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テストスレ
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テスト用
テストスレその6
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テスト
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テストスレッド ver.5
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>実質孫権一代で創成期、全盛期、衰退期を終えているまである
簫衍「それは凄いのう、ところでこれから同泰寺へ捨身しようと思うんだ」
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やる夫スレ作者 作品用 スレ54
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高澄も傲慢だったな
高氏の傀儡である東魏の皇帝が、己の不遇を嘆いたら
「お前は朕でも、犬の狆(漢語でも発音は同じ?)だからなw」
と答えたという
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朕と狆は日本語で何れも"ちん"と読むが実は朕(ちん)は音読みで狆(ちん)は訓読みである。
狆は和製漢字で中国大陸(原産はチベット高原周辺)から朝鮮半島を経て渡来した小型犬を祖先とする日本原産の小型犬を屋外で飼う普通の犬と屋内で飼う猫との中間の獣を指す漢字として考案された。
"ちん"と言う読み方は"ちいさいいぬ"→"ちいさいぬ"→"ちいぬ"→"ちぬ"→"ちん"と段々つまっていたかららしい。
ところが中国には華南に古来から住んでいた苗(ミャオ)族や布依(プイ)族ら少数民族を指す狆という漢字もあって、これは屋内犬を指す和製漢字の狆と"字体の衝突"を起こしている。
現代中国語読みでは中国古来の漢字の狆はzhongで、朕はzhengだが南北朝時代は同じ発音だったかも知れないので高澄が東魏の孝静帝を罵った時は犬と言う意味より、北朝の権力者が南朝方を蔑んだのと同じ意味で孝静帝を朕=狆と言ったのだろう。
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皇帝の呼び名「朕」=犬 説は面白いなありがとう
始皇帝はそんな事想像せずに朕自称しただろうけど
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確か、始皇帝が一人称で採用した「朕」は「船を漕ぐ」という意味だったと思う。
もともとは高貴な単語でも何でもなかった。
国家を船に例え、俺が国の舵取りをするんだという意志の表れらしい。
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「匈奴」「鮮卑」の字面からも分かるように漢族は北方民族に対し侮蔑的な文字をあてがった。
それどころか匈奴の貴種である「屠各種」「攣鞮氏」など細かな部分にまで屠殺、屠(ほふ)るの「屠」や、痙攣の「攣(手や腕の自由がきかない、の意)」など悪字をあてがっている。
これら北族が、文字を知らない塞外の遊牧民であった時代はそれでよかったが、まさか後に南下して華北の支配者として定住してくるとは、秦漢時代の人間は想定してなかったろう。
文字を知らなかった蛮族が、漢の教養を身につけ、読み書きできるようになって自分たちの民族がこんな侮蔑的な呼ばれ方としていたと知って、反漢意識が芽生えたと思う。
目の前で平伏している漢族官僚を見ても、「どうせてめえら心の中では俺らを野蛮人と思ってバカにしてんだろう」と不信感を抱いたかもしれない。
それでも彼らは、漢族に同化されるまで、とうとう呼称や文字を変えることはしなかった。
倭が「日本」を名乗り、女真が「満洲」を名乗るような改変は行わなかった。
「畏れ多くも独孤氏は、匈奴屠各種の血統である、やんごとなきお方であるぞ」
みたいな、文意と字面が合わないような使われ方が北朝末期までされていたんだろうな。
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崔浩の国史事件が有名だが、あれは従来の定説の
「漢族の露骨な北族蔑視に、北魏の鮮卑族の怒りが爆発した」
という単純なものではないらしい。
一つは、柔然に大打撃を与えて弱体化させ、北方の脅威がなくなったので太武帝は南征を志したが、漢族主義者である崔浩とその取り巻きの漢人門閥が邪魔になって、国史事件を口実にして崔浩一派を排除したという説、
もう一つは、太武帝の「務めて実録に従え」の指示通り、崔浩はいっさい忖度せず国史を編纂したが、そこには現皇帝である太武帝への批評も含まれていた。
