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救命天使・りたリン♥
24
:
痛!サクリファイス
:2004/01/09(金) 22:58 ID:aAfQilAE
――僕は冴え渡っている。読みがことごとく的中する。
――目の前のおっさんはあと7秒で咥えタバコに火を着ける。6秒でも8秒でもない。
――あの子供は3秒後に角から飛び出した原チャに轢かれる。…2、…1、…ほら。
――何故だ? 徹夜のせいか? それとも、りたリンの元気って、こんな副作用があるのか?
恐ろしく鋭敏な感覚を得た青年は学校への途上、信号機が普段より2秒遅れている事に気付き、
苛立ちを抑えるのに一苦労であった。
レポートを提出して回った翔は、約束の時間を30秒過ぎて現れた秋山の姿を
傾きかけた太陽の方向に見つけた。秋山は友人と連れ立って歩いてくる。
「俺の貸したあれやこれやは、結局役に立ったようだな。」
満足げな表情。そんな彼らに向かって翔は、眼光鋭く倣岸に言い放った。
「一日に30時間のレポート書きという矛盾! 無知な者には到達できぬ境地。」
姿勢を正しているせいか、翔はやつれた割に普段よりも上背を持っている。
「そうか…。じゃあこれが次の課題だ。」
一瞬翔の気迫に飲まれかけた秋山だったが、すぐに鞄から紙の束を取り出すと両手で翔に手渡した。
ずしりと重い。昨日貸して貰った分量を、さらに上回っている。
「これは?」
「お前が取った選択科目の課題だよ。いやー、みんなに協力してもらって
お前の取ってる講座調べまくったんだぞ。感謝して欲しいもんだ。
まぁ頑張れよ、上手くすれば今期はオールAも取れるぜ。」
秋山の口元が、僅かに歪んでいる。不埒にも笑い声を上げる者までいた。
手にした膨大な量の紙の山を前に呆然と立ち尽くす翔を置いて、秋山たちは夕陽の方角へと足並みを揃えた。
「終わったら、飲みに行こうな!」
背を向けたまま右手の親指を天高く突き上げる秋山の姿が、やけに眩しく見えた。
次の課題を受け取ってから、さらに24時間経過。
少し寝て、レポートに取り掛かり、また少し寝て、机に向かい。
それを繰り返している内に鋭敏な感覚は去ってしまい、やる気が出て来ない。
寝転がって天井を仰ぐも、課題が進む訳ではない。
「何やってんの。元気だせ、翔。」
注射器から聞こえた天使の声に、翔は身を起こしてコップの水を飲み干した。足りない。
グラスに水を注ぎ足すべく、彼は錠剤を手に立ち上がって陽の当たらないキッチンへ向かった。
25
:
痛!サクリファイス
:2004/01/09(金) 22:59 ID:aAfQilAE
今時珍しい、小学校の校庭に備えられたような蛇口を回す。水は出て来なかった。
蛇口を全開にしてみたが、徒労だった。
何故か玄関のポストが気になり、大急ぎでポストから色取り取りの紙束を取り出して見る。
蛇口から水が出ない理由が、一枚の葉書に書かれていた。
『督促状 井川様……市水道局』
どうやら督促状はそれだけではなさそうである。翔は次々と現れる葉書に目を奪われて行った。
携帯電話、ガス、電気、『笑って元気になる会』の未払い会費と退会費、
借りっ放しだったVISUALBUM "親切"と"安心"の延滞料金、エトセトラエトセトラ…
「ギャアアァァァァァム!!!」
りたリンは自分から部屋に現れ、突然響いた叫び声を辿って玄関へ急いだ。
翔が、うずくまっている。頭を抱えて呟いている。
「もうダメだ、もうダメダメだ、もうダメダメダメだ、もうダメダメダメダメダメだ…」
余りの哀れさに、りたリンは「『ダメ』が一個多いよ」と声を掛ける事も躊躇われた。
恐らく鬱状態の時には見えなかった財政危機を、心の準備なしに直視してしまったのであろう。
やっと本来の姿を取り戻したと思われた翔の精神は、支払い不可能な債務を前に
改善どころか大きく後退してしまった。
虚ろな目で、念仏を唱えるように。冷たい石の床から立とうとはせずに。
りたリンが手をこまねいていると表のチャイムが鳴り、彼女は取り敢えず
応対不可能な部屋の主に替わって返事をした。
「おや、奥さんですか?」
「違いますけど、何の御用でしょうか?」
りたリンが努めて冷静に応対すると、屋外の声は一呼吸置いて止めを放った――
「今月分の家賃、未払いも纏めて早めにお願いしますね。じゃ、また伺います。」
扉の向こうから人の気配が消えたかと思うと、翔は応対を終えた救命天使を
これ以上はないと言うほど情けない表情で見上げた。
「えっと…翔?」
翔は目を大きく見開き、りたリンの太腿に飛び付いて大声を上げ、涙を鼻水を
ピンクのスカートにこすり付けた。
(続くのか? それより続けられるのか?)
26
:
名もなき股裂き人形
:2004/01/09(金) 23:05 ID:aAfQilAE
ダレ気味かも。駄文失礼。
つーか「りたリン♥」の世界観ぶち壊してるんじゃないかと不安。
大丈夫なのか俺…?
正直、お絵描きのできる人が羨ましい。
ぼくちんが描いたら、多分
・びすけっと(DQ)
・まつやん(ときメモ)
・宮自慰(FE)
扱いされかねないから、絶対お絵描きしない。
無駄口失礼。
27
:
食べごろ
:2004/01/17(土) 15:23 ID:HApuJQ2w
つづききぼう
// ミ
▽゚Д゚ミ
/|\ シドイ
/\ >∋(ο:)--匚|┫
28
:
名もなき股裂き人形
:2004/01/22(木) 10:26 ID:1HPrbVm6
___gggeesaeg___
_ga\f~~~^ ~~?ta、
gaff~~ rttr ^゚ft。
gff~ ___gllllgggg ~t。
gff「 .iiiiiiiifllll[[『゛ 」
qff゛ ]llllt 』
g[゛ gff=guartggMff゚?ta__ 【゜
j[】 _gtf『::::::~tyf「゛::::::::::::::::::~~\g[
~]t。 __ gtff『:::::::::::::::::::~t、::::::::::::::::::::::::::::~~9g。
~5a_ f[『~~~:::::::::::::::::::::::::::::::~r::::::::::::::::::::::::::::::::::::][f
~f]:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::]tf5。::::::::::::::::::::::::: ][f やる気なんて売っていない。
[f:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::] ~t、::::::::::::::::::::::::][[ その気になるまで待つしかない。
][:::::::::::::::::::::::::::【::::][ ::::]::::::::】 ]f::::M::::ggii::::::][[ がんばりすぎは事故の元。
_iii:::::::::::::::::::::::::::::::[::::[ ]:::[]::::::]゜ iiiikf[ llllllll::::::[f゜ かる〜くまろやかに生きましょ♪
g[::[[ ]:::::::::::::::::]( f~]::][_】][ _iiii( ~ff~iiii[[g[[f『゜
ff:::::『::::]t、 ]t、 ~t【 iiiillllllllfft。 【~gf゛][~~~ffs。
][:::::::::::::::::]iiii!]f::::::::::::]○lllliiiit ~lii ]g::::::::【]t、 以上、りたリンでした♪
iiii]:::::::::: gllll( 【::::::::)fgiiiiiiiillllf ] 4r __]t_:::::]ff]f
g[ ][ __ _iiii[ ][::::::::]~ftg~__g[g、 )f 「~~]iiii[g:[ヾ _g。
[gf]]ullllし _[f:::::::] ~~~~^ 」 giiii[゚]f[、 gf『゛ ]】
f『 iiii[】 gf ]:::::】 /゚くヽ 「~^f゛ _gf[~ ~t_]t、 _ff~ gff
[[ ]f゛ _gffiiiifftggg___ gr「 ~ta ~f】 _f[゛ g[(
_[゜ /_af~ [[ ~~~~~?ffffffff~ ]』 iiii _ff゜ f](
〈 gf゛ ~fiiii____ ]llll_gggff『~゜]iiii。 _[[ ][し
r^ ]t ~~~~『ffff『『~~~~゜ gff~fg[[ ~゚]f gggttf( ____]し
]]r [[^fiiiillll[ 〈~fta__[し gfffff~~~~)g
_iiiita___ ~ttff~~]tg ~][ ][、 _ggtf[、
29
:
ウワァァァァァァヽ(`Д´)ノァァァァァァン!
:2004/01/24(土) 00:48 ID:CygLNjG6
__────、
--"" |
--"" _ |
--" ヽ ヽ、、 |
/ 、、、ゝ 、、ゝ |
/ ヽ,,、、 ヽ |,,,,,,
/ ヽ,,、'' /⌒゛""::::::::ヽ,,,
/ ,,ヘ / ::::::::::::::::::::::::::::::"ヽ、
/ ヾ゛:::∨:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽヽ、
/ ,,ヾ゛:::::::::::ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽヽ
/ ,,,,,,、ヾ゛:::::::::::::::::::::ヽ、:::ヽ,,,::::::::::::ヽ、::::::::::::::::::ヽ リ
>>28
、あんたはすごい
/ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽヽ、::゛':::-、、::::ヽ、:::::::::\::ヽ あんたはつよい
| /:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: | ヽ:::::ヽヽ:::;,,、;;::::::リ:::| だからあげるよ
| |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: | \:::Χ ,..,,,!,i':::::リ 15point
| |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: | ヽ、|/( |::::|ヽ
ヘ │:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::;;;;;::::: | リ ;;;;;;; |:::::::ヽ、 つーかAA教えて下さい
\、.. │:::::::::::::::::::::::::::::::::::::/:::::゛''リ ヽ;;;;;;;;|;;;:::::::::\ まじで
゛”┤:::::::::::::::::::::::::::::::::::/::::::::::;i ̄"''' ヽ;;;;/ ヽλ:::|
___∧::::!:::::::::::!:::::::::::::::|::::::::/;;( | > |::ノ ::ノ
/ /::ヽ:::|ヽ::::::ヽ、::::::i:::|:::::/;;;;;;,,,,,ヽ;;;| |::λヽ
/ /::::丶:::!ヽ、::::::ヽ、::::ト、:::/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;| ノ| |:::リ;;;;;::::、
/ |::i:::ヽ|;;;;ヽ、::::::ヽ:::\ヽ、\;;;;;;;;;;/ <彡 |::::リ;;;;;;;;::::、
/ |::::::|;;;;;;;;;ヽ、::::::\:::::::::゜:::\─ w / ゛、;;;;;;;;;;;;;;;;、
/ i:::::|;;;;;;;;;;;||;;;ヽノゝノ:::ノ::::::::::::\ / ”''''---ゝ
|;;;;;;;;;;||;;;;;;;;;;;;;;;/ヽ::::::::::::::::ヽ、 ,,, -イ ̄ ̄ ̄"''ヽ
/ ̄ ̄ ̄ |;;;;;;;;;||;;;;;;;;;;;;;/ \:::::::::ゝ-ナ""" │ _- /
/ |;;;;;;;;;||;;;;;;;;;;/\i\,,ヽイリ」__-------┐ /ヽイ- 、
/ / |;;;;;;;||;;;;;;;;/\ | ヽ( χノ | ヽ
. / / ̄ ̄ ̄-|;;;;;;;||;;;;;/ \ ヽ/ ̄ ̄""--、、 / ヽ
" / ヽ;;;;||;;;;| \│  ̄ヽ _-- \ ヽ\
30
:
名もなき股裂き人形
:2004/01/24(土) 12:13 ID:MSwPCp/6
申し訳ございません、遊んでいたら遅くなりました。
三話目、何とかUP可能状態に。正当なる萌えを目指して投下開始。
>28-29
わーい、りたリンだ。励ましてくれるんだね。
忠告ありがとうございます。
ただ僕は筋金入りのナマケモノなんで、肩肘張るくらいで丁度いいのかも知れませんけど…。
以下、>16-25の続きより。
31
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:14 ID:MSwPCp/6
青年は泣き続けている。
愛くるしい救命天使のスカートに鼻水をこすり付けてひたすら泣いている。
「りたリン、どおしよぉ?」
如何ともし様がなかった。これは救命天使の管轄と言うよりも、銭金の仕事であろう。
「もう、汚いなぁ。私のお気に汚さないでよ。」
「でも、でもぉ…」
飼い主に捨てられた仔犬と言うのは、こんな顔をしているのだろうか。
りたリンがそのような感想を抱くのも、顔一面を濡らした翔の情けない表情を見れば無理からぬ事であった。
「ほら、元気あげるからそんな情けない顔しないでよ。」
鼻水をすすりながらやっと顔を上げた翔は3錠を飲み込み、懐から財布を取り出すと
りたリンに一枚の紙切れを示した。
「無いよ。お金なんてもう手元に無いって。残額を見てみなよ、421円しかないよ。」
翔をしがみつくままにさせながら、紙切れことATMの利用明細を眺めて、りたリンは小首を傾げた。
「ねぇ翔、最後の利用日が先月になってるよ。
ここんとこドタバタしてたから、君その間銀行にも行ってないんじゃない?
もしかしたら仕送りとか入金とかあるかも知れないじゃない。」
正論であろう。けれど、もし行ってみて入金がなかったら――
翔は再び財政危機と向かい合わねばならない。帰った時それ程の元気が残っているものだろうか。
「まだATMは開いてる時間じゃない? とにかく銀行に行って見なさいよ。この、えーっと…」
紙切れを凝視する内、りたリンの眉が何故かしら寄って小じわを作った。
「何? りたリンもしかして字が読めないの?」
やや落ち着きを取り戻した翔の問いを、りたリンは即座に否定した。
「ゴーストバンクって、本当にこんな名前の銀行があるの?」
「りたリンって世間知らずだなぁ。最近出来た外資系の銀行だよ。」
「世間知らずって、引き篭もりのアンタにだけは言われたくない! さっさと行きなさい!」
尻を蹴られるように、翔は玄関の外へと放り出された。
外資系銀行、ゴーストバンクの地下入り口から出て来た青年の足取りは、やはり重かった。
新たに記帳された預金通帳の数字を眺めてみる。以前の利子が付いて残額423円也。
確かに救命天使の言う通り少々の入金はあった。だが如何せん、債務の全てを清算するには程遠い。
霞を食う訳にも行かないから、食う分を確保するとなると――
「やっぱりバイトする他ないか…」
翔は独り言にがっくりと肩を落とし、足を引き摺りながら家路に着いた。
32
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:15 ID:MSwPCp/6
以前より少しは小奇麗になった夕闇のLDで、翔は帰路で買ってきたアルバイト情報誌を眺めていた。
「なになに…『来たれ貧しき者 パチンコ「エスポワール」?』ダメだ、月給制だ。」
仕事は探せばあるものである。
但し、今の翔に合う仕事は限られていた。
コンビニで携帯電話の未払いは何とか済ませた。水道も明日には復旧するだろう。
早く支払いを済ませない限り、支払いの済んでいない電気もガスも止められてしまう。家賃だって心配である。
つまり現在の翔に適した条件は、日払いで当座の危機を乗り越える事。
それが済めば月給制のバイトでも構いはしないが、今は無理である。
「最近じゃ中々そういうバイトはないか…」
溜息を付いて本を畳み、後方に背伸びをする翔。逆さまに映るりたリンと目が合った。
先刻まで覗き込んでいたのであろうか。翔には全く気付く余裕は無かった。
「仕事探し、手伝ってあげようか? その本で。」
「自分でやるよ。それより服、大丈夫なの?」
翔の言葉に唸ってから、りたリンは掌を拳で叩いた。
「ああ、さっき翔が汚した奴ね。あれは洗濯中。」
そう言うりたリンの服装は、先刻と全く変わっていない。翔がその旨を伝えると
彼女はムキになって反論した。
「今着てるのは違う服よ! ほら、ボタンの位置とか微妙に違うでしょ?」
「パタリロ」
「パタリロって言うなぁ! あんな歩くスピロヘータと一緒にしないでよ!」
りたリンが翔の頭に何度も注射器を突き刺す最中、玄関に人の気配がした。大家だろうか。
「鍵掛けてないのかよ、無用心だなぁ。」
底抜けに明るい男の声が、LDまで響き渡った。翔の数少ない友人、秋山だ。
秋山は遠慮する素振りも見せず、二人のいるLDまで入り込んで来た。
「何で君がここに来るんだ?」
「電話掛けても出なかったから直接来たんだ。何だこの家、酒もドリンクも茶もロクにないな。」
「で、何で家に来たのか教えてくれないのか?」
翔は座ったまま、勝手知ったる様子で戸棚を開けて取り出したコップに冷蔵庫のミネラルウォーターを注ぐ
秋山に向かって呼びかけた。
「知り合いがバイト探してるんだ。あんまり人が来ないから、日払いでもいいって言ってたぜ。」
「人の取って置きを勝手に飲むなよ。それをチビチビやりながら水道水をやるのが楽しみなのに…」
「翔、それって絶対変だよ。」
友人の傍らに立つピンクの少女を、秋山はその声で初めて認識したようであった。
33
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:16 ID:MSwPCp/6
「何だ、彼女がいたのか。可愛いな、同棲してるのか?」
コップを片手にからかうような秋山の態度に、りたリンは頬を膨らました。
「こんな変人と同棲するような物好きがいたら、教えて欲しいわ。」
彼女の態度が可笑しかったのか、秋山は腹を抱えて一通り笑うと真面目な態度に戻った。
「なぁ、彼女もバイトする? 女っ気が無くて困ってるとも言ってたし」
秋山がそう言った途端、りたリンの態度が浮付いた。肩を揺らし視線を泳がせている。
翔の見立てでは、彼女は労働の経験自体が無さそうであった。
「コイツ働いた事がないから、戸惑っているんだよ。」
「何よ、誰かさんの為に日々粉骨砕身しているのは、一体誰だと思ってるの?
君がもっとシッカリしてたら、私の苦労は今の十分の一で済むんだからね!」
まるで甲斐性のない夫とその妻が織り成すような会話である。
そう秋山が言うと二人とも黙り込んでしまい、場に不自然な静寂が訪れた。
その沈黙を破ったのも、やはり饒舌な友人であった。携帯電話を取り出し、何処かと通話する。
「もしもし、オレオレ。うん、そう。二人。女の子もいるよ。日払いでお願い。
え、明日から? 分かった、そう伝えとく。ではまた。」
秋山が懐に携帯電話を仕舞い込んだその時、翔は彼に食って掛かった。
「何を勝手な事するんだ、僕は受けたとは行ってないぞ!」
胸倉を掴まれても、秋山は極めて冷静だった。視線を落として机上を見つめる。
「それは何だ、アンじゃないか。バイト探しの途中だったんだろう?
