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【伝奇】東京ブリーチャーズ・捌【TRPG】

1那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 21:56:44
201X年、人類は科学文明の爛熟期を迎えた。
宇宙開発を推進し、深海を調査し。
すべての妖怪やオカルトは科学で解き明かされたかのように見えた。

――だが、妖怪は死滅していなかった!

『2020年の東京オリンピック開催までに、東京に蔓延る《妖壊》を残らず漂白せよ』――
白面金毛九尾の狐より指令を受けた那須野橘音をリーダーとして結成された、妖壊漂白チーム“東京ブリーチャーズ”。
帝都制圧をもくろむ悪の組織“東京ドミネーターズ”との戦いに勝ち抜き、東京を守り抜くのだ!



ジャンル:現代伝奇ファンタジー
コンセプト:妖怪・神話・フォークロアごちゃ混ぜ質雑可TRPG
期間(目安):特になし
GM:あり
決定リール:他参加者様の行動を制限しない程度に可
○日ルール:4日程度(延長可、伸びる場合はご一報ください)
版権・越境:なし
敵役参加:なし(一般妖壊は参加者全員で操作、幹部はGMが担当します)
質雑投下:あり(避難所にて投下歓迎)

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番外編投下用スレ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/otaku/17870/1509154933/

東京ブリーチャーズ@wiki
https://www65.atwiki.jp/tokyobleachers/

2那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 21:57:45
茜色の太陽がゆっくりと山の稜線に沈みゆき、代わりに静かな藍色の帳が満ちてゆく。
一面の田圃に実った稲穂が風にさらさらとこうべを揺らし、黄金色に輝いている。
遠くに見える煙は炊煙だろうか。茅葺屋根の家屋がぽつぽつと点在しているのが見える。
まるで御伽噺にでも出てくるかのような、鄙びた農村。そんな場所にノエル、尾弐、ポチの三人は立っていた。

《アーアー、テストテスト。本日は晴天なり。聞こえるか?東京ブリーチャーズ》

三人の耳元で、天邪鬼の声が響く。
東京ブリーチャーズ三人の魂は芦屋易子の秘術により肉体の枷を離れ、那須野橘音の魂を封じた宝珠の中へと進入した。
儀式を始める直前、天邪鬼はブリーチャーズがミッション遂行中に自分と交信ができるよう術を施していた。
感度は良好である。橘音の魂に入り込む儀式と同様、交信の術も無事成功したらしい。

《よし。三人とも、無事に宝珠の中に入れたようだな。宝珠の中、すなわち――三尾の魂の中に》

天邪鬼は外の世界で状況をモニターしているらしい。満足げな声が響く。

《三尾の魂魄は半壊状態にある。このままでは、遠からず消滅してしまうだろう》
《それを食い止める。半壊した三尾の魂魄、その核――魂核とでも言うべきか……それを貴様らが修復するのだ》
《とはいえ、難しいことはない。貴様らに持たせた、妖力賦活の神符。それを三尾の魂核に貼り付けるだけでよい》

尾弐が新たに悪鬼として変生したとき、天邪鬼は橘音復活へ向け入念な下準備をしていた。
妖力賦活の神符は、天邪鬼が首塚大明神の神力を込め、芦屋易子が精製したとっておきの符である。
それを橘音の魂の核に与えれば、壊れかけた魂もきっと復活することであろう。もっとも――

《貴様らが三尾の魂核までたどり着ければ、の話……だがな》

天邪鬼が声を低くする。

《現在貴様らがいるのは、三尾の心象風景。精神世界と言うべきか。ヤツの中で最も鮮やかに残っている過去だ》
《そのどこかに魂核がある。探し出せ。ただし……いくつか注意せねばならんことがある》
《いいか?貴様ら異物だ。三尾の魂に紛れ込んだ混入物だ。言うまでもなく、存在してはならぬものなのだ》
《三尾にそれを気取られてはならぬ。そこで出会った何者にも、自分の正体を告げてはならぬ》
《もし貴様らが外部から侵入してきた者だと分かれば、三尾の魂魄はエラーを起こす。そうなれば、消滅は避けられん》
《いいな……決して正体を見破られてはならぬぞ。あくまで、貴様らは当然その場にいて問題ない者として振舞うのだ》

くどいほどに天邪鬼が念を押してくる。
それだけ、魂の救済というものはデリケートなものなのだろう。
心の働きが重要な妖怪の、その更に剥き出しの魂に触れるのだ。当然、細心の注意を払わなければならない。

《正直、そこでは何が起こるか分からん。現実のように見えるかもしれんが、すべては三尾の見る夢のようなものだ》
《現実では起こり得ぬこともあるやもしれん。したが、短慮は起こすな。どんな小さな失敗でも魂の消滅に繋がることを忘れるな》
《……まして。今回は小娘もいないのだからな》

そう。
橘音の魂を助け出そうと宝珠の中に入ったのは、ノエルと尾弐、ポチの三名だけ。祈はいない。
祈は今回の橘音救出ミッションを見送った。――見送らざるを得なかった。
それは、反魂の儀式が今にも始まるといったときに起こった。
SnowWhiteのカイとゲルダから、都内に天魔が出現したという情報が齎されたのである。
恐らく、東京ドミネーターズの遣わした刺客なのだろう。現在は補欠メンバーが対処しているが、補欠では相手にならない。
やはり正規メンバーがことに当たる必要がある――しかし、反魂の儀式を遅延はさせられない。
儀式には行うべき時節というものがある。今を逃せば、次の好機まではかなり時間が空いてしまう。
そして、次を待っているうちに橘音の魂は消滅してしまうだろう。
だが、そんなとき。

祈が『自分が天魔と戦う』と言ったのだった。

儀式を執り行っている安倍晴朧の屋敷から天魔の出現地点までは相当離れている。急行できるのは健脚を誇る祈しかいない。
ノエルや尾弐、ポチに橘音のことを頼むと、祈は一路戦いに赴いた。
祈の離脱は痛手だが、帝都防衛の任務も捨ててはおけない。
今回、東京ブリーチャーズは三人でミッションを達成しなければならなかった。

3那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 22:03:41
野良着を着た男が、鍬を担いで家路を辿っている。
舗装されたアスファルトの道路などはない。足許は土が剥き出しの地面だ。
電柱もなければ、自動車もない。携帯電話など持っている人間もひとりとしていない。
年代としては、だいたい本来の時代の300年ほど前になるだろうか。
当然、今風の服装をしている東京ブリーチャーズの浮きっぷりはすさまじい。

《……しまったな。儀式をする前に、貴様らに時代に沿った服を着せておくべきだった》

天邪鬼が舌打ちする。精神世界とはいえ、自由に着ているものを替えたりはできないらしい。
儀式を始める直前に身に着けていたものしか、精神世界には持ち込めないようだった。
なお、ポチが持ってきた酔醒籠釣瓶は刀袋に入り、今もポチの手にある。
粗末な野良着の村人に対して、三人の姿はいかにも目立つ。異分子として認定されてしまえば、それでもうゲームオーバーだ。

そして。

「妖怪だーっ!妖怪が出たぞぉぉぉぉ!」

そんな声が、不意に背後で聞こえた。
見れば、村人とおぼしき男が血相を変えてこちらの方に走ってくる。
とはいえ、ノエルたちのことを指しているわけではないらしい。男は一目散に走り去ってしまった。
そして、男の後を追うように、どこからか黒い人型の影が現れる。
闇色の靄に無数の人の顔がへばりつき、十本以上の痩せ細った腕を触手のように生やした、異形の化物だった。

《なんだあれは?見たこともない化生だな……。三尾のかつて住んでいた村には、こんな妖怪が棲み付いていたのか?》

天邪鬼が怪訝な声音で言う。
化生は何かをブツブツと呟きながら近付いてきたが、東京ブリーチャーズに気付くと声にならない呻きを上げて急に動きを速めた。
そして、無数の手で手近にいた者へ掴みかかろうとしてくる。

《いや、こいつも貴様らと同様、本来この場にいてはならぬ存在のようだな……。已むを得ん、排除しろ。速やかにな》

妖怪は動きも鈍重で、無数の腕で掴みかかってくる以外には特に妖術の類も使って来ない。
今まで幾度とない激戦を潜り抜けてきた東京ブリーチャーズなら、問題なく倒すことが出来るだろう。
妖怪を倒すと、妖怪はオァァァァァァ……とうつろな声を上げながら消えていった。

《大したことのない相手で幸運だった。……今後もこうしたことはあるかもしれん、くれぐれも気を抜くな》
《正体不明の妖怪はもちろん、それとの戦闘もここの住人には見られないように――》

「へええ、あんたら、すごいなあ!」

警戒を促す天邪鬼の声をかき消すように、声が聞こえた。
振り返ってみれば、火縄銃を一挺担いだ猟師ふうの若者がひとり佇んで、東京ブリーチャーズのことを見ている。

《!?――しまっ――》

「あのバケモノを軽々やっつけちまうなんて、只者じゃねえ。あんたら、何もんだ?ここらじゃ見ねえ顔だし」

若者は不思議そうにノエルたちを見ている。
が、ノエルたちが適当に誤魔化すと、それをあっさり信じてしまう。

「そうかあ……。どっちにしても、あのバケモンを倒すなんてすげえことだ。追い払うだけならおれたちにもできんことはないんだが」
「でも、火縄も使うし怪我人も出る。ほとほと参ってんだ……村おさの話じゃ、山に棲む悪い神の類だって話さ」

青年は軽く肩を竦めた。そして、踵を返す。

「あんたら、行く場所は?もうすぐ日も暮れる。野宿なんてできねえよ、夜は冷えるからな」
「なんなら村おさんところに案内するよ。山神を退治してくれたって言やぁ、もろ手を挙げて歓迎してくれるさ」

いかにも山だしといった感じの、素朴な青年である。人懐っこい、善人としか言いようのない佇まいだ。
見慣れない来訪者が物珍しいのか、青年は道すがらブリーチャーズの名前を訊ねたり、色々なことを言ってきた。そして、

「そういや、おれの名前を言ってなかったっけな。おれは見ての通りの猟師で――」





「名前は、兵十(ひょうじゅう)ってんだ」

4那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 22:07:17
村長は親切な人物で、おかしな風体の三人をさして怪しむでもなく、悪い山神を退治してくれたことに何度も礼を述べた。

《渡りに船だな。ここをベースキャンプとして使うとするか。何日か逗留させろと言え》

天邪鬼が囁く。
東京ブリーチャーズがその旨を伝えると、村長は快く承諾してくれた。

「この客間はいかように使って頂いても構いませぬ。どうか、ごゆるりとお過ごしください」
「その代わり――もしまた山神が出たときには、どうかどうかお力添えを……」

村長や兵十ら村の者の認識としては、あの妖怪は悪さをする低級な山の神という認識らしい。
だが、ノエルにはわかるだろう。確かに山の神には様々な外見や能力を持つ者がおり、その数も多い。
しかし、先程戦った妖怪には山神が共通して漂わせている『山の霊気』がなかった。
あの妖怪が山神であろうはずがない。――そして、ノエルはこの村を知っている。
いや、この村から見える山を知っている、と言うべきか。
なぜなら、ゆっくりと沈みゆく夕映えの手前に見える、緩やかな稜線を描く山々。
その山は、ノエルにとって忘れ得ぬもの……ノエルの生まれた、故郷の山に紛れもなかった。

そうだ。

ここはかつて、ノエルが――いや、みゆきが暴走し、雪崩によって一夜のうちに氷雪に閉ざした村。
雪の女王の後継者にして、かつての災厄の魔物。ノエルが今日ここに至るまでの、すべての始まりの村だったのだ。

《まずは、この村でこれから何が起こるのかを見確かめる必要がある》
《この場所が、この時代が、三尾のルーツということなのだろう。ならば、これから何か重要なことが起こるはずだ》
《しかし、どんなつらいことが起こったとしても、貴様らは黙してそれを見守らねばならぬ》
《決して手を貸そうとか、結果を改変させようなどとは思うな。三尾の魂がエラーを起こしてしまうからな》
《貴様らがそれをしていいのは、すべてを見届けてからだ。忘れるなよ》

夜が更け、客間に通されると、そう天邪鬼が注意してくる。
三人は今のうちに今後の行動について相談することができる。もっとも、出来ることは少ない。
村長は質素ではあるが三度の食事を用意してくれ、風呂を沸かし、三人を客人ともてなしてくれる。
夜が明け、朝になると、三人はそれぞれ自由に行動することができる。
妖怪は正午ごろに一度、そして夕方ごろに一度現れる。もちろん、ブリーチャーズならひとりでも問題なく倒せる。
妖怪を倒せば、村人や村長はブリーチャーズを大いに讃えてくれる。
そうして、数日が経ったころ――。

「うわあ、またやりやがったな!こいつめ!」

村人が大きな声を上げて騒ぎ立てている。
ブリーチャーズが急行すると、ある百姓家の軒先に吊るしてあった唐辛子の束が全部むしって地面に投げ捨てられていた。
落ちた唐辛子はバラバラにされ、おまけに泥水に浸かっている。これではもう使い物にならないだろう。
西の方の芋畑ではせっかく実った芋が粗方掘り返されていた。芋はご丁寧に噛み砕かれ傷ものになって、これも売り物にならない。
酷いいたずらだった。度が過ぎている。

「ありゃあ、山神のしわざじゃねえ。ごんのしわざだ」

何事かと様子を見に来て、ブリーチャーズと行き会った兵十が言う。

「近くの羊歯の森に棲む、はぐれ狐さ。とんでもない悪たれのいたずら狐で……みんな持て余してんだ」
「狐のくせに妙に知恵の働く、悪賢いやつでなあ……おれも幾度となくやられた」
「懲らしめてやりてえと思うんだが、罠を張ってもかかった試しがねえ。困った奴さ」
「ま……あいつもみなし子で、寂しいからやってんだと思うんだけどな……」

山神でないならお役御免だ、とばかりに兵十は頭を掻いた。

「あんたらもごんには気を付けろよ。どんないたずらをしてくるか、わかったもんじゃねえ」
「山神は凶暴だが頭が悪い。けどごんは凶暴なうえに知恵が回るからな……狐を見たら近寄らねえこった」

《……ふむ》

兵十の話を聞いて、天邪鬼が小さく鼻を鳴らした。

《兵十は関わるなと言うが、これは関わらぬ訳にはいくまいな》

5那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 22:10:11
羊歯の森はその名の通り、シダ類の鬱蒼と生い茂った森だった。
生態系は豊かで、猪や鹿、狸や兎などの他、ときどき熊も出る。もちろん狐もいる。
東京ブリーチャーズが森へ分け入っていくと、ほどなくして地面に掘られた穴がひとつ見つかった。
それは、狐の巣穴だった。

「……なんだよ、おまえら?」

すぐに、中から一匹の子狐が姿を現す。しなやかな体躯をした、美しい狐だった。そして――
それはノエルの、否――みゆきの記憶の中に在る、掛け替えのないともだち。

『きっちゃん』に紛れもなかった。

きっちゃん――ごんは怪訝な様子でブリーチャーズを見た。
精神世界の出来事だからか、ブリーチャーズにはごんの声が聞こえる。
そして、ごんもブリーチャーズが自分の声を聞いていることに対して驚き、目を見開いた。

「ボクの言葉が分かるのか?人間のクセに?へえ……変わった人間もいるもんだなあ」
「まぁいいさ。人間が何の用だよ?まさか、ボクを捕まえに来たとでも言うつもりか?けけっ!お笑いだね!」

ごんはせせら笑った。

「ワケのわかんないこと言うなよな。ボクはおまえらなんて知らない。興味もないね」
「それより、ボクに関わるとロクな目に遭わないぞ!ボクと一緒にいるやつは、みんなみんな!不幸になるんだからな――こんな風に!」

ごんは巣穴の近くにある縄を銜えると、素早く引っ張った。
その途端、巣穴の前のブリーチャーズが立っていた場所の地面が崩れる。トラップだ。
ごんは自分の巣穴が誰かにばれたときのために、罠を張っていたのだ。
もっとも、それにブリーチャーズが引っかかるかは分からない。尾弐やポチは気配ですぐに気付けるだろう。

「けけけっ!ばーか!ボクを捕まえられるもんなら捕まえてみな!」

罠を発動させると、ごんは素早く身を翻して遁げていってしまった。
それからも、ごんは時折村に姿を現しては、気まぐれにいたずらをして村人たちを困らせた。
山神も相変わらず現れ、無作為に村人に襲い掛かろうとする。どれだけ倒しても、山神は次の日には何事もなかったように出没した。
村人はすっかりブリーチャーズを信頼しきり、妖物祓いの先生がたと崇めた。
そうして稲穂の刈入れの時期が終わり、いつしか季節は冬になった。

《まだ、こちらは一時間も経過しとらんが。そちらはもうだいぶ時間が流れたようだな》
《時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやれ》

ブリーチャーズのいる精神世界と外の時間とでは、だいぶ時間の流れに差があるらしい。
それでもきちんと交信ができているのは、天邪鬼の神通力のお陰ということだろうか。
それからさらに日数が経過し、雪のちらつく季節になっても、ごんは相変わらずいたずらをやめないし、山神も出続けた。

《山の方に原因があるのかもしれんな……。少し探りを入れてみろ》

山はここ一帯では珍しく一年中冠雪しており、付近の住民からは神の棲む山と呼ばれている。
ノエルはそれが、雪女の里があるためだということを知っている。
だが、ノエルの中にもあのような異形の化物が里のある山の中に出没したという記憶はない。
ある日ブリーチャーズが山に分け入って二時間ほど彷徨すると、枯れた樹幹の立ち並ぶ向こうから声が聞こえてきた。
それは、幼い女の子の声だった。
そっと窺って見れば、透き通る白い肌に長い銀髪、アイスブルーの瞳の少女が、ごんに対して一生懸命話しかけている。

「……君はなんて言うの?……えっ、名前が無いの!?」
「じゃあ童がつけてあげる!狐だからきっちゃんね!」
「きっちゃんはお母さんとかお姉ちゃんとか守ってくれる人はいないの?」
「いない?しょうがないなあ、童がなってあげる!」
「もう大丈夫だよ!童が100年でも1000年でも君を守り抜く!」


少女は、みゆきだった。

6那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 22:13:19
兵十の棲む村でいたずらをする悪童が、ひとり増えた。
丈の短い白い着物を着た童女だ。それが、いつの頃からかごんと一緒に現れ、いたずらをして回るようになった。
村人はどこの家の童かと訝しんだが、もちろん誰にも分からない。
当たり前だ。みゆきはこの村の住人ではない。山から下りてきた、雪女の眷属――雪ん娘なのだから。

《とんでもない糞餓鬼だな、あれは》

こちらの様子をモニターしている天邪鬼が呆れたように言う。自分のことを棚上げしているのはこの際スルーだ。
もっとも、いたずらと言ってもその程度はだいぶ緩和されている。
以前は菜種がらに火をつけたりと、一歩間違えば大事になる可能性もあるいたずらだったが、最近はささやかなものだ。
それは、ひとりぼっちの自分にともだちができたから……という、ごんの心境の変化かもしれない。
とはいえ、迷惑なことに変わりはない。村人は相変わらずごんを見るなり罵り、石を投げ、ときには棒で打ち据えようとした。
そして、そんな村人の敵意を見るたび、ごんは一瞬悲しそうな表情を浮かべ――直後、悪態をついて遁げ出すのだった。

《あの性悪狐が三尾なのか?ならば、あれが魂核という可能性が高いな》
《何とかして奴に接近し、符を貼らねばならん。……だが、ただ隙を衝いて貼るのでは意味がない》
《奴の信頼を勝ち得、奴が生き延びたいと願った上で貼らねば、どのみち奴は消滅してしまうだろう》
《大切なのは、三尾自身が生きたいと。そう思うことなのだからな》

正体を気取られず隠したまま橘音の信頼を得、しかるのちに生きたいと思わせ、妖核に妖力賦活の神符を貼り付ける。
最初は漠然と宝珠の中に入ればいいという話だったのに、いつの間にかややこしい話になっている。
しかも相手は猜疑心が強く、こちらをあからさまに警戒している。
そんなごんと打ち解けるなど、到底不可能のように思えた。

さらに数日が経過すると、あるときブリーチャーズの面々は網を持って川へ行く兵十と会った。
いつも火縄銃を持って山に分け入り、獣を獲って生計(たつき)としている兵十が川へ向かうのは珍しい。

「これから、うなぎを獲りに行こうと思ってさ」

そう言って、兵十は大きなはりきり網を掲げてみせた。
なんでも兵十には長く病で伏せっている母がおり、その母に精のつくものを食べさせてやりたいのだという。
はりきり網は川の両端に目一杯網を張り切る漁法である。兵十は川の間隔の一番狭い場所で網を張り、ずぶ濡れになってうなぎを獲った。

「おう、大漁だあ。おっかあの分だけじゃねえ、先生がたにもうなぎを啖って頂けるかもしんねえな。楽しみにしててくれろ」

兵十は大きなうなぎをびくの中に放り込み、水の中に沈めると、昼餉をとるために一旦川を離れて家に戻っていった。
そして、それと入れ違うように草むらの中からごんがぴょこりと顔を出す。

「けけけっ……」

ごんは悪辣そうな笑みを浮かべると、どぼんと川の中に入った。
そして、うなぎの入ったびくを引き上げると、せっかく兵十の捕まえたうなぎを放してしまう。

「けけっ!あいつにうなぎなんて啖わせてやるもんか!」

性根の悪い狐だ。――しかし、そんないたずら狐を懲らしめるように、うなぎがごんの首に巻きついた。

「うわっ!ぎゃあ!こいつめ!」

うなぎに全力で首を締めあげられ、ごんは岸辺でのたうち回った。
しばらくすると、騒ぎを聞きつけた兵十が戻ってくる。兵十は仰天すると、

「うわア、ぬすっとぎつねめ!」

と、叫んだ。
ごんは驚きのあまりぴょんと一度跳ねると、首にうなぎを巻きつけたまま走り去っていった。

「ちくしょう!うなぎは置いてけ!」

兵十は怒鳴ったが、ごんはあっという間に草むらに飛び込み、姿を消してしまった。
漁は午前中にするものだ。日が高くなっては、うなぎは寝床に潜り込んで出てこない。
兵十はがっくりと肩を落とした。

「すまねえ、先生がた……。日頃山神を追い返してくれる礼に、先生がたにもうなぎを啖って貰おうと思ってたんだが……」

心底申し訳なさそうに頭を下げると、兵十は網を片付けてとぼとぼと帰途についた。

7那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/09(木) 22:19:13
さらに十日ほど経った。
村で人死にが出、村人総出で葬式をすることになった。死んだのは兵十の母である。
鄙びた農村にとって、葬儀は一大イベントである。村は朝から慌しかった。
村長が段取りを取り仕切り、村の女房たちが霊前に供える飯を炊く。男たちは葬列の準備だ。
樵(きこり)が木を切り倒して簡素な棺を用意し、男衆が仏の入ったそれを担ぐ。
兵十は喪主として葬列の先頭に立つ僧侶の後ろで位牌を持ち、借り物の白い裃と袴をつけて粛々と歩いた。

そして。

墓地へと進んでゆく葬列を、地蔵の影に隠れて遠巻きにじっと眺めているごんの姿を、東京ブリーチャーズの面々は見た。

「……先生がた、先生がたもよかったら、おれのおっかあに手を合わせてやっておくんなさい」

兵十が言う。平素は快活な男だが、今は見る影もない。

「妖物退治の先生がたが手を合わせてくれるんなら、おっかあも妖物に惑わされず極楽まで行ける。これぞ冥福ってもんだ」
「おっかあの病はだいぶ重かったんだ。だから、あのときうなぎが獲れてたとしても、おっかあには啖わせられなかったかもしれねえ」

それでも気丈に振舞いながら、兵十は言った。
簡素な葬儀が終わり、すぐに村の様子は元に戻った。
……いや、そうではない。兵十の母親が死んだ直後から、兵十の家で妙なことが起こるようになった。
朝になり、兵十が目を覚ますと、土間のところに栗や松茸などがどっさり置いてある。それが何日も続いた。

「……わからねえ」

兵十は首をひねった。
だが、ブリーチャーズの面々には分かるだろう。
それは、ごんが毎日山の中で朝から日暮れ近くになるまで、懸命に採ってきたものだと――。
山に入って少し探すと、ブリーチャーズは容易にごんの姿を見つけることができる。
ごんとみゆきが栗の木の下で、一心に栗を拾っている。
ごんが栗の木をぐるぐる回って、落ちているイガ栗を拾い、みゆきが小さな手でイガを取り除いてかごに入れる。
そんなことを、一日中続けているのだ。
と思えばふたりで松の木の根元を探り、松茸を採る。他にも山菜があれば、見つかる限り採る。
それがごんなりの償いだというのは明白だった。

「……なんだよ、おまえら。また来たのか?」

ブリーチャーズの姿を見ると、ごんは呆れたように息をついた。
しかし、以前のような警戒心も露な反応ではない。どころか無防備でさえある。

「やなとこ見られちゃったなあ。……栗を拾ってたのさ、これから松茸も採りに行くんだ」
「採った栗は兵十のところへ持っていく。……ボクのせいで、兵十のおっかあはうなぎを食べられなかったから。親不孝させたから」
「……兵十を。ひとりぼっちにさせちゃったから」

ごんは自嘲するように告げた。
ふとしたいたずらで取り返しのつかないことをしてしまった――そんな罪悪感が、ずっとごんの心に翳を落としているらしい。

「こんなこと、償いになるのかもわからないけど。……ボクは今まで、誰かに謝るなんてしたことなかったから」
「でも、やりたいんだ。そうしなきゃダメだって思うんだ……なんでかな」

へへ、とごんは笑った。

「ところでさ。おまえら、ボクに用があるんだろ?……話を聞いてやってもいいよ」
「ボクの言葉が分かるなんて、みゆきちゃんでもできないことだもんな。面白そうだから……聞くだけだけど」
「でも、今はダメだ。みゆきちゃんと、暗くなるまで松茸探しって約束してるから。そうだなぁ……明日の昼なら」
「じゃ、明日またこの場所で。……遅れるなよな」

《あの悪童が、たいした心境の変化だ。雪ん娘が入れ知恵したのかもしれんな》

話を終えて去っていくごんを外の世界でモニターしながら、天邪鬼が感心したように言う。
みゆきという友人を得たことで、ごんの心が癒されたのなら願ったりだろう。
このまま彼女と信頼関係を築き、神符を貼り付ければ、すべてが終わる。橘音が復活する。
しかし。

そうはならなかった。なぜなら――




翌朝、ごんは忍び込んだ先の土間で兵十に見つかり、いたずらと勘違いした兵十の火縄銃によって射殺されたのだった。

8御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 22:55:03
気付けば一行は、鄙びた農村に立っていた。

「これはまた……ド田舎……じゃなくてのどかというかなんというか」

>《アーアー、テストテスト。本日は晴天なり。聞こえるか?東京ブリーチャーズ》

天邪鬼の声が聞こえてきたのでとりあえず空に向かって手を振りながら叫び返すノエル。

「聞っこえっるよー! あ、これってテレパシー的なやつ? 別に声に出さなくてもいいの?」

>《よし。三人とも、無事に宝珠の中に入れたようだな。宝珠の中、すなわち――三尾の魂の中に》

橘音の魂は消滅しかかっており、修復しなければならないとのこと。
この世界自体が魂の中なのだが、橘音を救うには更にその中の魂核を見つけだねばならないらしい。

>《貴様らが三尾の魂核までたどり着ければ、の話……だがな》

(どこにあるのか分かんないの!?)

その上、こちらが外部から侵入してきた者だと気付かれれば、橘音の魂はエラーを起こし消滅するという。

(マジかよ……)

>《正直、そこでは何が起こるか分からん。現実のように見えるかもしれんが、すべては三尾の見る夢のようなものだ》
>《現実では起こり得ぬこともあるやもしれん。したが、短慮は起こすな。どんな小さな失敗でも魂の消滅に繋がることを忘れるな》
>《……まして。今回は小娘もいないのだからな》

「……そうだったね」

儀式が始まる直前、都内に天魔が現れたという情報が舞い込み、祈は自ら志願して帝都防衛に赴いたのだ。
祈がいないということは、単純な戦力ダウンはもちろん、
龍脈へのアクセスの力――絶望の淵で盤をひっくり返せる最後の切り札が無いということを意味する。
そこまで考えて、ぶんぶんとかぶりを振る。
どちらにせよ、そんな発動条件も定かではない、もしかしたら祈の生命の危機が条件かもしれない力を当てにしていては駄目だ。
それに、尾弐は人間のままでここに来ると消滅してしまう可能性が高いという理由で再び鬼と化すことを選んだ。
半妖とはいえ約4分の3は人間の祈がこちらに参加しなかったのは、結果的に正解だったのかもしれない。

「ううん、きっとこれで良かったんだ」

辺りを見渡してみれば、野良着を着た男が、鍬を担いで歩いている。
明らかに現代ではない。

>《……しまったな。儀式をする前に、貴様らに時代に沿った服を着せておくべきだった》

(そんな! 現実世界だったら服ぐらいフォトショ加工でどうにでもできるのに!)

肉体に基盤を置く人間が物質世界の法則に縛られるのと同じく、
精神に基盤を置く妖怪にとって精神世界というのは、物質世界よりも融通が効かないものらしい。
そして、早速騒ぎになった。

9御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 22:56:35
>「妖怪だーっ!妖怪が出たぞぉぉぉぉ!」

「えーっ! 不審者ならともかく妖怪って……!」

陰陽寮は人間の集団なので、儀式に臨むときに何の気無しに人間の姿をとっていたのが不幸中の幸いだった。
尾弐は見た目は人間と変わらないし、ポチも狼にせよ人間にせよ、少なくともぱっと見で妖怪と分かる犬耳少年ではない。
冷静になってよく見ると、叫んでいる男性は何かに追われているようだ。

「うわーこっち来んな!」

>《なんだあれは?見たこともない化生だな……。三尾のかつて住んでいた村には、こんな妖怪が棲み付いていたのか?》
>《いや、こいつも貴様らと同様、本来この場にいてはならぬ存在のようだな……。已むを得ん、排除しろ。速やかにな》

(排除しろって……いかにも異能です、みたいな妖術はやっぱいけないよね!?)

ただでさえ服装が怪しいのにド派手な氷の妖術なんて使ったら即アウトではなかろうか。
そうしている間に、触手に絡みつかれていた。

「大変だ、あんなことやこんなことされちゃう!」

尚、触手とエロを結び付けるのは心が汚れている証拠である。
現代における最新の氷雪使い事情を学習する過程で余計なことまで学習してしまったのだろうか。
手の縁に氷の刃を作り触手の根本に手刀を当てると、スパッと切れた。

「あれ? 意外と弱い……?」

こうしてノエルが触手と戯れている間に、正体不明の妖怪は尾弐やポチにあっさりと倒された。

>《大したことのない相手で幸運だった。……今後もこうしたことはあるかもしれん、くれぐれも気を抜くな》
>《正体不明の妖怪はもちろん、それとの戦闘もここの住人には見られないように――》
>「へええ、あんたら、すごいなあ!」

(めっちゃ見られてるよ!?)

>「あのバケモノを軽々やっつけちまうなんて、只者じゃねえ。あんたら、何もんだ?ここらじゃ見ねえ顔だし」

「偉い人の指令で結成された人に仇成す妖怪を退治する特殊部隊さ!」

下手に嘘をつけばボロが出るかもしれない、というわけで、核心部分は外しつつ且つ嘘ではないそのまんまの答えを返した。

>「そうかあ……。どっちにしても、あのバケモンを倒すなんてすげえことだ。追い払うだけならおれたちにもできんことはないんだが」
>「でも、火縄も使うし怪我人も出る。ほとほと参ってんだ……村おさの話じゃ、山に棲む悪い神の類だって話さ」
>「あんたら、行く場所は?もうすぐ日も暮れる。野宿なんてできねえよ、夜は冷えるからな」
>「なんなら村おさんところに案内するよ。山神を退治してくれたって言やぁ、もろ手を挙げて歓迎してくれるさ」

「本当!?」

10御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 22:59:37
一刻も早く橘音の魂核を探さなければいけない状況だが、
ここが橘音の精神世界なら、起きるイベントには乗っておく方が効率よく魂核に辿り着けそうな気がする。
道すがらで色々話しかけられたが、魂が何がきっかけでエラーを起こすか分かったものではないので当たり障りのない返答をしておいた。
名前を尋ねられた時は、やっぱり本名言うのはまずいよなー、
でも姿は橘音が知ってるそのまんまだから意外と大丈夫なのか?等と一瞬考えた。

「本名は明かせないんだけどね、雪乃って呼んで」

こう答えておけば、相手は特殊部隊のコードネームの類だと解釈するだろう。

>「そういや、おれの名前を言ってなかったっけな。おれは見ての通りの猟師で――」
>「名前は、兵十(ひょうじゅう)ってんだ」

「兵……十……?」

呆然と立ち止まった後、我に返って駆け足で皆に追いつく。
あのきっちゃんが償おうとした青年の顔はもうよく覚えていないけど、故郷の山の近辺にあんな山神は出没しなかった。それ以前に山神ですらない。
案内されるがままに村長宅に到着する。村長は妖怪を退治した一行に物凄く感謝しているようだった。

>《渡りに船だな。ここをベースキャンプとして使うとするか。何日か逗留させろと言え》

「実はその件の妖怪の調査にやってきまして……原因を突き止めるには何日かかかるかと……」

そんなに上手くいくかなと思いながら言ってみたところ、あっさりとOKが出た。

>「この客間はいかように使って頂いても構いませぬ。どうか、ごゆるりとお過ごしください」
>「その代わり――もしまた山神が出たときには、どうかどうかお力添えを……」

こうして客間に通された一行。

「ああ、夕日が綺麗だなー」

夕日を眺めながら現実逃避しようとするノエルだったが、逆に現実を突きつけられることになった。
沈みゆく夕日の方角に、現代ではたくさん建物が立ってよく見えなくなった山の稜線が見えている。

「……いや、いやいやいやいやいやいやいや。
最も鮮やかに残っている過去だったら普通クロちゃんとのあれやこれやでしょ!
もう全く、キスまでして将来を誓い合った仲だというのに……何百年一緒にいたと思ってんの!?
大昔に少し一緒にいただけの僕に走るなんて怪しからん!」

と、橘音への謎の文句を垂れながら部屋の中を転げまわる。
尚、橘音と尾弐はキスはしたが今のところ将来を誓い合ってはいない。

11御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 23:01:36
>《まずは、この村でこれから何が起こるのかを見確かめる必要がある》
>《この場所が、この時代が、三尾のルーツということなのだろう。ならば、これから何か重要なことが起こるはずだ》
>《しかし、どんなつらいことが起こったとしても、貴様らは黙してそれを見守らねばならぬ》
>《決して手を貸そうとか、結果を改変させようなどとは思うな。三尾の魂がエラーを起こしてしまうからな》
>《貴様らがそれをしていいのは、すべてを見届けてからだ。忘れるなよ》

夜になり、天邪鬼に告げられる。
まるで過去に戻ったかのような錯覚に陥るが、実際に過去に戻ったわけではなく、飽くまでも橘音の記憶を基に再現された精神世界だ。
そう思い直し、皆に告げる。

「この場所を知ってるんだけどあんな妖怪はいなかったはずだし山神でもない……。
もしかしたら、橘音くん復活を妨害しようとしてる奴が送り込んでるのかもしれない。
急いで魂核を見つけなきゃ……!」

そういえば、魂核を探し当てて神符を貼ればいいという話だったのにどうして事が起こるのを見届ける必要があるのだろうか。
そうしないと魂核出現のフラグが立たないってやつ? 等と思う。
そうは言ったものの魂核を探す宛ても無く、
恒例行事のように毎日ほぼ決まった時間帯に現れる謎の妖怪を倒しつつ数日が経過した頃。

>「うわあ、またやりやがったな!こいつめ!」
>「あんたらもごんには気を付けろよ。どんないたずらをしてくるか、わかったもんじゃねえ」
>「山神は凶暴だが頭が悪い。けどごんは凶暴なうえに知恵が回るからな……狐を見たら近寄らねえこった」

ノエルは昔、きっちゃんが人間にごんと呼ばれているのを聞いた事がある。
女の子相手にネーミングセンスが無さ過ぎると思う。
それにしても、触手の化け物よりも恐れられているとは――

「怖い怖い……近寄らないに限る」

>《……ふむ》
>《兵十は関わるなと言うが、これは関わらぬ訳にはいくまいな》

「流石にご本人と対面はまずくない!? 気付かれちゃうよ!?」

と、なんだかんだ言いながらもごん捜索に付いていく。
すぐに穴が見つかり、そこから一匹の子狐が出てきた。
とても狂暴な悪さをして村人から恐れられているとは思えない、かわいい子狐。
思わず、親友の名を呼びそうになる。

「きっ……」

>「……なんだよ、おまえら?」

「き、綺麗な狐だなあ、と思って!」

>「ボクの言葉が分かるのか?人間のクセに?へえ……変わった人間もいるもんだなあ」
>「まぁいいさ。人間が何の用だよ?まさか、ボクを捕まえに来たとでも言うつもりか?けけっ!お笑いだね!」

きっちゃんってこんな口調だったっけ!? と軽く衝撃を受けた。
昔は実際には聞こえていなかったのだが可愛い口調で喋っているように勝手に脳内再生していたらしい。
この世界の動物語→人間語の翻訳さん、もしいたら可愛い口調で翻訳してあげて!?

