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ラノロワ仮完結作品投下スレッド

65片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:51:46 ID:vP/xCASw
「子爵、千里の傷を――!」
 ブルー・ブレイカーとクレアは再び戦いを始めている。
 いや、よく見てみれば先ほどの戦いとは若干違う箇所があった。
 クレアは始終、ブルー・ブレイカーの攻撃を避けるに専念している。攻撃の意思がまったくない。
 それは単に手持ちの武器では傷を与えられないということを理解したというだけではなかった。
 その場に留まり続け、ブルー・ブレイカーを牽制する。治療の妨害だ。
 ブルー・ブレイカーは子爵を頼ったようだが――
【心得た、といいたいところだが……】
 赤い液体が緩慢な動きで風見の傷口を覆った。
 念力を応用しての止血。だが、もとよりそれはさほど強いものではない。
 完全には、止まらない。
(長くは、もたないな)
 ――彼女も、私自身も。
 倦怠感――いや、これは自己が希薄になっていく感覚だ。
 能力の制限下においても、子爵はほぼ不死身の身体を持っている。
 だが、それを維持する為のエネルギーの消費はこの島に来てからかなりの増大を見せていた。
 先刻喰らった茉衣子の蛍火の影響で、その不足は決定的なものとなった。
 それでも、このまま動かなければ生き延びられるかもしれない。朝を待てば再び光によって養分を蓄えられる。
 風見・千里を見殺しにすれば。
(馬鹿な。それは紳士の行いではない)
 疑問すら差し挟む余地は無い。
 だがこのまま止血を続けてもあまり意味がないことも事実である。
 もっと適切な処置が必要だ。そして不幸なことに、いまこの場でそれが出来るのは怪我をした当人だけだった。
 子爵は気力を振り絞り、風見の前に血文字を作って見せる。
【風見嬢、気をしっかりと持ちたまえ――風見嬢!】
 反応は、無い。
 子爵は歯噛みをするような気持ちで周囲の惨状を見渡した。
 すでに相当量の血が流れ出てしまっている。おそらく、風見の意識は限りなく薄い。
 子爵の血文字を見ることさえ、叶わない。
 手段は、ある。手段はあるのだ。風見の意識が戻りさえすれば。
(ええい、声帯の無い我が身を悔いることになるとは!)
 死に逝く少女と、消え逝く吸血鬼。
 二人の意識は薄くなっていき、そして――

66片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:52:54 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 ――意識が薄れていく。
 風見・千里。彼女は忘我の淵にあった。首を切り裂かれた痛みは全く感じない――むしろ失血による体温の低下を心地良くすら感じた。
 致命傷だ。風見は確信していた。
 怪物の太刀筋は見事の一言に尽きる。
 脊髄を断ち切って即死させることもできただろうに、動脈のみを綺麗に切り裂いたのは刃の消耗を避けるためだろう。
 あの怪物にとって、風見・千里という人間はその程度の意味しか持っていない。全力を尽くさねばならない相手では決してない。
 悔しい、馬鹿にしている、ふざけるな――いつもの彼女ならそんなことを思ったかもしれない。だが血圧の低下は感情の起伏すらも失わせていた。
 いまはただ、只管に眠い。
 遠くで――今の彼女の感覚で察知できるぎりぎりの距離で、打撃音が響いていた。戦っている――
(誰が?)
 知っていたはずだが、思い出せない。そして、それがさして重要なことだとも思えない。
(もう、いいか――どうでも)
 死は柔らかい毛布に包まるのと同じだ。朝起きてから二度目の惰眠を貪るような心持ちで、彼女は暗く深い所へと落ちていく。
 二度と目覚めることのない眠り。死神は死者が安眠できるように便宜を図ってくれる。
 部屋の明かりを落として、脳髄にミルクを一滴垂らし、ゆっくりと確実に意識を混濁させてくれる。
 朝日は訪れない。鶏は鳴かない。目覚ましも騒がない。
 だが、それでも。
 彼女に安眠は訪れなかった。
 静寂が取り払われる。喧しく、耳障りな、それでいて死神の囁きよりも心地よい、
「――千里ぉぉぉぉおおおおおおお!」
 そんな馬鹿の声だけは、彼女の耳に響いて。
「……遅いのよ、バ覚」
 ともすれば吐息と錯覚しかねないほど掠れた声が虚空に染み込んだ。

67片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:53:44 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 偶然だった。出雲とアリュセがこの瞬間にこの場所を訪れたというのは偶然の産物に過ぎない。
 アマワが零時迷子によって復元された獣精霊の炎に焼かれる寸前にもたらされた、最後の偶然。
 しかしそれが仕組まれた偶然であったなら、それは何を意図してもたらされたものなのだろうか。
 見たままにデッドエンドの悲劇か、それともここからハッピーエンドへの逆転劇へと転じるのか。
 少なくとも、出雲・覚はバッドエンドを望まない。叫びながら駆け出す。倒れ伏す風見・千里を目指して。
「おっと――お前はそいつを助けられない」
 想い人に駆け寄る男に、同じ絶望を味わえと怪物が嘲笑した。
 突如現れた出雲に対して迅速に反応し、クレア・スタンフィールドが転進する。
 BBによって横一文字に振られた木刀をしゃがんで回避。そしてそれ自体が次の行動の為の予備動作。
 撓めた膝のバネを利用して跳躍。得物を振り切った機動歩兵の横を軽々と飛び抜けて――
「行かせると――」
 ブルー・ブレイカーが足止めの意思を見せる。
 だが彼は既に攻撃を終えてしまった。再度武器を振りかぶる時間はない。
 問題はない。彼は人ではない。彼にしかできない足止めの方法もある。
 突如飛び出した蒼い壁が、クレアの視界いっぱいに広がった。
 飛行ユニットを再展開し、自身の脇をすり抜けようとしたクレアの進路に鋼鉄の翼を広げたのだ。
 空中での急激な方向転換は人間には不可能だ。それこそ、奇術でも使わなければ。
「いや二度目だぜ、それ」
 だが怪物には通じない。クレアの跳躍の軌道が変化。BBの飛行制御翼をひらりと飛び越えた。
「なっ――!?」
 振り返った時にはすでに遅く、クレアは既にBBの振るう梳牙が届く範囲から離れている。
 何のことはない。クレアがしたのは単なる跳び箱運動だ。
 飛び出した翼のふちに手を掛け、飛び越えた。種を明かせばそれだけに過ぎない。
 だがそれを全力の跳躍中に、しかも突如出現する目標に対して行えるというのは異常だ。
 その一連の動作を見て、出雲は直感した。相手は自分よりも強い。少なくとも、接近戦においては。
 ならばこのまま近づくのは得策ではない。鋼鉄の壁を飛び越え、尋常ならざる速度でこちらに突進してくる男を見て出雲は冷静に分析した。距離を取るべきだ。
「うるせえ関係あるか!」
 だが止まらない。合理的な思考は、激情を以って打ち砕かれる。
 出雲は右手でナイフを鞘から引き抜いた。狙いは敵の心臓。躊躇いなく突き出す。
 抵抗なく、ナイフの柄までが相手の胸に埋まった。だがその望外の成果に満足することなく、出雲は怪物の横をすりぬけ――
「なあ、実はこれロボットも切断できる魔法のナイフだったりしないか?」
「なっ――!?」
 そして、それが唯の夢でしかなかったことを思い知らされた。
 自分が握り締めていたはずのナイフが、いつの間にか敵の手の内にある。
 柄まで完全に刺さったと思ったのは奪われていたからで、自分はただ空の拳を突きつけただけだった。
 その拳の威力すら完璧な体捌きによって殺されている。ならば次に訪れるのは――
「まあ、お前で試してみるか」
 出雲・覚の死だ。振り上げられる銀の軌跡を見て、それを認識する。

68片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:54:44 ID:vP/xCASw
「伏せて!」
 鋭い声と、頬を炙る熱量。その両方を知覚した出雲は反射的に全身から力を抜き、地べたを転がっていた。
 その上を通り過ぎていく火球。弱体化しているとはいえ、直撃すれば一撃で死をもたらすウルト・ヒケウの業。
「SFの次はファンタジーか! 節操ってもんを知らないのかね!」
 クレアが笑う。当然の如く、葡萄酒の名を冠する殺し屋もまた、その場から飛び退いて火球を避けていた。
 それでも怪物との距離が開いたのは幸いだった。その隙に出雲は立ち上がる。
 ごろごろと土の上を転がりまわって髪は土塗れ。それを振り落とすように頭を振った。
(――冷静になれよ、俺)
 無理な注文だとは思っても、そう自分に言い聞かせた。激情に任せて突進し、突破できるような相手ではない。
「すまんアリュセ!」
「全く! 静止する暇もなく飛び出すんですから!」
 ガサガサと、不必要に音を鳴らしながらアリュセが茂みから歩み出てくる。
 自分の存在を、数の優位を敵にアピールする。そんな重圧の掛け方。ただ、問題は――
(相手が、それで怯むかどうか分からないということですが)
 アリュセは思考する。先の火球は完璧なタイミングで放ったつもりだった。
 敵は出雲に完全に注意を向けていて、しかもこちらの魔法という手札を相手は知らなかった筈。
 それなのに、かわされた。
 数の上ではこちらが有利。だが、それでも彼我のパワーバランスがどうなっているのかまるで見当が付かない。それほどの敵だ。
(ここで戦うことは良策ではありませんわね。ならばまずは――)
 戦う理由を潰す。アリュセはクレアに向かって、鋭く声を張り上げた。
「そこの貴方! そちらの方々とどういう縁があって戦っているかは知りませんが、ここは一端お引きなさい!
 こちらは三人です。二人がかりで貴方を抑えて、一人が怪我人を治療できます。
 貴方はその女性を殺したい様子ですが、それは最早不可能です。
 ここで退いて頂けるなら、我々は追撃をいたしません」
 その宣言を聞いてまずブルー・ブレイカーが動いた。
 戦術的な状況判断において、自動歩兵たる彼は何よりも優れている。
 出雲とアリュセ側につくように立ち位置を変え、クレアと再び対峙した。
 アリュセの宣言において、三対一とは彼がこちらの味方につくことを前提としたものだ。
 蒼い機兵が風見・千里と如何なる関係であるか知らないアリュセにしてみれば、B.Bの動きは不安要素のひとつだった。
 それが無くなる。目論見どおりに状況が動いたことに、まずは息をつく。
「あー……なるほど、一理ある」
 出雲から奪ったナイフを検分するように手の中で弄びながら、クレアはうめいた。

69片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:55:31 ID:vP/xCASw
「確かに、いかに俺といえどもSFとファンタジー両方相手にしながら立ち回るのはちょっとしんどいかもな」
「会話で時間を延ばすことを考えているなら無駄ですわよ? 即答しないなら、私たちは先の通りに行動するだけ」
 BBが前衛に立ち、アリュセがそれを魔法で援護。出雲が風見の応急処置。
 おそらく、そんなところがベストだろう。怪物と対峙して殺されずに済むのは装甲を纏う蒼い殺戮者のみ。
 そして――その事実をその場に居る誰もが知っていて。
「じゃあ簡単だ。二対一にしよう」
 だけど、その事実を一番良く理解しているのは他でもない怪物自身で。
 バチン、と何かが弾ける音。薄く鋭い風切り音。
 それを耳にして、三人はそれぞれ別の行動を取った。出雲は身構え、B.Bは最早間に合わないことに歯噛みし、
 そして、アリュセは、
「――っ、ぁ……?」
 喉から刃を生やして、その場に倒れ伏した。
 スペツナズナイフ――柄の中に強化スプリングを仕込んだその特殊ナイフは、ボウガン並の速度で鋼鉄の刃を射出することができる。
 射程はおよそ10メートル。ギリギリだったが、クレア・スタンフィールドは難なくその奇襲を成功させた。
 そう――レイルトレーサーと対峙して"殺されずに済むのは"蒼い殺戮者のみ。
 倒れ伏す少女をさめた視線で見つめながら、最強の殺し屋がつぶやく。
「ファンタジーは、硬くないな」
「……てっめえ――!」
 再度激昂した出雲が踊りかかる。事実を忘れて、決して勝つことの出来ない怪物へと。
「返すぜ、これ」
 クレアが腕を振るった。投擲されたスペツナズナイフの柄が出雲の顔面に直撃し、視界を奪う。
 その一瞬の隙で、クレアは出雲との距離を零にしていた。逆の手に持っていたハンティングナイフが出雲の首筋に――
「させると、思うか!」
 三度目の正直。
 爆発的に膨れ上がる音の暴波。その場に存在する空気が、まるでその音に指揮されるかの如く踊り狂った。
 刹那、蒼い影がクレア目掛けて疾る。これまでのものとは段違いの速度。
「――とっぉ!」
 飛行用ブースターを吹かし、極限低空飛行を実施したBBがクレアに体当たりを敢行。助走も無しに自動歩兵を空へと持ち上げる超出力ブースターの突進である。
 流石にこの一撃は予測しきれず、クレアは紙一重でかわすものの体勢を狂わせられる。
「空まで飛ぶのか! SFは節操がない!」
 BBは突進が失敗に終わったと見るや否や機体に逆制動を掛けて急停止。
 地面すれすれを飛ぶ曲芸飛行など危険極まりない。少しのベクトル変化が大事故に繋がる。二度と試す気は無い。
 梳牙を片手に再び接近戦へと移行。攻守は完全に逆転。クレアが崩れた体勢を立て直す暇を与えないように計算して殴打を積み重ねる。相手の武装がこちらの装甲を貫けない以上、防御を気にする必要はない。
 一方、突進の余波に吹き飛ばされたのは出雲も同じだった。
 再び地面の上を転がり、そして立ち上がる。
(本当に――馬鹿か、俺は!)
 だが分かっていても、目の前で親しい間柄の人間が二人も殺されてかけていて冷静になれる人間など存在するのか。
 少なくとも自分はその類の人間ではない。
(だけど冷静に判断しなけりゃ死んじまう。俺が、じゃねえ。二人が死ぬ!)
 倒れ伏した二人。
 片方ではアリュセが首から金属片を生やし、もう片方では風見が首から血を流している。
 首からの出血は、危険だ。すぐにでも手当てをしなければ助からない。出雲は立ち上がり――
 だが、それならばどちらを先に手当てすべきか?
 そんな胸中に浮かんだ疑問に、意識をを絡め取られた。
 時間的に見れば、先に斬られた風見の方を優先するべきだろう。
 だがアリュセは肉体的に言えば小さな子供でしかない。体力、血液の量も大きくそれを裏切るということはないだろう。同条件ならアリュセは風見よりも早く失血によるショック死を迎える。
 いや――
 彼の勘が告げていた。おそらく、助けられるのは片方だけだ。
 ずっと探し続けていた元の世界の想い人か、それともそれを一緒に探し続けてくれたこの島での友人か。
(俺は……俺は……!)
 出雲は迷い、迷って、そして――
 それを決断させたのは彼ではなかった。
 ひゅぼっ、という空気が熱によって膨張する音。
 慌てて出雲が屈む。その頭の上をアリュセの放った火球が通り過ぎていった。
「アリュセ……?」
 喉元から鋼色の刃を生やし、口元からは鮮血を吐いて。
 それでも少女の目は力を失っていなかった。睨むような視線を出雲に注いでいる。
 それは、明確な拒絶の意思表示だ。自分ではなく、元の世界の知り合いを助けろと。
 向けられた、貴すぎる自己犠牲の意志。それを向けられ、出雲は――
「……すまん、アリュセ」

70片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 20:56:25 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「……すまん、アリュセ」
 呟いて、ようやくこちらに背を向ける男を見て。
 アリュセは溜息をつこうとして、だが気管を貫いた鋼鉄に邪魔されて咳き込んだ。
 この結末は、どこかで予想していたものでもあった。
 口の中一杯に広がる血の味を感じて、呻く。
 カイルロッド。イルダーナフ。そしてリリア。この世界に拉致された自分の知り合いは、すでに全員が死んでいる。
 後を追ってしまおうと考えたことはなかった。ウルト・ヒケウは、そこまで弱くない。
 だが、それでも自分の死の瞬間を想像したことがないとはいえなかった。アリュセという少女は、そこまで強くない。
(そう……結局、私にはこの島で生き延びようとするために必要な、明確な目的が無くなってしまっていた)
 行動するための目的。歩むための道標。それを失っていた。
 それでも、自分が真に孤独でなかったのは。
 だんだんと小さくなっていく男の背中。その光景が胸中にもたらすのは寂しさと僅かな痛痒。
 それでも、それを見つめながらアリュセは小さく微笑んだ。
 この絶望の島で、ずっと一緒だった馬鹿な男。
 立派な体格をしていると思っていた。だけど、いま見るとその背中は驚くほど小さく見える。
 あの背中に、自分は負ぶわれてきたようなものだ。
『別にいいじゃねえか? 縋るくらい』
 そう。あの時かけて貰った言葉の通り、自分はあの背中に縋っていたのだろう。
 だけど、あの背中は人ふたりを背負うには小さすぎる。
 そして、あの背中は本来、自分のものではない。
 だから、その背中は持ち主に返すべきだ。
(ですわよね、リリア……私も、貴女たちに会いたかったんですもの)
 ――それでも胸中の虚無は埋める事が出来ず。
 孤独による寂寥のみを看取り手に、小さな少女は息絶えた。

71片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:12:20 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 馬鹿がこちらに走ってくるのを捉えられたのはふたつの幸運のお陰だ。
 まずあの馬鹿が怪物に殺されなかったというのがひとつ。
 そしてもうひとつは、さながらゾンビの如く自分の視覚が働いていたこと。
 風見・千里は既に死人である――まだ意識が残っているというだけで。
(あの、馬鹿)
 駆け寄ってくる出雲を見ながら、そんなことを呟く。
 呟いたつもりだった。呟こうとしたつもりだった。だが実際に声は出たのか。それすらもう自分には分からない。
 そう――もはや自分は助からない。
 少なくとも自分の知る出雲・覚には救えない。
 なら、ならばせめて。もうひとり、出雲と共に現れた少女の方を助けて欲しかった。
 だがあの馬鹿はきっとそれをしない。
 そしてその事実が嬉しくもある。
 生存への希望は残されていない。だけどきっと自分はこの島の中では比較的幸福に死ねるのかもしれない。
 大切な人に看取られて死ねるのだから。
【私が見えるかね、風見嬢】
 だが、その弱気な思考を遮る様に赤い文字が視界をよぎった。
 返事をしようとして、声がでないことを思い出す。幸い、文字は間を置くことなく続いた。
【ああ、無理に返答はしなくていい。ただ、少しだけ聞いてくれ】
 そこで風見も気づいた。今の子爵には余裕がない。文字の綴り方も人が殴り書きをするのに近い。
 そして、それを証明するように子爵が文を続けた。
【どうやら 私はもうすぐ死ぬらしい】
(そう……悪いわね、付きあわせちゃって)
 どうやら表情筋くらいはまだ動くようだ。こちらの表情を読み取ったらしい子爵が取り繕うように文を綴る。
【何、君のような女性と共に逝けるならそれは光栄というものだよ……だが、私はその栄誉を受けるべきでない。せっかく君の想い人が来てくれたのだ。若い鴛鴦の番いを死に別れさせるというのは紳士的ではないな。むしろ縁結びを果たしてこそ、だ】
 無駄な長文。人で言うならば、それは空元気と呼べるものなのかもしれない。
【淑女にこんな台詞を言うのは紳士的にどうかとも思うが】
 一度、文章が途切れる。迷うかのような逡巡。
 それは、以前その行為を促した少女の未来を知っているからだ。それを繰り返すことになりはしまいかと自分は悩んでいるからだ。
 だが、それでも彼女は生きるべきだと思った。
【私を喰らいたまえ。それで君は生き延びることが出来る】
 食鬼人化。
 吸血鬼を喰らうことによってその力を手に入れることのできる儀式。
 子爵は変り種とはいえ吸血鬼だ。その体を喰らえば、吸血鬼としての性質を手に入れることができる。この場合は、子爵の不死性を。
 それでもこの傷から回復できるかは正直賭けでしかない。だが、どの道このままでは二人とも死ぬ。
【すまないが時間がない。吸血鬼になる、と聞いて想像されるようなリスクは殆ど無い、とだけ言っておく。生きたいのなら、早く……私が死ぬ前に。この身は灰にこそならぬだろうが、それでも死ねば残るまい】
 そう文字を綴りながら、子爵は体の一部分を風見の口元に伸ばしていった。少し唇を開けば子爵の"体"が流れ込むだろう。
【決断するのは、君だ】
 そう、最後に綴られる頃には。
 風見はもう思考すら満足にできないほど衰弱していた。脳に血液が回らない。だから自我のある血液を飲むなどというおぞましい行為への嫌悪もない。
 視界には、自分の傍に座りこんで何とか止血をしようとしている馬鹿の顔。
 彼女は決断した。

72片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:14:07 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 そして、その瞬間。

 ぐしゃり、と。

 風見の顔があった部分が、男物の革靴に占拠されていた。
 それはつまり、彼女の頭部が踏み砕かれたということで。
 脳を失ってしまえば、人は即死して。

 突然の事態に、出雲は驚くことさえできない。
 自分でも分かるほどの間抜け面で、その革靴の主を辿る。
 仰ぎ見れば、そこにはにっこりと満点の笑みを浮かべるクレア・スタンフィールドが。
「二度あることは――」
 殺し屋は自動歩兵を殺せない。
 そして、それと同じくらいブルー・ブレイカーではクレア・スタンフィールドを止められない。
「三度あるってことさ」
 踏みにじられた脳漿が飛び散り、出雲の頬に濡れた感触を与えた。
【貴様――!】
 その飛び散った赤い液体の中から乖離するが如く、激昂状態の人間が綴ったような荒々しい筆跡が浮かぶ。
 だがそれは一瞬で形を失った。ぱしゃり、という水音を最後に、もう動こうともしない。
 死したのか、それとも最早動くことすら出来ないのか――液状の吸血鬼の生死など、出雲には分からなかったが。
「あ……あ?」
 怒号を上げるべきだ。叫んで哀悼を捧げるべきだ。
 だが、できない。空気は声帯を素通りして霧散。出雲・覚は掠れた声を断続的に吐き出す。
「お前の女か。まあ、どっちでもいいが」
 その様子を見て、クレアは笑った。
 もしかしたらその笑いに激昂して自分は飛び掛ったのかもしれない。掴みかかったのかもしれない。
 だがどちらにしても同じことだっただろう。次の瞬間には顎を爪先で蹴り抜かれ、出雲は三度地面に転がされていた。
 加護がなければ顎の骨が砕けていただろう。もしかしたらその砕けた骨が脊髄を断っていたかも知れない。
 そうなればよかった。出雲は思う。死ねば良かった。無事だったからこそ、動けもしないのに相手の言葉だけが一方的にこちらを突き刺してくる。
「守れなかったのはお前が弱かったからだ。目の前にいたのに、お前が弱かったせいでてめえの女も守れない」
 クレア・スタンフィールドのその言葉にはどこか悔恨が滲んでいる。
 だが出雲にとってそれは知るところではない。ただ、その言葉は正論のように感じた。
 むざむざ目の前で、自分の女を殺されている。何故? それは何故?

73片翼たち ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:15:03 ID:vP/xCASw
 思考を断ち切るように風切り音。クレアに追いついたBBが梳牙を振るうが、それが掠りもしない事はすでに十分すぎるほど証明されている。
 悔しさに歯がみするという無駄な機能を自動歩兵が搭載しているわけもないが、それでもBBは思わずにはいられなかった。
 フレシェットライフルが、せめて内蔵のスタンロッドが残されていれば。
 ここまでの無様は晒さなかった。この男を殺せて、風見千里やさきほどの少女は死ななくて、そして彼自身の片翼ももしかしたら――
 だが所詮、それは無い物ねだりにすぎない。
 クレアは最後に、地面に転がったままの出雲に嘲笑した。
「お前は次に会うまで生かしておいてやる――俺の絶望の万分の一でも味わえ」
 そんな言葉を置き土産にして。
 見もせずに木刀の一撃を飛び退いて回避したクレア・スタンフィールドは、そのまま森の中に逃げ込んでいった。
 鬱蒼と木々が立ち込める中、巨体のBBでは追跡できない。それを理解しているのだろう。BBは無機質な光学センサーで逃走した方向を見つめこそしたが、それ以上は何もしない。
 その場に残ったのは二人だけ。倒れ伏した出雲と、立ち尽くすブルー・ブレイカー。
「出雲――出雲・覚か。風見・千里の知り合いの」
 状況から推察して、蒼い殺戮者が沈黙を破る。
 出雲は答えない。いや、答えられない。顎の痛みは退き始めたが、それでも何を話せというのか。
 再び、沈黙。どう話を続ければいいのか分からないのはBBも同じだ。
 あまりにも突然すぎる。あの怪物が僅か数分のうちに彼らの世界から奪っていたものが莫大過ぎた。
 だから、何をすればいいのかすら分からない。出雲は土の上に転がったまま、BBはその青年の様をじっと見つめる。
 風が、吹いた。二人分の新鮮な血の匂いが、流動する。
 長くここにいるのは、あまり推奨できる行為ではない。
「――なにか、できることはあるか」
 BBの口をついてでたのは、そんな言葉。
 そしてその言葉に出雲は反応した。表情は浮かべぬまま、ただぽつりと呟く。
「……穴を掘ってくれ」
「穴? 埋葬か?」
「ああ、俺はもう、駄目だ。無理だ。そんなものは掘りたくない」
 その時、唐突にBBは気づいた。
 この男が蹴飛ばされたまま起き上がらないのは、なにも見たくないからだ。立ち上がれば視界は広がる。状況を再度認識しなければならない。それを出雲・覚は頑なに拒否している。
「俺はもう――穴なんか、掘りたくない」
 脳震盪で万華鏡のように歪む意識と視界。それを味わいながら、どこか曖昧な言葉を出雲は口にする。

 そして、第四回目の放送が始まった。
 この場で死した、三名の名を含むであろう放送が。


【045 ゲルハルト・フォン・バルシュタイン(子爵) 死亡】
【074 風見・千里 死亡】
【104 アリュセ 死亡】

【残り 26名】

【B-6/森/2日目/00:00】

『亡失者たち』

【出雲・覚】
[状態]:脳震盪 左腕に銃創(止血済) 激しい喪失感 倦怠感
[装備]:エロ本5冊
[道具]:支給品一式(パン4食分・水1500ml)/炭化銃/うまか棒50本セット
[思考]:何もかもどうでもいい

【 蒼い殺戮者 (ブルー・ブレイカー)】
[状態]:精神的にやや不安定/少々の弾痕はあるが、今のところ身体機能に異常はない
[装備]: 梳牙 (くしけずるきば)、エンブリオ
[道具]:なし(地図、名簿は記録装置にデータ保存)
[思考]:不明/三者の埋葬。/火乃香の捜索?     
    /脱出のために必要な行動は全て行う心積もり?

※アリュセの死体にスペツナズナイフ(刃のみ)が刺さっています。
※B-6森にスペツナズナイフ(柄のみ)が落ちています。

【クレア・スタンフィールド】
[状態]:健康。激しい怒り
[装備]:大型ハンティングナイフ(片方に瑕多数、もう片方は比較的まし)x2
[道具]:デイパック(支給品一式・パン6食分・水2000ml)、コミクロンが残したメモ
[思考]:この世界のすべてを破壊し尽くす/EDをCDと誤認
    “ホノカ”と“ED”に対する復讐(似た名称は誤認する可能性あり)
    シャーネの遺体が朽ちる前に元の世界に帰る。
    /B.Bを破壊できる武器・手段の捜索。
[備考]:コミクロンが残したメモを、シャーネが書いたものと考えています。
    シャーネの遺体を背負っています。
    BBを火星兵器の類と勘違いしています。

74 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:18:54 ID:vP/xCASw
投下終了。次の話はちょっと長いので、今日は途中まで投下して終わり。

75 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:23:11 ID:vP/xCASw
「……ふむ」
「どうしたのさ。難しそうにため息なんかついたりして?」
 イザークの洩らした小さな唸り声を、しかし娯楽に飢えていたディートリッヒは聞き逃さなかった。
 彼ら管理者のみに入室を許されたモニタールーム。そこには“ゲーム”の進行状況が刻々と映し出されている。
 一日が過ぎ、既にゲームは佳境。『刻印』を解除できそうな集団も現れ始めている。
 イザークの視線の先にある電光板にはいくつもの点が映されていた。
 これはひとつひとつが参加者――その身と魂に捺された『刻印』を表すものだ。
 基本的に刻印は不滅だ。死後もそれは残る故に、その数は減ることがない。
 だからこそ、それはイレギュラーとしてカウントされた。
「刻印の反応がひとつ、ロストした」
「……消えたってこと? 除去されちゃったのかい?」
「いや、直前の会話を聞く限りそれはないよ。さすがにあれは演技ではないだろうからね」
 気付けば銜えていた細葉巻はほとんど灰になっていた。だいぶモニタに気を取られていたらしい。
 演技でない本物の慟哭、宣言、裏切り、吐露――下手な演劇を見るよりは格段に楽しめた。
 その余韻と共に紫煙を吐き、燃え尽きたシガリロを灰皿に押しつける。
 彼ら管理者に与えられている権限は、実のところそれほど多くはない。
 刻印の発動権限を除けば、あとは盗聴や島中に隠した監視カメラの映像をみるのが精々だ。
(クライアントにとって我々は駒でしかない。目的を達するための道具であって、参加者と同列程度にしか見ていないだろう。
 ……もっとも、こちらも似たような認識なのだから他人のことは言えないが)
 自分らとて、籠の中の鳥には違いないのだ――魔術師はそう考える。
 だが自由に羽ばたけぬ鳥も、餌箱の中身くらいは自由にできる。喰らうも、払い落とすも自由だ。
 そも、その鳥が金網を突き破って羽ばたくような怪鳥ではないと誰がいいきれるのか――?
 あちらが自分たちを良いように使っているように、こちらも向こうを利用できるモノとしか見ていない。
 騎士団としては、異世界の技術が手に入ればそれでいい。
 それに対して求められた、クライアント達の望む物は――

76 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:24:08 ID:vP/xCASw
「心の実在を証明せよ、か……」
 それは喉に刺さった小骨のようなものだ。些事だが、それでも常に気に障る。そんな呟き。
 その微かな囁きを人形使いの耳は拾うことが出来た。
 僅かに虚空を見上げるようにして考え込み――だがすぐに記憶の検索を放棄して、尋ねる。
「なんだっけ、それ。どっかで聞いた覚えはあるんだけど」
「クライアントがこの話を持ちかけてきた時、さ」
 ああ――と納得した風に鳶色の瞳が揺れ、そしてすぐに小馬鹿にした笑みへと変じる。
 こんな箱庭を造り、あまつさえ好き放題に他世界へ干渉した挙句、求めるものが『心の証明』。
 馬鹿馬鹿しい。そうとしか言いようがないではないか。
「本当は何が目的なんだろうねぇ。まさか本当にあんな理由でここまで酔狂をすると思うかい、イザーク?」
「無いとも言いきれないさ。それになかなか興味深い問いかけだよ、これは。
 古文詩における偉人達も幾度としてそれを綴ってきた。だが正答はいまだ現れていないのだから。
 機会があるのならば、答えを聞いてみたい問いではあるね」
 肩をすくめながら、魔術師。
 それを見てディートリッヒは笑った。
 その態度こそが、イザークなりの『答え』に見えたからだ。
「イザーク。君はさ、心の証明ができるなんて信じちゃいないんだろう」
「心はあると信じているよ。私なりの証明としてはそれで十分だ。
 すでに持っている存在の有無など、悩むだけ無駄というものだろう。
 それよりも刻印の問題に取りかかるとしようか」
「それもそうだね。消えたのは誰だい?」
 あっさりと興味を失い、ディートリッヒがコンソールに触れた。高速で流れていく数字の羅列。
 それは参加者のデータ――能力や生い立ちに至るまでを詳細に綴られたものだった。これも神野から提供された物である。
「NO.078……ダウゲ・ベルガー。最終確認地点はC-6」
 それを確認し、イザークがその名を読み上げる。
 ディートリッヒはモニターの端から端まで目を通し、だがすぐにうーんと困った風な声をあげた。
「出自はぶっとんでるけど、彼自身に刻印をどうこうできるような能力はないね」
「すると、要因は別にあるというわけか……人形使い、支給品の選定をやったのは君だったね?」
「そうだけど?」
 さして興味もなさげに、ディートリッヒ。
 ここではない別の部屋には、魔剣から高機動戦艦まで様々な異世界の物品が収められている。
 すべてクライアントから提供された品で、支給品として配布した物以外は好きにして良いらしい。だが、
「なら、彼の支給品はなんだったんだい?」
「……説明書が付いてなかったけど、確か黒い置物じゃなかったかな?」
 だが中には正体不明の品も数多くあるため、手を出せないと言うのが現状だった。
 触れた瞬間爆発する可能性も否定できないため、人形使いがわざわざ屍兵を使ってまで『気紛れに』選別したのである。
 イザークは複数あるモニターの一枚を指した。どうやらそれは参加者が島を移動した軌跡を線で示しているらしい。
 その中で、NO.078を示すマーカーは奇妙だった。線が途中で何回か途切れている。
「過去のデータを見るに、彼に支給されたのは瞬間移動を可能にする品だったらしい。
 だがそれでは刻印の反応が消失する理由にはならない。証拠は不十分、か。さて、どうしたものかな?」
「刻印を発動させてみれば良いんじゃない? 不安要素なんだし」
 それはつまり「殺せば良いんじゃない?」ということと同義だ。
 何気なく、彼らは死を提案できる。
 刻印の発動は瞬時。望めば、それこそ瞬きする暇もなく参加者を皆殺しに出来るだろう。
 そう。主催者に従い殺す者や、それに抗う者。迷う者。
 その全ての努力を、一瞬で無為に帰すことが出来る。
「そうすることは簡単だが、さて……」
 魔術師は小さく呻き、そして――

