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戦後 養成校とM検

1名無しさん:2020/07/26(日) 07:32:11 ID:DK9oyGfI
全裸にしての性器・肛門検査は徴兵検査だけではなく、受験生を含めて日本男児には
必須の身体検査であった。

2名無しさん:2020/07/26(日) 07:34:14 ID:DK9oyGfI
終戦事情 養成工へのM検
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  昭和26年3月、ある大手造船会社の本社人事部に勤務していた私は瀬戸内海に面した工場の労務課へ転勤を命ぜられた。その工場は戦時中は軍艦を造船しており、海軍の管理下にある軍需工場であった。
 一週間後、広島にある工場に着任した私は、今春4月に入社する養成工達の教育と、寮での生活指導を業務担当として命ぜられた。

 当時は終戦の混乱もようやく落ちつき、世の中は朝鮮戦争特需で好景気の活況を呈し始めていた。造船業界も戦後の永い沈滞期を脱して一挙に戦時中にも匹敵するような好況に沸いていた。
 必然的に作業員不足が起った。特に将来の現場中堅幹部育成の必要性が痛感され、この会社でも戦後初めて養成工採用を再開することとなったのである。

 この工場では戦時中、高等小学校を卒業した少年達を養成工として採用し工場内の青年学校で教育、訓練していた。
 戦後は青年学校も廃止されていたので、取り敢えず戦時中に青年学校の校舎として使われていた教習所を養成校の寮として転用し、三年間の教育を施すこととなったのである。採用試験はすでに1月に終り、33名の採用が決っていた。
養成工は甲種養成工員として高校卒業予定の13名、そして乙種養成工員としてこの春新制中学校を卒業予定の15才の少年達20名であった。

 手始めに教育計画をたてることになり、先ず4月1日の入社式と、その後の身体検査の要網を作成することにした。
 労務課のロッカーの中にある古めかしい『職工身体検査規程』を引っぱり出して読むと、なんと作業員採用時の身体検査には、性病検査の項目がありM検のやり方まで指定されていたのには、息をとめる程の驚きを覚えた。
 思わず、かつて私が国民体力検査の名の下に強制的に受検させられた性器触診や徴兵検査でされたM検を光景を思い出したのであった。『職工身体検査規程』に書いてあるM検手順はまさしくのその時の軍隊のM検であった。

3名無しさん:2020/07/26(日) 07:34:46 ID:DK9oyGfI
 戦争当時、この造船場は軍需工場であったため、秘密保持や品質管理などいたるところを海軍による管理規定された工場であった。それだけでなく当時は、働いている工員には春秋の健康診断において海軍式の厳しいM検が行われた様である。社内の規則よりも海軍工廠の規則が総てにおいて優先されていたからである。

 終戦後この工場では新規採用を全くしていなかったので、この『職工身体検査規程』は一度も適用されず、また改訂もされなかった。そのため古めかしいとは言え、この規程は昔のまま生きており、当然、入社時の身体検査は戦時中の海軍工廠の規則どおりに行うことになるのであった。

 4月1日、講堂に紅白の幕を張り巡らし、工場長の形式的な訓示や労務課長の入社後の心得等の話があり、食堂での赤飯の昼食が終わると、午後一時から講堂内部を模様替えして身体検査を始めることとなった。
 私は率先、外科の記録係を買って出て、工場診療所の医師の横へ机を持込み座り込んだ。身体検査は身体測定から始まり、眼科、内科、血沈、外科と進むようになっていた。外科は講堂の隅を紅白の幕で囲った一画で検査した。M検もここで行われた。
34: 名無しさん :2020/07/23(木) 13:57:57 ID:DK9oyGfI
33名の養成工達は講堂の入口で服とシャツをぬぎ、パンツ一つになると、順番に諸検査を終わり、次第に外科の囲いへ近づいてくる。
 重労働の多い現場作業員として採用したからであろうか、比較的体格の良い子が多かった。いよいよM検の番となった。中学校卒業の乙種養成工から始った。
 5人ずつ、幕の中へ入り、私が検査票を受取ると、手足の運動機能の検査が始まった。ところが、先頭を進んできた小林という少年が両足を思い切り左右に拡げると、ビリッと大きな音がしてパンツの股が裂けてしまった。たちまち、黒い陰毛と太い陰茎が露出した。
 良く見ると、パンツは手作りであった。当時、市販のパンツは少ない上に高価だった。養成工達の家庭は貧しく手縫いのパンツは珍しくなかったのである。しかい、そんなハプニングは序の口であった。
 医師が真赤になった小林少年にパンツを脱いで診察台の上へ仰向けに寝るように命じたのはちょっと意外であった。戦時中、私が受けたM検はすべて起立したまま足を開いて受ける事と決っていたからである。
 小林は破れたパンツを脱ぎ、診察台の上に登ると、両手で前を隠して仰向けに寝た。後に並んだ4人の少年はジッと診察台の上の小林を眺めている。今までM検の儀式を経験したことのない15歳の少年達は恐怖と好奇心の入りまじった複雑な表情で注目している。その視線の集中したところに、小林は身体を固くして天井をにらみながら横わっていた。
医師は診察台の横に立つと、やおら小林の両手を払いのけ、胸の上に組ませると、鼠けい部をグッと押し、次に陰嚢を握って脱腸の有無をたしかめると、いよいよ性病検査に移った。