ならこんな条件のいいアルバイト、即座に引き受けると思うんだけどな。」
そう言って秋山は胸元の緩みを確かめると、今度は所在なさげに立っていたりたリンに顔を向ける。
「君にとってもいい話だよ。何せ先方は、とにかく女の子の店員が欲しいそうだから。」
「店員?店か…」
そうだよと一言、脱力した翔に向かって云うと秋山は、挨拶もそこそこに玄関へと去って行く。
廊下に響く高らかな歌声が、その場に反響し続けた。
――明日という字は 明るい日と書くのね――
「それ私の呪文!」
玄関の方向に叫ぶりたリンを、翔が引き止めた。
「まぁまぁ、僕も知ってる位だから。それにしても」
「変わった人だよね、秋山クンって。もしや類友――」
「言うなっ。ストーカーと一緒にするな!」
翔はそう叫んで和室に行き、早々と万年床に潜り込んでしまった。
残されたりたリンも、来る日をどう過ごすかという命題に眉間を抱えつつ、注射器にその姿を消した。
34
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:18 ID:MSwPCp/6
翌日。
空が茜色に染まりかける頃、翔は駅前の雑踏から少し入り込んだ路地に立っていた。
昨日友人が去り際に残して行った紙切れを手にし、見上げた看板を読み上げる。
「『呑み処 世界のへそ』ここだな。よし」
彼はすぅ、と息を飲み込んで――
♪りたりたりたリン りたりた――
「何でいつも普通に呼び出さないのよ!」
突如胸元から飛び出た救命天使が、逆さ肩車の要領で翔の肩に乗り、頭を両膝で抱え込む。
りたリンの太股の感触が頬に触れ、体温に包まれる。頚骨を強く引きずられ、翔の世界が上下する。
三半規管が大きく回転し、背中にアスファルトの衝撃を受けたかと思うと、
翔は自分が召喚した天使が胸板に体重を掛けている様子を朧げに感じ取り、太股の間で
うめくように呟いた。
「フランケンシュタイナー、か。でも何だかいい眺め、かも…」
ヒキガエルが自動車に轢かれたかのような短い声が裏通りに響いたかと思うと、
看板の下からヒゲ面の中年男性がやって来た。
「おお、君たちか。秋山クンから話は聞いとるよ。
さあ、早く着替えて。おっと、お嬢ちゃんはそのまんまの格好でいいからね。」
おっとりとした口調だが、彼は相手に喋らせる余裕を与えない。
人柄は良さそうだが、好色そうな目。同じく好色そうな口ひげ。
全体を見渡した限り、小太りな彼に抱く印象はビール樽だろうか。
いや、小柄だからミニ樽と表現した方が良さそうである。
「あ、申し遅れたけど僕、店長。」
てんちょう、と強調してビア樽は簡潔に自己紹介をした。
立ち上がりつつ不信の目で眺める翔達の表情に、果たしてビア樽は気付いたか否か。
ビア樽こと店長に案内された『呑み処 世界のへそ』は不思議な空間であった。
翔達は店名から立ち飲みの店を連想していたのだか、どちらかと言うとカウンター付のサロンと言った風情か。
青いラグカーペットに、降り注ぐ赤み掛かった照明。
壁に掛かっている、F=ベーコンの複製画。一つ一つ形状の違うカウンターの椅子。
店内に流れる、60年代調の怪しげな音楽。天井から吊り下げられた巨大なミラーボール。
空間に染み付いたタバコの匂いと、それに混じった嗅ぎ慣れないべったりと甘く重い匂い。
35
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:19 ID:MSwPCp/6
ここは――異次元の魔境だ。
ただ立っている人間の色彩や平衡感覚を破壊する魔境。翔は立ちくらみを覚え、その場にへたり込んだ。
頭を抱えて蹲る。
「こんな、こんな魔境――」
「まきょう? ああ魔境ね、って君、そりゃ酷いよ。
この店には昆虫料理だってないし、青竜刀持った大男だっていないよ。
第一、君はムチも拳銃も帽子だって持ってないじゃないか。」
そういう問題で言った訳ではない。それに第一、このような非人間的な環境下で
客商売など成り立つものであろうか。
翔がその旨を伝えると、店長は実に嬉しそうな表情を見せた。
「心配しなくていいよ。ほらもうすぐ開店だ、ここもお客さんで一杯になるから
君も早く準備してくれたまえ。ああそこの君、名前は?」
店長は翔の背中をぽんと叩いて、顔を上げた。
「救命天使・りたリン♥と言います。よろしく。」
「りたリン? 変わった名前だねぇ。まあいいや、君はそのままの格好でいいから。」
もみ手をしながら、店長は二人の新人を残し、厨房へと消えて行く。
りたリンはまだ何か呟いていた翔に近付き、何かを手の中に握り込ませた。
新人たちの予想に反し、「世界のへそ」は埋まった客で猥雑な雰囲気を醸し出していた。
確かにこれでは、店長一人で切り盛りする事は不可能に近い。
次々と降りかかる注文を前に、新人の男の子は店内を縦横無尽に奔走していた。
「兄ちゃん、『流星』追加ね」「おーい、『竜馬』温燗で」
「はい、よろこんでお持ち致します!」
しかし客の注目を集めたのは、やはりナース姿の女の子だった。サロンに陣取っていた客の一団が、
清酒「伊賀」を運んできたナース姿を呼び止め、禿髪が話し掛けた。
「お嬢ちゃん可愛いねい。年は幾つ、おさわりOKかい?」
「止めときなよ正木さん。こんな孫みたいな年頃の娘さんに手出したりしたら、カミサンに叱られるぞ。」
「何言ってるんだ伊吹さん、こんな可愛い子は家におらんよ。
それにな、男はみんな生涯現役。あんただってそうだろ?」
「あんたは特別なんだよ時実先生。おい嬢ちゃん、何なら住む処の世話でもしてあげようか?
俺は勃たないから人畜無害だよ。」
がはは、と言う笑い声が店内の喧騒に溶けて行った。
りたリンはひたすら笑顔を作りながら厨房へと足を向ける。しばらくすると店の奥底から
甲高い罵声が聞こえてきた。
「何よあのセクハラ親爺共! こっちが下手に出てるからっていい気になるんじゃない!」
だがそんな悲鳴は、店内の喧騒を切り裂いて客の耳に入るには少し小さ過ぎた。
36
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:20 ID:MSwPCp/6
颯爽とした空気が淀んだ地の底に降り立って来る。
女が一人、半地下階にあるカーペットへに足を踏み入れた。年恰好は30代半ばと言った所か。
ワカメ頭が印象的な、厚化粧の女。この世の全てを醒めた目で見下す高飛車な物腰。
彼女はカウンターに座ると、新人の店員を呼び付けて注文した。
「『怪魔』を頂戴。」
ワカメ頭は低く妖艶な声でそう言うと、値踏みするような笑顔を見せた。
青年と云うには少しばかり歳を重ねた金髪男が、一人降り立って来る。容貌は中々の美形であった。
見下すように店内を一瞥して、拳に二つ握り込まれた光る小さな鉄球を弄ぶ。
球面に映った小さな二つの世界が、神の気紛れに大きく揺れた。
金髪はゆっくりとした足取りでカウンターに向かうと、先程のワカメ頭の隣に腰掛けた。
どうやら彼女とは顔見知りらしい。
「『疾風』を貰おうか。」
鉄球に映った世界から目を離さずに、金髪は焼酎を注文した。
眼鏡を掛けた痩身長躯の中年男性が一人、降り立って来る。
何より異様だったのは、彼がペロペロキャンディを手にしていた事であろうか。
「やっほお、おヒサ。『一度死んだ仲間には、もう会えない』ってアレ、嘘だよね。
殺したはずの女の子が竜になって出て来るんだもん。最後は挙句に主人公ともくっ付くし。
何の話か知らない? 判んないよね、そうよね、あはは」
彼は陽気に話す合間を縫って、時折ペロペロキャンディを舐める。
背を叩かれた客が、当惑した視線を泳がせた。
――可哀相な、人なのか。
だが男はカウンターにやって来て金髪の隣に座ると、初対面の印象を大きく拭い去った。
眼鏡を外す。翔が近づいて顔をよく見てみると、稀代の悪相であった。
眼光は異様に鋭く、顔の皺ははっきりと深く、一睨みで人間を殺しうる程の凶悪な貫禄を備えている。
静かな、低い声で。
「『村雨』だ。早く持って来い」
カウンターに立つ翔を下から睨み付け、男は手に持ったペロペロキャンディーを悪相のまま一舐めした。
37
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:21 ID:MSwPCp/6
「『村雨』ですか…?」
翔は目の前に座る客の変貌ぶりに当惑した。
隙のない物腰に、有無を言わさぬ圧迫感。先刻までゲームの話題でへらへらしていた男と
同一人物であるとは、その変貌を目の当たりにしていなければ到底信じられなかったであろう。
「無いのか? だったらそう言え。」
只今お持ち致しますと言い残して、翔は逃げるように厨房へ駆け込んで行った。
「店長、何なんですかあの人達。」
ボトルキープの棚から「怪魔」「疾風」「村雨」を探しながら、翔は雇い主に問い掛ける。
店長は壁に背を着いたまま、飄々とした明るい声で返事する。
「ん? ああ、ここの常連さん達だよ。高畠さんに鷹橋さんに姿さんだ。
皆お金持ちらしくて、暴力バー並にふんだくっても文句一つ言わないんだ。ただね――」
店長はそこまで言うと一呼吸置いた。
「気に障ると無理難題を云ってくるんだ。こっとも心持ちを相当頂いているから
文句は言えないんだけどね。」
店長は視点の定まらぬ目で答えていたが、翔は彼に背を向けていた。
「そうなんですか。ええと――あった。」
注文の品を次々にグラスへと注ぎ、翔はそれらを持ってカウンターへと再び戻った。
「怪魔お待たせ致しました〜。」
ワカメ頭の女性、高畠がややうんざりした面持ちで翔を眺める。
「何をヘラヘラしてるの。そんなんじゃ女の子にもモテないし、出世もできないわよ。」
必死で内心の怒りを隠そうとする若い店員に、彼女は嗜虐的な笑みを浮かべている。
受け取った杯を持ち上げた所で、高畠は自分に注がれ続けている翔の視線を振り向いた。
「人がお酒飲んでるの見てて楽しい? グズグズしてないで早く行きなさい。」
「疾風」を受け取った鷹橋は一口啜ると、顔を顰めて翔に呼び掛けた。
「何だこれは。温いじゃないか。俺は冷で頼んだ筈だが。」
「え? いや、ですからストレートでお持ち致しました。」
慌てる翔の態度に、鷹橋は思い切り眉を寄せて怒鳴った。
「きさま、それでも店員か! 『疾風』は氷温でないと雑味が強すぎるんだ!」
そんな予備知識が、新人の店員にある訳がない。その旨を伝えて必死に謝る翔だったが、
鷹橋はグラスをカウンターに叩き付けて翔を睨んだ。
「この注文は中止だ、下げろ!」
翔の頬を何かが掠め、彼の背後でみしりと云う音が聞こえた。
鷹橋が先程まで手にしていた鉄球だった。
38
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:21 ID:MSwPCp/6
「遅い、何をやってたんだ。」
低く太い、威圧的な声で中年こと姿は睨んだ。
「いや、しかしですね、最後にご注文頂きましたので」
そこまで聞くと姿は穏やかな顔を捨て、鬼の形相となりテーブルを強く殴る。
立ち上がって翔を見下ろすと、ペロペロキャンディを左手で掴んで哀れな店員の鼻先に突き付けた。
指の隙間から破壊音とともに、細かく砕けた飴が零れ落ちる。飴の先に、怒れる悪鬼羅刹がいた。
「今度注文が遅れたら、お前がこうなるぞ!」
その言葉が本気であると、翔は直感で気付いた。
一連の騒ぎは、店中の注目を一身に集める結果となった。
あまりの事態に、翔はただ怯えるばかり。そんな彼を見かねたのか、りたリンが
サロンの注文を置き去りにして駆け付ける。中年男の悪相を見上げて、りたリンは言った。
「ちょっと、それは流石に酷いんじゃない?
確かに翔はのろまだけど、それって人を殺す理由にはならないよ。」
「店員が客に口答えするな。第一客を待たせる店員が悪い。」
悪びれた様子など全く持って無い。それは一緒に居たワカメ頭と金髪も同様だった。
自分に注文した男が、手提げを持ち立ち上がる様を確かめると、りたリンはきっぱりと言い放った。
「でもあなた達のせいで、他のお客様が迷惑しております。どうかお帰り下さい。」
ガタンと音がした。激昂した表情を覗かせたのは鷹橋だった。
高畠も席を立ち、三人の酔客は背の低いナースを取り囲んで見下ろした。
「黙れ! 俺達はここで、世界のあり方について日々議論しているんだ!」
「お嬢ちゃんは引っ込んでなさい。これは私たちとそこの男の子との問題よ。」
赤い侮蔑の視線と、青い怒りの視線が絡み合う。店内の喧騒から猥雑さは消え、透明な話し声の純度が増した。
ざわ――ざわざわ――
「りたリン、もういいんだ。僕が悪いんだし」
怒りの頂点に達していたせいか、りたリンは止めに入った翔にまで噛み付いた。
「翔は黙ってて! こんなお客を野放しにして来た店長も悪いわ。」
「こんな客だと?! いい気になるなよ、小娘が!」
言うなり姿は鷹橋が持っていた「疾風」のグラスを掴み取ると、りたリンの顔面目掛けて中身を放つ。
りたリンはその場に呆け、彼女の頬は少しずつ紅潮して行った。
39
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:22 ID:MSwPCp/6
「冷たい、アンタは冷たい――アンタは冷凍男(アイスマン)よ。」
訳の判らぬ事を口走り、目が据わっている。足元が危うい。
頭から胸元にかけて酒に濡れた救命天使が、右腕に取り出したものは。
りたリンが巨大注射器を取り出す所を、翔は久し振りに目撃した。
ただし、今回は少し様子が違う。先端は針ではなく、クレ556に代表されるような噴霧器が取り付けられており、
噴霧器から伸びたチューブがこれまた消火器のような黒塗りのボンベに接続されている。
そこに白抜きで書かれた"高圧ガス O2"の文字。つまりこれはハンドメイドの――
「ターゲット、ペロキャン親爺。抹殺する。」
半ば光を失った瞳で機械的に喋り、りたリンは注射器の先端を悪相の中年に向けた。
ピストンは押し込まれ、りたリンが同時に叫ぶ。
「りた♥フレイム!」
巨大注射器の先端から青い炎が迸り、姿はペロペロキャンディーを両手に持ったまま吹き飛ばされた。
彼が着ていたフリースの毛羽立ちは一気に燃え上がり、店内の壁に叩き付けられて一気に炎に包まれる。
それでも救命天使の火炎攻撃は収まらなかった。
「寒くない? 骨まで暖めてあげるわ。」
パニックに陥った姿に向けて、さらに火炎放射。ポマードに引火し、彼はさながら全体から炎を上げる
蝋燭といった状態となった。叫びが呻きと変わり、それさえも小さくかき消されて行く。
「おい水だ、水! 早く水持って来い!」
鷹橋は叫び、暴挙を止めるべく手にしていた鉄球を投げ付ける。りたリンは半歩引いて躱す。
鉄球がコンクリートの打ちっぱなしにめり込んだ。
「バカヤロウ! お冷や持ってきてどうするんだ、バケツに決まってるだろう!」
コップで水を持ってきた翔を怒鳴りつけた鷹橋は、次の瞬間猛烈な火炎放射に包まれた。
鷹橋は身に纏った火を消そうと、汚いカーペットを転がる。
だが彼は容赦ない火炎放射を浴び続け、しばらくすると動かなくなった。
りたリンが鞄の紐に首を捕らえられる。紐を持ったまま、高畠は後ろから強烈に少女の首を締め上げた。
揉み合っている内に火炎放射器がミラーボールに煤を残す。
高畠の脇腹に肘撃ちを当て、りたリンは床を転がるように逃れる。素早く立ち上がり、間合いを取って火炎放射。
「止めるんだ、りたリン! もう止めてくれ!」
正面から押さえ込もうとする翔の足元に、りた♥フレイム。翔は避ける時、キャンディを握り締めた火だるまに毛躓いた。
40
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:23 ID:MSwPCp/6
椅子が燃え、カウンターが燃え、サロンだった場所は火柱を上げる。
客の殺到した出入り口に人工の炎が浴びせられ、最初に逃げ出した僅かな者を除いて
残った客が次々と巨大な蝋燭に姿を変えていく。
最早店内は、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。恐怖、いや畏れが翔を近付けさせない。
普段はピンクのりたリンが、燃え盛る炎の中で純白に輝いている。
――この狂った魔境を破壊するため、地上に降り立った堕天使。
業火に守護され、慈愛に満ちた微笑みを湛える美しい天使。それが今のりたリンである。
最早足の踏み場も無いほどに炎が店内を嘗め尽くす頃、りたリンは唐突にその場へ倒れ込み、
翔もそれを最後に昏倒した。
炎に取り囲まれた状況で、翔はカーペットの上に身を横たえていた。
自らの肉体を動かそうという意志そのものが奪われている。
尤も立ち上がった所で、逃げ道など見当たらない。
――自分はここで死ぬのだろうか。
この火災下で焼死すれば、骨もまともに残るまい。身元も判別できず、本当の意味でこの世から消え去る事が叶うのだ。
これは翔自身が望んでいた事ではないのか。ならばこのまま朽ちてしまっても…
「あちっ」
飛んできた小さな火の粉に、翔は情けない声を上げた。
この程度の炎を嫌うならば、体を焼かれる苦痛など以ての外であろう。それに――
「りたリン…」
自分一人で死ぬ分には問題ない。しかしりたリンを炎に巻き込む訳には行くまい。
酔い潰れて眠りこけている、りたリンをどうやって救うと言うのか。
焼死を厭い、また望み、起きようにも立ち上がる気力が沸かない。その間に燃え盛る炎は勢いを増して
僅かな生存者を呑み込もうとしている。ならば――
♪りたりたりたリン りたりたリン――
「歌うなっ!」
例の特徴ある高い声と、頭に刺さる注射器の鋭い痛み。天使のお目覚めである。
彼女は寝惚け眼で周囲を見渡し、それから大声で叫んだ。
「大変! 早くここを出ないと焼け死んじゃうよ」
どうやら自分の行ないを覚えていないらしい。翔は寝転んだまま、頭に突き刺さった注射器を抜いて優しく言った。
「りたリン、君だけでも早く逃げてくれ。僕はもう立てない。」
「何言ってるの! 君を置いて逃げられる訳ないでしょう?! さあ立て、立つんだ翔!」
激昂する天使を前に、翔の穏やかな笑みは揺るがない。
「気力が、沸かないんだ。」
41
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:23 ID:MSwPCp/6
りたリンはようやく彼に起こった事態を察知した。解決する手段は、再び彼に気力を与える他にない。
一日に与えられる気力の量は決まっている。それを越える量の気力は、しかし
――このまま彼を死なせたら、自分は何の為の救命天使か。
炎が翔の間近まで侵食してきた頃、りたリンは苦渋の表情をようやく振り切った。
ミラーボールが、今頃になって天井から落ちて来た。サロンの円卓が潰れる。
「翔、私たち助からないよ。もう火が回り過ぎちゃった…」
りたリンは泣きそうな顔で翔を見上げ、翔はそれを力強い眼差しで返した。
「大丈夫。元気があれば何でもできる、元気があればりたリンを助けられる。」
そう言うと翔は、床一面炎に包まれた店内を見渡した。
揺らめく炎の先に、出口が見える。そこは厨房の方向であった。
「この火を飛び越えて行こう。厨房から裏手口に逃げられるはずだ。」
「でもどうやって?」
悲痛な様相のりたリンを手で制し、翔は制服を脱ぐ。彼は救命天使の叫び声を無視して、
脱いだ制服を落下した巨大なミラーボールに当てた。
ミラーボールは軽く押しただけでいとも簡単に動き、厨房に向かって転がる。
「りたリン、来るんだ!」
りたリンは突然に手を引かれ、何が起こっているのか分からぬままに足を踊らせた。
気が付くと、彼女は厨房に立っていた。ここは店内の地獄絵図が嘘であったかのように静かである。
「ああ、火をミラーボールでローラーしたのね。それで一瞬勢いの弱まった火の上を走ったのか。」
脱いだ制服は、熱せられていたであろうミラーボールに触れる為の鍋掴みだった訳である。
したり顔で頷くりたリンに、翔は脱出を促した。
りたリンと翔は脱出を果たすと、表に回って物陰から覗き見ていた。
うなる炎を目の当たりにせんと、野次馬が集まっている。消防車のサイレンが、轟音を切り裂いて聞こえてくる。
魔境を焼き尽くす、強くて物悲しい業火。飽くる事なく全てを貪り、どこまでも膨らむ炎。
魅入られるように、店長が野次馬の先頭で呆然と立ち尽くしている。
「店長も気の毒だよな。何もかも燃えてしまって。」
「うん。でもね、あの火を元に不動明王の炎を描いたら、きっと高い値で売れるものが出来そうだよ。
きっと店だってもう一度手に入るよ。」
「りたリン。それって絵が描ける人間の言うセリフだよ。それに平安時代じゃあるまいし、
不動明王のシロウト絵描いたって全然売れないよ。それより早く逃げよう。」
何で、という表情をしたりたリンの手を引いて、翔は裏通りの暗闇に姿を消して行った。
42
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:24 ID:MSwPCp/6
翌日、翔は何もしなかった。
夜も眠らず、日が昇っても、万年床の上に座って惚うとしている。アルバイト情報誌を開ける事もない。
――ショックが大きかったのか、それとも
りたリンは心配そうに彼を眺めていたが、やがて玄関から聞こえたノックの音を振り返った。
「大家さん? それにしてもチャイムはあるのに…」
やがてノックに混じり、男の野太い声が室内に侵入した。
「警察だ。井川翔、いるか?」
彼女は慌てて注射器の中に隠れ、翔が玄関の方向を振り向いて返事した。
「警察? うちは警察じゃありませんよ。」
「違う、俺が警察だ! け・い・さ・つ!」
「んー、僕は警察じゃありませんってば。」
「だからうちが警察だって言ってるだろうが!」
こんなやり取りが10分ほど続いた頃だろうか、鍵を開ける音に続いて、男の足音が入り込んで来た。
ゴマ塩頭のトレンチコートと、体躯の大きな青年、それと大家である。トレンチコートが口を開いた。
「井川さん、「世界のへそ」で起きた放火事件について、署でお話お聞かせ願えませんか?