77 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:27:46 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「アラストール……出来るか」
『もちろんだ……ダウゲ・ベルガー』
 紡ぐ言霊はただ一言。
 その一言に少女の遺志を。女帝の遺志を。
 そして全てを織り交ぜた絶大な自身の意志を伴って、彼らは往く。
 目標は怨敵。このゲームの黒幕である神野陰之。
「それで? 君達はどうする気かね?」
 その進撃を、神野が嗤う。
「ダウゲ・ベルガー。神の半身たる“運命”を失った君ではこの無名の庵を切り拓くことは敵わない。
 断罪の王よ。もとより契約者を失った君に何が出来る?」
 無名の庵に出入り口はない。
 参加者は神野自身がそれを許可するか、でなければ“偶然”に頼ることでしかここに立ち入ることは出来ない。
 ――否。“出来なかった”。
 そう――その法則は、すでに過去のものだ。
 それはもはや打ち破られた。ただ弄ばれることしかできなかったはずの二人によって。
 ダウゲ・ベルガーとアラストール。その両名が抱いた、独りの少女に対する想い。
 それはルールの一端を破戒した。ならば黒幕達の思惑など、すでに障害となりえない。
 故に彼らは恐れない。進撃は止まらない。
「おい、自分で言っといてもう忘れたのか?」
『貴様は言ったな。ああ確かに言った。死者の側から為せることは何もないと。
 我らは生者だ。ならば我らは貴様に届くぞ。屍を乗り越えて進むぞ。死の河を渡って進むぞ。志を背負って進むぞ。
 ――そしてその果てに、我らは必ずや貴様を打ち砕こう』
 その言葉を具現するように、コキュートスを身につけたベルガーは歩き出した。神野に向かって一直線に。迷うことなく強靭に。
 そして彼らの宣言と行軍を前にして退きもせず、神野は近づいてくるベルガーに言葉を投げる。
「――だが、不可能だ。
 なるほど、その気概はなかなかどうして強固だ。打ち砕くのは容易ではない。
 それでも君たちはどこにも行けない。歩む意志があっても、足と道が無くては進めないだろう」
 彼らには決定的に“手段”が不足しているのだと。
 神野は、その現状を突きつけた。
 それは確かに事実かも知れない。
 単純な力技でここら脱出するのならば、それこそ神に等しい力でもなければ不可能だ。
 それでも彼らは歩みをとめない。
「お前の妄言は聞き飽きた。ずっと聞いていた。シャナの心がズタボロにされるのを、ただ聞かされていた」
 意識の手綱はいつから戻っていたのか。
 思考を取り戻した瞬間の記憶はなく、ただ曖昧な感覚だけがある。
 それでも彼は知っていた。
 自らを犠牲にして彼を救った少女を。それを決断をした男を。
 破壊精霊の攻撃で離ればなれになってしまった二人のその末路を。
 己の生存の代価である、仲間の死を知っていた。
 それは神野の話を聞いていたからか。それとも何か他の理由があるのか。
 いずれにしろ、取るべき道は一つしかない。ベルガーは獰猛に笑った。
「だから、迷わないさ。俺は世界で二番目に、諦めが悪い男なんでね」
 歩むための四肢が無いというのなら、地面を喰らってでも這いずろう。その為に、まだ自分は生きている。
 進むための道が無いというのなら、埋め立てて進もう。その為の代償は、すでに支払われてしまった。
 如何なる障害を前にしても、もはや、折れない。ダウゲ・ベルガーは疾く直進する。
 神野とベルガーの距離は縮まり、あと数歩で両者は届く。
 それでも神野は嗤っていた。一歩も動かずに、ただ飄々とそこに佇み、冒涜を口にし続ける。
「ただ『私』は真実を述べているだけだよ。一面に置いての真実かも知れないがね。
 つまりある一面に置いて、彼女は確かに誤った選択肢を選び――」
 その冒涜が、唐突に途切れた。
 代わりに響いた声はベルガーの静かな恫喝――
「――約束だからな、シャナ」
 そして同じく響いた音はとても鈍い音。骨が肉越しに敵の骨を打つ音。
『その想いを否定できるものなど居るものか。
 居たら、俺が殴り飛ばしてやる』
 それは炎髪灼眼の少女が消滅する寸前に、ベルガーが交わした誓い。
 その果たされた約束は、神野の横面を捉えていた。
 躊躇いもなく全力で打った拳からは、確かに相手の骨を砕く感触が伝わってくる。

78 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:29:08 ID:vP/xCASw
 その感触。音。そして確かに変形した筈の神野の顔をベルガーの視覚は捉えていた。確かに五感で感じていた。だが、
「彼女を否定する気は無いさ。無論、肯定するつもりもないが」
 朗々とした声は、ベルガーの背後から響いた。
 ゆっくりと振り返ると、殴られた頬に痣一つ無く、嘲笑を浮かべたままの神野が立っている。
 殴られた事実など無かったように、一瞬前となんら変わらず闇はただ悠然と存在していた。
「そして君たちを弄言でどうにかできるとも思っていない。
 いまので身を以て実感したのではないかな? 抗える手段はない、と」
 そこで神野はいったん言葉を切った。
 動じもせずにこちらを静かに見据えているベルガー。その眼に恐怖が無いことを確かめ、ふむと頷くと、
「故に、『私』がその手段を提示しよう。君にはその資格と可能性がある。
 何、難しいことではない。只の問いかけだ。これまでただのひとりしか解答を示せなかったというだけの。
 ――心の実在を証明せよ。ただし、我が盟友が満足する言葉でだ」
『それに答えて、我らに何の益がある?』
 アラストールが逆に問い返す。ただし、確かな返答拒絶の意志を伴って。
 それは神野にも伝わっていだろう。
 だがあえてそれに気付かない風をして、万能の暗黒はただその支払われる報酬を提示した。
「全て、だ。解答者が彼の望みを満たして未知でなくした時。
 この瞬間で最も強き未来精霊の願望を叶えられる者がいるのならば、『私』はその者の願いを悉く叶えよう。
 例えば――この盤上で死した者達との再会、などというのはどうかね? 無論、黄泉での再会などという戯言ではなくだ」
 暗い嗤いを止めずに、神野。
 ――僅かに落ちる静寂の帳。
 ただどこまでも陰の広がる荒野の中で、その言葉は不釣り合いなほどに希望に満ちていた。
 ――旗を立て直し、かつての誇り高き炎を再燃させる。
 騎士の曇りを拭い去った少女を、漆黒のデュラハンを、魔界医師を、猛き竜の化身を、デモンスレイヤーを、陰陽を司る者を。
 その全てを、ただの一言で取り戻すことが出来る。
「そして、なにもそれはこの島の中だけに限らない。天壌の劫火、望むならば君の前契約者ですら――」
『……』
 その囁きに天罰を司る魔神は沈黙した。
 神野の言葉が真実かどうかは分からない。神野にそれほどの力があるのかも判断は出来ない。
 だが、それはあまりにも魅力的な提案だった。
 アラストールの前契約者。先代『炎髪灼眼の討ち手』。
 死に別れた彼女とアラストールは浅からぬ関係にあった。
 それはただの契約者と被契約者という間柄以上の縁であり、そしてアラストールは完全に彼女のことを忘却したわけではない。
(……マティルダ・サントメール)
 いましがた、その存在の末期にさえ心を痛みに満たされた少女に勝るとも劣らぬほどに、その存在は愛しい。

79 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:30:03 ID:vP/xCASw
『彼女を、知っているのか』
「当然の如く。ここに招いた者のことで『私』が知らぬことなどないさ」
 一呼吸置いてアラストールが口を開き、その一呼吸の間を楽しむように神野が応じた。
『いいや――知らぬのだろう』
 だがアラストールは疑問を差し挟む余地など許さぬといった風に、その言葉を否定する。
 名を知っている? ああ確かに知っているのかもしれない。だがそれは上辺だけだ。その名の持つ意味を知っているのならそんな提案が出来るはずがない。誇り高く死した彼女を侮蔑するような提案を出せるはずがない。
 だから返答は決まっていた。空間が弾けるように震える。
 夜闇の魔王の顔に影が落ちた。
 神野が纏う闇ではなく、それは炎の光によって生まれた影だった。
 ベルガーの周囲の空間に火の粉が飛び散り、爆ぜている。
 陰に満たされた無名の庵に、陽炎の如き紅蓮の光が生まれつつあった。
『あの子の決意を弄び、あまつさえ誇りある死すら冒涜しようとするその性質。『徒』にも劣る下衆め、我が名を刻むがいい。
 我は天壌の劫火アラストール。両世の調律を守護する者。それが貴様などに与するものか!』
 空間を振るわす程の怒号。消えかけてなお、紅世の魔神はその純度を落としてはいない。
 それでも相対する『闇』は揺れず、ただ粛々と言葉を紡ぐ。ひたすらに嗤いながら。
「なるほど。君たちの『決意』は知れた。それでは最初の問いに戻ろう。
 さあ、君たちは如何にしてこの世界から逃げおおせる――?」
 無明の地たる無名の庵。それを改めて示すように両腕を掲げる神野。
 そしてその問いを待っていたように、ベルガーとアラストールの返答は刹那の間すら挟まなかった。
 ざん――と、荒野を削る足音。彼らが一歩、暗黒すら蹂躙するように力強く踏み出している。
『逃げる必要などあるまい』
 アラストールが宣言する。契約者はなくとも、さらに発する炎熱を高めながら。
「ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな――お前は、ここで倒す」
 ベルガーが継ぐ。その手に運命はなくとも、彼の言葉は道を拓く。
 唱和した意志は高らかに――
「ここで――閉幕だ」
 ――このゲームの終焉を予言した。
「……契約。それが君たちの手段かね?」
 彼の世界を冒す灼熱。だんだんとその範囲を広げる火の粉の雨の中、神野はぽつりと洩らした。
「フレイムヘイズ。運命を対価としその身に<王>を宿した者。
 なるほど、ダウゲ・ベルガー。己が運命すら振るう君ならば真正の魔神たる断罪の王を収められる器ともなるだろう」
 神野が呟く傍ら、ベルガーの背に巨大な翼が生まれた。
 轟炎が満たす部分の闇は駆逐され、陽炎に空間が揺らぎ始める。
「だが、無駄だ」
 炎に包まれながら、神野は涼しげにそう断言した。
 赤が冒すのは極々一部の空間のみ。無限に広がる無名の庵は飲み干せない。
「刻印で弱体化した、それも急造の炎の揺らぎでは世界など打ち破れまい。
 そも、君の炎髪灼眼の討ち手すら盤上からは逃れられずに果てた。そうではなかったか?」
『……その通りだ。故に、ここで貴様を討滅する』
「それこそ不可能というものだね。フレイムヘイズが在るのは紅世と現世の『現在』のみ。
 ダウゲ・ベルガー自身もそれは同じ。故に、無数に偏在する『私』を殺せない」
 その返答に、ベルガーは笑みを零した。目には見えないが、きっとアラストールも。
 ――こいつは何も分かっちゃいない。犬はどこまでも食らいつき、そして天壌の劫火は相手が何者であっても審判を下す。
 すでに神野陰之の“運命”は決まっている。
 瞬間、さらに劫火が膨れあがった。
 轟々と燃え盛る巨大な赤灼。周囲に満ちる力を薪として、それは既に天にも届こうとしている。

80 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:30:46 ID:vP/xCASw
 その時になって、神野も気付いた。
「ほう……?」
 笑みをさらに深くし、僅かに驚いたような息をつく。
 いつのまにか、炎の位相が神野を越えようとしている。神野陰之が持つ狂気と畏怖を薄めるほど、火勢が強くなっている。
 これはフレイムヘイズではない。弱体化したフレイムヘイズにここまでの力量はない。
 ならば、これは――
『荒振る身の掃い世と定め奉る、紅蓮の絋にある罪事の蔭』
 粛々と、名も無き庵に祝詞が響く。遠雷が轟くような、地を震わす声が荒野を駆ける。
 ダウゲ・ベルガーの声ではない。ならばこれはアラストールか。
 だがその声は神器越しに聞く、どこか遠い声ではない。
 そう、それはまるで――世界という薄い膜の裏側で轟くような響きだった。
『其が身の罪という罪、刈り断ちて身が気吹き血潮と成せ――』
 その響きに導かれ、帳が落ちる。夜闇の世界を裂くように紅蓮の幕が引かれていく。
 捧げられるは魔王の力。四界に繋がる四つの宝玉。その全てが彼の者の『心臓』となる。
「……なるほど。正直、これは予測していなかった。さすがに魔神の心までは読めないか。
 贄はおろか、喚び手もなしに顕現するとはね。
 そうか、砕かれた石の名はデモンズ・ブラッド――君にも匹敵する魔王達を表すモノであると同時に、その異界へ通じるモノでもある。
 この場で、その全てを捧げた上での芸当というわけだ」
 無名の庵は『どこでもあってどこでもない場所』。
 全ての世界から皮一枚分だけ外れ、全ての世界が交錯する場所。
 故に『歩いていけない隣』にあるそれは、ささやかな薄皮を突き破った。
 この世界を壊すには神にも等しき力でなければ不可能。ならば容易い。それはすぐそこにある。
 紅世から無名の庵までを突き抜けて、神威が召喚される。
 ベルガーの背後にあった翼はその位置を高くし、その翼が在る者は全容を顕わにしていた。
 盤上という『制限』から脱し、顕われたのは炎の衣に身を包んだ見上げるほどの巨人。
 その熱量は膨大。その威容は無限。
 審判と断罪の権能を持つ天罰神。故に、その名を、
「天破壌砕――王の中の王。紅世真正の魔神たる“天壌の劫火アラストール”」

81 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:33:29 ID:vP/xCASw
 神野のその呼びかけに答えるように、天を衝く魔神は無名の庵を睥睨した。
『覚悟を決めよ、神野陰之――』
 その厳かな宣告に重ねるようにして、別の声も響き渡る。
 声の主はダウゲ・ベルガー。
 炎を背にしているというのに、彼の顔は逆光の影に侵されてはいなかった。
「俺とアラストール、そしてシャナの魂――」
 告げる、告げる、告げる。その役柄を以て、彼らは全霊を込めて宣告する。

 貴様如きに――推し量れるか?

 瞬間、膨大な量の業火が神野に向かって放たれた。
 それはまるで炎の津波。たったひとりの人間に向けて放たれるには大げさを通り越して、最早馬鹿馬鹿しい。
 だがそれはあくまで人間を相手にした場合。
 受肉した神の片鱗は時を越えて偏在する故、ほとんどの干渉を受け付けない。
 溶鉱炉の中に飛び込もうが絶対零度の中に在ろうがその存在に影響はない。
 だがすでに神野の顔に嗤いはなかった。
 己が呪圏たる『影』を以てして、全力で炎を迎え撃つ。
 隆起し、神野と外界を遮断する壁のような黒色と、すべてを烏有に帰す紅蓮が衝突する。
 森羅万象を飲み込む虚無の口と、それすら凌駕し氾濫しようとする熱波。
 ――その軍配は、不意打ちに近かったアラストールに上がる。
「……っ」
 神野の顔に、久しく浮かぶことの無かった苦痛が象られる。
 そう。アラストールの炎は、到達しない経過であるはずの彼を『灼いて』いた。
 偏在という枷を破り、神野陰之という存在を害していた。
「……そうか。アラストールという存在自体が『神野陰之』という器と同等以上の古さを持つのか。
 君自身が『私』を殺し得る呪物というわけだね」
 傷は深くない。それこそほんの僅かに火傷を負った程度。だが、神野は顔を歪ませていた。
 魔神の炎は、神野陰之を殺し得る。
 アラストールの焔がここにいる神野陰之を焼けば、その火は偏在する神野陰之にまで燃え移るだろう。
 こと浸食することにかけて火は最速。いかに夜闇の魔王が究極の魔法だとしても滅びからは逃れられない。
「ここが『私』の世界でなかったら、終着を見せていたかも知れないな」
 それでも、まだ神野の方が有利だ。
 アラストールはその身を維持するため、タリスマンの残滓とシャナの残した存在の力を消費している。
 その力は莫大だが、無尽蔵というわけでもない。
 そして神野は、『いつぞや』のように拠点の守護を命じられているわけではなかった。
「さらばだ。天罰神よ」
 彼はここを去り、ただ別の場所でアラストールが自然消滅するのを待つだけでいい。
 再びその白い貌に嗤いを浮かべた神野の姿が薄れていき、そして消えた。
 ――いや、消えるはずだった。
 だが唐突に、夜闇の魔王の双眸が僅かに見開かれる。
 『かつて』呪い釘を打ち込まれた時のように、それは彼を磔刑に処す。
 その眼に映るのは魔神ではなくただの人間。
 アラストールの足下に佇んでいたダウゲ・ベルガー。
 その手に彼の半身たる強臓式武剣“運命”は、ない。
 アラストールとは違い、彼は神野に対して有効な攻撃手段をなにも持っていない。
 だけど、この場で最も神野に対して致命的なものを持っていたのは彼だった。
 呪文ですらない。それは本来何の意味も持たず、ただ噛み締めるように紡がれた言葉。
 その言霊が成す未来を神野は知った。
 それは本来有り得ざる未来。あまりにも出来すぎている、どこか恣意的なものさえ感じさせる結末。
『ああ。なんたって黒幕が目の前にいるんだからな』
 ならば、それこそが運命だというのか。
 宣言は既に。誓いは既に。
 運命を捧げたフレイムヘイズでない、未だ人の身であるダウゲ・ベルガーの『願い』は唱えられていた。
 そのどこまでも純粋な意志の誓言が――
『――お前は、ここで倒す』
 神野陰之を、ここに封じ込めた。

82 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:35:31 ID:vP/xCASw
「……感服せざるを得ないな。“契約者”でもない限り、彼無きこの時間では都合の良い偶然は起きないというのに。
 いや、そうか。だからといって偶然が起きないというわけでもない、ということかな」
 彼らは神野陰之という存在の性質を知らない。その言葉は神野を縛ることを目的としていなかった。
 ――それでも彼らの意志はここにこの瞬間、覇道への“運命”を手繰り寄せたのだ。
 願いによって、神野がその輪郭を再びはっきりとさせる。
 課された制限は『逃走』。決着が付くまで、神野はこの場から消えることは出来ない。
「これが君達の手段か。なるほど、世界樹に吊されし魔術師と同等、あるいは凌駕する願いだ」
 ならば、叶える者の成すべきことはひとつだけ。
「いいだろう――ならばその『願い』を受理しよう」
 神野の呟きは命令だった。
 その一言で世界が胎動する。無名の庵が主の命に従い蠢く。
 闇に満たされた荒野。この世界そのものが神野の『領域』である。
 暗黒が膨れあがり、造り上げられたのは影の大波。
 先刻の炎に対抗するかのように、それは天を衝くアラストールさえ凌駕する巨大さ。
 舞台照明が暗転するかの如く、影が落ちるのは瞬時。魔神が何かするよりも早く、夜色がベルガー諸共魔神を飲み込んだ。
 無明の庵が再びその暗さを取り戻す。
 ほんの、一瞬だけ。
『――無駄だ。影如きでは我が身を包み切れん』
 重圧さえ感じさせる、威厳に満ちた声が響いた。
 影が炎を遮ったのは刹那にも満たない時間。
 火とは照らすもの。いかに深い影であっても、燃え盛る篝火の明るさは奪えない。
 ただその存在のみで神野の呪を打ち破り、アラストールは悠然とその場に在った。
 夜闇では炎に勝てない。常世の炎ならば兎も角、天壌の劫火を飲み込める影は存在しない。
 そして何より――いまのアラストールは神野の闇に恐れを見ない。
「……そのようだね。力量は互角でも相性が悪いか。
 もっとも、ダウゲ・ベルガーに関してはその通りではないが――」
 神野がちらりと視線を移動させた。
 アラストールの足下。彼の影に覆われる直前にベルガーが立っていた位置には誰も居ない。
「例の装置が働いたようだ。この空間に来ることが出来たのだから、出ることも可能なのは道理だね。
 潰えた種とはいえ、天なる人類を甘く見ていたか」
『この期に及んで、そのような思考は無意味だろう』
 天から響く声に、神野が視界を上げる。
 その頬を、轟風が撫でた。
 アラストールがその巨大な翼を羽ばたかせていた。だが巻き上がるのはただの風ではない。
 それは紅蓮の風。触れたモノを灰燼に帰す暴風。
 まるで刃の如く荒野に深い爪牙の痕を刻み、乱立するモノリスを打ち砕く。
 幾条にも吹き付ける赤の線は、その全てが神野へと収束していく。
「――君こそ彼の心配をした方がいい。あれは持ち主の身内の元へ転移するが、彼はその全員の死を知っている。
 ならばアレがどこに飛ぶのかは想像も付かないだろう。
 盤上へと戻るのか、果てまた元の世界へ帰還するのか、異次元に落ちるか。
 いや、そもそも装置は起動したのか? 彼は闇に飲み込まれただけかも知れない」
 神野の影が再び膨れあがる。今度は余裕を持って、魔神の放った赤の嵐をすべて飲み干す。
 一欠片の熱波すら残さず、暗闇のなかで神野は問いを発した。
「君は確たる『解答』を出すことが出来るのかな? 天壌の劫火」
『無論。ダウゲ・ベルガーは生きている』
「それをどうやって証明する?」
『貴様に答える必要があるか?』
「違いない」
 神野は嗤う。声は出さずに、ただ頬を吊り上げる吐き気を催す笑み。
 それを潰すために、魔神はただ火力を絶えることなく放ち続けた。
 地面が溶け、空が燃え落ちていく。その様はまさに煉獄。
「少し話をしよう。つまらない身の上話だがね。
 『私』は――神野陰之という存在は、ただ願いを叶えることしかできない存在だ。
 いまこうして真っ正面から君と対峙しているのも、ダウゲ・ベルガーの願いがあるからに他ならない」
 だがその劫火のなか、影による防御を続けながら後退する神野はそれでも饒舌だった。

83 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:36:14 ID:vP/xCASw
「……感服せざるを得ないな。“契約者”でもない限り、彼無きこの時間では都合の良い偶然は起きないというのに。
 いや、そうか。だからといって偶然が起きないというわけでもない、ということかな」
 彼らは神野陰之という存在の性質を知らない。その言葉は神野を縛ることを目的としていなかった。
 ――それでも彼らの意志はここにこの瞬間、覇道への“運命”を手繰り寄せたのだ。
 願いによって、神野がその輪郭を再びはっきりとさせる。
 課された制限は『逃走』。決着が付くまで、神野はこの場から消えることは出来ない。
「これが君達の手段か。なるほど、世界樹に吊されし魔術師と同等、あるいは凌駕する願いだ」
 ならば、叶える者の成すべきことはひとつだけ。
「いいだろう――ならばその『願い』を受理しよう」
 神野の呟きは命令だった。
 その一言で世界が胎動する。無名の庵が主の命に従い蠢く。
 闇に満たされた荒野。この世界そのものが神野の『領域』である。
 暗黒が膨れあがり、造り上げられたのは影の大波。
 先刻の炎に対抗するかのように、それは天を衝くアラストールさえ凌駕する巨大さ。
 舞台照明が暗転するかの如く、影が落ちるのは瞬時。魔神が何かするよりも早く、夜色がベルガー諸共魔神を飲み込んだ。
 無明の庵が再びその暗さを取り戻す。
 ほんの、一瞬だけ。
『――無駄だ。影如きでは我が身を包み切れん』
 重圧さえ感じさせる、威厳に満ちた声が響いた。
 影が炎を遮ったのは刹那にも満たない時間。
 火とは照らすもの。いかに深い影であっても、燃え盛る篝火の明るさは奪えない。
 ただその存在のみで神野の呪を打ち破り、アラストールは悠然とその場に在った。
 夜闇では炎に勝てない。常世の炎ならば兎も角、天壌の劫火を飲み込める影は存在しない。
 そして何より――いまのアラストールは神野の闇に恐れを見ない。
「……そのようだね。力量は互角でも相性が悪いか。
 もっとも、ダウゲ・ベルガーに関してはその通りではないが――」
 神野がちらりと視線を移動させた。
 アラストールの足下。彼の影に覆われる直前にベルガーが立っていた位置には誰も居ない。
「例の装置が働いたようだ。この空間に来ることが出来たのだから、出ることも可能なのは道理だね。
 潰えた種とはいえ、天なる人類を甘く見ていたか」
『この期に及んで、そのような思考は無意味だろう』
 天から響く声に、神野が視界を上げる。
 その頬を、轟風が撫でた。
 アラストールがその巨大な翼を羽ばたかせていた。だが巻き上がるのはただの風ではない。
 それは紅蓮の風。触れたモノを灰燼に帰す暴風。
 まるで刃の如く荒野に深い爪牙の痕を刻み、乱立するモノリスを打ち砕く。
 幾条にも吹き付ける赤の線は、その全てが神野へと収束していく。
「――君こそ彼の心配をした方がいい。あれは持ち主の身内の元へ転移するが、彼はその全員の死を知っている。
 ならばアレがどこに飛ぶのかは想像も付かないだろう。
 盤上へと戻るのか、果てまた元の世界へ帰還するのか、異次元に落ちるか。
 いや、そもそも装置は起動したのか? 彼は闇に飲み込まれただけかも知れない」
 神野の影が再び膨れあがる。今度は余裕を持って、魔神の放った赤の嵐をすべて飲み干す。
 一欠片の熱波すら残さず、暗闇のなかで神野は問いを発した。
「君は確たる『解答』を出すことが出来るのかな? 天壌の劫火」
『無論。ダウゲ・ベルガーは生きている』
「それをどうやって証明する?」
『貴様に答える必要があるか?』
「違いない」
 神野は嗤う。声は出さずに、ただ頬を吊り上げる吐き気を催す笑み。
 それを潰すために、魔神はただ火力を絶えることなく放ち続けた。
 地面が溶け、空が燃え落ちていく。その様はまさに煉獄。
「少し話をしよう。つまらない身の上話だがね。
 『私』は――神野陰之という存在は、ただ願いを叶えることしかできない存在だ。
 いまこうして真っ正面から君と対峙しているのも、ダウゲ・ベルガーの願いがあるからに他ならない」
 だがその劫火のなか、影による防御を続けながら後退する神野はそれでも饒舌だった。

84 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:37:04 ID:vP/xCASw
うわ二重書き込み

85 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:38:15 ID:vP/xCASw
「そして今、『私』はひとつの願いを叶えるためにある。
 心の実在を証明すること。だが、願望無き『私』という存在が口にする心の定義では彼は満足しなかった。
 故に今回の盤上遊技を提案したのだが、さて――この意味が分かるかね?」
『――貴様と話す舌など!』
 戯言を一言にて切り捨て、アラストールはさらに存在の力を燃やし、その神威を高めていく。
「ふむ。まあ聞きたくないと願うのなら、それを拒むことは出来ないが」
 神野はさして気にしないとでもいう風に、ただ炎を防ぎ続ける。
 影による防御は完璧。初撃以降は、火の粉すら神野に触れることは叶わない。
 されど炎は無限にその熱量を高めることができる。
 踊る二体の魔神。だが炎と闇の鍔迫り合いは、決して均衡を保つことはなかった。
 じわじわと――だが確実に、神野の呪圏が追いつかなくなってきている。
 アラストールの放つ炎がその輝きを増し、神野の影を打ち消し始めていた。
 闇と、それを焼き尽くす炎。
 『逃走』を願いによって制限された神野と、全力で追撃するアラストール。
 それは殆ど出来レースのようなものだ。
 アラストールが踏み出す。合わせて神野が後退する。
 差は縮まる一方。歩幅が違う。だがなによりも神野は積極的な逃げに徹することができない。
 そのことを理解していてなお――神野陰之は『冷静すぎる』。
(策がある、ということか)
 アラストールは胸中で確認するように呟いた。
 このまま続ければ間違いなく自分が勝つ。眼前の黒衣の男もそれは分かっているはず。
 それで慌てていないという事は、まだ罠やその類のものを用意してあると考えていい。
「――逃げ切れないか」
 苦笑しながら、神野。だがさしてあせる風も無く、魔王はパチンと指を鳴らした。
 響く乾いた音色。渦巻く熱波に掻き消されぬこともなく涼やかに響き渡ったそれは、正しく魔性の類である。
 闇に満ちる無名の庵に、更に闇が増した。
 それは今までそこにあった影とは異なる陰。文字通りの異界の闇。
 ぽっかりと恨めしげに開いたその穴から、白い手がぬらりと這い出てくる。
「神隠し――この場合は少し意味が違うかもしれないが」
 通じた穴は一つだけではなかった。
 闇の違いを見分けるのは困難だが、それを知るのは容易だった。
 なぜならば、穴から伸びる白い線は無数に、そこかしこから引かれているのだから。
「堕ちたまえ」
 号令と同時、怪異は宙を出鱈目に走りまわった。
 関節がいくつもあるかのようにガクガクと折れ曲がりながら、複雑な軌道を描いてアラストールに掴みかかる。
 無論、白い腕は触れた部分から消し炭になった。
 だが燃え尽きるよりも穴から伸びてくる方が早いらしく、白い腕は着々と魔神を拘束していく。
 圧倒的な物量による力押し。
 だが、それでもまだ不十分。
 アラストールはさらに力を取り込み、それまでよりも強力な自在法を発現させる。
 瞬間、白の線は赤に変じ、一瞬後には炭色となって、そしてぼろぼろと剥がれ落ちた。
 火はどこまでも浸食し、線が出てきた『穴』の中にまで到達する。
 名の無い荒野に、いくつもの絶叫が響き渡った。
「さすが。足止めにもならない」
 耳を劈くような異形達の断末魔の中で、神野は笑っている。
 どんな怪異を呼び出してもアラストールには届かない。だが、哂っている。
(なるほど、奴の狙いは――)
 神としてのアラストールは無敵だ。神野が如何な怪異を用いようが、それを正面から粉砕できる。
 より強力な自在法で――より莫大な存在の力を消費して。
 今のアラストールは、不完全な天破壌砕で顕現している。
 呼び手も、贄もない、力尽くでの神威召還だ。
 自然、彼は存在の力を消費しなくてはその身を維持できない状態となっていた。
 だからこそ神野は待っているのだ。燃料を消費しきり、劫火が鎮火するその瞬間を。
 なるほど。確かに怪異は足止めにもならない。
 だがアラストールに一手を打たせることはできる。
 神野は只管に駒を張り続けていればいい。いずれ、アラストールはその一手が打てなくなる。

