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【伝奇】東京ブリーチャーズ・弐【TRPG】

100尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/04/22(日) 20:32:25
>「……ここは……」

「……よりにもよって、この神社かよ」

そうして、ポチの後を追って辿り着いたのは――――学生や観光客で賑わう、とある神社であった。
その鳥居の前に立った尾弐は、巨大な鳥居を露骨に顔を顰めながら見上げると、げんなりとした声を出す。
不敬な態度ではあるが、『鬼』という種族である尾弐にとってそれは仕方のない事と言えるだろう。
全国に有る天津神、国津神を祀るものとは異なり、護国の為に散った御霊を鎮める目的で建立されたこの社は、
生粋の神々を奉る寺社程の膨大な神気は無いものの、こと国を護るという『力』においては、他の追随を許さないものを有している。

稲荷神である狐、十二支である犬、山神の類とされる雪女。

東京ブリーチャーズの面々は、妖怪ではあれどそれらの属性を有する為にその影響を受け辛いが、
人の怨みや悪意を根幹とする、国や民草の敵である『悪鬼』の尾弐は、その護国の力を十全に受けてしまうが故に、
この神社とは極めて相性が悪いのだ。

>「……行きましょう」

「あいよ、大将」

現に、鳥居を潜らずにその脇を通り抜ける事で祓い清められる事を避けたというのに、
寺社の敷地へ一歩踏み入った瞬間、尾弐の全身には強烈な負荷が掛かり、その力を制限されてしまった。
人間に例えて言うのなら――――今の尾弐は、世界最高峰の山であるエベレストの頂上へ無酸素登頂をしている様な状態である。
並みの妖怪であれば、そのままケ枯れてしまってもおかしくないのだが……尾弐は精神力でその苦痛を覆い隠すと
平然とした表情の仮面を被りながら人ごみの中をポチを見失わない様に進んでいく。

それから暫く歩を進め、東京ブリーチャーズの面々が拝殿まで辿り着くと。

>「ずいぶん遅かったじゃないか?待ちくたびれたよ」

そこに、そいつは居た。
クリス……東京ドミネーターズの構成員にして、かつて個の力のみで霊災を引き起こした仇敵。
ポケットに手を入れながら不敵な笑みを浮かべるその姿は、多数の敵を前にしているにも関わらず
臆した色など何処にもない。それは、恐らくは強大な力を持つ者特有の余裕というものなのだろう。

>「で?それっぽっちの手勢でこのアタシと戦おうってのかい?おまけにひとりは半妖で、もう一匹は犬っころ――」
>「三年前、十人がかりでアタシにボロ負けしたってのに……記憶力ってもんがないのかねェ?」

その強者の態度のまま、クリスは東京ブリーチャーズへと嘲笑の言葉を投げかける。

101尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/04/22(日) 20:34:03
>「……前回とはメンバーが違います。当然……結果も違うものにするつもりですよ」

仲間と呼べる存在への侮辱に対し、本来であれば怒りを見せなければならないのであろう。
だが、クリスへと切り返す那須野の言葉は鈍く。尾弐もまた言葉を口にしない。
それは、かつての戦いが齎した恐怖もあるだろうが……何よりも、状況が感情のままに動く事を封じている事が大きい。

>「アンタたちの力じゃ、この人間どもを守ることだって覚束ないさ。アタシが指一本動かすだけで、コイツらは簡単に死ぬんだ」
(ああ……実際その通りだ。下手に動いたせいで、なんの関係も無い人間がこの化物の犠牲になったら……)

小さく舌打ちをしながら尾弐は考える。
那須野や尾弐はまだいい。言い方こそ悪いが、人が死ぬ場面には感情が摩耗する程に遭遇している。
『お前のせいで人が死んだ』などとのたまう妖壊や人間にも遭遇した事も一度や二度ではない。
だが、祈やノエル、ポチは違う。
もしもクリスの言った通りに人が死に、それが自分たちのせいであると言われれば、
強い輝きを持つ心を持っている彼等はきっと……そうであるが故に、心に深い傷を負う事になるだろう。
そうさせない為に、尾弐はただ相手のふざけた言い分を聞き続ける事しか出来なかったのだが

>「何がおかしい――普通の生き物は……僕達とは違うんだよ。1回限りなんだよ。死んだらもう二度と会えないんだよ!」

その妥協の沈黙を、いとも容易く打ち破る物が一人。
御幸乃恵瑠
彼は人を殺すと嘯く化生を前にして、真っ直ぐに「それは間違っている」と、そう述べた。
……確かに、この場で明確にクリスを否定する発言をしても、人死にを出さない事が出来るのはノエルだけだった。
だが、それでも強大な敵に対する恐怖はあっただろう。畏れももあっただろう。
けれどノエルはそれらを踏みつぶし、間違っているモノに間違っていると言ってのけたのである。
真っ直ぐなその言葉は、或いはいつかの祈の様な力強さを有していた。だが……

>「じゃ、早速交渉と行こうか。アタシの希望は――」

その言葉も、妖壊には――――壊れた魂には届かない。
ノエルの言葉を愛おしげな笑みで受け止めたクリスは、慈母の様な表情を浮かべノエルを見ながら、
けれどもノエルの意志をくみ取る事をせずに、己が要求を口にする。

>「ノエルの。東京ブリーチャーズから東京ドミネーターズへの移籍――だ」
>「すべて。すべてすべて、すべてだ!すべて殺す……そして新しいルールを作ろう、アンタが……ノエルが一番幸せになる世界を」
>「ノエルを引き渡すなら、アタシも東京制圧には加担しない」
>「まぁ、あっちに義理もあるからね。ドミネーターズの邪魔をする連中は始末するけど、少なくとも無関係の人間に手は出さないよ」

ノエルを寄越せ、と。
自分が幸福にするから、ノエルを渡せと。
それは、感情で考えるのであれば到底受け入れられない要求だ。
しかし、クリスの危険性を鑑みて機械的に考えるのであれば、有用な提案でも在る。
身近な1を捨てて見知らぬ100を確実に救うか、身近な1を取り見知らぬ1000のを危険に晒すか。

その選択肢を、対象たる1の立場で選ばされる事となったノエルは。

102尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/04/22(日) 20:34:57
>「やだなあ、それじゃあまるで僕が不幸みたいじゃないか」
>「お前は一つ勘違いをしている! 3年前……橘音くんは負けてなんかいない! 橘音くんは仲間を無駄死にさせることなんて絶対しない!
>尊い犠牲を出しながらも見事お前を退けたんだ! 現にしばらくの間日本に入ってこられなかった……そうだろう?
>性懲りもなく舞い戻ってきて再戦挑むなんざいい度胸だ!」

狂った愛情を前にして、けれどもその狂愛に首輪を嵌められる事はしなかった。
彼は、己が不幸では無いと。クリスが嘲笑したかつての戦いは、決して無駄ではなかったと。そう謳い

>「それと……橘音くんは糞狐じゃない。おたんこナスのキツネだぁあああああああああああ!!」

最後に、死後の混じったな台詞と共にクリスに対して雪玉を投げ、明確な敵対を示して見せた。



「――――は。言うじゃねぇか、色男」

そして……その言葉を。ノエルの意志を聞いた尾弐は、クリスと対峙してから初めて口を開いた。
組んでいた腕を解き首をゴキリと鳴らしながら、視線をクリスへと向ける。

「よう、見事に振られちまったみてぇだな……まあ、折角だしオジサンから一つアドバイスだ」

そうして、尾弐は先程の嘲笑のお返しとばかりに不敵な笑みを浮かべると、
近くに居たノエルの肩に手を回し、自身の方へと引き寄せてから言葉を吐きだす。

「『俺の』弟分の姉を名乗るなら、人の大事な物を嗤う様なみっともねぇ姿をこいつに見せんじゃねぇよ」

……この尾弐の行動は、ノエルを盾扱いなどしないという明確な意志表示であり、
ノエルに姉としての狂愛を向ける相手に対し、その立場を奪ったと宣言する様な明確な挑発行為でもあった。
そして、その目的は一つ。
即ち――――クリスの敵愾心を一時的に自身に集中させる事である。

まっとうな思考を持った妖怪や人間相手であれば、周囲の人間(ヒトジチ)を危険に晒しかねないこの行為であるが、
一つの街を災厄に沈めようとする程に壊れているクリスという妖壊が相手であれば、目的が叶う可能性は十分に有る。
何故ならば、妖壊という存在は多くが己が求める物に対してある種盲目となっており、
その求めるモノを掠め取る相手を決して許さず、真っ先に排除しようと試みる習性があるからだ。

そうして、それによって時間を作る事が出来れば……騒ぎに気付いた周囲の人間(ヒトジチ)が逃げる、
もしくは仲間たちが周囲の人間(ヒトジチ)へと対処する時間を作る事が出来るだろう。そこまで考えての行動であった。

……最も、先程クリスが那須野を糞狐呼ばわりした時から額に青筋を浮かべていた事からして、
半ば以上感情が交った行動でもあるのも事実なのだが。

103多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:36:01
>「……手ぬるいこと。そんな者は一息に滅ぼしてしまえばよろしいのに」
>「今、血を施してやっても、この者は渇けばまた同じことを繰り返しますわよ?後顧の憂いは断つべきですわ」
>「それとも――東京ブリーチャーズの『漂白』とは、単に衣服を白くするという意味だったのかしら?」
 祈が鎌鼬に馬乗りになったまま血をやっていると、
いつの間にか祈の傍まで近付いてきていたモノが、緩く腕組をしながらそんなことを言った。
 呆れたような声音。揶揄する言葉。しかし祈はそれに対し、不思議と心が波立たない。
祈の中に、確固とした答えがあるからだろうか。
「はん、うっせーよ。ちょっとした間違いくらい誰にだってあんだろ。
それくらいでいちいち滅ぼそうとしてたら、世の中全員滅ぼさなきゃならなくなるだろーが。
支配者気取ってる割に心の余裕ってもんがねーのかよ?」
 喉が渇いたからという理由で人を傷付けた鎌鼬。
確かにここで血を与えても一時凌ぎでしかなく、またいつか渇きに耐えかねて爆発するかも分からない。
だが、祈はその命を奪おうとは思わない。信じない事には何も始まらないと、そう思っているからだ。
祈はその方面に明るくないが、人の法でも余程の罪がなければ死刑にはしないと聞くし、
それを当て嵌めるならば妖怪だって、誰も殺してないのならその命を奪うまでのことはないだろう、なんてことを思う。
 そもそも後顧の憂いを断つ、なんてことを考えていれば、
コトリバコ達を用いて大量虐殺を演じたレディ・ベアをこの場で倒さない理由がないのだから。
 その祈の考えは優しいのではなく、甘さと言っても過言ではなかった。
>「まあ、いいですわ。わたくしのアシストありきとはいえ、悪くない動きでしたわよ、祈」
 悪態をつく祈に、まるで部下を労うような言葉を掛けて、
>「しかしながら――この状況では午後の授業を受けることは難しいですわね。残念ですが……」
>「新しい妖怪の気配もあります。これは貴方のお仲間でしょう?鼻の利くこと――ならば、わたくし今日のところは退散いたしますわ」
 モノは祈に背を向ける。
「仲間?」
 仲間、というのは、不審者を取り押さえた祈へと向かって、校舎からドタバタと走って来る教師達のこと、ではないだろう。
ということはブリーチャーズの誰かがこの近くに来ているのだろうか、と祈は思う。
>「協定はあくまで、貴方とわたくしの間でのみ有効なもの。わたくしと一緒にいるところを見られるのは、都合が悪いでしょう?」
>「それでは、祈。アデューですわ!」
「……また明日な」
 モノの姿が掻き消える、と同時に、
動物めいた軽い足音が祈の元へと近づいてきた。血の匂いにでも釣られたのだろうか。
不審者に続いて犬だか猫だかまで迷い込んでくるなんて新学期早々賑やかだな、と思いながら
祈が足音のした方向へ顔を向けると、そこにあるのは見たことのある動物の姿だった。
 モノと入れ違いに、風のように駆けてやってきたのは、一匹の犬、否、――狼である。
黒い毛並みに白の混じった、特徴的な模様。
モノが言う“貴方のお仲間”とは、この狼のことだったのだろうか。
>「……なにやってるの?」
 子どものような声は、その狼から放たれている。
祈はまだ少しだけ慣れないが、この狼はただの狼ではなく『送り狼』あるいは『送り犬』と呼ばれる類の妖怪だ。
喋ることぐらい朝飯前である。誰が名付けたのか、その名はポチといった。
「なんだ、ポチじゃん。見ての通り血をあげてるんだよ。
喉渇いたって暴れるから。でも東京の水は飲めないって言うし。厄介なもんだよなー」
 溜息交じりに答えながら、祈は赤く変色した薬指を再度強く押す。
一滴の血が落ちたが、傷口が小さかったのかもう塞がり始めてるようで、
それ以上の出血は見込めないようだった。
これで少しは満足してくれるといいけど、と祈が思っていると。
>「……それ、牛乳じゃだめなの?」
 子どものような疑問をポチが投げかけてくる。
ポチは仲間意識が強く、ブリーチャーズを家族のように思ってくれているようだ。
この場に来ているのも、祈の血の匂いを嗅ぎつけて心配になったからだろう。
故にこの質問も、他の物じゃ駄目なのか、祈が傷を負う必要などなかったのではないかと、
祈の身を案じて出たものだと考えられた。
 だからこそ、祈はポチの頭へと手を伸ばす。
「んー……牛乳で良いんだったら、楽なんだけどな」
 そして言葉を濁しながら、ポチの頭を右手で撫でた。

104多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:36:33
 “少なくとも今は”血でなければ駄目だったのだろうと祈は思う。
何故なら飯綱という種類の鎌鼬は、
旋風によって人を傷付け、その傷口から血を舐め去っていく妖怪だからだ。
(ふと冷たい風が吹いて肌に痛みが走る。切られた様な跡ができているが何故か血がない。
そんな不思議な現象の正体とされている)
即ち飯綱にとって人を切り、血を摂取する行為は妖怪としての本懐であり、存在理由に当たるのである。
 しかし現代になり妖怪の肩身は狭くなった。
東京ブリーチャーズなど悪しき妖怪を討伐する組織の存在もあり、
妖怪達はかつてのような悪さをできず、人間界への順応することを強いられるようになった。それ故人間として生活する妖怪も多い。
その中では飯綱も人を切り血を啜るなんて行為は長らくできなかったに違いない。
そうして今、血を飲むことができないどころか、飲める水をも失った飯綱は正気を失った。
不審者のような恰好というお粗末な変化で、
昼間の中学校という人気の多い場所に姿を現すという愚行を犯す程に追い詰められていた。
そんな飯綱を鎮める為には、血を吸わせるという行為でもって、
妖怪としての欲求と渇きを満たすしかなかったのだと、祈は考える。
 とは言え、吸血鬼など血を吸う怪物や妖の類に纏わる伝承の中には、
人間の血が吸えない時にはやむを得ず豚や牛など家畜の血で代用しているという話もある。
牛の乳も血液と同じく体液ではあるのだし、この飯綱ももしかしたら今後は牛乳などで我慢してくれたりするのかもしれないが。
>「祈ちゃんやめて! 口に合うか分からないけどすぐかき氷作るから!
>それと君(鎌鼬)はありのままでいい……主に絵的な意味で!」
 とかなんとか考えながらポチを撫でていると、校門の方から祈の聞き慣れた声がする。
ノエルである。その後ろには橘音や尾弐の姿もあった。モノの言うお仲間とは、ポチだけでなく彼ら全員のことだったのだろう。
こちらに向かって駆けて来る。
>「ヒ……ヒィッ!」
 そのノエルの声で我に返ったのか、祈の左手薬指を舐めていた鎌鼬が急に素っ頓狂な声を上げた。
更に視線をポチに合わせて、仰天したような顔を作り、
「お」
 そして、ぼんっ、と変化が解ける音がして、祈の視点が階段一段分ほど低くなる。
薄い煙のような物が祈の周囲を包み、
その足元で小さな――胴が長く茶色で尻尾が長く、どこか鼠っぽい――動物がちょろりと動いたと思えば、
まるで風のように校門の方へと走り去っていった。
それと入れ違いになるようにして、橘音、ノエル、尾弐の三人が祈の元へと辿り着く。
>「やれやれ……。何を嗅ぎ付けたのやらと思ったら、事件じゃないですか」
 橘音がポチに向かって口を開く。
「橘音達も来てたんだ。おーっす。ま、事件っちゃ事件かな。もう終わったけど」
 更にそこへ教師達も到達した。
息を切らした中年の教師が、祈とブリーチャーズを交互に見る。

105多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:37:18
>「多甫!大丈夫か?怪我はないか?なんて無茶をするんだ!」
>「あの男はどこへ行った?早く警察に通報を……!」
「え? あー……すみません? 男はー、なんつーか、逃げられ……ました?」
 そして口々に、質問を浴びせてくる。
 それに対し祈は言葉に詰まり、歯切れの悪い言葉を返すのが精一杯だった。
 何せ説明できなことが多いのだ。
今し方まで組み敷いていた筈の不審者が何故いないのか、どう答えれば納得させられるだろう?
そしてこの状況に新たに追加された、犬、狐面に学ランの探偵、妙齢の美形、喪服の男、
つまるところ余りにもアクが強く、不審者一同として認識されかねない漂泊者達。
騒ぎを聞きつけて様子を見に来てくれた一般人達だと言って通るだろうか?
ただでさえ不審者が現れ、体育教師が切り付けられたことで教師陣は興奮している。
この場で警察を呼ばれたらこの4妖怪が鎌鼬の代わりにしょっぴかれてしまうのでは。そんな不安がよぎる。
 突如姿を消してしまった転校生のことも、何をどう説明していいのやら。
凶暴な妖怪相手でも決して退かない祈だが、その背に冷や汗が伝う。
 祈が困っていると、橘音がずいと前に出た。
>「まあまあ、落ちついて。ここは偶然居合わせたこの狐面探偵、那須野橘音にどーんとお任せあれ!いや〜みなさん運がいい!」
>「先生方はまず怪我人の対処を。救急車を呼んでください、事情はボクが彼女から訊きますから――いいですね?」
 そしてその口で、その”目”で、教師達をたちまち説得してしまう。
教師達はそれに納得して、離れて行く。
一人は倒れた体育教師へ、もう一人は救急車を呼びに。
先程の興奮もどこへやらすっかり落ち着きを取り戻し、まるで操られるようにてきぱきと処理を進めていく。
>「事情は道すがら窺いましょう。それにしても……ひとりで妖壊を片付けてしまうなんて、気合充分ですね?」
>「ということでお仕事です、祈ちゃん」
 祈へと向き直った橘音が、白手袋に包んだ右手を差し伸べながら言う。
一緒に来てくれ、ということである。
午後にはまだ授業が控えているが、橘音が自分の力を必要としているとなれば、
早退せざるを得ないなと祈は思う。
「……相変わらず便利だよな、その目」
 祈は言いながら制服に付いた砂埃を払い、立ち上がる。
そして仕事を請け負う意思を示すために橘音の手を取ろうとして手を伸ばすが、
躊躇ったように、僅かに触れた指先を離した。
「ごめん、先に手洗ってきていい?」
 地面を触ったり砂埃を浴びたり鎌鼬に舐められたりしているので、ちょっと気になっているのだった。
 校庭に備え付けられた蛇口さっと手を洗い、ハンカチで手を拭いながら、
丁度通りがかった担任教師に『大事を取って早退します』と告げた後、再び祈は橘音の手を取ったのだった。

106多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:40:03
>「ポチさんはクリスの妖気の追跡をお願いします。――で、祈ちゃん?先程は何があったんです?」
 祈は橘音の手を取った。
探偵と言う職業柄なのか、演技がかった立ち振る舞いの多い那須野橘音。
その手を差し伸べる動作も、一種の演出のようなものだったのだろう。
だが一度掴んでしまった手前、自分からは離し難く、
どのタイミングで離せばいいものかと考えている内に離すタイミングを失い、
祈の左手はなんとなく、白い手袋の嵌った橘音の右手と繋がれたままになっていた。
 そうして敵の残り香を追跡するポチの後ろを、橘音と並んで歩いている。
「飯綱っていう、血を飲む鎌鼬がいるでしょ。そいつがうちの中学校で暴れちゃってさ。大騒ぎになったんだよ。
暴れてる原因は東京の水が飲めなくて喉が渇いたからってことだったみたいだから、
ひとまずとっちめてあたしの血を分けてやって、東京の水飲めないなら引っ越せってアドバイスして……
あ、引っ越し先については橘音が教えてくれるかもってことで橘音の名前出したから、
もしかしたら事務所にあとで来るかも。そん時は悪いけど世話してやってね」
 いまいち要領を得ない、身振り手振りを交えた祈の説明だったが、橘音やそれなりに付き合いのある者は理解可能だろう。
だがその言葉を聞いているのだか聞いていないのだか、
心ここに在らずと言うようにぼんやりとして、内容について詳しく言及しない橘音。
その代わりに、という訳ではないだろうが
>「そっか……よく正体見抜けたね。原型に戻ったってことは水の綺麗な山に帰る気になったんじゃないかな? きっと大丈夫だよ」
 ノエルがこんなコメントをしてくれる。
橘音は少し様子がおかしいが、こちらはどうやらいつも通りであるらしい。
「だと良いけどなー。ま、もし出てきて悪さしてもまたあたしがやっつけてやるけどね」
 祈ははにかんで、そんな風に返した。
>「あんまし危ねぇ事はすんなよ、祈の嬢ちゃん。なんでもかんでも助けようとしたら……いつか自分が潰れちまうぜ」
 そして尾弐は今日に限って少し厳しいことを言った。
 祈への心配が見え、何やら反論しがたい重みもあるように思えたので、
祈は「そうだね、気を付けるよ。ありがと」と返すに留めた。
 何か怒ってるのかなと心配になり、祈がちらと尾弐の顔を覗き見ると、何やら難しく緊張した面持ちであった。
その視線はただ前、敵がいるであろう方向を睨んでおり、
少なくとも橘音と祈が手を繋いでいることに怒っている、という訳ではなさそうではある。
 橘音と尾弐はブリーチャーズ結成以前からのコンビで仲が良いらしく、
しかもコトリバコ戦前に橘音から「好きですよ」と言われていた尾弐だ。
もし二人が男女の仲、あるいは性を超越した深い仲であるとすれば、
祈が橘音の手を握っていることに嫉妬の色でも見えるかと思ったのだが、そうではないようだった。
 怒っているのでもなんでもなく、向かう先に待ち構えている者が強大であるから緊張しており、
余裕があまりないのだろうと祈は推察する。
橘音もどうやら似たような状況のようであるし、二人を見て祈も気を引き締めることにする。
そして待ち受ける強大な敵とは何者だろうかと、そう考えた祈は、
先程、聞き捨てならない言葉を聞き捨てていたことに思い至る。
「ていうかさっき、クリスの追跡って言ってなかった!? それってドミネーターズのやつ!?」
 そう言えば仕事内容について説明を受けていないことに祈は気が付いて、
繋いだ橘音の手を引っ張ってがくがく揺すり、半ば無理矢理情報を聞き出した。
クリスという妖怪について。クリスとノエルの関係について。どうして今クリスを追っているのか等々の事情を。
それらを聞いたりそうこうしている内に、
自然と祈と橘音の手は離れて。一行はある場所へと辿り着いた。
 辿り着いたのは、ある神社だった。

107多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:48:00
「あ、この名前聞いたことある」
 祈がつぶやく。
 入口付近に建てられている石碑には、テレビのニュースなどで
政治家が参拝しただのしないだのでよく問題として取り上げられる、有名な神社の名前がある。
日本の為に戦い、そして死んでいった英霊たちを祀っている場所であるという。
 神社の境内で桜が綺麗に咲いていた。
>「……行きましょう」
 立ち止まっていた橘音が意を決したように進む。
 平日だというのに、人が多い。
大きな鳥居の前は観光客や修学旅行生と思しき人々でごった返している。
桜を見に来ているのか、東京民と思しきお年寄りなども見えた。
もしこんな人が多い場所にクリスがいて、ここが戦場になるのだとしたら、大変なことになる。
クリスがここに観光か何かの目的でふらりと立ち寄っただけであって欲しい。
そう願いながらポチや橘音やノエルの後に続き、祈は大鳥居をくぐる。
神聖な雰囲気に、より一層身が引き締まる思いがした。ついでに、鳥居の横を尾弐が通っているのを見て、
もしかしたら鳥居を潜るのは鬼という妖怪的に悪い事なのかもしれない、などと感想を抱いた。
 大鳥居から銅像の横を通って、奥へ奥へと進む。
そうして神門を潜るとやがて、その白い姿を見つける。待ち構えるように拝殿の前に立つ、その姿。
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、歪んだ笑みを浮かべて、
>「ずいぶん遅かったじゃないか?待ちくたびれたよ」
 その白い女はブリーチャーズを出迎えた。

>「せっかく尻尾を掴ませてやったってのに、動きが遅すぎるよ。そんな調子で東京ドミネーターズに抗おうなんて、お笑いぐさだ」
>「いいさ……待たされはしたけれど、アンタたちはちゃんとここへ来た。それは褒めてやるよ」
 その姿は目立つ筈なのに、不思議と誰も気に留めなかった。
拝殿の前に立ち、よく通る声で話しているというのに、まるで何もないように人々は通り過ぎていく。
>「で?それっぽっちの手勢でこのアタシと戦おうってのかい?おまけにひとりは半妖で、もう一匹は犬っころ――」
>「三年前、十人がかりでアタシにボロ負けしたってのに……記憶力ってもんがないのかねェ?」
>「……前回とはメンバーが違います。当然……結果も違うものにするつもりですよ」
 クリスの挑発に対し、押し殺した声で橘音が返す。
道すがら祈が聞いた、三年前のブリーチャーズとクリス一人との決戦、その結末。
それは橘音が言うには、惨敗にも等しい結果であったという。
十人がかりで挑んだがクリスを漂白することは叶わず、かろうじて日本から追放することしかできず。
そして五人もの仲間を失ったのだと。
 そのクリスと相対している橘音の心は今、どれ程の痛みや恐怖と戦っているのだろう。
>「焦りが透けて見えるよ、糞狐。まともに戦って、アンタたちに勝ち目があるとでも?」
 それを見透かすように、クリス。
かつては十名。そして今は五名。半数だ。昔と違い尾弐やノエルなど強力な妖怪がいるとはいえ、
数の上では心もとない数字であるのは明白だろう。
>「アンタたちの力じゃ、この人間どもを守ることだって覚束ないさ。アタシが指一本動かすだけで、コイツらは簡単に死ぬんだ」
 クリスがポケットから右手を出し、その手のひらを横へ、観光客へと向ける。
その掌に雪が冷たい風を纏って生まれた。ブリーチャーズに緊張が走り、祈もまた咄嗟に身構えた。
 クリスはその様を見てくすくす笑うと、すぐに手を下ろす。
>「フフ……。心配しなくてもやらないよ。今はね……やるつもりなら、とっくにやってるんだ」
 三年前は東京中を豪雪で埋め尽くして見せたという、強大な力を持った妖壊クリス。
やろうと思えば本当に、この神社にいる全ての人間を僅かな時間で殺しきれるのだろう。
その残虐さもまた折り紙付きであり、それを知っている故に一挙手一投足にいちいち反応してしまうブリーチャーズの様は
さぞ面白いに違いない。
 嗜虐的なその笑いに、祈の怒りが燃え始めた。それはノエルも同じようで、
>「何がおかしい――普通の生き物は……僕達とは違うんだよ。1回限りなんだよ。死んだらもう二度と会えないんだよ!」
 そう怒りの声を上げた。
 誰にでも命は一つきり。だからこそ尊く、簡単に奪っていいものではないのだと。
だがノエルの痛切な叫びを持ってしても、クリスはその言葉に耳を傾けることはなく、
己の言葉を、要求を、淡々と突き付けてきた。

108多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:49:20
>「正直なところ。アタシにとって、ドミネーターズの東京制圧なんてなんの価値もないし、興味もないことさ」
>「アタシはただ、アタシの目的のために妖怪大統領に手を貸してるに過ぎない。目的さえ遂げられれば、なんだっていいんだよ」
>「アンタも、それを理解した上でここへ来たんだろ?糞狐。でなきゃ、その子をここへ連れてきたりはしないはずだ」
>「じゃ、早速交渉と行こうか。アタシの希望は――」
>「ノエルの。東京ブリーチャーズから東京ドミネーターズへの移籍――だ」
 一度下ろした右手を、今度はノエルへと伸ばしながら。
 クリスがノエルに固執している理由は祈も簡単にだが聞いている。
それはノエルが同じ山で生まれ、特に仲が良かった大切な姉妹であるからだ、と。
故に言っていることは理解できる。『妖怪大統領』という恐ろしい存在から遠ざけてノエルを守るには、
それと敵対する組織である東京ブリーチャーズから抜けさせ、
東京ドミネーターズに収めてしまうことが最も手っ取り早い手段ではあるからだ。
つまりその行動の根底にあるのは、ノエルと言う家族への思いやりである筈だ。
しかし、その瞳を見ていると寒気を覚えるのは何故だろうか、と祈は思う。
そしてその疑問の答えはすぐに明らかになる。
>「こっちへおいで、ノエル。さっきも言ったろ?アンタはアタシが守る。命を懸けて、アンタの平穏と幸せを守ってやる」
>「それがアタシの――姉ちゃんのたったひとつの望みさ。アンタを不幸にする連中は、どいつもこいつも姉ちゃんがブチ殺してやる」
>「アンタをそそのかした、そこの糞狐も。くだらないしきたりに固執して、アンタの記憶を消しちまった雪の女王も――」
>「すべて。すべてすべて、すべてだ!すべて殺す……そして新しいルールを作ろう、アンタが……ノエルが一番幸せになる世界を」
 移籍を断ってみせたノエルに対し、
その言葉を尚も無視して、クリスは更に言葉を重ねていった。
狂気を孕んだその言葉と微笑みで、祈はその瞳を見ていて寒気を覚える理由を知ったのだった。
 この女の両瞳は、ノエルを見ていないのだ。
確かにノエルを視界に収めてはいる。だが映っていない。
 『雪の女王がノエルの記憶を消した』とクリスは言った。
この言葉が真実であるとするなら、今のノエルはクリスの知っているノエルではないのだろう。
故にその瞳に映っているのは、かつて姉妹として親しくしていた“過去のノエル”なのだ。
 そして思考を更に先へ進めれば、三年前にクリスが引き起こした災禍は、
ノエルが雪の女王とやらに記憶を消されたが故に引き起こされた物なのではないか、と推測することもできた。
ノエルは二年半ほど前からブリーチャーズに所属しているということだから、
三年前に記憶を失い、約半年で新しいノエルとして出来上がり、
東京ブリーチャーズに流れてきたのだとすれば辻褄は合わなくもない。
 とかく、大事な姉妹を壊され、それを止めることも助けることもクリスにはできなかった。
その絶望から彼女は《妖壊》となり、全てを壊そうとしたのではないか、と考えることができる。
 だとすれば今彼女がやっていることは、三年前の続きだ。
“今度こそは私のノエルを助ける”のだと、もう決して取り戻せぬ過去を追い求めての、戦いの続き。
そしてその悲願を達成する為ならば誰であろうと容赦はしない。関係ない。そう考えている。
だからその瞳には現在のノエルの姿が映らない。その声が届かない。
 クリスが浮かべる優しいその微笑みが、どこか壊れているように思えて、祈はぞっとする。
差し伸べた手は、一体誰の幸せを掴もうとしているのだろう。
かつてのノエルなら、その提案を聞いて喜んで手を取ったと言うのだろうか?
 優しい筈なのに見る者を凍えさせるようなクリスの視線を受けて、ノエルは困ったように笑った。
>「やだなあ、それじゃあまるで僕が不幸みたいじゃないか」
>「僕は今のままで結構幸せだよ。平穏……とは言い難いけど毎日飽きなくて楽しいよ。
>橘音くんは東京に来て最初の友達だよ。橘音くんの助手の祈ちゃん、半ペットのポチ君。
>こっちは橘音くんの幼馴染……じゃなくて昔からの相棒のクロちゃん。みんな大事な友達なんだ。
>いい場所に店を用意してくれた女王様にも感謝してる。住人は変な奴ばっかりだけどそこがまたいいんだ!
>……って聞く耳持たないか」

