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尚六SS「永遠の行方」

1名無しさん:2007/09/22(土) 09:45:00
シリアス尚六ものです。オムニバス形式。

470永遠の行方「王と麒麟(114)」:2011/12/25(日) 11:33:26
「そうだな。しかし現実には、私欲から王位を簒奪しようとする者は絶えない。
今回の謀反人が仕えていた元・州候もそうだ。よほど王位に魅力を感じるのだ
ろう。だがそういう輩がうまく国を治められるとは思えぬし、治められねば
早々に国が荒れて殺されるしかないのだがな。おそらく普通に仙として王に仕
えていたほうが、よほど安らかに長生きできように」
 実際に宮城で働いているせいか実感のこもった言葉に、鳴賢も同意した。
「今回のことで、才の前王の遺言を思い出してさ」
「責難は成事にあらず、というあれか?」
 鳴賢は笑って、「打てば響くように返ってきたな。やっぱりあんたは高級官
吏だ」と言った。
「さっきの話にも通じるけど、王や麒麟に対して、本当にみんな自分とは切り
離して考えてるんだな、って思って」だが少し前までは鳴賢自身もそうだった
のだ。「国を富ませるのも荒らすのも王で、自分たちは関係ないって感じで。
国が富めば恩恵を受ける。荒れれば暮らしが苦しくなる。そういう単純な図式
しか俺たちの意識にないのはどうなんだろう。それに六太が言ってたけど、慶
じゃ登極したばかりで右も左もわからなかった予王に、官が冷たくて全然協力
しなかったって。でも国ってのは、頂点に王がいるにしても、みんなで治める
ものじゃないのか。でないとうまくいくものもうまくいかないのじゃないか。
なのに何で王にばかり責任をなすりつけるのかな、って。その前に自分たちが
すべきことをやっていたのかって。
 だから俺は今は勉強する。なぜなら学生だから。王を含めた誰かを責めるの
ではなく、そうやってまず自分の本分を尽くして――無事に卒業できたら玄英
宮に行ってさ、少しでも六太の役に立てたらいいなって。
 そりゃ、官吏になっちまったら宰輔と気安く話せるわけもない。けじめとい
うものは大事だし、万が一、六太が俺を重用してくれたら――そんなことはな
いだろうけど万が一――贔屓だの何だのと陰口をたたかれるのは目に見えてい
る。それじゃあ逆に六太の足を引っ張るだけだ。だから俺は、上に何のつなぎ
もないただの新米官吏として働くことになる。それでも王宮に出仕できさえす
れば、下っ端なりに国政に役立てると思うんだ」
「うむ。何よりその心根が六太は嬉しいと思うぞ」
 そう言った風漢のまなざしは穏やかで優しく、いたわりに満ちていた。

471名無しさん:2011/12/25(日) 11:39:21
今年の投下はここまでです。

さて今年は何かと大変な方々が多かったと思いますが、
皆さまにとって来年が少しでも良い年になればいいなと思います。

というわけで少し早いですが「良いお年を」。

472名無しさん:2012/01/20(金) 07:38:37
ぎゃーつ続きが( 〃Д〃)モェモェ
姐さん、遅れましたがあけおめことよろです!
ネズミも好きなんで、楽春の名前に舞い上がってます。続き待ってます!いつまでもー!

473永遠の行方「王と麒麟(115)」:2012/03/08(木) 20:23:13

 今回の件で陽子が雁に連絡を寄越すときは、小さな紙片に記した蓬莱文を青
鳥で運ぶ、これまでの六太とのやりとりを装う取り決めになっていた。慶の諸
官に知られないようにするにはそれが一番自然で容易だったからだ。むろん今
度は陽子は、尚隆のみならず彼の近臣に文面を見られることを承知しているだ
ろう。
 その日、六太宛に届いた青鳥の内容は簡潔で、現状および景麒が訪問して以
降の進展を尋ねるものであり、今回も大司馬が推薦した海客出身の軍吏に翻訳
させた。ほんの数行の原文に対し、書き上げられた文章はずっと多かった。訳
文のみ記した書面が一枚、さらに元の蓬莱文と訳文を併記し、相互に単語の意
味を照合できる形で仕上げた書類を添付していたからだ。これなら文意をねじ
まげるなどの捏造を施しにくいだけでなく、そういった作為による誤訳を発見
しやすくもなる。さらには蓬莱文の素養のない人間でも、原文をそのまま理解
する助けになる。おそらく尚隆なら、あと二、三度繰り返せば現代の蓬莱文を
読み下す要領をつかめるだろう。
 軍吏は最初に訳させたときも同じ形式を用いていたが、別に大司馬の指図が
あってのことではなかった。海客を信用しない者がいたとしても、誠意を疑わ
れぬよう、ひいては取り立ててくれた大司馬に害が及ばぬよう工夫したものら
しい。
「なるほど」
 訳文が記された書面を大司馬から受け取った尚隆はうなずいた。感心した様
子の主君に、請け負った大司馬も満足だった。
 文面には六太の現状を尋ねる言葉、当事者でもないのに催促するようで申し
訳ないという詫びの文言に続いて、少しでも進展があったら教えてほしい旨が
連ねてあった。さらに、何が手がかりになるかわからないとのことなので、自
分がこれまで六太と話した内容を少しずつ書き送る用意があるとも。
「六太は陽子と親しくやりとりしていたのだし、わざわざ手紙で言及すること
はなくとも、慶を訪問した折にでも普段と違うことを口にしたかも知れぬ」
「確かに」
「では陽子の政務に支障がない範囲で書き送ってもらうとするか」
「実は主上。この文を訳させた軍吏も、例の団欒所に顔を出していたそうで
す」

474永遠の行方「王と麒麟(116)」:2012/03/09(金) 21:52:57
「ほう?」
 尚隆が眉を上げると、大司馬は続けた。
「作業を任せる前に口止めをしたのみならず質問も禁じていましたので、その
者自身は余計な口を利かずに作業しておりました。しかしあれも海客です。何
か言いたそうにしておりましたので、ふと思いついて尋ねたところ――」
「六太を知っていたというわけか」
「はい。ただし年に二、三度顔を合わせれば良いほうだったとあって、たまに
団欒所に顔を出す少年が台輔だということは気づいていなかったそうです。今
回の件で景王からの親書に台輔のお名前があったため、そこで初めて『もし
や』と思ったとか」
 あごをなでた尚隆は考え深げに言った。「その程度であれば大した話はして
おらぬだろうが、念のため聴取はしておくことだ」
「ではさっそく」
 しばらくして大司馬は陽子宛の返信を預かり、大司馬府に戻っていった。

 朱衡のほうも、重用している下吏から団欒所での六太の様子について聞き出
していた。
 ただ以前、団欒所を訪れた際に彼が懲りた様子を見せていたためだろう、話
を振っても下吏は躊躇して、あまり詳細な話はしなかった。そこで数日挟んだ
のち、執務の休憩の折に再度言及したところで、ようやく本格的に話を始めた。
「しばらく台輔の意識が戻らないなら、代わりに海客のことを気にかけてさし
あげたほうが良いからね。それに台輔の意外な姿について聞くのはなかなか楽
しいことだとわかった」
 朱衡がそう言うと、下吏も納得した顔になった。そして自分が団欒所に行く
ことになった当初から順を追って話しはじめた。
「でも前にも言いましたけど、俺、全然台輔に気づかなかったんです。団欒所
には守真って中年の世話好きな女性がいましてね、もっぱらその人と話してい
たし、確か最初に見たとき、台輔は恂生っていうもっと若い海客と一緒に子供
を遊ばせてやっていたから。俺は守真から蓬莱のめずらしい話をいろいろ聞け
るのがおもしろくて何度か顔を出すようになって、そこで仕入れた四方山話を
大司寇にするようになったわけです」

475永遠の行方「王と麒麟(117)」:2012/03/09(金) 23:34:34
 団欒所には海客の楽器もいくつか置かれていた。三度目か四度目に訪れたと
き、関弓の幼い子供たちにせがまれた守真が、ピアノという楽器で童謡を弾き
だした。彼女に合わせて恂生も琵琶に似た楽器を弾き始め、そこへ顔を出した
六太が打楽器を合わせ始めた。ここに至って下吏は初めて六太を注視したの
だった。
「蓬莱の童謡ってのは本当に子供向けの他愛のない歌なんです。でも俺は詞も
知らなかったし、端っこで他の連中と話をしながら何となく聴いていただけで
す。そりゃ途中で、どっかで見たような顔が鼓を叩きはじめたなぁ、とは思い
ましたけど、離れていたしあまり気にしませんでした。大司寇をご案内したの
はその頃で、台輔だって言われて、もうびっくりですよ。でも確か、次に行っ
たときは台輔はおられませんでした。むろん大司寇に口止めされてたから、
こっちに気づかれたらまずいとは思ったんで、むしろ好都合でしたけど」
 そもそも団欒所の開放日は決まっているし、それなりに忙しい六太がいつも
顔を出せるはずもない。
 それから数ヶ月の間、下吏がそこで六太を見かけることはなかった。その間
彼は恂生と話すようになり、恂生が蓬莱で「バンド」という小さな楽隊に参加
していたことを聞いたのだった。
「なんか凄いんですよ。恂生は大学生だったって言ってたから、官吏になるつ
もりだったんでしょうが、蓬莱でも楽は高官の嗜みなんですかね。自分で詞を
書いたり曲を作ったりもするんだそうです。守真が弾く曲は童謡だったり、
『クラシック』っていう綺麗で落ち着いた曲だったりするんですが、恂生のは
全然違ってて。われわれの音楽に似たものがないんで説明が難しいんですが―
―あ、そうか、大司寇は一度お聴きになったんですよね。あれ、本当はうるさ
いだけじゃないんです、意外と奥が深くて、たとえば蓬莱でも若者なんかは既
成の概念や体制に対する怒りに似た反抗心を持っていて、その心情のひとつの
表現として――」
 どうやらこの下吏は海客の音楽がひどく気に入っているらしい。最初こそ話
すのも遠慮がちだったというのに、朱衡がほほえんで聞いているとだんだん口
調が熱を帯びてきた。そしてひとしきり拳を振り回すようにして蓬莱の音楽に
ついて熱く語ったあと、ようやく「あっ、すいません、つい」とあわてた顔で
言葉を切った。
「気にしなくていい、なかなか興をそそる話だ」

476永遠の行方「王と麒麟(118)」:2012/03/09(金) 23:55:08
 朱衡は笑いながら言った。実際、これまで六太の口から聞いた覚えのない内
容だけに興味深かった。
 彼は恐縮した相手を促して話を続けさせ、団欒所で下吏が守真や恂生から聞
いた六太の言動に耳を傾けた。そしてこれほど長くつきあいながら、今まで六
太のそんな面を知らなかったことを不思議に思い、おそらく尚隆も興味深く聞
くだろうと考えた。

「台輔は最初から蓬莱の音楽を好んでおられたわけではないでしょう」下吏か
ら聞き出した内容を報告した朱衡は最後に言った。「ただ、海客にこちらの言
葉を覚えさせるに良い手段だとひらめいたのだと思います。実際、旋律という
ものは耳に残ります。詞がついていれば一緒に覚えるでしょう。どうやら日常
生活で使われる頻度の高い語を選び出して詞に入れ、それに合わせた曲を海客
の青年に作らせて頻繁に歌わせることで、われわれの言葉を学ばせていたよう
です」
 内議の席にいた他の重臣のうち、大司馬もうなずいた。
「うちの海客の軍吏にも尋ねてみたが、実際に効果は上がっていたらしい。わ
れわれの言葉のみで詞を作ったり、はたまた蓬莱の言葉と交互に繰り返したり、
いろいろ種類があるようだ。単純に一から十まで数を追うだけの歌もあり、団
欒所に来た関弓の民もそれで片言の蓬莱語を覚えたという。かなり意思の疎通
に役立ったのではないかな」
「台輔は目のつけどころが違いますね」他の者も感心した様子だった。
「ただ密かにおやりになっていたことだけは不思議ですが」
 朱衡が首を傾げると、尚隆は「別に隠していたわけではあるまい」と笑った。
「おそらく遊びの延長で始めたのだろうし、あくまで趣味の範疇と思っていた
のだろう。しかし試みを始めたのが数年前でありながら、この短期間でかなり
の効果が上がっていたとすれば、いずれ何らかの形で大きく取り上げるつもり
だったのかも知れん」
「ああ、それもそうですね」
 件の下吏が語ったところによれば、六太は恂生にいくつかの蓬莱の楽器の手
ほどきを受けたらしい。ということは以前朱衡が言った「太鼓をぽこぽこ叩く
程度」ではなく、一応はそれなりに弾けたのだろう。少なくとも恂生や、たま
に加わる軍吏の華期と楽しく合奏したこともあるとの話だった。

477永遠の行方「王と麒麟(119)」:2012/03/14(水) 23:33:43
「俺が笛を吹くときはつまらなそうな顔をしておったのになあ。俺の腕前では
興味がわかなかったということか」
 尚隆が情けなさそうな顔で溜息をついたので、近臣らは笑いを漏らした。
 朱衡に続いて報告した大司馬は、六太は海客と作った歌を、子供らを含めた
関弓の民の前で歌うこともあったと告げた。新しく歌を作ったとき、守真や恂
生と交代で、あるいは一緒に披露したのだという。
「ほほう、それはそれは」
「あの台輔がねえ」
 少年の姿を留め、声変わりもしていない六太が、子供らの前で元気よく声を
張り上げて歌うさまを想像するのはほほえましいことだった。一から十まで数
える歌も、曲を作った海客らと一緒ににぎやかに披露し、関弓の民もそれを聞
きながら覚えて一緒に歌ったのかもしれない。尚隆も楽しそうに笑みを浮かべ
ながら報告を聞いていた。
「あら」
 ふと大司徒が眉根を寄せたので、他の者が「何か?」と尋ねた。大司徒は周
囲を見回しながら、おずおずと言った。
「あのう、思ったのですが、台輔は歌うたいになりたいとか――まさか、そう
いう夢をお持ちだったわけではない、ですよね……?」
 他の者は一瞬呆気に取られ、ついで吹き出した。
「まさか」
「あくまでお遊びでしょう。たまたま結果的に海客の役に立っただけで」
「はあ」
「だが――まあ……」
 ひとしきり笑ったあとで、彼らは真顔になって顔を見合わせた。
「可能性としては、なくもない、か……?」
「さ、さあ?」
 うーん、と真剣に考え込む。だがそれを見守る尚隆はと言えば気楽な顔で、
「なるほど、ありうるな」とおかしそうに笑っているだけだ。
「あ、そういえば」声を上げた朱衡に視線が集中する。
「大司寇、何か?」
「今、思い出したのですが、こんなことがありました。何十年も前のことです
が」

478永遠の行方「王と麒麟(120)」:2012/03/14(水) 23:40:02
 当時、朱衡の下吏がまだ私邸で奄をしていた頃、蓬莱から流れてきたらしい
雑貨を興味半分で買い求めたことがあった。その中に蓬莱の楽器を演奏する女
性をかたどった美しい陶器の置物があり、小さなものだったせいか状態が良く、
譲られた朱衡は私邸の片隅に飾っていたのだという。
「あるときたまたま台輔がそれをご覧になり、これはピアノという楽器だと説
明してくださいました。たいそう気に入ったご様子でしたので差し上げたとこ
ろ、しばらくして仁重殿に伺ったとき、件の置物が大切に飾られているのを拝
見いたしました」
「ほう」椅子の肘掛に頬杖をついて聞いていた尚隆も考え深げな声を漏らした。
「すっかり忘れておりましたが、普段あまり物に執着なさらない台輔にしては、
ずいぶんお気に召したようでした」
「なるほどな。いずれにせよ、あれが思ったより音楽に興味を引かれているこ
とはわかったわけだ。まったくそれならそれで、俺の笛にも多少なりとも関心
を持ってくれればいいものを」
 尚隆がふたたび情けない顔で「俺の立場がない」とぶつぶつ愚痴ったので、
近臣らからまた穏やかな笑いがこぼれた。いったん微妙に緊張した空気がほぐ
れ、なごんだ雰囲気の中で彼らはあれこれ語り合った。
「台輔が歌うたいになりたいという夢をお持ちだったか否かはさておき、お目
覚めにならなければかなうはずがない以上、少なくとも呪者が設定した解呪条
件ではありませんね」
「ま、いちおう詰めている冬官には伝えておきましょう。手がかりになるかも
しれませんから」
「しかし台輔も意外な面をお持ちだったわけですな」
「拙官も海客が作ったという歌に興味が湧いてきました」
「ええと、一から順に数える歌でしたか、いずれそれを歌っている台輔のご様
子を拝見したいものですね」
「そういえば台輔はあれで、たまに意外なものに関心を見せることはありまし
たな。厨房で粉がこねられて菓子が焼きあがるまでをじっと眺めていたり、工
人が殿閣を修理している様子を飽きもせずにごらんになっていたり」
「そうそう。時折、宮城のあちこちをうろちょろなさって」

479永遠の行方「王と麒麟(121)」:2012/03/14(水) 23:53:00
「外朝にある宿舎に御髪を隠して入りこみ、官吏の幼い子弟と遊んだりもして
いたそうですよ。台輔に拝謁のかなわない身分の者が多いため、いまだに台輔
の正体に気づいてはいないようですが」
 尚隆はこれらの話に興味深そうに耳を傾け、時折「ほう」と意外そうな声を
上げた。そして「それは知らなかった」とおかしそうに笑った。
「主上はさっさと関弓山を抜け出して下界に行っておしまいのことが多いです
から、確かにこういったことはあまりご存じなかったでしょうね」
 近臣らも笑いながら答え、ひとしきり、こんなことがあった、あんなことも
あった、という思い出話の花が咲いた。尚隆は穏やかに微笑したまま、時折
「そうか」と静かな相槌を打っていた。

 仁重殿を訪ねた尚隆は、笑顔で軽く手を振って女官らをさがらせた。牀榻に
足を踏み入れ、いつも黄医がかけている椅子に腰をおろす。
 表情に穏やかな微笑を留めたまま、彼はやがて静かに吐息を漏らした。眠る
半身にからかうような視線を投げ、口角を上げてにやりとする。
「――まったく」口の中でつぶやく。「何と言っても五百年だぞ。なのにそれ
だけ長い付き合いがある俺さえ、おまえの望みを知らぬ。おまけに関弓山内部
でのことに至っては、俺より他の者のほうがよく知っている。困ったことだ」
 そのまましばらく六太の寝顔を眺めていた彼は、ふたたび吐息をつくと言っ
た。
「別行動も多かったからな、逆におまえも俺について知らぬことは多かろう。
――そう、ひとり旅の途中、たまに奏国の太子と出会うことがあるのだが、他
の者に言ったことは一度もないゆえ、おそらくおまえも知らぬだろうな。街道
の奥まったところにある田舎に素朴な飯を食わせてくれる老人がいて、ここ二
十年ほどたまに訪ねて行くことも。その昔、碁石を集めていたことも、その理
由も――だがな」いったん言葉を切ってからまた続ける。「それでも俺は淋し
いぞ。これだけの歳月を過ごしながら、ただいたずらに時を重ねたに過ぎな
かったのか。互いに知らぬことばかりだが、そもそも相手のことを知りたいと
思うほど興味がなかったのか。生命を分けあっているはずの俺たちなのに、絆
と言えるものは何もなかったのか」
 それだけ言って尚隆は黙り込んだ。そうして長いこと経ってから微笑ととも
に繰り返した。「淋しいな」と。

480名無しさん:2012/03/14(水) 23:58:08
とりあえずここまで。
諸事情により、次回の投下まで少なくとも何ヶ月か開くと思います。

481名無しさん:2012/03/19(月) 00:25:54
姐さん乙です。
尚隆セツナス。
次回まで気長にお待ちしております。

482名無しさん:2012/04/10(火) 07:30:47
こまめに覗くものですねぇ!更新ありがとうございます!!唄うたいなロクタンもかわいいと思います。

483名無しさん:2012/06/10(日) 11:34:14
久しぶりにちょこっとだけ投下します。
なお次の投下は、前回以上に間が開くかもしれません。

484永遠の行方「王と麒麟(122)」:2012/06/10(日) 11:37:01

 控えめに叩かれた扉を開くと、鳴賢の房間の前に立っていたのは楽俊だった。
「よう。どうした」
 鳴賢が声をかけると、相手は「昨夜、風漢さまからいろいろ話を聞いたもん
でな」と言った。どきりとした鳴賢は「まあ入れよ」と中に招き入れた。
 楽俊に床机を勧め、向かい合って座ったところで尋ねる。
「いろいろって、どんなことを聞いた?」
「うん、たぶん――全部なんだろうな」
「全部……」
「謀反の経緯から台輔の現状まで。そりゃ、細かい部分ははしょってるんだろ
うが」
「そうか……」
 鳴賢はそう言って黙り込んだ。予期していたことではあったが、いざそうな
るとなかなか言葉が出てこなかった。
「大変だったんだな」
 いたわるようにぽつりと言われ、鳴賢はうなずいた。それでようやく、ずっ
と気になっていたことを確かめる気になった。
「文張、おまえ、六太の正体をずっと知っていたんだよな?」
「そうだ。ずっと黙ってて悪かった」
「いや、それは仕方がない。それに風漢が宮城に出仕している官吏だってこと
も知ってたんだよな? 道理でいつもあのふたりを丁寧に『さん』づけで呼ん
でたわけだ」
「すまねえ」楽俊はぺこりと頭を下げた。
「いいさ、おまえもいろいろ事情があったんだろうし。六太が台輔だってわ
かったとき、おまえも驚いたか?」
「いんや。何せ最初に会ったときから台輔だったからな」
「へ?」
「おいらが巧にいたとき、行き倒れてた海客の女の子を拾ったって話を覚えて
るか? 実を言うとな、その子を連れて雁に来たとき、いろいろ問題があって
主上におすがりしようってことになったんだ。そしたら風漢さまに会って玄英
宮に連れていかれて、そこでちょうど外出からお戻りになった台輔と会った」

