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【R18】黒衣の徒【TS他よろづ】
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このスレを覗いてくれてありがとうございます。
そして諸注意をどうぞ。
このスレは、基本【TS】と前スレ485から始まった【黒衣の徒】を主題においたスレッドです。
また、それ以外にも二次創作系などもやります。
そういうのが苦手な方、18裁未満の方はお戻りいただけますよう願います。
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【代理】
なお、中途半端に他の作品と混ざる可能性もありますのでご了承ください。
主にふわっと書くとしているのでリラックスしてお読みいただけたら幸いです。
さらに連載はぶつ切りになるのでよろしくお願いします。
それでは長々としましたが、お話を紡いでいきましょう
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国将の哀章が王莽に言った。「皇帝のはるかな祖である黄帝の時、中黄直が将となって蚩尤を討ち取りました。今、私も中黄直の地位におりますので、同じように山東を平定したいと思います」
王莽はそこで哀章を東方へ急がせ、太師王匡と力を合わせるよう命じた。
また大将軍の陽浚に敖倉を守らせ、司徒の王尋に十万の兵を率いて洛陽の南宮に駐屯させ、大司馬の董忠に中軍の北塁において兵士に射撃を習わせ、大司空の王邑に三公の職務を兼ねさせた。
司徒の王尋が長安を出発する際、覇昌厩に宿泊したが、そこで黄鉞を亡くしてしまった。王尋の配下の士である房揚は常軌を逸した直言の士であったが、それを知ると泣いて「これは経書に言う「鋭利な斧を失う」というものだ!」と言い、自らを弾劾して去って行った。
王莽は房揚を殺させた。
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昨日の話からすれば孫亮の時代でも徐州方面はつけ入る隙があるという状況だったことになるが、これは曹丕の時の利城郡反乱によって唐咨が呉に逃げるという事態が招いたものと言える。
そして曹丕の時の利城郡反乱は元をただせば曹操の時の徐州への略奪殺戮が影響していたものと思う。
つまるところ、曹操の徐州殺戮の影響が数十年後まで割と残っていた、ということなんじゃないだろうか?
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曹操の徐州殺戮の影響についてさらに考えるなら、張昭、張紘らの江東移住って時期的に曹操のコレの影響でしょうしね。張昭が居なければ孫権が勢力を張れたか怪しい事と、曹操の統一を阻む事になったのが赤壁だと考えると、なんなら曹操の天下統一失敗にまで影響した……と言えなくもない?かも
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孫呉はこの五鳳2年頃は広陵・東海郡方面に進出しようとしていた。要塞化や督軍派遣などを見ると、太守任命も単なる遥領ではなく「本気」の任命だったんだろう。
これは東海郡利城(利城郡)の人だった唐咨がこの時期は呉にいて、おそらくは東海郡方面にある程度顔が効いて、呉としては進出のチャンスと見ていた、ということなのだろう。
もしかするとこの督軍馮朝が何かやらかさなければ呉はもう少しこっち方面で有望だったんだろうか?
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日本海表記を使う韓国メディアを発見した
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『三国志』の魏の諸伝では多くの場合に封建された封邑の戸数を詳しく書いている。
その一方で、『三国志』武帝紀では曹操自身の封邑については戸数があまり書かれていないように思う。書かれているのは主に『後漢紀』なのだ。
この辺、ちょっと面白い関係にあると思う。
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そういえば、晋は司馬懿の父の司馬防に皇帝号を追尊してないんだな。
「舞陽成侯」は追尊している(『晋書』宣帝紀)が、それ以上の王などの号も追尊していないようだ。
曹魏は初代皇帝の3世代前まで皇帝号を追尊しているので、初代皇帝の3世代前である司馬防も同様にする余地もあったんじゃないかと思うが。
このあたり、どこまでなら皇帝号を遡るのかみたいな基準を手探りで探っているような状態だったのかもしれない。
司馬氏側には、曹魏はやりすぎたな、みたいな感覚があったんじゃないだろうか。
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曹魏は太祖・高祖・烈祖様で「三祖」を形成した。
前漢の皇帝廟は本来は「太祖」と「三昭三穆」の「天子七廟」であった。
「三祖」と「三昭三穆」を合わせると「九廟」。
王莽は「九廟」を作ったとされるのだが、曹魏も本当は「三祖三昭三穆」の「九廟」を作ろうとしていたんじゃないだろうか?「三昭三穆」に当たる皇帝がいなかったから全容が分からなかっただけで。
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孫堅って「始祖」という廟号なのか。
「烈祖」と同じく、これまで無かったオリジナル廟号だと思う。
ただ、王莽が先祖の「九廟」として「帝虞始祖昭廟」というのを決めているようなので、全く前例がないわけでもないか。
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後漢末、張遼や温恢などが「魯相」つまり魯王の相(宰相)になったとされているのだが、じゃあ魯王は誰なのかというと不明じゃないかと思う。
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ずっと以前記事にしたように、魯王=東海王だったんだろうか?それとも、東海王として知られる人物は実は魯王だったんだろうか?それとも、記録上分からないだけで魯王も別にいたんだろうか?