109多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:50:26
 クリスの言葉を信じるなら、
今喋っているのは記憶を消された後に生まれた、現在のノエル。
記憶を消され、どれ程辛く怖い思いをしただろうと、祈は心配になった。
だがそのノエルが今は幸せだと言ってくれたことが祈は嬉しかったし、ほっとした。
 だからこの言葉を聞いて、もしかしたらクリスも思い直してくれるかと淡雪のような期待を抱いたが、
>「ノエルを引き渡すなら、アタシも東京制圧には加担しない」
>「まぁ、あっちに義理もあるからね。ドミネーターズの邪魔をする連中は始末するけど、少なくとも無関係の人間に手は出さないよ」
 クリスは変わらなかった。
氷のように冷たく微笑んだまま、己の言葉を一方的にぶつけるだけで、
その耳には、心には。何も届きはしなかった。
 沈黙が降りる。
 クリスには移籍を了承する以外の言葉は届かず、首を縦に振ること以外認めないだろう。
 しかし、言葉は届かなくとも意思は届けることができるに違いない。
例えば、戦う姿勢を見せて明確に敵対することによって。
だがそれは当然に、交渉の決裂だけでなくクリスとの戦闘を意味しており、
また、決して後戻りはできない。
たった五人で、東京を豪雪に埋もれさせることができる災害とも呼べる妖壊と、
しかもノエルにとっては記憶にないとはいえ、同じ山に生まれた姉と戦う覚悟をせねばならない。
当然、勝てなければノエルを除くこの場にいる全員が死ぬ。
移籍を選択するならばこれが最後のチャンスだろうと思われた。
 クリスだけでなく、誰もがノエルの選択を待った。
祈は何か言おうと思ったが、祈るようにノエルを見つめる橘音の姿を見て、
何かを言うよりも信じようと思い、口を噤んだ。
ノエルが決めた事なら、どちらでも構わない。でも、できることならば一緒に――。
 やがてノエルは答えを出した。
そして橘音を見て、何かを決意したように、言う。
>「ごめんね、きっちゃん……。僕の我儘、許してね」
 そしてクリスに向き直ると、
人差し指を立てた右手を、どどんと突き付けるように向け、高らかに宣言する。
>「お前は一つ勘違いをしている! 3年前……橘音くんは負けてなんかいない! 橘音くんは仲間を無駄死にさせることなんて絶対しない!
>尊い犠牲を出しながらも見事お前を退けたんだ! 現にしばらくの間日本に入ってこられなかった……そうだろう?
>性懲りもなく舞い戻ってきて再戦挑むなんざいい度胸だ!」
>「僕を守りたいならお前がこっちに移籍すればいい! いきなりそういうわけにいかないのは分かってる。
>だから……これから真っ白にしてしがらみ全部リセットしてやる! 真っ白になってこっちに来るんだ!」
 大きく振りかぶりながら、その右手に雪玉を生成する。
>「それと……橘音くんは糞狐じゃない。おたんこナスのキツネだぁあああああああああああ!!」
 ぶん、と音がするほどに勢いよく放り投げられた雪玉。
それはクリスへと向かって飛ぶ。紛れもなく、間違いなく、宣戦布告だった。
いかに言葉が届かなくとも、雪玉をぶつけられた痛みでクリスだって理解するだろう。
『移籍などするつもりはない』というノエルの気持ちを。
 祈は心の中で、喝采の声を上げる。よくぞ言った、と。

110多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/04/22(日) 20:51:10
>「――――は。言うじゃねぇか、色男」
 尾弐も同じ気持ちであったようで、そんなことを言った。
更に尾弐はノエルの横に並び立ち、その肩に手を回して見せた。
普段の尾弐ならば絶対にしない動作だった。
>「よう、見事に振られちまったみてぇだな……まあ、折角だしオジサンから一つアドバイスだ」
>「『俺の』弟分の姉を名乗るなら、人の大事な物を嗤う様なみっともねぇ姿をこいつに見せんじゃねぇよ」
 そしてクリスへと向けられたその物言いは、
ノエルの姉であり、姉妹であるノエルを誰より大事に思っているであろうクリスに対する、
明らかな挑発の意味を含んでいた。『お前の居場所は俺が奪っているぞ』と。
 そんなことを言えばクリスの怒りを煽るだけだろうに、何故。
そう考えた時、祈は尾弐の意図を理解する。
 今の状況はクリスにとって『クリス対東京ブリーチャーズ』の構図であり、
ノエルを除くブリーチャーズ全員が攻撃対象になっている。
そしてクリスには、豪雪や吹雪でこの場を閉ざしたり、
ノエルが以前コトリバコ全員を氷で固めたような芸当で全員を纏めて攻撃する術があると思われた。
であるなら、いちいち各個撃破など考えずとも、迷わずそれを実行するだけで良い。
そうなれば尾弐はともかく、人間の血を引く祈や、
動物から転化した妖怪だと考えられる橘音やポチなどはすぐにでも凍え死んでしまう可能性があるのだから。
それでいて雪女であるノエルは冷気に強い為、冷気主体の攻撃ならばノエルを殺してしまうことがない。
故にクリスは何の危険を抱えることなく、ノエルを除くブリーチャーズ全員を攻撃する事が可能なのだ。
神社を訪れている人間達もその攻撃に巻き込まれて死んでしまうことになるだろう。
 だが尾弐はクリスの怒りを煽り、視界狭窄を起こさせることで
『クリス対東京ブリーチャーズ』の構図を『クリス対尾弐』の構図に塗り替えてみせた。
それによってクリスが自分の居場所を奪っている尾弐を殺そうと躍起になれば、
周囲への攻撃は自然と疎かになる。
 即ち、僅かながらの時間が、周囲にいる人間達を逃がすだけの隙ができるのである。
(あたし達に、他のお客を逃がせって言ってんだな? 尾弐のおっさん……!)
 俺が時間を稼ぐから、周りにいる人間のことは任せたと、尾弐の背がそう言っている気がした。
 祈は立ったまま、ぼそぼそと呟く。
「……ポチ。できればでいいんだけど、手伝ってくれる? 周りの人達、こっから追い出そう」
 ポチの聴力ならば、聞こえているであろうと思ったから。
それに周囲の人間を逃がすのであれば、機動力と隠密性を備えているポチは打ってつけだ。
加えて、祈もポチもクリスには侮られている為、クリスの視界から外れた所で大して気にはされまいと思われたのだった。
 クリスが尾弐だけに目を奪われて、ターゲットを全体に移さないうちが勝負だと、
祈は以降何も言うことなく、そこらにいる一般人をめがけて走り始める。
ポチに何らかの思惑があり、周囲の人間を逃がすのを手伝わなくても、
勿論祈はそれに対して怒ったりすることはないし、
神社を訪れている人間達を片っ端から担いで走り、次から次へと神社の外へと投げ捨てるだけである。

111ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/04/22(日) 21:34:42
素朴な疑問を口にしたポチの頭を撫でる祈の右手。
その右手に頬ずりをするように、ポチは首を捻る。

>「んー……牛乳で良いんだったら、楽なんだけどな」

「えー、牛乳でいーじゃん。だって昔よりもおいしくない?ねえ、ほんとにだめなの?」

ポチは不服そうに目を細め、視線を祈から鎌鼬へ。
そして、その混濁した双眸を見つめた。
狼が、他者と視線を合わせる……すなわち警戒心の明示。
その意味は同じく獣である鎌鼬にも理解出来るだろう。
子供のような口調とは裏腹に、ポチは有無を言わせるつもりはないようだった。

>「ヒ……ヒィッ!」

「あっ……ううん、いじわるしすぎちゃったかな」

悲鳴を上げて変化を解き、逃げ去っていく鎌鼬の背を見て、ポチは呟く。
それから祈へ振り返り、鼻を近付ける。

「……怪我はそれだけなんだね。よかった。でも、無茶しちゃだめだよ祈ちゃん」

血の臭いが殆どしない事に安心すると、ポチは満足げに祈にすり寄った。
体勢の関係で脛は擦りにくいので今回はお腹だ。部位に妥協がある分、執拗にすり寄っている。
そうこうしている内に、橘音が近付いてきた。
事後処理が終わった事を察して、ポチは祈から離れる。

>「ポチさんはクリスの妖気の追跡をお願いします。――で、祈ちゃん?先程は何があったんです?」

「りょーかーい」

掻い摘んだ事情を先程聞いていたポチは、皆より少し前を歩き出す。

>「……ここは……」

そうして辿り着いたのは……とある神社。
狼犬であるポチはその名前も、場所が意味するところも知らない。
だが狼の鋭敏な感覚は、その場に満ちる清冽な力を感じ取っていた。

>「……行きましょう」

橘音に続いてポチも鳥居を潜る。
ポチは狼だ。地方によっては神使としても扱われていた狼。
故に神社の『力』は害をもたらさない。

>「あいよ、大将」

しかしポチは一度足を止め、背後を振り返る。
視線の先に捉えるのは、尾弐だ。
狼は優れた感受性を持つ。視覚、聴覚……そして嗅覚によって相手の感情を読み取る事が出来る。
表情も声色も、尾弐の態度は完璧に取り繕われていたが……体臭までは誤魔化せない。

「祈ちゃんの事、言えないね、オニっち。
 ……あんまり、無茶しちゃだめだよ。
 オニっちが無茶するなら、ぼく、もっと無茶するからね」

一度足を止めて尾弐に並び、その脚に控えめに体をすり付けつつ、ポチはそう囁いた。
そしてやや早足で、再び尾弐の前を歩き出した。

112ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/04/22(日) 21:35:33
……歩みを進めるにつれて、ポチの表情が固くなる。
神社の持つ清浄な力のせいではない。においを感じているのだ。
三年前、東京を塗り潰したにおいを。
尻尾も高く、反り返るほどに上を向いている。狼が見せる、明確な闘争心の発露だ。
……不意に、ポチが低い唸り声を零した。
においではない、そのものを目にしたのだ。

>「ずいぶん遅かったじゃないか?待ちくたびれたよ」

不遜な笑みを浮かべた、純白の女、クリス。
ポチはその女が何者なのかを知らない。
ノエルにそっくりのにおいがする事には気付いている。だがそれだけだ。
それより先の事は知らない。
道中に聞けば橘音もノエルも隠さず教えてくれただろう……だが、敢えて知ろうとも、思っていなかった。

>「で?それっぽっちの手勢でこのアタシと戦おうってのかい?おまけにひとりは半妖で、もう一匹は犬っころ――」
>「三年前、十人がかりでアタシにボロ負けしたってのに……記憶力ってもんがないのかねェ?」

間違いなく分かっているのはただ……三年前、五人の仲間を奪ったにおい、その源がすぐ傍にいる事。

>「……前回とはメンバーが違います。当然……結果も違うものにするつもりですよ」

そして……たった今、橘音が怒りも屈辱も噛み殺し、震えている事。
ポチにとっては、それ以上に重要な事などなかった。

>「焦りが透けて見えるよ、糞狐。まともに戦って、アンタたちに勝ち目があるとでも?」
>「アンタたちの力じゃ、この人間どもを守ることだって覚束ないさ。アタシが指一本動かすだけで、コイツらは簡単に死ぬんだ」

ポチが牙を剥く……その真っ白な首に、どれほど牙を突き立ててやりたいのかを、示すように。
だが動けない。ポチは人間が好きだ。姿を隠して驚かせるのも好きだし、姿を見せて存分にすり寄るのも好きだ。
今、怒りを露わにして動けば……それがどういう結果を招くかはポチにだって分かる。

>「フフ……。心配しなくてもやらないよ。今はね……やるつもりなら、とっくにやってるんだ」
>「何がおかしい――普通の生き物は……僕達とは違うんだよ。1回限りなんだよ。死んだらもう二度と会えないんだよ!」

だからノエルがそう叫んだ時、クリスの歪んだ笑みを真っ向から否定した時……ポチは小さく尻尾を振った。

>「じゃ、早速交渉と行こうか。アタシの希望は――」
>「ノエルの。東京ブリーチャーズから東京ドミネーターズへの移籍――だ」

しかし……その真正面からの否定を受けても、クリスは怯まない。

>「こっちへおいで、ノエル。さっきも言ったろ?アンタはアタシが守る。命を懸けて、アンタの平穏と幸せを守ってやる」

愛おしげにノエルを呼ぶクリス……その様を見て、ある者は独り善がりと断ずるだろう。
またある者は壊れていると、異常であると捉えるだろう。
だが……ポチにはその愛情が、理解出来た。決して全てではないが、少なくともその一部を。

何かを愛するという事は、違う何かを愛さないという事だ。
……思考にも満たない、感覚の中で、ポチは愛情というものをそう捉えている。
群れを大事に思うほど、仲間意識が強まるほど、外敵に対する敵愾心は強まる。
同じ種でさえも、群れに属さない者であれば攻撃し、排除する。
狼はそういう生き物だからだ。

>「アンタをそそのかした、そこの糞狐も。くだらないしきたりに固執して、アンタの記憶を消しちまった雪の女王も――」

>「すべて。すべてすべて、すべてだ!すべて殺す……そして新しいルールを作ろう、アンタが……ノエルが一番幸せになる世界を」

全てを排除してやるというその殺意は、クリスにとっては愛情表現のようなものなのかもしれない。
ポチは、そう感じていた。

113ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/04/22(日) 21:38:20
>「ノエルを引き渡すなら、アタシも東京制圧には加担しない」
 「まぁ、あっちに義理もあるからね。ドミネーターズの邪魔をする連中は始末するけど、少なくとも無関係の人間に手は出さないよ」

……二度目になるが、ポチはノエルとクリスの関係性を知らない。
それどころかブリーチャーズとドミネーターズの対立もよく分かっていない。
この場において、最も蚊帳の外の存在。それがポチだ。
だが蚊帳の外の存在だからこそ、考えられる事もある。
……ポチが、小さく鼻を鳴らした。
においを嗅いだのではない。笑ったのだ。
まるで……その程度か、と言わんばかりに。

そして状況は動く。

>「それと……橘音くんは糞狐じゃない。おたんこナスのキツネだぁあああああああああああ!!」

皮切りとなったのは、ノエルの、クリスへの、二度目の拒否。
……ポチは警戒を解かずに身を屈め力を溜めているが、尻尾だけはどうにも言う事を聞かず、ぶんぶんと揺れている。

>「よう、見事に振られちまったみてぇだな……まあ、折角だしオジサンから一つアドバイスだ」
>「『俺の』弟分の姉を名乗るなら、人の大事な物を嗤う様なみっともねぇ姿をこいつに見せんじゃねぇよ」

そこに間髪入れず、尾弐がクリスを挑発する。
ポチには小難しい駆け引きや戦術は分からないが……狩人の感性がその意味を理解した。

(なーいす、オニっち!まっかせといてよ!ばっちり、噛みちぎってみせるから!)

しかし理解したのは意味だけだ。
冷気による面制圧を封じ、隙を作り出すという意味だけ。
その意図を、ポチは汲み取り損ねていた。何故か。

>「……ポチ。できればでいいんだけど、手伝ってくれる? 周りの人達、こっから追い出そう」

「……ごめん、祈ちゃん。ぼく、そういうの、よく分からないんだ」

地を蹴り駆け出そうとしたポチが、祈の声に行動を止め……それから誰にも聞こえないように呟いた。
ポチが尾弐の意図を図りかねた理由。
それは彼の愛情観に原因がある。

もし、ポチが街中でたまたま渇きに苦しむ鎌鼬を見つけたなら、彼は可能な限りそれを助けようとするだろう。
もし、この場にいる敵がクリスではなく、もっと易しい妖壊であったなら、ポチは迷わず祈の案に従っただろう。
或いはこの場にブリーチャーズの面々がいなかったとしても、ポチは人間を助ける為に動いていただろう。

だが……クリスという強大な敵を前に、東京ブリーチャーズというかけがえのない仲間が傍にいる。
……何かを愛するという事は、違う何かを愛さないという事。
鎌鼬に対してもそうだった。祈に血を流させたのなら、憐れむに値する事情があってもポチはその者を敵と見なす。
そしてそういう生き物であるが故に、この状況で、周りの人間に労力を割くという事が、ポチには共感し得なかった。

姿を隠し、クリスの首に飛びつき、牙を突き立てる。
それこそが最適解だと、狼の感性は叫んでいる。

「う……うぅぅ……」

しかし……ポチは地面を蹴り出せずにいた。
何故なら……彼は人らしい愛情や優しさに共感が出来ずとも、理解は出来る。
多甫祈という半妖がどういう子なのかを、知っている。
半分妖怪の彼女は、しかし普通の人間以上に優しい子だ。
ポチがたまに事務所に帰ると、彼女のにおいに、別のにおいが混じっている事がある。
深い怒りや、悲しみのにおいだ。
それらが混じった、仲間のにおいが、ポチは嫌いだった。
自分の好きだった、その存在が、塗り潰されてしまうような気がするのだ。

114ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/04/22(日) 21:39:25
クリスは強大な妖壊だ。不意を突いたとして、一撃でケ枯れに追い込める可能性は低い。
半端に手傷を負わせれば、尾弐の作り出した擬似的な一対一は崩れる。
冷気による面制圧をクリスが行えば、周囲の人間達はいとも簡単に死んでしまう。
そうなれば祈は酷くショックを受けるだろう。
怒りか、そうでなければ悲しみのにおいは……多甫祈という少女を塗り潰してしまうかもしれない。
……そもそも、ノエルはクリスをこちら側に引っ張り込むつもりだ。
首を噛みちぎるのは彼の意向に反する。精々、すねが限界だ。
一撃で仕留められない以上、反撃は間違いなく発生する。
つまりどうあっても先に人間達を退避させなければならない。
だからと言って、今の尾弐にクリスを任せきりにしてしまうのは、狼の感性が許さない。

「うぅー……なんで、みんなそんな無茶するんだよう……
 そんなに無茶されたら、ぼく、ぼく……もっともっと無茶しなきゃいけないじゃないかぁ……」

葛藤に体を震わせていたポチが、もう吹っ切れたと言わんばかりに駆け出す。
影に紛れ、クリスへと迫り……高く、高く、跳躍。
クリスの頭上を飛び越え、拝殿の屋根に飛び乗った。
そして……吠える。高らかに、遥か遠くまで響かせるように。
……ポチの遠吠えは、クリスにとっては耳障りな雑音に過ぎないだろう。
だがただの人間達にとっては、そうではない。
……送り狼は二面性を持つ妖怪だ。
農耕民族である日本人にとって、田畑を食い荒らす害獣を食らう神使という側面。
しかし一方でひとたび獲物と見定められれば、人の足では決して逃れ得ぬ恐怖の象徴という、二つの側面を。
そして遠吠えとは、狼による狩りの前触れ。
その響きはこの場にいるただの人間達の精神に、強い恐怖を与えるだろう。
まるで夜道を狼に追われているような、逃げ出したくなるような恐怖を。

「……ぼくからもひとつ、言わせてほしー事があるんだけど」

遠吠えの意図を悟られぬよう、ポチはクリスに話しかける。

「ぼくはさ、しょーじき、きみのことがきらいだよ。めちゃくちゃきらい。三年前の事は忘れてない。
 その白い首に、ぼくの牙を突き立てられたら、どんなにいい事かと思う」

でもさ、とポチは続ける。

「きっとそれをすると、ノエっちが悲しむんだよねー。
 だから、やめといてあげるよ。……ぼくの言いたい事、分かる?」

犬っころと侮った相手に見下され、あまつさえ手加減してやると言われるのは、クリスにとって屈辱だろうか。
だが、だとしても、それだけでは弱い。
ノエルに最も近しき者の座は自分が奪ったと宣言した尾弐への怒りには、及ばない。

「さっきの話聞いてて思ったんだけど、殺したいから殺すなんて、かーんたんじゃん。
 そんなやり方でしか、ノエっちが好きだって言えないんでしょ?」

だからこう続ける。

「つまりきみなんかより、ぼくの方がずっと、ノエっちが大好きなんだよ。ううん、多分、誰よりもね」

お前はノエルにとって最も近しい者でもなければ……ノエルを最も愛する者でもないと。

(さぁどうだ!ムカついた?ムカつくよね、ムカつくでしょ!ぼくとオニっち、目移りしてくれるとうれしいんだけど!)

直後、ポチは拝殿の瓦を数枚、クリスの頭上へ蹴落とす。
更にその瓦が作り出す影に隠れ、屋根から飛び降り……クリスの足元へ。

「首はかんべんしたげるけど、すねを齧るくらいはね」

そして、牙を剥いた。

115那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:40:38
>それと……橘音くんは糞狐じゃない。おたんこナスのキツネだぁあああああああああああ!!

グシャッ!

ノエルが拒絶を叫びながら投げつけた雪玉を、クリスは防ぐそぶりさえ見せず胸に受けた。
豊かな胸に当たって形の崩れた雪玉が、すぐにクリスの身体に吸収されるように消える。

>『俺の』弟分の姉を名乗るなら、人の大事な物を嗤う様なみっともねぇ姿をこいつに見せんじゃねぇよ
>つまりきみなんかより、ぼくの方がずっと、ノエっちが大好きなんだよ。ううん、多分、誰よりもね

尾弐がノエルを我が物のように引き寄せ、拝殿の屋根にのぼったポチが自らの好意の深さを主張する。
ノエルはおまえのものじゃない――そんなブリーチャーズの態度に、クリスはしばらく無言のままでいたが、

「……ハ……。アハハハハ、アッハハハハハハハハッ!弟分だ?大好きだぁ?」

やがて肩を震わせ、さも楽しいといった様子で笑い始めた。

「何も知らないカスどもが……、その子とアタシの間にあった出来事さえ知らないクセに、よくも抜け抜けとほざいたもんだ!」
「アタシにとって、アンタたちは胡散臭いクソ宗教の信者みたいなもんさ。その子は騙されてンだ、可哀想に――」
「真っ白で、純粋で。人を疑うことを知らないその子の無垢な心につけ込んで、アンタたちはおためごかしを吹き込んだ」
「その子の力が目当てなんだろう?それが世のためになる!善行になる!なんて言って、ノエルを危険な目に遭わせてる……違うかい?」

クリスは美しい面貌の眉間に険しい皺を寄せると、右手の人差し指で橘音を指した。

「そこの半妖や犬っころと違って、アンタはわかってるはずさ……糞狐。そいつらと違って、アンタは全部知ってるんだからさ」
「雪の女王と示し合わせて、その子をブリーチャーズに引き込んだアンタにはね!」

「…………」

橘音は何も言わない。ただ、顔を俯き加減にして黙っている。
狐の半面によってその目許は隠れて見えないが、露出した唇がきつく噛みしめられているのが、メンバーには見えただろうか。

>首はかんべんしたげるけど、すねを齧るくらいはね

遠吠えを終えたポチが襲い掛かる。が、クリスはひらりと半身を翻して瓦とポチの攻撃を避け、すれ違うように拝殿の屋根へと跳躍した。
今度はクリスが拝殿の屋根上からブリーチャーズたちを見下ろす態勢になる。
周囲に溢れていた観光客たちは、急速に数を減らしつつある。ポチの遠吠えと、祈の迅速な避難誘導の結果だ。
特にポチの遠吠えは、なんの抵抗力も持たない人間にとっては抗いがたい恐怖と焦燥を駆り立てる。
『何かわからないが、この場にいたくない』という感情によって、ほどなく拝殿の周囲から人の気配がなくなる。
神門を文字通りの結界として、境内の中に残ったのは東京ブリーチャーズの五名とクリスだけになった。
が、クリスは境内からすっかり人質がいなくなったというのに、まるで痛手という素振りを見せない。
それどころか、最初から神社の中にいた人々など興味もないといった表情でいる。

「なんて可哀想な子だろう、アタシがちょっと目を離した隙に、こんな性悪な連中に目をつけられちまって……」
「でも、大丈夫さ。やっと帰ってこられた、アンタの傍に戻ってこられた。支払った代償は大きかったけれど、後悔はしていない」
「アンタの幸福のためなら、アタシは何でもできる。この心臓だって、アンタが望むのなら抉り出してやる。アンタが幸せなら……」

先程雪玉を食らった豊満な胸に、軽く右手を添える。
クリスの眼差しは優しさと慈愛に溢れていたが、同時に祈の感じた狂気も確かに存在している。
その耳には、ブリーチャーズの――いや、なんぴとの声も届かないということも、容易にわかるだろう。
ノエルがクリスの提案をすべて呑む、その宣言以外には。

「アンタはアタシのすべてだ。姉ちゃんがアンタを元に戻してやる。その偽りの姿から、本来あるべき姿へ。アンタを……」
「――真っ白にして。“しがらみを全部リセットしてやる”――!!」

境内の中を、不意に激しい風が吹き抜ける。春の陽気に相応しくない、妖気を伴った冷たい風。
それがクリスの身体を撫でると、纏っているダウンジャケットやチューブトップ、ホットパンツが瞬く間に融け消えてゆく。
が、裸身になった訳ではない。風が止んだ後で拝殿の屋根に見えたのは、目の覚めるような純白の小袖。
ジャック・フロストではない、雪女としての本来の姿を解放したクリスの姿だった。

116那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:41:59
「糞狐とその仲間。どのみち、アンタたちは全員殺す気でいた。言ったろ?ドミネーターズの邪魔をする連中は殺すと」
「ノエルをそそのかし、誤った幸福を植えつけたアンタらは、アタシの中で一番の抹殺対象さ」
「でも。その前に教えてやろう、その子とアタシの身に起こったことを。この世界でアタシたち姉妹にしか共有できない話を」
「それを聞いてなお、弟分だと――自分が一番その子を愛してると。言えるものなら言ってみるがいい!」

びょう、と音を立てて境内を冷気が吹き抜け、満開の桜の枝がざああ……と音を立てて揺れる。
無数の花弁がはらはらと舞い散り、周囲を儚くも美しい色合いで彩る。
そんな、一種幻想的な光景の中で。

クリスはゆっくり唇を開くと、澄んだ声で昔語りを始めた。



まだ、この日本という国で妖怪、化生が畏怖の対象として大きな力を持っていた頃。
とある地方の雪山で冷気と山気が結実し、ひとりの雪ん娘が誕生した。
雪ん娘は妖怪というよりは精霊と言った方が近く、その存在は非常に脆弱である。
よって、雪ん娘が誕生した場合はその山にある雪女の里が代表者を選出し、雪ん娘を庇護養育するのが習わしであった。
すべての雪妖と雪女の里を統括する雪の女王は、今回もその慣例に従い養育者を指名した。
それが六華紅璃栖――まだ一人前の雪女になったばかりのクリスだった。

「嬉しかったよ……雪女は一人前と認められて初めて雪ん娘の養育を任される。里が、女王が、アタシを一人前と認めた証なんだ」
「でも、それ以上に。初めて雪ん娘を育てることになったってことが、何より嬉しかった。それがまた、特別可愛い子でね……」
「アタシは自分が育てることになった雪ん娘に、みゆきと名付けた。深い白雪のように、美しく……幸せになるようにと」

クリスの庇護下で、雪ん娘みゆきはすくすくと育った。
目の中に入れても痛くないという様子で、クリスは深く深くみゆきを愛した。全身全霊で慈しんだ。
そのまま平穏無事に過ごすことができていたなら、クリスとみゆきは仲睦まじい姉妹として、ずっといられたはずだった。
しかし。

「……みゆきには、内緒の友達がいた。といっても人間じゃあない……狐さ。山に棲む一匹の、親からはぐれた子狐」
「みゆきはそいつに、きっちゃんとか名前を付けていたっけね……」
「アタシらは雪女には、常命の者との接触を禁ずる掟があった。人間はもちろん、獣とも係わりを持っちゃいけないってね」
「みゆきが子狐と遊んでいるのを見かけたとき、アタシも本当はそれを止めなけりゃいけなかった。……でも、できなかった」
「みゆきの幸せそうな、嬉しそうな顔を見るとね……。どうしても仲を引き裂くなんてことはできなかった。アタシは黙認した」
「……でも。それがすべてのあやまちだったのさ」

クリスがみゆきと子狐の仲を黙認してしばらく後、事件が起こった。
子狐が死んだのだ。
ただならぬ気配にクリスが駆け付けたとき、すでに子狐は埋葬され盛り土だけの粗末な墓が立っていた。
後でわかったことだが、子狐はあるとき猟師の家に忍び込み、発見された挙句に鉄砲で撃たれたのだという。
自殺行為にも等しいことだが、子狐が何を思って天敵とも言える漁師の家に忍び込もうとしたのかはわからない。
ともかく、みゆきの親友であった子狐は死んだ。――人間に殺された。
猟師の作った墓に取りすがって泣くみゆきを、クリスはただ見ていることしかできなかった。

「でもね。事はそれだけじゃ済まなかった。唯一の友達を喪う大きすぎる衝撃に、みゆきの無垢な心は耐えられなかった」
「みゆきはね。壊れちまったのさ……《妖壊》になったんだよ」

怒りと哀しみ、絶望によって自らの力をコントロールできなくなったみゆきは、荒ぶる妖壊となって大雪害を引き起こした。
山麓の村々を氷漬けにし、風雪に閉ざし、みゆきの慟哭は幾月も一帯に木霊し続けた。
クリスにはそれを止めることができなかった。みゆきのあまりに強大な力は、養育者であったクリスを遥かに上回っていたのである。
そんなみゆきの怒りは、麓の村が『橋役様』として差し出したひとりの少年の犠牲によって、ようやく鎮まった。

「後に残ったのは、みゆきの処遇だった」
「通常《妖壊》になった雪ん娘は処分される。間引かれ、雪ん娘以前の山気と冷気に戻される」
「でも、みゆきはそうはならなかった。なぜかわかるかい?」
「それはね……みゆきが特別だったからさ。みゆきはアタシたち他の雪女とは違う。特別製だったからだよ」
「アンタたちは疑問に思ったことはないかい?その子の力は、たかだか雪女風情にしちゃ強すぎるって……?」

117那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:43:49
く、く、とクリスが嗤う。
山の神気と冷気が融合して生まれた雪女だが、その力は決して強くない。
有名な雪女の逸話を取っても、老人一人を自らの息吹で凍死させる程度が精一杯で、とても大雪害を起こせるほどではない。
妖怪五大種族、鬼、河童、狐、狸、天狗の中には個人名を持った強力な個体も多いが、雪女の中にそういった者は存在しないのだ。
ノエルの力は明らかに雪女という種族の平均的な性能を凌駕している。それはなぜか?

「みゆきは、数百年に一度生まれる特別な雪女。――雪の女王の後継者だったのさ」

雪の女王は雪女のみならず、山童や雪女郎、つらら女など全ての雪妖を統べる大妖怪である。
当然、その力は他の雪妖に比べてずば抜けており、風雪による大妖災を引き起こすことも容易い。
みゆきはその雪の女王の力を継ぐ者。次代の雪の女王となるべき雪ん娘だったのだ。

「けど、いくら後継者とはいえ一度妖壊になった者をお咎めなしにはできない。雪の女王は、みゆきの記憶を消すことにした」
「記憶だけじゃない。存在そのものを一度真っ白にリセットして、別の雪ん娘として作り変えようとしたのさ」
「アタシは反対した。リセットするってことは、みゆきがいなくなっちまうってことだ。アタシの大切な妹が死ぬってことだ」
「例え、存在そのものは残ったとしても。記憶がなくなっちまえば、それはもうみゆきじゃない……そうだろう?」
「アタシは雪の女王に叛逆することにした。納得したふりをして、そのチャンスを待った」

雪の女王はみゆきをリセットするにあたって、まずその記憶と次代の女王としての力をみゆきから抜き取った。
そして、それをみゆきの養育者であるクリスに一旦預けた。
その瞬間、クリスは雪の女王に牙を剥いた。みゆきの力を使って雪の女王を打倒し、その目論みを阻止しようとしたのだ。

「……でも、失敗した。アタシは女王を殺り損ねた」

無力だったクリスがみゆきの強大な妖力を急に得たところで、即座に使いこなすのは難しい。
結果雪の女王に返り討ちにされ、逃げのびるのがやっとだった。

「アタシは里から離れ、身を潜めた。なんとしてもみゆきを助け出す、アタシはその機会をずっと待った」
「そして――そのチャンスがやっと巡ってきた。今から三年前の話さ」

日頃雪女の里から出てこない女王が、その時だけ東京へ出てきたのだ。
クリスはその好機を逃さず、ふたたび雪の女王の首を狙った。みゆきともう一度会うために、みゆきをこの手に取り戻すために。

「百年以上かけて、アタシは完全にみゆきの妖力を使いこなせるようになった。ピークを過ぎた雪の女王なんざ、片手で殺せるくらいね」
「だが、アタシの計画はまたしても失敗した。それを阻止したのが――」

まだ、ノエルや祈が参入する前の東京ブリーチャーズ。
雪の女王の警護を行っていた橘音たちとクリスが、東京のど真ん中で激突したのだ。
その結果、五人の刺客を退けたものの妖力切れでケ枯れを起こしかけたクリスは撤退を余儀なくされた。
橘音の施した特殊な結界術によって東京へ足を踏み入れることも叶わなくなったクリスは妖怪指名手配犯となり、海外へ逃亡。
それから三年後の今日にいたるまで、雌伏を余儀なくされたのだった。
ノエルが地球温暖化云々という名目で諜報員として東京へ送り込まれたのは、その後である。

「雪の女王は何もかも、性別までも作り変えたみゆきを東京に住まわせた。里にいるより、結界のある東京に置いた方が安全だからね」
「もちろん、いつかのように暴走したりしないよう、見張りを置いて……それがそこにいる糞狐だ」
「もうわかっただろう?アンタたちの出会いは偶然なんかじゃない。すべて仕組まれたことだったのさ……アタシを遠ざけるために」

そこまで言って、着物姿のクリスはノエルを見た。
全身真っ白の姿の中で、唯一違う色――深紅の双眸が、ノエルをどこか悲しげな眼差しで見つめる。

「ノエル……いいや、みゆき。アタシは戻ってきた……アタシたちを阻む、全ての邪悪を。忌々しい障害を乗り越えて」
「もう一度、姉妹で仲良く暮らそう。あるべき姿に戻ろう……アンタが笑ってくれるなら、アタシはもうなんにもいらない」
「この数百年、アンタを想わない夜はなかった。アンタをもう一度腕に抱く日を、ずっと待ち焦がれてた……」
「もう我慢なんてできない。これ以上アタシの往く手を遮ろうとする者がいるのなら――」

ぎんっ!!

