ひとりスラムに放り出された幼い子供がたどる多くはない運命──狼どもの手で
さんざんおもちゃにされたあげく首をひねられるか、紳士面の変態趣味の奴らに
供される人肉になり果てるか、豚のように殺されて腑分けされ、あらゆるパーツを
金にするためばらばらにされて冷凍庫に納められるか──確かにそのどれも、
ユリウスには起こらなかった。だがそれ以上の幸運も起こらなかった。
 四歳で他人の懐を狙うことを覚え、六歳ではじめて自分のナイフを手にし、
七歳の時に最初の殺人を犯した。その時にはすでに当時一帯を支配するギャングの
使い走りとして働いており、殺人も日常の退屈な出来事のひとつにすぎなかった。
子供の手に正確に心臓をひと突きされ、何が起こったのかわからないまま死んでいく
相手の目を無感動に見つめていた。特別な感慨も衝撃もなく、ただわずかに手を
汚した返り血がわずらわしい感触を残した。相手が誰で、どういう理由で殺したのか
さえ覚えていない。たぶん密輸かヤク絡みの何かだろう。
 それから一年の間にさらに五人、二年目には八人殺していた。得物はナイフから
ロープに、そして自分で工夫した革をよりあわせた鞭に変わった。十五歳の時に
その鞭で、女を抱えてたるんだ体を震わせているボスを、女もろとも手下どもの
前で殺した。〈赤い毒蛇〉、生きているような鞭扱いで犠牲者をいたぶる、赤毛の
悪魔が誕生した瞬間だった。

22煌月の鎮魂歌 2 10/13:2015/03/11(水) 02:10:44
 ベルモンドという名前の持つ意味と影響力も知ってはいたが、自分には関係の
ないことだと思っていた。周囲とはまた別の意味で、その名前はユリウスにとって
禁忌だった。顔も知らない父親がつけたという名も、その姓も、ユリウスにとっては
吐き気をもよおすものでしかなかった。
 うっかり口にしたばかりに命を落とした者が十人を数えた時点で、誰もその名を
出さなくなった。ときおり抗争相手でこちらを怒らせるためにあえてその名を呼ぶ者
もいたが、彼らは例外なく自らの考え違いを呪いながら、じっくりと時間をかけて
地獄に送り込まれた。
 ただジェイとだけ呼ばれること、そう呼ぶことさえただならぬ恐怖を伴わせる
ことが、ユリウスの満足だった。〈赤い毒蛇〉。ブロンクスの悪魔。口にするだけで
凶運を呼び込む存在。
 遠い日、母親の死体を踏みにじっていた汚い裸足のかわりに、ユリウスはブロンクス
の汚辱の上で踊っていた。すべてを血まみれのブーツの下に踏みにじり、毒蛇の
ひと噛みのように一瞬で死を与える鞭を手にして、自分がくぐり抜けてきた暗黒を
足下に従えること。それがユリウスがやってきたことであり、これまでもやりつづける
だろうことだった。
 この銀髪の異邦人がやってくるまでは。
「魔王はたわごとなどではない」
 アルカードははっきりと言った。
「お前が信じるか信じないかは自由だ。だが魔王の降臨を止めないかぎり、人の世は
魔界に飲み込まれる。人は地獄を目の当たりにするだろう。生きたまま悪魔にむさぼり
食われ、玩具として扱われるだろう。人の築いてきた文明は崩れ去り、ただ血と殺戮が
大地と世界を覆いつくす」
「悪魔ならここにいる。地獄もここにある」
 毒々しい笑い声をユリウスはあげた。

