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テストスレッド

897名無し市民さん@12/24に短編祭開催。詳細はやる夫短編集まで:2015/11/23(月) 07:53:49 ID:v/r/y/4M0

 
 
980 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 10:15:46.45 ID:K+FZKL4Q
ところで中国の精緻な青銅器は、周辺各国や欧州と比しても段違いの出来です。
迷路のように鼎の表面を埋める渦模様は、明らかに古代を超越しています。
これがどうして出来たか。
それもまた大河の恵みでした。
チベットの山地から、数千㌔をゆったりと流れる大河は、
岩を石ころにかえ、砂にかえ、
そしてついにはまるで粒が見えないほどの微粒の砂に変えました。
これを練り上げて文様の入った金型を作るのですから、精緻にもなるというもの。
しかし、乱伐がたたり、表土が流れ、農業が廃れるとともに、
河北の諸国は零落し、秦に掠め取られていきます。
秦王政が革命的人物だった、というのもあるでしょうが、
黄河文明の宿痾が露呈して戦国時代は終わるべくして終わったのです。
黄河に雨と共に土が濁流として流れ込み、
豊かな湿地帯と川原は消えてゆきました。
川原が無くなり、青銅器に必要な砂も採れなくなりました。
こうして青銅器の時代は終わったのです。
(いまでも旧河道の下から、この砂が出土します。
人工と見紛うほどの美しい砂です。)

戦国時代半ばから青銅器から画像磚に移行し、建材としても磚は多用されました。
秦始皇帝は統一の象徴に、王の道と巨大な王宮を建造しますが、
ここで用いられたのは最低限の柱と梁以外はもはや磚や石でした。
重くなる建物を支えるため、土台となる部分は、
秦全土から残り少ない木材を掻き集めて、
人民を酷使して作り上げました。これは今も西安城外に残っています。
同じように始皇帝陵も作られました。
あのピラミッド型の山は、版築で作り上げた数十段の築山です。
こうして秦は、最後の森を伐り尽くし、ついに三代で潰えたのです。

 
985 名前:日出づる処の名無し[sage] 投稿日:2013/07/17(水) 10:23:52.73 ID:K+FZKL4Q
漢は全土を大乱に巻き込み、わずかな希望をまとめあげながら生まれました。
疲弊のどん底が生んだ平和と安定だったのです。
もはや河北のどこをみても木造建築はありませんでした。
我々の先入観から見れば、磚のような建材は貴族の使うもので、
民はあばら家、と思いがちですが、
木材こそ残り少ない高級希少資材であり、
一般市民は塗り壁と磚で出来た家にすんでいたのです。
漢代500年かけて、人間の力で荒れ果てた大地をなんとか繕い、
漢は繁栄を極めました。
しかし、人工の自然のうえに成り立つ繁栄は脆いものです。
繁栄の奢り、腐敗、怠慢が再び手抜きから大地を荒らし、そして漢の瓦解、
三国志前史の暗澹たる時代に滑り落ちてゆくのです。
中国において河北が隆盛したと思えば、また惨澹たる地獄になるのはこのためです。
こんな感じで、文化とキーワードから歴史をひもといていきます。
 
ちなみに記憶を頼りに書いたので間違ってたりうろ覚えの箇所があります。
ご注意ください。


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