4名無しさん:2020/07/26(日) 07:35:27 ID:DK9oyGfI
 医師は先ず小林の包茎の太い陰茎のつけ根を左手でギュツと握り固定すると、右手の三本の指で包皮をめくった。小林は顔をしかめて声にならない声でウッとうめいた。頭を出したピンク色の先端は既にぬめぬめとした粘液で湿めっているように見えた。医師はさらに二度、三度と亀頭のある先端部に向って絞り出すように陰茎をしごいた。竿はみるみる太さを増していき、胸で組んでいる小林の両手に力が入った。
 M検が終り医師が左手を離すと陰茎は勢いよく腹に当って音を立てるほど固く勃起させられていた。凄い勃起が私からもはっきり見えた。その光景を後ろに並んだ4人は息をのんでじっと見つめていた。
 つぎに医師は小林を横臥させ、両脚を折り曲げて両手で抱かせた。医師の指が肛門を押し拡げた。すぐに右手でピシャリと尻を叩くと痔の検査は終った。
 小林の後に続く4人は顔を赤くしてこの儀式を眺めていた。小林が診察台から降りて破れたままのパンツをはき前を押えながら幕の外へ出ると、入れ替りに安田が観念したようにパンツを脱ぎ、診察台に上った。安田は最初から両手を胸で組み目をつぶっていたが、その陰茎は恐怖のためか、すっかり縮んでしまっていた。ただ皮を剥くまでもなく亀頭はほとんど露出していた。次の中村は最初からグニヤリとしていて、医師は包皮をむきあげるのに困っていたようであった。
 乙種養成工全員の検査が終ってから数えて見ると、15歳の彼らの陰茎は殆ど包茎で完全な露茎は20人のうち、わずか2人であった。真性包茎はおらず全員亀頭は露出可能であった。陰毛は一人を除き全員発毛していた。唯一人小柄な菊田少年のみが未だ発毛せず、百合の蕾のような陰茎がスベスベした白い股間に直立していた。検査中に勃起してしまったのは20名中6名であった。
 次の甲種養成工達は年齢が18歳と年長であるだけに包茎の者が5名、露茎が8名であった。また半勃起程度になった者はいたが完全勃起にいたる者はいなかった。

5名無しさん:2020/07/26(日) 07:38:16 ID:DK9oyGfI
身体検査が終ると、全員工場の大浴場で入浴の作法を学ぶ。これは養成工担当の守衛が指導した。
 海軍下士官上りの守衛は最初から六尺褌一つになり、自分も浴場へ入り入浴作法を教える。先ず養成工達の頭を手拭でしっかり鉢巻きさせ、かかり湯をさせた上で浴槽へ入らせる。もちろん浴槽内で手拭を使うことは禁止である。養成工同士の背中の流し合いやシャワーのかかり方までこのとき習うのである。陰部を手拭で隠したり手で押えたりすることは厳禁である。そのためか入社当初、陰部露出を恥しがっていた養成工達も二ヶ月ぐらいたつと、浴場内を全開で堂々と歩き廻るようになり、包皮をむいて洗うようなことも平気になっていた。中には仲間同士くらべ合い、番付を作って回覧する者も出て、教職員会議の話題となった程である。

 養成工は全員工場附属の独身寮生活である。四人一室のベッド生活である。甲種、乙種を適当に取混ぜた部屋割りとした。
 舎監は姫路刑務所出身の看守上がりの中年者であった。独身寮では万事が軍隊あるいは刑務所式の号令である。毎朝の点呼では姿勢矯正が最大のポイントであった。起床後、廊下に整列し点呼を受けるが態度や姿勢が悪いと舎監の手にした竹刀が飛ぶのである。時にはズボンを脱がせて尻を叩くので、浴場では尻に青い筋が何条もついている養成工を見たものである。

 寮生活で最も重い罪は窃盗である。終戦後間もない頃で物資不足は深刻であり、工場内で物品や金銭の盗難が頻発していた。
 三回目の給料日の当日、恐れていた盗難事件が起った。場所は養成工寮、金額は現金三千円であった。当時の三千円は大金である。
 さっそく寮生全員が集められ、厳重な身体検査と所持品検査が実施されたが金は出てこない。結局凝わしい人物を全員で投票させることにしたところ、票はある特定の少年に集中した。この少年は西尾といい模範少年として中学校から推薦のあった子であった。西尾少年は舎監室へ呼ばれ私も立会人として入室した。
 舎監が激しく尋問するが、もちろん西尾は否認する。窃盗を認めれば会社を辞めなければならないことは誰でも知っているので本人も必死で知らぬ、存ぜぬの一点ばりである。
 業を煮やした刑務所看守出身の舎監は、「身体に聞いてみようか。」とすて台詞を残して部屋を出ていった。暫くして戻ってきたときは、木槌を持っていた。
 怪談な顔の私を見てニヤリと笑った舎監は、やおら本人の上着を脱がせ、シャツ、パンツもとり全裸にした。さらに両手を後に廻し縛りあげた。その上で陰茎を掴んで机の上に出させ、恐怖で縮んでいる陰茎の根元を左手で押えると、右手で木槌を握り亀頭めがけて振りおろした。ギャツと悲鳴をあげた西尾少年は二度、三度と打撃を受けると、最後には泣き出し、「すみません。借りただけてす。勘忍して下さい」というと、その場にヘタヘタと倒れてしまった。暫く寮で謹慎させることにしたが、数日後、労務課長の断が下り、荷物をまとめて淋しく工場を去っていったのであった。