23煌月の鎮魂歌 2 11/13:2015/03/11(水) 02:11:28
「悪魔は俺だ。地獄はここだ。魔王だと? 好きなようにすりゃあいい、構うもんか、
どうなろうと。くだらねえ、どいつもこいつもくだらねえ、めんどくせえ腰抜けの阿呆
ばっかりだ。文明なんてお綺麗な題目なんぞ最初から嘘の皮だ、ここで暮らしてる奴ら
なら全員そんなこと百も承知さ。食われる相手が同じ人間から本物の悪魔に変わるから
って、今さら何がどうなるってんだ」
「世界はここだけではない。ほかの場所で闇とも恐怖ともかかわりなく、穏やかに
暮らしている大勢の罪もない人々がいる」
「だからってなんで俺がそんな豚どものために力を貸してやるんだ?」
 牙のように歯をむいてユリウスは冷笑し、唾を吐いた。
「嫌なこった。そいつらは俺のためになにもしてくれなかった。だったら俺がそいつら
のためになにかしてやる義理はあるのか? なにもねえな。お生憎だ、俺は自分に関係
のない奴らのために動くほどお人好しでも暇でもねえ。帰んな、ベルモンドの犬」
 脇に置いていた鞭をとって突きつけ、ユリウスは目を細めた。
「ラファなんとかいう当主に言ってやれ、やりたきゃ自分でなんとかしろ、俺には関係
ねえってな。当主争いは起こしたくないってんだろ? 俺もそんなもんに関わる気は
ない。滅ぶなら勝手に滅びゃいい、自分が死ぬときだって俺は大声で笑ってやるさ。
このうんざりな世の中が本物の地獄に覆われるってんなら、その方がよほどさっぱりする」
 短い沈黙があった。
 青年は彫像のごとく静止し、自分が引き起こした静けさにもかかわらずユリウスは
ひどくいたたまれない心地になった。そんな自分にまた腹を立てた。もう一つ、酷い
罵声のひとつも浴びせかけてやろうと口を開きかけたとき、彫像の唇がかすかに動いて
か細い言葉をはいた。
「……私に、なにかできることはないか?」
 表情は変わらないまま、そこには変えられない壁を前にした嘆願と、ほとんど哀訴の
響きさえ込められていた。

24煌月の鎮魂歌 2 12/13:2015/03/11(水) 02:12:17
「ああ、そうだな」
 相手が沈黙を破ってくれたことに内心強烈な安堵を覚えつつ、ユリウスはベルトの
ないレザーパンツに手をあてて卑猥な仕草をしてみせた。
「あんたがそこに這いつくばって、俺のブツでもしゃぶってくれりゃ、少しは考えて
やってもいいかもな」
 アルカードはまばたきひとつせず、その言葉を受け止めた。
 青年が、その気になれば思いのままに人を従わせる能力を持っていることをユリウス
は本能的に察知していた。半吸血鬼という生まれが本当であることも。弱い者は
たちまち食い殺される場所で生きぬいてきた者は、強い者、異質な者、自分を
従わせることのできる者を一瞬で見分けるようになる。アルカードという青年は
そのすべてに該当した。
 地面に転がって呻いている手下どもの中に立つすらりとした立ち姿を見た瞬間から、
わかっていたのだ。鞭の一撃をとばしたのも、思い返せば禁忌の名で呼ばれたその事
より、自分よりもはるかに強力な者が現れたことに対する反射的な自衛のようなもの
だった。抵抗したところで効果などないことも、すでに知っていたように思う。
 だがアルカード、ベルモンドの至宝たる彼はそれをしないのだ。力で従わせることを
是とせず、あくまでユリウス自身の意志で、ベルモンドへの帰還と鞭の主となることを
求めている。
 苛立たしくてたまらなかった。他人を従わせる力を持つために、この腐りきった場所
でユリウスが積み上げてきた血と泥の足跡の一つ一つをかるく凌駕するだけの力を
持ちながら、それをふるおうとしない彼が。
 力で他人の意志を曲げさせるにはあまりに誇り高すぎる、とユリウスは思い、
まばゆいばかりの青年の姿を呪おうとした。他人を力で意のままにするという卑しい
行為には、自分は高貴すぎるとでもいうのか?
 だができなかった。青年はあまりに美しく汚れなく、どんな怒りも呪いもその大理石
のような肌に触れることもなくすべり落ちていくかのようだった。