12御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 23:03:17
>「ワケのわかんないこと言うなよな。ボクはおまえらなんて知らない。興味もないね」
>「それより、ボクに関わるとロクな目に遭わないぞ!ボクと一緒にいるやつは、みんなみんな!不幸になるんだからな――こんな風に!」

ごんが縄を引っ張ると、ノエルがその場から消えた。というか落とし穴に落ちた。

>「けけけっ!ばーか!ボクを捕まえられるもんなら捕まえてみな!」

「二人とも、捕まえてーっ! あ、でも捕まえたら結果が改変されるかもしれないから駄目!?」

と、穴の底で騒ぐノエル。
こうしておそらく過去の橘音だろうと思われるきっちゃん=ごんと対面したものの、状況は特に進展するでもなかった。
相も変わらず毎日謎の化け物退治を続けているうちに、季節が移り替わってしまった。

「天邪鬼さん、こんなペースで大丈夫なの!? 急がないと橘音くん消えちゃわない!?」

>《まだ、こちらは一時間も経過しとらんが。そちらはもうだいぶ時間が流れたようだな》
>《時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやれ》

「そんな感じ!? どおりで悠長……落ち着いてると思った」

>《山の方に原因があるのかもしれんな……。少し探りを入れてみろ》

天邪鬼も正体不明の化物を捨て置いては置けないと思ったのか、ついに原因を探るように指令が出る。
山の中を探索していると、普通ならこんな山の中にいるはずのない幼い少女の声が聞こえてきた。

>「……君はなんて言うの?……えっ、名前が無いの!?」

ついに開幕した黒歴史劇場に、ノエルは悶えながら転げまわる。

>「もう大丈夫だよ!童が100年でも1000年でも君を守り抜く!」

――ああもう、そんな約束を軽々しくしちゃ駄目!
だってきっちゃんは……遥か未来でもっとずっとその台詞を言ってもらうに相応しい相手と出会うんだから。

それから、みゆきがごんと一緒に現れて悪戯をして回るようになった。
万が一うっかり対面してしまって正体を勘付かれてもいけないし、早く終わらせてしまうに限る。

>《とんでもない糞餓鬼だな、あれは》

「そんなことより魂核……」

この時のノエルはまだ、魂核は宝珠か何かの類だと思っており、まさか本人が魂核とは思いもよらない。

>《あの性悪狐が三尾なのか?ならば、あれが魂核という可能性が高いな》

「そんな重要なことは早く言って!? それならあの時ひっつかまえてシップだか何だかを貼れば終わってたじゃん!」

が、話はそう簡単ではないらしい。

13御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 23:05:18
>《何とかして奴に接近し、符を貼らねばならん。……だが、ただ隙を衝いて貼るのでは意味がない》
>《奴の信頼を勝ち得、奴が生き延びたいと願った上で貼らねば、どのみち奴は消滅してしまうだろう》
>《大切なのは、三尾自身が生きたいと。そう思うことなのだからな》

「ちょっと待って。今しれっと難易度めっちゃ引き上げた!?」

良い方法も思いつかないまままた数日が経過すると、川へ向かう兵十に出会った。

>「おう、大漁だあ。おっかあの分だけじゃねえ、先生がたにもうなぎを啖って頂けるかもしんねえな。楽しみにしててくれろ」

昼になった頃、うなぎをびくの中に放り込み、水の中に沈めたまま家に帰ってしまった。
そこは持って帰ろうよ!と心の中で思うノエル。
案の定、そこにごんが現れる。今日はみゆきは一緒ではない。
ごんはうなぎを放し、うなぎを一匹首に巻き付けたまま姿を消してしまった。
結果を改変してはいけない以上、黙って見ているしかない。

>「すまねえ、先生がた……。日頃山神を追い返してくれる礼に、先生がたにもうなぎを啖って貰おうと思ってたんだが……」

「……ううん、それより見てたのに止められなくてごめん! アイツすばしっこくて」

それから10日ほど経過し、兵十の母が無くなり、葬式が執り行われた。

「あ……」

葬列を遠くから見ているごんに気付き、話しかけるべきか迷うノエル。
ノエルは、魂核と思われるごんがもうすぐ射殺されてしまう結末を知っている。
よって早期に決着を付けねばならないが、慌てて失敗しては元も子もない。
迷っている間に、兵十が話しかけてきた。

>「……先生がた、先生がたもよかったら、おれのおっかあに手を合わせてやっておくんなさい」
>「妖物退治の先生がたが手を合わせてくれるんなら、おっかあも妖物に惑わされず極楽まで行ける。これぞ冥福ってもんだ」
>「おっかあの病はだいぶ重かったんだ。だから、あのときうなぎが獲れてたとしても、おっかあには啖わせられなかったかもしれねえ」

言われた通り、兵十の母親に手を合わせる。これぐらいならしても展開に影響は与えないだろう。
それから、ごんが兵十の家に栗や松茸を持ってくるようになったが、兵十はそれがごんがやっていると気付かないようだった。

>「……わからねえ」

ごんが持ってきていることを伝えたい衝動に駆られたが、それをすると全てが終わってしまうので耐えた。
自分達に出来るのは、なんとかごんが射殺される前に橘音を復活させることだ。

「もうあんまり時間が無いんだ……急ごう」

山に分け入ってごんの姿を探すと、すぐに見つかった。みゆきと一緒に栗を拾っているところだった。
そしてなんと、今までまともに相手もしてもらえなかったのが、約束を取り付けることに成功する。

14御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/11(土) 23:07:30
>「ところでさ。おまえら、ボクに用があるんだろ?……話を聞いてやってもいいよ」
>「ボクの言葉が分かるなんて、みゆきちゃんでもできないことだもんな。面白そうだから……聞くだけだけど」
>「でも、今はダメだ。みゆきちゃんと、暗くなるまで松茸探しって約束してるから。そうだなぁ……明日の昼なら」
>「じゃ、明日またこの場所で。……遅れるなよな」

>《あの悪童が、たいした心境の変化だ。雪ん娘が入れ知恵したのかもしれんな》

そういえば……そうだった気がする。
自分が余計なことを言ったばっかりにきっちゃんは射殺されることになってしまったのだ。

「天邪鬼さん、あの雪ん娘、僕だから……」

そんなことより、今考えるべきは明日どうやってごんの信頼を得て生きたいと思わせるかだ。
一歩間違えると怪しい宗教の勧誘みたいになってしまいそうである。
そこでその夜、夜なべして作戦会議(場合によっては一人脳内作戦会議だったかもしれないが)
が開かれたが、全てが無駄になってしまったのだった。
ごんはいつも朝に兵十の家に栗や松茸を置きに行くので、いつも通りこっそり様子を見に行くと――銃の発砲音が聞こえてきた。

「まさか……!」

窓から様子を伺うと、火縄銃を構えている兵十と倒れているごんが見えた。

「そんな……あと少しだったのに……」

結末は知っていたものの、まさかこのタイミングだとは思わなかった。
あまりの間の悪さに絶望しかけるノエルだったが、ある事に気付いて踏みとどまる。
魂核と思われるごんが射殺されたにも拘わらず、この世界が消えていない。
つまり橘音の魂は消滅しておらず、絶望するにはまだ早いということだ。
きっちゃん=ごんが橘音なのはもはや確実となれば、ごんはこの後自分の知らないところで何らかの形で妖狐橘音として復活したのだろう。
飼い猫が車に引かれて死んで化け猫?になったという話も聞いた事があるし未練を残して死んだ動物が妖怪化する、というのは稀によくあるのかもしれない。

「まだ終わってない。
この後どういう形で橘音くんになったかは知らないんだけど……近いうちに妖狐として復活するんだと思う。
きっとチャンスはその時だ――」

そして、その間のシーンが飛んだりしないということは、ごんは死んでいる間も事の顛末を認識していたということなのか。
そうなると、このままいけば眼前で自らの罪が再現されることになる――
ここで、言われた時は少し疑問に思った天邪鬼の最初の言葉が思い出された。

>《まずは、この村でこれから何が起こるのかを見確かめる必要がある》
>《この場所が、この時代が、三尾のルーツということなのだろう。ならば、これから何か重要なことが起こるはずだ》
>《しかし、どんなつらいことが起こったとしても、貴様らは黙してそれを見守らねばならぬ》
>《決して手を貸そうとか、結果を改変させようなどとは思うな。三尾の魂がエラーを起こしてしまうからな》
>《貴様らがそれをしていいのは、すべてを見届けてからだ。忘れるなよ》

天邪鬼は、前回も事が終わるまで真意を告げなかった。
もしかして、今回も最初からこうなることが分かっていたのだろうか。
そしてその言葉は裏を返せば、すべてを見届けてからなら、介入していいとも取れる。
謎の妖怪の正体も未だ分からないままで、何者かが橘音復活を妨害しようとしている可能性も考えられ、その場合は対処が必要になるのかもしれない。
ノエルは暫しの逡巡の後、決意したように仲間達に告げた。

「……多分復活するなら死体がまた動き出す可能性が高いよね。
この後兵十さんがお墓を作るはずだ。いつ復活するか分からないから見張っておこう」

15尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/16(木) 00:29:30
走る風に稲穂が揺れる。
黄金が波打つ様は其処に海を感じさせる程に雄大で、どこまでも郷愁を誘う。
空気は透き通り、空は青く。
その情景に、嘗て己が人間であった頃の事を思い出した尾弐黒雄は、不意に胸の奥から何かが込み上げる感覚を覚え

>「聞っこえっるよー! あ、これってテレパシー的なやつ? 別に声に出さなくてもいいの?」
>《よし。三人とも、無事に宝珠の中に入れたようだな。宝珠の中、すなわち――三尾の魂の中に》
「ああ。入口で弾かれでもしたらどうしたモンかと考えてたが、どうやら上手くいったみてぇだな」

しかし、その思考はノエルの快活な返事と宝珠の外から齎された天邪鬼の呼びかけによって中断する。
無事を確認するその言葉に是である事を答えつつ、この作戦の前に渡された妖力賦活の神符を懐から取り出した尾弐は、続く天邪鬼の言葉に傾聴する。

>《三尾の魂魄は半壊状態にある。このままでは、遠からず消滅してしまうだろう》
>《それを食い止める。半壊した三尾の魂魄、その核――魂核とでも言うべきか……それを貴様らが修復するのだ》
>《とはいえ、難しいことはない。貴様らに持たせた、妖力賦活の神符。それを三尾の魂核に貼り付けるだけでよい》
>《もし貴様らが外部から侵入してきた者だと分かれば、三尾の魂魄はエラーを起こす。そうなれば、消滅は避けられん》
>《いいな……決して正体を見破られてはならぬぞ。あくまで、貴様らは当然その場にいて問題ない者として振舞うのだ》

「忠告あんがとよ。ま、電気ガスがねぇ程度の昔なら見知ったモンだ。上手くやるさ」

天邪鬼の言葉は、宝珠に介入する以前に何度も言い聞かされた助言と同じものであった。
その言葉を受けた尾弐は気楽そうな言葉こそ見せるものの、それをくどいと退けるような事はしない。
それは、天邪鬼の言葉が那須野橘音を助ける為には重要な物である事を知っているから――――何度自身に言い聞かせても足りない程に大切な言葉である事を、知っているからである。

(それに――――祈の嬢ちゃんが居ない以上、奇跡や偶然なんてモンは期待できねぇからな)

……そして、今回の任務に祈が居ない事実も、尾弐の慎重さに拍車を掛けていた。
まるで儀式を見計らった様な天魔の急襲。それに対応する為に動いている為、今現在、宝珠の内側の世界に祈は居ない。
善悪問わぬ不確定要素である得る祈の存在が無い以上、この作戦で齎される結果は足し算となる。
努力、慎重さ、警戒心、勇気
そういった物の積み重ねにより齎される結果が決まる以上、尾弐が現実に押し潰されない様に気を張るのは当然の事であった。

当然の事であった、のだが……。

>《……しまったな。儀式をする前に、貴様らに時代に沿った服を着せておくべきだった》
>(そんな! 現実世界だったら服ぐらいフォトショ加工でどうにでもできるのに!)

「いやおい待て。オジサン、てっきり念じた衣装に変わる様なモンだと思って何も言わなかったんだが、まさか忘れてただけなのか……!?」

かつて神童と呼ばれていた時代の天邪鬼では在り得ないミスに、ノエルの発言に突っ込む事も忘れ、頬を引き攣らせる尾弐。
だが、直後に神童を自称していた頃の少年時代の外道丸であればやりがちなミスであった事に気付き、結局は自身の注意不足である事に思い到りガクリと頭を下げる。

「とりあえず、服だけでも何とかしねぇとな。そこらの家で収奪をして……って、それで騒ぎなんぞ起こしたら本末転倒じゃねぇか」

何とかミスを挽回すべく、ブツブツと物騒な作戦を呟きつつ思考を巡らせる尾弐であったが……ふと背後から聞こえる叫び声に気付く。

17尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/16(木) 00:33:27
>「妖怪だーっ!妖怪が出たぞぉぉぉぉ!」
>「えーっ! 不審者ならともかく妖怪って……!」

振り返り見れば、其処には必死の形相で道を掛ける村人と思わしき姿の男と、これまで見た事の無いような異形の怪物の姿。

>《なんだあれは?見たこともない化生だな……。三尾のかつて住んでいた村には、こんな妖怪が棲み付いていたのか?》
「……さてな。これだけ特徴的なら江戸で鳥山石燕辺りが絵に残してそうなモンだが」

困惑するような天邪鬼の言葉に、尾弐も同じ感想を示す。
妖怪ですら見覚えのない妖怪。
それでも、漫然と襲われる訳にもいかない為、拳を握り込んだ尾弐であったが

>「あれ? 意外と弱い……?」

聞こえて来たのは拍子抜けするようなノエルの声。
見れば、異形の触手はさほど力を込めたとも思えないノエルの氷の刃により切断されてしまっている。
その事に逆に警戒を強めた尾弐は、敵の後詰めに警戒し敢えて戦闘に参加しなかったが……

「弱いというか脆いと言うか……呆気なさ過ぎて却って訳がわからねぇな」

本当に、驚く程に特に何事も無く。ノエルの氷の刃とポチの活躍により異形は退けられてしまった。
結果だけみれば、尾弐は拳を握って構えていただけである。
意図せず何もしないまま戦闘の終わりを迎えてしまった尾弐は、釈然としないながらも拳を開く。

>「へええ、あんたら、すごいなあ!」
>《!?――しまっ――》
>「あのバケモノを軽々やっつけちまうなんて、只者じゃねえ。あんたら、何もんだ?ここらじゃ見ねえ顔だし」

と、その背中に掛けられる男の声。
振り返り見れば、それは背中に猟銃を担いだ青年の姿であった。

>「名前は、兵十(ひょうじゅう)ってんだ」

遭遇してしまった兵十と名乗る青年に、果たしてどう回答するべきか。
そして、先程からの天邪鬼――――外道丸の意外なうっかり具合に前途の多難を感じつつ、尾弐は首裏に手を当て小さく嘆息するのであった。


あれよあれよという間に時間は経ち。
村の者達が山神と呼ぶ存在への対処を代価として、村長に逗留の許可を貰ったその日の夜。

>《決して手を貸そうとか、結果を改変させようなどとは思うな。三尾の魂がエラーを起こしてしまうからな》
>《貴様らがそれをしていいのは、すべてを見届けてからだ。忘れるなよ》

「おう、重々承知してるさ。何、伊達に長く生きてる訳でもねぇ。待つのも耐えるのも手馴れたモンだ」

くぁ、と欠伸をしつつ、尾弐は天邪鬼の言葉に返事を返す。
夕方くんだりで妄言を吐いたノエルに尾弐の膂力でデコピンを入れたり、村人達に対しノエルの自己紹介を捕捉する為に、
高名な寺社の『方から』来た怪異対策の専門家であるという、かろうじで嘘ではない説明をしたりなどした事で、気疲れしてしまったらしい。

>「この場所を知ってるんだけどあんな妖怪はいなかったはずだし山神でもない……。
>もしかしたら、橘音くん復活を妨害しようとしてる奴が送り込んでるのかもしれない。
>急いで魂核を見つけなきゃ……!」

「お前さんが那須野の過去に関わってるってのは薄々察してたがな……いや。知ってる奴が居るなら話は早ぇ。頼りにさせて貰うぜ」

ただ、それでも那須野橘音を取り戻すという決意に一片の陰りは無いようで、軽く押すようにノエルの背中を叩く。

(さて――――ここからは忍耐の勝負になりそうだ)

不条理と不義理を見過ごしてでも、正しいモノを見極める。
正義とは異なる矛を以って戦う、推理と洞察力を用いた……まるで探偵の様な戦い方。
それを行う事への不安と決意を新たにしつつ――――そして、それから数日の時が経った。

18尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/16(木) 00:35:23
>「……なんだよ、おまえら?」
>「き、綺麗な狐だなあ、と思って!」

兵十の忠告に端を発した、森に住むと言うごんと呼ばれる悪戯狐の捜索。
人の手が入っていない森は、只人であれば立ち入る事は困難であっただろうが、
さしもに妖怪なだけあり、東京ブリーチャーズの面々にとっては大きな障害足り得なかった。
そして目にしたごん狐の姿は

(ああ……)

>「ボクの言葉が分かるのか?人間のクセに?へえ……変わった人間もいるもんだなあ」
>「まぁいいさ。人間が何の用だよ?まさか、ボクを捕まえに来たとでも言うつもりか?けけっ!お笑いだね!」

口調は違う。態度もまるで生意気な子供の様だ。賢くは有る様だが、叡智と言うまでには至っていない。
だが。しかし。けれど――――

(……確かにこいつは、お前さんだぜ。大将)

理屈では無く直感で理解した。その姿は、幾度か目にした獣の姿をした那須野橘音の面影を残していると。
尾弐はその姿に向けて口を開きかけ―――しかし、すんでの所で閉じる

>「けけけっ!ばーか!ボクを捕まえられるもんなら捕まえてみな!」
>「二人とも、捕まえてーっ! あ、でも捕まえたら結果が改変されるかもしれないから駄目!?」

それは、抵抗もせず罠に掛かっても変わらず。
土を浴び、服を泥に汚しながらも、尾弐はごん狐の前でただの一言も言葉を発する事は無かった。
それは全て、那須野橘音の魂に負荷を掛けないが為。
きっと、口を開けば自分は余計な事も言ってしまうと……そう自覚しているが故の事。

そして、再び時は巡る。

>《まだ、こちらは一時間も経過しとらんが。そちらはもうだいぶ時間が流れたようだな》
>《時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやれ》

「腰を落ち着け過ぎて、そろそろ寒さでギックリいっちまいそうなんだがな」

金色の絨毯の様で有った稲穂は刈り取られ、何時しか空には粉の様な雪が垣間見える様になった。
その間に尾弐が何をしていたかと言えば――――端的に言えば、何もしていなかった。
昔取った杵柄を利用し、宗教行事を手伝って経の一つも唱え、暇な村の子供に簡単な読み書き等を教えたりもした。
だが逆に、村人が山神と呼ぶ怪異の退治には、驚く程に消極的であった。
村に近づくのを目にすれば、力尽くで山の麓まで連れて行き、放り投げて来たりはするものの、決してそれらを殺しはしなかった。
かつて、あらゆる妖壊に殺意を燃やしていた尾弐であれば考えられない事だ。
恐らく……那須野の記憶の中で殺意を振りまきたくないという思いがあったが故の事なのだろう。
その為、尾弐は村人から他の面々程の信用を勝ち取ることは出来ていないが……しかし、そうであるが故に村人から『気にされない』事に成功しているかもしれない。

19尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/16(木) 00:41:22
そんな日々の最中の事。

>「……君はなんて言うの?……えっ、名前が無いの!?」
>「もう大丈夫だよ!童が100年でも1000年でも君を守り抜く!」

ノエルの先導の元に踏み入った山の中で見た光景。
それは、遠き幼き日のノエルと那須野が邂逅した、その一幕であった。
仮に言葉だけを聞けば、胸の内に小さく爪を立てた様な感情を覚えるのかもしれないが……流石にこの微笑ましい光景を前に負の感情は抱けない。
木の陰に隠れつつ腕を組み、相も変わらず口を噤んでいる。
そして、この日より村を襲う悪童が一人増え……けれど、これは。ここまでは、少なくとも不幸ではなかったのだろう。
誰もが平穏を享受し、狐一匹の悪戯くらいであれば眉を潜めつつも許す事が出来る、そんな日常であったのだから。

けれど、この世界が那須野橘音の過去の姿見である以上、平穏はいつかは終わるもので……『その日』は唐突にやってきた。

>「すまねえ、先生がた……。日頃山神を追い返してくれる礼に、先生がたにもうなぎを啖って貰おうと思ってたんだが……」
「気にすんな。拙僧は酒とつまみがあればそれで満足だからな」

その日。兵十の捕ったウナギを、ごん狐が逃がし持ち去ってしまった。
それだけであれば、尾弐が酒でも勧める事で何日かすれば忘れてしまえたのであろうが……生憎と、そのウナギは特別な物であった。
体を弱くしてしまった兵十の母に食べさせる為のものであったのだ。
もしも、ウナギを兵十の母親が口に出来ていれば、少なくともその口にした分だけ『10日後に死んだ』母親は長生き出来ていたのかもしれない。
だからこそ……禍根は残った。

>「あ……」

尾弐は、脇導師として参加した葬儀の最中、力なく項垂れる兵十と地蔵の陰から葬儀を眺めているごん狐の姿を見て、何かの歯車が狂ってしまった事を感じたのであった。

>「こんなこと、償いになるのかもわからないけど。……ボクは今まで、誰かに謝るなんてしたことなかったから」
>「でも、やりたいんだ。そうしなきゃダメだって思うんだ……なんでかな」
>「ところでさ。おまえら、ボクに用があるんだろ?……話を聞いてやってもいいよ」
>「ボクの言葉が分かるなんて、みゆきちゃんでもできないことだもんな。面白そうだから……聞くだけだけど」
>「でも、今はダメだ。みゆきちゃんと、暗くなるまで松茸探しって約束してるから。そうだなぁ……明日の昼なら」
>「じゃ、明日またこの場所で。……遅れるなよな」

そして、その悪い予感は日を増すごとに強くなっていく。
兵十のもとに差出人が判らない山の幸が届けられ始めても。
その正体がやはりごんである事が判明しても。
ごんが……かつての生意気な様子が嘘であったかのように、落ち込んだ様子で語らいの場を用意する事を約束しても、変わる事はなかった。

本音を言えば……尾弐は直ぐにでも口を開き、助言の一つも与えたかった。
慰めの言葉を掛け、激励の言葉を吐いてやりたかった。
けれど、それは出来ない。何をしてでも那須野を助ける事を決めた尾弐に出来る事は、それが那須野を見捨てる選択であろうと、選び、ただ耐える事のみ。
耐えて、耐えて――――そして、終わりは訪れる。炸裂する火薬の音と共に。

>「まさか……!」
>「そんな……あと少しだったのに……」

悲痛なノエルの声。その先に有るのは、ごんと呼ばれた狐が冷たい地面に横たわる姿。
……猟銃で撃ち抜かれたのだろう。美しかったその毛皮は赤く濡れている。

>「まだ終わってない。
>この後どういう形で橘音くんになったかは知らないんだけど……近いうちに妖狐として復活するんだと思う。
>きっとチャンスはその時だ――」

ああそうだ。ノエルの言う通りだ。那須野橘音が妖狐である以上、ここから先が存在するのは間違いない。
故に選ぶべきは、これまでと同じく忍耐。ただ一言も発する事無く、那須野の行く末を眺め見る事。
そうでなければこれまで耐え忍んできた日々が無駄になってしまう。

「馬鹿やろう……なんだってお前さんはいつも、そうやって……!」

けれど……考えるより先に体が動いていた。過去であるという事、まだ終わりでないという事
それを知っているのも関わらず、尾弐は那須野橘音が傷つく姿を見る事が耐えられなかった。
倒れるごんに歩み寄り、血に塗れる事も厭わず、その小さな体を持ち上げ、守る様に抱きかかえる。
そして、暫く沈黙し――――暫しの時を経てから、口を開く。

「……兵十、もしもお前さんがこの狐の墓を作るつもりなら、俺に手伝わせてくれ」
「この狐には、借りがあるんだ……だから、頼む」

やるべきではない。深入りすべきではないと判っている。
けれど尾弐には、どうしても自分のその発言を撤回する事が出来なかった。

20ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:12:01
気が付けばポチは見知らぬ農村にいた。
澄み切った空気。徐々に夜色へと染まりゆく山肌に、名残を見せる緑と紅。
眼前に広がる自然が、誰の目よりも、ポチの左眼には美しく映っていた。
ポチにとってはそれらが「国」に見えたのだ。
かつてニホンオオカミが、送り狼が生きた国。
思わず、ポチはその光景に見惚れていた。
いつかこれを取り戻したいと欲する自分に、気づかないほどに。

>《アーアー、テストテスト。本日は晴天なり。聞こえるか?東京ブリーチャーズ》

ふと、天邪鬼の声が聞こえた。
まるで耳孔の内に直接語りかけるような、少し奇妙な響きだった。

>「聞っこえっるよー! あ、これってテレパシー的なやつ? 別に声に出さなくてもいいの?」

「……もう少し、声を遠く出来ないかな。毎回これだと……多分、落ち着かない」

>《よし。三人とも、無事に宝珠の中に入れたようだな。宝珠の中、すなわち――三尾の魂の中に》
>「ああ。入口で弾かれでもしたらどうしたモンかと考えてたが、どうやら上手くいったみてぇだな」

「ああ……まぁ、いいよ。期待してなかったし」

>《三尾の魂魄は半壊状態にある。このままでは、遠からず消滅してしまうだろう》
>《それを食い止める。半壊した三尾の魂魄、その核――魂核とでも言うべきか……それを貴様らが修復するのだ》
>《とはいえ、難しいことはない。貴様らに持たせた、妖力賦活の神符。それを三尾の魂核に貼り付けるだけでよい》
>《貴様らが三尾の魂核までたどり着ければ、の話……だがな》

「……別に、赤マントがここまで押し掛けてくる訳でもないんだ。問題ないよ」

>《現在貴様らがいるのは、三尾の心象風景。精神世界と言うべきか。ヤツの中で最も鮮やかに残っている過去だ》
 《そのどこかに魂核がある。探し出せ。ただし……いくつか注意せねばならんことがある》
 《いいか?貴様ら異物だ。三尾の魂に紛れ込んだ混入物だ。言うまでもなく、存在してはならぬものなのだ》

天邪鬼は念入りに、言葉を尽くして忠告を重ねる。
言われるまでもなく、ポチに浅慮を働くつもりなどない。
橘音の魂が消滅するその時、自分が巻き添えにならない保証はどこにもないのだ。

>《……しまったな。儀式をする前に、貴様らに時代に沿った服を着せておくべきだった》
>(そんな! 現実世界だったら服ぐらいフォトショ加工でどうにでもできるのに!)
>「いやおい待て。オジサン、てっきり念じた衣装に変わる様なモンだと思って何も言わなかったんだが、まさか忘れてただけなのか……!?」

「……頼むよ酒呑童子さん。変化は……駄目みたいだね。他の妖術はちゃんと使えるのか、確かめとかないと……」

>「妖怪だーっ!妖怪が出たぞぉぉぉぉ!」

不意に、ポチの思考と呟きを断ち切るように悲鳴が聞こえた。
振り返れば、見えたのは脇目も振らず逃げる男と――黒い、異形。

>《なんだあれは?見たこともない化生だな……。三尾のかつて住んでいた村には、こんな妖怪が棲み付いていたのか?》
 《いや、こいつも貴様らと同様、本来この場にいてはならぬ存在のようだな……。已むを得ん、排除しろ。速やかにな》

天邪鬼の指示を受け、ポチがまず取った行動は――様子見。
貧乏くじを進んで引きに行く理由は、もうないのだ。

>「あれ? 意外と弱い……?」

結果として無数の腕に捕まったノエルは――しかし自力での脱出を果たす。
異形の妖怪は動きが鈍く、体は脆く、力が特別強い訳でもない。
つまり――ただの雑魚だ。

21ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:13:41
「……色々試しておきたい事はあるけど」

尾弐はその呆気なさにかえって警戒心を煽られているようだ。
ならばと、ポチは刀袋から酔醒籠釣瓶を取り出し、抜刀。

「ここは、さっさと終わらせちゃおうか」

異形へと無造作に歩み寄るポチ。
迫る無数の触手を寸前まで引き付けて、切り払った。
そのまま懐へと潜り込むと、今度はすれ違いざまに腹を切り裂く。

追撃は必要なかった。
異形は虚ろなうめき声を上げて、消えた。
他に襲撃者の気配もない――正直なところ、ポチは拍子抜けしていた。

>《大したことのない相手で幸運だった。……今後もこうしたことはあるかもしれん、くれぐれも気を抜くな》
 《正体不明の妖怪はもちろん、それとの戦闘もここの住人には見られないように――》
>「へええ、あんたら、すごいなあ!」
>《!?――しまっ――》

早くも原住民に見つかってしまったブリーチャーズは、しかし兵十の素朴さに救われる事になった。
近くの村を仕切る村長も、山神退治の食客として皆を受け入れてくれた。
こうなってくると、あの異形どもがそれなりに頑張ってくれないと困るかもな、などと、ポチは静かに考えていた。

>「この場所を知ってるんだけどあんな妖怪はいなかったはずだし山神でもない……。
>もしかしたら、橘音くん復活を妨害しようとしてる奴が送り込んでるのかもしれない。
>急いで魂核を見つけなきゃ……!」

>「お前さんが那須野の過去に関わってるってのは薄々察してたがな……いや。知ってる奴が居るなら話は早ぇ。頼りにさせて貰うぜ」

「急ぐったって、何か心当たりはあるの?……その感じだと、特に無さそうだね。
 だったら僕は僕で、暫くこの世界を嗅ぎ回ってみるよ」

そうしてポチは夜が明けてすぐに、村の外へと探索を始めた。
まずは道なりにひたすら村から遠ざかるように。
次に、村の近くの山や森を歩き回った。

確認したかった事は二つ。
一つは、宝珠の中がどれほどの広さなのか。
ここが橘音の精神の世界である以上、その広がりは無限ではないはず。
もう一つは、あの異形の怪物がどこから来ているのか、巣の類があるのかを知る為だ。

もっとも山の方では濃い山気が嗅ぎ取れた。
何か化生の類が住んでいるという事だ。
下手に原住民を刺激する訳にもいかないので、深く踏み込む事はしなかった。

22ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:15:12
 


>「うわあ、またやりやがったな!こいつめ!」
>「ありゃあ、山神のしわざじゃねえ。ごんのしわざだ」

それから数日後、ブリーチャーズは『近くの森に住むはぐれ狐』の情報を得た。

>《……ふむ》
>《兵十は関わるなと言うが、これは関わらぬ訳にはいくまいな》
>「流石にご本人と対面はまずくない!? 気付かれちゃうよ!?」

「……ノエっちが変な事言わなきゃ、ただの余所者で済むでしょ、多分」

この精神世界における橘音――下手に扱えば魂の崩壊は避けられないだろう。
だが、野放しにして事態が好転する訳でもない。
魂核がどこにあるのか見当もつかない現状、この世界への理解を深める必要があった。

森へ入ってから、件の狐の巣を見つけるまでそう時間はかからなかった。
後の那須野橘音と言えど現時点では精々が獣以上、妖怪未満。
ポチがにおいを探れば発見出来ないはずがなかった。

一行が巣穴の前まで辿り着くと、音を聞きつけてか、中から一匹の子狐が姿を見せた。

>「きっ……」
>「……なんだよ、おまえら?」
>「き、綺麗な狐だなあ、と思って!」

「……そういう君こそ、何者なんだ」

>「ボクの言葉が分かるのか?人間のクセに?へえ……変わった人間もいるもんだなあ」
>「まぁいいさ。人間が何の用だよ?まさか、ボクを捕まえに来たとでも言うつもりか?けけっ!お笑いだね!」

「僕らの言葉が分かるのか?狐のくせに?変わった狐もいるもんだな。
 ……別に、君をどうこうするつもりはないよ。ただ君が誰なのか、確かめたかっただけさ」

>「ワケのわかんないこと言うなよな。ボクはおまえらなんて知らない。興味もないね」
>「それより、ボクに関わるとロクな目に遭わないぞ!ボクと一緒にいるやつは、みんなみんな!不幸になるんだからな――こんな風に!」

ごんが巣穴の傍にあった縄を咥え、そのまま首を大きく振った。
するとたちまちポチ達の足元が崩れ落ちる。
ポチは容易く回避出来たが、ノエルは、そして意外にも尾弐もまた落とし穴に嵌っていた。

「ちょっとちょっと、ノエっちはともかくさぁ、尾弐っち。大丈夫?
 僕じゃ君らを引っ張り上げらんないから……頑張って出てきてよ」

23ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:18:21
  


それからは暫し、無意味にも思える日々が続いた。
日中と夕暮れ時に襲い来る異形を追い返すばかりの日々。
精神世界の広さを測る試みはここへ来てすぐ終わってしまった。
森の探索も一月ほどで終わった。
山の方へは、原住民を刺激してしまう危険性を考慮して殆ど足を運んでいない。

ポチに出来る事と言えば、飽きるまで剣を振るくらいの事だった。
とは言え、ただ漫然と振っていても仕方がない。
故に、酔余酒重塔にて相見えた強敵との戦いを思い返す。
あの時にこの「牙」があれば何が出来たかを考え――その答えを虚空に刻み続ける。

>《まだ、こちらは一時間も経過しとらんが。そちらはもうだいぶ時間が流れたようだな》
>《時間はたっぷりある。腰を落ち着けてやれ》

「そりゃいいや。こっちの様子が見えてるなら、何か一つくらい技を教えてよ。
 お得意の、なんたら流を……冗談だよ。
 だけど今の調子じゃ、ホントにそれくらいしか出来る事がないよ、こっちは」

最近では異形を始末した後、そのにおいを遡る事も試してみた。
だがそれでも異変の源は見つけられない。
橘音の過去を辿る必要はあるにしても、あの山神もどきは自分達と同じ異物なのだ。
いつまでも対症療法を続けていていいのかは、分からない。

>《山の方に原因があるのかもしれんな……。少し探りを入れてみろ》

そうして翌日、ブリーチャーズは村近くの山へ入った。
来たばかりの時は敬遠した奥の方まで踏み込んでいく。

「……待って、ノエっち。このにおい……橘音ちゃん、じゃなくて……ごんが、近くにいる」

>「……君はなんて言うの?……えっ、名前が無いの!?」
>「もう大丈夫だよ!童が100年でも1000年でも君を守り抜く!」

「わお……妬けちゃうね、尾弐っち」

これは村にいたままでは知り得なかった、橘音と――ノエルの過去。
だが収穫と呼べるかと言えば、いまいち微妙なところだった。
なにせ結局、山神もどきの異形達が何故、どこから生まれているのかは分からないままだ。

24ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:21:47
それからまた暫しの時間が流れた。

>「これから、うなぎを獲りに行こうと思ってさ」

何の進展も得られない、ただ過去を眺めるだけの時間が。

>「けけっ!あいつにうなぎなんて啖わせてやるもんか!」

しかしそれでも――少しずつ、見えてくるものはあった。
未来だ。重なる時の断片が、かつて一度聞かされた――しかし意識の外にあった記憶を呼び覚ます。

>「……先生がた、先生がたもよかったら、おれのおっかあに手を合わせてやっておくんなさい」


『……みゆきには、内緒の友達がいた。といっても人間じゃあない……狐さ。山に棲む一匹の、親からはぐれた子狐』


>「おっかあの病はだいぶ重かったんだ。だから、あのときうなぎが獲れてたとしても、おっかあには啖わせられなかったかもしれねえ」


『みゆきはそいつに、きっちゃんとか名前を付けていたっけね……』


>「……なんだよ、おまえら。また来たのか?」


『アタシらは雪女には、常命の者との接触を禁ずる掟があった。人間はもちろん、獣とも係わりを持っちゃいけないってね』


>「やなとこ見られちゃったなあ。……栗を拾ってたのさ、これから松茸も採りに行くんだ」
>「採った栗は兵十のところへ持っていく。……ボクのせいで、兵十のおっかあはうなぎを食べられなかったから。親不孝させたから」
>「……兵十を。ひとりぼっちにさせちゃったから」


『みゆきが子狐と遊んでいるのを見かけたとき、アタシも本当はそれを止めなけりゃいけなかった。……でも、できなかった』


>「こんなこと、償いになるのかもわからないけど。……ボクは今まで、誰かに謝るなんてしたことなかったから」
>「でも、やりたいんだ。そうしなきゃダメだって思うんだ……なんでかな」


『みゆきの幸せそうな、嬉しそうな顔を見るとね……。どうしても仲を引き裂くなんてことはできなかった。アタシは黙認した』


>「ところでさ。おまえら、ボクに用があるんだろ?……話を聞いてやってもいいよ」
>「ボクの言葉が分かるなんて、みゆきちゃんでもできないことだもんな。面白そうだから……聞くだけだけど」
>「でも、今はダメだ。みゆきちゃんと、暗くなるまで松茸探しって約束してるから。そうだなぁ……明日の昼なら」
>「じゃ、明日またこの場所で。……遅れるなよな」


『……でも。それがすべてのあやまちだったのさ』


そして――ごんは兵十の火縄銃によって撃ち殺された。
その小さな体躯が血溜まりに沈んでいく様を、ポチはただ見下ろしていた。

>「そんな……あと少しだったのに……」
>「馬鹿やろう……なんだってお前さんはいつも、そうやって……!」

ノエルのように、尾弐のように、悲しむ事は出来ない。
狼の王は、たかが狐が一匹死んだくらいで、悲しまない。
感じて良いのはただ、野に生きる獣が、人の文明によって弑された事への、僅かな苛立ちのみ。

25ポチ ◆CDuTShoToA:2019/05/17(金) 23:25:19
「……墓を見張るほどの余裕が、あればいいけどね。だって……」

ごんの墓を作り終え、兵十がその場を去ると、ポチはそう言った。
そうだ――クリスの語った過去には、この先に待ち受ける未来には、まだ続きがあった。



『でもね。事はそれだけじゃ済まなかった。唯一の友達を喪う大きすぎる衝撃に、みゆきの無垢な心は耐えられなかった』
『みゆきはね。壊れちまったのさ……《妖壊》になったんだよ』



「君はこの後、妖壊になるんだろ。この村は……雪と氷で埋め尽くされるのに」

ポチの声は静かだが、張り詰めていた。

「天邪鬼……僕らはどうすればいい。村に残るべきなのか?
 そのせいで余計に人を死なせたり、助ける事にならないか?」

事態は、己の命に関わるかもしれないからだ。

「正直、僕はここを離れたい。これから、あのクリスの時みたいな吹雪が来るんだろ。
 そんなのがいつまでも続いたら……僕らまで巻き添えになりかねない」

とは言え、そこらの森や山に逃げ込んだところで意味はない。
大規模な雪害は野生動物の命さえ容易く奪う。
まともに狩りも出来ず、巣穴もない。
環境の劣悪さは村に残った場合とそう変わらないだろう。

少なくとも村人の生死には関わらずに済むが、それだけだ。
しかも、それも確実ではない。厳密には関われなくなるのだ。
山神もどきが極寒下においてどれほどの活動が可能なのかは不明瞭だと言うのに。

それでも――逃れる先がない訳ではない。
この世界には、今いる村以外にもう一つ、少なくとも風雪を逃れ得る生活基盤がある。

「……山を登って、雪女達に助けを求める事は出来るかな。どうだろう、天邪鬼。
 少なくともこれから起こる事について、雪女には落ち度があるはずだけど……」

天邪鬼に問いかける。
雪女という自然の象徴たる種族の考えは、ポチには測りかねるからだ。

「もし出来るなら……それが一番安全だよね」

ただし――この提案には二つの欠点があった。
一つは、雪女達がノエルを見て、その正体に勘付く危険性がある事。
もう一つは先述の通り、山神もどきの異形が村を襲う可能性を否定しきれない事。

だがこれらの問題には、容易な解決法があった。
極めて単純で、容易な解決法が。

「……ノエっちだけをここに残してさ」

それが仲間を蔑ろにする選択だとは分かっていた。
山神もどきの異形は弱い。だがこの先ずっと弱いと決まっている訳ではない。
だとしても――ポチの紡ぐ声に、淀みはまるでなかった。

26那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/20(月) 23:15:11
ごんの記憶は、滴る血と共に始まる。

自分の目の前に、二匹の狐が斃れている。――もう息はない。即死だった。
視覚の隅々にまで広がる血の赤。嗅覚につんと突き刺さる、硝煙のにおい。そして――聴覚に響く、何者かの声。

「赤子だあ、おっとう。この狐、どうやら家族だったらしい」

「そうらしいな。仔は捨ておけ、金にならねえ」

「だが、おっとう……」

「猟師がいちいち獲物に同情してちゃ、商売にならねえ。不憫と思うなら殺してやれ」

「……そんなことはできねえ」

「じゃあ、捨ておけ。運がありゃ生き延びるだろう。……行くぞ、夕暮れまでにこいつらを金に換えなきゃ、年も越せねえんだ」

「……わかった」

声の主たちは、鉄砲で仕留めたごんの両親の亡骸を無造作に担ぐと、その場を立ち去った。
ごんは声が出るようになったばかりの咽喉でミーミーと鳴きながら、開いたばかりの目でその光景を見ていることしかできなかった。
だから。

――おっとう、おっかあ……。

ごんは親のぬくもりを知らない。親を想うとき、それはいつだって冷たい骸に変わり果てた肉塊と、真っ赤な血潮だけだった。
ただ、ごんには猟師の言うところの運があった。生まれたばかりで親を喪ったにも拘らず、ごんは生き延びた。
しかし『生き延びること』と『幸福なこと』は必ずしも同義ではない。
むしろ、ごんにとって生とは苦難そのものであった。
狐という獣は群れを作らず、家族単位で生活する。
当然、家族でない者は同種といえど敵である。家族を喪ったごんは常にひとりぼっちで、仲間の狐たちにも爪弾きにされた。
『みなしご狐』『はぐれ狐』と、ごんはことあるごとに狐たちに嘲られた。

――ふん。なんだい、あいつ。ボクより大きいくせに、おっかあに甘えちゃってさ。

仲睦まじい狐の家族を遠巻きに眺めながら、ごんは舌打ちした。
むろん、それが強烈な憧れの裏返しであることは言うまでもない。

――いいな。いいなあ。

ごんはぬくもりに飢えた。それを強烈に欲した。
誰かに構ってほしかったのだ。
ごんはいつしか、人間の村に出没していたずらを繰り返すようになった。村人たちに迷惑をかけるようになった。
たとえ、向けられるものが罵声と憤怒だけだったとしても。
誰かが自分のことを認識してくれれば嬉しかった。ここに自分がいるということを理解してもらえるのなら、幸せだった。
ごんは、善行を成すということ自体を知らなかった。

そんなあるとき、ごんはみゆきに出会った。
山奥でみゆきと出会い、守ると。そう言われたとき、ごんは確かに感じたのだ。
憎まれ、疎まれること以外の絆というものを。――愛というものを。
死と鮮血の過去しかないごんは、そのとき初めて温かなぬくもりというものを知ったのだった。
魂の内部に構築された記憶の世界で、東京ブリーチャーズもそんなごんの想いを感じ取ったことだろう。

――この子は、みゆきちゃんはボクを否定しない。拒絶しない。厭わない……。
――ボクを守ってくれるって。みゆきちゃんは言ってくれた。ボクと一緒にいてくれるって。
――ボクのこと……きっちゃんって。ともだちだって……。

一緒に雪原を駆けまわった。村に下りて、ふたり一緒にいたずらもした。
夜の帳が下りると抱き合って、丸まって眠った。共にいられる限りの時間を、ごんとみゆきは寄り添って過ごした。
自分を見てくれること。声をかけてくれること。
抱きしめ、慈しみ、愛してくれること。
みゆきはごんの欲しくて堪らなかったものを、すべてくれたのだ。

……だから。

27那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/20(月) 23:19:01
パァ―――――――ン……

早朝のひんやりした空気の中に、銃声が響き渡る。
ブリーチャーズの面々が銃声のした場所、兵十の家に向かうと、兵十は土間で呆然と立ち尽くしていた。
その足元には、ごんが倒れ伏している。
火縄銃の弾丸は正確にごんの右眼窩の上あたりに命中していた。頭蓋が砕け、ごんの亡骸の下には血だまりができている。
そして。

そんなごんの作った、妙に鮮やかに見える血だまりの中に、たくさんの松茸や栗が散らばっていた。

「……ごん……」
「……おまえだったのか……。いつも、おれに栗をくれたのは――」

兵十が呆然自失といった様子でつぶやく。
事ここに至り、兵十はすべてを悟った。
ごんがいたずらでうなぎを台無しにしたことを、ずっと悔やんでいたのだということ。
そのせめてもの償いとして、山へ分け入って栗や松茸を採り、毎日せっせと兵十の家へ運んでいたこと――。
山の幸を恵んでくれていたのは、友人の加助が言うような兵十を哀れに思った神さまなんかじゃなかった。
本当の神さまは、ずっとずっと近くにいたのだ。

>そんな……あと少しだったのに……

ノエルが絶望的な面持ちで零す。

>馬鹿やろう……なんだってお前さんはいつも、そうやって……!

