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うにゅほとの生活4
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うにゅほと過ごす毎日を日記形式で綴っていきます
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2021年7月27日(火)
「──◯◯」
肩を叩かれ、はっと目を覚ます。
「いすでねたら、からだいたくするよ……?」
「……寝てた?」
「ねてた」
姿勢を正す。
首が痛い。
「めずらしいね、いすでねるの」
「気付いたら寝てた……」
「おつかれ?」
「疲れることはしてないんだけど」
「きのう、えあろばいく、すーごいこいでた」
「たしかに二時間くらい漕いでたけど、そこまで珍しいことじゃないし……」
「そだね」
「冷房病でもないよな。エアコンはつけてたけど、除湿で、過度に冷やしてないし」
「うん、ちょうどいい」
「××、体調は?」
「いいよ」
「だよな」
たいへんよさそうだ。
「◯◯、おでこだして」
「ああ」
前髪を掻き上げると、うにゅほが額に手を当てた。
「ねつないし……」
「俺も、体調は悪くない。ただただ眠い……」
「まだねむい?」
「まだまだ眠い」
「これは、ねたほういいですねえ……」
「ですね……」
寝ないと日常生活に差し障るレベルだ。
「じゃあ、仮眠取ろうかな」
「うん」
「三十分くらいしたら、起こして」
「はーい」
ベッドに戻り、目を閉じる。
だが、次に目を覚ましたのは三時間後だった。
うにゅほが起こしてくれなかったのではない。
いくら起きようと頑張っても、眠気が取れてくれなかったのだ。
起きたあとはさっぱりしていたので、単純に睡眠が足りていなかっただけらしい。
ちゃんと寝ているつもりなんだけどなあ。
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2021年7月28日(水)
アップルウォッチが届いた。
自分の手首に合わせ、うにゅほが目をまるくする。
「わ、おっきい!」
「俺のはもっと大きいぞ。44mmだから」
「すーごいおっきい……」
設定等を済ませ、アップルウォッチを装着する。
「すこし、おもいかも」
「慣れかな」
「そだね」
うにゅほの手を取り、竜頭を押す。
すると、さまざまなアプリケーションが表示された。
「これ、きのう?」
「そうみたい」
「おしてみていい?」
「××のだからな。好きにしたらいい」
「うーと、これ」
うにゅほが開いたのは、タイマーだ。
「いっぷん、さんぷん、ごふん、じゅっぷん」
「時間が経ったらアラームが鳴るのかな」
「さあー」
「一分でやってみよう」
「うん」
タイマーを一分にセットすると、カウントダウンが始まった。
一分後、
「──わ!」
うにゅほが、軽く身をよじった。
「どした?」
「ぶるぶるしてる!」
「どれ」
うにゅほのアップルウォッチに触れると、軽く振動していた。
これは、くすぐったいかもしれない。
「おと、ならないんだね。しずかでいいかも」
「仮眠しやすくなるな」
常に装着しているため、iPhoneよりも手軽にさまざまな機能を利用できそうだ。
「アクティビティって、これ、運動かな」
「なんか、まるみっつあるね」
「えーと」
検索してみる。
「赤が消費カロリー、緑がエクササイズ、青がスタンド」
「すたんど」
「一時間に一回は立って動き回ろう、みたいな」
「ほー」
「このリングを毎日完成させれば、健康になれるかも」
「がんばろう!」
「おう」
まだまだ機能はたくさんあるが、使いこなせるのはいつになることか。
ただ、現時点ですら明らかに便利である。
少々高い買い物ではあったが、元は取れそうだと思った。
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2021年7月29日(木)
「──…………」
左手首の振動に、目を覚ます。
「あ、おはよ」
「仮眠だけどな」
「かみんでも、おはよう」
「おはよう」
「よろしい」
iPhoneを手に取り、専用のアプリを起動する。
「──お、今の仮眠も睡眠時間として記録されてるぞ」
「すごい」
「すごいな」
「まえの、かみん、かぞえてくれなかったもんね」
「前の活動量計より高精度みたいだ」
「さすが、あいふぉんのとこ」
「Apple」
「あっぷる」
「高いだけはありますな」
「ごまんえんしただけはありますな」
「電池はあまり持たないけど、風呂入ってるときにでも充電しておけばいいし」
「ね」
「普通に日常生活を送る限りは、特に困らないかな」
「これね、もじばんかえれるんだよ」
「らしいな」
「かえよう!」
「iPhoneから設定できるし、ざっと見てみようか」
「うん」
アプリから文字盤ギャラリーを開くと、うにゅほがiPhoneを覗き込んだ。
画面をスワイプし、無数の文字盤を眺めていく。
「あ、ミッキーある」
「する?」
「しない」
「だよな」
うにゅほ、べつにミッキーマウス好きじゃないし。
「たくさんあって、えらべない……」
選択肢が多いほど、人は悩む。
難しいものだ。
「俺は、機能重視かなあ。情報が多いほうがいい」
「どれ?」
「この、インフォグラフってやつとか」
うにゅほが眉をひそめる。
「……なにがなにやら」
「××はシンプルなのにしたら?」
「おそろいがいい」
「なら、もうすこし情報量の少ないのにしようか」
「うん」
結局、試しながら変えていくことにした。
試行錯誤も楽しいものである。
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2021年7月30日(金)
「生サーモンの日」
「なまサーモンのひ」
「7月30日は、生サーモンの日だ」
「なま、さー……」
うにゅほが小首をかしげる。
「もん?」
「モン」
「……もん?」
「俺も同じ気持ちだよ」
「むりがある」
「7と3まで合ってるんだし行ける行ける、行ったれ! って感じのゴリ押し感があるよな」
「なな、さんで、しちがつみっかにすればよかったのに」
「たしかに。諦めたほうが、いっそ潔い」
「むりあるパターン、にんていです」
認定された。
うにゅほが冷凍庫を開ける。
「ガリガリくん、たべる?」
「食べる食べる」
「はい」
ガリガリ君を二本取り出し、片方を俺に差し出してくれる。
「たくさんかったねえ」
「コンビニの、あるだけ買ったからな」
一気に十本以上購入したのではないだろうか。
数えていないので、わからない。
「たべすぎたら、だめだよ。からだひえる」
「はーい」
エアコンは適度だし、扇風機も併用している。
暑すぎず寒すぎず、自室は快適だ。
一歩でも部屋を出ると、汗が噴き出すけれど。
ガリガリ君を囓りながら、うにゅほが口を開いた。
「ことし、ほんとあついね……」
「六月くらいから兆しはあったけど、すごいな。エアコンつけっぱなしだ」
「へやからでれない」
「不要不急の外出するなって言うんだから、いいんじゃないか」
「ね」
俺たちインドア派である。
感染者が増える一方の昨今ではあるが、引きこもりの力で頑張っていこう。
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2021年7月31日(土)
「××ちゃんさん、××ちゃんさん」
「はーい」
「七月が終わるんですけど……」
「おわるね」
「どうして?」
「すぎたから……」
「一ヶ月、早すぎない?」
「それはおもう」
「あっと言う間だよな」
「うん……」
うにゅほが、俺の肩にあごを乗せる。
「どした」
「べつに」
そのままチェアをくるりと回し、俺の膝に腰掛ける。
「どした」
「べつに」
「なんか見る?」
「みるみる」
「怪談かな」
「かいだんいがいで」
「怖い話とか」
「おなじ……」
「じゃあ、何がいい?」
「むかしのゲームのやつとか」
「××、意外とそういうの好きだよな」
「◯◯の、こどものときのでしょ」
「ああ」
「しりたい」
「物好きだなあ……」
「◯◯の、いちばんすきなゲーム、てんちそうぞうだっけ」
「よく覚えてたな」
「にばんめが、くろのとりがー」
「よく覚えてるな……」
「てんちそうぞう、きになる」
「攻略本あるけど」
うにゅほが小首をかしげる。
「こうりゃくぼん?」
ああ、そうか。
攻略本という文化自体が廃れて久しいもんな。
「ゲームをクリアするためのガイド本、みたいな」
「ほー」
「まあ、雰囲気だけでも感じ取れると思うよ」
「みたい」
「たしか、このへんに──」
うにゅほを膝に乗せたまま、本棚を漁る。
「ほら」
「てんちそうぞう、わーるどあとらす」
「お読み」
「うん」
うにゅほが、俺の膝の上で、天地創造の攻略本を読み始める。
説明書。
攻略本。
読むだけでわくわくした子供時代を、すこしだけ思い出すのだった。
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以上、九年八ヶ月め 後半でした
引き続き、うにゅほとの生活をお楽しみください
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2021年8月1日(日)
「ふへー……」
トイレから帰ってきたうにゅほが、冷蔵庫を開く。
冷えた麦茶をグラスに注ぎながら、呟くように言った。
「きょうも、あちーねえ……」
「最高気温は?」
「うと、たしか、さんじゅうさんど」
「やべえな」
「やべー」
「エアコンが快適過ぎて、外出られないよ……」
「ほんとだね」
うにゅほが、俺の座るパソコンチェアをぐるりと半回転させ、膝の上に腰掛けた。
「はい」
「はい」
チェアを元の向きに戻し、再びマウスを手に取る。
「最近、YouTubeばっか見てるなあ」
「どうが、たくさんあるもんね」
「すべての動画を視聴しようと思ったら、人生の一回や二回費やしても到底足りないらしいからな」
「え、すごい」
「しかも、毎秒増えていくから、永遠に追いつかない」
「やべー」
「宇宙の膨張速度を彷彿とさせるなあ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「宇宙は、光速を超える速度で膨張してるって話」
「そなの?」
「物体は、光速を超えて運動することはできない。これは知ってるだろ」
「うん」
「今から頑張って宇宙の果てを目指そうにも、果ては光速以上の速度で離れていくから、決して辿り着くことはできない」
「あ、ゆーちゅーぶとおなじだ」
「似てるよな」
「なるほどー」
「辿り着けないほど遠くに、別の宇宙があるって考え方もあるぞ。多元宇宙論っていうんだけど」
「へいこうせかい?」
「とは、ちょっと違う。宇宙のインフレーションが今も続いていると仮定して──」
さして興味もないであろう宇宙の話を、うにゅほは真面目に聞いてくれる。
それが、とてもありがたかった。
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2021年8月2日(月)
「──…………」
死んだ目でディスプレイを見つめたあと、無言でうにゅほを手招きした。
「?」
「これ」
「しゅうかんてんき……」
「明日の最高気温は?」
「うあ、さんじゅうよんど!」
「明後日は」
「さんじゅうにど」
「明明後日」
「さんじゅうさんど……」
「今週は、死人が出るぞ」
「でるかも……」
「今年、ひどいな。マジで」
「すーごいあつい」
「エアコンなしでー、なんて言ってられないぞ」
リフォームをする前は、自室にエアコンなんてものはなく、扇風機だけで一夏をやり過ごしたものだ。
以前の生活を懐かしみ、年に一度くらいはエアコンを禁止してみたりするのだが、今年は無理だ。
命に関わる。
「エアコンつけてよかったな、ほんと」
「もうもどれない……」
「人はこうして堕落していくんだ」
「ぶんめいさいこう」
「機械帝国の逆襲」
「なにされるの……」
「エアコン様をうちわで扇がされる」
「いみあるの、それ」
「さあ……」
「やだな」
「俺だって嫌だよ」
完全に頭を使っていない会話を交わしながら、爪先で扇風機をつける。
「設定温度高めで、扇風機で調整するのが体にいいと思うんだよ」
「たしかに……」
「ほら、おいで」
「ん」
うにゅほが膝に腰掛ける。
最近、何かとくっつきたがりのうにゅほだった。
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2021年8月3日(火)
デスクに突っ伏し、口から魂と共に言葉を漏らす。
「だッ、るうー……」
「だいじょぶ……?」
「だめかも」
「ねつは」
うにゅほの冷たい手のひらが、俺の額に触れる。
「うん、ねつなさそう」
「夏バテかな……」
「ずっと、あちーもんね。ことし、すごい」
「うん……」
連日の真夏日だ。
元より体の弱い俺のこと、体調を崩すのも無理からぬことだろう。
「××は大丈夫……?」
「わたし?」
「ああ」
「わたし、げんきだよ。すごい?」
「すごいすごい」
さすが健康優良児である。
「──そうだ。今日、定期受診の日だった」
「あー」
「最近、混んでて嫌なんだけど、薬切れたら困るしな。行かないと」
「わたしもいくね」
「ああ」
今更、うにゅほに遠慮したりはしない。
予約した時刻にかかりつけの病院へ向かうと、既に多くの患者が待合室で順番を待っていた。
「──…………」
「つらい?」
「すこし……」
「テーブルあるとこ、いこ。ねれるよ」
「うん……」
テーブルに身を預け、目を閉じる。
「──ああ、そうだ」
ポケットを漁り、こんなこともあろうかと持ってきておいたイヤホンをうにゅほに差し出す。
「?」
「……俺、寝てるとき、暇だろ。なんか見るなり聞くなりさ」
うにゅほが、慈しむような笑みを浮かべる。
「ありがと」
今日は、結局、一時間半ほど待った。
前はこんなに混まなかったんだけどなあ。
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2021年8月4日(水)
新しいキーボードが届いた。
Amazon特有のクソデカダンボール箱を開封し、中身を取り出す。
「今回のキーボードは、ゲーミングだぞ」
「げーみんぐ」
「ゲームに特化した製品ってこと」
「◯◯、あんましゲームとかしない……」
「そうだけど」
「ひつよう?」
「必要!」
今回購入したのは、ロジクールのG913TKLだ。
薄型のキーボードで、アルミ製の本体の上にすっきりとしたデザインのキーが並んでいる。
「あ、かっこいいかも」
「だろ?」
電源を入れる。
「ほら、文字も光るんだぞ」
「ひつよう?」
「いや、俺も大して必要ないと思ってたんだけどさ……」
USBレシーバーを接続しながら、説明する。
「××が寝たあと、部屋暗くするだろ」
「きにしなくていいのに」
「気にするの」
「そか」
「そしたら、どれがどのキーかわからなくなるんだよな……」
「あー」
「ゲーミングには大して興味ないけど、光ったら便利かなって」
「べんりかも……」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「でも、さんまんえんはたかい」
「それはそう」
「でも、◯◯、きーぼーどすきだもんね……」
「はい」
キーボード沼にそこそこ浸かっている自覚がある。
「しかたないか」
「理解を示していただいて、ありがとうございます」
「しばらく、だめだからね」
「さすがに、このクラスのキーボードをほいほい買い替えたりしないよ」
「なんこあったっけ」
「ははは」
笑って誤魔化す。
「もー……」
それで済ませてくれるあたり、うにゅほも甘い。
頑張って働こう、うん。
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2021年8月5日(木)
「……スネが痛い」
「すね?」
「ヒリヒリする」
「みして」
作務衣の裾を上げ、つるつるのスネをうにゅほに見せる。
見た目から何から暑苦しいので、しばらく前からスネ毛を剃っているのだ。
「あ、ちょっとあかくなってる」
「カミソリ負けしたみたい」
「おろないんぬるね」
「お願いします」
うにゅほが、軟膏をたっぷり指に取り、俺のスネにぺとりと塗る。
「◯◯、かみそりに、よくまけるねえ」
「剃り方が下手なんだろうな」
「シェーバー、すねにはつかわないの?」
「使ってもいいんだけど、範囲が広いからさ。すぐ洗浄する羽目になって面倒くさい」
「でも、まけるよりいいきーする」
「そうかもなあ……」
「かとう」
「敵前逃亡のような気がするけど」
「ひだりあし、だして」
「はい」
左足にも同じく軟膏を塗っていく。
「シェーバー、風呂でも使えるんだよ」
「あぶなくないの?」
「本体は水につけちゃダメだけど、剃るところは大丈夫みたい」
「それるの?」
「剃れることは剃れるけど、剃れたかどうか確認できない」
「あ、めが……」
「うん。風呂場で眼鏡掛けたら曇るから」
「それはだめだ」
「T字は泡の形でわかるからT字で剃ってたんだけど、やっぱシェーバーかな。毎回ヒリヒリしてるし……」
「わたし、シェーバーあらう?」
「いや、さすがに」
おんぶに抱っこが過ぎる。
「シェーバーあらうの、たのしそう」
「どこが……?」
「なんとなく」
うにゅほにかかればなんでも楽しそうになってしまう。
日常の小さなことに楽しみを見出す天才なのかもしれない。
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2021年8月6日(金)
「奇妙奇天烈摩訶不思議」
「!」
「奇想天外四捨五入」
「でーまえじんそくらくがきむようー」
「ドーラえもんー、ドーラえもんー」
「ほんわかぱっぱ、ほんわかぱっぱ、ドーラえもんー」
「テレレレレン」
「でーん」
熱い握手を交わす。
「さすが××だ」
「うへー」
照れたように笑ったあと、うにゅほが小首をかしげる。
「なんでドラえもん?」
「暑いから……」
「あー」
特に理由はない。
強いて言うなら、夏が言わせたのだ。
「ほんわかぱっぱって、なに?」
「意味はないんじゃないか」
「そか……」
「パッパで思い出すのは、はじめちょろちょろ中パッパだよな」
「なにそれ」
「はじめちょろちょろ中パッパ、赤子泣いても蓋取るな。美味しくごはんを炊くための手順かな」
「ごはんとかんけいが」
「こう考えると、ホンワカの部分も、ごはんの湯気のように感じられる」
「やはりかんけいが……」
「でも、意味はないんだろうな」
「でまえも、ししゃごにゅうも、かんけいないもんね」
「あれは、語呂のいい四字熟語を適当に並べ立てただけだしな」
「でも、なんかあたまにのこるから、すごい」
「わかる」
「こどもも、すぐ、おぼえられそう」
「実際、俺もすぐ覚えた気がするよ。この歌の世代じゃないけど……」
「ちがうの?」
「俺がその歌を初めて聞いたのは、ドラえもんの古い映画を観たときな気がする」
「じゃ、◯◯のとき、どんなうた?」
「えーと……」
しばし思案し、
「パッと思い出せるのは、ともだちー、ともだちー、みたいな歌」
「しらない……」
「オープニングに比べてエンディングって印象薄いよな」
「わかる」