485永遠の行方「王と麒麟(123)」:2012/06/10(日) 11:39:52
「へええ……」
 呆気に取られた鳴賢は、相手をまじまじと見つめた。風漢に対し「さん」で
はなく「さま」づけに変わったことも気づいたが、今までは風漢が国官だと知
らない自分たち相手に、やたらと敬意を表した言葉遣いにするわけにはいかな
かったのだろう。
「この大学を受験することができたのも、風漢さまのお計らいのおかげでな。
おいら、単に海客の女の子を拾って連れてきただけなのに、おふたりには感謝
してもしきれないほどの恩を受けてるんだ。台輔の頼まれごとをこなしてたら、
巧から母ちゃんを連れてくるための金まで用立ててくれて。本当に親切な方々
なんだよ」
「そうか……」
 何とかそれだけ言って鳴賢はふたたび黙り込んだ。言われてみれば、すべて
うなずけることばかりだった。
「おまえ、実はすごいやつだったんだな」
「別においらはすごくねえよ」
「いや、すごいよ。それに良い行ないをすれば報いがあるっていうけど、世の
中ってのは本当に善意が善意を生むんだな」
「そうじゃねえんだ」楽俊はちょっとしょげたふうに視線を落とした。「おい
ら、雁が海客を手厚く迎えてるって聞いてたから、その子を連れて行ったら、
もしかしたら褒美をもらえるんじゃないかと思ったんだ」
「それがどうした」いつになくしおれた様子に、鳴賢は思わず笑っていた。
「巧からはるばる危険を冒して海客の子を連れてきてやったんじゃないか。途
中、妖魔に襲われたこともあるとも言ってたろ。そりゃ、ちょっとくらいは見
返りを期待したにせよ、根本に善意がなきゃできないことだ。むしろおまえが
そうやって自分のことも考えてたとわかって嬉しいよ。究極のお人よしだと、
他人に騙されるだけだったりして危なっかしいからな。
 ――で。おまえも風漢に聞かれたんだよな? 六太の望みが何なのか」
「聞かれたはいいが、おいらも全然心当たりがねえ。そりゃ、多少は個人的な
ことも話したけど、何が好きだこれが好きだなんてたぐいの話には一回もなら
なかったからなあ」

486永遠の行方「王と麒麟(124)」:2012/06/10(日) 11:41:59
「確かに風漢もそんなようなことを言ってた。まあ、心当たりがないのは俺も
同じだしな」
 とはいえ鳴賢には少し気がかりなことがあった。今回の事件に関して詳細を
大司寇に報告し、その後で六太について知っていることを風漢に伝えはしたも
のの、あえて口にしなかった事柄もあるからだ。
 何年か前、六太が口にした片思いの話。そして暁紅の邸で託された王への伝
言。六太は決して、どちらも他人に明かされることを望むまいし、特に片思い
の件は誰にも話さないと鳴賢は約束していた。
 だが……。
「何ヶ月も台輔の姿を見ないとは思ってたんだが、あのかたは主上に命じられ
て密かに国外の様子を探りに行くこともあるから、今回もてっきりそれかと
思っていた。まさか呪をかけられて昏睡状態とは想像もしなかった」
「前代未聞の事件だからな……」
 彼らはひとしきり、謀反によって受けた驚きについて話した。その後、鳴賢
は風漢から頼まれていた内容を口にした。
「おまえに教えてもらった海客の団欒所、あそこに六太もよく行ってたんだ。
つまり海客たちは六太の正体を知らないながらも親しく接していたことになる。
それで俺が折を見て話を聞いてくることになった。風漢は関弓を歩いてあちこ
ちで聞き込みをしていたってのに、なんでか団欒所には足を向けていないらし
い。もっともいきなり訪れて六太のことを尋ねても不審がられるだけだろうけ
どな。ちなみに聞いてるかも知れないが、六太は養い親の官吏がいきなり地方
に異動になったんで、それにくっついていったことになってる」
「ああ、聞いた」
「大学で六太と話したことがある連中にも、雑談ついでにそれを伝えてさりげ
なく話を聞いたほうがいいだろうな」
「そうだな、おいらや鳴賢がいないところで台輔と話してたやつはいないだろ
うが、念のために。おいらのほうは母ちゃんに聞いてみる。あの人も台輔のこ
とを知ってるし、厨房の出入りの業者からかなり街の噂話を仕入れてるから、
何か手がかりをつかめるかも知れねえ」

487永遠の行方「王と麒麟(125)」:2012/06/10(日) 11:44:22
「おいおい」鳴賢はあわててたしなめた。「いくらおばさんが相手でも、やた
らと話をしたらまずいって」
「大丈夫だ。母ちゃんは台輔のご身分を伏せて話をするだろうし、風漢さまに
了解も得てる」
「そう……なのか?」
「ああ。だからやたらと話を広めるわけじゃねえ。安心してくれ」
 鳴賢は考え込んだ。楽俊が言うなら心配はいらないのだろうが、それでも不
安はぬぐえなかった。
 それからしばらく、ふたりは六太について友人たちに尋ねる際の口実を含め、
いろいろと打ち合わせした。楽俊が自分の房間に戻っていったあと、残された
鳴賢は、団欒所等で話を聞きまわるまでもなく宮城内での聴取で成果が現われ、
六太の目が覚めるようにと、真摯な思いで祈らずにはいられなかった。
 だがそれからさらに何度も風漢と話をする機会があったものの、鳴賢が待ち
わびている報せはなかなかもたらされなかった。いったい六太の一番の望みと
は何なのか、有用と思われる手がかりは宮城においても得られていなかったの
だ。
 そしてそのまま四ヶ月が過ぎ、五ヶ月、六ヶ月が過ぎても、状況は何も変わ
らなかった。季節はあっさりと夏を通り過ぎ、気づいたときには既に秋の気配
が立ちこめていた。

- 続く -

488名無しさん:2012/06/11(月) 20:50:14
更新嬉しいです。 バンザーイ。ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノ
楽俊可愛らしくて萌え萌え。

じりじりしながら次もお待ちしておりまする。

489名無しさん:2012/06/14(木) 01:03:45
お待ちしてました。
ろくたんの一番の望みを尚隆たちが知る時が楽しみ。

気長に待ってますので続きもまた時期がきたらお願いします。

490名無しさん:2012/06/27(水) 03:40:01
鳴賢と楽俊のシーンは、ほんとにわくわくします!
また鳴賢が真実に一歩近づいた…!
物語、ほんとに面白いです!更新有難うございます。

491名無しさん:2012/07/09(月) 19:25:22
いつもいつも待ってくださっていてありがとうございます。
既にかなり書いていたのですが、どうも踏ん切りがつかずに長らく保留にしてました(^^;
でも先日、久しぶりに最初から読み返したところ、
少なくとも致命的な矛盾はなさそうだとわかったので続きを投下します。
(随分たまってるけど、投稿間隔を2分空けないといけないのは大変なので少しずつ)

492永遠の行方「王と麒麟(126)」:2012/07/09(月) 19:41:50

 関弓から、何か進展したという報せはいまだもたらされていない。光州内で
の調査も、とうにし尽くした感がある。今日の執務を終えて自室に下がった帷
湍は、暮れなずむ窓の向こうを眺めながら、つい「くそっ」と悪態をついた。
 尚隆が呪の眠りに囚われたときも慄然としたが、六太が彼の身代わりになっ
たことを聞いたときは、それこそ世界が終わったかのような衝撃を受けた。
 なぜ六太が誘いだされる前に、謀反人の居場所を突きとめられなかったのか。
少なくとも晏暁紅を疑うだけでなく、早急に彼女の居場所を探すよう強く関弓
に進言すべきではなかったか。
 主と同様に怠け癖のある六太に激怒したことは数えきれないとはいえ、麒麟
の本質である彼の慈悲を疑ったことは一度もない。そもそも考えが回らないだ
けで、六太は基本的に善意に満ちている。奔放な主に影響を受けやすいのは
困ったことだが、莫迦な子ほど可愛いというか、宮城にいたときに六太に困ら
された幾多の思い出は、振り返ってみれば決して嫌なものではなかった。
 ――なのに。
 彼は煩悶のままに拳を握り締めた。
 謀反人から取り引きを持ちかけられた六太は、まったく躊躇せずに応じたと
いう。王の身を、ひいては雁を守るために身代わりとなった。何だかんだ言っ
ても、彼はやはり一国の宰相なのだ。
 翻って自分はどうか。
 発端は光州にありながら結局、帷湍はすべて後手に回っただけだった。関弓
を頼るばかりで、彼自身は何ひとつ解決できていない。いち早く晏暁紅が怪し
いと睨んだことも、六太が身代わりになったという事実の前には虚しいだけだ。
 そもそもどうして尚隆の求めに応じて彼を幇周に伴ってしまったのだろう。
何が起きようと主君だけは安全な場所にいてもらわねばならなかったのに。
 後悔してもしきれない帷湍だった。
 せめてこの不始末を少しでも償うために処罰を受けたいとさえ思うが、今の
ところ主君から何らかの咎を受けたわけではない。そのことで内朝の一部が不
満を覚えているのはわかっているので、普段以上に質素な生活を送って州城で
謹慎しているつもりだが、もともと州侯とは簡単に州城を出るものでもないの
だから、悔悟と恭順の気持ちを表わすのは主君に奏上した文だけだ。
 ――台輔の身代わりになれるものなら、すぐにでも関弓に赴くのに。
 そうは思っても、自分に王や麒麟のような価値はないこと、したがって最初
から謀反人の標的ではなかったのだろうことは重々承知の帷湍だった。

493永遠の行方「王と麒麟(127)」:2012/07/09(月) 21:10:57

 ごくわずかな緊張をはらみながらも、玄英宮の空気は奇妙な均衡が保たれて
いた。
 仁重殿の女官たちは毎日、朝が来ると主の臥室の窓を開けて光と風を入れ、
牀榻の扉を開ける。下界はとうに夏を過ぎて秋の装いを深めていたが、ここは
相変わらず花の楽園だった。宰輔の直轄地から納められた豊かな果物が、陶製
の大皿に山と盛られてみずみずしい芳香を放っている。
「おはようございます、台輔」
 彼女らは帳の奥でひっそりと横たわる主に声をかけた。被衫を脱がせると、
湯で絞った手巾で丹念に顔や体を拭いて手足をさする。ついで日課となってい
る黄医の診察を受けさせたあと、ゆったりとした服を着せて安楽な椅子に座ら
せ、長い髪をくしけずる。
 だがひとしきり主の世話をすると、もう女官たちは手持ち無沙汰になってし
まう。何しろ六太は基本的に飲食できないため、せいぜい果汁や水のような重
湯をごく少量飲ませるくらいで、通常の献立を用意する必要はない。政務も執
れないから装束を調えて広徳殿へ送り出したり帰りを迎えたりすることもない
し、話し相手になったり散歩につきあうこともない。それでいて所属の人員が
減らされたわけでもないので、少々の雑事は簡単に済んでしまう。以前のよう
なめりはりの効いた忙しさはなく、女官たちは終日時間をもてあますことに
なった。
「なんだか最近は、下吏もわたしたちとまともに目を合わせない感じじゃあり
ません? 腫れものに触るような扱いというか……」
「本当にねえ。まるで仁重殿だけが過去に置き去りにされていくよう」
 心地よい風の通る露台で紗の天蓋をしつらえ、その下に六太を座らせたあと、
彼女たちは自然と愚痴めいた言葉を交わした。六太の望みがかなえば目覚める
かもと、その可能性に望みをいだいているものの、話を聞いた諸官は大抵疑わ
しくも気の毒そうな目を向けるばかり。それでも必死に情報を集めて解呪を担
当している冬官に伝え、自分たちでも試行錯誤しているが、六太が目覚める気
配はなかった。

494永遠の行方「王と麒麟(128)」:2012/07/09(月) 21:31:09
「他のかたがたは台輔が心配ではないのかしら? 主上は毎日のようにお見舞
いにいらしてくださるのに、諸官の訪問は間遠になるばかりではありません
か」
「確かに台輔のご様子は変わりませんが、それならそれで日課としてお見舞い
に参上してくださってもいいのに」
「いくらお命に別状がないと言ってもねえ」
「そりゃあ、主上がご健勝なのは喜ばしいことですが」
 しかしながら状況に変化がなく緊急性もないとなれば、四六時中緊張してい
るわけにはいかない。六太の安全さえ確保したなら、とりあえずそっとしてお
くしかなく、彼女たちもそれは理解していた。だがそれと、見通しの立たない
日々の中で精神的に消耗していくのは別問題だ。
「諸官は少しのんびりしすぎているんじゃありませんこと? これでは、あっ
という間に一年が経ってしまいます」
「特に靖州府の官。台輔の下でのお勤めだというのに薄情です」
「こちらの官に比べ、お忙しい合間を縫って青鳥をくださる景王のほうが、よ
ほど心配してくださっていますわ」
「それは――さすがに言いすぎでしょう」
 ふと官位が上の女官がたしなめたので、注意を受けた女官ははっとなった。
「皆さんが台輔を案じる気持ちはわかりますが、台輔の御前です。あまり聞き
苦しいことを口になさいませんよう」
「も、申し訳ありません」
「それよりもっと楽しいことを考えましょう。そうそう、楽士を手配していた
だく件、大宗伯が了承してくださったそうです。これで毎日、台輔に美しい楽
の音をお聞かせできますね。むろん台輔も馴染んでおられたという海客の楽曲
とは異なるでしょうが、あれは騒々しくて聞き苦しいとのもっぱらの噂ですか
らね。今の台輔には静かで綺麗な曲がふさわしいと思います」
「きっとお気持ちが安らぎますわ」
「それから先ほど、新しくお作りするお被衫の生地の見本が届きました。今の
ものよりずっと柔らかくて肌触りも良く――」
 彼女らは気持ちを切り替え、六太に日々を気持ちよく過ごしてもらうための
話し合いをはじめた。

495永遠の行方「王と麒麟(129)」:2012/07/09(月) 22:52:00

 ある日の午後、陽子は地官府から上がってきた書類を検分していた。民が要
望している新しい作物の一覧だ。
 路木に願えるのは王だけだが、どのような作物を願うかをすべて陽子ひとり
で考えられるはずもない。それらはたいてい下の官府から順次要望が上がって
きて、途中で取捨選択されつつ、最終的に王の元に来ることになっている。陽
子の仕事はそれらを承認するか差し戻すかし、さらには承認した作物を儀典に
則って路木に祈願することだった。
 休憩のために茶を煎れてもらって一息入れた陽子は、書類を持参した浩瀚の
おとないを受けたとき、少し考えてから他の官を下がらせた。ひとり残った浩
瀚が「内密の話でも?」と尋ねてきた。
「うん。なかなか雁から良い報せが来ないなと思って」
「延台輔のことですね」
「あれからもう何ヶ月も経っているのに」
「それは仕方がないかと。もともと難しい状況です。口に出さずとも、延王も
長期戦を覚悟されているはずですよ」
「やはりそうなんだろうか」
 陽子は考え込んだ。正直なところ彼女自身はそこまで厳しい見通しを立てて
いたわけではなかった。最初に報せを受けたときは多大な衝撃に打たれたが、
何しろ大国雁は百戦錬磨の延王を戴いている。当初は難儀したとしても、さほ
ど経ずして解決の報せがもたらされるのではとの期待を持っていたのだ。
 彼女は「延王は強いな……」とぽつりとつぶやいた。
「この新しい作物に関する書類を見て延麒のことを思い出したんだ。これまで
彼とはいろいろなことを話したけれど、政務についても相談したことがある。
そのときは蓬莱の物ややりかたをうまく取り入れられないかと思って。わたし
が一番良く知っている世界だから」
「蓬莱の物と言っても、簡単に持ってこられるわけではありませんが」
「うん。だから延麒も物品ではなく、知識とかそういう無形のもので役立つ内
容を考えたほうがいいと助言してくれた。路木に願う作物とか。実際には結局
こうして官府から上がってくる作物を願うだけだけれど。

496永遠の行方「王と麒麟(130)」:2012/07/10(火) 20:06:09
 そういえば浩瀚は、蓬莱には里木も路木もないって知ってる?」
「はい。あちらでは子は男女の交渉によって女の腹にできるもので、両親の形
質を均等に受け継ぐとか。そのため兄弟姉妹を始めとして、縁者は容姿が似る
と聞いています。正直に申せば少々気味が悪い気がしないでもありませんが」
 浩瀚の弁に、雁にいる友人を思い出した陽子はくすりと笑った。
「里木や路木に慣れているとそう感じるんだろうな。あちらは出生を管理する
者もおらず、その意味ではまったくもって無秩序な世界だし」
「しかし人に限らず、動物も植物も雌雄が交わることで両親の形質を受け継く
子孫ができるとなれば、確かに里木も路木も不要ですね。ある望ましい性質を
持つ動植物が欲しい場合、それに近い性質の雌雄をかけあわせればいいので
しょう?」
「そうなるな。実際にはそういう品種改良も、簡単に望ましい性質が現われる
とは限らないので大変らしいけど。もちろん人の手でかけあわせずとも、子が
普通に両親の形質を継ぐ以上、自然と子孫は変異していく。それが長く続くと、
まったく別の種に思えるくらい先祖と違った子孫ができるんだ。たとえば蓬莱
にはいろいろな種類の犬がいて、大きさもさまざまなら毛足の長さもさまざま、
性格もおっとりしていたり逆に攻撃的だったりする。そういうのも長い間品種
改良を重ねた結果らしい。こちらでも植物なら、野木に新しい種類の種が生る
ことはあると聞いたけど」
「それでも滅多にないことです。それゆえ新しい植物を見つけることを生業と
する猟木師は、横取りされないよう相当神経質になります。とはいえ穀物に限
るなら、新しい種は路木にしか生りません」
「穀物か……。そうだな、小麦についてはよく知らないけど、米なら蓬莱はた
くさん種類があったよ。寒さに強かったり害虫に強かったり収穫量が多かった
り。味が良かったり香りが良かったり……。そういえば果物も、林檎なんか色
からして相当バリエーションがあったな。味も酸味が強かったり甘かったり
さっぱりしてたりで」
 陽子が懐かしそうに語る傍らで、浩瀚は「寒さや害虫に強いというのはいい
ですね」とにっこりした。

497永遠の行方「王と麒麟(131)」:2012/07/10(火) 20:17:32
「こっちにはそういう特徴を持つ品種はないんだろうか?」
「拙官も詳しいわけではありませんが、民が苦労している作物があるかもしれ
ませんね。いくら主上のおかげで天候が安定しても、もともとの性質として育
てにくいとか育てやすいといった特徴はありますから。そろそろ農地の状況も
改善してきたことですし、主食である穀類の生産量を上げるためにも、民の声
を吸いあげて新しい小麦や米を願っていただくのも良いかもしれません」
「品種のバリエーションを増やすこと自体はいいと思うんだ。怖いのは、何か
予想外のことが起きたときに、それに弱い同形質の作物がすべてだめになるこ
とだから。そんなとき作物の特徴が異なれば、少なくとも全滅はしないだろう。
そう――路木に願って済むことならいくらでもやるから、民が望む作物があれ
ば、これからはいったん地官府で吟味したりせずに無条件で要望を上げてほし
いな。結果的にもし新しい種が不評だったとしても、民が植えなくなるだけか
ら自然と淘汰されるだろう。それくらいは大したことじゃない。あるいは慶で
不評だったとしても気候や土壌の違う他国なら種をほしがって高く売れるかも
しれない」
「しかし……」
「なんだ?」
「天帝がお聞き届けくださるかどうかにかかっているとはいえ、あまり主上が
路木を安売りなさると、民の間で軽んじる空気も出かねませんが」
 慎重な意見を述べた浩瀚に、陽子は朗らかに笑った。
「いいじゃないか、それくらい。蓬莱と違って品種改良は王の肩にかかってい
るんだぞ。取りまとめる官も大変だろうから優先順位はつけるつもりだが、何
より民の暮らしを少しでも良くすることが大事だろう。それに比べれば王や宮
城の体面などどうでもいい。むしろ民が気軽にいろいろな案を出してくれるよ
うになるほうが好ましいじゃないか」
 単に延麒を心配する話から、思いがけず意欲的な話題になって陽子は嬉し
かった。こちらに来て極貧の生活を経験したとはいえ、蓬莱で培われたもとも
との味覚で判断すれば、民が日々食するものはさほど美味とは言えず、献立も
単調にすぎた。おまけに慶はまだまだ国全体が貧しい上に収穫量が絶対的に不
足している。陽子は何とかして、人々がおいしいものを腹いっぱい食べられる
国にしたかった。

498永遠の行方「王と麒麟(132)」:2012/07/10(火) 21:24:13
「それにしても主上は景台輔ではなく延台輔に相談なさったのですね」
 ふと指摘され、陽子は「あ、うん、まあ……」と言葉を濁して苦笑いした。
そうして、景麒には内緒にしてくれよ、と浩瀚を軽く拝む仕草をした。
「別に景麒をないがしろにしたわけじゃない。ただやはり軽々しく蓬莱の話題
を出すものではないだろうと思ったんだ。わたしは今ではこの国の王なのだし、
景麒に限らず、いつまでもあちらに囚われているように思われるのは本意では
ないから。ただ蓬莱は自分がよく知る世界で、こちらにはない便利なものや優
れた技術があるのは事実なので、わたしの少ない知識でも国政に役立てられる
かもと単純に考えただけなんだ。そして延麒は蓬莱の事情にも詳しいから、何
か有益な助言をもらえればと。それでも耳にすれば不快に思う人はいるだろう
から、日頃はあまり口にしないようにしている」
「確かに安易に話題になさることではありませんね。賢明なご判断だと思いま
す」
「もっとも延麒に相談したのは、わたしの甘えもあるんだけどね。彼なら蓬莱
の事情に詳しいから、予備的な説明をせずともすんなり話が通じてやりやすい
んだ。でもこれも景麒に言うことじゃないだろう」
「それは――そうですが」
 眉をひそめた浩瀚に、陽子は先回りして「わかってる」と笑った。
「そんなことをしていたら景麒とぎくしゃくしかねないってことは。でもこれ
でもあいつとは、少しずつ互いに理解を深めてはいるんだ」
「ならば良いのですが」
「そういえば延麒に、碁を覚えて景麒と打ったらどうかとも勧められたっけ。
蓬莱にも碁はあるけど、こちらでは教養のひとつなんだって?」
「ああ、蓬莱にもあるのですね。そうです。しかし主上は嗜まれないのですか。
あれは単純でいて奥の深い遊戯ですから、おもしろい上に気分転換にもなりま
すよ」
「そうらしいな。延麒には無理に話題を見つけずとも、碁盤を挟んで勝負をす
れば自然と相手に親しむものだと言われた。実際、延麒は延王とも碁を打つこ
とがあるらしい。あれで延王は弱くて、延麒はこれまで全戦全勝らしいよ。ふ
ふ、わたしも碁なら延王に勝てるのかな」