クリスが紅色の双眸を大きく見開く。その瞬間、境内で凄まじい吹雪が荒れ狂う。

「――千々に!千々に千々に千々に!!千々に引き裂いて―――――――殺す!!!!!」

118那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:45:30
本来、次の雪の女王となるはずだったみゆき――ノエルの妖力を持つクリスの力は東京ブリーチャーズを遥かに凌駕する。
吹き荒れる冷気は万物を凍てつかせる、まさに地獄の凍気である。強い耐性を持つ妖怪のブリーチャーズも長くはもつまい。

「アンタたちは、アタシのことを狂ってると言うんだろうね。目が曇ってると」
「だがね、それはこっちのセリフさ。自分の胸に手を当てて、考えてごらんよ……もし自分がアタシの立場だったらどうだ?」
「東京を守るだの、平和だの。浮ついたことを抜かす連中が、自分の家族を危険な場所へ夜ごと連れ回してる」
「傷ついて、ケ枯れ寸前になって、命を喪うような危険な目に遭わされてる……。しかも、それを幸せだと思わされてる!」
「家族としちゃあ、何としてでも正気を取り戻させてやりたい――自分の目の届くところに置いておきたいって思うだろ?」

迸る妖気で炯々と両眼を輝かせながら、クリスが言う。

「その子を危険な目に遭わせて、それを善しとしてる者が!弟分だ?大好きだ?世迷言を言ってるんじゃァないよ!」
「本当にその子を弟分と思うなら!大好きと思うなら!今すぐその場で血ヘドを吐いてくたばンな!」
「その子の――みゆきの幸せのためにね!それができないなら、アタシが一人ずつ介錯してやる――」
「それが。みゆきの姉としての、アンタらクズどもへの礼の仕方だ……!!」

ドカカカカカカッ!!

クリスが片腕を振る。と同時に十数本もの氷柱(つらら)が発生し、ブリーチャーズの足許に突き立つ。
吹き荒れる風雪が、徐々に石畳に積もってゆく。ノエルを除くブリーチャーズの機動力を封殺してゆく。
神門はいつの間にか閉ざされ、境内の中には簡単な雪の結界が形成されつつある。
同じ雪女の一族であるノエル以外には、その場に居続けることさえ体力の消耗を伴う氷の結界――。
しかし。
クリスの生み出す脅威は、その膨大な冷気の力だけではなかった。

「アンタらは、アタシがここにいる人間どもを人質にすると思ってたのかもしれないが……」
「アタシにとっては人間なんざ虫ケラと同じで、なんの価値もないもんさ。第一、アタシは独りでも充分アンタらを殺せるんだ」
「人質なんてせこい手を使う必要なんて、ハナからない……そうだろう?」

そう言って笑うと、クリスはおもむろに自らの着物の胸元に手を突っ込み、何かを取り出した。
それは一枚の古びた鏡と、一冊の帳面。
一見するとただの銅鏡と色褪せた帳面にしか見えないが、ブリーチャーズの面々にははっきりと理解できたことだろう。
鏡と帳簿から陽炎のようにたちのぼる、妖気でも霊気でもない――『神の力』が。
クリスは両手に持ったそれを見せびらかすように、にぃぃ……と意地の悪い笑みを浮かべると、

「これ。なぁぁ〜〜〜〜んだ?」

と、言った。
この神社は尾弐の知識通り、天津神や国津神を祀ったものではない。
この社が祀るのは、護国のために散った英霊。死して後、神となった者たちの御霊。
神社の最奥には、『神体』『神宝』『神器』みっつの祭器が鎮座している。
英霊を祀るにあたっては、まず暗闇の晩に英霊の氏名、所属・階級、位階、勲等などを神社の『神宝』である祭神簿へ筆書きする。
しかる後に神社の『神体』たる鏡に祭神簿を映し出し、『人霊』を『神霊』へと変化させるという。
クリスが持っているのは、まさにその『神宝』と『神体』。
この神社に祀られているすべての英霊の名が記された祭神簿と、英霊を神へと変換する國魂神鏡(くにたまのみかがみ)だった。

「ヨーロッパにいたアタシに日本へ戻るきっかけを与えてくれたのが、あの御方――妖怪大統領だった」
「自分の頼みを聞けば、結界に阻まれてるアタシを東京へ入れてやるってね」
「大統領の下には、結界破りの大得意なヤツが一人いるからね。知ってるだろ?妖怪銀行からコトリバコを盗み出したアイツさ」
「ともかく、アタシはもう一度東京に戻ってきた。となれば、大統領との約束を果たさなくちゃいけない――それがコレだよ」

クリスはヒラヒラと祭神簿を振ってみせる。

「護国の英霊。有事の際はコイツらが神社から飛び出て、東京を護ることになってる」
「妖怪大統領にとっちゃ、言うまでもなく邪魔な存在ってことだ。だから、コイツはアタシら東京ドミネーターズが頂く」
「これで、あの御方は心おきなく東京に顕現できるって寸法だ。東京はあの御方の支配下になる、漂白者なんて必要ない。つまり――」

「アンタたちは。お払い箱ってことさ……!」

119那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:46:16
「コイツをブッ壊すのは簡単だけど、それじゃつまらないね。どれ……壊す前にちょっとだけ遊んでやろうか」

クリスが鼠を嬲る猫のような眼差しでブリーチャーズを眺める。
ぺろりと小さく舌なめずりすると、クリスはおもむろに祭神簿を開いた。

「さあ――出て来な、護国の英霊たち!新たな支配者の降臨を妨げる、国賊どもをブチ殺しておやり!」

ギュバッ!!!

帳簿のページが風に煽られたかのように高速で捲れ上がると同時、國魂神鏡がまばゆい光を放つ。
そして、鏡から溢れるように飛び出してきたのは――軍装に身を包んだ英霊たち。
かつて世界を巻き込んで繰り広げられた戦争で、命を散らした兵士たちの霊。
それが軍刀と小銃を手に、隊伍を組んで出現した。その数は一個中隊(150人程度)もいるだろうか。

《全小隊、構え!撃て――――ッ!!》

「く……!」

指揮官とおぼしき英霊が軍刀を抜き放ち、全体に号令する。
一糸乱れぬ統制のとれた動きで、英霊たちがブリーチャーズへと小銃を構える。
橘音は小さく舌打ちすると、素早くマントの中に手を突っ込んだ。そして召怪銘板を取り出すと、

「召喚!ぬりかべ!」

そう音声入力した。
途端に地面から石畳と雪を割り裂き、ブリーチャーズの前方に巨大なコンクリート色の壁が出現する。
壁には小さな目鼻と手足がついている。メジャーな妖怪の一匹、ぬりかべだ。
ぬりかべの堅牢な胴体が、英霊たちの弾丸を弾き返す。
間一髪英霊たちの攻撃を防いだ橘音は、ノエルたちの方を振り返った。

「……これは完全に予想外の事態ですね……」

そして、押し殺した声で言う。

「まさか、クリスの目的が國魂神鏡と祭神簿だったとは……いやな予感はしていましたが、まさかここまでなんて」
「クリスひとりならともかく、英霊に対してはボクらはなんの攻撃手段も持ちません。英霊を倒すことはできない」
「攻撃すれば当たるでしょう。怯ませることも可能なはず。けれど、決して倒せない。『ケ枯れ』させることはできない――」
「なぜなら、彼らは妖怪じゃない。正真正銘の『神』です。神は妖気や霊気でなく、神の力を行使しているのですから」
「全員散開です。集まっていたら一網打尽だ……とにかく攻撃を避けてください!」

かつて戦った八尺様のような『祟り神』は、名前に神とついているものの本当の神ではない。
だが、今クリスの持つ國魂神鏡から出現した英霊たちは、宮司によって正式に神に祀り上げられた紛れもない神霊である。
妖怪は、神には勝てない。それは絶対のルールだ。
なぜなら、妖怪のルーツは堕ちた神。堕落や衰退によって力を失った神々の裔だからである。

《第一分隊!第三分隊!第四分隊!突撃―――ッ!!》

ぬりかべへの射撃を中断し、いくつかの分隊が壁の横をすり抜けて突撃してくる。
軍刀を振りかぶり、雄叫びを上げて突撃してくる半透明の英霊の勢いは凄まじい。

「みゆきは狙うんじゃないよ!殺っていいのは四人だけだ!」

拝殿の屋根からクリスが檄を飛ばす。
英霊の指揮官が敬礼する。英霊たちにはみゆきが誰なのか分かっているらしく、誰もノエルを狙わない。
ただただ、英霊たちは雄叫びを上げて祈や尾弐、ポチ、橘音へと襲い掛かる。
英霊には実体があるらしく、半透明とはいっても攻撃すれば命中するし、普通の人間のように相手ができる。
また、神霊だからといって超常的な力もないらしく、普通の人間程度の身体能力しかない。
が、当然ながら死なない。また疲れることも諦めることもなく、敵が全滅するまでひたすら攻撃を繰り返してくる。
その武器は小銃と軍刀、手榴弾を投げつけてくる者もいる。
しかし、その最も恐るべき武器はなんと言っても数であろう。

120那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/04/22(日) 21:47:02
銃で撃たれ、軍刀で斬りつけられれば、妖怪でも負傷は免れない。
特に、鬼である尾弐にとっては護国の神霊の攻撃は普通の攻撃よりも効くことだろう。
そんな英霊たちが休む暇もなく波状攻撃を仕掛けてくる。おまけに雪嵐が吹き荒れ、積もった雪で足場も悪い。
英霊ばかりに気を取られてはいられない。どこからかクリスの氷柱が飛んでくる可能性もある。
クリスから國魂神鏡と祭神簿を奪おうにも、クリスとてその可能性を想定し充分警戒していることだろう。
何より、クリスからそれらの神体神宝を奪おうとするということは、クリスと直接相対するということを意味する。
そして、後方の神門は閉ざされている。――逃げ場は、ない。

「アッハハハハハハハッ!みゆきをたぶらかしたカスどもには似合いの末路さね!」

クリスが高らかに笑う。

「大人しくみゆきを渡して降伏するんだ。そうすれば、すぐ殺してやるよ……痛くないようにね。嬲り殺しが嫌なら、こうべを垂れな!」

「……!」

橘音は一瞬拝殿の上のクリスを見た。
頭脳がフル回転する。この場で被害を最小限に留め、クリスを倒す方法はあるか?
残念ながら、そんな方法はない。ブリーチャーズは完全に袋の鼠だった。
唯一生き残れるかもしれない方法は、大人しくノエルを差し出すこと。そして、ノエルからクリスに助命嘆願してもらうことだ。
ノエルにだけは甘いクリスである。ノエルが仲間の命乞いをすれば、受け入れられる可能性は充分ある。

……が。

「生憎ですがね……ボクにはこの世で三つ、絶対に許せないことがあるんですよ……」
「ひとつ、酢豚にパイナップルを入れること……。ふたつ、誰かが入った後のお風呂に入ること……」
「そしてみっつ!探偵として――人にカッコ悪い姿を見せること!です!!」

橘音はそう毅然とした態度で言い放った。

「特に、みっつめは譲れない!なぜなら――探偵とはいつでもハードボイルドで、ニヒルで!カッコイイもの!」
「命が惜しくて降伏なんて……そんなカッコ悪さの最たるものを、このボクが!狐面探偵・那須野橘音が――見せられるもんですか!」

そこまで告げて、ベロベロバーとばかりに舌を出してみせる。
精一杯ノエッたつもりだったが、悲しいかな常識人(?)の橘音にはこれが精一杯である。
とはいえ、それでもクリス対しては充分だったようだ。
クリスの顔が憤怒に歪む。クリスは鏡を胸元に入れ、祭神簿を突き出すと、

「糞狐!テメエから死ね!!」

そう怒号して、一分隊を橘音へと差し向けた。

「あひゃあああああっ!?ポ、ポチさーんっ!ヘールプッ!」

英霊の投擲した手榴弾の爆風で吹き飛ばされながら、橘音がポチへ助けを求める。

「シンキング・ターイム!ってことで、皆さん!ボクに考える時間をください……、この状況を打破できる方法を考える時間を!」

取り敢えずの安全が確保されると、今度はこの場にいる全員に向かってそう告げる。
この絶望的な状況下で独りの犠牲も出さずに生き残った上、戦況をひっくり返して勝つ。
そんな神がかり的な方法を、刻一刻と悪化していく環境の中で考え、実行する――。
到底不可能な難事だが、それを実現させなければ、待っているのは全滅という悲惨な結果だけだ。
仲間たちに時間稼ぎを命じると、橘音は戦場で仁王立ちになり、腕組みして思索を始めた。
不可能を可能にするために。
仲間と一緒に勝利を手にするために。


……ともだちの信頼に応えるために。

121御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:02:29
>「『俺の』弟分の姉を名乗るなら、人の大事な物を嗤う様なみっともねぇ姿をこいつに見せんじゃねぇよ」
>「つまりきみなんかより、ぼくの方がずっと、ノエっちが大好きなんだよ。ううん、多分、誰よりもね」

「ええっ!? そんな堂々と言われたら困っちゃうよ!」

突如訪れたモテ期(対象:マッチョとワンコ)に戸惑いつつも満更でもない様子のノエル。
もちろん戦略的発言であることは分かっているのだが、全く思っても無いとしたら出てくる言葉でもない。
口には出さないが祈や橘音も同じ気持ちであることがひしひしと伝わってくる。
祈とポチによって観光客たちは迅速に逃がされた。
正直、誰か一人でも向こうに行けと諌めれば、素直に行くつもりだった。
何もこんな荒療治をしなくてもひとまず言う事を聞いて時間をかけて説得するという手もあるだろう。
しかし誰一人そんな常識的な発言をすることなく、ノエルの我儘を聞き入れたのだった。

「みんなどうしたの? 状態異常ノエルが伝染しちゃったの?
これで一人の犠牲も出さずに勝つしか選択肢が無くなったじゃん!」

しかし人質がいなくなったというのにクリスはおかしくて仕方がないという風に哄笑をあげる。

>「……ハ……。アハハハハ、アッハハハハハハハハッ!弟分だ?大好きだぁ?」
>「その子の力が目当てなんだろう?それが世のためになる!善行になる!なんて言って、ノエルを危険な目に遭わせてる……違うかい?」
>「そこの半妖や犬っころと違って、アンタはわかってるはずさ……糞狐。そいつらと違って、アンタは全部知ってるんだからさ」
>「雪の女王と示し合わせて、その子をブリーチャーズに引き込んだアンタにはね!」

「橘音くん、気にすることないさ。たとえ仕組まれたことだったとしても僕達が友達であることには変わりはないんだから。
運命に導かれたラブストーリーかと思いきや実は周囲が総出で偶然を装ったセッティングしてたなんてよくある話だからね」

何も言わない橘音に、何の話だかよく分からないフォローをして。

>「なんて可哀想な子だろう、アタシがちょっと目を離した隙に、こんな性悪な連中に目をつけられちまって……」
>「でも、大丈夫さ。やっと帰ってこられた、アンタの傍に戻ってこられた。支払った代償は大きかったけれど、後悔はしていない」
>「アンタの幸福のためなら、アタシは何でもできる。この心臓だって、アンタが望むのなら抉り出してやる。アンタが幸せなら……」

狂気の混じった慈愛の眼差しを向けられて悲しげな顔をする。

「誰かを不幸にして幸せになっても僕は幸せじゃないよ。
ほんの1000分の1でいいんだ、どうしてその慈愛を僕の友達にも向けてくれないの!?」

>「アンタはアタシのすべてだ。姉ちゃんがアンタを元に戻してやる。その偽りの姿から、本来あるべき姿へ。アンタを……」
>「――真っ白にして。“しがらみを全部リセットしてやる”――!!」

クリスが雪女としての本性を現し、美しくも恐ろしい純白の小袖姿となる。それはさながら、死を象徴する白装束――

>「糞狐とその仲間。どのみち、アンタたちは全員殺す気でいた。言ったろ?ドミネーターズの邪魔をする連中は殺すと」
>「ノエルをそそのかし、誤った幸福を植えつけたアンタらは、アタシの中で一番の抹殺対象さ」

「どっちにしても殺すんかい! 交渉にもなりゃしない! 僕の逡巡を返せ!」

ここまでは全くもっていつも通りの調子だった。

>「でも。その前に教えてやろう、その子とアタシの身に起こったことを。この世界でアタシたち姉妹にしか共有できない話を」
>「それを聞いてなお、弟分だと――自分が一番その子を愛してると。言えるものなら言ってみるがいい!」

しかしクリスが昔語りを始めると、ノエルの様子は一変する。
かつて荒ぶる妖壊となり大雪害を引き起こした過去が暴かれる。

122御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:03:50
「やめろ! それを暴いてどうする……!」

大体見当はついている。
そんな奴が人畜無害なお人よしの顔をして、何食わぬ顔で正義の味方側にいる。きっとみんな自分のことが嫌いになる。
それでも私は愛してやるからこっちにおいで、と持って行くつもりなのだ。
しかしクリスの話には更にその先があった。
その昔――といっても妖怪の感覚で言うとほんの少し前まで、雪女の里は閉鎖的で様々なしきたりに縛られていた。
定命の者と関わりを持ってはならない、里に迷い込んできた人間は殺さなければならない、正体を知られた者を生かしておいてはならない――
トップクラスの高い知名度と人一人殺したり殺さなかったりする程度の能力という古典妖怪としては微妙にヘタレな性能を併せ持つ雪女は
やたら人間の前に姿を現すよりもよく分からない存在のままでいて想像を煽る方が畏怖を保つことができたのだろう。
お気軽に人間に混ざって和気藹々と暮らす奴が出てきたり
どさくさに紛れて異能バトルに参加する程度には強い個体が出てきたのはほんのここ数十年の話である。
とにかく、そんな数々の掟の中の一つに、一度妖壊化した者は消される――という物があった。
そんな絶対の掟に従い、クリスと幼いみゆきは永遠に引き離された。
クリスが世界の全てを敵に回してでも取り戻したい存在、それがみゆきだった。
巡り合わせが良ければ美談にもなったかもしれない。
しかし不幸なことに、彼女は狂気に堕ち侵略者に魂を売り、紛うことなき悪と化してしまった。

「ああ、そうだった。全部僕のせいだったね……」

>「ノエル……いいや、みゆき。アタシは戻ってきた……アタシたちを阻む、全ての邪悪を。忌々しい障害を乗り越えて」
>「もう一度、姉妹で仲良く暮らそう。あるべき姿に戻ろう……アンタが笑ってくれるなら、アタシはもうなんにもいらない」

クリスの怒りを鎮める方法があるとすればみゆきにもう一度会わせてやることだけだ。しかし――

「無理だよ。純粋で無垢だったみゆきはもうどこにもいないんだよ。僕は……妾は記憶を二度消された。
一度目はしきたりに従って。二度目は自分の意思でね。だからせめて……この手であなたを止める」

某雑居ビル1階でかき氷屋を営む残念なイケメンの御幸乃恵瑠はもとよりクリスの目を逃れるために作られた仮初の姿と人格。
橘音の友達として過ごした日々は、何もかも――終わりだ。
クリスによる氷の結界が作られつつある中で、ノエルは静かな、しかしよく通る声音で皆に別れを告げた。

「みんな……突然だけどお別れみたいだ。
ほんの少しの間だったけど御幸乃恵瑠という青年がいたこと、覚えててくれると嬉しいな。今までありがとう、さよなら……」

ノエルの周囲で氷雪が渦巻き、それがおさまったときそこにいたのは――ノエルによく似た、美しい女性。
大きな青い瞳に少しはねた銀髪。ノエルと同じ身長の、すらりとした体躯。
いつかの祈が混濁した意識の中で見た姿と同じだが、美しくもどこか冷たい印象を受ける。
性別が変わったことよりも、あの筆舌に尽くしがたい残念オーラが無い事こそが、似ているけど別人だということを示していた。

「お初にお目にかかる。ノエルが随分と世話になったな。妾は次代の雪の女王――ああ、呼び方は乃恵瑠のままで構わない。
莫迦な姉上がお騒がせして大変申し訳ない」

クリスから引き離され記憶を消された後、みゆきには雪の女王によって新たな名前が与えられた。それが乃恵瑠。

123御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:05:25
>「これ。なぁぁ〜〜〜〜んだ?」

クリスが持っている帳簿と鏡を見た乃恵瑠は血相を変える。

「それを持ち出してはならぬ!」

>「ヨーロッパにいたアタシに日本へ戻るきっかけを与えてくれたのが、あの御方――妖怪大統領だった」
>「自分の頼みを聞けば、結界に阻まれてるアタシを東京へ入れてやるってね」
>「大統領の下には、結界破りの大得意なヤツが一人いるからね。知ってるだろ?妖怪銀行からコトリバコを盗み出したアイツさ」
>「ともかく、アタシはもう一度東京に戻ってきた。となれば、大統領との約束を果たさなくちゃいけない――それがコレだよ」

乃恵瑠には雪の女王の庇護のもとで次代の女王としての洗脳、もとい教育が施された。
将来日本の雪妖の頂点に立つことが宿命付けられた乃恵瑠にとって
西欧からの侵略者である妖怪大統領と契約を交わし力を貸すクリスの凶行は到底受け入れられるものではない。

「痴れ者が! 何ゆえ野蛮な西欧妖怪などに魂を売った!? もう少しの間だけ大人しくしておれば妾が……救ってやれたというのに!」

悔しさに身を震わせながら乃恵瑠は叫んだ。
三年前の大霊災を目の当たりにした時、乃恵瑠は一度記憶を取り戻した。
そして雪の女王に、クリスを許してやってほしいと懇願したのだ。
もちろんいくら規律がゆるくなってきた現代とはいえ普通なら許されない大罪人だが、丁度妖怪界の勢力図を塗り替えかねない一大イベントが迫っていた。
なんとか理由を付けて許してやりたいとの情か、一族の利権のために漂白計画に恩を売っておこうとの計略か
あるいはその両方からか、雪の女王は一つの条件を提示した。
"三尾の狐に手を貸し108体の妖壊を漂白せよ――"それが雪の女王が提示した条件だった。
言うのは簡単だが実行するのはとてつもなく過酷な条件――乃恵瑠はそれを承諾し、雪の女王と契約を結んだ。
そして姉に見つからぬために再度記憶を封印され、姉の――突き詰めれば自らの罪を濯ぐために過酷な戦いに身を投じることになったのだ。
ノエルはその契約の遂行のために作られた存在。
一度も橘音の依頼を断らなかったのも報酬を要求しなかったのも、妖怪にしては人間が好きなお人よしだったのも、東京が好きだったのも当たり前だ。
そのように設定されていたのだから。
乃恵瑠は自然を我が物顔で作り変え動物たちの住処を奪う人間はあまり好きではない。東京は空気が悪くて嫌だ。
でもそんなことは気にならなかった。全てはあの無垢だった日々、全身全霊で自分を愛してくれた姉のため――
しかしこうなってしまったら全てが終わりだ。壊れ果ててもう救えない……。

>「コイツをブッ壊すのは簡単だけど、それじゃつまらないね。どれ……壊す前にちょっとだけ遊んでやろうか」
>「さあ――出て来な、護国の英霊たち!新たな支配者の降臨を妨げる、国賊どもをブチ殺しておやり!」

>「召喚!ぬりかべ!」

現れた一個中隊が一斉に小銃を構え、橘音がぬりかべを召喚し怒涛の銃撃を間一髪で防ぐ。

「そなたら……攻撃する方を間違っておるぞ!」

>「……これは完全に予想外の事態ですね……」

普通に考えれば護国の英霊が攻撃するのは侵略者のクリスのような気がするが、祭神簿と國魂神鏡を手にしている者の命令に従うという仕様なのだろう。

「その者達を囮として隙を突くつもりであろう、させぬ!」

両腕を広げ、何を思ったか味方がいる方に氷雪の嵐を展開する。
普段なら味方が凍えてしまうのでやらないが、今は元からクリスの作り出した氷雪が吹き荒れている。
そして相手の作り出した氷雪の嵐を鎮めるよりも、同種の技で相手の領域の一部を自らの領域で上書きすることの方がずっと容易い。
よって仲間のいる側のフィールドを自らの領域で上書きし、クリスの氷柱での不意打ちを防ぐ結界としたのだ。

124御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:05:54
>「全員散開です。集まっていたら一網打尽だ……とにかく攻撃を避けてください!」
>《第一分隊!第三分隊!第四分隊!突撃―――ッ!!》
>「みゆきは狙うんじゃないよ!殺っていいのは四人だけだ!」

英霊達が雄叫びをあげて襲い掛かってくるが相変わらず乃恵瑠は攻撃対象外のようだ。
それは仲間4人のうちの誰か1人の盾になれるということを意味していた。
普通なら橘音を守りにいきそうなところだが、乃恵瑠が向かったのは意外にもブリーチャーズ一の堅牢を誇る尾弐の元だった。
潜伏を得意とするポチ、ブリーチャーズ最速の祈、コトリバコ戦で意外な回避力を見せた橘音を除いた結果の単なる消去法か、
フィールドや相手との相性により圧倒的不利に立たされているのを見抜いたのかは定かではない。

「何、そなたが当たり判定で一番不利ゆえ来ただけのことだ」

腕を一閃し氷柱を放ち、英霊たちを蹴散らす。
ノエルならアイシクルエッジとか何とか技名を叫んでいるところだが、言わない。実際は技の発動に別に呪文は必要ないのである。
しかし橘音が言った通り、何度蹴散らしても彼らは何事もなかったように起き上がってくる。
倒す事が出来ないのだ――このままでは埒があかない。この状況を打開するには祭神簿と國魂神鏡を奪取するしかない。
それを奪いに行ける――クリスと対峙することができるとしたら自分だけだが、その間仲間が氷柱の脅威にさらされることになる。
しかも行ったところで奪取に成功する可能性は低い。

>「アッハハハハハハハッ!みゆきをたぶらかしたカスどもには似合いの末路さね!」
>「大人しくみゆきを渡して降伏するんだ。そうすれば、すぐ殺してやるよ……痛くないようにね。嬲り殺しが嫌なら、こうべを垂れな!」

降伏、という二文字が乃恵瑠の頭に浮かぶ。相手の条件を飲んで助命を嘆願するのが犠牲を出さずにすむ可能性が一番高い策だと思われた。
ノエルが世話になった者達を死なせるわけにはいかない。まさに降伏を宣言しようと口を開きかけたときだった。
いきなり橘音が叫び始めた。

>「生憎ですがね……ボクにはこの世で三つ、絶対に許せないことがあるんですよ……」
>「ひとつ、酢豚にパイナップルを入れること……。ふたつ、誰かが入った後のお風呂に入ること……」
>「そしてみっつ!探偵として――人にカッコ悪い姿を見せること!です!!」

唖然として橘音の方を見る乃恵瑠。あまりの絶望的な状況に乱心したのだろうか。

>「特に、みっつめは譲れない!なぜなら――探偵とはいつでもハードボイルドで、ニヒルで!カッコイイもの!」
>「命が惜しくて降伏なんて……そんなカッコ悪さの最たるものを、このボクが!狐面探偵・那須野橘音が――見せられるもんですか!」

「こんな時に何を言っておるのだ……酢豚にはパイナップルが入っているものであろう!」

と真顔で突っ込みながら、はて、橘音殿はこんなキャラだっただろうか、
と一瞬思ってから、ああ、ノエルの真似をしているのだ。と気づく。
悪い物でも食べたようにいきなりノエらなくなって古風な口調のクールビューティーになってしまった自分の代わりに精一杯ノエっているのだ。
ノエりがあるのが当たり前すぎて、無いとやっていけなくなってしまったのだ。ノエルとはなんという罪深い奴だろう。
今の自分はクリスが慈しんだみゆきでも、ブリーチャーズの仲間が愛したノエルでもない―― 一瞬、そのことがたまらなく悲しくなった。

>「糞狐!テメエから死ね!!」
>「あひゃあああああっ!?ポ、ポチさーんっ!ヘールプッ!」

どこか知性が隠しきれていないあたり本家には及ばないかもしれないが、クリスを激昂させるには十分だったようで。
クリスは雪女のくせに沸点は異常に低いようである。

「言わんこっちゃない……姉上も酢豚はパイナップル派なのだ!」

と、橘音に差し向けられた一分隊に氷柱を飛ばす。ちなみに多分クリスがキレたのはそこではない。

>「シンキング・ターイム!ってことで、皆さん!ボクに考える時間をください……、この状況を打破できる方法を考える時間を!」

125御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:07:13
「分かった。しかしそう長くは持たぬ――三時間が限界だぞ」

戦いが始まってからしばらく経ち、地面にかなりの雪が降り積もっていた。それを利用する。
乃恵瑠が足元に手を突くと、周囲から雪が集まり形を成していき雪の巨人と化す。
雪に仮初の生命を与え自らの傀儡として動かす、雪の女王直伝の大技だ。

「橘音殿を守れ!」

雪の巨人にそう指示を出し、橘音を護衛するために近くに集まってきた仲間達だけに聞こえるように呟いた。

「今クリスが持っているのは『神体』と『神宝』――もしかしたら『神器』があればこやつらに対抗できるかもしれぬな」

この神社の神器は確か剣だったはずだが、もちろん単なる思い付きを口走っただけで、深い意図があるわけではない。
この状況で神社の最奥に安置されているであろう神器を取ってくるのは並大抵のことではないだろう。
仲間の防護は傀儡に任せ、自身は氷雪の風に乗り、拝殿の屋根の上に降り立つ。

「姉上、そろそろ遊び飽きたであろう。大人しくそれを渡すのだ。さもなくば……」

殺してでも奪い取る――そう言おうとして、実際に出てきたのはほぼ同じ意味であるもののいまいちパンチの弱い婉曲表現だった。

「力尽くで奪う」

乃恵瑠は小さな違和感を感じた。自分は非情なる氷雪の女王。
ねんがんのアイスソードを手に入れるためには殺してでも奪い取るぐらい平気でやってのけるのだ。
――いや、何でそこでねんがんのアイスソードが出てくるのだろうか。どうもさっきから思考に妙なノイズが混ざっている。
もちろん実際には奪い取れるなどと思ってはおらず時間稼ぎに過ぎないのだが
本気で殺してでも奪い取るつもりでいかなければ時間稼ぎにすらならない、そういう相手だ。

「ねんがんのアイスソードを手に入れるぞ!」

意味不明な掛け声と共に、両手に氷の刀を顕現させ、屋根の上を駆け舞うように斬りかかる。
尚、ねんがんのアイスソードとは一言で言えば作中最強クラスの両手剣の代名詞である。
今のうちに最強の両手剣を取ってこい、という仲間達への暗号なのかどうかは――定かではない。

126御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 15:07:34
゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。゚+。*゚+。。+゚*゚+。。+゚*。+゚

深い水底に沈んでいくような感覚。僕はこのまま消えてしまうのだろうか。
それでいい、最初から全てが嘘で固められた仮初の人格だったんだから。
でも――出来るなら、契約を完遂して綺麗なままで姿を消したかった。
特に祈ちゃんにだけは知られたくなかった。彼女の心に傷が残らなければいいな。
人を信じられなくなったりしないといいな……。

「駄目だよ、勝手に消えたら」

不意に謎の美少女が腕を掴んだ。本当はずっと前から知っている。
みゆき――化けの皮が全て剥がれて何も繕うことが出来なくなったときだけに出てくる僕の原型。
何度も記憶を無くし、別の人格が上書きされ、普段は埋もれて存在も忘れてしまっているけれど。
僕も乃恵瑠も元はと言えば彼女なんだ。

「離せ。僕は契約を果たすために都合よく作り上げられた偽りの人格……」

「乃恵瑠はそう思ってるけど違うよ。
それに偽りだったとしても、きっちゃんならきっと真実にしてくれるよ」

そうだね、橘音くんはいつだって、不可能を貫き通して可能にしてきた。
そしてきっと、最初から真実だったと、あなたは嘘なんてついていないとそう言うのだ。

「君は童が望んだ姿なんだよ。生きてみたかったもう一つの人生。
たくさん人間とお話してみたい。人間界の文化に触れてみたい。
かっこいい服着て、お洒落な喫茶店を経営して、東京のイケメンになりたい」

我ながらある意味発想が凄いな――

「あとね……"今度こそ"友達を……きっちゃんを守りたい!」

ここで言うきっちゃんというのは橘音くんのあだ名だろうか。
当たり前だ、ここで昔の友達のきっちゃんが出てくるはずはない。
それにしては"今度こそ"が妙に強調されてはいなかったか。
まさか、そんな出来過ぎた話があるはずが……


――橘音くん、君は……きっちゃんなの……?