25煌月の鎮魂歌 2 13/13:2015/03/11(水) 02:13:02
 人間の手には触れられない月、とユリウスは思った。天の高みで冴えざえと輝き、
こぼれるほどの光で冷たく青く地上を照らしながら、その面には誰も近寄せず、
どんなに手を伸ばしても届くことのない。
 さあ怒れ、とユリウスはわずかに目を伏せて動かないアルカードに向かって心で
叫んだ。
 無礼を怒って椅子を蹴れ、その綺麗な口から罵りの言葉を吐いてみせろ、遠い月の
顔の中にも触れられる感情があると見せてみろ。
 俺にも動かせる場所が、お前の中にあることを見せてくれ。
「……それが、お前の条件か」
 長い間に感じたが、おそらくほんの十数秒にすぎなかったのだろう。アルカードの
唇が動き、前と同じく澄み切った水晶のような声をこぼした。
「わかった。そうしよう」
 アルカードは立ち上がった。長い銀髪が雲のようにたなびいた。
 すべるように彼がきて足もとに膝をつく間、ユリウスは動けなかった。自分自身の
発した言葉に縛られ、声さえ立てられなかった。
 汚れた床にためらいもせず彼は這った。麻痺したようなユリウスの腰に手が伸ばさ
れ、レザーパンツの上を冷たい細い指がすべった。
 白く輝く顔が近づいてきた。夢の中の月のように。

26煌月の鎮魂歌 3 1/7:2015/04/06(月) 07:42:36
           3

 悪夢を見ている気分だった。それとも麻薬の夢か。
 コカインもヘロインもやったことはある。もっとキツいやつも。酷いやつも。
〈赤い毒蛇〉のもとにはすべてが集まってくる。悪魔のもとにご機嫌伺いに差し
出される中には人間もあればクスリもある。徹底的に最低なやつが。天使の顔と
身体を持ち、地獄の口と指とあそこを持った女や男。
 ベッドの端に腰かけて、ユリウスは足の間でゆっくり動いている銀色の髪を
見ている。ヴェールのように垂れかかっている髪をかきあげたくてたまらないが、
麻痺したように身体が動かない。
 部屋の中が急に熱くなった気がする。地獄の炎であぶられているかのように。
その中で白い顔と指だけが涼しげに音もなく動いている。たてているはずの音は
すさまじい耳鳴りに邪魔されて聞こえない。
 ときおりちらりと見える自分自身の肉──すさまじいばかりに怒張したペニスが
何か別の物体のように思える。自分とは切り離された異様なエイリアンの器官の一部。
だがそいつが伝えてくる感覚がユリウスの心臓を一秒ごとに絞り上げ、溺れた者の
ように喘がせ、罵りの言葉ひとつ発することができなくさせている。
 巧いわけではない。むしろ下手だ。この街では七歳の子供でももっとうまく男の
ものをくわえる。キャンディ・バーをしゃぶるより早くやり方を覚えるのだ。そうで
なければ生き残れない。ユリウスは子供は好みではなかったが、ポルノ・ショップの
前に立つ娼婦や男娼たちにしばしば十歳以下の少年や少女が混じっているのは常識だ。
 腐りかけたニンフェットたち。部下たちがときどきそうした子供を買っては殴り
つけ、楽しんでいるのも知っている。好きにさせておいた。誰でもみな生きなければ
ならない。あのガキどもも自分たちにできる仕事で稼いでいるまでだ。
 心臓の鼓動が激しすぎて目がくらむ。喉がかわく。
 ユリウスはまばたきして目に入る汗を払った。指一本動かせない今の状態ではそう
するしかなかった。
 銀色の髪がさらりと揺れて、青年の横顔が見えた。なんの動揺も、嫌悪感も見せず、
男のペニスに指をからめている。煙るような睫毛を伏せて、手のひらに乗せた肉塊を
撫でさすっている──恐ろしいまでに場違いに見えるそいつに唇をあて、慣れない仕草
でくわえこむ。