6名無しさん:2020/07/26(日) 07:39:19 ID:DK9oyGfI

 養成工は毎朝寮から工場まで学生服姿で列を組み出勤し、工場に着くとすぐに作業服に着替える。養成工の作業服の下着はインキンが寮に蔓延するのを防止するため越中褌と指定されていた。だから、更衣室では下半身裸になる。毎日、朝晩2回、陰部を露出する事になる訳である。下半身裸といえば検便もそうであった。私の在職中、二度ばかり寮で赤痢患者が発生したが、その都度、養成工全員缶詰めとなって保健所の検便を受けた。四っ這いのまま、裸の尻に検便棒を突込まれるのである。これも海軍式の検便検査である。この検査に興奮する少年もいて鉛筆を使っての検便遊びが流行し、後には年長の養成工が年少の後輩の肛門を掘るような事件が起った。

さてお盆の5日間の夏期休暇が終って寮へ帰ってきた養成工達を待っていたものは職種決定のための適性検査であった。
 適性検査にはいろいろあり、握力や背筋力検査から始まって、平行棒や鉄棒、マット等を使っての運動能力検査、学科テストと多種多様であったが、圧巻はやはり身体検査、特にM検と痔、脱腸の検査である。
 戦時中、若い徴用工や養成工で性病にかかる者が実に多かったそうである。その頃はまだ赤線という公認売春があった為、寮生が夏期休暇の間に性病に罹患する事が心配された。「寮の外で夏季休暇の解放感を味った養成工がどんな悪い遊びをしてきたか分らない」、「厳重な身体検査と性病検査が必要である」、と労務課長が強く主張したため、この適性検査の時のM検は軍隊式以上のたいへん厳しくものであった。

 このときも私は進んで記録係を引受け医師の隣で逐一検査の様子を観察した。春の入社検査とは異なり外科検査場には紅白幕も衝立の囲いもなかった。
 全員が並んで待っている場所で、一斉に下着を取らせ全裸にした上で、順番に医師の前に立ち検査を受けさせた。
 まず入念に根本まで包皮をむき上げて亀頭部を診て、尿道口を指で開いて粘膜を調べる。その後、何度も陰茎を前後にしごき不審な粘液の漏出がないか、睾丸を握り痛みがないかを確認して性病検査を行った。陰茎検査が終ると四つ這いにさせて肛門を押しひろげ検査を行った。この時のM検はまさしく海軍工廠の規則どおり行われ、戦時中の徴兵検査と同じ方法であった。
 
 春のM検と違って顔を赤くしたり、小刻みに手足をふるわせて恥ずかしがる少年達はもはやいなかった。それよりも堂々と股間を突きだし、医師から執拗に何度も陰茎をしごかれるため、固く完全勃起させた少年が多く半数以上いた。M検に快感を感じ、一種の期待感をもつようになったためであったろうか
 18歳の甲種養成工に対しては尿道口に粘液が漏出するまで何度も何度も陰茎を入念にしごき、出てきた粘液を顕微鏡で見て性病検査をした。特別に丁寧な粘液検査を行ったので全員が勃起させていた。

7名無しさん:2020/07/26(日) 07:40:27 ID:DK9oyGfI
この頃から寮の中での養成工の自慰行為が教職員会議で問題になった。
 当時はオナニーとはいわず、自慰、手淫、自涜(じとく)等と呼ばれていたが、世間一般にも、自慰は体によくない事、体や心の発育に有害である、と考えられていた。したがって養成工達の自慰行為をなんとか押えるのも教職員の役割であった。

 たまたま夏の終わり頃、工場の作業現場で倒れる養成工が二人出た。直接の原因は高熱作業と高い温度とであったが、調べてみると前日の夜、寮で手淫をやっていたことが判った。同室の15歳と18歳の養成工が相互手淫をしていたのである。
 さっそく手淫対策が教職員会議の重要議題となった。丁度その頃、養成工の余暇指導のため、野外活動関係の書籍を集めていた私は、盆休みに神戸の実家へ帰ったとき、三宮附近の古本量で英文の米国ボーイスカウト用ハンドブックを手に入れ、読んでいたが、その中に
 「自慰は悪習であり、断固として男らしく闘わねばならない。悪習防止の訓練としては、夜寝る前に冷水を満した盥(たらい)の中に腰をつけ、足を外に出して腰部を冷やすのが有効である」
という記事があり、これにヒントを得て早速就寝前に冷水浴を実行させるよう進言した。
 この提案が採用され、寮の洗面所の前に大盥を二個備え付け、冷水を満たし、少年達を下半身裸にして腹水を使わせることとなった。足を外に出したまま股を開き、腰から下を冷水にひたす。股を大きく拡げないと、容赦なく舎監の竹刀が飛ぶのである。然し、水浴は結局永続きしなかった。秋風が吹く頃になると誰も嫌がってやらないのである。
 代って、舎監の手淫防止案が採用された。夜、養成工が寝るときはパンツ一枚の裸とし布団の上に両手を出させる。夜中に舎監が抜打ちに各部屋を巡回する。そして、朝の点呼のとき舎監がパンツに精液のシミがないかを点検するのである。同時に寮の大便所を改造し、扉の下部を30センチ程切詰め、外から用便者の臀部が覗けるようにした。このように養成工達の手淫は徹底的に管理された。