127多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:08:11
 かくしてノエルの放った雪玉はクリスの胸へと当たり、吸収されてしまったとは言え
宣戦布告は為った。
 となればまずやるべきは、周囲の人間達の避難だろう。
(手近な観光客から移動させるか……)
 ポチに神社にいる人間を全員追い出そうと言った後、
祈はポチの返事も聞かずに走り始めている。
 男女のカップルと思しき観光客が目に入ったので、その二人を両肩に担ぐ算段をする。
こちらを見ていないので、姿勢を低くして後ろから迫り、腰の辺りから担ぎあげてしまえば良さそうだ。
あとは暴れようが何をしようが、無理矢理に運んで神社の外に放り出してしまえばいい。
祈が走りながらそう考えていると、ポチの遠吠えが耳に届いた。
「おわっ!?」
 ぞくりとする、生存本能を揺さぶる声。
祈の中にある人間の部分が警鐘を鳴らし、一時足を止めた。
思わず振り返れば、拝殿の上に立ったポチが口を上にして、大声を神社全体に響かせているところだった。
するとそれを聞いた人間達の恐慌が始まった。
狼に吠え立てられ、恐怖を煽られた神社内の人間達は、
祈が追い出すまでもなく自らの足で走り出し、神社の外へと一人残らず逃げていくではないか。
一人一人追い出すよりもずっと早く、手間が省けたことを考えるとその眺めは壮観ですらあった。
「おー……やるじゃん、ポチ!」
 祈が考えていたのよりもずっといい。祈は笑い、
ポチにこんな隠し玉があったとは、と素直に感心する。
こりゃご褒美の一つもやんなきゃな、と思ったところで、
ポチが“牛乳で駄目なのか”と言っていたのは、もしかしたらポチ自身が牛乳を好んでいるからかもしれない、
などとふと考える。祈の腹に頭をこすりつけるポチを思い出しながら、後で牛乳でもご馳走してやるかと、決める。
犬類に牛乳を飲ませるとお腹を壊すらしいが、妖怪ならば大丈夫なのだろう。
 閑話休題。逃げ惑う人々を適当に出口へと誘導しながら、祈は思考を巡らせる。
周囲に人々がいなくなったことで、ある程度自由に戦えるようになった。
確かにクリスは豪雪を東京中に積もらせることが出来るほどの莫大な妖力があり、
ひとたびそれを爆発させれば、その規模から考えて、神社の外に逃げた人々の安全は脅かされるだろう。
しかし、それを行うことにメリットがないと考えられた。
一つは、モノの件だ。妖怪大統領はレディ・ベアに東京を学べと言って中学校へ就学させた。
周囲の人間を人質にするのならばともかく、東京そのものを雪で覆い、その機能をマヒさせるような真似は望まないだろう。
 そして二つ、隙が生じると考えられた。
ノエルが以前、巨大な氷のブーメランを生み出すために数秒を要したことがある。
ケ枯れ寸前だったこともあるだろうが、大きな力を引き出すには当然、反動が伴う。
それを考えれば、隙が生じるのはおかしな話ではない。
ノエルや、特に尾弐という強力なアタッカーを前にして、隙を作ってまで遠くの人間を害する意味はない。
あるとすれば、それは追い詰められて破れかぶれになり、
誰か巻き込んで死ぬというような自爆めいた真似をしようと思った時だけだろう。
 最後の一人が神社の外へ出たのを見送ると、祈はクリスへと視線を戻した。
これで安心して戦えると、そんなことを考えながら。
 そうこうしているうちに、ポチが何事かクリスに話しかけて、拝殿の瓦をいくつか落とし、
その影に隠れてクリスの足元へと移動。クリスの白い足を噛み千切ろうとしているところであった。
しかしクリスはそれをひらりと躱すと、今度はポチと入れ替わるように、自らが拝殿の上に立った。
 そして語り始めた。クリスとノエル、そして雪の女王の間に何があったのかを。

128多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:09:40
 クリスはその話を、周囲を吹雪かせ、怒りを露わにしながら締め括った。
邪魔をする者は千々に切り裂いて殺すと。
 更にこう続ける。胸に手を当てて考えてみろ。私は正常だ。狂っているのはお前たちの方だと。
>「アンタたちは、アタシのことを狂ってると言うんだろうね。目が曇ってると」
>「だがね、それはこっちのセリフさ。自分の胸に手を当てて、考えてごらんよ……もし自分がアタシの立場だったらどうだ?」
>「東京を守るだの、平和だの。浮ついたことを抜かす連中が、自分の家族を危険な場所へ夜ごと連れ回してる」
>「傷ついて、ケ枯れ寸前になって、命を喪うような危険な目に遭わされてる……。しかも、それを幸せだと思わされてる!」
>「家族としちゃあ、何としてでも正気を取り戻させてやりたい――自分の目の届くところに置いておきたいって思うだろ?」
>「その子を危険な目に遭わせて、それを善しとしてる者が!弟分だ?大好きだ?世迷言を言ってるんじゃァないよ!」
>「本当にその子を弟分と思うなら!大好きと思うなら!今すぐその場で血ヘドを吐いてくたばンな!」
>「その子の――みゆきの幸せのためにね!それができないなら、アタシが一人ずつ介錯してやる――」
>「それが。みゆきの姉としての、アンタらクズどもへの礼の仕方だ……!!」
 だから死ねと、こんな風に。
 話を聞き終え、祈にも色々と思う所があった。
疑問や戸惑い、悲しみ、怒り、焦燥、恐怖、憐み。様々な情や思いが駆け巡る。
それらはぐちゃぐちゃと祈の心を掻き乱し、迷いを生み、戦う理由すらも曖昧にしていく。
だが祈はクリスに言われた通り、実際に胸に手を当てて考えてみて、一つの解答を得た。
 言える気がしたのだ。“ノエルを大事な友人として想っている”と、胸を張って。
そのシンプルな解答に辿り着いた時、心を掻き乱す霧は晴れていく。
 ノエルを大事に想う。故に、ノエルの姉であるクリスに殺されてやる訳にはいかない。
記憶にないとは言え、姉が仲間を殺したとなればノエルが悲しむだろうから。
そしてこれ以上、クリスに罪を重ねさせる訳にはいかない。
 確かにクリスが経験したのは悲劇だっただろう。
だが、だからと言ってそれは関係のない誰かを害していい理由にはならない。
彼女が三年前に起こした豪雪事件や、
彼女たち東京ドミネーターズがしでかした虐殺は許されることではないし、
これから成そうとしている東京侵攻は必ず止めなくてはならない。
クリスはノエルさえいればそれでいいと言うが、いつその気が変わって、ノエルを理由に誰を殺すことかわからない。
そんな危うさをクリスは持っている。
ここでクリスを止めなければ、彼女は恐らく多くの被害を出す。そしてそれをノエルはきっと望まない。
 だから止める。ここで倒す。己の為、東京に住む全ての人々や妖怪の為、ノエルの為。
そしてクリスの自身の為にも。
 疑問を抱いたり戸惑ったり、何もかもはその後でいい。
 冷たい雪が風に乗って祈の全身を叩き、冷やしていく。クリスの放ったつららが祈の足元にも突き刺さる。
祈はそれを力を込めて踏み折り、一歩前に出て、ノエルの横に並んだ。
 状況は相当に悪いが、いつも通りブリーチャーズのみんなで戦うだけだ。
 ノエルも辛いだろうから「一緒に頑張ろうな」だとか、
恐らくクリスへの切札となるのはノエルであろうから「頼りにしているぞ御幸」だとか。
そんな言葉を祈が掛けようとした時だ。
>「みんな……突然だけどお別れみたいだ。
>ほんの少しの間だったけど御幸乃恵瑠という青年がいたこと、覚えててくれると嬉しいな。今までありがとう、さよなら……」
 ノエルが唐突に、皆への別れの言葉を述べたのだった。
そしてノエルの周囲に氷雪が激しく渦巻いて、寂しげに見えるその表情が氷雪の中に掻き消える。
「御、幸……?」
 祈が問うように呟く。
 氷雪が晴れるとそこにノエルはおらず、代わりに立っているのは、妖怪としての姿を露わにしたノエルと似た女性だった。
クリスの赤い瞳とは対称的な、青く大きな瞳。少しだけ跳ねた銀の髪。
顔つきもノエルと似ていて、背丈もノエルと同じほどだが、体形はすらりとして女性らしいラインを描いている。
 最初はノエルが女装でもし始めたのだと祈は思った。だが決定的に纏う雰囲気が異なっている。
人格そのものが違うのだと祈は直感し、その推測を裏付けるように、ノエルと似た女性は言う。

129多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:10:20
>「お初にお目にかかる。ノエルが随分と世話になったな。妾は次代の雪の女王――ああ、呼び方は乃恵瑠のままで構わない。
>莫迦な姉上がお騒がせして大変申し訳ない」
 ノエルとは別人であると。
 立ち振る舞いも声音も、ノエルとは全くの別人だった。
 祈はこの美しい女性の姿を、品岡の形状変化の術を受けているときに見ている。
幻覚か、あるいはノエルの内側にいて、ノエルを守ってくれている幽霊か何かではないかと思っていたが、違ったのだ。
 次代の雪の女王だという彼女の言葉から察するに、恐らく彼女は“二番目の人格”だ。
三年程前からは御幸 乃恵瑠として生きているその存在が、
みゆきという一番目の人格を奪われた後、数百年の間どうしていたのかはクリスの話の中にはなかった。
恐らくは彼女こそが、語られなかった数百年間の空白を埋める存在であり、
次代の雪の女王として教育を施された二番目の人格なのだろう。
 思えばノエルは三年程しか生きていない割に、様々な術や力を使いこなしていた。
それはこの第二の人格が内側にいて、
彼女が習得した術や力の使い方をノエルが無意識に感じ取っていたからと考えれば辻褄は合う。
だがクリスと言う強大な力を持った妖壊に立ち向かうには、御幸 乃恵瑠では力不足だった。
故に数百年の時を生き、知恵も力も段違いであろう真の姿を解放したと、そう言うことだと思われた。
 だがその彼女が出てきて、ノエルはさよならと言った。
だとすれば、ノエルはどうなったのだろうか。ただ人格を交代するだけなら、別れの言葉など言うだろうか?
 祈には全くノエルの気配が感じ取れないでいる。
もしかしたら、消えてしまったのか。

 祈は困惑する。しかし困惑している間にも、事態は進んでいく。
それも、――急激な速度で。
妖怪大統領の命令で奪った神鏡と祭神簿を用いて、クリスが神霊達を呼び出したのである。
一個中隊。200人にも及ぶ数の神霊が神鏡より飛び出し、拝殿の上に整列する。
そして彼らは、クリスの命令により銃を構え、
《全小隊、構え!撃て――――ッ!!》
>「召喚!ぬりかべ!」
 発砲する。
 咄嗟に橘音が出現させたぬりかべのお陰で銃撃を逃れた祈だが、状況に付いていけていない。
呆けながらも話は聞こえていたので、クリスがこの神社に祀られている護国の英霊達を呼び出して使役しているという、
この危機的状況を理解はしている。だが気持ちが追いつかなかった。
 ぬりかべを背にして、祈はしゃがみ込んで、俯く。
(どういうことだよ……。御幸は、死んだ……のか?)
 ノエルの言葉はまるで今生の別れのようであり、また実際にノエルの姿はない。
これらがノエルの消失を意味しているようであり、そのショックが祈の集中力を削ぎ落してしまっている。
(……じゃない! 駄目だ、戦いに集中しろあたし! 敵が大量に出てきてんだぞ!
クリスだって攻撃してくるはずなんだ! 集中しなかったら死ぬぞ!)
 祈は頭を振って、自らの頬を両手で叩いて気合を入れ直し、前を向いた。
>「まさか、クリスの目的が國魂神鏡と祭神簿だったとは……いやな予感はしていましたが、まさかここまでなんて」
 そして橘音の言葉に、意識して耳を傾けた。
なるべく悪い事など考えないように。本当は人格を交代しただけなのだと、自分に言い聞かせるように。
>「クリスひとりならともかく、英霊に対してはボクらはなんの攻撃手段も持ちません。英霊を倒すことはできない」
>「攻撃すれば当たるでしょう。怯ませることも可能なはず。けれど、決して倒せない。『ケ枯れ』させることはできない――」
>「なぜなら、彼らは妖怪じゃない。正真正銘の『神』です。神は妖気や霊気でなく、神の力を行使しているのですから」
>「全員散開です。集まっていたら一網打尽だ……とにかく攻撃を避けてください!」
 橘音の言葉に頷き、祈はとにかくその場から離れようと、
銃撃が止んだのを見計らってぬりかべの背後から飛び出した。

130多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:10:54
>《第一分隊!第三分隊!第四分隊!突撃―――ッ!!》
>「みゆきは狙うんじゃないよ!殺っていいのは四人だけだ!」
 突撃してくる英霊のいくつかの分隊。
英霊達はぬりかべには攻撃が通じぬと見て、
ぬりかべの側面に回り込み、直接囲んで殺すつもりと考えられた。 
祈は囲まれる前にどうにかその横をすり抜け、銃撃や斬撃を躱す。
彼らの攻撃を避けることは祈にとってそこまで難しい事ではないが、如何せん数が多過ぎる。
分隊は4つ。200人を4で割れば一分隊は50人。
ブリーチャーズ一人に付き50人もの英霊が、倒れることも諦めることもなく殺到し、
剣を振るい、あるいは小銃で砲火を浴びせてくるものだからたまらない。
更にはクリスによって境内に結界が張られている為、逃げ場がないのが最も厄介だった。
 英霊達は倒したところですぐに立ち上がってくる不屈の存在。
逃げ場がないのなら、彼らはその特性と人数を生かし、
広がりながら迫ってくるだけで、いずれはブリーチャーズを囲い、倒してしまえるのだろう。

 祈へと向かう第三分隊。
逃げ場を求める祈はその統率された動きにじりじりと追い詰められ、
拝殿から一人、本殿の方へと追いやられつつあった。
第三分隊の目的は祈を仲間と分断し、確実に仕留めることのようである。
 拝殿側では、恐らく乃恵瑠が生み出したであろう雪の巨人が橘音を守るようにしており、
乃恵瑠が仲間達に何らかの言葉を掛けている、ように祈には見えた。
あちらの雪の巨人の後ろに隠れた方が楽そうだと思い、
英霊の銃撃や剣を躱しながら、そちらへどうにか戻れないかと考え始めた祈だったが、その時。
「つーかあんた達、この国を護って戦った英雄達なんだろ! なんであたしらを狙っ――」
 この寒さで足の筋肉の動きが鈍ったのか、それとも雪に足を取られたのか。祈の足がもつれた。
そこを狙って放たれた銃弾の内、一発が祈の右肩を浅く抉り、鮮血を宙に舞わせる。
「――ぃっ!?」
 舞った血は真っ白な雪に赤い染みを作り、
祈は痛みでバランスを崩してしまい、うつ伏せに倒れた。
(畜生、痛い……っ! でも早く立ち上がらないと、追撃が来る……!)
 痛む右肩を左手で押さえながら、立ち上がろうと地面に右手を付くと、雪の冷たさが指に痛かった。
そうして雪を見ていると、どうしても思い出すのが、ノエルの作ってくれたかき氷だ。
自らの血で染みを作られた雪が、まるで苺シロップの掛かったかき氷のようにすら見えて、祈は薄く笑う。
そしてノエルがいなくなったことのダメージの大きさに愕然とした。
まるで胸に穴でも開いてしまったようで、その穴からは手に触るこの雪よりも冷たい風がびゅうびゅうと吹いている。
 祈がブリーチャーズに入った時には既にいて、気が付けばもう友人になっていたノエル。
その非常識な行動に、何度ツッコミを入れただろう。何度笑わされただろう。
そして何度――救われただろう。
 八尺様との戦い後、その結末に戸惑う祈を、優しい言葉と抱擁で受け止めてくれた。
コトリバコとの戦いの前は、危険から祈を連れて行くのを渋る橘音を説得しようと、誰より先に動いてくれた。
ドミネーターズとの邂逅の時、激昂する祈を止めることもできただろうに、むしろ死力を振り絞って援護をしてくれた。
そのノエルがもういない。あの優し気で無邪気な笑みを、もう見ることができない。
 それに。
(まだあたし、ありがとうって言ってないよ……御幸……)
 今までしてくれたことへの、感謝の気持ちを祈は伝えていないのだった。
急な別れでさよならの一言も言えていない。どうしようもない、未練だった。
 クリスの気持ちが少しは分かる気がした。
彼はあまりにも優しく、その無邪気さは人を惹きつけるだけの魅力があった。
どれだけ人格が変わろうとも、変わらぬ魂の輝きがあったのだろう。
だからその存在を惜しまれる。だからこそクリスは執着し、狂ってしまったのだ。

131多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:12:29
だが。力の入らぬ足、腕。目尻に滲もうとする涙。
しかしそれら全てをなんとか意志の力で抑えつけて、祈は立ち上がろうとする。
(それでもあたしは“ブリーチャーズ”なんだ……正義の味方だ! 御幸がいなくなったからって、
そこで走るのを止めちゃダメなんだ! あたし達が負けたら、色んな人が傷付くんだから!)
 この戦いはノエルを巡って争うだけの戦いではない。
クリスの背後には他のドミネーターズが、妖怪大統領が控えている。
ブリーチャーズの敗北は彼女達の台頭を意味し、
支配の為には虐殺も厭わない彼女達が東京を制圧しようとした時に出る被害は計り知れないだろう。
 クリスの背後に支配を目論む者がいるのなら、
同じように祈達の後ろには東京に住む人々や妖怪達がいる。ここで負けることはできないのだ。
その強い意志が、祈が右手で地面を押し、体を起こすだけの力となり。
そして、
>「ねんがんのアイスソードを手に入れるぞ!」
 この言葉が、祈の足に立ちあがる力を齎した。
拝殿の上に立つ、乃恵瑠の声が祈のいる場所まで聞こえてきたのだった。
人格は変わった筈で、その声は全く違うのに、放った言葉の残念さは、まるで。
「御幸……?」
 乃恵瑠の意識の奥底にノエルの人格がまだ残っているのか、
それともノエルとして生きていた時の記憶が彼女にもあり、
それがあのような言動を生んだのかは定かではないが、そこに確かなノエルの息吹を感じた。
 祈は全身に力を込めて立ち上がる。
 祈は知っている。その“アイスソード”という言葉の意味を。
ゲームに全く触ったことのない祈だが、ノエルはゲームを好み、それに関する言葉を時々話していた。
故にそのアイスソードという単語についても聞いた覚えがあったのだ。
 アイスソードとは即ち、あるゲームにおいて“最強の剣”であり、曰く殺してでも奪い取りたくなるものだという。
そして、それを“手に入れるぞ”と指示したということは、
この神社には最強の剣があり、それを取ってきてくれと、そういう意味合いになるのだろう。
不勉強な祈はここにそんな最強の剣とやらがあるかどうかは知らないが、
もしそんなものが眠っているとすればどこかは簡単に検討が付いた。
幸いにもそれは、祈の近くにある。“本殿”だ。
 気が付けば何故か英霊達の攻撃が止んでいる。
先程の攻撃で祈を仕留めたと誤認し、その祈が立ち上がったのを見て畏怖したのだろうか。
なんであれ祈はそれを好機とばかりに駆け出し、本殿へと飛び込んだ。
そして最強の剣を探し出そうと行動を開始したのである。

 さて、どうして英霊達が祈を攻撃するのを止めたのか。
それは先程の銃撃で祈を倒したと誤認した訳でも、ましてや立ち上がる祈の姿を見て恐れた訳でもない。
加えて、祈が立ち上がるまでの数秒。攻撃する機会はいくらでもあった。
それでも彼らが祈に攻撃を加えなかった理由は、彼らが“護国の英雄だから”に他ならない。
 親兄弟、子ども、友人、恋人、知人。顔すら知らぬ人々。
戦うことのできない弱者、老人、女子供。牙なき人々。大切な風景、愛した文化、国。
それらの明日、未来の為に、たった一つしかない己の命を賭した彼ら。
その誇り高い魂が、祈へのそれ以上の攻撃を拒んだのだ。
 英霊達は、攻撃してはならないと指示されたみゆきが誰であるのか理解していた。
これは指揮官であるクリスの持つ情報がある程度彼らに伝わっていることをも意味している。
故に、祈が半妖であることも知っていたのだ。
 妖怪の血は混じっていても、祈がこの国に生きる者が為した子どもであることを。
本来ならば自分達が守らなければならないものの一つである、か弱き女子供であることを。
女性はいずれ子を為し、その子はやがて国を支える。その螺旋が国を存続させる。子とは即ち、宝だ。
 神鏡を持ったクリスによって強力な命令を下され、一時は我を失った英霊達だったが、
しかし銃弾によって流れ出たその赤き血を、倒れ伏す弱々しい姿を見て、その目を覚ました。
いかに指揮官となったクリスから国賊として虐殺を命じられたとしても、
彼らの誇り高い魂や信念までは奪えない。決してその行動理由を捻じ曲げることなどできはしない。
 クリスの命令に疑問を覚えた第三分隊はこの戦線を放棄することを決定し、この場より消えることを選んだ。

132多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 15:12:54
 やがて、祈が本殿から姿を現した。
本殿の最奥まで踏み込んで探し回り、強そうな剣を探り当てて、
それ“ら”を抱えて戻ってきたのだった。
それらとは、二振の刀剣である。
 祈はどちらのことも知らないが、一つは『九段刀』。
この神社の境内で作成された数多い軍刀の内の一振で、ある時を境に奉納された代物である。
この神社で作成された軍刀の象徴となったその刀には、無数の人々の平和への念、護国の精神が宿っていると考えられた。
 もう一つは、宮司が代々その名を伝えるのみで、
一般にはその名も姿も公開されておらず、宮司すら一生の内にお目にかかるかという秘中の秘。
この神社に置ける、神鏡と並ぶご神体であり、『神剣』と呼ばれる代物だ。
刀ではない、ということ以外形容できないが、それはまさしく“神剣”だった。
 手に掴んだとき、凄まじい力を感じたそれらを抱えて本殿から出てきた祈は、拝殿に立つ乃恵瑠を仰ぎ見た。
どれが乃恵瑠の言うアイスソードなのかはわからないが、二つあるのはむしろ都合がいい。
戦う為の力が多いに越したことはない、というのもあるが、
九段刀は刃渡りは60センチ前後。所謂小太刀と同等の長さだ。
そしてもう一つの神剣はそれなりの長さを備えていて、これならば以前ノエルがやっていたことができる。
 大小二振の氷の刀で行っていた、二刀流が。
「御幸ーーーッ!!」
 今この場にいないとは知りつつ、祈はその名を叫ぶ。
 拝殿の上に立つ乃恵瑠へ向け、構えた。
「念願の……アイスソードだっ!!」
 そして、あろうことかご神体と奉納された宝物を、乃恵瑠の方向へとぶん投げた。
撃たれた右肩は痛んで、左手は利き手ではない為、
投げた二振りの刀剣は確かに乃恵瑠の居る方向に飛びはしたが、
神剣はギリギリ、九段刀はともすれば乃恵瑠を飛び越しそうになっている。
 乃恵瑠が吹雪などを操ってそれをどうにか掴み、自ら振るうか、
それともポチがその機動力で上手くキャッチし、英霊やクリスを倒すために役立ててくれるか、
橘音がそれらを手に入れ、機転で状況を変えてくれるか、
それとも尾弐が刀を振るうような事態に発展し得るのか。それはわからない。
なんであれ、今の祈はそれを見届けられる自信はなかった。
 吹雪はいまだ強く吹き荒れ、雪は靴が埋もれるほどに積もっている。寒さが容赦なく体温を奪っていった。
必死に体を動かしてもその熱は逃げて、足や手指の感覚がなくなっていくのがわかる。
投げて渡すのが今の祈の精一杯で、意識もまた刈り取られようとしていた。
「これで、アイスソードでも、何でも作ればいい……」
 アイスソードは最強の剣。それ以外のことを祈は良く知らない。
だがアイスソードと言うくらいだから、多分氷やら雪やら冷気の力を持っているのだろうと予測は付いた。
そしてここには、雪ならごまんとある。
クリスが使うのが元々乃恵瑠の力であるなら。
クリスがノエルの投げた雪玉を吸収したのなら、きっとその逆だって――。
そこまで考えた時、祈の体がぐらりと揺らいだ。

【祈、第三分隊の英霊の手を逃れ、アイスソード(?)を二振り入手。それを仲間の元へとぶん投げる(罰当たり)】

133ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:13:39
>「何も知らないカスどもが……、その子とアタシの間にあった出来事さえ知らないクセに、よくも抜け抜けとほざいたもんだ!」

「そうだね。でも忘れてない?きみも、ぼくらとノエっちがどんな時間を過ごしてきたか、しらないんだよ」

ポチはクリスを見下ろしながら、そう呟く。
しかし彼女には届かない。言葉はもとより、不意を狙った牙すらも。

「ううん……こまったなぁ。めちゃくちゃつよいじゃん、ノエっちのおねーちゃん」

いつもの調子でぼやくポチは、しかしそれ以上の追撃をしなかった。
クリスを中心として、橘音達から離れる形で弧を描く。二、三度、地を蹴れば挟み撃ちに出来る位置取り。
しかし……動かない。死角に潜り、先手を取って……それでも、良い結果が出せると思えずにいた。

>「糞狐とその仲間。どのみち、アンタたちは全員殺す気でいた。言ったろ?ドミネーターズの邪魔をする連中は殺すと」」
>「ノエルをそそのかし、誤った幸福を植えつけたアンタらは、アタシの中で一番の抹殺対象さ」

「あやまったしあわせ、ねえ」

ポチは何か思うところがある、と言った調子で呟き……それ以上は続けない。
ただクリスを睨みつけたまま、その言葉に耳を傾けていた。

>「でも。その前に教えてやろう、その子とアタシの身に起こったことを。この世界でアタシたち姉妹にしか共有できない話を」
>「それを聞いてなお、弟分だと――自分が一番その子を愛してると。言えるものなら言ってみるがいい!」

そして語られるのは……クリスと「みゆき」の過去。
だが狂愛と憎悪に彩られたその物語を耳にしても、ポチの眼に猜疑や軽蔑……その他一切の、負の感情が浮かぶ事はない。
ポチは平静を保っていた。何故なら……クリスの語る過去は、彼女と「みゆき」のものだ。「ノエル」のものではない。
ノエルは仲間だ。家族同然の存在なのだ。
お前の愛する家族は、実は大量殺人犯の生まれ変わりなんだ。
だから手放せ、嫌いになれ……などと言われて、その通りにするほど狼の愛は浅くない。

>「――千々に!千々に千々に千々に!!千々に引き裂いて―――――――殺す!!!!!」

クリスの轟かせる吹雪がどれだけ強く、ポチの体を、例え心をも打ちつけようとも、その愛情を凍りつかせる事は出来ないのだ。

>「その子を危険な目に遭わせて、それを善しとしてる者が!弟分だ?大好きだ?世迷言を言ってるんじゃァないよ!」
>「本当にその子を弟分と思うなら!大好きと思うなら!今すぐその場で血ヘドを吐いてくたばンな!」

加えて言えば、例え「ノエル」がみゆきを下地に作り出された被造物であろうと、やはりポチには関係ない。

「はっ、おことわりさ。なんだい黙って聞いてりゃ、ばかばかしいなぁ。ノエっちは、ノエっちだろ」

ノエルは仲間であり、家族同然の存在であり……ノエルなのだ。
過去に大勢の人を殺していて、作り物の存在で……他にいくつ、彼に修飾語が散りばめられようとも関係ない。
ノエルは、ノエルだ。それだけでいいのだ。

「ぼくは気にしやしないよノエっち。気にしてほしーなら、気にするけどさ。
 たいしたことじゃないし、どっちでもいーよ。だけど、まずはあのおねーちゃんをやっちゃおう……」

>「みんな……突然だけどお別れみたいだ。

だが……その「それだけ」すらも今この瞬間に失われるとは、ポチは考えてもいなかった。
ノエルの口から別れの言葉が紡がれた瞬間、ポチの表情が強張り、眼に困惑が浮かぶ。

134ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:14:19
「……ノエっち?その冗談はあんまりおもしろくないよ」

>「ほんの少しの間だったけど御幸乃恵瑠という青年がいたこと、覚えててくれると嬉しいな。今までありがとう、さよなら……」

「ノエっち、なに言ってんのさ。気にしないって言ってるだろ!待って……待てよ!」

ポチは叫び、ノエルに飛びつこうとして……しかしそれを阻むように氷雪の渦が巻き起こった。
ノエルの姿が、深い悲しみのにおいと、氷と雪に塗り潰され、掻き消える。
呆然とするポチの目の前で氷雪の渦が止んで……そこにいたのは、ノエルではなかった。
目鼻立ちはノエルに似ているが、瞳の色が違う。髪型も、体型も……そしてなにより、においが違った。
ノエルの冷たくも安らぎを感じるにおいが、消えていた。
残っているのは僅かな残滓だけ……三年前、あの妖災で死んだ五人の仲間と同じように。

>「お初にお目にかかる。ノエルが随分と世話になったな。妾は次代の雪の女王――ああ、呼び方は乃恵瑠のままで構わない。
  莫迦な姉上がお騒がせして大変申し訳ない」

乃恵瑠の言葉に、ポチはその青い瞳を見つめたまま、言葉を返せない。
例えノエルがいなくなってしまったとしても、その原因は彼女ではない。
むしろ今の姿こそが、次代の雪の女王として正しい姿……頭ではそう分かっていても、狼の心はそれを受け入れられない。

>「これ。なぁぁ〜〜〜〜んだ?」

「……しらないよ。どうでもいい」

>「ともかく、アタシはもう一度東京に戻ってきた。となれば、大統領との約束を果たさなくちゃいけない――それがコレだよ」

「どうでもいいって言ってるだろ。ノエっちがいなくなっちゃったら、おまえなんて、どうでもいいんだよ」

静かに、冷たく、ポチはそう言った。
白黒斑の体毛が、夜が深まるように、黒が広がっていく。
狼としての彼が、僅かに目を覚ます。

>「さあ――出て来な、護国の英霊たち!新たな支配者の降臨を妨げる、国賊どもをブチ殺しておやり!」

「ころされるのは、おまえだ」

呼び出された英霊達は小銃と軍刀、手榴弾を用いてブリーチャーズに対して前線を上げつつ広く展開してくる。
その数と連携による制圧力は、無策のまま追い立てられ続ければ、いずれは死に至るほどの脅威。
……だが、ポチにとっては、その限りではない。彼は単独で、その制圧から逃れる術を持っている。
クリスの吹雪はブリーチャーズの視界を奪うが……逆にポチも吹雪が生み出す暗闇に身を隠せる。
寒さは体温と体力を奪っていくが……動けなくなる前に、クリスの首を食いちぎれば、それで済む話だ。
……ポチは、誤った選択肢に飛び込もうとしていた。
クリスほど強力な妖怪を、ろくに味方の援護も得られない状況で仕留めてしまおうなど、実現出来る訳がない。
ついさっきまで、ポチ自身も、その事を十分に理解していたはずだった。
ノエルという最愛の家族の消失は、彼から冷静さを奪い、代わりに激しい怒りと……自分の命すら軽んじてしまうほどの悲しみを植え付けた。
そしてポチは英霊達による苛烈な攻撃の中、仲間への意思表示すらしないまま姿を消す。
英霊達の部隊の間を駆け抜け……拝殿の屋根に立つクリスが、はっきりと見える位置にまで近付いた。
クリスは何かを叫んでいるようだったが、ポチには聞こえない。
ノエルが消えてしまったのなら、眼の前にいるのはただの敵だ。それも特別憎らしい敵。
声は聞こえても、言葉になど毛ほどの興味も抱かない。そのまま彼女に飛びつかんと、体を屈め……

>「そしてみっつ!探偵として――人にカッコ悪い姿を見せること!です!!」

背後から、橘音の声が響いた。
その声の力強さに……ノエルが消えてしまった事への悲しみなどまるで感じさせない力強さに、ポチは思わず足を止めた。

135ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:15:03
>「特に、みっつめは譲れない!なぜなら――探偵とはいつでもハードボイルドで、ニヒルで!カッコイイもの!」
>「命が惜しくて降伏なんて……そんなカッコ悪さの最たるものを、このボクが!狐面探偵・那須野橘音が――見せられるもんですか!」

何故、そんなにも凛とした声が出せるのか。
ノエルが消えた事を悲しんでいないから……そんな訳はない。
橘音とノエルの間には、たまにポチが羨ましくなるほどの親愛の情がある。だが、ならば何故。

>「こんな時に何を言っておるのだ……酢豚にはパイナップルが入っているものであろう!」

その答えは、すぐに分かった。
この、場にそぐわない、どこか間の抜けた発言……ポチが小さく、吹き出すように笑った。

「……なんだよ、ノエっち。まだ、そこにいるんじゃないか」

橘音はその事を知っていたのだ。
……あるいは、確信は持てなくても、そう信じていた。

「……あちゃあ。こりゃ、ずいぶんとカッコわるいことをしちゃったなぁ、ぼく」

大きなショックを受けていたとは言え、ノエルを信じる事も、仲間を助ける事も忘れ、駆け出した自分を、ポチは強く恥じる。
だが……反省も後悔も、するべき時は今ではない。
今すべきなのは……挽回だ。ポチはすぐさま身を翻し、降り積もった雪を強く蹴っ飛ばす。

>「あひゃあああああっ!?ポ、ポチさーんっ!ヘールプッ!」

視線の先で、爆風に吹き飛ばされた橘音が見えた。
そしてそれに小銃の狙いを定める英霊の姿も。
ポチはその内の一人に飛びつき……頭を強烈に踏みつけた。
照準を乱し、自身は更に大きく跳んで空中の橘音、その袖に噛みつき、放り投げる。
飛ばす先は……尾弐のすぐ傍だ。戦場がどこであっても、敵が何者であっても、ブリーチャーズが戦うのなら、最も安全な場所はそこ以外にあり得ない。

>「シンキング・ターイム!ってことで、皆さん!ボクに考える時間をください……、この状況を打破できる方法を考える時間を!」
>「分かった。しかしそう長くは持たぬ――三時間が限界だぞ」

「ひゅう。いうねえ、ノエ……あー、ええと、ううん……うん、のえっちでいっか。いうねえ、のえっち」

乃恵留をどう呼ぶか、ポチは一瞬迷って……前と変わらぬ呼び方をした。
まだ彼女の中にノエルが残っている事を信じて。
……そして、彼女自身も、新たな家族として受け入れるという気持ちを込めて。

「ぼくもさっき、ちょっとカッコわるいことしちゃったから……カッコつけなおしとこうかな」

そう言うと……ポチは先ほど踏み台にした英霊を振り返った。

「きつねちゃん。ながくはもたないよ」

自分が頭を踏みつけて……転ばせた英霊を。
それを目視した瞬間、ポチの体が大きく膨らんだ。
中型犬相当だった体躯が、倍以上の大きさに……人々が想像する、恐ろしい狼の姿にまで。
ポチの名が刺繍された首輪が悲鳴を上げながら引き裂けていき……ぶつんと、千切れた。