27煌月の鎮魂歌 3 2/7:2015/04/06(月) 07:43:31
 小さい口にはとても全部入りきらないものをせいいっぱい飲み込んで動かし、小さく
むせて吐き出す。呼吸をととのえてまた手をのばし、支えるように捧げ持って横に唇
と舌をあてる──フルートを吹くように。
 どれもこれも下手くそだ。その辺の娼婦ならそろそろ苛立った客にブーツを口に
たたき込まれてポップコーンのように前歯をまき散らしている。
 だが、くそっ、俺は興奮している、とユリウスは爆発しそうな頭でようやく思った。
 せんずりを覚えたての中学生みたいに興奮している。体中の穴という穴から血を噴き
出しそうに興奮している。最悪の変態趣味の乱交ポルノムービーも鼻で笑った毒蛇が、
この銀髪の青年のつたない指先と舌と唇に、身動きもできないほどにからめ取られて
いる。
 震える手を苦労してのばして相手の髪をつかむ。つかめたことに内心驚きながらぐい
と上向かせる。
 青年はわずかに驚いたようにまばたいたが、抵抗しない。髪をつかまれたままじっと
ぶら下げられ、喉を鳴らしているユリウスの凝視を受け止める。
 唇がぬれて赤い。乱れた髪が額に二筋三筋散り掛かっている。それだけだ。何も変化
はない。降り注ぐ月光に似た冷たさと透明さ。
 突然の凶暴な怒りにかられて、ユリウスは力任せに白い頬を殴った。二度。三度。
 拳が当たるたびに天使のような頭はのけぞって力なく揺れた。肩で息をしながら殴打
をやめると、静かに顔をあげた。一瞬残った赤みがすぐに引いていき、なめらかな
純白の肌が戻った。なんの動揺も痛みも表さない、氷の青の瞳が見返していた。
「まだ続けるか」
 声もまた純白で透明、なんの感情も怒りも痛みも現れていない。
「それとも、こちらのほうを続けるか」
 殴られていた間も離さなかったらしい手のひらを示す。そこに乗せられた赤紫色に
膨れ上がったなにか、自分の一部とは信じがたいほど巨大に膨張した器官を目にした
瞬間、ユリウスの目の裏で赤い光がはじけた。
 ほとんど意味をなさない叫び声をあげながら銀の髪を手いっぱいにつかみ取る。
頭の皮ごとはがれかねない強さで引っ張り、相手の頭をわし掴みにして、その驚く
ほどの小ささを感じながら、開かせた口に膨れ上がった器官を突っ込む。

28煌月の鎮魂歌 3 3/7:2015/04/06(月) 07:44:14
 突然のことに青年がむせ、反射的に顔をそむけようとするのを強引に引きつける。
小さい頭、片手で握りつぶしてしまえそうな繊細な頭に鉤爪のように指を食い込ませ、
前後にゆさぶり、腰を叩きつけんばかりに奥へ突っ込む。
 期待したような抵抗はない。青年の動きはまったく反射的なもので、抗おうとした
手からもじきに力が抜ける。喉の奥を突かれるたびに身体がひくつき、咽せる息が
わずかに漏れるが、うすく開いたままの目にうっすらと滲んだ涙以外、なにひとつ
変わりはない。
「くそっ」押し殺した声でユリウスは呻いた。「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ」
 全身を電流が走り、目がくらんだ。手を離し、ユリウスは溺れかけた者のように空気
を飲み込みながらベッドに身を沈めた。
 離された青年はその場に倒れ込み、両手をついて起きあがった。掴まれていいように
振り回された髪は雨のように散り、床に乱れて輝いている。美しく。何にも触れられる
ことなく。
「終わったのか」
 月が言う。天の高みの月が。何にも触れられない、孤高の月が。
「まだ、するか」
 その口もとにわずかにこびりついた白いものに気づいたとき、ユリウスの腹の底で
赤い潮が弾けた。
 獣のような叫び声をあげながら彼は相手を突き倒し、腕をひねりあげて床に這わせ
た。
「何を……」
 腰を上げさせられ、ズボンとベルトを引きちぎるように脱がされるのに一瞬の抵抗が
あったが、頬を数発張るとすぐに力は抜けた。光る海のような銀髪が汚れた床を
覆った。犬のような姿勢をとらされ、むきだしにされた臀を高く上げさせられても、
髪に覆われた白い顔はなんの感情も伺えなかった。
 慣らしもせずに突きいれたとき、背中がびくりと反り、手足がこわばったが、
それだけだった。そらせた白い喉は息をのむように一度上下しただけで、床の上に
ふたたび俯せた。
 狭くてきつい内部をユリウスは強引にかき混ぜ、突き上げ、揺さぶった。これまで
どんなクスリも酒も与えてくれなかった強烈な、吐き気のするような快楽だった。
熱くやわらかく、地獄の娼婦のあそこのように絡みついてくるそこは煮え立つ陶酔
の沼だった。