86 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:39:24 ID:vP/xCASw
 ――それが、奴の狙いだというのなら、
『愚かな』
 その一言に尽きる。
 厳かな宣言。それは紛れも無い死刑判決であった。
 アラストールは大きく呼吸した。だが取り入れるのは酸素ではない。紅世の王の炎は酸素では燃えない。
 取り込むのは存在の力。文字通りの生命線。神秘の劇薬。
 膨大な量の力を取り込み、そして解放する。
魔神の全力。それはまさに、世界が溶鉱炉にでもなったかのような錯覚。
 炎が世界となり、世界が炎となる。その主である神野も当然灼熱に包まれた。
 だが、それでも神野には届かない。
 神野にとって、僅かな隙間もない防御陣を造り上げるのは造作もないことだ。
 事実、神野の周囲に落ちた影は完全に炎を食い止め、その熱波を万分の一も伝えない。
 この炎は無意味だ。ただ巨大なだけの炎壁では、神野陰之を倒せない。
 そう――この炎自体に攻撃の意味はないのだ。
「……まあ、そうなるだろうね」
 影の内側から神野は見ていた。
 陽炎の中に、炎を纏った魔神の姿が消えるのを。
 アラストールが貴重な存在の力を大量に消費してまで造り上げた大火が持つ意味は単純にして明快。
 すなわち――梅雨払いである。
『――捕らえたぞ、神野陰之』
 周囲はタングステンすら蒸発する灼熱に包まれ、もはや怪異を呼び出しても全てが一瞬で消えうせるだろう。
 故に、アラストールの一手は神野にかかる。
 チェックメイト。
 天上から延びてきた巨大な炎腕は、なんの障害もなく神野の体を鷲掴みにした。

87 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:40:10 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「あ――は。あは、は、は」
 燃え盛る空気の中であれば、その外に声は漏れない。
 狂気に濡れた笑いはただ彼女の周囲を無限に旋回し、心の傷をより抉っていく。
 炎が浸食する部屋の中。熱は彼女を容赦なく炙っていたが、それでもまだ致命的なことには至っていない。
 慶滋保胤の矜持は彼女を救った。
 ほんの僅か、彼女から死を遠ざけた。
 十分な量の燃焼剤があれば、遅かれ早かれマンションの一室など火の海となる。
 すでに火の粉は机上のレポートに燃え移り、そこを新たな苗床として炎を生んでいた。
 もっとも、集合住宅という種類の建築物はそのほとんどが耐火構造になっている。
 たとえばこの火災で、マンション一棟が丸焼けになるということはないだろう。
 ……だけど、部屋の中に有るものはまた別の話だ。
 海野千絵がまだ生きているのは、彼女が部屋の入り口に――炎の発生点からやや遠い場所に居たというだけの理由に過ぎない。
 それでもすでに炎は部屋の大部分を浸食し、もう少しで彼女を飲み込むであろうことは明白だった。
(ここにいちゃ、いけない)
 その赤の侵略に対し、彼女は立ち上がろうとしていた。
 心的外傷を負っても、それを癒やすことのできる者が居なくても、脅威は目の前にあるのだから。
(……ここにいちゃ、いけないんだ)
 ――いや、はたしてそれは炎から逃げようとしての行動だったのか。
 千絵は窓を見て、そしてすぐに無言の悲鳴を上げて視線を逸らす。そこには未だ、彼女を見ている死体がいたからだ。
 彼女が逃げだそうとしているのは、身を焦がす炎熱などではなく――
 己の罪。その罪悪感ゆえに他ならない。
(やっぱり私は、ここにいちゃいけないんだ!)
 奇しくもそれは、彼女と同じく吸血鬼の呪いに苦しんだ少女のように。
 千絵は己の過ちを恐れ、この集団から逃げだそうとしていた。
 恐れは思考から自由を奪ったが、逃走という行為だけは促進した。
 進む。逃げ出すために、弱々しく足を踏み出す。
 だけど、それすらも折れた。
 時計の針が零時を示した瞬間、放送が始まるその寸前に。
 『1日目と2日目の境。狭間の時間。鏡の中と外が入れ替わる』
 零時迷子の能力で制限はされたものの、それでも魔女の綴る物語は健在で。
 窓の中に存在する死者の国と、現実たる部屋の中が入れ替わってしまったように。
 硝子から這い出てきた男の手が、千絵の、足に。
「あ――」
 確たる感触を以て、彼女を捕らえた。
 万力の如き剛力。
 だがそこから伝わってくるのは痛みなどではなく、ただ絶対に逃さないという負の感情。それのみ。
「ひ――あ?」
 視線が合う。
 生前の男の人なりを、千絵は知らない。
 だからその男が纏う怨嗟の不自然さにも気付かずに、彼女は異界に引きずり込まれた。

88意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:41:50 ID:vP/xCASw
「――や、あ、ァァアアアアアアアアアアア!」
 悲鳴を上げる。バタバタと身じろぎする。
 だけど体中を欠損している男は、その部分を有り得ないくらいにねじ曲げ、伸ばし、彼女の肢体に絡みついた。
 ――逃サナイ。逃サナイニガサナイニガサナイニガサナイ……!
 耳元でひたすらに囁かれる呪。逃れられないのだと理解するのに時間は掛からない。
「や――ごめ、ごめんなさ、あ」
 謝罪は不可能だ。すぐに気付き、口をつぐむ。
 触れられたのは一瞬だった。男の虚像が現実に這い出てきたのはほんの一秒。零時ジャストのその瞬間だけ。
 だけど、その感触が残したものはそうではなかった。
 永劫に残るであろう傷跡。外目には見えない致命的な裂傷を、その幻影は置き土産にしていった。
 ――どうすればいいのだろう。
 精神への負荷が限界になってほとんどの思考が停止する中、それでも最後に残ったのはその疑問だった。
 どうすれば良いのか。身を焦がす赤色の中、ただその解だけを模索する。
 どうすれば、この痛みから逃れられるのか。
 ……その問いに対して、彼女の精神は賢明だったと言える。
 崩壊を防ぐために、かつて存在した『痛まなかった』時期を記憶の中から探し出し主に提供し、それを指針とした。
「――あ、」
 目の前には剣の柄。リナ・インバースが己に突き立てた光の剣。
 刃は既に無かった。それを拾い上げ、懐に仕舞う。密かな武装行為。誰かを害するための行為。
 海野千絵という少女は、最悪なまでに不幸だったといわざるを得ない。
 その痛まなかった時期というのは、仲間に恵まれていた時でも、陽光の下に回帰した時でもなく――
 ――暗黒に身を委ねている時だけだったのだから。
「……あはっ」
 千絵は緩みきった笑みを浮かべた。まるで決壊したダムのような、ある種の清々しさがそこにはあった。
 ――支払うべき対価はここに。あの女怪の記憶は留めている。
「『だが、おまえが私を見つけだして望んだならば、再び吸血鬼にしてやろう』」
 約束された言葉を吐き、自ら陵辱した男の残影を背負って。
 彼女はゆらりと立ち上がった。

89意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:42:54 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 闇は恐怖である。したがって、神野陰之は恐怖の具現である。
 故にその影に包まれた瞬間、ノルニルの緊急避難装置は作動した。
 だがその装置は何処へ繋がったのか?
 黒い卵は所有者をその身内の下へ転送する。
 だがベルガーと同じ世界からきた旧友はすでに亡く、彼が身を置いていた集団もほとんど崩壊していた。
 生き残りは彼の他に僅かに二名。海野千絵と折原臨也。
 だが満足に会話したことすらないこの両名を、避難装置は身内と見なすのか。
 しかし、その二人以外には誰もいない。
「――ならばどこにも届かない。そうではないかね?」
 結果として、ベルガーが落ちたのは深い闇の中。
 無名の庵のような荒野ですらなく、ただどこまでも黒一色でしかない粘液のような空間だった。
 そんな場所で、夜色の外套を纏った神野陰之とダウゲ・ベルガーは対峙している。
 神野の言葉を無視して、ベルガーは短い問いを発した。
「どうしてここにいる?」
「『私』はあらゆる空間と時間に偏在する。どこにだっているさ――“こんな場所”にさえ」
 その白い貌が目立つ暗黒の世界を示しながら、神野は見透かすような目でベルガーを見ていた。
「ああ――君は心配しているのかな? 『私』が天壌の劫火を打ち破り、君を追ってきたと?」
「まさか。あのアラストールが負けはしないだろうさ」
「その根拠は?」
 尋ねる神野。ベルガーはすぐさま返答した。
「お前に答える義理は、ないな」
「いいや、はっきり言いたまえ――無いのだろう? そんなものは」
 ベルガーが訝しげな表情を浮かべる。
 嬲るようなその言葉に、怒りは沸かなかった。
 何故なら、その言葉を吐いた神野がどこまでも感嘆している様子で、さらに拍手などしているからだ。
「そう、君の言葉に根拠など無い。だが、君はその言葉を信じている――素晴らしい。いや、素晴らしいよ。僅か一日にして、か」
「……なにを言ってるんだ?」
「君達は答えに辿り着いたのさ、ダウゲ・ベルガー。心の存在証明。
 かつてとある一人の契約者が未来精霊を退けた解答を手に入れた」
 それはこのゲームの根源、その存在意義だ。
 心の証明。ただそれだけのために、この殺し合いは開幕した。
 その解答を手にしたというならば、つまりダウゲ・ベルガーは勝利したということ。
 この殺戮の舞台上から去る権利を得たということだ。
 だから――ベルガーはPSG−1を構えた。
 まるで拳銃でも扱うかのように片手で保持し、その銃口を神野の鼻先に突きつける。
「ああそうか。それで?」
「それで――とは?」
 凶器を向けられながらも、神野は笑みを崩さない。
 神野に対し、今の自分は有効な手を何も持っていない。それは理解している。
 だからこの行為は、ただ拒絶の意を明らかにしただけ。
「勝手にこんな場所に拉致しておいて、用が済んだらもう帰れ、はないだろう。
 それに、その口ぶりだとまだ帰す気はなさそうだが?」
「その通り。君たちが体現した『無条件の信頼』という答えはいまやアマワに通用しない。
 かつてアマワはそれを突きつけられ、それでもなお心の証明を望むのだから」
「……それはまた、ずいぶんと傲慢だな」
 ため息混じりに、ベルガー。
 なんとはなしに漏れた言葉だった。ほとんど反射的だったとさえいっていい。
「そう、傲慢だ。式に対する解答が必ずあると確信するなど」
 だから、それに対する反応があったことに、ベルガーは一抹の疑念を抱く。
 不吉を予告するように、周囲の闇が蠢いた。
「お前は、アマワとやらに協力してるんだろう? 心の証明をするために。なら」
「ならば『私』も証明の方程式があると信じているはずだ――かね?
 だがその論理は適用されないよ。『私』は他者の願望によって動く者でしかないのだから」
 淡々と、当たり前のことでも話すかのような神野。
 いや、それは神野にとっては当たり前なのだろう。だが彼を知らぬ者にとっては未知なのもまた道理。
(こいつは協力しておいて、答えがでるとは思っていない?)
 ベルガーは思考する。どこか焦るように、思考する。
 対峙した時間は一刻にも満たない。それでもこの神野という怪物の力は理解させられていた。
 神野陰之は闇そのものだ。人を脅かす怪異の根底に存在する。
 それを目の前にすれば、人は誰しも恐怖を抱く。
 ベルガーは気丈な方だ。恐怖ではなく、まだ不安や疑念といったレベルで済んでいる。

90意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:43:40 ID:vP/xCASw
 ――そう。まだ、いまのところは。
 アラストールという篝火が傍にあったときは、まだ。
「それじゃあ、お前は」
「ひとつだけ質問を許可しよう」
 遮る形で、どこか面白がるように神野はそんな提案を投げかけた。
「君のあらゆる質問に答えよう、ダウゲ・ベルガー。
 刻印の解除法、この世界から脱出する術、管理者たちの部屋へ至る道筋。
 ただひとつだけ、何の制限もなしにあらゆる解答を提示しよう。無論、私が知る範囲でだが」
 唐突な、そして無視できないほどに破格の条件。
 神野は発せられる問いを待つ。只管に笑いながら。
 それはまるで、これから起こる哀れで愚かな惨劇を慈しむように。
 ベルガーは、応えない。
 なにかを黙考するかのように、じっと神野を睨み付けたままだ。
「心の証明ができるか、あるいは我々を倒すことが出来るか――ふむ、君の心配事はそれかね?」
 その思考を見透かしながら、神野は嗤い続ける。
 ベルガーは喋らない。その表情にはなにも浮かんでいない。
 それでも神野は、どこか満足げに頷くと、
「なに、証明の可能不可能はこのさい問題ではない。君達はもとより心の証明などする気はなかったのだから。
 ならば取るべき手段は一つだけだ。
 我々を倒す。理に適っているよ。『私』か『彼』か。そのどちらが潰えてもこの遊戯は崩壊する。
 そして刻印を持たず、あの盤上における制限もないアラストールならばそれも可能だろう」
 まるで他人事のように神野はそう言い切った。ただしもう一言だけ、付け加える。
「ところで、決まったようだよ」
「なにがだ?」
「天壌の劫火アラストール。その敗北が」
 神器コキュートス。アラストールの意志を伝える術。
 ベルガーの胸にあったそれから、あの厳かな声が聞こえる。
 それは強く、高らかで、そして――どこまでも恐怖に溢れる、絶叫と知れた。

91意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:44:58 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「強い意志や願いは力となる。いまの君たちのように」
 アラストールにその身を握りつぶされる寸前であるというのに、神野の声は涼やかだった。
 だが、涼やかなのは声だけだ。
 身に纏う外套は焦げ臭い匂いを発し、その色を夜色から焦げ色へと変えている。
 神野陰之とは名付けられた闇。故に、その本体こそが統べられた世界の暗黒。
 だからこそ天壌の劫火に握られてもその程度で済んでいる。
 ――緩やかに死に行くだけで、済んでいる。
「では力とは何だろう。力とは蹂躙するものだ。
 刀は触れた物を斬る。銃弾は砕く。炎ならば焼く。ならばつまり、意志とは蹂躙するものだ」
 それでも、覆せぬ死が眼前にあるというのに神野陰之は語り続ける。
 まるでそれこそが己の役割だとでもいうように。
「この期に及んで戯言か。ならば応えよう。
 我が力は――我が意志は、決してその方向を違えん!」
「言い切れるかね、天壌の劫火。君の、君たちの意志が何か致命的なものを何一つ見逃していないと」
 慎ましくもなく、苦し紛れでもなく、はったりでもなく。
 ――夜闇の魔王は、ただ真実のみを口にする。
「この瞬間、貴様を討滅するこの一瞬に、そのようなものが介入する余地などない」
 アラストールがさらに存在の力を拳に籠め、神野に加える熱量を上げていく。
 炭化した外套がぼろぼろと剥がれ、零れ落ちていった。
 初めて――恐らくその誕生から初めて、神野陰之という存在が致命的なまでに害されていく。 
「あるさ。蹂躙する側の君が気付かないというだけで。
 ふむ。解答を提示することは吝かではないが、それは拒絶されているのだったね」
「……」
 アラストールは最早、応えない。
 神野という存在は、既に焼け始めていた。恐らく、もってあと十数秒。それで闇は名を失う。
「意志は、より強い意志に打ち砕かれる。だから願望なき『私』の言葉は君に届かず――」
 そして神野の存在が燃え尽きる、その寸前に。
「君は敗北するのだ、天罰狂い」
 ――炎の衣を纏うアラストールを、地下より吹き上がった別種の炎が包み込んだ。

92意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:45:59 ID:vP/xCASw
「なっ――!?」
 驚愕するアラストール。その隙に、神野陰之はその手から飛び出していた。
 着地し、満ち満ちる闇をその身に絡めるように一回転すると、それだけで傷は消え、黒の外套も復元されている。
 そうして全快した魔王は、改めてアラストールへ視線を向けた。
 炎に包まれる巨人。それだけならば、先程と何ら変わりはない。
 だが、分かる。いま魔神を包んでいる炎は、決して天壌の劫火ではない。
 アラストールは炎に捲かれたまま数歩後退し、そして察した。知っている。自分はこの感覚をかつてから知っていた。
「これは――坂井、悠二の――!?」
「その通り。零時迷子が復元する世界の疵痕。獣精霊ギーアの残滓」
 嘲る言葉をたどり、発見する。炎の向こう側、いまだ健在している神野陰之。
 あと一息。あと一息で、倒せたというのに――
 そう。あと一息だった。では諦めるか? あと一息だったと笑いあって諦めるか?
 ――まさか。諦められるものか。
「このようなもの……!」
 さらに存在の力を注ぎ込む。
 まずはこの炎を跳ね飛ばし、それからもう一度神野を焼き滅ぼす。
 それを切望して――だが、出来ない。
 残りの存在の力が少なすぎるからというだけではない。
 炎から伝わってくる怒り、悲しみ、喪失感――それらが、あまりに巨大すぎる。
 自分すら飲み込みかねないほどに。
「無駄だよ。いかに君とてその炎からは逃れられない。
 それは、本来何者からも干渉されるはずのなかった未来精霊すら封じる力だ。
 宝具によって復元され、今も世界とアマワを焼き続けている――丁度その位置に、君は踏みこんだ」
 ほぼ無制限に広がる無名の庵。そのほんの僅かな一画。猫の額よりも狭い空間に、その場所はあったのだ。
 そして不運にも、アラストールはその場所に踏み込んだ――?
「馬鹿な、そのような――」
「偶然があるわけない? だがその『偶然』はあの盤の上で散々付きまとっていただろうに。
 アマワは偶然を操る――もっとも、そのアマワも今は君同様に焼かれているがね。
 だがそれでも“あの盤上でないのなら”偶然は起こるのだよ」
「なぜだ!」
 抵抗を止めぬまま、アラストールが叫ぶ。
 それは焦燥と苛立ちが生み出した意味の無い叫びだ。
 だが同時に、紛れも無くそれは心の底からの紛糾だった。

93意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:46:51 ID:vP/xCASw
 ――それが、最後の一線。
 神野が嗤う。醜悪に、毒々しく、嬲るように――だが淡々と。
「君の意志が蹂躙したのは『私』の言葉だ。
 『契約者でも無い限り、この空間で都合の良い偶然は起きない』。
 裏返せば、契約者であれば偶然に守護されるということ。
 あの盤上で君たちの力を縛る制限は二つ。その身に捺された刻印と、そして外部から隔絶する為に箱庭自体に施した刻印。
 前者は認識しやすい脅威として、後者は君のような規格外を制限するために用意させて貰った。
 保険のようなものだったが、君の同類の例から見て間違いではなかったようだ」
(――マルコシアス!)
 送還されたか、それとも果てたか――どちらか分からないが、それでも志は折れたのだろう。
 哀れだった。惨めだった。
 今の自分のように。
「後者の刻印は外部からの働きかけを制限する。加護や概念の類ですらもね。
 だからこそ、契約者とてあの盤上では死ぬ。
 そして『彼』のことを『私』が何と呼んだか――君は覚えていないだろう、アラストール」
「……っ」
「“盟友”だよ。『私』は契約者だ。
 やや変則的だが、心の証明に協力する限り――つまりこのゲームが続いている間はほぼ滅びることがない。
 少なくとも"君程度"の脅威ならば。
 今のように、あらゆる偶然が『私』を助けてしまう。これはすでに結ばれた約定なのだから、アマワの有無は関係ない」
 紅世の王の力ですら、神威ですら破ることのできない約束。
 ならば、何がそれを壊せるというのか。
「ぬ……ぐぅ……!」
 呻く。獣精霊の炎は天壌の劫火を掻き消すほどではないが、それでも拮抗していた。
 脱出は不可能ではない。
 それでも、それをした後に神野を再び追い詰められるかと言えば、おそらく無理だ。
 ――だけど。
「――諦めるか……諦めるものか!
 契約をした! フレイムヘイズの契約ではない、だが絶対の契約をダウゲ・ベルガーと交わしたのだ!」
 その約束を、果たさねばならない。
 契約の不履行など、この断罪の魔神にあってはならない。
 天壌の劫火は獣精霊の炎を纏いながら、一歩、また一歩と――僅かな、だが確かな歩みを見せる。
「そうだね。君らの『意志』と『願い』は強固だった。その獣精霊の残滓を凌ぐほどに。
 『私』を倒す、ゲームに幕を引く。ああ、確かに強固だった。だが――」
 神野は、動かない。
 もとよりそれほど距離が離れていたわけではない。アラストールがあとほんの少し踏み出せば、神野に届く。
 ――だが、それでも闇に浮かぶ嗤いは絶えず。
「だが、それでもゲームは続いている。それが君達の限界だ、アラストール」
 神野の言葉によって、道は閉ざされた。
 思い出す。否、強制的に情報を叩き込まれる。目の前の存在が如何なるモノであったかを。
 より強き願いによってのみ動く究極の魔法、神野陰之。
 それがまだゲームを続けているということは――
「そうだ。君たちの『願い』も『約束』もアマワのものに届かなかった。
 君たちの意志はアマワより薄弱で、君たちの決意はアマワより劣っていた。
 君達は正しくして――より強き想いに敗北した」
 砕けた。
 天壌の劫火。その巨体を支える膝が折れ、地に伏す。
 前進しようとする心は四散して、燃え盛っていた輝きは鎮まった。
 精霊は、ただ一つの意味に硝化して生まれる。
 アマワは隙間を埋めることの出来る存在を求めるが為に生じた。
 ただ本当に、なんの混じりけもなく、そのためだけに。
 叶えることにおいて夜闇の魔王が究極ならば、未知の精霊は求めることにかけての極致。
「そ、んな――」
 否定しようと口を開き――それでも言葉は出てこない。
 ダナティアの高らかな宣言。他者を生かすために自刃したリナの遺志。自分が守ろうとしたシャナの誇り。
 そしてダウゲ・ベルガーとの約束。それらが全て取るに足らないものだったと――
(ならば、我らが抗う意味とは――?)
「……アラストール」
 そして意志の折れたアラストールに、神野の言葉を防ぐ力はなく。
 哀れむような嘲るような、丸眼鏡の向こうの双眸に心の底まで貫かれ。
「事実だ」
 その言葉に、アラストールは恐怖した。
 届かない――いかに気高い決意も、強固な意志も、あらゆるすべてが届かない!
 気付かず、悲鳴を洩らしていた。
 いつの間にか、アラストールは神野陰之という存在に恐怖を覚えていた。
「さて、『私』と君の力量は互角。それでも、二対一ならば――」
 だけど、その悲鳴はすぐに、
「――消え去るがいい。“天壌の劫火”」
 断末魔となった。

94意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:48:10 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「これで君は切り札を失ったな、ダウゲ・ベルガー」
 絶叫は絶え、いまやコキュートスからはなんの意思も伝わってこない。
 追うように、ベルガーも沈黙を守っている。
 ただ闇だけが、まとわりつくように言葉を発していた。
「さて。改めて、君はどうするのかな?
 この空間から脱出する術も知らず、『私』を倒す手段も失われ。
 君達の意志の脆弱ささえ証明された。さあ――どうする?」
 成せることは……何も、ない。
 あのアラストールでさえ駄目だった。自分たちの意志さえ否定された。
 文字通りの八方塞がり。ならば、どうしようでもないではないか?
 それでもベルガーが口にしたのは、懇願でも狂気でも泣き言でもなく、問い掛けだった。
「質問を許可する、といったな」
「ああ、その通りだ。あらゆる問いに真実を返そう」
「なら――質問だ。
 "その質問を許された代価は?"」
 だが、ベルガーの心中は穏やかでない。
 闇を前にしている恐怖がある。仲間を奪われた怒りがある。
 彼を支えていたのは誓いだった。
 怒りに身を任せず、諦めに心を委ねず。
 彼らの御旗。ダナティア・アンクルージュの宣告は、未だ彼の中で生き続けている。
 ――それでも、御旗を照らす篝火は失われた。
 ベルガーが発した問い掛け。それは、本当に諦めから来たものではないのだろうか?
 幾多の死線を潜り抜けてきた彼の嗅覚は、だいぶ前から最大の警鐘を鳴らしている。
 しばしの沈黙。その後に、神野は高らかに嗤い声を上げた。
「君は本当に賢しいな、ダウゲ・ベルガー。
 そう。確かにあんな破格の質問が許されるはずが無い。
 ――なに、何かを支払えというわけではないさ。
 ただ、ああいった質問が許されるのは“どういった人物”なのだろうね?」
 饒舌な神野とは対照的に、ベルガーは押し黙る。
 それは口を開くタイミングを逸したというよりは、むしろ重圧で口が開けなくなっているという方が正しい。
 知らぬうち、ベルガーは己の心臓の辺りを服の上から鷲掴みにしていた。
 ――脳裏をよぎるのは、炎髪灼眼の少女。
 彼女は何故、自分の行為が織り成す絶望を知ることが許された――?
 それを見越したように、闇はその醜悪な嗤いを強めていた。
「開始時に説明されたはずだ」
「――なに、を?」
 ――呼吸が、出来ない。
 片肺は未だに再生中。いくら空気を吸ってもどこからか漏れている気がする。
 だが、この息苦しさはそれだけで説明できるだろうか――?
「刻印の発動条件さ。違反に応じて、それは発動する。
 この『ゲーム』を壊す為の『前準備』ならば容認もしよう。偶然に導かれて集うのも問題はない。
 だが、ダウゲ・ベルガー。契約者ですらない君が、アマワが存在しない時間に無名の庵に踏み込んだ。
 脱出を禁じられた箱庭から飛び出し、主催者に危害を加えようとした。
 今回君が冒したのは明確な『ルール違反』だ」
 そして、と神野は続ける。陰のように静止した笑みを口許に浮かべながら。
「刻印を作ったのはこの『私』だ。無論、それを発動する権限も――」
 ――シャナが己の行為の結果を知ることができたのは、すでに参加者ではなかったから。
 それはまるで、最終章のダクトを振り下ろすかのように。
 神野の指が、虚空を滑る。
 瞬時にベルガーの胸に灼熱が走った――

95意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:48:54 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 魔術師が指を弾いた。
 途端、新たに銜えられていたシガリロの先に赤が点る。
「様子見、というところにしておこうか」
「あれ? 刻印は作動させないんだ?」
「クライアントは過度な干渉を控えるように忠告していただろう……君の遊びも度が過ぎるぞ、人形使い」
 吐き出す紫煙に諌める言葉を載せながら、魔術師。
 肩をすくめて部屋から去っていく人形使いを尻目に、彼は深い思考に埋没していく。
 彼にはひとつ懸念している事柄がある。
 それは、このゲームが始まってから付きまとって離れない違和感についてだ。
 “黒幕”と“管理者”の迎合は、切っ掛けも何もなく唐突な瞬間から始まった。
 最初にそれと接触したのはイザーク・フェルナンド・フォン・ケンプファー。通称“機械仕掛けの魔導師”。
 厳重な警戒システムがあった筈の彼のラボに、気配も前兆もなくそれは現れた。
 現れた男の名は神野陰之。
 “心の実在を証明する気はないかね?” ――それが闇を身に纏ったその男の第一声だった。
 それから細々としたやり取りを経て、彼らは管理者という役柄に納まるに至っている。
 ――どこか、おかしい。
 魔術師は懸命に思考する。だが、その思考が解にたどり着くことはない。
 薔薇十字騎士団は短生種だけではなく長生種をも構成員に含んでいるが、それでも一応は人間的な思考で動く組織である。
 対して、神野陰之は人間であれば恐怖心を抱かずにはいられない暗黒だ。
 確かにオルデンは他人の野心等に付け込み、それを利用する形で自らの目的を果たそうとする性質が有る。
 だが同時に彼らは慎重だ。果たして、それこそ『魔女』のような精神構造を成してない彼らが神野と取引をするだろうか?
 誰も、違和感を覚えない。
 例えば、参加者の会話を盗聴できることに彼らは疑問を抱かない。
 住んでいる世界が違うというのに言語を理解できる。その理由を想像しない。
 例えば、彼らは安全な場所に居るが故に己の全力を行使する必要はない。
 だからその能力が低下していることに、気づかない。
 最初に神野と対峙したケンプファー以外は、そもそも黒幕に対しての不信感など抱いていない。 
 完全な状態の刻印を植えつけられる前に神野を知ることのできたケンプファー以外は、誰も違和感を覚えない。
 そしてその魔術師にもすでに刻印は刻まれている。だから、違和感の正体には気づけない。
 『管理者』という区別をされた、証明への参加者たち。
 彼らは揺り籠/牢獄の中にいる。

96意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/27(金) 21:49:37 ID:vP/xCASw
とりあえず今日はここまで。続きは明日。

97名も無き黒幕さん:2011/05/27(金) 22:31:50 ID:50ohktMY
うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
投下されとるやん!
待ってましたぜッ!

98名も無き黒幕さん:2011/05/28(土) 07:58:44 ID:???
感動、その一言に尽きます
大変でしょうが、頑張って下さい!

