レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
みなみ夫を甲子園に連れてって
,. -‐ '´ ̄`ヽ、
/ / , ヽ\
,.イ´ l_ l l j \
/ / ∧ヽ-i、_|-'ハ| l ヽ
/ / ,' _ノ ヽ、 lノ ヾ
ハ ', lo゚((●)) ((●))゚oj ノ )
ヽ ヽ (__人__) イ ノ' 本当はカッちゃんよりタッちゃんの方が好きなんだお
ー' \ ` ⌒´ / ー'
{二三ニ=-=ニ三二}
/ \
,. -‐ '´ ̄`ヽ、
/ / , ヽ\
,.イ´ l_ l l j \
/ / ∧ヽ-i、_|-'ハ| l ヽ
/ / ,' _ノ ヽ、 lノ ヾ
ハ ', l o゚⌒ ⌒゚o j ノ )
ヽ ヽ (__人__) イ ノ' でもそう言うとカッちゃんが甲子園に連れて行ってくれないかもしれないお……
ー' \ ` ⌒´ / ー'
{二三ニ=-=ニ三二}
/ \
,. -‐ '´ ̄`ヽ、
/ / , ヽ\
,.イ´ l_ l l j \
/ / ∧ヽ-i、_|-'ハ| l ヽ
/ / ,' ⌒ ⌒ lノ ヾ
ハ ', l ( ●) (●) j ノ )
ヽ ヽ ::::⌒(__人__)⌒:::イ ノ' だから曖昧なままにしておくお!
ー' \ |r┬-| / ー'
{二三ニ`ー'´三二}
/ \
.
オリュンポス神の台頭と勝利
ゼウスが成年に達すると、彼は父親クロノスに叛旗を翻し、まずクロノスに薬を飲ませて彼が飲み込んでいたゼウスの姉や兄たちを吐き出させた。クロノスは、ヘスティアー、デーメーテール、ヘーラーの三女神、そして次にハーデースとポセイドーン、そしてゼウスの身代わりの石を飲み込んでいたので、順序を逆にしてこれらの石と神々を吐き出した。
オリュンポス神とティーターノマキアー
ゼウスたち兄弟姉妹は力を合わせてクロノスとその兄弟姉妹たち、すなわちティーターンの一族と戦争を行った。これをティーターノマキアー(ティーターンの戦争)と呼ぶ。ゼウス、ハーデース、ポセイドーンの三神はティーターノマキアーにおいて重要な役割を果たし、特にゼウスは雷霆を投げつけて地球や全宇宙、そしてその根源であるカオスまでも焼き払い、ティーターンたちに大打撃を与え、勝利した[22]。その後ティーターン族をタルタロスに幽閉し、百腕巨人(ヘカトンケイレス)を番人とした。こうして勝利したゼウスたちは互いにくじを引き、その結果、ゼウスは天空を、ポセイドーンは海洋を、ハーデースは冥府をその支配領域として得た[35]。
しかしガイアはティーターンをゼウスたちが幽閉したことに怒り、ギガース(巨人)たちをゼウスたちと戦う様に仕向けた。ギガースたち(ギガンテス)は巨大な体と獰猛な気性を備え、彼らは大挙してゼウスたちの一族に戦いを挑んだ。ゼウスたちは苦戦するが、シケリア島をギガースの上に投げおろすなど、激しい争いの末にこれを打破した。これらの戦いをギガントマキアー(巨人の戦争)と呼称する。
しかし、ガイアはなお諦めず、更に怒ってタルタロスと交わり、怪物テューポーンを生み出した。テューポーンは灼熱の噴流で地球を焼き尽くし、天に突進して全宇宙を大混乱の渦に叩き込むなど、圧倒的な強さを誇ったが、オリュンポス神族の連携によって遂に敗北し滅ぼされた[36]。
かくして、ゼウスの王権は確立した。
ネメシス(古希: Νέμεσις[1])は、ギリシア神話に登場する女神である。人間が神に働く無礼(ヒュブリス)に対する、神の憤りと罰の擬人化である。ネメシスの語は元来は「義憤」の意であるが、よく「復讐」と間違えられる(訳しにくい語である)。擬人化による成立のため、成立は比較的遅く、その神話は少ない。主に有翼の女性として表される。