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そういや、黄巾は潁川郡あたりが根城の一つだったと言われているんだったなあ。
後漢末頃の潁川郡出身の著名人って割といるわけだが、何人かは本人や一族が黄巾関係者だったりするのかなあ。
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『史記』太史公によれば、かの賓客を多数集めた事で有名な孟嘗君の領地であった薛では、孟嘗君が招き入れた連中の影響で治安が大変悪くなっていたのだという。漢武帝の頃も続いていたということになる。
「6万余家」ってことは人口なら10万以上になると思うんだが、反社会的勢力の類がそれだけ一都市に集まったのだとしたら、何世代も経っても影響残っておかしくないかもな・・・。
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5月5日といえば、かつては「5月5日に生まれた子は背丈が家の戸に追い付くと自分か親を害することになる」という迷信があったそうだ。
世の5月5日生まれの人たちは、こんなことが起きないように家の戸をとても高くしておくのが吉。
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世界中の船乗りが、日本海表記で無いと困るよ、どこから東か分からん
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いつか書きたい三国志
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楊震、あざなは伯起。弘農郡華陰県の人。
●8代前の楊喜:劉邦に赤泉侯に封ぜらる
●祖父の楊敞:昭帝の丞相、安平侯
●父の楊宝:『欧陽尚書』を習い、哀・平帝に隠居、建武に病死
楊震も『欧陽尚書』を習い、「関西の孔子」と呼ばれる。
50歳で始めて、州郡に召しだされた。
大将軍の鄧隲が召す。荊州刺史、東莱太守。
「闇夜の賄賂でも、天と地と、我とあなたが知っている。要らん」
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2人目の三公、宦官を攻撃した楊秉
楊賜の3年は、楊秉である。『京氏易』を学ぶ。
40歳余で、司空に召さる。豫、荊、徐、兗州の刺史。
故吏に銭100万を贈られるが、門を開けず。廉潔で聞こゆ。
147年、桓帝が即位し『尚書』の先生となる。
桓帝が梁胤(梁冀の子)の家に遊び、昼から暗く、嵐になった。
楊秉は「天は嵐で、桓帝さんを咎めた。やめなさい」桓帝は納れず。
梁冀が執政した6年、楊秉は病を称す。梁冀が滅び、太僕、太常。
中常侍の単超の弟は、楊秉に弾劾されるのを恐れた。
160年、諌めた罪により、楊秉は免官。河南尹に復帰。
日食。皇甫規は「楊秉は忠正だから、もっと用いなさい」
だが楊秉は、お召しを断る。不敬を罪とされた。太常となる。
162年、太尉。太尉の楊秉と司空の周景は、宦官を批判。
「宦官は子弟を公職に任じ、貪っています」霊帝は、従った。
匈奴中郎将、青州刺史、遼東太守は、宦官の身内だから罷免。
楊秉が取り締まったから、天下は粛然。
164年、霊帝が荊州に墓参り。人足の挑発について諌めた。
165年、侯覧の弟の侯参は、益州刺史。楊秉が弾劾。
京兆尹の袁逢が、侯参の財産を没収したのは、このとき。
同じ165年、楊秉は死ぬ。74歳。「酒、色、財が、3つの不惑」
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曹丕が禅譲を受けたとき、楊彪を太尉にしようとした。
楊彪は断った。225年、84歳で死んだ。
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春秋 戦国
【呉越】伍子胥「仇討ちしたいけど既に死んどるやんけ」【楚】
2020年10月3日 2022年8月17日
1: 名無し 2017/11/03(金)22:55:31
伍子胥「せや墓暴いて死体を鞭で叩きまくったろ」
うーん、このサイコパス
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夫差「自害しろ」
伍子胥「ワイの目玉くり抜いて城門の上に置いてクレメンス」
頭おかC
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ワイ燕将楽毅、斉を滅亡寸前に追い込む!