なに、あくまで任意です。何か知ってらっしゃいますよね。」
先刻とは打って変わり、トレンチコートは俯いて黙っている翔に対して慇懃な口調で語り掛ける。
制服の警官は何気なく室内を見渡していたが、やがてその視線は一箇所に止まった。
そこは――机の上だった。
(続くんでしょうね、ここまで来たら。)
43
:
ウーロン茶とジンで…
:2004/01/24(土) 12:25 ID:MSwPCp/6
「萌え」と言うより「燃え」になってしまいました。
…スイマセン、お願いですから見捨てないで下さい。
続きは書ける時に書けたらUP致します。
ナマケモノなんで、肩肘張ってもすぐに出来るか不安ですけど。
ではさいなら、さいなら、さいなら。
44
:
食べごろ
:2004/01/27(火) 21:55 ID:13s6zfpk
ポリ「警察だ。キュウメイテンシりたリン♥、いるか?」
翔は慌てて注射器の中に隠れ、りたリンが玄関の方向を振り向いて返事した。
リタ「警察? うちは警察じゃありませんよ。」
ポリ「違う、俺が警察だ! け・い・さ・つ!」
リタ「そうそう、それが私の力よ。普段そんな元気ないでしょ、君?」
ポリ「だからうちが警察だって言ってるだろうが!」
止==ヽ :;:ヽミ;:;ミゞ;::;;;ノ:;:ヽミ;'
/ \‖ // ミノ ノ:;:ヽミ;:;ミゞ;::;;;ノ:;:ヽミ;'
| 大 ‖ ▽゚Д゚ミ // 从从;从,从;从从
| 津 |‖ ⊃┣匚== ニ三 从从;从,从;从从 从从;从,从;从从
| |ヽ====/\ \\ 从从;从,从;从从
45
:
名もなき股裂き人形
:2004/01/28(水) 23:18 ID:4Y22Xa0w
今日NHKでガッテンの前にリタリンの番組やってた…
46
:
名もなき股裂き人形
:2004/01/28(水) 23:40 ID:52lFoED6
まぁ、我々の書いているのは「りたリン」なわけだし。(誰?
47
:
あおがえる。 </b><font color=#d9a366>(LIMECkW6)</font><b>
:2004/01/29(木) 16:17 ID:Wde8WAFc
天下のNHKが、「自分はリタの被害者なんですよ」みたいな人間の
一方的な意見を世間の認識みたいに見せている所はムカついたね。
先日のネットゲーム特集もしかり。
でも、このスレはそんな事にはお構いなく進めちゃいましょう♪
48
:
外伝・公共電波は火に油。
:2004/01/30(金) 12:29 ID:nNRVKV2c
翔はモニタから流れる映像を、黙って、ただ黙って見続けた。
そして「ためしてガッテム」のオープニングテーマが流れ始めた時、
誰に言うでも無く低く重い声でつぶやいた。
「リタリンは悪魔…なのかい?」
どんっ!と翔の背中をはたく小さな手。
独り、と思った部屋には…いつのまにかピンクのナース服の少女がいた。
「わたしが悪魔、れすってぇ〜!?」
彼女、自称救命天使りたリン♥はろれつが回らない口調で叫んだ。
ふっ…と翔の鼻をかすめるあの匂い、アルコールだ。
「なんだよりたリン、酔ってるのかい?」
前回の嫌な記憶を思い出しつつ、翔は軽く彼女に問う。
「大体アル中で死ぬ人と、おクスリでがんばって生きている人の
どっちが命を大事にしていると思ってんのよ〜!!」
ありもしない方角に論ずるりたリンに翔は思わずツッコミを入れる。
「そんな判断の基準が曖昧な事言ってる場合じゃ…」
49
:
外伝・公共電波は火に油。
:2004/01/30(金) 12:50 ID:nNRVKV2c
翔が彼女の手の挙動を止めるには数秒遅かった。
りたリンの装備は"あの"噴霧器状の注射器とボンベに変化していた。
「翔が受信料払って無いからそんな事が言えるの?NHKさん。」
もはや正論が通じないりたリンは機具の先をTVに向ける。
「バカ、やめろよ!そんな事したら…!」
翔の頼り無い声での頼みも通じず…
「りた♥フレイム!」
爆音が轟き、多数の破片が吹き飛んで…はいなかった。
かわりに翔の頭になにかがコツン、と当る。
りたリンの腕の先の注射器だ…ただし今回は針がついていない。
「何だか解らないけど…ストレス解消、気分スッキリ爽快♪」
そりゃぁボクと違って、言いたい事言えてストレスなさそうだよな…
「りたリン・りたりん・りたリンリン♪便秘に…」
「歌うなぁぁ!」
りたリンの太ももが、ちょうど座ってTVを見ていた翔の顔にヒットした。
「ま、いいか。今回はこの位にしといてあげる。」
便秘にスッキリ…もとい、なんだかスッキリした顔のりたリン。
2人の奇妙な生活はまだまだ続く事になるでしょう。
(外伝終。お粗末でした。本編にも期待しております。)
50
:
食べごろ
:2004/02/01(日) 02:02 ID:V0Hy4oRk
TV「ためして〜ガァッテム!!」
(オープニングテーマ)ちゃらちゃらちゃーちゃら
ちゃららりら〜ちゃ(ry
り「リタリンは悪魔の…違うわ…低能どもには心の奥の事は難しすぎるのね」
どんっ!
翔「りたリンが悪魔、れすってぇ〜!?」
り「何なのよ、翔?飲んできたの?」
翔「おクスリ無しで生きれる奴は勝手だよ
何にも分かってないくせに…!!」
り「そんな僻みだか妬みだか曖昧な事言ってる場合じゃ…」
翔「受信料払って無いからそんな事が言えるのか?NHKさんは!!
オメェん所のてれびなんか観ねーよ!!観たくもねーよ!!」
り「バカ、やめなよ!そんな事したら…!」
翔「うぁ…♥…ァ…ギャァァァァム!!」
∨
┏━┓ ┏━┷━┓ ┏━┓
┃り ┣┳┫ // ミ ┣┳┫り ┃
┗┳╋┻┫▽゚Д゚ミ┣┻╋┳┛
┃┃ ┗┳━┳┛ ┃┃
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┃┃┣┛ ┗┫┃┃
┏┛┃┠┐ ┌┨┃┗┓
┃ ┃ |│ │| ┃ ┃
┗━┛(二( )二) ┗━┛
51
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/05(木) 19:51 ID:RWSMjnN.
ネタバレ投下
ttp://shuxx.hp.infoseek.co.jp/daimon.html
52
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/05(木) 22:04 ID:SMpvapRc
>>51
なんも表示されへんかったぞ( ゚Д゚)ゴルァ!!
蛙様の支配地で釣られた漏れって一体(○口○*)
53
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/06(金) 20:02 ID:uL8rByC.
その4投下開始。
>>52
ぼくちんのブラウザだったら普通に表示されたんだが…
54
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:03 ID:uL8rByC.
立派な体躯を持つ制服の警官がその机に足を進めたのと、部屋の主である
井川翔が立ち上がったのはほぼ同時であった。
――大事なものを奪われる
警官が机の上に手を伸ばす。翔も駆けながら手を伸ばす。その距離およそ2メートル。
全速力を以ってして、それでも翔には届かない。根性。
「ふぁいとおぉぉっ! いっぱあぁぁつっ!」
全身を延ばし切って翔は妨害を図ったが、彼の掌が机の上を捉える前に
警官は難なく卓上に置かれたものを手に取り、当たり前のようにすっと立ち上がった。
制服の警察官はゴマ塩刑事の下に寄って行った。
警官の耳打ち、ゴマ塩の頷き、不安げにそれを見つめる大家の姿。
ゴマ塩頭は制服から手渡されたものを、指先で持って半座りの翔に見せ付けた。
「これは何ですか。」
金属の鋭利な先端に光を映して、ゴマ塩は見下すような笑みを浮かべた。
「こんなものが室内にあった以上、ご同行願いましょうか。尿検査を受けて頂きます。
令状こそありませんけどね、逃げても公務執行妨害で逮捕しますからその心積もりで。」
ゴマ塩はそう云うと、手に持つ物の先端に細く鋭い反射光を映した。
「井川さん、そんな物の為に命よりも重い金を注ぎ込んでいたんですか?
それだったら、きちんと家賃を払ってくれた方が良かったのに」
先刻から所在無げに立っていただけの大家が、借り手を非難の眼で刺していた。
「違う…それは僕の大事な…」
翔は二度起き上がるとゴマ塩に駆け寄って、奪われた元気の素を持つ腕にしがみ付いた。
掌を強引に開こうと、両手で彼の手を掴む。ゴマ塩が腕を持ち上げて、翔は宙吊りに近い体勢となる。
「僕のりたリン取りましたね! 返して、返して下さい!」
「すいませんがそいつぁ無理です。今は諦めて下さい。」
遂に翔の手が、ゴマ塩刑事の手から離れてしまう。
それでも翔は、自分よりも上背のあるゴマ塩頭に食って掛かり、彼の胸板をどんどんと叩いた。
「返して、返して!」
脱力してその場に肘を突いた翔を、ゴマ塩は咳き込みながら見下ろして云った。
「署まで、来て頂けますね。」
逃げれば逮捕される。翔にゴマ塩の申し出を断れる筈も無かった。
「とにかく帰って来たら家賃お願いしますねー」
心が篭った見送りの言葉を背に、翔は警官達に連れられて覆面パトカーに乗り込んだ。
55
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:05 ID:uL8rByC.
検査結果の待ち時間に雑談、と云う名目で、翔は西日差し込む取調室に迎え入れられた。
刑事モノのドラマで良く見掛ける、コンクリートの打ち放し。
折り畳み式の机に、二対一で向かい合った安物のパイプ椅子。
翔は促されてその内一脚に座り、例のゴマ塩とバインダーを持った細身の警官も続いて腰掛けた。
ゴマ塩は机上に肘を付き、にこやかに口を開いた。
「さて井川さん、ご足労感謝します。いやぁ先程は失礼しました。
本当はこんな色気のない所でお話を伺うのも何ですが、何分プライベートにも
関わるものですからね。」
書類に目を通しながら無言で筆を走らせる制服を、翔は横目でちらと眺めて目を伏した。
「僕は――逮捕されたんですね。」
「いや違いますよ。あのね井川さん、逮捕の場合は容疑者本人が嫌がっても
ハンドワッパーを掛ける決まりになってます。無かったでしょ、ハンドワッパー」
懐から手錠を取り出して、ゴマ塩は鎖を鳴らしながらハンドワッパーと云った。
次いでそれを机に置いた。
「検査結果次第ですけど、あなたがお話下されば結構です。どんな話でも構いません。」
「もし何も話さなかったら、僕をどうするつもりですか?」
「私の残業時間が増えます。あーもう、息子を555ショーに連れて行く筈だったのに…
あの火と爆発が見物なのになぁ!」
ゴマ塩は言い終わって、頭を掻いた。自分が見たいだけだったのか。
それにしても何故、刑事はどうでもいいような話をするのだろうか。
翔は苛立ちを覚えて口調を荒げた。
「あの、仰りたい事は何ですか? 僕が何をしたって云うんですか?」
「うん、家のカミサンも555好きなんですよ。たっくんがカッコイイって云って。
でも最近じゃ剣崎くんが良いって云うんですから、節操ないですよね。」
ゴマ塩の大きな独り言は、翔が止めようとしても終わらない。ゴマ塩は身振り手振りで楽しげに続けている。
「注射器の事なら話しますから、聞いて下さい!」
立ち上がって机を両手で叩いた翔の姿に、刑事は話を中断して驚いたような顔を向けた。
56
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:06 ID:uL8rByC.
「話して頂けるんですか、ああ有り難い事です。」
ゴマ塩は微笑んで翔を見上げ、その姿に翔は眉を寄せた。
――最初からこの件で話をするつもりだった癖に。
「話しますけど、その前に僕の注射器を返して下さい。でないと絶対に話しません。」
「…だってさ。君、悪いけどアレ取って来てくんない?
まだ返せないけど、ここに置いとく位なら問題ないでしょ。」
書記官と化していた若い警官に声を掛けると、ゴマ塩は背広の右ポケットから煙草を取り出し、
火を着けて旨そうに一服する。
翔は湧き上がった煙をわざとらしく吸い込んで、大袈裟に咳き込んだ。
警官がポリエチレン袋に入った注射器を部屋に持って帰って来たのは、それから十分位後の事であった。
彼は無言でそれを机の上に置くと、再びバインダーを持って着席した。
「さてと。アナタここに来る時も注射器に拘っていましたね。何ですかそれは。」
云ってからゴマ塩は、翔が自分の話を全く聞いていない事に気付いた。
参考人は刑事の目の前で、ひたすら袋入りの注射器に話し掛けている。
まるで注射器に人格があるような参考人の口調。傍目には翔が正常な人間だとはとても見えない。
「もしもし井川さん。何話してるんですか?」
ゴマ塩は席を立って、翔の背後に移動すると肩を揺さ振った。
同時にこの位置と距離なら、翔が呟く言葉を僅かながら聞き取る事ができる。
刑事は慎重に、偏執狂のような青年の口から漏れる言葉に耳を傾けた。
りたリン、頼むから僕を励ましてくれよ。
君がいないと僕は、この人達とまともに話も出来ないんだ。
そうしたら僕は帰れない。君だって帰れないんだよ。
残り50冊もあるパタリロもときめきも有閑も、生徒諸君だって読めないんだそ。
嫌だろそんなの。ねえ頼むよ。出て来てくれるだけでいいんだ。後はなーんにもしないから。
出て来ないとまた、りたリンの嫌がるアレを歌うぞ。
いいのかい? 本当に歌うぞ、よーし、歌うそ、歌っちゃうぞ。
――リタリン
この哀れな青年は確かにそう云った。それは刑事に取って複雑な意味を含んでいた。
思わず刑事の手に力が入る。ゴマ塩は翔の肩を握り締めて怒鳴りつけてしまった。
「それがアナタの薬ですか? 注射なんかやってたんですか? 医者に聞いたんですけど、
処方してないとの返事でしたよ。どこで手に入れたんですか、そのリタリンとやらを」
「りたリンは薬なんかじゃありません! 元気の素です、救命天使なんです!」
刑事の手を跳ね返す程の物凄い力で翔は勢い良く立ち上がり、真っ向から刑事と向かい合って叫んだ。
余りの剣幕に、無言無関心を装っていた警官までもが思わず席を立った。
57
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:06 ID:uL8rByC.
「するとアナタの仰るリタリンと云うのは、救命天使なんですか。」
ゴマ塩は翔を刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ。
「そうですよ。救命天使・りたリン♥です。」
話が通じていると思ったのか、それとも激昂の反動か。翔はあくまで落ち着いた口調で喋った。
「いつも僕を励ましてくれるんです。彼女が居ないと僕は、僕は…」
それだけ云うと翔はがっくりと肩を落とし、倒れ込むようにパイプ椅子に座った。
半ば夕闇に染まった椅子が、嫌な音を立てて鳴った。
リタリンではなくてりたリン。薬とキャラクター。
表記するとその差は一目瞭然だが、発音だけに注目していると全く気付かない。
参考人が口にした名は、放火事件でゴマ塩が耳にしたものであった。
彼は漸く翔を署まで連行した本来の目的を思い出した。
「救命天使・りたリン♥、か。何だか出来過ぎた話だなぁ。」
薬の話をしていた筈なのに、話は何時の間にか例の放火事件と結び付いて来ている。
ゴマ塩は天井に煙を吐きながら、物語のように作られた世界、と言うものについて
意識せざるを得なかった。
「だからどうして天使が注射器なんですか? さっぱり意味が分からないよ君!」
制服の若者は、バインダーすら放り投げて翔に突き掛かる。ゴマ塩はまあまあと彼を手で制した。
翔の話は支離滅裂な気もするが、参考人の話は核心に近付いている。名前以外手掛かりの殆どない
被疑者の情報を掴む為に、警察には例え与太話であっても聞く必要があった。
「そのりたリンとアナタとは、どういう関係なんです?
教えて下さい、彼女は誰ですか? どこから来て、そして何処へ行くんですか?」
幼い息子の話を聞くように、ゴマ塩は穏やかな表情で訊いた。
曰く、彼は精神病に苦しみ、医師の治療方針に満足出来なかった事。
曰く、救命天使はある日突然彼の下へやって来た事。
曰く、彼女が与える錠剤で、翔は生きる意欲と物事へのやる気を得る事。
曰く、彼女は様々な形態の注射器を使いこなし、それは武器にもなるという事――
その他容姿、瞬発力と敏捷性、柔らかい太股の話まで、翔は事細かに説明した。
「あの娘の謎は僕の夢です。」
翔はそう云って、りたリンの話を締め括った。
――馬鹿げている、全く個人の妄想か。
しかし妄想の一言で片づけてしまうには、その話には余りにも現実との符合点が多かった。
58
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:07 ID:uL8rByC.
この陰鬱な青年には悪いが、警察の目的はあくまで被疑者の確保である。
ならば彼に、被疑者である救命天使の居所を教えて貰わねばなるまい。
みじかびをアルミの灰皿に押し付け、ゴマ塩は煙を吐いて次の質問を発した。
「そういう訳だったんですか。では井川さん、りたリンさんを呼び出してくれませんか?」
話が通じた翔は云われるままに、注射器を見詰めて例の呪文を詠唱した。
♪りたりたりたリン りたりたリン 便秘にスッキリ りたりたリン
ピンクの影が高速で翔の胸板に迫る。ジョージ=ハインズ張りの助走付き飛び膝蹴りを腹部に受け、
翔は机の上に吹き飛ばされた。ピンクの影はなおも狭い取調室を飛交う。
パイプ椅子、机の上、格子の嵌まった窓の縁と移動して、ピンクのナース姿は天井を蹴り、
仰向けになった翔のみぞおち目掛けて自由落下を大幅に上回る速度でニードロップを放った。
そして口から泡を吹いた翔の右肩に胸を、左肩に腹を押し付けて覆い被さった。
「1、2、3…って気絶してんじゃん! しまった、もっと加減すれば良かった」
りたリンは机の上に跳ね起きて頭を抱え、翔は夢現の中でりたリンの軟らかな感触を反芻していた。
「一体何が起こったんだ!」
ゴマ塩も制服も、目の前で繰り広げられた出来事に叫ぶ他は無かった。
青年が古いCMの替え歌をずれたテンポで口ずさんだと思うと、彼は突然勝手に吹き飛んで
机の上で気絶したのである。半分白目を向きながら腹部を摩る井川翔の姿に疑念を抱きながら、
刑事と警官は机に駆け寄って、彼の服を脱がせて観た。
――明らかな打撲傷
それは監察医で無くとも真新しいと判断出来る怪我であった。
青年による自作自演の線はいきなり否定された。この現象を説明できる言葉は――
「サイコキネシス」
「ポルターガイスト」
ゴマ塩と制服は同時に別の用語を口走り、それらは奇妙に混じり合って室内に反響した。
ほぼ同時に取調室の扉が開き、南国系の顔立ちをした長髪の婦警が入り口に立った。
「結果出ましたよ、シロでした。けど些冨先生によると、『ヤク中以外で
こんな汚い尿見たのは久しぶりだ、病院で再検査して貰え』だそうです。わ、何これ」
59
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:08 ID:uL8rByC.