「精々……日が沈んで、また朝日が昇るまでくらいが限界かな」

子供らしさの消えた声。巨大化した姿。
そこにいるのはもう、一般的な愛玩犬「ポチ」と名付けられ、定義づけられた存在ではない。
山の神が使わせた守護と恐怖の象徴……送り狼だ。

136ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:15:33
「……ねーねー、橘音ちゃん。僕はさ、頭は良くないけど、悪戯は好きなんだ。だから……こんな悪戯はどうかな」

送り狼は橘音に何かを耳打ちすると、答えを待たずに背を向けた。

「待て、をするなら早めに頼むよ」

彼は英霊達が展開する陣へと駆け出した。
姿を隠し、懐に潜り込み……英霊の内の一人に飛びかかる。
首に牙を突き立て、力いっぱい振り上げ、叩きつける。そのまま前足で頭を踏みつけた。
そして再び、高らかに吠える。
人を脅かすのではない、騙すのでもない……明確に人を殺める妖怪。
送り狼の、狩りの前触れ。

「伏せ、でもしてな」

例え英霊達を殺める事が叶わないとしても、その響きは、護国の使命を帯びた彼らが看過出来るものではない。
数十の銃口が送り狼を一斉に睨んだ。
轟々と吹き荒れる氷雪の嵐の中、銃声が響く。
送り狼はその場を飛び退き、暗闇に身を隠す。
そして再び現れ、今度は別の英霊に食らいつく。
今度は腕……そのまま力任せに振り回し、周囲の分隊を薙ぎ払って、消える。
奇襲を仕掛け、英霊達の陣形を荒らし、再び暗闇の中に隠れる。
それを幾度となく繰り返す事で、英霊達の部隊展開は大幅な立て直しが必要となっていた。
しかし……彼らは同士討ちを恐れない。
姿が見えた瞬間に八方から銃撃され、更に軍刀を用いた反撃によって体勢が制限されれば……いつまでも無傷ではいられない。

「うっ……」

一発の銃弾が、送り狼の脇腹に命中した。
しかし……彼は一瞬怯んだだけで、またすぐに暴れ出す。
時間が経つにつれて、狼の体に傷が増えていく。
腹を何発もの銃弾に穿たれ、軍刀で真正面から切りつけられ、手榴弾の破片を全身に受け……それでも止まらない。
……狩人としての狼の、最も優れたる、他の追随を許さない素質とは何か。
鋭い牙……ではない。確かにそれは強力な武器だが、単純に噛み砕く力ならばより優れた生き物は多く存在する。
高い敏捷性……でもない。単純な瞬発力では、猫科の生物には到底叶わない。
狼の最も優れたる素質は……

「……まだまだ、一日中だって走ってられるよ」

……持久力だ。
およそ二十分、全力で走る事が可能で、速度を落とせば夜通し走り続けられる持久力。
そして妖怪である送り狼にとっての持久力とは……ケ枯れへの耐性だ。
深く深く、冷気をものともせず息を吸い込み、足元に絡みつく雪を蹴りつける。
……無論、この状況で彼が本当に一晩中走り続けられる訳はない。
このまま同じ事を繰り返していれば、いずれは疲弊し、消耗し、ケ枯れを起こして、死ぬ事になる。
だが送り狼はそんな事は意識しない。
橘音は、自分に助けを求めた。そして時間を稼いでくれと言ったのだ。
頭のなかにあるのは、ただそれを実行する事だけだ。
己の命が尽きるまで、彼は死への恐怖など微塵も抱かないだろう。

「っ、ねえ!おねえちゃん!ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかな!」

決して疲弊する事のない英霊達に、決して勝利の訪れる事のない戦いを挑み続けながら、送り狼は叫んだ。

「君は、妹がその子狐と遊んでいる時に……なんで同じ罪を被ってあげようと思わなかったんだい!
 君が一緒にいれば、妹ちゃんに命ある者との関わり方を教えてあげられたんじゃないの?
 壊れてしまわずに、済んだんじゃないの?」

全身に銃弾を受け、無数の刃傷を負って、なおも送り狼は声を張り上げる。

137ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:15:59
「記憶を消された時だってそうだ!なんで妹ちゃんが消えちゃうのを待ってたのさ!
 一緒に逃げれば良かったんじゃないのかい!
 ……僕思うんだけど、おねえちゃん、もしかしてさぁ……」

英霊達の陣のど真ん中で立ち止まり、彼はクリスを見上げた。

「妹を愛してたなんて言いながらも、実はちょこっと、自分が可愛かったんじゃないの?
 だからだろ。仲間の為に戦う事を、不幸だなんて思っちゃうのはさ」

そして、にやりと、牙を見せつけるように笑う。

「本当に仲間を、家族を、愛してるなら……その為に死ぬ事さえも、幸せなのさ」

……実際の所、ノエルが本当にそんな事を思っていたのかは分からない。
クリスとは形が違うだけの、狂気的とすら言える愛情。だが彼はその存在を確信している。心から信じている。
なにせ狼にとって……そんな事は、当たり前の事なのだから。
 
「お前の愛は、愛じゃない。お前はただ、幸せな妹のそばにいる、幸せな自分を愛してただけだろ。
 だから自分を擲てない。その意味を、理解出来ない。
 ……どうした!僕はここだぞ!手本を見せてやるよ!殺してみろ!」

挑発に誘われるように、英霊達が一斉に彼へと攻撃の矛先を向けた。
百にも及ぶほどの銃弾が送り狼へと放たれ、手榴弾が殺到し、軍刀を掲げた不死の兵士達が殺到する。
……それと同時に、彼の姿が、暗闇に消えた。

「まっ、そうは言ってもさ、死なずに済むならそれが一番だよね」

英霊の注意を引きつけ、躱した送り狼は、暗闇に隠れたまま本殿へと振り向く。

「……「におい」は、もうすぐそこまで来てる」

そう呟いた直後、祈が本殿から飛び出してきた。
肩から流れた血が体の半分を紅く染め上げたその姿に送り狼に心臓が跳ね上がる。
自分が自棄になって駆け出したりしていなければ……後悔に心が埋め尽くそうになるのを、必死に堪える。

138ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 15:16:28
>「御幸ーーーッ!!」
>「念願の……アイスソードだっ!!」

祈が本殿から持ち出してきた刀剣を、乃恵留へ向けて投げ飛ばした。

>「これで、アイスソードでも、何でも作ればいい……」

次の瞬間、崩れ落ちる祈。
すぐにでも駆けつけて、その体を支えたいという衝動……それを抑え込むように、高く高く吠える。
迷いは振り切った。送り狼が駆け出す。二振りの神剣が飛んでいく先……クリスと乃恵留の元へ。
血を流しすぎて、息を吸っても酸素が体に巡らない。四肢が痺れる。
それでも仲間の為、家族の為……送り狼は跳躍した。
雪の積もった地表から、拝殿の屋上をも飛び越えて、祈が投げた軍刀……九段刀へ。
そしてその柄に、しかと食い付いた。
そのまま首を力いっぱい振って、鞘から刀を抜き放つ。

「貰った!」

クリスの首へと迫る、吹雪の暗闇に閃く白刃。
扱うのが「犬っころ」とは言え護国の神社に奉納された刀剣による斬撃。
まともに受ければ重い手傷を負う、あるいはそれ以上の結果が招かれる可能性は高い。
だが……乃恵留には伝わるだろうか。送り狼の一撃に、殺意が篭っていない事を。

「……なーんてね」

九段刀はクリスに届かず空を切り……そのまま宙空へと放り投げられた。
背後にいる乃恵留の手元へ収まるように。
護国の刃を囮にして、投げ捨てる……クリスはその行動を予測出来ただろうか。

「なんだっけ、さっきすごく興味深い事言ってたよね。ええと、確か……」

出来ていなかったのなら……次の行動もまた予測出来ないだろう。

「あぁそうだ。コイツをぶっ壊すのは簡単だ、だっけ」

振り下ろされる狼の爪……その狙いは、クリスの手中の祭神簿。
狼である彼には、それが神宝である事など、関係ない。
それを破壊する事が、後の東京に更なる災いをもたらすかもしれない事など、関係ない。
重要なのは唯一、それを破壊すれば仲間を襲い続ける敵が消える事。ただそれだけだ。
この「悪戯」はクリスの度肝を抜けるだろうか。あるいは……橘音の「待て」がかかるだろうか。



【英霊達の的になった後、九段刀を囮代わりにポイ捨て(罰当たり2)】

139尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 15:17:06
銃弾が、脇腹を掠め喪服を裂く。
背後から放たれた斬撃は尾弐の腕を奔り、赤い飛沫を中空へと散らす。

ライフル弾ですら弾き、日本刀ですら受け止める『鬼』という種族の強靭な肉体。
それが今や見る影も無く、只の人間と同じように容易く削り取られていた。

「こうも相性が悪ぃとな……っ!!」

クリスが祭神簿と國魂神鏡によって呼び出した英霊群。
彼等は、尾弐にとって最悪の敵であった。
恐るべきは尾弐の防御を容易く貫く神としての属性と、不滅の肉体。
身体能力こそ凡百ではあるものの、二つの特性と数多の物量が合わさる事により、
もはや彼等は尾弐の手に負えない脅威と化していた。
しかも、現状は尾弐自身の力にも著しく制限がかかっているという『おまけ』付きだ。

この条件下では、防御に徹しても己が身を護る事さえおぼつかない。
それでも現状、尾弐が絶命を免れ生存しているのは……尾弐を護る様に立つ彼――否、『彼女』のお蔭であろう

>「何、そなたが当たり判定で一番不利ゆえ来ただけのことだ」
「……っ」

かつてノエルと呼ばれていた器の下より現れた、ノエルの前人格と思わしき存在。
彼女の繰る力が、英霊たちの攻撃とクリスの冷気から尾弐を庇っていた。
……だが。
そうして命を護られているにも関わらず、尾弐の表情は硬い。
その背に向ける視線は、敵である存在を――――八尺様を、コトリバコを見た時と同質のものが含まれていた。

>『でも。その前に教えてやろう、その子とアタシの身に起こったことを。この世界でアタシたち姉妹にしか共有できない話を』
(ノエルは、感情に狂って人間を殺めた妖壊……その成れの果て)

>『みんな……突然だけどお別れみたいだ。
>ほんの少しの間だったけど御幸乃恵瑠という青年がいたこと、覚えててくれると嬉しいな。今までありがとう、さよなら……』
(この女は、ノエルの奴の殻を食い殺して湧き出た残滓)

尾弐の脳裏に浮かぶのは、先ほどまでクリスとブリーチャーズの面々によって交わされていた会話。
妖壊と化し人に死を与えた、とある雪女の話
隣人である前に、ノエルの監視者であった那須野の隠し事
そして、消えてしまったノエルという青年の決意

その会話を聞いてしまった今
ノエルの過去を知ってしまった今
知ってしまった真実を前に、尾弐は――――祈のように“ノエルを大事な友人として想っている”と断ずる事が出来なかった。
ポチの様に、過去など関係ないと無制限の愛と信頼を向ける事が出来なかった。

尾弐という妖怪の矜持……自らの意志で人を殺した『化物』に一切の慈悲を与えない。
魂にこびり付いたそれが、それをする事を許さなかったのだ。
ノエルが消え去る時にすら言葉を発さぬ程に硬く根付いた、錆びて動かぬ歯車の様な歪んだ矜持。

拭えぬ罪を犯したという過去も
利用される痛み、利用する痛みも
あらゆる手段を用いても何かを守りたいという意志でさえも、尾弐は知っている

知っているにも関わらず……いや、知っているからこそ、尾弐は心を動かせない。
友と。弟分と。そう呼んだにも関わらず慈愛を向けられない。
血が流れる程に拳を強く握っても、信頼の言葉を吐き出せない。
この場にいる誰より……狂ってしまったクリスよりも、尾弐という男の心は醜悪であった。

140尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 15:17:52
だが、時間はその愚かな男を待つ訳はなく。
戦況は刻一刻と悪化を見せる。
英霊の集団は、ブリーチャーズの面々を消耗させ、ノエルという青年人格の消失が与えた衝撃は各々の判断を鈍らせる
数と質。両方で劣勢を強いられ、すわ、このまま押し潰されるかと思われたその時

>「そしてみっつ!探偵として――人にカッコ悪い姿を見せること!です!!」
>「シンキング・ターイム!ってことで、皆さん!ボクに考える時間をください……、この状況を打破できる方法を考える時間を!」

クリスの言葉を受けた、那須野がノエった。

……いや、ノエるというには知性が見え隠れしている為に本家には及ばないのだが、とのにかくノエった発言をしたのである。
あまりに状況にそぐわない挙動は、一瞬場が沈黙に包むが……しかし、
どうやらその沈黙こそが、ブリーチャーズの面々を動かすにたりえる起爆剤であったらしい。

>「今クリスが持っているのは『神体』と『神宝』――もしかしたら『神器』があればこやつらに対抗できるかもしれぬな」
>「ねんがんのアイスソードを手に入れるぞ!」

御幸が、クリスの持つ2つの秘法の攻略手段を考察する。

>「念願の……アイスソードだっ!!」
祈が、血に塗れながらもその意志を繋ぎ、神殿の奥から宝剣の類を持ち出す事に成功する

>「あぁそうだ。コイツをぶっ壊すのは簡単だ、だっけ」
狼と化したポチは、祈の意図を汲み、更に祭神簿を狙うという奇策を打つ。

そうして、各々が那須野が状況打開の策を考える時間を稼ぎながら、更に各自でクリス撃破の策を巡らせる。

だが、その最中でも尾弐はただ一人、前に向けて動く事が出来なかった。
せめてもの役目だとばかりに、御幸の生み出した雪の人形と共に英霊群が那須野へと近づく事を阻止するが、それだけだ。
彼はただただ沈黙を続けたまま、思考だけを巡らせ続ける。

(神剣に宝剣……確かに強い武器だが、あれだけじゃあの化物は倒し切れねぇ。下手すりゃ3年前の焼き直しになっちまう。
 ……手段は有るんだ。一つだけだが、クリスを確実に葬る為の手段は。だが)

尾弐の視線の先には、今まさに宝剣を手に取らんとする、かつてノエルという青年であった御幸という女。
その目に映る姿は白磁の如く白く透明で、嫋やかな女性の体。
力を込めて触れば、折れてしまいそうなか弱い肉体。尾弐が知る一人の青年と、まるで異なってしまった姿。

(それは最悪の外法だ。八大地獄に叩き落されるのすら生温い最低の選択だ。
 だが……神剣なんていう不確定なモンに頼るより、クリスを確実に仕留められる手段でもある)

顔に向けて放たれた英霊の剣を歯で咥え受け止め、そのまま噛み砕き、
次いで心臓部へと向かう銃弾を右腕で受け止め赤い花を咲かせながら、
尾弐は心のなかで、己に言い聞かせる様にして思考を絞り出す

(――――『俺がクリスの目の前で、ノエルだったあの女を殺せば』クリスを殺す為の隙は必ず生まれる)

141尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 15:18:31
思った瞬間、強く噛みしめた尾弐の奥歯が割れた。
それは、誰も犠牲にしないと言った自分自身の言葉と、仲間たちの決意すらも裏切る劣悪な選択肢。
仲間であり友人であると思った存在を斬り捨てるという、下衆にも劣る最低な思考。

……尾弐の脳裏に、これまでノエルと送った馬鹿馬鹿しくも光り輝く日常の光景が想起される。
例えノエルという妖怪が、尾弐にとって禁忌である罪を犯した過去があるとすれど、
その日々の尊さは変わらない。尾弐という妖怪の送った生の中での、穢したくない白雪の様な思い出である。
尾弐が想定しているのは、その思い出すらも殺してしまう、決して取ってはならない手段だ。
今までと、これから。積み重ねた全てを壊してしまう最悪の選択なのだ。

……だが。ノエルと過ごした日々と同時に、記憶の底から浮かんだ別の光景が、その手段に手を伸ばさせる。
それは、平安の時代に丹波国の大江山に積み重なった女子供の骸の山の記憶。
そして、鎖に繋がれ光の刺さない牢獄に居る自身に差し伸べられた、小さな腕と笑顔。
何をしてでもその笑顔を守ろうと思った原初の誓い。
それが、尾弐を禁忌へと誘う。

身を引き裂く様に、2つの情景はそれぞれが尾弐の精神を責め苛み……結果として尾弐に絞り出すような言葉を吐かせた。

「……那須野。俺の血でも骨でも臓物でも、必要なら何でもくれてやるから、急いで打開策を考えてくれ」

この言葉こそが、尾弐の妥協点。
声色こそ常の通りだが、その言葉には多分の懇願が込められていた。
もしも、那須野が状況の打開策を思い浮かべられなければ――――尾弐は、この状況を自身で『何とかしようとしてしまう』だろう。
大切な物を最小限の犠牲とする事で、守るべきものを守る為に。

142那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:19:56
「次の女王候補を、東京に住まわせるですって?」

東京で起こった大霊災の直後。人が踏み込むことも滅多にない雪深い山の奥にある、雪女の里。
そこにある豪奢な屋敷の大広間で、橘音は上座に端坐する雪の女王を前に不可解そうな声を上げた。
雪女はメジャーな妖怪だが、知名度の割に他の妖怪との交流は少ない。
基本的に雪女たちは自らの生まれた山で生活し、自らの定めた掟を厳守し、自らの生まれた山で消滅する。
近年は掟がやや緩和され、山を下りて他の地方で生活する雪女も現れてきたが、それでも下山者はごく僅かだ。
女王の後継者ともなれば、その存在は一族の宝。女王としては、当然手許に置いておきたいものであろう。
というのに、女王はその大事な後継者を自らの目の届かないところに住まわせるという。

「なぜ、そのようなことを?アナタのお膝元に置いておいた方が安全では?」

「いいえ。今となっては、貴方が結界を張った東京の方が安全でしょう。わたくしにはもう、あれと戦う力はありません」

「……六華紅璃栖、ですか」

「そう――。先の大霊災では、一族の者が貴方がたに多大な迷惑をかけました。お仲間の命まで……それは、心から謝罪します」

「いいえ。……仕事ですから」

橘音は軽く俯いた。そして、小さく唇を噛む。
東京でのクリスとの戦いは熾烈を極め、お互いに痛み分けという結果に終わった。
が、被害としてはこちらの方が上だ。妖力の使いすぎでケ枯れを起こしたクリスに対し、こちらは仲間が五人死んでいる。
もし、クリスが怒りに任せて妖力を使いすぎ自爆しなければ、こちらは確実に全滅していた。
女王は自分にもうクリスに対抗できる力はないと言ったが、それはこちらも同様である。
もし、クリスが橘音の張った結界をすり抜け、再び東京に舞い戻るようなことがあれば、今度こそ終わりだ。
現在の東京ブリーチャーズの戦力をすべてかき集めたとしても、クリスに勝つことはできない。
『雪の女王』の妖力とは、それほど恐るべきものなのだ。
橘音の上司である白面金毛九尾の狐や、天狗の総帥魔王尊。鬼神王温羅などの伝説クラスならば勝機もあるだろうが――。
そんなレジェンド妖怪を、橘音の都合で呼び出すことなど当然できない。

「心配せずとも、貴方たちに迷惑はかけません。……いいえ、むしろ。あの子は貴方たちの力になることでしょう」

「どういうことですか?」

雪の女王の後継者のことなら、知っている。
かつて幼いころに《妖壊》と化したこと。その記憶と力を女王が剥奪したこと。
今は『乃恵瑠』という人格を与えられ、幼いころとは別の存在として過ごしているということ。
今までに起こった一部始終を、橘音は大霊災の前に女王から直接聞かされていた。
が、力になるとはどういうことか。彼女は本来持っているはずの力を喪失したのではないのか?

「――あの子に新たな力を与えました。おそらく、凡百の化生には負けないでしょう」
「そして……心を決して乱さない術も施しました。あの子はもう二度と心を壊すことはありません」

「……力を……与えた……?」

「ええ」

女王が荘重に頷く。
乃恵瑠が女王によって奪われた力は、現在彼女の姉であるクリスが持っている。
クリスを倒さない限り、乃恵瑠本来の力は戻らないはずだ。
ならば、女王はその『凡百の化生には負けない力』を、どこから持ってきたのか?
答えは簡単だった。

「……女王。アナタの力を、譲渡したんですね」

143那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:20:20
橘音は顔を上げ、女王の端正な顔を見つめた。それならば、すべて納得がいく。
乃恵瑠が力を有しているということも。女王が自分にはもうクリスに抗う力はないと言ったことも。

「三尾の狐に力を貸し、百と八つの穢れた魂を浄化するようにと、あの子に命じました」

「……ボクに?」

「ええ。それから、再度の記憶の封印を。あの子はもう、みゆきでも乃恵瑠でもありません」
「そう――いずれでもなく、同時にそのどちらでもある存在。名を、御幸乃恵瑠」
「貴方は『何も知らないふりをして』『偶然出会ったように』あの子を導き、手を取って進んでください」

「……でも、ボクは……」

「あの子のことは。決して三尾、貴方にとっても無関係ではないはず。いいえ、寧ろ――」

「その話はやめてください!」

雪の女王が何事かを言いかけたのを、橘音は鋭い語勢で制した。
その強い言葉に、雪の女王がぴくりと一瞬身じろぎする。橘音の触れられたくない場所に触れたのだと察したらしい。

「……言葉が過ぎました。謝ります」

「いいえ。ボクも女王に無礼を。……お詫びします」

「ともかく。貴方には、あの子を導いてもらいたいのです。あの子が、自らの因縁に決着をつけられるように」
「頼めるのは、貴方以外にはいません。あの子のことをよく知る貴方しか――」

雪の女王が静かに橘音を見、一拍を置いて頭を下げる。矜持高い大妖怪が頭を下げるなど、滅多にないことだ。
そんな女王の姿を視界に収めた後、仮面の奥で目を瞑ると、橘音はしばし黙考した。
他種族との交わりを良しとしない、雪女の里の掟が生み出した因縁。
乃恵瑠改めノエルとクリスの姉妹が持つ、ゆがんだ絆の鎖。
複雑に絡まり合ったえにしの結ぼれを解きほぐすことができるのは当事者だけであり、雪女でない自分の出る幕はない。
そう、思っていたのだけれど。

『きっちゃん!あそぼ!』
『いこ!きっちゃん!』

閉じた瞼の裏に、白く丈の短い着物を着た少女の姿がちらつく。
忘れ得ぬ、懐かしい姿。愛らしいその声。
あの子が呼んでいる。こちらへ向けて、キラキラと眩しい笑顔で。紅葉のように小さな手を差しのべている。

――ああ。そうだ、そうだね。
――キミが望むのなら、望んだ数だけ。願ったのなら、願った数だけ。ボクはずっとそれを叶えてきたんだ。
――どれほどの年月が経っても。姿や魂が変わってしまっても。それは、それだけは変わらない。
――キミとボクは、ともだちだってこと……。
――それで。いいんだよね、みゆきちゃん。

橘音はゆっくり目を開いた。そして雪の女王へと深々とこうべを垂れ、

「……ご依頼、お受けします」

そう、静かな声で告げた。

144那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:20:44
>痴れ者が! 何ゆえ野蛮な西欧妖怪などに魂を売った!? もう少しの間だけ大人しくしておれば妾が……救ってやれたというのに!

乃恵瑠の怒声が境内に響く。
変貌した乃恵瑠の姿を見、その声を聞くと、クリスは小さく笑った。

「里の掟に雁字搦めになったアンタに何ができる?アタシにはこの方法しかなかったんだ……今は感謝してるよ、あの御方に」
「アンタを救ってやれるのは、雪の女王でも糞狐でもない。姉ちゃんだけだ……このアタシだけなんだ」
「アタシの歩みは、もう誰にだって止められない――止めさせやしない!目的のためには、アタシの魂なんざ安いもんさ!」

ビュオッ!

吹雪が一層強くなる。ブリーチャーズの足元を、白雪が覆いつくしてゆく。
もはや、クリスには乃恵瑠しか見えていない。どうすれば乃恵瑠を自分の許に取り戻せるのか。
妹の心をふたたび取り返すことができるのか――。それしか考えていないという様子だ。
神体『國魂神鏡』と神宝『祭神簿』を手中に収めた者は、護国の英霊を自在に使役できる。
本来は国難に際して無辜の民を守護する英霊だが、ことこの状況においては東京ブリーチャーズの最大の障害と化している。
ブリーチャーズに対抗手段はない。つまりクリスにとってもはやブリーチャーズは脅威でも何でもないということだ。

>力尽くで奪う

そんな、現状打破の鍵となるふたつの祭器を、乃恵瑠が奪うと言う。
クリスはせせら笑った。

「あはン、アタシに逆らうってのかい?勝てると思ってるのか……姉ちゃんに!」
「あんまりおいたをするんじゃないよ。仕方ない、かわいい妹だが――時にはお灸を据えることも必要さね!」

乃恵瑠が両手に氷の刃を出現させるのを見届けると、クリスもまた祭器を懐にしまい、自らの手に武器を生成する。
が、乃恵瑠のような氷の刃ではない。クリスが作り出したのは、全長二メートルを超える氷の薙刀だった。
柄を頭上へ水平に掲げ、乃恵瑠の斬撃を受けとめる。そして次の瞬間には衝撃を受け流し、攻勢に転じる。
長大な薙刀による攻撃は一見して懐に入られれば脆いように見えるが、クリスの攻撃には隙がない。
クリスは単に膨大な氷雪の妖力を振り回すだけの化生ではない。戦闘者としても一流の使い手なのだ。

「アッハハハハハハッ! みゆき、アンタにゃまだ包丁は早い。おままごとにゃ茶碗を使いな!」

本気の乃恵瑠の攻撃を、クリスはまるで幼子と戯れてでもいるかのように受け流す。
一方で、クリスの攻撃は的確に乃恵瑠の死角を攻め、急所に炸裂する。
と言っても、本気の攻撃ではない。クリスは明らかに手を抜いている。
『乃恵瑠が必要以上に傷つかないように、薙刀の峰で攻撃している』のだ。

>ねんがんのアイスソードを手に入れるぞ!

「アイスソード、だぁ?何だか知らないが、そんなチンケなモンで姉ちゃんに勝とうってんなら認識を改めな!」
「そのアンタの力も……元はと言えば女王の力だろう?確かに桁外れの力だが、アタシにゃ通じやしない!」
「三年前の戦いでは、アタシの力は明らかに女王の力を上回ってた!衰えた女王の力なんざ、アタシの敵じゃないんだよ!」
「さあ――悪い友達に付き合って、夜遊び三昧する時間は終わりだ!姉ちゃんがアンタを――どうでも、連れ戻す!」

クリスの薙刀が確実に乃恵瑠の妖気を削ってゆく。
が、乃恵瑠の狙いが仲間に神器を取ってこさせるための時間稼ぎと囮なら、それはこの上なく計画通りに行っている。
邪魔者は英霊たちが片付けてくれる。ならば、自分が意識を向ける必要などない。クリスはそう思っている。
大切なのは妹。必要なのも、注目すべきなのも、対処すべきなのも妹。
ゆえに。
神器を取りに本殿へと駆け出した祈へ、クリスは一瞥さえも向けることはなかった。

145那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:21:05
第三分隊はただ、本殿に向けて走ってゆく祈の姿を佇立して見送った。
國魂神鏡と祭神簿によって神霊となった軍人たちは、言うなればクリスに心臓を握られた状態にある。
よって、クリスの意向に従う。その思うままに動く。
だが、他の分隊と違い、祈の殺害を命じられた第三分隊がクリスの指示に従うことはなかった。
理由は明白である。――それは、祈が半妖であるから。人間の血を引く、皇国の子であるから。
かつて自分たちが人間であった頃、命を捨ててまで守護せんとした者の末裔であるから――。
軍人たちの高潔な精神が、自らの心臓を握られていてもなお、理不尽な命令に従うことを拒絶したのだ。
やがて、第三分隊の姿が朧になってゆき、吹きすさぶ風雪の中に消えてゆく。
その姿は、まるで祈にこの国の行く末を。未来を託しているかのようにも見えた。

祈の飛び込んだ本殿の最奥には祭壇があり、そこにはふた振りの剣が刀架に掛けられて鎮座していた。
そのうちの一本は大戦期にこの神社の中で鍛造された、通称九段刀と呼ばれる軍刀である。
九段刀自体は戦争末期までに八千余が鍛造されたが、祈が発見したのはその中でも傑出した一振り。
戦勝祈願のために神前に奉納することを目的として造られた、すべての九段刀の頂に君臨する刀だった。
もう一振りは日本刀の形状をしていない、直刀なりの剣である。
それが果たして何なのか、祈には知る由もない。が、半妖で感覚の鈍い祈にもその神気の凄まじさが分かるほどだ。
九段刀と共に神社の祭壇に奉納されるに相応しい力を秘めているというのは、間違いないだろう。

>御幸ーーーッ!!
>念願の……アイスソードだっ!!

本殿から飛び出した祈が、二振りの剣を乃恵瑠へと投げつける。
が、その目算は狂っている。ひとつは乃恵瑠の手前に、そしてもうひとつは乃恵瑠の頭上へ。
どちらにせよ、クリスと熾烈な戦闘を繰り広げている乃恵瑠の手にそれが渡るのは困難かと思われた。

しかし。

>貰った!

まるで、飼い主の投げたフリスビーをキャッチするかのように。
巨大な狼が跳躍し、九段刀の柄を銜えていた。
一度の首振りで、音もなく鞘から刀が抜ける。白刃が煌めく。クリスの首へと斬撃が迅る。

「ち……」

さすがにそれは看過できない。クリスは忌々しそうに身を仰け反らせた。
けれど、それは囮。ポチの口からすっぽ抜けた刀が、乃恵瑠の足元にざくりと突き立つ。

>なんだっけ、さっきすごく興味深い事言ってたよね。ええと、確か……
>あぁそうだ。コイツをぶっ壊すのは簡単だ、だっけ

クリスは今まで、完全に乃恵瑠ひとりだけに注視してきた。他の妖怪には見向きもしなかった。
従って、反応がほんの数瞬遅れた。
ポチが九段刀を放り捨てたことにも。鋭利な爪を、祭神簿へ向けて振り下ろすことにも。
だから。

「ぐ……ぁ!しまった……!」

クリスの手の中――いや、今は懐の中にしまわれた祭神簿が、ポチの渾身の一撃を喰らう。
英霊たちの名を記した神宝といえど、もの自体は一般にある紙に過ぎない。クリスの着物の胸元ごと、表紙が引き裂かれる。
だが、クリスが身を仰け反らせたお蔭で、中身までをズタズタにすることはできなかった。

146那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:21:41
「この……糞犬がァァァァァァァッ!!!」

クリスが怒罵と共に至近距離のポチへ猛烈な吹雪を見舞う。弾丸なみの威力と貫通力を持った雹の混じった吹雪だ。

「さっきからキャンキャンとうるさく吼えやがって、やかましいったらない!英霊ども、この犬畜生から鍋にしちまいな!」

乃恵瑠に集中し聞かないようにしていたが、先刻からのポチの言葉による挑発はじわじわとダメージになっていたらしい。
破れた胸元をかき合わせ、零れそうになる豊満な乳房を隠すと、クリスはすぐに英霊へとポチの殲滅を命じた。
だが、それまで理路整然とした制圧行動を繰り返してきた英霊たちの動きが、目に見えて鈍くなっている。
長期の戦闘で疲労したとか、深く積もった雪に足を取られた――ということではない。
ポチの爪による一撃が功を奏し、祭神簿の支配力が弱まったのだ。

「クソ……!役立たずのボケ軍人どもがぁ……!」

思うように動かなくなってしまった英霊たちを一瞥し、クリスが舌打ちする。
とはいえ、英霊たちは無力化したわけではない。多少動きが鈍くなったというだけで、攻撃が苛烈なことに変わりはないのだ。
敵と認識されなくなった祈や、持久力ではブリーチャーズ随一のポチはともかく、特に尾弐にとって依然英霊は脅威のままだった。

>こうも相性が悪ぃとな……っ!!