朝の点呼のとき、パンツに手淫の痕跡を発見されると、その場でのビンタだけではすまない。重い罰が加えられた。最初は舎監室で尻をムキ出しにして竹刀で殴るだけであったが、三度、四度の常習者に対しては、日曜日に特訓と称するシゴキが実施された。
 先ず、懲戒を受ける養成工は教習所付設の相撲場へ連れだされる。舎監や戦時中養成工教育を受けた二十才台の先輩達の手によりたちまち丸裸にされる。陰茎をむき上げて締込みをさせる。その上で一日中徹底的に稽古をつけられるのである。倒れると水をかけられる。竹刀で殴られる。遂にクタクタになり、手淫をする気もなくなる仕組みであった。
 しかし、それでも人生で最も精力旺盛な年令の少年達のことである。秘かに夜のベッドや朝の便所で手淫をする者が後をたたなかった。

8名無しさん:2020/07/26(日) 07:41:36 ID:DK9oyGfI
 さて翌年四月、二期生が入寮してからは年長養成工によるシゴキが激しく行われた。自分達が新人生時代に受けたM検を二期生に強制したり、舎監が不在の日には寮の廊下でヤカンがけ大会(勃起させた陰茎にヤカンをかけどれだけの重さまで持ちこたえるかを競う)が開かれたようだ。また二期生全員を全裸にしても姿勢矯正訓練も行われたと後日一期生から聞いた。

 寮での相互手淫は常識になっていたが、その程度はまだ手緩い方であった。
 二期生の適性検査のとき、同期生切っての美少年、小川の肛門にかなりひどい裂痔が発見されたのである。入社のときの身体検査では全く異常のなかった少年であった。
 医師が追及すると、小川は「相撲の締込がきつくて、擦れて傷がつきました」という。寮では一期生と二期生を一室に同居させていたので、多分に人為的な裂傷である疑いがあった。然し、本人は頑として「相撲で吊り上げられたときの傷です」と否定する。結局、それ以上の追求はできず、うやむやとなってしまった。

 二期生の適性検査のあと、しばらくした日曜日、私のアパートヘ一期生の甲種養成工岡田が遊びにきた。例の小川少年と同室の寮生である。岡田は漁師の子で腕力が強く、養成工の勝ち抜き相撲では何時も五人抜きの常連であった。暑い夏の午後でもあり、今のように冷房もない時代である。私もパンツ一枚、彼もパンツ一枚になって向き合っての雑談であった。
 話が二期生の適性検査のときのM検の実況談になると、彼のパンツの前が盛上ってくるのが判った。
とうとう自制しきれなくなった私はやおら右手で岡田のものをパンツの上から握ってみたが、彼は一寸表情を堅くしただけで逃げようともしない。押し倒してパンツを脱がせてみると、既に陰茎は屹立し、陰茎の頭は全く剥けて湿っていた。亀頭に指をふれると身体をよじらせる。彼の両手を後へ廻して日本手拭で縛り押えつけて俯伏せにし、「お前、小川にいたずらしたやろ」というと、耳まで赤くして「そやけど、してくれと頼まれたんや」と答える。「ウソツケ、小川がどんな痛い目したか、思い知れ」と、彼の肛門ヘ太い万年筆の軸を突込んでかき廻した。万年筆が思ったほど太くなかったためか、彼はあまり痛がらず身もだえしてハァハァと荒い息をしていたが、最後に身体をねじって横向きになると白い液を大量に噴射した。

9名無しさん:2020/07/26(日) 07:42:23 ID:DK9oyGfI
このような養成工残酷物語にも、少年達とのプレーにも、やがて終止符を打つときがきた。昭和三十年代後半、日本経済が高度成長期に入ると、高校、大学の進学率が高くなり、もはや学業、体力ともに優秀な養成工を採用することができなくなった。会社は養成工採用を打切り教習所は廃止され、私も新しい職務につくため工場を後にし、養成工の少年達と別れなけれはならなくなったのである。
 幾年月が流れ、私も熟年といわれる年令に達した。しかし今もなお瞳を閉じ、若かりし日々を憶うとき、必らず瞼に浮ぶのは、今は遠き養成工達の姿である。顔を赤らめ、身体を固くしながらも、パンツを脱ぎ、診察台に身を横たえ、初めてM検を受けたあの健気な少年達の姿である。

7月半ばになると合宿説明会があるからと関係者が公民館に集合しました。
このとき色々な説明や注意事項、今後の予定、各自治会の分担などが話し合われ、決まりました。

 説明会も終わって、学校の先生や自治会、婦人会の人が帰って行った後も我々は残されていました。
そして寺澤先生と受検者5人だけになると、先生は受験時の身体検査について話されました。