ゴマ塩と制服は、婦警の声に向かって情け無さそうな顔をして見せた。
「目の前でこういう事が起こったんだよ。些冨先生に言っといてくれ、俺達がやったんじゃないって。
傷見りゃ分かる筈だからってな。」
ゴマ塩の言葉に婦警は首を傾げたが、やがて平素のものと思しき明るい表情になって云った。
「わっかりました。ゴマ塩さんがそう言うならホントの事でしょう。」
「ゴマ塩って言うな! 俺にはちゃんとした名前があるんだよ!」
ゴマ塩の怒声を背に婦警はくるりと回って、イコカデイコカー、と口ずさみながら消えて行った。
ほぼ同時刻――
警察署の入り口に目付きの鋭いセーラー服の少女が一人やって来て、受付の若い警官に声を掛けた。
「すまぬ。こちらに井川翔と云う男が邪魔しておらぬか?」
灰色の髪を二つに結い上げた女子中学生。彼女の横柄な口調に警官は面食らったものの、
規定通りの対応で乗り切ろうとする。
「生徒手帳か何か持っていないかい? お嬢ちゃん」
少女は一瞬むっとした表情を見せたが、セーラー服の胸ポケットからカード大の布地を取り出し、
開いて警官の前に突き出した。
「運転免許証だ。これで文句はあるまい。」
少女は側に掲げられた案内板に目を通すと、唖然と口を開いた警官を置き去りにして
正面の階段を軽やかに上って行った。
間抜けに呟いた警官は、免許証の生年月日欄に強烈な打撃を受けて思わず呟いていた。
「…うそ。あの格好で俺より年上なの…」
翔は医務室で手当てを受けてから、ゴマ塩と制服に抱えられて刑事課のデスクに戻って来た。
そもそも彼がこの警察署にやって来たのは、最初から任意での事情聴集が目的である。
薬物乱用の形跡も無かった事から、警察による身柄拘束というのは無理があった。
殺伐としたオフィスに花一輪。
そんな形容が似合うセーラー服の少女が、あちこちに何かを聞いて回る姿を翔は発見すると
素早くゴマ塩の陰に身を隠した。
つもりだったが、少女はゴマ塩と制服の二人連れに視線を遣るとあっさり彼を見付けてしまった。
「翔! 小賢しく物蔭に隠れても無駄だ。例えGOYOになっても堂々たるべしとの
我が家の家訓を忘れたか!」
少女はゴマ塩の後ろで身を潜めた翔に向かって、体格の割りによく通る大きな声で呼び掛けた。
60
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:09 ID:uL8rByC.
怯えた様に頭を抱え縮こまった翔を、ゴマ塩と制服が振り返った。
「まさかあの人が…」
「姉です」
ゴマ塩と制服は互いに顔を見合わせ、それからもう一度女子中学生風の女性をまじまじと見詰めた。
途端に彼らは、刑事でも犯罪者でも敵わないような鋭い眼光で射竦められてしまった。
何事にも動じない、真っ直ぐに伸びた姿勢。恫喝も脅迫も、この女性には一切通用するまい。
「何をジロジロ見ておるのだ。そのような態度は女性に失礼だと教わらなかったのか?
ほれ、身元を引き受けてやるからこちらに来い。」
セーラー服の姉は歩を進め、呆気に取られた二人の間に割って入る。
彼女は翔の手を取ると「帰るぞ」と一言だけ云って刑事課の事務室から出て行ってしまった。
「さてと、お前も晴れてGOYOとなった訳だが」
小汚いアパートの一室で項垂れる翔を前に座り、セーラー服姿の女は茶を啜りながら言った。
無論、翔のアパートにそんなものが用意されている筈もない。茶葉は彼女が自前で用意したものである。
「GOYOじゃなくて事情聴集です、姉さん。大体僕は何もしていない」
答える翔の手にも茶碗が握られていたが、その中身は無為に冷めてかけていた。
茶碗から目を上げて、彼女はほう、と感心したかのように溜息をついた。
「放火事件はお前がやったのではないのか。中々大それた事をしたものだと思ったのだが。」
「その台詞、警察でも言ってみたら良かったんですよ」
翔の皮肉に対しても、姉は涼しげな表情を崩す事はなかった。茶をもう一口啜り、口を開く。
「では他に火を放った不埒者がいると云う事か。一度その御仁を拝したいところだな。」
そこまで言って、姉は弟の目を見据える。目を逸らす翔の姿に、彼女は思わず気色食んだ。
「知っているのだな、その御仁を。この私の前で隠し事など不可能だと知っておろうに。
なに、警察には云わんよ。危険ならば私の手で排除するまでの事。」
厳めしい口調を使いながらも、彼女の瞳は幼い見た目に似合った楽しげな光を放っている。
「…わかりましたよ。」
姉は警察でさえ匙を投げた存在にも、恐れる気配を全く見せない。
彼女の頼みを断ればどうなるかと想像すると、翔には観念する他なかった。
彼はポケットから乱暴に注射器を取り出して、お約束の呪文を力なく詠唱した。
♪りたりたりたリン りたりたリン――
正しくは「♪りたリン りたリン りたりたリン」だと姉が指摘する前に、
甲高い少女の声がアパートに鳴り響いた。
61
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:09 ID:uL8rByC.
「何でいつもこの歌で呼び出されないといけないのよ!」
小柄なナース姿のりたリンが注射器から出現したかと思うと、彼女は
頭を覆ってがら空きになった翔の右脇腹目掛けて鋭い立ち蹴りを放つ。
哀れな青年のリバーに命中かと思われたが、りたリンはその時脛に柔らかな抵抗を感じた。
――まさか捕まった?
りたリンは足を捻られると判断し、足一本掴まれた状態で身を投げ出すと空中で体を捻らせた。
そして某宇宙刑事のようにスカートをひらめかせ、受身を取って背中から畳の上に着地する。
そのまま畳を転がって起き上がろうとすると、既に立ち上がって彼女を見下ろしていた
セーラー服姿の少女とりたリンとの目が合う。
少女が放つ異様な迫力に一瞬怯むが、りたリンは彼女を睨み返しながら両足で立ち上がる。
「ドラゴンスクリューか、やるわねお嬢ちゃん。」
りたリンが何気なく放った一言で、セーラー服少女の額に青筋が浮いた。
「口を慎め若輩者。私は井川翔の姉、岳雅刹那だ。」
背筋を真っ直ぐに伸ばして、セーラー服こと刹那は簡潔に名乗った。
「うそ、どう見ても中学生、え、翔何なの? 苗字違うじゃない、え、じゃあもう結婚して…?」
まともに言葉が出ない程、りたリンはうろたえている。彼女は視線を泳がせると、
何事か思い出したように「あっ」と叫んで翔に噛み付いた。
翔の襟元にしがみ付き、前後左右に大きく振りながら裏切り者の青年を糾弾する。
「ちょっと翔、さっきはよくも裏切ったわね! 私はいつも君のために働いているって言うのに
警察に私を売るような真似をして、ホントに、君って奴は…!」
「ゴメンよ、りたリン、正直が一番だと思って…でもどうして君は」
「ラブ時空のキューピッドだって姿を消せるじゃない、私にだって出来るわよその位!」
怒鳴られる翔の背は、小柄なりたリンよりも傍目にはさらに縮んで見える。
これが二人の関係なのだな、と刹那は得心して茶のお替りを自分で注いだ。
「ほう、こんな可愛い娘さんが放火犯か。冴えないお前はどうやってこんな娘さんと知り合ったのだ?」
セーラー服姿の姉に正座したまま見据えられ、りたリンと翔は沈黙した。
二人とも素直に座布団の上へと着座し、翔は「救命天使・りたリン♥です」と彼女を手で示して
その日二度目の紹介を行った。
62
:
遠方より来る、楽しからず
:2004/02/06(金) 20:10 ID:uL8rByC.
「成る程。お前は病を罹い、りたリンはそのお前を救命する為に降り立ったのか。」
りたリンが首を縦に振ると、刹那は卓上に置かれた煎餅に手を伸ばし、一口噛み砕いて続けた。
「だから学校には私の家から通えと言ったのだ。仮に私達の夫婦生活を目撃した所で、
大した問題ではなかろうに。」
普通は問題なんです、大体僕は自立したかったからと翔が口を開いた所で、刹那は大きく一喝した。
「黙れこの馬鹿者! その結果がこれか? 学校にはロクに通わぬわ、仕事は出来ないわ、
病院通いも中途で放り出すわ、警察の厄介になるわ散々ではないか!
自立する資格というものはな、自分で自分を律する事が出来ない者には与えられんのだ!
もう少し足元を見ろ!」
翔だけではない、隣に座っていたりたリンでさえ萎縮する程の物凄い剣幕で刹那は怒っていた。
項垂れた二人を前に、刹那は平静の口調に戻って話を続ける。
「取り敢えずお前の借財は私の方で整理して置く。お前は直ちにここを引き払い、
今後は私の下から学校に通え。」
翔の姉のあまりにも一方的な意見に、りたリンは思わず立ち上がった。
「ちょっと、それじゃ私はどうなるんですか? 大体翔だって、私が来てから
随分成長してますよ。彼が自立するのはいけないんですか?」
りたリンが捲くし立てる様子を、刹那は冷ややかに見つめて云った。
「娘さん。あなたが居ない状態で翔が自立出来ていれば、私とて何の不服もない。
だがな、このまま愚弟と一緒に居ても、全くこいつの為にはならん。」
「姉さん、つまりそれって…」
刹那はりたリンに向けていた視線を翔に流すと、弟の言葉を遮るように告げた。
「翔、この娘さんとは手を切れ。さもなくばお前は――」
煎餅を片手に刹那が次の一言を放つと、室内の空気がキグナス氷河の必殺技よりも冷え込み、
りたリンと翔は言葉を失ってその場に硬直した。
――確実に死ぬぞ
(何とか続けるつもりです)
63
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/06(金) 20:12 ID:uL8rByC.
投下終了。次書けたらうpします。
次の夜までサヨウナラ…
64
:
たべごろ
:2004/02/07(土) 19:21 ID:w2T6LEDw
質問!姉を映像でイメージ出来ませんでした
どんなんか教えて下さい
キュウメイテンシりたリン&hearts (∵;)
とと
(,,゚Д゚) 日
__)__)担~ ┳━┳ (゚ロ゚;)
とと
作者mouが復活!祝いましょう。
65
:
救援物資(?)
:2004/02/11(水) 20:30 ID:tcogOVlY
ttp://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e35364540
りた「姉さん、これじゃぁワシントン条約に認定された後で、
密輸入される保護動物のような扱いですよ…私。」
刹那「娘さんよ、このごに及んで自分が保護される立場とでも思うのか。」
翔「(゚ロ゚;)(ぱくぱく…)」
66
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/12(木) 11:51 ID:BHBjElMQ
(゚ロ゚;)←こいつが翔だったのか…
67
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/16(月) 00:13 ID:vFNzqD6Y
第5話完成、投下開始。
>>54-62
の続きです。次回で完結予定。
でわどうぞ
68
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:15 ID:vFNzqD6Y
「お前の顔色が以前と比べて随分悪くなったのでな、はっきりと言わせて貰った。」
セーラー服姿の岳雅刹那は煎餅を齧って噛み砕き、茶を一口啜ってから弟の井川翔に告げた。
「りたリンは救命天使どころか、最早お前の死神なのだぞ。本人が自覚しているか否かは知らぬが。」
「…違う」
「何が違うと云うのだ翔。話を聞く限りでは、お前がりたリンに励まして貰う間隔は
徐々に短くなっていると云うではないか。」
翔は向き合って座る姉に対し一言も無い。傍らで正座していた、りたリンが苦しそうに無言で俯いた。
確かに、りたリンから最初に貰った錠剤の数は2錠だった。それが徐々に増加し、処方も日に二度三度と増えている。
だがそれは、りたリンが翔にとって掛替えのない存在になっている事の証でもあろう、
そう考えて翔は俯きながらも口を開いた。
「りたリンが居たから、僕は…」
刹那は呻くように漏れた弟の台詞に、二枚目の煎餅に伸ばした手を止めた。
「僕が人とうまくやって行けるのも、りたリンが居るからなんだよ!」
翔が隣に座っていたナース姿に目を遣ると、彼女は奇妙な微笑みを浮かべる。
刹那の目に明らかな失望の念が宿り、彼女は溜息を吐いた。
「お前の事を心配して遣っているのが分からんのか? りたリン、あなたも愚弟が
みすみす死んで行く様を目の当たりにするのは本意ではあるまい。」
云い終わると刹那は、先程手を伸ばして諦めた二枚目の煎餅を再度手に取る。
煎餅を噛み砕く音だけが、切れ掛かった蛍光燈の下で反響した。
簡素な食事を卓上に配膳すると、刹那は学生が使うような合成皮革の鞄を手に取る。
説教の時から俯いたまま一言も発しない弟に向かって彼女は声を掛けた。
「家の用事があるから私は帰るぞ。もう一度云うが、荷物は纏めておけよ。」
翔は吽とも寸とも発しない。刹那がLDを去ろうとすると、りたリンが玄関まで見送るべく翔の隣で立ち上がった。
二人並ぶと小柄な筈のりたリンが大きく見える。傍目には香奈花と成恵のようにも映ろう光景だった。
「あなたからも愚弟に云って聞かせてくれまいか。あれは意固地だから、私が言っても聞く耳を持たん。」
横に並んだ刹那の一言に、りたリンは渋々肯く。靴を履き扉に手を掛け、刹那は部屋の外から
見送りに向かって云った。
「愚弟が世話になった。感謝している。」
背の低いセーラー服が通路の先に消えるのを見届け、りたリンはアパートの扉を閉めて施錠した。
69
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:15 ID:vFNzqD6Y
玄関からの扉が閉まる音を聞き、翔はがたんと両肘を卓に突いた。
りたリンは慌てて玄関から戻ると、頭を抱えて呻く翔の傍らへ駆け寄る。
近付いてみると、彼は何事か呟いている。
「もうダメだ、君と離れ離れになってしまう。そうなったら僕は、僕は…」
りたリンとの別れを、身内から促さる羽目になろうとは予想もしていなかった事であろう。
翔はまるで世界を拒絶するかのように頭を卓擦れ擦れに近づけ、肘が茶碗に当たって傾いた。
りたリンは翔の肩に手を掛け、母親のような優しい声で話し掛ける。
「翔、とりあえずご飯食べなよ。ほら、折角お姉さんが用意してくれたんだから」
「嫌だ、食べない!」
りたリンの手を跳ね除けると、翔は首から上を捻って振り返った。
「ご飯食べたらここを引き払わないといけないだろ! そうしたら君とももうお別れだ!
りたリン、君は僕と離れ離れになる事が悲しくないのか?」
悲しみを湛えた憤怒の表情で、翔はりたリンを見上げた。彼女は払われた手の甲を擦りながら
如何ともし難い嘆きを浮かべて見下ろしている。
「嘘だろう、君が僕の命を磨り減らしてるなんて…」
ピンクのスカートを掴んで訴えかけて来る翔から、りたリンは目を離した。翔の怒声が大きくなる。
「嘘だって言ってくれよ!」
――甘ったれた事を言って、りたリンを困らせるんじゃない――
浴室に隣接した脱衣所から、女の低い声が聞こえて来る。部屋に居た二人が声の主を探ると、
帰った筈の岳雅刹那が浴衣姿で現れた。湯上りの所為か、肌が少し上気している。
「姉さん、帰ったんじゃないんですか? 大体シャワー浴びてた割に、音がしませんでしたよ。」
「そうですよ。鍵閉めてたのに、ドアを開ける気配もなかった。」
二人から次々に問い掛けられ、彼女は頭に巻かれたタオルに手を遣りながら答えた。
「世の中には不思議な事など何もないのだよ。」
そう云うと刹那は、普段の固い表情をほんの僅かに崩した。彼女なりの優しい微笑みである。
「それより翔、先刻は言い過ぎたな。すぐにここを引き払えと言う前言は撤回しよう。」
「姉さん、それって…」
姉の慈悲を期待して、翔が腰を上げて彼女に身を向ける。
しかしその期待は、すぐさま裏切られる羽目に陥った。
「二週間だけ待ってやろう。その間に気持ちの整理を付けるがいい。」
りたリンと翔に背を向け、脱衣所に足を進めながら刹那は言い残すとセーラー服を着込み、
颯爽とアパートを出て行った。
70
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:16 ID:vFNzqD6Y
「…さっきの話だけど、お姉さんの言う通りよ。黙っていてごめんね」
りたリンはそう云って、食卓を呆けて見つめる翔に呼び掛けた。
彼の隣に座布団を敷き、居住まいを正して説明を始める。翔は視線を彼女の正面に向けたが、
その虚ろな瞳に光が戻る様子は窺えなかった。
彼女が翔に手渡していた錠剤には、彼の元気を引き出す効果があった。但しその錠剤は
自然の摂理を超えた作用を人体に及ぼす為、肉体を酷使するという副作用も存在する。
特に内臓への負担は大きく、長期間に渡って服用する事で確実に翔の肉体を蝕み、
やがて死を招くと云うのである。
「どうしてそんな危険なモノを僕に渡したんだ! 知ってたら飲まなかったよ!」
知らない内に命の綱渡りをさせられていたと知れば、誰でも怒りを覚えるであろう。
翔は食卓を拳で叩き、卓上の皿が音を立てて動いた。
「あのまま放っておいたら、君が死ぬのは目に見えていたわ。だからあの薬を…」
止むに止まれず渡したのである。りたリンが上ずった声で弁解する様子に、翔はやや気勢を緩めた。
「私は救命天使よ。だから私は、自分がいることで翔の命が危なくなるのなら
ここに居るべきではないの…」
翔はがつちりと、りたリンの両肩を正面から掴んで潤んだ瞳を覗き込む。
「僕の身体がおかしくなるのは、その薬のせいだろ? りたリンの所為じゃない!
お願いだよりたリン、ずっとここに居てくれよ。本当に励ましてくれるだけでいい、
あの薬ももう出さなくていいから」
真剣な眼差しで見詰められ、りたリンは逡巡の後で悲しげに微笑む。
彼女の肩を掴んでいた手から力が抜け、翔はそのまま、りたリンに身を預けるように倒れ込んだ。
「翔!」
りたリンが呼び掛けても返事をしない。彼女は異変を察知して翔の体を揺すったが、脱力したそれからは
やはり何の反応も見られない。自分に被さった身体から苦労して抜け出し、りたリンは呆然と呟いた。
「とうとう体にダメージが…」
最早この状態は、救命天使よりも医者の領域にあると誰にでも判断できた。
りたリンは自分よりも一回り以上上背のある翔の体を肩に担ぎ、アパートを出ると病院を目指して
夜道を歩き続けた。
その途上、まるで一人浄瑠璃かサンダーバード人形のように歩く翔の姿を見て
ある者は陰口を叩き、ある者は躓きながら走り去り、またある者は警察に通報したと云う。
71
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:18 ID:vFNzqD6Y
――薄暗い。
生温い空気と、すえた匂いを感じる。目の前に立つ人物の顔が判らない。カオナシ?
いや、知っている筈だ。脳内で知人の顔を次々と照合するが、何れとも一致しない。
まるで僕自身を飲み込むような、圧倒的な存在感。彼に素性を問うてみた。
「お前は誰だ」
その人物は渦巻いて人型を失なったと思うと、一瞬にして翔を包み込む闇となった。
「私は――国体と云う者だ。」
荘厳な声が、彼を包み込む闇全体に響き渡った。
72
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:19 ID:vFNzqD6Y
「司馬遼太郎かよ、誰も知らんようなネタで冗談言うのは止めてくれ!」
僕はどこへともなくそう叫ぶ。叫び声は闇に吸い込まれるように消えて行った。
――私はお前自身だ。冗談を言うのも当然だろう。
声が響き渡る。彼の言葉の真偽を確かめようと口を開きかけた所で、闇は畳み掛けて来た。
――彼女にずっと居て欲しいのだろう、なのにお前は何を躊躇っているのだ?