しっとり聞かせるバラードが多かったりするのも理由のひとつかもしれない。
「◯◯のときのうた、きかして」
「YouTubeにあるかな……」
検索すると、あった。
YouTube、わりとなんでもあるなあ。
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2021年8月7日(土)
目蓋を思いきり閉じ、開く。
それを幾度も繰り返しながら、呟いた。
「……なんか、目が疲れてる気がする」
「めが」
「休みだからって、寝過ぎたかな」
「そうでもないきーするけど……」
「ほら」
iPhoneを手に、専用のアプリを開く。
「六時間十八分……」
「もっとねよ?」
「おかしいな。寝過ぎたときの感じなんだけど」
うにゅほが冷蔵庫を開く。
「はい、めぐすり」
「ありがとう」
目薬をさすが、特に変わりはない。
「うーん……?」
困った。
どうしようかと悩んでいると、
「あれ?」
うにゅほが、俺の頬を両手で挟んだ。
そして、俺の目をじっと覗き込む。
「……その、××さん?」
さすがに照れる。
「◯◯、したまぶたのここ、はれてる」
「腫れてる?」
「うん」
卓上鏡を手に、左目の目頭付近を確認する。
「……本当だ、腫れてる」
触れるとしこりのように固く、軽く痛む。
「ものもらい、か……?」
「ものもらい」
「聞いたことない?」
「あるけど、よくしらない」
「俺もよく知らない。なったことないし……」
「うと、なおるびょうき……?」
「放っておいても治ったはず。薬があれば、早く治る」
「くすり、もらおう」
「今日、眼科やってないぞ」
「──…………」
「明日も明後日もやってない」
「◯◯、きんようのよるとか、どようびとか、びょうきなるのおおい」
「……うん」
うにゅほの言う通り、すぐに病院へ行けないタイミングで体調が悪化することは多い気がする。
前世で何か悪いことでもしたのだろうか。
「かようび、がんかいこうね」
「そうだな。良くならなかったら、そうしよう」
「うん」
ただのものもらいでも、目の病気は怖い。
大したことありませんように。
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2021年8月8日(日)
今日も暑い。
暑くてたまらなかったので、アイスを買いにコンビニを訪れた。
「おお。このSUNAOってアイス、80kcalしかないぞ」
「え、すごい」
「ガリガリ君に毛が生えたくらいのカロリーで、バニラが食べられるなんて……」
「かってこ」
「ガリガリ君もガリガリ買っていこう」
「うん」
買い物カゴに遠慮なくアイスを放り込んでいく。
「よし、こんなもんかな」
「しばらくもつね」
「しばらくって言っても、一週間は──だッ!」
うにゅほと雑談を交わしながらアイスケースの蓋を閉めようとして、思いきり親指の爪の甲を挟んでしまった。
「つー……」
「みして!」
「いや、大したことないから」
「いいから」
「──…………」
周囲を見渡すと、店員がこちらから目を逸らした。
すこし恥ずかしい。
「ちーはでてないけど……」
「大丈夫大丈夫。さっさと買い物済ませよう」
「うん。いたかったら、いってね」
「わかった」
会計を済ませ、車中に戻る。
「──…………」
爪の甲を押すと、けっこう痛い。
思いのほか強く挟んだらしい。
「いたい……?」
「すこし」
「びょういん、いく?」
「爪の形が変わるほどなら行くべきだと思うけど、ちょっと痛いだけだからな。お医者さんも処置に困るだろ」
「そか……」
「しかし、目は痛いわ指は痛いわ散々だな……」
指は自業自得だけれど。
「きーつけてね?」
「うん」
その後、普段より二割増しの安全運転で帰途についた。
事故ったら、それこそ洒落にならない。
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2021年8月9日(月)
「◯◯、めーみして」
「はい」
眼鏡を外すと、うにゅほが俺の左目を覗き込んだ。
顔が近いので、少々照れる。
「はれ、すこしひいたかも」
「本当?」
「わかんない。きのせいかも……」
「病院行かなくていい?」
「それはいこ」
「はい」
面倒だが仕方あるまい。
目の病気は怖いものな。
「おやゆび、みして」
「はい」
うにゅほに右手を差し出す。
「つめんとこ、ちょっと、いろかわってるね……」
「すこしだけな」
爪の甲を、優しく押す。
「いたい?」
「昨日は痛かったけど、今日はさほど。指挟んだだけだし、こんなもんだよ」
「おととい、めで、きのう、ゆび。きょう、きーつけてね?」
「さすがに三日連続はないでしょ」
「ゆだんきんもつ」
「うん……」
これで足の小指でもぶつけたら、間抜けもいいところだ。
「××、こういう怪我しないよな」
「そかな」
「痛いとこある?」
「あるよ」
「どこさ」
「ゆび」
「見せて」
「はい」
うにゅほの手の取り、検める。
「怪我とかはなさそうだけど……」
「ちょびっとふかづめしたの」
「あー」
たしかに、爪が短い。
「白い部分との境目まで切ろうとすると、深爪気味になるよな」
「うん……」
「気を付けましょう」
「はい」
「そうだ。そろそろ足の爪切ろうか?」
「おふろあがったらね、おねがい」
「わかった」
ひとまず明日は眼科へ行こう。
目薬でも処方してもらえれば、うにゅほも安心するはずだ。
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2021年8月10日(火)
眼科での診断は、やはりものもらいだった。
処方してもらった目薬をさし、ほっと一息つく。
「大したことなくて、よかったよな」
「ほんと」
「病院行かなくても大丈夫だった気はする。もう治りかけてるし」
「いかないと、だめ。けっかろんだよ」
「はい……」
うにゅほの言う通りだ。
今回はたまたまものもらいだったが、もっと重篤な病気である可能性だってあった。
素人が勝手に判断しても、ろくなことはない。
「しッかし、雨すごいな……」
「ね」
大きい雨粒が、ぼたぼたと屋根を叩いている。
「あめ、ひさしぶり」
「たしかに」
「すずしくて、いいかも」
「空気は湿るけど、気温が低ければ問題ないしな」
「まどあけていい?」
「いいよ」
うにゅほが南東側の窓を開ける。
土砂降りの雨音が、より一層大きくなった。
「おー……」
「なんか、いいな。この感じ」
「うん、いい」
暑い夏とはまた違う、夏の一側面だ。
「あ、そだ。あした、はかまいりだよ」
「……そうだった」
楽しげなうにゅほとは裏腹に、一瞬で気分が萎える。
「はかまいり、きらい?」
「好きではない」
「すきではないかー」
「イベント感はあるけど、やっぱ遠いからな。三時間はつらい」
行き先に華があれば道中も楽しめるというものだが、墓で、寺で、これ以上ないほど辛気くさい。
「さっと行ってさっと帰ってくるらしいから、それだけが救いかな」
「そか……」
やはり、家がいちばんである。
お盆休みものんびりしていきたい。
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2021年8月11日(水)
「ふひー……」
ベッドに倒れ込む。
「疲れた……!」
毎年恒例、父方の墓参りから帰宅したところなのだった。
「おつかれさま」
ぽん、ぽん。
うにゅほが背中をさすってくれる。
「後部座席で寝てただけだけどな……」
お疲れさまを言うべきは、ずっと運転していた父親である。
「でも、おつかれだもん。おつかれのひとには、おつかれさまっていうんだよ」
「××は疲れてないのか?」
「ちょっと……」
うにゅほの手を引く。
「わ!」
俺の隣に倒れ込んだうにゅほに、腕枕をする。
「××も、お疲れさま」
「ん」
「楽しかった?」
「たのしかった!」
「そっか」
うにゅほにとって、墓参りとは、数少ない非日常だ。
元より少ないものがコロナ禍によってさらに数を減じているのだから、今日という日は特別だったに違いない。
「しかし、早く帰ってこれてよかった……」
「まだあかるいもんね」
「朝の六時半に出発して、夕方五時に帰宅。悪くない」
「わるくない」
ふと思う。
「……××は、早く帰ってこれて残念?」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なんで?」
「いや、楽しい時間は長いほうがいいのかなって」
「きょう、ちょうどいいとおもった。たのしかった」
「そっか」
なら、よかった。
「おひるのそば、おおかったね!」
「多かった多かった。でも、美味かったな。質より量かと思いきや、質もよかった」
「うん、またたべたいな」
「来年かな」
「とおいもんね……」
「蕎麦食べるのに三時間はちょっと」
「うん」
夏の山場は越した。
あとは楽しいお盆休みだが、同時に夏の終わりも見えてきてしまった。
嬉しいような、寂しいような。
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2021年8月12日(木)
「──お盆休み、だッ!」
「おおー」
謎のポーズを取りながらお盆休みを宣言した俺に、うにゅほが拍手を送ってくれた。
「おぼんやすみ、いつまで?」
「火曜日まで」
うにゅほがカレンダーに視線を送る。
「いち、にー、さん、よん、いつか!」
「五日間だな。もうすこし欲しいところだけど、わがままは言うまい」
「ね、なにする?」
「と言っても、コロナだからな。出掛ける気はあんまりないけど」
「そだね」
「××。何かしたいこと、してほしいことはある?」
「うと」
しばし思案し、うにゅほが答える。
「めぐすり」
「目薬……」
「きょう、まださしてないしょ」
「あー」
軽いものもらいだったため、もうほとんど治りかけである。
「ゆだんしたら、だめだよ」
「はい……」
処方された目薬をさす。
「えーと、そういうことではなくてですね」
「わかってるけど、きになって……」
「それは申し訳ない」
「わたしは、◯◯がげんきにすごしてくれれば、それで」
「保護者目線……?」
「◯◯は?」
「俺も、××が元気に過ごしてくれれば、それで」
「あ、まねした」
「真似してみました」
「おそろいだ」
「お揃いだな」
「元気に過ごすため、アイスでも買ってくるか」
「うん」
「今日、やけに涼しいけどな……」
「わっかない、さんどだって」
「──…………」
聞き間違えたかな。
「ごめん、もっかい」
「わっかない、さんど。しもおりたって」
「ええ……」
わからない。
今年の気候が、わからないよ。
「……大丈夫かな、地球」
「うん……」
つい、地球規模の心配をしてしまうのだった。
-
2021年8月13日(金)
「──あ、十三日の金曜日だ」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「きんようびだね」
「十三日の金曜日」
「……?」
「十三日の金曜日、知らない?」
「なにかあるの?」
「ジェイソン」
「うーと、なんか、かめんかぶった……」
「ホッケーマスクをかぶった殺人鬼な」
「それ」
「ジェイソンの出てくる映画のタイトルが、十三日の金曜日なんだよ」
「そなんだ」
「××、世代じゃないからな……」
俺も世代ではないけれど。
「じぇいそん、すき?」
「好きも嫌いも、よく知らない」
「しらないの」
「観たことないし……」
「みたことないの……」
「だって、俺の産まれる前の映画だぞ。続編は出てるけど」
「おおむかしだ」
「でも、ジェイソンが最終的に遥か未来の宇宙船で殺戮を繰り広げるのは知ってる」
「……???」
うにゅほの頭上に無数のハテナが浮かぶ。
「えすえふなの?」
「いや、第一作目は違う」
「えすえふになったの?」
「なった……」
「なったんだ……」
変な空気が流れる。
だって、ナンバリングタイトルの十作目で本当に宇宙に行ったんだから仕方がない。
観てはいないから、面白いかどうかは知らないけど。
「きになるけど、こわそう……」
「怖いというか、グロいと思う。スプラッタ映画だからな」
「うえ」
「スプラッタの何がいいのか、よくわからん」
「わたしも……」
ホラー映画は好きだが、ゴア表現はさほど得意ではない。
苦手でもないから見られないというほどではないけれど、うにゅほに関しては本当に無理だ。
「えいが、みにいきたいね」
「そうだな。落ち着いたら、また映画館に行こう」
「うん」
コロナが早く終息することを祈っているのだが、まだまだかかりそうである。
-
2021年8月14日(土)
「──うッ」
下腹にごろごろと異音が走る。
「ちょ、トイレ……」
「◯◯、だいじょぶ?」
「大丈夫じゃない、かも……」
「また、あかだまだしとくね」
「お願いします……」
トイレへと駆け込み、用を足す。
「……ふー」
自室へ戻ると、うにゅほが赤玉はら薬を水と一緒に用意してくれていた。
「はい、のんで」
「ありがとう……」
六錠の小さな錠剤を、水で飲み下す。
本日二度目の服用だ。
「げり、どうしたんだろうね」
「わからん……」
「いっしょのもの、たべてるのに」
「うん……」
「おなか、だしてねた?」
「可能性はある……」
と言うか、寝冷えくらいしか思い当たらない。
「××は大丈夫?」
「うん」
うにゅほが自分の腹部を撫でる。
「いたくないし、くだってないよ」
「なら、よかった……」
「よくないよ。はらまきする?」
「……しておこうか」
「だすね」
「お願い」
うにゅほが箪笥から出してくれた腹巻きを装着し、ほっと一息つく。
「腹巻きすると、なんか落ち着くよな……」
「わかる」
「このゆるい締め付けがいいのかもしれない」
「わたしも、はらまきしようかな」
必要ないとは思うが、着けて害になるものでもない。
「どうぞどうぞ」
「では、しましょう」
うにゅほが、自分用の腹巻きを、下から穿いていく。
スカートで。
「──…………」
思わずうにゅほの下半身を凝視するが、そこは女の子である。
スカートの裾に気を付けながら、何事もなく腹巻きを着けた。
「うへー、おそろい」
「お揃いだな、うん」
こういうとき、つい視線が向いてしまうんだ。
男の子だもの。
-
2021年8月15日(日)
「◯◯、おなかどう?」
「今日は大丈夫かな。落ち着いてる」
「そか……」
うにゅほが、ほっと胸をなで下ろす。
「はらまきしてねて、よかったね」
「ああ。夏場に腹巻きはどうかと思ったけど、昨夜はそんなに暑くなかったし」
「すずしくなってきた」
「先週がおかしかったんだよ……」
「それは、うん」
連日の真夏日で、エアコンを切る暇もなかった。
今月の電気代はさぞ恐ろしいことだろう。
「でも、すこしさみしいきーもする」
「夏も終わりが見えてきたからな……」
「おまつり、ことしもなかったし」
「うん」
「なつ、みじかいね……」
「そうだな」
今年の夏は暑すぎて、逆に季節を感じられなかったように思う。
エアコンのおかげで部屋は常に快適で、暑さを感じるのはトイレに行ったときくらいのもの。
暑い暑いと言いながら溶けかけのアイスを舐めるような日々は、今年は訪れなかった。
「わがままかもしれないけど、思う夏じゃなかったな」
「うん……」
「夏祭りも花火も中止になって、部屋も涼しく過ごしやすくて、扇風機の取り合いとかする必要もなくて」
「はかまいりは、たのしかったけど……」
「でも、それだけか」
「……うん」
「夏っぽいことって、なんだろうな」
「なんだろ」
「昔は、よく、プールに行ったよな。市民プール」
「あ、いったいった」
「でも、コロナじゃ厳しいし……」
「うん……」
「夏らしいこと、ひとつくらいしようか」
「なつらしいこと……」
「うん」
「なんだろ」
「すぐには思いつかないけど、なんか悔いのある夏になりそうだし」
「そだね。したいかも」
「じゃ、夏が終わるまでに、一緒に考えよう」
「うん!」
夏らしいこと。
夏の思い出。
2021年の夏に、ひとつくらいは爪痕を残していこう。
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以上、九年九ヶ月め 前半でした
引き続き、後半をお楽しみください
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2021年8月16日(月)
カレンダーを眺めながら、遠い目で呟く。
「お盆休みが、終わっていくんやなって……」
「あしたから、しごとだね……」
「墓参り入れたら六日も休んどいてなんだけど、もっと休みたかった」
「かいしゃ、おやすみ、もっとくれたらいいのに」
「週休五日でもいい」
「いいね」
「給料は据え置き」
「ふえてもいい」
「それは贅沢言い過ぎでは……?」
「いうだけただ!」
「たしかに」
「しゅうきゅうむいか!」
「月収一千万円!」
「なつやすみ、はんとし!」
「冬休みも半年!」
「ずっとおやすみだ」
「何もせず月に一千万円もらう人になってるじゃん」
「ほんとだ」
「でも、そういう人もいるんだろうな」
「すごいね……」
「よく石油王と友達になりたいって言うけど、これちょっと失礼だよな」
「しつれい?」
「石油王のこと、お金を得る手段としてしか見てないじゃん」
「あー」
「四次元ポケットだけくれって言ってる人と同じ」
うにゅほが小首をかしげる。
「おなじ……?」
「──…………」
しばし思案する。
「微妙に違うかも……」
「ちがうかも」
「お金欲しいな」
「ほしい」
「××、たくさんお金あったら何したい?」
「◯◯に、つきいっせんまんえんあげたい」
「ありがとう」
「いえいえ」
「他には?」
「ろうごにとっとく」
「今から……?」
「うん」
「××、物欲ないよな」
「あんまし……」
本当にお金がたくさんあったら、うにゅほは何をするのだろう。
気になるが、そもそもお金がないのだった。
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2021年8月17日(火)
「はー……」
母親の頼み事を片付け、自室に戻ると、風呂上がりのうにゅほがドライヤーで髪を乾かしていた。
「なんか、つかれた?」
「疲れたってほどではないかな。面倒ってほどでもないし。ただ、遠回りを余儀なくされたというか」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「父さんのiPhoneで撮った写真を印刷してほしいって頼まれたんだよ」
「すぐできそう」
「そう思うじゃん」
「うん」
「写真を印刷するためには、母さんのPCに写真を送る必要がある」
「そだね」
「でも、iPhoneからPCって、メールで写真送れないんだよ」
「そなの?」
「方法はあるのかもしれないけど、何度か試してできなかったから」
昔はできた気がするのだが、仕様が変わったのかもしれない。
「じゃ、どうするの?」
「iCloudっていう、ネット上でファイルをやり取りする機能がある」
「あ、きいたことあるかも」
「俺のPCとiPhoneはiCloudで繋がってるから、俺のiPhoneに画像を送ればいい」
「なるほど」
「でも、俺は父さんのLINEを登録してない」
「わたしもしてないかも……」
「電話すりゃいいんだもんな」
「うん」
「つまり──」
頭の中で、まとめる。
「父さんのiPhoneからLINEで母さんのiPhoneに写真を送信。母さんのiPhoneから俺のiPhoneに写真をまた送信」