10名無しさん:2020/07/26(日) 07:43:31 ID:DK9oyGfI
「陸軍幼年学校の受験では、将来、軍人として将校になるのにふさわしい生徒を選抜するために厳密な身体検査が行われる。諸君らもすでに先輩に聞いて知っているとは思うが、身体検査においてはM検と言ってチンボコを詳しく見る検査も行われる。これはチンボコに病気がないか、十分発育しているかという事を調べるものである。
将校のチンボコが病気では軍人として勤まらないのは当然であるが、それだけでなく、チンボコや金玉の発育状態が将来、将校になるのにふさわしいかどうか詳しく徹底的に検査されるから覚悟しておくように。
 いまから受験の時とおなじように諸君らのチンボコの発育状態を検査して、問題があれば合宿までに医者に診てもらう事にする」
と言われました。

 そして先生は性器検査がどのように行われるか状況説明されました
 「性器検査では検査を受けている者の横に裸のまま並んで待つ。この時、前の者の検査をよく見て受検手順を覚え、間違えないようにすること。
 陰茎検査では包皮を剥き上げて強く握られる。このとき包茎であることは不合格にはならないが、剥き上げたとき痛がると病気と勘違いされて不合格になる可能性がある。だからすぐに剥けるように、また剥かれたとき痛くないように包茎は治しておかないといけない。
 次に金玉の検査をされる。普通の大きさの金玉が二つあれば合格だが片方しかないと不合格になる。同じように脱腸も不合格である。
 性器のあとは肛門検査となる。床に書いてある、手形と足形に合わせて股を広げ四つん這いとなって、脚をピンと伸ばして検査官に高く尻を突き出す。すると肛門をグィッと広げて検査される。痔があると減点となる。
 以上、陰茎検査、陰嚢検査、痔をみる肛門検査で性器検査は終了である。
病気でなければ不合格になることはないが、発育不全では得点が下がるので、包茎は医者に見せて治しておいた方がよいのだ。」
と先生は説明されました。我々5人は全員黙って話を聞いていました。
身体検査が終ると、全員工場の大浴場で入浴の作法を学ぶ。これは養成工担当の守衛が指導した。
 海軍下士官上りの守衛は最初から六尺褌一つになり、自分も浴場へ入り入浴作法を教える。先ず養成工達の頭を手拭でしっかり鉢巻きさせ、かかり湯をさせた上で浴槽へ入らせる。もちろん浴槽内で手拭を使うことは禁止である。養成工同士の背中の流し合いやシャワーのかかり方までこのとき習うのである。陰部を手拭で隠したり手で押えたりすることは厳禁である。そのためか入社当初、陰部露出を恥しがっていた養成工達も二ヶ月ぐらいたつと、浴場内を全開で堂々と歩き廻るようになり、包皮をむいて洗うようなことも平気になっていた。中には仲間同士くらべ合い、番付を作って回覧する者も出て、教職員会議の話題となった程である。

11名無しさん:2020/07/26(日) 07:44:14 ID:DK9oyGfI
養成工は全員工場附属の独身寮生活である。四人一室のベッド生活である。甲種、乙種を適当に取混ぜた部屋割りとした。
 舎監は姫路刑務所出身の看守上がりの中年者であった。独身寮では万事が軍隊あるいは刑務所式の号令である。毎朝の点呼では姿勢矯正が最大のポイントであった。起床後、廊下に整列し点呼を受けるが態度や姿勢が悪いと舎監の手にした竹刀が飛ぶのである。時にはズボンを脱がせて尻を叩くので、浴場では尻に青い筋が何条もついている養成工を見たものである。

 寮生活で最も重い罪は窃盗である。終戦後間もない頃で物資不足は深刻であり、工場内で物品や金銭の盗難が頻発していた。
 三回目の給料日の当日、恐れていた盗難事件が起った。場所は養成工寮、金額は現金三千円であった。当時の三千円は大金である。
 さっそく寮生全員が集められ、厳重な身体検査と所持品検査が実施されたが金は出てこない。結局凝わしい人物を全員で投票させることにしたところ、票はある特定の少年に集中した。この少年は西尾といい模範少年として中学校から推薦のあった子であった。西尾少年は舎監室へ呼ばれ私も立会人として入室した。
 舎監が激しく尋問するが、もちろん西尾は否認する。窃盗を認めれば会社を辞めなければならないことは誰でも知っているので本人も必死で知らぬ、存ぜぬの一点ばりである。
 業を煮やした刑務所看守出身の舎監は、「身体に聞いてみようか。」とすて台詞を残して部屋を出ていった。暫くして戻ってきたときは、木槌を持っていた。
 怪談な顔の私を見てニヤリと笑った舎監は、やおら本人の上着を脱がせ、シャツ、パンツもとり全裸にした。さらに両手を後に廻し縛りあげた。その上で陰茎を掴んで机の上に出させ、恐怖で縮んでいる陰茎の根元を左手で押えると、右手で木槌を握り亀頭めがけて振りおろした。ギャツと悲鳴をあげた西尾少年は二度、三度と打撃を受けると、最後には泣き出し、「すみません。借りただけてす。勘忍して下さい」というと、その場にヘタヘタと倒れてしまった。暫く寮で謹慎させることにしたが、数日後、労務課長の断が下り、荷物をまとめて淋しく工場を去っていったのであった。