【朗読】信じようと信じまいと・垈
クレイオス(古希: Κρεῖος, Kreios)は、ギリシア神話に登場する神である。 クリーオスとも呼ばれ、その名は「天の雄羊」を意味する[1]。
ウーラノスとガイアの息子でティーターンの一人。オーケアノス、コイオス、ヒュペリーオーン、イーアペトス、クロノス、テイアー、レアー、テミス、ムネーモシュネー、ポイベー、テーテュースと兄弟[2][3]。
ポントスとガイアの娘エウリュビアーとの間に、アストライオス、ペルセース、パラースをもうけた[4][5]。
現在伝わっている神話ではほとんど系譜上の存在で、説話らしい説話は伝えられていない。
ヘカベー(古希: Ἑκάβη, Hekabē, ラテン語: Hecuba)は、ギリシア神話に登場する女王で、イリオスの王プリアモスの妻である。長母音を省略してヘカベとも表記される。
ヘカベーはプリュギアの生まれで、父はデュマース、 母はエウノエーである。しかしヘカベーの親には諸説があり、トラキア王キッセウスの娘とも、河神サンガリオスとメトーペーの娘ともいわれる。
プリアモスとの間にはヘクトール、パリス、デーイポボス、ヘレノス、パムモーン、ポリーテース、アンティポス、ヒッポノオス、ポリュドーロス、クレウーサ、ラーオディケー、ポリュクセネー、カッサンドラーなど19人の子供が生まれた。またアポローンとの間にはトローイロスが生まれた。
『イーリアス』の中では、ヘカベーはヘクトールの母として登場し、24巻では息子の死を嘆く有名なシーンがある。
アポローンとの子トローイロスは生きて20歳になれば、イーリオスが敗北することはないだろうと予言された。
プリアモスとの間の最も若い子であるポリュドーロスは、トロイア戦争の際に騙されて殺され、ヘカベーは復讐を果たした。また別の言い伝えでは、ヘカベーはポリュドーロスとポリクセネーの遺体を見て発狂したとも伝えられている。
また他の説として、彼女はオデュッセウスに奴隷として差し出されたが、彼に呪いをかけようとし、神が彼女を犬に変えて逃がしたと伝えられている。
カッサンドラー(古代ギリシャ語: Κασσάνδρα、Kassandrā、ラテン語: Cassandra)は、ギリシア神話に登場するイーリオス(トロイアー)の王女である。悲劇の予言者として知られる。日本語では長母音を省略してカッサンドラ、カサンドラと表記されることが多い。
概要
プリアモス王とヘカベーとの間に生まれた。長兄にイーリオスの英雄ヘクトール、兄に「パリスの審判」で知られイーリオスに戦乱(ひいては滅亡)をもたらしたパリスを持つ。同じく予言能力を持つヘレノスとは双子だという。
アポローンに愛され、アポローンの恋人になる代わりに予言能力を授かった。しかし予言の力を授かった瞬間、アポローンの愛が冷めて自分を捨て去ってゆく未来が見えてしまったため、アポローンの愛を拒絶してしまう。憤慨したアポローンは、「カッサンドラーの予言を誰も信じないように」という呪いをかけてしまった。カッサンドラーは、パリスがヘレネーをさらってきたときも、トロイアの木馬をイリオス市民が市内に運び込もうとしたときも、これらが破滅につながることを予言して抗議したが、誰も信じなかった。
イーリオス陥落の際、小アイアースにアテーナーの神殿において凌辱された。小アイアースは、これによってアテーナーの怒りを買い、ギリシアへの航海の途中で溺死させられた。カッサンドラーはアガメムノーンの戦利品となり、ミュケーナイに連れてゆかれた。そして、アガメムノーンとともに、アガメムノーンの妻クリュタイムネーストラーの手にかかり、命を落とした。