闇の問い掛けは、僕の心境を的確に指していた。闇の声が僕自身なのかはともかく、奴はそれこそ
りたリンよりも僕の凡てを理解しているのかも知れない。しかし躊躇うとは何の事か、
その時の僕には分からなかった。
――りたリンとお前を引き裂く者を疎ましく思っているのだろう。なぜ排除しない?
お前が、りたリンに頼らなくなっても、姉は排除を企てるだろう。
だから排除すると言うのか。実の姉を。
――姉に逆らったお前の言葉とも思えんな。お前はな、姉とりたリン、
何れか一方を選ぶしかないのだ。自ら進んでそういう状況に追い込んだのだ。
違う、姉さんは僕の事を心配して…
――ならば姉に別れを宣告された時、どうして素直に従わなかったのだ?
りたリンとの別れを望まなかったからだろう。
「それは…確かにそうだ。」
この後僕は言葉を失った。生暖かい空気が僕の肌を撫でたと思うと、声は再び反響した。
――お前に取って何が大切なのか、よく考えて動く事だな。尤も答えは既に出ている筈だが。
手を伸ばし、何か話そうと口を開いた所で、僕は闇に溶け込んで行った。
どの辺りで意識の糸が切れたのか、今となっては思い出せない。
73
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:19 ID:vFNzqD6Y
翔の意識がゆっくりと覚醒し、瞼に飛び込んで来る光に目を慣らそうとした所で、カーテンの布越しに
声変わりの途上にある子供の声が伝わって来た。
「ムーンクリスタルぅ、め〜くあっぷ!」「これ、静かにしなさい!」
辺りを見渡すと、翔は自分が白い鉄パイプで組まれたベッドの上に寝ている事に気付いた。
左右には仕切りのカーテン。先の子供の声は右手から聞こえた。とすると、ここは病院の大部屋であろう。
「さっきのは夢か…そうだ、りたリン!」
意識を失った翔がここに運び込まれた以上、りたリンが関わっている事には間違いあるまい。
その彼女がいない。薄い毛布を跳ね除けると、翔はベッドの横からスリッパを探し出してカーテンを強く開いた。
「井川さん、救命天使りたリン♥の行方をご存知ありませんか?」
いつぞやのゴマ塩刑事が、カーテンの先に立っていた。今回は顔色の悪い、末成り瓢箪のような若い警官が相棒である。
「刑事さん達! あなた達どうしてこんな所に?」
「さすがに放火犯を野放しにして置く訳にはいかんのですよ。ですから彼女を探しているんですが、
どうも足取りが掴めませんでね。ご病気中申し訳ありませんが、ご協力願えませんか?」
ゴマ塩は立つ間、足の重心を頻繁に入れ替えながら聞いて来る。翔は顔を顰めた。
「無駄だと思いますよ、僕も彼女の行方を知らないんですから。」
翔はカーテンで、刑事達と自分とを引き離す。布越しに聞こえるゴマ塩頭の塩辛い声が翔を引き留めようとした。
「少し身辺を調べさせて貰いますよ。ご迷惑かも知れませんが、公序良俗と治安維持の為です。」
ベッドに戻ると、翔は保温の役に立たない毛布を被って耳を塞ぐ。りたリンが傍に居てくれないのは不本意だが、
刑事が自分達の周囲をうろ付く事はこの上なく不快である。
刑事達はカーテンの向こうに戻った翔が、呼び掛けに全く応じなかった事に、諦めて大部屋の外へと出て行った。
その夜。
翔は病院のベッドの上に胡坐をかき、呆けて天井の染みを数えていた。
「…238(フミヤ)…326(ミツル)…460(シロウ)…」
する事が何もないのだ。神経がささくれ立ち、その割に気怠くて身体を動かせない。
下らない作業ではあったが、こうしていれば僅かに気が紛れる為、翔は半ばヤケクソ気味に数えていた。
74
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:20 ID:vFNzqD6Y
左手隣からは地響きが、もとい大鼾が聞こえて来る。右手では子供が何やら物音を立てている。
――眠れと謂われても、これじゃ無理だ。
眺めていた天井の染みが有機的に繋がり、不気味な顔を生した気がしたので、翔は首を曲げて枕に顔を埋めた。
何もかもが寝静まった病室の静寂は、ドアを開ける小さな物音で破られる。
時間的に検診はあり得ない。ナースコールを鳴らした者もおそらくいない。ささくれ立ち鋭敏になっていた
翔の神経は、ぱたぱたと軽い闖入者の足音に集中した。こちらにやって来る。
カーテンを引く音、また足音。翔が毛布から顔半分を出すと、ベッドの隣には白いナース服が闇に浮んでいた。
「翔、お待たせ。」
注意して見てみると、白と思われた色はピンクだった。暗闇で色彩の感覚が曖昧になっていたらしい。
翔の元気の素、救命天使りたリンがやって来たのだ! 翔にとってこれまで彼女の存在自体が
どれほどの救いとなり、どれほど彼を奮い立たせて来た事だろうか。
「りたリン! どうやってここに…」
唖然とした様子で訊ねる翔に、りたリンは独り言を喋るように口を開いた。
「翔、君ものすごく重たかったわよ、しかも来た途端に注射器は取り上げられるし。
この病院のナースに紛れ込んで病室に入ろうとしたら刑事さんがいるでしょう。
もう大変だったわよ。」
「そんなにまでして…」
りたリンは来てくれたのである。
「私でできる事があったら、何かしたいと思ってたから。それに翔がずっと
私の事を呼んでいたから。」
そう云ってりたリンはにっこりと笑った。翔の両隣は、彼女の来訪に目覚める気配はない。
「りたリン、僕は決めたんだ。もう二度と君に無理な頼み事はしないよ。
でもその為にはやらなきゃいけない事があるんだ。一度だけ、最後の一度だけ
僕を例のあれで励ましてくれるかい?」
りたリンの顔に曇りが差した。
「ダメよ。君の身体にはもう私の薬は耐えられないわ。もしかしたら死ぬかも知れない。」
自分は救命天使だから、翔の命を危険に晒せない。
「もしそれが命より大事なものだったとしたら…」
「命より大事なものなんて、この世に――」
「あるんだよ。」
75
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:21 ID:vFNzqD6Y
りたリンを押し留め、翔はきっぱりと宣告した。
「それが何なのか、僕には分かったんだ。だから頼む、これが最後の一回だから。」
曇りの窺えない決意が、翔の瞳から伝わって来る。それを翻す事は難しい。
「君と一緒にいる為に、すべき事をやるんだ!」
翔の表情は変わらない。そんな彼から、りたリンは顔を背ける事も出来ない。
相部屋の人間の寝息と、ベッド脇の冷蔵庫が鳴らすコンプレッサー音だけが部屋に聞こえた。
りたリンの視線が泳いでいる。小首を頻繁に傾げたかと思うと、不意に目に涙を溜めて俯く。
泣いているのか、と翔が尋ねると彼女は慌てて否定し、彼の毛布の上に顔を伏せた。
ピンクの髪をあやすように撫でる。指通りが心地よい。
次いでしゃくり上げる背中に手を伸ばした時、何かが彼の手に触れた。
――ああ羽根がある。やっぱり君は天使なんだな。
翼の付け根に触れれれて、りたリンが肩を小さく震わせた。
「わかった。これが最後のおまじないだからね。」
「ああ、これでもう君に無理は言わない。あとは君がずっと傍にいてくれたらいいんだから。」
憂いを滲ませた笑みを浮かべながら、りたリンがゆっくりと詠唱して行く。
♪明日という字は 明るい日と書くのね――
錠剤6錠を飲み干した翔は、ベッドから残りの半身を起こすと窓辺に向かった。
眼下の松林に誰かいる。昼間の刑事達だ。
「邪魔だな」
彼らに見つからず病院を抜け出す事は不可能ではないが、彼らは翔の脱走を知ったら
真っ先にアパートへやって来るだろう。
「だったら私が何とかするわ。」
手荒な真似はするなよ、と翔は釘を刺して二人は病室を出る。
宿直に当たっている看護師の目を盗んで階段を使い、一階に降りて静まり返った病室を品定めする。
刑事達からも宿直室からも死角となるその部屋の窓を開け、二人は見事脱走に成功した。
病院の寝巻き姿は人目に付く。そうなれば相手が刑事でなくとも厄介である。
全速力でアパートへ戻ると、翔は真っ先に携帯電話を取った。
76
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:21 ID:vFNzqD6Y
人通りの全く無い街灯の光の下を、セーラー服姿の少女が一人ゆっくりと歩いていた。
誰にともなく、少女は口を開いた。
「この私が買い物忘れとは、矢張り年かな。それにしても」
嵐の前の静けさ、と云った趣だろうか。
危険だ。それも痴漢強盗引ったくりと云った類のものではない。
もっと異質のもの。彼女が潜在的に恐れているものが近づいている。
少女は街灯の下で突然足を止め、持ち前の鋭敏な感覚でそれを探った。
突如として、闇の彼方から声が鳴り響いた。
――道を通せば角が立つ、道を外せば深みに嵌る
邪心野心は闇に散り、残るは巷の怪しい噂
闇からの声が止み、口上に続いて間延びするような鈴の音が少女に届く。
「何の積りだ、妖怪おたくの受け売りでは私に道を説けんぞ! 出て来い翔!」
その声に向かってその少女、岳雅刹那が一喝すると、街灯の先に黒い人影が出現した。
黒い着流し黒袴。黒羽織には清明桔梗、手甲も黒。
黒足袋に、履いた下駄の鼻緒だけが赤い。
井川翔だ。
井川翔が重い腰を上げ、漸く姉を説得しに来たのだ。
彼の姉であるセーラー服姿の刹那は、妙な扮装で現れた弟を無表情で眺めていた。
「呆れた奴だな。どこでそんな衣装を手に入れたのだ。」
「友人の伝手で、演劇部から以前拝み屋の舞台を演った時の衣装を貸して貰ったんですよ。」
答える翔の口振りは、刹那が知っているそれとは全く異なっていた。
彼の表情は自信に満ち溢れている。人にも物事にも怖じる気配がない。
――喜ぶべきか、困るべきか。
弟が刹那の前に現れた以上、用件は分かり切っている。りたリンの件で間違いあるまい。
「否」と云おうとした刹那の機先を制し、翔が口を開いた。
「姉さん、貴女には感謝してるんですよ。」
「感謝? 何をいきなり殊勝な事を。」
「僕には分かってるんです。姉さんがずっと僕の事を心配してくれている事を。」
77
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:23 ID:vFNzqD6Y
「ならば話は早い、今から――」
黒手甲に覆われた腕を、翔は刹那の顔にぐっと伸ばして制した。
「思い出話をしましょうか、刹那姉さん。」
刹那の言葉を逆手に取り、彼女に自分の話をさせない。弟が見せる高度な話術は、刹那にとって
内心嬉しかったに違いない。それを示すかのように、彼女の口元が僅かに上を向いていた。
「姉さんが結婚した時は、本当に寂しかったんですよ。祝福してあげなければと思っていたんですけど
家族が離れて行くような気がして。」
弟の思わぬ告白に、刹那は溜息をついた。伴侶を得た当時を思い出したのか、刹那は満天の星空を見上げて
その場で回るように二、三歩足を運ぶ。弟を振り返ると、刹那は再度口を開いた。
「…そうか。お前は昔から、私に甘えていたからな。」
「随分悩みましたよ。でもね姉さん、それは当たり前の事だと気付いたんです。
家族といえど、手の届かない所はあるのだと自分に言い聞かせて、それで落ち着きを取り戻したんです。」
「落ち着きのないお前が言っても説得力がないぞ。」
ふっと口から笑みを零す姉の珍しい表情に、翔も軽く微笑んだ。視線が交錯する。
「茶化さないで下さい。実際姉さんは嫁いだ後でも、ちょくちょく僕達の下を訪れてくれましたよね。」
「家族だからな。特にお前は目を離すと何をしでかすか分からないから。」
「姉さんだってそうです。向こう見ずと言えば、姉さんの代名詞ですよ。」
「私は自分のする事に、自分で責任を持てる。」
そう云うと刹那は年齢を全く感じさせない、薄い胸を張り出した。翔がブロック塀に背中を付けて先を進める。
「そうでしょう、僕もそう信じてました。いえ今でも信じてます。」
「有難い事だ。だがお前は今、私の事を向こう見ずだと言ったな。」
「向こう見ずだけど、信じられる。矛盾はしないと思いますが。」
「成る程。それでお前は、何を言いたいんだ?」
「互いに信じ合ってこその家族でしょう。」
「お前を信じろ、と言いたいのか? それとこれとは…」
「同じです。確かに僕は無茶をしでかした、けどそれは僕に取って経なければならない『道』だったんです。」
みち、と翔の口から聞いた途端、刹那の眉が小さく内に寄った。
78
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:23 ID:vFNzqD6Y
表情に乏しいと云われる姉の刹那だが、彼女の顔をよく観察すると
僅かな表情の変化が百面相を成しているようで面白い。弟の言葉に何か引っ掛かるものを感じたのだろう。
それでも翔は姉に向けた、不自然に発達した滑舌を止めない。
「『道』か…小賢しい言葉を使うのだな。」
「人には与えられた『道』、つまり本分があります。それに沿って成長するものですよ。」
「お前の場合は心配で見てられないがな。大体『道』など、本来人には気付かぬ領分だ。」
「生きていれば、その時その時何か選択を迫られる局面があります。例えば卒業後の身の振り方を
『進路』と言うでしょう。一般的に使われる言葉ですが、これは『道』と同義です。そうでしょう?」
「異存はないが、それがどうした?」
「今の姉さんがあるのも、姉さんが『道』を選んだ結果なんです。その『道』が100%正しいと、
当時の姉さん自身が知っていた訳でもないでしょう? もし結果が望んだものと違っていたら――」
「私は、自分の選択を後悔した事はない。」
刹那は賢しらな弟の言い分を、傷付けずに否定する言葉を選んだ筈だった。しかしそれも、
どうやら翔の予測範囲内でしかなかったらしい。翔は特に気にした様子もなく、その滑舌を続けた。
「それです。それは姉さんが『道』を知っている人間だと云う事に他なりません。
つまり『道』とは、人間にも自覚できる領域にある物なのです。この点で姉さんは誤解をしています。」
「だからお前は、自分にも『道』が自覚できると云いたいのか?」
「それは後の方に取って置きましょう。問題は何を以って『道』を選ぶのかという事に移っております。
誰しも必ず自分の純粋意志で『道』を選べたら、この話は終わりです。」
「だろうな。そういう事にして、こんな巫山戯けた辛気臭い話を終えるがいい。
私は買い物の途中なのだ。」
そう云って刹那が右足を踏み出すと、翔は彼女の進行方向を塞ぐように立ちはだかる。
怒りとも猜疑心とも取り得る姉のむっとした様子を気に留める風でもなく、翔は変わらず話を続けた。
「もう少し我慢下さい。自分の力量、他人の都合、金、時間の制約といったもので、『道』を選ぶ
純粋な自由意志というものはなくなります。僕の場合は――」
「お前の場合は明らかに力量不足だな。」
徐々に怒りを露にしつつある姉の茶々を、翔は平然と受け流した。
79
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:24 ID:vFNzqD6Y
「仰る通りです。だから姉さんは僕を庇護しようとした。これは姉さんにとって正しい選択と言えます。」
「私は、自分の判断を信じている。お前に取っても悪くない話だと思うが。」
「そうです、これは僕に『道』を作ってやる事と同じです。ところでですね、人は『道』を選ぶ事で
何もかもを得る訳ではありません。姉さんだって、以前と比べたら僕達との時間は確実に減ったのではないですか?」
「引き篭もりのお前とは違うぞ。もっと外に友達がいるから、それ程関わる時間が減った訳ではない。」
「ではその友達との時間はどうです? 減っているのではありませんか?」
「…連絡を取ってはいるが、会う機会は確かに減ったかもな。」
憮然と答えた姉に対し、翔の向ける眼差しはあくまで不敵だった。
「そうでしょう、例え最良を選んだとしても、何もかも手に入る『道』なんてないのですよ。」
「これも異論は無い。で、お前は何か。りたリンを失う『道』を示した私に文句を言いに来たのか?」」
用件を早く言って欲しい本音から、刹那は強引に本題と思われる話題に繋げた。実際彼女は本来
急な買い物の途上にあるのだ。それが刹那の焦りを生み出しているのか。
翔は満足げに頷くと、しかし敢えて是と運ぶ話の流れを断ち切るように云った。
「最初に言った筈です。姉さんには感謝していますよ。」
「では黙って私の言う事に従うが良い。健康で長生き、それは誰もが欲しがるものだろう?
私はそれが手に入る『道』を指し示したのだから。」
刹那はどうしても早くこの話題から離れたいらしい。刹那の怒りは爆発寸前である。
そこまで追い込んだ自分に満足しながら、翔は遂に胸の内を正直に語った。
「いえ、それでも僕はりたリンと一緒に居ます。それが僕の『道』です。」
刹那が遂に、翔を怒りの形相で睨み付けた。体躯に似つかわしくない程の大声を弟に向けて張り上げる。
「馬鹿者! 彼女と一緒にいれば、自分の身体を壊す事にまだ気付かんのか?!」
「壊れません。」
翔ははっきりと、刹那の瞳を見据えて宣言した。
「壊れません。錠剤はもう貰いませんから。」
「だがお前は、絶対彼女に頼るぞ! 絶対『励ましてくれ』と頼む筈だ!
りたリンがその時薬を出さないという保障はあるのか!」
「出しません。絶対出させません。彼女には、ただ傍にいてくれるだけでいいのですから。」
「お前の言う事など信用できるか! そう言って私を何度裏切ったと思っているんだ!」
80
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:24 ID:vFNzqD6Y
「本音が出ましたね。では伺いましょう。『道』を示したのは僕の為ですか、それとも自身の満足の為ですか?」
「黙れ、例え自己満足の偽善だとて、可愛い弟がみすみす悪の『道』を進む事を黙って見過ごせるものか!
これ以上小難しい戯言を聞いたら、私はおかしくなってしまいそうだ!」
「それはおかしい。ならばあの時、僕が姉さんの結婚を妨害するという選択肢もあった筈です。
そして今の姉さんには、僕の妨害を否定する資格はありませんよ。でも僕はそうしなかった。
僕がそれをしなかったのは、姉さんの意思を尊重したからですよ。」
「今更貸しを作ったつもりか! ならば私は、お前にどれだけの貸しを作っていると思っているのだ!
それもこれも全て、お前の為を思っての事であったのに! 何故分ろうともせんのだ!
これ以上私の心を踏み躙るつもりか、それならば死ぬがよい!」
刹那の瞳が滲んでいる。可愛い弟に呪詛の言葉を吐かざるを得ない心境とは、如何様なる物だろうか。
「それとこれとは話が別です。この貸し借りは、互いが選ぶ『道』を尊重する事でしか成立しない。」
刹那は押し黙って俯き、翔は平然とそんな姉を見下ろしている。
満天の星空はいつの間にかその殆どが雲で覆われ、翔の黒装束はその半分を異世界に委ねていた。
「何も心配する事はありません。薬の件ですが、りたリンが既に二度と出さないと約束してます。
意志の弱い僕でも、これなら二度と例の薬を口にする事はないでしょう。」
「そこまで云うなら仕方あるまい。私の目の前から消えろ! 賢しい理屈の毒で、これ以上私に憎しみを抱かせるな!」
刹那は頭を抱え、自分の周囲を拒絶するように大きく振った。短いツインテールが揺れる。
「僕が憎いですか? あなたの言う事を聞かない僕が。」
「ああその通りだ。何度云って聞かせても、私の思いが通じない! この憎しみはどうにかならんのか!」
刹那が漏らす様にそう云った瞬間、翔がブロック塀の上に飛び上がる。
彼は黒羽織の懐から呪文字の書き付けられた符を取り出して、刹那に投げ付けた。
「今まで有り難う、姉さん。」
「翔! お前…」
彼女が辺りを覗うと、黒装束に身を包んだ翔は既に何処かへと姿を消しており、闇の奥底より口上だけが聞こえた。
――御行奉為(おんぎょうしたてまつる)
刹那は呆然と立ち尽くしたまま、ブロック塀に木霊するりいんと間延びした鈴の音を聞いた。
81
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:25 ID:vFNzqD6Y
「本音が出ましたね。では伺いましょう。『道』を示したのは僕の為ですか、それとも自身の満足の為ですか?」
「黙れ、例え自己満足の偽善だとて、可愛い弟がみすみす悪の『道』を進む事を黙って見過ごせるものか!