29煌月の鎮魂歌 3 4/7:2015/04/06(月) 07:45:04
 ユリウスは唸り、一度達し、また達した。欲望はまったく衰えなかった。それ
どころか、よけいに燃え上がった。中に出されるたびに短く息をのむ相手の身体が
目のくらむほど輝いて見えた。肘から先を床につき、はげしく揺さぶられながら
身体を支えている彼の動きを見て、ユリウスはあることに気づいた。
「お前。知ってるな」
 耳障りな呼吸音のあいだから、自分がそう言うのをユリウスは聞いた。髪で半分
隠れた相手の頬に、確かにかすかな震えが走った。
「犯られたことがあるんだろう。男に。それも何度も」
 青年は小さく息を吸い込み、何か反論しようとするかのように身を起こしかけた。
だがそれも一時のことで、すぐに唇を結び、あきらめたように力を抜いた。
「売女が」
 顔をそむけ、蒼白になりながら横たわる犠牲者に、ユリウスは毒のような言葉を
吐きつけた。毒は彼自身の舌も焼いた。喉を焼き、胸を焼き、一言口にするたびに
彼が相手に与えようと思う以上の傷を彼自身にも焼き付けていった。
「売女。淫売。牝犬。何がベルモンドの至宝だ。どうせ代々の当主様とやらと寝て
きたんだろう。それとも男なら誰でもいいのか。半分吸血鬼なんだったな。男と
やって、それから血を吸うのか。俺のことも、新しいミルクが欲しいってだけか。
この、淫乱が。牝犬。売女。売女」
「ちが……」
 あげた微かな声は小さな喘ぎにかき消された。これまでより強引に腰を叩きつけ
はじめたユリウスの動きで身体が揺さぶられ、声すらたてられないのだった。
 なめらかな内腿に精液と血が伝い落ちていく。上着が脱げ、乱れたシャツが
かろうじて引っかかっているだけの反った背中に爪を立てて、ユリウスは思いつく
かぎりの罵倒を嵐のように吐き続けた。売女や淫売はごく穏健なほうだった。
この地獄の街の最下等の娼婦でさえも顔色を変えるほどの悪罵が投げつけられた。
 呪詛にも似たそれを全身に浴びながら、青年はやはり動かなかった。苦痛に青ざめ、
大理石のような肌をいよいよ白くしながら、どんな罵倒にも屈辱にも殴打にも反応を
示さない。

30煌月の鎮魂歌 3 5/7:2015/04/06(月) 07:45:58
 それがいよいよユリウスを怒らせ、さらなる暴力に駆り立てた。上質なスーツの
上着の残骸がはぎ取られ、立てられた爪がいく筋もの赤い傷を作ってすぐに癒えて
いく。何度作っても消える傷に苛立ち、同じ傷をえぐるように爪を突き立て、噛み
つき、歯を立てる。
 血の味が甘く舌に溶けた。吸血鬼に血を吸われた者は吸血鬼になる。吸血鬼の血を
飲んだ者はなんになるのか。芳醇なワインのような数滴の血は味わったこともない
魔薬だった。夢中で腰を打ちつけ、毒の言葉を注ぎかけながら、ユリウスは甘い血と
肉をむさぼった。すぐに治ってしまう傷を舌でさぐり、食いちぎり、痛みと血を
そこから搾り取ろうとした。
 貫かれ、食われ貪られながら、青年はただ無抵抗に身を投げ出していた。うすく
開いた目にわずかに涙がにじんでいるほかは、ときおり震える息をついたり深々と
突かれて身をこわばらせたりするだけがすべてだった。人形同様に膝を立て、される
がままになっていることがよけいにユリウスを怒らせるのを知ってか知らずか、嵐の
吹きすぎるのを待つ花のようにじっと頭を伏せている。
 開いた喉もとになにか光るものがあった。血にくらんだ目でユリウスはそれを見た。
細い、古びた金の鎖。そう頭の端で思った。
 ぐいと大きく腰を進められ、声もなく青年は身をのけぞらせた。乱れたシャツの中
から鎖の先についたものが転がりだした。金色の、丸い、指輪のようなもの。男物の、
ごつい金の印章指輪──
 だがきちんと視界にとらえるより前に、さっと動いた青年の手がそれを隠した。
それまでの無抵抗が嘘のような素早い動きで青年は指輪をつかみ取り、手の内に
握りこんで引き寄せた。自分以外の誰の目に触れることも許さない、そんな動き
だった。
 握りこんだ拳を口もとに引き寄せ、唇がかすかに動いた。短い言葉が祈りのように
繰り返され、かたく閉じた目から涙がこぼれて落ちた。
 なんと言ったのかは聞き取れず、手の中に隠された何かを知らそうとしないことが
いっそうユリウスを激高させた。唇に甘い血をなめながら、ユリウスは獣と化して
責め立てた。