99意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:00:56 ID:vP/xCASw
投下再開。昨日の続きから。

100意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:02:15 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 闇色の海に、炭の如き黒色が浮いていた。
 それはかつて誉あるものだった。尽き果てぬ篝火。だがいまは、闇にまぎれてしまうほどの価値しかない。
 すでにそれは天壌の劫火ではない。燃え尽きた灰。堕天した劫火。
 そんな言葉がお似合いだろう。本来なら似合うはずのなかった自嘲を、アラストールは繰り返していた。
 そう。すでに自分は天壌の劫火ではない。紅世の王を名乗る資格などとうに失った。
『我は、最悪か』
 その身を汚され、フレイムヘイズを否定された愛しき子。彼女でさえ最後まで戦い抜いたというのに。
 対して自分はどうだ? こうしてなにもしないまま暗い空間を漂っている。
 だけど、もうどうしようもないではないか。
 存在の力をほとんど使い果たし、意思の強さでさえ敗北した。
 罵られてもかまわない。だが、何もできないのに何を求められるというのだろう?
 思考は停止し、アラストールは沈んでいく。無思考のまま、ただ黒いだけの場所に堕ちていく。
 ――だから、すぐその足音に気づくことができた。
 この地面すらない闇の中、だが規則正しいリズムで刻まれる音が確かに響いている。
 そして近づいてきた音の主は、横たわるアラストールをじっと見つめた。
 もはや、何にも興味はわかない――だから力なく、アラストールはそれをみて一番最初に思いついた単語を口にした。
『……死神か』
「――失礼ね。あんなモノと一緒にしないで欲しいわ」
 女学生の制服を着たそれは不満げな声音で、だが無表情のまま抗議する。
『だが我は貴様の名を知らぬ』
「名前、ね。私はもう死んでしまったモノだし、本当は無意味なんでしょうけど」
『呼ぶのには不便だろう』
「――ああ、そういえば彼にも言われたわね。なら、イマジネーターと。ねえ――燻っている劫火さん」
 さりげなく、だが刃のごとく突き出された言葉は、アラストールの深奥に突き刺さった。
 だけど、それを痛みとして感じる部分はとうに失っている。
 結果としてアラストールは沈黙するしかなかった。
 ただ、時間だけが流れていく。
『……』
「それ以上落ちれば、本当に戻れなくなるけれど?」
『……戻るとは、どこへだ?』
「どこへだっていけるでしょう。
 貴方はまだ死んでいないのだし、私のように地面に叩きつけられる運命にあるわけでもないのだから」
『……まだ、死んでいない?』
 胡乱げに、繰り返す。
 もはや言葉の意味を解するのも億劫なほど、アラストールは疲れ果てていた。
 それでも放棄せず、少しずつ噛み砕いて飲み込もうとしたのは、彼の性分がまだ多少なりとも生きていたからだろう。
 死んで、いない。確かに、アラストールという存在はいまだここにある。
 存在の力は九割方使い果たしてしまったが、それでもまだ、顕現は続いている。
 そう――いまの自分は、そんな状態でしかない。
 アラストールには、そのイマジネーターの名乗った者の言葉が皮肉のように聞こえていた。
 死んでいない――だからどうしたというのだ。
 くつくつと、消えた炎は死んだ笑いを響かせる。
『未だこの身が滅んでいないとはいえ、それでどうなるというわけではなかろうよ。
 何も成せない。何もできない――ならば、その生にどんな意味があるというのだ』
「私に死を講釈するの?」
『そのようなつもりはない。だが、放っておいてはくれまいか?』
「お断りするわ。私は、私の意思でここまでやってきた。
 聞きたくないのなら耳を塞げばいいでしょう。もっとも、いまの貴方にはそんな力もないでしょうけど」
 ああ、確かにそんなわずかな力さえない。
 だから、侮蔑するようなその言葉にも怒りはわかない。
 それでも――負け惜しみを吐くことくらいはできた。
『意思――意志か。だが、我はそれすら奪われた。完膚なきまでにたたき折られた。
 貴様にはあるのか? 意志を奪われたことがあるのか?』
「私は死神に殺されたわ」
『だがここにいる。我と相対して言葉を交わしている。それならば意志はまだあるのだろう』
「なら、貴方だって話しているわね。それは心があるっていうことになるの?」
『我は――流されているだけだ。貴様が話さねば、我もまた口を開くまい』

101意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:03:44 ID:vP/xCASw
 会話が途切れた。
 言葉の応酬を放棄したのはイマジネーター。彼女が口を閉ざせば、確かにアラストールも沈黙した。
 だが彼女がそれをしたのは、別にそれを確認する為という訳ではない。
 その台詞を聞いた途端、少女はとても詰まらなそうな顔になっていた。
 それはまるで、懸命になってあけようとしていた宝箱の中身がただのガラクタだとわかったかのような――
「貴方の言う意志っていうのは、こうして他愛もない戯言を話す程度のこと?」
 なぜだろう。それを言う彼女は、とても怒っているように見えた。
『なに――を?』
「戯言ならば誰にだって吐ける。こんな幽霊にだって、死神にだって。ええ、それこそ死人にだって紡げるわ」
 表情に変化はない。どこまでも達観しているかのような、冷めた少女の顔に変わりはない。
 だけど、違っていた。雰囲気とでもいえばいいのか――とにかく、彼女の何かが変わっていた。
「確かに貴方は負けてしまった。求めるために生まれた精霊の願いには、他のどんな願いも敵わない。
 だけど、たったそれだけのことじゃない」
『たったそれだけ……だと?』
 この絶望が……たった、それだけのこと?
 どれほど望んでも、決して届かぬと突きつけられた。
 結んだ約定は、粉々に引き裂かれた。
『そして今では、もはや戦おうとしてもそのための力すらない――それが、たったそれだけのことだというのか!』
「……私が何を言っても、貴方は聞かないんでしょうね」
 どこか諦めたように、少女は溜息をつく。
 そして、右腕を気だるそうにゆっくりと持ち上げた。
 指先はアラストールを向いている。
「そうね、貴方はさっき私を死神と呼んだ。
 そう呼ばれるのは癪以外の何者でもないのだけれど、貴方にとっては確かにそうなのかもしれない」
 彼女の名はイマジネーター。
 能力名はストレンジ・デイズ。死を制御する力。
「だから、貴方に死をあげるわ」
 黒から別の黒へ。闇から別の闇へ。暗転ではない暗転。
 こういう場合はなんというのだろうという胡乱な思考を道連れに、アラストールの意識は再度途切れた。

102意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:04:41 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 ふらり、ふらりと。
 海野千絵は濛々と煙を吐くマンションを背に歩いていく。
 行き先なんて知らない。それでもあの吸血鬼に会うために、無計画に足を動かした。
 時刻は零時を回ったところ。
 死者を告げる放送が、彼女を追い討ちした。
『117番、ダナティア・アリール・アンクルージュ――』
 次々と呼ばれていく、知っている名前。
 ああ――自分の仲間達は死んでしまった。
 しょうがないんだ。彼女は自分に言い聞かせるように独りごちた。
 これは殺し合い。みんな殺し合うなら、誰も生き残れるはずなんかないんだ。
 だから、私も殺しあわなくちゃ。
 歪んだ思考は止まらない。歪みは自動で矯正されない。
 どこまでも歪んでゆく。重さに耐え切れなくなった鉄骨のように、曲がり始めたらそれでお終い。
 罪悪感と言う自重により、彼女は勝手にどんどん歪んでいく。
『――以上だ。それでは二日目を楽しんでくれたまえ』
 ブツリと、そこで放送は終了した。
 海野千絵が辿る未来は分かり切っている。
 きっと彼女は吸血鬼になるまで歪み続けるだろう。
 しかし、あるいは――

 響く、通電する音。軽いハウリング。

 ――救いが彼女を押しとどめるかもしれない。

103意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:05:24 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 それはさながら古いビデオテープだった。
 まず映像が荒い。場所によっては完全に飛んでしまっている。
 音質も最悪だった。途切れ途切れの、薄っぺらい擦り切れた音声。
 きっとこれは経年劣化ではなく、録音環境が――あるいは録画した人物に何か問題があったのだろう。そんな拙さだ。
 それでも、それは健気に己の本分を――過去を伝える役割を果たそうとしていた。
 ビデオが再生されていく。
「ああ、本当に――とても残念だ」
 誰だか判別できない程ピンボケした像が、誰だとも区別できないような金切り声でそれを告げた。
 像が動く。何かを投げた。
 瞬間、赤く染まる画面。
「ぐああああああああああああっ!?」
 苦鳴。悲鳴。絶叫。
 録画・再生の状態が劣悪でも、そこに込められた苦痛は理解できた。
 動く赤。人型の赤。
 それが、人間が燃えている様なのだということは一目瞭然だった。
 生きたまま焼かれる苦痛とはどのようなものなのだろうか。
 経験者は語ってくれない。死者は口を開かない。
 だが、その人型は幾度も幾度もそれを体験した。
 気が狂うほどの痛痒。全身を余すところ無く火傷が覆う。
 水ぶくれがはじけ、剥き出しの筋肉をさらに火が舐め、皮膚が再生して再び水疱を膨らませる。
 慶滋保胤。
 それは最後まで意地を貫いた、一人の男の死に様だった。
 擦り切れた磁気テープがキュルキュルと回り、世界を映す。
 録画されたのは紛うこと無き死の記録。凄惨な焼死の映像。
 だが、それだけではない。これはただ人が焼け死ぬ様を映すものではない。
 炎を纏う人影が身動ぎし、そばにあった拡声器を掴む。ほとんど炭化した指がスイッチを押し込んだ。
 指だったものはベギリと嫌な音を立ててへし折れたが、それでも無理やり突起を押さえて放さない。
 マイクに口を近づけようとする。が、すでに腕の関節は動かなかった。神経が途切れたのか、腱が焦げたのか。
 仕方無しに、それはもぞもぞと這いずって口のほうを拡声器に近づけた。
 それはもはやほとんど炭だった。生きているのは単に『不死の酒』の効果に過ぎない。
 外見は立派な焼死体だ。もう誰が見ても生前の彼だとは分からないだろう。
 残っているのは骨と僅かな内臓器官、そしてぎらついた輝きを発する両眼のみ。
 それらも灼熱の外気を吸い込むことで、すぐに蝕まれていった。
 肺を犯す熱気。タバコなどよりもよっぽど直接的な有害に咽そうになりながらも、決してそれを許さない。
 息を吐いてしまったら、言葉が紡げない。
 だから、歯を食いしばって耐えていた。流せる血が残っていたのなら、全て流していただろう。
 残す言葉は一言だけだ。刻印解除のヒントでもなければ、勝利するための方法でもない。
 誰の助けにもならないのかもしれない。ただ虚しく夜空に紛れて消えるだけの声になるのかもしれない。
 それでも、これが最も必要なことであると確信できた。
 吐息も、意志も、全て注ぎ込んで。
 彼は、宣言した。

「継がれる意志がある限り、僕らの道は絶たれない!」

104意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:06:30 ID:vP/xCASw
◇◇◇
 
 意識が明転する。そこは相変わらず黒い空間でしかなかったが。
「いま、のは――?」
 何も変わりはしない。
 アラストールの前にはつまらなそうな顔をしたイマジネーターが佇んでいて、彼の顕現を支える存在の力は雀の涙ほどしかない。
 状況は、何も変わらない。だけど――
「だから、『死』よ。貴方にいま一番必要だったものでしょう?」
 ――アラストールは、知ることができた。
 慶滋保胤。彼の最期は凄絶だった。
 おとなしく死ななければならない状況を強いられ、仮初の不死故に下手な拷問よりも辛い苦痛の中で散った。
 だけど、彼は告げたのだ。
 仲間達がまだ在ることを信じて。彼は最後まで抗うことを忘れなかった。
「我は……」
 対して自分はどうだ?
 これは、身じろぎもせずに死なねばらない状況か?
 自分は、抵抗しているか?
 自分は、まだ仲間のことを覚えていたか――?
「我は……!」
 答えは全て否だ。
 あの闇の中で何もかもを諦めて忘却してしまっていた。
 自分達すべてを否定され、そして否定されるがままになっていた。
 夜闇の魔王――三千世界総ての暗黒の具現、名付けられた闇の齎す雰囲気がそれを強制した。
 だが思い出せた。仲間の死を、死を目前にして諦めない魂を見て思い出した。
 保胤の成し遂げた抵抗は傍から見ればささやかなものだろう。
 ただ遺言を残した。言葉にしてみれば床で息を引き取るのと変わらない。
 だがアラストールはそれが、それこそが賛美すべき反逆なのだと知れた。
 手段は八方塞がれ、それでもなお不諦。
 仲間を失い、失わされたことに気付いてもなお前を見続けた。
 そうだ――たとえその意志が、決意が、願いが誰かに劣るものだったとしても。
「消えるわけでは、ない」
 そうだ。負けることはあるかもしれない。だけどそれでも残そうと思えば残り続けるのだ。
「消させるわけには行かない」
 自ら放棄し、消そうとしていた己の覚悟。
 それを再び胸中に宿し、二度と諦めないと心に刻んだ。
 天壌の劫火。自ら敗北した身だ。その名を名乗るわけには行かない。
 だから、これは唯のアラストールとしての決断だ。
 腕を掲げた。
 いつの間にか、あのイマジネーターと名乗った少女は消えうせている。
 あれは何だったのか。三途に向かっていた自分にとっての死神だったのか。あるいはそこに垂らされた蜘蛛の糸か。
 何にせよ礼をいう時間も惜しい。これから行うのは賭けだ。掛けられる金額は時間が経つごとに減っていく。
 ふと心をよぎったのは、遠い昔『彼女』が死に際に残した言葉だった。
『貴方の炎に、永久に翳りがありませんように』
 ああ――済まない。その願いは果たせなかった。
 愚か者の自分には、おそらくダウゲ・ベルガーとの約束も果たせないだろう。
 それでも、往こう。
 掲げた腕。天に向かって己が居る位置を教えるように突き立てられたそれが弾け――
 暗闇の中に、再び闇を打ち消す篝火が生まれた。

105意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:08:44 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 ――再燃する。
 あらゆる罪を焼き滅ぼす烈火が再燃する。
 無名の庵。何をするでもなくそこに存在していた神野陰之の背後に、それは再び顕現した。
「――魔神の心は本当に読めないな。あの状態から這い上がってくるか」
 振り返る。
 そこには、再び炎を纏った巨人の姿がある。
 しかしその輝きは――顕現した当初に比べ、明らかに減じていた。
「だが、今の君に何ができる? 残された時間は少ない。
 君の敗北を知った為、私を縛っていたダウゲ・ベルガーの願いも最早意味を成さなくなった。
 君は、どう足掻いても私に危害を加えられない」
 アラストールが敗北した瞬間の焼き直しの如く、再びギーアの残滓が足元より吹き上がった。
 炎熱の吹き上がる獣の咆哮のような音。アラストールと神野の間を隔てる緋色の幕。
 仮にこれを打ち破っても、更に神野を滅ぼせるような力は残っていない。
「だというのに――君は、何故ここに戻ってきた?」
『……戻ってこれたからだ』
「出来るだけのことはやっておこうと? それこそ無駄でしかないだろう。
 君は結局、約束を果たせずに朽ちるしかないのさ」
『……そうだな。真に、その通りだ』
 呟く。自嘲ではなく、それは自戒だ。
 一時とはいえ、怯え、挫け、すべて投げ出した。その事実に対する戒めである。
 もしもあの時、諦めさえしなければもっと違う結末もあったかもしれない。
 だけど、もはや自分には『これ』しかない。
『だが、我は選んだのだ――例えそれが、滅びの道であろうとも』 
 ――かつて、彼に優しい女帝はこう問うた。
 真に尊ぶべきモノは幸福な生か、それとも誇り有る死か。
 いま、その答えを返そう。
(すまないな、皇女。我は汝の嫌いな、誇りの為に死ぬ馬鹿という奴らしい)
 他者の幸福な生のために、誇り有る死を選ぶ。
 ――それが。それだけが。
『我が選ぶことを許される、『生かす道』だ』
 されど死よ。大鎌を携えた収穫者。貴様が刈り取れるのはこの命だけだ。
 他は、渡さない。
 誇り、仲間、継がれる遺志。
 それらは全て、自分のものだ!

106意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:10:02 ID:vP/xCASw
『オオオオオオオオオオオオオォォォォォッ!』
 衝撃が轟いた。
 空間さえ断裂させたかと錯覚させるほどの轟音。其れがただ火の粉が弾ける音なのだと誰が想像しようか?
 存在する力。その残量をすべて消費し、アラストールは今一度劫火を燃え上がらせた。
 規模は大きくない。もとより使える力は残りカスに過ぎない。
 それでもこの炎は、ひとつの魂が放つ散り際の最も眩い輝きである。
 それを、足元の地面に叩きつけた。
 獣精霊の炎との拮抗。だが既に一度アラストールと相克していたそれも、最盛期の火力はとうに失っていた。
 故に、突破する。炎の縛鎖を打ち砕き、火の粉という残骸を煌びやかに撒き散らしながら。
 アラストールと神野陰之。二人の間を遮るものが、消失した。
「しかし、これで終いだ。最早『私』を消滅させられるほどの力は――」
 言いかけて、だが神野はすぐに言葉を止めた。
 ――アラストールの目論見を阻止するために。
 アラストールは、最早神野を見ていない。その双眸は世界そのものを見つめていた。
 神野はアラストールの心を読めない。だから直前になるまで気付けなかった。
 契約は彼の生命を保証する。だが保証するのは命だけだ。他の事柄に関しては作用しない。
 神野が造り上げたあの『盤上』は、外部からの進入を絶対に許さない。
 だが――無論、内部からならばその限りではない。
 例外があった。無名の庵。あらゆる世界が皮一枚分だけ交錯する場所があった。
 獣精霊ギーア。かつて盤の上で潰え、それでもアマワと神野の世界に牙をむいた。
 その場所が、ここ。盤上にもっとも近い、獣精霊の墓標。
 そして今、そこにいるのは異世界へ渡って顕現することの出来る紅世の王。その中でも破格の魔神だ。
 神野が呪圏を開放した。炎で照らされていた不毛の地が闇色に染まっていく。
 火力を維持するだけで精一杯のアラストールは、それに対応できない。
 いや、対応しない。
 奇しくも神野が言ったことだ。輝く炎と、深い闇。その相性は最悪であると。
 神野陰之では、いまのアラストールを殺せない。アラストールは露払いさえ必要としない。
 燃え盛る両腕を地面に押し付けた。名も無い荒野。その地面がまるで飴細工のように溶解していく。
 溶けて、溶けて――世界の裏側まで届きそうなほどに。
 だが、それと比例するようにアラストールの体は透けていった。
 顕現に必要な存在の力が不足しているのだ。それでも火力は下げられない。
 故に、トーチがそうするように己が身を代償としている。
『――我が意志が、劣ると言ったな』
 薄れる意識。最早、論理的な思考さえ許されない。
 だからその言葉は、ただ思いつくままに垂れ流された、最も強き想いだった。
『あるいはそうなのかもしれん。だが――奪わせんよ。我が散っても、この意思は残る。残してみせる』
「……だから君はそれを選んだのか」
 もはや阻止は叶わないと知ったのか、神野は佇んだままそれを見物していた。
 アラストールの両腕が、ずぶずぶと彼の世界を侵食していく。
「我が無名の庵を介して、盤上に道を繋げたな。
 後続に期待して、未来へ賭けた。
 だが、未来は我が盟友の領域だよ――果たして、彼らは勝てると思うかね?」
『愚問だ』
 天壌の劫火と呼ばれていた存在が完全に消滅する。
 さも当然という風なその言葉と――世界を侵す炎を置き土産にして。
 ――願わくば、彼らに天下無敵の幸運を。

107意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:11:51 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 時間は飛ぶ様に過ぎる。放心状態ならばなおさらだ。
 海野千絵は地べたに座り込んでいた。
 その身を満たすのは虚脱。心で鬩ぎ合うのは陽光と夜闇。
 向ける視線はマンションへ。彼女は先ほどまで自分が居た部屋を見つめていた。
 いや、それも逃げか。
 正確に言うのならば、保胤が死に、そして最後の言葉を残した部屋だ。
 未だに黒煙が上がっている、見るものに不安と不吉を刷り込むその場所。
 彼の断末魔は彼女に一抹の希望を与えた。
 意志を継承する者がいる限り、彼らの道は絶たれない。
 それを放棄するのが、たまらなく嫌だった。
 継ぐものがいなければ彼らの行動を全て台無しにしてしまう。
 それは、いまだ視界を掠める死人の影よりも恐ろしい。
 彼女は見ていた。彼らがこのふざけた盤上から脱出しようと邁進する様を見てきた。
 それはあまりに短い時間かもしれない。半日にも満たない時間かもしれない。
 だけど、それでも彼らは眩しかった。
 できれば自分も、それに加わりたくなるほどに。
 ――そして同時に、自分の犯した罪が浮き彫りになるほどに。
 希望と拮抗する絶望の正体はそれだ。彼女は過去のトラウマを払拭できてはいない。
 冷静に考えれば、保胤の件もそうだ。
 戻ってきた"探偵"としての冷静な思考が、彼女に新たな罪状を突きつける。
 あの時、臨也が保胤に火を放った時、あの場で動けたのは自分だけではなかったか。
 もしも自分が適切な消化活動を行っていれば、あるいは半不死の保胤は死なずに済んだかもしれない。
 震えながら出口を塞いでいたのも自分だ。まんまと利用されたのは自分が弱くて何もできないからだ。
 慶滋保胤を殺したのは、私だ。
 そんな自分に、彼らの想いを継ぐ資格など――
「うう……」
 それでも、出来ることならば継ぎたい。それは紛れも無い彼女の本心だ。
 だけどそれは許されることなのか。
 彼女には判断できない。その許可を彼女は自身で下せない。自身を許す判断を、自分で下してはいけない。
 だから思考は堂々巡りの鼬ごっこ。決して解に辿り着けない出口の無い迷路。
 気付けば、彼女の頬を一筋の水滴が伝っていた。
 彼女は求めていた。飢えた雛鳥のようにそれを望んでいる。
 渇望するのはただの言葉だ。躊躇う背中を一押ししてくれる、そんな優しい言葉。
(……誰か、助け……て)
 己の力では這い上がれない蟻地獄の中で、彼女はただ助けを叫んでいた。
 ――いつまでそうしていただろうか。
「……?」
 気がつけば、辺りに光が満ちていた。
 だが、さすがに朝になるまで呆けていたというわけでもないだろう。
 光の源は炎だった。
 彼女が眺めていた建築物。黒煙が立ち上っていた場所から――どころの話ではなく、その階を丸々占拠するかのように。
 紅蓮の炎が、噴出していた。
 不安や恐怖を催させるような類の業火ではなく、それは周囲に恩恵を振りまく篝火である。
 その光を背後にして、やはりいつの間にか彼女の前に人影が現れていた。
 それは、まるで今までその人影が闇に紛れてしまっていて、篝火によってようやくその姿を現したかのようだ。
 逆光でその顔には影が差し、表情をうかがうことは出来ない。
 それでも、それは紛れも無く――
「……全く、どうも俺は世界で二番目に生き汚いらしいな」
 ダウゲ・ベルガー。
 彼女の背中を押せる、唯一の人物がそこにいた。

108意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:12:34 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 闇の空間。そこに倒れ伏すベルガーと、それを見つめる神野がいる。
「そう、ルール違反だった。本来ならば」
 神野が呟く。独り言ではない。対話する相手はまだ目の前にいる。
 ダウゲ・ベルガーの刻印は発動していない。彼の魂はいまだ健在である。
「だが切欠となった空間転移に君の意志は絡んでいないことだし、一考する余地がある。
 故に、今回は見逃そう」
 ベルガーが小さく呻き、起き上がりながら左腕でそれを懐から取り出した。
 彼に支給された天人の緊急避難装置。それが熱を発するほどに強く光り輝いていた。
 無言のままそれを握り締め、睨んでくるベルガーをさして気にする風でもなく、神野は淡々と続ける。
「それでもそう気軽に足を運ばれては困るのでね。少し術式を弄らせて貰った
 ――本来の機能を失う代わりに、それは一度だけ『私』の元へ至る片道切符となる。
 使うのならば証明の式を携え、使いどころを考えたまえ」 
 二度目は無い。そう一方的に告げて、神野の姿は闇に溶けた。
 後に残されたのはベルガーただひとり。静寂が再びその場を満たした。
 こうして、彼は取り残された――だが、そうするとひとつだけ疑問が残る。
 何故、彼は海野千絵のもとに転移することが出来たのか。
 すでに天人の緊急避難装置はその力を失っている。
 ベルガーが単体で空間転移する方法など、ひとつもない。
 ――ならば答えは簡単だった。単に、前提が間違っているだけ。
 ベルガーは最初の神野の攻撃による転移で海野千絵のもとに辿り着いていた。
 それは装置が判定する『身内』の概念が曖昧だったからか――
 あるいは、海野千絵が保胤の宣言を聞き彼ら仲間になりたいと願ったのが零時過ぎ、
 つまりベルガーが転移するより前だったという事が関係しているのか。
 誰も正答など知らない。
 ただ、残ったのは黒い卵が千絵のもとまでベルガーを送り届けたという確かな事実だけだ。
 あとは神野がベルガーの転移先に用意していた黒い空間――
 外界からは知覚出来ない彼の呪圏さえ消えてしまえば、二人の仲間は邂逅する。
 そして、その呪圏を消し払ったのは――
「ああ――そうか」
 ベルガーは炎に照らされるマンションを――いや、炎そのものを見つめて呟いた。
 紅蓮の劫火は、彼らの古巣を煌々と染め上げている。
 それがアラストールの遺したものであるということを、ベルガーはなんとはなしに理解していた。
「そうだ。終わりじゃない――まだ、負けてはいないな」
 自分の仲間たちは大半が没したのだろう。これも、なんとなく分かってしまった。
 だが、終わりではない。むしろ、ここからが――
 ダウゲ・ベルガーと海野千絵。
 残り少なくなってしまったが、それでも彼らの道は絶たれていない。
「反撃、開始だ」

109意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:13:39 ID:vP/xCASw
【C-6/マンション前/2日目・01:00頃】

【海野千絵】
[状態]:物語に感染。かなり精神不安定。
[装備]:なし
[道具]:光の剣(柄のみ)
[思考]:1.自分は仲間だろうか?
    2.吸血鬼にもどる?
[備考]:吸血鬼だった時の記憶は全て鮮明に残っている。
    第四回放送はきいていましたが、内容を何処まで覚えているかは不明です。


【ダウゲ・ベルガー】
[状態]:左肺機能低下、右肺機能低下、再生中、不死化(不完全)
[装備]:PSG-1(残弾20)、鈍ら刀
[道具]:携帯電話、黒い卵・改、単二式精燃槽 (フロギストンタンク)三つ
[思考]:反撃開始だ。
[備考]:黒い卵・改は本来の効果を失っています。
    現在の効果は『望めば一度だけ無名の庵にいる神野陰之の許にまで転移する(限定一人のみ)』です。
    第四回放送をきいていません。

※アラストールは消滅、それに従いコキュートスも消失しました。
 C-6/待機組マンション内部に無名の庵に繋がる空間が発生しました。次の00:00まで存続します。
 マンション内部にあった刻印についてのレポートは焼失しました。
 マンション内部にあった装備品(メガホン・“運命”)がどうなったかは不明。次の書き手さんに任せます。

110意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:14:46 ID:vP/xCASw
◇◇◇ 

 無名の庵。
 かつては満遍なく闇色で満たされていたその空間も、今はその一部が炎によって照らし出されてしまっている。
 それもただの炎でない。アラストールの置き土産。己の身を賭した強力な自在法。
 それは世界を焼き破り、盤と繋がってしまった。
 篝火であるが為に、闇たる神野には消すことも塞ぐこともできない。
「まあ、これはどうということも無いがね。いずれ零時迷子が修復してしまう」
 その輝きを見つめながら、神野はひとり荒野に佇んでいた。
 修復前に参加者が無名の庵に進入してくる可能性はあるが、それはさして問題ではない。
 もとより、神野はこのゲームがどのような終結を見せようが構わないのだ。
 大切なのは、その過程で心の証明がなされること。
「だが、こればかりは放っておく事もできないかな」
「……」
 いつの間にか現れていたセーラー服姿の少女――イマジネーターと神野が対峙する。
 少女はつまらなそうに、対して夜闇は笑みを浮かべながらお互いを見つめていた。
「招かれざる客。招待状を持たぬ君達にも、舞踏会の会場に入ることまでは許したがね――
 "これ"は逸脱しすぎだ。間接的にとはいえ、盤のルールを崩壊させたのだから」
「すでに処罰されていない前例があるようだけど?」
「アイネスト・マッジオ? いや、君達の言を借りれば吊られ男か。君と彼では立ち位置が違うよ。
 マグスは脆弱すぎる。ただ観察し、それを垂れ流すだけだ――君とは違い、世界の敵にはなれない」
 そんなことは分かっているのだろう? と、神野は哂いながら返す。
 遊戯盤を閉ざそうとする外部からの介入。それは主催者側からしてみれば、最も忌むべきものだった。
 本来ならばそのまま潰える筈だったモノを、参加者以外の存在が蘇らせる。
 それがこの証明遊戯における、天使の長の次に処断される罪。
「さて、違反者にはそろそろ舞台を降りてもらうが――その前に、ひとつだけ問おう」
 心の証明。それをするのは参加者でなくともいい。
 すでに死神に殺されただの残響でしかない水乃星透子の意図を見通せず、神野は問いを口にした。
「君は、何故天壌の劫火を救った?」
 答える答えないに関わらず、神野はイマジネーターを退去させるだろう。返答はさほど期待していなかった。
「私がそれをしなければ――」
 だが存外に間を空けず彼女は口を開いた。
「貴方は、ダウゲ・ベルガーを殺したでしょう?」
「その通りだ」
 なんということもない、という風に神野が頷く。
「この遊戯は最終的に心の証明が成されればいい。逆に言えば、証明が成されるまで遊戯は続いていなければならない。
 だからこそ主催の死という事態はもっとも防がなくてはならないことだ。
 『私』も彼も、そして契約すら真に不滅という訳ではないからね。
 ダウゲ・ベルガーは反抗抑止の為の見せしめに最適だった」
 それも、アラストールが盤上へと続く穴を開けてしまうまでの話ではあるが、と神野は肩をすくめて見せた。
「アレをすぐに閉じる事は出来ない。さらに空間へ力尽くで干渉したことによって盤自体に無数の歪が出来てしまった。
 歪の補填を行いながら外部からの干渉を遮るには、『私』も力の殆どをそちらに割かざるを得ないだろう。
 ならば他の参加者に搦め手を使われるよりも、ダウゲ・ベルガーに先導させ正攻法に挑ませた方が対処しやすい」
 あそこでベルガーを生かし、盤上に送り返せば、再び立ち向かってくるだろうことは容易く予想できた。
 そしてその際、彼はアラストールの遺産を利用するだろう。これも、予測できる。
 また、彼が属していた集団の行った放送による他の参加者への影響はまだ薄れていない。
 脱出を目論む参加者がベルガーと協力するならば、彼らもまたアラストールの開いた空間を使用する。
 例えるなら友釣りのようなものだ。
 ベルガーを餌として、無数に生じた空間の罅という出入り口より、魔神の遺した目立つ道標にのみ参加者の目を向けさせる。
 あるいはベルガーが仲間を連れず、変質させた天人の遺産の方を使用するという可能性もなくはないが――
 その場合はもっと簡単だ。心の証明をするならばよし、出来なければ今度こそその身に捺された刻印を持って排除するだけである。

111意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:15:41 ID:vP/xCASw
「さて――話がずれたが、君はどうしてアラストールを救った?」
「私の言葉を聞いていなかったの?」
「そうではないよ。だが君が、他でもない君が他人の生き死にを哀れむということはしないだろう。
 ダウゲ・ベルガーを救うために? いいや、そんな理由ではないだろう――水乃星透子」
「それほど、違う理由があるいうわけでもないのだけどね」
 肩を竦めるようにして、ため息をひとつ吐く少女。
「単純に、彼らはきっと"突破"すると感じただけ。
 彼ら自身が、あるいは彼らが切欠となって突破する者が生まれる。だからこそ力を貸した」
「イマジネーターとしてのサガ、というわけか。
 だがそういった目論見が全て外れたから、君はそんな中途半端な格好で漂っているんだろう」
「今回こそ、と信じたいわね。
 それにこの直感が外れようが私が失うものなんてないもの。死すら私は持っていない」
「失うものならある。この舞台の行く末を見る権利だ。消え失せたまえ、亡霊」
 死に慣れすぎた彼女に、神野の呪圏は効果がない。
 だがそれでも、彼の世界から追い出すのは容易いことだった。少女の姿が一瞬で消えうせる。
 そうして無名の庵にはその主が一人のみ佇む、いや――
 再び、神野以外の人影が隆立する。ただし、今回のそれは招かれざる客ではなかった。
「お早いご帰還だね――我が盟友」
「時間など、御遣いには意味がない」
 未来精霊アマワ。
 それを封じていた獣の炎はすでに魔神によって打ち破られている。
 ゆらゆらと揺れる不定の形で、隙間はいつものように問いを発した。
「私が不在の間に心の証明は成されたか?」
「かつてフリウ・ハリスコーが君に突きつけた回答ならば」
「それでは駄目だ。あの回答をもってしても隙間は満たされなかった。故に今の私がある」
「そうだろうね。だからこの証明遊戯は続行というわけだ。
 『私』はこれから少しばかり"こちら側の舞台"に手を加えるが、君は――いや、聞くまでもないか」
 こくりと精霊は頷き、すぐにどこかへ消えていく。
 あれはただ解答を求めて囁き続けるだけだ。それ以外には何もしない。
 舞台役者もかなり減った。カーテンコールまであと少し。
 それに感慨を抱く事もなく、神野は呪圏を広げた始めた。呼応して、無名の庵がその有様を変質させていく。
「さて、閉幕は近い。
 その時壇上に残るのは空白か、それとも拍手喝采か――」

【???/無名の庵/2日目・01:00頃】
・イマジネーターが世界より放逐されました。
・ギーアによる束縛が失われた為、アマワが開放されました。
・アラストールの干渉によって、世界に無数の罅が入りました。
 神野はこの隙間からの干渉を遮断するために力の殆どを使用します。