尾弐のぼやきと共に、純白の雪が紅く染まってゆく。
神社は穢れを取り除く聖域。護国の英霊たちは、日本を汚染しようとする穢れを排除すべく神になった者たち。
そして、鬼とは穢れそのもの。
この場所が、地形が、祀られた者たちが、有形無形を問わず尾弐を責め立て、苛むこの状況。
まさに絶望的と言うべき環境――。
そんな中で橘音は雪の巨人と尾弐に守られながら、相変わらず仁王立ちの姿で腕組みし瞑目していたが、

「……ひらめいた!」

豁然と仮面の奥の双眸を見開くと、やおらそう言い放った。
この神社に祀られている英霊は、246万6500人余。そのすべてが余すところなく祭神簿に記名されている。
つまり、クリスには総勢246万人もの手駒がいる、ということになる。数ではまるで相手にならない。
『この神社に祀られている、すべての軍人』が、クリスの支配下にある。ならば――

こちらは『この神社に祀られている、軍人でないもの』を味方にすればよい。

「さあ――、おいでませ!この神社に祀られた『ヒトでないもの』たちよ!」

橘音は芝居がかった様子でくるりと踊るように身体を半回転させると、召怪銘板の音声入力にそう告げた。
途端に銘板の液晶ディスプレイがまばゆい光を放ち、それに呼応するように橘音と尾弐の周囲が輝き始める。
召喚に応じ、境内に姿を現したのは――

夥しい数の犬、馬、そして鳩だった。

「な……、なぁ……ッ!?」

驚愕にクリスが目を見開き、絶句する。
そう。この神社に祀られているのは、何も軍人だけではない。
戦争によって犠牲になった軍犬、軍馬。伝書鳩。その他大勢の動物たちも、同地には祀られているのだ。
彼らは人間ではないため、祭神簿には記載されていない。――が、間違いなく英霊ではある。
橘音が着目したのは、この『クリスに支配されない英霊たち』だった。
軍馬の群れが高らかに嘶いては軍人たちめがけて突進し、軍犬たちが一斉に兵士へ飛びかかる。
無数の鳩たちが乱舞し、クリスの手駒の視界を覆い、軍隊行動を妨げる。
境内の中は人間の英霊と動物の英霊による一大戦闘の様相を呈し、今やブリーチャーズに注目する者は誰もいない。
すかさず、橘音は右手の親指と人差し指を輪にすると、ピィーッと甲高く指笛を吹いた。
ポチへの合図だ。戻ってこい、と言っている。

147那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 15:22:06
「ポチさん、祈ちゃんを回収してきてください。もう、ボクたちにできることは何もありません」

ポチに対してそう言うと、橘音は召怪銘板をマントの内側にしまった。
英霊大隊と英霊動物ランドの戦力は、今のところ拮抗している。時間稼ぎにはもってこいだ。
戦闘のとばっちりを受けないように、そして拝殿の上の戦いがよく見られるように。
尾弐の手を引っ張って境内の隅へと移動した橘音は、そこで力尽きたようにぐらりと身体を傾がせ、尾弐に凭れ掛かった。
狐面探偵七つ道具のひとつ、召怪銘板は、いかなる化生でもたちどころに呼び寄せることのできる万能妖具だ。
しかし、ノーリスクで召喚できるというわけではない。召喚の際には、喚び出す対象に見合った妖気を消費しなければならない。
人間や普通の妖怪よりも霊格の落ちる獣の霊とはいえ、これほどの数を一度に喚び出せば、尋常でない妖気を消費する。
先程のぬりかべを召喚した分も含めて、橘音の妖力はこの召喚でほぼゼロになってしまった。
身体がケ枯れを起こしている。もはや、立っていることさえ覚束ない。意識を保っているのが精一杯といった様子だ。

>……那須野。俺の血でも骨でも臓物でも、必要なら何でもくれてやるから、急いで打開策を考えてくれ

尾弐が言う。それは、尾弐にとって自らの課した戒めと現在置かれている状況との、せめてもの妥協点。
焦燥と懊悩が、日頃あまり感情を表に出さない尾弐の顔にありありと浮き出ている。
それだけ、尾弐の内心には激しい葛藤があるのだろう。譲れるものと、譲れないもの。その狭間で揺れ動いているのだろう。
しかし、橘音は尾弐の胸板に寄りかかりながら一度かぶりを振り、

「……言ったでしょ。ボクたちにできることは、もう……何もありませんよ」

と、言った。
橘音は雪の女王から、乃恵瑠を導いてほしいと頼まれた。
乃恵瑠と紅璃栖、ふたりの姉妹だけが共有する因縁――それに決着をつけられるよう、導いてほしいと。
そして乃恵瑠と紅璃栖はこの神社で対峙し、そして今、ゆがんだ愛に区切りをつけようとしている。
英霊たちは互いの相手にかかりきりだし、他のドミネーターズの乱入もない。
となれば。いったい誰が、どんな色彩が、あの真っ白なふたりの間に割り込めるというのだろう?
橘音が今まで考えていたのは、あくまで英霊の出現という予想外の事態への対策であって、対クリスではない。
最初から、橘音はノエルとクリスを一騎打ちさせることだけを考えていた。邪魔者がいれば排除する、ただそれだけを。
そして、計は成った。雪の姉妹の戦いを妨げる者は、もう誰もいない。
約定は果たされたのだ。

「ボクたちが取るべき行動は、『何もしないこと』。『ノエルさんの戦いを見届けること』そして――」
「……『ノエルさんを信じること』。楽なミッションでしょう……それとも難しいですか?クロオさん」

からかうように言うと、橘音はちらりとポチの方を見た。祈を救助に行ったポチがまだこちらへ戻ってこないことを確認する。
そして、ぽつ、ぽつ、と、囁くような声音で告げる。

「クロオさんが何を考えてるかくらい、わかりますよ……。ボクたち、何年コンビを組んでると思ってるんです?」

乃恵瑠を、殺す。
その手段は橘音も考えた。クリスを呆然自失に追い込み、千載一遇の勝機を確実に呼び込む手段。
きっと、その手を打てば乃恵瑠は橘音や尾弐の意図を察し、それを受け入れることだろう。
クリスを止めるための犠牲となる道を選ぶだろう。あの優しい雪妖なら、きっと――いいや、必ず。そこまで読んだ。
だが、できなかった。目的のために外道に堕す――そこまでの覚悟を持つことなど、橘音にはできなかったのだ。

……ひとりでは。
けれど、ふたりなら。

「……でも。もしも、もしも……万が一、億が一。ノエルさんの敗色が濃厚になった、そのときは――」

ケ枯れが近い。妖力と体力の消耗が、橘音の意識を明滅させる。
しかし、それでも橘音は力を振り絞り、尾弐の右頬へ白手袋に包んだ手を伸ばすと、


「……一緒に。地獄へ堕ちましょう」


そう言って、かすかに笑った。

148御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 22:42:47
>「さあ――悪い友達に付き合って、夜遊び三昧する時間は終わりだ!姉ちゃんがアンタを――どうでも、連れ戻す!」

「諦めよ、もう昔には戻れぬ。化け物と成り果てたのだ、そなたも妾も――」

クリスと立ち回りながら、殺意の混じったような尾弐の視線を感じ、最悪だ、と乃恵瑠は思う。
ただし"戦略上"最悪、というだけだ。
それはむしろクリスにとって乃恵瑠を引き込むにあたっては願ってもない好都合な展開。
起き得る事態の一つとして想定に入っていても不思議はない。
もしも乃恵瑠を首尾よくしとめる事に成功したとして、クリスをしとめ損ねたらそれこそ最悪の事態だ。
東京どころか日本終了のお知らせになりかねない。
彼の中で守るべき存在から憎むべき化け物へと転落したとて今更それがなんだというのだ。
もとより自分は人とは相容れぬ存在。
雪山とは本来、ひとたび人が足を踏み入れれば容赦なく命を奪う死の領域。
雪女をはじめとする雪妖は人が踏み込んではならぬ領域を守るために生み出された凍てつく恐怖の象徴。
自分はその恐ろしい化け物集団の次期頭領だ。
ただ、意外には思う。
その昔妖怪が強い力を持っていた時代は、妖怪が人間を殺した、死に追いやった等という話は日常茶飯事であった。
乃恵瑠は、抗えざる大きな流れのようなものとして世界を捉えている。
人間が踏み込んではいけない領域を侵した果てに行き着くのは破滅だ。
妖怪がその領域を守る存在で、妖壊すらも大局的な破滅を防ぐために生まれる存在だとしたら。
それはきっと、世界の歪みの投影。その個体の是非を越えた一つの現象。
数百年を生きる彼ほどの強大な妖怪ならば人間レベルの善悪など超越した尺度を持っているものかと思ったが……
今の彼はまるでちっぽけで無力な一人の人間のようだ。そこまで考えて一つに仮説に思い至る。
あやつ、まさか――人間、だったのか? 例えば、妖壊に大切な者を奪われた無力な人間が鬼に転化した……?

「かはっ……」

クリスの薙刀が脇腹に直撃し、片膝をつく。しかし相手が使っているのは相変わらず薙刀の峰だ。
思い知らされる、圧倒的な力の差。
自分が死んで相手に隙を作る――確かに最悪の策だが。
どうせ負けたら全員死ぬのだ、万策尽きた後の最後の賭けとしてやってみるのは悪くない。
ただしやるならもう少し成功率が高い方法でだ。仲間達の手を汚す必要などない。
自分が自ら刃で心臓を貫いた方がより意表を突けるだろう。だけど……

――本当にそれでいいの?

冷静な思考に混じり込む雑音に、乃恵瑠は戸惑う。
この数百年、いつだって感情を抑え合理的な判断をしてきたのだ。

――君は知っているだろう? 置いて行かれる者の痛みを。

「いや…だ……」

思わず唇からこぼれ落ちた本心に、乃恵瑠は悟る。
自分が御幸乃恵瑠として生きたのはたったの三年、妖怪にとっては刹那にも等しい時間。
だけどそれは、仮初だったはずの人格が真実になるには、十分過ぎた。
いや、むしろあれこそが真実だったのかもしれない。
あれはみゆきが望んだ姿。もしも何の因果も背負わずに成長していたらなっていたかもしれない姿――

149御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 22:47:06
゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。゚+。*゚+。。+゚*゚+。。+゚*。+゚
僕は乃恵瑠の目を通して分厚い氷越しに、世界を見ていた。

「みゆき、ずっとそこにいたんだね……」

「ずっといたよ。乃恵瑠は童をずっと守ってくれたんだよ」

クリスの最初の反逆の時、本当は記憶の返還は為されていた。
乃恵瑠は無意識のうちにみゆきを心の奥底に封じ込め、自分でもその存在に気づかずに数百年の時を生きた。
掟を守り、感情を律し、次代の女王としてふさわしい姿を演じているうちに
笑うことも、涙を流すことも出来なくなっていた。
僕の割には相当無理してよく頑張ったと思う。
今の僕と混ざったらとんでもないことになるぞ、と我ながら思う。
でも、雪女の業界もそろそろ変わるべき時に来ているのかもしれない。

「怖がることなんてない、君はみゆきでも乃恵瑠でもあるんだから。
乃恵瑠の知恵と君の心があればきっと大丈夫」

「そうだね、僕はみゆきでも乃恵瑠でもあるんだ」

僕と世界を隔てていた分厚い氷が砕け散る。
みゆきとして生きた時、乃恵瑠として生きた時の記憶が実感を持って蘇る。
雪の中をきっちゃんと駆け回った日々。
陰踏みと称した追いかけっこしたり、枝で雪にお絵かきしたり、毎日いろんなことをして遊んだ。
クリス――お姉ちゃんと手をつないで歩いた家路。
妖壊と化した自分を鎮めるために命を捧げた少年の願い――
そして乃恵瑠として生きた数百年だって、決して不幸ではなかった。
雪の女王――母上に確かに愛されていた。
ただ心を凍らせていたからそのときは気付くことが出来なかったのだ。
゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。+゚ ゚+。*゚+。。+゚*。゚+。*゚+。。+゚*゚+。。+゚*。+゚

150御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 22:47:38
「嫌だーッ! 死にたくないッ!!」

乃恵瑠は力一杯叫びながら立ち上がった。
姿形こそそのままだが、オーラのようなものが先程までとがらりと変わっている。
作画上はアホ毛が立ったという微妙な変化が生じた。ぶっちゃけ姿は乃恵瑠だが中身はどう見てもノエルだ。
というかよりにもよって気高き英霊達を祀る神社でこのTPOをわきまえない発言、ノエルしかあり得ない。
正確にはノエルをベースにノエルと乃恵瑠とみゆきが統合された人格なのだが、まあ似たようなものである。

>「御幸ーーーッ!!」
>「念願の……アイスソードだっ!!」

聞き慣れた少女の声が響く。
乃恵瑠の指示とも言えないたった一言だけで、祈は本殿の奥にある神器を取ってくるという凄技をやってのけたのだ。
考えるよりも先に体が動いていた。
ジャンプして剣の方をキャッチし、そのままの勢いで頭上を一閃する。
閃光が走り、吹雪の結界の一部が裂けてその隙間から日の光が差し込む。
着地して剣をクリスに突きつけて宣言する。

「僕は御幸乃恵瑠! きっちゃんの友達で! 新時代の雪の女王になるおとこ?で! ブリーチャーズ最強のノエリストだああああ!」

>「貰った!」
>「……なーんてね」

ポチがパスした九段刀を受け取り、左手に構える。
更にポチは祭神簿の表紙を爪で引き裂いた。

「あ、うっかり名前言っちゃったけどノートに名前書かないでね!」

右手に神剣、左手に九段刀を構え、仕切り直しとばかりに斬りかかる。
ちなみにそれは死んだ人の名前が書いてあるノートであって、名前かかれたら死ぬ系のノートではない。
頼んでも書いてもらえないので安心しよう。

「というか!誰ももう!そのノートに名前を書かれちゃいけないんだ!」

相変わらず祭神簿を狙う振りをしつつ、好機を伺う。

「いい加減離してやれよ! 今でこそ英霊なんて祀られてるけど!
本当は普通の人間だった! きっと出来るなら死にたくなんて無かったよ!」

戦いつつ、結界が裂けて光が指している場所に誘導する。

「その人達の犠牲のおかげでこんなにいい時代になったんだから……
壊しちゃ駄目だ……!」

確かに現代にはたくさんの歪みがあり、妖壊化する者も増えている。
だけど、それでも、今まで人間界を見てきて今ほど命が大切にされる時代はない。
些細なことで切り捨てられてしまう時代があった。
生きたいと声に出して言うことすら許されなかった時代があった。
自由に思ったことが言える時代、死にたくないと声を大にして言える時代
、それって当たり前のようで、凄く素晴らしいことなんだ。
戦いの果てに――幸い乃恵瑠が力尽きるより少し前に、好機は訪れた。

151御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 22:48:36
「僕の……勝ちだ!」

左手を一閃し、九段刀を投擲する。それはクリスの少し後ろの雪に突き刺さった。
狙いが外れたわけではない。狙ったのはクリスの影。
霊力を持つ刃を影に突き立て相手の動きを封じる影縫いの呪法、それを神器級の刀で行ったのだ。
付与した氷雪の霊力も相まって、暫しクリスをその場に縫い止めることに成功する。
続いて、神剣の柄を両手で持ち、走りながら雪上に文様を描く。
円をゆるいS状の曲線で分割したような、魚が二匹組み合わさっているようにも見える文様。
クリスもその範囲内に入っている。
文様を描き終わった乃恵瑠は剣を振り上げ――

「終わりだ! "ジャックフロストのクリス"!」

それを自分の目の前に突き立てた。その瞬間、魔法陣は完成し、円全体がまばゆい光を放つ。
九段刀と神剣が突き刺さっている場所がそれぞれ魚の目の部分となっている。
陰陽太極図――世界の成り立ち、森羅万象を陰と陽で表現する図式。
力の収束と発散を司り、偏った力の流れを調和へと導く――
クリスの力は、彼女が本来持っておくべき力ではない。
本来持つべきではない大きな力を持った事も、歪みの一因となってしまったのだろう。
強大な力とは、祝いであり同時に呪いでもある。
力を持つばかりに妖怪大統領にも付け入られてしまったのかもしれない。

「力は返して貰う……!"ドミネーターズのクリス"は討ち死に!
妖怪大統領との契約は本人の意思によらない突発的事象により履行不能!そういうことだ!」

その時、急に目線が低くなったのを感じた。
両手を見てみるとやはり小さい。慌てて自分の体を見下ろしてみると――

「あ……」

やはりというべきか、みゆきになっていた。妖力の使いすぎで省エネエコ運転モードに突入したのである。
そのことを認識してしまった瞬間、今まで辛うじて凛とした口調を保っていた緊張の糸が切れた。

「お姉ちゃん……」

しかしある意味好都合かもしれない。スッカラカンの状態の方が力が流れ込みやすそうだ。
みゆきはダイレクトに力の移転を受けるべく、クリスの胸に思いっきり飛び込んだ。

「みゆきは、ここにいるよ……!」

152尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 22:49:19
那須野の機転により召喚された霊獣とも言うべき存在の群れ。
彼等が英霊の部隊の部隊と衝突した事により、一時とはいえ尾弐は危機から脱する事が叶った。

未だ緊迫した状況であるとはいえ、絶命必至の状況から退避が叶う状態にまで持ってこれたのは大きい。
本来ならば、それを成し遂げた那須野に礼の一つでも言わねばならぬ場面なのであるが、
尾弐がその言葉を口に出す事は叶わなかった。何故ならば

「っ!? おい、どうした那須野――――!」

尾弐の眼前で那須野橘音が……常に飄々とした態度を崩さぬ東京ブリーチャーズのリーダーが、
糸の切れた人形の様に崩れ落ち、尾弐へと凭れ掛かってきたからである。
とっさの事に驚愕しつつも、その身体を取りこぼさない様に血まみれの右腕で抱え込んだ尾弐は、
触れた那須野の体温が尋常ではなく低下している事と、その身体を構成する妖気が枯渇しかけている事を感じ取り、顔面を蒼白にする。

>「……言ったでしょ。ボクたちにできることは、もう……何もありませんよ」
「喋るんじゃねぇ……お前さんは妖気の使い過ぎでケ枯れかけてんだ。無茶すると――――」

険しい表情でそう言い、那須野の発現を制止しようとする尾弐。
だが、那須野はその尾弐の制止を振り切り尚も言葉を紡ぐ。

>「ボクたちが取るべき行動は、『何もしないこと』。『ノエルさんの戦いを見届けること』そして――」
>「……『ノエルさんを信じること』。楽なミッションでしょう……それとも難しいですか?クロオさん」

そして、無理を押して紡がれたその言葉は、今の尾弐にとって最も簡単で……けれども難しい問いであった。

「那須野、俺は……」

口にしようとした言葉は途中で止まり、その先が繰り出せない。
……恐らくは『当たり前だ。俺はノエルを信じてる』と。そう答える事こそが正解なのだろう。
その言葉は決して嘘ではない。尾弐黒雄は、これまでも、そして今でも御幸乃恵瑠を……あの白雪の様な青年の事を疑った事など無い。
だが、それでも……その正解を形にする事が尾弐には出来ない。
赤錆色の鎖で首を締められたかの様に苦しげに眉を潜める事しか、尾弐黒雄という男には出来なかった。

そして、そんな尾弐の懊悩を見透かしたかの様に那須野は言葉を続ける。

>「クロオさんが何を考えてるかくらい、わかりますよ……。ボクたち、何年コンビを組んでると思ってるんです?」
>「……でも。もしも、もしも……万が一、億が一。ノエルさんの敗色が濃厚になった、そのときは――」
>「……一緒に。地獄へ堕ちましょう」

その言葉を投げかけられた尾弐は、まるで氷水でも掛けられたかの様に固まってしまう。
那須野と尾弐は長い付き合いである。那須野が観察力に優れている事も知っている。
だが……己の薄汚れた考えを見透かされ、尚且つそれを共に背負う事まで考えさせてしまったとは思っていなかった。
そして、力尽き倒れているというのに尚も他者の事を気遣うその強さを、見誤っていた。
懊悩に精一杯であった自分を、恥じた。
故に……尾弐は口を開く。

「ああ――――そんときゃ一緒に、死が別つまで苦しみ続けようぜ」

那須野から視線を逸らし、口を開いて嘘混じりの言葉を吐く。
……そして、その直後の事であった

153尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 22:49:51
>「嫌だーッ! 死にたくないッ!!」

場の空気を押しのける『聞きなれた』声が聞こえた。
声色こそ別人であるが、そのテンションはまさに東京ブリーチャーズのメンバーである美麗の青年のもの

>「僕は御幸乃恵瑠! きっちゃんの友達で! 新時代の雪の女王になるおとこ?で! ブリーチャーズ最強のノエリストだああああ!」

「……はは、あの色男が。相変わらず、相変わらずだな」

消えたかと思った――――塗りつぶされたかと思った、尾弐の良く知る青年。
東京ブリーチャーズの一員であるノエルの復活宣言。
それを聞いた尾弐は、己でも意識せずにその口元に小さな笑みを浮かべていた。

>「終わりだ! "ジャックフロストのクリス"!」

そして、白雪が陽光を反射し白亜に染まった境内で、ノエルがクリスの影に刀を突き刺し縫いとめる最中。
尾弐は脱いだ自身の喪服をシーツ代わりに敷き、その上に寝かせた那須野の口元へと己の右手……英霊の刀から受けた傷より赤く染まったソレを近づける。

「……まあ、なんだ。嫌だろうが無理にでも飲んで妖気補給しとけ、大将。
 鬼の血なんてロクなもんじゃねぇが……今回は英霊の付けた傷だからな。浄化されてちったぁはマシな味の筈だ」

言葉を放った姿勢のまま、尾弐は建物の影となっている場所の中からクリスを抱きしめるノエルの姿を見つめる。
ポチの足音が響く中で繰り広げられる光景を、眩しそうに。本当に、眩しそうに見つめる。

154多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 22:50:30
本殿前にて。
祈の体はぐらりと揺らいで、雪でできたカーペットの上に仰向けに倒れた。
 びゅうと吹きすさぶ冷たい風。雪が周囲に積もって視界は白一色に塗りつぶされていく。
これがかつてブリーチャーズを5人をも倒した力、その一端。
その地獄のような寒さの前には、祈など一溜りもないのだった。
 思ったよりも固い、雪に埋もれる感触を味わいながら、祈は思う。

(寒くなると眠くなるって本当だったんだな……。
まるで雪山で遭難したみたいだ……神社なのに……)

 フィクションの中だと、雪山で遭難してしまった人物が、
眠くなったと宣う相方に『寝ると死ぬぞ!』などと声を掛けて揺り起こそうとする類のシーンがあるが、
本当に眠くなるのかと祈は今まで半信半疑だった。だがどうやら本当だったようである。
 雪山などで眠くなるのは、低体温症という症状によるものだ。
猛烈な寒さに晒されると、人体はそれに抗い、熱を生み出すために全身の筋肉を激しく収縮させる。
それが体の震えだ。しかし震えを起こしても体温が上がらないような危機的な寒さである場合、
体は更に熱を生もうと筋肉への血流を増やし、筋肉をより動かそうと躍起になる。
体に流れる血液の量はほぼ一定に保たれている為、
熱を生み出そうと筋肉に血流を回してしまうと、脳へ送られる血流が減り、脳は貧血を起こす。
その脳貧血こそが雪山などで遭難した際に眠くなる、意識を失う、という現象の正体である。
 筋肉が震え始めるのが人間の体温で35度を下回った辺りであり、
34度を下回ると眠気を覚えたり意識が薄れ始め、命の危険もあるという。
 そして祈の体温はつい先ほど、34度を下回ったところであった。
しかしこの危機的な状況にあっても、祈に不安はなかった。

(だって、渡したんだもんな。ちょっとすっぽ抜けちゃったけど……)

 指示された通り、武器を調達して投げ渡すことができたのだから。
 祈には神剣や九段刀の使い方は分からない。
恐るべき力を秘めていることは理解できても、それを用いて神霊やクリスに対抗する為にどうすればいいかは分からない。
力任せに振り回すのが精々で、その力を引き出すには至らなかっただろう。
 だが仲間達は違う。ポチはどうか知らないが、アイスソードと称して力ある刀剣を欲したノエル自身や、
ブリーチャーズの頭脳たる橘音、その補佐を務める尾弐ならば、きっとなんらかの方策を思いついてくれると信じられる。
その仲間達に投げて、託すことができた。だからその心に不安はない。
きっと上手く行くのだという確信が祈にはある。

155多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 22:51:07
 薄く開いたままの瞳で、祈は拝殿の上で踊る影達をぼんやり眺めていた。
その片方、乃恵瑠と思しき影の動きが、シリアスなものから急にコミカルな動きに変わったのを見て、
ノエルが生きていたのだと、そんな風に思う。

(寒い中、頑張った甲斐があったかな……)

 祈としては乃恵瑠という女性のことを嫌っていた訳ではないから、
消えて欲しいなどとは微塵も思わなかった。
それにノエルは正確に言えば死んだのではなく、みゆきも乃恵瑠もノエルも、その魂は同じ。
思考パターンや姿形が違うだけで同一人物なのだと、頭で理解はしていた。
そして、ノエルがかつてはみゆきとして生き、感情を抑えきれず人里に被害を齎した存在だと言う事も知った。
それでももう一度あの笑顔に会いたい、話したいと願う気持ちは、理屈ではないのだった。
 ノエルが戻ってきた。生きていた。その事実は、どうしようもなく祈を安堵させる。
またノエルとバカみたいな話をできることが、笑い合えるのだということがたまらなく嬉しかった。
 そしてそのコミカルな動きの影は、祈の投げた神剣を見事に受け取り、
その超絶の力で天をも裂いて見せた。
更に、やや角度のズレた方向に投げてしまった九段刀はポチがキャッチし、
器用に首を振って鞘から抜き放った後、ノエルへと投げ渡した。
これによって完成する。ノエルの二刀流。
 それを合図にしたように、ノエルとクリスの苛烈を極める戦いが始まる。
その光景は、意識が朦朧としている祈の目には早送りの、華麗な舞のように映った。
 遠くから何故か聞こえてくる、動物達の声は、あの嘶きはなんだろう?
そんな事を考えながら影達の舞を見つめている内に、

>「終わりだ! "ジャックフロストのクリス"!」

 勝負は決したようであった。
乃恵瑠とも、ノエルともつかぬ声による勝利の叫びを聞いた時。

(……ああ、勝ったんだ……おめ……でと、御幸……)

 祈の体温は33度以下になり、ついにその瞼が落ち、意識は暗闇の底へと沈んでいく。
その体はこれ以上熱を逃がすまいと、仰向けから横向きになり、無意識に胎児のように丸まった姿勢を取った。
 祈はただ、誰も死なぬ、ハッピーエンドを迎えた幻を見ながら眠る。
また事務所でみんな笑い合う、そんな結末を夢に見て。
 祈の体温は33度以下という普通の人間ならば死の危機というところまで下がっているが、
幸いにも彼女には妖怪の血が流れており、普通の人間ではない。
意識を失ってはいるが、これ以上寒くなったり、余程のことがなければ死ぬことはないだろう。
寒さで肩の出血も抑えられていることもあり、暖かくなれば、普通に目を覚ますに違いなかった。

156ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 22:52:30
振り下ろした爪が、何かを引き裂いた。
クリスの着物と、その更に奥にあった、薄っぺらく脆い何かを。

「手応え、あり……」

>「この……糞犬がァァァァァァァッ!!!」

次の瞬間、クリスが送り狼へと吹雪を放つ。
体温を奪う為のものではない、雹混じりの、命を断ち切る為の吹雪。
クリスに飛び付く形で空中にいたポチにそれを躱す術はない。
吹雪をまともに食らい、吹き飛び……拝殿の屋根の下にまで落下する。

「ち……」

血を止めてくれるなんてありがたいなあ。
そう言おうとして、しかしポチは言葉を紡げなかった。
大量の失血による酸欠に、極寒の吹雪の中で走り続けた事で喉が凍り付いたのだ。
自分の体が壊れつつある事を自覚したその瞬間、無視し続けてきた負担がポチに襲いかかる。
膝が震え、立ち上がれない。目が霞み、耳鳴りがする。
その耳鳴りに紛れて聞こえてくる、足音。
視線を向ければ、目に映るのは軍刀を掲げた英霊の姿。
送り狼の爪は祭神簿を引き裂いたが……完全には破壊出来ていなかった。
彼らの歩みは緩慢で、しかし身動きの取れない送り狼との距離は着実に縮まっていく。

「これ……は……ヤバい……かも……」

とうとう英霊は、軍刀で送り狼の首を刎ねられる距離にまで近付いて……

>「さあ――、おいでませ!この神社に祀られた『ヒトでないもの』たちよ!」

まず始めに、声が響いた。
続いて、吹雪の奥で光が溢れた。
そして……その方角から駆け寄った影が、まさに今軍刀を振り下ろさんとする英霊を、強烈に足蹴にした。
影は送り狼を見下ろして、わん、と吠えた。

「……分かってるよ。まだ立てるさ……」

影の正体は……軍犬だ。かつて日本兵と共に戦い、パートナーと共に死んでいった者達。
国の為などという大義はなく、ただ家族の為に戦い命を散らした、名も無き……しかし確かな英雄。
その英霊が、送り狼に吠える。まるで俺達はもっとやれた、と言わんばかりに。
先達の檄に、送り狼が震える脚に力を込め、立ち上がる。
同時に響く指笛……橘音からの合図だ。
送り狼がゆっくりと歩き出す。
そして吹雪の奥に橘音と尾弐の輪郭が見えると、自分の存在を知らせる為に一度吠えた。

>「■■さん、祈ちゃんを回収してきてください。もう、ボクたちにできることは何もありません」

今や送り狼には、言葉を発するほどの余裕もない。
ただもう一度吠えて返事の代わりとして、彼は祈の方へと歩き出す。
鼻孔も奥まで凍り付いて、鼻も殆ど利かない。
ただ最後に見た、祈の倒れた場所を目指して、送り狼は吹雪の中を暫し彷徨う。

「……祈ちゃん」

ようやく見つけた祈は、やはり倒れたままで、やまない吹雪によって、雪に埋もれつつあった。
その頬に、送り狼は自分の頬を擦り寄せる。

157ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 22:52:55
「冷たい……」

彼には、人が……半妖がどれほど体温を失ったら死ぬのかなど分からない。
どれほどの出血があれば人が生命を失うのかも分からない。
分かるのはただ、祈がいつもよりもずっと、死に近い状態にある事だけだ。
衣服の襟を咥えて引っ張る……降り積もった雪の中を、祈を引き摺るだけの力が、送り狼にはもうなかった。
うつ伏せに倒れた祈の腹の下に、雪を掘るように頭を潜らせ、背中へ持ち上げる。
ふらりとよろめきながらも、送り狼は橘音達の元へと歩き出す。
雪に絡め取られ、脚が思うように動かない。ただ歩いているだけなのに呼吸がもたない。
足を止め、息を整え……送り狼は拝殿の屋根を見上げた。

>「僕の……勝ちだ!」

まさにその瞬間、ノエルが高らかに勝利を宣言する。
乃恵留ではなく、ノエルが……だが送り狼は彼を見てはいなかった。
ノエルはそこにいて、帰ってくると、信じていたからだ。
送り狼が見つめるのは彼、だけではなく……ノエルとクリスの二人だ。
二人は互いに互いを愛している。限りなく深く、強い愛で、お互いを手に入れようとしている。
……凍り付いた鼻孔に、それでも感じ取れるほどの、においが届いた。
愛のにおいだ。他のどんな感情も、存在をも呑み込んでしまうような、強い愛のにおい。
その中核にあるのは……橘音と、尾弐のにおいだ。

「……家族って、いいなぁ」

歩みを再会した送り狼が小さく呟く。

「祈ちゃん……寒いよね……。ごめんね、僕が人に化けられたら良かったのに……。
 だけど、駄目なんだ……それだけは、どうしても……出来ない……」

彼が人に化けられれば、彼女をもっと早く運ぶ事も、少しでも寒さから庇う事も出来る。
そしてそれは、能力的には決して不可能な事ではない。

「……僕はさ、この国で最後の狼なんだ。もう、どこにも、僕の本当の家族になれる狼は、いないんだ」

それでも、彼には出来ないのだ。

「だけど……本当はそうじゃないかもしれない。
 本当はどこかにまだ狼は生きていて、僕と同じように、家族になれる相手を探してるかもしれない。
 だから……だから、僕は……」

……送り狼は、人に化けられない。
自分が人に化けていたら、他に生き残った狼が、自分を見つけられないかもしれない。
そんな可能性が殆どゼロに等しい事は分かっていても……彼は狼の姿を、ほんの一瞬でも捨てられない。
命すら擲てると謳っておきながら……その実、命よりも大事な、その一抹の可能性を、仲間の為に捨てられない。

かつての自分を捨て、愛玩犬としての名に甘んじていながら、狼を気取り。
しかし狼であろうとするあまり、狼が最も重んじる仲間を、最後の最後で重んじられない。

「……狼に、なりたいなぁ」

深い自嘲を込めてそう呟き、それから数歩、歩いて……送り狼は力なく倒れ込んだ。
橘音と尾弐のもとに辿り着いたのだ。

158那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 22:53:53
>嫌だーッ! 死にたくないッ!!

「……なに!?」

突然の乃恵瑠の絶叫に、クリスは瞠目した。
それまで雪女らしい冷徹さで戦闘を継続していた乃恵瑠が、何を思ったかそんなことを言い出すとは。
そも、クリスに乃恵瑠を殺す気はない。ただ、ケ枯れを起こさせ戦う力を奪い取ろうとしていただけだ。
クリスは乃恵瑠の中で三つの人格が語り合い、融和し、統合されたという事実を察することができなかった。
ただ、目の前の乃恵瑠が今までの乃恵瑠でなくなった、ということだけを朧げに感じたのみである。

「なにが起こった……!?」

戸惑うクリスを前に乃恵瑠は祈が投擲した神剣を跳躍して受け取ると、それで空を一閃した。
重苦しく頭上に垂れ込めていた雪雲が、まるで薄紙を両断したかのように斬り裂かれ、日の光が差し込む。
それはクリスの張った氷の結界が破られたことの証左だった。
乃恵瑠がクリスへと神剣の切っ先を突きつける。

>僕は御幸乃恵瑠! きっちゃんの友達で! 新時代の雪の女王になるおとこ?で! ブリーチャーズ最強のノエリストだああああ!