499永遠の行方「王と麒麟(133)」:2012/07/10(火) 21:49:53
「拙官の官邸や私邸にも碁盤を備えてございます。正寝にもどこかにしまいこ
まれているはずです。昔、螺鈿の細工が施された見事な碁盤を拝見した覚えが
ありますから。よろしければあとで少しお教えしましょうか? 規則自体は子
供でもすぐ覚えられるほど単純ですから、基本さえ押さえれば、折に触れて女
官を相手に腕を磨けばよろしいかと」
「そうだな。それもいいかもしれない。ところで景麒のほうは碁を知っている
んだろうか? あいつが碁盤の前に座っている姿はあまりイメージできないけ
ど」
「さあ……。伺ったことはありませんが、どうでしょう」
「何なら浩瀚から教えてもらったあと、わたしがあいつに教えればいいか」
「それもよろしいですね。何にしても碁は性格がでますよ。台輔がどんな碁を
打つのか、拙官も興味があります。それに一局打つのにそこそこ時間がかかり
ますから、確かに相手と親しむには良いでしょう。延台輔のお勧めは悪くない
ように存じます」
「うん。延麒も延王と同じで、一見でたらめなようでも考えるべきことはきち
んと考えているんだよな。碁を覚えて、いずれ延麒の意識が戻ったら対局をお
願いしてみようかな」
「延台輔も喜ばれるでしょう」
「他にもいろいろ提案されたけど、碁以外はなじみがなかったから覚えていな
いな。彼は――延王もそうかもしれないけど、遊びごとには詳しいらしい。あ
れでけっこう趣味人なのかも。そういえば前に雁に招かれたとき、延麒に案内
されて国府にあった海客の団欒所とかいう場所に行ったことがある。蓬莱の楽
器がいろいろ置いてあって、延麒と一緒にピアノを演奏したっけ。あれは楽し
かったなあ」
 そのとき六太は、尚隆も笛を吹いたり舞を舞ったりすると言っていた。それ
を思い出した陽子は、やはり雁の主従はいいコンビなのだろうとつくづく思う
のだった。
「ほほう、蓬莱の楽器、ですか」

500永遠の行方「王と麒麟(134)」:2012/07/10(火) 22:52:55
「うん。雁は海客を歓迎しているから、そういうものも積極的に集めているの
かもしれない。なじみ深い楽曲を聞くと、それだけで気持ちが安定するものだ
し、そうやって海客が国になじむ手助けをしているんだろう」
「蓬莱の楽曲は、われわれのものとはかなり違うという話を聞いたことはあり
ます」
「音階もリズムも違うからね、どうしても聞いた印象が変わってくる。もちろ
ん音楽は生きるために必須のものではないけれど、海客にとって一番つらいの
はむしろ、そういうちょっとした――それでいて決定的な文化の違いなんだ。
だから蓬莱のものを真似た楽器を目にしたり楽曲を聴くのは、精神の安定に役
立つと思う。雁では海客は三年間は援助されるから、単に命をつなぐだけなら
難しいことはない。でも人間ってそれだけで生きられるものではないだろう。
食べものにしてもそうだ。たとえどんなにおいしいものを食べても、時には故
郷の素朴な味が恋しくてたまらなくなるときがある。思えば登極前、雁に助け
を求めて玄英宮に滞在していたとき、何品か蓬莱ふうの料理が出されたことが
あるけど、あれも気を遣ってくれた結果だったのかも」
 目を細めて懐かしそうに語った陽子は、しばらくいたずらに手元の書類を
繰ったあと、不意に「そうだ」と声を上げた。
「何か?」
「これでも料理は得意だったんだ、母にいろいろ仕込まれたから。そのうち気
分転換がてら、皆に料理をふるまいたいな。小麦粉や卵、砂糖はあるわけだか
ら、簡単なお菓子も作れるだろう。クッキーやホットケーキ程度なら簡単そう
だ。ドーナツなんかもいいな。卵を使わない生地を作れば景麒にも食べさせら
れるし」
「主上のお手製の料理ですか。もったいなくも楽しみです」
「浩瀚は――さすがに料理はしないか」
「残念ながら」
 浩瀚はほほえみ、ひとしきり歓談したふたりはやがて政務の話に戻ったの
だった。

501永遠の行方「王と麒麟(135)」:2012/07/11(水) 21:41:49

 大学で行なわれた各種試験が終わり、提出する論文のめどもついた鳴賢は、
久しぶりに団欒所に赴いた。今度こそ卒業したいと必死に頑張ったものの、既
に卒業が確実視されている楽俊と違って感触はよくない。それでも何とかふた
つの允許を得る見通しは立ったため、少なからずほっとしていた。
「へえ……。六太って官吏の養子だったんだ……?」
 恂生は、彼を手伝いがてら鳴賢が六太のことに言及すると、驚きではなく当
惑の面持ちになった。何か不自然だったろうかと心配になった鳴賢だが、楽俊
に確認したかぎり六太はほとんど自分について話していないはずだし、この設
定で通すしかないのだ。不思議そうな顔を作り、こう尋ねてみた。
「長い付き合いらしいのに知らなかったのか? だいたいそんなに意外か? 
官吏じゃないのに仙だったら、普通は官吏の身内に決まってるだろう」
「あ、いや。――うん、そうか。養い親にくっついて他州に行ったのか」
「でも一時的なものらしいから、いずれは戻ってくるんじゃないか」
「ふうん……。しかしそうなると残念だな。六太がいないとここも淋しくなる」
「仕方ないさ。官吏なんてのは出世したければ命令ひとつでどこへでも行かさ
れることを覚悟しなきゃいけないんだから。もちろん急なことだったから、六
太も皆に挨拶できなかったことを残念がっていたらしい。俺も後になって知り
合いの官吏に聞かされたくらいだ。そのうち落ち着いたら手紙でもくれるん
じゃないか」
 鳴賢は何気なさそうに答えてから目の前に置いた板に集中し、大きく「海客
団集室」の文字を書いた。ついで紙に今月と来月の開放日の予定と、誰でも気
軽に訪ねてほしい旨の告知文を書く。板は扁額として入口に掲げ、紙はその下
に掲示することになっていた。
 国官を目指すくらいだから鳴賢は筆跡には自信がある。黒々とした墨で鮮や
かに書き上げられたそれは堂々としていて、掲示を提案した鳴賢自身も満足し
た。
「こんな感じでどうかな」
「うん、すごい。格好いいな。俺なんかいまだに筆の扱いに苦労しているから、
そうやって一発で書かれると尊敬する」

502永遠の行方「王と麒麟(136)」:2012/07/11(水) 21:52:08
 恂生はそう褒めてから振り向き、少し離れたところで談笑しながら人形を
作っていた女性たちに大声を張り上げた。
「守真、この板はしばらく置いたままにして墨を乾かすから触らないで。あと、
催しの詳細は日時が確定してから書くってことでいいよな」
「ええ、それでお願いするわ」
 作りかけの素朴な人形を軽く掲げながら、一団の中にいた守真が笑顔を返し
た。
 絵師を手配できれば紙芝居をやりたいところだったが、残念ながら適当な人
物に心当たりがなかった。そこで頭をひねったところ、簡単な人形を作って人
形劇をしたらどうかとの守真の思いつきが出て皆で形にしているところだった。
確かにいくら語りに合わせて情景を差し替えるとしても、静的な絵を見せるよ
り、人形で動きのある場面を演出したほうが幼い子供などには受けやすいだろ
う。
 女性の一団にはめずらしいことに緑の髪の胎果の少女もいて、関弓の民と並
んで黙々と針を進めていた。守真はその彼女をちらりと見てから恂生に言った。
「区切りがついたのなら、悠子ちゃんが書いた脚本をまた見てあげてくれる?
 せっかくだから鳴賢も意見を聞かせてちょうだい」
 無造作に片手を上げて「おー」と応えた恂生は、そのまま鳴賢を手招きしな
がら守真たちに歩み寄った。
「ところで知ってた? 今鳴賢に聞いたんだけど、六太が養い親の官吏にくっ
ついて地方州に引越しちゃったんだって。要は転勤。ずいぶん急だけどしばら
く戻ってこれないらしい」
「えっ……」
 目を丸くした守真は針を持つ手を止めてこちらを凝視した。ぱちぱちとまば
たいた彼女はしばらく何も言葉を口にしなかったが、やがて傍らの悠子に話し
かけた。
「大変、六太の親御さんが急に地方に転勤になって、あの子もついていったん
ですって。もう当分会えないってことだわ」
 なぜ恂生が言ったのと同じような説明を繰り返すのだろうと不思議に思った
鳴賢だが、緑の髪の娘はまだこちらの言葉に難儀しているのかもしれないと思
い当たった。恂生と違って守真は仙だから、彼女が話せばここにいる誰に対し
ても言葉が通じる。

503永遠の行方「王と麒麟(137)」:2012/07/11(水) 23:01:21
 ぱっと顔を上げた悠子は、明らかな驚愕の声を上げて守真を凝視した。それ
から一言二言口にしたが鳴賢には聞き取れず、守真が優しくたしなめた。
「結局あれから口を利いていないの? 困った子ねえ。こっちには電話っても
のがないんだから、どちらかが引越しちゃったらそう簡単に謝れないわよ? 
手紙だって気軽にやりとりできるとはかぎらないんだし」
 鳴賢は恂生の袖を引き、小声で「六太と何かあったのか?」と尋ねてみた。
恂生は困ったような笑みを浮かべて教えてくれた。
「別に仲たがいをしたわけじゃない。去年の年末あたりだったか、六太が言っ
たささいなことで悠子がつっかかってね。いつものことだから六太のほうは適
当に受け流していたけど、悠子が勝手にへそを曲げて口を利かなかったんだ。
でも六太はしばらくここに来ていないから、それから会ってないだろうな。と
なるとそのまま引っ越されたんじゃ寝覚めは悪いだろう?」
「なるほど」
 ここで口論の原因を聞くことでもないので、あとできちんと教えてもらおう
と心に留める。六太に関わることなら何でも手がかりになる可能性がある。
 悠子が書いたという話は三本あり、鳴賢は彼女と恂生と一緒に少し離れた場
所に椅子を移動した。粗末な紙に書かれた物語は蓬莱語だったため、一部にあ
らすじ程度の大雑把な部分が残っているそれを恂生が読みあげて鳴賢に聞かせ
た。
 一本は東海に棲む美しい竜王公主の恋物語だったが、展開そのものはわかり
やすくて幼い子供でも楽しめそうだった。残りの二本は、病気がちの母親のた
めに山に希少な薬草を探しに行く兄妹の冒険譚と、横暴な領主が次々に出す難
題を、めんどりや穴熊といった動物たちと協力して解決していく腕白少年の滑
稽譚。聞けば守真や恂生の意見を取り入れて既に二回ほど手直しをしているら
しいのだが、正直なところこの娘に何かの才があるとは思ってもみなかった鳴
賢は驚いた。
 恂生が鳴賢に「どう?」と尋ねる。
「飽きが来ないよう、全部異なる傾向の話にしてもらったんだ。それと楽しい
気持ちになってもらいたいから、どれもめでたしめでたしで終わるようになっ
てる。説教くさい展開もない」
「うん、おもしろい。すごいな、まるで講談を聞いているようだ。おまけに初
めて聞く物語だから新鮮だ」

504永遠の行方「王と麒麟(138)」:2012/07/11(水) 23:09:17
 鳴賢は正直に認めた。それを通訳したのだろう、恂生が蓬莱語で話しかける
と、それまで一度たりともまともに鳴賢を見たことのなかった娘がびっくりし
た目を向けてきた。そういえば大して会ったことがあるわけではないにしろ、
この娘が少しでも笑ったり明るい表情をしたところを見たことはなかったな、
と鳴賢は気がついた。
「特に最後の話、お節介なめんどりとひょうきんな穴熊のやりとりが滑稽でい
い。それと領主が本当に憎らしいから、大言壮語を吐いて窮地に追い込まれた
ように見えながら、その都度切り抜ける少年も気分がいいな」
「うん、ハラハラドキドキするだろう?」
「ところでその話は架空の国での出来事ってなってるけど」
「ああ、それも天帝が世界を作り直す前の時代にしてある。何しろ領主が悪役
だからね、万が一それをお上への批判にすりかえられたら大変だ」
 おどけるように肩をすくめた恂生に、鳴賢は理解とともにうなずいた。悠子
自身が配慮したにせよ守真か恂生が助言したにせよ、ちゃんと考えられている
のだ。
「すごくおもしろい」
 これくらいは聞き取れるだろうと娘に簡単な言葉をかけると、相手は戸惑っ
た表情ながらもおずおずと会釈してきた。
「ところでこれって見料を取らないのか?」
「え? 無料だよ、もちろん。単にここに集まって楽しんでもらいたいだけで、
商売するつもりはないから」
「それはもったいないな」
「食うに困っているわけじゃないから。そもそもこうしてここで関弓の民と歓
談するのも、互いに親しむのが目的だし、欲を出すと却って厄介ごとを招きか
ねないよ。他の海客にも影響があることなんだから、無欲が一番だ。それに小
金を稼げなくても、楽しんでもらえたら充分やりがいがある。関弓のような大
きな街でさえ、普通の民が楽しめる娯楽は限られているからね」
「それでも目に見える形で報酬があると、意欲が違うと思うんだがなぁ。たと
えお茶代程度だとしても」
 恂生が悠子に一言二言言い、娘は相変わらず戸惑いながらも再度鳴賢に軽く
頭を下げた。見料のことを口にしたため、彼女の物語にそれだけの価値はある
とでも伝えられたのだろう。

505永遠の行方「王と麒麟(139)」:2012/07/11(水) 23:26:01
 その話はそこで切り上げ、さらにしばらく内容を検討したあと休憩すること
になった。守真らがいる場所に椅子を戻して一緒にお茶をすする。
 鳴賢が話題を向けるまでもなく、守真が六太についてあれこれ尋ねてきたの
で、問われるままに話をした。その後、鳴賢が手紙を書いて知り合いの官吏に
託し、届けてもらうつもりだと告げ、ついでに六太の好きなものがあれば送っ
てやりたいと口にすると、好きな菓子やら親しくしていた人の噂話やらが出て
きた。その延長で悠子との口喧嘩について尋ねたところ、こういうことだった。
 あるとき六太が彼女に、淋しいときは太い木の幹に抱きつくと安心できると
教えたのだという。それを悠子は「莫迦じゃないの、あんた」と一刀両断、し
かしめげない六太は「そうなんだけど、意外に落ち着くんだ」と答えたらしい。
「落ち葉の中に潜り込んで寝たりとかさ。それに相手が木なら、誰にも気づか
れないですむぞ」
 ふたりが何を話してそんな話題になったせよ、六太としては相手を慰撫する
つもりだったのだろう。しかし悠子は逆に莫迦にされたと怒ったらしい。確か
に木に抱きつけだの落葉の中で寝ろだの、突拍子もないことのように思えた、
が。
「実は俺、この間試してみたんだ。六太が根拠のないことを言うとは思えな
かったから」
 と恂生。隣町に行く用事ができたとき、途中で立派な大木を見つけ、ふと六
太の言葉を思い出して抱きついてみたのだという。
「そうしたら不思議なんだけど、確かにちょっと気持ちが安らぐ気がしたな」
「へえ……」鳴賢は驚いた。
「ついでに木の根元で仰向けになって体に落葉をかけてみたら、なんていうか
大地に抱かれているような気持ちになってさ。あれもなかなか悪くなかった」
「ほら、六太はあなたを莫迦にしたわけじゃないし、いい加減なことを言った
わけでもなかったのよ」
 うつむいた悠子に守真はそう励ましてから、恂生に「わたしもそのうち試し
てみようかしら」と笑顔を向けた。そして「そんな助言ができるなんて、六太
も淋しいときがあったのかしらね」と続けたので、鳴賢はどきりとした。
「気持ちを落ち着けたくて、木に抱きついたりしてみたのかしら。恂生は聞い
たことある?」

506永遠の行方「王と麒麟(140)」:2012/07/11(水) 23:34:11
「誰かに教えてもらったのかもしれない。それともたまたま遊びでそうやって
みたら気分が良かったのを覚えていたとか」
「気楽そうに見えたけど、あの子もあれでいろいろあるのかもしれない。引越
し先でも元気にしていればいいんだけど。そうね、わたしもぜひ手紙を書きた
いわ。宛先がわからないから鳴賢に頼んでもいい?」
「ああ、いいですよ。六太のことを知らせてくれた官吏に一緒に送ってもらい
ます」
 それから人形劇の話に戻り、この際、観客のための榻やら上に置く靠枕やら
も自分たちで新しく作ろうかという話になっていった。

 玄英宮では静かな日々が続いていた。主君が昏睡に陥っていたときと異なり、
どこか淀んだものが鬱屈して爆発を待っているといった緊張感もない。常であ
れば不在がちな主君もほとんど宮城を空けることなく、聞きこみのために関弓
に降りても、一、二刻で戻ってくる。おかげで書類がたまることもなく政務は
円滑に回っていた。六太に関する懸念さえなければ、何事もなかったかのよう
な毎日。
「大司寇、たまには夕餉でも一緒にいかがですか。銘酒を手に入れましたので、
ぜひ一献」
 そう言って冢宰白沢に誘われた朱衡は、「喜んで」と応じて相手の私邸に出
向いた。
「こちらにお越しになるのは久しぶりですね」
「確か昨春の梅見に伺ったきりですから。官邸にはたまにお邪魔していました
が」
「今年は梅見どころではありませんでしたな」
 そんな言葉をにこやかに交わしながら、白沢は朱衡に料理と酒を勧めた。ひ
としきり歓談したあと、白沢は従者を下がらせ、昨夜届いたばかりの慶の親書
のことを話題にした。
 当初は六太とのもともとのやりとりをなぞって青鳥を飛ばしていたのだが、
昨夜は前触れもなく景麒が獣型で現われ、これまで六太が陽子と交わしたあれ
これが書かれた大量の書面を届けたのだった。青鳥につけられる紙片に書ける
文章量などたかが知れている。それで地道にちまちま送らざるをえないことに
陽子が辛抱できなくなったらしい。何しろ周囲に怪しまれないためには、青鳥
を飛ばす頻度も多くはできないのだ。

507永遠の行方「王と麒麟(141)」:2012/07/12(木) 19:19:36
「景王が思い切りの良いかたであるのは存じておりますが、あれにはびっくり
しました。何しろ景台輔は、大量の書面を入れた袋を背にくくりつけておられ
ましたから」
 くすくすと笑う朱衡に、白沢も苦笑して相槌を打った。
「そうそう。飛脚代わりにされ、疲れた表情でお気の毒でした。確かに麒麟の
俊足でなければできないことですが、申し訳ないことに深夜にとんぼ返りです
よ」
 それでいて陽子は覚えているかぎりをすべて書き送ってきたわけではない。
これまでの六太との親交を考えれば、ごく一部にすぎないだろう。彼女からの
伝言によれば、まずは六太が関心を示したことのある話題を時系列で一覧に書
き出した、何が手がかりになるかわからないため判断は玄英宮に任せるが、古
い順にやりとりの詳細を書きあげていくので、少なくとも月に一度ぐらいの頻
度で景麒に届けさせるとのことだった。
「景王もお忙しいでしょうにありがたいことです。これで手がかりが得られれ
ばいいのですが」
「景台輔が以前おっしゃった、麒麟が願うのは国か王のことという話とつなが
るような何かが出てくれば……。もちろん台輔のあずかり知らぬところで、台
輔のお心を探るような真似をしていることには罪悪感を覚えますが、そこは非
常時としてお許しいただくしかありません」
「ええ。台輔もご理解くださるでしょう」
 そうは言いながら、これまで六太が誰にも明かそうとしなかった、明かした
くないと思っていた事柄であるのは確か。他に方法がないとはいえ、それを探
り出さねばならないことに、申し訳ないと詫びる気持ちは朱衡も持っていた。
「ところで大司寇、最近の秋官府の様子はいかがですか? 特に浮き足立って
いるようなことは?」
 話題を変えた白沢に、朱衡は首を振った。
「変わりありません。むろん台輔のことはみな心配していますが、とりあえず
状況に変化はないわけですし、仕事をしていれば気も紛れます」
「そうですな、秋官府に限らず、大半の官は台輔の御身を案じながらも主上の
健在ぶりに安堵しています。特に官位が低くなればなるほど、意識的にしろ無
意識にしろ、台輔のことを考えないようにしているようです」

508永遠の行方「王と麒麟(142)」:2012/07/12(木) 19:46:17
「もともと低位の者には、日々の業務における台輔との接点などありませんか
らね。意識から追い出すのは容易でしょう」
 既に何ヶ月も六太なしで政務が回っている上、玄英宮は王や宰輔の不在に慣
れている。おまけに末端の官にできることはないとなれば、事件を脇にのけて
いるより仕方がない。
「そうです。そしてこのままの状態が一年も続けば、おそらく諦めに近い空気
が支配的になってくると思われます」
 朱衡が反射的に眉根を寄せたので、白沢は弁解するように続けた。
「もちろん台輔のために尽力し続けますが、正直なところ先が見えないのは確
かです」
「本格的な調査を始めてからさほど経っていない状況ですし、それでいて興味
深い話はいろいろ出てきていますよ」
「それでも、です」白沢はめずらしく厳しい表情になっていた。「何しろ慈悲
深くも厄介なことに、台輔ご自身がわれわれに逃げ道を与えてくださいました」
「逃げ道?」
「官に宛てた言伝です。託された書面も簡潔でしたが、例の大学生により伝え
られた、ご自分を単なる物として扱い見捨ててほしいとのお言葉……」
「――ああ」
「このまま解決しなかったとしても、『仕方ない、台輔もわかってくださって
いる』と言い訳することができます」
「しかしわれわれは諦めませんよ」
 朱衡が強く言い放つと、白沢もそれに同意するように大きくうなずいた。
「とはいえ残念ながら解決の見通しは立っていません。実のところ拙官は、い
ずれ宮城で諦念が支配的な空気になったとき、主上に与える影響を心配してい
ます」
 朱衡はまじまじと相手を見、それから力を抜いてほほえんだ。
「冢宰も意外と心配性でいらっしゃる。われわれが主上に翻弄されるならとも
かく、あの主上が官に影響を受けることなどありえません。いつもこちらの思
惑を無視して、ご自分の思うとおりにしてきたかたなのですから」