 養成工は毎朝寮から工場まで学生服姿で列を組み出勤し、工場に着くとすぐに作業服に着替える。養成工の作業服の下着はインキンが寮に蔓延するのを防止するため越中褌と指定されていた。だから、更衣室では下半身裸になる。毎日、朝晩2回、陰部を露出する事になる訳である。下半身裸といえば検便もそうであった。私の在職中、二度ばかり寮で赤痢患者が発生したが、その都度、養成工全員缶詰めとなって保健所の検便を受けた。四っ這いのまま、裸の尻に検便棒を突込まれるのである。これも海軍式の検便検査である。この検査に興奮する少年もいて鉛筆を使っての検便遊びが流行し、後には年長の養成工が年少の後輩の肛門を掘るような事件が起った。

12名無しさん:2020/07/26(日) 07:45:39 ID:DK9oyGfI
身体検査が終ると、全員工場の大浴場で入浴の作法を学ぶ。これは養成工担当の守衛が指導した。
 海軍下士官上りの守衛は最初から六尺褌一つになり、自分も浴場へ入り入浴作法を教える。先ず養成工達の頭を手拭でしっかり鉢巻きさせ、かかり湯をさせた上で浴槽へ入らせる。もちろん浴槽内で手拭を使うことは禁止である。養成工同士の背中の流し合いやシャワーのかかり方までこのとき習うのである。陰部を手拭で隠したり手で押えたりすることは厳禁である。そのためか入社当初、陰部露出を恥しがっていた養成工達も二ヶ月ぐらいたつと、浴場内を全開で堂々と歩き廻るようになり、包皮をむいて洗うようなことも平気になっていた。中には仲間同士くらべ合い、番付を作って回覧する者も出て、教職員会議の話題となった程である。

 養成工は全員工場附属の独身寮生活である。四人一室のベッド生活である。甲種、乙種を適当に取混ぜた部屋割りとした。
 舎監は姫路刑務所出身の看守上がりの中年者であった。独身寮では万事が軍隊あるいは刑務所式の号令である。毎朝の点呼では姿勢矯正が最大のポイントであった。起床後、廊下に整列し点呼を受けるが態度や姿勢が悪いと舎監の手にした竹刀が飛ぶのである。時にはズボンを脱がせて尻を叩くので、浴場では尻に青い筋が何条もついている養成工を見たものである。

 寮生活で最も重い罪は窃盗である。終戦後間もない頃で物資不足は深刻であり、工場内で物品や金銭の盗難が頻発していた。
 三回目の給料日の当日、恐れていた盗難事件が起った。場所は養成工寮、金額は現金三千円であった。当時の三千円は大金である。
 さっそく寮生全員が集められ、厳重な身体検査と所持品検査が実施されたが金は出てこない。結局凝わしい人物を全員で投票させることにしたところ、票はある特定の少年に集中した。この少年は西尾といい模範少年として中学校から推薦のあった子であった。西尾少年は舎監室へ呼ばれ私も立会人として入室した。
 舎監が激しく尋問するが、もちろん西尾は否認する。窃盗を認めれば会社を辞めなければならないことは誰でも知っているので本人も必死で知らぬ、存ぜぬの一点ばりである。
 業を煮やした刑務所看守出身の舎監は、「身体に聞いてみようか。」とすて台詞を残して部屋を出ていった。暫くして戻ってきたときは、木槌を持っていた。
 怪談な顔の私を見てニヤリと笑った舎監は、やおら本人の上着を脱がせ、シャツ、パンツもとり全裸にした。さらに両手を後に廻し縛りあげた。その上で陰茎を掴んで机の上に出させ、恐怖で縮んでいる陰茎の根元を左手で押えると、右手で木槌を握り亀頭めがけて振りおろした。ギャツと悲鳴をあげた西尾少年は二度、三度と打撃を受けると、最後には泣き出し、「すみません。借りただけてす。勘忍して下さい」というと、その場にヘタヘタと倒れてしまった。暫く寮で謹慎させることにしたが、数日後、労務課長の断が下り、荷物をまとめて淋しく工場を去っていったのであった。

 養成工は毎朝寮から工場まで学生服姿で列を組み出勤し、工場に着くとすぐに作業服に着替える。養成工の作業服の下着はインキンが寮に蔓延するのを防止するため越中褌と指定されていた。だから、更衣室では下半身裸になる。毎日、朝晩2回、陰部を露出する事になる訳である。下半身裸といえば検便もそうであった。私の在職中、二度ばかり寮で赤痢患者が発生したが、その都度、養成工全員缶詰めとなって保健所の検便を受けた。四っ這いのまま、裸の尻に検便棒を突込まれるのである。これも海軍式の検便検査である。この検査に興奮する少年もいて鉛筆を使っての検便遊びが流行し、後には年長の養成工が年少の後輩の肛門を掘るような事件が起った。
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13名無しさん:2020/07/26(日) 07:46:47 ID:DK9oyGfI
さてお盆の5日間の夏期休暇が終って寮へ帰ってきた養成工達を待っていたものは職種決定のための適性検査であった。
 適性検査にはいろいろあり、握力や背筋力検査から始まって、平行棒や鉄棒、マット等を使っての運動能力検査、学科テストと多種多様であったが、圧巻はやはり身体検査、特にM検と痔、脱腸の検査である。
 戦時中、若い徴用工や養成工で性病にかかる者が実に多かったそうである。その頃はまだ赤線という公認売春があった為、寮生が夏期休暇の間に性病に罹患する事が心配された。「寮の外で夏季休暇の解放感を味った養成工がどんな悪い遊びをしてきたか分らない」、「厳重な身体検査と性病検査が必要である」、と労務課長が強く主張したため、この適性検査の時のM検は軍隊式以上のたいへん厳しくものであった。