「この期に及んで、まだそんなことを!」

ギリ、とクリスは奥歯を強く噛みしめた。
ここまで圧倒的な力の差を見せつけてやったというのに、なおもそんな世迷言を言うとは。
ならば、と氷の薙刀を構え、神剣と軍刀を携えた乃恵瑠――いや、ノエルを迎え撃つ。
しかし。

「く……!?みゆきの力が増している!?アタシの妖力は完全にみゆきの力を上回っているはずなのに……!?」

怒涛の攻勢を仕掛けてくるノエルの太刀筋が読めない。祭神簿と國魂神鏡を奪われないようにするのが精一杯だ。
クリスは初めて守勢に回った。防戦一方で、なんとか薙刀を取り回しノエルの攻撃を凌いでゆく。
そして、クリスが再度イニシアチブを握るべく体勢を整えようとしたとき。

>僕の……勝ちだ!

ノエルの声が境内に響き渡る。その自信に満ちた迷いのない言葉を、ブリーチャーズの誰もが聞いた。
クリスの影にノエルの投げつけた軍刀が突き立つ。相手の影を地面に縫いとめ、その場に縛り付ける影縫いの呪法だ。
これは完全に予想外だったらしく、一瞬クリスの動きが止まる。

「ぐっ!こんな……ものォ……!」

クリスの全身から蒼白い妖気が迸る。膨大な妖力をもって、影縫いを力ずくで打ち破ろうと試みる。
その身体が自由を奪われていたのはほんの僅かな時間のことだったが、それでもノエルが次の手を打つには充分だった。
ノエルが神剣を用いて地面に描いた、太極図。
陰陽二極の調和を示したそれは、正式な術式を用いればきわめて強力な魔法陣となる。
そして、その中心に立つノエルとクリス、ふたりの雪女の姉妹。

>力は返して貰う……!"ドミネーターズのクリス"は討ち死に!
>妖怪大統領との契約は本人の意思によらない突発的事象により履行不能!そういうことだ!

ギュオッ!!

ノエルの言葉に応じるように神剣と軍刀が輝き、それに伴って太極図も発光を始める。
陣図がその場にいる者を“本来あるべき姿”へと戻そうと発動する。

「ぅ……、ぐ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……ッ!!」

クリスの全身から陽炎のように立ちのぼる妖気が、その身体を離れてぐるぐると陣の内部で渦を巻く。
雪山の霊気と冷気、その強力無比な力が行き場を失って、吹雪のように荒れ狂う。
大きく身体を仰け反らせ、両手で頭を抱えて、クリスは自らの肉体からみゆきの妖力が失われていく感覚に絶叫した。

159那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 22:54:22
「力……が……!みゆきの力が、みゆきが……いなくなる……!みゆ……き……!!」

雪の女王からみゆきを奪還しようと決意してから、以来数百年。
身体の中に宿るみゆきの妖力だけが、クリスにとって自分と妹とを繋ぐ唯一の『絆』だった。
この力があるから。みゆきを胸の奥底に感じることができたから。クリスは長年の孤独に耐え忍ぶことができたのだ。
しかし、その力が。クリスにとってはみゆきそのものとも言える妖力が、自分から離れてゆく。
みゆきが遠ざかってゆく。いなくなってしまう。自分の許から立ち去ってしまう――。
そう、思ったけれど。

>お姉ちゃん……
>みゆきは、ここにいるよ……!

力をなくす喪失感の代わりに、胸の中に飛び込んできたもの。
柔らかな感触。耳を擽る声。小さなその姿。
それは、この数百年。いかなる孤独と苦境の中にあっても、決して忘れなかったもの。
クリスが全身全霊で慈しみ、大切に育て、愛し守ってきたもの――

「……み……」

みゆき。
最初の言葉は掠れて、声にならなかった。みるみる双眸に涙が溢れ、身体の芯が痛いほど熱くなる。
クリスは自らの胸に飛び込んできたノエル――みゆきをぎゅっと強く両腕で抱きしめると、日なたのにおいのする幼髪に鼻先を埋めた。

「あぁ……、みゆき!みゆきみゆきみゆき……みゆきぃ……!!」

ぼろぼろと、とめどなく涙が零れる。
どれだけこの時を待っただろう。どれほどこの瞬間を望んだことだろう。
もう一度、たった一度だけでいい。みゆきをこの腕に抱くことができたなら。
ただそれだけを願って、故郷に喧嘩を打った。一族に、女王に――いや。現存するすべての妖怪に牙を剥いた。
妖怪指名手配犯となり、日本を追放されて、世界中を彷徨した。
自分はどうなってもいい。願いが叶うなら、悪魔にだって魂を売ってもいい。ただ、もう一度みゆきに会いたい。

『お姉ちゃん』と。あの懐かしい声で呼ばれたい……。

「……みゆき……よかった……。やっと……会えたね……」

クリスは嬉しそうに笑った。その面貌には、かつて東京で大雪害を巻き起こした妖壊の面影は微塵もない。
その身体から膨大な妖力が抜け出し、みゆきの中へと流れ込んでゆく。
借り物の力でない、みゆき本来の次期雪の女王としての力だ。
数百年の間正しくない形に分かたれていたものが、今。本来あるべき姿へと戻った。
眩しいほどに光り輝く太極図の中で、純白の姉妹が抱擁を交わす。
そして、陣の放つ光が徐々に弱くなってゆき、淡い残光だけになったとき。
クリスは力の全てをなくし、元の非力な雪女へと戻っていた。

「…………」

体力の消耗が著しい。元々、妖力の少ない一介の雪妖にすぎなかったクリスだ。
早くもケ枯れを起こしかけている。先程まで持っていた氷の薙刀も既になく、もはや戦闘の継続は不可能だろう。
クリスはこれからどうなるのだろうか。
妖怪の世界にも法がある。帝都を騒擾し、妖怪大統領の手先となった妖怪指名手配犯のクリスは普通なら逮捕されるだろう。
その後妖怪裁判にかけられ、よくて封印。最悪の場合、元の雪山の霊気として消滅させられるかもしれない。
もしくは――

「クカカカカカカッ!案の定というべきか、やっぱり負けてしまったねエ……クリスくん?」

それら以外の結末も。

160那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 22:54:48
>……まあ、なんだ。嫌だろうが無理にでも飲んで妖気補給しとけ、大将。

尾弐が血にまみれた右手を伸ばす。
唇に指先が降れる感触。そこから滴る鮮血を、橘音は半ば無意識に舐めた。
血は生命そのもの。妖怪の血ともなれば、当然妖力も含まれている。
中でも鬼の血は強力なものだ。普段血を飲む習慣のない橘音の身体にも、覿面で効果が染み渡ってゆくのが分かる。

「げほッ、ごほ……!血を啜る妖怪たちの趣味が理解できませんね……。ボクはこの味、苦手です……」
「どうせご馳走してくれるなら、クロオさんの手料理の方が何倍もマシってもんです……。げほッ」

唇を開いて舌を伸ばし、尾弐の指を丁寧にしゃぶって血を飲むと、いくらか妖力が回復したのか噎せながらそんなことを言う。
だが、のんびりしてもいられない。橘音はゆっくり身を起こすと、雪に覆われた地面に片膝をついた。
あれだけ積もっていた雪が、今は随分少なくなっている。吹雪もほとんど止んでしまった。
それは、ノエルとクリスの戦いに決着がついたということの証左であろう。
実際、見上げた先にいるクリスからはもうほとんど妖気を感じない。それどころかケ枯れしかけている。
ノエルが見事、仲間たちの期待と信頼に応えてくれた――ということだろう。
作戦はうまくいった。東京ブリーチャーズは東京ドミネーターズの一角、ジャック・フロストのクリスを撃破したのだ。

「どうやら……今回の賭けも、ボクらの勝ちということのようですね」

――よかった、ノエルさん。

やはり、ノエルはブリーチャーズの頼れる仲間だ。橘音は仮面の奥で目を細めた。
それから、こちらへ向かって歩いてくるポチを見る。
ポチの背には気絶した祈が乗せられている。ふたりとも、出血と冷気によってボロボロのひどい状態だ。
が、確かな妖気を感じる。消耗しきってはいるものの、ふたりとも無事だ。

「……ポチさん。祈ちゃん」

尾弐と橘音の目の前で、ポチが力尽きたようにどっと倒れる。
橘音は立ち上がるとふたりに近付き、自分のマントを脱ぐと祈に羽織らせた。
狐面探偵七つ道具のひとつ迷い家外套は、その名が示す通りマヨイガの回復能力を有する。低下した体温もすぐに戻ることだろう。
それから尾弐に目配せし、ポチの介抱を頼む。
結局、ノエルを除く東京ブリーチャーズの面々は三年前と同じくクリスに対してほとんど抗うことができなかった。
クリスに何らの有効打を見舞うこともできず、満身創痍の状況へと追い込まれた。
が、勝った。ただひとりの犠牲を出すこともなく生き残り、クリスの無力化に成功したのだ。
むろんそれはノエルの功績だが、ノエルがクリスを打ち破るまで、よくも全員もってくれたものだと思う。
まさに紙一重、薄氷を踏むかの如き勝利だった。

しかし、クリスとの戦いを終えたからと言って、安心してはいられない。
クリスの妖気が激減するとほぼ同時、境内の中に出現した新たな妖気に、橘音は険しい表情を浮かべた。

ドカカカカッ!!

「……ご、ふ……!」

妖力を失ったクリスの無防備な背中に、鈍くきらめく何かが幾本も突き立つ。クリスは目を見開いた。
それは『楔』だった。妖怪や人間の道士、術者が結界を構築する際によく用いられる呪具である。
いつの間にか、ブリーチャーズたちのいる境内の大鳥居の上に何者かが立っている。
シルクハットをかぶり、道化めいた仮面で素顔をすっぽりと覆い隠した、血色の外套の怪人――

「……赤……マント……!?」

クリスが驚愕に声を漏らす。

「イヤハヤ、キミほどの力を持った化生がこんな下等妖怪どもに負けるなんて情けない!まさに宝の持ち腐れというヤツだねエ!」
「ま……そんな素敵な力ももう、君は手放してしまったようだがネ。度し難い!我輩には理解しかねるよ、まったくネ!」

にんまりと弧を描いて裂けた口。嘲る顔の意匠をした仮面そのまま、赤マントはゲタゲタと嗤った。

161那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 23:21:54
深紅の瞳で、クリスが赤マントをねめあげる。

「ぐ……、なぜここに……!アタシの雪の結界に、外部から干渉する手段なんて……」

「クカカカカ……さっき、キミ自身が説明してくれたじゃァないか。『大統領には結界破りの得意な配下がいる』ってネ」

「く……そ……!アタシを……始末しに来たのか……!」

「キミは下等妖怪に敗北した。支配者たるべき東京ドミネーターズが逆に支配されてしまっては、もう存在価値はないのだヨ」

頭部以外をすっぽりと覆ったマントの内側から白手袋に包んだ右手を出すと、赤マントは長い人差し指でクリスを示した。
そして無情に言い放つ。仮にも同じ東京ドミネーターズであったはずだが、赤マントに仲間意識などというものは皆無らしい。

「ほざけ!」

か、とクリスが双眸を見開き、赤マントへ向けて吹雪を放つ。
ただ、その威力はつい先刻とは比べ物にならないほど弱まってしまっている。赤マントはそれを微風のように受け止め、

「ふん!」

大きく右手を振った。
ドッ!ドドッ!と音を立て、赤マントの投擲した何本もの楔がクリスの四肢を貫く。
クリスはうめき声を上げることも叶わず、拝殿の屋根から転げ落ちた。

「やれやれ、勘違いしてもらっては困るネ……。吾輩は別にキミを処刑しに来たわけじゃないヨ」
「知っての通り吾輩は頭脳労働者で、非戦闘員なのだからネ。クカカカカカッ!」

非戦闘員という言葉の通り、赤マントの纏う妖気は先程までのクリスや今のノエルほど強いものではない。
しかしその投擲する呪具の楔は強力なものらしく、瞬く間にクリスを無力化させてしまった。

「吾輩はソレに用があって来たのサ……渡してもらうヨ?」

赤マントがそう言った途端、クリスが胸元にしまっていたものがふわり、と浮き上がる。
ポチによって表紙の引き裂かれた祭神簿と、國魂神鏡。
ふたつの祭器はまるで吸い寄せられるように赤マントの許へと飛んでゆくと、その手の中に納まった。

「これがこの日本を守護する英霊の『神宝』と『神体』か……。なるほど、すごい力だネ」
「国難に際して、帝都を守護する英霊たち……むろん大統領の敵ではないだろうが、反抗の芽は摘んでおくに限る」

赤マントが手に力を入れると、ビキッ!という音を立ててたちまち鏡にヒビが入る。
英霊たちの名前を記した祭神簿の端に、黒い炎が灯る。

「これで、オシマイ……だネ」

英霊を神霊へと昇華させていた神鏡が砕け散る。英霊の名簿である祭神簿が黒い炭へ変わってゆく。
境内の中で所狭しと戦闘をしていた兵士の亡霊たちが、霞のように消えてゆく。

「さて、クリスくん。キミの任務は祭神簿と國魂神鏡の破壊だった。最後は吾輩がやる羽目になったが――」
「キミ単独の働きでも、概ね任務は達成されていた。その功績をもって、我らが偉大なる大統領がお慈悲をかけてくださるそうだ」
「クリスくん。今この瞬間をもって、キミを東京ドミネーターズから除名するヨ」
「キミは自由だ……好きなだけ、念願の愛する妹さんとの時間を楽しむといい。……もっとも……」
「あまり長い時間ではないと思うが……ネ」

作りもののはずの赤マントの仮面に浮かんだ笑みが、一際深くなったように見える。そして――

ぴしり。

澄んだ音を立てて、クリスの美しい顔に一筋の亀裂が入った。

162那須野橘音 ◇TIr/ZhnrYI:2018/05/01(火) 23:22:26
「……赤マント!」

橘音は大鳥居の上に佇む真紅の影を睨むと、絞り出すような声でその名を告げた。
赤マントはやっと再会した雪女の姉妹へ向け、なおも酷薄な言葉を投げかける。

「クリスくん。今までのキミは、言うなればガラスの器がプール一杯分もの水を溜め込んでいたようなものだヨ」
「脆弱なキミの身体には、雪の女王の妖力の受け皿になるキャパシティなどなかった。その身体には絶えず大きな負荷がかかっていた」
「しかし、キミは雪の女王の莫大な妖力を用いて、全身に入ったヒビを無理矢理繋ぎ合わせていた――」
「となれば。雪の女王の妖力を失ったキミがどうなるかは、火を見るより明らか……だよねエ?」

ぱきっ。ぱきき、ぴき。

クリスの身体のあちこちに入った亀裂が、徐々に深くなってゆく。
しみひとつなかった肌がくすんでゆき、ボロボロと粉雪に変わり始める。

「……そんなことは、百も承知だったよ」

ふ、とクリスが小さく笑う。

「それでも、アタシはやらなくちゃならなかった。みゆきともう一度会うために、どんなことでもすると誓ったんだ」
「後悔はしちゃいない……アタシはアタシの意思でこの道を選んだ。たくさん間違いも犯したけれど――」
「こうして、また会えたんだ……やっと……。やっと、やっとやっと……アタシの、みゆきに……」
「……『お姉ちゃん』って……呼んでもらえたんだ……」

雪の上にあおむけに横たわったまま、崩れてゆく肉体を一顧だにせず、クリスは満足げにそう言った。
それを目の当たりにして、赤マントが再びゲタゲタと嗤う。

「クカカカカッ!お涙頂戴の三文芝居だネ。所詮は低級な雪妖の眷属……最初からドミネーターズの器ではなかったのサ」
「妖怪大統領閣下も、それはとっくにお見通しだったみたいだがネ。キミは所詮捨て後までしかなかったということだヨ」

「……捨て駒……か……」

クリスがごぽ、と血を吐く。

「その通り!……まあいい、ともかく残った時間はキミのものだヨ……好きに使えばいい」
「いずれにせよ、これで東京の結界はガタガタ!閣下をお迎えする下地も整うというものだネ!」
「では、我輩は次の仕事があるからネ……これで失礼するヨ?」
「クカカカカ……またお会いしよう、東京ブリーチャーズの諸君!」

任務完了で満足したとばかり、赤マントは外套を翻すと音もなく姿を消した。

「……みゆ……き……」

クリスがノエルを呼ぶ。――もう、クリスには自力で起き上がる力さえない。
震える手が、ノエルを求めるように伸ばされる。その指先が崩れ落ち、雪と化してゆく。

「……み……ゆ……」

ケ枯れの最終点。不可逆な死、滅びの兆し――

「ぉ……わかれ、の……時間……だ……」


……別離のとき。

163御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 23:23:30
>「あぁ……、みゆき!みゆきみゆきみゆき……みゆきぃ……!!」

「お姉ちゃん……お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」

みゆきはクリスの胸に顔をうずめ、姉の呼びかけに応える。
歪む視界に、自分が数百年ぶりに涙を流していることに気付く。思えばみゆきは泣き虫だった。
かつて乃恵瑠となった時に感情を抑える事を無意識のうちに自分に課し、笑顔も涙も封じた。
ノエルになって笑顔を取り戻してからも涙を流す事は無く、不必要な機能として無くなったものと思っていたのに。
昨日のことのように思い出す、純白の日々。吹雪の夜。陽だまりの昼下がり。いつも一緒だった。
自分は決していい妹ではなかった。それどころか最悪の妹だった。
人間界を見に行きたいと駄々をこねてはまだ若かった姉を困らせた。
言いつけをちっとも守らず、挙句の果てには感情を爆発させて妖壊と化した。

>「……みゆき……よかった……。やっと……会えたね……」

次期雪の女王としての膨大な力が流れ込んでくる。呪われた力。厄災の元凶。
この力が無ければ人里に被害を齎さずに済んだ。姉が暴走することもなかった。
されど、この力があればこそ出来ることもある。
――陣の放つ光がおさまった時。
いつもの青年の姿に戻ったノエルが、クリスを抱きしめていた。

「ごめん……今はこっちの姿でいさせて」

もう本来の女性の姿に戻ってもいいはずなのに、この姿を取ったのは、自らの意思だ。
いつか雪の女王として立つ日が来るとしても、今はブリーチャーズのノエル。
橘音と、皆と共に東京漂白計画完遂まで走るという意思表示だった。
だけどクリスももう分かっているだろう。どんな姿であろうと、みゆきはここにいる。

「……108体。"ジャックフロストのクリス"で108体目だ」

そう、耳元で呟いた。

「クリスは表向きここで死んだことにすればいい。
僕がやったみたいに名前と姿を変えて生きるんだ。これからはずっと一緒だ。
何も心配しなくていい。今度は僕があなたを守る。それで全てが終わったら、今度こそ……」

しかしその言葉の続きを言う事はかなわなかった。
突然、クリスの背中に何本もの楔が突き立つ。大鳥居の上に現れた血のように赤い影――

>「……ご、ふ……!」
>「……赤……マント……!?」

>「イヤハヤ、キミほどの力を持った化生がこんな下等妖怪どもに負けるなんて情けない!まさに宝の持ち腐れというヤツだねエ!」
「ま……そんな素敵な力ももう、君は手放してしまったようだがネ。度し難い!我輩には理解しかねるよ、まったくネ!」

「貴様ァ!!」

ノエルは雪の上に刺したままになっていた神剣を抜き放った。
しかしその重さを支えきれずに膝をつく。
本来の力を取り戻し普段の姿を取れる程度には回復したとはいえ、先刻までの激戦の消耗が著しい。

>「ぐ……、なぜここに……!アタシの雪の結界に、外部から干渉する手段なんて……」
>「クカカカカ……さっき、キミ自身が説明してくれたじゃァないか。『大統領には結界破りの得意な配下がいる』ってネ」
>「く……そ……!アタシを……始末しに来たのか……!」
>「キミは下等妖怪に敗北した。支配者たるべき東京ドミネーターズが逆に支配されてしまっては、もう存在価値はないのだヨ」

怪人赤マントは、強力な呪具の楔を用いクリスを瞬く間に無力化した。

164御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 23:24:29
「姉上!」

ノエルは拝殿の上から飛び降り、クリスを守るように立つ。

「させない! 姉上には指一本触れさせない!」

しかし赤マントの目的はクリスの処分ではなかったようで、祭神簿と國魂神鏡が、あっさりと奪われ破壊された。
彼は分かっていたのだ、クリスはわざわざ手を下さずともここで終わりだということを。

>「さて、クリスくん。キミの任務は祭神簿と國魂神鏡の破壊だった。最後は吾輩がやる羽目になったが――」
>「キミ単独の働きでも、概ね任務は達成されていた。その功績をもって、我らが偉大なる大統領がお慈悲をかけてくださるそうだ」
>「クリスくん。今この瞬間をもって、キミを東京ドミネーターズから除名するヨ」
>「キミは自由だ……好きなだけ、念願の愛する妹さんとの時間を楽しむといい。……もっとも……」
>「あまり長い時間ではないと思うが……ネ」

氷が割れるように、クリスの顔にひびが入る。表情の見えない赤マントが、どこか楽しげに語る。

>「クリスくん。今までのキミは、言うなればガラスの器がプール一杯分もの水を溜め込んでいたようなものだヨ」
>「脆弱なキミの身体には、雪の女王の妖力の受け皿になるキャパシティなどなかった。その身体には絶えず大きな負荷がかかっていた」
>「しかし、キミは雪の女王の莫大な妖力を用いて、全身に入ったヒビを無理矢理繋ぎ合わせていた――」
>「となれば。雪の女王の妖力を失ったキミがどうなるかは、火を見るより明らか……だよねエ?」

残酷な事実を聞いたノエルの表情が絶望に彩られる。
母上よ、なんということをしてくれたのだ。いや、その時はそこまで分からなかったのだろう。
姉を残酷な運命に陥れたのも、とどめを刺したのも自分。
そんな自分は今の今まで全てを忘れて手厚い庇護の元にのうのうと生きていた。

>「……そんなことは、百も承知だったよ」
>「それでも、アタシはやらなくちゃならなかった。みゆきともう一度会うために、どんなことでもすると誓ったんだ」
>「後悔はしちゃいない……アタシはアタシの意思でこの道を選んだ。たくさん間違いも犯したけれど――」
>「こうして、また会えたんだ……やっと……。やっと、やっとやっと……アタシの、みゆきに……」
>「……『お姉ちゃん』って……呼んでもらえたんだ……」

「そんな……何納得してるんだよ! やっと会えたのに! 妖怪は受けた恩は返さなきゃいけないんだ。
たくさん愛してもらったのに迷惑かけただけで……何も恩返し出来てない!」

>「クカカカカッ!お涙頂戴の三文芝居だネ。所詮は低級な雪妖の眷属……最初からドミネーターズの器ではなかったのサ」
「妖怪大統領閣下も、それはとっくにお見通しだったみたいだがネ。キミは所詮捨て後までしかなかったということだヨ」
>「……捨て駒……か……」

「よくも……最初から分かってて利用したな! 姉上は……利用されながらも妖怪大統領に感謝してた! それなのに!!
殺してやる……呪ってやる祟ってやる! 妖怪大統領もろとも皆殺しだ!」

憎しみに心が塗りつぶされ、鳥居の上に立つ怪人に向かって身を切り刻むブリザードを放つ。

>「クカカカカ……またお会いしよう、東京ブリーチャーズの諸君!」

しかし怪人は外套を翻したかと思うと、忽然と姿を消した。
しばらくその空間を見つめて呆然としながら、己の中に芽生えた昏い感情に、恐怖を覚える。
一度壊れた魂はずっと壊れたまま、という説を唱える者もいる。
それを裏付けるように、一度妖壊化して鎮まった者が再び妖壊化する確率は通常に比べ高い。
妖壊化した雪ん娘が間引かれることの本当の意味を、次期女王としての教育を受けたノエルは知っている。
精霊に近い存在である雪ん娘はまだ自我が確立していないので、消滅することへの絶望や恐怖はない。
それは断罪ではなく、救済だ。壊れた魂で永遠にも近い時を生きるのは残酷過ぎるから――

165御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 23:25:04
「い……やだ……。もうあんなのは嫌だ。怖い、怖いよ……!」

次代の雪の女王として生まれてしまった自分は、その救済を受けることは許されなかった。
力を取り戻した今、また同じ轍を踏んでしまうのではないかという考えが頭をよぎる。
一度その可能性に思い至ってしまうと、恐怖が際限なく膨らんでいき、震えが止まらない。

>「……みゆ……き……」

息も絶え絶えのクリスに呼ばれ、はっとする。ブリーチャーズの仲間達が見ている。
みゆきも、乃恵瑠も、ノエルになってからも、たくさん愛された。
間引かれていればよかったなんて思うのは、愛してくれた人達に対する侮辱だ。

「ありがとう、ずっと忘れない」

クリスが伸ばした手を握り、感謝を伝える。
クリスがみゆきの力で生き長らえて来たのなら、取り戻した力を使い延命してやる事も出来た。
が、ノエルはそれをしようとしなかった。クリスはずっと前から死んでいるようなものだったのだ。
ずっと走り続けてきたんだ。そろそろ休ませてあげよう。もう大丈夫、思い出せたのだから。

>「ぉ……わかれ、の……時間……だ……」

「お別れ? 何を言っているんだ? "ずっと忘れない"って言っただろう?
たとえ全世界の人にとって恐ろしい化け物でも、僕だけはそうじゃないって知ってる。
姉上は悪い夢を見ていたんだ――次に起きた時には、全てが元通り。……いや、違うな。
雪女の里は今みたいに閉鎖的じゃなくなってて、姉上が笑って暮らせる世界になってる。
僕がそうしてみせる。今度こそ一緒に暮らそう」

ノエルはそう言って笑ってみせた。
妖怪にとって、死は終わりではない。誰かが覚えている限り、いつかは復活は叶う。
そして極刑が消滅――死刑であることからして、一度死ねば法律的には罪は消える。
次に目覚めた時には今度こそ自由だ。
それがいつになるかは分からない、とてつもない長い時間かもしれないけれど――
それを認識するのは待っている側だけ。本人にとっては一瞬だ。
クリスはこっちを数百年の間ずっと思い続けたのに、こちらは忘れていた。つまり、これでおあいこだ。

「みゆきはここにいる。ずっと待ってる。姉上の帰る場所を作って待ってる。
100年でも、1000年でも――だから、ゆっくりお休み」

指先から粉雪となって崩れていくクリスの上半身を抱き起して抱きしめる。
クリスはノエルの胸の中で、雪となってノエルの体に吸収されるように消えた。

「だけど……必ず帰ってきてね!」

姉上が次に目覚めるのは、2100年? 3000年? 
その頃にはきっと、雪は完全に恐怖の対象ではなくなっている。
雪だけではない、きっと人間が踏み込んでいない領域なんてなくなって、恐怖の対象は限りなく少なくなっている。
その時人と妖はどのような関係性を築いているのだろう。
古い慣習に凝り固まったままでは時代に置いて行かれて忘れ去られて絶滅。
かといって本来の役割を忘れ人間の暴走を許せば人間もろとも破滅。
――これ、なんて無理ゲー? でもやるしかない。帰る場所になると、約束したのだから。
いつの間にか、自分がまた壊れるのではないかという恐怖は跡形もなく消えていた。壊れている場合じゃないのだ。

166御幸 乃恵瑠 ◆4fQkd8JTfc:2018/05/01(火) 23:25:28
「……」

暫く無言で立ち尽くしてから、仲間達の方に向き直るノエル。これは一人で掴んだ勝利ではない。

「祈ちゃん、ポチ君、剣を届けてくれてありがとう」

満身創痍になりながらも切り札の剣を送り届けてくれた祈とポチ。
妖壊と化した過去を知っても、変わらず大切な友人だと思ってくれた二人。
更にポチは、3年前の時点でブリーチャーズにいたにも拘わらず、クリスを殺さないように動いてくれた。

「橘音くん……全部、知ってたんだね。ここまで導いてくれてありがとう」

妖力のほぼすべてを使って動物軍団を召喚し、クリスとの戦いに邪魔が入らないようにしてくれた橘音。
彼は途中でポチに下がれと言っていた。最初から全てを知った上でノエルを導き、因縁に決着を付けさせたのだ。

「クロちゃん……」

尾弐に向かって、意地悪げな笑みを浮かべる。

「うわこいつ女装しやがったよドン引きって失礼過ぎるでしょ! 一応あっちが本来なんだからね!?
でもおかげで帰ってこれて感謝してる!」

殺意を向けられ、乃恵瑠としては今更どうしたという感じだったが、ノエルとしては正直滅茶苦茶傷ついた。
だけどあれがあったからこそ、乃恵瑠は本当の気持ちに気付き、ノエルを真実として受け入れることが出来た。
そして思い至った一つの仮説。
彼と橘音の仲はお互い知らぬ事などない間柄だと思っていたが、もしかして彼の過去には橘音すら知らぬ何かがあるのだろうか。
彼は他の3人と違って自分の事を今までと同じようには思ってくれないのかもしれないけれど。
それでももしも彼が己の過去と対峙する時が来たなら、その時は力になりたい。そう思う。
そして全員に向けて。

「こんなにたくさん愛されているのに自分の事しか考えてなくて……
一度は嫌われるのが怖すぎて消えようとしたのに……、信じてくれてありがとう」

少しだけ不安げな顔をして告げる。自分が今までとは同じようで違うことを。

「でも……僕は今までの僕とは違ってしまったのかもしれない。
有り得ないと思うだろうけど、さっき見たまんまなんだ。
かつて化け物と化した雪ん娘も、冷徹な雪の王女も、ここに――」

そう言って自分の胸に手を当て、問いかける。

「それでもいい? それでも仲間だって思ってくれる?」

ノエルだけではなく、乃恵瑠としてもみゆきとしてもそう思っている。
それはきっと、次代の雪の女王としての第一歩。
そして――"今度こそ友達を守りたい"というみゆきの願い。
橘音がかつての友達であろうとなかろうと。
その出会いにどんな思惑があったとしても。全てが仕組まれた事であったとしても。
二人がともだちであることは揺らがない。
橘音だけではない、みんな大切な友達だ。誰も死なせない。この力があれば、きっとそれが出来る。
今度こそ――この力を傷つけるのではく守るために使って見せる。

「みんなさえ良ければ……僕は計画完遂の時まで……ブリーチャーズの御幸乃恵瑠でいたい!」

167尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 23:26:15
>「どうせご馳走してくれるなら、クロオさんの手料理の方が何倍もマシってもんです……。げほッ」

「いいから黙って飲め……今度、鰤大根とか作ってやるからよ」

そうして、武骨な指の表面を柔らかな舌先が擦るむず痒い感触に眉を顰めながら
尾弐は暫くの間、血と共に妖気を供給していたが……やがて、体温と妖気が一定の回復を見せたのだろう。
那須野はその身を起こし、ノエルとクリス。二人の方へと視線を向けた。
その動きに合わせるようにして、尾弐もまた視線を動かして見れば――――

>「お姉ちゃん……お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん!」
>「……みゆき……よかった……。やっと……会えたね……」

そこには、互いが互いを求めるかの様に抱きしめあう、二つで一つの人影が在った。
東京ドミネーターズ、ジャックフロストのクリス。
死と破壊と暴虐をまき散らした妖壊には、だが、もはや禍々しい力も悍ましい妄念も残っておらず。
ただ、普通の少女の様な……玉雪の様な笑顔だけがそこに残っていた。

>「どうやら……今回の賭けも、ボクらの勝ちということのようですね」

「ああ、そうだな……本当にすげぇよ。お前達は」

雪解けの中で芽吹いた新芽の様に暖かな光景と、安堵を感じさせる那須野の声。
尾弐は、それらを真っ直ぐ受け止める事が出来ずに困った様に視線を斜めに逸らす。

……と。逸らした視線の先、尾弐は祈を背負いこちらへと歩を進めるポチの姿を捕えた。
銃創に刀傷、満身創痍ともいうべき状態のポチは、それでも祈を落とす事無く尾弐達の前まで歩を進め

>「……狼に、なりたいなぁ」

恐らくは朦朧とした意識の中で思い浮かべた言葉なのだろう、そう一言呟いてドサリと倒れ込んだ。
その様子を見た尾弐は慌てて、那須野と共にその状態を確認をし……二人が消耗こそしているもの、
那須野の所持品である珍妙な探偵七つなにがしを使えば命に別状は無い事が判ると、安堵の息を吐いた。

そのまま、那須野の目配せに左腕を軽く挙げる事で返事をし、二人の介抱を引き受けた尾弐は、
寝かされた二人の後ろへ座り込むと、掌に妖気を集め二人の頭をゆっくりと撫で始める。
すると……ほんの僅かではあるが、迷い家外套による治癒効果が増加した。

――――傷口に気を当て、回復を促進させる術。所謂ハンドヒーリングの真似事だ。

先の那須野へ行ったように血液を与えなかったのは、人間でもある祈に鬼の血は却って毒であるし、
獣としての属性を強く持つポチに関しては、余計な事をすればかえってその高い生命力による回復の
邪魔をしかねないからだ。

168尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 23:26:38
そうしてそのまま、見よう見まねの拙い術を用いながら二人を撫でていた尾弐は、
まだ治り切っていない二人の傷に視線を移し……ふと、零れたかの様に言葉を漏らす。

「そうか……いつの間にかお前達は、俺の予測なんて超えちまうくらいに強くなってたんだな……」

尾弐が、最低の手段を用いる事でしか解決出来ないと決め込んでいたクリスとの戦い。
けれど眼前の一人と一匹は、そんな尾弐の考えを易々と越えて、傷だらけになりながらも最良の道を切り開いた。
初めて会った時とは比べ物にならない二人の成長を前にして尾弐は……