尾弐がそれまでのポーカーフェイスを崩し、表情を歪める。
ポチだけが、どこか冷めた表情でごんの亡骸を見詰めている。

>……兵十、もしもお前さんがこの狐の墓を作るつもりなら、俺に手伝わせてくれ
 この狐には、借りがあるんだ……だから、頼む

「お坊さまもごんに借りが……。そうだったのか。そいつあ願ってもねえ、ぜひお願いします」
「ごんのやつ、なんだってこんなこと……。いつも通り、いたずらしてもけろっとしてりゃよかったんだ。引っかかる方がバカだって」
「なんだって……どうして……。今さら改心だなんて、らしくねえじゃねえかよう。ごん……」

尾弐に手伝ってもらい、兵十は小さな盛り土の墓を作る。
墓を作っている間、兵十はずっと泣いていた。何度も何度も『ごん、ごめんなあ、ごめんなあ』と繰り返した。
けれど、もうごんは帰っては来ない。兵十が殺したという過去は変えられない。

だが――

>まだ終わってない。
 この後どういう形で橘音くんになったかは知らないんだけど……近いうちに妖狐として復活するんだと思う。
 きっとチャンスはその時だ――

ノエルが言う。その通り、今目の前で起こっている出来事はすべて過去の記憶。
いわば、よくできた映画のフィルムのようなものだ。だから――この物語には、まだ続きがある。
しかし、それは決して悲しい結末を覆す幸福なエピローグの始まりなどではなくて――

さらなる絶望のとば口だった。

>君はこの後、妖壊になるんだろ。この村は……雪と氷で埋め尽くされるのに

がっくりと肩を落とした兵十がブリーチャーズの勧めで家に帰ると、ポチが状況を俯瞰する視点で告げた。
そうだ。この後、村はごんの死を知ったみゆきの暴走によって氷雪に閉ざされる。
大勢の人が死に、生き残った人々も寒さに凍え、ただただ絶望に慄くしかなくなる。

>天邪鬼……僕らはどうすればいい。村に残るべきなのか?
 そのせいで余計に人を死なせたり、助ける事にならないか?
>正直、僕はここを離れたい。これから、あのクリスの時みたいな吹雪が来るんだろ。
 そんなのがいつまでも続いたら……僕らまで巻き添えになりかねない

《貴様らはこれからこの村に何が起こるのかを知っているのだな。あの雪ん娘が今の雪妖の前身なのだとしたら、むべなるかな》
《貴様らに実体はない。雪崩や吹雪も大丈夫とは思うが、用心に越したことはないな……。それに、だ》
《村が災厄に見舞われれば、貴様らはあらぬ考えを起こしてしまうかもしれん。心では理解していても、身体が動いてしまうやも》
《……クソ坊主が耐え切れず、三尾の墓を作ってしまったようにな》

目の前で人々が危機に瀕し、あるいは死に直面しているのを見れば、ブリーチャーズはそれを助けかねない。
例えそれが過去の映像と分かっていても、身体が咄嗟に動いてしまうかもしれない。せめて兵十だけでも、などと――。
しかし、それは悪手である。一番その過ちを犯しがちな祈が今回ミッションに参加しなかったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。

28那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/20(月) 23:27:26
>……山を登って、雪女達に助けを求める事は出来るかな。どうだろう、天邪鬼。
 少なくともこれから起こる事について、雪女には落ち度があるはずだけど……

《それは難しいな。何度も言うように、これは三尾の心の中。記憶の世界だ》
《つまり――『当時の三尾が認識していた世界』ということだ。この時期、奴はただの子狐に過ぎなかった》
《当然、山奥に雪女の里があったなどということは知らんだろうし、みゆきとやらが雪ん娘だったことも知るまい》

実際の山には雪女の里が確かに存在していたが、現在東京ブリーチャーズがいるのは橘音の記憶の中だ。
当時の橘音に『山の奥には雪女の里がある』という知識がなければ、それが記憶に反映されることもない。
ごんとしての橘音の記憶の中では、郷里の山はあくまでただの雪深い山でしかなかった。
また、ポチが散策した限り、山向こうや川を越えて村の外へ――ということも不可能だった。
ある一定の範囲に踏み出すと、いつの間にか村の入り口に戻ってしまうのである。
これもまた、ごんの生活範囲内のみ世界が構築されているということの証左だった。
山神の出現するポイントも、わからない。
山神は忽然と言うしかないタイミングで出現し、うわごとを呟きながらあてどもなく彷徨していた。

>……ノエっちだけをここに残してさ

ポチがさらに言い募る。それは一見すると仲間を見捨てる酷薄な提案だったが、理に適ってはいた。
ポチや尾弐は災厄の魔物の巻き起こす強力な吹雪に抵抗する術がないが、ノエルにはそれがある。
どんなに猛烈な吹雪の中でも、ノエルだけはこの場に残って何が起こったのかを確かめることができるだろう。

《已むを得ん。ならば、ここは雪妖だけ残って一部始終を見届けるがよかろう》
《クソ坊主と脛擦りは、そうだな。雪女の里に退避はかなわぬので、村の一箇所に結界を作る。そこへ避難しろ》

村全体を結界で守ることは魂のエラーを防ぐ意味でできないが、ごく小さい範囲に人知れず結界を作ることはできる。
今後の行動は決まった。
夜になると、みゆきと姉のクリスがごんを探して山から下りてきた。
ごんの気配が消えていることに気付いたみゆきは森をさ迷い、小さな盛り土の墓を見つけ――

そこで、ごんの死を悟った。
ごんの墓に縋りつき、みゆきは声をあげて泣いた。それは、魂を揺さぶるような慟哭だった。
ごんにとって、みゆきが初めてのともだちだったように。
みゆきにとっても、ごんは――きっちゃんは初めてのともだちだった。かけがえのない親友であったのだ。
たとえ獣であっても、里の住人以外の者とは交わらない。その掟を破ってまで友誼を結んだ、大切な大切なともだち。
それを、人間に奪われた――。
みゆきの怒りが、絶望が、憎しみが、人間へと向くのは当然の成り行きだった。
そして、生まれて初めて抱くそれら負の感情がみゆきに宿る災厄の魔物の力を目覚めさせるトリガーとなる。

「……みゆき……!」

白い着物の袖と長い髪を風雪に嬲られながら、クリスが名を呼ぶ。
みゆきが哭くたびに、その小さな身体を中心にビュウビュウと猛烈な吹雪が吹き荒れる。
それは、同じ雪女であるクリス――そしてみゆきの未来の姿であるノエルさえも寒さを覚えるような凍気。
覚醒した災厄の魔物による、底知れぬ憎悪を含んだ極低温の嵐だった。
村は瞬く間に雪と氷に閉ざされた。
暖を取るあらゆるものはすべて凍り付き、冷気が体力のない女子供や老人の命を容赦なく奪ってゆく。
雪嵐が幾日も続き、人々はゴウゴウと鳴り響く風の中に童女の鳴き声を聞いた。
天邪鬼が使われていない納屋に結界を張り、そこを避難場所としなければ、尾弐とポチも危なかっただろう。
みゆきの嘆きは何ヶ月もの間、一帯を満たした。
そして、みゆきの怒りと悲しみは進退窮まった村人たちの選出した人身御供――橋役様の犠牲によって、ようやく鎮まったのだった。

29那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/21(火) 00:12:44
―――――――――……。

ごんは、冷たく暗い墓の中からその光景を見ていた。

――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
――ボクはただ、幸せになりたかっただけなのに。誰かに見てほしかっただけなのに。
――みゆきちゃんと一緒に、ずっと遊んでいたかっただけなのに。兵十に赦してほしかっただけなのに。
――どうして。どうして……。

兵十はごんの墓を作りながら、我が罪を悔いた。ごんの魂が安らかに眠ってくれることを祈った。
みゆきは慟哭の中で、ごんが生き返ってくれることを願った。それが無理ならばせめて、もう一度だけ会いたいと望んだ。

しかし、ふたりの想いはいずれも叶わなかった。
ごんの魂は救われなかったし、みゆきは二度とごんに会えなかった。
小さな盛り土の墓の奥底で、成仏できないごんの魂がみるみるうちに黒く澱んでいく。

――何もしていないのに。どうしてボクは幸せになれないの?
――他の連中が当たり前のように持っているものを、どうしてボクは持っていないの?
――なんにも贅沢なんて言ってない。ボクはただ、ほんのちょっぴりの幸せが欲しかっただけなのに……。

もし、ごんがみゆきと出会わなかったとしたら、ごんもこんなことは考えなかったかもしれない。
うなぎを遁がしてしまっても、兵十の言った通りにけろっとして、いたずらされる方がバカと言っていただろう。
けれど、ごんは知ってしまった。みゆきと出会ったことで、ぬくもりを。愛されることの幸せを。
だから――当然のように求めた。もっと愛されたいと。ぬくもりが欲しいと。
生まれた直後に喪ったものを取り戻そうと――。

それが、さらなる絶望の始まりであるということに気付きもせずに。

――ボクの周りにいる者は、みんな不幸になっていく。おっとうも、おっかあも、兵十も、みゆきちゃんも……。
――ああ、そうだ。ボクは疫病神だ。ボクが愛したものは、誰も彼も幸せになれない。
――なぜ?どうして?ボクが欲しいと、大切だと思ったものは、何もかもボクから零れていってしまうの……?

魂だけになったごんは、辺り憚らず哭いた。
それは、我が身に訪れた不幸に対する怨嗟であり、そんな境遇に自らを追い込んだ世界に対する憤怒であり――
それを跳ね返し、覆し得ない、弱い自分に対する憎悪であった。

――この世に神さまなんているのかどうかわからないし、興味もないけれど。
――もし、そういうヤツが存在するとして、ボクを疫病神として産み落としたのなら……いいさ。それならその通りにしてやろうとも。
――憎んでやろう、恨んでやろう。このボクの全身と全霊とで、この世界のすべてを呪ってやろう!
――ボクがこんなに不幸なのに、他の連中が幸せになるなんて許さない!何もかも、不幸のどん底に叩き落としてやる!

ごんは強く強く誓った。それは、ちっぽけな子狐が抱くにはあまりにも大きすぎる憎しみだった。
ここはごんの、きっちゃんの……那須野橘音の魂の世界。その声と強い負の願いは、ノエルにも聞こえたことだろう。
そして、そんな祈りを聞きつけた者が、もうひとり――。

「……ク……」
「クカッ、クカカ……。クカカカカカカ……!」

ごんの墓の前に、黒い瘴気が集まってゆく。渦を巻き、うねり、それはやがてひとつの人影を作り出す。
時代にそぐわない血色のシルクハットとマント、嘲り笑う造型の仮面に身を包んだ、異形の怪人。

「自らの境遇に対する怒り。尽きせぬ不幸への嘆き。周囲に対する恨み」
「この墓下にいる者の魂は、深い絶望に満ちている。どれだけ償いたいと願っても、努力しても、そうならなかった憎しみに――」

怪人赤マントはごんの墓の前に佇み、愉快げにそう言った。
赤マントの背後に佇む、全身を包帯でぐるぐるに包んだシルエットが頷く。顔も何もかも判別できないが、体型で女性と分かる。

「この魂は極上だヨ、キミ。この恨み、憎しみ、絶望のパワーを取り込めば、キミのその朽ちかけた肉体もきっと回復するはずサ」
「これから、キミにはたくさん働いて貰わなければならないからネェ。そのためには、創世記戦争で負った傷を癒して貰わなくては」
「怪我の治療には、栄養のあるものを食べるのが一番だヨ!さあ啖いたまえ、アスタロト君!この哀れな魂を!」
「アグロン テタグラム ヴァイケオン スティムラマトン エロハレス レトラグサムマトン クリオラン イキオン――」
「エシティオン エクレスティエン エリオナ オネラ エラシン モイン メッフィアス ソテル エムマヌエル――」
「サバオト アドナイ!我は欲す、まつろわぬ魂よ、いでよ――アーメン!」

赤マントは大きく両手を振り上げると、やがて朗々と呪文を唱え始めた。

30那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/05/21(火) 01:10:01
赤マントの呪文に応じて、墓の中から黒く濁り切った魂が出現する。
それは自らの救われぬ境遇に絶望しきった、ごんの魂。
悪魔にとって負の『そうあれかし』は極上のエネルギーである。赤マントはごんの魂を薬として活用する気でいた。
創世記戦争で負った傷の回復が思わしくなく、衰弱している腹心――地獄の大公アスタロト。
彼女にごんの魂を啖わせ、復活の足掛かりとすいるつもりでいたのだ。

……しかし。

「……こ……、これは……」

そうはならなかった。
あろうことか、ごんの強い願いを内包した魂はあべこべにアスタロトの妖気を吸収し、その力を乗っ取ってしまったのである。
包帯まみれのアスタロトの肉体を内側から突き破って、新しい肉体を持った少女がこの世に新たな生を享ける。
ふさふさした狐耳と尻尾を持った、黒髪の少女。
それは――ノエルの、尾弐の、ポチのよく知る那須野橘音の姿。
現在に繋がる那須野橘音生誕の瞬間だった。
ただ、橘音の顔を見ることはできない。橘音の素顔はなぜか、靄がかかったようにあやふやになっている。

「――クッ!ククッ……クカカ、カカッ……クカカカカカカカ、クカカカカカカカカッ!」
「なんということだろう!たかが一匹の子狐の魂が――衰弱していたとはいえ、生粋の悪魔(デヴィル)の魂を啖ってしまうとは!」
「これは傑作だ!これだから現世は面白い、クカカカカッ!クカカカカカカカカ―――――ッ!!!」

予想外の展開にさしもの赤マントも呆気に取られていたようだったが、すぐにその場を耳障りな哄笑が満たした。
不自然に長い腕を伸ばし、倒れ伏す橘音を軽々と抱き上げる。

「普通にアスタロトが回復するより、よっぽど興味深い!宜しい……キミの無窮の絶望、汲めども尽きぬ怨嗟、吾輩が貰い受けよう!」
「本日只今より、キミが新しい地獄の大公爵・アスタロトとなるのだヨ。キミにたっぷり伝授してあげよう、地獄の叡智をネ!」

赤マントはアスタロトの力を奪い取ったごんを二代目アスタロトとして育て上げることを決めた。
そして、そんな赤マントの宣言と同時――ノエルたちのいる世界がぐにゃり、と歪む。認識が変貌してゆく。
東京ブリーチャーズの三人のいる場所が、足元から希薄になってゆく――。
きっとそれは、橘音にとってこの鄙びた村の記憶がそこまでで終わっている、ということの証左なのだろう。

《場面が転換する……。何が起こるか分からん、全員気を引き締めてゆけ。油断するなよ》

天邪鬼が注意を促す。今までの故郷の村はノエルにややアドバンテージがあったが、これからはそれもない。
今まで以上に慎重に行動する必要があるだろう。
まるでガラスが砕け散るように、ブリーチャーズの周囲に存在していた世界が、景色が、バラバラになってゆく。
代わりに三人の目に飛び込んでくるのは、様々な記憶の断片。
たくさんのフィルムのコマをメチャクチャに羅列したかのように、時系列も場所もちぐはぐの記憶が三人の目の前を通り過ぎてゆく。
クリスとの戦い。陰陽寮。雪の女王との対話――ポチや尾弐と一緒に探偵事務所の中で寛いでいる場面もある。
そして、そんな無数の記憶の奔流を通り抜け、三人が次に辿り着いたのは――この世ならざる場所。


いつ、どこの時代かも知れない、どこかの戦場だった。


分厚い黒雲が、三人の頭を押さえつけるような閉塞感をもって空に立ち込めている。
赤黒い大地に横たわるのは、無数の屍。人間たちの夥しい亡骸がそのまま打ち棄てられ、臭気を放っている。
その中にたったふたりだけ、赤マントと黒髪の少女が佇立しているのを、三人は見るだろう。
赤マントの隣に寄り添うように立っている少女は、肌も露なきわどい水着のような衣装に身を包み、大鎌を携えている。
それはかつて姦姦蛇螺との戦いの際ブリーチャーズが見た、本性を現した橘音の装束に紛れもなかった。

「首尾は上々だネ、アスタロト。キミの働きで今回も多くの人間が死んだ。お手柄だヨ」

赤マントが満足げに頷く。
が、少女は不満そうである。大鎌を肩に担ぐと、目許を隠すゴシック調の半面の奥で眉を顰め、唇を尖らせる。

「えー?ボクは不満ですよう。この程度で終わっちゃうなんて……ボクはもっと。もっともっともっと殺したい。殺し足りない!」

「クカカ……まったく仕事熱心だネ。だが、ここはこれまでだ。次の戦場へ行こう」

「いいですよ。どこでもいい……どの国へ行ったって。人を殺せさえすれば、不幸にできさえすれば……ね」

「さすがは地獄の大公、アスタロト卿。吾輩の自慢の弟子だヨ」

「ウフフ……褒めたってなんにも出ませんよ、ボクにできるのは死体を増やすことだけ。でしょ?お・し・しょ・う・さ・ま!」

にひっ、と少女が笑う。邪悪な笑みだった。それは二人に分かたれた橘音――黒い橘音の浮かべていた笑みによく似ている。
天魔アスタロト。それが、ごんの新たな名前だった。

31御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/22(水) 22:16:26
>「馬鹿やろう……なんだってお前さんはいつも、そうやって……!」

ここまで慎重過ぎるほど慎重で、ごんの前では一切言葉も発しなかった尾弐が土間に踏み入り、ごんの体を抱きかかえていた。
ここに来て突然の大胆な行動に面食らうノエル。

「ちょっと……!」

>「……兵十、もしもお前さんがこの狐の墓を作るつもりなら、俺に手伝わせてくれ」
>「この狐には、借りがあるんだ……だから、頼む」

いきなり出て行ってそんな意味ありげな事を言ったら怪しまれかねない。
そう思ったノエルは慌てて場を取り繕おうとする。

「見回りしてたら銃の音が聞こえたから……。そうそう、この狐には妖怪を倒すのを助けてもらったことがあるんだよね」

真実そのまんまだが、兵十はごんが謎の妖怪にちょっかいを出して気を引いて結果的に手助けになった、と解釈するだろう。

>「お坊さまもごんに借りが……。そうだったのか。そいつあ願ってもねえ、ぜひお願いします」
>「ごんのやつ、なんだってこんなこと……。いつも通り、いたずらしてもけろっとしてりゃよかったんだ。引っかかる方がバカだって」
>「なんだって……どうして……。今さら改心だなんて、らしくねえじゃねえかよう。ごん……」

幸い、兵十はすぐに栗や松茸を持ってきていたのがごんだったと気付いたようで、セーフだったようだ。
どちらにしろ兵十はごんの墓を作るので、それを手伝ったところで橘音の魂がエラーを起こすことはないだろう。
そんな尾弐とは対照的に、ポチは冷静すぎるほど冷静に状況を判断していた。

>「……墓を見張るほどの余裕が、あればいいけどね。だって……」
>「君はこの後、妖壊になるんだろ。この村は……雪と氷で埋め尽くされるのに」
>「天邪鬼……僕らはどうすればいい。村に残るべきなのか?
 そのせいで余計に人を死なせたり、助ける事にならないか?」
>「正直、僕はここを離れたい。これから、あのクリスの時みたいな吹雪が来るんだろ。
 そんなのがいつまでも続いたら……僕らまで巻き添えになりかねない」

「そうだった……! どうしよう……」

――魂とはとても揺らぎ易きもの。強い衝撃を受ければ、そのまま霧散してしまう可能性とてあるのです
当初は協力を渋った易子の言葉が思い出される。
彼女は主に精神的ショックのことを言っていたのだろうが、魂だけという状況がどう作用するかは誰にも分からない。
肉体のある現実世界では寒さに対しても妖怪の屈強さで耐性があるが、魂だけの今はポチは通常の動物並に寒さに弱くなっている可能性だってあるのだ。

>《貴様らはこれからこの村に何が起こるのかを知っているのだな。あの雪ん娘が今の雪妖の前身なのだとしたら、むべなるかな》
>《貴様らに実体はない。雪崩や吹雪も大丈夫とは思うが、用心に越したことはないな……。それに、だ》
>《村が災厄に見舞われれば、貴様らはあらぬ考えを起こしてしまうかもしれん。心では理解していても、身体が動いてしまうやも》
>《……クソ坊主が耐え切れず、三尾の墓を作ってしまったようにな》

32御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/22(水) 22:18:40
>「……山を登って、雪女達に助けを求める事は出来るかな。どうだろう、天邪鬼。
 少なくともこれから起こる事について、雪女には落ち度があるはずだけど……」

>《それは難しいな。何度も言うように、これは三尾の心の中。記憶の世界だ》
>《つまり――『当時の三尾が認識していた世界』ということだ。この時期、奴はただの子狐に過ぎなかった》
>《当然、山奥に雪女の里があったなどということは知らんだろうし、みゆきとやらが雪ん娘だったことも知るまい》

「えっ、知らなかったの!?」

今更ながらに驚くノエル。思えばみゆきときっちゃんはお互いのことを殆ど何も知らなかった。
それでも二人は確かにともだちだったのだ。

>「もし出来るなら……それが一番安全だよね」
>「……ノエっちだけをここに残してさ」

>《已むを得ん。ならば、ここは雪妖だけ残って一部始終を見届けるがよかろう》
>《クソ坊主と脛擦りは、そうだな。雪女の里に退避はかなわぬので、村の一箇所に結界を作る。そこへ避難しろ》

「分かった。危ないから二人は吹雪がおさまるまでは出てこないでね」

もし尾弐が避難を渋ったとしても、真の災厄の魔物の力の危険性を説き強制的に避難させる。
クリスによる猛吹雪は二人とも経験済みだが、クリスは飽くまでも仮の器であった。
本物の災厄の魔物であるみゆきが引き起こす人間への本気の憎悪を込めた吹雪はそれを遥かに凌駕するのだ。
二人を避難させ、気配を殺して墓を見張っていると、みゆきとクリスがやってくる。
いよいよみゆきがきっちゃんの死を悟り、極寒の凍気が辺りを支配する。
止めようなどとしては瞬く間に橘音の魂がエラーを起こす。
触手の妖怪のような外から侵入してきたと思われるイレギュラーが現れない限り、
今の自分に出来ることは再現ドラマの観客に徹するのみだ。

「騙されるな、これは感覚まで再現する超よく出来たバーチャルリアリティだ」

そう自分に言い聞かせながら、最初のうちは吹雪のどさくさに紛れて技の練習などをして気を紛らわせていた。
が、吹雪は数か月続いたので間がもたなくなり、ついに雪の中に寝っ転がって手足を投げ出す。

「――寒いではないかたわけ」

かつての自分に文句を言う。
意識してかせずか、感情の振れ幅が少なく世界を俯瞰できる乃恵瑠の人格が表に出ていた。
ノエルのままでは精神的ショックで消えてしまいかねないためだ。
自分だから寒いで済んでいるが、ポチや尾弐は危なかっただろう。ポチの判断は英断だったとつくづく思う。
やがて意識がまどろみ、夢うつつの中で、まだ幼い少年とみゆきの会話を聞いた気がした。

「――はっ」

がばっと起き上がると、いつの間にか吹雪はやんでみゆきは姿を消していた。

「僕としたことが寝てしまった……!」

単に寝ていたのではなく危うく消えかけていたことは知らぬが仏である。
その原因は寒さそのものというよりも、今では人に与する側になったノエルがかつての自分とはいえ災厄の魔物の剥き出しの憎悪に触れ続けたためだ。

33御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/22(水) 22:19:57
「寝てる間に復活したりしてないよね!?」

慌ててきっちゃんの墓を確かめる。特に何かが這い出てきたような様子は無い。
その時、どこからともなく声が聞こえてきた。

>――どうして、こんなことになっちゃったんだろう。
>――ボクはただ、幸せになりたかっただけなのに。誰かに見てほしかっただけなのに。
>――みゆきちゃんと一緒に、ずっと遊んでいたかっただけなのに。兵十に赦してほしかっただけなのに。
>――どうして。どうして……。

「きっちゃん……?」

>――何もしていないのに。どうしてボクは幸せになれないの?
>――他の連中が当たり前のように持っているものを、どうしてボクは持っていないの?
>――なんにも贅沢なんて言ってない。ボクはただ、ほんのちょっぴりの幸せが欲しかっただけなのに……。

「きっちゃん、ごめん……ごめんね。あの時一緒にいて鰻を逃がすのを止めてれば。
お詫びをしようなんて余計なことを言わなければ。代わりに持って行ってあげてれば……」

幸いというべきか、ノエルの声は墓の奥底のきっちゃんに届くことは無かった。
もしも届こうものなら橘音の魂はすぐにエラーを起こしてしまうだろう。

――ボクの周りにいる者は、みんな不幸になっていく。おっとうも、おっかあも、兵十も、みゆきちゃんも……。
――ああ、そうだ。ボクは疫病神だ。ボクが愛したものは、誰も彼も幸せになれない。
――なぜ?どうして?ボクが欲しいと、大切だと思ったものは、何もかもボクから零れていってしまうの……?

「違うよ。疫病神は僕の方だったんだよ。君は僕を祈ちゃんと引き合わせてその宿命から解放してくれたんだ」

>――この世に神さまなんているのかどうかわからないし、興味もないけれど。
>――もし、そういうヤツが存在するとして、ボクを疫病神として産み落としたのなら……いいさ。それならその通りにしてやろうとも。
>――憎んでやろう、恨んでやろう。このボクの全身と全霊とで、この世界のすべてを呪ってやろう!
>――ボクがこんなに不幸なのに、他の連中が幸せになるなんて許さない!何もかも、不幸のどん底に叩き落としてやる!

「きっちゃん……出会わなければよかったなんて、言わないよ」

――今度は君の運命を覆して見せる。そのためにここに来たのだ。改めてそう決意を固めた時。

>「……ク……」
>「クカッ、クカカ……。クカカカカカカ……!」

聞き覚えのある耳障りな笑い声が聞こえてきて、慌てて身を隠す。

>「自らの境遇に対する怒り。尽きせぬ不幸への嘆き。周囲に対する恨み」
>「この墓下にいる者の魂は、深い絶望に満ちている。どれだけ償いたいと願っても、努力しても、そうならなかった憎しみに――」

赤マントはあろうことか全身包帯の悪魔にきっちゃんの魂を食らわせようとする。
なんてことをしてくれるのだと思うが、そのまま食らわれてしまってはその後の橘音は存在しないはず。
そう思い、事態の行く末を見守る。

34御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/05/22(水) 22:22:04
>「……こ……、これは……」

きっちゃんの魂が衰弱した悪魔を逆に食らい、現在の橘音の原型と思われる少女が生誕したのだった。
しかし顔は何故かあやふやで見えない。
やはりいつも必ず被っている仮面の下には秘密があるということだろう。

>「――クッ!ククッ……クカカ、カカッ……クカカカカカカカ、クカカカカカカカカッ!」
>「なんということだろう!たかが一匹の子狐の魂が――衰弱していたとはいえ、生粋の悪魔(デヴィル)の魂を啖ってしまうとは!」
>「これは傑作だ!これだから現世は面白い、クカカカカッ!クカカカカカカカカ―――――ッ!!!」
>「普通にアスタロトが回復するより、よっぽど興味深い!宜しい……キミの無窮の絶望、汲めども尽きぬ怨嗟、吾輩が貰い受けよう!」
>「本日只今より、キミが新しい地獄の大公爵・アスタロトとなるのだヨ。キミにたっぷり伝授してあげよう、地獄の叡智をネ!」

きっちゃんが妖狐橘音として復活した時がチャンスだとは言ったものの、これではとても出て行ける雰囲気ではない。次の機会を待つべきだろう。
しかし次の機会とは一体いつになるのか――そう思った時だった。突然世界が歪み始める。

>《場面が転換する……。何が起こるか分からん、全員気を引き締めてゆけ。油断するなよ》

「あ、そういうシステム!?」

様々な記憶の断片を潜り抜け、やがて辿り着いたのは、屍累々の戦場だった。
そして、赤マントと、大鎌を携え衣装に身を包んだ橘音――天魔アスタロトとの会話から、この屍の山を築き上げたのは彼女だということが分かる。
凄惨な光景に圧倒されはするものの、過去に人間の屍の山を築き上げたのは自分も同じであるし、
昔天魔の軍勢に属していたという時点で想定できる範囲のことなので、今更動じはしない。
ただきっちゃんの絶望を利用した赤マントに対する怒りは募るのであった。

「あの衣装は赤マントの趣味か……セクハラドスケベ怪人め……!」

そして確かなのは、神符を貼るタイミングはまだ今ではないということだ。
今の橘音はある意味やる気(殺る気)満々で気力に満ち溢れているが、今突撃してまかり間違えて成功してしまってセクシー悪魔黒橘音として復活されても困る。
そこで二人から見えない場所に退避し、思い付いた作戦を披露する。

「これはおそらく橘音くんの人生の重要シーンのダイジェストだ……。
だとしたら、この後何でかは分からないけど何かの拍子に御前の手下になってクロちゃんと組まされるってことだよね?
それなら唯一にして最大の好機がある。恋に落ちた時だ――」

何故か尾弐に向かって大真面目に持論を展開する。

「人間は……多分妖怪も恋に落ちるとバカになるという”かくあれかし”があるらしい。
具体的には世界の全てが輝いて見えたり超前向きなアイドルソングに共感してしまったりするほどに!
いかに頭脳明晰な名探偵橘音くんといえどもその法則からは逃れられない。
その時なら……いきなり見知らぬ怪しい奴が現れて人生は素晴らしいって言い出しても勢いで押し切れる……はず!
名付けて――”恋は盲目作戦”!」

この作戦の唯一にして最大の問題点は、最も橘音の説得に参加したいであろう尾弐が参加できないことだ。
言うまでもなく橘音が恋に落ちる相手は尾弐なのだから。

「でもその時はクロちゃんには隠れといてもらわないといけないんだよね。いい? 我慢できる?」

こうして飽くまでもノエルの中では完璧な作戦が組みあがったが、一抹の不安が頭をよぎる。
結局最初の村で出現していた謎の触手の化け物の正体は分からず仕舞いだったのだ。

「あとは肝心なところで邪魔が入らなければいいんだけど……」

このシーンにこれ以上見るべき場面はないだろうと思い、次の場面転換を待つ。

35尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/27(月) 13:46:35

>「お坊さまもごんに借りが……。そうだったのか。そいつあ願ってもねえ、ぜひお願いします」

那須野の無事を考えれば、尾弐は倒れ伏すごんに駆け寄るべきでは無かった。
墓を建てるのを手伝うなどど口にするべきではなかった。
尾弐にはそれを理解する知能は有していたし、人並の自制心も持ち合わていた。
けれど――――きっと、この時を何度繰り返しても、尾弐は黙って耐える事は出来なかっただろう。

いずれ自身は消え去るから、仲間の幸福の為に耐えよう。
いずれいなくなるのだから、余計な感傷は残さない様にしよう。

かつての尾弐は、そうした自身の消滅という確定した未来を常に抱いていた為、あらゆる物事に一線を引いていた。
だからこそ自己犠牲も厭わず動く事が出来たし、打算のもとに何かを切り捨てる事もしたし、感情のままに怒り狂う事は稀であった。
けれど、今の尾弐は違う。
自分が存在するという未来を手にしてしまった。
共に生きたい。守りたいという物を手にしてしまったのだ。
それは尊いものではあるが、同時に弱さでもある。

未来を手にした事で、冷酷さという牙を、孤独と言う爪を、尾弐黒雄は失ってしまったのだ。
それはさながら、光無き闇夜が月光に恐怖という概念を奪われるかの如く。

……だが、尾弐に自身の行動を後悔している時間は無い。何故なら

>「君はこの後、妖壊になるんだろ。この村は……雪と氷で埋め尽くされるのに」
>《貴様らはこれからこの村に何が起こるのかを知っているのだな。あの雪ん娘が今の雪妖の前身なのだとしたら、むべなるかな》

那須野橘音を巡る物語は此処で終わりでは無いのだから。
これから始まるであろう氷雪の災厄。村を覆い、人々の命までも氷つかせるような大吹雪。
ごんの死を起点として、かつてのノエルによる八寒地獄が再現される事を、尾弐達は知っている。
精神世界であるが故に致命に至らない可能性もあるが……精神の傷は時として肉体をも殺す。

>「……ノエっちだけをここに残してさ」
「ポチ助、お前さんそれは……いや、何でもねぇ。確かに手段としちゃあ真っ当だ。ノエル、すまねぇが」
>「分かった。危ないから二人は吹雪がおさまるまでは出てこないでね」

それを危惧したポチの提言に尾弐は何かを言い掛け、しかし結局口を噤む。

「色男、耐えろよ。古傷は古傷だ。どれだけ痛くても、抉っちまえば血が流れる……だから、耐えろ」

そして、そう言い残してから天邪鬼の指示に乗り結界の中へと身を隠す事としたのであった。

36尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/27(月) 13:47:02
――――そして、災厄の雪が地表を覆う。
森、田、畑、家。そして、人の命さえも。その全てを白く、冷たく塗りつぶしていく。

「……」

老人が死んだ。赤子が死んだ。病人が死んだ。女が死んだ。子供が死んだ。男が死んだ。
仮初とはいえ、己が過ごした村に在ったあらゆる命が凍り付いていった。
尾弐は結界と言う安全地帯の中で、その光景を腕を組み黙って眺め続けた。
途中、結界の目前で老婆が倒れ雪に飲まれていく光景を目にしたが、それでも動く事はなかった。

その姿は機械のように冷静である様に見えるが、胸中はそうではない。
そこには、人々の命を奪ったみゆきの行為に対する怒りと嫌悪が確かに存在していた。
一度人に戻ったとはいえ、悪鬼としての人間や妖壊への怒り……理不尽への怒りは、尾弐の中に未だ根付いている。
那須野を救うという意志と、今のノエルを知っているという事実により抑え込んではいるが、それでも知らず眉間に皺が刻まれる。

そして雪の支配する世界は数か月の間続き――――

>《場面が転換する……。何が起こるか分からん、全員気を引き締めてゆけ。油断するなよ》

やがて、ノエルが目にするアスタロトとしての始まりを起点とし、世界が切り替わる


裁断された絵画の様に、或いは舞い散るキネマのフィルムの様に。
世界が、那須野橘音の記憶の断片が、現れては消えていく。
そこには尾弐の知る光景もあれば、知らない情景もあった。
一瞬か、或いは永き時であったのは定かでは無い。けれど、世界は巡りその果てに。

赤黒い大地の広がる、乾いた荒野が現れた。

37尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/27(月) 13:47:44
「……。何処だ、ここは」

分厚い雲が齎す閉塞感は息苦しさすら感じさせ、立ち込める空気は酷く臭う。
鉄と塩と、肉が腐った臭い……かつて、石牢の如き地下室に漂っていたものと良く似た、懐かしさすら覚える不愉快な臭いであった。
臭いの元を探る様に見渡してみれば、視界に飛び込んで来たのは、そこかしこに転がる人の死体。

(……この場所に、祈の嬢ちゃんがこの場にいなくて良かった。これは、人の子に見せて良いモンじゃねぇ)

怒りと、憎しみと、恐怖と、絶望
物の様に打ち捨てられた死体が浮かべる表情はどれも負の感情に歪んでおり、それだけで此処で無残な戦いが有った事が知れる。
眉間に皺をよせ、自身の首の裏を左手で解しつつ、尾弐は一度息を吐く。その直後

>「首尾は上々だネ、アスタロト。キミの働きで今回も多くの人間が死んだ。お手柄だヨ」

尾弐の耳に声が届いた。それは、尾弐にとって決して忘れ得ぬ声。
赤マント――――尾弐にとっての怨敵の声であった。
その声を耳にした瞬間、尾弐の瞳の色が変容する。白目は漆黒に、瞳は深紅に。
憎悪が人の姿を食い破り、悪鬼としての本性が現れ掛け……

>「えー?ボクは不満ですよう。この程度で終わっちゃうなんて……ボクはもっと。もっともっともっと殺したい。殺し足りない!」

けれど次いで聞こえて来た声に、決して忘れない事を誓うその声に変容を止める。
思わず視線を向けてみれば、そこには……見知った姿。
顔を覆う仮面こそ異なっているが、かつて見たアスタロトとしての那須野橘音が其処に居た。
尾弐は思わず一歩足を動かそうとし……しかし、先の失態を思い出して、意志の力で踏み止まる。
すると、そんな尾弐の耳に赤マントと那須野の言葉が届いた。

>「クカカ……まったく仕事熱心だネ。だが、ここはこれまでだ。次の戦場へ行こう」
>「いいですよ。どこでもいい……どの国へ行ったって。人を殺せさえすれば、不幸にできさえすれば……ね」
>「さすがは地獄の大公、アスタロト卿。吾輩の自慢の弟子だヨ」

それは、殺人の証言。
那須野橘音と赤マントが、この凄惨な戦場を作り上げたという確たる証拠。尾弐の頬に一筋の汗が流れる。
その原因は、恐怖ではない。
怒りだった。
別たれたアスタロトではない。那須野橘音が、自らの意志で人を殺した。
その事実に、尾弐黒雄の人間であった頃の心が確かに怒りの感情を抱いたのだ。

明日を夢見た者も居ただろう。
愛する者を持った者も居ただろう。
帰りを待つ家族を持つ者も居ただろう。
誰かを守りたいと願った者も居ただろう。

だが、その全ては他ならぬ那須野の手によって奪われた。
遊び半分の、快楽目的の悪意によって奪われたのだ。

38尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/05/27(月) 13:48:33
尾弐黒雄は理不尽を嫌う。
己が運命を理不尽な悪意に蹂躙されたが故に、それを齎すモノを嫌悪する。
天魔としての過去を持つという事実から想像はしていた。それでも無条件に赦せるであろうと自認していた。
だが、実際に殺人の光景を目にした事で……その行為を、所業を、許せないと。そう思ってしまった。

表面上は冷静に。言葉にも態度にも現さず。けれど尾弐黒雄は此の光景を確かに胸に刻む。
……と。

>「これはおそらく橘音くんの人生の重要シーンのダイジェストだ……。
>だとしたら、この後何でかは分からないけど何かの拍子に御前の手下になってクロちゃんと組まされるってことだよね?
>それなら唯一にして最大の好機がある。恋に落ちた時だ――」

「……あン?色男、お前さん何を」

不意に放たれたノエルの言葉。一息に吐かれたその言葉の前半こそ真っ当であったが、後半の不可解さに疑問の声を漏らすノエル。

>「人間は……多分妖怪も恋に落ちるとバカになるという”かくあれかし”があるらしい。
>具体的には世界の全てが輝いて見えたり超前向きなアイドルソングに共感してしまったりするほどに!
>いかに頭脳明晰な名探偵橘音くんといえどもその法則からは逃れられない。
>その時なら……いきなり見知らぬ怪しい奴が現れて人生は素晴らしいって言い出しても勢いで押し切れる……はず!
>名付けて――”恋は盲目作戦”!」

だが、そんな尾弐の疑問を解説の要求だと思ったのだろう。ノエルは前のめりに怒涛の説明を付け加える。
その余りのノエりっぷりに尾弐は思わずのけ反り圧されてしまう。

>「でもその時はクロちゃんには隠れといてもらわないといけないんだよね。いい? 我慢できる?」

それでも、このまま圧し切られる訳にもいかないと思いノエルの両肩を押しとどめつ口を開く。

「どうどう、落ち着け色男。お前さんが言いてぇ事はさっぱり判らねぇ……けどまあ、なんとか判ると思い込んでみたとして、だ」
「そもそも、俺と大将は出会った時は互いに印象が悪かったと思うぜ」
「んでもって、暫くしても仲間意識しか持って無かったと思うんだ、が……ああっ、畜生。那須野を助ける為たぁ言え、なんで俺はいい年してこんな事語らにゃならねぇんだ……!」

ノエルの発言と自身の発現に頭を抱えつつ、大きく息を吐いてから尾弐は口を開く。

「……とにかく、だ。自惚れながら言うとして、その状況がどのタイミングかなんて判らねぇ以上は色男の作戦に全賭けするのは危険だって事と、後は……」
「俺が思うに、大将……那須野が一番楽しそうに笑ってたのは、旅館で俺やお前さん達と馬鹿やってた時だって事くらいだ」

困った様に頬を掻きつつも、それでも転がる数多の死体を視界に捕えながら、尾弐はそう告げるのであった

39ポチ ◆CDuTShoToA:2019/06/01(土) 04:50:02
>「ポチ助、お前さんそれは……いや、何でもねぇ。確かに手段としちゃあ真っ当だ。ノエル、すまねぇが」
>《已むを得ん。ならば、ここは雪妖だけ残って一部始終を見届けるがよかろう》
>《クソ坊主と脛擦りは、そうだな。雪女の里に退避はかなわぬので、村の一箇所に結界を作る。そこへ避難しろ》

自分が何を言ったか、ポチは完全に理解している。それは最適な安全策だった。
災厄の吹雪による損害を避け、なおかつ、この精神世界を確実に保つ為の手段。
そして同時に――『獣』となる前の自分なら決して口にしなかっただろう提案だ。

>「分かった。危ないから二人は吹雪がおさまるまでは出てこないでね」
>「色男、耐えろよ。古傷は古傷だ。どれだけ痛くても、抉っちまえば血が流れる……だから、耐えろ」

「……ごめんね、ノエっち。だけど……僕らは万が一にも、失敗しちゃいけない。こうするのが一番安全なんだ」

この謝罪さえも、純粋な罪の意識から生まれたものではない。
同行者との関係を良好に保つ為――そう自分に言い訳をしなければ、己の不義を謝る事すら出来なかった。

ともあれ――吹雪は、日が沈み月が昇ってから、すぐに訪れた。
かけがえのないともだちを喪った少女の慟哭は、氷と風の呪いと化して吹き荒れた。
何もかもが凍りつく大寒波の中で、ポチの嗅覚は殆ど機能しない。
だがそれでも、この村で起きた事を知るのに不便はなかった。
隣家へ助けを乞おうと家を出て、そのまま前後を見失い、村の中で遭難した者がいた。
夜半、密かに家を出て、死を受け入れる老婆もいた。
その老婆が出てきた家は暫しの後、雪の重みに耐え切れず崩れ落ちた。