「うん」
「俺のiPhoneからiCloudを用いて俺のPCに写真を送り、そこから母さんのPCにメールを送り、印刷」
「……うん」
「iPhoneで撮った写真を印刷するだけで、これだけの工程がかかってさ。えらい遠回りしたよ」
「めんどくさいね……」
「その一言」
効率的な方法は他にもあるのだろうが、最初にパッと思いついたのがこの遠回りだったのだ。
似たような頼み事が今後あるかもしれないから、動線を確保しておいたほうがいいかもしれない。
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2021年8月18日(水)
「こめのひ」
「米の日……?」
カレンダーを見る。
8月18日。
「米、米──」
数秒思案し、思い至る。
「あ、本当だ。米の日だ」
八、十、八を組み合わせれば、米となる。
これ以上ないほど米の日だった。
「××、よく気付いたな」
「うへー」
「すごい、すごい」
うにゅほの頭を撫でる。
「うと、テレビでやってて……」
「すごい、すごい」
なでなで。
「テレビでみただけ……」
「すごい、すごい」
なでなで。
「すごくない……」
そう言って、うにゅほが気まずそうに俯いた。
「正直、正直」
うにゅほの頭を撫で続ける。
「自分の手柄にしちゃえばいいのに、ほんと正直者だよな」
「そかな」
「××、嘘ついたことある?」
「あるよ」
「俺にバレなかったことは?」
「ある、とおもう……」
「どんな嘘?」
「おぼえてないけど」
「本当に?」
「うん」
本当らしい。
「でも、××が嘘をつく場面って想像できないな」
「うーん……」
「どんなとき嘘つく?」
「うーと」
うにゅほが、しばし思案する。
「エイプリルフール……」
「あー」
あの、嘘だかなんなんだか判断のつかない嘘な。
「嘘に入るかな、あれ」
「うそはうそだし……」
「そうなんだけどさ」
それ以外では、本当に思い出せない。
まあ、嘘を強いるような生活をさせていないことを誇りに思っておこうと思う。
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2021年8月19日(木)
「──……!」
iPhoneを手に取った瞬間、血の気が引いた。
携帯ストラップがなくなっていたのだ。
「やべ、どこ行った……」
何年も愛用し、予備として同じものを用意しておいたほどのお気に入りだ。
なお、今回紛失したものは既に予備であり、これをなくすと入手は困難である。
「どしたの?」
「ストラップがない……」
「ちぎれたの?」
「たぶん」
「いつ?」
「昨日──は、あったと思う」
「でかけた?」
「出掛けてない……」
「じゃ、いえだ」
「悪い、手伝ってくれるか」
「うん」
その即答が頼もしい。
うにゅほと共に、自室を捜索する。
うにゅほの弛まぬ掃除によって片付いた部屋は、異物があればすぐわかる。
「……ない」
「ないねえ……」
「どうしよう、あれが最後なんだ」
「いっこ、なくしたもんね」
「ああ……」
意気消沈していると、
「あ」
何かに気付いたらしいうにゅほが、俺の作務衣のポケットに手を突っ込んだ。
「うお」
いきなりだと、さすがに驚く。
「──あった!」
その手には、松葉紐の切れたストラップの姿があった。
「そうか、まずポケットだ……」
喜ぶ前に、考えの行き届かなかった自分を恥じる。
「ありがとう、××。無駄に探させてごめん」
「きにしないでね」
「このストラップ、なくしたくないんだよな。松葉紐が切れるたびヒヤヒヤする……」
「うーとね」
うにゅほが、当たり前と言えば当たり前の一言を口にする。
「だいじなら、しまっておくのは?」
「──…………」
「?」
「その手があったか」
言われてみれば、その通りだ。
大事なものは外しておけばいいのだ。
どうしてその発想に至らなかったのだろう。
「ありがとう、××。仕舞っとく」
「あ、うん……」
うにゅほが、戸惑いながら頷いた。
本末転倒のような気もするが、紛失の可能性に怯え続けるよりましだ。
代わりに、適当なストラップを付けておこうかな。
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2021年8月20日(金)
「──……暑い」
「あちーねえ……」
窓を全開にし、扇風機の前に陣取っているのに、暑い。
「今日も暑いですねえ、××さん」
「まったく、まったく」
ならばエアコンをつけろとお思いかもしれないが、聞いてほしい。
ちょうどいい暑さなのだ。
先日のような死を感じる猛暑ではなく、適度に夏らしい湿気と温度。
エアコンがなくとも耐えられるギリギリのラインで、短い夏を楽しんでいるのである。
「──そうだ」
「?」
「夏らしいこと、思いついたぞ」
「なになに?」
「コンビニでかき氷系のアイスを買ってきて、食べよう。この暑さならちょうどいい」
「いいね!」
ガリガリ君ならさんざん食べたが、あのときはすこぶるエアコンが効いていた。
室温30℃の室内で、かき氷を食べる。
これはかなり夏度の高い行為なのではないだろうか。
さっそくコンビニでアイスを買ってきて、扇風機の前で開いた。
使うのはもちろん、木製のアイスクリーム用スプーンだ。
「かたい!」
ぺとりと密着したうにゅほが、スプーンの先でアイスの表面をガリガリ削る。
「すこしお待ちなさい、××さん。すぐ柔らかくなるから」
そう言って、アイスを扇風機にかざす。
「なにしてるの?」
「風に当ててるんだよ。そのほうが早く溶ける」
「へえー」
「考えてもみたまえ。これ、30℃の温風なんだぞ」
「そりゃとける」
アイスはすぐにほぐれ、木のスプーンでも容易にすくい取れるようになった。
「おいしいねえ……」
「ああ、美味しいな」
「なつだこれ」
「夏だな、これは……」
夏らしいこと。
夏にしかできないこと。
大したことではないのだが、ようやくひとつこなせた気がする。
来年こそは、夏祭りが開催できることを祈ろう。
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2021年8月21日(土)
「××さん、××さん」
「はーい」
「今日は何の日か、ちょっと調べてたんですよ」
「あ、わかった」
「わかったのか」
「はちみつのひ!」
「なるほど、ハニーでか」
「うん」
「でも、はちみつの日って別になかったかな……」
検索をかける。
「ほら、8月3日だって」
「はち、みっつ、すごくはちみつのひ……」
「ハニーの日も上手いと思うけどな」
「でしょ」
「まあ、言いたいことはハニーとは関係なくて」
「なにー?」
かけたのかな。
まあ、突っ込むまい。
「今日は、おいしいバターの日なんだって」
「バター……」
「あ、語呂合わせじゃないぞ」
「ちがうの?」
「違うの」
「そか……」
すこし残念そうだ。
「上野公園でなんとかって博覧会が開かれた際に、犬の力を利用してバターを練製する機械、その名も犬力機が出品されたらしい」
「いぬのちから……」
「こちらが犬力機です」
あらかじめ保存しておいた犬力機の画像を開く。
犬がベルトコンベアの上を歩くことで、機械が連動し、バター樽を攪拌する仕組みらしい。
「……るーむらんなー?」
「見た目完全にルームランナーだなあ……」
「いぬ、ぜったいあるかないとおもう」
「俺もそう思う」
「バター、できるのかな」
「たぶん、話題性重視だと思う。バターができてもできなくても面白いだろ」
「うん、おもしろい」
「実際、それで、バターの存在が知れ渡ったらしいし」
「あたまいいねえ」
犬力機のおかげで今日のバターがあると考えると、素晴らしい発明だ。
ちゃんとバターは完成したのだろうか。
気になるところである。
-
2021年8月22日(日)
「◯◯ー……」
うにゅほが、情けない声を上げながら、こちらへ右手を差し出した。
「これ……」
「うん?」
受け取る。
それは、黒縁の透明なフィルムだ。
「アップルウォッチの保護フィルム、剥がれちゃったのか」
「ごめんなさい……」
「いや、謝ることはまったくないけど」
「でも」
「そもそも剥がれやすいらしいしな、これ」
「……そなの?」
「ほら」
左手首のアップルウォッチを見せる。
「画面の端が曲面だろ」
「うん」
「保護フィルムも同じ形だ」
「うん」
「ここが引っ掛かるんだよ」
「あー……」
実際になぞってみると、わかる。
何かの角でも、布でも、ひとたび引っ掛かれば容易に剥がれるだろう。
「だから、フィルムも三枚組だったんだろうな」
「それで」
「残り二枚も、いつまで持つか……」
「◯◯のと、サイズちがうんだっけ」
「俺が44mm、××が40mmだからな。互換性はない」
「──…………」
うにゅほが、自分の手首を見る。
「おなじくらいにみえる」
「腕の太さの問題だろ。俺は腕が太いから時計が小さく見えるし、××はその逆だ」
「なるほど……」
「保護フィルム、自分で貼る?」
「じぶんではるけど、やりかたおしえてね」
「拭いて、ホコリ取って、貼るだけだって」
「ふあん……」
わかるけど。
なお、気泡が入り挽回不可能となったため、予備の保護フィルムはなくなってしまった。
次に剥がれたら買い直さなければ。
-
2021年8月23日(月)
風呂上がり、髪を乾かしながらうにゅほに話し掛ける。
「シャワーヘッド新しくなってるんだけど、知ってた?」
「あ、とどいたんだ」
「××が買ったの?」
「ちがうよ」
「そりゃそうか」
シャワーヘッドを注文するうにゅほが想像できない。
「おかあさんがね、じゃぱねっとでかったの」
「ほんとジャパネット好きだな……」
新しい洗濯機もジャパネットで購入したものだっけ。
「つかいごこち、どうだった?」
「うーん……」
「おなじだった?」
「いや、なんか違った。水流が細かいって言うのか、勢いのわりに水の量が少なくてさ」
「おー」
「あと、やたら顔の脂が落ちた気がする」
「すごい」
「そういう商品なの?」
「うん。せっすいとか」
「シャワーヘッドだけでもけっこう変わるもんなんだな」
「おふろはいるの、たのしみ」
「あとで感想聞かせてくれな」
「うん」
しばしして、風呂場へ向かったうにゅほが自室へと戻ってきた。
「どうだった?」
「うん、なんかちがった!」
「なんか違うよな」
「てのひらに、シャワーかけるでしょ」
「ああ」
「シャワーかかってるのに、おゆ、まえよりたまらないの。ふしぎなかんじ」
「お湯は少ないけど、勢いが強くなってるってことかもな」
「そうかも」
「皮脂汚れはどうだった?」
「なんか、さっぱりする。すーごく」
「わかるわかる」
「いいかいものかも……」
「値段によるな」
「いちまんえん、くらい?」
「……妥当、か?」
シャワーヘッドの相場がわからない。
まあ、自分が金を出したわけでもないし、なんでもいいか。
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2021年8月24日(火)
「足痛い……」
帰宅して最初の一言が、それだった。
久方振りの歩き仕事だったのだ。
「おつかれさま、あしだいじょぶ?」
「うん、まだ大丈夫。今日は午前中だけで済んだし」
「おにぎり、いらなかったね」
「ありがたく食べたけどな。美味しかった」
「うへー」
ちなみに、中身は昆布だった。
「あしもむ?」
「揉んでもらおうかな……」
「じゃ、ねて」
自分のベッドに倒れ込み、眼鏡を外して枕に突っ伏す。
「お願いしまーす……」
「はーい」
うにゅほの両手が、左のふくらはぎをこねる。
もみ、もみ。
「どうですかー」
「気持ちいいです……」
「あし、ふといですねー」
「太いです……」
「うーと」
うにゅほが、マッサージの手を止める。
ごそごそと何事かしているのが気配でわかった。
「どした」
「ふともものふとさ、はかってた」
「俺の?」
「わたしの」
「どうだった?」
「◯◯のふくらはぎより、ほそいかも」
「──…………」
俺の足が太いのか、うにゅほの足が細いのか。
たぶん、前者寄りの両方である。
「……これ、細くできないんだよな。筋肉だから」
「すごいよね」
「昔から太いんだよ……」
「すごい」
学生時代、よく競輪選手だのなんだのと言われていたっけ。
おかげで合うズボンがあまりない。
「もみがいがあります」
「そっか」
その小さな手じゃ、絶対に揉みにくいと思うけど。
うにゅほのマッサージを受けて、足の痛みはすこしましになった。
ありがたや。
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2021年8月25日(水)
「あめだー……」
「雨だな」
雨だった。
両親がゴルフに行く予定だったのだが、雨で中止にしたらしい。
「でも、こさめなってきた」
「どれ」
窓を開き、手を差し出す。
腕にかかる雨粒は、まばらだ。
「これならゴルフ行けたかもな」
「うーん……」
うにゅほが小首をかしげる。
「むりしなくても」
「それはそうだけど、楽しみにしてたからさ」
「ゴルフ、あめでもたのしいのかな」
「知らんけど……」
「◯◯、やったことある?」
「ない」
「わたしもない」
「それは知ってる」
「でも、うちっぱなしはあるよ」
「あるの?」
「いっしょにいったきーする……」
「……そうだっけ?」
「だって、わたし、◯◯いかなかったら、いかない」
「たしかに」
日記を確認する。
「──あ、九年前に行ってる!」※1
「でしょ」
「完全に忘れてた……」
「わたし、きおくりょくいい?」
「俺よりは」
「うへー」
「日記の感じだと、わりと上手かったみたいだな」
「そなんだ。おぼえてない」
「覚えてないんじゃん」
「いったのはおぼえてたし……」
「たしかに」
ゴルフ、楽しいのだろうか。
楽しいのだろうなあ。
でも、さんざん歩かされそうだからやる気はない。
運動不足はエアロバイクで補おう。
※1 2012年5月2日(水)参照
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2021年8月26日(木)
もみ、もみ。
うにゅほが俺のふくらはぎを揉んでくれる。
「きもちい?」
「気持ちいいでーす……」
「あるきしごと、まだあるの?」
「いや、今日で終わったよ。あとは机仕事だけ」
「そか」
「今回はすぐに済んでよかったよ。八千歩くらいしか歩いてないし」
「なんキロくらい?」
「7kmくらいじゃないかな」
よく歩く人なら、ウォーキングにも物足りない距離だ。
それでも足が痛くなるのだから、普段どれだけ歩いていないかがわかる。
「まえ、ウォーキングしてたしょ。あれ、なんキロ?」
「どのくらいだっけ。たしか4kmくらいだったと思うけど」
「けっこうあるいてた」
「なんだかんだ一時間くらいは歩いてたもんな」
「じゃ、しごと、にじかんくらい?」
「ずっと歩いてるわけじゃないし、三時間少々くらいかな」
「いいうんどうかも」
「今日くらいならな。前みたいに15kmも20kmも歩かされたら、足に血豆ができるよ」
「いたそう……」
しばしマッサージを受け、足首を振る。
「うん、だいぶ楽になった。ありがとう」
「うへー」
「運動自体はしてるけど、ほんと歩かなくなったもんな」
「ね」
「ウォーキングくらいなら再開してもいいんだけど、マスクしながらは嫌だよな……」
「そとだし、しなくてもいいきーする」
「でも、ウォーキングおじさんとかウォーキングおばさんとすれ違うだろ。嫌そうな目で見られそう」
「あー……」
「すっかりマスクをするのが当たり前になったからな。仕方ないけどさ」
「あつくないのかな」
「暑いし、息苦しいだろ」
「したくないね……」
「涼しい部屋でエアロバイクがいいな」
「うん」
なんだかんだで毎日欠かさず漕いでいる俺たちである。
運動不足自体は解消されているのだが、なんだか不健康な気がするのは何故だろう。
イメージかな。
-
2021年8月27日(金)
「××、これ読んでみて」
「?」
Googleの検索ボックスに入力された"不織布"という単語を見せる。
「ふしょくふ」
「正解。すごいな」
「よめるよー……」
「俺、たまに読めなくなるんだよ」
「え」
うにゅほが目をぱちくりさせる。
「ふしきふ、とか、ふせんふ、とかを行ったり来たりしたあと、なんとか答えに辿り着く感じ」
「なんか、めずらしいね。◯◯、かんじ、なんでもよめるのに」
「なんでもではなくても、大概読める自負はあるんだけどな。ただ、これに関しては理由があるんだよ」
「どんなの?」
「不織布って単語に出会ったとき、読み方を調べなかったんだ」
「なんで?」
「なんでだろ……」
読めない単語を見掛けた際、調べる癖がついている。
にも関わらず、不織布だけは、長年放置し続けてきたのだ。
理由は、自分でもよくわからない。
「で、ふしきふとか、繊維の繊と混同してふせんふとか適当に読んで来たから、そっちで刷り込まれちゃってさ」
「それでかー」
「それでだー」
「やっぱし、めずらしい。◯◯、なんでもしらべるのに」
「不織布自体、コロナ以前はそこまで見掛ける単語でもなかったしな」
「たしかに……」
「マスクが品薄になる前は、読める人少なかったんじゃないか」
「わたし、たぶんよめなかった」
「だよな」
「うん」
「俺も、マスク以外に何に使われてるのか、パッと出て来ないし」
「わたしも……」
「まあ、それだけなんだけどさ」
「ほかに、よめないじーある?」
「読めない字はあるけど、見掛けたら調べるからすぐ読めるようになる」
「おー」
「何度も間違えるのは、マジで不織布くらいかも……」
こんな会話を交わしたからには、さすがに今後は間違わない気がする。
たぶん。
-
2021年8月28日(土)
「──…………」
目を覚ます。
「何時だ……」
左手首のアップルウォッチを確認すると、午後四時過ぎだった。
えらい寝た。
寝過ぎた。
気配を感じてか、うにゅほが書斎側から顔を出す。
「おきた」
「起きた……」
「ねたねえ……」
「寝た……」
枕元のiPhoneを手に取り、睡眠管理アプリを起動する。
10時間54分。
「……Oh」
どんだけ寝てるんだ、俺は。
ただ、久し振りに長く寝た気がする。
睡眠障害気味の俺は、小刻みな睡眠しか取ることができない。
途中で何度か目を覚ましたとは言え、これほど長く眠るのは久し振りだった。
ベッドから下りようとして、
「──うッ」
背中の筋が痛んだ。
「こし、いたい?」
「腰じゃなくて、背中が痛い……」
「せなか」
「寝過ぎたな、これは」
「せなか、もむ?」
「お願いします……」
再びベッドに戻り、うつ伏せに寝転がる。
「もむよー」
うにゅほが、俺の太股に跨がるように腰を下ろし、小さな手のひらを背中に押し付けた。
ぐい、ぐい。
「どうですかー」
「気持ちいいでーす……」
背中の痛みが、すこしだけ和らぐ。
「たくさんねれて、よかったね」
「寝過ぎて疲れたよ……」
睡眠はたしかに必要だが、眠らずに済むのなら寝たくはない。
時間を無駄にしている気がするのだ。
「しっぷ、はる?」
「湿布まではいいかな」
「そか」
「かるーく体操するか」
「そうしましょう」
マッサージとストレッチで、背中の痛みは多少ましになった。
寝過ぎには注意である。
-
2021年8月29日(日)
「◯◯、ゆきみだいふくたべる?」