・・・・・

『クリス』との戦闘は終わった。

だが――――その余韻は長くは続かない。
起点となり神社の静寂を破ったのは、突如として出現した妖気と、土嚢に刃物を突き立てたかのような音。

>「……赤……マント……!?」

那須野の声に異常を察知した尾弐は、即座に境内から飛び出したが
……けれどもその時には全てが手遅れであった。

>「これで、オシマイ……だネ」

いつの間にか現出した、道化の仮面を被り鮮血を思わせる外套を纏った怪人の手により、
楔によって妖力の大半を失ったクリスは無力化し、祭神簿と國魂神鏡は破壊されてしまっていたのだ。
赤マントの言葉を事実とするのであれば、ドミネーターズの……妖怪大統領とやらの思惑通りに。

つまり、今回の戦闘において東京ブリーチャーズは――――戦術で勝ち、戦略で敗北を喫したという訳である。

>「その通り!……まあいい、ともかく残った時間はキミのものだヨ……好きに使えばいい」
>「いずれにせよ、これで東京の結界はガタガタ!閣下をお迎えする下地も整うというものだネ!」
>「では、我輩は次の仕事があるからネ……これで失礼するヨ?」
>「クカカカカ……またお会いしよう、東京ブリーチャーズの諸君!」

「……次に会う時はもう少しセンスのいい服装にしとけ。それがお前の死装束になるんだからな」

尾弐は、嘲笑しながら去って行く赤マントに対し、舌打ちをしながら言葉を吐くが、それを追う事はしなかった。
いや、出来なかった。
それは、今回の戦闘で受けたダメージが大きすぎる事もあるが……それよりも、
赤マントと名乗る妖怪から漂う、きな臭い気配に尾弐の直感が警鐘を鳴らしたからだ。

結局、そのまま赤マントが立ち去るのを見過ごした尾弐は……一度目を閉じてから視線を動かす。
雪の上に倒れ込んだ人影と、その手を握る人影に。

169尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 23:27:18
>「みゆきはここにいる。ずっと待ってる。姉上の帰る場所を作って待ってる。
>100年でも、1000年でも――だから、ゆっくりお休み」

繰り広げられるのは、幾百の時を越えてようやくの再開を果たした姉妹に訪れた、無情な別れの光景。
膨大な妖気を無理をして使用し続けた反動により自壊していくクリスの身体と、
粉雪と化し消えていくクリスの手を握り、悲しげな笑顔で彼女を見送るノエルの姿。

尾弐は……その二人に対して何も声を掛ける事が出来なかった。

尾弐にとって、クリスは滅ぼすべき敵であった。
それは、仮に彼女が無事に生き残っていたとしても尾弐自身がクリスを滅ぼしたであろうと思う程の。
だが今、視線の先で消えて行っている女に……尾弐は悪意を向ける事が出来ないでいる。

あらゆる物を、それこそ己の命ですらも使い、大切な物を守り抜こうと考えた女。
尾弐には、その気持ちが痛い程判ってしまうからだ。

故に尾弐は、目を瞑り二人の別れをただ沈黙を以って見守る。
それは今の尾弐の『妖壊』に対する最大限の譲歩で、そして冥福への祈りの様なものであった。


そして、クリスが消え去った後、暫し無言で立ち尽くしていたノエルがぽつぽつと……ブリーチャーズの面々に声をかける。
祈、ポチ、那須野……そして尾弐へも

>「クロちゃん……」
「……なんだ」

声を掛けられた尾弐は、腕を組み極力感情を殺した声色で返事をする。
一方的に殺意を向けてしまった間柄である。恐らくはこれまでの様な気安い会話は出来まい。
続くであろう疑問、悲しみ、怒りの言葉を受け止める覚悟をしていたが。

>「うわこいつ女装しやがったよドン引きって失礼過ぎるでしょ! 一応あっちが本来なんだからね!?
>でもおかげで帰ってこれて感謝してる!」

「いや、本体が女なら男装の露出狂って事になるからそれはそれで引くぞ……って、そうじゃねぇ。
 お前な、こういう時はもっとこう、あるだろ……」

尾弐は、予想外なノエルの反応に素で突っ込んでしまった自身に更に突っ込み、それから困った様に頭を掻く。
ノエルのいつも通りのあんまりな反応に毒気を抜かれてしまい、反応に窮してしまったらしい。
そんな尾弐へ意地悪気な笑みを浮かべた後……ノエルは真剣な表情へと切り替え、
東京ブリーチャーズのメンバーへと視線を走らせてから、口を開く。

>「でも……僕は今までの僕とは違ってしまったのかもしれない。
>有り得ないと思うだろうけど、さっき見たまんまなんだ。
>かつて化け物と化した雪ん娘も、冷徹な雪の王女も、ここに――」
>「それでもいい? それでも仲間だって思ってくれる?」
>「みんなさえ良ければ……僕は計画完遂の時まで……ブリーチャーズの御幸乃恵瑠でいたい!」

「……」

尾弐黒雄は、自らの意志で人を殺めた妖壊の存在を許さない。
償えぬ罪を負った者は、後悔も贖罪も許されず地獄の底まで落ち込み苦しむべきだと考えている。
故に、ノエルの『みゆき』としての過去を知ってしまった今は、彼に対して親愛の情を向ける事を、尾弐自身の矜持は許さない。
だから、尾弐は

170尾弐 黒雄 ◇pNqNUIlvYE:2018/05/01(火) 23:27:59
「……あー、オジサン。日頃の不摂生と二日酔いと失血のし過ぎが重なって、ここ数時間の記憶が曖昧なんだよな」

大袈裟に額に手を当てると、棒読みの台詞を吐き出し

「年食うと物忘れが激しくなってダメだな……色男の過去とか、全然思い出せねぇ」

――――何も見ず、何も聞かなかった事にした。
それは、酷い選択なのだろう。
過去も今も受け入れて認める事こそが『仲間』の定義であるとするならば、
見なかった事にして今のみを受け入れるという事は、ノエルを否定しているに等しい薄汚れた大人の選択だ。
だが、これが。この酷い解答が今の尾弐の精いっぱいだった。
……認められないが、認めたい。揺らぐ想いの中でかろうじで絞り出せた、妥協点であった。
ノエルから視線を逸らし

「すまねぇな、ノエル……いつか、いつかきっと『思い出せる』と思うから、それまで宜しく頼む」

辛そうにそう答えた尾弐は、ブリーチャーズの仲間から距離を取るようにして一歩、後ろへと下がった。

171多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 23:28:30
 そこはいつもの事務所だった。
橘音が所長用の椅子に座っていて、ノエルが来客用のソファに腰かけ、尾弐が棚の前で何らかの資料を調べている。
品岡がドアの外でタバコを吸っており、ポチが床に寝そべっていた。
 仕事が来ていないらしく、事務所には暇で退屈な、のほほんとした雰囲気が流れている。
 祈はソファの空いているところに腰を下ろし、皆が話している適当な話題に混じった。
ノエルが変なことを宣ったので手厳しいツッコミを入れてやると、そこでふと、体感温度が低い事に気付く。
 暖房入れたいなと祈は思ったが、ここにはノエルがいるし、そう言えば今日はノエルの姉が遊びに来るという話だった。
部屋の中を暖める訳にもいかないと、祈が震える腕をさすりながら我慢していると、
黒い毛玉が髪の毛を伸ばして祈の袖を引っ張った。
どこかに連れて行こうとしているらしい。しかし祈が動かないので、
諦めたその黒い毛玉は今度は祈の膝の上に飛び乗ってきた。
あったかい、などと思ったのも束の間、毛玉はモコモコと大きくなると、やがて祈を持ち上げた。
オマケコーナーがどうのと言って祈を運ぼうとする毛玉に、まだ早いだろとツッコミの膝蹴りをかましてやろうと思っていると。

>「祈ちゃん……寒いよね……。ごめんね、僕が人に化けられたら良かったのに……。
>だけど、駄目なんだ……それだけは、どうしても……出来ない……」
 声が聞こえて、祈はぼんやりと目を覚ました。
祈を背負って運んでいるのが毛玉ではなくて毛皮、否、狼であったことで、
先程まで見ていた映像が夢だと気付く。
 ポチの体温が移ったことで僅かに回復した程度の、
まどろみの中にいるような思考能力であったが、状況は理解できた。
倒れていた祈を、ポチがどこか安全な場所に運んでくれているようだった。
記憶よりも少し大きなその狼に、“寒くないよ、大丈夫だよ”と、祈はそう言おうと口を開いたが、
声帯はまともに震えず、掠れ声が雪景色に消えていった。
>「……僕はさ、この国で最後の狼なんだ。もう、どこにも、僕の本当の家族になれる狼は、いないんだ」
 “そうなんだ。それは悲しいね。独りぼっちなんだ”。
そう言ったつもりだったが、それは呼吸音にしかならない。
>「だけど……本当はそうじゃないかもしれない。
>本当はどこかにまだ狼は生きていて、僕と同じように、家族になれる相手を探してるかもしれない。
>だから……だから、僕は……」
 言葉は途切れてしまったが、『だから僕は人間の姿になれない』というような言葉が続くのは祈にもわかった。
感覚がない為、動いているのだかよくわからない手で、
“いいよ、無理しないで”とその背をぽんぽんと叩きながら、
ポチの胸中は何かと複雑なのかもしれないなと、祈はその背に揺られつつ、思う。
というのも、ポチは確かに送り狼ではあるが、その血には犬妖と思われる『すねこすりの血も流れているから』だ。

 狼は犬の祖先と言われている。
それ故、狼と犬は外見のみならずDNA的にも非常に近く、子を為すこともできるという。
それは送り狼とすねこすりという別種の妖怪を父母に持つポチ自身も良く知っていることだろう。
つまり彼が家族を求めるのであれば、狼でなくとも良いのである。それこそすねこすりや他の犬妖でも。
もっと踏み込めば、子ができなくとも心や魂で繋がる関係を家族と呼んだっていいだろう。
多種多様な価値観を内包する現代社会において、
高齢や病気等の理由で子ができなくとも愛し合い、家族になる人ぐらいザラにいるのだから。
しかしポチの言い回しは、まるで狼だけを自身の家族になれる存在と認識しているかのようだった。
そこに祈は、狼の――とりわけニホンオオカミという種に対する特別な思い入れ、
並々ならぬ憧憬やコンプレックスめいたものを見た気がしたのだった。

172多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 23:28:51
 山に住む狼が神の使いとして考えられたこと等で妖怪化した説のある送り狼と、
犬妖説が濃厚なすねこすりという妖怪の間に生まれながら、ポチの生き方の理想は送り狼だったのだろう。
 しかし、生まれは誰にも選べない。
狼の生き方を望んでも、己の半分がすねこすりであるという事実は決して動かすことはできない。
そこには現実の理不尽さや、一種の絶望がある。
 せめて知性を持つ妖怪でなくただの獣に生まれていれば、
あるいは送り狼同士の子として生まれていれば、そんなことを考えることもなかっただろう。
しかし彼は考えた。そして己にない物をねだってしまったのかもしれなかった。
 その結果行き着いた答えが、恐らくは『家族』なのだ。
他でもない狼に。この世にいるかどうかすら分からぬ彼や彼女に同胞と認められ、
深く愛され、家族になる。群れをなす。同化する。属する。
それによってようやく己は狼になれるのだと、そう考えたのかもしれない。
余りにも強いその願い故に。ただのひと時であっても、狼の姿を捨てられないのだと。

>「……狼に、なりたいなぁ」
 ポチが力尽きたように倒れ、祈もまたその背から投げ出されて、雪の上に転がった。
ポチが倒れる寸前に吐いた言葉は、裏返してみれば悲しくも、己が狼ではないと認める言葉で。
祈は雪の降る空を見上げながら、寝ぼけた頭でポチに伝えるべきことを考えた。
 ポチに比べて祈はいくらかお姉さんであるし、言ってやらねばならぬ言葉があると思ったのだった。
 倒れたままのポチの背に祈はなんとか顔を向け、語りかける。
「……――――――ポチ」
 祈の推測が正しければ、
ポチは他の狼の承認を得る事によって狼になろうとしていることになる。
しかし、誰にどう言って貰えた所で、ポチの体は魔法で完全な狼に生まれ変わったりはしないのだ。
 故にその道の先に待つのは絶望かもしれない。
たとえ運よく狼に出会い承認を得られたとしても、体の模様、大きさ。仕草、遠吠えの仕方、匂い。
自分と狼との僅かな違いにすら傷付いて、やはり自分は狼とは違うんだと涙するかもしれない。
それでも自身を狼だと思い込もうと必死に取り繕ったり、
彼が目指す狼像からかけ離れた行動を起こして、ますます傷付くことだって考えられた。
「見つかると……いいな。狼……」
 だが、祈は止めることをしなかった。
 憧れかコンプレックスか、ポチが狼に対して抱いているものがなんであれ、
それは祈がどんな言葉で止めようと思った所で、きっと止められるような衝動ではないから。
どう諭したところで実際に狼に出会ってみるまではポチも納得などしまいし、
それに、全身でぶつかることでしか分からないこともある。
 だから今やるべきは、姉貴分としてフォローしてやることであり、
上手く行かなかった時の為に道を残しておいてやることだと、祈には思えた。
「でも……自分を、嫌いに、なんて……なるなよ……。あたしはポチのこと、嫌いじゃないから、さ……」
 戻れる道を。戻れる場所を。
 もし狼になれないことに絶望しても、
今の自分を好きになり、自信と誇りを持てたならば、またきっと歩き出せる。
だから仲間である自分達が、狼でなくともありのままのポチを受け入れられることや、
支えてやれることを伝えておけば、きっと安全策として働くと、祈はそう考えたのだった。
「例え狼じゃなくても、どんな姿であっても……ポチは……あたしの、あたし達の、仲間…………だから……」
 段々と瞼が重くなり、祈はもう言葉を紡げなくなってきた。
 これらの言葉は勿論、祈の思い違いから出たもので、的外れなものであるかもしれない。
それに、合っていたところで、その言葉や意図、気持ちがポチの心に届くかなどわからない。
根が深ければ深いほど、きっと祈の言葉は届かない。それどころか、ふざけるなだとか、そんな風に思うかもしれない。
また、これをポチが聞いている保証もない。気を失っていたりすれば、当然聞こえていないだろう。
 ゆっくり閉じていく祈の意識。橘音が狐面探偵七つ道具の一つ、迷い家外套を祈に被せて、
尾弐が自分の頭を撫でている様をかろうじて視界に収める。
(なんかこの二人、母さんと父さんみたいだな……)
 毛布を被せてくれる母と、寝付くまで頭を撫でてくれる父。そんな風に見えた。
温かい掌は、いつまでも祈の頭を撫でている。

173多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 23:29:33
「むが……」
 祈が次に目を覚ましたのは、クリスがノエルに別れを告げている時だった。
女王の力がノエルに譲渡されたことで、周囲の気温が正常な値に戻りつつあることと、
橘音の被せた迷い家外套や、尾弐のハンドヒーリングが祈の回復を促したのだった。
 覚醒した祈の意識が、今は寝ている場合ではないと警鐘を鳴らし、
祈はがばっと上半身を起こす。
撃たれた右肩がちくりと痛み、溶けた雪でびしょびしょの制服が気持ち悪かったが、
それらに構っている暇はなかった。
 祈は神剣を投げ渡した後、ノエルが「終わりだ」と言って剣を振り上げたところまでは記憶にある。
ノエルとクリスの決着はどうなったのかと拝殿を仰ぎ見るが、そこに二人の姿はなかった。
拝殿の上は戦場として狭すぎたのか、二人の姿はそこから視線を下げて、祈達と同じ大地の上にあった。
ノエルが倒れるクリスを大事そうに抱きしめていた。
(勝ったんだな……御幸……でも)
 ノエルに抱きしめられたクリスが、粉雪のように砕けていく。
 砕け散る彼女の残滓は、それでも愛おし気にノエルの頬を撫で、抱きしめ、ノエルの胸に溶けるように消えていった。
祈が見た夢のように、誰もが生きたままのハッピーエンドとは行かなかった、ということだ。
 ノエルとて好きでその結末を選んだわけではないだろうし、
>「みゆきはここにいる。ずっと待ってる。姉上の帰る場所を作って待ってる。
>100年でも、1000年でも――だから、ゆっくりお休み」
 それに、妖怪には“次”がある。
魂ごと滅した訳ではないから、何年先かは知らないが、きっといつかノエルとクリスは巡り合えるだろう。
戦いの終わった平和な世界で。そう思うと、全てが悪い結末ではないように思えた。
子ぎつねの死を発端に始まり、数百年もの間続いた哀しいクリスの戦いや、
それを妖怪大統領に利用され、姉妹で戦い合ってしまったことは確かに不幸だったけれど、それももう終わったのだと考えれば。

 無言で立ち尽くしていたノエルだったが、やがてブリーチャーズへと向き直った。
何か言いたげな雰囲気だったので、祈も橘音から渡された迷い家外套を羽織りながら立ち上がって、その言葉を待つ。
ややあって、ノエルは口を開いた。
>「祈ちゃん、ポチ君、剣を届けてくれてありがとう」
 まず声を掛けられたのは祈とポチだった。
「……別に、お礼を言われるようなことしてねーし」
 それに、祈は視線を逸らしながら答えた。
 祈は神剣を見つけ出して投げ渡した訳だが、祈が思うに、きっとそんなことしなくてもノエルはクリスに勝てた。
それを考慮すれば、祈がやったことはと言えば、
クリスと祈とでは戦闘における相性が悪かったとは言え、雪の上にぶっ倒れてポチに運んで貰っただけであり、
はっきり言って役に立った記憶がなく、どうにもバツが悪いのだった。
それとは逆に、ポチの方は大活躍だったと言えるだろう。この神社にやってきた客を遠吠えで逃がし、
英霊達を相手に大立ち回りを演じ、更には剣を投げ渡すと同時にクリスに攻撃も仕掛けているのだから。
 祈とポチに続いて橘音と、次々に仲間へと声を掛けていくノエル。
特に尾弐とは、祈が拝殿付近から離れている間に何かあったようで、
>「うわこいつ女装しやがったよドン引きって失礼過ぎるでしょ! 一応あっちが本来なんだからね!?
>でもおかげで帰ってこれて感謝してる!」
 などと、ノエルは意地悪い笑みで尾弐に言って見せる。
その笑みが少しだけ、強張っているように祈には見えた。
>「いや、本体が女なら男装の露出狂って事になるからそれはそれで引くぞ……って、そうじゃねぇ。
>お前な、こういう時はもっとこう、あるだろ……」
 それに応える尾弐は、困ったように頭を掻いていた。
祈が倒れて拝殿を見上げていた時、拝殿の上に立つ乃恵瑠の影が急にコミカルな動きに変わった瞬間がある。
その直前には尾弐が『ドン引きだぜこの女装野郎!』とでも言ったのだろうか。
それについついノエルがツッコんでしまう、という形でノエルが戻ってきたのかもしれない、などと祈は感想を抱いた。

174多甫 祈 ◇MJjxToab/g:2018/05/01(火) 23:30:03
 そうして仲間への礼を述べ終えると、ノエルは今度は全員に向けて言葉を紡いだ。
>「こんなにたくさん愛されているのに自分の事しか考えてなくて……
>一度は嫌われるのが怖すぎて消えようとしたのに……、信じてくれてありがとう」
>「でも……僕は今までの僕とは違ってしまったのかもしれない。
>有り得ないと思うだろうけど、さっき見たまんまなんだ。
>かつて化け物と化した雪ん娘も、冷徹な雪の王女も、ここに――」
>「それでもいい? それでも仲間だって思ってくれる?」
>「みんなさえ良ければ……僕は計画完遂の時まで……ブリーチャーズの御幸乃恵瑠でいたい!」
 ノエっていない、シリアスな声色だった。
胸に当てた手は、これが心からの言葉だと示しているように。
決意を込めた瞳。しかしどこか不安げな、確かめるような表情で。
>「……あー、オジサン。日頃の不摂生と二日酔いと失血のし過ぎが重なって、ここ数時間の記憶が曖昧なんだよな」
 それに最初に答えたのは、先程からノエルと微妙な雰囲気になっている尾弐であった。
>「年食うと物忘れが激しくなってダメだな……色男の過去とか、全然思い出せねぇ」
>「すまねぇな、ノエル……いつか、いつかきっと『思い出せる』と思うから、それまで宜しく頼む」
 尾弐は、祈が知る限りとても優しい鬼だ。
しかし、自分の意志で誰かを傷付ける《妖壊》などに対してはどうにも厳しい姿勢を見せる。
八尺様戦などではその圧倒的な力で、八尺様の噂の元となった快楽殺人鬼の魂を文字通り砕いている。
そんな男が、かつて人間に害を齎した《妖壊》を内に秘めたノエルを仲間として受け入れるには、
『保留』しかなかったのだろう。殺すか、赦すか。その選択を、忘れたことにして保留するしか。

 辛そうに一歩下がった尾弐の背中を励ますようにぽんと叩いて、
祈は下がった尾弐の代わりとばかりに一歩、二歩と前に出た。
勢いそのままノエルの前までやって来、そして祈の右つま先が、
まるでそこにあるのが自然とでも言うかのように、ノエルの脛――弁慶の泣き所にめり込んだ。
祈のつま先がノエルの脛に吸い込まれたと錯覚するような、あまりに自然な動作。
 ノエルはノエルで辛いことがあっただろうからと、祈なりの加減をしてあるが、それでもそれなりの痛みがあるだろう。
更に祈は、ノエルの襟首を引っ掴んで己に引き寄せた。
「おうコラアホ御幸。あたしがあんたのこと、そんぐらいで嫌いになる訳ないだろ」
 視線を合わせてメンチを切る。
 かつて雪ん子みゆきが引き起こした災害。それは言わば、子どもだったから起こってしまった不幸だ。
友達を人間に殺され、溢れ出す怒りと悲しみを抑えることができなかった。
子ども故に、持っている力が引き起こす結果だって予測できなかったに違いない。致し方のない事だ。
そしてその行為を掟とやらで断罪するくらいならば、
被害が出る前に周りの大人が、特に力を持った雪の女王が止めてやるべきだった。
それを怠って出来上がった結末は決してみゆきだけの所為ではないのだし、子ぎつねを殺した人間だって悪い、とも思うのだ。
「それでもいい? じゃないっての。いいに決まってんだろ。
つーかあたしに断りなくまた勝手に消えようとしたら、次はこんなもんじゃ済まさねーから。わかったか?」
 言外に『次はボコボコにしてやる』と物騒に言って、ようやく手を襟首から離してノエルを解放する。
 踵を返して、自分が先程立っていた場所まで歩いていこうとしながら、
祈は途中で思い出したように振り返り、
「計画完遂までとか言ってないで、いたけりゃ“ずっと”いろバーカ!」
 そう言って、べ、と軽く舌を出して見せる。
そうして祈は元いた位置まで下がっていった。
ノエルはブリーチャーズ全員へ、返答を求めている。
尾弐も祈も、言いたい事をぶつけたことだ。次はポチや橘音の番だと思って、場所を空けたのだった。

175ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 23:31:09
送り狼は、暗闇の中にいた。
大量の失血と体温の低下は、彼の意識に微睡みをもたらしていた。
だが、彼はこのまま意識を手放してもいいと思っていた。
自分は既に役目を果たした。
心の内まで狼にはなれずとも、仲間に尽くし、頼みをやり遂げ、狼としての行為は果たせた、と。

>「……――――――■■」

けれども不意に、声が聞こえた。
送り狼ではない、しかし「居心地のいい自分」の名を呼ぶ声が。
祈の声……寒さも失血も彼女の命には届いていなかった。
送り狼はその事実に喜びを覚え、

>「見つかると……いいな。狼……」

しかし続けて紡がれた言葉を聞いた瞬間、彼は自分の弱った体の中で、心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
聞かれていた。自分の狼らしからぬ、女々しい泣き言が。
無意味な願望を捨てられない、仲間への不義が。
その事実が、彼の朦朧とする意識を更に遠のかせる。
いよいよ、彼は意識を手放して、楽になってしまおうと目を閉じかけて……

>「でも……自分を、嫌いに、なんて……なるなよ……。あたしは■■のこと、嫌いじゃないから、さ……」

しかし、思い留まった。
嫌いじゃない……たった今、祈は確かにそう言った。
彼女が血を流し、吹雪に蝕まれていても、あり得る筈のない可能性を手放せなかった送り狼を。
それでも嫌いじゃない、と。
その理由が、彼には分からなかった。
分かるのはただ……彼女は自分よりもずっと狼のようだという事だけ。
仲間の為に何もかもを投げ出す事が出来なかった自分よりも、
そんな自分をも嫌いじゃないと言ってのけた彼女は、ずっと狼に近かった。

>「例え狼じゃなくても、どんな姿であっても……ポチは……あたしの、あたし達の、仲間…………だから……」

祈の言葉が、送り狼に染み入る。
劣等感に突き刺さり、自身の情けなさを思い知らされるその言葉は……しかしそれでも、嬉しかった。
だから彼は……もう暫くの間、その嬉しさに溺れていたいと、願った。
同時に彼の首元に黒い首輪が現れる。
送り狼という妖怪を、飼い犬の姿に定義付けるその名前が、首輪という形を取って彼の体を縮ませ……「送り狼」が「ポチ」へと戻る。

「ごめんね、祈ちゃん……嬉しいよ……」

橘音に迷い家外套を被せられ、尾弐の手に撫でられながら、ポチはうわ言のように呟く。

「嬉しいのに……なんで……ぼくは……」

その言葉の最後は、声にはならない。
こんなにも温かい愛を受けてなおも、あり得もしない夢物語を捨てられない、愚かな自分を呪う言葉は。
……もう、考えるのはやめよう。ただ、このぬくもりの中で眠ってしまおうと、ポチは目を閉じて……
不意に彼の鼻腔に、新たなにおいが、妖気が届いた。
ポチには、そのにおいが誰のものなのかは分からない。
だが、一つだけ、すぐに分かる事があった。
その何者かは、邪悪さと、愉悦のにおいを纏っていた。
疲弊も負傷も忘れ、ポチは跳ね起きる。
……そして、胸から何本もの楔を生やしたクリスと、その後方に立つ赤マントを目にした。
それから先は、雪崩れるように状況が動いた。
楔に四肢を貫かれ、屋根から転げ落ちるクリス。奪い取られ、破壊された神宝と神体。
だが……その光景を目にしても、ポチは冷静だった。
声一つ上げず、赤マントと、未だ目を覚まさない祈の間を遮るように、体を動かす。
ポチは、まだ、この時点では冷静だった。

176ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 23:31:32
送り狼は、暗闇の中にいた。
大量の失血と体温の低下は、彼の意識に微睡みをもたらしていた。
だが、彼はこのまま意識を手放してもいいと思っていた。
自分は既に役目を果たした。
心の内まで狼にはなれずとも、仲間に尽くし、頼みをやり遂げ、狼としての行為は果たせた、と。

>「……――――――■■」

けれども不意に、声が聞こえた。
送り狼ではない、しかし「居心地のいい自分」の名を呼ぶ声が。
祈の声……寒さも失血も彼女の命には届いていなかった。
送り狼はその事実に喜びを覚え、

>「見つかると……いいな。狼……」

しかし続けて紡がれた言葉を聞いた瞬間、彼は自分の弱った体の中で、心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
聞かれていた。自分の狼らしからぬ、女々しい泣き言が。
無意味な願望を捨てられない、仲間への不義が。
その事実が、彼の朦朧とする意識を更に遠のかせる。
いよいよ、彼は意識を手放して、楽になってしまおうと目を閉じかけて……

>「でも……自分を、嫌いに、なんて……なるなよ……。あたしは■■のこと、嫌いじゃないから、さ……」

しかし、思い留まった。
嫌いじゃない……たった今、祈は確かにそう言った。
彼女が血を流し、吹雪に蝕まれていても、あり得る筈のない可能性を手放せなかった送り狼を。
それでも嫌いじゃない、と。
その理由が、彼には分からなかった。
分かるのはただ……彼女は自分よりもずっと狼のようだという事だけ。
仲間の為に何もかもを投げ出す事が出来なかった自分よりも、
そんな自分をも嫌いじゃないと言ってのけた彼女は、ずっと狼に近かった。

>「例え狼じゃなくても、どんな姿であっても……ポチは……あたしの、あたし達の、仲間…………だから……」

祈の言葉が、送り狼に染み入る。
劣等感に突き刺さり、自身の情けなさを思い知らされるその言葉は……しかしそれでも、嬉しかった。
だから彼は……もう暫くの間、その嬉しさに溺れていたいと、願った。
同時に彼の首元に黒い首輪が現れる。
送り狼という妖怪を、飼い犬の姿に定義付けるその名前が、首輪という形を取って彼の体を縮ませ……「送り狼」が「ポチ」へと戻る。

「ごめんね、祈ちゃん……嬉しいよ……」

橘音に迷い家外套を被せられ、尾弐の手に撫でられながら、ポチはうわ言のように呟く。

「嬉しいのに……なんで……ぼくは……」

その言葉の最後は、声にはならない。
こんなにも温かい愛を受けてなおも、あり得もしない夢物語を捨てられない、愚かな自分を呪う言葉は。
……もう、考えるのはやめよう。ただ、このぬくもりの中で眠ってしまおうと、ポチは目を閉じて……
不意に彼の鼻腔に、新たなにおいが、妖気が届いた。
ポチには、そのにおいが誰のものなのかは分からない。
だが、一つだけ、すぐに分かる事があった。
その何者かは、邪悪さと、愉悦のにおいを纏っていた。
疲弊も負傷も忘れ、ポチは跳ね起きる。
……そして、胸から何本もの楔を生やしたクリスと、その後方に立つ赤マントを目にした。
それから先は、雪崩れるように状況が動いた。
楔に四肢を貫かれ、屋根から転げ落ちるクリス。奪い取られ、破壊された神宝と神体。
だが……その光景を目にしても、ポチは冷静だった。
声一つ上げず、赤マントと、未だ目を覚まさない祈の間を遮るように、体を動かす。
ポチは、まだ、この時点では冷静だった。

177ポチ ◇xueb7POxEZTT:2018/05/01(火) 23:31:54
送り狼は、暗闇の中にいた。
大量の失血と体温の低下は、彼の意識に微睡みをもたらしていた。
だが、彼はこのまま意識を手放してもいいと思っていた。
自分は既に役目を果たした。
心の内まで狼にはなれずとも、仲間に尽くし、頼みをやり遂げ、狼としての行為は果たせた、と。

>「……――――――■■」

けれども不意に、声が聞こえた。
送り狼ではない、しかし「居心地のいい自分」の名を呼ぶ声が。
祈の声……寒さも失血も彼女の命には届いていなかった。
送り狼はその事実に喜びを覚え、

>「見つかると……いいな。狼……」

しかし続けて紡がれた言葉を聞いた瞬間、彼は自分の弱った体の中で、心臓が大きく跳ね上がるのを感じた。
聞かれていた。自分の狼らしからぬ、女々しい泣き言が。
無意味な願望を捨てられない、仲間への不義が。
その事実が、彼の朦朧とする意識を更に遠のかせる。
いよいよ、彼は意識を手放して、楽になってしまおうと目を閉じかけて……

>「でも……自分を、嫌いに、なんて……なるなよ……。あたしは■■のこと、嫌いじゃないから、さ……」

しかし、思い留まった。
嫌いじゃない……たった今、祈は確かにそう言った。
彼女が血を流し、吹雪に蝕まれていても、あり得る筈のない可能性を手放せなかった送り狼を。
それでも嫌いじゃない、と。
その理由が、彼には分からなかった。
分かるのはただ……彼女は自分よりもずっと狼のようだという事だけ。
仲間の為に何もかもを投げ出す事が出来なかった自分よりも、
そんな自分をも嫌いじゃないと言ってのけた彼女は、ずっと狼に近かった。

>「例え狼じゃなくても、どんな姿であっても……ポチは……あたしの、あたし達の、仲間…………だから……」

祈の言葉が、送り狼に染み入る。
劣等感に突き刺さり、自身の情けなさを思い知らされるその言葉は……しかしそれでも、嬉しかった。
だから彼は……もう暫くの間、その嬉しさに溺れていたいと、願った。
同時に彼の首元に黒い首輪が現れる。
送り狼という妖怪を、飼い犬の姿に定義付けるその名前が、首輪という形を取って彼の体を縮ませ……「送り狼」が「ポチ」へと戻る。

「ごめんね、祈ちゃん……嬉しいよ……」

橘音に迷い家外套を被せられ、尾弐の手に撫でられながら、ポチはうわ言のように呟く。

「嬉しいのに……なんで……ぼくは……」

その言葉の最後は、声にはならない。
こんなにも温かい愛を受けてなおも、あり得もしない夢物語を捨てられない、愚かな自分を呪う言葉は。
……もう、考えるのはやめよう。ただ、このぬくもりの中で眠ってしまおうと、ポチは目を閉じて……
不意に彼の鼻腔に、新たなにおいが、妖気が届いた。
ポチには、そのにおいが誰のものなのかは分からない。
だが、一つだけ、すぐに分かる事があった。
その何者かは、邪悪さと、愉悦のにおいを纏っていた。
疲弊も負傷も忘れ、ポチは跳ね起きる。
……そして、胸から何本もの楔を生やしたクリスと、その後方に立つ赤マントを目にした。
それから先は、雪崩れるように状況が動いた。
楔に四肢を貫かれ、屋根から転げ落ちるクリス。奪い取られ、破壊された神宝と神体。
だが……その光景を目にしても、ポチは冷静だった。
声一つ上げず、赤マントと、未だ目を覚まさない祈の間を遮るように、体を動かす。
ポチは、まだ、この時点では冷静だった。


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