尾弐はそれらを黙って眺めていた。ポチもそれに倣った。
祈ちゃんはこの光景を見ずに済んで、かえって良かったかもしれないなどと考えながら。
嫌悪も怒りも感じなかった。大して興味が湧かなかった。
あえて言えば、そんな自分に僅かな虚しさを感じ――しかしそれすらもすぐに、『獣』の宿命が抑圧した。

そして災厄の始まりから数ヶ月が経ち、吹雪がやみ、それから程なくして――不意に、周囲の空間が歪み始めた。
世界が形を失い、砕け、記憶の欠片となって周囲に飛散する。
那須野橘音の記憶――ふと、何をするでもなく事務所に皆が集まった、そんな情景が目に映った。
ポチはそれを見上げて――ただ、黙っていた。

>《場面が転換する……。何が起こるか分からん、全員気を引き締めてゆけ。油断するなよ》

そして――新たな世界が顕現される。
黒く塗り潰された空に、血色に染まった大地――それを彩るのは、無数の亡骸。
ポチは反射的に、酔醒籠釣瓶を抜いていた。

>「……。何処だ、ここは」

「……地獄、だったりして」

冗談ではない。那須野橘音――アスタロトは、かつて天魔として生きていた時間がある。
その事をポチは知っている――もっともこの光景を地獄と称するのに、そのような知識の前提は不要だが。

>「首尾は上々だネ、アスタロト。キミの働きで今回も多くの人間が死んだ。お手柄だヨ」

そして、声が聞こえた――忘れる訳も、聞き間違えるはずもない声。
那須野橘音は、狼では、同胞ではない――しかし確かに、仲間だった。
その仲間の命を奪った天魔、赤マントの声だ。
燃え上がるほどの憤怒は生み出せない。
それでもまだ、怒りと憎しみを感じる事は出来た。

「……ちょっと、ちょっと尾弐っち。流石に今度は抑えてくんないと」

とは言えそれらを胸に留める事までは出来なかった。
『獣』の宿命による抑制ではない――単に、自分よりも遥かに強大な憎悪を抱く者が傍にいた為だ。

40ポチ ◆CDuTShoToA:2019/06/01(土) 04:50:36
>「えー?ボクは不満ですよう。この程度で終わっちゃうなんて……ボクはもっと。もっともっともっと殺したい。殺し足りない!」

かつての那須野橘音――アスタロトは、飢えた獣のような貪欲さで叫ぶ。
この地獄めいた光景は、赤マントと――彼女の手によって作り上げられた。
だがその事を知っても、ポチの心に忌避感が生じる事はなかった。
元々、ポチは人間的な正邪の観念は持ち合わせていない。
それに――今となっては、この光景はいずれ、自分も作り出さなくてはならないものだ。

>「これはおそらく橘音くんの人生の重要シーンのダイジェストだ……。
>だとしたら、この後何でかは分からないけど何かの拍子に御前の手下になってクロちゃんと組まされるってことだよね?
>それなら唯一にして最大の好機がある。恋に落ちた時だ――」

>「……あン?色男、お前さん何を」

「ノエっち……こんなこと言いたかないけど、もうちょっとマジメに……」

そうは言いつつも、ポチは途中で口を閉ざす。
もしかしたら本当に何か妙案があるのかもしれない、と。

>「人間は……多分妖怪も恋に落ちるとバカになるという”かくあれかし”があるらしい。
>具体的には世界の全てが輝いて見えたり超前向きなアイドルソングに共感してしまったりするほどに!
>いかに頭脳明晰な名探偵橘音くんといえどもその法則からは逃れられない。
>その時なら……いきなり見知らぬ怪しい奴が現れて人生は素晴らしいって言い出しても勢いで押し切れる……はず!
>名付けて――”恋は盲目作戦”!」

「……もうちょっとマジメに考えようよ」

そして――ノエルの作戦を一通り聞いてから、当初の予定通りの言葉を紡ぎ直した。

>「でもその時はクロちゃんには隠れといてもらわないといけないんだよね。いい? 我慢できる?」
>「どうどう、落ち着け色男。お前さんが言いてぇ事はさっぱり判らねぇ……けどまあ、なんとか判ると思い込んでみたとして、だ」

それから尾弐による、罰ゲームじみた自己分析が述べられた後に、ポチが続ける。

「……そもそもさ、この記憶の世界はどこまで……いつまで続くのかな。
 橘音ちゃんが……死んじゃった、その直前まで?
 それともどこかで……何か、一番大きな記憶に辿り着いて……そこで、魂が壊れるのか」

恐らくは後者ではないか、とポチは考える。
妖怪の魂である以上、それが砕けるのは最も辛い記憶が浮かび上がった時ではないか、と。
しかし、仮にそうではなかったとしても、決して悠長な心構えではいられない。

「どちらにしても……時間は限られてるはずだよね。しかも、結構厳し目な感じで。
 仮に魂が保つとして、この世界の橘音ちゃんが僕らに違和感を覚えたら、おしまいだ」

那須野橘音は、恐ろしく聡い。
つまり――早ければ尾弐と出会い、それなりに気心が知れてきた段階で。
過去と外見の異なるポチに関しては、ブリーチャーズに加入後の時点では確実に、橘音に接触する事すら出来ない。

「これは……狩りと同じだ。見てるだけじゃ、獲物は通り過ぎていっちゃうんだ。
 恋は盲目作戦は置いとくにしても……どこかで、ここだと決めて、勝負を仕掛けなきゃいけない」

そしてそのタイミングの見極めに、獣の感性は通用しない。

「……多分僕よりも二人の方が、その時がいつなのか、分かるはずだから……気を抜かないでね」

それはつまり、己の命運を己で掴む事が出来ないという事。
故にポチの声は――冷たさを帯びるほどに、切実だった。

41那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:22:31
怪人赤マントに拾われたごん――ごんの転生した少女は、天魔として赤マントの庇護下に置かれた。
そして、赤マントの直弟子として彼の持つあらゆる話術、詐術、交渉術を手ずから叩き込まれた。
のちの那須野橘音の考察力、洞察力、探偵力。そのすべては、この時期に培われたものであった。
そして――

「アハッ!アハハハハハッ、アーッハッハッハハッハッハハハハハッハハハ―――ッ!!」

ごん、きっちゃん――二代目アスタロトは赤マントより直伝された能力を遺憾なく発揮し、世界各地の戦場を渡り歩いた。
戦場には不自由しない。世界中に戦いの火種は溢れている。
本来ならば燃え上がることなく消えてしまうさだめの、小さく燻った火種。
それを煽り、焚き付け、何十倍にも大きくして解き放つ。
アスタロトの暗躍によって、起こらずともいい戦争が起こった。憎み合わずともいいはずの人々が憎み合った。
死ぬ運命になかった人々が――大勢、死んだ。

「アハハハハハ……死ね!そう、そうだ!死んでしまえ!何もかも死んで、死んで死んで……まっさらになってしまうがいい!」

どこかの戦場で、その身を鮮血に染めながら、アスタロトが嗤う。
いずれかというと怠惰な天魔七十二将たちの中にあって、その精力的な活動はいっそ奇異にさえ映った。
酸鼻をきわめる光景は、理不尽を憎む尾弐にとっては到底受け入れられるものではないだろう。
いかに、相手が大切な相手だったとしても。

しかし、これこそが現実。過去、確かに起こってしまったこと。
仲間たちにだけは知られたくないと――那須野橘音がひた隠しにしていた、罪の記憶だった。
ノエル、尾弐、ポチの三人は橘音の罪を見る。
橘音が、アスタロトがどれだけの土地でどれだけの人々を争わせ、殺し合わせるように仕向け……そして死なせてきたのか。

しかし。

「……ぅ、ぐ……。なん、だ……?胸が……苦しい……」

この世ならざるどこか。荘厳華麗とは程遠い宮殿の中で、アスタロトは壁に凭れ掛かって右手で胸を押さえた。
汗が顎から滴る。どう見ても健康とは言い難い。
天魔にとって、人々の怨嗟。慟哭。絶望――負の『そうあれかし』は自らの力を増大させる何よりのエネルギー。
報われず死んだ非業の魂を啖えば啖うほど、アスタロトの天魔としての力は強くなるはずなのだ。
実際、数多の魂を啖ったアスタロトの魔力や妖力は今や先代アスタロトの全盛期をも凌駕するほどに高まっている。
というのに、アスタロトの顔色は悪く、その動きは精彩を欠く。
ノエルたちが見ても、著しい体調不良であることは疑いない。

「なんだって……言うんだ……!ボクは……最強の、天魔のはず……なのに……」

壁に背を預けたままずるずるとくずおれ、座り込むアスタロト。
実は、アスタロト自身も――そして赤マントさえも気付かなかったことがひとつある。
確かにごんは先代アスタロトの魂と妖力、そのすべてを啖い、二代目アスタロトとしての強壮な力を手に入れた。
戦えば戦うほど、殺せば殺すほど、その力は高まり地獄の大公の名にふさわしいものとなってゆく。
だが、そんな肉体のグレードアップとは裏腹に、ごんの心は疲弊していく。

そうだ。

この肉体は確かに、初代アスタロトの魂と妖力を奪い取って造り上げた、正真正銘の天魔のもの。
けれど。その天魔の器の中に入っている魂は、かつての子狐ごん――きっちゃんのまま。
人間でさえない小さな狐の魂で、強大すぎる天魔の肉体を制御している。それがどれだけの負担かなど、語るまでもない。
軽自動車のエンジンでダンプカーを動かそうとしているようなものだ。
それは尾弐が人の身で酒呑童子の力を保持していたことや、クリスが雪の女王の力を操っていたことに似た歪みだった。
しかし、アスタロト本人は勿論、周りの天魔たちもそれに気付くことはなかった。
アスタロトは、さらに罪を重ねた。

《このままでは、三尾の魂は遠からず砕けるな》

現実世界からブリーチャーズの動向を監視している天邪鬼が独りごちる。

《脛擦りの言う機会が迫っているのかもしれぬ。生憎、天才のこの私にもその瞬間は見極められん》
《雪妖。クソ坊主。貴様らの目利きに三尾の命がかかっている。わざわざここまで膳立てした私の苦労を無にするなよ》

天邪鬼がそう告げた直後、空間がひび割れ――場面が転換した。

42那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:22:47
「第三次総攻撃は11月26日。当日をもって旅順要塞を陥落せしめ、朝鮮半島近海の制海権を奪取する。諸君の健闘を祈る」

「はっ!」

明治37(1904)年、11月3日。日露戦争・旅順要塞攻囲戦。遼東半島・盤龍山堡塁。
将校たちが慌しく出入りする日本陸軍の兵舎で、軍服に身を包んだアスタロトがほくそ笑む。

「ウフフ……これでまた人が死ぬ。もっと、もっとだ……日本人もロシア人も、すべて死んでしまえばいい……」

軍帽をかぶり、マスカレード状の半面をつけたアスタロトの姿は、那須野橘音によく似ていた。が、違う。
瞳術を巧みに使って人々を幻惑し、組織の中へ潜り込み戦いを扇動するのがアスタロトの常套手段である。
どうやら今は日露戦争に出兵した陸軍将校として潜入し、戦いを煽っているらしい。
ノエル、尾弐、ポチの三人も、いつの間にかアスタロトと同じ陸軍将校の軍服を身に着けている。

《貴様らの外見を調整しておいたぞ。テクスチャを貼り付けただけの見せかけだが、誤魔化しは効くだろう》

三人の頭の中に、天邪鬼の声が響く。場面転換の隙に干渉したらしい。

「すでに塹壕部隊が二竜山と東鶏冠山保塁の直下まで塹壕を掘削完了しています。さらに胸壁と外岸側防を爆破すれば――」
「旅順要塞はま・る・は・だ・か!朝鮮半島近海は我が海軍が押さえ、兵站補給線の確保もばっちり!露助は全滅!」
「おお、大日本帝国万歳!皇国に栄えあれ!ってワケです!アッハッハハハハッ!」
「……ま、露助だけじゃない。日本人にも派手に死んで頂きますけどね……!」

くるりとオーバーアクションで振り返り、アスタロトはノエルたちを含めた配下の将校たちにそう言った。
むろん、配下たちもアスタロトと同じ悪魔である。
すでに日本陸軍の中にはアスタロトの手引きで多数の悪魔が紛れ込んでいる。
悪魔たちが巧みに立ち回り、戦火をさらに拡大させていたのだ。
既に旅順要塞攻略には二度の総攻撃を行っている。死者は日本・ロシアを合わせて二万人、負傷者に至っては五万人を超える。
そして、おそらくこれが最後になるであろう第三次総攻撃では、一次・二次を上回る死傷者が出ることは間違いなかった。

「最後に、旅順で大きな花火を上げて。それから次に行くとしましょうか……フフ、ウフフ……ぐッ」

一頻り楽しげに言うと、アスタロトは俄かに苦しそうな表情を浮かべて胸を押さえた。

「心配、いりませんよ……。ただの持病の癪です……。薬を飲めば、すぐに……」

よろよろと執務机に歩いていくと、置いてあった薬の小瓶を取って蓋を取り、錠剤を数を確かめもせず口に放り込む。
ただの鎮痛剤だ。根本的な治療には程遠い。――本人も痛みの原因が分かっていないのだから無理もない。
薬を飲んで落ち着いたのか、アスタロトは四肢を投げ出して革張りの椅子に座ると天井を仰ぎ、息をついた。

「ふー……。さあ、忙しくなりますよ……。ボクはもっともっと殺すんだ。もっともっともっと……」
「誰も幸福になんてさせない。誰にも幸せだなんて言わせない。みんな不幸になればいい、絶望すればいい――」
「このボクのようにね……うふッ、ふふふ、フフフフフフフ……!」

負の怨念に凝り固まった笑みを漏らすと、アスタロトはノエルたちを一瞥した。そしてひらひらと右手を振る。

「……少し休みます。アナタたちは第三次総攻撃に備え、兵站の再点検を。いいですね」

そう言うと、アスタロトは組んだ両手を腹の上に乗せて目を閉じた。



地獄の大公は夢を見る。
それは、遠い昔の記憶。何十年も昔のできごと。
生涯に唯一の、かけがえのないともだちと遊んだ思い出。

――みゆきちゃん……。

同族の狐たちに疎まれ、人間の村で罵られ。
ひとりぼっちだった自分に、初めて手を差し伸べてくれた――大切なともだち。
幸せだった。楽しかった。彼女が傍にいてくれれば、なにも寂しくなんてなかった。満ち足りていた。
でも。
その幸せはもう、手の中にはない。壊れ、霞んで、消えてしまった。
みゆきが狂乱し、妖壊へと堕ちてゆく一部始終を、アスタロトは見ていた。

――兵十。

アスタロトは罪を償うことが出来なかった。アスタロトの努力は、献身は兵十には伝わらず、すべては無為に終わった。
自分が死に、みゆきが氷嵐を巻き起こした後の兵十の消息を、アスタロトは知らない。
みゆきの吹雪によって命を落としたのか、それとも生き残ったのか。
けれど、それはさして問題ではない。大事なのは、結局アスタロトのしたことは無意味だったということ。
兵十に償いたいと、みゆきに相談したことも。ふたりで栗や松茸を拾ったことも。
『ごめんなさい』と言いたかったのに、結局言い出せなかったことも――すべてすべて、なんの福音も齎さなかったということ。

自分は幸福になんてなれない、ということ。

43那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:23:13
11月26日、13時。陸軍第一師団左翼隊が外壕より松寿山堡塁に進軍したのを皮切りに、第三次総攻撃が始まった。
が、日本軍の行動を想定していたロシア軍の迎撃によって壊滅的打撃を受け、他方攻略軍の第九師団、第十一師団も大打撃を被った。
劣勢を挽回すべく、参謀本部は決死隊(後世に言う白襷隊)を結成。玉砕覚悟で埒を明けようとしたが、これも失敗。
白襷隊の総勢3100余名のうち、大半が戦死した。
言うまでもなく、これもアスタロトの謀略である。アスタロトは事前に総攻撃の情報をロシア軍にリークし、対策をさせていた。
旅順攻撃軍司令官の乃木希典大将に決死隊の編成を進言し、大損害を出したのも、アスタロトの息のかかった将官である。

「フ。フフ――アッハハハハハハハッ!!イイですよ……イイ!実にイイ!アハハ……アーッハッハッハハッハハ――!!」

アスタロトは背を仰け反らせて哄笑した。
戦いを終わらせる必要などない。戦いが長引けば長引くほど、負傷者が出る。死者が出る。
死は一番手っ取り早い不幸だ。数を重ねれば重ねるほど、不幸の濃度は加速度的に増してゆく。
従軍した日本人の、ロシア人の、数多の絶望に染まった魂を吸収し、アスタロトは力を蓄えてゆく。
そして、自己の魂を疲弊させてゆく。多くの人々の怨嗟が、憤怒が、慟哭が――アスタロトの、否。きっちゃんの魂を蝕んでゆく。

「ハハ……あぁ、イイ気分だ……。ハ、ハ、ハハ……」

前屈みになり、軍服の胸元をぎゅっと握りしめながら、苦悶の表情でそれでも嗤う。
まるで、笑うことが義務だとでも言うように。

――ボクは。いったい何をしているんだろう?
――こんなに人を殺して、いったい何になるっていうんだろう?

続々と手許に届く戦果報告、死傷者の数を目の当たりにしながら、アスタロトは考える。

――みんなを不幸にしたところで、ボクが幸せになれるわけじゃないのに。ボクと同じ境遇の存在が増えるだけなのに。
――ボクは、仲間が欲しいの?不幸を分かち合える仲間が……ううん、そうじゃない。そんなのいらない。
――ボクの不幸は、ボクだけのもの。ボクだけの傷……。誰にも理解なんてできないし、理解してもらおうとも思わない……。

いわゆる仲間という存在なら、アスタロトには天魔たちがいる。
むろん、彼らは悪魔だ。みな自分の目論見があり、それに従って同盟しているだけだ。そこに信頼や愛情などはない。
師である赤マントさえ、それは同じだろう。赤マントはただ、アスタロトを利用しているだけに過ぎない。
アスタロトもそれを知っている。だから、赤マントを信用してなどいない。恩義はあるが、それだけだ。
ならば、なぜ。

「中佐殿、乃木将軍閣下より電報。攻撃目標を旅順要塞正面より203高地へ変更せよとのこと」

「ん……」

配下に呼ばれ、アスタロトはすぐに思考を打ち切った。

「愚鈍な将軍でもやっと気付きましたか。要塞相手に正面突破なんて下策も下策、ましてこっちには攻城戦の知識も経験もない」
「ま……ボクがそうなるように仕向けたんですけどね!ともかく、これからがメインディッシュだ……行きますよ」

くす、と嗤うと、アスタロトの纏っている陸軍の軍服が一瞬で露出度の高い天魔の衣装に変わる。
同時に、控えていた天魔の将校たちも本来の異形へと立ち戻る。中には、かつてブリーチャーズが倒した天魔オセたちもいる。

「将兵が疲弊しきった今となっては、ボクたちが本来の姿で殺戮を開始したとしても誰ひとりそれを事実と認識できない」
「すべては戦場の昂揚と絶望、死臭と硝煙とが見せた幻影――ということになる――!さあ、皆さん。存分に殺しなさい!」
「我らは天魔!地獄より来たりて、地獄へと還る者!死を撒け、殺せ!すべての人間に絶望を――!!」

大鎌の柄を両手で握ると、アスタロトは背に生えた蝙蝠の翼を一打ちして一気に兵舎の外へと飛び出した。
配下の天魔たちもそれに続く。何も知らない人間の将兵たちの頭上を飛び越え、203高地に到着すると、アスタロトは大鎌を揮った。
その巨大な刃が標的とするのは、ロシア兵だけではない。部下であるはずの日本兵をも、目につき次第手に掛けてゆく。
まさに虐殺。殺戮。殲滅――踊るように、舞うように、アスタロトは縦横無尽に戦場を翔けた。
配下の天魔たちもそれに倣う。オセがサーベルでロシア兵たちを次々に串刺しにしてゆく。
シャクスが高速回転し、敵味方を問わず轢断する。ヴァサゴが巨大な鰐の口で人間たちを貪り喰らう。

「アハッ!アハハハハハッ……アーッハッハッハッハッハッハッハ――――――ッ!!!」

闘いは熾烈を極め、日本軍の戦死者は5052名、負傷者11884名となった。
また、ロシア軍も戦死者5380名、負傷者12000名という大損害を出し、203高地攻撃戦は日露戦争最大の激戦地となった。
その中の少なからぬ人数が天魔の手にかかったのは言うまでもない。

44那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:23:30
「ハハハ……、アハハハハ!やった!やったぞ、大成功だ!さすがはボク!アハハ……アハッ、ハハハハ……」

鉄のにおいと、血のにおい。死のにおいに満ちた戦場で、アスタロトが嗤っている。
屍山血河とはこのことだ。周囲は夥しい数の死体で溢れ、視界に映るどこを見ても屍が転がっていない場所はない。
戦いはアスタロトの望み通りに推移している。しかも、戦争はまだ終わってはいない。死者はこれからも増え続けるだろう。

だが。

「……ハハ……ハ、ハハハ……は……」

アスタロトの胸に去来するのは、自分の策が上手く行ったことへの達成感や充実感ではなかった。
ただ、虚脱感のみがぽっかりと胸に穴を穿っている。
目の前に広がる、他でもない自分自身が生み出した凄惨な戦場を、アスタロトは半ば呆然と眺めた。

――これは、何?
――これは、誰が作ったの?ボクが?ボクが作ったの……?何のために?

胸中で自問する。が、答えは出ない。

「ク……。ぃ、た……」

ずきり、と胸の奥が痛む。錆び付いた心が軋む。
アスタロトは顔を歪め、胸を押さえながら、まるで夢遊病者のようにあてどもなく歩き始めた。
大鎌を杖代わりに、地獄の大公がふらふらと戦場を彷徨する。

「……これは……」

ふと、アスタロトは足許に倒れている将兵の亡骸の胸元から何かが落ちているのに気付いた。
手のひらに収まりそうな、小さな紙片。それは一葉の写真だった。

「――――――ぁ――――――」

写真に写っていたのは、一頭の犬に抱き付いた幼い少女。
行儀よく座った犬の首に、小さな少女が幸せそうに顔を埋めた写真だった。
きっと、この死んだ将兵の家族なのだろう。戦地へ赴くに当たって、あらかじめ記念として撮ったものだろうか。
縁もゆかりもない、誰なのかも知らない、赤の他人。たまたま拾っただけの写真。
けれどその写真に写ったものは、アスタロトの埋没していた記憶を呼び起こさせるには充分な力を持っていた。

「……みゆき……ちゃ……」

まだ狐だったころの自分に抱き付き、思う存分毛皮をモフモフして。
温かいね。幸せだね。そう言って微笑んでくれた、大切な大切なともだち――

「ぅ……」

突然、足元でうめき声が聞こえた。
見れば、てっきり死体だと思っていた将兵がぴくりと身じろぎする。どうやら、負傷しただけで死んではいなかったらしい。

「た……、助け……て……」

「くっ!」

兵士がうっすらと目を開き、アスタロトへ向けて震える右手を伸ばす。アスタロトは反射的に大鎌を振り上げた。
が、できない。大鎌を振り下ろすことができない。――殺せない。
アスタロトは大鎌を大上段に構えたままで固まってしまった。
この兵士には家族がいて。あの犬も、幼な児も、きっと彼のことを待っているのだろう。
それを、奪う。彼の家族を悲しませる。絶望のどん底に叩き落とす――。
今まで葦を刈るように無造作にやってきたこと。野辺の花を手折るように容易く成し遂げてきたこと。
なぜか、それができない。

「……ボ……、ボクは……。ボク、は――」

瀕死の兵士を見下ろしながら、アスタロトは震えた。

――ボクは今まで、何をやってきたんだ――?

もう一度自問する。けれど、今まで繰り返してきて出なかった答えが突然導き出されるはずもない。
そして。

「何をやっているのかネ?アスタロト」

救いとは対極に位置するその声は、背後から聞こえた。

45那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:25:32
「お師――」

「なんだ、誰かと思えば……誰でもない、単なる名無しの雑兵じゃないかネ。何を躊躇っているのかネ?アスタロト」

いつの間に現れたのか、赤マントがアスタロトの背後から長身を乗り出すようにして兵士を見下ろす。
しばらく値踏みするように瀕死のその姿を眺めてから、顎をしゃくる。

「まだ生きてる。殺し損ねるとは珍しい……どうしたのかネ?早く殺したまえヨ。それとも殺し疲れたのかネ」

「……ボ……、ボクは……」

「それとも、何かネ?良心が咎める……とでも?その写真を見て、仏心が芽生えたとでも言うのかネ……?」

ねとり、と音が聞こえてきそうなほど粘着質に、赤マントがそう訊ねては顔を覗き込んでくる。
そうだ。それまでは、人間を殺すことに何の感慨も抱いたことはなかったのに。
ただ、人間という物質だとしか考えなかったというのに。
あの写真を見て、アスタロトは理解してしまった。遠い遠い昔を思い出してしまった。
人間はただの物質なんかじゃない。待っている家族がいて、愛する人がいて、守りたい相手がいて――
それは。かつて自分――きっちゃんも同様だったということを。

「ああ、そんなワケはないよネェ。何せ、キミは天魔アスタロト。吾輩の弟子、地獄の大公だ。慈悲の心などあるはずがない!」
「もしも、殺し方を忘れたということなら……幸いだヨ、キミ。この吾輩が、もう一度殺し方というものを教えてあげよう――!」

「やめ――――」

ドッ!!

アスタロトが止めようと口を開くも、遅い。
赤マントの右手の人差し指が不意に長く伸びると、それは倒れた兵士の胸に槍のように突き刺さった。

「ぁ、が……」

兵士が目を見開く。ごぷ、とその口許から血が溢れる。

「クッ、クカカカカカカッ!こうだヨ、こう!ちゃんと見ていたまえ、アスタロト!」

どすっ!ぐぢゅっ!づぶっ!

「お師っ、お師匠、さま……!お師匠さ、やめッ、やめて――」

「いい感触だ!人間という肉饅頭には、この程度の価値しかない!血を吐き、のたうち回って我々天魔を楽しませるくらいしか!」
「ほぉ〜ら、痛いかネ?もっとだ、もっともっともっと!もっと苦しみたまえヨ……絶望を吐き出すがいい!クカカッ!」

アスタロトが泣いて縋りついても、赤マントは兵士を嬲るのをやめない。

「やめて……!やめてください……!やめて、やめてッ……やめ――」

「クカカカカッ!死ね!死にたまえ、神の造った醜い生き物!諸君こそ地獄へ堕ちるのが相応しい!そぉーら……」

「やめ……て……!」

血色の外套にしがみつきながら、アスタロトは赤マントを見上げた。
どんな目論見の上であれ、赤マントは自分を助けてくれた。絶望の淵から救い上げてくれた。
あらゆる交渉術を伝授してくれた恩もあるし、少なからず尊敬してもいる。
しかし、今のこの姿だけは見るに堪えない。到底看過できない。――醜悪で、見苦しくて、何よりおぞましい。
それが、つい数刻前までアスタロト自身のしていた行為と同じものだったとしても。

「…………やめろォォォォォ――――――――――――――ッ!!!!」

びゅおっ!!

アスタロトは絶叫した。そして歯を強く食い縛ると、愛用の大鎌を赤マントへ向けて一閃した。
しかし、赤マントには当たらない。真紅のいでたちの怪人は身軽に後方へと跳躍していた。

「……何のつもりかネ……?」

底冷えのする声音で、赤マントは問うた。

46那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:25:51
「……ボ……」
「……ボクは……何をした、んだ……?」

自らの行為を咄嗟に認識できず、アスタロトは呆然と呟いた。
赤マントが一歩を踏み出す。それに反応し、アスタロトもまた無意識に大鎌を構える。

「混乱しているようだネ……。あまりにも人を殺しすぎて、死の気配に当てられたか……まだまだ経験が足りないということだ」

「経験……だって……?」

「そうサ。転生して数十年しか経っていないキミには、殺しの経験が圧倒的に足りない」
「我々天魔は紀元前から人を殺し続けてきた。幾千万、幾億もの人間をネ!キミにも早く我々に追いついて貰いたいのだヨ」
「そのためには、もっともっと!もっと人を殺すしかない!食事をするように、睡眠を取るように、息を吸うように自然に!」
「この戦争はそのレッスンなのサ。日露戦争とは、吾輩がキミのために用意したカリキュラムのようなもの――」

赤マントは大きく両手を広げると、朗々と言葉を紡ぐ。

「日露戦争だけじゃない。日清戦争も、南北戦争も、クリミア戦争も!すべてキミのために吾輩が用意したテキストなのだヨ!」

殺戮の講義。天魔として独り立ちするための英才教育。
どれも決して小さな戦争ではない。何千、何万もの人間が死んだ。

「それを忘れたわけじゃあるまいネ?そして、キミは吾輩の期待に応えた。どの戦争も素晴らしい成果だったヨ!」

赤マントが戦争を勃発させ、アスタロトが戦火を拡大する。
たくさんの人間が死んだ。その縁者が、家族が、不幸になった。理不尽な不幸にもがき、苦しみ、絶望した。
……すべて、アスタロトがやった。

「……ぅ……、うぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」

「キミにはもう選択肢などない。天魔として、破滅と絶望を振り撒く生の他にはネ!さあ……次の戦場に行くヨ?」

慟哭するアスタロトに背を向け、赤マントは立ち去ろうとした。しかし、アスタロトは動かない。
足許を見る。――兵士はすでに死んでいた。
大きく見開かれた双眸から、涙が一条伝って頬へと落ちている。きっと絶望して死んだのだろう。
それを止められなかったのは、自分だ。

「……行かない」

「なに?なんだって?」

「行かない……!ボクは……もううんざりだ……!人を殺すのも、不幸にするのも……」

「何を今さら。キミはもう数えきれないほどの人を殺め、不幸にしてきた!後戻りなどはできないのだヨ?」

「それでも。……それでもだ!ボクはもう殺さない、不幸になんて……したくない……!」

「聞き分けのないことを――」

苛立ちを覚えたらしく、赤マントが不自然に長い右腕を伸ばす。
が、アスタロトの胸ぐらを掴みあげようとした途端、その手首から先が消し飛んだ。アスタロトが妖気で吹き飛ばしたのだ。

「うるさいッ!」

「……チ……。自分が何を言っているのか、理解しているのかネ?それは我ら天魔への造反だヨ?」

吹き飛ばされた手首の先から、新たな手が瞬く間に再生する。赤マントは忌々しそうに問うた。
しかし、アスタロトの決意は変わらない。

「ボクは天魔を抜ける。もうアンタたちの仲間なんかじゃない!」

「ほう。じゃあ、何になるというのかネ……?天魔でない、といって狐でもない。となれば……?」

「……ボクは……!」

そんな答え、咄嗟に出せるわけがない。
アスタロトは瞬く間に戦場から姿を消した。否、人間の戦争という歴史から姿を消した。
兵士の持っていた、犬に抱き付く少女の写真。一葉のそれだけを持って。

47那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:26:07
それから先は、どこをどう彷徨ったのか自分でもわからない。
どこでもよかった。胸を灼くこの想いから、絶望から逃れられるのなら。腰を落ち着けられるのなら。
罪の意識から逃れることができるなら――。
しかし、そんな場所はどこにもなかった。天魔という仮初めの仲間を拒絶し、アスタロト――きっちゃんはまた独りになった。
天魔として活動していた頃は何とも思わなかった感情が、重く心にのしかかってくる。
それは、罪悪感という感情だった。

――ボクは間違えた。
――やり方を間違えた。生き方を間違えた。何もかも……ボクのしてきたことは、間違いばかりだった……。

誰かを不幸にすれば、自分の不幸は和らぐと思っていた。
誰かを殺せば、非業の死を遂げた自分の命も有意義なものになると思っていた。
誰かを絶望させれば、この絶望から逃れられると思った――。

そんなことは、なかった。

込み上げるのは後悔。悔恨、慙愧、忸怩。
できることなら、なかったことにしたい。全部リセットして、なかったことにしてしまいたい。
でも、いかに絶大な魔力と妖力を持つ地獄の大公でもそんなことはできない。
転生して以降、いや子狐だったころを合わせても感じたことのない絶望に打ちひしがれながら、アスタロトはあてどもなく歩く。
人里離れたどこかの山中で、雪の上に両膝を突いたアスタロトは一心に願った。

――もし、この世界に神というものがいるのなら。この世に万能の力を持つ化生がいるのなら。
――どうかどうか、ボクの願いを叶えてください――。

まるで、敬虔な信徒のように。アスタロトはただただ、形ない何かへ向けて空に祈り続けた。
アスタロトが願ったことなど、今までただのひとつも叶ったことがないというのに。

だが。

「その願い、わらわちゃんが叶えてあげまっしょーいっ!」

その声だけは、天に届いた。
いや、天かどうかは分からない。なぜなら、声に応えたその存在が住まうのは、天などではないからである。
ただ、天に存在すると言われている神に匹敵する力を持つ存在だということだけは確かだ。
その存在の名は――白面金毛九尾の狐。
御前と呼ばれる、妖狐一族の長であった。

「その耳に尻尾……わらわちゃんの眷属?じゃないみたいだけど……まぁいっか!どっちみち狐ならわらわちゃんの遠縁だしー!」
「それに、狐でおまけに悪魔の力を持ってるとか……ちょォーっと興味あるもんね。なんでそなたちゃんみたいなのが生まれたか」

まるで蓬莱の仙女のような羽衣と着物に身を包んだ少女、御前は目を細めてくひひっ、と悪戯っぽく笑った。

「……アナタ、は……?」

「わらわちゃんは玉藻ちゃん!そなたちゃんの願いを叶えてあげるよ、もちろんタダじゃナイけど。ささ、望みを言ってごらーん?」

「ボ……、ボクは……。ボクの願い、は――」

アスタロトは唇をわななかせた。
善かれと思ってやったことは、すべて裏目に出た。幸せにしたいと思った者たちは、みな不幸になった。
自分のやったことは無為だった。なんの意味もなかった。自分の生とはただただ、人々に害を及ぼすだけだった。
何もかもを巻き戻したい。戦争に加担し人を殺戮したことも、天魔になったことも、撃ち殺されたことも。
兵十にいたずらをしたことも、みゆきと出会ったことも。自分の生誕の、最初の最初まで。
今まで自分がやってきたことを、すべて起こらなかったことにしてしまいたい――。

だから、……だから。

「ボクを……リセットしてください……」

ただの獣なら。天魔の力を持つ、地獄の大公の二代目なんかではなくて。
なにも思い悩まない、ただ一匹の孤独な狐だったころに戻れたなら。

「ボクは、ボクをやり直したい……。何もかも忘れて、ただの獣に戻りたい……!」

アスタロトはただそれだけを御前に乞うた。
ぐっ、と御前が右手の親指を立てる。

「いっえーっす!その願い、叶えてあげましょー!」
「その代わり。そなたちゃんには働いてもらうケドね……!」

アスタロトに否やはない。すぐにアスタロトは御前と契約した。
天魔の一翼、地獄の大公アスタロトの名を棄て、御前から与えられた新たな名――那須野橘音を名乗って。
帝都の狐面探偵が、ここに誕生したのだ。

48那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/06(木) 21:26:21
西洋文化と日本文化が混ざり合い、近代化の大きなうねりの中に人々が翻弄される時代、大正。
そんな和洋折衷の時代、帝都に突然現れた狐面探偵の名は瞬く間に人口に膾炙した。
文化の華やかさとは裏腹に、その世相は暗い。帝都では毎日のように陰惨、凄惨な事件が起こった。
しかし、狐面探偵が現れてからはそんな事件の頻度も減少している。

「ズバリ!犯人はアナタだ!!」

黒い学帽に学生服、マント姿――ノエルたちにも見慣れた姿の橘音が、殺人事件の真犯人を的中させる。
御前の、妖狐一族のバックアップを受けた橘音は帝都でめきめきと頭角を現し、有名人となった。
といっても本業は人間相手の探偵ではない。帝都に出没し、人々に害を及ぼす妖壊の漂白――それが主な仕事である。
落成直後の劇場で尾弐黒雄と巡り合ったのもこの時期だった。ふたりは反目し合いながらも、徐々に信頼を積み上げてゆく。

《だいぶ、今に近付いてきたな……。終わりが近いようだ》

天邪鬼が呟く。
当初、尾弐とふたりで行っていた漂白稼業に、祈の母親である颯が加わる。その後を追うように、晴陽が仲間に入る。
そのふたりが姦姦蛇螺封印のために脱落し、橘音と尾弐は悲しみに打ちひしがれる。
だが、大切な仲間を喪った悲しみにいつまでも沈んではいられない。妖壊は次から次へと絶え間なく現れる。
そして――雪の女王の力を奪い現れた、クリスとの戦い。

――みゆきちゃんの……力だ……。

甚大な被害を受けながらも、橘音はクリスを退けた。
その後、橘音は雪の女王の里に呼ばれ、ノエルを保護してほしいと持ち掛けられる。
ノエルが記憶を封印し、外見さえも変えられたみゆきであるということは知っていた。
しかし、もう二度と接触するまいと、関与するまいと思っていた存在の保護を頼まれるとは――。

本当は、断りたかった。でも、できなかった。
それはきっと、まだ自分とみゆきはともだちだと……そう思っていたかったからなのだろう。
死によって一度断絶した、ふたりの絆。
あまりにも多すぎる出来事によって、すっかり遠くなってしまったふたりの距離。
でも。もしもそれをもう一度、やり直すことができたなら――。

――ああ。そうだ、そうだね。
――キミが望むのなら、望んだ数だけ。願ったのなら、願った数だけ。ボクはずっとそれを叶えてきたんだ。
――どれほどの年月が経っても。姿や魂が変わってしまっても。それは、それだけは変わらない。
――キミとボクは、ともだちだってこと……。
――それで。いいんだよね、みゆきちゃん。

橘音は雪の女王の依頼を受け、雑居ビルの一階へと向かった。
少し前までテナント募集の張り紙の貼ってあったそこは、すっかり若い女性向けのフローズンスイーツショップへ変わっていた。
その名は『SnowWhite』。季節外れということもあり、まだ開店して一人の客も入っていないようだった。
ドアを開き、カラン、とベルの音を鳴らす。カウンターで手持無沙汰にしていた青年が、弾かれたように立ち上がる。
橘音は学帽のつばに触れて軽く会釈すると、

「やあ、こんにちは!アナタがノエルさんですか?同じビルの入居者として、ご挨拶に来ました!」

と、明るく笑いながら言った。



ごんを、きっちゃんを、アスタロトを――そして那須野橘音を辿る旅の記憶は、そこで終わりだった。

49御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/07(金) 23:46:24
>「……もうちょっとマジメに考えようよ」

「これでも真面目に考えてるんだけど!? それじゃあポチ君も何か案出してよ〜!」

興奮したノエルはポチの肩をつかんでがくがくゆする。

>「どうどう、落ち着け色男。お前さんが言いてぇ事はさっぱり判らねぇ……けどまあ、なんとか判ると思い込んでみたとして、だ」
>「そもそも、俺と大将は出会った時は互いに印象が悪かったと思うぜ」
>「んでもって、暫くしても仲間意識しか持って無かったと思うんだ、が……ああっ、畜生。那須野を助ける為たぁ言え、なんで俺はいい年してこんな事語らにゃならねぇんだ……!」
>「……とにかく、だ。自惚れながら言うとして、その状況がどのタイミングかなんて判らねぇ以上は色男の作戦に全賭けするのは危険だって事と、後は……」
>「俺が思うに、大将……那須野が一番楽しそうに笑ってたのは、旅館で俺やお前さん達と馬鹿やってた時だって事くらいだ」

「もしかして最悪の出会いかーらーのーって王道パターン?
でもいつがその時だったか分かんないの? 困ったなあ……。
付き合いが長いクロちゃんから見ても一番楽しそうだったのがそこかぁ。
僕達全員登場して以降は接触できないからアウトだし……」

>「……そもそもさ、この記憶の世界はどこまで……いつまで続くのかな。
 橘音ちゃんが……死んじゃった、その直前まで?
 それともどこかで……何か、一番大きな記憶に辿り着いて……そこで、魂が壊れるのか」
>「どちらにしても……時間は限られてるはずだよね。しかも、結構厳し目な感じで。
 仮に魂が保つとして、この世界の橘音ちゃんが僕らに違和感を覚えたら、おしまいだ」
>「これは……狩りと同じだ。見てるだけじゃ、獲物は通り過ぎていっちゃうんだ。
 恋は盲目作戦は置いとくにしても……どこかで、ここだと決めて、勝負を仕掛けなきゃいけない」
>「……多分僕よりも二人の方が、その時がいつなのか、分かるはずだから……気を抜かないでね」

「それはどうかな? 君の嗅覚って感情の匂いも分かるんでしょ? タイミングを見極めるのに役に立つかも」

尤も、嗅覚は肉体に強く依存するもの。
ここは魂だけの世界なので、どこまでその能力が発揮できるかどうかは分からないのだが。
会議は踊る、されど進まず――そうしている間にも、場面は次々と移り変わっていく。
アスタロトが世界各地の戦場を渡り歩き、屍の山を築いていく。

>「アハッ!アハハハハハッ、アーッハッハッハハッハッハハハハハッハハハ―――ッ!!」
>「アハハハハハ……死ね!そう、そうだ!死んでしまえ!何もかも死んで、死んで死んで……まっさらになってしまうがいい!」