2020年10月4日 2020年11月28日
1: 名無し 2015/08/22(土)10:45:58 ID:jKt
5年で70城を抜いて、あと残り3城
ビン王の子法章、ビクビクでワロタwww
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楽毅は逸話が少なくて困るンゴ
にわか知識やが
楽毅が趙に亡命した後、代わりの将軍が斉の田単に粉砕された。恥じた燕王は楽毅に謝罪した。楽毅の返事は先王への愛と忠誠に満ち溢れ、「自分が亡命したのは、罪人として処刑されることは自分を重用してくれた先王への侮辱」とした。燕王は恥じて、以後楽毅は趙と燕を往来すること許された。
戦法ではないが連合軍を率いて斉本隊を破った後、燕軍のみ5000騎で斉の都臨?を陥落させ、また5年で70城を抜くというのは正気の沙汰ではない(5000騎と言っても、1騎に4人以上は付いていた?から2万以上かな)
また制圧された領地で斉人による反乱が起きた形跡はなく、楽毅の占領後行政は素晴らしかったことが伺える
漢の初代皇帝劉邦は楽毅を尊敬し楽毅の子孫を探し出し、華成君とした
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孔子だったか誰かに、優れた後継者を推薦した者がいちばん偉いなんて話があったっけ。
楽毅の身を寄せたことが、郭隗のおかげかどうかは知らないが
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楽毅最大の影響(功罪の判断は各人のお好きに)は、「唯一秦に対抗し得るポテンシャルのあった斉を叩く→燕の恵王から逃亡→斉、弱体化して復活」というコンボで秦1強を確立したことだと思う。
楽毅と恵王はある意味最強の連衡タッグ。特に恵王。こいつに秦は足向けて寝られないだろってくらい最強。
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秦の軍事的脅威に直接さらされなかった事と、秦に次ぐ脅威となりうる存在で国土を接している楚が猫の目外交で弱体化した事、いざ戦争となれば韓・魏を抱き込んで合従できる素地が魏の衰退以降にできあがっていた事、の三つが大きいかと。
小説ほどの影響力はないにせよ靖郭君や孟嘗君による巧みな外交戦略が功を奏してもいたはず。
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ビン王になって孟嘗君を追放してから斉は外交に陰りを見せ始める
しかも燕のスパイである蘇代の言うことをホイホイと聞いてしまうという馬鹿の上塗り
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韓、魏、趙のことを晋(三晋)といったり、
魏を梁といったり、
韓を鄭といったりするくらいなのに、
楽毅の読みくらいどうでもいいじゃんか。
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【話題】中国、斉の管仲以来2000年以上続いてきた塩の専売制を廃止へ
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王朝の興亡担って2700年、中国が塩の専売制廃止へ
中国政府は、国有企業が独占する塩の専売制を廃止する方針を明らかにした。複数の中国メディアが報じた。塩の販売益を公費にあてる政策は紀元前7世紀にさかのぼるとされ、廃止されれば約2700年の歴史に幕を閉じることになる。
中国の塩の販売は、もとは政府の一部門だった国有企業群が独占している。中国紙によると、政府は2017年までに段階的に制度を廃止し、販売を自由化する方針だ。省をまたいだ販売ができないことなどが、時代にそぐわないとメディアからも疑問の声が上がっていた。
中国ではいまの山東省にあった斉の国で春秋時代の紀元前7世紀ごろ、名宰相として知られる管仲が、政府の収入を増やすために塩の専売を提案したとされる。3世紀の三国時代には蜀(しょく)の諸葛亮も導入するなど、各王朝が財政を豊かにしようと採用してきた。官に独占された塩の値上げをきっかけに反乱が起こり、王朝が滅びることもあった。
現代の中国では酒の専売制が1979年以降、段階的に廃止される一方、塩については制度が維持されていた。ただ、政府の収入に占める塩関連の比率は大きく下がり、制度を続ける意義は少なくなっていた。
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「ニーサン、ニーサン、上物あるよ」と白い粉を売って回る関羽を想像した
こりゃ商売の神様として祭られること間違いなしだな
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魯粛を投資家として見た場合、彼が選んでいる「銘柄」は、王朝です。魯粛に、先見の明があるとしたら、その「銘柄」選びを、巧みにやったことです。
ただし、「漢王朝の復興はムリだから、江南に独立政権を建てるべき」と考え、「南朝」政権を、いち早く構想した、というのは、結果論です。
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孟他は、宦官の張譲と面会するために、全財産を献げ、破産の寸前まで行きました。バカなんでしょうか。いいえ、違います。