509永遠の行方「王と麒麟(143)」:2012/07/12(木) 19:55:31
「ええ、これまではそうでした」白沢は溜息をついた。「実際のところ仮に諦
念が支配的になろうと、台輔をお救いできるそのときまで平穏に過ぎればそれ
でも良いのです。しかしいくら主上が胆力のあるかたとはいえ、発端からこれ
まで、あまりにも平然となさっていることが逆に気になります」
「主上のお立場で簡単に動揺を見せるわけにもいかないでしょう。今現在、玄
英宮の諸官が落ち着いていられるのは、間違いなく主上が泰然としてくださっ
ているおかげです。
 もちろん主上なりに台輔を心配しておられます。でなければ毎日のように仁
重殿に見舞いに行かれるはずはありません。そもそもあの主上が何ヶ月も宮城
に留まっておられること自体、異例です」
「それはそうなのですが……側近であるわれわれにぐらい、もう少しお心を見
せてくださっても良いのではないか、と。いや、あれで主上が内面を簡単にお
見せになるかたでないことは承知しています。しかし過去の謀反と異なり、今
回のことは残念ながら主上ご自身のお力ではどうにもならない。呪の専門家で
はありませんから、どうしても冬官など、他の者に解決をゆだねざるを得ない。
これまで日常においてはわれらを信頼して任せながら、ここぞというときには
みずから解決に乗り出すというやりかたでやってきた、それが通用しないので
す」
「そうかもしれませんが、まだ六、七ヶ月しか経っていないのですし」
 まだ、と言うべきか、もう、と言うべきか。
「大司寇。問題は、いろいろな台輔の話が出てきているとはいえ、まったく先
が見えないことです。忌憚のないところを申せば、解決まで何年、何十年か
かっても不思議はない状況です」
「その可能性は最初から主上も承知しておられますよ。むろんわれわれも。だ
からこそまず碧霞玄君のお墨付きをいただいたわけでしょう」
 そう答えたものの、できれば最悪の事態は考えたくない朱衡だった。白沢は
続けた。
「台輔がたまに顔を出しておられたという海客の団欒所、景王の親書を翻訳し
ている軍吏もそこにいたとの話ですが、主上はその軍吏をご自分で聴取しよう
とはなさりませんでしたな。それなりに台輔と親しくしていたと思われるのに。
そして重大な事件にはご自分で首を突っ込むたちの主上が、関弓で地道に聞き
込みをしながら、足元の団欒所にはいっこうに立ち寄る気配がない」

510永遠の行方「王と麒麟(144)」:2012/07/12(木) 20:33:15
「台輔と異なり、これまで一度も足を向けたことはないようですね。とはいえ
もともと主上は、すぐ凌雲山を抜け出しておしまいになるようなかたですから。
それに団欒所のことは鳴賢に任せたとおっしゃっていました」
「しかし主上は胎果であられる。蓬莱ゆかりの人々にもっと興味を持ってもい
いはずだとは思いませんか? なのに逆に避けておられるかのようだ」
「はあ」
「世の中には、言葉や態度に出さないほど逆に傷が深いということもあります。
考えてみれば主上は、蓬莱でのことをほとんど口になさったことがない。今回
の事件では、台輔が生い立ちを明かさなかったことばかり印象が強いようです
が、実のところは主上も同じです。おふたりとも、五百年という歳月を思えば
不自然すぎるほどわれわれに過去を話しておられません」
 それは事実だったので、朱衡は迷いながらも「確かに」と認めた。
「と言うことは主上も台輔に劣らず、蓬莱での出来事に傷ついておられる可能
性があると思うのです。しかしも蓬莱から主上をお連れした台輔がそれに触れ
ないということは、台輔もご承知の事柄なのでしょう。
 ただでさえ麒麟は王の命の担保であり、半身と言われるほどの存在。加えて
主上の場合はそういった蓬莱での縁がありますから、さらに強い絆を感じても
不思議はありません。なのに誰の目にも通り一遍の心配しかしていないように
見えるとなれば、そのことが逆に気にかかっても仕方ありますまい」
 白沢の言葉はうなずけるものであったので、朱衡は否定しなかった。沈黙を
挟んでこう答える。
「本来、王にとって麒麟はいて当たり前の存在ですね。いわば空気のようなも
の。いなくなって初めて違和感を覚える……」
「別行動も多く、大喧嘩をなさることもめずらしくなかったとはいえ、普段の
おふたりはなかなかに仲の良いご様子でした。その台輔がご自分の意思や主命
で出かけておられるならともかく、意識不明で臥せったまま、何ヶ月も主上の
傍らにお姿がない。加えて使令という下僕も消えてしまった現在、長年その存
在に慣れて便利に使っていた主上にしてみれば違和感どころではないはずです。
むろん今の段階でどうということではありませんが、大司寇にはお心に留め置
いていただければと」

511永遠の行方「王と麒麟(145)」:2012/07/12(木) 20:59:10
 朱衡は考えこんだ。要は白沢はこう言いたいのだ、六太ほど尚隆の過去を
知って理解している者はいないだろうし、したがって麒麟であると否とを問わ
ず代わりはないはずだ、と。その六太を失ったも同然の今、主君の心に本人も
予想してしないような動揺が走る可能性はある。いや、表面に現われていない
だけで、現時点で既にかなり傷ついているのではないだろうか……。
 何しろ胎果の尚隆には家族がいない。后を娶ってもおらず、相変わらず後宮
は空のまま、側室たる妃嬪を蓄えたこともない。あれで公私をきっぱり分ける
尚隆は、宮城で女官に手を出したこともない。いかに下界で女遊びをしようと、
長く生きた神仙は既に市井の民人とは異なる時間を生きているものだから、そ
こに深いつながりを見いだすことはできないだろう。
 こうしてあらためて考えてみると、尚隆は意外と危ういように思えた。不測
の事態が起きたとき、家族なり恋人なりがいれば心の支えになるだろうが、尚
隆にそういう相手はひとりもいないのだから。
 果たして宮城は主君にとって「家」足りえているのだろうかと、朱衡は初め
て真剣に考えた。出奔のたび、自然に帰ってきたいと思ったから帰ってきてい
たのか、それとも他に行くあてがないから仕方がなかったのか。六太もそうだ
が、そもそも宮城の居心地が良ければ、あれほど頻繁に下界に赴いただろうか。
 主君の生い立ちは朱衡もよく知らない。仕えた五百年で知りえたのは、尚隆
が領主の息子であり、死んだ父親から継いで治めていた所領を失ったため六太
が連れ出したという話ぐらいだ。それも六太や尚隆がほのめかした言葉の断片
をつなげてそう解釈しただけで、具体的な家族の話は一度も耳にしたことがな
かった。
 これだけの時間が経った以上、白沢が言うように、今となってはおそらく六
太のみが知る過去なのだろう。そして主君が自分の個人的な事情を口にしない
ということは、真に心を開いている相手がいないということでもある。何かが
あればひとりで立ち直るしかないし、事実これまではそうやってきたはずの主
君だった。

512永遠の行方「王と麒麟(146)」:2012/07/13(金) 20:21:41

 団欒所で行なわれた人形劇は大成功だった。長年、ここを管理してきた守真
でさえ、これほど催しが盛況だったことはないと言ったほどで、裏方とはいえ
手伝った鳴賢も嬉しかった。
 朱旌の講談や小説と同じように受け止められたことと、近所の知り合いを中
心に配った絵入りのちらしが木版による色刷りでめずらしかったこと、何より
無料だったためだろう。日常における娯楽の少なさもあって、予告した時刻に
は子供を連れた母親や老人を中心に五十人以上が集まっていた。
 人形は手袋のように手を入れて動かす簡単な作りだが、それを操る守真と恂
生の大げさな身振りと口上が受け、最前列に座った子供たちは終始笑ったり叫
んだり大騒ぎだった。
 海客は守真と恂生、裏方にいた悠子の三人だけだったので人手は足りなかっ
たが、日頃から何度も顔を出していた関弓の女たちが茶や菓子を出すのを手助
けした。めずらしく人型の楽俊も母親を連れて訪れていて、楽俊の母は守真に
挨拶をするなり他の女たちとともにはりきって手伝いを始めた。
 これで酒を出したりお金をやりとりしていたら諍いが起きた可能性もあるが、
大半が老人や女子供で顔見知りが多かったこと、ふるまわれたのがささやかな
茶と菓子だけだったのが逆に良かったのかもしれない。
 劇がひとつ終わるごとに休憩を兼ねた歓談の時間を設け、集まった人々は皆
知り合いとなって楽しく言葉を交わした。ずっと守真の傍らにくっついていた
悠子だけは、言葉に不自由しているとあってほとんどしゃべらなかったが、物
語が彼女の手によることが知られると皆が口々に感嘆の声を上げたので、話が
見えないなりに嬉しく思ったらしく、遠慮がちな笑みを浮かべることもあった。
「これ、六太が言いだした紙芝居がきっかけだけどさ。どうなるかと思ったけ
ど、やってみて良かった」
 最後の物語を上演したあと、一通り観客の間を回って言葉を交わしていた恂
生は鳴賢の隣に来て座るなりそう言った。
「今まではこういうのやったことないのか?」
「うん。楽器の演奏とか皆で歌うとかお茶会とか、そういうたぐいの催しが主
体だった。俺は蓬莱の歌謡曲で好きなのを演奏したり歌ったりしたけど、大し
て受けなかったなぁ。そうしたら六太が、綺麗に彩色した絵で紙芝居をしたら
どうかと言い出したんだ。それなら万人受けするだろうって」

513永遠の行方「王と麒麟(147)」:2012/07/13(金) 20:33:52
「ああ、俺も聞いたことがある。でも絵師を手配できなかったって言ってた」
「んー」恂生は頭をかいた。「本当は手配できなかったわけじゃない。実は悠
子がけっこう得意でさ、描いてもらったらって話だったんだ。もともと六太は
そのつもりで言いだしたらしくて」
「あの子、絵も描けるんだ?」
 鳴賢が驚いて尋ねると、恂生は困ったような顔をしつつ「まあな」と答えた。
「だけどあの子は自分の絵を他人に見られるのを嫌がって。慣れた用具がな
かったのと、絵が漫画的で――そういう手法の絵が蓬莱にあるんだ。こちらに
ない感じの。それで絶対にけなされると思ったらしい。悠子はあれで他人の目
をひどく気にするたちだから」
「でも今回の脚本は書いたんだろ?」
「あれは最初、守真たちと雑談していて出た話を発展させたものだから、抵抗
が少なかったんじゃないかな。俺も守真も話を考えるなんてのは不得手で、あ
の子がいろいろ肉付けしたのを後で聞いてとにかく褒めたら、ようやくやる気
を出してくれて。ただでさえあのくらいの歳の子は扱いが難しいから、あのと
きはほっとした」
「そうだったんだ……」
「でも良かったよ、うまくいって。六太がいたら一緒に喜んでくれただろうに、
それだけが残念かな。そうだ、君に頼みがあるんだけど」
 恂生が今回の脚本の写しを六太に送りたいと言ったので、鳴賢は引き受ける
ことにした。前に守真に頼まれた六太宛の手紙と同様、大司寇に言付ければ仁
重殿に届けてもらえるだろう。残念ながら返信は期待できないが。
「海客の――蓬莱の音楽については、俺も楽俊から聞いたことがある。変わっ
てるって」
「一口に蓬莱の音楽と言ってもいろいろあるんだけどね。俺がよく歌っていた
のは流行り歌というか俗謡のたぐい。俺、蓬莱ではバンドっていう小さな楽隊
をやってて、そういう歌ばかり演奏してたんだ。自分で曲も作ってた。でも
こっちじゃ面子は揃わないし楽器もないしでくさってたら、それまで何かと周
囲をうろちょろしていた六太が、自分に教えてほしいって言ってきて。

514永遠の行方「王と麒麟(148)」:2012/07/13(金) 21:19:53
 今から思うと、それで気を引いて俺と親しくなるきっかけにしようとしてく
れたんだろうな。結局、蓬莱の流行り歌をいろいろ教えて、調達できたぶんの
楽器の弾きかたも教えて、そうしたら一緒に歌ったり弾いたりしてくれるよう
になってさ。それまで俺、けっこう荒れてたんだけど、それでやっとちゃんと
六太と話をする気になれたんだ」
 恂生は当時を思い出すようにしみじみと語った。興味を引かれた鳴賢が、ど
んな曲を六太に教えたのか尋ねたが、「ギターでもあればすぐ旋律を弾けるん
だけど、今はちょっと無理。俺、ピアノは弾けないし」と答えた。
「でも良かったら次の機会にでも、守真と無伴奏で歌ってやるよ。蓬莱独特の
物や慣習を知らないと完全には歌詞を理解できないだろうけど、大抵は恋の歌
だから何となく雰囲気はわかると思う」
「……恋の歌なんだ?」
「そう。だから蓬莱でも、そういう歌をくだらないと莫迦にする人もいて――」
「六太も恋の歌を歌ったりしたのかい?」
「うん、一緒にね」恂生は嬉しそうだった。「つきあいってだけじゃなく、本
当に楽しそうにしてくれたよ。あれで六太は度胸も声量もあって、歌いかたも
堂々としているんだ。音程も確かだし、教えた俺が言うのも何だけど見事な歌
いっぷりだった。大勢を前にしても全然あがらないし」
 それはそうだろう。日頃から六太は大勢の女官にかしずかれていたはずだし、
朝議や政務で、諸官を前にする毎日だったはずだ。こんなところで何十人かの
民の注目を集める程度で、いちいち緊張などしなかったに違いない。
「おまけに声変わりもしてないから女声部も歌えたし、二重唱をするときは重
宝したな。もっとも本人は子供っぽいから男声部を歌えないと不満があったみ
たいだけど、俺はなかなか綺麗で通りの良い声だと思ってた。ここでいろいろ
作業しているときも、蓬莱の流行り歌を鼻歌で歌っていることもよくあったっ
け」
「それも恋の歌?」
「そう。何せ教えた歌の大半がそうだから」
 鳴賢は考えこんだ。たかが歌だ、旋律が良ければ歌いたくもなるだろうし、
恋を織りこんだ歌詞自体に惹かれたとはかぎらない。

515永遠の行方「王と麒麟(149)」:2012/07/13(金) 21:37:49
 とはいえ六太は切ない片恋をしていたはず……。
「恂生、もし良かったら俺にも蓬莱の歌を教えてくれないか? ちょっと興味
が湧いてきた」
「かまわないよ。というか、蓬莱のものに関心を持ってもらえるのは嬉しいか
ら大歓迎だ。楽譜はここに常時置いてあるから、次の開放日にでも来てくれれ
ば、二、三曲ならすぐ覚えられると思う」
「譜面があるんだ? 詞が書いてあるなら貸してもらえるかな?」
「いいけど……でも蓬莱語で書いてあるぞ?」
「あ、そうか。俺には読めないな」
 鳴賢はがっかりしたが、数曲なら恂生が簡単に翻訳しておいてくれることに
なった。彼が普段生活している店の場所を詳しく教えてもらい、次の開放日を
待たず、三日後に取りに行く約束を取りつける。
 蓬莱の恋歌に、六太の望みに関する手がかりがあるとはかぎらない。しかし
彼が繰り返し歌っていた曲があるなら、多少なりとも詞に共感していたはずで、
そこから心中を察することができるかもしれない。

 いつもの鼠姿に戻った楽俊と連れだって寮に戻った鳴賢は、その後で楽俊の
母が作って届けてくれた蒸し菓子でお茶にし、人形劇についてあれこれ話した。
「おいら、ああいうの初めて見たけどおもしろかったな。母ちゃんもずいぶん
褒めて、次があるなら、ぜひまた見たいって言っていた。朱旌の小説みたいに
大がかりな舞台がなくても、それっぽく見えるもんなんだなあ」
 楽俊はしきりに感心していたが、それは鳴賢も同じだった。
「もともと六太が紙芝居ってのをやりたがっていて、絵師を手配できなくて人
形劇に変えたんだ。でもこうなると紙芝居も見てみたいよな。何より彼らが新
しく作った物語だから目新しくていい」
「よくまあ、ああいう話を考えつくもんだ。悠子とかっていう海客の子が考え
たんだってな」
「うん、そう。守真たちと雑談みたいにして話していたのが原型らしいけど、
あの子に何かの才があるとは思ってもみなかったから驚いたよ。正直、これま
であまり良い印象は持っていなかったんだ。だっておまえを気味悪がったのっ
てあの子だろ?」

516永遠の行方「王と麒麟(150)」:2012/07/13(金) 21:46:08
「よくわかったな」
「そりゃあな。見ていればぴんとくる」
 でも、と鳴賢は続けた。考えてみれば、まだ里家で養われているような女の
子だ。それが蝕に巻きこまれて、着の身着のままでこちらに流され、二度と肉
親とは会えなくなってしまった。だとしたらいろいろと同情の余地はある。性
格的に多少の欠点はあれど、鳴賢が脚本を褒めた際の戸惑った表情と言い、こ
ちらに来て以来、他人に認められることがほとんどなかったのかもしれない。
それでかたくなになっていたなら、今回のことがきっかけで少しは人当たりが
良くなる可能性はあるし、半獣に対して考えを改めるかもしれない。
「むろんわからないけどな。でも最初に思ったより嫌な子じゃないかもと思っ
たんだ。六太も気にかけていたようだし」
「おいらのことなら別に気にしてねえから、鳴賢も忘れてくれ。蓬莱に半獣が
いないなら、あの子もおいらを気味悪がったというより、むしろ怖がったのか
もしれねえしな。そのうち自然に慣れてくれるさ」
 その後、鳴賢が恂生の言っていた蓬莱の流行り歌の話題に変えると、楽俊は
うーんと天井を振りあおいだ。
「言われてみると、確かに台輔は機嫌がいいとき鼻歌を歌うこともあったなあ。
もしかしたらあれも蓬莱の歌だったのかもしれねえ」
「鼻歌か……。じゃあ詞はわからないな」
「詞を知りたいのか?」
「六太が好きな歌の詞がわかれば、少なくとも好みを知る手助けにはなるだろ
う? それで今度恂生に、蓬莱の歌詞をいくつか教えてもらうことになったん
だ」
「そうか。そうだな、台輔が好きだったものなら、確かに何でも手がかりにな
る可能性はある。おいらもこれまでの台輔との話を思い出して、あらためて考
えてみることにするよ。ついでに母ちゃんにも聞いてみるかな」
「ああ、頼む。俺のほうはまた折を見て海客たちと話すつもりだ」
 これまで大学の朋友たちにさりげなく聞いたかぎりでは、鳴賢たちほど親し
くなかったとあって、六太と突っこんだ話をした者はいなかった。それに比べ
れば団欒所の海客たちのほうが、六太が彼らを気にかけて力になってやってい
たぶん、はるかに親しいはずだ。

517永遠の行方「王と麒麟(151)」:2012/07/13(金) 22:47:47
「恂生を励ますために、六太は彼から蓬莱の歌や楽器を習ったりしていたらし
い。そういった趣味の話をしていたなら、好みだの何だのについても一通り話
題にしたことがあるんじゃないか」
 恋愛問題についてとは言わずに表現をぼかす。こればかりは楽俊にも悟られ
るわけにはいかなかった。

 それから三日後に恂生を訪ねた鳴賢は、彼の新妻である揺峰も交えてお茶を
飲んだ際、予期したとおりこれまで出てこなかった話をいろいろ耳にした。そ
れは事実というより、揺峰によると「こうじゃないの」という程度の推測では
あった。しかし蓬莱の恋歌にかこつけて話題を向けると、彼女は六太が麒麟だ
と知らないせいか、好きな女の子くらいいるだろうと当然のように語った。宮
城の諸官にとっては思いがけないことに違いないが、かと言って揺峰はまった
く根拠のない話をしたわけでもなかった。
「だってそういうことに興味のある年頃でしょ? そりゃ仙ってことは見た目
より少しは年上なんだろうけど、大して変わらないわよ。それに六太は歌がう
まいの。よく通る声で安定しているから聞きごたえがあるのね。楽しい歌はも
ちろん楽しくにぎやかに歌ってたけど、しっとりとした恋歌なんか情感たっぷ
りに歌いあげるんだもの、あれで好きな子のひとりやふたりいなかったはずは
ないわ」
 気楽な調子で断言した彼女に、鳴賢は続けて尋ねた。
「でもこの近くにはいなかったですよね、六太の好きな子。少なくとも俺は知
らない」
「うーん、どうかしら」揺峰は小首をかしげて考えた。「そうね、確かにわた
しが知るかぎりでは相愛の子はいなかったかも。でも片恋なら、こっそり陰か
ら姿を覗き見るような相手ぐらいいたんじゃない? もっとも引越したんなら、
これまでのことはそれとして、新しい土地で気の合う子を見つけると思うけど」
 あっけらかんとした物言い。まさか六太が、苦しい片恋を続けているとは考
えてもいないのだろう。
 頼んでおいた歌詞については、恂生が揺峰とふたりがかりで翻訳しておいて
くれていた。恋する娘を表現した恋歌、恋人が去ったことを嘆く失恋の歌、友
人を励ます歌、の三編。

518永遠の行方「王と麒麟(152)」:2012/07/13(金) 23:08:52
 それなりの期待を持って詞に目を通した鳴賢だったが、しかしながら翻訳の
精度の問題なのか、まったくもって心を惹かれる表現でも文体でもなかった。
だがそんなことは予想済みだったのだろう、感想を述べず、礼だけを返した鳴
賢に恂生が苦笑した。
「あまり高尚な詞じゃないのはわかってる。ひねりもないしね。でも大抵の流
行り歌は曲に乗せて歌わないと魅力がわからないと思うよ。今ちょっとサビの
部分だけ蓬莱語で歌ってみる。翻訳で言うとこの部分だな」
 彼は詞の書かれた紙の一点を指すと、わずかに体を揺らして拍子を取りなが
ら、あまり大声にならないよう注意して歌いはじめた。蓬莱語の意味はわから
ないながら、無味乾燥で見るべきところなどないと思われた詞が、とたんに生
命を吹きこまれて生き生きとした表情を見せはじめる。
 鳴賢の知る俗謡とは毛色が違うため耳が馴染まず、すぐには良い歌だと言う
ことはできなかった。しかし歌詞を見た際に受けた白けた印象を考えれば、存
外悪くなかった。
「これ、三つとも六太は歌ったことがある?」
「何度もね。度胸のある六太の声量で歌われると、この恋歌などは歌詞は単純
なのにかなり聞きごたえがあるんだ。揺峰も言ったように、彼はしっとりした
失恋の歌だって情感たっぷりに歌ってくれる」
「失恋の歌……」
「帰ってくるまであの歌声が聞けないなんて本当に淋しいな。最近は華期も団
欒所に顔を出さないし、悠子は楽器を弾けないし、俺と守真だけでやるとなる
と歌も伴奏も演目がかぎられる。俺たちが歌ったりしている間、団欒所に来て
くれる人の相手をする人がいなくなるからね。これまではたまに歌会を開いて
いたんだけど、しばらくはお茶会を主体にするか、このあいだみたいな人形劇
を企画するしかないな。好評だったから別にやりたくないわけじゃないけど、
俺としてはやっぱりバンドに未練があるんだよなぁ」
 しばらくして鳴賢は、蓬莱の他の歌も教えてもらうことを改めて約束して帰
途についた。寮に戻り、得た情報を楽俊と交換する。
 その後、ひとり自室に戻った鳴賢は、持ち帰った蓬莱の歌詞に目を落とすと
考えに沈んだ。