ヘクトール(古代ギリシャ語: Ἕκτωρ, Hektōr、 ラテン語: Hector)は、ギリシア神話の英雄である。日本語では長母音記号を省略し、ヘクトルともいう。トロイアの王子であり、トロイア戦争におけるトロイア勢最強の戦士。トロイアを築いたダルダノスとトロースの末裔プリアモス王と王妃ヘカベーの間に生まれた[1]。妻アンドロマケーとの間に一子スカマンドリオス(トロイアの人間はアステュアナクスと呼ぶ)をもうけた。イーリアスにおいて、兜きらめくヘクトールと称される。
神話
トロイア防衛の総大将として軍勢を指揮し、また個人の勇猛さをもってアカイア勢を敗走寸前にまで追い込んだ[2]。アカイアの戦士を31人殺したと伝わる[3]。
善き夫、善き父でもあり、戦争に負けた後に起こる妻子の処遇を案じている[4]。トロイア戦争の元凶となった弟パリスについても、𠮟りこそすれ見放すことはなかった。国のことを第一に考えるヘクトールに対し、自身が原因にもかかわらずパリスは飄々としている[5]。
パトロクロスの猛反撃も打ち破るが[6]、アキレウスに敗北し遺体を辱められる[7]。父であるプリアモス王がアキレウスの陣まで出向き、ヘクトールの遺体を引き取る。
トロイアの陥落後、妻アンドロマケーはアキレウスの子ネオプトレモスの戦利品となった。そして、アステュアナクスは殺された。
中世ヨーロッパにおいてジャック・ド・ロンギオンは九偉人の一人に挙げている。ジェームズ・レッドフィールドは「国に殉じた男、かけがえのない日常生活を守るため死んでいった英雄」と述べている[8]。
パリス(古希: Πάρις, Paris)は、ギリシア神話の英雄である。
イーリオス(トロイア)王プリアモスとヘカベーの息子[1]。出生時の名前アレクサンドロスでも知られる。兄にイーリオスの英雄ヘクトール、姉に悲劇の予言者カッサンドラーを持つ。「パリスの審判」により、イーリオスに戦乱(ひいては滅亡)をもたらしたことで知られる。
神話
誕生
アレクサンドロス(後のパリス)を産むとき、ヘカベーは、自分が燃える木を生み出し、それが燃え広がってイーリオスが焼け落ちるという夢を見た[1]。ヘカベーが夢占い師にこの夢のことを告げると、彼は「この子は災厄の種になる」として、殺すことを勧めた[1]。そこで、プリアモスは家来に、アレクサンドロスを連行して殺すように命じた。家来は殺すにしのびず、イーデー山に捨てた。捨てられたアレクサンドロスは、熊の母乳により生き延び、羊飼いに拾われ、彼にパリスと命名されて育てられた[1]。
パリスの生存を王宮は知らず、パリス追悼のための競技会をプリアモスが後に開催する。
パリスの審判
『パリスの審判』 ジャン=バプティスト・ルニョー作 (1820年頃) シュツットガルト州立美術館蔵
成長したパリスはニュンペーのオイノーネーを妻とし[1]、イーデー山で羊飼いをしていた。後にプリアモスの子であることが明らかとなって、王宮に迎えられた。
ある日イーデー山にいたパリスのもとにヘーラー、アテーナー、アプロディーテーがやってきて、誰が一番美しいか判定させようとした(パリスの審判)。
オソ・クッシング(英語版)「パリスの審判」(1900s)手にしているのは黄金の林檎、又は不和の林檎
パリスはこの世で一番美しい女を妻として与えると約束したアプロディーテーを、最も美しいとした[1]。
ヘレネー(古代ギリシャ語: Ἑλένη, Helenē、ラテン語: Helena、英語: Helen)は、ギリシア神話に登場する女性である。長母音を省略してヘレネとも表記される。元来はスパルタで信仰された樹木崇拝に関わる女神だったと考えられている[1]。