そのあまりの苛烈さに、畏怖と哀しみを覚えこそすれ、橘音に対する嫌悪は無い。
精霊系妖怪など元より気まぐれと理不尽の権化だ。
増してやノエルは今はたまたま人間の味方になったというだけで元々は雪害の化身。
しかし元は人間であり理不尽を嫌う尾弐は違う。ノエルは困ったような顔をして尾弐の顔色を伺うのであった。
いっそ彼も祈と一緒に天魔討伐の方に行った方が良かったのではないかと。
そんな事を思っている間にまた場面転換したかと思うと、アスタロトは今までとは打って変わって弱弱しい姿を見せる。

>「……ぅ、ぐ……。なん、だ……?胸が……苦しい……」
>「なんだって……言うんだ……!ボクは……最強の、天魔のはず……なのに……」

クリスの例を知っているノエルはすぐに原因に察しがついた。
強大な力とそれを扱う器のアンバランス――天魔アスタロトに宿っているのはただの子狐の魂だ。

50御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/07(金) 23:47:47
「もしかして……魂が半壊状態になってるのは元から!?」

魂が半壊状態になっているのは肉体が消滅した際の衝撃のためかと思っていたが、違ったのかもしれない。
あのままいけば間もなく天魔の力に耐えきれなくなって魂が崩壊していたのだろうか。
そうだとすれば、感謝する気にはなれないが結果的には
天魔アスタロトの肉体を跡形もなく消し去った赤マントは橘音を救うのに一役買ったことになる。

>《このままでは、三尾の魂は遠からず砕けるな》
>《脛擦りの言う機会が迫っているのかもしれぬ。生憎、天才のこの私にもその瞬間は見極められん》
>《雪妖。クソ坊主。貴様らの目利きに三尾の命がかかっている。わざわざここまで膳立てした私の苦労を無にするなよ》

「そうは言っても天魔のうちに突撃するわけにもいかないし……早く橘音くんにならないかな」

そう言っている間に、また場面が転換する。
約300年ほど前から始まった橘音の記憶の旅はいつの間にかかなり現代に近付き、時代は明治頃になっていた。

>「第三次総攻撃は11月26日。当日をもって旅順要塞を陥落せしめ、朝鮮半島近海の制海権を奪取する。諸君の健闘を祈る」
>「はっ!」
>「ウフフ……これでまた人が死ぬ。もっと、もっとだ……日本人もロシア人も、すべて死んでしまえばいい……」

大して真面目に聞いていなかった歴史の授業をうっすらと思い出す。
日本人とロシア人、ということは日露戦争あたりだろうか。
アスタロトは陸軍将校として戦争を扇動しているらしく、ノエル達もいつの間にか配下の陸軍将校っぽく場に混じっている。
アスタロトは配下の悪魔達を楽し気に鼓舞する。

>「最後に、旅順で大きな花火を上げて。それから次に行くとしましょうか……フフ、ウフフ……ぐッ」

「きっ……」

三尾の魂は遠からず砕けると言った天邪鬼の言葉が思い出され、思わず橘音の名前を呼びそうになって慌てて誤魔化す。

「危険です、そのお体で戦場に行くのは」

>「心配、いりませんよ……。ただの持病の癪です……。薬を飲めば、すぐに……」
>「……少し休みます。アナタたちは第三次総攻撃に備え、兵站の再点検を。いいですね」

そう言って束の間の眠りにつくアスタロト。ここは橘音の魂の世界であるため、夢の内容が感じられた。
彼女はこの時から遡っても200年ほども前も出来事を、ほんの数十年前のことのように思っているようだ。
昨日のことのように思い出すとはこういうことか、とこの時は深く考えなかった。
そしてついに第三次総攻撃が始まり、アスタロトは次第に大きくなる魂の痛みに疑問を持ちながらも、天魔の本性を現し殺戮を繰り広げる。

>「ハハハ……、アハハハハ!やった!やったぞ、大成功だ!さすがはボク!アハハ……アハッ、ハハハハ……」
>「……ハハ……ハ、ハハハ……は……」
>「ク……。ぃ、た……」
>「……これは……」

51御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/07(金) 23:49:10
今の橘音へと繋がる方向転換の瞬間は、たった一枚の写真をきっかけに唐突に訪れた。
兵士にとどめを刺すのをためらうアスタロトの前に、赤マントが現れる。
そして兵士を無残に殺した赤マントに、アスタロトは造反するのであった。

>「混乱しているようだネ……。あまりにも人を殺しすぎて、死の気配に当てられたか……まだまだ経験が足りないということだ」
>「経験……だって……?」
>「そうサ。転生して数十年しか経っていないキミには、殺しの経験が圧倒的に足りない」
>「我々天魔は紀元前から人を殺し続けてきた。幾千万、幾億もの人間をネ!キミにも早く我々に追いついて貰いたいのだヨ」
>「そのためには、もっともっと!もっと人を殺すしかない!食事をするように、睡眠を取るように、息を吸うように自然に!」
>「この戦争はそのレッスンなのサ。日露戦争とは、吾輩がキミのために用意したカリキュラムのようなもの――」
>「日露戦争だけじゃない。日清戦争も、南北戦争も、クリミア戦争も!すべてキミのために吾輩が用意したテキストなのだヨ!」

あまりのスケールの大きさに圧倒されると同時に、一つの小さな疑問が浮かぶ。
先程は深く考えなかったが、やはり年数が合わないのだ。
きっちゃんがアスタロトの魂を食らったのはこの時代から遡っても200年ほど前のはず。
修行を積み天魔として認められてからまだ数十年で、下積み期間はあまりにも辛かったため本人の記憶からも飛んでいるのかもしれない。
あるいは、アスタロトの魂を食らい少女の姿となったきっちゃんは意識が無かったように思うが
天魔として目覚めるまで眠ったままの期間が長い間あったという解釈も出来る。
もし後者なら、橘音は実は(妖怪としては)結構若いということになる。

「もしかしたら僕、いつの間にかきっちゃんよりずっと年上になっちゃったのかも……」

>「ボクは天魔を抜ける。もうアンタたちの仲間なんかじゃない!」
>「ほう。じゃあ、何になるというのかネ……?天魔でない、といって狐でもない。となれば……?」
>「……ボクは……!」

天魔の軍勢を抜けたアスタロトはあてもなく彷徨い、ついに御前に拾われることになる。

>「その願い、わらわちゃんが叶えてあげまっしょーいっ!」

>「ボクを……リセットしてください……」
>「ボクは、ボクをやり直したい……。何もかも忘れて、ただの獣に戻りたい……!」
>「いっえーっす!その願い、叶えてあげましょー!」
>「その代わり。そなたちゃんには働いてもらうケドね……!」

橘音が御前に仕える対価の願いを知ったノエル。
残念、そいつ端から願い叶える気無いぞ。尤も、今となっては叶えてもらう必要もないと思うけど――等と思う。

「橘音くんは三尾……ということはきっと御前に仕えるうちに天魔の力とは別に妖狐としての力を得たんだ。
そして天魔アスタロトの肉体は赤マントに跡形もなく破壊された。
だからこれから生き返るのは天魔じゃない純粋な妖狐の橘音くんなんじゃないかな?」

どこか尾弐に言い聞かせるように語るノエル。
これから自分達が生き返らせようとしているのは殺戮の限りを尽くしたアスタロトではなく小さな罪を必死に償おうとしたきっちゃんだと。
やがて橘音は尾弐と出会い、ノエル的に一番狙い目の時期が訪れる。

52御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/07(金) 23:50:15
>《だいぶ、今に近付いてきたな……。終わりが近いようだ》

「ここからが正念場よ! クロちゃんはちょっと隠れてて!
ちょっとそこ行く探偵さん! 特別に占ってあげる!」

尾弐と共に帝都を行く橘音を、氷の玉を水晶玉に見立てて占い師に扮して呼び止めるノエル。
――が、敢え無くスルーされ撃沈。

「取りつく島が無いんだけど! どうすんのコレ!?」

そうこうしているうちに、橘音はポチとも出会ってしまい、ますます近付きにくくなる。
もしかしてチャンスシーンとか用意されていない仕様なのか!? 無理ゲーじゃね!?
時間切れでゲームオーバーだけは避けたいところだが、そのままついに橘音がノエルと出会うところまでいってしまう。
それは、仮にこの世界がまだ続いたとしても、今後はノエル達と一緒にいるシーンがほぼ全部を占めると予測されるため、接触が極めて難しくなることを意味する。

>「やあ、こんにちは!アナタがノエルさんですか?同じビルの入居者として、ご挨拶に来ました!」

そこで唐突に、場面はまるで一時停止を押した録画映像のように止まってしまった。

「まさかのここ!? そりゃあ無いよ!」

飛び出していったノエルは何とか場面を続けようとするように、
弾かれたように立ち上がったまま止まってしまった自分を横に押しやり、橘音に言葉を返す。

「いらっしゃいませ! あなたが初めてのお客さんです! 記念に幸運のお札をプレゼント!」

そう言って勢いのままに神符を狐面の額に貼り付けた。

「貼ったよ? とりあえず貼ったよ!?」

と、誰にともなく必死でアピール。
橘音はキョンシーのような絵面になったまま固まっているし、
ただ隙をついて貼ればいいというものではないと言われていた気がするが、この際気にしないことにする。

53尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/11(火) 23:46:48

「アハハハハハ……死ね!そう、そうだ!死んでしまえ!何もかも死んで、死んで死んで……まっさらになってしまうがいい!」

雪が積もる様に。
アスタロトの咎は積み重ねられていく。

数多の命が争い、多くが無造作に死んだ。アスタロトの策謀によって、殺された。

「……」

されど尾弐には、犯されるその罪の数々をただ見つめる事しか出来ない。
何故ならば……これは過去の話。取り返しのつかない終わった話で、那須野橘音の命を掬うべき時の話ではないからだ。
腕を組み、眉間に皺を刻み、怒りの感情を募らせながら、尾弐は眺め見た光景をただただ記憶に刻んでいく。

そうして長い間暴虐は罪重ねられていったが……ある時、異変が起きた。

>「……ぅ、ぐ……。なん、だ……?胸が……苦しい……」
>「なんだって……言うんだ……!ボクは……最強の、天魔のはず……なのに……」

積もった雪に家屋が押し潰されるかの如く。
アスタロトの心が……魂が、悲鳴を上げ始めたのだ。

>「もしかして……魂が半壊状態になってるのは元から!?」

「……わからねぇが、負の想念をあれだけ貯め込むのは、生粋の悪魔でもねぇ限り相当な負担だろうよ」

かつて自身が味わった痛み。過ぎた力により細胞の一つ一つが腐り果てるような苦痛を思い返す。
アスタロトの魂までもが悪魔に成り果てているのでなければ……一匹の子狐の原型を留めているのであれば、魂に掛かる負荷は相当なものだろう。

>《このままでは、三尾の魂は遠からず砕けるな》
>《脛擦りの言う機会が迫っているのかもしれぬ。生憎、天才のこの私にもその瞬間は見極められん》
>《雪妖。クソ坊主。貴様らの目利きに三尾の命がかかっている。わざわざここまで膳立てした私の苦労を無にするなよ》

そして、その予測を天邪鬼が肯定する。
仮にも神の座を有する存在である言葉だ……残された時間に限り言うのであれば、間違いは無いのだろう。

「ああ」

そして、尾弐が首肯し小さく呟くのと同時に世界は再度切り替わる。

54尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/11(火) 23:47:19
時代の流れと共に人間は文明を発展させてきた。
そして、文明が発展すれば兵器も発展していくのは必定。
石は投槍に、投槍は弓に、弓は大弓に、大弓は火縄銃に、火縄銃は機関銃に、大砲にと、人類は殺人を効率化していった。
そして、効率化により殺人への抵抗が薄まってしまえば……後は悪魔の独壇場だ

>「ウフフ……これでまた人が死ぬ。もっと、もっとだ……日本人もロシア人も、すべて死んでしまえばいい……」

天邪鬼の見繕った陸軍将校の服を着込んだ尾弐は、此処でもアスタロトの所業をつぶさに記憶に刻む。
口数は少なく、表情は消えていたが……無表情に反して、その瞳には怒りの感情が煮立っている。
込められた感情の苛烈さは、横に居たアスタロト配下の悪魔が尾弐の目を見て小さく悲鳴を上げる程であった。

>「ふー……。さあ、忙しくなりますよ……。ボクはもっともっと殺すんだ。もっともっともっと……」
>「誰も幸福になんてさせない。誰にも幸せだなんて言わせない。みんな不幸になればいい、絶望すればいい――」
>「このボクのようにね……うふッ、ふふふ、フフフフフフフ……!」

>「危険です、そのお体で戦場に行くのは」
>「心配、いりませんよ……。ただの持病の癪です……。薬を飲めば、すぐに……」
>「……少し休みます。アナタたちは第三次総攻撃に備え、兵站の再点検を。いいですね」

「……ひでェ笑い方しやがって」

悪意と狂気に染まった言葉と、軋み悲鳴を挙げる魂。
それを見届けると、尾弐は軍帽を深く被り、外から自身の瞳が見られぬようにしたうえで那須野が体を休める部屋の前に哨戒に立つ。
監視するように、或いは……警護する様に。


銃器を主体とする戦争は凄惨を極め、まるで海に毒を流された魚の様に人がばたばたと死んでいった。
幾千、幾万。命が物の様に失われ、その分だけ怨嗟と憎悪が世界を覆う。
その狂騒を受けるアスタロトの天魔としての部分は、ますます力を増していく様だった。けれど、

>「ク……。ぃ、た……」

小さな狐の魂は、それで限界だった。
形の見えない何かへの恨みで心を支えるには……犯した罪は重すぎた。
加熱する狂気は一周すれば平静へと変わり

>「――――――ぁ――――――」

そして、ほんの些細な出来事をきっかけに自身を現実へと引き戻してしまう。

55尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/11(火) 23:48:01
>「……ボ……、ボクは……。ボク、は――」

>「ああ、そんなワケはないよネェ。何せ、キミは天魔アスタロト。吾輩の弟子、地獄の大公だ。慈悲の心などあるはずがない!」
>「もしも、殺し方を忘れたということなら……幸いだヨ、キミ。この吾輩が、もう一度殺し方というものを教えてあげよう――!」
>「……ぅ……、うぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!」
>「キミにはもう選択肢などない。天魔として、破滅と絶望を振り撒く生の他にはネ!さあ……次の戦場に行くヨ?」

狂騒から覚め、一度現実へと立ち返ってしまえばもう同じ悪夢(ユメ)を見る事は叶わない。
師と仰いだ悪夢の元凶とも言える赤マントの言動も、もはや鏡に写る自信を見せられているような嫌悪感しか与える事は無いのだろう。

>「ボクは天魔を抜ける。もうアンタたちの仲間なんかじゃない!」
>「ほう。じゃあ、何になるというのかネ……?天魔でない、といって狐でもない。となれば……?」

赤マントから……或いは追いすがる罪悪感から逃げる様に、アスタロトは戦場を離れる。
そのあまりにも小さな姿が抱く思いを、尾弐は知っている。

>――ボクは間違えた。
>――やり方を間違えた。生き方を間違えた。何もかも……ボクのしてきたことは、間違いばかりだった……。

『出会うべきじゃ無かった、関わるべきじゃなかった……全部を間違えて失敗しちまった』
『何もかも失敗しちまった。俺の生は、なんの意味もなかった』

>「ボクを……リセットしてください……」
『だから頼む――――俺と外道丸を、この世界から消してくれ』

……辿ってきた道は違う、失ったものも、抱いた感情も異なる。
だが、同じだった。アスタロト、那須野橘音が抱いた思いは……かつて尾弐黒雄が抱いた物と同じだったのだ。
アスタロトが那須野橘音へと至るまでの、この記憶の追体験。
それにより漠然と感じていたものを事実として知った尾弐の中に、この時一つの感情が固まった。

>「橘音くんは三尾……ということはきっと御前に仕えるうちに天魔の力とは別に妖狐としての力を得たんだ。
>そして天魔アスタロトの肉体は赤マントに跡形もなく破壊された。
>だからこれから生き返るのは天魔じゃない純粋な妖狐の橘音くんなんじゃないかな?」

「違ぇよ、色男。それはダメだ。その考えじゃあダメなんだ」

だからこそ、尾弐はノエルの優しい言葉を否定する。痛みを知るからこそ、ノエルとは違う答えを出さんとする。
きっと尾弐とノエルの考えに単純な成否や貴賤はない。
そこに有るのは、単純な那須野橘音という存在へ抱く想いの違いだ。

そして……記憶の世界は巡っていく。
御前の策謀の下で尾弐と出会い、颯と、晴陽と、様々な存在との出会いと離別を重ね

>「やあ、こんにちは!アナタがノエルさんですか?同じビルの入居者として、ご挨拶に来ました!」

――――『SnowWhite』。

東京ブリーチャーズの憩いの場、一人の雪女(男)が築いた店舗にて旅は終着を迎えんとする。

56尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/12(水) 00:01:34
>「いらっしゃいませ! あなたが初めてのお客さんです! 記念に幸運のお札をプレゼント!」
>「貼ったよ? とりあえず貼ったよ!?」

(!? 色男お前何て事を……!)

突然の場面の転換に驚いたのか、勢いのままに那須野へ札を貼り付けるノエル。
食虫植物の反射もかくやというノエりに驚愕し固まってしまう尾弐であったが、けれどそれは僅かの間の出来事。
こっそりと従業員出口から抜け出すと、店の周囲を回り込み何食わぬ顔で入口を潜る。そして口を開くのだ。

『よう、邪魔するぜ……なんだ大将、甘味が食いたかったのか?』
『そんじゃ、店員のあんちゃん。俺はとりあえず日本酒を……あ?なんだねぇのかよ』

それは、以前の出会いの焼き直しだ。
尾弐は自身が覚えている限り当時の台詞をそらんじてから、一度口を噤み、『SnowWhite』店内のテーブル席に腰かける。

「ま、無いなら仕方ねェ。腰も痛ぇし小腹も空いてた所だ。オジサンは座って大福の一つでも食いながら休んでくとするかね」

そして繋げられるのは、かつての尾弐が言わなかった言葉。
止まってしまった記憶を続けさせる為の演劇(ロールプレイ)。

その目論見は、弐つ。
一つは、那須野に状況に対する違和感を覚えさせない為。
唐突なノエルの行動を、記憶の中の登場人物のフリをして尾弐が対処する事で自然な物と認識させる事を狙った行動だ。

そしてもう一つは……直感というべきか。尾弐が言葉に出来ない違和感を覚えた故の事。
このままの状態で眼前の那須野の物語を終わらせ、復活させる事に言い知れぬ不安を覚えたが故に状況の継続を試みたのだ。
最も、尾弐の直感など外れる事が覆い為、杞憂の可能性が極めて高いのだが……

57ポチ ◆CDuTShoToA:2019/06/17(月) 01:11:42
>「アハハハハハ……死ね!そう、そうだ!死んでしまえ!何もかも死んで、死んで死んで……まっさらになってしまうがいい!」

アスタロトの記憶は、常に人の死に塗れていた。
それらの殆どは、彼女自身が作り出したものだった。
ポチは人間的な正邪の観念、道徳観には拘りがない。
そのポチの目にも、この光景と、その行いは、異常に見えた。
それをする事で、アスタロトが――ごんが、何かを得ているようには見えなかったからだ。

>「……ぅ、ぐ……。なん、だ……?胸が……苦しい……」
>「なんだって……言うんだ……!ボクは……最強の、天魔のはず……なのに……」

>「もしかして……魂が半壊状態になってるのは元から!?」
>「……わからねぇが、負の想念をあれだけ貯め込むのは、生粋の悪魔でもねぇ限り相当な負担だろうよ」

ノエルの危惧と、尾弐の返答――それらを聞いて、ポチはただ黙っていた。
前者は確かに不安要素だ。
この魂の世界が崩れ落ちる時、自分達が無事に帰れるのかは今もなお分からないのだから。
それでも天邪鬼や芦屋易子がそれについてまるで無策だとは考えにくい。

しかし――後者は、違う。
何故なら尾弐の紡いだ回答は橘音だけではなく――ポチ自身にも、関係のある事だからだ。
送り狼とすねこすり、その間の子である自分は、『獣(ベート)』という力に耐えられるのか。
確かに一度は我が物とした。同化した。
だが気付いていないだけで、自分の魂に負担がかかってはいないか。
仮に今は大丈夫だとしても、更に力をつけ、使いこなし――敵を倒す事を繰り返す内に、いつかアスタロトと同じようになってしまわないか。
考えたところで益体もない事ではある。しかし――考えずにはいられない事でもあった。

>《このままでは、三尾の魂は遠からず砕けるな》
>《脛擦りの言う機会が迫っているのかもしれぬ。生憎、天才のこの私にもその瞬間は見極められん》
>《雪妖。クソ坊主。貴様らの目利きに三尾の命がかかっている。わざわざここまで膳立てした私の苦労を無にするなよ》

そして、再び場面が大きく移ろう。
気づけばポチは軍服を纏い、軍人の列の中にいた。
正しくは――軍人に扮した悪魔どもの、だが。
渦巻く邪悪のにおいに、ポチは不快そうに鼻を一度鳴らした。

>「第三次総攻撃は11月26日。当日をもって旅順要塞を陥落せしめ、朝鮮半島近海の制海権を奪取する。諸君の健闘を祈る」
>「はっ!」
>「ウフフ……これでまた人が死ぬ。もっと、もっとだ……日本人もロシア人も、すべて死んでしまえばいい……」

ポチは人間の歴史に明るくない。ここがどこで、いつなのかは分からない。
だがアスタロトが何をしているのかは理解出来た。
彼女は人間の軍隊に潜り込んで、より大勢が命を落とすように仕向けているのだろう。

>「最後に、旅順で大きな花火を上げて。それから次に行くとしましょうか……フフ、ウフフ……ぐッ」

アスタロトは明らかに衰弱しつつあった。
人間が大勢死ぬ事が、彼女の救いになり得ないのは、もうポチの目にも明白だった。

58ポチ ◆CDuTShoToA:2019/06/17(月) 01:12:18
それでも――アスタロトは止まらなかった。
策謀をもって人々を死に追いやり――最後には自らの手で、無差別に、戦場に残った命を刈り取っていく。
ポチはその光景を、戦線の最後方からただ眺めていた。
嫌悪感はない。アスタロトの心中を慮る訳でもない。

ただ――意欲があった。声が聞こえていた。
天魔が見せる人の滅ぼし方、しかと学んでおかなくては。
いつか自分も、これと同じ事を成さなくてはいけない。
今や自分自身の声と同一化した『獣』の声は、そう言っていた。
それに逆らおうと思う事は出来なかった。
祈ちゃんがこれを見ずに済んで良かった――そんな思考も生まれてこなかった。

「……見ていて気持ちのいいもんじゃあ、ないね」

そんな自分自身に違和感を覚える事にすら、数秒の時間を要した。

>「ハハハ……、アハハハハ!やった!やったぞ、大成功だ!さすがはボク!アハハ……アハッ、ハハハハ……」
>「……ハハ……ハ、ハハハ……は……」
>「ク……。ぃ、た……」
>「……これは……」

結局、大量殺人は――少なくとも今となっては、アスタロトの救いにはならなかった。

>「――――――ぁ――――――」
>「……ボ……、ボクは……。ボク、は――」

彼女は気づいてしまった。
自分が今までしてきた事には、積み重ねてきた死体の山には、何の意味もなかった事に。
自分がかつて喪ってしまった物の、ほんの一部、ほんの一欠片すら取り戻せてはいない事に。

きっとアスタロトは今、後悔しているのだろう、とポチは考える。
嗅覚は頼りにならなかった。
鼻孔を満たすのは、記憶の中という精神の世界でもなお濃厚に立ち込める、死のにおいのみだった。
しかし己の過ちに気づいて、後悔して――重要なのは、その次だ。

アスタロトは次に何を考えるのか。
ここが彼女の記憶の中である以上、その答えもじきに示されるのだろう。
ポチはただ状況を見守る。

>「ボクは天魔を抜ける。もうアンタたちの仲間なんかじゃない!」
>「ほう。じゃあ、何になるというのかネ……?天魔でない、といって狐でもない。となれば……?」
>「……ボクは……!」

アスタロトが天魔を去り――再び時が急激に流れていく。

>「その願い、わらわちゃんが叶えてあげまっしょーいっ!」
>「ボクを……リセットしてください……」
>「ボクは、ボクをやり直したい……。何もかも忘れて、ただの獣に戻りたい……!」

ポチが重要であると睨んだアスタロトの願いも、彼女自身の記憶によって示された。
しかしその答えは、想像していたものと違った。
それも――ブリーチャーズにとっては思わしくない方向に。

>「橘音くんは三尾……ということはきっと御前に仕えるうちに天魔の力とは別に妖狐としての力を得たんだ。
>そして天魔アスタロトの肉体は赤マントに跡形もなく破壊された。
>だからこれから生き返るのは天魔じゃない純粋な妖狐の橘音くんなんじゃないかな?」

>「違ぇよ、色男。それはダメだ。その考えじゃあダメなんだ」

「……そうだね。今更、天魔の力がなくなりましたなんて事になるのは、困るよ」

ポチは同意を述べるが、その意図は尾弐とはまるで異なる。
あくまでも、相対的に自分が危険に晒される可能性が増えるから、でしかない。

「それに……そう都合よく、ノエっちにいらない部分だけが消えてくれるとも限らない」

また橘音の魂核に神符を貼り付けた時、橘音がどのように復活するのかポチには分からない。
だが――妖怪の在り方の基本は「かくあれかし」「そうあれかし」だ。
橘音がこの世に戻ってくる時、その魂に「ただの獣に戻りたい」という願いが強くこびり付いていたら。
それは――「東京ブリーチャーズにとって大幅な戦力低下」を招く結果になりかねない。

「……なんだか、段々厄介な事になってきてる気がするよ」

59ポチ ◆CDuTShoToA:2019/06/17(月) 01:13:53
時は再び流れていく。
那須野橘音は尾弐と出会い、楓と晴陽に出会い、別れ――精神の世界は加速度的に現代へと、近づいていく。

>――キミとボクは、ともだちだってこと……。
>――それで。いいんだよね、みゆきちゃん。

そして那須野橘音は、ごんは、きっちゃんは――かつてのともだちと、再会する。

>「やあ、こんにちは!アナタがノエルさんですか?同じビルの入居者として、ご挨拶に来ました!」





>「いらっしゃいませ! あなたが初めてのお客さんです! 記念に幸運のお札をプレゼント!」
>「貼ったよ? とりあえず貼ったよ!?」

「――――ッ!!」

声にならない悲鳴と共に、ポチが総毛立つ。
ノエルとて、橘音がこの世界に違和感を覚えれば何が起こるか――知らない訳ではないだろうに。
にもかかわらずの暴挙――場面転換に際してか、上手い事すり替わりは出来ているようだが、ポチは血の気が引く思いだった。

>『よう、邪魔するぜ……なんだ大将、甘味が食いたかったのか?』
 『そんじゃ、店員のあんちゃん。俺はとりあえず日本酒を……あ?なんだねぇのかよ』
 『ま、無いなら仕方ねェ。腰も痛ぇし小腹も空いてた所だ。オジサンは座って大福の一つでも食いながら休んでくとするかね』

それでも尾弐はなんとか、記憶の中の当時を再現しようと立ち回る。
しかし――そうなると、ポチは困った事になる。
当時と今では、ポチの外見は大きく異なる。
具体的には、この時点ではポチはまだすねこすりの要素が強く、被毛は白黒の斑模様だった。
それに人間への変化も使えなかった――使おうとしていなかった。

「天邪鬼……どうしたもんかな、これ」

つまり芝居に交じるにも、当時の姿に化けない事には橘音と顔を合わせる事すら出来ない。
さりとて、ここは記憶の中――精神の世界。
肉体を変貌させる妖術を正常に機能させられるほど、ポチは変化に長けている訳ではなかった。

「……とりあえず、暫くは影に隠れて様子を見るよ」

天邪鬼の事だ。必要とあらばまだ新たにテクスチャとやらを用意するだろう、とポチは判断した。
それに周囲への警戒に専念出来るのは、考えようによっては悪くない。

何故なら、いつの間にか見なくなったが――この世界には、黒の異形がいる。
自分達と同じ、本来あるべきでない異分子。
あれらが何者で、何故現れたのかは、まだ判明していないのだ。

60那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/25(火) 04:12:11
幼いころに負った心の傷は、どれだけの年月を経てもそのまま残り続ける。

ごんにとって、みゆきという存在――みゆきと過ごした想い出は心のもっとも深いところに刺さった棘だった。
みゆきを思い出すとき、橘音はそのたびに決して取り去ることのできない痛みを感じる。
兵十の作った冷たい盛り土の墓の中で見た、みゆきが哀しみのあまり妖壊と化していく光景。
懐かしい村が、森が、すべて氷雪に覆われていく情景――
それらはたとえ幾百年の時が経過しようと変わらず、ごんの脳裏に鮮やかな色彩を持って居座った。
そして、そんな昨日の出来事のように思い出せる過去を思い描くたび、ごんは自らのリセットを願うのだった。
妖壊と化して以降のみゆきの足跡を、ごんは知らない。
そのころには地獄の大公アスタロトとして世界中の戦場を股にかけていたし、己の心の古傷に敢えて触れることもしなかったのだ。
だから。

『かつてみゆきと呼ばれた雪ん娘が、記憶と力を抜き取られ別の雪女として存在している』――

天魔を抜けて玉藻御前に拾われ、那須野橘音を名乗った後でそのことを聞かされた時の衝撃は筆舌に尽くし難かった。

――やっぱり、ボクはみゆきちゃんを不幸にさせてしまった……。

橘音は深く自らを羞じた。幼かった自分の過ちを。
自分と出会いさえしなければ。自分さえいなければ。みゆきは記憶や力を奪われず、幸せに暮らせただろうに。
二度と会わないつもりだった。会えばきっと、自分は平静ではいられなくなってしまうだろう。
それに、彼女はもうみゆきではない。みゆき『だった』別の雪女に過ぎない。
会ったところで、彼女は橘音をきっちゃんだとは認識できない。会ったところでなんの意味もないのだ。
第一、今の自分は帝都を守護する存在。遠く離れた故郷の山、雪女の里にいるみゆきと接点を持つことはないだろう。

そう、思っていたが。

「アッハッハハッハッ……アーッハッハッハッハッハッ!積もれ、凍て付け!すべて白く塗り潰してやるよ!」

目に見えない運命の奔流は、それを許さなかった。
重要な要件で東京を訪れた雪の女王を抹殺するために現れた、みゆきの姉――クリス。
帝都鎮護の東京ブリーチャーズを率いる者として、橘音はその脅威と真っ向から対峙することを余儀なくされた。
橘音はクリスを知っている。かつてきっちゃんだったころ、自分とみゆきをいつも遠くから見守ってくれていたみゆきの姉だ。
直接話をしたことはなかったが、その眼差しはいつも柔らかく、愛情に満ちていた気がする。
もっとも、慈愛を湛えていたはずのその眼差しは今や憎悪に染まり、怒りが吹雪となってその身を鎧っている。
妖壊と化したのだ――この雪女も、みゆきと同じように。
自分がいたせいで。

「……お久しぶりですね、クリスさん」

いつかの故郷の村を彷彿とさせる光景。冷気に閉ざされた帝都の中で、橘音とクリスが向かい合う。

「あァ?なんだい、お前は?」

「分からないのも無理はありません。あれからずいぶん時が流れて……ボクもだいぶ変わった。姿も、力も」
「でも……どれだけの時間を経ても、この心だけは変わらない。みゆきちゃんと共に過ごしたころの、子狐のボクと」

「!!!……お前は……あの!あの時の……子狐……!!」

目の前の半狐面をかぶった妖怪が何者なのか理解したクリスの全身から、濃厚な憎しみの冷気が滲み出る。

「お前が……!お前がみゆきと会いさえしなければ!みゆきはあんなことにはならなかった!」

「……そうですね。その通りだ。ボクが存在しなければ、みゆきちゃんは不幸にならなかった。幸せなままだった」

「許せない……!殺してやる、糞狐……!お前の毛皮を生きたまま剥いで、はらわたを氷漬けにしても飽き足らない!」

「……アナタをそんな姿にしてしまったのは、ボクだ。ボクはきっと……アナタに償わなければならないのでしょう。この命で」

「そうだ!お前はみゆきとアタシに詫びなきゃいけない……その命で!!」

ゴウッ!と吹雪が巻き起こり、橘音の長い髪とマントを嬲ってゆく。
橘音はゆっくりと一度頷いた。

「お詫びはします。ボクの命が欲しいと仰るならそうしましょう。……けれど、それは今じゃない」
「ボクは、みゆきちゃんとアナタが幸せになる方法を知っている。すべてをやり直しましょう、彼女とボクが出会う前まで」
「そうすれば……不幸な出来事はすべて、なかったことになる……リセットできる、幸福になれるんだ」

「……何を言ってンだい、アンタは……?」

「そのためには、ここで斃れるわけにはいかない。アナタを倒さなければ――お覚悟を」

「ハ!みゆきとアタシを幸福にするために、アタシを倒す――?笑わせるんじゃないよ!この……罪人がアッ!!」

「東京ブリーチャーズ、漂白!」

橘音はそう叫ぶと、猛然と攻撃を仕掛けてくるクリスに対して白手袋に包んだ右手を突き出した。

61那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/25(火) 04:16:05
橘音は激戦の末、クリスをケ枯れ寸前まで追い込み撤退させた。東京を守ったのだ。
しかし、その代償は大きかった。東京ブリーチャーズは実に5名のメンバーがクリスの凍気によって氷像と化し、命を落とした。
橘音自身も全身に第二度凍傷を負い、全治数ヵ月で河原病院に担ぎ込まれた。
尾弐やポチがクリス討伐メンバーに加わっていなかったのは、幸か不幸か――
ともあれ、橘音は窮地を乗り切ったのである。
しかし、帝都壊滅の危機を救った橘音の胸中は晴れやかとは程遠く、暗澹としたものだった。

――やっぱり、ボクは誰一人幸せになんてできないんだ……。

自分の願いを叶え、すべてをリセットするため、何としてもクリスを倒す。
断固たる決意のもとクリスと戦ったつもりだったのに、橘音はクリスに対して非情な態度を取ることができなかった。
その結果がこれだ。仲間たち5人が、橘音の采配の不首尾によって犠牲になった。さらに5人もの妖怪を、自分は不幸にした。
いや、5人どころではない。犠牲になった者たちの近親者、数えきれないそんな者たちまで巻き込んで不幸にしたのだ。
橘音のせいで。

クリスに決して浅からぬダメージを与えはしたものの、東京ブリーチャーズは彼女を漂白することができなかった。
きっと彼女は傷を癒し、ふたたび東京に舞い戻るだろう。自らの願いを叶えるために。雪の女王を、邪魔者を殺すために。
みゆきを幸せにするために――。

――ボクは何をやっているんだろう。

自分が不幸にした者たちに償うために、幸福になってもらうために、自らの罪を雪ぐために、橘音は戦っているつもりだった。
なのに、結果はどうだ。他ならぬみゆきの幸せだけを願うクリスの望みを挫き、多くの犠牲者を出した。
何をやってもうまくいかない。この東京で探偵業を営んでから100年余。
狐面探偵などと呼ばれ、警察関係者や妖怪たち――そして裏の社会では多少は顔が利くようになった。
ただの人間では解決不可能な難事件も解決した。妖壊たちを漂白し、御前の戯れに用いられる駒に徹した。
だが、それで橘音自身の願いに近付いたかと言えば、決してそんなことはなかった。
橘音の努力をあざ笑うかのように今日も東京では凄惨な事件が起き、人々は苦しみ、不幸が蔓延してゆく。

――ボクのしていることは、無駄なのかな。

御前は東京を守護しろと言った。帝都を鎮護し、そこに生きる人々を、妖怪たちを守れと。
しかし、橘音がどれだけ奔走しようとも日々不幸は生まれ、連鎖しては肥大化してゆく。
このままでは、橘音の願いは未来永劫叶うことはない。いつ訪れるかもわからない滅びの瞬間まで、詫び続けるしかない――。
むろん、自分がかつて天魔として多数の命を無碍に奪い取ってきたこと、不幸を蔓延させてきたことは疑いようがない事実だ。
それをリセットさせようなどということが生半可な労力でないということは理解できるし、その覚悟もしたつもりだった。
しかし。
それでも。
無限の責め苦のようにも思えるような日々の中、橘音は酷い疲労を感じていた。
そして、そんなあるとき。
橘音は雪の女王から、かつてみゆきだった者――ノエルの保護を依頼されたのだった。

>いらっしゃいませ! あなたが初めてのお客さんです! 記念に幸運のお札をプレゼント!

びたーんっ!

ノエルが橘音の額に神符を叩きつける。
橘音はまるでブルーレイディスクの一時停止ボタンを押したかのように固まってしまった。
同時に、ザザ……とブリーチャーズの周囲の風景にもノイズが入り、徐々に色彩が失われてゆく。

>!? 色男お前何て事を……!
>――――ッ!!