519永遠の行方「王と麒麟(153)」:2012/07/13(金) 23:12:20
 いくら情感たっぷりに恋の歌や失恋の歌を歌えたからといって、それが六太
の心情をあらわしているとは限らない。初めて聞いた鳴賢でさえ、耳慣れない
ながらも旋律に魅力を感じたのだから、誰でも気晴らしに流行り歌ぐらい歌う
さ、と軽く済ませるのが分別というものだろう。だが揺峰は、六太だって恋の
ひとつやふたつしたことがあるだろうと言っていた。一般的に女性は男性より
観察眼が鋭いものだ。彼女の勘が的を射たものだったら。
 とはいえ彼女は六太の身分を知らない。麒麟であることを知らない。ひとり
の少年に対して当たり前のように語った自分の言葉が、麒麟の恋という非常識
な事態を指すとは考えてもいない。両者を結びつけられるのは鳴賢だけだ。六
太の告白の細部はさすがに忘れてしまったが、これまで誰にも言ったことはな
いとの言葉は覚えていた。つまり鳴賢が胸にしまっておくかぎり、他の誰にも
想像できない可能性は高い。
 当たり前だ。何より王と国のことを考えねばならないはずの神獣が、どこの
誰とも知れぬ女性に苦しい懸想をしているなど。
 だが果たしてこれは正しい手がかりなのだろうか。想う女性に関する事柄が
六太の望みならその可能性はあるが……。
 六太は呪者に「あさましい」とののしられ、自分でも恥じているようだった。
もし国や主君への忠勤を差し置いて望みのない恋にうつつを抜かしていたなら、
それも納得できてしまう。
 ――なんということだ。ぴったり符合するじゃないか。
 鳴賢は座っていた椅子から立ちあがり、狭い室内をうろつきまわった。考え
れば考えるほど重要な手がかりに思えてきて胸の動悸が高まった。もしや六太
の最大の願いとは想いを遂げることではないのか? 少なくとも想いが通じ合
うことでは?
 彼はふたたび椅子に座りこみ、うなりながら両腕で頭をかかえた。いったん
思いついてしまうと、その考えを頭から振り払うことは困難だった。
「でも俺、六太と約束したんだ。好きな娘がいることは誰にも話さないって。
天帝にも言わないって。そりゃ、あのときはこんな事態になるなんて六太も予
想してはいなかったろうけど」

520名無しさん:2012/07/14(土) 00:49:08
キテタ━(゚∀゚)━!!!
なるほどこう繋がってくるわけですね!
思わぬ展開にトキメキが止まらないです(*´∀`*)
鳴賢ガンバ!!

521永遠の行方「王と麒麟(154)」:2012/07/14(土) 08:24:36
 もっとも六太は、鳴賢が誰かにもらしてしまうことになっても気にするなと
も言った。そのときはそのときだと。だが――そうだ、そうなったら自分は壊
れるとも言っていた。それほど真摯な想いなのだ。やはり鳴賢ごときが軽々し
く他言できる内容ではない。
「いったい宮城では少しは進展しているんだろうか? それとも相変わらずお
手上げ状態なのか……」
 深々と溜息をついたのち、鳴賢は房間の扉を振り返った。
 ここしばらく風漢の顔を見ていないから、状況はわからない。だが明らかな
進展があれば、あれだけ気遣ってくれた風漢のことだ、早々に伝えに訪れるだ
ろう。それがないことの意味は明らかだった。

 その夜、臥牀の中であれこれ考えていた鳴賢は、結局一睡もできなかった。
 六太の恋は、呪を解くための正しい手がかりだろうか。彼の想い人が明らか
になれば、事件は解決に向かうのだろうか。
 それともしばらく様子を見たほうがいいのか。だがたとえば相手の女性が仙
だったとしても、いつまでも健在とはかぎらない。こうしてぐずぐずしている
うちに、事態は取り返しのつかないことになってしまわないだろうか。
 誰にも相談できないまま鳴賢は悶々とした。どうすべきか、自分で決断しな
ければならない。
 むろん想い人が人妻だったり、六太に対し尊崇の念はいだいても恋愛感情な
ど持っていない可能性は高い。しかし風漢が呪についていろいろ説明してくれ
たからわかるが、厳密な意味での六太の望みと、実際に暁紅が設定した解呪条
件とは別の話だろう。ならば本心からでなくとも、相手の女性が愛の言葉を六
太の耳元でささやけば済むとか、その程度で何とかならないだろうか。
 醜くも黒く腐りながら、楽しそうに六太をあしらっていた暁紅の最期の様子
を思い起こす。あの女の心は歪んでいた。そんな女が、愛のささやき程度で
あっさり解けるような呪を設定するだろうか……。

522永遠の行方「王と麒麟(155)」:2012/07/14(土) 08:49:29
 いや、やるかもしれない、と望みをつなぐ。もし暁紅が嘲ったのが麒麟の懸
想という私事であり、恥じた六太が決して口にしないだろうこと、したがって
想いが成就しないことを確信していたなら、そもそも他人が相手の女性を割り
出すことさえ困難だと承知していたはずだ。事実、鳴賢は知らないし、六太が
恋をしているなど諸官も気づかないからこそ、これまで色恋の方面に調査を進
めなかったに違いない。無意識のうちにその可能性を除外しているわけだ。
 ならば愛のささやき程度でも解ける呪である可能性はある。問題はむしろ、
たとえ永遠に目覚めなくても、みずからの恋を秘したいと考えていただろう六
太の悲愴な心中で……。
 悩み続けた鳴賢は、明け方近くになってようやく覚悟を決めた。暗い天井を
凝視したのち、しばし瞑目する。
 すべての責任は自分が負おう。優しい六太なら絶対に鳴賢を責めないことは
わかっている。だが自分の進言で首尾よく六太が目覚めたとして、相手の女性
ともどもいたたまれない思いをする結果になったなら、一命をもって詫びよう。
一介の大学生の行為にすぎないとしても、ひとりの人間が生命をもって訴えれ
ば、周囲の官も少しは考えてくれるだろう。
 何より六太は恋をしただけだ。彼がいかに恥じようと、それ自体は何ら責め
られるものではない。今回の事件がなければ誰にも知られずに済んだはずの、
ささやかな私事にすぎないのだから。いくら国と主君に生涯をささげるべき神
獣でも、それくらいの感情は許されていいはずだ。
 そうだ、そのときは上奏文を書いて六太の誠心を訴え、主上のお慈悲におす
がりすることにしよう……。
 いったん決心すると、鳴賢はまだ暗い中で起きて手燭をともした。六太の願
いごとについて心当たりがあると、さっそく大司寇宛に手紙を出そうと考えた
のだ。
 ただし――滅多な相手に話すことはできないと、こればかりは厳しく考えた。
畏怖の念に打ち震えながらも、話す相手は畏れおおくも雁の主上のみと思い定
める。あれほど六太が思いつめていた事柄が切ない片恋だとしたら、六官とは
いえ臣下に明かすのは酷すぎて、鳴賢自身の心情としても耐えられなかった。
ならばせめて、六太の唯一無二の主にして半身である延王にのみ秘密を伝えよ
う。

523名無しさん:2012/07/14(土) 09:23:14
>>520
>なるほどこう繋がってくるわけですね!

あはは、そうです。あれだけ海客の団欒所がどうだの
オリキャラばっかうだうだ書いたのも、要はここに来るという……。
これで>>7-14ともやっとつながりました。五年ごしです。長かったぁ。

続きはまた夜に投下に来ます。

524永遠の行方「王と麒麟(156)」:2012/07/14(土) 19:45:05

 封をした書簡を大司寇宛にひそかに出した日の夜、鳴賢の房間を風漢が訪れ
た。一瞬どきりとしたものの、書簡には六太との約束を簡単に述べた上で、王
にのみ明かすと念を押しておいたはず。そのため、たまたま風漢の来訪が重
なっただけかと思ったのだが。
「大司寇に手紙を出したそうだな。六太の最大の願いについて心当たりを思い
出したそうだが」
 話を切り出した風漢に、鳴賢は目をむき、声を失った。くれぐれも内密にと
頼んでおいたはずなのに。実際に会ったのは一度きりとはいえ、大司寇を信頼
していた彼は多大な衝撃を受けた。
 だがいったん知られてしまった以上、国官を前に黙しているわけにもいかな
い。進退窮まった鳴賢は思わず目を閉じたものの、すぐに強い決意をにじませ
て相手を睨んだ。
「……なぜあんたがそれを知っている?」
「大司寇におまえの手紙を見せられたのだ。それで事情を聞きに来た。内密に
してくれとのことだったので、他の者は知らん」
 話が漏れたのみならず、書簡そのものまで見られたのか。鳴賢は打ちのめさ
れた気分になった。
「そうだ。手紙にも書いたが、誰にも話さないと六太に約束した事柄だ。ただ
今は非常事態だから……。
 だが約束を破ることになる以上、せめて麒麟の半身とされる主上にだけお伝
えしたい。他人に知られることを望んでいなかった六太のためにも、主上以外
には絶対に明かしたくない。あんたには悪いが、官に話す気はないから帰って
くれないか」
 それきり口を閉ざす。別に延王の尊顔を拝したいとか、そこまで不遜な望み
をいだいているわけではない。無事に目通りが許されたとしても、玉簾の奥に
おわす影に叩頭しながら奏上するといった感じだろうか。いずれにせよ、王に
だけ秘密を伝えられることさえ保証されれば、体裁は何でもかまわなかった。
 風漢は、ふむ、とあごをなでると、しばらく考えてから言った。

525永遠の行方「王と麒麟(157)」:2012/07/14(土) 20:09:15
「確かに手紙にはそのようなことが書いてあった。しかし謹厳な大司寇が、内
密のはずの話を明かして俺を遣わしたことを不思議には思わんか?」
「思うさ、それは」
「まあ、そうつっけんどんに言ってくれるな」風漢は困ったように笑った。
「実は俺を遣わしたのは大司寇ではない、王だ」
「えっ……」
「内密にとのおまえの配慮はちゃんと伝わっている。それゆえおまえを宮城に
呼ぶこともしなかったのだ。かと言って王がそう簡単に出歩くわけにも行かぬ
ので、代わりに聞いてこいと遣わされた」
 あわてて記憶を探った鳴賢は、宮城では内殿や正寝にいることが多いとの風
漢の言を思い出して愕然とした。
「あんた――まさか大司寇ではなく主上の側近――」
「それゆえ俺に話すのは実質的に王に話すのと変わらない。いや、同じだと
思ってくれ。おまえが話した内容は、俺の命にかけて王にしか話さない。おま
えが何か話したということさえ、他に知るのは封印書簡を受け取った大司寇の
みで、彼も他言はしない。六太の意識が戻ったあと、六太本人にも言わないし
悟られもしないと約束する」
 鳴賢は心が揺れるのを感じたが、迷いに迷い、結局は首を振った。
「だめだ。ただでさえ六太との約束を破るんだ。絶対に主上にしか話せない。
それに俺の想像が当たっていたら、六太はこれを明かすくらいなら自分が永遠
に目覚めなくてもいいと思っていたことになる。俺に教えてくれたのだって、
たまたま俺を慰めるためにそんな話になっただけ、それまで誰にも話したこと
はないと言っていたんだ。そんな話を、いくら主上の側近でも官に言うことは
できない。頼むからわかってくれ」
 そう言って頭を下げる。そのままじっとしていると、やがて風漢は溜息をつ
いた。
「そうか。わかった」
「風漢」
 ほっとした鳴賢は顔を上げ、「ありがとう」と礼を言った。風漢は、やれや
れといった体で肩をすくめた。

526永遠の行方「王と麒麟(158)」:2012/07/14(土) 20:31:22
「そこまで言われたなら仕方がない。おまえがひそかに王に目通りできるよう
頼んでみよう。こちらから連絡するゆえ、しばらく待っていてくれ」
「すまない」
「気にするな。俺としてはおまえの言いぶんもわかる。しかし六太に慰められ
たとはな。おまえ、何か悩みごとでもあったのか?」
「いや、その……大したことじゃない」
「まあ、六太はあれで面倒見が良いからな。楽俊のことも日頃から気にかけて
力になっていたようだし、海客の団欒所でもいろいろ世話をしていたそうだが」
「うん。地道に話しかけたり、相手の興味のあることを尋ねて気を引いたりし
ていたらしい。蓬莱の流行り歌を習ったりとか。そうすることで親しくなって、
相手が立ち直るのを手助けしたんだな」
 彼は恂生から聞いた話を教えた。すると風漢は、確かに六太が、蓬莱由来の
歌らしいものを鼻歌で歌っていたのを聞いたことはあると言った。
「ところで鳴賢。今さらかもしれんが、おまえは悩みごととやらを吹っ切れた
のか? 何なら相談に乗るぞ。六太ほど聞き上手ではないかもしれんが」
「吹っ切れたというか……。もういいんだ。ずいぶん前のことだし、今さらだ」
「そうか? だが忘れたと思っていても、ふとした拍子に、相変わらず囚われ
ていることに気づくかもしれんぞ。何しろ俺がそうだからな」
「おまえが?」
「実は俺は胎果でな」
「ええっ!? お、おまえ、海客だったのか!?」
 掛け値なしに驚いた鳴賢は相手を凝視した。言われてみれば、官に登用され
た海客仲間もいるとか何とか聞いたことがあったような……。
「まあ、そのようなものだ。で、もう戻れんことではあるし、故郷のことは
吹っ切ったつもりでいた。だがな、長い時間が経った今になって、実は吹っ切
れておらんことに気づいたのだ。かと言って、今さらどうしようもないことで
はあるのだが」
「そうだったのか……」

527永遠の行方「王と麒麟(159)」:2012/07/14(土) 21:19:06
 鳴賢はそれでいろいろ納得できることがあると思った。こんなに近くにある
のに、彼が団欒所に赴こうとしなかったこと。守真が言っていた、気持ちにけ
りをつけるためか、海客は団欒所にだんだん来なくなる傾向があるという話…
…。
「だからか。六太のことで聞き込みをするのに、海客の団欒所を避けていたの
は。二度と帰れない故郷を思い出してしまうから」
「そういうわけではないが――いや、そうなのかも知れん」
 口の端にさびしげな笑みを浮かべた風漢に、鳴賢は「あんたでも弱気になる
ことがあるんだなあ」と驚いて苦笑された。
「俺を何だと思っているのだ。俺とて人間なのだぞ。弱気にもなるし、くさる
こともある。俺に比べれば、団欒所に足しげく通っていた六太のほうが精神的
には強いのかもしれん。だから海客の悩みごとの相談にも乗れたりしたのだろ
う」
「そうか……」
 鳴賢はしばし黙りこんだ。六太はもちろん、風漢を含めた海客たちの体験に
比べれば、あのときの自分の悩みなどちっぽけなものだ。楽俊のように、巧か
ら危険を冒して旅をしたわけでもない。たかが失恋の痛手、それも面倒がって
手紙ひとつ送らないでいたら愛想をつかされたという情けない話なのだから。
「別に俺のほうは、あんたたちみたいな大層な話じゃない。女に振られたんだ。
それだけのことさ……」
「色恋の話か」
 抑えきれない驚愕の響きに、鳴賢ははっとなった。風漢の目に鋭い光が宿っ
ていた。失言を悟った鳴賢は狼狽した。
「あ……」自分を凝視するまなざしに、耐えきれず視線をそらす。
「――六太の幼い外見から考えると、残念ながら懸想した女にまともに相手に
されるとは思えぬな……」
 鳴賢は泣きたい思いだった。勘づかれてしまった以上、他の者――大司寇な
ど――にも話が伝わってしまうのだろうか。
「頼むから。頼むから主上以外には言わないでくれ」

528永遠の行方「王と麒麟(160)」:2012/07/14(土) 22:20:09
「大丈夫だ、鳴賢」風漢は手を伸ばすと、鳴賢の腕をつかんで力強く揺すった。
「言ったろう、王にしか話さないと。六太の意識が戻ったあと、六太本人にも
言わないと。俺の命にかけて誓う」
「……うん――うん」鳴賢は震えに襲われながらも、何とかうなずいた。
「どんないきさつでそんな話になったのか、詳しいことを教えてくれ。俺の想
像のみで王に語るわけにはいかぬ」
「で、でも正直言って、細かいことまできちんと覚えているわけじゃないんだ。
もう何年も前の出来事で」
「かまわぬ」
 強くうながされ、鳴賢は当時を思いだしながら訥々と語った。自分の失恋の
話から、六太が望みのない片恋をしている話になったこと。ただし相手が誰な
のかは頑として語らず、自分が死ぬ直前なら教えてもいいと告げられたこと。
「六太は言ったんだ、今まで誰にも言ったことはないって。このことは天帝に
も言わないでくれ、誰かに知られたら自分は壊れるって。それはそうだ、麒麟
の恋なんて誰も歓迎しないんだから」
 六太は人間ではなく、外見はといえば永遠に十三歳のまま、婚姻もできず子
も持てない。戸籍さえない。そんな相手に告白されても、大抵の女は困るだけ
だ。そもそも麒麟は第一に主君のことを考えるべきで、最悪、王自身が不快を
覚えかねない。暁紅が「あさましい」と嘲り、六太自身も恥じたのは、決して
理由のないことではないのだ。それどころか相手の女が、叛意を持つ者に「真
の王」として利用される危険さえある。
 鳴賢は、暁紅の邸で六太の正体を知ったときに頭に浮かんだ数々の懸念を口
にした。
「だから六太が黙っていたのは当然なんだ。相手の迷惑になるどころか生命に
関わる上、誰のためにもならないんだから。なのに、なのに俺――」
「大丈夫だ、鳴賢」風漢は先ほどの言葉を繰り返して励ました。「悪いように
はせん。すべては六太のためだ」
「う、ん……」
「で、相手の女に心当たりはないのだな?」

529永遠の行方「王と麒麟(161)」:2012/07/14(土) 22:29:03
「ああ。でも当たり前だろう? 六太は隠していたんだ。それに考えたんだけ
ど、もしかしたら片思いの相手にあまり近づかなかったんじゃないかな。ほら、
あるだろう、嫌いな相手を避けるのは当然として、好きな相手に対しても距離
を置いたりすることって。真剣な想いであればあるほど、相手の反応が怖くて
却って近づけないんだ。明らかに向こうも気があるように見えれば別だけど、
六太の片恋はまったく望みがなかったらしい。ということは亭主持ちかもしれ
ない。それだけに自分の想いを他人に悟られないようにする用心とか、相手に
迷惑をかけたくないという思いは強かったんじゃないかな。あるいは諦めるた
めに意図して距離を置いていたかも。その場合、他人には大して親しくない間
柄に見えた可能性もあると思うんだ」
「なるほど……」
「俺の想像だから、実際はどうだったかわからないけどさ。でも恋をしている
人間なんて、はたから見れば普通は何となくわかるものだろ。なのに宮城では
誰もそんなことを考えず、今回の件では最初から色恋について除外していたみ
たいじゃないか。相手を知らないどころか、そんな事態を想像してさえいな
かったってことは、六太が必要以上に相手に近寄らなかったから、一緒にいる
ところをあまり見られていないってことはないかな。もちろん逆に、ひんぱん
に顔を合わせても不審がられない役目の人物とか、相手が意外すぎてみんなが
その可能性を除外しているって可能性もあるけど。だいたい普通の人間のよう
に麒麟が恋をするなんて、誰にとっても想像の埒外だったろう」
 何しろ少し前までは鳴賢自身もそうだったのだ。聖なる神獣が人間に懸想す
るなど、いったい誰が想像するだろう。これが異性の王を愛するというのなら、
まだ理解しやすいのだが。
 いや、相手が王なら、同性であったとしても忠心の延長として納得の余地は
ある。どちらも神人で、只人の倫理を超越している神秘の存在なのだから。だ
からこそ市井では、斡由の乱を背景にした王と麒麟の恋物語が人気なのだ。六
太自身があの手の小説の筋立てを否定していなかったら、そして延台輔の外見
が女性めいたなよやかなものでなく、金髪を除けば普通の腕白少年であること
を知らなかったら、今でも鳴賢は小説の設定に根拠があると思っていたかもし
れない。