これ以上小難しい戯言を聞いたら、私はおかしくなってしまいそうだ!」
「それはおかしい。ならばあの時、僕が姉さんの結婚を妨害するという選択肢もあった筈です。
そして今の姉さんには、僕の妨害を否定する資格はありませんよ。でも僕はそうしなかった。
僕がそれをしなかったのは、姉さんの意思を尊重したからですよ。」
「今更貸しを作ったつもりか! ならば私は、お前にどれだけの貸しを作っていると思っているのだ!
それもこれも全て、お前の為を思っての事であったのに! 何故分ろうともせんのだ!
これ以上私の心を踏み躙るつもりか、それならば死ぬがよい!」
刹那の瞳が滲んでいる。可愛い弟に呪詛の言葉を吐かざるを得ない心境とは、如何様なる物だろうか。
「それとこれとは話が別です。この貸し借りは、互いが選ぶ『道』を尊重する事でしか成立しない。」
刹那は押し黙って俯き、翔は平然とそんな姉を見下ろしている。
満天の星空はいつの間にかその殆どが雲で覆われ、翔の黒装束はその半分を異世界に委ねていた。
「何も心配する事はありません。薬の件ですが、りたリンが既に二度と出さないと約束してます。
意志の弱い僕でも、これなら二度と例の薬を口にする事はないでしょう。」
「そこまで云うなら仕方あるまい。私の目の前から消えろ! 賢しい理屈の毒で、これ以上私に憎しみを抱かせるな!」
刹那は頭を抱え、自分の周囲を拒絶するように大きく振った。短いツインテールが揺れる。
「僕が憎いですか? あなたの言う事を聞かない僕が。」
「ああその通りだ。何度云って聞かせても、私の思いが通じない! この憎しみはどうにかならんのか!」
刹那が漏らす様にそう云った瞬間、翔がブロック塀の上に飛び上がる。
彼は黒羽織の懐から呪文字の書き付けられた符を取り出して、刹那に投げ付けた。
「今まで有り難う、姉さん。」
「翔! お前…」
彼女が辺りを覗うと、黒装束に身を包んだ翔は既に何処かへと姿を消しており、闇の奥底より口上だけが聞こえた。
――御行奉為(おんぎょうしたてまつる)
刹那は呆然と立ち尽くしたまま、ブロック塀に木霊するりいんと間延びした鈴の音を聞いた。
82
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:27 ID:vFNzqD6Y
翔と刹那が話し合っていた頃とほぼ同時刻、松林の木陰に人影が二人立っていた。
一人は病院の窓の一角を凝視しており、一人は何やら奇妙な節で歌を歌っている。
♪熱いようで熱くない ♪冷たいようでも冷たくない ♪それは何かと聞かれたら――
「氷の天麩羅だろ。カビの生えた大喜利ネタやっても面白くないぞ。」
初老の男が、目を病院の方角から歌い手に向き直してオチを先取った。
歌が止まり、まだ青年の面影を残した歌い手が口を尖らせる。舌打ちと溜息の後、彼はゴマ塩頭に口を開いた。
「気に入っているんですけどね。それにしてもゴマ塩さん、大喜利見てるんですか?」
「バカにするな。大体俺はゴマ塩って名前じゃない。ちゃんとした名前が…」
「ゴマ塩さんはゴマ塩さんですよ。署内でもみんなそう呼んでますから」
身も蓋も無い言い方をされ、ゴマ塩はつい渋面を作った。だが若者の話が事実である以上、
何か反論できると云う訳でもなく、むっつりと黙っていた。
「…もうゴマ塩でいい。ところでな、氷の天麩羅と云えば」
ゴマ塩はそう云いながら、手に持った紙箱を地面に置いて箱を開けた。
先の大喜利ネタを唐突に蒸し返された青年がゴマ塩の手許に注目していると、
初老の刑事は何やら小麦色の物体を箱から取り出した。
「それ何です?」
「アイスクリームの天麩羅だ。珍しいって云うから買ったんだが、腹の虫抑え位にはなるだろ。」
話には聞くが、実物を目にする機会はそれほど多くない。若い刑事は歓心したように、ほうと嘆息した。
「ゴマ塩さん、甘党だったんですか。」
「何党でも構わんだろう。あんまり俺の機嫌を損ねると食わせないぞ。」
長い夜の入り端に冷たい物を食す事は、体を冷やす為合理的ではない。
しかし雪上に食するアイスクリームの如く、風流ではあるかもしれない。何より物珍しい。
小麦色の物体に軽い空腹を覚えたのか、若い刑事はゴマ塩の悪態に追従した。
一口食してみる。
「そのまんまシューアイスじゃないですか! これじゃ珍しくも何ともないですよ」
若者の正直な感想に、ゴマ塩も思わず同意していた。
「うん、こんな代物を有難がって買った俺もバカだ。ちょっと油っぽいしな。」
表皮の湿ったシューアイスに似た物体を手に乗せて、二人は同時に嘆息した。
83
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:28 ID:vFNzqD6Y
沈んだ気分を取り繕うように、若い刑事が会話を再開した。
「そろそろ監視に戻りましょう。例の救命天使とやらが彼の前に現れるかも知れませんし」
「そうさな。昼間は来なかったが、奴は絶対現れる。あの坊やは自力で入院したらしいが、
医者によると衰弱が激しくて歩けなかったそうだからな。絶対、奴が絡んでいる筈だ。」
放火魔を放置する訳には行かない、その決意を新たにすると、ゴマ塩は手に乗った物体を片付けるべく
その手を口に運ぼうとした。
♪熱いようで熱くない ♪冷たいようでも冷たくない
♪それは何かと聞かれたら――
若い女の声が、林の奥から聞こえて来る。ゴマ塩と若い刑事が辺りを窺う。
闇に浮かんだ枯れた松の枝は、まるで骸骨の腕や手。乾いて皺の寄った肌は、野晒しの骨。
それまで何の変哲もない松林だったのが、気付いて見れば亡者の群れのど真ん中にいる。
他には何も見られなかった。いや違う、ここは死者と生者の端境だ。あやかしは近くに居る。
「ひっ、ゴマ塩さん!」
ふと掌に熱い感覚を覚え、ゴマ塩は手を身体に引いて見た。齧られた小麦色の球体が、掌に張り付いていた。
慌ててアイスクリームの天麩羅を払い落とす。ゴルフボールのような音を立てて、それは地面に落下した。
♪氷の天麩羅氷の天麩羅氷の天麩羅氷の天麩羅氷の天麩羅――
何処からともなく何度も何度も繰り返される「氷の天麩羅」が、ゴマ塩と若者の心を徐々に凍て付かせて行く。
ゴマ塩が拳を握って右足を一歩引く。自分が出した古い大喜利ネタに慄いたのか、若者は腰から地面にへたり込んだ。
「ゴマ塩さぁん、一体これは何もの――」
会話を続けようとした次の瞬間、若い刑事は自分の右頬を何かが掠めた気配に、息を呑み込んで言葉を失った。
「若刑事、大丈夫か!」
若者は口を空しく動かすだけで、声にならない。ゴマ塩が唇を読んでやると、彼は「自分にはちゃんとした名前が」と
喋っているのだと判断できた。
「お互い様だ、それより何があった!」
ゴマ塩が怒鳴ると、若者が後方を指差す。目を遣れば、枯れ果てた松の肌に刺さっていた牛乳瓶大の注射器。
再びゴマ塩が振り返ると、群がる白骨の間からこれまた白い衣服がゆっくりと浮き上がって来た。
84
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:42 ID:vFNzqD6Y
女だ。
白の、否ピンクのナース服を纏った小柄な女が、右手に消火器のような白い物体を掲げて現れたのだ。
ゴマ塩が更に後摺さる。若者は腰を抜かしたまま、最早泣き出す寸前まで追い詰められている。
松浦あややのような顔立ちをした彼女は、右手の負荷を物ともしない表情で、ゆっくりと口を開いた。
「これ以上私に、いえ翔に――近づかないで。」
「君は――」
ゴマ塩は上ずった声で女に語り掛けて、身の毛もよだつ冷気に抗う。
この冷気は彼女が醸し出す異形の予感だけではないだろう。天使の右手にある物を凝視すると、
それはびっしりと霜が付着した巨大な注射器に見えた。その先端は広く開いており、天を向いている。
――液体窒素。
以前井川翔から訊き出した話と一致した。ついに彼の目の前に、本星が現れたのだ。
「君が、救命天使りたリン♥だな。」
ゴマ塩は右手だけを動かして、懐に手を伸ばそうとした。
「りた♥フリーズ!」
ゴマ塩の足元で、じゅっと天麩羅を揚げるような音がした。立ち上る煙と共にゴマ塩の動きが止まる。
彼は足に力を入れてみたが、何かが靴の裏に張り付いて動けなかった。
りたリンはゴマ塩と対峙したまま、注射器の先端を空に向けた。
「動かないで。」
ゴマ塩は素早く手を落としたが、「あち」と叫んで腰から拾い上げたものを地面に落とした。
霜が降りて使い物にならなくなった無線機を、ゴマ塩は恨めしげに眺める。
その間に地面を這って逃れようとした若者の前に、りた♥フリーズ。この一発で彼はあっさりと逃走を諦めた。
「応援も駄目です。私の云う事を聞いて下さい。」
顔を上げ、ゴマ塩は再度りたリンを視界に捉えた。彼女は左足を半歩引いており、全く隙が見当たらない。
――こんな相手は初めてだ。反応も、遙かに俺を上回っている。
最早人外の存在としか認められないようなピンクのナースは、現在の立場からは到底考えられない
悲壮な表情で訴えて来た。
「これ以上ご迷惑はお掛けしません。ですから私たちを付回さないで。いえ、私は構いません。
けど翔は、彼だけはそっとしてやって下さい!とっても傷つき易い人なんです。」
85
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:42 ID:vFNzqD6Y
「もう十分迷惑してるぞ! 大体君がお縄に付くのが本筋ってもんだろう!」
ゴマ塩が捨て鉢にそう叫ぶと、りたリンは巨大注射器の先端を、地面に伏してしまった青年に向けた。
「ひぃっ! 命を大切に!」
青年は仰向けになって両腕を傘上に開き、4の字状に足を組む。その姿は己が肉体で「命」という文字を
表現しているようにも見えた。りたリンは顔だけをゴマ塩に向け、冷たい瞳でベテラン刑事を射竦める。
「翔を追い回さないって、約束して下さい。でないと…」
りたリンは若刑事の足元に、極低温の雫を一滴垂らしてみせた。若刑事が竦んだ声を上げる。
言葉遣いは丁寧だが、彼女が要求している内容は無茶無法である。ゴマ塩が声を荒げた。
「卑怯者、それでも君は天使か!」
「何とでも仰って下さいゴマ塩さん。こうでもしないと約束してくれないでしょう。」
自分自身ではなく後輩の命を質に取られて、悲痛な面持ちとなったゴマ塩の叫びに対し、
りたリンは実に冷たく澄んだ声で流暢に答えた。
相手が普通の人間ならば、殺人を犯し人道に外れる事を恐れる心がある。そこを手掛かりに、
罪を重ねないよう説得する事も十分可能である。と云うより寧ろ、それが警察官の本分であるし、
彼らの得意分野でもある。
だが筋肉の動きからも、りたリンには緊張した様子が現れていない。
――躊躇がないのだ。
この救命天使はゴマ塩が「是」と答えなければ、何の躊躇いもなく若い刑事を氷のオブジェに変えてしまうだろう。
無線機は壊された、ならば威嚇射撃かまたは射殺。駄目だ。警察の道徳倫理以前に、反射速度で全く勝てない。
彼女を退ける前に、若刑事が氷付けになる公算大だ。
いっそ彼を犠牲にして捕まえるか? いや、二人とも犬死にで終わりだ。
86
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:43 ID:vFNzqD6Y
「分かった、約束しよう。」
「何を約束するんですか? ちゃんと云って下さい。」
餌を撒いても簡単には食い付かない。
そんなりたリンの冷静さにゴマ塩は嘆心しつつも、眉間に皺を寄せた。若刑事が裏返った声で必死に叫ぶ。
「ゴマ塩さん、いけない! 俺はどうなっても…」
りたリンが一歩進み、巨大注射器の先端を若刑事の顔に近づける。若刑事の唇は冷気と恐怖で、
既に紫色へと変色していた。ゴマ塩が大声で叫ぶ。
「もう俺は井川翔に関わらない! 若刑事もだ! どうだ、これでいいだろう」
りたリンはそのままの姿勢で、平然とした声で答えた。
「『俺は』を『警察は』に言い直して下さい。それで十分です。後は私を付け回そうが何しようが、
あなた達に文句は言いません。」
「駄目です、ゴマ塩さん! 警察の負けになりますよ。」
若刑事のコートの襟に雫が滴り、それはじゅっと音を立てて霜に変わる。
ゴマ塩は人生最大の屈辱を味わったと云わんばかりに、顔を歪めて絶叫した。
「警察は井川翔に二度と関わらない!」
云い終わるとゴマ塩は、肩を大きく脱力させた。仰向けになった若刑事の目から、恐怖とは別の涙が溢れている。
りたリンは約束を聞き届けると若刑事から注射器を離し、若者とゴマ塩に向けて初めて微笑んだ。
後ずさりしながら、闇に溶け込むようにゆっくりと消えて行った。
――ありがとう。翔を苦しめないで下さいね。
白骨群れ成す幽界は、いつしか静かな夜の松林に戻っていた。
87
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:44 ID:vFNzqD6Y
「終わったよ。りたリン、全て終わったんだ。」
翔はそう云いながら、黒い羽織を自分の万年床へと無造作に脱ぎ捨てた。
喧嘩腰の対談ではあったものの、翔は何とか刹那から、りたリンと一緒にこのアパートに
残る約束を取り付けたのである。姉の悲痛な顔を思い浮かべると少し胸が痛んだが、
りたリンとの生活が改めて始まる期待に胸が膨らんだ。
――病院には戻らないと駄目だろうな
それでも退院後に待つ日々の前には、それは日常の明るさを引き立てる些事でしかなかった。
「ごめんね。」
りたリンが不意に発した一言で、翔は現実の風景に引き戻された。彼女は一体何を謝るのか。
手甲を外し損ねた翔が口を開く前に、それは彼女の口から明かされた。
「やっぱり私、お別れしないといけないの。」
彼は自身予測していなかったこの言葉に、堪らず感情を荒げた。
「何を言い出すんだ! 君はもう僕の健康を壊す事はない筈だろう?
もう薬は出さないって約束したよな! だから一緒にいても大丈夫だよ!」
「私がここにいる必要が無くなっちゃったのよ。だから私は、翔とさよならしなきゃいけないの。
ごめんなさい、もっと早く云っておけば良かった…」
全ては彼女の為に行って来た事なのに。その為には自分の命さえ犠牲にする覚悟があったと云うのに。
こんな結末があって良いものだろうか!
「君自体が僕には必要なんだよ、それじゃダメなのか?」
りたリンは目を閉じて、ゆっくりと首を横に振った。
「私たち救命天使は、そのままではどうしても死んじゃう人を励まさないといけないの。
だから本当は、お姉さんに言われるよりもっと早く、お別れしないといけなかったのよ。
お願い分かって。薬を出さない救命天使は、この世にいてはいけないの。」
「そんな…じゃあもしここで別れなかったら…」
りたリンは地獄の苦しみを味わい、完全に消滅する。その上で翔の記憶からも完全に消されると云う。
残酷な真実を突然聞かされた翔は、呆然と肩を落として俯いた。
「じゃあどうして、最後の願いなんか聞いたんだよ。何も言わずにそのまま別れてくれたら」
良かったのに、と翔は聞こえないように呟いたのだが、りたリンは上ずった声でそれに答えた。
「どのみち消えるしかないのなら――見て置きたいじゃない。」
――翔が私の為に頑張るって聞いたら、嬉しくて当然じゃない。
88
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:44 ID:vFNzqD6Y
「君には友達もいる、お姉さんもいるじゃない。本当の君は、私なんかよりもずっと賢いし…」
りたリンはそう云って残され行く青年を励ましたが、翔は彼女のほめ言葉を受けて
自嘲気味に口元を歪めた。
「りたリンがいたからだよ。 そうでなきゃ、僕みたいなダメ人間は――」
「自分で自分の事をダメ人間って言わないで! 私まで悲しくなるわ!」
翔は息を飲み込んで絶句した。幾分か口調を和らげ、りたリンは泣き笑いのような顔で囁いた。
「翔を助けた事、私の一生の誇りだよ。」
黙って聞く翔の目に、涙が溜まっている。軽く鼻を啜って、りたリンはそんな彼を嗜めた。
「やだ、別れに涙は蛇足でしょう。」
「何でそんな歌まで知ってるんだよ――」
涙を浮かべたまま翔は苦笑し、りたリンに近付くと正面から彼女を抱き寄せ、髪を掻き分けて額に軽く口付けた。
暫し時が流れ、りたリンは翔に抱かれたまま彼の手に注射器を握り込ませた。
「お願い翔。君の手でこの注射器を粉々に砕いて。」
「そうしたら――そうしたらこの注射器はどうなるんだ?」
ふっと軽い溜息をついて、りたリンが口を開く。
「ただの…燃えないゴミになるわ。私にももう会えない――」
「そんな!」
親友を手に掛けざるを得なかった人間の心境が、今の翔には理解出来たに違いない。
だがこの注射器を砕いた所で、地球の半分が吹き飛ぶ大惨事を免れるわけでもなく、
ましてや誰の命を救う事にも継がらない。あくまで自分一人の身の上話である。
壊そうが壊すまいが、自分の自由であるという翔の思惑を察したのか、りたリンがくぐもった声で催促した。
「早くして。そうしないと君も私も、もっと悲しい思いをする事になるわ。」
りたリンが腕の中で叫んでいる。これが彼女の望んだ事なのか。
「一度くらい私のお願いも聞いてよ。ワガママ言わせてよ。」
腕の中から聞こえる、涙に濡れた一言一言が、石を穿つ水滴のように翔の心を抉る。
このまま云わせて置けば、いずれ本当に心臓の奥まで痛みに侵されかねない。
りたリンを左腕で自分の胸にしっかりと密着させ、右腕を大きく振り翳して。
「りたリン―――っ!!!」
ガラス片がLDの床一面に散らばったかと思うと、それらは灰色の空に帰って行く雪のように
ゆっくりと立ち昇って行った。
りたリンの身体から力が抜け、翔は慌てて彼女の背に右手を添えて倒れないように抱き止めた。
89
:
お別離れの刻…
:2004/02/16(月) 00:45 ID:vFNzqD6Y
普段は元気な丸っこいりたリンの顔が、まるで重病人のように蒼褪めてやつれて行く。
生命力が弱っているのが目に見えて判る。
「こんな、こんな消え方って…。知ってたらこんな酷い事――」
最早溢れる涙を隠そうともせずに覗き込む翔を、りたリンは力なく微笑み返した。
「ちょっと長く居過ぎたからだと思うけど、心配しないで。私は死ぬんじゃないわ。天に帰るだけ。
人知れずひっそりと消えて行くより、翔に看てもらうこっちの方がずっと暖かいよ。」
返事をすると、りたリンは眠るように目を閉じて翔の胸に顔を埋めて、
「ありがとう」と聞こえるように呟いた。
翔の腕に感じる重みと体温が、時を追う毎に失われていく。立ち昇るガラスの破片が
マリンスノーのような泡となって、ゆっくりと、少しずつ時間を掛けて。
腕の中にいる可憐なピンクの人魚姫を、少しずつ溶かしているようにも思われた。
地上に降り立った天使が完全に翔の腕から消え、再び天に帰って行った後も、
彼女の身体の残像がそこだけ明るく、粉雪みたいに反射し続けているように残された青年は感じた。
朝日が小汚いアパートのLDに差し込むと、それまで半ば静物と化していた黒い和装束の青年が
無目的に力なく立ち上がった。
<エピローグに続きます>
90
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/16(月) 00:49 ID:vFNzqD6Y
話はいきなり辛気臭くなるわ、会話で冗長な部分がでるわ、
>>81
と
>>82
で二重投稿になってしまうわ…
少しだけ凹みました。
マエニドコマデカイタカワスレチマウンデスヨ,キオクリョクニケッカンガアルカラ.