なぜ破産の寸前まで、財産を注ぎ込むか。漢王朝の官位という「財」が、何よりも優先して欲しかったからです。
孟他の場合、「猟官」に成功して、涼州刺史の官位を得ました。建寧三(一七〇)年、涼州刺史として、異民族と戦った記事があります。
涼州刺史の利権は、税収だけでなく、西域との交易でしょう。漢王朝の官位は、それを得るために全財産を傾けても惜しくないものでした。なぜならば、官位につけば、注ぎ込んだ財産を上回るリターンが、期待できたからです。
張譲のような宦官は、「猟官」運動を管理することで、彼自身も莫大な権勢と富を築いたはずです。
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経済においても、特定の投資対象(例えば不動産)が、利益を生むと確証され、みんなが欲しがる(買う)から、どんどん値上がりすることがあります。なぜみんなが欲しがるか。みんなが欲しがるからです。以上、終わり。
通常、このような、同義反復的(トートロジー)な説明をすると、バカにしてんのか!ってことになりますが、こと投資対象においては、この説明が真理です。
みんなが欲しがると、値上がりする。値上がりすると、みんなが欲しくなる。この循環だけです。なんの裏付けもありません。
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漢王朝の官職も、「任命された役割を果たして、俸給をもらう」のが本来であり、着任して、精勤して、感謝されましたとさ、で終わりだったはずです。
しかし、官職を持っていることで得られる利得や、官職を授受・斡旋することによる利得が注目され、また官職にまつわる権利が、分割・統合などにより操作され、投資対象として流通しました。
これを、政治史の言葉で語るなら、「腐敗」かも知れません。
他方、投資の目線でいうなら、官職が投資対象となったのであり、宦官が介在して「証券化」されたと言えそうです。
投資の対象となると、遅かれ早かれ、過熱します。エスカレートします。
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霊帝期は、漢王朝の円熟期です。
霊帝のあと、後漢が滅びたので、霊帝の政治がダメだった、というイメージになりますが、こぞって全員が、後漢の官位を欲しがったというのは、後漢の最盛期であったことを、意味するのではないでしょうか。
みんなが官位を欲しがるから、官位にまつわる利権が肥大化し、いわゆる「腐敗」をするわけです。
知識人たちは、人脈を駆使し、財産を蕩尽し、名声を「賭金」にして、官位を求めました。官位に群がって、醜く争う様相は、歴史書を見るとウンザリします。しかし、後世の私たちをウンザリさせるほど、みなが官位に熱中し、それだけの「値段」が付いていたのです。
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霊帝期は、土地のバブルと似ています。
みんなが土地を欲しがるとき、日本列島の「価値」は、暴騰しました。もはや、実態(土地の使い道)は、あまり関係なくなります。国土の「価値」が暴騰した日本は、ほかの国に比べて、繁栄していることになりました。
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実態を離れて、額面が暴騰したものは、なにかのキッカケで、価値が落ちます。
人間は、1万円を得る喜びよりも、1万円を失う痛みのほうを、強く感じます。こういう人間の性質によって、投資対象は、いちど価値が落ち始めると、恐慌を起こして、投げ売りされます。もっと値下がりする前に、さっさと売り抜けなければ!という、恐怖に支配された心理です。
だから、投資対象は、値上がりをするときは、コツコツですが、値下がりするときは、ドカン!と落ちます。
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【総集編】9割が知らない!キリストの本当の姿と聖書に隠された真実を探る
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後漢の官位の価値が暴落したのは、黄巾の乱がキッカケでしょう。
「コーキン・ショック」です。
黄巾の乱の原因は、いろいろ言われます。
官位を利権と見なした地方長官が、税金を搾り取りすぎたから。黄巾は、後漢の儒教に対抗する理念を持っていた。政治不安になると、秘密結社や宗教のようなものが発展する……。これらの説明は、あまり関係ありません。
ショックのキッカケは、何でもいい。べつに、黄巾の乱でなくても良かったのです。
もしかしたら、後漢のとある政策転換とか、ちょっとした霊帝の発言(詔)とか、ある人物を処罰したこととか……、バブル崩壊のキッカケは、何でもいいのです。イデオロギッシュに主張されるような、農民叛乱である必然性はありません。
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魯粛は、早くに父を失っています。名前すら分からない。
魯粛の父は、家業で蓄えた元手で、「猟官」運動をして、どこかの県令・県長あたりに着任した。洛陽に行って、宦官に面会を求めるとき、少年の魯粛も、付いていったことにしても良いでしょう。しかし父は、黄巾の乱で殺害された。