112意志葬送 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:19:48 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「遊びが過ぎる……か。やれやれ、ばれていたみたいだね」
 人形使い――ディートリッヒは言葉の内容とは裏腹に悪びれた様子もなく、滑るように通路を進んでいく。
 この施設はあの『盤面』とは別の空間にある。
 参加者たちを盤面に送り込んだ通路は一方通行だ。彼らがここに到達する可能性は零に近い。
「だけどさ、イザーク。遊びっていうのは勝たなきゃつまらないって僕は思うよ」
 ――だが、絶無ではない。
 一方通行とはいえ、そこに道があるのは確かなのだ。参加者の中には多彩な能力をもつ者も多い。
 何かの間違いがあれば、彼らはここにたどり着く。そうなれば自分たちの身も危険に晒される。
 無論、可能性は低い。だが零ではない。
「――僕は、他人の顔が苦しく歪むのを見るのが好きだから」
 ディートリッヒの手の中には一本のペットボトルが握られている。
 合成樹脂製の容器の中には折りたたまれたメモが封入されていた。
 メモの著者はサラ・バーリン。内容は刻印の解除方法について。
 幾多の世界の知識を統合しまとめられたそれは、さしものディートリッヒといえどもその内容が果たして本当に正しいものか判断することはできなかった。
 だが、それでもこのメモによって刻印が解除されてしまう可能性はある。
「だから、こういうこっちにとって不都合なアイテムは――」
 人形遣いのもう片方の手。その指先には発火剤を乗せられた小さな木の棒があった。
 マッチを壁に擦り付けて発火させ、ボトルの中に落とす。瞬時にメモは燃え上がり、灰となって崩れ落ちる。
「――無駄な足掻き、ごくろーさま」
 くつくつと、本当に楽しそうな笑みを浮かべながら。
 ディートリッヒはボトルを廊下の壁際に設置されていた金属製のゴミ箱に叩き込んだ。

【???/管理者ルーム/???】
・サラ・バーリンのメモはディートリッヒが回収、破棄しました。

113 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/28(土) 23:24:01 ID:vP/xCASw
投下終了。とりあえず本日はここまで。続きは明日の予定。

114コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:29:26 ID:vP/xCASw
投下開始……って時系列が狂いすぎて残り人数が増えたり減ったりしてるぅぅ!
あとで何とかしよう……最終的に帳尻は合うようになってるはず。

115コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:30:22 ID:vP/xCASw
 時計の短針が一の数字を指す頃にそいつはやってきた。
 場所はD−2の木造校舎。その1階に位置するとある教室である。
 生徒用の出入り口で出迎えた出夢が、そいつを見て気づいたり思ったりしたことはいくつかある。
 非常に疲弊している事。それを隠せないほど浮かべている笑みが薄っぺらいこと。
 そして、そんな好意的には見えても信用はできなさそうな奴が自分達の待ち人であったという事。
「お久しぶりですね、長門さん」
「時間にしてみれば、私達の再会はおよそ二十五時間ぶりとなる」
「……そんな程度なのですか。もっと長く感じていましたよ」
 虚ろ気な表情を浮かべ、嘆息を吐くそいつ。
 身に着けている制服は所々ほつれ穴が空いている。今はもう長門が修復したが、ここに着いた時には左腕がへし折れていた。
 それなりに修羅場を潜ってきたのだろう。
 そいつに戦闘能力はないと聞いていた。その上でここまで生き残れたというのは――単に運が良かっただけなのか。
(違うな)
 出夢は声には出さずそう呟いた。
 それを聞きつけたというわけではないだろうが、そいつが出夢の方に向き直る。
「はじめまして、古泉一樹といいます。長門さんがお世話になっていたそうですね。
 お礼を言わせてください」
「ん、そうか。僕ぁ匂宮出夢。よろしくな、おにーさん。僕の方が年上だけど。
 で長門おねーさんのことは――まあ、気にすんな。なんてたって僕とおねーさんはもう懇ろな仲なのさ」
「それはそれは」
 高笑いと、苦笑と。対峙する種類の違う笑みは、どこか寒々しいものだった。
「古泉一樹」
 空気を読んだという訳ではないだろうが、長門の一声がその対峙を終わらせる。
「貴方がここに来たということは、そちらでも閉鎖空間の存在を感知しているということ?」
「長門さんの疑問系、というのも中々珍しいですね。
 ええ、僕の方でも感じています。平時のものと比べるとあまり大きくはありませんね。
 せいぜい教室ひとつ分、というところです。やはり涼宮さんの力が制限されていると考えるべきでしょうか」
「確証は出来ない。涼宮ハルヒの引き起こす情報爆発に底が見えたことはない」
 有限と無限の間には大きな隔たりがある。それこそ永久に埋める事の出来ない隔たりが。
 例えば莫大な数から一を引くとする。
 それでもその数字が莫大であることに変わりないが、一つ分だけ数が小さくなるのもまた確かだ。
 だが仮に無限の存在があるとすれば、そこからいくら数を引こうが割り算をしようが無限である事には変わりない。
「涼宮ハルヒの力とはそういうもの。観測者が観測できる範囲以上の領域すら改変し得る」
「話には聞いてたけど、ほんとトンデモな力だねぇ。神様かっつーの」
 実感できない感想を出夢が口にすると、長門は律儀に頷いた。
「事実、彼女を神聖視していた組織もあった」
「うっひゃぁ! そいつぁー筋金入りだ。職業・神様ってか」
「ですが、」
 ぽつりと、古泉が呟く。
 それは独り言のようなものだったのだろう。
 胸中から漏れてしまった言葉。続きを聞かせる気はなかったのだろうが、視線が集中してしまえばそういうわけにも行かなかった。
「ですが、彼女は実際に――亡くなっています」
 僅かに言いよどむ古泉。
 対する長門は無表情を崩さなかった。いや、もしかしたら何らかの感情が顕になっていたのかもしれない。
 だが、それを読み取れる人間はもうこの場には居なかった。
 無表情にしか見えない顔で、長門が言葉を継ぐ。
「そう。だからこそ彼女の残した閉鎖空間を解析する。貴方に協力を頼みたい」
「もちろん請け負いますよ。そのためにここに来たのですから」
 古泉は力強く頷いた。

116コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:31:07 ID:vP/xCASw
 だが力強かったのは一瞬だけだった。力み、そして力が抜ければ疲労はより色濃く噴出する。
 教室の机に手をつき倒れるのを予防する古泉の様を見て、事務的に聞こえる口調で長門。
「いったん休息を取る事を推奨する」
「見張りはしといてやるから安心しな。添い寝はしてやれねーけどな、ぎゃははは!」
「そうですね――では、お言葉に甘えて」 
 古泉は足元に置いてあったデイパックを再び担ぎ上げ――
「ああ、まあとりあえず詳しい話なんかは一眠りにしたあとに、な」
 ――ようとするその動作を、直前で取りやめた。
 屈んだ体勢から再び元の位置まで戻り、首を横に振りなおす。
「……いえ、やはり今すぐ始めましょう」
 出夢は目を針のように細めた。何も言わず、じっと古泉を見つめる。
「貴方は疲労している。この空間は非常に不安定。
 調査に万全を期すためにも休息を取ったほうがいい」
「不安定だから、です。時間をかければ、閉鎖空間が消失する可能性もある。
 もとより、僕達超能力者は彼女が望んだことで発生したのです――彼女が消えた今、力がどれほど持続するかは分かりません。
 時間的猶予は、あまりないと思いますが」
 言って、古泉は時計を見た。午前一時十五分に届くか届かないか。
「遅くても三十分以内には戻ります。危険ならすぐにでも。
 ――ええと、確か出夢さんでしたか?」
「ん?」
「申し訳ありませんが。僕が居ない間また長門さんのことをよろしくお願いします」
 それだけいって、古泉は返事も聞かずに教室を後にする。
 その速度は決して速いものではない。歩む姿に力はなく、牛歩よりも多少まし、という程度。
 だが二人は声をかけなかった。各々別の理由から。
 その姿が教室から消えてしばらく後、ふと、長門が口を開く。
「古泉一樹の消失を観測した。閉鎖空間への侵入を果たしたものと推測する」
「ふーん。じゃあ僕達は待つだけか。しっかし、なんともまあ強引なおにーさんじゃねーか」
「原因は脳内物質の異常分泌。おそらくこの特異な環境に長時間さらされ続けたた外圧ストレスが原因」
(まあ、そりゃあそうだろうな)
 出夢は肩をひょい、と竦めた。
 あの優男の態度がおかしかったのは、確かにこの環境のせいだともいえる。
 だが、もっと直接的な原因があることも出夢は知っていた。だからこそ、性急に動く事を止めはしなかった。
(話すべき、か?)
 ちらり、と隣の無表情な少女を見やる。
 古泉一樹とこれから行動を共にするとすれば――そして出夢の考えていることが正しいとすれば。
 後々、この事は大きく響くことになるかもしれない。
(……まあ、僕が話す義理でもないか)
 話して事態が解決するわけでもないし、そもそもこれは本人から話すべきことだろう。
 それに、『人喰い』が気にするような話でもない。
「そいじゃ、僕達はこれからのことについてもうちょい話しておくか――」

117コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:32:47 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 木造校舎一階、教室――
 古泉一樹は扉に手をかけた。
 閉鎖空間はちょうど板一枚を挟んだ向こう側に広がっている。
 どうやら教室一つ分にちょうど収まっているらしい。
 小さくなっているだけならばともかく、いつもの閉鎖空間に比べて形状が不自然すぎる。
 これは、意図的なものなのか。
(おそらくそうなのでしょうが……それが何を意味するのかまでは分かりませんね)
 この教室で"彼"が死んだ事を、古泉は知らない。
 だから、考えても分からないことだと断じた。ならば進むほかに道は――
(いいえ)
 自分の頭の中で囁く考えの内、その一つを否定する。
 例えば、戻って長門有希と合流する。とりあえず外部からもう少しアプローチする方法を考えてみる。
 そうだ、他に慎重な案はいくらでも思いつく。
(――僕は自暴自棄になっている)
 認めた。自らを嘲るように鼻で笑う。
 そして同時に扉を引きあけていた。馬鹿げている。そんなことは分かりきっているはずなのに。
 思考と行動が一致していない。
 脳の回転が動作に追いついていない状態を混乱と呼ぶのならば、今の古泉は混乱しているといえた。
 だがそのことを自身で認識しているのなら、それはなんというべきなのか――
(……いえ、考える事はよしましょう)
 思考を振り払う。平時の閉鎖空間でさえ危険はついて回るのだ。
 ならばこの剣呑極まりない舞台で生み出された閉鎖空間はどれだけの危険を秘めているのか?
(つまり……不意打ちされる程度には危険だったということですかね)
 地面に膝をしたたかに打ちつけながら、呻く。
 視界が黒く染まった。同時に脳の奥まで届くような鈍痛が眼球から遡って来る。
 言っているうちから油断していた――他人事のように苦笑を浮かべる。
 どうやら考え事にとらわれている内に閉鎖空間への侵入は終っていたらしい。
 障害物に頭でも打ったか、神人に脳髄を潰されたか――
 前者ならばどうでもいいし、後者ならばもうお仕舞いだ。
 さほど危機感は抱かず、ただ確かめるため、痛みをこらえて目を見開く。
「……何をしてるんだ?」
「え?」
 まずは声をかけられたことに驚いた。
 閉鎖空間に居るのは神人のみのはず。
 まさか"機関"の仲間が外からの侵入を果たしたか。
 それが誰かまでは咄嗟に分からなかったが声には聞き覚えがあった。だから、そんなことを夢想した。

118コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:33:30 ID:vP/xCASw
 だけど、
「ちょっと古泉君、大丈夫?」
「ぐ、具合でも悪いんですか?」
 彼女達の声が組み合わさった事で、そこがどこなのか認識した。
 視界が戻る。痛みの原因は急に差し込んだ斜陽の光によるものだった。
 西へ傾いた太陽は、光を部室の奥にまで届けている。
 本来、この閉鎖空間を満たすべき灰色はどこにも認められない。
(これは……夢でしょうか)
 呆然と立ちすくむ。
 身を苛ませる焦燥。欲しいものが近くにある。目の前に、どころではなく自分はその只中に居る。
 『殺してでも』取り戻したかった日常。
 それが、そこにあった。
「ねえ――本格的に大丈夫?」
 涼宮ハルヒ。彼女が心配気にこちらを見つめている。
 いままでそんな感情を向けられた事はなかった。当然だ。彼女にストレスを溜め込ませない事が自分の役割だった。
 あの日常での、自分の役割だったのだ。
 その役割にもう一度収まれるのなら。
 それは、日常を取り戻せるという事か。
 息を吸った。声を出すために。心配など要りませんと、笑顔を浮かべて告げようようと思った。
 それが日常だった。自分の役回りならばそれを甘受しよう。辛くなどない。辛いと思うはずがない。
 だってあれほどまでに求めていたのだから。
 だけど、窓辺に『彼女』が居ない事に気づいてしまったから。
「ええ、すみません――少し熱が。どうも風邪を引いてしまったみたいで」
 口から出たのは、そんな言葉に代わっていた。
「じゃあ、こんなところに居ないで早く休まないと――」
「ですが一応欠席のことを伝えようかと。メールなどでは不義理かと思いまして」
「聞いた、キョン? これが副団長とアンタの差よ」
 俺は関係ないだろう、と彼が反論する。振り返った彼女が不敵に笑う。
 その光景から目を逸らした。ずっと見ていれば縋り付いてしまいそうだった。
 その無様をさらす前に、ドアノブに手をかける。彼女は目ざとくそれに気づいた。
「ああ、うん。別に良いわ。風邪、流行ってるみたいだしね。今日は有希も休みだって言うし。早く治しちゃいなさい」
「……おや、そうなのですか」
 どうやらそういう風に処理されているらしい。
 一礼して、古泉は部室から抜け出した。
 後ろ手に扉を閉め切ったとき、すでに古泉の顔から笑顔は消えている。
 辺りを見渡す。部室の外は、見慣れた部室棟の廊下だった。当たり前のようで、これは異常だ。
 侵入する前は、確かに部室一つ分の空間しかなかったはず。
(僕が侵入した事で広がった――?)
 今思えば先ほどの立ち眩みも、世界が広がるという異常にあてられたのかもしれない。
 いや、結論を急ぐのはよそう。首を振り、歩き出した。もとより彼女の力は出鱈目に過ぎる。
 中が外見通りだとは限るまい。その気になれば彼女はサイコロ大の空間に世界の縮図を描けるだろう。
 確かめるべきは、唯一つ。
(そう、この世界は――)
 この現実のような閉鎖空間は、果たしてどこまで――

119コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:34:13 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 そして、三十分後。
「ただいま戻りました」
「おう、ごくろーさん。で、首尾は?」
 几帳面なほど、彼は時間通りに戻ってきた。
 顔からは疲労が薄れている。回復したのではない。新たな高揚に塗りつぶされているだけだ。
「……?」
 出夢は首を傾げた。首を傾げて、こちらをじっと見つめてくる古泉を見返した。
 何を言うわけでもなく、古泉はただ出夢の顔をじっと見て考え込んでいる。
「どうしたのさおにーさん――さては僕に惚れたか!?」
「いいえ」
「……おいおい、真顔できっぱりとそういわれるとさしもの僕も傷つくぜ」
「あ、いえ……ええと、何でしたか」
 言われて、古泉は自分が会話をしているということをはじめて認識したらしい。
 殆ど上の空だ。まるで熱病に冒されたかのように、外部を正常に認識していない。
「重症だな、こりゃ」
「古泉一樹」
 それを覚ましたのは長門の一声だった。実際に室温を調節したのかもしれない。
 古泉の瞳が焦点を結んだ。
「あ――そうですね。お話しましょう」
 意を決したように、古泉は出夢と長門を視界に収め、
「僕達は、いますぐにこの世界から脱出できます」

120コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:35:12 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「結論から言えばあれは通常の閉鎖空間ではありませんでした。
 例えるならそう、新しく創り上げられた世界といったところでしょうか」
 涼宮ハルヒの作り上げた箱庭から帰還した古泉一樹はそう報告した。
「涼宮さんは知っての通り、ああ見えて常識人です。ですからこの奇妙な殺し合いの場においては普通の少女でしかない。
 だからこそ、彼女は夢想したのでしょう。平凡な日常。それまで当たり前のように続いていた平穏な日々を」
 早い話が現実逃避だ。
 別に彼女の精神が特別脆かったというわけではない。正常な人間ならば、大なり小なり誰もがそれを日常的に行っている。
 だが涼宮ハルヒには力があった。現実逃避を現実にしてしまう力が。
 故に、創り上げる。
 いつものように無意識無自覚、そして出鱈目な世界。閉鎖空間を。
「ですが僕ら"機関"が処理していた通常の閉鎖空間がストレス解消の役目を担っていたのに対し、
 この閉鎖空間はいわば保身です。涼宮さんが亡くなる直前に、彼女が死を拒絶したことによって生まれた空間。
 それも未完成のね。彼女が望んだのは過去の日常。ありがたいことに長門さんと僕はそこに含まれていたようです。
 たとえるのなら、あの世界はピースの欠けたジグソーパズル。僕達というピースが進入すればその時点で完成します」
 そして完成してしまえば、それはひとつの確固たる世界として機能する。
 涼宮ハルヒによる新たな世界創造。彼女を取り巻く組織が恐れていた終末がすぐ傍にある。
「単刀直入に言いましょう」
 古泉は一度唇を舐めて湿らすと、決定的な言葉をつむいだ。
「僕達が涼宮さんの世界のピースになれば、このゲームからは逃れられます。
 この刻印による死も、管理者の手も届きません。彼女がそれを認めないのだから。
 僕達は――このゲームから労せずに降りることができます」

121コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:35:54 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 まずは静寂が場を支配した。古泉のもたらした情報を整理するための黙考。
 涼宮ハルヒは現実のような閉鎖空間――いや、もはや新世界といったほうがいいだろう――を創造した。
 いまやこの殺戮の舞台は、その内に別の世界を抱え込んでしまっている。
 新世界が完成すればどうなるのか。この世界に上書きされるのか。果てまた別の世界となり独立するのか。
 それは分からなかったが、
「いくつか確認したいことがある」
「僕もだ。――おねーさんからどーぞ」
 こくりと頷くと、長門はその硝子の様な目で古泉を見つめ、
「閉鎖空間に関して貴方は私にない感覚機能を有している。だから私は貴方からの情報を全面的に正しいものとして受けとった。
 だが分からないことがある。涼宮ハルヒが我々という個体を求めていたのなら彼女はそれを造りだせた筈。
 ならばピース、すなわち私達だけが欠けているという状況が発生する理由が理解できない。
 それとも、あの空間内には――」
「もちろん、SOS団以外の方もいらっしゃいました。
 調べてみましたが、きちんと日本以外の場所まで造りこまれていましたよ」
「あ、じゃあ便乗して質問するけど、どうやって調べたのさ? この短時間で世界中回ったって訳じゃないだろ?」
「米国の日本領事館へ電話を掛けました。他にも『機関』の情報網を使って色々と」
「だけど、実際見たわけじゃない」
「同じですよ。彼女が『違和感を感じさせないための措置』を取っていたのなら、実際に行ってみても存在する筈です。
 それと、長門さんへの質問の答えですが」
 あくまで推測です、と前置きして、
「おそらく僕達が涼宮さんと同じ状況に置かれていたからでしょう。
 向こうに居た団員の方は涼宮さん、朝比奈さん、そして彼。どなたもこちらでは既に、亡くなっています。
 この"舞台"にいたことそのものが原因なのか、果てまた涼宮さんが本物の僕達が別に居ると捉えていたのかは分かりかねますが」
「非効率過ぎる。涼宮ハルヒは我々と寸分違わない複製を作れるはず。
 我々が閉鎖空間に侵入するまで待つ理由がない」
「さぁ、そこまではなんとも。
 ですが実際に向こうの世界の貴女は『風邪』で休んでいました。有り得ないことに。
 そして誰もそのことに関して違和感を持っていません。気づいてしかるべき彼や朝比奈みくるでさえも、です。
 実際問題として、向こうに僕と貴女だけがいないんですよ。あまり疑う余地もないと思いますが」
「だが――」
「こう考えてはどうでしょう」
 食い下がる長門を手で制して、古泉。
「僕達は信頼されていた。だから、涼宮さんはあえて僕達を複製しようとは思わなかった。
 僕達が必ず自分達で辿り着くと信じていたから」
「……信頼。私達は、信頼されていた?」
 長門は一度だけそう呟いた。ただ復唱するように、あるいは自身に囁くように。
 その言葉は彼女にとってどういう意味を持っていたのか。
 静寂が、その場を支配する。

122コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:37:01 ID:vP/xCASw
「――っぷ」
 いや、それは違った。
 単に、静寂とは正反対のものが一拍遅れて起こったから――だから、その空隙を静寂のように感じただけだった。
「くっ、は、ぎゃは、ぎゃはははははは!」
 教室に木霊したのは哄笑だった。その主は無論、人喰いの匂宮出夢。
 出夢以外の、二人の視線が集中する。それにも関わらず、出夢の馬鹿笑いは長く続いた。
「あー……はー、全くもって傑作だ。あまりにも可笑しくて死にそうになっちまった」
「……どういう意味ですか?」
「どうにもこうにも、理論立てて説明し始めときながら、その着地点が『信頼』だってか?
 そりゃあ失笑もんさ。急にファンシー仕立てになったじゃねーか」
「――そうですね。確かにこれは感情論に過ぎないのかもしれません」
「そう、感情論だよね――おにーさん、ここから逃げ出したいんだろ?」
 その言葉は、古泉一樹が腹の底に隠していた核心だった。
 目を見開く古泉に対して、出夢はひょいと肩を竦める。
「僕としちゃあどうでもいいのさ。“理由”は想像がつくし、それについて非難しようとも思っちゃいねえ。
 だけどそれに他人を、それも僕のおねーさんを巻き込むっていうんなら話は別さ」
「……僕にどうしろと?」
「とりあえず、腹割って話し合おーや。まあ理由の方は話したくなきゃ話さなくていいけどよ。
 だけど脱出云々の話はどこまで本当だ? 逃避行の道連れを作るためのおためごかしだってんなら――」
「全て、事実ですよ」
 古泉はため息と共に呟いた。そのまま力なく手近な椅子に腰を落とす。
「嘘は、ついていません。……言っていないことは、ありますが」
 雨に打たれる野良犬のような目つきで見つめてくる古泉に、出夢は無慈悲に続きを促す。
 覚悟を決めたように、あるいは諦めたように古泉は隠匿しようとした事実を吐きだした。
「脱出できるのは、おそらく僕と長門さんの二人だけ、ということです。
 人数の問題という訳ではなく、彼女が望んでいるのはSOS団の団員のみでしょうから。
 そして脱出してしまえば、僕達は日常生活を送る事に違和感を感じなくなる――こちらのことを忘れてしまう。
 だから、長門さんや機関の力を借りて貴女方を助けに来る事もできません」
 それは自分達だけが、自分達だけは安全なところまで逃げられるという宣言だった。
 出夢がいなければよかった。古泉はそう思った。
 長門有希と行動を共にし、命を救ってくれた事さえあるという事実には感謝している。
 だから彼をおいて逃げるようとすることに良心が咎められた。事実を隠すような真似をした。
 それでも、古泉一樹の腹の内は決まっていたのだ。欲していた日常が側にあるのだと知ってしまえば、決断できた。
 出夢と長門を連れて涼宮ハルヒの創造した箱庭に侵入する。
 そうしてしまえば、自分と長門は出夢の記憶を忘れてしまえる。
 異分子である出夢はどうなるか分からないが、自分達に害は及ばない。そんな打算があった。
 なんて卑怯だ。古泉は自嘲気味に笑った。

123コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:37:41 ID:vP/xCASw
「出夢さん、人を殺した経験は?」
「殺し屋にそれを聞くかい。魚屋に包丁を使えますかって聞いてるようなもんだぜ?」
「僕もさっき殺しました。殺して、しまったんです」
 両手で顔を覆いながら、胸中に渦巻いていた泣き言を吐き出す。
「駄目なんです。あの時はどうしようもないと信じていられた。僕が死んでまで相手の幸福を願う気なんて無かった。
 だけど時間が経つに連れてどうしても怖くなるんです。僕と同じ形をした思考するものを殺してしまったことが。
 考えないようにしても無理なんです。吐き気がするほど身勝手なことを思ってしまう。
 告白します。僕は彼の死を意味の無かったものにしてしまいたい。
 彼の死を忘れて生きていきたい。人殺しの責を背負わずに日常を謳歌したい。そう願わずにはいられないんです」
 手に残る人肉を裂く感触がおぞましい。鼻腔に香る血臭に吐き気がする。
 死が、自分を苛み続ける。
 古泉一樹はどこまでいっても一般人だ。竜殺しを成し遂げても、それは変わらない。
 殺した後ではその罪に怯える。殺人に酔えるシリアルキラーの才能は彼に無い。
 全てを吐露した。顕にしてしまった。元々紙一重で支えていたものが、一度の指摘で全て崩れ落ちた。
 古泉は神経質な笑みを浮かべた。体も、言葉も、小刻みに痙攣している。
 そうだな、と出夢は胸中で頷いた。殺人は簡単だ。人は簡単に死ぬ。とてつもない覚悟がなければ実行できないというものでは決してない。混雑する駅の階段で少し手を前に突き出せば誰でも大量殺人者になることができる。
 だから人を殺した者は大抵、目の前の男のような様相を晒すのだ。
「さあ、どうします? 僕には力も武器もありません。元殺し屋だったという貴女だったら僕を『止める』ことは容易いでしょう」
 そして、言外に死を願っている言葉に対して――
 だが出夢は首を傾げた。
 しばらく天井を仰いで何かの可能性を探すように黙考し、やっぱりないな、と納得して首を戻す。
「いや、問題なくね?」
「は?」
「まあ僕を出し抜こうとしたことはアレだけど、別にそれでおにーさん達が行こうとするのを止める気はねーよ?」
「え、ちょ」
 一世一代の告白を無に帰されそうになり、古泉は目を白黒させた。
「僕は、貴女を置き去りしようとしたんですよ? いえ、異分子の貴女があの世界に入って無事な保証など無かった。
 僕は貴女が消滅するような可能性にさえ目をつぶったんです」
「そうはならなかったじゃん。いや、おにーさんがどう足掻いたって僕を倒すなんてことできねーよ。舐めんな。
 それに置き去りされたって僕は最強だぜ? 死色が死んじまった今となっちゃあ、こっちで僕を殺せるような奴はいない」
 そんな大胆不敵な発言に、古泉は言葉を失った。
「だから別に、おにーさんが向こうの世界にいきたいんだったら止めない。
 あとは長門のおねーさん次第さ。話を聞いてる限り無理強いできるような力は無いみたいだし、
 もうほんとそっち二人だけの問題だろ」
「……僕を、許して貰えると?」
「だーかーらー、僕個人は別におにーさんに恨みなんて持っちゃいないの。
 蟻んこに『お前を殺そうとしていた。すまぬ』なんていわれてもそんなの戯言以外の何者でもないだろうが。
 ああ、もしおにーさんが殺しちまったっていう人のことを言ってるなら、そいつは僕の管轄外だ。僕は牧師じゃねーしな。
 それでも神様にその記憶を忘れさせて貰いたいってんなら、やっぱり僕はそれを止める気は起きねーよ」
 あっけらかんとそんな事をいわれる。
 古泉は息を吐いた。憑き物が失せるような感覚。なんと言葉を返すべきか。謝罪? 否。
「ありがとう、ございます」
 ここに居たのが匂宮出夢であったこと。そのことへの感謝を口にした。
「だから僕は別に感謝されるような事も――ああ、もういいや。
 それで、あとはおねーさんの意見次第になったわけだけど」
 二人の視線が長門に集中する。

124コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:38:47 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 長門有希は思考の海に没していた。 
 外部からの声は、今の彼女にとっては振動以外の意味を持たない。それを信号として認知しない。
 彼女の胸中を占めるのは、三つの顔と一つの言葉だけだった。
 三つの顔。それは無論、死んでしまった三人だ。涼宮ハルヒ。朝比奈みくる。そして彼。
 喜怒哀楽。彼らのあらゆる表情を記憶している。長門有希にとっては不可思議で、だけど心地よかったそれを知っている。
 そして、言葉。先ほど聴いた言葉。
 それについて考えた事はあまり無かった。
 自分が情報操作能力を持っているのは情報統合思念体が涼宮ハルヒの観察に必要だと判断したからで、
それを行使する事には何の感情もいだかなかった。
 だからそれは思ってもいない不意打ちであり、長門有希の心の奥まで貫き通す。
 そしてその貫かれた隙間から。
 苛烈の感情が、迸り始めた。

125コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:39:31 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 飛んで、落ちる。
 その過程を、出夢は白痴のように呆然と眺めていた。脳内を埋め尽くすのは疑問の一言。
 飛んだものが落ちるのは当たり前だ。この悪趣味な遊戯盤にも重力は存在しているのだから。
 だがたったいま水っぽい音を立てて落下した球状の物体は『何故落ちた』?
 匂宮出夢は床に落ちた古泉一樹の頭部を見て自問自答する。
 錐体に変形した机に頚部を貫かれての即死。痛みや恐怖を感じる隙さえなかっただろう。
 そんな殺戮を前にして、あろうことか殺し名が一位、匂宮のマンイーターが動けないでいた。
 ――これは攻撃で、おにーさんが殺されて、その攻撃の方法は見たことがあって、ここには自分とおねーさんしか居なくて。
 ――なら、犯人は?
 分かりきっている。だが、混乱している。それが事実を理解したくないが為であるということには気付けなかったが。
 それでも、自分に殺気が向けられれば殺し屋としての機能が自動的に動き出す。
 教室に存在するあらゆるものが凶器に変形した。槍、ナイフ、斧、曲弦糸。それら全てが自分に照準を合わせている。
 一斉掃射。
 全ての武器が同時に動き出し、全ての武器が同時に着弾。
 それらが巻き起こした破壊が収まったときには、もはや教室に息をしているものは存在しなかった。
「――どういうことだよ」
 無機質な蛍光灯の明かりに照らされている廊下の上。咄嗟に教室から飛び出した出夢が、低く唸るような声で尋ねる。
「どうして、おにーさんを殺したのさ――おねーさん」
 殺戮なんて下らない。一日一時間で十分。
 だがそんな自分ルールを抜きにしても、彼女の意図が出夢には理解できない。
「私は、」
 出夢と同じタイミングで教室から飛び出した長門有希。大分間を空けて、口を開く。
 迷っているような口ぶりで、視線を様々に彷徨わせた挙句の発言。
「私は、彼らに信頼されていた」
「……」
「だけど私は守れなかった。その信頼を裏切ってしまった」
「だから殺したのか? 優勝して、あの糞ったれどもにみんな甦らして貰うつもりか?」
「……違う。ただ、我慢できなかった。何もかもが我慢できなかった」
 その激情を長門有希に言語化することは出来ないだろう。
 それは、何もかもをリセットしたいという気持ちだった。
 物事に失敗してしまって、『ああ、もう全てがどうでもいい』と思ってしまうような、そんな自暴自棄だった。
 本来なら、それに対する術を大体の人間は持っている。
 子供のうちに失敗を重ねて、そして子供だから自暴自棄になっても大した被害は出さずに、段々と感情のコントロールを身に着けていく。
 だが、長門有希にはそれがない。感情が芽生え始めたばかりの彼女にとっては、これが始めての失敗だった
 そしてその失敗から発生したした被害は甚大で、
 彼女は、そんな被害を出した自分に我慢ができなくなっていた。

126コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:40:29 ID:vP/xCASw
 バグが自分を消していく。それを望むもうどうにでもなれと思っている自分と、それに対立する自分がいる。
 そして、消え行く後者の自分が言葉を発した。
「貴女に依頼する」
「――なんだって?」
「貴女は私の暴走を止められると言っていた。私からの依頼があれば、それを受けるとも」
 自傷は出来ない。矛盾を抱えたプログラムとはいえ、自己保全の機能はまだ働いている。
 故に、懇願した。
「私を抹消して欲しい」
「おねーさん、あんたは――」
 何かを言おうとして――だが、出夢は押し黙った。
 考え直させる事は出来ない。匂宮出夢はその手段を何一つとして持っていない。
 人類最強ならばどうにかしてしまえたのかもしれない。
 戯言使いならば何か言葉を知っていたのかも知れない。
 だけど、自分は呆れるほどに殺し屋で――
「分かったよ、おねーさん」
 ――だから、こうするしかない。
 呟いて、構える。体を地面に擦れそうなほど深く下げ、重心は極限まで低位置に。
 それはまさに、獲物を食い破ろうとする肉食獣の様。
 匂宮出夢が殺戮を開始する。
「――十四の十字を身に纏い、これより使命を実行する」
 呟いて、出夢は跳んだ。バネ仕掛けのように弾けた四肢は一瞬で出夢の体を運び去っていた。
 "後ろ"に。
 警告をもたらしたのは経験だ。あの小屋で味わった空気の凍る感覚を体がまだ覚えていた。
 着地し、睨む。跳躍と同時に巻き上げられた少量の砂が震えもせず宙に固定されていた。
「同じ技は二度通じねえよ」
 冷たい声で呟く出夢。
 対し、
「予測範囲内」
 そう答えた彼女の瞳は、既に出夢を写すことを止めていた。
 写しているのは――単なる敵性障害。
 静止していたはずの砂が動いた。
 出夢はそれを視認し、さらに後方へ跳躍。直後、視界が天井や床から出鱈目に生えてきた巨大な錐で埋め尽くされる。
(拙いな)
 舌打ちする。
 無音で廊下を埋め尽くした障害物は彼女達を遮る壁となっていた。
 匂宮出夢は接近しなければ敵を殺せない。対して、長門有希は離れていても敵を殺せる。
 では一旦校舎から出て外から回り込むか?
 いや、それで見失ってしまえば自分より広大な索敵能力を持つ相手の方が更に有利になる。
(つまり――迷ってる暇なんざねーってこった!)
 故に、進む方向は正面のみ。

127コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:41:45 ID:vP/xCASw
 後退から一転し前進する。迫る木製の錐の群れ。新たな錐体の発生は止まっていたが、通り抜けられるような隙間は皆無。
 その標的に出夢は助走の勢いのまま右手を引き絞り、打ち付ける。
 一喰い。
 鉄板すら貫通する平手打ち。その連打は立ち塞がる円錐体を悉くへし折り、向こう側へ続く道を切り開いた。
「ぎゃははは! おねーさん、悪ぃが手加減なんかできねー……ぞ……」
 錐体の群れを越え、着地。眼前にある小柄な少女の姿を見つけ、
「マジかよ」
 絶句し、即座に出夢は身を翻していた。長門が構えているものを確認した為。
 自分が壊した錐体によるバリケードの穴に飛び込み、まだ無事な錐体の後ろに身を潜める。
 その動作に僅かに遅れ、蒸気タービンが回転するような甲高い音が追いかけるように響き始めた。
「ありえねえ。ありゃあどうみたって――」
 その言葉尻を、爆音がかき消した。
 その音は途切れる事がない。個別の音が連続して響くという点で、それは豪雨が降りすさぶ音にも似ていた。
 そして、錐体に押し付けていた背中に振動を感じる。幾重にも連なっていた障壁を、あれは一瞬で削りとってしまったらしい。
「やばっ……!」
 寄りかかっていた錐体が防護壁の役割を果たさなくなる前に、今度は隣の教室に飛び込む。
 だが遅かった。身を隠しきる前に防壁は破壊され、脇腹に激痛。直撃はせずとも掠っただけで皮膚が深く裂けていた。
 だくだくと血が零れていく。決して放っておいていい傷ではない。だが怪我の程度よりも、相手の構えている得物の方が何倍も問題だ。
 最初は見間違いだと思った。あんなものを隠し持つのは一流の奇術師だって不可能だろう。
 ならば、廊下か教室の中に仕込んでいた? だが校舎の中は隅々までとはいかないまでも調べてあった筈――
「いやそうか、おねーさんは物を作り変えられるんだっけ――ぎゃはは! ベイビィ・フェイスも真っ青だぜ!」
 空笑い。だがすぐにそれは鳴りを潜めた。
 カーテンを引き裂いて即興の止血帯を造りながら、廊下の向こう側に佇んでいた少女の姿を思い返す。
 巨大な鋼鉄の缶を背負い、そしてその細腕で軽々と振り回していたものの正体は――
「ガトリング砲はなぁ……ねーよ」

128コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:42:30 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 ガトリングガン――
 それは速射性能の極致を目指して作られた兵装である。
 束ねられた銃身から発射される弾丸の数は実に分間数千発にも及び、
 仮に人体がその銃弾の雨に晒されればミンチになる――程度では済まず、その部位が消し飛ぶ。
 もとより航空機からの対地攻撃や拠点防衛等に使われるのが本来の運用方法であり、個人に向けれられるには過火力に過ぎる武装。
 長門が作り出したのは、それに限りなく近い構造をしたものである。
 生成したのは出夢がトラップを越えてくる寸前。
 現時刻から数分前。予め組み込んでおいた攻性情報を発動させ、大量に生み出した杭の壁を一瞥する長門。
 仕留め損なったのは分かっていた。人外魔境が闊歩するこの島で、この程度のトラップに必勝を期するのは間違っている。
 元々は侵入者用に設置しておいたトラップだったが――いや、今も別に間違った用途に使ったわけではない。
 アレは、敵なのだから。
 だが、それならば何故一瞬それについて疑問を抱いたのか?
「……」
 長門有希は作り上げた壁に背を向けた。不要な思考は停止させ、いまはただ敵の抹殺へとその性能を傾ける。
 人は学習する生き物だ。だからあの『敵』は一度見た空気分子による身体拘束をかわして見せた。
 だが学習は人間だけに許された能力ではない。ヒューマノイドインターフェイスたる自分もまた経験を積み上げている。
 トラップをかわされる所までは予測範囲内だ。敵の身体能力は人の基準値を大幅に上回っている。
 建材に使用されているセルロースから生成した錐による障壁もさほど長くはもたないだろう。
 長門有希は学習している。
 彼女が行った戦闘行動の中で一番負荷が大きかったのはマージョリーとの戦闘だ。
 結果は長門有希の敗北。敗因は自身の能力低下と敵の戦闘能力の見誤り。
 ――もしも力の制限がない状態でこのゲームが開始されたのなら、長門有希は優勝候補の一人に数えられただろう。
 彼女は涼宮ハルヒ程ではないとしても情報を改変できる。敵も、自身も、そして世界すら都合よく作り変えてしまう。
 だが制限下、連続して攻性情報を生成する余裕すら今の彼女にはない。
 校舎に仕込んでおいた情報も今の一撃に全て注ぎ込んでいた。あの規模の攻撃はもう行えない。
 身体能力を底上げすることは可能だろう。しかしそれだけであの敵に勝てるかといえば難しい。
 ならば、すべきことは一つだけ。

129コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:43:10 ID:vP/xCASw
 目的地に着く。といってもそれほど離れてはいない。廊下を少し歩いただけだ。
 保健室前。黒く焦げたその空間は、かつて弔詞の詠み手がサラ達を襲撃した場所。
 ここに目的の物があることは分かっていた。
≪再構成開始≫
 長門の命令に従い、鋼板製の缶が――自在式によって爆破されたガスボンベが再生される。
 これをサラやマージョリーと同じように爆発物として使用するという手もあった。
 だが長門はそれをしない。
 廊下で爆発させたとしても、外や教室の中に逃げられればそれでお仕舞いだ。あの敵ならばそれをやってのける。
 故に別の手を使う。再生されたボンベに手を当て、情報を改変する。
≪封入気体を不燃性ガスに置換――圧縮≫
 背後で破壊音。敵が錐体を破壊し始めたのだろう。
 だが間に合う。事前に自分はあの敵の身体能力を知ることが出来ていた。
 事前に『それ』の構造を知る機会もあった。この建築物の内部構造を走査する時間もあった。
 だから、間に合う。今度は床に手を当てた。
 それを基点として、生成したプログラムが校舎全体を走る。
 すでに内部構造は把握しているため、それは必要最低限度のものでいい。 
≪蒐集開始――攻性情報を装填≫
 もし仮に、この校舎が通常の学び舎として機能していたならば、それは七不思議のひとつにでもなったに違いない。
 校舎のありとあらゆる場所で、様々な物品がまるで底なし沼に落ちたかのように沈んでいった。
 そうして沈下した品々は長門が手を当てた基点に音もなく集い、混ざり、別の形へと変化していく。
 そう。長門有希が出したこの空間における勝利するための方程式。その解は非常に単純なものであった。
 すなわち、強力な重火器による武装化である。
 攻性情報を次々にプログラムするよりも自分にかかる負荷は低く、また処理能力をほかの事に傾ける事が出来る。
 今回は手近に使えるものが無かった為生成せざるを得なかったが、それでもそれ自体は一度の改変で済む。
 銃の構造は今朝方触れた狙撃銃のお陰でデータとして蓄積できていたので、あとはそれを目的にあわせて発展させるだけで良かった。
 砲身を束ね連発に耐えうる構造にし、その根元にコイル・油圧機構を埋め込み、壁の内部を走る電気ケーブルから動力を取り込む。
 火薬の材料はかつてここを根城にしていた者が使い切ってしまったらしくどうしようもなかったため、
背中の缶に封入した高圧縮気体で補うしかなかったが、それでも威力は折り紙つきだ。
 敵の間合いの外から攻撃でき、そして接近を許さないほどの速射性。これはそれらを求めた結果の産物だ。

130コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:43:50 ID:vP/xCASw
 そうして生成し終えた機銃を構えるのと、出夢が錐体を破壊し終えたのはほぼ同時だった。
 躊躇わず、引き金を引く。多連装型の砲身が回転し、一定速度になるまでには短いが隙が生まれる。
 だが、仮に敵がその隙をつこうとしても無駄だ。そういう距離をとってある。
 そう。マージョリーの時とは違い、あの敵の身体能力をこちらは把握しきっている。
 それを察したのか、果てまた不確実な賭けをする気はないのか、いずれにせよ敵は後退という選択肢をとった。
 見切り、そして単純にその逃走自体の速度も早い。
 ――だが、その『早さ』も音速には届かない。
 砲身の回転が規定速度にまで到達。同時、数百の鉄礫の群れが吐き出された。
 その礫ひとつひとつにさえ厚さ五センチの鉄板を楽々貫通する威力がある。それが量を伴って放たれれば一体なにが起こるか。
 聞く者の鼓膜を切り裂きそうな程甲高いタービン音は数秒で止んだ。弾が尽きたのだ。
 廊下を埋め尽くしていた錐体は比喩でなく消し飛んでいた。錐体の底面だけが張り付いた床や天井だけが痕跡として残っている。
 戦闘能力だけならば人類最強に勝るとも劣らないとされた出夢でさえ、錐体を破壊し、一人分の通り道を空けるのに十数秒を必要とする。
 人類が生み出した英知の結晶は、その数倍の成果を数分の一の時間で完成させた。
「……」
 その凄まじい破壊痕の上を長門は無言で踏破していく。
 総重量数十キロはある凶器ですら身体能力を強化させた彼女にとっては何の制限にもならなかった。
 撃ち尽くした弾丸を再び生成。この程度ならばさほどの負担にはならない。
 もっともこの空間において構造情報の変更が恒久的なものにはなりえないのはネックだ。
 この兵器の寿命はもって数分が限界だろうし、連続的な身体能力の強化も負荷は大きい。
 だがこの戦闘がそれほど長く続く可能性はほぼ、ない。
 砲塔を再び回転させながら、敵が逃げ込んだ教室の壁へ向ける。
 壁一枚隔てた程度では弾丸も、そして自分の探査能力からも逃げる事は出来ない。
 完全な、チェックメイトだ。

131コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:44:42 ID:vP/xCASw
◇◇◇

(って、おねーさんは思ってるんだろうね)
 そして、それはほぼ間違っていない。
 即席の止血帯で傷口を圧迫しながら、出夢はため息を吐いた。
 状況を確認する。
 敵は馬鹿げた火力で武装しており、なおかつこちらより範囲の広いレーダーを備えている。
 こちらは手負いで、装備は特に無し。
 酷い格差だ。乾いた笑いを口端に浮かべる。勝つ為の方法が全く思い浮かばない。
 教室から飛び出して戦おうとすれば、飛び出した瞬間を蜂の巣にされる。
 このまま教室に篭城すれば、壁ごと蜂の巣にされる。
 結果として、自分に残された最善手は窓からの逃走だ。
 さすがに重火器を装備した向こうよりはこちらの方が早いだろう。あとは遮蔽物を利用しながらこの場を離れればいい。
(悪くは無い。っていうか、それしか出来ないね)
 窓を見やる。叩けば用意に割れてしまうそれは、自分の逃走をなんら制限し得ない。
 だからそれをしないのは、単純に彼女のあの表情を自分が覚えているからだった。
 長門有希が自分に向けて発した、最後の懇願。
『私を抹消して欲しい』
 相棒は常に無表情だった。だけど、だけどあの言葉を口にしたそのときは――
 その顔だけが、自分の脳裏に焼きついている。
(ああ、全く――あんな約束するんじゃなかったなぁ)
 全く持って、自分らしくない。暗い天井を仰ぐように見ながら、戯言だ、と呟いた。
 廊下から、足音。自分に残された時間はもうさほど無い。
 視線を戻す。その時には余計な感傷は消え去っていた。
 思考を全て殺人に傾ける。
 この一日、長門有希と過ごした記憶。他愛の無い会話を交わし、背中を預け、寝食を共にした。
 その思い出を、全て殺戮の足がかりとする。"カーニバル"匂宮理澄の仕事。
(理澄にも中々、えぐい事を任せてたもんだ)
 彼女はいない。もう、いない。だから自分がやらねばならない。
 『敵』の有する能力の内、いま問題となっているのは二つ。物質の組み換えと遠距離観測能力。
 前者には数時間前、小屋で遭遇したチビ娘のようなファンタスティックな力ならば対抗できるらしいが、自分には無い。よってその思考を排除。
 残るは観測能力。暗幕を隔てていてもその向こう側を見通し、如何なる物陰に潜もうが看破される最強の目。
 真っ向から立ち向かう事は出来ず、最早有効な攻撃手段は奇襲奇策の類しか残されていない出夢にしてみれば、これが一番厄介な能力だ。だが、
(付け込めるのは、ここだな)
 かてねてから一つだけ、その能力について疑問に思っていることがあった。
 記憶を遡る。まずは初対面。城の中で、敵は確かに扉の向こうにいた自分の存在を察知していた。
 ここから分かるのは、敵は確かに壁越しでも内部の状況を知る事ができるという事。
 この学校に着てからも、敵は全ての教室を回る事もせずに内部に生物が居ないことを把握していた。
 つまり彼女の探査能力は校舎一つ分をその範囲に収めることができるという事になる。
(だけど、それならひとつだけ辻褄が合わなくなっちまう時がある)
 『あの時』とそれ以外の違いは何か?
 辿り着いた解答は、ひとつ。それが正答かどうかは確信できないが――
(分の悪い賭け。やるっきゃない、か)
 迷えるような時間は無い。
 ここが学び屋の教室であった事は幸いだった。目的のものを戸棚からありったけ頂戴し、空中に放り出す。
 投げた力と重力が均衡を結び、一瞬だけ宙で動きが止まる色とりどりの棒。それら十数点に狙いを定め、
「暴飲、暴食っ!」

132コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:45:22 ID:vP/xCASw
◇◇◇

「――っ!」
 長門有希は驚愕した。自身の脳裏にあった教室内部の像が乱れ、鮮明さを欠いたが為。
 この僅かな時間で、敵は自分の走査能力の欠点を見抜いたらしい。
 有り得ないことだった。この欠点は制限によって偶発的に生じたものだ。同じTFEI端末でも無い限りそれを知る事は出来ないはず。
 偶然が、それとも必然か――だがいずれにしろ、見破られたという事実が目の前にある。
 実質的に問題はひとつ。奇襲を掛けられれば、武装のせいで小回りが利かなくなったこちらが不利になる。
 反射的に長門はガトリングガンのトリガーを引いていた。回転する砲から鉛の激流が吐き出され、壁を貫通。
 耳だけではなく、目や皮膚といったその他感覚器にまで引き攣りを起こすような轟音と共に、壁に穴が穿たれて行く。
 ほぼ時差無く、教室内でも大破壊が巻き起こされた。
 机や椅子は木製の部分は言うに及ばず、スチールの部分まで容易く千切れ飛び、
それが何であったのか分からなくなるまで粉々に粉砕。グラウンド側の窓ガラスも余すところ無く飛散した。
 教室が瓦礫置き場に変じるまで僅か数秒。破壊の乱舞は苛烈に過ぎたが、さほど長くは続かなかった。
 当たり前だ。重量ではなく体積の問題で、個人で携行できる弾丸の数ならその十秒足らずで撃ちつくしてしまえるのだから。
 失策に気づき、長門は新たに弾丸を生成しようと情報改変を行おうとした、刹那。
「僕が見つけたおねーさんの弱点、教えてやろうか」
 声は、上から響いてきた。
 同時に、目の前の壁が爆砕。掃射によって穴だらけになったそれは、もはや敵と自分とを隔てる壁としての強度を失っていた。
 舞い上がる粉塵と破片を突き抜けて死が迫ってくる。
 それが人間の腕であるという事実を見る者に忘れさせる、凶悪な速度の掌打。
 刹那の後にその一食いが自分の脳髄を完膚なきまでに吹き飛ばす事を感知し、長門は即座に反応した。
 情報操作は間に合わない。強化しているとはいえ素手では立ち向かえない。武装は弾切れ。
 ならばすることはひとつだけだ。
 腰溜めに構えていたガトリングガン。それを押し出すようにして投げつけた。
 飛翔していく重さ数キロの鉄塊。常人ならば見切ることも出来ず、骨ごと重要臓器を潰されただろう。
 それを、
「遅えっ!」
 敵は腕一本でいとも簡単に吹き飛ばす。
 だが構わない。もとより敵の力は想定内だ。相手がその一手を打つ為に消費した時間で、自分は間合いをあけることが出来る。
 長門は後ろに跳躍しようとして、だが出来なかった。接着されたように足が床を離れない。
「……?」
 視線を足元に移す。自分の足の甲から床までを昆虫標本のピンのように鉄パイプが貫通していた。
 どうやら机か椅子の一部だったそれを、敵は壁を破壊するのと同時に投げつけていたらしい。
 煙の中で、気配から敵の位置を読む技術――それは、長門有希には無い。
 今度は耳元で声がした。くすぐる様な、吐息の如き囁き。
「おねーさんには思想理念優雅さ勤勉さは足りてるが――情熱と経験が足りない」
 敵の奇妙な台詞と共に、敵自身がこちらに届く。
 長門有希が新たに情報を改変する時間は、ない。
 そして人食いによるイーティング・ワンが、長門有希の頭部をミンチにした。

133コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:46:22 ID:vP/xCASw
◇◇◇

 ばしゃり、と赤いものが飛散する。
 肉と、血液と、頭蓋骨と、脳漿。その他、人類の頭部に詰まっているもの全てを混ぜこぜにした物体が撒き散らされる。
 その赤い海に倒れ臥した少女の首無し死体を見つめながら、出夢は独りごちた。 
「小屋の一件で気づいたよ。あのロリコンとチビッ子が来るのを、おねーさんは予見できなかった。
 おねーさんの観測能力――雨みたいに動くもので満たされた空間だと利かないんだろ」
 出夢の片手は血で、もう片方の手は炭酸カルシウム――チョークの粉に塗れていた。
 暴飲暴食による高圧縮の平手打ちによって生み出されたチョーク十数本分の即席煙幕は、どうやら効果があったらしい。
 天井に腕を突き刺すことによってさながら蜘蛛の如く張り付いていた出夢の存在を長門は看破できず、掃射は人喰いの下をすり抜けていった。
「んで、もうひとつ。おねーさんは能力は凄いのに、どうにもそれを持て余してる感じがあった」
 出会い頭には撃てもしない銃を撃って肩を外し、マージョリーとの戦闘では未知の相手に次手を考慮しない対応をするなど、所々に違和感があった。
 それは明らかな戦闘経験の不足。
 出夢は知る由も無いが、長門有希という固体が生きてきた時間は僅か四年足らずでしかない。
 しかもその内、三年は待機モードとしてほぼ何の経験もすることなく過ごしていた。
 元の世界なら情報統合思念体から必要な情報を得る事が出来たのだろうが、長門有希自身が経験した情報はあまりにも少なかったのである。
 もとより彼女は出夢のような殺戮に塗れた日常に在った訳ではないのだ。
 だから、その経験の差がこの結果を招いた。
 相手を補足しているというアドバンテージを失っただけで反射的に弾を撃ち尽くし、失策に気づいた後でも武装の優位を放棄する事が出来ず、すぐに逃走には移れなかった。
「つまり、宇宙人は殺し屋に敵わないのさ」
 疲弊した軽口を叩きながら、出夢は突き出したままだった右腕を引き戻す。

134コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:47:03 ID:vP/xCASw
 ――そして、異常に気づいた。
「なっ」
 右腕が動かない。見えない巨人に掴まれたが如く、ぴくりともしなかった。
 同時、床や天井、自身を取り巻く周囲の物体が捩じれるようにして槍へと変質。
 その全てが、出夢に向けて一斉に射出された。
 再度、轟音。出夢のいた地点に着弾の粉塵が立ちこめ、視界を遮る。
 そして誰も見るものがいない中で、首から上を失った長門有希の体がゆっくりと立ち上がった。
 さながら出来の悪いゾンビ映画のような光景。
 だがもっと趣味の悪い事に、失われた頭部が砕かれた映像を逆回しするように再生していく。
 煙が晴れ、それを目にした出夢は乾いた笑いをあげた。
「おねーさん、もしかして不死身だったり、する?」
「貴女が私に再生する隙を与えないため、瞬時に絶命させられる神経系中枢を破壊することは想定の範囲。
 だから予め、胸部内に予備のリソースを生成しておいた」
 再生された長門有希の口元が動き、呟く。
 経験の差が先ほどの結果を招いた。確かにそうだろう。
 だが長門有希は学習している。経験が足りないことを知っている。故に、相応の対策は立てておける。
「そのツルペタの、何処にそんな容量があるのさ……ていうか、反則だろ、それ」
「そうでもない。リソース容量を確保するため肺などの重要臓器の大部分を犠牲にし、失った血液もすぐには生成できないほど改変能力が損耗している。
 この状況から私が生存できる確率は50%を切る」
「なるほど、ムカつく位小数点以下まで言い切っていたおねーさんにしてみては、大雑把だねえ」
 だが、狡猾だ。急に饒舌になったのはただ解説する為ではあるまい。
 出夢は自分の右腕を見やった。正確には、右腕があった場所だ。
 肩から下の部分は千切れ飛んでいた。あの攻撃から逃れるため、空気固定された右腕を咄嗟に左の一食いで吹き飛ばしたのだ。
 神経系ごと吹き飛ばす一食いの傷に痛みはない。だがドクドクと景気良く血液が流れていくのはどうしようもない。
「……動脈性出血。貴女が機能停止するまでもう三十秒と掛からない」
 そんな事は分かっている。
 一秒毎に強くなっていく脱力感。背筋が凍りつくように寒いのは恐怖からではなく単に失血のせいだ。
 敵が口にしたのは死刑宣告ではなく死亡告知。ここに、匂宮出夢の死は決定した。
 だけど。
「――黙れよ」
 眼前の少女を見つめながら吐き捨てた。
 長門有希の表情は変わらない。あの別離の台詞からずっと。
 泣きそうな、どこか迷子になってしまった幼子が浮かべるような表情から、変わっていない。
 だから、
「そんな顔で、そんな台詞を言うな」
 ――ああ、むかつく。
 その表情を見ているとイライラする。
 だから、消してしまおう。

135コロシヤプロミス ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:48:02 ID:vP/xCASw
 出夢は駆け出した。彼女の表情を消すために。依頼を果たすために。
 一歩を踏み出すごとに血液が連動するように噴出していく。
 標的に近づくほど、像がぼやけていく。構うものか。
「――安心しな、おねーさん」
 その台詞さえ、ぼやけている――舌に血液が送られていない。
 近づいてくる死の予定。それが果たされるまでにしなければならないことがある。
 敵は時間稼ぎの為に会話を望んだ。それに付き合ったのはこちらも策を考える時間が欲しかったから。
 ポケットから小道具を取り出す。
 天井に張り付いている時に造っておいた、カーテンの切れ端でチョークの粉を包んだ煙幕弾。
 それを長門と自分の中間地点、その天井に向かって投げつけた。
 チョークの粉は重く、あまり舞い上がらない。だが上から下に撒く分には丁度いい。
 発生した白い煙幕に出夢が飛び込み、僅かな間が出来る。
 対する長門有希は動かない。否、動けない。
 彼女が疲弊しているのは事実である。
 情報改変はほぼ打ち止め。廊下に壁を作り出すことも出来ないし、身体能力を強化して逃げる事も出来ない。
 敵は煙幕を作りだしたが、実を言えばそれも無駄だ。すでに肉眼による光学観測しか行えない。
 できる事といえば、そう。自身のほんの数センチ先の極小範囲を一度だけ改変するくらい。
 だが死に掛けの相手にはそれで十分。
 敵の攻撃を再び空気の固定化で防御。それで終わりだ。敵は動けないまま失血死を迎える。
 既に演算は終えた。タイミングを狂わせないよう動かずに、相手が煙幕から飛び出してくるその時を待つ。
 時間にして一秒足らず。煙幕の中から、敵がこちらに殺到する。
 死に体とは思えないほど、速い。強化されていない視力では、その像はぶれてしか映らない。
 だが、それでもこちらの演算を超えるものではなかった。
 打ち出された平手を、鼻先数センチの距離で固定化する。なんら自分の予測を裏切らず、それに成功。
 だが気づく。固定され、こちらに手の平を向けたままの敵の腕に違和感。
 ――親指が、自分に対して右を向いていた。
「僕は、殺されねぇ」
 千切れた右腕。煙幕の中で敵はそれを拾っていたらしい。
 掴んでいたそれを離し出夢は左腕を振り上げた。長門はそれをただ見上げる。最早改変は間に合わない。
 一瞬だけ視線が交錯する。その刹那。
 長門有希の表情が、ミリ単位で動いた。
「――ぎゃはっ。そうだ、そういう表情をしてりゃいいのさ」
 その表情に"笑い返して"出夢は左腕を振り下ろす。
 一閃する殺人手。頭部から胸部までを削ぐ。
 まるで撫でるように、憐憫と愛情を多分に含んだ左の一食いが、今度こそ長門有希の生命を喰らい尽くした。
 もつれるように倒れこむ二人の少女。片方は死体で、もう片方もじき死体になる。
「は……ほら、言っただろう。おねーさんは、僕より弱っちいのさ」
 出夢の体から熱が消えてゆく。だがそれに恐怖を感じる余裕さえ、機能を失っていく脳みそには存在しない。
 唯一の心残りといえば、そう。
「ああ――失敗した」
 自分が下敷きにしている、頭部が欠損した長門有希の死体を見てうめく。
「報酬、貰い損ねたな……」
 その戯言を耳にする者はなく、ただ冷めた血液だけが床に広がっていった。

【086 匂宮出夢 死亡】
【089 長門有希 死亡】
【091 古泉一樹 死亡】

【残り 29名】

136 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/29(日) 20:50:16 ID:vP/xCASw
今日の投下終了。次の話の投下は校正が終われば明日。最悪明後日。

137名も無き黒幕さん:2011/05/29(日) 23:48:37 ID:mZEMaH9U
古泉可哀想に…
そして長門強すぎwwwwwwwwwwwwww
それ以上に出夢強すぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

138名も無き黒幕さん:2011/05/29(日) 23:59:03 ID:mZEMaH9U
っていうか、感想書くのここじゃなかったwwww
すんませんwwwwwwww

そしてラノべ・ロワイアルの続きをすばらしいクオリティで書いている◆5Mp/UnDTiIさんには頭が下がる思いです。
読者としてお礼申し上げます。

139 ◆5Mp/UnDTiI:2011/05/31(火) 18:13:21 ID:vP/xCASw
開けてられないくらい目が痛いので投下を明日に延期します

140名も無き黒幕さん:2011/05/31(火) 19:58:23 ID:???
>>139
了解です
これだけの内容の文を、ずっと書いたり投下したりしていれば、目が疲れるのも当然のことかと
私達はもちろんすぐに読みたい!っと思えるほど楽しませてもらっていますが、氏に無理をして欲しいわけではありません
どうかご養生ください

141名も無き黒幕さん:2011/05/31(火) 23:32:23 ID:mWRpcHKc
大丈夫ですか?
無理をなさらず休んでください。

142 ◆9zAOdSSWVg:2011/06/08(水) 21:31:55 ID:Ob3uHk/A
復活。そして再開

143 ◆C64nACUBcU:2011/06/08(水) 21:32:38 ID:Ob3uHk/A
あれ、酉が。再テス

144 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:33:27 ID:Ob3uHk/A
ぐあああテス!Tes.!