こういう批評は後世の史家によって記され、後世の人間に公開されるのが常であるが、崔浩の場合、太武帝を在世中に公然と批判し、それが石碑によって衆人に公開されてしまった。
これが陛下への誹謗だ大逆罪だと告発され、太武帝の激怒を買ったという説がある。
いずれにせよこの時期は太武帝と崔浩との絶大だった信頼関係が崩れ始めており、あっけなく大逆罪を着せられて崔浩は誅殺族滅の憂き目にあった。
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南朝の劉裕や蕭道成ですら無学の徒でろくに文字も読めなかったらしいから、北魏の支配層は中原進出後も漢字を習わなかったかもしれんな
文治はすべて漢族官僚に任せきりで
逆に漢の教養を身につけた胡族は、胡族蔑視に対して孝文帝のように漢への同化で解決しようとしたと
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チベット族のテイかな
苻堅の、この殺るか殺られるかの戦乱の時代に、現代リベラル顔負けの民族共生、ダイバーシティ尊重を掲げて、あえなく裏切りにあって非業の死を遂げたお花畑ぶりには同情してしまう
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王猛をはじめとする漢人の家臣達が、晋への攻撃があればただちに瓦解させるように示し合わせていたかもな。
慈悲深さや寛容性は道安の影響かもしれない。
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苻堅の理想はフィクションなら主人公補正受けまくって無双してもおかしく無いが、リアルでそんなんだったらこうなると言う良い事例
現実はそう甘くないからね
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姚萇・慕容垂「大秦天王に帰順いたしまする。どうか兵卒の端くれにでも加えて下され」
苻堅「よくぞ申した。貴公らには大任を任せるゆえ、朕の覇業達成のため存分に活躍してくれ」
王猛「なりませぬ。この二人は奸智に長け、将来必ずや陛下に禍をなす者。大権を与えるなどもってのほか。今のうち斬り捨ててしまいなされ」
苻堅「何を申すか。朕の包み込むような慈悲と寛容にあっては裏切るはずがあるまい」
苻堅「朕はいよいよ江南に軍を差し向け、晋を降して四海統一の覇業を成し遂げようと思う。卿らどう思うか」
群臣「なりませぬ」「なりませぬ」「なりませぬ」「反対です!」
姚萇「南征に大賛成ですッ!」
慕容垂「陛下のもとには虎のごとき精兵百万、韓信・白起のごとき勇将が地に満ちております。今主命に従わぬは米粒ごとき江南のみ。これを平らげるのに何の手間暇がかかりましょうや」
苻堅「よくぞ申した。朕と天下を語れるのは貴公らのみじゃ」
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<淝水の戦いで大敗後>
慕容垂「一応敗戦処理は終わりました。あとは燕に戻って自立しますんでさようなら」
姚萇「さあ、伝国の玉璽をよこせ(=俺に皇位を禅譲しろ)」
苻堅「おのれ、小羌の分際で天子を名乗るなんざ百万年早いぞ! 玉璽は晋に返却したわ!」
姚萇「じゃあ死んでもらおうか」
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伝玉璽は冉智(正確には部下の蔣幹)が東晋に帰しているから、よくよく考えると苻堅だけでなく王猛や慕容垂や姚萇らもホンモノの伝玉璽を見た事ないんだなと
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後晋の出帝までしか玉璽自体ないしね
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玉璽が漢委奴国王印みたいにほぼ純金なら出帝以後誰かが潰して鍋棒にでもした可能性あるな
現代でいうとブラジル永久保管になったのに盗難に遭い行方不明のサッカーワールドカップのジュール・リメ・トロフィーみたいに
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苻堅なんか「オレが持ってるのが本物の伝国璽だ。僭晋が持っていると主張する伝国璽はパチもん」とか居直りそうなのに
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三国志演義だと
董卓の洛陽焼き払いの際に玉璽が紛失して孫堅が焼け跡から偶然発見して野心を抱く
その後孫策が玉璽を継ぐも質として袁術に預ける
玉璽を手にした袁術は皇帝を詐称するがあえなく叩きのめされ、袁術の遺族が最終的に孫権の陣営に収容される
これだと玉璽は呉に渡って、やがて晋に帰すことになるが、現実は後漢末の戦乱で紛失したまま見つからず