表向きはスパルタ王テュンダレオースと王妃レーダーの娘であるが、実父はゼウスであり、実母はネメシスともされる。兄にディオスクーロイ(カストールとポリュデウケース)兄弟、姉にクリュタイムネーストラーがいる。メネラーオスの妻となったが、イーリオス(トロイア)の王子パリスにさらわれ、トロイア戦争の原因となった。
神話
ヘレネーは成長すると、地上で最も美しい絶世の美女となった。アテネ王テーセウスは彼女をさらって母アイトラーのもとにあずけたが、ディオスクーロイにアイトラーごと取り返された。アイトラーは、この後ヘレネーに召し使われてイーリオスまでついて行き、イーリオス陥落の際にテーセウスの息子のデーモポーンとアカマースに再会した。
詳細は「ヘレネーの求婚者(英語版)」を参照
ヘレネーの結婚に際しては、求婚者がギリシア中から集まった。ヘレネーの義父テュンダレオース(一説ではオデュッセウスとも)は、彼らの中の誰を結婚相手に選んでも、それ以外の男たちの恨みを買う恐れがあるため、あらかじめ「誰が選ばれるにしても、その男が困難な状況に陥った場合には、全員がその男を助ける」という約束をさせ、彼らの中からスパルタ王メネラーオスを選んだ。
メネラーオスの妻となったヘレネーは、イーリオスの王子パリスの訪問を受けた。パリスは美の審判の際に、アプロディーテーからヘレネーを妻にするようそそのかされていたのである。ヘレネーはパリスに魅了され、娘ヘルミオネーを捨てて、イーリオスまでついていってしまった。
メネラーオスとその兄アガメムノーンらは、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてイーリオスに攻め寄せた。元求婚者たちは、前の約束があるためにこれを断ることができず、トロイア戦争に参加した。
ヘルミオネー (古希: Ἑρμιόνη, Hermionē)は、ギリシア神話に登場する女性である。長母音を省略してヘルミオネとも表記される。スパルタ王メネラーオスとその妻ヘレネーの娘。
物語
パリスによるヘレネーの誘惑によって始まったトロイア戦争で両親が敵味方に分かれていた間、ヘルミオネーは伯母のクリュタイムネーストラーによって育てられた。トロイア戦争の前に、彼女はメネラーオスの命によって、従兄弟であるオレステース(メネラーオスの兄アガメムノーンの息子)と婚約していた。しかし、トロイア戦争の戦場において、彼女の父はアキレウスの息子ネオプトレモスを参戦させる代償としてヘルミオネーを嫁がせることを約束してしまう。
トロイア戦争が終わると、ネオプトレモスはヘルミオネーを得る権利を主張して、彼女を自国エーペイロスに連れ去った。
やがて、ヘルミオネーと、ネオプトレモスがトロイア戦争で得た愛妾アンドロマケー(トロイアの英雄ヘクトールの妻)との間で争いが起きた。ヘルミオネーは、アンドロマケーに子ができたのに自分にはできないことについて、アンドロマケーが魔法をかけたせいであるとして非難し、ネオプトレモスが不在の間に、父親メネラーオスの手でアンドロマケーを殺そうとした。しかしメネラーオスは殺害に失敗し、そのためヘルミオネーはネオプトレモスのもとから逃亡せざるを得なくなった。
ネオプトレモスがまだ戻る前にかつての婚約者オレステースが現われ、ヘルミオネーをエーペイロスから連れ去った。オレステースはネオプトレモスと戦い、ネオプトレモスはデルポイで死んだ。ヘルミオネーはオレステースの妻となり、嗣子を生んだ。
ヘロドトスはその著書『歴史』で、エジプトで得た知識としてこれらの通説とは異なる話を記載している。