145 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:34:10 ID:Ob3uHk/A
よしゃー。それでは投下再開します

146 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:36:48 ID:Ob3uHk/A
 そして、第四回目の放送が終了した。
 隻腕の傭兵は複雑な心境でそれを聞いていた。ダナティア・アリール・アンクルージュの死。
 それは彼が胸の底で思い描いていた計画の一端が崩壊したことを意味する。テレサ・テスタロッサを殺した仇とも言える人物がいなくなったことを意味する。
 それらの事実を前にして、相良宗介の胸中は渾々沌々の様相を呈した。自分でも理解できない感情のグラデーションが勝手放埒のままに広がっていく――
 そんな事態に危惧を覚え、宗介は心の中を鋼色に塗り潰した。
(……いや、これでいい。あの集団が機能しなくなれば――少なくとも旗頭がいなくなれば混乱する――俺達はこのまま美姫と、この佐山という奴の庇護下にあればいいだけだ)
 あくまで合理的な思考に徹する。
 自分が何かに失敗したわけではない。むしろ脅威になりかけていたダナティアが消滅したことで有利になったとさえいえる。そう判断する。
 だが胸の内は晴れない。心を冷たく塗りつぶしても、その下では極彩色のうねりが音を立てて蠢いている。
 それは、あの集団が無用な殺人を許容しない性質のものであったからだろう。
 個人的な心情を抜きに正常な価値観で見れば、あの集団は尊いものといって良かった。誰かにとってはきっと希望だった。
 しかし、それは失われた。
 この島ではそんなことは容易く起こりうる。そんな事実を突き付けられた。
 だから、もしかしなくとも。
 自分たちがこの島から出られるという希望など、同じく断たれるものなのではないかと――
(俺には……なにも、ない)
 絶望は絶望を呼ぶ。
 相良宗介を襲った絶望は、さらに彼の無力を糾弾する。
 いまの自分には何もない。美姫のような力も、テレサ・テスタロッサのような英知も。
 ダナティアたちの置き土産となった雲が吹き払われた空を見上げて、悔恨にも似た感情をかみ締めた。
 この島からの脱出を、あるいは他人を脱出させることを目指すにしては笑えるほど脆弱。それが今の相良宗介という人物だ。
 そんな自分に、いったい何ができるというのか――
「宗介……」
 ふと、頬にひんやりとした感触。
 気付けば、千鳥かなめの指先が口端に添えられていた。そこから小さな痛みを感じる。
「血が出てるわよ?」
 指摘され、ようやく理解する。気づかぬ内に唇の端を噛み、そして噛み千切ってしまっていたらしい。
「あ、ああ――問題ない。大した傷では……」
 そう言い掛けて、口が開かれる度にピリッとした痛みが疼くことに顔をしかめる。どうやら頬に剃刀を当てるのを失敗した、という程度の傷でもないらしい。
 口の中に広がる鉄の味は、痛みの起点からじんわりと広がりつつあった。とはいえ傷の位置からすると、専用の医療品でもない限り効果的な治療は難しいだろう。放って置くには煩わしく、さりとて大慌てするようなものでもない。そんな怪我だ。
 痛みに顔を歪めた宗介を心配するように、かなめも眉を曇らせる。
「ほら無茶しない……って言っても、あたしも何かできるわけじゃないけどさ。リップクリームでも持ち合わせてりゃ良かったけど……」
 はは、と力なくかなめは笑った。
 ほぼ身一つで拉致されたのだ。私物は着ている服と精々ポケットに入っていたちり紙くらいのものである。
 頬をぽりぽりと掻きながら、かなめは宗介を見やった。正確には、その傷口を。
 唾液に紛れて薄く滲んだ血がぬらぬらと光っている。かつての――美姫に血を吸われた自分なら、その赤に心配以外の感情を向けたかもしれない。
 だが今はそれが無い。体は完全に人に戻っていた。一応、美姫は約束を守ったということだろう。あるいはかなめにも分からないくらい小さな影響は残っているのかもしれないが、そんな小さな差異ならないも同然だ。
 そう。千鳥かなめは人間だ――ただの人間なのだ。

147 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:37:57 ID:Ob3uHk/A
「……ねえ、宗介」
 だから、決して口にはしないと決めていた問いが、彼女の口から零れ落ちる。
「正直に言ってよ――あたし、足手纏いになってる?」
 彼女の言葉に宗介の目が見開かれる。その表情の変化を見て、やはり止めておけばよかったとかなめは一瞬前の自分を罵倒する。
 予感はあったのだ。この質問を口にすれば、後悔するだろうという予感は。
 だが制止が効かなかった。
 千鳥かなめはどちらかといえば行動力のあるタイプだ。むしろじっとしていられない人種とでも言おうか。
 その彼女がここ数時間、ほとんど何も出来ずに美姫の後をついていくことしか出来ないという現状。
 そこにこのゲームから脱出できる光明が全く見出せずにいるという不安も合わさり、彼女はいつになく弱気になっていた。
 だからあの質問だ。この悪趣味な舞台から逃げ出せる可能性はただでさえ低い。ウィスパードが得ることのできる『存在しないはずの技術』を総動員しても、こんな馬鹿げたゲーム盤は造れない。
 そのただでさえ低い可能性を、千鳥かなめという存在はさらに狭めていないだろうか?
 ウィスパードの知識は役に立たず、そしてそれを除けばごく一般的な女子高生であるところの自分は、一流の傭兵である相良宗介の足枷になってはいまいか?
 彼の左手の代わりになりたいとは思う。だが果たして自分は左手に成りうるのか?
 そんなかなめの表情に、どこか焦燥のような物を覚えながら、宗介は頭を振る。
「そんな、ことは――」
「宗介があたしを守ってくれてるのはミスリルの仕事だからでしょ?」
 確かに、そうだ――宗介は声に出さず肯定する。
 ウルズ7の任務はエンジェルの護衛。だからこそ、この島に来ても彼は護衛対象である千鳥かなめのことをすぐに考えた。
 そもそも硝煙と銃弾の中に身を置く自分が、普通の学生でしかなかった千鳥かなめと出会った。その由からして"ミスリル"なのだ。
「でもそれなら――もう、いいんじゃない? テッサは……死んじゃったんだから。ミスリルの仕事を果たす意味ってまだある?」
 無いのかもしれない。宗介はどこかぼんやりとそんなことを思った。
 自分は所詮傭兵だ。今のところはミスリルという組織に身を置いてはいるが、本質は変わらない。自分が組織に繋ぎとめられているのは契約があるから。給金を支払う限り、それに見合うだけの責任を果たすことを組織は要求する。
 だがテレサ・テスタロッサは死んだ。無論、人事一切に至るまでを彼女が取り仕切っていたというわけではないが、それでも彼女はミスリルの一部隊である<トゥアハー・デ・ダナン>の長だ。
 それで反故になるようなあやふやな契約でもないが、この外部から隔絶された空間で唯一の上官が死亡した以上、ミスリルとの契約にさほどの強制力はないように思える。
(というよりも――ない、な)
 宗介はまるで心臓が凍りついてしまったかのように、冷たく胸中で思考を巡らす。
 戦闘的な意味において、千鳥かなめが果たせる役割は多くない。おそらく、左腕を失った自分よりも少ないだろう。
 ならば彼女は重荷でしかない。戦場でのデッドウェイトは文字通り死に繋がる。
 ――仮にこの異常な空間から脱出を果たすことが出来たとして。
 クルツ・ウェーバーとテレサ・テスタロッサが死亡した以上、ミスリルへの説明責任があるのは自分だけだ。
 それはつまり、報告の内容をどうとでも改竄する事ができるということを意味する。
 もとよりこの常軌を逸した催し事に関して、ミスリル上層部を納得させられるような論理を自分は構築できない。
 ならばその報告はどうあっても荒唐無稽なものになる。そこに一抹の虚偽を混ぜてもばれないほどに。
 例えばここで相良宗介が千鳥かなめを殺害したとしても、それを別の誰かが犯した行為にすりかえることが出来る。
 上官、ならびに護衛対象をむざむざ殺害されたという事実は自分の傭兵としてのキャリアに致命的な傷を残すだろうが、それは左腕を欠損してしまった現状をみればいまさらなことではあった。
 貯金も無いわけではないし、ミスリルは退職金も出る。悠々自適な老後――というには早過ぎるだろうが、しかし残りの人生を送るにあたって何かに困るということはないだろう。
 ――そこに、千鳥かなめが居ないという一点を除くとすれば。

148 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:38:41 ID:Ob3uHk/A
「――難しいことを考えるのは得意ではない。俺は成績が悪いからな、チドリ。君に宿題を手伝ってもらわねばならないほどに」
 気づけば、そんな言葉が相良宗介の口を衝いて出ている。
 相変わらずのむっつり顔で、宗介は千鳥かなめの瞳を覗き込んだ。いまいち唐突さのある此方の言葉に、彼女は疑問符を浮かべている。
 それも仕様の無いことだろう。宗介は思う。自分も、自分が何を考えているのかよく分からない。この結論は何に基づくものなのか。
(そう、難しいことを考えるのは得意ではない――これは非常に難しい問題だ)
 心臓から送られてくる凍て付くような痛みの正体。それが何かも分からない。
 自分の、傭兵の論理で式を解けば、ここで千鳥かなめを切り捨てるべきだと解は出る――それに逆らうのは何故かと言う事さえも、分からない。
 確かな事実は、唯一つ。
「だから、その……チドリ。やはり、君に手を貸して欲しい。君が居れば、きっとこの難しい問題も解けるだろうと俺は確信している。今までも、俺は君に助けられてきた。そして出来ればこれからも――俺を見捨てないで欲しい」
 相良宗介は千鳥かなめを切り捨てられない。それだけだ。
 いつに無く舌の回る傭兵を前に、千鳥かなめはきょとんとした表情を見せる。言葉の内容は支離滅裂。それでも、何とかその内容を噛み砕き――
(……えーと、その、なに?)
 自問から導き出されるのは羞恥にも似た感情。
 彼女の頬に差す朱色は、この舞台には全くもって似つかわしくない。
 つまりこれは……そういうことだろうか?
 そういうこととして受け取っていいのか? いや、この朴念仁を練って固めて成型したような男にそれを期待するのは酷か? それを確認するにはただ一言を口にすればいい。だけど、それでやっぱり期待はずれだったと分かってしまえば――
「……チドリ? その、だな――」
「う――」
 気づけば、あいつの顔が此方を覗き込むような超近距離にある。
 それを認識した瞬間、すぱーん! と夜空の下に景気のいい音が響き渡った。
「……やはり見えなかったぞ、チドリ。君は格闘技の才能もあるんじゃないか?」
 平手で打たれた額を擦りながら、宗介は呻いた。
 対して、かなめは何やらどんよりと暗い表情を浮かべている。
「……やめて。へこんでる所に追い討ちかけるなんて男のすることじゃないわよ」
「追い討ち? 追い討ちとは何を意味して――」
「そうやって追求すんなっていってるんだっつーの!」
 叫んで。
 千鳥かなめは立ち上がった。いや、体はずっと直立していた。立ち上がったのは千鳥かなめの精神性だ。いつの間にか疲れて座り込んでいた自分に渇を入れ、本来の自分を取り戻す。
「まあいいわ。うん、そうね。さっきのは無し。いや、あたしらしくなかったわ」
 反射的に叩いてしまった相方の額に手を当てながら、かなめは微笑を浮かべる。
「まー、あたしも普通のジョシコーセーだし、そこまでメンタル強くないわけよ。だから、まあ――こんな風に、また落ち込むこともあると思うけど」
 千鳥かなめは、きっと足手纏いなのだろう。
 だけど、人形ではない。意思があり思考があり、ともなれば望みもある。
 その望みは我侭なのかもしれない。
 だけど、彼がそれを許してくれるというのなら。
「あんたが隣にいてくれれば――何とかなるって、あたしも思えるわ。ソースケ」 
 満月。人工の明かりが極端に少ないこの島を、それは優しく照らし出している。
 月光の祝福の下、相良宗介と千鳥かなめは互いに見つめ合う。胸中に同じ想いを抱いて――
 ――そして、二人は即死した。

149 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:39:22 ID:Ob3uHk/A
 
◇◇◇

 ひゅん、と指を空間に踊らせる。一閃。ただ線を引くように。
 まるで児戯のようなその動作も、彼女が主なら真実、世界を切り裂く動作となる。

 世界には意味がない。どこまで行っても意味がない。
 この吸血鬼を前にしては、意味がない。

 彼女はあらゆるものを無意味にしてしまう。ただ彼女の好き嫌いで、世界は滅茶苦茶になってしまう。
 彼女はほんの数秒前に、この世界が嫌いになった。
 だから傍に居た二人の首を感慨も口上もなく切断し、美姫は絶望を吐き捨てる。

「馴れ合いにも飽いた。そろそろ終わらすか」

 殺意すら込めず呟かれたその言葉はまるで鈴のように透き通っていたが、その背後で力なくくず折れる二つの死体が、その吸血鬼が本気であることを示していた。

150 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:40:52 ID:Ob3uHk/A
◇◇◇

 運が良かっただけだというのはすぐに分かった。
 自分の首が飛ばなかったのは、彼らの方が吸血鬼に近かったから。そんな理由に過ぎない。
 佐山・御言は反射的に己の首に手を添えていた。何故なら、自分から僅か五メートルほどの距離で起こったはずの惨事。二人の首を同時に飛ばした一撃が――
(全く……見えなかった)
 放送で告げられた自分の知り合い――風見・千里の死に惑わされていたという訳では断じてない。吸血鬼と自分は向かい合うようにして対峙していた。視線は一度も外さなかった。
 だが見えなかった。二人の男女の首が切断された瞬間。寸鉄が振るわれたのか、熱線が放たれたのか、風が薙いだのか、糸によるものか、はてまた何らかの概念による攻撃なのか。
 一切、佐山には判断できなかった。
 それはつまり、自分に向けてそれと同じ攻撃が放たれた場合、成す術も無く自分も彼らと同じ道を辿るということを意味している。
(いや、分かっていたことだ……)
 この吸血鬼に勝てないということは分かっていた。初撃で放たれた威嚇。あれを見た時点で、彼我の力量差は推し量れていた。単純な暴力では、逆立ちしたって敵わない。
 自分が美姫に挑むというのは、何の訓練も受けていない人間が素手で機竜に挑むようなものだ。
 そしておそらく、それは自分以外の参加者であってもそう変わるまい。
 もしも彼女がその気になれば、彼女が容易くこの"ゲーム"で優勝してしまうであろうとことは容易に想像できた。
 だから契約をしたのだ。それは暴走する列車に手綱で制動をかけるようなものだが、それでも何とか制御しなければならないと思った。
 そして出来る、という勝算もあったのだ。
 この女怪は最強だが、さして強くもない自分と同じような弱点を抱えている。
 圧倒的な力と最悪の精神性を持ち合わせながら、この己を姫と呼ばせる傲岸不遜な吸血鬼が積極的に行動しなかった理由。
 それはつまり、この島に彼女を束縛する"何か"があるということに他ならない。
 刻印ではない。彼女の力はそれを制限下にあってなお健在だ。ならばそれは別のもの――彼女と同じ世界から呼び出された参加者ではないかと佐山は考えていた。
 そして、ほんの数秒前にそれを確信できたのだ。死者を告げる放送が流れていた時、この吸血鬼は存外、素直に耳を傾けていた――
(やはり女史は参加者の内の誰かに執着している……だからその人物さえ仲間に引き入れられたのなら、この吸血鬼も御せると思っていた。だが)
 だが、失敗した。
 その参加者はどうやら死んでしまっていたらしい。放送が終わった瞬間、美姫は態度を豹変させた。
 何もかもがつまらぬとでもいう風に、吸血鬼の瞳には一切の色彩が映っていない。おそらくは、これから野苺でも採るような気軽さで摘み取るであろう眼前の生命さえも。
 無駄だと心のどこかで確信しながら、だが佐山は口を開いた。掛けるのは無論、制止の要請。
 しかしそれは自分の命惜しさに、という話ではない。
 彼は悟ったからだ。ここで美姫を止められなければ、それは文字通りこのゲームの終焉を意味するであろうということを――
(まさにここが世界の中心というわけだ――笑い話にもならんがね!)
 残りの参加者が総出でかかっても、彼女ならばそれを笑いながら一蹴するかもしれない。その中に美姫がもうひとりいるというのなら話は別だが。
 故に、交渉。それこそが佐山・御言の真骨頂だ。

151 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:41:52 ID:Ob3uHk/A
 だが――足りない。その事実に背筋が凍り付く。
 説得の為の材料が、己に残された時間が。
 圧倒的に足りない。否、全く存在しないと言っても良い。かろうじて出来るのは、相手の精神性に縋る凡百な悪手のみ。
「貴女は私と交わした誓いを破り、この愚かしいゲームに乗る気か! だがそれではむざむざ、あの主催者達の思惑通りに行動してやることになりはしまいか!?」
「ああ、そうじゃ。だからどうした? 乗ってやると私が決めたのだ。お前に口出しする権利などない。もとより聖書の一端を借りようが所詮は口約束。貴様と結んだ契約などに私を縛る力などあるまい」
 にべもなく、言葉を跳ね除けられる。
 続けて、まるで天上の座から宣まう神の如く、美姫は傲岸不遜に言い放った。
「私が契ろうと思うから契り、私が破ろうと思ったから破った。そこに貴様が果たした功績など一欠けらとて存在せぬわ」
 交渉に応じるような余地は絶無。佐山は歯噛みした。
 『力はより強い力に負ける』という言葉がある。
 この言葉の後に『故に、力のみを求めるのは最良でない』という意を付属させてよく用いられるが、だがこの言葉にはもうひとつ意味がある。
 ごく単純な真理だった。より強い力を持てば、負けることはない。
 何者よりも強ければ、何者にも負けることはない。
 たった今、この吸血鬼はそれに成り果てた。単独で、独断で、だが何もかもを打ち破ることの出来る存在。打ち破ってしまう存在。
(この"姫"とやら――名前以上に気まぐれが過ぎる。交渉も契約も意味がない。彼女がその気になれば、どんなものでも破棄されてしまうのだから)
 交渉――交渉か。佐山が浮かべるのは多分にアイロニーを含んだ苦笑。
 全竜交渉部隊の長として、自分はこれまでにいくつもの異世界と交渉し、契約を結んできた。
 だがそれは結局、交渉できる下地があったからに過ぎない。概念戦争。その戦後処理。10の異世界は故郷を滅ぼされ、自分たちの世界は崩壊の危機に瀕し、それぞれがそれぞれの落とし所を探っていた。
 だがこの吸血はどうか。最強の存在に、落としどころなどあるものだろうか。
 あるのかもしれない。だが、それが何か出会ったばかりの佐山に分かるはずも無い。
 自分ならば御せる? 佐山はふん、と自嘲気味に鼻を鳴らした。
 否。この吸血鬼と自分との相性は最悪であった。
「では貴様も死ね」
 美姫の姿が消えた。次の瞬間には、自分は抗いようもなく死んでいるであろうことを確信する。
 歩法を使う暇もない。もっとも自分の歩法は未熟な上、美姫のタイミングもほとんど掴めていないのだ。
 まさに"見え辛くなる程度"の手品に過ぎない。
 自分の持つ力では、自分にある知識では、この状況を切り抜けられない。その手段が何一つない。
(私は――至らなかったか)
 時間的に見て、佐山にこのカタストロフィを防ぐ手段はなかっただろう。彼が美姫と接触した時点で、すでに崩壊のキーとなる秋せつらは故人となっていた。 
 それでも佐山は悔やまずにはいられない。もっと早く自分が集団を大きくしていれば。その中に鍵となる人物が含まれていれば。
 無論そんなifへの悔恨に意味はない。現実的に、自分がしてしまった最も愚かしい行動はただひとつ。
 ――最悪のタイミングでこの吸血鬼を傍らにおいてしまったということ。
 そして、強い衝撃が佐山の体を貫いた。

152 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:43:06 ID:Ob3uHk/A
◇◇◇

 佐山・御言は空を見る。
 夜天。そこには星星が煌き、月明かりがこの忌まわしい島を、それでも柔らかく照らしている。
(最後の光景か)
 体を動かそうとしても動かない。まるでその所有権が剥奪されたかのような感覚。
 一説によるとギロチンに処された罪人は胴から首が離れてもしばらくは意識を保っていたらしい。ならばこれも首を刎ねられ、脳の活動が停止するまでの短い視覚か。
 だがそんな物思いは、腰部に走った激痛に遮断された。
(……腰に?)
 疑問。物理的に神経の接続が断たれた状態で、その部位の痛みを感じることがなぜ出来る?
「立て!」
 疑問の解を脳が弾き出す前に、体は耳朶に叩きつけられた声に従った。
 背中を丸めて衝撃を殺す。そのまま後転するように体重を腰から背、肩へと移動させ、最後に両手を地面に叩き付けてバク転を実行。
 意識すれば、体は思考に十分ついてくる。首はしっかり繋がっている。
 地面に足を着け、視界は空から前方へと変化。見ればそこには吸血鬼の一撃を、長大な槍のような武器で受け止めた黒衣の騎士。
 アシュラムだった。咄嗟に佐山を突き飛ばし、代わりに美姫の一撃を食い止めたらしい。
 ――いや、食い止めようと、したのか。
 止められていない。吸血鬼の膂力を、彼の黒騎士がいなす事すら出来なかった。
「オ――!」
 一撃でアシュラムのガードがこじ開けられる。体勢すらも致命的に崩れた。もはやどう足掻いても次の吸血鬼の攻撃を防ぐことは不可能。
(……不味い、入る!)
 佐山は胸中で叫ぶ。アシュラムは自分以上の実力者かもしれないが、それでも美姫には届くまい。それは眼前の光景が証明している。 
 だがやはり自分にはどうすることも出来ない。距離が遠すぎる。手の中に武器はない。近くにG-Sp2が突き刺さっているくらいのもので――
「……?」
 そう。自分の傍にはあの白い槍が突き刺さっていた筈だ。だがどこに?
 見渡す限り、あの概念兵器の威容はどこにも確認できない。
 アシュラムに引き倒され、さらにその状態から後方に跳躍したのだ。自分の視界にG-Sp2が入っていないのはおかしい。
 その疑問に答えたのは口笛だった。
 佐山はその曲を知っていた。あの作曲家らしい、高らかに始まる開幕の序曲。
 ニュルンベルクのマイスタージンガー。それが奇妙なほど耳に残る口笛で演奏されている。
 その演奏者はいつの間にかアシュラムと美姫の傍に出現していた。人影というよりは、まるで筒のような細長いシルエット。
 そいつの名前はブギーポップという。
 唐突に出現したそいつは、迷うことなく一撃を食らわせた。
「がっ!?」
「……ほう?」
 アシュラムに。
 放たれたのは猛速の中段回し蹴り。それがアシュラムの胴体に綺麗に入った。黒の鎧に包まれた立派な体躯が冗談のように吹き飛んでいく。体勢が崩れていたお陰で、無意識での抵抗すらできなかったためだ。
 そしてその反動を利用し、ブギーポップもまたその場から跳躍していた。死神にさえこの吸血鬼は殺せない。だから、美姫を抑えようとするのではなくアシュラムを逃がすことに徹した。
「――逃がさん」
「……!」
 だが吸血鬼は容赦をしない。
 アシュラムを逃がすことを第一としたため、結果としてブギーポップの跳躍は不十分なものになっていた。美姫は即座に標的を変更。ブギーポップが稼いだ僅かな距離を瞬時に詰め、再度腕を振るう。
 今度こそ、その魔手から逃れる術は無い。
 美姫の手刀が叩きつけられる。それは疑いようも無く直撃し、ブギーポップのマントの下から何かが砕ける嫌な音が聞こえた。
「……宮下君!」
 叫んでも、いまさら何が変わるわけでもない。
 勢いそのままに十メートルほどを転がって、黒マントの怪人は、
「――今はブギーポップだ」
 そう言って、すっと立ち上がった。
 マントを開く。そこから白い破片がばらばらと零れ、さらにその中心には、
「すまないね、佐山君。無断借用した挙句、少々壊してしまった」
『ヒドイノ』
 G-Sp2。ひとつの世界を構成する概念核をカウリングし製造された兵器。
 その機殻の一部分が砕けていた。どうやらマントの下に防御用として仕込んでいたらしい。横から見れば、隠し切れなかった柄の部分が背後に突き出していたのが確認できただろう。

153 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:44:12 ID:Ob3uHk/A
「……とりあえず、無事か」
「さて、ただ一合をギリギリで潜り抜けただけだがな」
 そう言って同じく立ち上がったのはアシュラムである。こちらも受身を取ったのか、目に見えるダメージはない。
 アシュラムはすでに偃月刀を構えていた。その切っ先を美姫に向ける。
 その凶器の先端を見て、美姫はからと笑った。
「私に武器を向けるか、黒衣の将。恩を返してくれるのでは無かったのかえ?」
「その通りだ。俺は恩を返す為、貴女に武器を向けている」
「仇で、か?」
「否」
 アシュラムは小さく口元を歪めた。
 まるで鏡を見るような錯覚。そう、いまの美姫はかつての自分に似ている。あの決闘で全てを失った自分と。
 そして、そんな空っぽのこの身を満たしてくれたは一人の少女だった。心優しき異世界の童。そんなものが自分の心を救った。
 その少女は、先の死者を告げる放送でその名前を呼ばれてしまっていた。
 悲しいと、そう思う。もはやあの少女に受けた恩を返すことは叶わぬと、胸が破れそうな思いが踏襲した。 
 だがその直後に響いた放送があった。意志は継がれる。その限りにおいて、道は途絶えぬと。
(――ならば、彼女の道を途絶えさせてはならぬな)
 それが、恩を返すことになるのなら。
 君の道は俺が継ごう、藤堂志摩子。
「貴女の誇りを傷つかせぬよう、俺は貴女をここで止めるのだ」
「私の誇り? それを他者が規定し、他者が守ると? ――戯言を」
「哀れだな、美姫」
 貫くように放たれたアシュラムの言葉に、美姫の体が短く一度、痙攣する。
「……なんだと?」
 彼女の体を駆け巡るのは紛う事なき怒りの感情だ。美姫が牙を剥き、地面を踏みにじる――それだけで大気が震えた。
 だがアシュラムはその怪物を真正面から見つめた。怒気を受け止め、冷たく言葉を紡ぐ。
「今のお前は駄々っ子のようだ。かつての俺と同じく全てを失い――だが俺と違うのは、その喪失からくる絶望を己にではなく世界に向けたこと。そんな理由で世界を破滅させても、お前はただ傷つくだけだろう」
「傷つく? はて、気の向くまま国をいくつも潰し、人を何十万と食い捨てた私が、たかがこの箱庭と数十人を手ずから殺した所でか? 有り得ぬ」
「では訊ねよう。その後に、いったい何が残るという」
「何も残さぬ。私がただ一人で――」
 言いかけて、美姫は言葉を止めた。
 そう、独り。あれほど渇望した秋せつらはもう存在しない。
 それが他者の手によって成されたということが我慢ならず、自分はそいつ諸共、秋せつらの死という条件を成立させたこの世界を滅ぼすと決めた。
 だが、その後は? 優勝し、あの腐れた管理者どもを皆殺しにして、その後は?
 また騏鬼翁を従え時空を回るのか。それもいいだろう。ただ思いのままに果て無き日々を生きるのが美姫という存在だ。
 だが、今の自分にそれが出来るのか? できぬであろうな、と美姫は思う。秋せつらの喪失に、自分は思っていた以上の衝撃を受けていた。果て無き生への執着が薄れていく。そうだ、これからの生においても秋せつら以上に自分が望む存在などあるまい。それは希望がないということ。目的が無くても美姫は生きていける。だが希望がなくてはさしもの彼女も生きていけないだろう。
 ――虚無。
 ただ空隙だけが、彼女の胸の中に存在する。
 その胸の内を読んだように、アシュラムが頷いた。
「そうだ。お前は俺と同じだ。何も無い――何も無かった」
 そう。自分には何も無かった。アシュラムは思い返す。この島にきてすぐのことを。自分は開けた砂浜で、ただひとり死を待ち焦がれていた。
 ――だけどそこに来たのは死神ではなく。
「だが今は何も無くとも、そこに何かを足して満たすことは出来よう。それが出来るのは他人だけだ。それは何でもひとりで出来るお前が、唯一出来ないことだろう、美姫。
 まずはここでお前を止める。そして、その胸の内を満たしてみせよう。かつて俺が彼女にそうしてもらったように。
 ――お前を救おう。今度は俺が、お前を救ってみせる!」
 青龍偃月刀を掲げ、誓いを口に。
 かつてその男はその身の内に絶望を抱え、吸血鬼に誑かされ、己の意志を失った。
 だが、黒衣の騎士。いまやその身に纏う黒は絶望の闇ではなく、他者に安らぎを与える夜の色である。

154 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:44:54 ID:Ob3uHk/A
「……良い男じゃな、お前は」
 美姫は、ほう、と息をついた。
 素質はあると思っていた。美丈夫というだけではない。外面ではなく、内面の資質。絶望に身を浸してこそいたが、この男は一国の王に相応しい器であると。
 故に、惜しい。美姫は悲壮に顔を歪めた。
「せつらと出会う前に、お前と会っていればよかったのかも知れぬ」
 美姫にとっての至上はどこまでいっても秋せつらだ。
 その想いは、裏切れない。
 美姫は構えた。といっても、彼女に大仰な、例えば拳法のような構えは不要だ。どんな体勢からでも、彼女の放つ一撃は人にとって必殺となる。
 それでも構えたのは礼儀だ。アシュラムとの戦いを、美姫が特別なものとして認めたということ。
「しかし、アシュラムよ――お前の想い、胸に響いた。
 私はこれからお前を殺し、そして他の者を全て殺す。その先にあるのが絶望と知ってもなお、な。せつらのことを想うと、そうせずにはいられぬのだ。
 だが、それでも。
 それでも私を救えるというのなら、救ってみよ。私の中の秋せつらを超えるというのなら、超えてみよ!
 その時こそ私は満たされ、我が数千年の彷徨は終焉を迎えよう!」
「そう、君はここで終焉を迎えるんだ」
 口笛は未だ途絶えていない。
 マイスタージンガー。第一幕への前奏曲。だが彼が奏でる時、それは敵を送る葬送曲になる。
 死神はアシュラムと同じく己の得物を構え、美姫にその刃を向ける。
「――君は世界の敵だ、妖姫よ」
 救済を誓う騎士の叫びに、吸血鬼の零す絶望に、なんら感じ入ることはなく。
 ブギーポップはただ自動的に、敵の抹殺を宣告した。

◇◇◇

「待ちたまえ、宮し――いや、今はブギーポップか。
 確かに彼女は危険だ。だがアシュラム氏が救おうとするならその意思は酌むべきではないだろうか?」
 声の主は佐山・御言。
 この島から殺意を全て奪い、脱出の為には殺人者への許容すら強制する悪役。
「助けられた身でこんなことを言うのはどうかと思うが、そこはまあ私の人徳でカバーするとして。
 騎士は救済を叫び、姫はそれに応えんとしている。
 ならば我々がすべきなのはその手助けではないかね? 物語的に。
 あえて言おう――空気を読め、と」
 その台詞は無論、佐山の姓が吐いたものなれば、感情や好みから出たものではない。
 いまこの場で最善なのはゲームに否定的なアシュラムが勝利し、美姫を完全に手なずけること。
 次善は美姫を殺害し、それを救済としてとりあえずの危機を乗り越えること。
 だがそんな次善を佐山・御言は認めない。何故ならその最善こそがこの島を脱出するに当たって必要な手段だからだ。
 例えばもしも美姫をブギーポップが殺してしまえば、その後アシュラムの協力を得るのは難しくなるだろう。
 ひいては宮野氏の遺恨を解決する手段も失われるということだ。彼の連れの名前は先の放送で呼ばれていたが、それでもまだ兵長がいるように、この島のどこかで火種として燻っているかもしれない。
 そんな負の連鎖を食い止めんとする佐山の台詞に、だがブギーポップは頭をふって、
「――いずれこうなるとは思っていたよ、佐山君」
「こうなるとは?」
「君と僕が敵対するということさ。あらゆる殺人を許容しない君と、自動的な死神ではね」
 何気なく、剣呑な台詞を吐いた。
「殺人鬼から殺意を奪えても、僕のような死神からは奪えない。そもそも奪えるものでもないのさ、僕の性質から見ればね。だから君が例の方針を翻さないならいずれ袂を分かつことは必然だった。この島には世界の敵が多すぎる」
「そんなことは――」
「例えば、僕は十叶詠子を始末しようとした」
 さらりと告白される重大な事実。

155 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:45:56 ID:Ob3uHk/A
 しかしそれに対して、佐山も溜息をひとつ付き、
「――やはり、君か」
「おや、気づかれていたか」
「あのタイミングの良さではね。詠子君の失踪の直後に、入れ替わるように君が現れて……何より、彼女の"物語"を私は聞いている。おそらく、君の言う"世界の敵"に彼女が該当することは察していたよ――しかし詠子君の名が放送で呼ばれなかったのが引っかかっていてね。君に問いただすのはもう少し証拠を集めてからと思っていたが」 
「恥ずかしながら、しくじってね――だがまだ彼女が生きて、その性質が移ろわぬモノである以上、僕は彼女を殺そうとし続けるだろう。さて、佐山君。そんな僕を前にして、君はどうする?」
「無論、止めよう」
「どうやってだい? 僕に対しての交渉や説得は意味が無いぜ。僕はそういう存在だ。僕に役割を放棄しろいうのは、魚に空を飛べというようなものさ。それとも零崎君のように力尽くでいくかい? 君と僕とでは――さて、どちらが強いかな?」
「無手の相手に槍を構えながら言う台詞かね?」
 やれやれ、と佐山は首を振った。どの道、力量差は眼前の光景が示している。
 美姫の一撃に全く反応できなかった佐山と、辛うじてとはいえ反応できたブギーポップ――それが両者の差だ。
 力ずくでも、交渉でも止められない相手。それは、つい先ほども――
「佐山君、君はさっき、自分の限界に気づいたはずだ。
 彼女のように自分の気まぐれを押し通せる者や、僕のように自動的な存在に対して"君自身"は無力であると」
 佐山・御言は無敵ではない。
 なるほど弁は立つ。だが逆に言えば、それが通じぬ相手に対する有効手段には限りがあるということだ。
 体は鍛えられ、技も身に着けている。達人と呼んでも誤謬ではないほどに。だが超人ではない。佐山・御言は人間の域を出ていない。
 それらが通じねば、佐山・御言は無力だ。話を聞かぬ人外の輩に、佐山・御言は無力だ。
(いや――分かっていたとも)
 自分は平和主義者だ。例えば午前中に出会ったギギナのような戦闘狂ではないし、世界全てを敵に回して勝利するような武力は無い。
 この、人類の限界を超えた能力を持つ化け物たちが集う島において、戦闘力という点で自分は決して優位な立場に居ない。
 だがそれは元の世界でも同じだったはずだ。マイナス概念しか持たぬ、最弱の世界たるLow-G。対して自分が交渉し、結果的に戦闘を繰り広げてきたのは己の世界が持つプラス概念を自在に繰る異世界達。
 それでも互角以上に戦い、契約を結んでこれたのは自分に力があったからだ。日本UCAT。全竜交渉部隊。そういった組織を従える力が。
 そうだ――それは佐山・御言が個人で発揮できる力ではない。
 今の佐山・御言には決定的に力がない。
 だから自分は人を集め、このゲームから脱出するための勢力を作ろうとしていたのだ。
 しかし、それは未だなされていない。だから、こうして殺し合いを止められないでいる。
「なるほど。確かにこれは私の落ち度かな。私は君を止める手段を持ち合わせていない――」
 佐山・御言は死んでも敗北を認めない。だがそれは彼が勝ち続けられるということではない。
 一歩、後退する。ここにいる誰一人として他者の説得に応じるものではなく、また自分も交渉材料を持ち合わせていない。戦闘に貢献できる武器も能力も無い以上、佐山・御言がここで出来ることは何一つ無い。
「――今は、まだ」
 だが、いずれは勝つ。