《うおおおおおおお!? 何をやっている貴様ァ!?》

奇行と言うにも程があるノエルの行為に尾弐とポチ、そして現実世界でモニターしている天邪鬼が驚愕する。
橘音がこの状況を現実でないものと認識してしまえば、すべてが瓦解する。
そうすればもう、橘音を救うことは未来永劫できなくなってしまうだろう。
ザ、ザザッ、とSnowWhiteの中のノイズが大きくなってゆく。景色が歪み、モノクロになってゆく。

橘音の魂が形作った、精神世界が崩壊してゆく――

62那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/25(火) 04:20:19
と、思われたが。

>よう、邪魔するぜ……なんだ大将、甘味が食いたかったのか?
>そんじゃ、店員のあんちゃん。俺はとりあえず日本酒を……あ?なんだねぇのかよ

危機を感じた尾弐が咄嗟に芝居を打ち、かつて告げた言葉と告げていない言葉とを紡いでみせる。
その瞬間、モノクロになりかけていた景色が色を取り戻してゆく。ノイズが消えてゆく。
ドクン!と心臓が大きく鼓動を打つような音を立て、世界が再び動き出す。

「――っぷあっ!?な、何するんですいきなりっ!?ヒドいなぁ、もう……!」

それまで静止画のように止まってしまっていた橘音も、動き出す。大きく身体をくの字に折ると、額に貼られた神符をはがす。

「ウフフ、確かにオープンしたばかりのかき氷屋さんの甘味を味わってみたい……という気持ちはありますが」
「でも、言ったでしょうクロオさん?ボクはスカウトに来たのです!この人、いや……この妖怪をね!」

橘音は白手袋に包んだ右手で勢いよくノエルを指差した。

「キョンシーでこそありませんが、このボクを初見で人外と見破るなんて、なかなかやるじゃないですか!」
「東京ブリーチャーズのメンバーには、そういう人材こそがふさわしい――!ということで、こちら契約書です!」

さらに橘音は怒涛の勢いで懐から契約書を取り出すと、カウンターのノエルの目の前に叩きつけた。
いきなり半狐面をかぶった大正学徒スタイルの少年?少女?が現れたと思いきや、仲間になれと契約書を突き付けてきた。
充分すぎるほどに通報案件な振舞いだったが、これが実際に行われた御幸乃恵瑠と那須野橘音の出会いなのだから仕方がない。

>天邪鬼……どうしたもんかな、これ

《さしあたり危機は脱したか、肝が冷えたぞ……グッジョブだクソ坊主。とりあえず、脛擦りはそのまま埋伏していろ》

天邪鬼がポチの問いに答える。
現状、橘音の対処はノエルと尾弐に任せポチは周囲の警戒をしていた方がいいという算段だ。
ポチの懸念の通り、かつて村で遭遇した正体不明の妖壊が再度出現するかもしれない。動向が不明な以上警戒は必須である。

「おっと!自己紹介が遅れてしまいましたね。ボクの名前は那須野橘音、人呼んで狐面探偵!帝都を守る名探偵です!」
「しかし、そんなクール&キュートな探偵稼業は世を忍ぶ仮の姿……本当のボクは妖狐の眷属、三尾の狐なのです」

フフ……と不敵に笑いながら、橘音は学帽のつばに右手を添えてニヒル(?)なポーズを取った。

「そして、こちらは尾弐黒雄さん。ボクの頼れるパートナーです、彼は名前の通りの鬼でしてね……めっぽう強いのです」
「妖怪の力で、秘密裏に東京の平和を守る――それがボクたち、東京ブリーチャーズ!」
「まぁ大抵の脅威はボクとクロオさんで何とかなっちゃうんですが、それでも人手が足りない場合がありますのでね」
「それに。アナタのことは調べさせて頂きました……雪の女王の特使として、人間社会の調査に来たのでしょ?」

橘音はあくまで偶然ノエルのことを知ったというふうに話を進めてゆく。

「ボクたちはもう百年以上人間社会に溶け込んで活動しています。当然、人間社会の情勢に詳しい。なんたって探偵ですしね!」
「アナタもひとりで調査をするよりは、ボクらと一緒に行動した方が効率よく仕事ができるのでは?」
「アナタはボクたちの東京漂白に手を貸す。ボクたちはアナタの人間調査に知恵を貸す。まさにwin-winの関係ってヤツです!」
「ってなワケでして!よぉ〜こそ、よぉ〜こそ!東京ブリーチャーズへ!」

赤マント直伝の詐欺師のような話術でまんまとノエルを丸め込むと、橘音は契約書にサインさせた。
それ以来、橘音は同じビルの入居者ということもあってか頻繁にSnowWhiteを訪れ、ノエルの顔を見に来た。
新作のスイーツを食べに来た、ブリーチャーズの打ち合わせに来た、あるいは何も用はないのだけれど暇つぶしに来た。
橘音はカウンター席のど真ん中、ノエルがかき氷を作るところが一番よく見えるスツールを定位置とした。
探偵業や学校そっちのけで毎日のようにSnowWhiteに入り浸っては、橘音はノエルとよく話をする。
彼を引き込む際に約束した、人間社会の話だけではない。最近の流行の話や、テレビの話。本当に何でもない、単なる世間話。


それはまるで、親しい友達の許を訪れるかのように――。

63那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/25(火) 04:24:49
時間軸が現代になってからは、平和な日々が続いた。
妖壊も出てこない。凄惨な事件も起こらない。ただただ平穏で、静謐で、和やかな日々。

「それじゃノエルさん、今日はこの辺で!ご馳走さまでした!」

その日も橘音はほとんど開店直後からSnowWhiteを訪れ、日が暮れるまで店内でノエルと話したり、雑誌を読んだりして過ごした。
何時間も前に注文してすっかりぬるくなってしまったミルクティーの残りを飲み干すと、橘音は満足そうに店を出ていく。
今日も一日、平穏そのものだった。帝都を脅かす脅威も、無辜の人々を怯えさせる怪事件も、その気配さえない。
繰り返される、何の憂いもない平和な日常――
だからこそ。
それゆえに。

《……おかしい》

橘音が去った後のSnowWhiteの店内。ノエル、尾弐、ポチの三人の頭の中に、天邪鬼の怪訝な声が響く。
なお、ポチに関しては新たにテクスチャを作って貼り付けたが、天邪鬼はかつてのポチの色合いを知らないので細部が異なる。
一瞬ならば橘音に見られても気付かれることはないだろうが、長時間はだとどうなるか分からない。
依然、影の中に潜んでいた方がいいかもしれない。また、SnowWhiteの店外には出られるもののそう遠くまでは行けない。
やはり精神世界には限りがあるということなのだろう。

《明らかにおかしい。……貴様らもすでに気付いていような?そう――この状況は『平和すぎる』のだ》

そうだ。
三人も知っての通り、実際の東京はこんなに平和な場所ではなかった。
妖壊たちは日々跋扈し、人の世の陰で罪を繰り返す。東京ブリーチャーズはそのたび漂白稼業に奔走した。
今現在三人が過ごしているような何の事件も起こらない日など、それこそ滅多になかったのだ。
だというのに、この世界では何も起こらない。妖壊は出現せず、また狐面探偵の出動が必要なほどの事件も起こらない。
あるのはただ、橘音とノエルが。尾弐が、ポチが穏やかに過ごすことができる、ゆったりと流れる時間だけ――

《……なるほどな、そういうことか。三尾め……》

何かを察したらしい天邪鬼が呟く。

《簡単な話よ。つまり……三尾は『引きこもってしまった』のだな》

幾日経とうとも、事件は起きない。
実際の世界であれば、とっくに八尺様が現れ。コトリバコの封印が解かれ、東京ドミネーターズが出現したはずの時期になっても。
それは、つまり――

《神符を一瞬でも貼り付けたことで、三尾の魂は消滅を免れた。が……それで何もかも成功かというとそうではない》
《消滅こそせぬものの、このままでは三尾の精神は目覚めることもない。この閉じた世界の中で永遠に夢を見続けることになろう》
《今まで貴様らが経てきたのは、現実に起こった三尾の過去の記憶の再現。しかし、今貴様らが置かれている世界は違う》
《そこは、いわば三尾の理想とする世界。何も起こらず、何も進まず。罪の意識も何もかも忘れて、穏やかな平和に浸っていたい》
《そんな三尾の意識が創り出した世界なのだろう。雪妖が神符を貼ったことで、精神世界の様相も変化したのだ》

ふむ。と天邪鬼は考え考えしながら言葉を紡ぐ。

《リセットできぬのなら、せめて何もかも忘れて眠りたい――そう考えているのかもしれん》
《どうする?もう一度無理やりでも神符を貼りつけ、その世界から出てくれば、三尾を死なせることだけは回避できるぞ》
《尤も、そうなれば奴は二度と目覚めることはない。私の作った宝珠の中で永劫眠り続けるのだ》
《三尾の魂の安寧を図るなら、それも慈悲の一つだとは思うが――?》

天邪鬼が提案する。このまま、橘音を眠らせてやってはどうかと。
三人の今いる場所は、元々天邪鬼が創造した宝珠の内側だ。芦屋易子の術式を用いれば、いつでも現実世界に帰還できる。
橘音の死を回避させる、ということが当座の目的だった。ならば、この段階でそれは達成されている。
敢えて橘音を目覚めさせ、過酷な現実に立ち戻らせ、苦艱に満ちた贖罪を続けさせるよりは。
或いはこのまま静かに宝珠の中で夢を見させていた方が、彼女にとっては救いなのかもしれない。

……けれど。

64那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/06/25(火) 04:28:07
《ま……そうはいかん、か。貴様らには、奴に言いたいこともあるのだろうし。特にクソ坊主、貴様は……な」
《ならば。ならばよ。貴様らは今度は今までと真逆のことをせねばならん、東京ブリーチャーズ》
《即ち。奴にこの世界がまやかしだと勘付かせない努力ではなく――虚構なのだと自覚させる努力をせねばならん》
《しかし、ただ真実を打ち明ければよいという訳でもない……言葉は慎重に選ばなければ》
《衝撃的な事実を一気に打ち明けては、三尾の魂は再び罅割れよう。先だってのような短慮は控えよ、雪妖》

そう釘を刺すと、天邪鬼は一息ついた。あとは現場の三人で相談し考えろということなのだろう。

《いずれにせよ、次に三尾が店を訪れた時が勝負か。何が起こるか分からん、覚悟だけはしておけ》

いくら永遠の安寧が続く橘音の精神世界とはいえ、現実世界では時間が進行している。三人もいつまでも滞在はできない。
橘音はここのところ毎日SnowWhiteの開店に合わせて店を訪れている。明日もきっと来るだろう。
ノエル、尾弐、ポチの三人は次に橘音が来店した時のため、説得の方策を練らなくてはならない。
三者が対策を考え、それを橘音に伝えようと決定すると、夜が明ける。
いつもの開店時間に合わせ、SnowWhite入口のシャッターが開かれる。ドアにかけられた看板がCLOSEからOPENに変わる。
しかし。


橘音は、来なかった。


《……おかしい。何かあったのか?ここ最近の傾向だと、とっくに来店している頃だというのに》

天邪鬼が訝しむ。
昼になっても、夕方を過ぎても、橘音は来店する気配を見せない。――というか『橘音の気配がない』。

《いやな予感がする……。貴様ら、三尾の事務所へ行け。奴を速やかに確保しろ》

半地下の那須野探偵事務所に行っても、橘音の姿はない。
妙に整頓された、まるで舞台のセットのように無機質な事務所内の光景があるだけである。
橘音の私室にも主人の姿はない。ベッドが使われた痕跡もない。

《しまった――、先を越されたか!?》

そう天邪鬼が叫ぶと同時に、周囲の景色に再度ノイズが入る。ザザ、と建物が、足場が、天井が歪む。色彩が褪せてゆく――。
三人が事務所を出、雑居ビルの外へ向かうと、ちょうど道路を挟んで向かいのビルの屋上に異形が佇んでいるのが見えるだろう。
黒霧の如くおぼろげな胴体に浮かんだ、仮面のような白い無数の貌。数多の白く長い腕。
かつて東京ブリーチャーズの三人が橘音の故郷の村で遭遇し、幾度となく退けた妖壊。
日露戦争時や大正時代にはなりを潜めていた妖壊が、また活動を開始したということだろうか。
そして――

その青白く細い無数の手に、ぐったりと弛緩した橘音が抱き抱えられていた。

《チッ……!奴に三尾を殺されてしまっては、何もかも水の泡だ!貴様ら、奴を意地でも止めろ!》

天邪鬼が指示を下すのとほぼ同時、妖壊の無数の腕が猛烈な速度でブリーチャーズめがけて伸びてくる。
以前の妖壊はすぐに蹴散らせるような雑魚だったが、今度は違う。躯体が今までのものより大きく、攻撃も素早い。
倒すのは骨が折れるだろう。まして、相手は意識のない橘音を抱えている。
下手な範囲型妖術では、橘音までも傷つけてしまうことになりかねない。

妖壊は遠距離から腕を鞭のように伸ばし、打撃を繰り出してくる。
といって、接近すればいいという訳でもない。接近すれば無数の虚ろな眼窩から強烈な眩光を放ってくる。
眩光をまともに見れば、数秒は身動きが取れなくなってしまう。カメラのストロボのようなものだ。
また、そもそも足がないためポチの特性も効果を及ぼさない。
自在に伸縮する多数の腕は切断したり噛み千切ったりはできるものの、排除した傍から再生し襲い掛かってくる。

《くそ!こいつはどこから来たのだ!?私が結界を編んだ時には、こんな妖壊は入ってこなかったぞ!》

苛立ちを多分に含んだ声。
天才児という名声をほしいままにした天邪鬼にとっては、こんな妖壊の混入自体が信じられないのだろう。
だが、この妖壊は厳然と橘音の精神世界の中に存在している。東京ブリーチャーズに立ちはだかっている。


正体不明の妖壊。これを退けない限り、三人は先へは進めないのだ。

65御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/26(水) 23:25:28
>《うおおおおおおお!? 何をやっている貴様ァ!?》

突然橘音に神符を貼りつけキョンシー状態にしたノエル。
一見すると考え無しの奇行のようにしか見えないが、ノエルがこのような奇行に出たのは、
この瞬間で橘音の魂が崩壊しこの世界が終わってしまうのではないかという得体の知れない予感があったからだ。
神符を貼った瞬間、周囲の風景にノイズが走り、世界が崩壊していく――
要らん事をしてしまったのか、それとも間に合わなかったのか。
どちらにせよ万事休すかと思われたその時。

>『よう、邪魔するぜ……なんだ大将、甘味が食いたかったのか?』
>『そんじゃ、店員のあんちゃん。俺はとりあえず日本酒を……あ?なんだねぇのかよ』
>「ま、無いなら仕方ねェ。腰も痛ぇし小腹も空いてた所だ。オジサンは座って大福の一つでも食いながら休んでくとするかね」

丁度尾弐が声をかけた瞬間、世界は持ち直した。
ノエルの奇行によって崩壊しかけた精神世界を尾弐のフォローが辛うじて繋ぎ止めたのか、
それともこの瞬間で崩壊することになっていた魂が神符を貼ったことで首の皮一枚で繋ぎ止められたのか、あるいはその両方かは分からない。
真相は神のみぞ知る……もとい橘音のみぞ知る、といったところだろう。

>「――っぷあっ!?な、何するんですいきなりっ!?ヒドいなぁ、もう……!」

そう言うと、当然といえば当然だが橘音はあっさり神符を剥がしてしまった。

>「ウフフ、確かにオープンしたばかりのかき氷屋さんの甘味を味わってみたい……という気持ちはありますが」
>「でも、言ったでしょうクロオさん?ボクはスカウトに来たのです!この人、いや……この妖怪をね!」
>「キョンシーでこそありませんが、このボクを初見で人外と見破るなんて、なかなかやるじゃないですか!」
>「東京ブリーチャーズのメンバーには、そういう人材こそがふさわしい――!ということで、こちら契約書です!」
(中略)
「ってなワケでして!よぉ〜こそ、よぉ〜こそ!東京ブリーチャーズへ!」

「なるほど、よく分かんないけどここに名前書いて印鑑押せばいいの?」

何とも適当だが、出会った時も本当にこんな感じでよく契約内容を確認もせずに署名押印したのだった。
そこから先はノエルの記憶にも新しいとおり、橘音はSnowWhiteを頻繁に訪れ、
人間界の右も左も分からないノエルに色々なことを教えてくれた。
そういえばノエルや尾弐は、当時と同じ姿のためか、いつの間にやら橘音の精神世界の登場人物としてすり替わることに成功している。
最初は別に存在していたはずだが、この世界が崩壊しかけた時にどさくさに紛れてすり替われたのかもしれない。
ポチはテクスチャを貼りつけてもらったものの細部が異なるので基本は隠れているようだが。
何もかもがノエルが橘音と出会ってからの日常と同じだったが、一つだけ違う事があった。
妖壊が一切現れないのだ。

>《……おかしい》
>《明らかにおかしい。……貴様らもすでに気付いていような?そう――この状況は『平和すぎる』のだ》

「この世界が橘音くんの記憶をそのまま辿ったものだとすれば変だよね……。まあ平和な方が好都合じゃん?
もう大分仲良くなってきた頃だしそろそろ頃合い見計らって貼っちゃえばいいんじゃない?」

66御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/26(水) 23:27:19
そう呑気に構えていたノエルだったが、天邪鬼の様子から尋常ならざるものを感じる。

>《……なるほどな、そういうことか。三尾め……》
>《簡単な話よ。つまり……三尾は『引きこもってしまった』のだな》

「いわゆるRPGで言うところの”ハマった状態”ってやつ!? なんか不味いの!?」

>《神符を一瞬でも貼り付けたことで、三尾の魂は消滅を免れた。が……それで何もかも成功かというとそうではない》
>《消滅こそせぬものの、このままでは三尾の精神は目覚めることもない。この閉じた世界の中で永遠に夢を見続けることになろう》
>《今まで貴様らが経てきたのは、現実に起こった三尾の過去の記憶の再現。しかし、今貴様らが置かれている世界は違う》
>《そこは、いわば三尾の理想とする世界。何も起こらず、何も進まず。罪の意識も何もかも忘れて、穏やかな平和に浸っていたい》
>《そんな三尾の意識が創り出した世界なのだろう。雪妖が神符を貼ったことで、精神世界の様相も変化したのだ》

「つまり……どういうこと? 当初の方法じゃ復活できないの……?」

>《リセットできぬのなら、せめて何もかも忘れて眠りたい――そう考えているのかもしれん》
>《どうする?もう一度無理やりでも神符を貼りつけ、その世界から出てくれば、三尾を死なせることだけは回避できるぞ》
>《尤も、そうなれば奴は二度と目覚めることはない。私の作った宝珠の中で永劫眠り続けるのだ》
>《三尾の魂の安寧を図るなら、それも慈悲の一つだとは思うが――?》

天邪鬼から突然提示されたのは、衝撃的な選択肢。
しかし今の橘音にとってはこの世界こそが現実。
天邪鬼の提案に乗れば、こちらから見れば橘音は未来永劫眠ったままだが、橘音自身はこの世界で幸せに生き続けることが出来るのだ。

「ちょっと……考えさせて……」

ノエルはそう言うと自室にこもってしまった。そしてベッドにダイブし、手足をバタバタさせて暴れる。

「ああもう橘音くんのバカバカバカバカ! 名探偵のくせに肝心なところでバカなんだから!」

ここは橘音の精神世界なので、橘音の想いは筒抜けだった。
橘音は自分のせいでみゆきを不幸にしたと思っているが、全くの逆である。
名探偵も自分のこととなると途端に迷探偵になってしまうのだろうか。
みゆきはごんの死で妖壊化したのではなく、最初から災厄の魔物という最恐の妖壊だったのであり、
たとえごんと出会わずとも、必ずどこかで災厄の魔物として覚醒していた。
それに対して、ごんはみゆきと出会わなかったら天魔となることもなく、ただの狐として生涯を終えることが出来た。
その上、みゆきが妖壊化したのはきっちゃんのせいではないのは一度それとなく伝えたはずだが、全く伝わっていなかったようだ。
それどころか、橘音として再会してからのきっちゃんは、ノエルの願いを全て叶えてくれた。
龍脈の神子である祈と引き合わせ、クリスとの決着で記憶と力を取り戻させると同時に、災厄の魔物の宿命から解き放ってくれた。
かつてきっちゃんに“江戸の美男子になりたい”だったか”東京のイケメンになりたい”だったか、
意味不明なことを言ったことがある気がするが、気が付けばとっくに叶っていた。
しかも、記憶を封印され力をクリスに預けられたのもおそらく全て雪の女王の計画の範疇だ。

67御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/26(水) 23:28:58
雪妖の一族が企てた、災厄の魔物を根本から変質させ人間と共存していくための無理無茶無謀な計画――橘音はそれに巻き込まれた被害者とも言える。
膨大な犠牲を払ったその計画が完遂した今、ノエルは全く不幸ではない。
なので、橘音が人生をリセットしたいと思っている理由のうちの大きな一つである”みゆきを不幸にしたくなかった”
は耳にタコが出来るぐらい言い聞かせればどうにかなるとしても――
もう一つの大きな理由であると思われる天魔として大勢の人間を虐殺したことへの罪悪感は如何ともし難い。
加えて、もう一つ気になることがある
きっちゃんが橘音としてノエルと再会する直前の胸中の独白の中に、こんなものがあった。

>――キミが望むのなら、望んだ数だけ。願ったのなら、願った数だけ。ボクはずっとそれを叶えてきたんだ。

橘音がノエルの願いを叶えたのは再会後のはず。
昔一緒に遊んでいた頃に他愛のないお願いを聞いてくれたことを指しているのを深読みし過ぎなのだろうか――
そんなことを考えていると、唐突に深雪が語り始めた。

《橘音殿が人間を大量虐殺したのは……我の願いを叶えたからなのかもしれない》

「ええっ!?」

《そなたがそのまま我の力を持っていればクリスの比ではない甚大な被害を及ぼしていた。
世の中は一か所のバランスが変われば他のどこかで均衡が保たれる――
橘音殿は墓の下で我の憎悪に触れ続けたことによって知らず知らずのうちに我の意思に影響され
本来我が殺すべきだった差分を代行したのかもしれぬ――》

今や深雪はノエルと同化している。
つまり深雪が言う事が本当だとすると、橘音は魂を軋ませながら、
ずっとノエルの犯すはずだった罪を代行し願いを叶え続けてきたということになる。
橘音にそのことを告げて、自分は悪くなかったと思ってくれればいい。全部お前のせいだったんだといっそ憎んでくれればいい。
しかしこれは世界を俯瞰する視点を持つ精霊系妖怪ならではの考え方であり、動物ベースの橘音には理解できないだろう。
橘音を不幸にするしか出来なかった自分に、彼女を無理矢理辛い現実に連れ戻す資格はない。
どう足掻いても自分は橘音にとって罪の象徴であり、一緒にいても不幸にするだけだろう。
自分では橘音を救えない――ノエルはそう痛感した。
だけど、それでも。橘音をこのまま眠らせてやろうという結論には至らなかった。
千年の願いを捨ててまでも橘音と共に生きたいと願い、再び鬼と化してまで橘音を救出しに来た者がいる。
過去の罪を目の当たりにし葛藤しつつも、それでも尚彼女を救おうとしている者がいる。
部屋から出てきたノエルは尾弐の前に来ると突然土下座して懇願した。

「お願い、橘音くんを幸せにしてあげて!
橘音くんは悪くない、あれはきっと僕の罪の代行だ。僕が災厄の魔物として殺すはずだった人達だ……!
僕は橘音くんを不幸にしか出来なかったけど……君なら……」

尾弐自身は気付いていないようだが、尾弐と一緒にいた時、橘音は確かに幸せそうだった。
みゆきと一緒に遊んでいるきっちゃんや、ブリーチャーズの皆ではしゃいでいる橘音も楽しそうだったが、それともまた違っていた。
あれが恋、というやつなのだろうか――

68御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/26(水) 23:30:32
>《ま……そうはいかん、か。貴様らには、奴に言いたいこともあるのだろうし。特にクソ坊主、貴様は……な」
>《ならば。ならばよ。貴様らは今度は今までと真逆のことをせねばならん、東京ブリーチャーズ》
>《即ち。奴にこの世界がまやかしだと勘付かせない努力ではなく――虚構なのだと自覚させる努力をせねばならん》
>《しかし、ただ真実を打ち明ければよいという訳でもない……言葉は慎重に選ばなければ》

「なんかどんどん難易度が上がってくる……」

>《衝撃的な事実を一気に打ち明けては、三尾の魂は再び罅割れよう。先だってのような短慮は控えよ、雪妖》

「はい、気を付けます……」

意外と素直に反省するノエル。
あの時の真相がどっちだったにせよ、たまたま結果オーライだったことには変わりはないのだ。

>《いずれにせよ、次に三尾が店を訪れた時が勝負か。何が起こるか分からん、覚悟だけはしておけ》

「稀代の天才なら説得方法まで教えてくれればいいじゃーん!」

と文句垂れつつも、作戦会議を始める。

「まず僕が“契約書にサインした気がするんだけど……全然仕事無くない?”って切り出して
クロちゃんが”そうだな、最近妖壊が現れねぇ、パトロールにでも行ってみるか”って感じで街に連れ出して
色んな所を巡ってみればだんだん世界が広がってくるかな?
きっと現実世界とは色々違ってるだろうから自分で違和感に気付いてくれればいいんだけど……」

こんな感じでノエルが切り出し、説得の方策が決定した頃、夜が明けた。
そして橘音が来るのを待ち構えていた三人だったが――

>《……おかしい。何かあったのか?ここ最近の傾向だと、とっくに来店している頃だというのに》
>《いやな予感がする……。貴様ら、三尾の事務所へ行け。奴を速やかに確保しろ》

「そこか、そこか、そこかぁああああああああ!?」

いつかのように事務所内を家探しして橘音を探すも、見つからない。

>《しまった――、先を越されたか!?》

「先を越されたって……何に!?」

周囲にノイズが走り、慌てて外に出てみると、向かいのビルの屋上に最初の村で出現していたのと似たような異形が見えた。

「あいつ、今頃になってまた出てきやがったか……!」

そしてなんと、その異形にぐったりとした橘音が捕らわれている。
このままでは橘音の魂は崩壊し、現実世界に連れ戻すどころか、この世界で永遠に夢を見させてやることすら出来なくなる。

「橘音くん……!」

69御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/06/26(水) 23:31:15
>《チッ……!奴に三尾を殺されてしまっては、何もかも水の泡だ!貴様ら、奴を意地でも止めろ!》

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、猛スピードで無数の腕が迫ってきた。
間一髪で氷の刃を作り出してそれを切断し、捉えられることは辛うじて逃れたが――

「こいつ、強い……!」

最初の村で出てきていたのとは明らかに格が違う。
そしてこの世界では変化は使えないようで、ノエルは人間の姿をとったままでは本領を発揮できない。
そして、酒呑童子の力を失い改めて鬼となった尾弐が人間の姿でどれほど戦えるのかはまだ分からない。
それに、今の状態で下手に攻撃すれば橘音を巻き込みかねないので、まずは橘音を救出する必要がある。

>《くそ!こいつはどこから来たのだ!?私が結界を編んだ時には、こんな妖壊は入ってこなかったぞ!》

それでも無数の腕を切り飛ばしながらなんとか近づいていくノエルだったが、
一定の距離まで近付いたところで、異形の眼窩から強烈な眩光が放たれ、動けなくなる。
その隙に、鞭のようにしなる腕にいとも容易く弾き飛ばされ、建物の壁に激突した。
ずるずるとずり落ちながらも仲間達に注意を促す。

「気を付けて、動けなくなる瞳術を使ってくる……!」

そして、ポチにこう打診する。

「ポチ君、僕達が囮になれば気付かれずに近づけるかな……?」

性質事態は最初の村で出現していた妖壊と一緒なら、知能は高くないはずだ。
隠密行動が得意で不在の妖術を自在に使いこなすポチならあるいは――気付かれずに接近し
触手も眼光も届かない間合いに入って橘音を救出することが出来るかもしれない。
ポチがこの提案に乗るなら、ノエルは何度弾き飛ばされても敢えて正面から向かっていくだろう。

70尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/30(日) 15:10:11

>「それじゃノエルさん、今日はこの辺で!ご馳走さまでした!」
「……おう。気ぃつけて帰れよ大将。おじさんは酒のつまみに成りそうな甘味見繕ってから帰るわ」

その日も、特筆する様な事件が起きる事も無く一日は終わった。
ノエルが那須野に札を貼ったあの日から、果たして幾日が経過しただろうか。
すわ精神世界の崩壊を引き起こすかと思われたノエルの行動だが、結果として悪影響を与える様な事も無く、今日も今日とて今日が巡っていく。
事件は無く、危険も無い、ただただ陽溜まりの中での微睡の如き日々。
今この時、この瞬間に死ぬ事が出来れば、きっと笑顔で死ぬ事が出来るのだろう……尾弐をしてそう思う様な、暖かな時間。
そして、だからこそ気付いてしまう。

>《明らかにおかしい。……貴様らもすでに気付いていような?そう――この状況は『平和すぎる』のだ》
「……まあ、そうだろうよ。少なくとも、俺には帝都がここまで長い事平和だった記憶なんざねぇからな」

『今、この時間』が、那須野の記憶の世界ではない事に。

尾弐は断言出来る。彼が帝都を訪れ、那須野や東京ブリーチャーズの面々と行動を共にする様になってから、これ程に平和が続いた事等無かったと。
人間が集まれば、其処に必ず闇が生まれる。帝都の様な巨大都市であれば、それは尚更だ。
都会の闇、ビルの影、街燈の隙間……そこには数多の妖壊が犇めき、それら人類の敵を尾弐達は常に人知れず漂白してきた。
何事も無く過ごせた日々など、数える程しか存在していなかった。
だからこそ、血みどろの日々の間に存在した僅かな平穏は――輝くような時間は、全て尾弐の記憶に残っている。
故に、この時間は『違う』。

>「この世界が橘音くんの記憶をそのまま辿ったものだとすれば変だよね……。まあ平和な方が好都合じゃん?
>もう大分仲良くなってきた頃だしそろそろ頃合い見計らって貼っちゃえばいいんじゃない?」

尾弐と天邪鬼の懸念に対し、ノエルはあっけらかんと人好きのする笑顔で答える。だが、事はそう単純ではない。
もしも今のこの状況が那須野の記憶の再現であれば、友好を重ねていく事も手段の一つであったのかもしれないが……

>《簡単な話よ。つまり……三尾は『引きこもってしまった』のだな》
>《リセットできぬのなら、せめて何もかも忘れて眠りたい――そう考えているのかもしれん》

「願いが叶わないならいっそ……って奴か。ったく、身に覚えが有り過ぎて耳が痛くなる話だぜ」

天邪鬼が告げた通り、現状は『想起』から『停滞』へと移行してしまっているのだ。
神符を用いた事により最悪こそ脱したものの、別の問題が引き起こってしまった。
かつて尾弐黒雄がその身に抱いた願いの崩壊を前にして、万象の破滅を願った様に。
那須野橘音の精神は、永久の微睡を選ぼうとしているのだ。

71尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/30(日) 15:10:55
>《三尾の魂の安寧を図るなら、それも慈悲の一つだとは思うが――?》

永劫の安寧。罪の忘却。
天邪鬼の言う通り、それはある意味では救いなのだろう。
那須野橘音の記憶を巡る旅をしてきたからこそ、血の臭いに塗れたその生を知ったからこそ、その言葉の重みは尾弐にも理解出来る。
相似する事象を願って在った此の身だからこそ、その選択がどれだけ救われるものであるのか――――それを知る事が出来る。
故に尾弐は、思い悩み自室に戻ったノエルを見送ってから、自身の左肩を右手で解しつつ口を開く

「慈悲も慈愛も結構なこった。だが、生憎と俺は悪い鬼でな……だから、悪い事をするのさ」

その言葉の意は、明確な拒否。
尾弐は那須野橘音に微睡の安寧が訪れる事を許さない。あらかじめ決めていた様に彼はそう宣言したのだ。

>「お願い、橘音くんを幸せにしてあげて!
>橘音くんは悪くない、あれはきっと僕の罪の代行だ。僕が災厄の魔物として殺すはずだった人達だ……!
>僕は橘音くんを不幸にしか出来なかったけど……君なら……」

そして、その言葉は思いを決めて部屋を飛び出し、尾弐に頭を下げたノエルの言葉を受けても変わらない。
膝を折り、伏せたその顎に手を当て、無理矢理に上へと顔を向けノエルと視線を合わせる。
その目はいつにも増して厳しいもので……そして言うのだ

「……まず一つ」
「那須野橘音の罪を、御幸乃恵瑠が奪うな。そこにどんな理由があれ、罪を犯したのは那須野自身だ」
「人を殺し、戦争を操り、多くの悲劇を生んだのは……それをやると決めたのは、他の誰でもない。那須野橘音なんだ」
「お前さんが優しい奴なのは知ってる。だがな、今の言葉は優しさじゃねぇ――――ただの甘さだ」
「那須野に起きた過去から、犯した罪の在処から目を逸らすな」
「起きた事、成した罪を曲げて、その罪の在処から目を逸らして、無かった事にしようとしちまえば……オジサンみてぇになっちまうぞ」

或いはノエル、或いは深雪の言葉の通り、彼らの存在は那須野に何かしらの影響を与えていたのかもしれない。
けれど、その罪業を形にしたのは那須野の意志で、那須野の言葉で、那須野の手なのだ。
だからこそ、尾弐は那須野の罪をノエルが背負う事を否定する。そしてもう一つ

「それからな……ノエル。お前さんは、那須野を不幸になんざしてねぇよ」
「思い出せ。ガキの頃も、今も、お前さん達と居た時の大将はいつだって良い顔で笑ってただろ」
「自分には大将を幸せに出来ねぇなんて思うな……過ごした時間まで疑ってやるな」

「俺一人だけじゃ足りねぇんだ。だからノエル、寝坊助なウチの大将を起こすのを手伝ってくれ」

そう言った尾弐は、柄にも無い事をした自覚があるのかノエルの顔から手を放すと、その頭に手を乗せガシガシと乱暴に撫でてから立ち上がる。

72尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/30(日) 15:11:38
>《ま……そうはいかん、か。貴様らには、奴に言いたいこともあるのだろうし。特にクソ坊主、貴様は……な」
>《ならば。ならばよ。貴様らは今度は今までと真逆のことをせねばならん、東京ブリーチャーズ》
>《即ち。奴にこの世界がまやかしだと勘付かせない努力ではなく――虚構なのだと自覚させる努力をせねばならん》
>《しかし、ただ真実を打ち明ければよいという訳でもない……言葉は慎重に選ばなければ》
>《衝撃的な事実を一気に打ち明けては、三尾の魂は再び罅割れよう。先だってのような短慮は控えよ、雪妖》

そして、尾弐の言葉が終わるのを待っていたかの様に今後の対応を示唆した天邪鬼を起点として、作戦会議が始まる。

>「まず僕が“契約書にサインした気がするんだけど……全然仕事無くない?”って切り出して
>クロちゃんが”そうだな、最近妖壊が現れねぇ、パトロールにでも行ってみるか”って感じで街に連れ出して
>色んな所を巡ってみればだんだん世界が広がってくるかな?
>きっと現実世界とは色々違ってるだろうから自分で違和感に気付いてくれればいいんだけど……」

「というかだな、今回に限って言えば、外道丸……天邪鬼の言葉は信用し過ぎねぇ方が良いんじゃねぇか?」
「あいつは賢いだけあって人の頭の中を考えるのは得意だが、胸の中を考えるのは割と人並以下なんだよ」
「何せ、貰った恋文の束を読まずに焼くくらいだからな。だから、もっと直接的に教えた方が良いと思うんだが……ポチ助はなにか策は有るか?」

ノエルの策を聞き腕を組んだ尾弐は、ポチに何か意見は無いかと問いかける。
ここ最近……特に那須野の精神世界に来てからのポチの様子がおかしい事は、尾弐も察している。
以前からどこかシニカルな面が有るとは思っていたが、最近は機械の様な、或いは昆虫の様な無機質さを見せる様になったと、そう感じる。
だが、それを知りつつ、その上で尾弐はポチへと問いを投げかける。
その理由は、共に戦ってきた仲間への信用が半分、そして……護るべき女を持つ者への信頼が半分。
一歩引いた視点からの助言を求め、尾弐は『ポチ』の返答を待ち……

議論は踊る。会議は巡る。
各々が各々の答をその胸に抱く中、とうとう夜は明け――――されど、那須野橘音が店を訪れる事は無かった。

>《……おかしい。何かあったのか?ここ最近の傾向だと、とっくに来店している頃だというのに》
>《いやな予感がする……。貴様ら、三尾の事務所へ行け。奴を速やかに確保しろ》

「お前さんの組んだ宝珠……しかも精神世界に直接侵入出来る奴なんざ流石にいねぇだろ」

精神世界に外部から『直接』干渉する事が出来る権能を持つ妖怪は、ごく少数。
それは、精神と言うものがある種一つの世界と呼べる物あり、それに自在に繰るという事は、即ち世界を統べるに等しい難業だからだ。
今回の尾弐達の潜入とて、世界の『枠』を構築した天邪鬼という神格と、尾弐達が那須野の知人であったからこそ叶ったもの。
故に、そう簡単に自体が変容はすまいと。だからこそ、危急は無いだろう、と。尾弐は口を開くが……その表情に余裕はない。
恐らくは、直感的なもので察しているのだろう。何かしらの影響で、状況が変容してしまっている事を。

>「そこか、そこか、そこかぁああああああああ!?」

懸命な捜索……しかし、事務所や私室を探すも、那須野の姿は見えず、店にも訪れない。
それでも見つけ出すべく、尾弐が捜査の手を広げていく事を思案し出した、その時である。

73尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/30(日) 15:12:40
>《しまった――、先を越されたか!?》

天邪鬼の言葉の直後、世界にノイズが奔りその色彩が急速に色褪せていく。

>「あいつ、今頃になってまた出てきやがったか……!」

建物から飛び出し、ノエルの言葉に導かれる様にして視線を向けてみれば、黒霧の様な身体に、仮面の如き貌、長く白い腕。
かつて―――那須野橘音がごん狐であった時に何度も相対した、異形の姿。
そして、その手に抱えられているのは

「那須野……!」

意識を失っているのだろうか、手足を弛緩させた那須野橘音その人であった。

>《チッ……!奴に三尾を殺されてしまっては、何もかも水の泡だ!貴様ら、奴を意地でも止めろ!》
>「こいつ、強い……!」

「手数が多い上に、動きも早い……ちっとばかし骨が折れそうだな」

天邪鬼の言葉に反応したかの様に、襲い掛かってくる無数の腕。
それはノエルの言葉の通り、強い。素早く――――何より数が多い
それでも尾弐は、冷静に襲い来る腕を弾き、或いは受け止めて対処をしていく。
東京ブリーチャーズとして、酒呑童子の力を抑える為に、人の姿を保った状態での戦闘を繰り返してきた経験が此処で生きる。
経験と技術、その2点を以って尾弐は異形と拮抗する。だが

>「気を付けて、動けなくなる瞳術を使ってくる……!」

尾弐の目が異形の拳を受け、吹き飛ばされるノエルの姿を捉える。

「無理すんな色男、近接戦はお前さんの本領じゃねぇ!」

そう言いつつ前進する尾弐だが、一定距離まで近づいた時点で眩光と猛打を受け、足が止まってしまう。
その身の頑強さから早々と崩れ落ちる事はないだろうが、しかしこのままでは那須野を取り戻す事が出来ない。

>《くそ!こいつはどこから来たのだ!?私が結界を編んだ時には、こんな妖壊は入ってこなかったぞ!》

と。拮抗する戦況に歯噛みする尾弐の耳に天邪鬼の苛立ち混じりの言葉が届いた。
本来であれば聞き流すような言葉だが――――何故か、その言葉は尾弐の思考を急速に加速させた。

(……術法において外道丸が下手を撃つ訳がねぇ。ボウズが、妖壊の侵入は無かったと言う以上、それは絶対だ)
(そうなると、アレは――――あの黒い靄は、『最初からこの世界に居た存在』なんじゃねぇか?)
(もし、この推測が当たってるなら……俺があの異形を滅ぼそうとしなかった事にも、ある程度納得がいく)

74尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/06/30(日) 15:13:17
麒麟児たる天邪鬼を以ってしても、潜入を把握出来なかった事。
妖壊、まして那須野橘音を脅かす存在であるモノに対し、尾弐が拳を向けようとしなかった事。
そして――――眼前の異形が、尾弐達と遭遇するまで那須野を殺す事無く、その腕に抱いている事。
戦闘を継続しつつも、それらの要素が尾弐の思考の中で彼なりの推論を形成していく。

(那須野の中に在る存在……可能性が有るとしたら二つだ。まず一つは、那須野自身)

仮定の一つは、かつて尾弐の中に居た酒呑童子の力の様な存在。同一にして別たれた精神性の具現。

(そして、もう一つは……)

想起するのは、嘗ての那須野と、怨敵たる赤マントの出会いの壱幕。
『ごん』と『赤マント』以外にその場に存在した、唯一の存在。那須野と長き時を共にしている筈の者。

(過去に那須野が喰らった存在――――天魔アスタロト)

これらはあくまで仮定に過ぎないが故に、尾弐がポチやノエルに口にする事は無い。
だが、もし推測の内のどちらかが当たっていれば……この世界を訪れた尾弐達に対する対応にも、一定の納得を得る事が出来る。

「まあ、何にせよ……那須野を取り戻すのが先決だわな」

そう言うと、尾弐は一歩踏み出す。そして、もう一歩。
先程までの均衡が嘘の様に距離を詰めていく。その理由は、単純――――尾弐は、防御を棄てたのだ。
異形の拳をその身で全て受け、猛打を受けながら進む事にしたのだ。
如何に動きを止められようと、後退せねば距離は縮んでいく。文字通り、力技だ。
進む尾弐はチラリと視線を仲間達の方へと向ける――――そこには、ノエルがポチへと何かしらの提案をする姿。

(ポチ助……今のお前さんは、ちっとばかし妙な事になってるみてぇだが、俺は口を出すつもりはねぇぞ)
(俺の知ってる狼なら――――狼に焦れたお前さんなら、『獣』とやらに飼われる筈がねぇ。『獣だから』なんていう首輪を嵌められる訳がねぇ)
(何せ、狼っていうのは……飼われない事を選んだ生物なんだからな)

ポチとノエル、二人が別働隊として那須野を取り戻す事を信じつつ、尾弐は大きく息を吸うと口を開いた

「おいおい、抵抗はこの程度か!? なら俺は行くぞ、お前が抱えてるその女を連れ戻しに行く――――止められるモンなら止めてみやがれ!!」

拳の雨を浴び、体から血を流しながらも、更に前進する尾弐。
ポチが那須野を取り戻す事を選べば、その存在は良い囮になる事だろう。
仮にそれを選ばなかったとしても、尾弐は前進を止める事は無い。このままの状態であれば、その手は、執念は、那須野へと届く事だろう。

75ポチ ◆CDuTShoToA:2019/07/06(土) 20:05:07
>《さしあたり危機は脱したか、肝が冷えたぞ……グッジョブだクソ坊主。とりあえず、脛擦りはそのまま埋伏していろ》

「……そうなっちゃうよねぇ。やだやだ、僕だけ仲間はずれかぁ」

天邪鬼の指示を受け、ポチはそう言った。
冗談めかしてはいたが、橘音と触れ合えない事を不満に思える自分に、安堵してもいた。

>「おっと!自己紹介が遅れてしまいましたね。ボクの名前は那須野橘音、人呼んで狐面探偵!帝都を守る名探偵です!」
>「しかし、そんなクール&キュートな探偵稼業は世を忍ぶ仮の姿……本当のボクは妖狐の眷属、三尾の狐なのです」

店内のテーブル席の下で影に紛れながら、ポチは体を伏せ、目を閉じる。
この精神世界に潜り込んでから、随分と長い時間が過ぎた。
橘音の声を聞くのは――本当に、久しぶりだった。

>「そして、こちらは尾弐黒雄さん。ボクの頼れるパートナーです、彼は名前の通りの鬼でしてね……めっぽう強いのです」

橘音が尾弐の紹介をする――親愛のにおいを纏いながら、誇らしげな声で。
だが――ポチの名が呼ばれる事はない。その事が、口惜しかった。

>「ってなワケでして!よぉ〜こそ、よぉ〜こそ!東京ブリーチャーズへ!」

そして――それから暫くは、平和な日々が続いた。
店を開けばすぐに橘音はやってきて、ノエルと他愛のない世間話に興じる。
暫くすると尾弐もそこに加わって――ただポチだけが、影に紛れてその様子を見ている。

それはやむを得ない事だった。
天邪鬼に新たなテクスチャを用意されたとは言え、それは当時の自分とは完全には一致しない。

イメチェンしてみたんだ、とでも笑ってみせれば、橘音は誤魔化されてくれるだろうか。
いや、それはただの希望的観測だ。迂闊な事は出来ない。するべきではない。
その行為に、狼王としての自分に利する点はなにもない――ポチは影の中で自問し、自答する。

>「それじゃノエルさん、今日はこの辺で!ご馳走さまでした!」

そうしている内に、橘音は店を出ていく。テーブル席の下から、彼女の足取りがポチの目に映る。
ポチは考える。
今、このテーブルの下から飛び出して、その脛に擦りついたら、橘音はどんな反応をするだろう。
困ったように笑って、自分の名を呼んでくれるだろうか。
だが――その夢想が実行に移される事はない。橘音の背中が、閉じゆくドアの向こうに消えた。

>《……おかしい》

ふと、天邪鬼の声が聞こえた。何を言わんとしているのかは、ポチにもすぐに分かった。

>《明らかにおかしい。……貴様らもすでに気付いていような?そう――この状況は『平和すぎる』のだ》
>「……まあ、そうだろうよ。少なくとも、俺には帝都がここまで長い事平和だった記憶なんざねぇからな」