「食べる食べる」
パッケージを開き、プラスチック製のフォークをうにゅほに差し出す。
「使っていいよ」
「◯◯は?」
「俺は、手で食べるよ」
「えいせいてきに……」
「……手、洗ってくるか」
「それなら、わたし、フォークとってくる」
その手があったか。
台所へ走ったうにゅほから、フォークを受け取る。
「ありがとな」
「いえいえ」
「……とは言え、雪見だいふくってしばらく固いんだよな」
「うん……」
「すこし溶かして、食べごろにしないと」
「たべごろのゆきみだいふく、おいしいよね」
「本当だよな。アイスの中でもトップクラスじゃないか」
「そうかも」
「でも、あんまり食べないのはさ──」
うにゅほが、俺の言葉を遮るように言った。
「またなきゃいけないから?」
「はい……」
「せっかち」
「せっかちです」
つい、固いまま齧り付いてしまうことすらある。
「まあ、理由はもうひとつあってさ」
「?」
「ゴミがかさばる」
「あー……」
「だから、つい、モナカとか棒アイスばっか買っちゃうんだよな」
「つぶせないもんね」
「そうなんだよ」
普通の袋に入っていてもいいと思うのだが、やはり型崩れが問題になるのだろうか。
雪見だいふくが柔らかくなったのを確認して、食べる。
「……久々に食べたけど、やっぱ美味しいな」
「ね」
うにゅほと微笑み合う。
夏も、そろそろ終わりである。
-
2021年8月30日(月)
仕事部屋で仕事をこなしていたときのことだ。
「……?」
机の端に、動くものがあった。
アリだった。
「うわ!」
反射的に人差し指が伸びる。
が、逃した。
「××、アリがいる!」
「え!」
リビングでiPadをいじっていたうにゅほが、慌てて仕事部屋に飛び込んできた。
「どこ!」
「たぶん、足元に落ちたと思うんだけど……」
椅子を下り、畳に這いつくばる。
同様に机の下に潜り込んだうにゅほが、
「いた!」
ぷち。
指先で、躊躇なくアリを潰した。
「ふー……」
畳の目地に埋もれたアリの死体を観察する。
「きゅうみつせい?」
「どうだろう。サイズは前と近いけど、種類は違う──気がする」
「まよいこんだのかな」
「そうであってほしいけど……」
何故、俺たちがアリに対しここまで反応するのか。
それは、数年前、アリの群れが家屋内に侵入してきた事件に由来する。
やつらは道しるべフェロモンによって、一度エサ場を見つけたら延々と往復し続ける。
殺しても、殺しても、やってくるのだ。
最終的にはダスキンの害虫駆除サービスによって解決を見たが、そのときの恐怖が今でも脳裏に焼き付いているのである。
「××、他にいるか探してみよう」
「うん」
二匹以上いた場合、エサ場として認識された可能性が高くなる。
しばし捜索し、
「……いないか」
「いない、みたい。たぶん」
「……あんまり不安に思いすぎても仕方ない。一匹、迷い込んだだけ。そう思っておこう」
「そだね……」
アリは、飛ばないし、見た目に嫌悪感もないし、素手で触れることに抵抗もない。
にも関わらず、いちばん嫌いな虫だ。
読者諸兄も、アリには御注意を。
-
2021年8月31日(火)
夕刻。
うにゅほが、両親の寝室から夕焼け空を眺めていた。
「どした、センチメンタルか」
「ちがうけど……」
隣に並び、窓の外を見る。
遠くの空が藍色に翳り始めていた。
眼下の公園では子供たちがまだ遊んでいたが、じきに解散するだろう。
「なんか、夏の終わりって感じだな」
「うん、そんなかんじ」
晩夏には、斜陽が似合う。
夏の終わりと一日の終わりが重なり合うからだろうか。
「あしたから、くがつだね」
「だな」
「やさいのひだね」
「たしかに……」
「さっき、やさい、やすかったよ」
「買い物行ってきたのか」
「うん」
「野菜買った?」
「キャベツと、ねぎと、ブロッコリーかった」
「全部緑だ」
「やさいだもん……」
「まあ……」
緑色の野菜は多いわな。
「ブロッコリーと、とりにくの、にんにくいためにするよ」
「あ、美味そう」
「わかんないけど……」
「わかんないんだ」
「もとがあるの」
「ああ、クックドゥ的な」
「そう」
「てことは、基本の味付けはクックドゥ次第か」
「くっくどぅだったかわすれたけど……」
「でも、作ってくれるのは××と母さんだからな。期待してます」
「はーい」
うにゅほが時刻を確認し、きびすを返す。
「じゃあ、つくってくるね」
「お願いします」
ブロッコリーと鶏肉のにんにく炒めは、けっこう美味しかった。
また食べたいかもしれない。
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以上、九年九ヶ月め 後半でした
引き続き、うにゅほとの生活をお楽しみください
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2021年9月1日(水)
九月である。
九月になってしまったのである。
「まだ暑いけど、夏が終わったって感じ……」
「わかる……」
「夏が終わると、あとは下り坂って感じがする」
「くだりざか?」
「春と夏が上り坂で、秋と冬が下り坂」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「わかんないけど、わかるきーする」
わからないのか、わかるのか。
「あれだよね、あかいかんじ」
「赤?」
「なつは、あか」
「暑いから?」
「たぶん……」
「俺は、紅葉のせいで、秋が赤いイメージだな」
「あきは、しろかなあ」
「秋が白なのか……?」
「うん」
どうしてだろう。
「じゃあ、冬は? 俺は、冬が白なんだけど」
「ゆきで?」
「うん」
「わたし、くろ……」
「黒……」
「なんか、くろいイメージ」
「えーと、春は?」
「◯◯は?」
「まあ、ピンクかな。桜色」
「わたしも」
「そこは合致するんだ」
「おそろい」
春は桜色。
夏は赤。
秋は白。
冬は黒。
なんだか不思議なイメージだ。
季節を表す色って、人によってここまで違うのか。
うにゅほにとって世界がどう見えているのか、なんだか気になる午後だった。
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2021年9月2日(木)
「ぼんやり暑い……」
「ういー」
俺の膝の上で、うにゅほがガリガリ君を食べている。
「29.5℃だって」
「なかなかですね」
「……くつろいでますね」
「うん」
左の肘掛けに背中を預け、右の肘掛けに足を乗せている状態だ。
べつにいいけど、だらしない。
「◯◯、かぜつよくして」
「はいはい」
チェアをくるりと回転させ、爪先で扇風機の風速を切り替える。
「すずしーねえ……」
「エアコンもいいけど、扇風機もいいんだよな」
「いい」
「××は、どっちが好き?」
「うーと」
しばし思案する。
「せんぷうきのがすきだけど、エアコンないとしぬ……」
「扇風機は室温を下げるものじゃないからな」
「でも、すずしい」
「なんで涼しいと思う?」
「きかねつ?」
「正解」
「うへー」
「よく知ってるな」
「まえ、◯◯がいってた」
「そうだっけ」
言った気もする。
「他にも、ハッカ油で涼しくなるって方法もある」
「はっかゆ」
「ハッカから精製した油のことで、これに触れると涼しくなるんだ。ハッカ油を使った入浴剤なんかもある」
「ほー」
「使い過ぎると、真夏でも凍えるらしい」
「すごい」
「でも、これ、危ないんだよな……」
「とうししちゃう?」
「いや、熱中症になる。感覚を誤魔化してるだけで、本当に涼しくなったわけじゃないんだよ」
「うそなの?」
「ほら、メントールの入ったボディシートとか、触れるとスースーするだろ。あれの濃いやつだから」
「なるほど……」
「適量を超えて使うと、熱湯すら氷水に感じるらしいからな」
「え、こわい」
「なんか不健康な感じするよな……」
「うん……」
ハッカ油風呂、入ってみたいような怖いような。
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2021年9月3日(金)
「そう言えば、あれからアリ見ないな」
数日前、仕事部屋にアリが一匹出た。※1
警戒しているのだが、本当にただ迷い込んできただけなのかもしれない。
「いえのまわりね、しらべたの」
「どうだった?」
「まえ、かだんにすーあったしょ」
「縁石どけたら、うぞうぞいたよな」
「あそこにはいなかった」
「完全に駆逐したんだな……」
ダスキンの害虫駆除サービス、さすがである。
「ほかのとこもみたけど、あり、いっぴきもいなかったよ」
「てことは、ただの迷いアリだったのか」
「そうかも」
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろす。
「あり、ひどいもんね……」
「飛ばない、素早くない、気持ち悪くない。でも、大量に入ってくるからな」
「うん」
「単体じゃなくて集団だから、潰しても潰しても入ってくる。賽の河原で石積んでる気分」
「わかる」
「前回はなかったけど、精密機器に入られたら一発でアウトだ。そういう意味でも実害があるし、放置もできない」
「きをぬいては、いけない」
「その通り」
「いえのまわり、もっかいてんけんする?」
「しとこうか」
うにゅほと一緒に玄関を出て、家の周囲をぐるりと回る。
「たしかに、アリ一匹いないなあ……」
「いえのまえじゃなくて、しゃこのほうのかだんなら、ありいるよ」
「そうなのか」
我が家には花壇が三ヶ所存在する。
家の前、車庫の前、中庭だ。
車庫の前の花壇は家から十メートルほど離れているため、そこまでアリの被害を恐れる必要はない。
「怪しい動きがあれば、アリメツで殺そう」
「そうしましょう」
すべてのアリを駆逐したいわけではない。
家の中にさえ入ってこなければ、それでいい。
上手いこと棲み分けを行いたいものだ。
※1 2021年8月30日(月)参照
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2021年9月4日(土)
ふと思い立ち、コメダ珈琲店へと立ち寄った。
「きっさてん、ひさしぶりだね」
「たしかにな」
「◯◯、ここきたことある?」
「あるにはあるけど、いつだったかな。随分前だと思う」
「なにがおいしいの?」
「味より、量がすごいってイメージだな」
「りょう」
「いや、味もいいんだろうけど、よく逆写真詐欺なんて言われてるんだよ」
「あ」
何かに思い至ったのか、うにゅほが小さく声を上げた。
「なごやの?」
「たしか、本社は名古屋だったかな」
「しってる、テレビでみた!」
「マジか」
「エビカツのサンド、すーごいおっきかった」
「うん、それ頼んでみようかと思って。エビじゃなくて、普通のカツだけど」
「おー」
「××、ひと切れ食べる?」
「わたし、それでおなかいっぱいになるきーする……」
「そうかも……」
座席に案内されたあと、メニューを開く。
「……写真では、そこまででもないんだけどなあ」
「ふつうにみえる」
「飲み物はどうする?」
「うーと」
しばし思案し、
「アイスココア、なまクリームのってるのかな」
「たぶん」
「ココアにするね」
「じゃ、俺もそうしようかな」
「おそろい」
「お揃いだ」
注文を済ませ、しばし雑談していると、まずアイスココアが届いた。
「──…………」
「──……」
でかい。
と言うか、高い。
標高三十センチくらいある。
「これ、生クリームじゃないぞ……」
「ソフトクリームだ……」
もはや、ちょっとしたパフェである。
ココアを頼んでパフェみたいなものが出てくるとは思わなかった。
「カツパン、大丈夫かな。覚悟はしてるけど心配になってきた」
「たべきれるかな……」
やがて届いたカツパンは、大きめの弁当箱ほどのサイズだった。
「……コメダ、すごいな」
「すごい……」
味は、どちらも美味しかった。
ただし、小腹を満たす用途で訪れるべき店ではない。
ガッツリ食事をとるつもりで来なければ、きっと後悔するだろう。
読者諸兄も御注意を。
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2021年9月5日(日)
起床し、ベッドから下りる。
「……腰が痛い」
「こしが」
「痛い」
「だいじょぶ……?」
「しばらくすれば治まると思うけど……」
俺は、もともと腰痛持ちだ。
しばらく前に整体に通って随分と緩和はしたのだが、やはり根治までは難しいらしい。
「こしもむ?」
「いや、まずは腰を伸ばさないと」
ベッドに背中を預け、足を下ろす。
「うぎぎ……」
「いたくない……?」
「……きつい」
「こしもむ?」
「待って、順番がある……」
「そなの?」
「揉んで効くのは筋だろ。まず骨格をだな」
「なるほど……」
思うさま腰を伸ばしたあと、うつ伏せに寝る。
「お願いできますか」
「はーい」
俺の太股を跨ぐように腰掛けたうにゅほが、俺の腰をぐいぐいと押す。
「どうですかー」
「気持ちいいでーす……」
気持ちは良い。
だが、うにゅほのマッサージでは、腰痛には無力だろう。
「ストレッチとかしないとなあ……」
「ようつうにきくやつ?」
「こういうのって、たいてい、痛み始めてからだと遅いんだけどな……」
「そだね……」
「まあ、しないよりは」
「したほういいね」
「××は、腰大丈夫か?」
「いたくないよ」
「痛くなると困るから、一緒にストレッチしようか」
「する」
「それがいい」
「◯◯も、いたくなくなったら、いいね」
「そう願う……」
あまりにひどくなるようなら、また整体へ行こう。
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2021年9月6日(月)
「フー……」
腕立て伏せを終え、立ち上がる。
久し振りに筋トレを始めたのだった。
「やっぱ、すげーなまってるわ……」
「まえ、もっとできたもんね」
「アホみたいに筋トレしてた時期と比べたらなあ」
凝り性なので、いざ始めると延々やり続けてしまう。
誰から見てもガチムチだった時期が、たしかにあった。
今はもう、見る影もないが。
「でも、いっきにやらないほういいよ。すこしずつ」
「それはそうなんだけど……」
「◯◯、なんでも、いきなりすごくやるから」
「──…………」
ぐうの音も出ない。
「◯◯、ちょうどいい、にがてだよね。きょくたん」
「はい……」
「なんでだろ」
「なんででしょう……」
自分でもよくわからない。
「よく、0か100か思考って、極端な考え方を戒める言い方があるんだけどさ」
「うん」
「俺は、思考や価値観はそうでもないんだよ。ただ、どうにも行動が極端になってしまう」
「わかる」
「いまさら矯正は難しいだろうなあ……」
「なおしたいの?」
「あー……」
どうだろう。
損をしたこともあるが、得をしたこともある。
どんな性格であれ、一長一短はあるはずだ。
他人に迷惑を掛けず、自分もさして困らないのであれば、このままでいい気もする。
「××は、直してほしい?」
「うーん……」
しばし思案したのち、うにゅほが答える。
「わたしがとめればいいし……」
「──…………」
「とにかく、きんとれ、きょうはここまで」
「はい……」
うにゅほに管理されている。
これはこれで悪くないと思ってしまうあたり、業が深いのだった。
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2021年9月7日(火)
「ぐぎ、ぎ……」
足が痛む。
腰が軋む。
腕が上がらない。
完全に筋肉痛なのだった。
「◯◯、だいじょぶ……?」
「大丈夫、では、ないかもしれない……」
ぎぎぎと階段を上がる。
「ロボットみたい」
「昨日、いきなり飛ばし過ぎたな……」
「はやめにとめたのに……」
「××の想定以上に、体がなまってたみたい」
最近、運動と言えば、エアロバイクを漕ぐ以外には何もしていなかったからなあ。
自室に戻り、ベッドに腰掛ける。
「あつ……」
襟元をパタパタさせて、シャツの中に空気を送る。
「ほてってる?」
「火照ってますね、これは」
「せんぷうき、もってくる?」
「いや、扇風機の前まで行くよ。普通に」
さすがに悪い。
のそりと腰を上げ、扇風機のスイッチを入れた。
さやかな風が火照った体を冷やしていく。
「はー……」
思わず吐息が漏れる。
うにゅほが憂い顔で言った。
「きんにくつう、わたし、なにもできないね……」
「いや、十分してくれたよ」
「?」
「昨日、止めてくれただろ。あれがなかったら、もっとひどかった」
「あー……」
「ありがとうな」
「……きょう、きんとれしちゃだめだよ?」
「しない。と言うか、無理……」
「よろしい」
筋肉痛が取れるまで、エアロバイク以外の運動は控えておこう。
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2021年9月8日(水)
「うぎ、ぐぎぎぎ……」
本棚の、視線の高さの段に手を伸ばす。
だが、腕が上がらない。
筋肉痛が、まだ治っていないのだ。
「まだいたい?」
「まだ痛いですね……」
「わたし、とる。なにとるの?」
「ギャグマンガ日和の十巻を……」
「はーい」
うにゅほが、本棚の奥の列から単行本を取り出す。
「はい」
「ありがとな」
うにゅほの頭を撫でようとして、
「ぎ」
思わず声が漏れた。
どこが痛いって、腕ではなくて胸筋が痛い。
骨格も、筋肉も、すべてが連動しているのだと改めて痛感する。
それでも無理に腕を上げようとすると、
「◯◯、そのまま」
うにゅほが膝を曲げ、俺の手のひらに頭を擦りつけた。
「これで、いたくないしょ」
「ああ……」
うにゅほの細い髪を、手櫛で梳く。
「なんか、悪いなあ……」
「なにが?」
「××の頭も満足に撫でられないし」
「なでてるし……」
「そうだけどさ」
自分が情けない。
「わたし、◯◯のおせわするの、すき」
「知ってる」
「◯◯、わたしにおせわされるの、きらい?」
「もちろん嫌いじゃないけど、悪いなって気分になる……」
「じゃ、おせわしたいから、されて。わたしがしたいの」
「……うん」
こんな感じで気を遣わせてしまうのが心苦しいんだよな。
だが、それを言ってもうにゅほを困らせるだけだ。
「じゃ、頼むよ。胸のところに湿布貼りたいんだ」
「はーい」
うにゅほが、意気揚々と湿布を取りに行く。
筋トレはほどほどにしよう、うん。
-
2021年9月9日(木)
愛用しているヘッドホンの交換用ケーブルが届いた。
しばらく前に断線したため、注文しておいたのだ。
「しかし、二週間もかかるとはなあ……」
「おくるの、さぼってたのかな」
「いや、海外からの発送になってる。単に輸送に時間がかかっただけみたい」
「そんなにとおくから……」
「もともと、このヘッドホン自体が海外製品だからな。日本で交換用ケーブルを作ってないんだろ」
ケーブルを取り出す。
「4極のXLR端子使うの、初めてだなあ」
「ふといね」
「ごついな」
「おと、いいのかな……」
「前と変わらないんじゃないか。ケーブルで音質良くなるの、あんまり信じてないし」
「そなんだ」
ヘッドホンの左右にピンを差し込もうとして、
「……これ、どっちが右だと思う?」
「かいてないの?」
「片方に赤、片方に黒のテープが巻いてある」
「うーん……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「しらべる?」