愚痴垂れても仕方ないので、何とか次の話を書いてみるつもりです。
次の夜までサヨウナラ…
91
:
たべごろ
:2004/02/17(火) 19:05 ID:mcaDotNs
翔です。まだ寒さ厳しいこの頃ですが、
春先になると浮かれだす人をちらほら
見掛けるようになります。
この前までと印象の違う学生、カップルに何かヤバイひと
いっすね、若いって!…
次回の救命天使・りたリン♥は…
きみは月斗、
ひとりエッチ、
OL人妻姉三人、の三本です。
さーて、来週も観て下さいねー
じゃん!けん!!ぽん!!!!ドゥフフフフ…
チャラチャッチャラー
んで最終回は『巧拙百ミニ語〜倒殺・或いは七人他誌炉〜』イカガワシイタイトルでスマン
92
:
52
:2004/02/26(木) 17:43 ID:4/t4qhaY
>>51
>>53
今更だが騒いでゴメソ
当時は何も表示されなかったんでつ…逝ってくるわ
93
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/29(日) 17:12 ID:8yZ1dljM
第6話完成につき、投下開始。
一応今回で完結。
94
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:13 ID:8yZ1dljM
井川翔は、紫煙燻る淡い水色の部屋で一人掛けの黒いソファに座っていた。
首をだらしなく斜めに垂らし、軽やかな息を立てている。
頭髪を二つ分けにした五十絡みの白衣の医師が、ガラス張りの机を邪魔そうに避けて通る。
医師は寝息を立てている翔にゆっくりと近付き、季節外れなクリスマスソングを鼻で歌いながら
彼の襟元に手を伸ばした。
一つ一つ丁寧に釦を外すと、景徳鎮の光沢を持った素肌が現れて。
その滑らかな肌を指先で、掌で擦り、髪を掻き分けて耳を露わにし、そこに鼻歌を流し込みながら――
「止めて下さい先生、セクハラで訴えますよ!」
医師の手を乱暴に払い除け、翔は開かれた襟元を左手で押さえて医師を睨み上げた。
「陰獣はお気に召さなかったようだね。耽美は嫌いかい?」
薔薇十字クリニックの榎本医師は翔の怒気を前に、飄然と懐に手を伸ばして煙草を一本取り出した。
ちなみにここは診察室であり、当然禁煙である。新たに立ち上った煙を手で扇ぎ、
露骨に厭な顔をして翔は榎本に話し掛けた。
「何が耽美ですか! どっちかって言うと『なんて、気持ちが、いいんだ』でしたよ!」
「アホアホ合体だね。それより君、残念だけど例の薬は処方できないよ。」
煙を一服して榎本は答えた。押し黙る翔に向けて、煙草を手に持った医師は言葉を続ける。
「そんな顔をするんじゃないよ。あのね井川くん、雀聖と呼ばれた男は、症状が出たらさっき僕が
やったような事ではちっとも目を覚まさなかったんだよ。それこそ出目徳みたいに身ぐるみ剥がされても、
死人のように反応しなかったんだ。そこまで症状が行かなきゃ、あの薬は出さないよ。」
白衣の医師はそう云い終わって、指先の煙を胸の奥へと誘った。翔が腰を少し上げ、徐に問い掛けた。
「さっきのは」
軽く咳き込んだ。乾いた口内を潤して続ける。
「さっきみたいに振舞ったのは、服を脱がせる為だけにやったんですか?『戦メリ』まで歌って?」
「そうだよ。」
榎本の答えは、至極当然だと云わんばかりのものだった。
「アレで気色悪がって目を覚ましたから、君の狸寝入り。」
翔は苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちし、腰掛けた自分の膝に目を落とした。
「薬欲しさに仮病使ったって意味ないよ。そんなに眠気がキツいのなら、
君の場合は唐辛子入り焼酎でも飲む事だね。胃は荒れるけど。」
95
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:14 ID:8yZ1dljM
どうあってもこの医師は、目の前に立つ初診の患者に薬を処方する気はないらしい。
失望と苛立ちを顔に浮かべながら、翔はぶっきらぼうに口を利いた。
「日本酒と焼酎は嫌いなんです。厭な思い出がありますので。」
「じゃあ七味を一瓶入れたかけ蕎麦だね。一日一食しか食えなくなるから食費も浮くよ。」
「僕は雀聖じゃない、もう結構です!」
翔は卓上にあった灰皿を掴むと、ソファに腰掛けた榎本の顔めがけて思い切り投げ付けて席を立つ。
榎本は灰皿を躱そうと頭を動かして、逆に灰皿へと額を向けてしまった。かんと灰皿が鳴って。
「とりあえずグッスリ寝ないと、治る物も治らんぞ! その為の処方だったらしてやるから!」
榎本が額を押さえながらそう呼び掛けた時には、翔の姿は既に薔薇十字クリニックから消えていた。
翔は薔薇十字クリニックを飛び出すと、まっすぐ歩を進めた。
どうして自分は無神経な医者にばかり当たってしまうのだろうか。患者の落ち込んでいる気分を
ならば彼らが無能かと聞かれると、それは否である。翔が某所で知った薬欲しさに眠り病を見せ掛けても、
彼らは一回の診断で患者の詐病を見破ってしまう。要するに彼らは、翔にとって最悪の医師だった。
翔は上着のポケットに手を突っ込んみながら、肩で風を切って歩道を歩く。
彼の後方から自動車のブレーキ音と衝撃音、少し遅れて悲鳴が聞こえて来た。
いかにも治安の悪そうな通りでふと顔を上げてみると、コンクリート造りの建物が右手にそびえていた。
目に入る壁のひび割れ。手摺りの白い塗装も所々剥げ、赤い斑点が痛々しい。
「懐かしいな」
思わず翔は呟いていた。大地震でも来れば倒壊しそうなこのボロアパートに、翔自身も一月前まで
住んでいたのである。救命天使りたリン♥との出会い、不思議な日常。
そして唐突に訪れた悲劇的な別れ。りたリンを看取り、彼女を天に帰したのも翔であった。
あの日あの時あの場所で彼女に会えなかったら、自分はこの場に立っていただろうか。
腕の中で彼女の体温がなくなって行く感覚を思い出すと、今でも胸に苦しみを覚える。
その日を最後に、彼は全く笑わなくなった。
――自分達を織り成す物語に語り手がいるのなら、せめて彼女の為にもう少し長い話を編み上げて欲しかった。
春が近い所為だろうか。
翔は自分が以前住んでいた部屋の一角に、何か淡い桜色の翳が過ぎったように見えた。
96
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:16 ID:8yZ1dljM
錯覚でも見たのかともう一度目を凝らす。人間らしきその翳が、窓の死角に消えて行く。
新しい住人が来たのかとも思われたのだが、窓を良く調べてみると。
カーテンがなかった、いやそれどころか家具の気配すらない。
生活感のない部屋に人影、まさか。
「あ、井川さん。」
背後から名を呼ばれ、翔はびくりとして振り返った。大家がいた。
今や翔と何の貸し借りもない大家は、痩せた顔に笑みを浮かべて元住人へと近付いて行き、
翔は気不味そうに眉を寄せて左足を半歩引いて身構えた。
「ご無沙汰しております。お部屋見てらっしゃいましたけど、懐かしいですか?」
「ええ」
ぶっきらぼうに云って翔は再びその部屋を見上げたが、やがて聞くべき事柄を思い出して大家を向いた。
「あの部屋、誰か住んでいるんですか」
「やっぱり気になさいますか」
勿体振った大家の物言いに、翔は再び眉を顰めた。
「ご挨拶なさいますか、と言いたいのですが…」
刑事が出入りした評判も伝わって、今は空き部屋だと大家は云う。翔が人影を見た事を伝えると、
大家はあははと笑って説明した。
「多分僕と見間違えたんでしょう。先刻あの部屋をチェックしてたんです。」
――違う。大家の服は寒色系だ。ピンクと見間違える事など有り得ない。ならば中に居たのは――
「大家さん、鍵!」
叫ぶや否や、翔は勝手知ったるアパートの入り口に向かって駆け出した。大家が鍵を投げる。
流れるような動作でキャッチした翔は階段を駆け上がり、かつての住処の玄関に着き、
鍵を差し込み捻って戸を手前に引く。勢い余って蝶番が外れた扉をそのままに、翔は靴を脱ぎ捨てて
アパート内を駆け巡る。
和室、居ない。キッチン、居ない。トイレ、浴室、やはり居ない。
アパートの中で最も広い、西日を真っ向から受けるLDにも、人影どころか何一つ見出す事はできなかった。
やはりあれは幻だったのだろうか。
部屋の片隅から放射される鋭利な光が、暫し途方に暮れていた翔の目を直撃する。
――あれは
反射光を頼りに、翔は部屋の一角に近付いて行く。腰を屈め膝を付いて注意深く見てみると。
ほんの小さなガラス片だった。
97
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:17 ID:8yZ1dljM
「井川さん、あなたここを出ても私に迷惑掛けるんですか? ドア壊さないで下さいよ!」
大家が泣きそうな声で呼び掛けながらLDまで入って来て、翔は咄嗟にポケットへガラス片を仕舞いこんだ。
立ち上がり、何食わぬ顔で大家を迎え入れて、
「ドア開けようとしたら蝶番が外れてましたよ。これじゃいつまでも空き部屋のままだ。」
室内に入った大家は、先刻の興奮状態とは打って変わって非常に落ち着いた翔に驚き、
一瞬全ての動作を止めた。
――僕の気のせいでしたね。
大家と擦れ違いざまに翔はそう呟き、部屋の鍵を元の持ち主に返す。
玄関から室内に向け一言投げ掛けて、翔は泰然とした面持ちで自分の新しい住まいに戻って行った。
家に辿り着き玄関を開けると、翔の姉である岳画刹那がセーラー服にエプロン姿といった
珍妙な出で立ちで迎え出た。家事をしていたのか手が濡れている。
「少し遅かったのではないか? 我が家の門限は6時と決まっていた筈であろう?」
エプロンの裾で手を拭きながら問うた姉に、翔はむっとして文句を云った。
「僕は小学生ですか? 幾ら何でも僕だって用事くらいあるでしょうに。病院行って来たんですよ。」
「お前、病院は二日前にも行って来たのではなかったか? 確かお前は二週に一度だったはずだ。それとも」
靴も脱がずに呆っと立っていた翔の目を、姉は小首を傾げて覗き込む。
翔は危うく彼女から目を逸らす所だった。逸らせば、彼女の執拗な追及が始まる。
まさか仮病を使って薬を貰いに行っていたとは口が裂けても言えない。しかし彼女の尋問に
耐え切る自信もない。一体どうすれば良いというのだろうか。
「…馬鹿のお前が風邪でも引いたか。ならば暖かくして寝る事だな。薬の飲み過ぎだけは注意しろよ。」
刹那はそれだけ云うとくるりと回り、再び台所へと足を進めて行く。
安堵の気配すら悟られぬよう、翔は姉の姿が見えなくなるまで直立不動の姿勢を保ち続けた。
家族三人での夕食後、翔はそそくさと自室に引き篭もった。
テレビを点けオーディオの電源を入れると彼は、無機質なベッドの上に寝転ぶ。
時計が何週か回転する内に、大きなスピーカーから流れ出る曲は「魔王」を日本語で流しており、
翔はそれを聴きながら夕方アパートで目撃した人影の事を思い描いていた。
柳の木を魔王の娘と見間違えるように、自分も思い入れのある娘とあの部屋に見えた何ものかを
見間違えたのだろうか。
98
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:18 ID:8yZ1dljM
――まるで子供だ。
原稿を読み上げるような芸人の抑揚のない声が、交響曲に溶けて混ざって近親憎悪的な不快感を醸し出す。
曲中で子が息絶えたのを皮切りに、彼は枕元の引出しから瓶を取り出して蓋を開け、
無造作に十数錠手に取る。眠る為の必需品であった。
服用を続けていれば、取り出す薬の分量など数えるまでもなく正確な錠数で取り出せる。
「君の所為で、止めてた薬をまた飲むようになったじゃないか。」
もう現世にはいない筈の彼女に向かって筋違いな文句を云うと、翔は南仏のおいしい水で錠剤を流し込み、
毛布を被って目を瞑った。
少なくとも目を閉じさえすれば、錠剤が不健康な眠りへと誘ってくれるから――
細かく煙った視界の先に、小柄な少女がゆっくりと歩いている。
特徴ある翼の生えたナース姿を、翔が遠目からでも見紛う筈はなかった。
天に帰ったはずの救命天使りたリン♥がそこにいる。彼女はこちらを見向きもせず
超然とした態度で灰色の世界を散歩していた。
「りたリン! りたリンだろ!」
りたリンは呼び掛けられたと思うと軽く肩を震わせ、首と身体を翔とは正反対の方向に遣り、
天地の無い世界から駆け足で去って行ってしまった。
無機質なベッドの上で翔は身を起こし額の凄まじい寝汗を拭った。刹那が云ったように、
昨夜は本当に風邪を引いていたのかも知れない。
窓外の眩しい陽気が、彼に寝坊した事を教えてくれる。もう学校に行く時間だったが、
翔は色彩の割には鮮明に残っている夢をベッドに腰掛けたまま反芻していた。
「りたリン、いたんだ…」
無意識に自身の口元が綻んでいる。それは翔にとって、久しく覚える事のなかった感情だった。
喜怒哀楽の喜。彼女を天に見送った際、同時にその感情は死んだと思っていた。
そうでも考えなければ、彼女を殺して自分は生きているという罪悪感から逃れられなかったから。
例え夢の中とは云えりたリンが生きているから嬉しいのか、それとも喜びの感情が彼女の夢を見せたのか。
それらの因果関係など、翔にとってはどうでもいい事柄に過ぎなかった。
ふと翔が目を枕元にやると、寝る前に開けた瓶がそのままに倒れて、数錠が零れている。
それを瓶に戻して蓋を閉め、翔は学校に行くべく二日酔いの足取りで立ち上がった。
99
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:19 ID:8yZ1dljM
その日翔が虚ろな頭で夏目助教授の講義を受けていると、友人である秋山準司が右手から彼に話し掛けて来た。
「翔、お前退院してから外出歩いてないだろ。」
「うん」
翔と話していると会話が続かない。途切れがちになる会話を何とか続けようと、秋山は次の話題を
瞬時に選び出した。翔の理解者を自負する彼ならではの呼吸である。
「ちったぁ遊びな。あ、そう言えばこの前の彼女は元気か?」
「消えたよ。」
そう云って翔は開かれたテキストに目を落とす。秋山は淡々と語られた事実に驚きを隠し切れなかった。
「消えたって…逃げられたって事か?」
「文字通りの意味だよ。この世から消えたんだ。」
死んだのか、と秋山は気付かぬ内に叫んでいた。講堂の視線を一身に集めた秋山は立ち上がり、
済みませんと周囲に頭を下げて着席した。
講義も終盤に入り、夏目助教授が黒板に次回休講の知らせを書いた。S市で開かれる学会に
顧問として出席するらしい。気の早い学生は鞄を開け、もう帰り支度を始めている者もいた。
「俺達、今度飲みに行くんだがお前も来い。嫌だと言ってもお前ん家に押し掛けて引っ張り出すぞ。」
何か考え込んでいた秋山はやがて、周囲を窺うような小声で翔との対話を再開した。
彼なりの気遣いだろうが、だとしたら翔にとっては迷惑である。
「無駄だね。僕はもう引っ越したよ。」
「知っている。お前の姉さん家まで行くと言ってるんだ。」
一体秋山の情報網はどうなっているのかと、翔は自信を湛えた彼の目を上目遣いに覗き込んだ。
「来週丁度の夕方6時、忘れるなよ。」
秋山は口元を軽く緩めて、翔にそう伝えると講師に続くようなタイミングで講堂を去った。
それから一週間、翔は夢の世界に憑り依かれていた。病院の詐病巡りもきっぱりと止めた。
所詮例の薬など代替品、りたリンに会えると分かればそんな物に頼る必要などなかった。
まず、眠らねばなるまい。ある日は、りたリンを見た時と同じ分量の睡眠薬で眠ってみたが、
その晩はただ普通に寝起きしただけだった。またある日は、全く服用せずに自力で眠ろうとしたが、
翌日重い頭で雀の声を聞き「朝だ、徹夜だ」と呟くに終わった。
100
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:19 ID:8yZ1dljM
結局翔は睡眠薬の分量を増やしてみる事にした。こういう薬の類は服用した分量と効果とが
直線状に比例する訳ではない事が常識であるが、しかし気分の問題である。
終に6日目の晩、翔は歪んだ気合の元に服用量を倍増して眠りを待った。
結果から言えば、彼は夢現の狭間へ突入する事に成功したのであった。
森の先数十メートルの視界が、細い網目に霞んでいた。翔は囚われて、身動き一つすることはない。
縛め自体はそれほど強くないが、何故かそれを引き千切る事は彼にとって大いに躊躇われた。
蜘蛛の網に掛かった蝶、それが今の翔だった。
灰色の雲に絡みつく、細い木々の枝。その中を小柄な彼女は、こちらに気付いた様子も無く、
真綿の中を自在に泳ぐような足取りで行き来している。
「りたリン!」
翔の叫び声に、ピンクのナースは一瞬動きを止めて、栗鼠のような仕草で彼を窺った。
目が怯えている。彼女はあんな目をする娘ではなかったのに。
「君なんだろ、りたリン!」
昨夕方、以前住んでいたアパートに現れたのは彼女だったに違いない。
彼女は身動き一つせず、顔も変えない。翔は身体に絡みつく絹糸を引き千切ろうと軽く手を引いた。
頭が重く、力が入らない。
「来ないで」
「ここは何処だ。君はどうしてここに居るんだ」
「聞かないで!」
それだけ云うと彼女は身を翻し、この樹海に巡らされた蜘蛛の巣を物ともせず、
狩人に追われた鹿のように木々の狭間へと消えて行った。ピンクの姿が煙った空に霞んで行く。
「待ってくれ、りたリン!」
叫びながらも翔は、りたリンが去って行く様子を見送る事しか出来なかった。
夢幻の狭間に差し込む朝日を目印に、翔は覚醒に向かった。鉛の塊と化した重い頭に、
先程まで見ていたりたリンの顔が強く印象着けられて行く。
全身に気だるさを残しながらも、翔の心は晴れやかだった。
101
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:20 ID:8yZ1dljM
救命天使はやはり消えていなかった。既視感の強い夢が、この世界のどこかに彼女が居る事を教えてくれる。
けれど彼女は、自分から離れようとする態度を終始取り続けていた。りたリンはなぜ逃げるのか。
彼女を捕まえて、問い質さねばなるまい。翔はその時が近い事を、無意識の領域で予感していた。
枕元の電話が震えて鳴る。二つ折りの電話を取り、開いて発信元を確かめると秋山からのものだった。
「もしもし」
いかにも寝起きといった力の抜けた声で翔が応対する。
『翔か。覚えてるだろうが、今日飲みに行くからな。手伝ってやるからお前幹事の真似事やれ。』
秋山に云われるまで、翔は忘れていた。突然強引な申し出を受け、翔は彼なりに驚いた様子で見えない相手に返す。
「ちょっと待ってくれよ。僕じゃ無理だ、君はいつもやってるだろう」
『名目上の、って奴だ。お前だったらこうでもしないと遁走(とんずら)するだろう。
折角お前の為に場を設けたんだから、逃げられちゃ困るんだよ。』
申し出に是とも非とも云わなかったお陰で、秋山に嵌められたらしい。
尤も否と云ったところで、彼ならば白を黒に、否を是にすり替えてしまうであろう。秋山の話は続く。
『みんな来るってよ。俺も6時にお前を迎えに行くからな、忘れるなよ。』
そう云って電話は唐突に切れた。翔はベッドの上で三角座りを決め込み、俯いて溜息を吐く。
彼の中でようやく本日の予定が決定された。
――秋山から逃げられる奴なんて、どこにも居ないから。
夕刻日も沈んだ頃、翔は「来さ村」の座敷に座り、何の気無しにジョッキを傾けていた。
思考が、りたリン一色に染まっている。というより、注文を受けに来る店員の姿に