魯粛は、漢王朝に「全財産をベット」したが、大損をした父の様子を見た。既存の価値観に流されて、他人と同じように振る舞うだけでは、うまく生きられない時代に突入したんだな、と自覚する。
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魯粛の父を、典型的な旧世代というか、後漢の平均的な人とする。後漢の永続を信じ、後漢の官位に価値を見出した人、という描き方をする。
魯粛が、人生の節目ごとに出会う人たちも、同じように、後漢の官位の資産価値を忘れられず、また、漢王朝のために投入した自分の時間・財産を忘れられず、取り戻そうとしてる、、という、典型的に投資で負けるパターンなのかも知れません。
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例えば、預金をやめて、全財産を、ある会社の株に注ぎ込むと、、自分の財産の増減は、会社と一体化する。株価が2倍になれば、自分の財産も2倍。半分になれば、半分。倒産すれば、0円になる。
これは、あまりにハイリスクだから、「分散投資」が奨励される。複数の会社の株を買いましょう。いえいえ、全財産を株に代えてはいけない。債券を持っておきましょう。預金のまま、持っておくのも、いいですねと。
しかし後漢末は、このような「分散投資」ができない環境であった。魯粛は、自分の命運(財産だけでなく、生命も)を、誰かに一点賭けしないといけない。
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思えば、周瑜に、2つの蔵のうち、1つしか贈らなかったのは、安全策だった気もします。もしも、周瑜と命運をともにするなら、2つとも贈るべき。
「財産の半分を賭けたのだから、勇気がある」という見方が一般的ですが、しかし、半分です。全幅の信頼は、していなかったということになる。
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人によってというか、何を主張したいかという、それぞれの都合によって、「投資」と「投機」は、言葉が使い分けられます。
投資は、相手に金品を注ぎ込んで成長を支援する、ポジティブな活動であるとも言われます。下手すると、社会貢献かのような様相を帯びることがあります。お金を預けた相手が、成長するのを待つんですね。
一方、時間の幅を織りこまないのが、投機なのでしょうか。自分がもうけることしか、考えてない、みたいな。
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……この定義は、なんか違います。
金品を供出する動機(こころざし)によって、「投資」と「投機」は、使い分けられるのでしょうか。
成長を支援する人だって、べつにお金を捨てているわけではなく、未来のリターンを期待するから、お金を出します。それは「薄汚れた」ことではなく、リターンの期待は、健全な関係を築くと思います。出資者と、被出資者とのあいだに。
「投資」した人は、口を出す権利を得ます。これが「融資」つまり、利息回収を契約に織りこんだ「金貸し」と違うところ。株主が、株主総会で議決権を持つのは、これに当たります。
「投機」した人は、口を出さないかも知れません。というか、口を出したくなるような興味を、お金を賭けた対象に向けて、持っていないのかも。
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教会側も修正はしているものの…矛盾だらけだわ…解釈次第だわ…奇跡はムチャクチャだわ…無理が多過ぎ。教えとしては有りだが…現実みたいに言われると…。
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はじめて通して読んだ三国志の物語、つまり、吉川英治『三国志』の第一の読後感は、「そうか、諸葛亮は勝てないのか……」という落胆でした。
でも、魏が益州(蜀)を一度も領土にできず、官僚層からの支持を失った(魏晋革命という結末が準備された)のであれば、曹操vs劉備から始まった戦いは、少なくとも劉備・諸葛亮は、引き分け以上に持ち込めたことになります。
漢がつくった儒教的当為(あるべき姿)=大一統(統一を尊ぶ)の、理念の勝利なのかも知れません。けっきょく魏も、理念に食い殺されたことになります。
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権力を確立していた魏帝である、曹丕・曹叡にすら、焦りが見られます。君主としては盤石であったが、盤石であるがゆえに、泣き所もありました。それが、曹丕・曹叡の政治です。
孫権も、呉王・皇帝として立場を固める一方で、万能ではありませんでした。
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魏の明帝の建設ラッシュに対し、「呉・蜀に滅魏のチャンスを与える」、「財政が正直シンドイ」、「漢の武帝をマネるには、状況が違い過ぎ」、「政治と軍事の本業を優先せよ」と諫言があります。
もちろん諫言を推すための修辞もあるが、実際に魏の存続を脅かすものだったのでしょう。実際、魏は転覆しました。
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