156 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:46:43 ID:Ob3uHk/A
 佐山の呟きを受けて、ほう、とブギーポップは試すように首を傾げて見せた。
「いずれは僕も説得できる、ということかな?」
「無論だ。君はあの時アマワを敵と呼んだな? 同じく私が奴の打倒を目指す以上、いずれ交渉の機会もあるだろう――そしてその時までに、私は君との交渉材料を用意して見せようではないか」
 そう言いながら、佐山はくるりと反転して戦場に背を見せ、
「――よって、これは逃亡ではなく戦略的撤退なので念のため。とりあえずは武器を貸し逃げして貸し一ということにしようっ!」
 脇目も振らず、全力でこの場を離れていく。
 佐山が目指すのはダナティア達が居た筈のC-6マンション。
 やはり放送で名を呼ばれてしまっていたが、それでも彼女の放送の力は残っている筈だ。
 故に人は集まる。無論、それは殺人者を呼び寄せる危険もあったが、
(その危険性を加味していられるほど事態は緩徐なものでない――ブギーポップ君とアシュラム氏の二人掛りでも美姫を止められるかは未知数。いや、先ほどの武力交渉の結果を見れば、むしろ止められない公算が大きい。ならば私は彼らに時間を稼いでもらい、その隙に対抗するための勢力をつくる!)
 それはつまり、あの二人を見捨てたともとれる形になる。
 佐山は左胸を押さえつつ、苦笑した――新庄君がいれば、あるいはこんな手段を認めなかったかもしれない。
(私は悪役として正しい道を進んでいるのか?)
 あるいはその答えを得るために、佐山は全力で暗い夜道を駆けていく。

 そして――悪役は去り、騎士と姫と死神が動き出した。

「ようやく、小うるさい話は終わりか――ならば、ゆるりと行くぞ」
 美姫が一歩を踏み出し、アシュラムが応じるように前へ出、ブギーポップが闇に紛れる。
 ……こうして僅か三名による、だが間違いなくこのゲームの行く末を左右するであろう決戦が幕を開けた。

◇◇◇

 戦場を彩る明かりは月明かりのみ。
 しかし、それは干戈を交える際に散る火花が目立たぬ程度には明るかった。よって、暗闇で目測を誤る心配は少ない。
(とはいえ――光量の問題というわけでもないか!)
 歯を砕けんほどに食いしばりながら、アシュラムは胸中で雄叫びを上げた。
 黒衣の騎士アシュラム。竜すら殺す最高の剣士。
 ある騎士をして曰く、彼の者の剣を三合まで受けられれば十分に一流の剣士と言える。
 ――ならば、そのアシュラムを稚児のように扱うこの吸血鬼はなんと形容すべきか。
「そら、止めてみよ?」
 細面の美女。顔の半分が焼け爛れているとはいえ、傍から見れば決して戦部には見えないだろう。
 しかし何の気なしに繊手から放たれる一薙ぎは、アシュラムの知る如何なる戦士のものよりも重く、鋭い。
 一撃がアシュラムの腕を痺れさせ、防御のために突き出した武器は悉く弾かれる。
「っ!」
 再びガードを強引にこじ開けられ、その内に吸血鬼の手が弄うように侵入し、
「――無粋を」
「何度も言うが、僕は自動的でね」
 ブギーポップの突き出した白い槍が、アシュラムを庇う様に吸血鬼の一撃を阻む。
 しかし死神の一撃すら美姫には及ばない。美姫は無造作にG-Sp2を払うと、さらにブギーポップに向けてもう片方の凶手を振るった。
 振るった右腕に連動してたなびいた衣の裾がまるで餅か何かのように伸び、ブギーポップを叩き潰すようにして地面を叩く。
 するとまるで爆弾が落ちたかのような轟音が響き、裾が打った地面には深刻な罅割れが走った。
「私を殺すと言いながら逃げるだけか、死神とやら」
 地面に死体がないのを確認して、苦々しそうに美姫が呟く。
 人体の限界を引き出せるブギーポップをしてさえ、美姫の前では羽虫のようなものだ。その動きは吸血鬼の瞳に捉えられないものではないし、大した脅威にはならない。
 だがこの羽虫は音を立てなかった。美姫の感覚を以ってしても、一度ブギーポップが闇に紛れてしまうとその存在を察知できなくなる。
 それが、未だに騎士と死神の二人が吸血鬼の猛攻を凌げている理由でもあった。ブギーポップは決して前に出ず、アシュラムの危機をギリギリで救うだけに留めている。
 もしも二人ともが真正面から挑めば、この戦いは最初の一撃で終わっていただろう。
 ブギーポップが再び闇に紛れて移動を始める。アシュラムも体勢を整え、再び武器を構え直した。
 と――そうして前に出ようとした黒衣の騎士の耳元で、死神の声が弾けた。
(――いい加減、協力してくれるとありがたいのだがね)
 声は先ほどから幾度も聞こえていた。確かに耳元で響いているというのに、出所の不明瞭な声だ。
 振り返って確認するような愚は冒さないが、それでも背後には誰も居ないであろうことをアシュラムは確信していた。

157 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:47:34 ID:Ob3uHk/A
 何度目かになるかは分からないが、これまでと同じ返答をする。
「くどい。貴様への協力というのは美姫を殺すということだろう。却下だ。邪魔をするな」
(――それが僕の仕事なのでね。どの道君一人では死ぬだけだよ。それでは彼女を救えまい)
 それに対する死神の言葉も今までと大意は同じ。故に、アシュラムはさらに幾度も重ねた言葉を返そうとして、
「……」
 だが、沈黙した。妖姫と数合を打ち、その力を実感し始めている。確かにこの実力差は如何ともしがたい。
 全精力を掛けて予測すれば、何とか相手の一撃を受けることができるという程度。そこからの反撃など望むべくも無い。それほどの開きがある。
 このままでは千日手にもなるまい。いずれはこちらの体力が尽きて攻撃を受け損ね、終わる。
 アシュラムの逡巡を感じ取ったのか、死神は返答を待たずに話を続けた。
(もっとも、僕の方も似たようなものだがね――宮下藤花の体をここまで傷つけてしまうなんて)
 よく聞けば、ブギーポップの飄々とした声にもどこか精彩さが欠けている。
 もしも闇に紛れた死神を見ることができる者がいれば、その左腕が力なく垂れ下がっていたことに気づいただろう。最初に美姫から受けた攻撃の結果である。
 G-Sp2を緩衝材にしてさえこのダメージ。
 いや、この程度で済んで万々歳というところだろう。もしもこれが並みの装甲であればそれごと砕かれて終わりだったし、攻撃を受けたのがブギーポップでなければG-Sp2は防御装甲としての役割を果たさず、逆に体を砕く鈍器として作用したに違いない。
(――だがひとつだけ、僕に有利に働いている点がある)
「なんだ。言ってみろ」
(能力の制限だ)
 そう言って、ブギーポップは自分の左腕を指差した。誰に見えるわけでもないが、そこには管理者たちによって捺された刻印が存在している。
(――僕がこの島に来たばかりの頃は、わざわざ対面して語らねば世界の敵を判別できなかった。だが今回、僕は彼女が世界の敵になる寸前に"出て"これた……何らかの影響で制限の状態が変動している。それも僕にとって都合の良い方向に)
「世界の敵――? それが何なのかは知らんが、そういった存在にお前が反応するというのなら、単に美姫が相当に強かったから対するお前の反応も強くなったというだけの話ではないのか?」
(うん、その可能性もある)
 あっさりと話を翻すブギーポップに、アシュラムが顔をしかめた。
 だがブギーポップはそれに構わず言葉を続ける。
(今回の世界の敵は、その性質も能力も単純だ……ただ、その度合いが大きすぎるというだけで。精神性はともかく、本来、単純な腕力だけでは世界を敵に回せない。だって世界は竜巻や台風といった、そういったパワーを内包してしまえるほど巨大なのだから。
 しかし、もしもたった一人で世界を崩壊させてしまう単純なパワーを持てるというのなら、それは恐るべき世界の敵だ。そして、それはシンプルなだけに対策のしようが無い……)
 やれやれ、とブギーポップは呻いた。
(まさに最大級の世界の危機だよ。この僕ですら殺せないかもしれない敵だ)
「ああ、お前には殺させん」
 見えぬブギーポップにそれでも先んじるよう、アシュラムが一歩、美姫との距離を詰める。
「俺が、救う。志摩子ならばそうするだろうからな」
(なるほど、それが今の君の行動原理か。だが目的はあっても、それを達成する為の方法はあるのかね?)
「……それでも、俺はやるだけだ」
(強情だな。しかし、だからこそ君は彼女に傾倒しきらず、世界の敵になることなくバランスを保てているともいえるのだがね。
 ならばここは折衷案といこうじゃないか。君も僕も、単独で彼女を相手にすればただ死ぬしかない。だから協力し合おう。
 しかし最後に僕が殺すか、君が救うか――その点は、天の采配に任せようじゃないか)
 なんとも胡散臭げな台詞に、アシュラムは皮肉気に笑った。
「先ほどから俺を盾代わりにしてる奴と協力とはな――しかし現状、それしか手が無いというのが腹立たしいところだ」
(お叱りは終わった後に受けようじゃないか)
「……しかし協力したところで、対抗などできるのか?」
(僕が攻めに転じよう。先ほど佐山君から拝借したこの武器なら、きっとあの吸血鬼にも通用する――)
「こそこそと何を相談しておる」

158 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:48:31 ID:Ob3uHk/A
 美姫が再度、踏み込んできていた。
 さすがに会話に気を取られて殺されるなどという間抜けをアシュラムが犯す筈も無く、その一撃を偃月刀で受け、さらにブギーポップが、
「助力に回るのじゃろう? ――見飽きたわ」
「……!」
 そう。仮に闇に紛れたブギーポップを認識することが出来なくても、アシュラムのガードを崩せばそれをフォロー出来る位置に死神は出現する。
 そのタイミングが分かればG-Sp2――槍による間合いは、十分に美姫の射程範囲であった。
 美姫がその場で回転する。瞬きする間に、十、百、千と回転の回数が恐るべき勢いで積み上がる。もはや目視が追いつかぬほどの速度。
 しかしその姿が霞むのは速度のせいだけではなかった。くるくると踊る妖姫に巻き込まれるようにして、轟と風が唸り始める。
 風は強風から暴風へ。一瞬で削岩機の様相を呈し、
「――砕け散るがいい!」
 半径十数メートルの竜巻の中心と化した美姫が高らかに叫び――
 そして全ては渦巻き、砕けた。

◇◇◇

 衝撃が幾度も全身を蹂躙した。ジェットコースター並みの速度で回る観覧車にでも乗ればこんな気分を味わえるだろうか。
 いや、実際のところは竜巻に巻き込まれて何度も地面に叩きつけられているのだから、より正確さをもとめるなら自分は洗濯機の中の衣類というところか。
 そして最後の衝撃を背中に受け、ブギーポップはようやく凶悪な洗濯槽からその身を脱した。
 背後を見れば、そこにあったのは先ほどまで自分が居た小屋だ。幸運なことに竜巻が蹂躙した範囲に直接は入っていなかったらしく、何とか皮一枚のところで倒壊を免れている。
(……僕も似たようなものか)
 竜巻の渦中にあった分、自分の息が続いている現状は、背後の小屋よりも幸運だったといえるだろう。
 だがダメージの大きさは如何ともしがたい。
 罅が入っていた左腕は完全にへし折れ、そのせいで庇うことの出来なかった左半身の被害は甚大だ。左足は股関節から脱臼してあらぬ方向を向いているし、側頭部を酷く打ったようで視界は歪み、さらに目に血が入ってその歪んだ景色すら半分になっている。
 体は地面に叩きつけられた衝撃が染み込んでショック状態にあり、自分の着ているブギーポップの衣装はボロボロだった。
 たった、一撃。だがあの世界の敵とこちらの戦力差からみれば、この結果は必至ではあった。
(しかし、僕は自動的なのでね……)
 それが分かってもなお、立ち向かわねばならない。それを苦痛にも疑問にも思わない。
 ショック状態にあるはずの体を無理やり動かし、背後の小屋を支えに、右足だけで体を起こす。
 その様は不気味だった。痛みに顔をしかめもせず、ただ無表情で駆動する人の形。まるで壊れかけのアンドロイドが無理に動こうとしているような錯覚を覚える。
 その立ち上がったブギーポップの首元に、傷一つ無いたおやかな手が添えられた。
「さて――よくもよくも小うるさい羽虫よ。どうしてくれようか」
 無論、差し伸べられた手の持ち主は美姫である。
 その細腕ひとつで、小柄とはいえブギーポップの体を足が地から浮くほどに持ち上げて見せる。
 だがブギーポップの顔に苦痛は浮かんでいない。そのすまし顔が気に入らぬとでもいう風に、美姫はもう片方の手でブギーポップの左腕を掴んだ。
 骨折している箇所を淫らな印象を漂わせる動きで揉んで行く。腕の中で折れ、凶悪な断面を晒しているカルシウムの塊が内側から柔肉を蹂躙した。
 しかし、そんな拷問じみた行為を施されてもブギーポップは顔色一つ変えない。
「ほ。悲鳴一つあげぬか。ならば四肢を一つずつ捥いでいこうか。彼の比干の如く、心の臓を取り出して穴をあけやるのも楽しかろうな」
「それ、は、勘弁願いたいね……」
 苦痛は浮かべずとも酸欠は如何ともしがたいのか、赤黒く顔を変色させながら死に掛けの死神は呻いた。

159 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:49:42 ID:Ob3uHk/A
「この体は、借り物なの、でね――竹田君に、怒られてしまう、よ」
「そうか。ならばやはりそうしてやろう」
 美姫は喜色を浮かべ、まずは無事なほうの右腕を引き千切ってやろうとし――
 そして、気づいた。
 ブギーポップが握っていたはずの白い槍が、いつの間にかその色と形状を変じていることに。
「……これは、青龍偃月刀!?」
 そう。それは先ほどまでアシュラムが振るっていた朱色の薙刀だ。
 だがこれがここにあるということは、先ほどまでブギーポップが振るっていたG-Sp2は――
「あの竜巻の中でか!」
 そう。すでにブギーポップは"そいつ"に告げていた。
 鶴翼斬魔も切れ味ならば劣るまいが、しかしこの場であの吸血鬼に通じるのは世界を内部に納めた白き槍のみであると。
 本来、正当な持ち主でなければ概念核の力は解放できないが、しかしこの特異な空間では偃月刀が誰にでも扱えるように、その力も僅かに発揮されている。
 美姫が気づいたその時には、すでに黒の孤影が彼女たちのもとに走りこんできていた。
 影の名はアシュラム。その手にはブギーポップが竜巻の中で手放した神槍――10th-Gの概念を込められたG-Sp2が新たに握られている。
 姫を止め、救済せんとする騎士が放つ太刀筋は美麗の一言。
 刹那の内に二閃。
 そして切断。
 赤き螺旋を描いて、美姫の両腕が宙を舞った。
「――止めてみせたぞ、美姫よ」

◇◇◇

 くるくると回り、その回転を血の軌跡で表しながら、吸血鬼の腕が宙を舞う。
 その不気味なオブジェの下で、三人はそれぞれ微動だにせず佇んでいた。
 ブギーポップは自分を拘束していた腕が断ち切られたことで解放され、しかしその身を支えることが出来ずに再び地面に倒れ伏している。
 もはや戦闘能力は無いも同然だった。これでは歩くことすら敵うまい。機械のような自動さも、しかし破損してしまえば動きようがない。
 アシュラムは息も荒く、そして体はブギーポップほどでないにしても満身創痍だった。漆黒の鎧は砕け、マントは引き千切れている。アバラも二、三は折れているだろう――これ以上動けば内臓を傷つけ死に至るかもしれない。
 そして、両腕を失った美姫は一瞬きょとんとした顔を見せ、G-Sp2を杖代わりにしているアシュラムを見やる。
「……私を止め、救うと言っていたなアシュラム。だが――」
「無傷で、とは言っていない。どの道、貴女はこれくらいしなければ止まらぬだろう」
 くるくると、腕が、回る。
 切り上げられ宙を舞う二つの白い繊手は自身が描く放物線の頂上に達し、下降の意思を見せていた。
 アシュラムは一度大きく息を吸い込み、息を無理やり整え、美姫と向かい合った。
 自らが纏うマントの残骸を脱ぎ捨て、即席の包帯にするように裂いていく。
「手当てを――その程度の傷で死ぬということもないだろうが、しかし血をどれだけ失っていいというものでもあるまい」
「私が言いたいのはな、アシュラム」
 美姫の顔に浮かんでいたのは、憐憫。

160 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:51:11 ID:Ob3uHk/A
 アシュラムがその表情を訝んだ瞬間、
「まだ……だ!」
 響いたのは、ようやく肺に酸素を取り入れることのできたブギーポップの掠れた叫び。
 腕が、落ちてくる。
「この程度で私を止めた気か? と――そう訊ねたのじゃ」
 落下する吸血鬼の腕が地面に触れることはなかった。
 それはあまりに美しい両腕が土塗れになることを、地面自身が拒否したとでも言うように。
 それぞれの腕が美姫の横を通過しようとした瞬間、まるで引き寄せられるように軌道が変化。
 美姫が両腕を持ち上げてみせる。切断面など僅かにも確認できない、綺麗に癒着した白い美手を。
 ――確かに切り離したはずの両腕は、だが一瞬で再生を果たしていた。
「我が腕を切断せしめたのは見事――せつらの糸にも迫る妙技よ。だが、その程度で私を止めることは叶わぬぞ」
 美姫という大吸血鬼の真に恐るべきところは、あらゆる装甲を紙切れの如く引き裂いてしまうような攻撃力ではない。
 100万度のレーザーを受けても平然とし、彼の魔界医師にすら癒せぬ傷を瞬時に塞ぐ、防御・再生機能こそ、彼女を不滅とする要因なのだ。
 アシュラムの体が一度、びくんと揺れた。
 全身の筋肉が強張り、そして次の瞬間には弛緩する。 
 だが、彼の黒騎士が膝を付くことは無かった。
 なぜなら、その体の中心を再生した美姫の細腕が刺し貫いていたからである。
 さながらピン止めされた昆虫標本を思わせる、腹から入り背へ抜ける一撃。完全な致命傷であった。
 彼の装備する"影纏い"がレプリカでなく、真作であればこのような結果も免れたかもしれないが……
「ごっ――ふ」
 アシュラムが血を吐く。
 喉の奥、重要臓器からの致命的な出血。
 ごぼごぼとまるで滝のように吐き出される赤い液体を、美姫はまるでシャワーでも浴びるかのようにその肢体で受け止める。
「――よい。分かっておった。せつらに及ぶ男など、有り得ぬということはな」
 言葉に反して、妖姫の顔に浮かぶのは寂寥の情。
 鮮血を零し、急速に死につつある黒衣の将を惜しむように、あるいは慈しむように、美姫は彼の逞しい体を血に濡れていない方の手で抱き寄せた。
「それでも、お前は永劫に語られるであろう英傑の一人であろう……せめて我が腕の中で眠ることを慰めとせよ。そして、」
 美姫の双眸に、紅き光が爛々と灯る。
 魔眼――まさにその言葉に相応しい様相であった。
 その紅眼が睨むのは、地面に倒れ伏したブギーポップである。
 もはや着ているマントの惨状も合わさって一見襤褸屑にしか見えぬそれは、しかし未だ妖姫を斃すことを諦めておらず、力なく垂れ下がっているアシュラムの腕から転がり落ちたG-Sp2を取り返そうとしていた。
 構わず、美姫が片足を振り上げる。
「引き際を知らぬ死神は、根の国に帰るが良い――」
 言葉と共に振り下ろされた足刀は、音速を軽く超える勢いで死神の首を砕く。
 そう、砕く。だから間に合うはずも無い。刹那の間もなく、語られた都市伝説はここで潰える。間に合うはずが無い。
 だからその声は、美姫の魔眼がブギーポップを捉える前に囁かれていたのだろう。
 鋭く、速く。まさか半死人が紡いだとは思わせぬほど力のある言葉。
 声の主はブギーポップ。そしてその内容は――

「――撃て、兵長君!」

 その声が、まるで爆弾の信管に対する入力だったかのように。
 彼らの傍にあった小屋が、内側から粉々に吹き飛んだ。

161 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:52:15 ID:Ob3uHk/A
◇◇◇

「もうすぐここに、世界の敵が現れる」
 宮下藤花と一瞬ですり変わったそいつと兵長は、倉庫の中で奇妙な対面を果たしていた。
 先ほどまで普通に話していた何の特異性もない少女の変貌に、兵長は戸惑ってもごもごと質問を発する。
『世界の敵? いや、その前にお前は一体――』
「名前はブギーポップだ。説明する暇も無いので、宮下藤花は二重人格だったとでも納得しておいて欲しい。
 そして世界の敵とは読んでの字の如く。放って置けば世界を滅ぼしかねないものであり、僕の敵でもある。しかし――」
 兵長の疑問を無理やり封じ込め、ブギーポップは肩を竦めた。
「今回の"敵"は強力だ。おそらく、僕一人では返り討ちにあうのが関の山だろう」
『自分ひとりで納得してんじゃねえよ……なんでまだ会ってもいないのにそんなことが分かる?』
 全く同じ顔、同じ服装だというのに、もはや宮下藤花の面影は欠片も無い。自然、兵長の口調も連れの不死人を相手にするようなぞんざいなものに変わっていく。
 ――刻印の無い兵長は知らない。その連れが、0時の放送で名を呼ばれたことを。
 ブギーポップはそれを知っている筈だったが。兵長には伝えていない。この怪人が何を思ってそうしたのかは、自動的な故に本人に訊ねても分からないだろう。
 隠し事をしている様子など僅かにも見せず、ブギーポップは話し続ける。
「分かるのだから仕方が無い――あえて言うなら、それが僕の"機能"だからだ……どうやら、僕に掛けられた制限が変動しつつあるらしいね。殺戮を加速させる為に元から時限式を採用していたのか、あるいは――」
 そこで急に言いよどむ怪人に、兵長は首を――無いが――傾げるような心持で訊ねた。
『あるいは?』
「……いや、これはまだ分からない。とにかく僕じゃ敵わない奴が相手になるということは確かだ」
 そう言って、宮下藤花の姿をしたそいつは慇懃にぺこりと頭を下げて見せた。態度のせいであまり誠意は感じられないが。
「君の協力が必要だ、兵長君」
『……まあ、一応お前も宮下の嬢ちゃんだって言えなくもねえんなら、死なれたら寝覚めも悪いし協力してやるのは吝かじゃねえけどよ……』
 先ほどの会話を思い出し、どこか唸るように兵長はスピーカーからノイズを吐き出した。
『――にしてもその世界の敵っつったか? それは一体どんな奴だっていうんだ?』
「さあ? 僕は反応して浮き上がっただけだからね。例えばどんな容姿であるとか、どういう能力を持つのかまではわからないよ」
『……分かるって言ったり分からねえって言ったり、胡散臭い野郎だ』
「これは手厳しいな――しかし」
 兵長はぞくりと震えた。
 それまでどこかコミカルささえ感じることのできた怪人の声音が急変し、ギラリとしたものを帯びたからだ。
 もはや肉体も無い身で、自分のどこがその反応を生み出したかは分からなかったが、だが確かにそいつの声には死神が魂を刈り取る際に振るう大鎌のような鋭さがあった。

「そいつはおそらく、この島での君の運命に大きく関わっている――今までの運命にも、そしてこれからのモノにも」

 その言葉の意味は、その時の兵長には何のことだか分からなかったが――

162 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:54:00 ID:Ob3uHk/A
◇◇◇

 そして、現在。
 あの時死神が口にした運命という言葉。その意味が今なら分かる。
「――撃て、兵長君!」
 倉庫の外から響くブギーポップの声に、兵長は無音の咆哮をあげた。
(待ちかねたぜ――!)
 倉庫の中。組み立てられたダンボールの上で、兵長はその時を待っていた。
 ノイズが粒子となり、ラジオの外に隻足の中年男性の像を作り上げる。
 その虚像の顔に浮かんでいるのは、烈火の如き怒り。
 聞いていた。ずっと、聞いていた。奴らの声をここでずっと聞かされていたのだ。

 ――まあ、余興程度にはなった。

 ――謝罪すべきは私じゃな。もっとも、それをする気は微塵もないが。

 呆れるほど短気だった自分がここまで我慢できたというのは奇跡に近い。あるいは、怒りが大きすぎて自分でも扱いかねていたのかもしれないが。
 ぶちぶちと今の体であるラジオが音を立てる。スパークする半導体は、自らの血管が千切れる音にも似ていた。
 兵長は支給品扱いだ。その体に能力を制限する刻印は刻まれていない。
 無論、制限は肉体に刻まれた刻印だけではないが――しかし、兵長が他の参加者に比べて本来に近い出力を出せるのは理屈であった。
 しかも、ここまで本気で力を使ったことは元の世界でも数えるほどしかない。
 酷使してきたこのラジオが保つかどうかは微妙なところではあったが、それでも。
『ミヤノとしずくの仇だ……!』
 手心を加える気など、一切ない。
 スピーカーが目視できるほど膨らみ、保護用に掛けられている金属製の網目がいくつかはちきれた。
 幽霊である兵長が放つ故か霊体にすら作用する、ただの物理現象に収まらない衝撃波。
 最大威力のそれが、開放される。

163 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:55:10 ID:Ob3uHk/A
◇◇◇

 内側から破壊の力を加えられた倉庫は盛大に弾け飛び、その破片をあちこちへと四散させた。
 しかし兵長の衝撃波は指向性を持ったものだ。倉庫全体が吹き飛んだのは、もともと大した造りではなかったのと、先ほどの竜巻で基部に致命的なダメージが与えられていたからに過ぎない。
 その衝撃波本体は木製の薄壁を貫通し、美姫を直撃していた。もとより、ラジオの兵長は外界を視覚で認識しているわけではない――かつては数両ほどを隔てて別車両にいるキーリを探し当てたほどだ。薄い木製の壁一枚くらい、認識の障害とは成り得ない。
 しかし、数千年を生きる妖姫がその程度の力で傷つくわけもなかった。
「おのれ。ちょこざいな真似を」
 並みの人間の体ならぐちゃぐちゃにしてしまう衝撃波をまるでそよ風でも浴びるように真正面から受け止め、むしろ飛び交う倉庫の破片と巻き起こる土埃が髪や体を汚すことの方に顔をしかめながら、全く焦る風なく美姫は呟く。
 しかし、すぐにその顔が憤怒に歪んだ。
 彼女の怒りを喚起させたのは、頬にかかる血液――衝撃波の直撃によってその身を切り裂かれたアシュラムの鮮血である。
「下級霊如きが! この誇り高き将を汚すことが叶うと思うてか!?」
『うるせえ! 知ったことか!』
 物怖じもせず叫び返す兵長――発射の際にダンボールから転げ落ちたらしく、憑依しているラジオはあわや分解寸前という状態だったが、すでに第二撃目が充填され、周囲にはポルターガイストによって建材の破片が大小いくつも浮かび上がっている。ラジオ自身もその騒霊現象によって浮かび上がり、銃口を突きつけるガンマンのように美姫に向かってスピーカーを構えていた。
『食らえ貴様っ!』
「失せよ!」
 二撃目を兵長が放つ――今度は間を隔てるものが無いため、威力も一射目とは比べ物にならない。
 対して、美姫がアシュラムを抱きかかえていた左腕を激情に任せて振るう――衣の裾が伸び、衝撃波とぶつかり合うような軌道を描いて、
 あっけなく、兵長の衝撃波を吹き散らした。
 のみだけに留まらず、裾は布らしいふわりとした動きで宙に浮いている兵長を包み込む。
『このっ……』
 完全に包まれる前に続けて衝撃波を放とうとするが、しかしそれは間に合わず。
 兵長を包んだ布が帯を結ぶようにきゅっと締まり、中心から小さな破砕音が響いた。
 布の隙間から、粉々になった半導体やスピーカー、選局のツマミといった部品が零れ落ちていく。
 長いこと憑依霊をしていた兵長はラジオの基盤に同調してしまっているため、ラジオの崩壊はそのまま兵長という存在の終焉を意味していた。
 ノイズで形成された軍服姿の中年男性像が半ば崩れ、その顔がくしゃりと歪み――
『へっ、ここまでか……だが、』
 にやりと、深い皺を刻んだ。
『貴様も道連れになるんだな。あの世でミヤノとしずくに詫びやがれ――なあ、世界の敵さんとやらよ?』
「何を……?」
 その台詞に美姫は訝るように眉を寄せ――
 そして、はっとして足元を見下ろした。
 あの死神の首をへし折らんと叩き付けた筈の爪先が――しかし空を切っていた。
 足と地面の間には、散らばった倉庫の破片以外には何も無い。
 そう――確かに地面に倒れ、そしてもう動けなかった筈のブギーポップが消失してしまっていたのである。
(奴は――?)

164 ◆5Mp/UnDTiI:2011/06/08(水) 21:56:27 ID:Ob3uHk/A
 ブギーポップ。その特異性は、さながら泡の如く『外側は確かに存在するのにその中身ががらんどうである』というような、一種の存在感の無さにある。
 それはあらゆる鼓動を探知する能力者や、魂のカタチを見る魔女、果てに遁甲の法すら軽がると破るこの妖姫でさえ見通すことはできなかった。
 そしてこの至近距離においても、死神は妖姫が兵長への怒りを募らせた瞬間――その感情の隙をついて、まさに自動的に標的の抹殺へと動き出していたのだ。
(私があの憑依霊に気を向けたあの時――あの時、何が起きていた?)
 その瞬間の光景を思い出す。ラジオは二度目の衝撃波を準備し、そしてその周囲には木の破片がいくつも浮遊して――
 ポルターガイスト。
 その言葉に思い当たった時には、すでにそいつは美姫の死角から最後の攻撃を放っていた。
 兵長の巻き起こしたポルターガイスト現象に移動を補助され、同じく騒霊現象によって宙を舞ったG-Sp2を手に。
 右足だけで渾身の踏み出しを行い、美姫の心臓を突き破らんと最速の突きを放つブギーポップが。
(これは――)
 遅い。満身創痍のブギーポップが放つそれは、制限があってもなお、平時の美姫ならば十分に対応できるものであった。
 だがタイミングが不味い。
 左腕は兵長を砕くために伸ばしきってしまっていた――怒りに任せて放った一撃だった為、これを引き戻すのは間に合わない。
 そしてもう片方の手は、未だアシュラムを貫いたままだ。
 こちらを使えば、槍は払える――槍は払えるが、
(黒衣の将の体を、引き裂かねばらならん――)
 美姫の行動を制限できる者は居ない。しかし、もし仮にそれが出来るとすればそれは美姫本人だけだろう。彼女の感情が、彼女の動きを止める。
 迷うように体が痙攣する。と、
 その振動に目を覚ましたかのように、それまで脱力していたアシュラムの両手が力強い動きを見せ、美姫の両肩を掴んだ。
 そのまま力を込め、美姫の耳元で囁くように顔を移動させる――
「……志、摩子のよ、うには、いかなか、った……姫、よ……俺では、貴女を救えぬ――」
 だが、とアシュラムは血の色に染まった吐息を歯列の隙間から洩らし、力強く、
「――絶望は、与えん!」
 放たれたその言葉に、美姫はさらに一瞬の躊躇を覚え――
 そしてその躊躇をすり抜けるように、ブギーポップは背後から美姫の左胸に神槍を叩き込んだ。


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