530永遠の行方「王と麒麟(162)」:2012/07/15(日) 08:15:22
「俺も、六太が色めいた事柄に関心を示すのを見たことはなかったゆえ、おま
えの話を聞いてさえ、どうにもしっくりこないのは確かだ。女遊びをする俺に
対しても、六太は大抵は無関心だったし、せいぜい呆れた顔で見送るだけだっ
た。少なくとも自分も女遊びをしたいとは思っていなかったようだ」
「あのなあ」鳴賢は顔をしかめた。「ひとりの女を一途に想いつづけていたろ
う六太と自分を一緒にするなよな。だいたい純情な六太が、商売女との情事に
関心を示すわけがなかろうが」
「それもそうだな。いずれにせよ、恋愛となれば普通はその成就を願うものだ。
片恋とはいえ、いや、だからこそ秘めた想いは強く、当人も抑えようがなかっ
たのかもしれん。だとすれば厄介だな」
「そのことなんだけど、六太の望みと、呪者が設定した解除条件とは似て非な
る事柄だって教えてくれたよな。だったら相手の女性が実際に六太に恋をする
必要はないと思うんだ。想いが通じあうことが六太の最大の望みだったとして、
たとえば相手が愛の言葉を耳元でささやくとか、その程度で呪は解けるんじゃ
ないか? 『お慕いしております。早くお目覚めください』とか何とか、そ
れっぽい言葉を言うわけだ。そもそも呪者は、六太が絶対に望みを明かさない
と確信して安心していた。つまり相手を割りだせると思っていなかったとすれ
ば、解呪につながる動作自体は、そう凝ったものではないと思うんだ」
 すると風漢は眉根を寄せてつぶやいた。
「恋愛の成就のことは、俗に『思いを遂げる』と言うな……」
「風漢!」
 意味するところを瞬時に悟り、鳴賢は戒めるように鋭く叫んだ。聞こえはい
いが、「思いを遂げる」とはすなわち性交することだ。まさかそれらしい女を
言いくるめて片っ端から六太と同衾させ、覚醒するかどうか試すつもりでは。
「安心しろ。六太にしろ相手の女にしろ、誰にも無体を強いるつもりなどない。
そもそも六太にその手の経験はないようだし、いくら恋していても、普通の男
のような生々しい欲望を持っているとは俺には思えぬ。麒麟というものは夢見
がちで理想主義的で、現実を見ない面があるのだ。晏暁紅が何を解呪条件とし
たにせよ、そういった六太の心情からかけ離れた内容にはしておらぬだろう」

531永遠の行方「王と麒麟(163)」:2012/07/15(日) 08:31:34
 その答えにひとまず安堵したものの、風漢は厳しくも思い切りの良い、現実
的な男だ。いよいよとなったら王にどんな進言をするかわかったものではない
し、非常時ゆえ、王もそれに許可を与えるかもしれない。そう考えると、やは
り話すのではなかったと、鳴賢は激しい後悔の念に駆られた。
「か、考えてみたら」
「うん?」
「六太の片恋はそれとして、最大の願いごとが恋の成就というのは違うかもし
れない。いろいろ考えあわせると、相手の女は少なくとも仙だと思うんだ。だ
としたら玄英宮ではなく、地方の州城あたりにいるんじゃないか。それならた
まにしか会えないだろうから日頃は忘れていられる。そうすれば切なくも美し
い思い出として、たまに思い返す程度で心を慰められると思うんだ。これまで
俺にしか話していなかったのも、そうやって普段は忘れていたからかもしれな
い」
「つまり、六太の願いごとは他にあるのでは、と?」
「う、ん……」
 われながら言い訳じみていると思った鳴賢の語調は弱かった。だが風漢は頭
から否定することもなかった。
「確かに恋愛の成就が六太の真の望みかどうかは疑問だ。逆説めくが、六太が
恋に悩んでいるとしたら、それはあくまで国が平らかに治まっているためだろ
う。国が乱れ民が困窮しているなら、麒麟はどうしてもそちらに意識が向き、
自分の望みどころではないはずだからな。つまり恋愛の成就という私的な願い
に優先して、国の安寧という条件があることになる。実際、前に慶国の台輔も
助言してくれたのだが、麒麟が願うのは王か国のことに決まっているそうだ」
「でも麒麟だって人間じゃないか」
 鳴賢は思わず反論していた。事実、六太は人間味あふれた少年だった。それ
はそうだろう、人の形をしている以上、人としての感情がないはずがない。だ
からこそ蓬莱で親に捨てられたことを嘆き、王という存在を国を滅ぼすものと
思いこんだのだ。ならば公に期待されている役目、想定されている性情とは裏
腹に、個人的な幸せをつかみたいと思い、何よりそれを望んでも不思議はない。
それゆえひそかに苦しんでいたのではないか。

532永遠の行方「王と麒麟(164)」:2012/07/15(日) 08:47:05
 とにかく判明している条件にことごとく合致するのが色恋の話題なのだ。風
漢もそれは了解したはずだった。
「それはそれとして」と風漢は続けた。「相手の女を探しだせさえすれば、と
りあえず六太の近習にして様子を見る手もある。問題はその女自身、自分が想
われていることを知らない可能性が高いということか」
「そうだな。突き止めるのも大変だ」
「だが六太の片恋を知らなかった場合に比べれば、はるかに望みはある。おま
えが思いだしてくれたおかげだ。さっそく王に報告の上、どうすべきか検討し
てみることにしよう」
「風漢」座っていた床机から立ちあがった相手を、鳴賢は呼びとめた。
「なんだ?」
「すべては六太のためだと言ったよな? いくら目覚めさせるためでも、意識
を取り戻したあとで六太が苦しむようなことはしないよな?」
「むろんだ」
「その……主上もそう考えてくださるだろうか?」
「大丈夫だ。心配するな」
「ならいいんだ……」
 いずれにしろ、ここまで話してしまった以上、もはや鳴賢にはどうしようも
ない。あとは王の考え次第だった。

 外出から戻った尚隆は、その足で六太の臥室を訪れた。不測の事態に備えて
牀榻の外で不寝番を務めていた女官が、主君の投げた視線ひとつで拝礼してし
めやかに退出する。
 牀榻に足を踏みいれた尚隆は帳を開け、枕元に腰かけた。半身の寝顔を見お
ろしていた彼は、やがて静かに手を伸ばすと、子供らしいまろやかな頬を愛し
げになでた。
「恋を、したか」
 優しい声音で、いたわるようにそっとささやく。
 彼はそれきり口を閉ざしたまま、長らくじっと座りこんでいた。

- 続く -

533名無しさん:2012/07/15(日) 08:51:42
というわけで核心に迫りつつあるようですが、
そもそも動きのない、たらたらしている章なので、これ以降もたらたらします。
他のことをやりながらだったため、投下もたらたらでしたがw

いずれにしてもこれで、踏ん切りがつかずに
ずっと投下を保留にしておいたぶんを含めて出し終わったので、
次回の予定は未定です。
とはいえあまり間を開けると、
せっかく読み返して確認したぶんの記憶も薄れてしまうため、
早めに続きを書けたらいいなぁと思っています。


ちなみに。
自分のイメージ的には、歌うたいなろくたんより
ドラマーなろくたんのほうが元気良さそうで好きなんですが、
今の展開とはあまり結びつかないですな。

534名無しさん:2012/07/16(月) 23:28:33
とてもたくさんの更新が嬉しゅうございました!
段々と確信に近付いて来たようでドキドキです。
鳴賢、探偵役がんばれ!
そして尚隆の「恋を、したか」のセリフが。
その一言だけで色々な想いが詰まっているようで、切なくなりました。

早く続きが読みたーい!とワクテカしています。
またの投下、どうぞ宜しくお願いいたします。<(_ _)>

535名無しさん:2012/07/18(水) 13:10:39
怒濤の伏線回収に唸らせて頂きました。
焦れったいのがたまりません。
気と首を長くして尚隆と六太の幸せを願ってます。

536名無しさん:2012/07/21(土) 04:22:29
うおーーー!いいところで続くになっている。
更新投下お疲れ様でした。
白沢と朱衡の話のところは胸が切なくなりました。
鳴賢いい奴。ろくたんの相手と風漢の正体を知る時が楽しみ。
ろくたんと尚隆があまり辛くなく幸せになれるといいなあ。
続き気長に待っていますので、またお願いします。

537書き手:2012/07/22(日) 09:41:08
>>534-536
こちらこそよろしくお願いします。
完全にストックがなくなってしまい、
続きも書いては消し、書いては消しているとあって
次がいつになるかわかりませんが、忘れられないうちに
またお邪魔できればいいなぁと思います&hearts;

最後の最後にそれなりのカタルシスはあると思うのですが、
じりじり、イライラ、当分はそんな感じですかねー。
マジで前章より長くなるかも(苦笑)。

538台輔来臨(前書き):2013/01/02(水) 18:23:22
新年あけましておめでとうございます。
息抜きに、何度か言及のあった「延台輔が大学を視察した」話を置いていきます。

というか単にサボりのつけで、六太が大学を視察させられる羽目になっただけなので、
本編と異なりコメディ風味。カップリングもなしの他愛のない内容です。
とはいえ例によって勝手な解釈や設定がちらほら顔を出しているので要注意。

539台輔来臨(1):2013/01/02(水) 18:25:23
 大学の教師たちなら、宰輔としての六太の顔を知っている場合もあるので注
意が必要だが、学生相手ならその心配はない。だから大学寮にある学生向けの
飯堂は、六太にとって灯台下暗しの気楽な場所だ。特に楽俊が入学して以来、
何のかんのとお節介を焼いて顔を出した結果、楽俊が親しくする他の学生とも
仲良くやるようになった。
 しばらく前に政務を怠けて宮城を抜け出していた六太は、その日の夕刻、学
業を終えた楽俊や鳴賢らとともに飯堂の方卓に座り、他愛のない雑談を楽しん
でいた。めずらしい菓子の包みを手土産として持参していたため、食後の甘味
としてお茶とともに皆で味わいながら、街の噂話やら厳しい老師の指導への愚
痴やらを聞き、自分も気の向くままに喋っていたとき。
 はす向かいに座る鳴賢の後ろに何気なく目をやった六太は、見覚えのある官
吏の姿に気づいた。反射的に「やばっ」と声をあげて首を縮め、背も丸めて、
鳴賢や楽俊の陰に隠れる。不思議そうな顔になった鳴賢は背後を振り返り、す
ぐそばで老師のひとりと立ち止まって話している青年の姿を認めた。整って柔
和な顔立ちと言い、すらりとした体つきと言い、かなりの美丈夫と言っていい
だろう。仕立ての良い長袍を着ているだけなので身分はわからないが、教師で
も学生でもないのは明らか。件の老師が至極丁寧に応対しているところを見る
と国官、それもかなりの高官と思われた。
「――ああ、周老師を訪ねてきた官吏かな。周老師がこんなところに来るのは
めずらしいけど、それがどうかしたか?」
 姿勢を戻した鳴賢はそう言って、「いや、あの」とあたふたする六太に首を
かしげた。
「どうしました?」
 上から降ってきた声に鳴賢が見上げると、先ほどの青年が笑顔で卓の側に
立っていた。六太は椅子の上で固まったまま、引きつった顔を相手に向けた。
「こんなに幼い少年を大学で見るのはめずらしいですね。あなたもここの学生
ですか?」
 その笑顔が怖い。官服でない朱衡を見るのは久しぶりだ、などと思っている
余裕は六太にはなかった。
「あ、いえ、まさか」絶句している六太に代わって、鳴賢が笑いながら答えた。

540台輔来臨(2):2013/01/02(水) 18:27:51
「違います、俺らの友達です。でもこいつ頭いいから、絶対に大学を目指せ
よって誘ってるんです。な、六太?」
「それは頼もしいですね。楽しみなことです。六太というのですか? 覚えて
おきましょう」
 言葉遣いも物腰もやわらかいものの、笑顔の奥に見え隠れする冷え冷えとし
たものに、六太は心底ぞっとなった。
 だがいつ雷が落ちるか、正体をばらされるかと緊張した彼をそのままに、朱
衡は傍らの老師とともにすぐ立ち去った。ほっとして背もたれに寄りかかった
六太を、鳴賢が不思議そうに眺めた。
「おまえってかなり図太いのに、それでも緊張することがあるんだなぁ。まあ、
高級官吏っぽかったから無理もないけど。もしかしたら老師の教え子かもな。
どこの官吏なんだろ」
 六太の隣では楽俊が、何と言ったらいいのかわからないというふうにひげを
そよがせていた。

 そこで素直に宮城に戻って政務に励めばいいものを、六太は逆に「ほとぼり
が冷めるまで隠れていよう」と考えた。朱衡のことだから、六太があれからす
ぐ大学を逃げ出したと考えると想像し、裏をかくつもりで楽俊の房間に泊まり
こむ。
「そりゃ、おいらはかまわねえですけど。でもいいかげんで戻ったほうがいい
んじゃないんですか? 朱衡さまを怒らせると怖いんでしょう?」
「まあ、そのうちな」
 気楽に答えた六太はそこを拠点に関弓を遊びまわった。
 そんな彼をかくまった楽俊は、数日後の夜、房間に戻った六太に「台輔、実
はお知らせしたいことが」と言いかけた。
「おい、遅いぞ、文張。――なんだ、六太もいたか」
 房間の扉を軽く叩いて開いたのは鳴賢で、頬は上気し、鼻歌まじり。明らか
に酒が入っていた。
「いい酒を手に入れてさ。みんないるから、六太も俺の房間に来いよ」
「うん、行く行く。今日も手土産あるし。ちょうど酒のつまみになる」

541台輔来臨(3):2013/01/02(水) 18:30:12
 六太はそう言って、楽俊への土産に街で買い求めた包みを掲げて見せた。鳴
賢は六太の背をぽんと叩いて「お、気が利くな」と上機嫌で言った。
 鳴賢の房間には他に学生がふたりいて、既にできあがっていた。他の房間か
らも調達したのだろう小さな卓子が三つ並べられており、その上に酒器と雑多
な肴が載っている。卓子の周囲には床机がいくつか置かれていた。
「遅いぞ、文張」
「あれ、六太。まだ文張のところにいたんだ?」
 員数外の六太のために、書卓の下に折り畳まれていた別の床机が引き出され
た。六太は「まーな」と言いながら、土産の包みを卓子に置いて開けた。中に
は季節の木の実や種を炒ったものが入っていた。
「お、うまそう」
「六太は肉も魚もだめだったよね? ここに炒り豆と揚げ饅頭があるよ」
「さあ、まず乾杯だ」
 床机に座った楽俊と六太の前にも、酒の注がれた杯が置かれた。それを持っ
て皆で乾杯する。
「酒は敬之の郷里から送ってきたやつなんだけどさ」
「ほら、台輔が大学を視察なさるだろう。今日はその前祝いというか、景気づ
けに」
 杯に口をつけたばかりの六太は、思いがけない話にブッと酒を吹いた。
「し、視察? な、な、なんで?」
 濡れた口元や胸元を拭くどころではなく、あせって尋ねる。そんなことをし
たら、自分の正体がばれてしまうではないか。
「台輔は大学に興味を持っておられるそうだ。卒業者は無条件で高級官吏にな
れるからかもしれない。すぐにご自分の目の届くところに配属される可能性が
あるってことだからな。もしかしたらこの間飯堂で見た官吏は、その下見に来
たのかも」
 鳴賢は自分の言葉にうんうんとうなずきながら、目を輝かせている。卒業し
て国官になれればまだしも、大学生が王や麒麟に会う機会はまずないからだ。
前祝いをしたくなるのも当然だろう。

542台輔来臨(4):2013/01/02(水) 18:33:05
「でも公ってわけでもないらしい。ごくごく少人数のお供で、おしのびに近い
形で視察なさるとか。俺たち学生を萎縮させたくないとおっしゃったそうだ」
「台輔はお優しいかただからな」
「むろんおそば近くに寄ることは無理だろうけど、万が一お姿を見かけても叩
頭する必要はなく、拱手で良いそうだ。それでも間近でお顔を拝する機会なん
てないだろうけど、何かの拍子に遠くからさりげなく盗み見るくらいならでき
るかもしれない。運が良ければお声をかけていただけるかもしれない」
 浮かれている学生たちに、六太は冷や汗をかきながらも、何とか「へ、
へえー……」と返した。
「何しろ絶世の美少年という噂だからなぁ。ぜひともご尊顔を拝したいものだ
が」
 鳴賢の言葉に六太が目を白黒させていると、鳴賢は片目をつむってからかう
ように言った。
「なんだ、知らないのか? 世慣れているようで六太もやっぱり子供なんだな。
主上が后妃を娶られず、登極当初から五百年間も後宮を空のままにしているの
は、お美しい台輔を一途に寵愛なさっているからなんだぞ。それほど美しいか
たなんだ」
「へあ?」間抜けな声を出す六太。
「主上は、それはそれは台輔を大事になさっているそうだ。小説でもよくやっ
ているだろうが」
 実は斡由の乱を題材にした小説も、王と麒麟の麗しい愛と絆を主題として上
演されることが多い。何しろ最大の見せ場は、敵地に単身乗り込んだ王が数々
の危難をくぐり抜けて無事麒麟を見つける場面なのだから。謀反人に引き離さ
れていた恋人たちがやっと再会する感動の名場面であり、観客も大いに盛り上
がるところである。
「……それ、ぜってー違うから」
 六太は茫然とした顔のまま、あきれたように言った。
「なんで?」
「台輔は男だろーが」
「だから神々しいまでに麗しい美少年なんだって。そこらの女なんか足元にも
及ばないそうだぞ」

543台輔来臨(5):2013/01/02(水) 18:36:09
「なんたって麒麟だからなあ。人間の女なんかと比べられるはずもないよ。そ
れこそ目がつぶれるくらいお美しいに決まっている。そして慈悲深くてお優し
い上に、心から主上を慕っておいでになる。主上が寵愛なさるのも当然だと思
うぞ」
 布を巻いた頭をかかえ、両手でかきむしらんばかりにした六太に、先ほどか
らひげをさわさわさせていた楽俊が気の毒そうな目を向けた。もちろん楽俊が
知らせようとした内容も視察のことだったのだ。

 酒盛りが終わったあと、六太は大慌てで宮城に戻った。既に夜半だったが、
急いで朱衡の官邸を訪ねる。どう考えても、先日大学寮に現われた朱衡と関係
があるとしか思えなかったからだ。
「これはこれは台輔。こんな遅くに何か重大な事件でも?」
 笑みをたたえながらも冷たい空気をまとって現われた朱衡に、六太は「う」
と言葉を詰まらせた。
「いや、その……。朱衡は秋官長だから関係ないかもしれないけど、その、俺
が大学を視察するとか何とか」
「ああ、そのことですか。礼には及びません。どうやら台輔はたいそう大学に
ご興味がおありのご様子。そのお心を汲んで視察の手はずを整えただけですか
ら、臣下として当然のことです。もちろん冢宰や六官にも話は通してあります」
 交渉の余地のない口ぶりだった。六太は「いや、だから、その、あの」と抵
抗を試みたが、朱衡は目の前で超然とたたずんだまま、相変わらず笑みを浮か
べていた。
「お帰りになったらすぐお知らせしようと思っていたのですよ。そうするまで
もなく台輔のほうからお訪ねくださったことですし、視察は明日ということに
いたしましょう」
「へっ? で、でも、政務が」
「おや、ここ十日ほど、朝議でも広徳殿でもお見かけしなかったので、お時間
は充分おありと思っておりました」
「あ、明日は――そう! ちょっと用事が……」

544台輔来臨(6):2013/01/02(水) 18:38:13
「何の用事でしょう? 大宰や大宗伯に確認したところ、ご公務や祭祀の予定
はないそうですが」
 結局ひとことも言い返せずにとぼとぼと帰途についた六太の背中に、朱衡は
追い討ちをかけた。
「それともまたお出かけになるのでしたら、お帰りになり次第すぐ視察という
ことにさせていただきます。ええ、それが朝でも昼でも夜中でも」
 何が何でも視察を遂行させられるらしい。笑顔のまま怒り心頭に発している
様子の朱衡に、さすがに六太は観念した。

 それでも遅まきながら朱衡の機嫌を取ろうとした六太は、久しぶりに朝議に
出た。そのあともちゃんと広徳殿に赴いて政務を執る。だが午後も半ばを過ぎ
たころ、仁重殿に拉致され、大勢の女官に取り囲まれて身支度をさせられる羽
目になった。椅子に座り、女のようにぱたぱたと白粉をはたかれる。
「けほ、な、なに?」
「お口に粉が入ります。しばらくお動きになりませんよう」
 祭祀でもこんな格好をさせられたことはない。だが女官たちは、自身も困惑
しながらも「大司寇のご命令ですので」と六太の身なりを整えていった。念入
りに化粧が施され、紅まで引かれる。用意されていた衣装は常服のたぐいだか
ら、裳を着けたり衣を何枚も重ねるといったことこそなかったものの、宰輔と
もなれば常服もかなり仰々しいものになる。そこに翡翠の佩玉や、玉で飾られ
た小さな冠までつけさせられたため、なかなかに気の重いいでたちになった。
 服はともかく、化粧なんかされたら絶対おかしな仮装にしかならないぞ、と
うんざりした六太だったが、途中ではたと気づいた。
 白粉をはたかれ眉まで描かれ、常服とはいえきらびやかな長衫に肩衣、略式
の冠。ここまで飾ったら、ほとんど別人じゃないだろうか。
「ちょ、ちょっと、鏡見せて」
 普段なら女官にまかせきりのところ、身仕舞いを終えたあとで姿見に映して
みる。

545台輔来臨(7):2013/01/02(水) 18:41:17
 別人に見える……かもしれない。あれだけ白粉をはたかれた割には厚化粧で
はなく、むしろ自然な素顔に見える気がする。気がするだけかもしれないが、
そもそも鳴賢たちは髪を隠して粗末な格好をした六太しか知らない。よほど間
近で見られないかぎり、この盛装なら澄ましていればあるいは……。あとは声
を何とか……。
 実際のところは朱衡も、さすがに大学に出没する正体不明の少年が自国の麒
麟だと知られることは避けたいと考えていた。六太にお灸を据えることが目的
なので、とにもかくにも顔をさらさせて、本人をはらはらさせないことには意
味がない。しかし実際の麒麟を見て幻滅されることも避けたい。へたに真実を
知らせて官吏候補が減ってしまってはたまらないからだ。
 そこで巷に流布している噂を利用し、まさしく絶世の美少年に仕立て上げる
ことにし、この仕儀となった次第である。
(そうだ、どうせ行かなきゃならないんなら、楽俊の力になってやるかな。半
獣だってことで疎まれているらしいし)
 そんなことを考えていると、支度を終えた知らせを受けたのだろう、朱衡が
大宰と連れ立って現われた。
「おや、これは。馬子にも衣装ですね」
 相変わらずの笑顔で言い放った朱衡に、六太はなかば引きつりながらも、自
分も笑みを作って返した。優しげな微笑というのはこれくらいかな、などと考
えながら。おや、と眉を上げた朱衡に、やわらかくも高い声を作って尋ねる。
「それで大司寇、すぐに大学へ?」
 よし、女のように細く優しげに聞こえるぞ。いや、もうちょっとおっとりし
た感じのほうがいいかな。
 あれこれ考えている六太を見て、朱衡もまた挑戦的に微笑しながら「準備は
整ってございます。まいりましょう」と答えた。