その後の玉璽は、献帝を擁し華北を平定した曹操が再製作させたのかな
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姚萇が苻堅から分捕った玉璽は何物だろ
石祗が慕容儁に渡した偽物かな
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仕事上使うんだから勝手に作ったんじゃね
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苻堅は厚遇したはずの慕容垂に裏切られたが、(厳密には慕容垂は自立したものの苻堅の存命中は称帝せず、形式上は臣下の礼をとり続けていた)慕容垂が建国した後燕も、苻氏の生き残りである2人の女性によって滅ぼされている。
慕容垂の末っ子の慕容熙が、後燕の第4代皇帝に即位したが、前秦皇族の生き残りである苻娀娥、苻訓英の美人姉妹の色香に溺れ、姉妹を喜ばせようと多数の労働者を酷使し犠牲にして豪華絢爛な巨大宮殿や巨大庭園を造営し、勢い重税を課して領民からありったけの富を搾取して姉妹と酒池肉林の贅沢三昧に耽り、まるで桀紂の伝説を模倣したような暴君ぶりだった。
当然人心は離反し、やがて苻氏の姉妹は先に死去するが、苻訓英の葬儀で慕容熙が城外に出たところでクーデターが発生、慕容熙は殺され後燕から慕容一族は一掃されてしまった。
まさに苻氏によって慕容氏は滅ぼされてしまったといえる。
この苻娀娥、苻訓英も、まるで伝説をそのまま具現化したような傾国の美女ぶりだが、この二人は単なる遊び人のDQN姉妹だったのか、それとも前秦の遺族として秘かに復讐心を燃やしていて
、主の仇である慕容垂のバカ息子を骨抜きにして暴君に仕立て上げ、みごと亡国を誘導したのか。
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姚萇のほうが慕容垂よりあとまで苻堅を支えたんだな
反乱鎮圧には姚萇のほうが働いてた
ふと思ったけど、史書に結末が書かれてない慕容四傑以外の兄弟たち、慕容暐の反乱のときに苻堅に返り討ちにされた鮮卑の中に入っていたのでは
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でも「高僧伝」に出てくる石勒って「気が短くてすぐ人を殺そうとするけど話のわかる良い人」じゃん
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石虎、なんでこんなに誤解されているのかなって思います。
一生を丹念に読んでいくと、気まぐれですぐ人を殺すし、度が過ぎた女好きだし、宮殿作りや狩りのために徴発しすぎるし、息子は全員クズだけど、それ以外はちょっといい人なんですよ。
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冉閔、なんでこんなに誤解されているのかなって思います。
一生を丹念に読んでいくと、気が短くてすぐ人を殺すんですよ。
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いいところっつったら文宣帝でもたくさんあるわ
ただ残虐なだけじゃない
南北朝の幼まあ未成年の無軌道だけど50年生きてクズそのものってのは蕭正徳
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分立時代でも三国とか南北朝とか南宋・金・蒙古(元)など二大もしくは三大勢力の角逐なら対立構造が明確でドラマ化しやすいが、五胡十六国とか五代十国のように十国以上も分立すると対立構造が曖昧になってドラマ化は難しいな。
そう考えると中国(台湾)でドラマ化される時代が漢・唐・宋・明・清といった200年以上続いた統一王朝が多いのは当然かな。
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蘭陵王のドラマ見たことあるか?
史実クズなやつをいいヤツにすることなんて容易い
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独孤皇后のドラマの楊堅もなぜか良い奴で草
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唐室は元は大野とか言う姓だから実は唐室は異世界転生した日本人って説でも良いぞ
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大野ってダイヤモンドみたいだな。
母系では拓跋→宇文→李氏の流れもあるが、意外と漢民族王朝だった可能性もある
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匈奴も鮮卑もよく南下して定住する気になったな。
慣れない農耕社会に参加したり、頭使うような法治国家を構築するのはめんどくさくないか?