「調べるか」
調べた。
「──こういうの、たいてい右が赤なんだってさ。RedはRightって覚えるといいらしい」
「わかりやすい」
赤のほうのピンを右に、残りを左に差し込み、XLR端子をDACアンプに挿入する。
「さ、ちゃんと聞こえるかな」
ヘッドホンを装着しようとして、
「──だッ!」
左手を滑らせ、イヤーパッドがこめかみを痛打した。
間抜けなわりに、それなりに痛い。
「わ、だいじょぶ?」
「大丈夫、大丈夫……」
こんなもの、大丈夫と言うしかない。
改めてヘッドホンを装着し、音楽を再生する。
音質は元の通りなのだろうが、この二週間を普通のイヤホンで過ごしていたため、とても素晴らしいものに感じられた。
「……うん、やっぱこれだな」
「わたしも」
「はいはい」
うにゅほの頭にヘッドホンを着ける。
「うん、やっぱこれだなー」
「言いたいだけだろ」
「うへー」
こうして、久し振りに音楽鑑賞に勤しむのだった。
-
2021年9月10日(金)
「──……?」
まただ。
また、自室寝室側の常夜灯がついている。
「××、つけた?」
「つけてない……」
「俺も、つけてない」
「さいきん、よくついてるよね」
「ああ」
「わたし、◯◯がつけてるのかとおもってた……」
「俺も最初は××かと思ったけど、理由がないしな」
「うん」
常夜灯に気付くのは、決まって夕刻だ。
俺も、うにゅほも、自室にいない時刻である。
家族が部屋に入ってきて、常夜灯だけつけていくとも思えない。
となれば、
「自動点灯になってる、とか……」
「あー」
可能性としては、いちばんあり得るように思える。
「……でも、自動点灯機能なんてあったっけ?」
「うと」
うにゅほが、寝室側シーリングライトのリモコンを手に取る。
「じどうてんとう……」
「ある?」
「みる?」
「見る」
リモコンを受け取る。
明るさ調節、全灯、消灯、常夜灯、スリープタイマーだけのシンプルなリモコンだ。
「ない、とおもう」
「ないな……」
「スリープタイマーって、けすやつだよね」
「消すやつだな」
「つけるやつではない……」
「なんで勝手につくんだ」
「わかんない」
「……無意識につけてる、とか」
「たまになら、わかるけど」
「頻繁だもんな」
「だれかがつけてるのは、ないとおもう」
「だよな……」
謎は深まるばかりである。
真相がわかり次第、また日記にしようと思う。
-
2021年9月11日(土)
「はー……」
仕事を終え、腰を伸ばす。
ずっと前傾姿勢でいたため、すっかり腰が固まってしまっていた。
「しごと、おわった?」
「終わった終わった」
「たいへんだね、どようびなのに……」
「それは、うん……」
それも、他人の連絡ミスによる尻ぬぐいだ。
愚痴になるだけなので、うにゅほには言わないけれど。
「まあ、三時間くらいで終わってよかったよ。一日仕事になるかと思ってたから」
「はんにちでもたいへんなのに……」
「これも休日出勤って言うのかな。在宅だけど」
「さあー」
自分で言っておいてなんだが、わりとどうでもいい。
「こしもむ?」
「腰を揉むより、伸ばしたいんだよな……」
「のばす……」
「あ、そうだ」
「?」
ソファにうつ伏せになる。
「腰の上に座ってみてくれるか」
「え、いいの?」
「いいのいいの」
ソファが沈むことで、腰が伸びる。
気がする。
「じゃ、ゆっくりすわるね……」
「お願いします」
うにゅほが、俺の腰の上に、そっと腰掛ける。
腰に腰掛けるってわかりにくいな。
「お」
うにゅほの体重で、ソファが軋む。
「どう?」
「おー……」
腰は、伸びない。
思ったより、腰の部分だけ沈まなかったからだ。
だが、腰の上に適度な重みが乗っているのは、素直に心地良かった。
「しばらくこのまま……」
「はーい」
「テレビ見てていいよ」
「はい」
そのまま十分ほど、うにゅほの下敷きになっていた。
傍から見れば変態だったかもしれないが、腰の調子は良くなった。
-
2021年9月12日(日)
「──…………」
舌先で、左上の奥歯を押す。
痛みが走る。
それも、かなりのものだ。
「どしたの……?」
苦虫を噛み潰したかのような俺の表情を見てか、うにゅほが心配そうに声を掛けてくれた。
「……歯が痛い」
「え、だいじょぶ?」
「ちょっと、大丈夫じゃないレベルで痛い……」
「むしば……?」
「虫歯、ではないと思う……」
虫歯の痛みは何度も経験している。
冷たいものがしみたりはしないし、そもそもの痛みの種類が異なる感じだ。
「押すと響くし、何もしなくても痛い。なんだこれ……」
「はいしゃさん」
「行きたいよ。行きたいけどさ……」
カレンダーに視線を向ける。
今日は、日曜日だ。
「◯◯、びょういんいけないひ、ぐあいわるくなる……」
「……うん」
ほんと、なんなんだろう。
神様に嫌われているのだろうか。
「歯医者は明日行くとして、だ」
「うん」
「とにかく今は、痛み止めだ。ロキソニン飲もう……」
「そんなにいたいんだ……」
「耐えられないほどでもないけど、かなり気が散るから」
ロキソニンを緑茶で飲み下す。
「なんでいたいんだろ……」
「こればっかりは、専門家に診てもらわないと」
言いつつ、調べるだけは調べてみる。
「……歯根膜炎、歯根嚢胞、根尖性歯周炎」
「──…………」
「名前だけで気が滅入ってくるな……」
「うん……」
「まあ、いいや。明日は歯医者だ。行きたくないけど、痛むよりまし」
「そうしようね」
完治までに、どのくらいかかるのか。
時間も金銭も、集中力さえ奪われていく。
病気なんて、ろくなことがない。
-
2021年9月13日(月)
歯医者に行ってきた。
帰宅すると、うにゅほがリビングでテレビを見ていた。
「ただいま」
「あれ、はやい……?」
「まあ、うん」
なにせ、三十分前に家を出たばかりなのだ。
「さいふ、わすれた?」
「いや」
「……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「歯医者に行って、レントゲンを撮った」
「うん」
「最近のレントゲンって、現像せずにタブレットで確認できるんだな」
「そなんだ」
「で、だ」
「うん……」
思わずか、うにゅほが背筋を伸ばす。
「……なんでもなかった」
「?」
「なんの問題もなかった」
「……うん?」
「外から見ても、レントゲンで見ても、なにひとつ異常がなかった」
「どうして……?」
「俺も××と同じ気持ちだけど、そうだったんだよ……」
「あんなにいたかったのに」
「あんなに痛かったのに」
「みのがした、とか」
「腕の良い歯医者さんだし、それはないと思う」
「はー、いまは?」
「それが、実は今朝から痛くないんだよ」
「……すこしも?」
「すこしも」
「おしても?」
「押しても」
「かんでも……」
「噛んでも」
「なんだったの……?」
「わからん……」
何事もなかったと喜べばいいのかもしれないが、逆に怖い。
痛みには理由があるはずで、その原因もわからないうちに治まってしまっては、部屋の中で虫を見失ったような不安感がある。
「しばらく様子を見てくださいってさ」
「よかった、のかなあ……」
「わからん……」
ともあれ、できることもない。
せめて、いつもより長く歯磨きをしよう。
-
2021年9月14日(火)
粒ガムを口に入れ、奥歯で噛む。
「──…………」
ひとつも痛くない。
「マジでなんだったんだろうな、あの激痛……」
「きのせいじゃないもんね」
「"気がする"で痛むこともあると思うけど、そのレベルじゃなかったから……」
「どのくらい、いたかったの?」
「……難しいな」
痛みには、わかりやすい単位がない。
"痛みの単位はハナゲ"だなんてジョークがあったけれど、定量化は難しいだろう。
「押せば痛い、噛めば痛い、何もしなくても痛いって言ったろ」
「うん」
「夢の中でも痛かった……」
「うわ」
うにゅほが、左の頬に手を当てる。
「ゆめでもいたいの、やだね……」
「××も、ちゃんと歯磨きするんだぞ」
「◯◯、ちゃんとはみがきしてたのに」
「してるんだけどな……」
今回の痛みは、歯磨きの巧拙とは無関係だろう。
「……まあ、しっかり歯磨きしておけば、虫歯は防げるから」
「うん」
「××さん、虫歯はないかな?」
「ないよ」
「本当かな」
「ない──と、おもうよ」
「アイス食べてもしみない?」
「しみない」
「しみない程度の軽い虫歯があるかもしれない」
「えー……」
「今度、歯医者行く?」
「……いかない」
「怖い?」
「こわい」
「じゃあ、ちゃんと歯磨きしような」
「してる……」
「知ってる」
「もー」
歯は大切だ。
虫歯とは関係なかったけれど、今後は歯磨きを普段より長めにすることに決めた。
-
2021年9月15日(水)
ふと、思う。
「──××ってさ」
「?」
「健康だよな」
「うん」
「痛いとことか、ない?」
「ない、かなあ……」
「苦しいとこは?」
「ない……」
「快眠だし」
「うん」
「虫歯もない」
「たぶん……」
「可愛いし」
「うへー……」
「無駄毛ないし」
「うん」
「視力もいい」
「みえるよ」
「可愛いし」
「また」
「それに可愛い」
「──…………」
「おまけに可愛いもんな」
「……もー」
両頬に手を添えて、うにゅほが照れる。
「あと、髪もすべすべ」
「つづくの……?」
「肌もしっとり」
「──…………」
「爪も綺麗にしてるし」
「……うと」
「面倒見がよくて、優しいし」
「うー……」
「それに、働き者だ」
「なんなの……?」
うにゅほの顔が、ほんのり紅潮している。
「いや、××は健康だなと思って」
「そのあと」
「なんか褒めたくなって……」
「なんか」
「いつも思ってても、たまには言葉にしないとさ」
「……それは、そうかも」
「だろ」
「じゃあ、わたしも、◯◯のことほめるね」
「え」
「まずは──」
うにゅほの口からまろび出た俺への賛辞は、さすがに省略する。
こうも褒められると、なかなか照れるものである。
-
以上、九年十ヶ月め 前半でした
引き続き、後半をお楽しみください
-
2021年9月16日(木)
カレンダーを見て、ふと気付く。
「──あれ、来週祝日多い?」
「ほんとだね」
「何の日だろう」
目を凝らす。
「……20日が敬老の日で、23日が秋分の日か」
「あきだねえ」
「秋だなあ」
秋らしいこと、ひとつもしていないけれど。
「××」
「はい」
「秋と言えば?」
「あきといえばー……」
しばし思案したのち、うにゅほが答える。
「いも!」
「焼き芋?」
「やいても、ふかしても」
「いいよな、芋……」
食べたくなってきた。
「あと、くり」
「栗もいいな、栗。コンビニスイーツに栗モノが出てくる時期か」
「たのしみだねえ……」
「なんか、甘いものばっかじゃない?」
「うん」
「読書の秋とか、スポーツの秋とか」
「さいきん、としょかんいってないね」
「行ってないなあ……」
「スポーツは、えあろばいくしてる」
「夏からずっとだけどな」
「あと、なんのあき、あったっけ」
「あー……」
なんだっけ。
「食欲の秋──は、言ったも同然だよな」
「いも、くり、たべたいねえ」
「──あ、芸術の秋は?」
「げいじゅつ……」
うにゅほが小首をかしげる。
「げいじゅつ、よくわかんないね」
「絵を描くとか」
「◯◯みたいに?」
ホコリをかぶった液晶タブレットに視線を向ける。
「俺も、一年くらい描いてないから……」
「げいじゅつのあきだよ」
「芸術ってほどでもないし」
「げいじゅつって、なに?」
「……よくわからないな」
「うん」
俺たちは俺たちで、俺たちらしく秋を楽しもう。
そんなことを思うのだった。
-
2021年9月17日(金)
「はー……」
ぐ、と伸びをする。
「ひとまず、直近のタスクは片付いたかな」
「おつかれさま」
「おつありー」
うにゅほが小首をかしげる。
「おつあり?」
「あー。お疲れさまって言ってくれてありがとう、みたいな」
ネットスラングが出てしまった。
「すーごいりゃくしたね……」
「たしかに、随分圧縮されてたな。意識してなかったけど」
「ね、ほかにないの?」
「他に……」
おかあり。
おやあり。
このあたりは同じ系統だから、例に出してもつまらないだろう。
「微レ存、とか」
「びれそん」
「微粒子レベルで存在している、の略」
「びりゅうしレベル?」
「すごく低い確率、みたいなニュアンス」
「ふんふん」
「あとは、ググるもそうだな」
「そなの?」
「Google検索する、って意味だから」
「あー」
うんうんと頷く。
「ふつうにつかってたね」
「ググるは市民権得てるからな。うちの母さんでもわかる」
その代わり、死語に片足突っ込んでるような気もするけど。
「いろいろあるねえ」
「もっとたくさんあるんだけど、パッと出てこないな」
「そか」
「××は、なんか出ない?」
「うーと」
思案し、
「たぴる、とか」
「あー、聞いたな」
「でしょ」
「結局、一度もタピらなかったけどな」
「ブーム、おわっちゃったね」
「残念?」
「べつに……」
流行り廃りに興味のない子である。
次に何が流行るかわからないが、たぶん手は出さないだろうなあ。
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2021年9月18日(土)
「──…………」
デスクの上が、汚い。
うずたかく本が積み上げられ、さまざまな小物が所狭しと並べられている。
「片付ける、……かー」
「あ、かたづける?」
「さすがにな……」
ずっと気になってはいたのだ。
つい後回しにしてしまっていただけで。
「ずっと、きになってて」
「××もか」
「もの、おおくて、モップかけられないし……」
「……申し訳ない」
デスクの上は、俺の管理だ。
取り決めをしたわけではないが、うにゅほはデスクのことに口を挟まない。
「掃除しろって言っていいんだぞ」
「ひつようで、そうしてるのかもしれないし……」
「それはない」
「ないの」
「ただの怠惰だよ……」
「そか……」
「と言うわけで、片付けたいと思います」
「てつだうね」
「お願いします」
「おねがいされました」
うにゅほと共に、デスクを片付ける。
まずは、二、三十冊も積み上がった本からだ。
「……ほんとバラバラだな。本棚から適当に抜き取って、読んで、そのまま」
「ちゃんと、もどさないとね」
「うん……」
本を片付けたあとに残ったのは、飲み薬、軟膏、点鼻薬といった薬と、爪切り、毛抜き、綿棒といった衛生用品などだ。
あまりに細かいものばかりで、うにゅほがハンディモップを掛けられなかったことも頷ける。
それらを引き出しに仕舞い、汚れたデスクを消毒用エタノールで拭くと、見違えたように綺麗になった。
「よし、終わり!」
「おつかれさま」
「××も、お疲れさま」
「このじょうたい、いじしてね」
「はい……」
二週間、持つかな。
頑張ろう。
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2021年9月19日(日)
「──…………」
うにゅほが、目元をくしくし擦る。
一度ならば気にも留めないが、幾度も繰り返すとなれば心配になってくる。
「どした」
「めーいたい、かも……」
「かも?」
「いたくない、かも」
「どっちだ」
「いわかんある」
「ふーむ……」
うにゅほを手招きする。
「目、見せてみて」
「はい」
うにゅほの頬をぺちぺち叩いたあと、そっと目蓋を開かせる。
「右だけ、すこし充血してるな」
「うん……」
「目薬さしとくか」
「さしてー」
「はいはい」
うにゅほは、いまだにひとりで目薬をさせない。
練習すればいいのだろうが、さしてやるのも楽しいのでそのままにしている。
「上向いて」
「はい」
「目、開いたまま」
「はい」
「閉じないようにな」
「はい」
ぽた。
点眼する。
「う」
うにゅほが、両目を、しょぼしょぼと閉じる。
「ありがと……」
「これで様子見、だな」
「よくなってきた、かも」
「──…………」
そんなにすぐに効くものかと疑問に思ったが、プラセボだとしたら指摘するのは逆効果だ。
「なら、よかった。目が痛いときはすぐに言うんだぞ」
「うん」
「目が痛いかも、のときも言うんだぞ」
「わかった」
ついでに自分にも点眼し、目薬をしっかりと片付けた。
デスクの上は、まだ綺麗である。
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2021年9月20日(月)
「──あっ」
カレンダーを見て、ふと思い出す。
「資格試験……」
「あ」
「勉強、してない」
「してない……」
「──…………」
「──……」
「しないとな……」
「うかる?」
「勉強しないと、受からない」
「しないと」
「はい……」
わりと重要な資格であり、早めに取ることが求められている。
ただ、
「筆記だけなら前に受かってるから、なんとかなるとは思うんだよな」
「そなの?」
「一度覚えたことだから、思い出せれば……」
「おもいだせる?」
「──…………」
「──……」
「勉強しないと……」
「しないと」
「はい……」
一から覚え直すよりましとは言え、二年のブランクがある。
筆記試験は、もう、二週間後だ。
かなりギュウギュウに詰め込む必要があるだろう。
「でも、最近は便利だな。YouTubeで試験対策できるんだから」
「べんりだねえ」
「動画見てるだけで勉強できるんだから、楽なもんだよ」
うにゅほが、俺の頬をつつく。
「ゆだんしたら、だめ」
「……はい」
「またおちるよ」
「受かりたいなあ」
「べんきょうしましょう」
「はい」
誰かに尻を叩かれなければ勉強できない俺である。
0か100かの人間なので、いざ始めればなんとかなるとは思うけれど。
まあ、無理のない程度に頑張ろう。
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2021年9月21日(火)
「読書、してねえー……」
「──…………」
うにゅほが、俺の手元に視線を向ける。
漫画があった。
「……いや、わかるぞ。何が言いたいかはわかる」
うにゅほを制し、告げる。
「漫画は読書に入らない、とは思わない。俺が言いたいのは"読書体験"なんだ」
「?」
「ほら、最近は既読の本か、追ってるシリーズの新刊くらいしか読んでないだろ」
「うん」
「新しい物語に心奪われる、新鮮な読書体験。先へ先へと夢中になって読みふけることが、最近はないなって」
「あー」
うにゅほが、うんうんと頷く。
「あたらしいの、かってないもんね」
「小説なんて数年買ってないよ。読んでるのは、前に読んだことあるやつだけだ」
「つついやすたか、とか」
「まだ小説書いてるのかな、あの人」
とっくに八十を越えている気がするけれど。
「しらべてみる?」
「そうするか」
調べてみた。
「……今年の二月に短編集出てる」
「なんさいだっけ」
「御年八十六歳、だって」
「すごい……」
「年齢的に、最後かもしれないな。買っておくか」
「そうしましょう」
Amazonでポチり、うにゅほへと向き直る。
「なんかこう、新しいものを取り入れるのにエネルギーが必要と言うか……」
「エネルギー?」
「今のだって、筒井康隆の新刊だから買ったわけだろ。まったく知らない作家の、まったく知らない作品じゃない」
「そだね」
「なんだろうな、億劫なんだ。気持ちわかってくれる?」
「うーと……」
しばし思案し、