 六太の供は、朱衡と大宰、それに護衛が五名。確かにごく少人数のおしのび
だ。大学寮では大学頭と老師陣が一行を出迎えた。
 大学寮、というが、これは学生たちが起居する共同宿舎だけを指す語ではな
く、この場合は大学全体のことである。現代の蓬莱と違い、寮とは役所の部署
につけられる語なのだ。
「台輔のご来駕を賜り、光栄に存じます」

546台輔来臨(8):2013/01/02(水) 18:43:20
 学頭は拱手して歓迎の挨拶をうやうやしく口にした。
(そうか、叩頭じゃなく拱手でいいってのは、俺の顔をさらすためか!)
 ここに至って気づいた六太は歯噛みした。何しろ学頭や老師の何人かは、宮
城で式典の際に会ったことがある。間近で親しく口を利いたわけではないにせ
よ、あまり直視されると、最近大学に入り浸っている自分の正体に気づかれる
かもしれない。
「忙しいところ、世話をかけますね」
 とりあえず適当に答えを返しつつ、ほほえみながら少し首をかしげる愛らし
い仕草をしてみせる。来てしまった以上、別人のように穏やかにたおやかに麗
しくふるまってごまかすしかない。
 さすがに学頭は以前と印象の異なる六太に少々違和感を覚えたようだが、す
ぐ笑顔に戻って挨拶を続け、一行を寮内に導いた。先導するのは学頭、しかし
他の老師もぞろぞろと後をついてくる。非公式とはいえ、もはや「おしのび」
とは名ばかりだった。
「学舎はこちらですが、ご存じのように南側が明法院となっておりまして――」
 大学側と朱衡とで既にどこをどのように見せるかという段取りはつけられて
いるのだろう、基本的に六太は案内されるままについていくだけ、適当に相槌
を打てば、あとは学頭が勝手に喋ってくれた。
「北側の学舎には文章院が――それで最近は堂院も――」
 六太は微笑してうんうんうなずいているものの、実のところ説明は右から左
へ素通りである。本音を言えば早くも飽きが来ていたりする。最初のうちこそ
知り合いにあったらと緊張したが、たまに見かける学生は遠巻きにしているだ
けで近寄ってくる気配はなく、堂院のひとつを見終わった頃には気分は既にだ
らけていた。
 そもそも裾も袖も長くゆったりとした長衫なので歩きにくいし、普段つけな
い冠まで被っているとあって、肩が凝って仕方がないのだ。彼自身が大学の施
設に興味を持ってやってきたわけではないだけに、「まだかなー、早く終わら
ないかなー」と上の空だった。そんな六太に気づいたのか、ふと学頭が言った。
「この向こうが図書府になっておりますが、台輔は少々お疲れのようです。ご
無理をなさってはいけません、ひとまず休憩と致しましょう」

547台輔来臨(9):2013/01/02(水) 18:45:25
「そうだな――い、いえ、そうですね、そうしていただけるとありがたいと思
います」
 すっかり気が抜けて地を出しかけた六太は、あわてて言い直した。
(危ねー、危ねー……)
 貴賓室に通された六太は、さすがに肩は凝るし作り声が続いて息切れはする
しで疲労気味だったが、茶を供されて何とか人心地がついた。
「ところで」と学頭に言う。「半獣の学生がいるそうですね。非常に優秀だと
聞いています」
「え? は、いえ、それは……」
 思いがけない展開だったのだろう、学頭は狼狽して口ごもった。尚隆の計ら
いで高官の推挙という形で入試を受けた楽俊だが、半獣に対して良い印象を持
つ者はやはり少ないのだ。
「他国ではまだまだ半獣を差別しているところもあると聞きますが、分け隔て
なく受けいれてくださった学頭には心からお礼を申しあげます」
「は、はあ」
 学頭はおそるおそるといった体で、半獣を気にかける理由を尋ねた。六太は
「わたしも言うなれば半獣ですから」と朗らかに答えた。
「台輔は神獣であらせられるわけで、半獣というわけでは……」
「いえいえ、同じですよ。人型と獣型の二形を持っているのですから。それで
半獣の学生を、普通の人と何も変わることなく扱っていただけたことが嬉しい
のです」そして爆弾発言。「もしその学生に時間があれば、ぜひ話をしてみた
いのですが」
 学頭は汗を噴きだし、傍らの大宰と朱衡に目を遣った。大宰も朱衡に目を向
けたが、朱衡はわずかに吐息を漏らしてみせただけだった。六太の思惑に気づ
かないはずはないが、彼も楽俊を買っているだけに、あえて止めるつもりはな
いらしい。そもそも止められておとなしく撤回する六太ではない。
「かしこまりました」覚悟を決めたらしい学頭は言った。「ではすぐその者を
呼びにやりましょう」
「彼は今どちらに?」
「さ、どうでしょうな。どこかで授業を受けている最中かもしれませんが」

548台輔来臨(10):2013/01/02(水) 18:47:36
「学頭。その者は今の時間は授業がなかったように記憶しております」
 付き従っていた老師のひとりが助け舟を出した。
「授業がない? とすると、どこにいるのだろう」
「図書府か、でなければ自室に戻って勉強しているか……」
「あー。もう、めんどうくせー」
 ぽりぽりと頭をかきながら、うっかりつぶやいた六太を、あわただしく言葉
を交わしていた学頭と老師がびっくりしたように振り返った。六太は「やばっ」
とばかりに表情を取り繕い、「何か?」とでも言うかのように小首をかしげて
微笑した。学頭らが戸惑い顔で背後の護衛たちに視線を移したところを見ると、
低くぼそりとつぶやいただけに護衛のひとりごとだと思ったのかもしれない。
 いずれにしろ老師のひとりが急いで図書府に楽俊を探しに行き、すぐ戻って
きてそこには姿がなかったと告げた。
「それでしたら宿舎で勉強しているのかもしれませんね」六太はにっこりした。
「この際ですから、わたしたちのほうから出向きましょう。実のところ、宿舎
も見ておきたいと思っていたのですよ」
 六太もさすがにこの喋りかたに疲れてきたところだ。それに動きにくい格好
でいるのにも飽きた。多少なりとも六太を焦らせたことで朱衡も気が済んだろ
うし、さっさと楽俊に会って後押ししてやった上で帰りたい。
「そんな、台輔が」
「どうぞお気遣いなく。では宿舎に案内していただけますか?」
 だが楽俊は自室にはいなかった。学頭らは冷や汗をかいているし、六太もこ
の茶番に飽きている。
「そ、そうだ、学頭、飯堂かもしれません」
 老師のひとりが口にした言葉に、六太は、げ、と後ずさりした。飯堂など、
普段の六太が一番よくたむろしている場所ではないか。
 だがあわてていた学頭らは六太の様子には気づかず、言い出した老師があた
ふたと様子を見に行った。そしてすぐ早足で戻ってきたかと思うと、半獣の学
生が飯堂にいたことを告げたのだった。
 六太は覚悟を決めた。

549台輔来臨(11):2013/01/02(水) 18:49:58

 飯堂には学生の姿がちらほら見受けられた。まだ夕餉には間があるが、楽俊
と同様に、この時間は授業のない学生なのだろう。学頭に先導され、護衛と老
師陣をひきつれた六太に、彼らはすぐ気づいた。おだやかに満ちていたざわめ
きが一瞬高くなったものの、静粛に、との学頭の無言の身振りに黙りこむ。
「台輔。あちらにおるのが半獣の学生です」
 学頭がひとつの卓を示してうやうやしく告げる。おっとりとうなずいた六太
は、優雅な足取りで卓の間を歩き、そこへ向かった。事前の通達があるから平
伏こそしないものの、さすがに直視する勇気のある学生はいないらしい。立っ
ていた者は拱手して頭を下げているし、座っていた者も突然の麒麟の出現に緊
張しているのか、これも顔を伏せてじっとしている。護衛と老師陣が監視する
かのように周囲を厳しく見回していることもあり、せいぜい盗み見るかのよう
に、ちらちらと目を動かすだけだ。
 問題の卓にいたのは、鼠姿の楽俊に鳴賢、そして日頃彼らと親しい学生ふた
り。彼らは堂がざわめいた時点で不思議そうに周囲を見回し、そこで六太と目
が合っていた。ただし金の髪を見るなりあわてて姿勢を正して顔を伏せたので、
顔かたちまでちゃんと見定めたわけではないだろう。
「半獣の学生というのはあなたですね? 会えて嬉しく思います。――ああ、
そのまま。立たなくて良いのですよ。わたしもいわば半獣ですから、気遣いは
無用です」
 卓の傍らに立ち、念入りに作った声で優しい言葉をかける。
「名は何というのですか?」
「張清と申します、台輔」
 楽俊はぺこんと頭を下げてから答えた。一緒に座っている鳴賢たちは明らか
に緊張しており、顔を伏せたまま固まっていた。
「大変優秀だそうですね。特に法律について詳しいとか。わが国の令のうち、
行政法の変遷について記したあなたの論文を読みましたが、なかなか含蓄に富
んだ内容でした」
「おそれいります」

550台輔来臨(12):2013/01/02(水) 18:52:26
「それから朱鳥三十年に定められた称徳格と嘉祥八年の孝文格について、施行
細則である式に関するあなたの解釈は興味深いものでした。ところどころ他国
の法令も引用して比較しているところがすばらしいですね」
 そばで控えている学頭は茫然と六太を見つめている。楽俊はふたたびぺこん
と頭を下げてから、論文を記すに当たって調べた資料に関する考察なども口に
し、六太は優しくうなずきながら聞いていた。
 実のところ楽俊の論文など読んではいないのだが、昨夜のうちに再度宿舎を
訪れ、めぼしい内容を当人にちゃっかり聞いてあったりする。そのときは単に、
学頭の前で最近の学生の論文に言及すれば、大学に興味を持っているという設
定に矛盾が起きないだろうし、何かの役には立つだろうと考えただけだったの
だが。
 あとは六太得意の度胸とはったりである。楽俊のほうもうまく話を合わせて
くれたため、ぼろが出ることはなかった。
「有意義な話を聞けて嬉しく思います。これからも勉学に励んでください」
 最後に六太は楽俊に笑いかけ、ついで学頭にも上品な笑みを向けた。そうし
て来たときと同様に、護衛やら老師やらを引き連れて優雅に退出する。後にし
た飯堂からはすぐ、興奮気味のざわめきが響いてきた。六太は傍らの朱衡を見
上げ、どうだ、とばかりににんまりとした。

「はー、一時はどうなることかと思ったけど、何事もなくて良かった」
 その夜、宮城を抜け出した六太は、性懲りもなく楽俊の房間を訪れてそう
言った。「また朱衡さまのお怒りが……」とたしなめる楽俊を「まあまあ、い
いから」とへらへら笑って押しとどめる。
 そこへ先日のように鳴賢が顔を出した。
「お、またいたな、六太」
「えへへ」
「来いよ、文張が台輔に声をかけてもらったお祝いだ」
「へえ?」
 にやりとした六太は、手招きされるまま、とことことついていった。鳴賢の
房間では先日と同じ面子が待っていて、卓子と床机も同様に並べられ、酒器と
肴があった。杯に酒をそそぎ、にぎやかに乾杯する。

551台輔来臨(13/E):2013/01/02(水) 18:55:06
「すごいんだぜ、六太。なんと台輔がわざわざ文張に声をかけてくださったん
だ」
「しかも文張が前に書いた論文の内容までご存じだった。あの後、周囲の連中
の茫然とした顔と言ったら」
「ほんと。六太にも見せたかった」
 彼らは愉快に笑いながら、酒をつぎあった。
「そりゃ、すごい。俺も見たかったなあ」
「それに台輔は噂どおりのおかただった! もう絶世の美少年!」
 今度は六太は酒を吹かなかったが、何とか無理やり飲みこんだあと、げほげ
ほとむせた。
「び、美少……?」
「むろんぶしつけにお顔を直視できるはずもないけど、台輔がおいでになった
とき、遠目に一瞬お姿を見てしまったんだ。あわてて目をそらしたけど、貴色
の黄色い長衫に玉の冠、黄金の髪がきらきら輝いて、もうお美しいのなんの。
そのあとすぐ、俺らが座っている卓の側にいらしたんだけどさ、想像していた
より小柄で華奢なおかただった!」
 鳴賢たちは椅子に座っていたし、逆に宰輔は立っていたので、ちょうど六太
と同じ身長だということは気づかなかったらしい。それに確かに六太は小柄で
華奢だが、そもそもゆったりと美しくひだを作っていた長衫のおかげで体格な
どはっきりしなかったに違いなく、結局は見る側の思い込み次第なのだ。
「お声も優しくて、細くはかないようでいながら凛としていて、さすがは麒麟
という感じでさ」
「……えーと」
「ああ、これが主上のご寵愛を一身に受けておられるゆえんだなと思ったら―
―」
 興奮気味の鳴賢は、六太の様子など気にしてはいない。茫然としている六太
の服を、傍らの楽俊がちょいちょいと引っぱって耳打ちした。
「こう申しあげては何ですが、自業自得ってもんですよ、台輔」
「……反論する気も起きねー……」
 六太はぼそりとつぶやいた。

552名無しさん:2013/01/10(木) 04:37:54
新年お年玉SS、ありがとうございます〜!
楽俊が誉められるシーンは以前の時も好きなシーンでした
水戸黄門の印籠のごとく、スカッとするシーンです!
楽俊がハッピー

553永遠の行方「王と麒麟(165)」:2013/02/09(土) 16:00:25

 しばらく経ってまた風漢が大学寮を訪ねてきたとき、彼は鳴賢を見るなり
「元気がないな」と言った。あれからいろいろ思い悩んでしまい、そのせいで
自分がやつれて見えることは友人たちに指摘されて承知していたので、鳴賢は
誤魔化すように笑うしかなかった。
 海客の団欒所で新たに聞き知った六太とのやりとりやら、楽俊やその母親が
集めてきた情報やらを懸命に報告する。どれも到底有望な手がかりとは思えな
い些細な内容ばかりだとわかってはいたが、それだけに彼の真摯な思いは伝
わったようだった。
「これを預かってきた」
 ひとしきり話を聞いたあと、風漢は懐の折りたたんだ書状を差し出した。鳴
賢は怪訝そうに書状を開き、はっと息を飲んだ。
 文面自体は簡潔なものだ。尽力に感謝していること、そして件の約束は守る
ので心配は無用であること。他人には何のことやらさっぱりだろうが、最後に
記されていたのは――延王の御名御璽。
「こ、れ……。まさか、ご宸筆……?」
 畏敬のあまり震える声で問うと、風漢はうなずいた。
「安心しろ。呪を解くためであれ何であれ、王は六太のためにならぬことはせ
ん」
 予想外の厚遇に混乱した鳴賢は、茫然とした顔で風漢を見つめた。椅子に
座っていなかったら、脚が萎えて床にへたりこんでいたところだ。しばらく固
まったまま書状を握り締めてから、のろのろと再び文面に視線を落とす。
「……うん」
 長い時間が経ってから、彼はかすかにうなずいた。そして祈るように目を閉
じ、胸元に書状を抱きしめたのだった。

554永遠の行方「王と麒麟(166)」:2013/02/09(土) 16:02:57
 その夜、さまざまな思いが駆けめぐった鳴賢はなかなか眠れなかった。明け
方になってようやくまどろんだが、朝を迎えたときには不思議と気持ちは落ち
着いていた。
 ――主上を信じよう。
 そんな思いが自然に湧きあがる。そもそも一介の大学生に過ぎない彼を王が
慮る必要はないのだ。なのにわざわざ風漢に書状を託してまで気遣ってくれた。
なんという誠実さ、慈悲深さ。そして王を信じると断言した六太の言葉。
 ならば――自分も信じよう。
 そう思い定めると、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになった。伝えるべき
ことはすべて伝えたという思いもあり、鳴賢は今度こそ事態は完全に自分の手
を離れたと感じた。そしてあまりにも少ない手がかりを思えば、六太の眠りを
覚ますことの難しさも冷静に分析できた。だがもう焦りはない。事件の解決に
向けて王が働き続けるかぎり、いつか必ず目覚めると確信できたからだ。
 どこか吹っ切ったふうの彼の様子に楽俊も安心したようだった。「元気が出
たようだな」と言って、その日の授業のあと、夕餉をおごってくれた。敬之や
玄度も顔を出し、老師の講義について四人で久しぶりに熱のこもった意見の交
換をした。
 鳴賢よりずっと早く立ち直っていた敬之たちは、長らく鳴賢が沈んでいたの
も、自分たちと同じく失恋の痛手によるものと考えて気にかけていた。そんな
彼ら自身、以前と比べればどこかに陰りはあった。鳴賢は食事の席で友人たち
の気分を引き立てるように「いろいろあったけど、初心に返ろうと思ってさ」
と晴れやかに笑った。
「大学を卒業して国官になる。そして雁と主上のために一生懸命働くんだ」
 力強く言い切ると、敬之らも「うん」と笑みを向けた。
 六太が養い親と地方に行ったという作り話はとうに伝えてあったが、その延
長で皆で海客の団欒所に連れていくことにもなった。日常と違う世界と接すれ
ば気晴らしになることは経験でわかっていたし、六太の代わりに少しでも海客
らを気遣ってやりたくて、鳴賢が積極的に誘ったのだ。

555永遠の行方「王と麒麟(167)」:2013/02/09(土) 16:05:16
 そうして今回も遠慮した楽俊を除いた三人で出向いた団欒日、親しみやすい
守真はともかく、悠子という娘は相変わらずそっけなかった。しかし以前鳴賢
がぽろりと褒めたことがあったせいか、それでもとげとげしさはかなり薄れて
いた。
「あの子さ」と、守真に呼ばれて少し離れたところで話をしている悠子を眺め、
鳴賢は仲間たちに耳打ちした。「胎果だから、蓬莱では顔がまったく違ったん
だって。それに綺麗な黒髪だったのに、こっちに来たら変な緑の髪になって衝
撃を受けたらしい」
「へえ。別に変な色でもないけどな」
 玄度が不思議そうに言ったが、確かに見た目がまるきり変わってしまったら
衝撃を受けるだろうことは皆納得した。よほど醜かったならともかく、自分の
顔には誰しも愛着があるものだ。女と違ってあまり鏡を見ない鳴賢でさえ、自
分の顔が別人に変わってしまったら相当な打撃になるだろう。
 悠子と話す必要があるときは恂生が通訳したが、基本的には片言が主体のた
め、当然ながらあまり親しいやりとりにはならなかった。それでも例の人形劇
の台本に敬之が興味を示したのは嫌ではなかったらしい。どこか腫れ物に触る
ような守真らと違い、蓬莱の事情に疎い彼らが示す素朴な反応も良いほうに転
んだのかもしれないが、態度は相変わらずそっけないながら、簡単な単語を並
べた筆談に娘が応じるようになったのは進歩だった。
 そうやって鳴賢は穏やかに日々を過ごし、大学ではこれまで以上に勉学に勤
しんだ。たとえ何年、何十年かかろうと、国官になって昇仙すれば、いつまで
も六太の目覚めを待つことができる。ならばそのときが来たら、空白の時間な
ど少しもなかったかのように、「やあ」と笑って六太を迎えよう。
 そんなふうに考えた彼の心には、もはや何の迷いもなかった。逆に玄英宮で
は暗雲が垂れこめつつあったのだが、結局最後までそれを知ることがなかった
のは彼にとって幸いだった。

556永遠の行方「王と麒麟(168)」:2013/02/14(木) 21:01:59

 六太の解呪を任された冬官の一団は、二日に一度程度、仁重殿に伺候してい
た。黄医立会いのもと、これまで六太が関心を見せたとわかっている事柄に由
来する方法で、呪が解けるかどうか地道に試している。
 事件が起きて以降、既に定例になっていたその日の内議において、冬官府か
らの進展なしといういつもの報告を受けたとき、ふと王がこんなことを言い出
した。
「これまでは六太が何を考えていたかを中心に考えてきた。今度は逆に、既存
の思想を当てはめる形で導き出したらどうだ」
「と、おっしゃいますと?」
「たとえば仏教には五欲というものがある。食欲、色欲、睡眠欲、財欲、権力
欲、という。それに該当する形で、六太が望んでいたことがないか調べるのだ」
「五欲……」
「それでは大雑把すぎるというなら、煩悩なら百八つもあるぞ。順に当てはめ
ていけば可能性を網羅しやすく、各人が持っている六太の印象から導き出す方
法に比べて漏れは少なくなると思うが」
「なるほど」
 六官は納得した。五欲と言われても、麒麟を想定した場合は正直なところぴ
んとは来ない。しかし実際に六太が、誰にも明かせないと恥じるほど個人的な
願望を抱いていたと思われる以上、既存の一般論を基点に据えて心情を推し
量ってもいいかもしれない。少なくとも主君が言うように可能性は網羅できる
だろう。
「しかし……たとえば台輔が色欲に囚われていたとは到底思えませんが」
「それならそれでいいだろう。ひとつひとつ可能性を潰していけば、おのずと
選択肢は狭まる」
 そのような会話を交わしたのちに散会となり、朱衡は数日ぶりに仁重殿に見
舞いに赴いた。今日は少々趣向があるのでぜひおいでをと、あらかじめ仁重殿
の女官に乞われていたのだ。同じ内容を伝えられたという尚隆も一緒で、主従
は揃って仁重殿を訪れた。