 このときも私は進んで記録係を引受け医師の隣で逐一検査の様子を観察した。春の入社検査とは異なり外科検査場には紅白幕も衝立の囲いもなかった。
 全員が並んで待っている場所で、一斉に下着を取らせ全裸にした上で、順番に医師の前に立ち検査を受けさせた。
 まず入念に根本まで包皮をむき上げて亀頭部を診て、尿道口を指で開いて粘膜を調べる。その後、何度も陰茎を前後にしごき不審な粘液の漏出がないか、睾丸を握り痛みがないかを確認して性病検査を行った。陰茎検査が終ると四つ這いにさせて肛門を押しひろげ検査を行った。この時のM検はまさしく海軍工廠の規則どおり行われ、戦時中の徴兵検査と同じ方法であった。
 
 春のM検と違って顔を赤くしたり、小刻みに手足をふるわせて恥ずかしがる少年達はもはやいなかった。それよりも堂々と股間を突きだし、医師から執拗に何度も陰茎をしごかれるため、固く完全勃起させた少年が多く半数以上いた。M検に快感を感じ、一種の期待感をもつようになったためであったろうか
 18歳の甲種養成工に対しては尿道口に粘液が漏出するまで何度も何度も陰茎を入念にしごき、出てきた粘液を顕微鏡で見て性病検査をした。特別に丁寧な粘液検査を行ったので全員が勃起させていた。


 この頃から寮の中での養成工の自慰行為が教職員会議で問題になった。
 当時はオナニーとはいわず、自慰、手淫、自涜(じとく)等と呼ばれていたが、世間一般にも、自慰は体によくない事、体や心の発育に有害である、と考えられていた。したがって養成工達の自慰行為をなんとか押えるのも教職員の役割であった。

14名無しさん:2020/07/26(日) 07:49:43 ID:DK9oyGfI
 たまたま夏の終わり頃、工場の作業現場で倒れる養成工が二人出た。直接の原因は高熱作業と高い温度とであったが、調べてみると前日の夜、寮で手淫をやっていたことが判った。同室の15歳と18歳の養成工が相互手淫をしていたのである。
 さっそく手淫対策が教職員会議の重要議題となった。丁度その頃、養成工の余暇指導のため、野外活動関係の書籍を集めていた私は、盆休みに神戸の実家へ帰ったとき、三宮附近の古本量で英文の米国ボーイスカウト用ハンドブックを手に入れ、読んでいたが、その中に
 「自慰は悪習であり、断固として男らしく闘わねばならない。悪習防止の訓練としては、夜寝る前に冷水を満した盥(たらい)の中に腰をつけ、足を外に出して腰部を冷やすのが有効である」
という記事があり、これにヒントを得て早速就寝前に冷水浴を実行させるよう進言した。
 この提案が採用され、寮の洗面所の前に大盥を二個備え付け、冷水を満たし、少年達を下半身裸にして腹水を使わせることとなった。足を外に出したまま股を開き、腰から下を冷水にひたす。股を大きく拡げないと、容赦なく舎監の竹刀が飛ぶのである。然し、水浴は結局永続きしなかった。秋風が吹く頃になると誰も嫌がってやらないのである。
 代って、舎監の手淫防止案が採用された。夜、養成工が寝るときはパンツ一枚の裸とし布団の上に両手を出させる。夜中に舎監が抜打ちに各部屋を巡回する。そして、朝の点呼のとき舎監がパンツに精液のシミがないかを点検するのである。同時に寮の大便所を改造し、扉の下部を30センチ程切詰め、外から用便者の臀部が覗けるようにした。このように養成工達の手淫は徹底的に管理された。

朝の点呼のとき、パンツに手淫の痕跡を発見されると、その場でのビンタだけではすまない。重い罰が加えられた。最初は舎監室で尻をムキ出しにして竹刀で殴るだけであったが、三度、四度の常習者に対しては、日曜日に特訓と称するシゴキが実施された。
 先ず、懲戒を受ける養成工は教習所付設の相撲場へ連れだされる。舎監や戦時中養成工教育を受けた二十才台の先輩達の手によりたちまち丸裸にされる。陰茎をむき上げて締込みをさせる。その上で一日中徹底的に稽古をつけられるのである。倒れると水をかけられる。竹刀で殴られる。遂にクタクタになり、手淫をする気もなくなる仕組みであった。
 しかし、それでも人生で最も精力旺盛な年令の少年達のことである。秘かに夜のベッドや朝の便所で手淫をする者が後をたたなかった。

15名無しさん:2020/07/26(日) 07:50:56 ID:DK9oyGfI
さて翌年四月、二期生が入寮してからは年長養成工によるシゴキが激しく行われた。自分達が新人生時代に受けたM検を二期生に強制したり、舎監が不在の日には寮の廊下でヤカンがけ大会(勃起させた陰茎にヤカンをかけどれだけの重さまで持ちこたえるかを競う)が開かれたようだ。また二期生全員を全裸にしても姿勢矯正訓練も行われたと後日一期生から聞いた。