「……ちょっと、わからない、かも」
「そっか」
「ごめんね……」
「謝ることじゃないよ」
新しいことに心躍らせるのは、心が健康な証拠だ。
うにゅほには、そうあってほしい。
そんなことを思った。
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2021年9月22日(水)
「──…………」
チーン。
脳内で仏具の鈴が鳴る。
口から魂がこんにちはしそうな気分だった。
「◯◯……?」
うにゅほが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「……ああ、いや、ちょっとあって」
「ちょっと?」
「実は──」
事情を話す。
未確定な事柄が多いため、詳細は割愛する。
ただ、決して良い話ではないことだけ付記しておく。
「……それ、ほんと?」
うにゅほの顔が青ざめていく。
「まだ、わからない。ただ、そうなるかもしれない。覚悟だけしておいて」
「うん……」
「──…………」
「──……」
チーン。
うにゅほの脳内でも、さぞ美しく仏具の鈴が響いていることだろう。
「……はぁー……」
ひとつ、大きく溜め息をつき、顔を上げる。
「落ち込んでても仕方ない。何か、こう、気分が上がることをしよう」
「そだ、ね……」
「ほら」
ショックから抜けきれていないうにゅほを、膝の上に無理矢理座らせる。
「わ」
ぎゅー。
うにゅほの腰に腕を回しながら、告げる。
「動画見よう、動画。××、マウス操作して」
「わたしが?」
「俺、××を抱き締めるので忙しいから」
「そか」
くすりと笑い、うにゅほがマウスに手を伸ばした。
「なにみよう」
「癒されたい……」
「いぬ?」
「猫でもいいぞ」
「ねこ」
「アライグマでもいい」
「なんでもいいんだ」
「なんでもいいよ」
しばしのあいだ、おもしろアニマル動画にふたり仲良く見入るのだった。
なるようにしか、ならないものだ。
-
2021年9月23日(木)
「あ゙ー……」
ごろん、ごろん。
ベッドの上で転がる。
何もやる気が起きないのだった。
「あー……」
ごろん、ごろん。
隣のベッドで、うにゅほが転がっている。
何もやる気が起きないのであろう。
「どこにも行く気しないし……」
「うん……」
「どうにもやる気が起きないし……」
「うん……」
「……寝るかー」
眼鏡を外し、アイマスクを手に取る。
「ね」
「うん?」
「そっち、いっていい?」
「いいよ」
ぽん、ぽん。
ベッドの端に寄り、自分の隣を叩く。
「うへー……」
うにゅほが、いそいそと、俺のベッドに乗り込んでくる。
「いっしょにねるの、ひさびさ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「腕枕する?」
「うで、いたくなるしょ」
「それは、まあ」
「だから、いいよ」
「そっか」
うにゅほが、俺の隣でまるくなる。
それを守るように軽く抱き締め、目を閉じた。
懐がぽかぽかする。
うにゅほの匂いが鼻をくすぐる。
腕に触れた髪の毛が、絹糸のように滑らかで心地良い。
この子は、抱いて眠るために存在しているのかもしれない。
そんな益体もないことを考える。
「──……すぅ」
うにゅほが、すぐに寝息を立てる。
俺は、うにゅほの温もりを感じたまま、しばらくのあいだ眠れずにいた。
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2021年9月24日(金)
「なまたさう」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「なまたさう」
「なまたさう……」
「なんだっけ、これ。なまたさう」
「しらない」
「何かで読んだ記憶があるんだよな……」
絶妙に記憶に引っ掛かる響きの言葉だ。
「しらべる?」
「うーん……」
「しらべない?」
「なんでもかんでもすぐに検索だと、記憶力が衰える気がしないか」
「わかる」
「だから、すこし唸ってみよう。××も手伝って」
「わたし、しらないけど……」
「ほら、何気ない会話から糸口が見つかることも多いだろ」
「はなせばいいの?」
「ああ」
「あした、どようびだね」
「だな」
「あさって、にちようび」
「××、土日の予定は?」
「ないよ」
「俺もない」
「しってる」
「××に予定がないの、実は知ってた」
「しってたの、しってる」
「××はなんでも知ってるなあ」
うにゅほの頭を、うりうり撫でる。
「うへー……」
「すごいすごい」
「おもいだせそう?」
「ぜんぜん」
「そか……」
「××はせっかちだな。まだ一分くらいしか話してないぞ」
「はやくおもいだせたら、いいなって」
「なんなんだろうな、なまたさう……」
「しらないひびき」
「……うーん」
きっかり一時間後、検索をかけた。
「あ」
「わかった?」
「大昔のラノベの、呪文──みたいなものだ」
「あ、じゅもん」
「そりゃ思い出せないはずだよ。高校のときに買ったやつだもん」
「すーごいまえだ……」
懐かしい。
久し振りに読んでみようかな、と思った。
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2021年9月25日(土)
「──……!」
天啓を得た。
「××、わかったぞ!」
「なにー?」
ベッドの上で、シーリングライトを指差す。
「しばらく前に、勝手に常夜灯がついてたことがあったろ」
「あった、あった」※1
うにゅほが、うんうんと頷く。
「さいきんないけど」
「あれ、理由わかった」
「ほんと?」
「リモコンを見てくれ」
「うん」
シンプルなリモコンだ。
中央に全灯、上に常夜灯、下に消灯、左右に明るさ調節のボタンがある。
「電気つけるとき、どうする?」
「ここおす」
うにゅほが、全灯のボタンを指差す。
「じゃあ、消すときは?」
「ここ」
消灯のボタンを指差す。
「常夜灯と、消灯。押し間違えることはないよな」
「ないとおもう……」
「でも、押し間違えてたんだよ。俺が」
「◯◯が?」
「ああ」
頷き、リモコンを定位置に置く。
俺のベッドの、ヘッドボードの上だ。
「いつも、こんな感じで置いてあるよな。縦に置くスペースはないから、横に」
「あ」
「わかった?」
「わかった!」
「どうぞ」
「うえとしたはまちがえないけど、みぎとひだりはまちがえる!」
「正解!」
わかってみれば単純な話だ。
消灯を押そうとして、常夜灯を押していた。
ただ、そんな簡単な間違いをするはずがないと、したとして気付かないはずはないと、そう思い込んでいただけなのだ。
「……お騒がせしました。今度から気を付けます」
「なんか、すっきりしたね」
「だな」
喉の小骨が取れたような心持ちだ。
いささか間抜けな結末ではあるが、謎が解けてよかった。
※1 2021年9月10日(金)参照
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2021年9月26日(日)
「……かた、いたい」
「肩?」
「うん」
「肩凝りか」
「わかんない……」
うにゅほの背後に回り、肩に触れる。
「たしかに、すこし張ってるな」
「こってる?」
「凝ってる。珍しいな」
「うん……」
「何か、肩凝るようなことした?」
「……うーん」
しばし思案し、
「した、かなあ。したかも。あんまし、おぼえないけど」
「そっか」
肩の後ろに親指を添え、ぐいぐいと力を込める。
「うぎ」
「揉んで差し上げよう」
「あ、り、あとー」
細い肩を、つまむように揉んでいく。
「いぎ、ぎ……」
「痛い?」
「ちょっと」
「気持ちは?」
「ちょっと……」
すこし、指の力を弱める。
「あ──」
うにゅほの肩から力が抜けていく。
「どうですかー」
「きもちい、かも……」
なるほど、このくらいの力加減か。
「××は、いつも頑張ってくれてるからな。肩も凝るだろ」
「そかな」
「そりゃ、家事はたいていやってるし……」
炊事、洗濯、掃除。
ひとりでこなしているわけではないが、すべてに深く関わっている。
我が家の家事は、うにゅほがいなければ回らないのだ。
「わたし、おやくだち?」
「お役立ち」
「うへー」
「背中もマッサージしようか。ベッドにうつ伏せになって」
「はーい」
しばらくのあいだ、うにゅほをいたわるように、彼女の体を揉みほぐした。
気付けば、うにゅほは眠りに落ちていた。
疲れていたのかもしれないと思った。
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2021年9月27日(月)
「──……ふあ」
資格試験のテキストを開きながら、あくびをする。
「べんきょう、すすんでる?」
「進んでないねえ……」
「そか……」
「やる気が、かーけらも出てこない」
「わかるけど」
「モチベーションが上がらない」
「うん……」
「やめたい」
「やめる?」
「──…………」
いざ、そう言われてしまうと、困る。
「……そんな感じで、思い切れたらいいんだけどなあ」
既に受験料は支払っているし、テキストもそれなりの値段がした。
筆記試験は一週間後に迫っている。
ただ、頑張る理由が奪われてしまったのだ。
この資格を取ったところで、なんにもならない。
俺に残されたのは、"受験料がもったいない"という、つまらない理由だけなのである。
「はー……」
再び、テキストに視線を落とす。
「べんきょうするの?」
「いちおうな。取って損があるわけでなし、受かるなら受かったほうがいいだろ」
「それは、うん……」
「あと一週間、誤魔化し誤魔化し勉強してみるよ」
「◯◯がきめたなら、いいけど」
「……不満げ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「本当は?」
「……むりに、しなくていいとおもう」
「うん……」
「だって、いみないし」
「うん」
「がんばらなくて、いいよ」
「そっか……」
うにゅほの頭を、ぽんと撫でる。
「××が心配してくれると、なんだかやる気が出てくるな」
「えー?」
うにゅほが口を尖らせる。
「がんばるの?」
「ちょっとだけな」
「……そか」
あと、たったの一週間だ。
やってもやらなくても同じなら、やったっていいさ。
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2021年9月28日(火)
本棚の整理をしていたら、大槻ケンヂのステーシーが出てきた。
「うわ、懐かしい」
うにゅほが、俺の手元を覗き込む。
「ステーシー、しょうじょゾンビさいさつだん……」
「十五歳から十七歳の少女たちがゾンビになって、それをぶち殺す話」
「……うええ」
うにゅほが、思いきり眉を顰める。
「ひどい……」
「まあ、正直グロくてひどい話ではあるんだけど、不思議な魅力があるんだよな」
「そなの?」
本棚の一角を指差す。
「××、武装錬金は読んだことあるだろ」
「うん、すき」
「あれ、ステーシーの影響をかなり受けてる」
「え!」
正確には、ステーシーだけではなく、作者である大槻ケンヂの影響だけど。
「まず、再殺って言葉がそう。死んで生き返ったステーシーを殺すことを、再殺って言うんだ」
「あ、でてきたきーする」
「再殺部隊なんて、まんま出てくるぞ」
「おー……」
「パピヨンの武装錬金、ニアデスハピネスもステーシーが元ネタ」
「すごい」
「面白いだろ」
「うん、おもしろい」
「まあ、××は読まないほうがいいな。刺激が強すぎる」
うにゅほが苦笑する。
「よまないよー……」
「でも、面白い逸話があってさ」
「?」
「作者の大槻ケンヂは、途中のある章を、書くんじゃなくて"喋った"んだって」
「……??」
大きく首をかしげる。
「口述筆記。テープレコーダーに向けて、延々とぶつぶつ呟いたらしい」
「え、なんで……?」
「……ノイローゼだったんじゃない?」
「すごい、けど」
「ちょっと怖いよな」
「うん……」
「それから、大槻ケンヂって歌手で、このステーシーの歌を──」
「◯◯、よませたいの?」
「いや、ぜんぜん」
本棚を整理すると、懐かしいものばかりが出てくる。
面倒だが、悪くない作業である。
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2021年9月29日(水)
「九月も、もうすぐ終わりだな」
「はやいねえ……」
「十月、十一月、十二月と来て、すぐに一年が終わる。冬も近い」
「ゆき、ふるかな」
「降るさ、嫌でも」
北海道だもん。
「◯◯、なによんでるの?」
「これ?」
手にした文庫本を差し出す。
「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの、たったひとつの冴えたやりかた」
昨日、本棚の整理をしていて出てきたものだ。
「あ、なんかきいたことあるかも」
「タイトルは有名だからな。同じSFなら、アンドロイドは電気羊の夢を見るか、くらいには」
「そっちもきいたことある」
「中身は?」
「しらない」
「たったひとつの冴えたやりかたは短編だし、名作だよ。読んでみるのもいいかもしれない」
「◯◯よんだら、よもうかな」
「ああ」
うにゅほが、小首をかしげる。
「べんきょうは?」
「──…………」
「しないの?」
「休憩中……」
本棚の整理なんぞをしたものだから、再読したい本が何冊も出て来てしまった。
ドグラ・マグラ。
玩具修理者。
アルジャーノンに花束を。
パプリカ。
奇偶。
まだまだある。
勉強をしたくないが故の逃避であることは自覚しているが、どうにも読書欲が募って仕方がないのだった。
「よんだら、かたづけないと、だめだからね」
「……はい」
頷き、デスクに置かれた数冊の本を片付ける。
資格試験のテキストも片付けてしまいたいが、そういうわけにも行かないのだった。
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2021年9月30日(木)
「ふー……」
風呂上がりのうにゅほが、ドライヤーで髪を乾かしている。
「ね、◯◯。どうしてる?」
「何が?」
「おふろばのドア」
「風呂場のドア……」
軽く思案する。
思い当たることはあった。
「勝手に開くこと?」
「うん」
浴室のドアは、建て付けが悪いらしく、しっかり閉じても薄く開いてしまう。
以前からその傾向はあったのだが、ここ最近は、いっそ閉まっている時間のほうが短いほどだ。
「だついじょ、ぬれて、ふくのたいへん」
「あー……」
「なるべく、せなかでおさえるんだけど……」
「……××」
「?」
「鍵、あるぞ」
「かぎ」
「風呂場のドア、鍵がある。鍵を掛ければ開かないよ」
「え!」
うにゅほが目をまるくする。
「……かぎ、あったきーする」
「ドアの上のほうに」
「あったきーする!」
「あれ、普段使わないもんなあ」
「すーごいかんたんなことだった……」
「解決解決」
「◯◯、いつきづいたの?」
「実は最近」
「さいきんなの?」
「二週間前くらいかなあ。それまでは、××と同じく、背中で押さえてた」
「なかま」
「仲間仲間」
「おふろのときのこと、はなさないから、きーつかなかったね……」
「だな……」
些細なことだし、いちいち話題にも出ない。
他の家族は、鍵に気が付いているのだろうか。
今度確かめてみようかな。
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以上、九年十ヶ月め 後半でした
引き続き、うにゅほとの生活をお楽しみください
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2021年10月1日(金)
「ぶえー……」
デスクに突っ伏しながら、資格試験のテキストを鼻先でめくる。
やる気がすこぶるないのだった。
「……イブラヒモビッチ」
「?」
「誰だっけ、イブラヒモビッチ」
「なまえなの?」
「名前」
「そなんだ」
「誰だっけなー……」
そんなことを呟きながら、溜め息をつく。
「やっぱ、勉強やめようかな……」
カッコつけて頑張ると言ったくせに、根性のない男である。
「やめるの?」
「迷い中……」
「がんばらなくて、いいよ。うかってもこまるしょ」
「そうなんだよなあ……」
受けるのならば、受かったほうがいい。
それは確かだ。
だが、筆記に受かれば、今度は技能試験がある。
これで終わりではないのだ。
「やめ、る、かー……?」
「うんうん」
「でもなあ……」
「やる?」
「……うーん」
追い込めば、恐らく受かる。
だからこそ悩ましい。
「勉強しても受からないのなら、こんなに迷わなかったのに……」
手応えはある。
だからこそ気忙しい。
「──よし!」
「きめた?」
「コインで決めよう」
「えー……」
「表でも、裏でも、出たほうに従う。××は証人な」
「わかった」
周囲を見渡すが、コインはない。
だから、手近にあったペットボトルのキャップを手に取った。
「これでいいや」
「いいのかな……」
「印刷部が上を向いたら、やる。裏返しだったら、やらない。一発勝負だ」
うにゅほが、こくりと頷く。
「それ!」
デスクの上に、キャップを放り投げる。
キャップは一度跳ねたあと、ティッシュ箱に当たり──
「──…………」
「──……」
立ったまま、止まった。
「……これは?」
「──…………」
デスクに突っ伏す。
「もう、どうでもいいや……」
すべてのやる気を失った俺は、またしばらくうだうだするのだった。
-
2021年10月2日(土)
「──…………」
テキストをぺらりとめくる。
結局、だらだらと勉強してしまっているのだった。
「うかりそう?」
「うーん……」
思案し、答える。
「五分五分かなあ……」
「ごぶごぶ」
「まあ、ある意味ちょうどいいよ。受かっても受からなくても、どっちだっていいし」
「そだねえ……」
「可能な限り過去問解いて、受けるだけ受けてくるさ。あとは野となれ山となれ」
必死に合格を目指すのではなく、すっぱりと諦めるのでもなく、どっちつかずのながら勉強。
実に半端で、俺らしい。
「明日、試験が終わったら、何しようか」
「のんびりしよ」
「のんびり」
「さいきん、きぶん、いそがしかったから」
「それはそうなんだけどさ……」
気忙しかったのは俺であって、うにゅほではない。
「××はどうしたい?」
「?」
うにゅほが小首をかしげる。
「俺じゃなくて、××がさ」
「のんびりしたい」
「××が?」
「うん」
「俺に気を遣ってるわけではなく?」
「うん」
「ならいいんだけど……」
十年近くも連れ添っているのだから、わかる。
うにゅほは嘘をついていない。
判断基準そのものが、俺寄りになってしまっているのだ。
「……うーん」
いいんだか悪いんだか。
いや、良くはないのだろうが、「本当はどうしたいんだ」なんて言ったところでうにゅほを困らせるだけだ。
なるべく還元できるよう、こちらが気を付けるしかない。
「わかった。帰ってきたら、のんびりしよう」
「そうしましょう」
小さなことからコツコツと、うにゅほ孝行していきたい所存である。
-
2021年10月3日(日)
資格試験が終わった。
「ただいまー」
「おかえり!」
てててと玄関まで出迎えに来てくれたうにゅほが、心配そうに尋ねる。
「どうだった……?」
「受かったんじゃないかな。たぶんだけど」
「おー!」