かつて飲み屋で甲斐甲斐しく動いていた彼女の姿を重ねてしまう。
彼女らの制服が淡いピンクだという事も、翔にとっては戴けなかった。
その所為か幹事である筈なのに、今一つ騒いでいる連中に溶け込めない。
「おい井川、お前も飲め」
横手からグラスを突き出され、思考が中断する。翔が脇に目をやると、普段はあまり
親しく接していない級友が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「おい井川、お前も飲め」
横手からグラスを突き出され、思考が中断する。翔が脇に目をやると、普段はあまり
親しく接していない級友が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
102
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:22 ID:8yZ1dljM
いや飲んでるよ、とぶっきらぼうに返した翔に向かって、級友は腰を降ろし肩を叩く。
「幹事がそんなんでどうするんだ。それに飲むのは酒じゃなくて、」
云うと級友は卓上の瓶を手に取り、蓋を外して中身の悉くをグラスに注ぐ。
「じゃ俺行きマース、はい全員注目!」
彼は立ち上がり、衆人環視の元で黒い液体を一気に飲み干す。
ざわ――ざわと座敷の空気がどよめいた。空のグラスを高く掲げた漢に対し、惜しみない
拍手と声援が贈られる。
「井川、次はお前だ。はい全員注目!」
怪物のような胃袋を持った級友に促され、翔は仕方なしに立ち上がる。
無責任な声援と野次が、ざわざわと彼の周りに渦巻く。最早何を云っているのか分からない
それらが、四方八方から圧迫するように彼の自制心を押し潰す。
グラスに注がれた醤油を一気飲みして翔は――
強かに吐いた。
「おーし、二次会行くぞ」
口を拭いながら便所から戻って来た翔は、座敷から聞こえる秋山の明るい提案で
暗澹とした気分に陥った。
三次会の会場となった居酒屋「白木の森」を離れて街灯と反対方向へ数歩進み、
翔はふと自分を見送る級友達を振り返った。
「今日は楽しかったよ。」
にこやかな顔で自分に謝意を伝える翔の姿が珍しく、最初は皆戸惑っていたが
やがて口々に挨拶や次の約束を発し、白木の森の外灯下は白熱球のような暖かい光に包まれる。
だが秋山だけは翔の姿を視界に捉えたまま、少し蒼褪めた表情をしていた。
「秋山、どうしたんだ? 何か幽霊でも見たような顔して」
穏やかな笑顔で、翔が秋山に投げ掛けて来る。秋山は呼吸まで凍り付いたようにその場を動かなかった。
二、三人の級友が秋山の様子に異変を感じ、隣に立っていたスーツ姿の女性が彼に大丈夫かと声を掛け、
我を取り戻したかのような様相で、秋山は周囲を、そして翔をもう一度目視確認した。
「いや、何でもない。俺の気の所為だ」
云って、秋山は深呼吸した。彼を見ていた者達は軽い安堵の息を吐き、その場は再び
明るい白熱灯の雰囲気に包まれた。
秋山一人が、背筋に冷たい物を覚えていた。暖を採るように群れの中央に向かう途中彼は、
周囲に聞こえぬ声で呟いた。
「翔、お前は――」
――ピンクの翳の重力に魂を惹かれたのか
死ぬなよ、と秋山は街灯すら届かぬ闇の彼方に溶けて行く翔に向かって心中念じていた。
103
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:23 ID:8yZ1dljM
皆寝静まって誰も出迎えない家に、翔は辿り着いた。台所で水を一杯飲み、一息付いて自室に上がる。
慣れぬ場と大量のアルコールの所為か、神経が昂ぶっていて眠れない。
それにズボンの右ポケットが熱い。その正体が何なのか、翔はポケットに手を入れて弄ってみる。
程よく暖まった硬質の小片を取り出し、目の前で掌を開いてみると。
ずっと忘れていた、アパートの床で拾ったガラス片が暖かく輝いていた。
室内の反射光にしてはやや眩しかったので、翔は念の為に電灯を消してみる。
ヒメボタルのような弱々しいものではあったが、欠片は確実に発光していた。
「りたリン。やっぱり君の欠片なんだね」
翔が呼び掛けると、欠片は微かに点滅した。
呼ばれている。夢の中で彼女が何を云おうとも、りたリンは確実に自分を呼んでいる。
ならば迷う事はあるまい。今夜はもっと鮮やかな夢を見てやる。
枕元へ無造作に置かれた瓶を手に取る。酩酊の所為か、手に取った錠数がやや多いような気がするが
構わない。
命の危険は先刻承知、だが今なら絶対彼女に逢える気がする。
いざ冥界へ、薬を飲み下す、横になる。錠剤だけで満腹感を味わうと云うのも、奇妙な話である。
しばらく待つと時の流れが渦巻き始め、まるで魔空空間かガオームゾーンのように
空間まで巻き込んだうねりとなって横たわった青年に襲い掛かる。
翔はまた、蜘蛛の巣のような縛めに身を囚われていた。今度は風景がはっきりと知覚できる。
均一な灰白色をした太陽のない空には、複雑に絡み合った葉の無い細い枝。
枝の元である幹を辿ってみると、太く赤い幹がどこまでも眼下に続いており、
根が、地面がない。
翔は蜘蛛の糸に絡め取られ、天地の無い空に宙吊りになっていたのだ。
身体に纏わり付いていた蜘蛛の巣は、翔が本物の森林以上に有機的な風景に反応する度光って見せた。
絡み合う糸と糸との交差点に、拾ったガラス片によく似たものが光る。
光は縦横無尽に張り巡らされた細糸の悉くに伝導していく。工事現場にある誘導灯、あるいは
遊園地のイルミネーションのように。
灰白色の空がうっすらと蛍光に染まる頃、彼女は空の彼方から朧げに姿を現した。
「りたリン!」
翔が呼び掛けると彼女は、やはり怯えた目付きで彼を見た。腕を軽く交差させ、腰を後ろに引いている。
「こっちに来ないで! お願い翔、私の事は忘れてそのまま目覚めて!」
りたリンは悲痛な声で云うと、回れ右で去ろうとした。
104
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:24 ID:8yZ1dljM
「なぜそっちに行っちゃいけないんだ! 教えてくれ!」
翔が返すと彼女は肩を震わせ立ち止まった。ゆっくりと振り返り、腹の底から搾り出すような声で諭す。
「来たら戻れなくなるわ! ここがどこで、君を捕えてる網が何なのかわかるでしょう?
私の口からそんな事言わせないで!」
「なぜ戻れなくなるんだ、やってみないと分からないじゃないか! 大体君は天に帰ったんじゃないのか?」
「その通りよ翔、だから自分の作り出した幻想に惑わされないで! 私がこんな悲しい顔してる訳ないじゃない!」
真逆だ。
目の前にいる彼女が翔の作り出した幻だとすれば、彼女はあるべき場所で笑顔を浮かべ、元気一杯に
しているはずだ。それが翔の罪悪感を和らげる、せめてもの願いであったから。
ここは、りたリンのいるべき場所じゃない。自分は蜘蛛の巣に縛られているが、囚われているのは寧ろ
この樹海で自由自在に泳ぎ回っている彼女の方だ。
彼女をここから解放して、再び天に戻す。彼女が天に帰れないというのなら――
――連れ戻す、現世に。
この網を破ればどうなるか、翔にも凡その察しは付いた。確かに彼女の云う通り、
帰れなくなるかも知れない。それどころか自分の命さえも。
何を躊躇う事がある。抜けねば彼女を救えない。
「りたリン、僕は――」
「ダメよ!」
悲痛な訴え。それは彼女の本心なのか、それとも。
「例え幻でも、君のそんな顔は見たくない!」
翔は酷く酩酊した自分の身体に力を込め、手足を胴体へと引き寄せて行った。
風よ、雲よ、太陽よ。心在らば教えてくれ、何故この世に生まれたのだ?
その答えは――もう出ている。
滑りを含んだ生温かい風が一陣吹いた。
「役立たずの身体め、これ位の眩暈で普段の力が出せないのか!」
翔の頭に血が昇る。絡み付く蜘蛛の巣のガラス片が、輝きを増して行く。頭が熱い。
「こんな蜘蛛の巣破って見せろ!」
赤い森がどくんと鳴動する。翔自身も知らない力が、体中に漲ってくる。
「もう一歩も退かない、退いたりしたら自分を絶対許さない!」
翔の力は、箸もろくに持てないほど弱っていた。蜘蛛の巣を破る事さえ、彼にとっては酷く困難だったに違いない。
翔の腕を絡め捕る糸が伸びる。網の繊維が一本一本切れる度に、頭の中全体に焼けるような感覚が
広がる。空が眩しく鳴き、森の木々は激しく蠢く。生温かい嵐がそこかしこで旋風を描く。
105
:
KAI−KOH〜邂逅〜
:2004/02/29(日) 17:25 ID:8yZ1dljM
りたリンは今にも泣き出しそうな顔で翔を見守っていた。彼の元に行くべきか
このまま黙って去るべきか、どちらとも決め兼ねているのだろう。
「止めて翔! それ以上やったら君が…!」
りたリンが見るに見兼ねて、一層甲高いで叫んだ。
「ある意味これは当然やるべき事だ! 君がいなければ僕は何の価値もないんだから!」
音も立てずに網の目が千切れて行く。光る欠片が奈落の底に
どこまでも落ちていって、縛めの緩んだ翔の手足がそれまで感じる事もなかった重力に引かれている。
それまで翔を支えていた糸の張力が、終に限界を迎えた。
羽をもぎ取られた蝶が蜘蛛の縛めを逃れ、果てしない樹海の狭間に落ちて行く。
「これが僕の限界か」
こういう結末になると知っていたとしても、彼は同じ行動を取ったであろう。
初めから彼に「後悔」の二文字はなかった。
限りなく落下していく中、翔はむっちりと自分を包んで受け止める柔らかな感触を覚えていた。
目を上げれば涙をぼろぼろと流している、りたリンの顔がある。
「どうして」
しゃくり上げて、りたリンは続ける。
「どうしてこんな事したのよ」
彼女は悲しみの中にも、どこか安堵の気配を漂わせている。それが翔にも伝わって来る。
「泣かせるつもりじゃなかったんだけど…」
りたリンは思い余って彼に飛び付き、無限の落下を食い止めたのである。
「君を助けるつもりだったんだけどな。結局君に助けられた訳か」
涙を流してはいない、それでも目に映る彼女が曇っていく。
自分の意識が閉ざされて行くのだ。本当の闇はこんなに白く眩しいものだったのか。
「やっぱり無茶する性格だったわね。最初会った時と全然変わらない」
くりくりと彼女の大きな目が動く。口元と眉が緩んでいる。自分を抱き留める腕の力、
風に揺蕩う細いピンクの髪。普段なら気付かぬ微細な変化を、ストロボ写真でも見るかのように
落ち着いて観察できる。全ての動作が緩慢に、時の流れが減速していく。
――僕は
――僕は死なない
翔は心中断言した。飛ぶ矢は的に当たらない、ウサギは亀に追い付けない、同じように彼も死なない。
りたリンの唇が、霞む翔の視界にゆっくりと開かれ、優しい言葉を紡ぎ出す。
それはとても心地よい、聞く者を安心させる究極の呪文だった。
―― いっしょにかえろう
<終>
106
:
名もなき股裂き人形
:2004/02/29(日) 17:27 ID:8yZ1dljM
サブタイを「あいうえお」順にしたんですが、気付いてもらえたかどうか…
元ネタと書く場を提供下さったあおがえる。様、悪文ながら目を通して下さった皆様、
本当に感謝致します m(_ _)m
ただ、こういう発表の仕方はマジで反則だと自分でも思います。反省!
キャラの名前を口にしてみて、響きが良かった事が書く契機となりました。
これはあおがえる。様のネーミングセンスがなせる業だと思います。
なので例の召喚呪文は絶対出そうと思って書いた訳ですが。
読み返した感想:
あほうでイタくて胡散臭い、エグくておかしい文章だなと思いました。
新トップ絵にりた♥? しかもあの場面…?
ぎあああああああああああ恥ずかしいいいいいいいい!!!!
嬉しいけどこれ以上何か言っても恥とイタさの上塗りになるので
いざ退散!
追記.
続きでも別エピソードでも、りたリン♥が全然違う活躍を見せる話でも何でも良いので、
よろしければ後は皆さんで考えてみて下さい。
107
:
名無しさん
:2004/03/02(火) 21:08 ID:1oslwr2o
-=-ー〜--へ__,,- 、
< ヽ ゝ
ノ 二、___ゝ,/_/ヘ |
| ヲ | |
| ┤ ===、 , ==| |
ノ 彳 ─ェ 〈-ェ〈 ゝ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
、 6|ゝ / \ |-" < イタさに耐えてよく頑張った!!
< ^| - ゝ | 感動した!!!!
ヒi_| \l [ ──.| \____________
-/\ \___,|
| \ \ |\_
| \ \. / 〉 \ ̄\ 制作方法 わき見
108
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/02(火) 22:11 ID:A4O/N7.M
脳内暦100,032年…世界の中心たる井川翔は異世界・パルペンテンからの
支配を受けていた。パルペンテンは大帝・波多野健二郎3世のもと
その支配地域を拡大していった。大帝はその権力の象徴として、
人民の信仰を奪い、文化、伝統を廃し価値観の画一化を図り
そして昼夜のサイクルを安定させ人の活動を1日14時間に限定した、
それでも人々はギリギリの所で精神の安定を保っていた。
大帝は最後の手段“萌狩(モガリ)”を決断した。
ある者は卒倒し、ある者は家から出てこなくなり、ある者は少女を連れ去った…
オタクの文化と人権が護られるには100年の時を待たねばならなかった。
109
:
りた厨
:2004/03/03(水) 21:03 ID:.qug6m1k
>>1
┏━━━┓ ┏━━━┓
┃┏━┓┃ ┗━┓┏┛
┃┃ ┗┛ ┃┃
┃┃┏━┓ ┃┃
┃┃┗┓┃ ┏┓┃┃
┃┗━┛┃┏┓┏┓┏┫ ┃┗┛┃┏┓┣┓
┗━━━┛┗┛┗┛┗┛ ┗━━┛┗┛┗┛AA上手くなったらまた来る
110
:
1@覆面
:2004/03/06(土) 02:21 ID:rmSEtk8M
>>108
ぐっ・・・この設定はっ・・・!
りたリン♥の続き書きたくなるじゃねーかよっ!
…やってみようかな、自信ないけど。
イントロに使っても宜しくて? >108の中の方
111
:
108の中の者です
:2004/03/06(土) 23:53 ID:DS/VNHEI
いっすよ
氏ねって言われたくてやったのにですけど
ついでに言わせて頂くと、
>>1
との交戦中奴の覆面を取ると
>>1
は漏れ親父ですたと言ってみるテスト
うんちモララー!!!!
112
:
たべごろ@脳内
:2004/03/07(日) 00:22 ID:2ZLeViSc
/ ̄\ 【魔王田中様】
(_----_)
|━┏| 平清盛公の霊と間違われたと言う
ヽ - ┘ 伝説的エピソードがある魔王
─--/ |--─ 暗殺秘拳"田中真拳"継承者
∧____∧ 【あおがえる。】
(┃ワ┃)//
/ / 謎っぽい少女
∪| | 村が萌狩にあった際に
/_/ヽ_| 魔王田中様に助けられる
\ │ / 【たいよう】
/ ̄\
─( ゜∀ ゜)─ さいたまさいたまさいたま
\_/
/ │ \
ゝl V / 【みのる】
〃i i lヾ
■■■ 恐らく中学生で
ヽ - / 恐ろしく多感な年頃
....Ω..... 【カツノry】
::|:::::i:::::
::::::i:i::::::: 揺れるんだよ、
::i::::i::::::: お前等の声で。
まああれだ
>>110
が、氏ねよおめーら!と言いたがってると言ってみるテスト
113
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/07(日) 10:50 ID:YrDGPzTs
>>108-112
氏ねよおめーら
ポスター __ __ シャツ ─∩─
lγ / / ┌( )┐ ─∩─ |
| | @ @ │lニョl | |トラノアナ| |
| | | | └──┘
| | メガネ ペパーバッグ
114
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/07(日) 10:56 ID:CkaGND7Q
悲しいときーー!!
苦労して作ったAAコピペろうとしたらなんか消えちゃってたときー
苦労して作ったAAコピペろうとしたry
115
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/07(日) 11:41 ID:RmUMKFiw
>>108
以降は自演、注意しる。
116
:
あおがえる。 </b><font color=#d9a366>(LIMECkW6)</font><b>
:2004/03/07(日) 14:15 ID:ZLF105/A
√ 十亅
γ从八》ヽ
∠川 -ヮ・)ゝ
(⌒`尸^〉ヽ
ノ ノ〉__|κつ とりあえず、
>>1
さん、たべごろさん、
と/__,〜ヽ その他の皆様、大いにお疲れさまです。
⌒) νノ
>>115
さん、全てが自演でないのは
( ヽ冫 管理人さんが知っていましてよ?
ヽ_)
悲しいときーー!!
Macで頑張ってAAを作ったのにWinユーザーにズレを指摘されたときー
117
:
たべごろ
:2004/03/07(日) 21:07 ID:yW2f9/3s
ポスター
lγ γ'二人ヽ
| | @ @-3 メガネ
| | (ε∴ ノ
| | ゝ-___┴-__
| | / プリ ヽシャツ 荒らすつもりで参加したのに
匚二 /| キュア |_| 気付いたら誉められてた
) ∈二ノ かつて国立に私大に
匚|匚|匚| 全コケした時と同じ位ビビりました
|:::::::||::::::::|
|::::::∧::::::|
|::::::| |:::::|
|::::::| |:::::|
(_ノ (_ノ
118
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/08(月) 21:34 ID:veVbieDk
蛙さんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!
119
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/11(木) 09:18 ID:CRctXsAA
どんなにハデなアクションがあっても漏れは二色分けヘアスタイルと「クスリは正しく使ってね」に(´Д`)ハァハァ
120
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/12(金) 12:08 ID:3ZMSY6tc
(#´Д`)
>>1
さーーーん
121
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/13(土) 00:38 ID:.Jzce8Xw
キュウ メイ テン シ イ 十
求攵 命 天 |史 スレ
122
:
1@覆面
:2004/03/13(土) 17:03 ID:NVYVopoY
ども、生きてますよ。
落ち込んだりもするけれど、私は元気です!
>>120
様
りたのお話がちょっとだけ書けました。
>>108
様の設定借りちゃったんで、「こんなのりたリン♥じゃないやい」って
非難を受ける可能性もありますが…
投下してもよろしくて?
123
:
名もなき股裂き人形
:2004/03/13(土) 18:46 ID:8j1Wqvkc
いいけど…しかし…純りた♥がいいなぁ…
「めっちゃ悔しい!純がいいですぅ〜」
オマエガカケって言われるな、きっと
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