 寮での相互手淫は常識になっていたが、その程度はまだ手緩い方であった。
 二期生の適性検査のとき、同期生切っての美少年、小川の肛門にかなりひどい裂痔が発見されたのである。入社のときの身体検査では全く異常のなかった少年であった。
 医師が追及すると、小川は「相撲の締込がきつくて、擦れて傷がつきました」という。寮では一期生と二期生を一室に同居させていたので、多分に人為的な裂傷である疑いがあった。然し、本人は頑として「相撲で吊り上げられたときの傷です」と否定する。結局、それ以上の追求はできず、うやむやとなってしまった。

 二期生の適性検査のあと、しばらくした日曜日、私のアパートヘ一期生の甲種養成工岡田が遊びにきた。例の小川少年と同室の寮生である。岡田は漁師の子で腕力が強く、養成工の勝ち抜き相撲では何時も五人抜きの常連であった。暑い夏の午後でもあり、今のように冷房もない時代である。私もパンツ一枚、彼もパンツ一枚になって向き合っての雑談であった。
 話が二期生の適性検査のときのM検の実況談になると、彼のパンツの前が盛上ってくるのが判った。
とうとう自制しきれなくなった私はやおら右手で岡田のものをパンツの上から握ってみたが、彼は一寸表情を堅くしただけで逃げようともしない。押し倒してパンツを脱がせてみると、既に陰茎は屹立し、陰茎の頭は全く剥けて湿っていた。亀頭に指をふれると身体をよじらせる。彼の両手を後へ廻して日本手拭で縛り押えつけて俯伏せにし、「お前、小川にいたずらしたやろ」というと、耳まで赤くして「そやけど、してくれと頼まれたんや」と答える。「ウソツケ、小川がどんな痛い目したか、思い知れ」と、彼の肛門ヘ太い万年筆の軸を突込んでかき廻した。万年筆が思ったほど太くなかったためか、彼はあまり痛がらず身もだえしてハァハァと荒い息をしていたが、最後に身体をねじって横向きになると白い液を大量に噴射した。

16名無しさん:2020/07/26(日) 07:52:52 ID:DK9oyGfI
このような養成工残酷物語にも、少年達とのプレーにも、やがて終止符を打つときがきた。昭和三十年代後半、日本経済が高度成長期に入ると、高校、大学の進学率が高くなり、もはや学業、体力ともに優秀な養成工を採用することができなくなった。会社は養成工採用を打切り教習所は廃止され、私も新しい職務につくため工場を後にし、養成工の少年達と別れなけれはならなくなったのである。
 幾年月が流れ、私も熟年といわれる年令に達した。しかし今もなお瞳を閉じ、若かりし日々を憶うとき、必らず瞼に浮ぶのは、今は遠き養成工達の姿である。顔を赤らめ、身体を固くしながらも、パンツを脱ぎ、診察台に身を横たえ、初めてM検を受けたあの健気な少年達の姿である。
38: 名無しさん :2020/07/23(木) 14:10:25 ID:DK9oyGfI
7月半ばになると合宿説明会があるからと関係者が公民館に集合しました。
このとき色々な説明や注意事項、今後の予定、各自治会の分担などが話し合われ、決まりました。

17名無しさん:2020/07/26(日) 07:53:48 ID:DK9oyGfI
 説明会も終わって、学校の先生や自治会、婦人会の人が帰って行った後も我々は残されていました。
そして寺澤先生と受検者5人だけになると、先生は受験時の身体検査について話されました。

「陸軍幼年学校の受験では、将来、軍人として将校になるのにふさわしい生徒を選抜するために厳密な身体検査が行われる。諸君らもすでに先輩に聞いて知っているとは思うが、身体検査においてはM検と言ってチンボコを詳しく見る検査も行われる。これはチンボコに病気がないか、十分発育しているかという事を調べるものである。
将校のチンボコが病気では軍人として勤まらないのは当然であるが、それだけでなく、チンボコや金玉の発育状態が将来、将校になるのにふさわしいかどうか詳しく徹底的に検査されるから覚悟しておくように。
 いまから受験の時とおなじように諸君らのチンボコの発育状態を検査して、問題があれば合宿までに医者に診てもらう事にする」
と言われました。
そして先生は性器検査がどのように行われるか状況説明されました
 「性器検査では検査を受けている者の横に裸のまま並んで待つ。この時、前の者の検査をよく見て受検手順を覚え、間違えないようにすること。
 陰茎検査では包皮を剥き上げて強く握られる。このとき包茎であることは不合格にはならないが、剥き上げたとき痛がると病気と勘違いされて不合格になる可能性がある。だからすぐに剥けるように、また剥かれたとき痛くないように包茎は治しておかないといけない。
 次に金玉の検査をされる。普通の大きさの金玉が二つあれば合格だが片方しかないと不合格になる。同じように脱腸も不合格である。
 性器のあとは肛門検査となる。床に書いてある、手形と足形に合わせて股を広げ四つん這いとなって、脚をピンと伸ばして検査官に高く尻を突き出す。すると肛門をグィッと広げて検査される。痔があると減点となる。
 以上、陰茎検査、陰嚢検査、痔をみる肛門検査で性器検査は終了である。
病気でなければ不合格になることはないが、発育不全では得点が下がるので、包茎は医者に見せて治しておいた方がよいのだ。」
と先生は説明されました。我々5人は全員黙って話を聞いていました。

18KTちゃん ◆bmH0nljhms:2025/08/06(水) 22:23:54 ID:73g5ALVE
やっほー


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