「本当なら……僕がもう「人探し」に呼び出されてても、おかしくないのにね」

現実にそぐわない時間の経過――しかしその原因をポチは考えない。
頭脳労働ならば他に適任がいる。

>《……なるほどな、そういうことか。三尾め……》

「ちょっと、一人で納得してないで説明してよ」

>《簡単な話よ。つまり……三尾は『引きこもってしまった』のだな》
>「願いが叶わないならいっそ……って奴か。ったく、身に覚えが有り過ぎて耳が痛くなる話だぜ」
>「いわゆるRPGで言うところの”ハマった状態”ってやつ!? なんか不味いの!?」

「……よく分かんないけど、使える時間が伸びたのは、いい事じゃない?」

76ポチ ◆CDuTShoToA:2019/07/06(土) 20:06:40
>《神符を一瞬でも貼り付けたことで、三尾の魂は消滅を免れた。が……それで何もかも成功かというとそうではない》
>《消滅こそせぬものの、このままでは三尾の精神は目覚めることもない。この閉じた世界の中で永遠に夢を見続けることになろう》
>《今まで貴様らが経てきたのは、現実に起こった三尾の過去の記憶の再現。しかし、今貴様らが置かれている世界は違う》
>《そこは、いわば三尾の理想とする世界。何も起こらず、何も進まず。罪の意識も何もかも忘れて、穏やかな平和に浸っていたい》
>《そんな三尾の意識が創り出した世界なのだろう。雪妖が神符を貼ったことで、精神世界の様相も変化したのだ》

「僕らは失敗した……って訳じゃないんだよね。その言い方だと、少なくとも今はまだ」

>《リセットできぬのなら、せめて何もかも忘れて眠りたい――そう考えているのかもしれん》
 《どうする?もう一度無理やりでも神符を貼りつけ、その世界から出てくれば、三尾を死なせることだけは回避できるぞ》
 《尤も、そうなれば奴は二度と目覚めることはない。私の作った宝珠の中で永劫眠り続けるのだ》
 《三尾の魂の安寧を図るなら、それも慈悲の一つだとは思うが――?》

天邪鬼の提案は、ポチにとっては論外だった。
橘音の蘇生にしくじれば、東京ブリーチャーズの戦力は大幅に低下する。
それは困る。東京ドミネーターズは、いずれ自分とシロにとっても害になり得る。

>「慈悲も慈愛も結構なこった。だが、生憎と俺は悪い鬼でな……だから、悪い事をするのさ」

「……ああ、そうさ。橘音ちゃんをこのままにしておくなんて、あり得ないね」

かつてのポチなら、きっとこう答えただろう――最も不自然でない行動を取るだけだ。
自らにそう言い聞かせながら、ポチは首を横に振った。

『ちょっと……考えさせて……』

しかし、ふと鼻を突く、惑いのにおい。
ノエルは――煮え切らない態度と共に、自室へと逃げ込んでいった。

>「お願い、橘音くんを幸せにしてあげて!
>橘音くんは悪くない、あれはきっと僕の罪の代行だ。僕が災厄の魔物として殺すはずだった人達だ……!
>僕は橘音くんを不幸にしか出来なかったけど……君なら……」

そうして暫しの後、部屋から飛び出してきたノエルは、尾弐に向けて懇願した。
けれども尾弐が纏う決意のにおいは、僅かにも揺らがない。

>「俺一人だけじゃ足りねぇんだ。だからノエル、寝坊助なウチの大将を起こすのを手伝ってくれ」

「……ノエっち。僕はね、偽物である事の虚しさを知ってるよ。自分で自分を偽物にする事の虚しさを。
 これは別に、君だけの事を言ってるんじゃない……橘音ちゃんが、このままじゃ可哀想だって言ってるんだ」

その言葉は奇しくも、今のポチの心境を限りなく正確に表していた。
三人の目的意識が分離しているのは良くない。
経験と照らし合わせた言葉なら、強い説得力を示す事が出来るはずだ。
そんな言い訳を下敷きにしなければ、ノエルを慰める事も出来ない、今のポチの心境を。

>《ま……そうはいかん、か。貴様らには、奴に言いたいこともあるのだろうし。特にクソ坊主、貴様は……な」
 《ならば。ならばよ。貴様らは今度は今までと真逆のことをせねばならん、東京ブリーチャーズ》
 《即ち。奴にこの世界がまやかしだと勘付かせない努力ではなく――虚構なのだと自覚させる努力をせねばならん》
 《しかし、ただ真実を打ち明ければよいという訳でもない……言葉は慎重に選ばなければ》
>《衝撃的な事実を一気に打ち明けては、三尾の魂は再び罅割れよう。先だってのような短慮は控えよ、雪妖》

>「はい、気を付けます……」

「とは言え……難しいところだよね。東京スカイツリーを見て?何か思い出さない?
 ……なんて切り口で世間話を始める訳にもいかないだろうし」

>《いずれにせよ、次に三尾が店を訪れた時が勝負か。何が起こるか分からん、覚悟だけはしておけ》
>「稀代の天才なら説得方法まで教えてくれればいいじゃーん!」

「……確かに、今回ばかりはノエっちに同感」

77ポチ ◆CDuTShoToA:2019/07/06(土) 20:09:20
>「まず僕が“契約書にサインした気がするんだけど……全然仕事無くない?”って切り出して
>クロちゃんが”そうだな、最近妖壊が現れねぇ、パトロールにでも行ってみるか”って感じで街に連れ出して
>色んな所を巡ってみればだんだん世界が広がってくるかな?
>きっと現実世界とは色々違ってるだろうから自分で違和感に気付いてくれればいいんだけど……」

>「というかだな、今回に限って言えば、外道丸……天邪鬼の言葉は信用し過ぎねぇ方が良いんじゃねぇか?」
 「あいつは賢いだけあって人の頭の中を考えるのは得意だが、胸の中を考えるのは割と人並以下なんだよ」
 「何せ、貰った恋文の束を読まずに焼くくらいだからな。だから、もっと直接的に教えた方が良いと思うんだが……ポチ助はなにか策は有るか?」

「……僕?」

ポチが尾弐を見つめ返す――考えがない訳ではない。
だがこの手の頭脳労働に、尾弐が自分に期待を寄せるのは――少し、奇妙だった。

「……僕は一度、兵十のいた村の外に向かって歩き続けてみたんだ。
 だけど気がつくと、いつも村の真ん中にまで戻ってきてた。この世界は、狭いんだ。
 この狭さは……橘音ちゃんにおかしいと思わせるのに、役立たないかな。ほら、例えば……」

ポチはテーブル席の下から這い出して、ノエルの部屋へ続くドアを開けた。
明かりも点けずにノエルの遊び道具――テレビとゲーム機に歩み寄る。
ポチには、人の姿に化けられるようになってから、人間の暮らしについて色々と教わっていた時期があった。

電源を点けたテレビは、しかし正常なゲーム画面を映し出さない。
ノエルの所有するゲームの内容を橘音が知らなければ、再現の仕様がないからだ。
そういうこの世界の不完全さは、橘音の聡明さにこそ強い違和感を与えられるはずだ。

「それに……」

自らが開いた扉越しに、ポチは振り返る。
視線が捉えるのは、先ほどと同じく尾弐だ。

「……橘音ちゃんは、尾弐っち、君の為に赤マントを裏切ったんだ。
 僕がそうするように言った……君の愛は、そんなもんかよって。
 あのやり方は……きっと今回も、使えるはずだよ」

それは奇しくも、スカイツリーでノエルの発した問いの答えだった。
あの時何があったのか――ポチは橘音の恋心を利用して、そして結果的に、死に追いやったのだ。
それをポチは――ただ合理的で、効果的な手段だったとして、語った。

ただ一言、ごめんと謝る事さえしなかった――出来なかった。
ポチは同胞を、己の属する群れを守っただけだ。
狼の王が頭を垂れて詫びる理由を――ポチには見つけられなかった。

>《……おかしい。何かあったのか?ここ最近の傾向だと、とっくに来店している頃だというのに》
 《いやな予感がする……。貴様ら、三尾の事務所へ行け。奴を速やかに確保しろ》

『お前さんの組んだ宝珠……しかも精神世界に直接侵入出来る奴なんざ流石にいねぇだろ』

「どうかな……!既に一つ、前例がいたよね!」

ポチは皆に続いて探偵事務所へと駆け込んだ。
ドアを潜るとすぐに鼻を鳴らして、においを辿る。
だが、この辺りは橘音の生活圏だ。においはあちこちに濃く残っている。
すぐさま橘音の行方を辿るのは狼の嗅覚でも難しかった。

>《しまった――、先を越されたか!?》
>「先を越されたって……何に!?」

「何が相手でも関係ない!先を越された事がまずいんだ!クソ、においは……外だ!外に続いてる!」

そしてブリーチャーズは雑居ビルの外へと飛び出す。
瞬間、香る橘音のにおい――ポチはそれを追うように、向かいのビルの屋上を見上げる。
そこにいたのは――気を失った橘音を抱きかかえた、正体不明の異形。

78ポチ ◆CDuTShoToA:2019/07/06(土) 20:11:14
>「橘音くん……!」
>「那須野……!」

>《チッ……!奴に三尾を殺されてしまっては、何もかも水の泡だ!貴様ら、奴を意地でも止めろ!》

「言われるまでもないよ!」

ポチは酔醒籠釣瓶を抜刀。
異形の懐めがけ真っ直ぐに駆け出した。

襲い来る無数の拳。それらを正面から切り払うリーチはポチにはない。
故に躱し、その腕に刀を刺し、打撃の勢いを利用して切り裂く。
だが異形の腕は切りつけた傍から再生していた。

ポチが舌を鳴らす。
ポチは東京ブリーチャーズの中では、強打に欠けるタイプだ。
相手を転ばせない限り、強大な殺傷力を発揮出来ない。
つまり、相性が悪い。

手傷を負わせ、消耗を強いる作戦は下策と判断。
ポチは回避に重点を置き、前進する。
だが距離が近づけば近づくほどに、拳の回転は早まっていく。
弾幕のごとき乱打は、ポチの身軽さをもってしても躱し切れない。
不在の妖術を用いても同じ事だ。
拳をすり抜け一歩先に出たとて、その一歩先にも拳があるのだ。
ポチは刀を盾に自ら拳を受ける形で、大きく飛び退く。

>「こいつ、強い……!」
>「手数が多い上に、動きも早い……ちっとばかし骨が折れそうだな」

「面倒だね……僕とは、とことん相性が悪い……」

ポチの体格と攻撃力では拳の弾幕を突破する事は出来ない。
だが腕を切り払い続けて、再生能力の限界を待つ事が上手くいくとも限らない。
ならば――尾弐とノエルに事を成してもらう他ない。

ポチは再び異形への接近を図る。
今度は、より多くの拳を自身へ引き付ける為の接近だ。
これは狼王にあるまじき自己犠牲――ではない。ただの適材適所だ。

>「気を付けて、動けなくなる瞳術を使ってくる……!」
>「無理すんな色男、近接戦はお前さんの本領じゃねぇ!」

だがそれでも、異形の守りは堅い。

>「ポチ君、僕達が囮になれば気付かれずに近づけるかな……?」

ふと、ノエルがポチに声をかけた。
それは、友達を救う為ならなんでもするという覚悟の表れか。
それとも自分の為に道を誤った友の為に――傷つきたいという、自罰の欲求か。
自然の精霊であるノエルの感情は、ポチの嗅覚でも完全には嗅ぎ取れない。
この魂の世界においては、なおさらだった。

>「おいおい、抵抗はこの程度か!? なら俺は行くぞ、お前が抱えてるその女を連れ戻しに行く――――止められるモンなら止めてみやがれ!!」

尾弐が叫ぶ。彼は最早、防御を棄てていた。
打撃を雨と受けようと踏み留まり、強引に距離を詰めていく。
当然、無事ではいられない。鈍い打撃音が響き続ける。擦れ破れた皮膚から血が飛び散る。
その光景に――ポチは心の底からの怒りを、抱けない。
ノエルが同じ目に遭ったとしても、やはりポチは、怒り狂う事はしない――出来ないだろう。

79ポチ ◆CDuTShoToA:2019/07/06(土) 20:13:11
「……そんな事したって、無駄だよ」

だが――だとしても、ノエルと尾弐が、ポチの掛け替えのない仲間である事に変わりはない。
仲間だから、友だから――そんな理由で、二人を助ける事はもう出来ない。
しかし、二人は貴重な戦力だ。まだ先の長い戦いで無闇に消耗されても困る。
進んで傷を負いにいくその背を押せるほど、ポチはポチをやめていない。

「雪だ、ノエっち。ただの雪を降らせるだけでいい。出来るだけ、強く」

ポチは静かな声でそう言いながら、考えていた。
より正確には自らに言い聞かせていた。
そうだ。スカイツリーの時と同じだ。要するに――言い訳があればいいんだろ、と。

「……それだけで十分さ。後は、僕がやる」

そして、ポチは地を蹴った。
全速力で駆けるその先には――尾弐の背中があった。

ポチの体格と攻撃力では、拳の弾幕を突破する事は出来ない。
不在の妖術を用いても、拳を切り抜けた先に拳があるのでは意味がない。

だが――このような条件下であれば、どうなるだろう。
まず周囲には深い雪が降り、視界が悪化している。
加えてポチの前には既に長い、開けた空間があり、十分な助走が可能である。
そしてその助走を行う間、異形の注意を一身に引き受ける――踏み台として扱える、壁があれば。

「尾弐っち!背中貸して!」

ポチが跳ぶ。自身に発揮し得る最高速度で、尾弐の背から肩にかけてを踏み台として。
跳躍のその瞬間を、異形は視認出来ない。
深い雪の影に紛れながら、不在の妖術が用いられた為だ。

魂のみの、精神の世界において、ポチの不在の妖術は通常とはやや異なる現象を示す。
現実世界との相違点は単純な、消失可能な時間の減少。
だが、それを補って余りあるほど――条件は、整っていた。

不在の妖術が解けた時、ポチは既に異形の眼前にいた。
そして――空中で体を一回転。
左手で保持した鞘を用い、異形の腕の中から、橘音の体を後方へと跳ね上げる。

「こいつは、おまけだ」

回転の勢いを乗せた、酔醒籠釣瓶。
その切っ先を、ポチは異形の頭部へと切り払う。
折れた刀故、首を落とせるかは分からないが――少なくとも、浅くでもいいから目を斬る必要はあった。
この至近距離で瞳術を食らうのは、非常に危険だ。

80那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/07/24(水) 07:03:35
無数に生えた腕のうち数本で橘音を絡め取ったまま、異形は東京ブリーチャーズの三人と互角以上の戦いをする。
ノエルの氷を見切り、尾弐の進撃を無数の拳の弾幕によって押しとどめ、ポチの転ばしを警戒して距離を取る。
それはまるで、『三人の戦い方を熟知しているかのよう』な――。

>おいおい、抵抗はこの程度か!? なら俺は行くぞ、お前が抱えてるその女を連れ戻しに行く――――
>止められるモンなら止めてみやがれ!!

血まみれになりながら、尾弐はさらに前進する。橘音を取り戻すべく、手を伸ばす。

「…………!」

尾弐のまっすぐな言葉に、異形はほんの僅かに怯んだようだった。
ノエルがポチの提案に応えて雪を降らせると、周囲は風雪によって束の間、視界が閉ざされた。
無数の貌に付いている目、その視覚によって周囲を認識しているらしい異形は束の間ブリーチャーズを見失う。
閃光のような瞳術も、使用不可能になるだろう。
そこにポチの狙いがあった。

>尾弐っち!背中貸して!

尾弐の背中を踏み台にして、ポチが高く跳躍する。
吹雪の視界不良に加え、不在の妖術。これで異形は完全にポチを確認できなくなった。

バチンッ!!

ポチの振るった酔醒籠釣瓶の鞘が、橘音と異形とを引き離す。
橘音の身体は尾弐が抱き留めるだろうか。息はある、死んではいない。

>こいつは、おまけだ

さらにポチの追撃。無数の貌のうちのひとつが切り裂かれ、仮面のように無機質なそれが真っ二つに割れた。
その中にあったものは――


橘音の顔。


《!!……待て!そいつを傷つけるな!》

それを目撃した天邪鬼が叫ぶ。

《簡単なことではないか、なぜ気付くのが遅れた!?私は奴を、何らかの手段で紛れ込んだ異物と思ってしまっていた――》
《だが、そうではなかった……奴は『最初からこの世界に存在していた』のだ、すなわち……》


《あれが、本当の三尾だ!》


ポチが斬りつけた貌のひとつが再生し、ふたたび無機質な仮面のようになってゆく。
そうだ。
東京ブリーチャーズの三人が橘音の精神世界に入ってから、この異形はずっとこの場所に存在していた。
途中、姿を見せないときもあったが、そのときは代わりに三人の知る橘音が活動していた。
天邪鬼はそれを別々の存在と認識していたが、そうではなかった。
異形も、ごんも、きっちゃんも、アスタロトも、そして狐面探偵那須野橘音も。
すべては同じ存在。ひとりの子狐であったのだ。
異形の姿は橘音の願う心そのもの。
たくさんの貌は自分のことを見てほしいという願望。無数の腕は幸せを掴みたいと望む欲望。
靄のように朧な身体は、自分という個への自信のなさの表れ――。
人一倍幸せになりたいと望んだにも拘わらず、それを果たせず。努力はすべて裏目に出。
関わる者すべてを不幸にすることしかできなかった、そんな無力な子狐の。

これは、成れの果てだった。

81那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/07/24(水) 07:03:47
「……ォ……オオオォオォオオオオォオォオオ……」

無数の白貌の口部分が裂け、怨嗟の声を漏らす。
それまで尾弐の腕の中でぐったりしていた橘音が、不意にぱちりと目を開く。
橘音は尾弐を見て口の端にうっすらと笑みを浮かべると、

「やあ、クロオさん。こんなところまで、ボクを連れ戻しに来てくれたんですか?」

そう言って、するりと腕の中をすり抜けた。
尾弐から離れると、橘音はしっかりした足取りで異形の元へと歩いてゆく。
そうして異形のそばに佇むと、狐面探偵は東京ブリーチャーズと対峙した。

「ようこそ皆さん、ボクの心の中へ。……つまらない田舎芝居を長々と観賞させてしまって、まったくお恥ずかしい次第です」
「アナタたちが今まで見てきたもの、それこそがボクの過去。紛れもない、この那須野橘音の記憶ってヤツです」
「絶対に他人に見られたくなかった、ボクの罪。ボクの咎。ボクの過ち……」
「そのすべてを。アナタたちは見てしまった」

微笑みを浮かべながら、橘音は両手を緩く広げる。

「アナタたちの声は、ずっと聞こえていました。どんなことを考えているのかも。当然でしょう?ここはボクの中なのだから」
「皆さんの行動は筒抜けだった。アナタたちと天邪鬼さんの相談も、作戦会議もね」
「ボクは、すべて把握したうえで。アナタたちをこの世界で泳がせていた……ということです」

三人は橘音にこの世界を夢と認識させないよう振舞っていたが、その必要は最初からなかったということらしい。
橘音は東京ブリーチャーズの三人を白手袋に包んだ右手の人差し指で指し示した。

「アナタたちもご覧になった通り、ボクは悪魔です。ボクはボクの幸せのために、多くの罪なき人々を殺戮しました」
「ボクが幸せになれないのなら、他の者たちも不幸になればいいと。幸せを奪い取ってやると。そう思っていた」
「ボクに不幸のどん底に叩き落とされ、絶望して死んでいった者たちは何十万人といる!」

ハハ、と橘音は嗤った。アスタロトを名乗っていた時のように、禍々しい笑みだった。

「ボクは妖壊です。それも、とびっきり邪悪なやつだ」
「そんな邪悪な存在が、東京ブリーチャーズなんて!帝都の守護者気取りとは、お笑い種ですね!」
「皆さんは、ボクにまんまと騙されていたんですよ。まったく、なんてお人よしなんでしょう!これが笑わずにいられますか!」

ひとしきり哄笑すると、橘音は笑み顔を無機質に変えて告げる。

「ということでして。ボクの秘密を見た皆さんには、ここで死んで頂きます」
「おっと、ボクを今までのボクと思わない方がいいですよ。繰り返しますが、ここはボクの精神世界なのです」
「この世界では、ボクが王。ボクが神だ……ボクのしたいことは何でもできる。こんな風にね……!」

ゴウッ、と音を立て、橘音とその背後の異形の全身から強力な妖気が噴き出す。
橘音の言う通り、この世界では橘音が絶対者。現実世界では有り得ない力さえ手に入れることができるのだろう。

「死にたくなければ、ボクを漂白するしかありません。生きて現世に帰りたければね」
「それでなくとも、ボクは天魔アスタロト。大勢の人々の命を奪った大悪党だ。完全な漂白対象でしょう?ほら……」

異形が身じろぎする。その躯体は最初にこの場所で見た時よりも、二回りほど大きくなっている。
己が全能である精神世界で祈の運命変転にも似た力を発揮し、力を増幅しているのだろう。
びゅおっ!と異形が無数にある腕のうちの数本を東京ブリーチャーズへと伸ばす。
大ぶりの一撃のため回避することは容易いだろう。しかし、それが威嚇に過ぎないことは明白だ。
異形が本気になれば、回避困難な攻撃がそれこそ雪崩のように押し寄せることになる。

「手加減なんてする余裕は、ありませんよ」


冷たく、殺意に満ちた抑揚で、橘音は告げた。

82那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/07/24(水) 07:04:02
「この世に存在する限り、ボクはこれからも人々を不幸にする……、絶望させてゆく!このボクを止めてごらんなさい!」

橘音が叫ぶ。同時に異形が無知のような無数の腕を伸ばし、ノエルと尾弐、ポチに攻撃を仕掛けてくる。
巨大化した異形の腕は、さすがに一撃では切断できない。攻撃力も耐久力も格段に上がっている。
例え一本を断ち斬っても、斬られたそばから復元する。また瞳術も健在で、間合いを詰めると即座に閃光を放ってくる。

「まだまだ!アハハハ、じゃあ……こんなのはどうです!?」

異形の靄の身体の内側から、きわどいビキニのような衣装をまとい大鎌を持った橘音が現れる。
天魔アスタロト。精神世界の中では、橘音はいくらでも肉体を創造できるのだろう。
アスタロトが背に生えた蝙蝠の翼を一打ちし、一気にポチへと突っかける。大鎌の攻撃は大振りだが、存外に隙がない。
矢継ぎ早の攻撃と巧みな体術は、かつてポチが戦ったシロにも引けを取らないだろう。
基本的に浮遊していて地に足がついていないため、転ばせることもできない。

アスタロトがポチに集中攻撃すると同時、異形は尾弐に狙いを定めたらしい。
無数の腕をのたうたせ、波状攻撃を仕掛けてくる。

《クソ坊主!くれぐれも無理をするな、昔のような相打ち上等の戦い方は避けろ!》

尾弐の戦いを外から見守りながら、天邪鬼が注意を促してくる。

《貴様はもう一介の名もなき鬼に過ぎん!酒呑童子の力は喪われているのだ、それを忘れるな!》

尾弐の肉体を永年蝕み、そして加護を与えてきた酒呑童子の力は赤マントによって奪われ、尾弐の中にはない。
酒呑童子特有の能力である反転の術、それは大半が喪われた。
しかし、尾弐が望むならその力のいくばくかはまだ使用することができるだろう。
鬼となった尾弐特有の妖術というものも、ひょっとしたら開花しているかもしれない。
いずれにしても、本当の意味で妖怪になったばかりの尾弐が無理をしては致命的なことになる、と天邪鬼は危惧している。
尤も、だからといって体力を温存したままで勝てる相手ではない。
異形は時を経るごとに巨大になってゆく。その腕の数も増え、瞳術の閃光は強力になってゆくだろう。
戦闘が長引けば、尾弐の不利になることは明らかだった。

そして。

「……ノエルさん。いいえ、みゆきちゃん」
「そう、ボクがきっちゃんです。かつて、アナタと一緒に遊んだ。そして……アナタが妖壊になるきっかけを作った子狐」
「今まで黙っていて、すみませんでしたね……でも言えなかった。言えるはずなんてなかった」
「アナタが災厄の魔物を宿すのは、ずっと前から決まっていたことかもしれない――ボクには関わりのないことだったかも」
「けれど、それが目覚めるきっかけを作ったのはボクだ。ボクがいなければ……」

橘音はノエルと向き合うと、軽く顔を俯かせた。そして下唇をきゅっと噛む。

「ボクはみゆきちゃんを幸せにできなかった。不幸にさせてしまった」
「長い年月が流れて、雪の女王がボクに依頼してきたとき。今度こそ幸せにしてあげられるかもしれないと思ったんです」
「でも、無理だった。ボクは結局、同じ過ちを繰り返しただけだった。また、アナタに色々な業を背負わせてしまった」
「ボクは本当に、ダメなやつですね……」

懺悔のような言葉の後、幾許かの静寂が二人を包む。
実時間にして、ほんの僅か。体感では長い刻が流れた後、橘音は顔を上げた。
その声は明るく、いつもの橘音のように陽気ではあったが、内容は声音とはまるで異なる。

「な・の・で!ノエルさんはそんなダメなボクに今までの恨みを思う存分ぶつけちゃってください!」
「さもなくば殺します。今のアナタとボクの関係は、オトモダチなんかじゃない。敵同士なのですから」

そう告げる橘音の右手に、闇が収束してゆく。
闇はやがて一振りの日本刀の形をとって顕現し、橘音の手に握られた。
それは酔余酒重塔でノエルも目にしたであろう、狐面探偵七つ道具のひとつ――童子切安綱。
鬼族のみならず、すべての化生を滅ぼす尽滅の刃。

「……勝負ですよ。ノエルさん」

ゆっくりと刀を抜き、鞘を投げ捨てると、橘音は白刃の切っ先をかつての親友へと向けた。

83那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/07/24(水) 07:04:20
「――ふっ!」

抜き身の童子切を持った橘音が一瞬で間合いを詰め、ノエルへと肉薄する。そして横薙ぎの斬撃。
現実世界では持っているだけでも妖気を消耗する程の妖刀だが、ここは橘音の精神世界。デメリットはないらしい。
夢の中だからか、橘音の体さばきも現実世界での天邪鬼さながらに鋭い。ノエルの急所を的確に狙ってくる。
ただし、ノエルの氷刃によって食い止められない程ではない。
今までノエルが長い戦いで培ってきた勘があれば、凌ぐことは可能だろう。
何合か打ち合うと、橘音は後方に大きく跳躍して間合いを離した。

「う〜ん、いけませんね。この期に及んでボクに遠慮してるんですか?敵であるボクに――」
「だとしたら、いやでも敵として認識させてあげますよ。ボクがホンモノの妖壊だって、救いようのない悪だって」

そう言うと、橘音は何を思ったか半狐面の縁に自分の左手をかけた。

「ノエルさん、アナタはずっとボクの素顔が見たいと仰っておられましたね。ボクの仮面を剥がそうとしたことだってある」
「それならお見せしましょう……このボクの素顔を。ずっと隠し続けてきた、ボクの罪の証を!」

東京ブリーチャーズを結成する前から、片時も仲間の前で外すことのなかった半狐面。
素顔を、そして心を隠し続けてきたその仮面を、橘音はノエルの前で外した。
文字通り肌身離さず大切にしてきたはずのそれを、まるで興味を失ってしまったかのように放り捨てる。
カラ……と乾いた音を立て、半狐面が床に転がる。

美少女――と言っていいだろう。
ややつり気味の大きな目に、整った眉。
鼻から下は元々何も覆われていなかったとはいえ、目許が露になるだけでこんなにも印象とは変わるものだろうか。
綺麗と言うよりは可憐といった言葉が当て嵌まる、文句なしの美少女。
しかし――それも『顔の右上を除けば』の話だ。
橘音の右眼窩から額近く、髪の生え際までには、見るも無残な傷痕が刻まれていた。

「アハハハハ……どうです?ノエルさん。アナタの想像通りの顔でしたか?」

橘音はおかしそうに笑った。
橘音ことごんは、かつて村の中で兵十に猟銃で射殺された。
兵十の撃った弾丸はごんの右眼窩の上に命中し、瞼を吹き飛ばし、そのまま脳に甚大なダメージを与えてその命を奪った。
その際の傷が、まだ橘音の顔にへばりついている。
瞼を失い、メチャクチャに破壊された右の眼窩に、瞳の濁った眼球が剥き出しで嵌まっている。
弾丸が通過した痕跡であろう、眉から額にかけて深く大きな裂き傷が刻まれ、肉が抉れている。
左半分の美しさを相殺して余りある――否、なまじ素顔が整っているだけになお凄惨さを感じさせる、古い傷痕。
それこそが、橘音の半狐面の奥に隠された秘密だった。

「この傷こそ、ボクの罪の証。ボクが妖壊であることの証明です」
「それを仮面でひた隠しにして、ボクは正義の味方だと。ずっと自分に言い聞かせながらやってきましたが――もう無理です」
「ボクはやっぱり妖壊だった。この傷を克服できなかった。ボクは……滅びなければならない!」

再び童子切を握りしめると、橘音は一気に跳躍してノエルに大上段から斬りかかった。

「はあああああああッ!!」
「分かったでしょう!?こんな醜いボクが東京ブリーチャーズのリーダーでなんて、いられるワケがないんだ!」
「ここにいるのは那須野橘音じゃない……ただの狐の妖壊だ!ノエルさん、アナタが躊躇するような相手じゃない!」

童子切の斬撃に加え、さらに橘音は瞳術で幻惑を試みる。
ノエルが視線を合わせようとするなら、即座に術を使ってくるだろう。瞳術には幻惑効果があり、四肢の自由を奪う。

「アッハハハハハハッ!どうしたんですか?ノエルさん!ボクの素顔が見たかったんでしょう!もっと見たらどうです!」
「これが!この醜くおぞましい顔が、ボクの素顔ですよ!それとも……もう充分ですか?満足しましたか!」
「ボクの醜い顔など!もう見たくないですか!?そうでしょう、ええ……そうでしょうとも!アハハハハハ!」

笑い声をあげながらも、橘音は容赦なくノエルへと斬打を繰り出す。
剥き出しの乾いた右眼窩から、つう――と一筋の血涙が零れ、頬を伝う。

破れかぶれのような。
自棄のような。
自嘲のような――。

そんな笑い声をあげながら、橘音はノエルに襲い掛かった。

84那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/07/24(水) 07:04:32
ひゅん、と空気を切り裂き、大鎌がポチの首筋を狙う。
かと思えば、突き出した右手の先に一瞬で魔法陣が形成され、無数の光弾がショットガンのようにポチに降り注ぐ。
橘音は童子切と瞳術による攻撃を主にしているが、アスタロトは大鎌と魔力による攻撃をメインにしている。
ただ、今までポチが見てきた橘音の来歴から察するに、こちらのスタイルが橘音本来の戦い方なのだろう。

「アッハッハハッハッハッ……アーッハッハッハッハッハッ!」

笑い声をあげながら、アスタロトはポチに肉薄した。

《本体ではないとはいえ、それも三尾の精神のひとつに違いない……。殺せば何が起こるか分からん。全力で避けろ!》

天邪鬼がポチに指示を送る。
しかし、言うまでもなく手加減して凌ぎ切れる相手ではない。
不意にアスタロトがピィーッと指笛を吹くと、どこからか蛇のように長い体躯の竜が出現する。
毒竜ドラギニャッツォ――かつて姦姦蛇螺と戦った際にも召喚した、アスタロトの乗騎だ。
ヒラリと毒竜の鞍に飛び乗ると、アスタロトは左手で手綱を握りさらにポチへと攻撃を仕掛けてきた。

「ガアアアアアアッ!!」

毒竜が大きく顎を開き、濃紫色の毒の息を吐きつける。
災厄の魔物の皮膚さえ糜爛させる、地獄由来の猛毒だ。吸い込めば肺腑は腐り、瞬く間に全身に行き渡るだろう。
精神世界で肉体は存在しないとはいえ、それでも吸い込めば有害である。
そして、間髪入れず大鎌の一撃と、魔法陣から放たれる無数の光弾の嵐。
折れた酔醒籠釣瓶しか持たないポチでは不利は否めない。

「ゴオオオオオオオオオオ―――――――――ッ!!!」

そして、ポチがアスタロトと戦っているその一方で、尾弐は巨大な異形と対峙する。
異形の攻撃は相変わらず鞭のようにしなる多腕による物理攻撃と瞳術の二種類のみだったが、手数と攻撃力が増えている。
すでに、異形の身体は10メートルほどにも大きくなっていようか。
その異形が尾弐をまるで虫か何かのように叩き潰そうと腕を振り下ろしてくる。
うろのようにぽっかりと開いた眼窩から、滾々と血色の涙が溢れ白い仮面を濡らす。
靄の身体に浮き出たたくさんの顔、その口許に光が収束してゆく。

そして、そこから放たれるのは尾弐の頑健な肉体をも一瞬で蒸発させかねないほどの出力のレーザー。
地面を抉りながら、破壊の閃光が尾弐を消滅させようと迫る。

《このままでは全滅だ……、三尾の精神世界で三尾に勝てるはずがない!貴様ら、撤退だ!撤退!》
《5分後に結界に穴を開ける!その5分、なんとしてもしのぎ切れ!》

天邪鬼が叫ぶ。元々、この空間は天邪鬼の作った結界の中。穴を開けることも可能なのだろう。
彼我の戦力差を悟った天邪鬼が退避を勧める。しかし、その言葉は言い換えればこういうことである。

『三尾救出はあきらめろ』と――。

精神世界に入るには、陰陽寮の手助けがなくてはならない。そして侵入の術式には準備と条件が不可欠である。
一旦現実世界に戻ってしまえば、再度の侵入は容易ではなくなる。何ヵ月、何年先のことになるか分からない。
そして――その間、橘音の魂魄が穏やかでい続けられるという確証もない。
橘音を救う、という行動を第一に考えるなら、現段階での撤退はありえない。
といって、このままでは――。

絶望的な戦いの中、それでも橘音の説得を試みるか。
命を惜しんでて撤退するか。

東京ブリーチャーズの三人は、岐路に立たされている。

85御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/07/26(金) 00:58:48
>「おいおい、抵抗はこの程度か!? なら俺は行くぞ、お前が抱えてるその女を連れ戻しに行く――――止められるモンなら止めてみやがれ!!」

一切の防御を捨て前進する尾弐。それを見たポチが何かを思いついたらしく。

>「雪だ、ノエっち。ただの雪を降らせるだけでいい。出来るだけ、強く」

「分かった……!」

身を切り裂く殺傷力のあるブリザードは放てなくても、ただの雪を降らせることなら今の姿でもできる。
ポチは雪の中で更に尾弐の広い背中を目隠し兼踏み台として利用し、瞬時に異形の眼前まで接近する。
橘音はすぐに異形から引き離されて救出され、更にポチが追撃を加える。
しかし、それで万事解決とはならなかった。

>「こいつは、おまけだ」

切り裂かれた貌の中から現れたのは、なんと橘音の顔。

>《!!……待て!そいつを傷つけるな!》

「あれ? じゃあこっちの橘音くんは……!?」

>《簡単なことではないか、なぜ気付くのが遅れた!?私は奴を、何らかの手段で紛れ込んだ異物と思ってしまっていた――》
>《だが、そうではなかった……奴は『最初からこの世界に存在していた』のだ、すなわち……》
>《あれが、本当の三尾だ!》

「何だって!? じゃああれにシップを貼ってキョンシーにすればいいの!?」

混乱したノエルが意味不明なことを口走る。
ちなみに神符は飽くまでも妖力賦活のためのものであった悪霊退散的なやつではない。
そうしている間に、救出された方の橘音が目を覚ます。

「橘音くん! 大丈夫!?」

>「やあ、クロオさん。こんなところまで、ボクを連れ戻しに来てくれたんですか?」

「ちょっと! 危ないからそっちに行っちゃ駄目!」

しかし、薄い笑みを浮かべるその人物はいつもの橘音ではなかった。
橘音は自ら異形の方へ歩いていき、一行と対峙する。

>「ということでして。ボクの秘密を見た皆さんには、ここで死んで頂きます」

「それ噛ませ悪役の鉄板台詞だし!」

>「おっと、ボクを今までのボクと思わない方がいいですよ。繰り返しますが、ここはボクの精神世界なのです」
>「この世界では、ボクが王。ボクが神だ……ボクのしたいことは何でもできる。こんな風にね……!」
>「死にたくなければ、ボクを漂白するしかありません。生きて現世に帰りたければね」
>「それでなくとも、ボクは天魔アスタロト。大勢の人々の命を奪った大悪党だ。完全な漂白対象でしょう?ほら……」

「そんな無茶な……! 何でもできる相手に勝つなんて不可能でしょ!」

86御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/07/26(金) 01:00:30
普通に考えれば、万能の相手に勝つことは不可能だ。
この世界では万能の橘音を漂白することがもし出来るとすれば、それは橘音自身が漂白されることを望んでいるということに他ならない。
戸惑っている間にも、いつの間にか巨大化した異形が腕を伸ばし一行を威嚇する。

>「手加減なんてする余裕は、ありませんよ」
>「この世に存在する限り、ボクはこれからも人々を不幸にする……、絶望させてゆく!このボクを止めてごらんなさい!」

ノエルは理性の氷パズルを弓に変形させ、異形に向かって無数の冷気の矢を放つ。
持ってきてはいたものの橘音に違和感を感じさせてはいけない前提だった今までは使えなかったのだが、今更その縛りは無くなった。

>「まだまだ!アハハハ、じゃあ……こんなのはどうです!?」

異形の中からエロコスverのアスタロトが登場し、ポチへと狙いを定めた。

「何でもアリかよ……!」

3対1でも厳しい戦いであるにも拘わらず、この調子でホイホイ増殖されては勝ち目はない。
それでも異形の橘音をどうにかすれば活路は開けるのではないかという希望的観測のもとになんとか戦っていたのだが――
不意に橘音の姿をした橘音の方が語り始めた。

>「……ノエルさん。いいえ、みゆきちゃん」
>「そう、ボクがきっちゃんです。かつて、アナタと一緒に遊んだ。そして……アナタが妖壊になるきっかけを作った子狐」
>「今まで黙っていて、すみませんでしたね……でも言えなかった。言えるはずなんてなかった」
>「アナタが災厄の魔物を宿すのは、ずっと前から決まっていたことかもしれない――ボクには関わりのないことだったかも」
>「けれど、それが目覚めるきっかけを作ったのはボクだ。ボクがいなければ……」

その言葉を聞いたノエルは戦慄した。
尾弐が酒呑童子の力に呑まれ暴走した時のように、身に余るアスタロトの力に操られているような状態かと思っていたが、違う。
あの時の尾弐は尾弐としての意識は無い状態だったが、今の橘音は橘音の意識をはっきりと保ちつつ、このような行動に出ているのだ。

>「ボクはみゆきちゃんを幸せにできなかった。不幸にさせてしまった」
>「長い年月が流れて、雪の女王がボクに依頼してきたとき。今度こそ幸せにしてあげられるかもしれないと思ったんです」
>「でも、無理だった。ボクは結局、同じ過ちを繰り返しただけだった。また、アナタに色々な業を背負わせてしまった」
>「ボクは本当に、ダメなやつですね……」

ノエルは橘音の言葉を無言で俯いて聞いている。
肩が微かに震えているが、怒りか哀しみか、その表情は見えない。

>「な・の・で!ノエルさんはそんなダメなボクに今までの恨みを思う存分ぶつけちゃってください!」
>「さもなくば殺します。今のアナタとボクの関係は、オトモダチなんかじゃない。敵同士なのですから」
>「……勝負ですよ。ノエルさん」

ノエルは武器を剣に変形させ、無言のままで橘音を迎え撃つ。
押されつつもなんとか凌ぐが、このままでは押し負けるだろう。
しかし、何を思ったか橘音は後方に跳躍していったん間合いを開けた。

87御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/07/26(金) 01:02:01
>「う〜ん、いけませんね。この期に及んでボクに遠慮してるんですか?敵であるボクに――」
>「だとしたら、いやでも敵として認識させてあげますよ。ボクがホンモノの妖壊だって、救いようのない悪だって」
>「ノエルさん、アナタはずっとボクの素顔が見たいと仰っておられましたね。ボクの仮面を剥がそうとしたことだってある」
>「それならお見せしましょう……このボクの素顔を。ずっと隠し続けてきた、ボクの罪の証を!」

橘音が無造作に仮面を放り捨て、ついに仮面の下に隠された秘密が明かされる。
橘音の顔の右上には、きっちゃんが撃たれた時の、見るも無残な傷跡が残っていた。
おそらく何に変化しようともこの傷跡だけは残るのだろう。
それが橘音が本来変化が得意な妖狐でありながら殆ど変化をしなかった理由なのかもしれない。

>「アハハハハ……どうです?ノエルさん。アナタの想像通りの顔でしたか?」
>「この傷こそ、ボクの罪の証。ボクが妖壊であることの証明です」
>「それを仮面でひた隠しにして、ボクは正義の味方だと。ずっと自分に言い聞かせながらやってきましたが――もう無理です」
>「ボクはやっぱり妖壊だった。この傷を克服できなかった。ボクは……滅びなければならない!」

「……隠すってことはまあそんなことだろうとは思ってた。流石にもうちょっと小奇麗な感じだとは思ってたけど」

ずっと知りたがっていた秘密が明かされたというのに、ノエルもまた興味を失ってしまったというような反応。
そして何故か放り捨てられた仮面を拾い、何を思ったか自ら装着する。

「それよりこれ、いらないなら貰うよ?」

>「はあああああああッ!!」
>「分かったでしょう!?こんな醜いボクが東京ブリーチャーズのリーダーでなんて、いられるワケがないんだ!」
>「ここにいるのは那須野橘音じゃない……ただの狐の妖壊だ!ノエルさん、アナタが躊躇するような相手じゃない!」

傷跡を晒した橘音と、仮面を被ったノエルが激しく打ち合う。

>《このままでは全滅だ……、三尾の精神世界で三尾に勝てるはずがない!貴様ら、撤退だ!撤退!》
>《5分後に結界に穴を開ける!その5分、なんとしてもしのぎ切れ!》

「分かった、5分で決着を付けてやる……!」

ポチはエロコスのアスタロト、尾弐は巨大な異形をそれぞれ相手取っている。
つまり実質一騎打ちだ。

>「アッハハハハハハッ!どうしたんですか?ノエルさん!ボクの素顔が見たかったんでしょう!もっと見たらどうです!」
>「これが!この醜くおぞましい顔が、ボクの素顔ですよ!それとも……もう充分ですか?満足しましたか!」
>「ボクの醜い顔など!もう見たくないですか!?そうでしょう、ええ……そうでしょうとも!アハハハハハ!」

明らかに、視線を合わせさせ瞳術にかけ動きを封じようとする挑発。

88御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2019/07/26(金) 01:03:20
「しまっ……」

挑発に乗ってつい視線を合わせてしまったのか、ノエルの四肢が硬直する。
その隙を橘音が見逃すはずはない。大上段から童子切が振り下ろされる。
すべての化生を滅ぼす尽滅の刃が迫る。万事休すかと思われた――が。
童子切が仮面に接触した瞬間、瞳術にかかり硬直していたはずのノエルは片手で橘音の刀を持つ手首を掴み、その隙にもう片方の手で自らの剣の柄を橘音の鳩尾に叩きこんだ。
絡繰りはこうだ。
橘音は元々瞳術の使い手であるし、異形が瞳術を使ってきたことからも、瞳術を仕掛けてくることは明白。
そこでまず、仮面を被っていると視線がどこを向いているか分からないことを利用し、橘音の瞳術にかかった振りをした。
そして、数百年の間橘音の秘密を隠し続けてきた仮面――間違いなくただの仮面ではなく何らかの妖力的強化は施してあるだろうと踏んでいた。
ならば妖刀の一撃を止めるまでは出来ずとも、弾き飛ばされるにしても砕け散るにしても一瞬の猶予は出来る。
そして剣術というのは、相手に全力で攻撃した瞬間に最大の隙が出来る。相手が瞳術にかかり動けないという前提なら猶更だ。
橘音は少しはひるんだだろうか、それともこの程度では通用せず間髪入れずに攻撃してくるだろうか。
仮面が外れたノエルは静かに泣いていた。それに伴い、手に持つ剣がキラキラな厨二デザインに変化する。
涙によって完成する永遠という名の剣。それを握り、キレながら橘音に攻めかかる。
ただし当てるのは全て剣の腹だ。尤も、もし当たることがあればだが。

「お望み通り恨みを思う存分ぶつけてやる! こ・の・大馬鹿者の分からず屋!
確かに君は不幸だったかもしれないけど僕が不幸だなんて勝手に決めつけるんじゃない!
大勢の人間の命を奪った!? そんなこと僕に言わせりゃど――でもいい!
人間の数が増え過ぎたらいろいろ困るからたまには減るぐらいで丁度いいの!
妖壊!? そんなの人間が自分達にとって都合が悪い奴らを定義しただけの言葉でしょ!」

もちろん橘音を説得するための言葉だが、祈の前では決して言わない精霊系妖怪としての本心の一面でもある。
そして、隙をついて妖力賦活の神符を右の額の傷跡の部分に貼る。
敵対している状態の今の橘音に貼れば相手が更に強化されるかもしれないにも拘わらず。

「痛いよね……。今まで気付かなくてごめん。それで少しでも良くなるといいんだけど」

今度は絆創膏か何かと勘違いしているようだ。
橘音が攻撃をやめないなら息も絶え絶えに打ち合いつつ、
万が一呆然として動きを止めるようなことがあれば抱きしめ、共に帰るように説得する。

「君が何と思おうとも僕はきっちゃんに会えて嬉しかったよ。橘音くんにまた会えてもっと嬉しかったよ。
たくさんたくさんありがとう。だから…… 一緒に帰ろう?」

89尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/07/30(火) 23:40:30
異形の腕が尾弐の全身を打ちつける。
嵐の如き猛攻に、皮膚が裂け、血が滲む。
されど止まらない。尾弐黒雄は止まらない。
それは、立ち止まれば那須野橘音に辿り着けないと理解しているからだ。
痛みを無視し、暴虐の中を進んでいく。

……状況を鑑みれば、尾弐の行動は下策と言っていいだろう。
いかな頑強な肉体とて、打ち続けられればいつかは砕ける。
まして、尾弐は以前の様にその肉体に大妖の力を有していないのだ。
能力的には、明確に劣化しているといっていい。
恐らく、現時点で尾弐が異形に対抗出来る時間は8分……いや、5分といった所だろう。
そして、その時間では尾弐は那須野に辿り着くに、あまりに足りない。

「ったく、好き放題殴ってくれやがって……けどまあ、『これだけ近づけば』十分だろうよ」

だが忘れるな――――この場にいる妖は、尾弐だけではない。
足りないのであれば、誰かがそれを補えば良い。

>「尾弐っち!背中貸して!」

雪妖によって巻き起こされた豪雪。その雪影に紛れ、異形の妖の死角――尾弐黒雄の背を踏み台にし、彼は跳び出した。
送り狼、その身に獣を宿す者。東京ブリーチャーズのメンバー『ポチ』。
ノエルの支援と尾弐の防御を巧みに活用した奇襲が、異形が抱える那須野を引きはがし、異形の体へ刃を突き立てる――――!