それによると、パリスの船が風の影響でエジプトに来航した際に、彼の従者が神殿に駆け込んで主人のヘレネー誘拐を暴露した為、パリス一行はエジプトの官憲に逮捕されてしまう。当時のエジプトには「漂着者は丁重に保護する」という規則があった為、パリスは命だけは助けられたものの、ヘレネーと彼女と共に略奪したスパルタ王室の宝物をエジプト王室の管理下に置かれた上で国外追放の判決が下された。事態を知らされたパリスの父でトロイ王プリアモスはスパルタに事情を説明するが、激怒したメネラーオスはトロイ側の話をトロイが落城するまで信用せず、エジプトに問い合わせすらしなかった。トロイが占領されるに至って、トロイからヘレネーの姿も痕跡も発見されず、尚且つ生き残った捕虜もプリアモスの話を繰り返すだけであった事から、漸くメネラーオスはエジプトを来訪。エジプトのファラオから歓待を受けた上、丁重に扱われていたヘレネーと厳重に保管されていた宝物の返還を受けた。しかしながら、帰国を焦るメネラーオスが航海安全祈願の生贄の為に現地民の子供を誘拐した事が発覚した為、慌てて出航したスパルタ人はリビア方面に流されてしまい、却って帰国に手間取ることになってしまった。
ヘロドトスは、もし実際にヘレネーがイーリオスにいたのであれば、パリスの意思に係わらず返還されていたであろうし、プリアモスがいくらパリスをかわいがっていようとも、王族を含む大量の戦死者が出ている状況であれば返さないはずがないとの考えを記している[3]。
メネラーオスの妻となったヘレネーは、イーリオスの王子パリスの訪問を受けた。パリスは美の審判の際に、アプロディーテーからヘレネーを妻にするようそそのかされていたのである。ヘレネーはパリスに魅了され、娘ヘルミオネーを捨てて、イーリオスまでついていってしまった。
メネラーオスとその兄アガメムノーンらは、ヘレネーを取り返すべく、求婚者仲間たちを集めてイーリオスに攻め寄せた。元求婚者たちは、前の約束があるためにこれを断ることができず、トロイア戦争に参加した。
トロイア戦争では、ヘレネーを返してギリシア勢に引き上げてもらおうという提案がなされるが、パリスが反論して沙汰やみになった。パリスの死後は、パリスの弟のヘレノスとデーイポボスがヘレネーをめぐって争いをおこし、ヘレネーはデーイポボスの妻になることとなった。ヘレノスは弟にヘレネーを奪われたことをうらみ、戦闘に参加するのをやめて市外に逃れた。その後ヘレノスはオデュッセウスに捕まって説得され、ギリシア勢に味方することになった。ヘレノスは予言能力によりイーリオス陥落に必要な条件を教え、その滅亡を助けた。
イーリオス陥落の際、木馬の中にいたメネラーオスは、デーイポボスの館に駆けつけてデーイポボスを殺した。そしてヘレネーも殺そうとするが、恋情やみがたく殺すことができなかった。ヘレネーはメネラーオスと共にスパルタに帰った。
後日談では、再びスパルタの王妃として、かつての求婚者たちの許しを得て平穏に暮らしたとされる。また、別の話ではアガメムノーンの息子オレステースによって殺されたとある。オレステースは、密通の果てに夫アガメムノーンを殺した母クリュタイムネーストラーを自らの手にかけたが、叔母であるヘレネーをも「父アガメムノーンを10年に及ぶ戦争に連れ出し、家族崩壊の原因を作った不義の女」として成敗した。ギリシア悲劇でもしばしば扱われたが、三大作家の一人エウリーピデースによる悲劇『ヘレネー』が現存している[2]。
古代ギリシャ語: Ἑλένη, Helenē
スパルタ王(スパルタおう)は、古代ギリシアにおいてペロポネソス半島のラコニア地方にあった都市国家スパルタの君主の称号である。
概要