先祖がやってきたように、普段は塞外にいて何も考えず遊牧を続けて、めんどくさい食料栽培や手工業は漢族にやらせて、出来上がったのを見計らってイナゴのように中原を襲って漢族の労働の成果を略奪し、収穫を得たらまたイナゴのように去る。
または騎馬民族の機動力を生かして漢族王朝との戦に大勝して有利な和睦を結び、毎年膨大な量の歳弊を納めさせ、労せずして巨万の富を得て国力を維持する。
この方が楽でいいじゃん。
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農耕社会じゃないという事は人や馬や羊その他の食料が安定供給されず、また文明社会ではないので倉庫やサイロみたいな食料貯蔵庫は皆無
なので旱魃とかになると先に家畜が全滅して機動力失われ、その後家畜食いつくした人も成す統べなく死に絶える
確か匈奴はじめ騎馬民族は何度か気候変動で大量死してたような
後世だが天然痘でほぼ絶滅のジュンガルとかの例もある
なので虎や狼のように常に生命の危機との戦いの野生生物みたいな生活するよりも、犬や猫のように文明社会の中でペット化して安心安全な生活を送ろうとする種族も出てくる訳で
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鮮卑が南下して北方ががら空きになったかというとそうなってなくて柔然とかが力付けてくるのなんなんだろう
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柔然が脅威になるのって北魏が文弱化してからだっけ?
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拓跋燾の段階で既にクソ脅威
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資治通鑑読んでいると柔然ボコボコにされてて、強いイメージ全くないw
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太武帝の北魏に敗れ、突厥に裏切られ、西魏の宇文にとどめを刺され。
柔然はアヴァールとなってローマ帝国に侵攻したりゲルマン民族の大移動を促した。
元は寒冷化で鮮卑が南下してきたことが発端
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劉裕が漢を名乗らなかったってことはこの頃もう漢ブランドは無かったのか
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少し前に滅びているからね
趙は戦国時代に北方民族で有名だし
アラブ人がスペインを支配したらウマイヤ朝を名乗るようなものかな
日本人がとしようとしたらいい例が、、、
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ちょい前に劉淵が漢を建国。
北魏も漢=火徳の後継王朝であることを意味する、土徳を採用。金徳=西晋などは暗黙のうちに否定されている
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後趙は晋を継いで水德だし、北魏も後に水德に改めた
全然無視されてない
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徳運を改めたっていうのは、孝文帝の漢化政策だろ。劉宋からの亡命者を受け入れたら感化されてしまい、子貴母子をやめたら途端に皇太子が殺され皇后の一族が専横してしまうという。同じ北魏とは言えない
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宇宙大将軍は漢を建国したけどな
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古代の日本に、唐使が来たことはわずか三回しかないんだよな
僧侶については唐人・インド人・ベトナム人・ソグド人など、多彩な顔ぶれがみられた
実は鑑真来日を要請した752年の遣唐使は、同時に儒教・文学の師として、有名な文人簫穎士の渡日も願い出たのだが、本人の辞退によって実現しなかった
よほどの理由がない限り、中華思想を信条とする中国の知識人が、東夷の国に定住する気にはなれなかっただろう
その点、仏教の世界は少し特別
しかしその仏教界でさえ、外国人は決して多くはない
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もっと来てるだろう?
郭務悰は4回来日してるし、その前に劉徳高が来てる。
正式な使節としてかどうかは知らないが。
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両人は白村江の戦いの戦後交渉のために来日。
実は進駐軍司令官で日本は唐の統治下に置かれてたんじゃないかという与太話がある。
ことに郭務悰率いる船47艘2千人の規模がデカい。
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郭務悰が率いていた2千人の半分は、白村江の戦の時の捕虜。
郭務悰は捕虜の交換のために日本に来た
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唐の倭国攻略だけど、安東都護府すら、吐蕃の反乱で、新城に移さなければならないほどだったから、実質的に不可能だったと思う
唐の武将である薛仁貴が平壌を撤退するや否や、高句麗の残党の反乱がおこり、高句麗の王族の安勝が新羅に亡命した
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