31煌月の鎮魂歌 3 6/7:2015/04/06(月) 07:46:44
 どんなにいたぶっても、殴られ抉られ痛めつけられても、拳はけして開かなかった。
ほとんどされるがままの青年の中で唯一力を持つもののように、かたくなにそれは
あった。汚れた床の上にたったひとつ残った、白く輝く意志。それはユリウスの、
こじあけて中を見てやろうという気持ちさえくじくほどの、強烈な拒絶を内包
していた。
 唸り、吠え、罵りながら、ユリウスは青年をただ犯した。銀色の月、天空にあって
ただ動かない、冷たい魔物の月を。

 
 汗と血と、──精のにおい。
 濁った空気の中に、ユリウスは手足を投げ出していた。指一本動かすのも億劫なほど
だった。肉体的にも、精神的にも。身体の下に汗で湿ったマットレスがあるのが
ようやくわかる程度だった。天井は霞がかかったように曇り、裸電球の光が橙色の
靄に見える。
 呼吸するのさえ一苦労だった。全身の力という力を使い果たしてしまったように
思える。
 長い時間だったのか、短い時間だったのかもわからない。朝なのか、夜なのかも
まったくわからない。外でいつのまにか百年が過ぎていたとしても、今のユリウス
なら受け入れたろう。
 頭が割れそうに痛む。たちの悪い酒を飲み過ぎたあとのような──だが、これまで
どんな酒だろうとクスリだろうと、バッドトリップの経験はなかったのだ。この美しい
魔に触れるまでは。
 きしむ首を無理に曲げて、ユリウスはベルモンドの使者のほうへ目を向けた。
 彼もようやく起きあがったところだった。いつまで続いたとも知れぬ激しい陵辱が、
さすがに彼の身体にもいくつかの痕跡を残していた。内腿にこびりついた血と精液の
跡、肩口や首筋に残る血、避けた服、透き通りそうなほど蒼白な頬。唇には噛み破った
あとがあり、朱い唇をいよいよ赤く染めている。
 むき出しの下肢をよろめかせつつ、壁にすがって立ち上がろうとするところだった。
今はかろうじて残骸が残っている程度のシャツの胸元、金鎖に通された何かをまだ
握りしめている。それが唯一の拠り所のように、しっかりと胸に押しつけて。

32煌月の鎮魂歌 3 7/7:2015/04/06(月) 07:47:28
 われ知らず、ユリウスは手をさしのべようとした。なぜ自分がそうしたのかわから
なかった。裸足の足の痛々しさに、むきだしの腰の細さに、引き裂かれた布に覆われて
いるだけの薄い肩に──手を触れて、支えてやりたいという闇雲な衝動がつきあげた。
 ゆっくりと顔がこちらを向いた。乱れた銀の髪の雲の向こうで、青い瞳が見つめて
いた。かすかな金色の光が奥で揺れていた。
「満足か」
 かすれていたが、言葉ははっきりしていた。ぎくりとユリウスは身を引いた。そして
自分が何をしようとしていたのかいぶかしんだ。
 青年は静かに、ただそこにいた。血と精液に汚され、血肉を食いちぎられ、服を引き
破られて体内までもさんざん蹂躙された直後にも関わらず、その声には一点の曇りも
なかった。
「私はお前の条件を飲んだ。今度はお前が私の申し出を飲む番だ」
 ユリウスは動けなかった。ブロンクスの悪魔、〈赤い毒蛇〉ともあろう彼が。
 悪罵も嘲弄も憤怒も、胸の中のすべてが死んでいた。酷い無力感と敗北感──普段の
彼であれば殺されようが認めなかったものが重くのしかかってきた。ユリウスは
はっきりと感じた。
 自分が敗北したことを。
「私とともに来てもらおう、ユリウス・ベルモンド」
 美しい声が弔鐘のように鳴り渡った。
「街の外に車を待たせてある。持ち物は要らない。すぐに出発する」

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