(やったか――――!?)

各々が成すべき事を成した、これ以上ない完璧な連携。
中空を舞う意識が無い那須野にとっさに手を伸ばし、抱え込むようにして受け止めた尾弐は、同時にポチの刃が異形へと辿り着いたのを目にし、作戦の成功を脳裏に過らせた。
しかし

>《!!……待て!そいつを傷つけるな!》

天邪鬼の驚愕の声と同時、尾弐も驚愕に大きく目を開く。

「な……!?」

それは、ポチの切り裂いた異形に浮かぶ無数の顔が故の事。
その中に有ったものが――――他ならぬ、那須野橘音の顔であったから。

90尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/07/30(火) 23:41:12
>《簡単なことではないか、なぜ気付くのが遅れた!?私は奴を、何らかの手段で紛れ込んだ異物と思ってしまっていた――》
>《だが、そうではなかった……奴は『最初からこの世界に存在していた』のだ、すなわち……》
>《あれが、本当の三尾だ!》

危急の事態に、それでも対応すべく大きく後ろへと跳んだ尾弐の耳に、天邪鬼の言葉が届く。
その言葉は、作戦の前提条件が違っていたという事実を否応なしに尾弐に知らせた。
ならば、と腕に抱える那須野へと視線を下ろすと

>「やあ、クロオさん。こんなところまで、ボクを連れ戻しに来てくれたんですか?」
「……おう。だが、ちっとばかし推測が違っててな。今更だが、やっぱし俺はワトスンには向いてねぇらしい」

一瞬笑みを浮かべた、その後。
万が一にも落としたりせぬよう抱えていた那須野は、いつの間にか尾弐の腕を抜け、異形へと向けて歩を進めていた。

>「ちょっと! 危ないからそっちに行っちゃ駄目!」
ノエルの制止の言葉も届かない……それは、異形と目の前の那須野が同一の存在であると言う事を示していて。

>「ようこそ皆さん、ボクの心の中へ。……つまらない田舎芝居を長々と観賞させてしまって、まったくお恥ずかしい次第です」
>「アナタたちが今まで見てきたもの、それこそがボクの過去。紛れもない、この那須野橘音の記憶ってヤツです」
>「絶対に他人に見られたくなかった、ボクの罪。ボクの咎。ボクの過ち……」
>「そのすべてを。アナタたちは見てしまった」

見誤った。
己が失態に、首をゴキリとならしながら大きく息を吐く尾弐。
そして、そんな尾弐を尻目に那須野は語る。
後悔を、告解し、懴悔する。そしてその終わりにこう言うのだ。

>「ということでして。ボクの秘密を見た皆さんには、ここで死んで頂きます」
>「おっと、ボクを今までのボクと思わない方がいいですよ。繰り返しますが、ここはボクの精神世界なのです」
>「この世界では、ボクが王。ボクが神だ……ボクのしたいことは何でもできる。こんな風にね……!」
>「死にたくなければ、ボクを漂白するしかありません。生きて現世に帰りたければね」
>「それでなくとも、ボクは天魔アスタロト。大勢の人々の命を奪った大悪党だ。完全な漂白対象でしょう?ほら……」
>「手加減なんてする余裕は、ありませんよ」

尾弐達を殺すと。死にたくなければ、己を漂白してみせろと。
噴出される莫大な妖気の中、異形がその身を膨らませ拳を振るう。

>「そんな無茶な……! 何でもできる相手に勝つなんて不可能でしょ!」
「可能不可能なんざ考えるのは、何でも試してみてからでも遅くねぇよ――――来るぞ」

向けられる害意を感じつつ、尾弐は那須野の言葉を耳にして――――再度、息を大きく吸う。此処が、正念場だ。

91尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/07/30(火) 23:41:50
>《クソ坊主!くれぐれも無理をするな、昔のような相打ち上等の戦い方は避けろ!》
>《貴様はもう一介の名もなき鬼に過ぎん!酒呑童子の力は喪われているのだ、それを忘れるな!》

「評価してくれる所悪ぃが、なっ! この被弾は単純に追い詰められて――――ガッ!?」

強化された異形の拳、手数も重さも先程までとは数段違う猛攻を額に受け、尾弐の体が跳ね上がる。
直後に、他の腕が四肢と胴を打ち据え、少し離れた地面へと叩き付ける。
追撃とばかりに更に数本の腕が振り下ろされるが、尾弐は背筋だけで跳躍すると、中空で体制を変えそれを回避する。

「ゲホッ!……ったく、滅茶苦茶やりたがって。オジサンの硝子の腰から変な音鳴ったじゃねぇか……っ」

再度異形へと向き直り拳を構えた尾弐は、額に滲んだ血を右袖で拭いながら思考する。

(回避しようにも単純に手数が足りねぇし、切れる手札も少ねぇ……おまけに奴さんはどんどんデカくなりやがる。さて、どうしたモンかね)

異形に見えぬよう片手を背中に回して印を結んでみるが、法術が発動する気配は無い。
酒呑童子の心臓を宿していた頃であればともかく、自身から望んで悪鬼に堕ちた今の尾弐は、もはや法力の類を使用する事は叶わないらしい。

>「ゴオオオオオオオオオオ―――――――――ッ!!!」

と、そんな尾弐の隙を見出したかの様に放たれるのは無数の貌から放たれるレーザー

「なっ!?」

尾弐は咄嗟に発勁の要領で地面を蹴り、分厚いアスファルトを捲り上げ、隆起させる事でレーザーへの盾とする。
そうして作った僅かな時間を用いて全力で駆け、その場から大きく距離を取る
振り返り見れば、あれ程に分厚かったアスファルトは赤熱し、溶岩の様に溶け果てていた。

「怪獣映画かよ……こいつぁ、力づくでどうこうするのは無理筋か。なら、まあ仕方ねぇ……ちっとばかし頭を使うとするかね」

そう言うと尾弐は逃げる様に背を向け走り出す。目指す先は雑居ビル、その中の探偵事務所。
異形は尾弐を追撃するだろうが、その巨体こそが障害となり、建物への追撃を阻むだろう。
勝手知ったる事務所内を土足で走り抜けると、目当ての部屋に辿り着いた尾弐は――――『ソレ』を見つけた。

>《このままでは全滅だ……、三尾の精神世界で三尾に勝てるはずがない!貴様ら、撤退だ!撤退!》
>《5分後に結界に穴を開ける!その5分、なんとしてもしのぎ切れ!》

『ソレ』を取り外そうとしている尾弐の耳に響くのは天邪鬼が撤退を促す声。
非常時であるにも関わらず的確な判断を下せるのは、流石というべきだろう。
尾弐とて、その判断は正しいとそう思う。だが

「分かった。もし時間が来たらノエルとポチを脱出させてやってくれ――――俺は残る」

その忠告に対し、尾弐はまるで買物でも頼むかのような気安さで、そう言い切った。
外道丸が何か言おうとするだろうが、それを遮る様に尾弐は再度口を開く。

「外道丸、お前さんもいい年になったから教えてやる。女を口説くときに大事なのはな、根気だ」
「心配すんな。必ず説得して戻るからよ……ま、失敗しても馬鹿な男が心中したって笑ってやってくれ」

そう言うと、尾弐は荷物を手に抱え屋上への階段を駆け上がる。


・・・

92尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/07/30(火) 23:42:33
眼下では、更に体躯を増した異形が標的を捜している。
……とある小さな子狐の成れの果て。その姿を暫し凝視した尾弐は、やがて意を決したように口を開く。

「おいおい大将、どこ捜してんだ。いつもみてぇにもっと頭を使ってくれや」

建物に入った尾弐を追撃せんとするのであれば、異形は声を聞くだろう。姿を見るだろう
雑居ビルの屋上、そこに立つ喪服の男――――尾弐黒雄を知るだろう。
右手に布で包んだ大きな盾の様な物を持った尾弐は、異形に向かい挑発的な言葉を吐くと、屋上の淵へと歩を進める。

「……さて、隠れんぼも飽きた。次は鬼ごっこだ。たまにゃあ童心に返って遊ぼうじゃねぇか」
「尾弐はオジサンがやってやるから、しっかり逃げろよ。タッチされたらお前さんの負けだぜ」

そして、そう言うと尾弐は――――屋上の淵を蹴り、『ソレ』を正面に構えて異形へと向かい落下した。
落下する尾弐に異形は攻撃を加えようとするだろう。
先に用いたレーザーか、或いは動きを制止する眼光か。

だが、そのどちらだろうと問題ない。

「悪いな。事務所の洗面台から引っ剥がしてきちまった。後で経費で落としといてくれ」

尾弐は構える――――那須野の探偵事務所の洗面台。そこに嵌められていた『鏡』を。
レーザーとて、所詮は光の収束に過ぎない。落下までの数秒程度であれば、溶解する前に反射し逸らす事は容易だ。
まして眼光であれば尚更。かつてギリシアの英雄ペルセウスが、メドゥーサの魔眼を封じ込めたかの如く、眼光は異形自身を縛るだろう。
仮に無数の手による拳を向けられたとしても、飛び降りた尾弐は異形に向かい落下するのみ。何度殴られようと、必ず那須野の傍へと辿り着ける。

異形――――那須野の近くへと着地した尾弐は、受けた傷を隠し堂々と立ち上がる。
そして、異形に浮かぶ無数の貌。その一つへ向けてはっきりと、静かに告げる。

「なあ、那須野。お前さん、自分がどれだけの罪を犯したか本当に理解してるか?」

「お前の行為で沢山の人間が死んだ。未来を担う子供も、帰りを待つ人間が居る大人も、善良に生きてきた年寄りも居た」
「明日を生きられた筈の命を、これから過ごす筈だった未来を。お前は、お前の意志で、お前の為に殺したんだ」
「そして、その命が生きる事を願っていた多くの人間をお前は絶望へ叩き落した。心を地獄へと叩き込んだ」
「……今まで誰もお前さんに言ってやらなかったみてぇだから、俺が言ってやる」

「お前の犯した罪は、何をしようと決して許されねぇ」

「――――俺が、お前の罪を許さない」

その言葉は、刃。
全てを知った上で、事情を知った上で。
容赦無く。躊躇い無く。情けも無く。
尾弐は那須野へと言葉という名の傷を刻む。
此処が精神により構築された世界であるのなら、その言葉の暴威はあらゆる暴力をも上回る。

……一歩、尾弐が歩を進める。

「お前さんの過去を知った俺には責任が有る……大悪党、アスタロトを漂白する責任だ」

建物の影が重なり、異形から尾弐の顔は窺い知れないだろう。
例え異形がその拳を振るおうと、絶対に尾弐は止まらない。更に歩みを進める。
そうして那須野の至近まで近づくと、まるで断罪を執行するかの様に、尾弐は貌の一つへと右手を伸ばし――――

パチン、と。冗談の様に軽い音が、貌の額から響いた。

93尾弐 黒雄 ◆pNqNUIlvYE:2019/07/30(火) 23:52:56
異形が尾弐の手を見れば、その手が……まるでデコピンを放った後の様な形をしている事に気付くだろう。
そして、建物の影から抜け出した尾弐の表情は――――苦笑。
彼は言う

「けどまあ生憎と、俺は悪鬼。悪い鬼でな」
「悪鬼らしく、気が向かねぇからって理由だけで、果たすべき責任を果たさねぇ事にしたんだ」


「だから、那須野橘音は此処に居ろ。俺が何時か責任を果たす日まで、俺の隣で生き続けろ」


演歌の様に不器用な話。男はこう言っているのだ
自身が那須野橘音の罪を許さない。許さない存在であり続けるから、お前は消えずとも良いのだと。此処に居て良いのだと

―――――犯した罪も含めて、那須野橘音を絶対に手放さないと。

尾弐にはノエルの様に優しい言葉を掛ける事は出来ない。その資格もない。
されど尾弐は知っている。
自身を消してしまう程の過去の痛みを。
仕方なかったと赦される事の苦痛を。
それを知るからこそ、言える言葉も有る。

尾弐は、言葉と共に異形の伸ばした手の内の一つを無理矢理に握り、掌を合わせ、数多の貌の一つと霞の如き体を抱き寄せんとする
……思えば、那須野の過去から現在まで、尾弐は一度たりとも『異形』を傷付ける事はしていなかった。
それは、何とはなしに『異形』が那須野自身である事に気付いていたからなのかもしれない。

罪を許さず、されど断罪という責任を果たさぬ事を決めた者――――『共犯者』として、尾弐は那須野橘音に向き合う。


仮に自身の言葉が届かなくとも、尾弐は後悔する事は無いだろう。
惚れた女の傍で死ぬのなら、きっと笑って死ねるだろうから。

94ポチ ◆CDuTShoToA:2019/08/03(土) 15:55:15
酔醒籠釣瓶の切先が、異形の顔面を切り裂いた。
手応えはあった。距離も埋まった。この機を逃す手はない。
着地と同時に、ポチは再び刀を振りかぶり――

《!!……待て!そいつを傷つけるな!》

天邪鬼の制止を受けて、次なる一撃を踏み留まった。
同時に、気づいた。
自分が切り落とした異形の顔面――その奥に、隠されていたものに。

「橘音……ちゃん?」

>《簡単なことではないか、なぜ気付くのが遅れた!?私は奴を、何らかの手段で紛れ込んだ異物と思ってしまっていた――》
 《だが、そうではなかった……奴は『最初からこの世界に存在していた』のだ、すなわち……》
>《あれが、本当の三尾だ!》

「……どうなってんのさ。橘音ちゃんは、だって……」

やむを得ず、ポチは不在の妖術で異形から距離を取る。
そうしてたった今さっき助けたはずの「那須野橘音」を振り返る。

>「やあ、クロオさん。こんなところまで、ボクを連れ戻しに来てくれたんですか?」
>「……おう。だが、ちっとばかし推測が違っててな。今更だが、やっぱし俺はワトスンには向いてねぇらしい」

橘音は、目を覚ましていた。そして自ら尾弐の腕から脱した。
そのまま異形の方へと歩み寄っていく。

「止まれ、橘音ちゃん。そいつは君を攫おうとした、僕らに襲いかかってきた、敵だ」

彼女が自分の足でそちら側へ行く事が、自分達にどういう結論をもたらすか。
それが想像出来ない橘音ではない――それでも、ポチは警告をした。
だが橘音の歩みは――異形の傍らに辿り着くまで終ぞ、止まらなかった。

>「ようこそ皆さん、ボクの心の中へ。……つまらない田舎芝居を長々と観賞させてしまって、まったくお恥ずかしい次第です」
 「アナタたちが今まで見てきたもの、それこそがボクの過去。紛れもない、この那須野橘音の記憶ってヤツです」
 「絶対に他人に見られたくなかった、ボクの罪。ボクの咎。ボクの過ち……」
 「そのすべてを。アナタたちは見てしまった」

「……僕らの仲で他人だなんて、水臭いじゃないか。過去に何をしてたって、君は君だろ」

ポチの声に動揺はなかった――同胞に関わらぬ事で心乱すのを、狼王の宿命は許さなかった。
戦わずに済むならばそれが最良。
しかし殺し合いになるなら、それもやむなし、といった声色だった。

>「アナタたちの声は、ずっと聞こえていました。どんなことを考えているのかも。当然でしょう?ここはボクの中なのだから」
 「皆さんの行動は筒抜けだった。アナタたちと天邪鬼さんの相談も、作戦会議もね」
 「ボクは、すべて把握したうえで。アナタたちをこの世界で泳がせていた……ということです」

「だったら……分かるはずだろ。ノエっちが、尾弐っちが……どんな気持ちでここに来たか」

あえて二人の名のみを並べ、自分を省いたのは、半ば無意識の事だった。
ポチは打算という名目なしには、ここには来れなかった。
だからこそノエルと尾弐に自分を並べるのは、憚りがあった。

>「ボクは妖壊です。それも、とびっきり邪悪なやつだ」
「そんな邪悪な存在が、東京ブリーチャーズなんて!帝都の守護者気取りとは、お笑い種ですね!」
「皆さんは、ボクにまんまと騙されていたんですよ。まったく、なんてお人よしなんでしょう!これが笑わずにいられますか!」

ポチはもう、何も言わない。
結局のところ、選択肢は、少ない。

95ポチ ◆CDuTShoToA:2019/08/03(土) 15:57:09
ポチは考える――ノエルも尾弐も、橘音を本気で漂白する事は出来ないだろう。
だからこそ、その役目を果たせるとしたら、それは自分だ。
だがポチにとっても、橘音は掛け替えのない仲間――そして失う訳にはいかない戦力だ。
狼の王が、危険を冒してでも説得をする理由は、ある。

>「ということでして。ボクの秘密を見た皆さんには、ここで死んで頂きます」
 「おっと、ボクを今までのボクと思わない方がいいですよ。繰り返しますが、ここはボクの精神世界なのです」
 「この世界では、ボクが王。ボクが神だ……ボクのしたいことは何でもできる。こんな風にね……!」

ポチは刀を担ぐように構え、左手を地面について、戦闘態勢を取る。
殺したくはない――だが戦いは最早、避け得ない。

>「死にたくなければ、ボクを漂白するしかありません。生きて現世に帰りたければね」
 「それでなくとも、ボクは天魔アスタロト。大勢の人々の命を奪った大悪党だ。完全な漂白対象でしょう?ほら……」
 「手加減なんてする余裕は、ありませんよ」

異形の体躯が見る間に膨れ上がっていく。
それに伴って膨張した無数の腕が、唸りを上げてブリーチャーズへと迫る。

>「この世に存在する限り、ボクはこれからも人々を不幸にする……、絶望させてゆく!このボクを止めてごらんなさい!」

ポチは襲い来る拳を躱しつつ、刀で迎え撃つ。
異形の拳から腕にかけて深く長い刃傷が走る。
だが異形は相変わらず、まるで怯んだ様子を見せない。

やはり、あの再生力を相手にポチの闘法では相性が悪い。
ならば――狙うべきは、いつもの学生服姿の、那須野橘音の方。
打撃の嵐に紛れて不在の妖術を使えば、不意を突く事も――

>「まだまだ!アハハハ、じゃあ……こんなのはどうです!?」

不意に感じた、殺意のにおい。
伸縮自在の腕による異形の一撃――その死角から、那須野橘音がもう一人「生えて」きた。
瞬間、弧を描き迫る大鎌の一閃――ポチは咄嗟に不在の妖術を用い、回避。
漆黒の被毛が、僅かに宙を舞う。

「アスタロト……!」

大鎌の乱舞、魔法陣から放たれる散弾じみた光弾の嵐。
それらはポチの強みを確実に潰していた。
大鎌のリーチと刃は、地を這う狼を薙ぐに最適。
いかに俊敏に動こうとも、無数に散らばる散弾は不在の妖術でなければ躱せない。
結果、攻めに転じる事が、出来ない。

>「アッハッハハッハッハッ……アーッハッハッハッハッハッ!」
>《本体ではないとはいえ、それも三尾の精神のひとつに違いない……。殺せば何が起こるか分からん。全力で避けろ!》

「これが全力に!見えないのかよ!」

防戦一方の鬱憤を存分に乗せて、ポチは叫んだ。
更にアスタロトは指笛を吹き、下僕の毒竜を呼び寄せる。
毒霧の吐息を、壁を兼ねた目眩ましとして、大鎌と光弾が更なる脅威と化して押し寄せる。
加えて、相手は自由に上空への離脱さえ可能と来ている。
いよいよ、ポチには反撃の手立てがなかった。

96ポチ ◆CDuTShoToA:2019/08/03(土) 15:58:24
>《このままでは全滅だ……、三尾の精神世界で三尾に勝てるはずがない!貴様ら、撤退だ!撤退!》
 《5分後に結界に穴を開ける!その5分、なんとしてもしのぎ切れ!》

「……っ」

撤退――その言葉は、今のポチには拒み難いものだった。
自分は決して死ぬ訳にはいかない。だが橘音を倒す算段は立たない。
ならば撤退するというのは、当然の結論だ。

「――余計なお世話だ!ここまで来て、逃げ帰るなんて出来るもんか!」

だが、ポチはその誘惑を跳ね除けた。

赤マントの手管を知り尽くす橘音は、今後の戦いに必要不可欠。
たかが狐妖を相手に逃げ出すなど、狼王の名折れ。
何よりも最愛の妻に巣食う罪の意識を、そのまま捨て置くなど出来る訳がない。
橘音を見捨てられない理由なら、まだ十分にある――ポチは自分に言い聞かせる。

「心配するなよ。勝算なら、あるさ」

不意に、ポチの右の眼窩――空洞になったそこから、血が湧き立った。
赤黒い血液は渦を巻くようにして球体と化し――眼球を成す。
己と同化した『獣』の妖力、それを血肉として顕現したのだ。
とある事情から、常時使用するには問題のある妖術だったが――出し惜しみの出来る状況ではない。

『獣』の右眼は、あらゆるものが、恐ろしくよく見えた。
ドラギニャッツォの撒き散らす毒の粒子も、
アスタロトが振り下ろす大鎌の刃紋も、
無数に放たれる光弾一つ一つの軌道さえも、よく見えた。

ポチが、迫る光弾の一つを切り払う。
酔醒籠釣瓶が帯びた鬼切の力は殆ど薄れていたが、
それでも童子切が犯転を切り裂いたように、刃は実体なき弾丸を切断した。

軌道の逸れた光弾が、また別の光弾を弾く。
それが刹那の間に、幾度となく繰り返されて――最小限の動作で、弾幕が裂ける。
やっと、言葉を弄する余裕が出来た。

「……たった一回の口づけで、もう満足しちゃったのか、アスタロト」

発するべき言葉は、アスタロトを会話に乗せる為の挑発は、既に用意してあった。

97ポチ ◆CDuTShoToA:2019/08/03(土) 16:00:04
「お前が赤マントを裏切ったのは、こんな手の込んだお別れをする為か?……違うだろ」

あの酔余酒重塔での夜での彼女の言葉を、ポチは覚えている。


『……主導権は?言っておきますが、今ひとりに戻れば魂の総量の分だけボクの意識が残る可能性が高いですよ。アナタは消える』


那須野橘音に付け入る隙があるとすれば、ポチにはそれしか考えられなかった。

「あの夜の先に、行きたくないのか。もっと、もっと色んな事がしたくないのかよ」

少なくとも一度、アスタロトは尾弐への愛の為に、己を曲げている。
もしも二人が「一人」に戻っていたとしても、その愛情が目減りしている事はあり得ない。

「……橘音ちゃんがどうしてもここでお別れしたいって言うなら、仕方ない。
 もう一度手を貸せ、アスタロト……尾弐っちとは、お前が幸せになればいい」

ならば同じ急所を、もう一度突き刺すまでだった。

そして、これが今のポチの精一杯でもあった。
戦力の確保を目的とするなら、アスタロトを呼び戻す事が出来ればそれでいい。
赤マントの謀略も、シロの罪悪感も、アスタロトが橘音として戻ってくれば問題ではない。
那須野橘音に呼びかけ続ける事を、狼王の宿命は許さなかった。

「……今となってはお前の方が、尾弐っちを愛してるだろうしな」

だから――正真正銘、ポチにはこれが精一杯だ。
尾弐への愛情を引き合いに出した、挑発――ないし精神攻撃。

「一緒に地獄に落ちようなんて、嘘ばっかりだ。橘音ちゃんは」

アスタロトには効果は覿面だった――ならば橘音にも、それは同じはず。
そうであってくれと、ポチは祈った。

98那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/08/07(水) 21:00:49
橘音はかつて創世記戦争によって衰弱したアスタロトに魂を啖われた際、あべこべにその天魔の能力と魔力を奪い取った。
赤マントの教育もあり、橘音は今や完全にアスタロトの力を自分のものにしている。
酒呑童子の力を体内に宿しながら、それとは決して相容れることのなかった尾弐とは根本的に違う。
橘音はあくまで、那須野橘音として。ごんとして、東京ブリーチャーズの三人を殺そうとしている。
砕けた眼窩から剥き出しになった右眼が、ぎょろりと動く。どす黒い血が一筋零れ、頬に線を刻んでゆく。

>……隠すってことはまあそんなことだろうとは思ってた。流石にもうちょっと小奇麗な感じだとは思ってたけど

「アハハハ……。小奇麗なわけないでしょう。そんな生易しいものなら、最初から悩まない。苦しんだりしない」
「何をしてもダメだった。天魔の魔力を使っても、妖狐として修業を積んでも。どんなに変化が得意になっても、この傷は消えない」
「なぜなら、この傷はボクの罪だから。ボクの過ちの歴史だから。ボクの犯した罪科が決してなくならないように――」
「この傷も。ボクが滅びない限り、決してなくならない」

薄笑いを浮かべながら、橘音は軽く顔の右側に右手を触れさせた。
そして、次の瞬間には人差し指を眼窩に突っ込み、ぐぢゅぐぢゅとかき回す。
こぷっ、と黒い血液が溢れ、顎先へと落ちて地面に滴る。

「ボクは呪われているのです。ボクが誰かのために何かしようとすると、それは大抵裏目に出て終わる」
「兵十のときだってそうだ。ボクは彼を幸せにしたかった。でも、できなかった。ボクは罪滅ぼしさえ満足にすることができなかった」
「みゆきちゃんもそうです。ボクが死んだから、彼女は狂った。妖壊になってしまった……今なお続く雪女の宿業を作ってしまった」
「そして、祈ちゃん……。ひとりで戦う彼女を保護し、守ってゆこうと誓ったけれど、ボクにはそれもできなかった」
「すべての原因を作ったあの男を。因果の始まりであるあの男を倒して、過去を清算しようと……そう、思ったのですが……」
「……あれ?あの男……?」
「誰だっけ、それ……?アハハ、思い出せないや……」

壊れた眼窩を自らほじくり、さらに破壊しながら、橘音は乾いた笑い声をあげた。
ノエルが落ちた半狐面を拾い上げる。
仮面の裏側には、ほんの少しだけ血がついていた。
ノエルが半狐面をかぶると、ほんの少し視界が狭められる。
長い間、命を預け合った仲間たちにも黙っていた。隠していた。偽っていた。
それが、那須野橘音の視る世界だった。

>それよりこれ、いらないなら貰うよ?

「そんな面にもう用はありません。アナタにこの傷を見られた今となってはね」
「あとは――アナタたちを始末し、この世界も。何もかも消してご破算と行きましょう」
「何をやっても上手くいかない、すべてが裏目に出る……こんな世界なんて!なくなってしまえばいい!」

ぎゅんっ!

橘音が肉薄し、ノエルに対して童子切安綱を振りかぶる。
童子切は妖異殺しの妖刀。鬼族のみならず、妖怪全般に対して覿面な効果を発揮する。
一太刀でも浴びればアウトだ。数多の妖怪を屠ってきた刀身に宿る妖気が、毒のように浸透して対象を必ず殺す。
また、例え持つ者が剣の心得のないド素人であったとしても、妖刀は達人級の技術を与え妖怪を殺させようと仕向ける。
今の橘音に対抗しようとするなら、上泉信綱か宮本武蔵でも連れてくるしかあるまい。

「アハハハハッ!そんな攻撃でボクを止められるだなんて、本当に思っているんですか!?」
「ほぉら……しっかり目を合わせて!でないと勝負になりませんよ……こんな風に、ね!」

橘音の双眸が不気味に輝く。金縛りの瞳術だ。

>しまっ……

「もらっ、た―――!!」

ノエルが金縛りにかかり、全身を硬直させる。
橘音は必殺の斬撃を叩き込むべく、童子切を唐竹割りに振り下ろした。
しかし。

「ごふっ!」

苦鳴をあげたのは、橘音の方だった。
瞳術によって自由を奪われたかに見えたノエルが素早く橘音の手首を掴み、代わりに橘音の鳩尾を痛撃したのだ。
ノエルの予想通り、半狐面には幾重にも強化の妖術が施され、簡単には壊れたり奪われたりしない仕様になっている。
さすがに尽滅の刃を受けてはひとたまりもなく、額の部分に大きな傷がついたが、それでも一瞬刃を止めることはできた。
ノエルが反撃に転じるには、それで充分だったという訳だ。

「が、は……どうして……」

急所に剣の柄を叩き込まれ、橘音は目を見開くと身体をくの字に折り曲げた。

99那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/08/07(水) 21:03:58
>お望み通り恨みを思う存分ぶつけてやる! こ・の・大馬鹿者の分からず屋!

「ボクが!このボクがバカですって!?」

>確かに君は不幸だったかもしれないけど僕が不幸だなんて勝手に決めつけるんじゃない!

「アナタが不幸じゃなかったら、何が不幸だっていうんです!鬼子として異端視され、力を!記憶を!人格までも奪われた!」
「そして――それを引き起こしたのはボクだ!ボクがいたから――!」

>大勢の人間の命を奪った!? そんなこと僕に言わせりゃど――でもいい!
 人間の数が増え過ぎたらいろいろ困るからたまには減るぐらいで丁度いいの!

「そんなこと!ボクが殺した人たちに言えるもんか!みんな、一生懸命生きていたんだ!その命をボクが無碍に摘み取った!」
「ボクが殺したんだ!ボクが八つ当たりした、ボクが快楽のために殺した!ボクは壊れてるんだ……、妖壊なんだ!」

>妖壊!? そんなの人間が自分達にとって都合が悪い奴らを定義しただけの言葉でしょ!

「ボクは……、ボク……は……!」

叩きつけられる激情に、橘音は動揺した。
きっちゃんであったときも、橘音であったときも、ノエルにこんな激しく言葉を――気持ちをぶつけられたことはない。
泣きながらノエルが叫ぶ。美しく輝く剣を手に、一気に攻めかかってくる。
その技量は決して低くはない。近距離戦は不得手とばかり思っていたが、半端な妖壊では文字通り太刀打ちできまい。
しかし、橘音もまた童子切の妖力で本来の実力以上の剣技を身に着けている。
ふたりは熾烈な鍔迫り合いを繰り広げた。
だが、一撃必殺の斬撃を互いに繰り出していながら、ふたりの姿には憎しみあっての死闘という気配は微塵もなかった。
そう――それは、闘いというよりは。

仲のいいともだち同士の、他愛ないケンカのような――。

「う……うああああああああああああああああ――――――――――――――ッ!!!!」

橘音が絶叫し、童子切を袈裟に振り下ろす。
しかし、その軌道は大振りである。ノエルなら容易に見切ることができるだろう。
ノエルはすかさず神符を黒い血を滾々と流し続ける右眼に貼り付けた。
ごぷっ、とさらに血が溢れる。橘音の顔の右半分を黒く染めてゆく。
橘音の身体が一度ビクン、と震える。その手がだらりと下がり、握りしめていた童子切が床に落ちる。

>痛いよね……。今まで気付かなくてごめん。それで少しでも良くなるといいんだけど

ノエルは橘音を抱きしめた。

>君が何と思おうとも僕はきっちゃんに会えて嬉しかったよ。橘音くんにまた会えてもっと嬉しかったよ。
 たくさんたくさんありがとう。だから…… 一緒に帰ろう?

「……みゆき、ちゃ……」

茫然とした表情で見開いた橘音の、壊れた右眼ではない――左眼に涙が浮かぶ。
それはみるみるうちに目尻へ溢れ、つう……と頬を伝って落ちた。

「……っ……、ぅ……ぇ……」

唇がわななく。

「ふ……ぇ……。ぅっ、ぇぇん……」

ぼろぼろと、まるで堤防が決壊したかのように大粒の涙が零れる。

「う……、うぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……!うわあああああああああああん……!!」

ノエルに抱きしめられ、その想いを受け取った橘音は、当たり憚らずに泣いた。
それは、天魔として。狐面探偵として。長年自分自身を偽り続けてきた子狐の、心からの涙だった。

100那須野橘音 ◆TIr/ZhnrYI:2019/08/07(水) 21:10:04
《チィーッ!やはり貴様に入れ知恵などするのではなかったわ!再度鬼と化せば、こうなることは火を見るより明らかだった!》

異形を前に苦戦する尾弐の脳内に、天邪鬼の毒づく声が木霊する。

>怪獣映画かよ……こいつぁ、力づくでどうこうするのは無理筋か。なら、まあ仕方ねぇ……ちっとばかし頭を使うとするかね

東京ブリーチャーズ随一の巨躯と物理攻撃力を持つ尾弐だが、異形とはまるで比較にならない。
天魔ヴァサゴや姦姦蛇羅など、尾弐が担当する敵は巨大な体躯を持つ者が多い。
しかし、橘音が変化したこの異形はそれらのかつて戦ってきたどの敵とも違う。
ここは橘音の魂の内世界。橘音が王であり、神であり、創造主である。
神と真正面から戦ったところで、勝てるはずがない。

「ゴオアアアアアアアアア――――――――――――ッ!!!」

脱兎のごとく遁げ出した尾弐を追うように、異形も行動を開始する。
しかし、巨大な異形と比較して尾弐は鼠のように素早い。あっという間にビルの中に入ってしまった。
異形はビルの中に入れない。ならばとばかり、無数の腕でビルを殴りつけその外壁を削ってゆく。
まるで重機だ。解体工事さながら、みるみるうちにビルが壊れてゆく。
東京ブリーチャーズに勝ち目など最初からない。生き延びるには、この世界から脱出するしかないのだ。
だというのに。

>分かった。もし時間が来たらノエルとポチを脱出させてやってくれ――――俺は残る

《クソ坊主!?貴様、何を言っている!?》

天邪鬼の驚愕する声が頭に響く。

《血迷ったか!?そこに存在し続けたところで事態が好転することはない!計画は失敗だ!》
《今回はやり過ごせ!撤退しろ、今回はダメでもまたいつか――》

必死で尾弐を説得しようとする天邪鬼だったが、尾弐はそんな天邪鬼の言葉を遮り、

>外道丸、お前さんもいい年になったから教えてやる。女を口説くときに大事なのはな、根気だ
 心配すんな。必ず説得して戻るからよ……ま、失敗しても馬鹿な男が心中したって笑ってやってくれ

《ッ……!この……大バカ者が……!》

外の世界で、天邪鬼は端正な顔をこれ以上ないほど歪めて奥歯を噛みしめた。
何もしなくても異性を魅了し、纏めて焼き捨てなければならない程の恋文を貰った天邪鬼からすれば、到底信じがたい選択だ。
だが、天邪鬼が何を言おうと尾弐は構わず自分の目的のために奔る。

「ゴォガァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!」

胴体に浮き出た無数の白貌が、怨嗟と憤怒の咆哮を上げる。
尾弐が階段を駆け上がる間も、異形の殴打によってビル全体が大きく揺れる。天井の一部が落ち、行く手を阻む。

>おいおい大将、どこ捜してんだ。いつもみてぇにもっと頭を使ってくれや

「……!!」

>……さて、隠れんぼも飽きた。次は鬼ごっこだ。たまにゃあ童心に返って遊ぼうじゃねぇか
 尾弐はオジサンがやってやるから、しっかり逃げろよ。タッチされたらお前さんの負けだぜ

「ギィィィィィオオオオオオオオオオオオ!!!」

屋上から躊躇いもせずに跳躍し、尾弐は異形へと迫る。
当然、異形はそれを迎え撃った。無数の仮面の眼光が一点に、尾弐に集中し、拘束し縛り付ける瞳術が発動する。
……が、尾弐の自由は失われなかった。どころか、異形の眼光は尾弐の持つ鏡によって跳ね返され、異形自身に効力を発揮した。

「ア゛……ギ、ギギ……!!」

万物を憎悪し、縛り付けずにはおかない絶対の瞳術。
それは例外なくどんな相手にも効果を発揮する。そう――自分自身にさえ。
尾弐の用意した鏡によって自らの瞳を直視してしまった異形は、指一本動かせなくなった。
そして、動けなくなった異形の傍に尾弐が降り立つ。

>なあ、那須野。お前さん、自分がどれだけの罪を犯したか本当に理解してるか?

膨れ上がり続けた異形の巨体は10メートルはある。
そんな巨体の、無数にある仮面のひとつへと、尾弐は静かに語りかけ始めた。


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