「自己採点をするには、解答速報を待たなきゃな」
「まずは、ごはんたべて、ねましょうね」
「そうしよう。さすがに眠い……」
昼食をとり、ベッドに倒れ込む。
「はー……」
頭の中を、残響のように、問題文が飛び交っていく。
一気に詰め込み過ぎた。
冴えた意識を無理矢理になだめながら、そのまま三時間ほど意識を飛ばす。
気が付くと、午後四時になるところだった。
「……おはよう」
「おはよ、ねれた?」
「寝た気がしない……」
「うと、もっかいねる?」
「いや、先に自己採点するよ。速報出てるだろ」
PCで検索すると、やはり解答速報が発表されていた。
赤のボールペンで、一問一問マルをつけていく。
「……うわ」
「?」
「捨てた計算問題、四択全部外してる。確率的に二、三問は稼ぐつもりだったのに」
「もう、だめ?」
「まだわからないけど」
勘こそ外れたものの、理解して答えた問題はおおよそ取れている。
「──64点。合格ラインが60点だから、受かってるみたい」
「やた!」
うにゅほが俺の手を取り、微笑む。
「◯◯、がんばったもんね」
「……いちおう、追い込みだけはな」
受かっても、落ちても、どちらでもよかった。
だが、勉強の成果が表れたことは喜ばしい。
「二ヶ月後、技能試験か。めんどくさいな……」
「おうえんしてる」
「ありがとな」
苦笑し、うにゅほの頭を軽く撫でる。
すこし憂鬱だ。
-
2021年10月4日(月)
資格試験を終え、ひとまずの自由を手に入れた。
「──…………」
ぼへー、とYouTubeを眺める。
これまで勉強に当てていた時間を、どうにも持て余しているのだった。
「のんびりしてますね」
「してますね……」
「わたしも、のんびりしていいですか?」
「どうぞ」
「はい」
うにゅほが、俺の膝に腰掛ける。
「うへー……」
おなかに腕を回して抱き締めると、うにゅほが嬉しそうに微笑んだ。
「なにみてたの?」
「鬱ゲーのプレイ動画」
「うつげー」
「鬱展開があったり、後味が悪かったりするゲームのことだな」
「え、なんで」
「好きなんだよ、鬱ゲー。わりと」
「そなの……?」
うにゅほが小首をかしげる。
「××には、そういうのあんまり見せなかったもんな」
「このゲームは?」
「これは、END ROLLってフリーゲーム。夢の中で、優しい街のひとたちと冒険するって内容だな」
「あれ、ふつう……」
「でも、この街のひとたちは、既に故人なんだ。ほとんど全員、主人公が殺した相手」
「えっ」
「主人公は死刑囚で、注射を打たれて優しい夢を見続ける。でも、人々が優しければ優しいほど、主人公は罪悪感に苛まれていくんだ」
「──…………」
「平気で人を殺し続けてきた主人公を、幸せな夢を見せて更正させる。そういう物語」
「えと、どうなるの……?」
「どう足掻いても、ハッピーエンドにはならないよな。ゲーム開始時点で、主人公はみんなを殺してるんだから」
「じかんをさかのぼって」
「ない」
「いきかえす……」
「そういう世界観じゃないんだよな……」
本当に、ただ、ただ、救いがない。
「……おもしろいの?」
「面白いけど、××にはどうかな。確実に気が塞ぐよ」
「うん……」
「別のにしよう」
「うん」
適当なゆっくり解説動画を開き、ふたりで眺める。
のんびり、ゆったり。
こんな時間の使い方がしたかったのだ。
-
2021年10月5日(火)
「◯◯、あのね」
「んー?」
読みふけっていた小説から顔を上げる。
「さっきね、おかあさんのぱそこんね、つかわしてもらったの」
「うん」
「なんか、まうすおかしいかも……」
「マウスが?」
「うん」
「どうおかしかった?」
「なんか、ききがわるい」
「マウスの?」
「うん」
「あー……」
思わず、幾度か頷く。
「それ、マウスの故障じゃないんだよ」
「そなの?」
「マウスパッドが古すぎて、固くなってて、あってもなくても同じなんだよな」
「たしかに、ふるいかも……」
「裏返したほうが使いやすいぞ、たぶん」
「──…………」
しばし思案し、うにゅほが口を開く。
「かってあげよ」
「マウスパッドを?」
「うん。だって、つかいにくいよ」
「なるほど、いいかもな」
「でしょ」
誕生日や母の日に大きなプレゼントすることはあっても、なんでもない日に細々とした品を贈るのは初めてかもしれない。
「まうすぱっど、おたかい?」
「お安いよ。千円くらい」
「おやすい」
「Amazonで調べてみるか」
「うん」
調べてみた。
「いろいろあるねえ……」
「なんか、黒くて四角いの多いな」
「かわいいのがいい」
「可愛いのか……」
しばらくページを進めていくと、
「──あ、うさぎ!」
うにゅほの目に留まったのは、ウサギの顔が描かれた円形のマウスパッドだった。
「かわいいかも」
「たしかに……」
「ね、これにしていい?」
「そうするか」
「うん!」
780円のマウスパッドをポチり、うにゅほと微笑み合う。
喜んでくれればいいのだが。
-
2021年10月6日(水)
「今朝見た夢に、べんちさんって人が出てきてさ」
「べんちさん?」
「べんちさん」
「どんなひと?」
「名前しか覚えてないな……」
「すわる、ベンチ?」
「えーとな」
iPhoneを取り出し、"べんち"と入力する。
だが、変換候補に目的の漢字はない。
「あれ、ないな……」
「どんなじ?」
「難しくはないんだけど、珍しい感じの」
PCを起動し、"べんち"と入力する。
「……出ない」
ATOKでも変換されないとなると、途端に自信がなくなってきた。
「夢で見た適当な漢字だったのかなあ……」
「そんなことないとおもうけど」
「そうかな」
「◯◯、かんじ、くわしいもん」
うにゅほからの信頼を感じる。
「よし、辞書サイトで調べてみるか」
「うん」
Weblio辞書を開き、"べんち"で検索する。
「──あった!」
「ね、あったしょ」
「ああ、よかった。思い違いじゃなかった」
「どんなかんじ?」
うにゅほがディスプレイを覗き込む。
べん‐ち【×胼×胝】
《「へんち」とも》「たこ(胼胝)」に同じ。
「たこ」
「ペンだことかの、たこだな。胼胝ってこういう意味だったのか……」
「しらなかったの?」
「言われてみればそうだったかも、って感じ」
「べんちさんは、たこさん」
「……急に、今朝の夢がブルーオーシャンな響きに」
実際は、ペンだこのたこなのだが。
「それで、ゆめでどしたの?」
「──…………」
「?」
「……忘れた」
「わすれたの……」
「待って待って、思い出す。何を話そうと思ってたんだっけ……」
夢の記憶は、砂浜に描いた文字のように、あっと言う間に波に流されてしまう。
結局、日記を書いている今もなお、今朝の夢の内容を思い出すことはできないのだった。
-
2021年10月7日(木)
近所のスーパーへと赴き、ふりかけコーナーに立ち寄った。
「あったあった。やっぱこれだよな、すきやき」
「◯◯、すきやきのふりかけ、すきだねえ」
「いちばん美味い」
「ほかの、かわないの?」
「あー」
周囲を見渡す。
丸美屋のふりかけだけでも、十種類近くはある。
「どれか、買ってみようか。どれがいいかな」
「これは?」
うにゅほが指差したのは、てりマヨふりかけだった。
「◯◯、すきそう」
「たしかに」
俺は、マヨネーズが好きである。
「試しに買ってみるか」
「わたし、どれすきそう?」
「すきやき」
「すきだけど……」
「てりマヨも好きそう」
「そだけど……」
「うーん」
「その他、強いて言うなら──」
十秒ほど視線を彷徨わせ、大袋のふりかけを手に取る。
「これは? ペパたま」
うにゅほ、塩コショウでの味付け好きだし。
「なるほど」
「これも買ってみようか」
「うん、ためしてみましょう」
「ついでに、味道楽と、焼肉ふりかけも買っちゃえ」
「ふりかけまつりだ」
「今日の夕飯、おかずいらないかもな」
「つくるけど……」
「食べるけど」
夕食時、てりマヨふりかけでごはんを食べてみた。
美味しかった。
すきやきのほうが好みだが、これはこれで常備しておきたい美味さである。
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2021年10月8日(金)
「はァ……」
帰宅早々、深く、深く、溜め息をつく。
「ほんと気疲れしたよ、今日……」
「だいじょぶ?」
「大丈夫──では、ないかなあ。いろいろと」
「そか……」
うにゅほが俺の手を取り、引っ張っていく。
「?」
「よこになりましょう」
「眠れそうにないよ」
「ねれなくても!」
「──…………」
導かれるまま、床に就く。
「ひざまくら、するね」
「足、痺れるだろ」
「するの」
「はい……」
うにゅほの膝に後頭部を預け、目を閉じる。
脳の変なところが興奮しているのか、眠気が訪れる気配はない。
だが、心地良かった。
うにゅほの手が額に触れる。
すこし冷たい。
「◯◯、がんばったね」
「そうかな」
「つかれるくらい、がんばった」
「……そうだな」
俺は、頑張ったのだ。
うにゅほがそう言ってくれるのだから、それでいい。
「あとでさ、久し振りにアニメ見ようか。友達に勧められたんだ」
「どんなの?」
「イド:インヴェイデッド、だったかな。ちょっと変わった探偵ものだって」
「ひとしぬ?」
「死ぬだろうな。やめとく?」
「みる。おもしろそう」
「じゃ、三十分くらいしたら」
「うん」
イド:インヴェイデッドはたいへん面白く、この時間まで一気見してしまった。
久し振りにインプットらしいインプットをした気がする。
勧めてくれた友人に感謝である。
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2021年10月9日(土)
「先週の今頃は、試験勉強でてんやわんやだったなー」
と、うにゅほを膝に乗せながら呟く。
「おつかれさまだね」
うにゅほが後ろに手を伸ばし、無理な姿勢で俺の頭を撫でた。
「しけん、うかったし」
「筆記だけだけどな」
「もうひとつも、きっとうかるよ」
「どうかなー……」
正直、頑張り次第ではあると思う。
頑張れば受かるし、手を抜けば落ちる。
「しけん、いつだっけ」
「十二月」
「こうしゅう、あるんだっけ」
「十一月の中旬に講習があって、申し込みはしてある。本格的な勉強はここからかな」
「じゃあ、いっかげつ、のんびりだね」
「仕事は普通にあるけどな……」
「◯◯はつかれやすいから、のんびりしないと、だめ」
「ダメですか」
「だめです」
断言されてしまった。
「せんしゅうのぶんも、きょうはのんびりする」
「はい……」
「がんばるの、きんし」
「わかりました」
「なにみる?」
「何を見ようか。昨日のイド、面白かったよな」
「うん、おもしろかった!」
「深夜まで見てたから、寝不足にならなかったか?」
「ひるねしたよ」
「偉い」
「うへー」
「ストーリーものは面白いけど疲れるから、癒やし系で行こう」
「ねことか?」
「怪談とか」
「いやし……?」
「好きなんだよ、怪談」
「しってるけど」
「××が嫌なら、猫動画にするけど」
「ううん、かいだんにしましょう」
「なるべく怖くないの選ぶから」
「うん」
それから一時間ほど、うにゅほを抱き締めながら、怪談動画に耳を傾けた。
怖がるうにゅほが可愛かった。
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2021年10月10日(日)
「──あ、可愛い。どうしたの、これ」
うにゅほからうさぎのマウスパッドを受け取った母親が、目を白黒させる。
「おかあさんのまうすぱっど、だめになってたから」
「たしかに、使いにくいとは思ってたのよね」
「だからね、あげる」
「うん、ありがとうね」
「うへー……」
うにゅほが、てれりと笑う。
「××の誕生日、今週だもんね。ごちそう作るから」
「わたしもつくるね」
「お手伝い、お願いね」
「うん!」
喜んでくれたようで、一安心だ。
自室へ戻り、うにゅほの頭に手を乗せる。
「よかったな」
「よかったー……」
「大事にし過ぎて、使わなかったりして」
「えー!」
「冗談、冗談。日用品だし、喜んで使うだろ」
「そか」
カレンダーに視線を送る。
「××の誕生日、もうすぐだな」
「うん、たのしみ」
うにゅほの誕生日は、10月15日。
彼女が我が家にやってきた日だ。
「──そう言えば、ちょうど十年か」
「じゅうねん?」
「××がうちに来て、十年」
「そなんだ」
「自分のことだろー」
うりうり。
「うへー」
「十周年だなんだって派手にするのもらしくないし、いつも通りの誕生日でいいか?」
「うん、いいよ」
「では、当日を楽しみにしていてください」
「はーい!」
十年。
もうすぐ十年が経つ。
長いようで短く、充実した日々だった。
きっと、二十年、三十年と、共に年を重ねていくのだろう。
それもまた、楽しみである。
-
2021年10月11日(月)
「××さん」
「はい?」
「アンパンマンの映画を観ようと思うんです」
「え、なんで?」
「面白そうだったので……」
「アンパンマンって、こどもみるやつ……」
「それを言われてしまうと、ドラえもんだって、クレヨンしんちゃんだって、子供が見るやつだよ」
「そだけど」
「××の言いたいことは、わかる。対象年齢がさらに低いって言いたいんだろ」
「うん」
「それが、馬鹿にできたものじゃないらしいんだよ」
「そなの?」
YouTubeを開き、履歴から、映画いのちの星のドーリィの挿入歌を開く。
「まあ、これを聞いてくれ」
「うん」
流れ出す、壮大な男性合唱。
曲目はアンパンマンのマーチ。
だが、曲調はあまりに悲壮で、とても幼児向けの映画で流れるものとは思えない。
「……すーごく、おもい」
「この映画、アンパンマンが死ぬんだって」
「え!」
「アンパンマンって、顔を交換すれば元気百倍で反撃が始まるだろ」
「たしか……」
「でも、この映画では違う。ガチで死ぬ。顔を交換しても無意味」
「え、どうするの?」
「劇場版のヒロインが、命を賭して生き返らせるみたい」
「……それ、アンパンマン?」
「アンパンマン」
「みたくなってきた……」
「だろ」
うにゅほを膝に乗せ、Amazonプライムビデオを開く。
「四百円でレンタルか。しちゃおう」
「しちゃえ、しちゃえ」
クレジットカードで四百円を支払い、映画いのちの星のドーリィを再生する。
結果、
「──…………」
「──……」
ふたりとも、無言で号泣だった。
「……すごかったな」
ティッシュで目元を拭いながら、うにゅほが答える。
「ばかにしてた、かも……」
「テーマが"なんのために生まれて、なにをして生きるのか"なのに、子供にも理解できる範疇で、かつ大人も刺してくるのがヤバい……」
「ほかのもみたくなるね」
「だな」
映画のドラえもんとクレヨンしんちゃんが大人でも楽しめるのは有名だが、そこにアンパンマンも加えるべきだ。
そんなことを思った。
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2021年10月12日(火)
起床し、顔を洗ったあと、うにゅほに挨拶をする。
「おはよ」
「おはよー」
ふと、うにゅほの鼻先が、ほんのすこし赤くなっていることに気が付いた。
「××、ニキビできてるよ」
「え!」
「ほら」
うにゅほを姿見の前まで導く。
「ほんとだ……」
「あんまりいじらないようにな」
「いじんないよ」
「潰さないように」
「つぶさないよー……」
苦笑しながら、うにゅほが俺を見上げる。
「あ」
「?」
「◯◯も、はなににきびできてる……」
「え、マジ?」
姿見に顔を近付けて、確認する。
うにゅほとほとんど同じ位置に、仲良くニキビができていた。
「おそろいだ!」
「へえー、こんなことあるんだな」
「わたしと、◯◯、なかよしだからだよ」
「そうなのかな」
「そうなの」
たまたまだと思うが、うにゅほがそう言うのならそうなのだろう。
「お揃いはいいけど、治さないとな。オロナイン塗ろうか」
「ぬってあげるね」
「ありがとう」
うにゅほがオロナイン軟膏を指に取り、俺の鼻先をつつく。
「いたくない?」
「大丈夫」
「じゃ、◯◯もぬってね」
「はいはい」
容器を受け取り、うにゅほの鼻先にオロナインを擦り込む。
「痛くない?」
「やさしい」
「ならよかった」
同じ日、同じ場所に、同じくらいの大きさのニキビができる。
うにゅほではないが、なんだか通じ合っているような気がしてしまうのだった。
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2021年10月13日(水)
「こんなものを買ってきました」
「?」
うにゅほに、小さな紙箱を差し出す。
「うおのめ、たこに……」
「うおの目の薬」
「◯◯、うおのめなの?」
「大きくはないし、痛くもないけど、らしきものが右足の裏に」
「そなんだ……」
「気になるから、治しておこうと思って」
「うおのめって、なに?」
「知らない?」
「なんとなくしか、しらない」
「そうだな。たこはわかるよな」
「べんち」
「そう、胼胝。皮膚の同じ場所を刺激していると、角質化してどんどん固くなっていく。ペンだこなんか、まさにそうだな」
「うん」
「うおの目は、皮膚の内側に芯ができたたこなんだよ」
「しん?」
「くさびみたいに、芯が刺さってる感じ。芯があると、押すとどうなる?」
「うと、くいこんで、いたい?」
「その通り。たこと違って、うおの目は痛いんだ。俺のは小さいから、ほとんど痛みはないけど」
「はー……」
うにゅほが、うんうんと頷く。
なんとなく理解したらしい。
「うおのめ、みして」
「はいはい」
靴下を脱ぎ、右足の小指の下あたりを指で示す。
「ほら、ここ」
「あ、なんかなってる」
よく見なければわからないが、ぽちりと角質化しているのがわかる。
「うおのめ、はりぐすりでなおるの?」
「薬で治るってのとは、すこしニュアンスが違うかもな」
「?」
「この貼り薬で皮膚を柔らかくして、芯を引っこ抜くんだよ」
「!」
うにゅほが目をまるくする。
「あしに、あなあく……」
「一時的にな。すぐに治るみたいだよ」
「……だいじょぶ?」
「大丈夫、大丈夫。市販されてるものだし」
「きーつけてね」
「わかった」
患部以外の場所を柔らかくしてしまったら、目も当てられない。
テープを貼ったあとは、ずれないように、常に靴下を履いておくことにしよう。
-
2021年10月14日(木)
玄関を出たとき、ひらりと舞う白いものが目についた。
「雪虫だ」
「え、どこ?」
「ほら」
視線で居場所を指し示す。
「ほんとだ」
「もう、十月も半分過ぎたもんな。そりゃ出てくるか」
「ゆきむし、あぶらむしなんだよね」
「そうそう」
「ふゆ、ちかいね」
「そうだな……」
憂鬱である。
うにゅほが、鼻息も荒く宣言する。
「ゆきかき、まかして」
「頼もしいな」
「うへー」
「まあ、任せきりにはしないけど」
「いっしょにがんばろうね」
「ああ」
さして頑張りたくもないのだが、頑張らなければ家が雪で埋まる。
やらねばならぬ。
「今年、雪多いかもって聞いたな……」
「そなの?」
「夏に暑い年ほど、冬は雪が多いんだとか」
「ことし、あつかったもんね……」
「半端なかったよな」
「てろてろ」
「てろてろ?」
「あつくて……」
相変わらず、独特の言語センスである。
「寒いと?」
「さむいと?」
「寒いと、なんて言うのかなって」
「うと、きしきし、とか」
「きしきし……」