557永遠の行方「王と麒麟(169)」:2013/02/14(木) 21:06:47
 六太の居室のひとつに通された彼らは、室内をずっと彩り続けている花や菓
子の間にある、たくさんの贈りものを目にした。王から下賜された品はもちろ
ん、女官たちの心づくしや、他の官からの見舞いも多々ある。一番多いのは光
州侯帷湍が定期的に送ってくる品々だった。光州側で新しい情報が何もないた
め、せめてもと思ってやっているのだろう。いずれも女官が日々入れ替えてい
るらしく、朱衡が目にするたびに室内の様相は微妙に異なっていた。
「帷湍は相当気に病んでいるようです」
 贈りものの山を一瞥した朱衡が沈んだ声で言った。
 光州側に落ち度があったと見なされている以上、朱衡に限らず六官が帷湍と
個人的にやりとりするのは好ましくない。何より帷湍自身、公に責任を問われ
こそしていないものの、悔悟の念から私的な行動を慎んでいるらしい。
 それだけに光州からの連絡は官を通した公のものに限られており、玄英宮側
もせいぜい報告の受領を示す簡潔な返信のみで対応していた。そもそもかなり
早い段階で、光州で興味深い情報が見つかることもなくなってしまったため、
宮城でも成果が上がっていないこともあり、いちいち進捗を返す手間をかける
理由がなかったのだ。
 帷湍の心情を汲んで、朱衡もあえて連絡を取ろうとはしていないが、関弓か
ら遠く離れた場所にいる彼の焦燥と悔悟は察して余りある。
「六太のことは、別にあやつのせいではなかろう」尚隆は苦笑した。
「いえ、残念ながら、帷湍の責任は大きいと言わざるを得ません」
「それを言うなら、不用意に出歩いた俺のほうが責任重大だと思うが」
「もちろんです。主上も反省して、二度と軽々しい行動をなさることのないよ
うにお願いいたします」
「わかった、わかった。そうにらむな」
 そう言う主君の口調は相変わらず気楽で、朱衡は小さく溜息をついた。
 六太は居室で、ゆったりした大きな椅子に座らされていた。その前に別の椅
子がいくつも置かれている。主君と朱衡を迎えた女官らは、いったん拝礼して
から彼らに椅子を勧め、そののち自分たちも下座につつましく座った。
「本日は少々趣向がございます」
 そう言ってひとりが綴じた冊子をうやうやしく示したのを見て、朱衡は得心
した。
「鳴賢が送ってきた例の脚本か。海客の娘が内容を考えたという」
「さようでございます。台輔が楽しみにしておられたそうなので、せっかくで
すから読み聞かせて差しあげることにしました」

558永遠の行方「王と麒麟(170)」:2013/02/14(木) 21:10:24
「それはいい。台輔もお喜びになるだろう」
 冊子を手にした女官は、これらが子供向けの物語であり三本あること、その
簡単な内容説明を口にした。さらに元は人形を使う劇の脚本だったとあって、
朗読に際して不足している説明を少々追加したとも。そののち芝居がかったそ
れらしい口調でゆっくりと語りはじめた。
 まずは美しい竜王公主の恋物語。朱衡は六太が恋物語のたぐいに関心がある
とは思わなかったし、何より女性である公主の視点で語られる話だったため、
筋立てそのものには興味を惹かれなかった。しかし途中までは悲恋に終わりそ
うで聞き手をはらはらさせながら、最後は報われて大団円になるという構成は
それなりに興味深いものだった。
 続いて、病気の親のために薬草を摘みに行く兄妹のほのぼのとした冒険譚。
最後は、意地悪な領主を機転でやりこめる少年と動物たちの滑稽譚が語られた。
子供向けで短いとはいえ、いずれもかなり工夫が凝らされた内容で、暴力的な
展開もなかった。本当に六太にこの朗読が聞こえていたなら興がって満足した
に違いない。尚隆でさえ「目新しい上になかなかおもしろい」と感心していた。
「海客が書いたと伺ったときはどうかと思ったものですが、こうして読んでみ
れば意外に楽しい内容でした。台輔が楽しみにしておられたのもわかります」
 語り終えた女官は、にこにこしてそう言った。少しでも六太に心地よく過ご
してもらおうと、毎日、美しい音楽を演奏させているが、これからはこういっ
た物語も入手して語り聞かせてみるつもりだとも。
「そういえば、六太に気に入った女官や侍官はいるのか? いるならその者を
常に侍らせるがよかろう」
 尚隆が言うと、女官は少し考えてから答えた。
「台輔は誰とでもすぐ仲良くなってしまわれるので、突出して寵愛されている
者はおりませんが。おそばに仕える者は皆可愛がっていただいております」
「そうか」
「むしろずっと同じ顔ぶれでお世話しているほうが良いのではないでしょうか。
お目覚めになったとき、いつもの面々でお迎えしたほうが台輔も安心なさるか
と」
「そうだな。しかし気に入った女官のひとりぐらいいても良いだろうに。女遊
びにも関心がないようだし、こうしてあらためて考えると甲斐性のないやつだ」
「主上。台輔をご自分と同列に考えませんように」

559永遠の行方「王と麒麟(171)」:2013/02/14(木) 21:12:40
 ついたしなめた朱衡を、尚隆は「そう硬いことを言うな」と軽くあしらった。
「麒麟だからその手の生々しい欲求がないのは当然としても、少しは女に興味
を示しても良いと思うのだがな。だが、まあ良い。それはそれとして男女を問
わず、よく遊びに行くような親しい相手は地方の州城あたりにおらぬのか。も
しいるならこの際宮城に配置換えをして、六太の側に仕えさせてやろう」
「確かにお目覚めになったときにすぐ会えればお喜びになるでしょうが、わざ
わざ私的にお訪ねになるほど親しい官は遠方にはいないと思いますよ」
 朱衡は答え、あえて言うなら帷湍がそれに当たるのではと指摘した。そもそ
も六太は、地方と言っても下界に遊びに出るならまだしも、州城を訪問するこ
とはほとんどなかったはずだ。むしろ官や政務から逃げようとして、官府のた
ぐいを極力避けていたと言っていい。
「ああ……そうか。そうだったな。ふむ、そういったところは俺と変わらぬ」
尚隆は笑ってうなずいた。
 やがて女官が六太を臥室に運んだあと、暫時、朱衡は人払いして尚隆とふた
りきりになった。
「主上」
「なんだ」
「台輔がお目覚めになったら、女官への口実でも何でもなく、台輔がお望みに
なるものを実際に差しあげてください」
「まあ、言われずとも、いくらでも何でも下賜するが」
 あくまで気楽な調子の主君に、朱衡は吐息を漏らして話題を変えた。
「ところで先ほど女官が読み聞かせた物語のうち竜王公主の話は、鳴賢による
と蓬莱の童話の焼き直しだそうです。元は半人半魚の姫の話で、台輔も知って
おられたとか。悲恋だったのをめでたしめでたしで終わるように変えたそうで
す」
「ほう」
「団欒所での催しに備えたためもあるでしょうが、台輔は蓬莱の伝説や物語に
そこそこ詳しかったようですね」
「ふむ。あれだけ遊びに行っていればな」
「それなのですが……」朱衡はわずかに言いよどんだあとで続けた。「もしや
台輔は、蓬莱に帰って暮らしたいとか、そういった願いを持っておられたので
はないでしょうか」

560永遠の行方「王と麒麟(172)」:2013/02/14(木) 21:16:36
「蓬莱に?」尚隆は意外そうに眉を上げた。
「はい」
「それはないな。六太が帰りたいとしたら、貧しくとも家族で暮らしていた頃
の蓬莱だろう。今の蓬莱ではない」
「そうでしょうか」
「今の蓬莱の様相はな、朱衡。泰麒を連れ戻しに行ったときに俺も見たが、俺
や六太がいた時代とはまったく違うのだ。もはやあそこは、この世界の他国よ
りも遠い遠い異邦だ。六太の帰りたい場所は、既にあれの心の中にしか存在し
ない」
「主上も、ですか?」
 思い切って尋ねると、尚隆は一瞬だけ驚いたような目をしてから、ふと笑ん
で「そうだな」と肯定した。
「帰りたいと思うのは、そこに懐かしい人々がいるからだ。少なくとも思い出
の景色の中で面影を偲ぶことができるからだ。だが今の大きく変貌した蓬莱で
は、六太とてそうはいくまい。そもそもこれまで遊びに行った際に個人的に親
しくなった者は何人かいたようだが、過ぎた歳月を思えば全員没しているだろ
う。たとえば何十年か前、親切な婦人の元にしばらく通って蓬莱語の読み書き
を教えてもらったようだが、その相手もとうにいない。時を遡るすべがない以
上、故人となった知人と再会する方法はなく、ならば少なくとも呪者が設定し
た解呪条件ではない。それにあれで六太はさびしがりやだからな。仮に懐かし
い景色が残っていたとしても、俺やおまえや、日頃から街で親しく触れあって
いた人々がいない場所で暮らしたいとは思うまい。あれはやはり雁を、雁の国
土や人々を愛している」
「そうですか……」
 朱衡はほっとしたような、それでいて手がかりではなかったことに残念なよ
うな複雑な気持ちだった。しばらく考えに沈んだ彼は主君にしみじみと語った。
「景台輔はいろいろ助言してくださいましたが、台輔の最大の願いとやらは、
やはり個人的な事柄なのでしょうね。でなければその場にいた鳴賢に、密かに
手がかりなりと伝えたはずですから。しかしそうなさることはなかった。むし
ろ逆に口を閉ざしてしまわれた。呪者も台輔を鳴賢とふたりにしておきながら、
手がかりを与えられるとは考えていなかった」
「個人的な願い、か……」

561永遠の行方「王と麒麟(173)」:2013/02/14(木) 21:23:16
「願ってはいても、誰にも知られたくないと考えておられた。晏暁紅にあさま
しいと嘲られても、一言も反駁なさらないどころか、むしろ逆に諦めてしまわ
れた。それほど恥じておられたのでしょう。そして実質的に生を放棄すること
になっても口にできないほど真摯な願いでもあった……。
 あらためて思い返してみると、台輔は本当に個人的な望みはまったくと言っ
て良いほど口になさいません。もちろん民に対する慈悲や、はたまた食事のお
好みといったささいなことはいくらでも気軽におっしゃいます。しかし今にし
て思えば、ご自身のごく個人的な事柄に関わるお望みを口になさったことはな
いように思います」
「よもやおまえがそんなことを言いだす日が来るとはな」尚隆はおもしろそう
に笑った。「あれだけ六太が好き勝手に下界を出歩くことに文句を言っていた
というのに」
「それは否定しません。しかしあれは言うなれば籠にこめられた鳥が外に出た
がるようなもので、普通に考えるところの個人的なわがままとは少し違うと思
うのです」
 真剣な顔で妙に理解を示した朱衡に、尚隆は肩をすくめた。
「その意味では、真に十三であった頃から、本当の意味でのわがままを言った
ことは一度もないかも知れぬな」
「そういうお望みがないのであればともかく、どうも台輔は慎重に隠しておら
れたようですね。何もそこまでご自分を軽んじることもないでしょうに。どの
ような内容であれ、台輔が真剣であれば誰も笑ったりしないでしょう」
「だが……もしその願いとやらが、他人の不幸を招くことだったら?」
「不幸、とおっしゃいますと」意外なことを問われ、朱衡は驚いた。
「それはわからん。だが考えてみれば二律背反になる事柄もありうるからな。
六太の性格からすれば、あれの願い自体は他愛のない内容である可能性は高い。
宮城を出て自由に出歩きたいという欲求のようにな。だがそれが明らかになっ
た場合、誰かの生命に深刻な危機を招きかねないとしたら」
 漠然としてはいるものの、まったく考えられない方向性の推測ではなかった
ので朱衡は反論しなかった。少なくとも六太の願い自体が突拍子もない事柄で
あると解釈するよりは、その成就のために邁進した結果、意図せずして他人の
不幸を招きかねない内容としたほうが想像しやすい。それなら六太が伏せるの
はわからないでもないし、むしろ慈悲の麒麟ゆえの動機にふさわしいと言えた。

562永遠の行方「王と麒麟(174)」:2013/02/14(木) 21:26:20
「……哀れだな」
 ふと尚隆がつぶやいたので、朱衡は首をかしげた。
「哀れ、ですか? しかしもし本当に台輔のお望みの結果、思いがけず他人に
害をもたらしかねないのでしたら、台輔が隠しておられたのは理解できます。
内容次第では、麒麟でなくとも躊躇するでしょう」
「そうではない」尚隆は苦く笑った。「元は王という存在を嫌っていたという
六太が、非常時には結局、躊躇せずに自分を犠牲にして俺を救った。麒麟の性
(さが)とはいえ哀れなものだと思ってな。突き詰めてしまえば王など官とど
こも変わらん。無理して救おうとせずとも、いよいよとなれば首をすげ替えれ
ばそれですむ」
 さらりとした調子で怖いことを言う。朱衡は動揺を表に出さないよう注意し
て答えた。
「台輔が主上を嫌っておられたのは昔のことでしょう。それも主上ご自身に責
があるわけではなく、単に蓬莱での幼い時分のご苦労によるもので、今では普
通にお慕いしておられると思いますよ。何より主上と一緒に下界に行かれると
きは、いつも楽しそうにしておられたではないですか」
「ふふ。麒麟は王といると嬉しく、離れているとつらい生きものだそうだから
な」
「それに鳴賢によれば、台輔は晏暁紅のことさえ哀れんでおられました。誰の
ことも哀れんでしまうのが麒麟の性と言えますし、仮に主上をお救いするため
でなくとも、それが雁にもたらされる災厄を避けるためなら、台輔はご自分を
犠牲にするに躊躇はなさらなかったでしょう。主上がおられなくなればすぐに
国が荒れかねませんが、台輔の生命さえあれば主上に障りはないのですから。
 それにしてもこうして振り返ってみると、人ひとりの考えることというのは
意外とわからないものですね。日頃から侍官女官に囲まれて生活なさっていた
台輔のことでさえ」
「そうだな」
「いくら言葉を連ねても、心情のほんの一端しか伝えることはできませんが、
かと言って口にしなければ誰にも何も伝わらない。難しいものです」
 そう言って穏やかに微笑んでみせる。尚隆もどこか困ったような微笑を返し
てきたが、その様子は特に疲れたふうもなく、自棄を起こしているようでもな
かったので、朱衡は杞憂だろうと自分に言い聞かせた。

563名無しさん:2013/02/14(木) 21:29:08
とりあえず今回はここまでです。

564名無しさん:2013/02/17(日) 22:33:17
更新ありがとうございます!
これから尚隆がどのように変化し自分の気持ちに気付いていくのか、先が知りたくてウズウズします。
緻密に伏線を立てておられるので執筆が大変だとは思いますが、
一読者としてwktkしながら、先を読めるのを楽しみにしております。

565名無しさん:2013/02/18(月) 03:42:57
お年玉に続きチョコよりビターかつスイートな物語を読ませて下さる姐さま…!

竜王公主、人魚姫の切ない恋物語とオーバーラップする六太の秘めた思い…、

鳴賢が主上の書状に打ち震える場面は高潔な雰囲気が伝わってきて、そこも好きです。
思えばいつも鳴賢が真実に気づかずに触れているシーンにはドキドキしています。
事実に気づいた時に起こる衝撃を妄想しつつ噛み締めて読んでます。

566書き手:2013/02/24(日) 17:38:10
感想ありがとうございます&hearts;

伏線は……かなり回収したと思うんですが、
もう忘れている細かな部分とか、一部は置き去りになりそうな感じ。
その辺は軽く読み流していただければとw

昨年後半は投下できませんでしたが、実は書いたは書いたものの
またまた踏ん切りがつかずに長いこと寝かせていました。
でもおぼろに章の終わりが見えてきたこともあって、
少し気が楽になったので、さほど間をあけず、
これからちまちま投下していくと思います。
(もっとも実際に章が終わるのはまだまだ先)

とりあえず尚隆がぐるぐるし始めてる3レスを投下。

567永遠の行方「王と麒麟(175)」:2013/02/24(日) 17:41:29

 六太に関する陽子からの書状は膨大と言ってもいい量だった。しかも先ごろまた景麒が
新しく運んできたばかり。
 海客の軍吏による翻訳をしばらく併用した結果、最初はよくわからなかった現代の蓬莱
文も、尚隆なら何とか原文を読みくだせるまでになっていた。こちらの世界も五百年前の
蓬莱も、口語と文語は厳然と区別されていたが、今の蓬莱ではほとんど口語そのままに書
き記すものらしい。それがわかってみれば、そして蓬莱の現代語の特徴をつかんでみれば、
陽子の書状はかなり読みやすい部類だった。先方もその点に気を配って書いているのだろ
うが。
 そうやって必要に迫られたおかげで現代の蓬莱文に慣れた尚隆は、昼間の空いた時間や
夜間を精読や再読に充てることにした。多少手間取っても原文のまま読みくだせるとなれ
ば、他の者が携わるより作業は早い。何より陽子の目で描写された六太は、玄英宮での様
子とはまた違って興味深いものだった。
 ただそれに時間と意識を取られたせいで、毎日のように出向いていた仁重殿への訪問も
少し日が空くようになり、滞在時間そのものも短くなった。六太の近習たちが心細そうな
顔をしたので、政務が忙しい旨を言い訳にしたが、実際のところ尚隆は六太の顔を見るの
を避けていた。
 その日、仁重殿を訪れた尚隆は、久しぶりに人払いをして臥室から女官らを遠ざけた。
鳴賢から片恋の話を聞いた夜に訪れて以来、六太とふたりきりになったのは初めてだった。
 臥牀の傍らの椅子に腰をおろして六太を眺めやる。そのまま黙って半身の顔を見つめて
いた彼は、やがて口元に淋しげな笑みを浮かべた。
 六太の恋の話を聞かされたとき、まず感じたのは紛れもない驚愕だった。麒麟の思考は
本来、自王と自国が第一のはず。そもそも六太の幼い外見では色恋沙汰と縁がないように
思えたし、まさか永遠に覚めない眠りに甘んじるほど真剣な懸想をしていようとは思って
もみなかったのだ。
 実年齢を思えば恋愛経験がないほうがおかしい。しかし普段の六太に色恋に興味を覚え
ているそぶりはなかったため、尚隆は漠然と、その方面の心理は肉体同様幼いままにとど
まっているのだろうと思っていた。

568永遠の行方「王と麒麟(176)」:2013/02/24(日) 17:43:35
 ただし麒麟が恋をするはずがないとまでは考えてはいなかった。これまでいろいろな王
や麒麟と出会ってきたが、男女の場合は明らかに内縁関係に相当する主従もいたからだ。
何年か前に慶で話をした廉麟も、かぎりなく恋愛感情に近い気持ちを主君にいだいている
ようだった。それに実のところ麒麟は普通に喜怒哀楽の情を持っている。六太を見ていれ
ばわかるように、相手を責めたり恨んだりすることさえある。人々に対する慈悲の感情が
はなはだしいだけで、それ以外は浮世離れしているわけではないのだ。ならば異性を恋い
求めることも当然あるだろう。
 ――六太がそうだったとは、うかつにも尚隆が気づかなかっただけで。
 そして当初の驚愕が過ぎ去ったあとは、じわじわと淋しさが胸を占めるようになった。
漠々とした荒野でひとり、風に吹かれているような寂寥感とでも言うか。それは賑やかな
六太の姿が傍らから消えたことで感じた違和感とは比べものにならないほどのわびしさ
だった。
 普通の少年と同じように恋をしたことは、六太自身のためにもどこか安堵を感じていた。
麒麟とておのれのささやかな幸福を求めても良いはずだと思うからだ。だがこれほど長い
時をともにしながら、結局は彼に信用されていなかったという事実による衝撃は予想外に
大きかった。
 何といっても五百年以上を過ごした相手なのだ。臣下の筆頭である上、半身と言われ、
生命を分けあっていると言われ、時には各地を一緒に放浪して楽しく過ごした六太は、名
実ともに一番近しい存在だった。主君と臣下ゆえに一定の距離は置いているとしても、尚
隆はとうに六太を身内と見なしていた。外見の年齢の差による、そして騙されやすく万事
に見通しの甘い六太への自然な庇護心から、いつしか保護者めいた感情をいだくようにも
なっていたし、息子とは言わぬまでも腹違いの弟ぐらいには思っていた。互いに遠慮のな
いやりとりは親しさの発露でもあり、官と違って縁を切ることは不可能という関係は血縁
にも似て、家族のいない尚隆にとって間違いなく一番大事な存在だったのだ。
 だが六太のほうはどうか。彼の麒麟としての忠心を疑ったことはないが、おのれの恋を
秘して一言も語ることがなかったという事実は、尚隆を有象無象と同列に見なしたも同然
だった。六太が真剣に想っているなら他言など絶対にしなかったし、逆にいくらでも助言
し協力もしたろう。だが現実には六太は相談するより、とことん秘すことを選んだ。知り
あって数年しか経たない鳴賢に心の奥底を明かしながら、尚隆にはほのめかすことさえし
なかった。普段は話好きで開けっぴろげな六太が、言葉にも態度にもまったく出さなかっ
たということが、彼の想いの深さと決意の度合いとを物語っている。

569永遠の行方「王と麒麟(177)」:2013/02/24(日) 17:46:23
 鳴賢が指摘したように、相手の女性の生命にも関わる重大な問題であるのは確かだ。尚
隆の立場や、一方的に想いを寄せられて困惑する相手の心情を思いやった結果という解釈
もできよう。何より秘密というものは、いったん誰かに喋ってしまえばどうしても漏れる
ものだ。六太の片恋が鳴賢から尚隆に伝わったように。それを考えれば、本気で秘密を守
りたいなら誰に対してであれ口にしないに限る。
 だがそれならそれで、なぜ鳴賢には明かしたのか。ある意味では尚隆ほど秘さねばなら
ない相手もいないだろうが、生命を分けあっている半身として、主従ゆえではなく友情と
信頼から相談してくれても良かったろうにと考えてしまうのは仕方がない。
 六太にとって、王である自分は特別だとずっと信じてきた。それは紛れもない事実では
あったが、王と麒麟の枠を一歩も逸脱するものでないなら非常に淋しいことだった。主従
間で友情が成立すると考えるほどおめでたい思考はしていないつもりだったが、半身とさ
れる六太なら、それに近い関係を育めるような気がしていた――いや、実際に育んできた
と無意識に思っていたのだ。
 考えれば考えるほど、押しよせる現実に気が滅入ってきて、尚隆は声もなく笑った。思
いのほか打撃を受けているのがおかしかったし、そんな自分が哀れでもあった。鳴賢から
話を聞いた直後は驚きが勝っていたが、時間の経過とともに淋しさは増していった。考え
るほどに、自分が本当はいかに孤独であったのかを思い知らされた気がした。
「だが……おまえも孤独だったのだろうな」
 ふと声に出して六太に語りかける。
 仏教の五欲にかこつけて話を振ったものの、六太が苦しい片恋をしているなどと考える
官はひとりもいなかった。むしろ色欲を否定していた。仁重殿の女官が六太に、海客の娘
が書いた物語を読み聞かせたが、その中に恋物語が一編あった。だが一緒に聞いた朱衡が、
六太が男女の恋模様そのものに興味を持っていたわけではなかろうと考えているのは明ら
かだった。
 想像してもいないということは、その種の事態を歓迎していないことの表われでもあろ
う。麒麟の恋など誰も歓迎しないという鳴賢の指摘は正しい。
 尚隆が孤独なら、人知れず片恋に苦しんでいた六太もまた孤独だったのだ。




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