わかるような、わからないような。
「眠いと?」
「ねむねむ……」
「それはわかる」
「でしょ」
そんな会話を交わしながら、スーパーマーケットへと向かうのだった。
-
2021年10月15日(金)
「──さ、どこ行きたい?」
「どこでも!」
思わず苦笑する。
「どこでもが、いちばん困るんだよなあ……」
「あ、そだね」
うにゅほが、はっとして答える。
「わたしも、ばんごはん、なんでもいいがいちばんこまる……」
「そういうこと」
「じゃ、おたるいきたいな。うみ、みたい」
「了解しました」
アクセルを踏み込み、小樽の方角へとハンドルを切る。
今日は、うにゅほの誕生日だ。
「本当は、ディナーとか予約するべきなのかもしれないけど」
「いいよー……」
「母さん、お寿司の用意してるしな」
「おかあさんのおすし、すき」
「酢飯が美味いんだよな」
「おす、こだわってるんだよ」
「やっぱり」
「ふらのでうってる、おすなんだって」
「あー、毎年なんか買ってた気がする……」
いまいち記憶が曖昧だけれど。
国道5号線を西進すると、やがて灰色の海が見えてくる。
「うみだー」
「海だな」
「いろ、くろいね」
「栄養がある証拠だな」
「そなの?」
「ハワイとか沖縄の海って、色が澄んでて綺麗だろ」
「うん」
「あれ、プランクトンが少ないんだ。だから漁には向かない」
「へえー……」
うにゅほが、うんうんと頷いた。
のんびりと車を走らせながら、他愛のない会話に花を咲かせる。
ただそれだけで、楽しい。
「……誕生日プレゼント、こんなのでよかったのか?」
「うん。いちにちデートけん」
「出会って十回目の誕生日なんだし、いろいろ考えてたんだけど……」
「だって、◯◯、たんじょうびじゃなくても、いろいろたくさんくれるんだもん」
「それは、うん」
反論できない。
「むりしないのが、プレゼント」
「──…………」
心が温かくなる。
長い信号待ちの途中、俺は言った。
「××、ちょっとこっち向いて」
「?」
「顔、こっちに寄せて」
「うん」
軽く、うにゅほの唇を奪う。
「!」
「これも、プレゼントということで……」
思わず目を逸らす。
気恥ずかしい。
「うへー……」
だが、当人は喜んでいるようなので、よしとしよう。
ぐるりと大回りして帰宅すると、母親の握った寿司が待っていた。
祝いの言葉とプレゼントに囲まれたうにゅほは、とても幸せそうだった。
-
以上、九年十一ヶ月め 前半でした
引き続き、後半をお楽しみください
-
うにゅほ「運営板閉鎖願いにご協力くださ〜い」
-
2021年10月16日(土)
うおの目治療用のテープを貼って、三日が経過した。
「さて、剥がすか」
「おー……」
うにゅほが、真剣な表情で俺の足の裏を覗き込む。
「そんな真面目に見なくても……」
貼り直すたび凝視されると、いまいちやりにくい。
粘着力の強いテープを剥がすと、うおの目のあった場所が真っ白にふやけていた。
「しん、どこだろ」
「芯ごとふにゃふにゃになってて、よくわからないな……」
「えー……」
「それっぽいところ、適当に掘るしかない」
「しかないの」
「しかない」
「けが、しない?」
「痛くない程度にすれば、大丈夫みたいだよ」
「そか……」
ピンセットがないので、毛抜きを消毒する。
「××、見ないほうがいいんじゃないか?」
「──…………」
うにゅほが、首を横に振る。
「みる」
「いいけど……」
毛抜きを用い、柔らかくなった角質を除去していく。
中央付近をあらかた取り去ると、あとには小さな穴だけが残った。
「……しん、とれた?」
「わからん……」
もともと小さなうおの目だから取れた気もするし、さらに奥に残っている気もする。
「うおの目の治療なんて、初めてだし」
「そなの?」
「そうなの」
「いたくない?」
「痛くはないかな。ただ、このまま放置していいのか不安ではある」
「さびお、はる?」
「貼っとくか」
「とってくる!」
患部に絆創膏を貼り、しばし様子を見る。
このまま完治してくれればいいのだが。
-
2021年10月17日(日)
「──…………」
気が付けば、午後四時。
眠りに眠り果てたのだった。
ベッドから下りようとして、
「うッ!」
腰が悲鳴を上げた。
「わ、だいじょぶ?」
「大丈夫、大丈夫……」
「すーごいねたねえ」
「えーと」
アップルウォッチで睡眠時間を確認する。
「九時間十三分、だって」
「あれ、おもったほどじゃない……?」
「寝たの、朝だからな」
「あ」
うにゅほが気付く。
「あさあったの、はやおきじゃなくて、てつや?」
「はい、徹夜でした」
「もー……」
「すみません」
「やすみだし、いいですけども」
「ははは」
「なにしてたの?」
「ゲームしてた」
「めずらしい」
「ゲームらしいゲーム、最近してなかったからな」
「なんのゲーム?」
「──…………」
「?」
「ノベルゲーム」
「よむやつ?」
「ああ」
「おもしろかった?」
「徹夜するくらいには面白かったな」
「すごい」
「でも、××向けではないかな。人とか死ぬし」
「あー……」
あと、エロゲーだし。
「よむそくどちがうから、いっしょにできないもんね……」
「そうだな……」
「◯◯、よむの、すーごいはやい」
「せっかちなんです」
「そうかも」
うにゅほが、くすりと笑う。
ちなみに、プレイしていたのは2004年に発売されたCARNIVALというゲームだ。
鬱ゲーと聞いて始めたのだが、プレイ後の印象は意外に爽やかだった。
FANZAでダウンロード購入できるので、気が向いた方は是非。
-
2021年10月18日(月)
「──……はー」
いろいろなことに片が付いた。
最良の結果には結びつかなかったが、やれるだけのことはやった。
ずっと、ふわふわと浮ついた気分だったものが、今はようやく落ち着いている。
それだけでも随分と楽になれた。
「おつかれさま」
うにゅほが、チェアにだらしなく腰掛けた俺の頭を、ゆるりと撫でる。
「たいへんだったねえ」
「ほんとな……」
「がんばったねえ」
「……うん」
言ってほしいことを言ってくれる。
してほしいことをしてくれる。
うにゅほは、俺の心を読むのがすこぶる上手い。
「ただ、今はすっきりしてるよ。天秤がどっちつかずでふらふらしてるのが、いちばん疲れるから」
「そうなの?」
「シーソーの真ん中に立って、バランス取ってたら?」
「つかれる……」
「そういうこと」
そういうことか?
胸中で自問自答しつつ、うにゅほの腕を引く。
「わ」
「だらだらしようぜ!」
「しよう!」
うにゅほが俺の膝に腰掛け、うへーと笑う。
「アップルウォッチが立てって言っても、今日は立たない!」
「といれは?」
「トイレは行く」
「だよね」
「膀胱炎になってしまう」
「なにみる?」
「とりあえず、新着でも見てみるか」
YouTubeのトップページで"9+"と書かれたベルマークを押し、新着動画を確認する。
「けっこうあるな……」
「さいきん、よゆうなかったもんね」
「ゆっくり消化しましょう」
「そうしましょう」
そうして、久方振りにゆったりとした時間を過ごした。
心穏やかでいられることの、なんと幸せなことか。
-
2021年10月19日(火)
スーパーに立ち寄ったので、ふりかけコーナーへと足を向けた。
「てりマヨ美味かったから、また買おう」
「あれ、おいしかったねえ」
「匂いがいいんだよな、匂いが。マヨネーズの香り」
「マヨネーズきらいだと、だめそう」
「マヨネーズ嫌いな人は、そもそも買わないしな」
「たしかに……」
てりマヨふりかけを、二袋カゴに入れる。
「××は、欲しいのある?」
「ペパたま、おいしかったけど、まだあるし……」
「あれもよかったよな。黒胡椒の風味が濃くてさ」
「ペッパーたまご、だもんね」
「まさに」
必要なものをカゴに放りながら、スーパーマーケットを練り歩く。
「甘いもの食べたい」
「かう?」
「買う」
「でも、◯◯、ダイエットちゅう……」
「ダイエット中です」
「ちょっとにしようね」
「ちょっとにするし、あと、和菓子にする」
「しぼうぶん、ないもんね」
「××はダイエット中じゃないし、好きなの選ぶといい」
「わたしも、わがしにしましょう」
「お揃い?」
「おそろい」
「好きだなー」
「すき」
和菓子コーナーを覗き込み、
「あ、黒糖まんじゅうがある」
「いいね」
「俺は黒糖まんじゅうにするけど……」
「うーと」
うにゅほが棚に手を伸ばす。
「わたし、いもきんつば」
「そこはお揃いじゃないんだな」
「おそろいもすきだけど、はんぶんこもすき」
「なるほど」
わかりやすい。
半分に分けたまんじゅうときんつばは、たいへん甘かった。
-
2021年10月20日(水)
「──……んッ、く」
チェアに腰掛けながら、ひとつ伸びをする。
「あふ……」
あくびも出た。
のんびりが加速して、いっそ暇なのだった。
「◯◯、ひまそう」
「暇です、はい」
「なにかする?」
「なにかしようか」
「なにする?」
「そうだなー……」
ふと思いつく。
「指相撲しよう」
「ゆびずもう?」
「指相撲」
「わたし、かてない……」
「だが、左手なら?」
「かてないきーする」
「両手なら」
「かてないきーする……」
「指相撲しながら腕相撲だ」
「かてない」
「指相撲しながら尻相撲は?」
「しりずもうって、おしりぶつけあうやつ?」
「そう」
「かてないし、ゆびずもうしながらできない……」
「そこは頑張ろう」
「むり」
「普通に相撲」
「かてない!」
「なら、何相撲ならいいんだ!」
「すもうじゃないとだめなの?」
「べつに」
「でしょ」
「でも、相撲が取りたい」
「とりたいの……」
「千秋楽、俺場所」
「とりたいなら、しかたないね」
うにゅほが、自室の真ん中で、可愛らしく四股を踏む。
「どすこい!」
「よし、ぶん投げてやる」
「なげないでー……」
「はっきよーい!」
「のこった!」
非力な張り手を受け流し、うにゅほを肩に担ぐ。
「わ!」
「キン肉バスター!」
「やめてー!」
しないけど。
しばらくのあいだ、うにゅほとぶつかり稽古に励むのだった。
-
2021年10月21日(木)
「んー……?」
右足の裏を覗き込みながら、唸る。
「うおのめのあな、ふさがった?」
「塞がりつつはあるんだけどさ」
「うん」
「そもそも、違うところを掘ってたかもしれない……」
「えっ」
「ほら、ここ」
穴の左上を指差す。
「なんか、これが芯な気がする」
「んー……?」
うにゅほが、足の裏に顔を近付ける。
風呂に入ったあとだから臭くはないのだが、なんとなく落ち着かない。
「じゃあ、かんけいないとこ、あなほったの……?」
「そうかも……」
「テープ、ずれたんだね」
「たぶん」
ずれたところが薬剤でふやけたから、ついその場所の角質を除去してしまったのだ。
「……また、やる?」
「やる。ここで引き下がれない」
「じゃあ、しるしつけとこ」
「印?」
「うーとね」
うにゅほが引き出しから油性ペンを取り出す。
「しん、これだよね」
「ああ」
そして、うおの目の芯を、小さく円で囲った。
「これで、ずれてもわかるよ」
「ナイスアイディア」
「でしょ」
うにゅほが得意げに胸を張る。
「一日一回貼り替えて、ずれてたら位置を調整する。あと、そもそもずれないように、他のテープで補強しておこう」
「そうしましょう」
今度こそ、うおの目を駆逐するのだ。
覚悟を決める俺だった。
-
2021年10月22日(金)
「××」
「はーい」
「友達から勧められた映画、観る?」
「なんてえいが?」
「ハウンター」
「どんなえいが?」
「ホラー、なのかな。いちおう」
「ホラー……」
うにゅほが眉尻を下げる。
「たぶんだけど、あんまり怖くないよ。その友達、ホラー苦手だし」
「あ、そなんだ」
「どうする?」
「なら、みようかな……」
「了解」
ぽん、と自分の太股を叩くと、うにゅほが膝に腰掛けた。
「うへー」
「アマプラで観れるらしい」
「べんり」
「送料無料になる上に、映画まで観れる。すごいよな」
「いくらだっけ」
「たしか、一年で五千円くらい」
「やすい……、の?」
「一ヶ月四百円ちょっとだから、安いんじゃないかな」
「あ、たしかに」
「一日に換算すると、十五円くらい」
「やすい!」
映画なんて、たまにしか観ないけれど。
プライムビデオで検索すると、目当ての映画はすぐに見つかった。
説明文を読み上げる。
「彼女は、自分が16歳の誕生日の前日を繰り返し過ごしていることに気付く──だって」
「ループものだ」
「いいじゃん、面白そう」
「ね」
うにゅほも乗り気になったところで、再生ボタンをクリックした。
ハウンターは、予想通り、怖い映画ではなかった。
怖さよりは面白さ、気になる展開が先んじて、恐怖を感じる暇がなかったのだ。
「はー……」
スタッフロールを眺めながら、うにゅほが溜め息をつく。
「面白かったな……」
「おもしろかった」
「久々に映画観たけど、当たりだ」
「うん……」
これを機に、また別の映画を観てみようかな。
気にはなるが腰の重い作品がいくつもあるのだ。
-
2021年10月23日(土)
「──さて」
うおの目治療用のテープを剥がす。
「再戦だ」
右手に構えるのは、毛抜きではない。
針だ。
「はり?」
「針」
「はりで、とれるの?」
「毛抜きだと、正直、やりにくかったから」
挟んで抜くのは諦めた。
ちくちくと患部を除去していくのだ。
「でも、印をつけたのは正解だったな」
薬剤でふやけた範囲に、ネームペンでつけた印が入っている。
「さすが××、いい仕事」
「うへー……」
「おかげで、今回は逃さずに済みそうだ」
小さな円をなぞるように、針を刺していく。
「……わ」
うにゅほが、そっと声を漏らす。
「あんまり見ないほうが……」
「みる」
「いいけど」
前もそうだったが、どういう気持ちで観察しているのだろう。
うおの目の芯の深さがわからないため、針を使って可能な限り掘っていく。
痛みを感じたあたりで手を止めると、足の裏に、深さ3mm程度の穴が開いた。
「……いたくない?」
「痛くはない」
「いたそう……」
「それは、うん。俺もそう思う……」
皮膚に対して深さ3mmって、実はけっこうなものだ。
「しん、とれたかなあ」
「これで取れてなかったら、ちょっとお手上げだな。もっと深く掘るってことだろ」
「にくまで……」
「怖いこと言われた」
肉まで掘るつもりはない。
「とりあえず、数日様子を見よう」
「うん」
さすがに完治してくれよ。
患部に絆創膏を貼りながら、そう祈るのだった。
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2021年10月24日(日)
「◯◯、あしだして」
「足?」
「さびお、こうかんする」
「あー」
昨日、うおの目の芯を除去したところか。
「ありがとう、お願いできる?」
「うん」
そっと、右足を差し出す。
「はがすね」
「ああ」
うにゅほが、絆創膏の端を爪の先でこそぎ、剥がしていく。
「……あれ?」
「どした」
「あな、ふさがってる……」
「えっ」
足の裏を覗き込む。
直径、深さ共に3mm程度の穴が、なくなっていた。
つるりと何事もなかったかのような顔をしているわけではないが、昨日あれほど掘った場所とは到底思えない。
「展開、早くない?」
「はやい……」
俺は、こんなにも自然治癒力の高い人間だったろうか。
それとも、うおの目治療ってこういうものなのだろうか。
わからない。
「でも、これなら絆創膏いらないんじゃないか?」
「いらないかも」
「じゃ、やめとこう」
「うん」
うにゅほが絆創膏を仕舞う。
「俺、しばらくずっと穴が開いたままなのかと思ってた」
「わたしも……」
「××も試してみる?」
「わたし、うおのめない」
「ほんと?」
「ないよ」
「見せてみ」
「はい」
靴下嫌いのうにゅほが、素足をこちらに差し出した。
つるりとした足を受け取り、しげしげと眺める。
「小さいなー……」
「◯◯が、おおきい」
「わりときれい」
「うへー」
「足フェチにはたまらないな」
「あしふぇちなの?」
「違うけど」
「そか」
「こちょこちょー」
「うひ!」
なんとなくくすぐると、うにゅほが身をよじった。
「もー……」
「つい」
またやろう。
-
2021年10月25日(月)
「いた」
うにゅほが、小さく声を上げた。
「どうした?」
心配して思わず振り返ると、うにゅほが右手の親指を舐めていた。
「ささくれ、むいた……」
「剥いちゃったか……」
気持ちはわかる。
「舐めないほうがいいぞ。雑菌入るから」
「つい」
「洗っておいで。絆創膏貼ろう」
「うん」
うにゅほが洗面所へ行っているあいだに、引き出しから絆創膏を取り出す。
「あらってきたー」
「親指出して」
「はい」
差し出された親指に、丁寧に絆創膏を巻いていく。
「これでよし、と」
「ありがと」
「ささくれ、剥かないほうがいいぞ」
「うん……」
「あれは、爪切りで、根元から切るのがいいんだってさ」
「しってる」
「だよな……」
わかっている。
わかっているのだ。
「でも、剥いちゃうんだよな」
「うん……」
「なーんか抗いがたい誘惑があるというか」
「むきたくなっちゃう」
「単に、爪切り取るのが面倒ってだけな気もする」
「わかる」
「じゃあ、こうしよう」
「?」
「ささくれできたら、お互いに言う。そしたら止めるだろ」
「なるほど……」
「他の指に、ささくれある?」
「うーと、ない。◯◯は?」
「今はないかな」
「ささくれ、できたら、いうね」
「俺も言うよ」
「うん」
互いにささくれを報告しあうことになった。
ひとりだとつい剥いてしまうし、これはこれで悪くはあるまい。
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2021年10月26日(火)
「友達と旅行に行ったんだよ」
「え、いつ?」
「昨夜」
「ゆうべ……」
うにゅほが小首をかしげる。
「天気が悪くなってきたから、慌てて喫茶店に入ったんだ」
「うん」
「雰囲気のいい喫茶店だったんだけど、すこし違和感があったんだよな」
「いわかん?」
「床に、女の顔があったんだ」
「おんなのかお……」
「喫茶店のマスターに聞くと、その顔は、幽霊だって言うんだ」
「あ、わかった。ゆめのはなしだ」
「その通り」
「さいしょにいってよー……」
「そのほうが面白いかと思って」
「つづき」
「はいはい」
居住まいを直し、話を続ける。
「俺は、その顔を踏もうとしてみた」
「ふんだの……」
「いや、避けられた」
「よけたの」
「楽しくなって何度もやってると、女の顔が怒ったらしくて、どんどん巨大化してきたんだ」
「おー……」
「ここでようやく怖くなってきて、目を閉じた。しばらく待ったあと、友達に、顔がどうなったか尋ねたんだ」
「どうなったの?」
「床一面に広がったよ、って言われた」
「おおきい……」
「薄く目を開けて確かめると、女の顔は、床どころか壁にまで広がってて、ゲームのバグみたいにぐちゃぐちゃになってた」
「わー……」
「終わり」
「こわかった?」
「いや、見てるときは案外怖くなかった」
「びじゅあるてきに、こわいきーするけど」
「不思議なもんだよな」
「おもしろかったです」
「それはよかった」
夢の話は、聞くのもするのも好きだ。
俺に画力があれば、夢を漫画にするのだけれど。
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