スパルタは、始祖のエウリュステネスとプロクレスが双子だったことから、この二人の血統であるアギス家とエウリュポン家の二家の世襲の王を戴いていた。その一方で、監督官の存在によって王の権限は立憲君主制の君主のように大きく制限されていた。王の権利は軍の指揮権、会戦時に右翼に陣取って指揮する権利(右翼は最も危険な場所であり、その分そこを占めることは名誉とされていた)、祭事に関する諸権利などであった。
エフォロイ (古代ギリシア語: Ἔφορος) とは、古代ギリシアのスパルタで設置されていた公職であり、スパルタ王と共に権力を分け合った。エフォロイは定員5人であり、スパルタ市民の公選により選出された[1]。エフォロイの語源は、「ἐπί」(アルファベット表記:「epi」、"on" or "over")と「ὁράω」(アルファベット表記:「horaō」、"one who oversees")から構成されている。エフォロイは複数形で、単数形はエフォロス。日本語では監督官と訳されることが多い[2] 。
エフォロイの制度は、ヘロドトスによるとリュクルゴスが設けたとする一方で、プルタルコスはリュクルゴス以降に考案されたと記している。エフォロイはスパルタ市民から選出され、全てのスパルタ市民が被選挙権を有していた。なお、エフォロイの再任制度は無かったため一期で退任した[3]。
エフォロイは稀にしか協力しなかった2人のスパルタ王の権力のバランスの上に立っていた。エフォロイは2人の王が不仲であれば勢力が強くなる一方で、2人の王が一致協力して国政を遂行する場合はその政策に介入することが許されなかったため、国政に対する影響力も低下した[4]。
プルタルコスによると[5]、毎年秋に実施されていた流血沙汰による罪を恐れることなしに、あらゆるスパルタ人が軍事訓練としてヘイロタイを殺害できるヘイロタイに対する戦闘行為(クリュプテイア、Krypteia)は、エフォロイが宣戦布告することにより始められた[6][7]。
古代ギリシア(こだいギリシア)では、太古から古代ローマに占領される時代以前までの古代ギリシアを扱う。
石器時代
ペトラロナ洞窟
ギリシアにおいて発見された最古の人類はハルキディキ半島(Χαλκιδική χερσόνησος)ペトラロナで発見されたペトラロナ人で、彼等はホモ・エレクトゥスとネアンデルタール人の形質の特徴を持ち合わせており、およそ20万年から40万年前までにさかのぼると考えられている。彼らが活動したこの時代がギリシアにおける前期旧石器時代と推測され、ギリシアにおいて人類の活動が始まったのはこの時代とほぼ考えられている。また、15万年前になると、生活の痕跡が増加し、この時代が中期旧石器時代と考えられている[1][2]。
エーゲ文明(エーゲぶんめい)は古代ギリシアにおける最古の文明。非ギリシア人およびギリシア人が文明を築いたと考えられる。
有名なトロイア、ミケーネ、ミノアの三文明のほか、さらに古い段階のキクラデス文明やヘラディック期(英語版)ギリシア本土の文化などがある。ドイツのシュリーマンのミケーネ遺跡発掘により存在が確認された。
経緯
前期エーゲ文明では基本的に戦争もなく比較的平和な時代だったと推測される。 それは発掘された王の宮殿からも推測できる。城壁もなく開放的な城の姿は海洋民族の特徴と言える。一方、後期エーゲ文明では城塞がその特徴の1つとなっている[1][2]。
地中海を通じて古代オリエントと近く、他地域に先駆け文化が発達[3]。線文字A、線文字Bなどの高度な文明を残し、古代エジプト文明の影響を受けたとされ、また青銅器文化も栄えた(線文字Aは未解読)。しかし紀元前12世紀頃すべて突然滅亡。原因は未だ解明されていない。貢納王政の衰退とも言われているが、北方ギリシア系ドーリア人、もしくは海の民の侵入との説が有力。三文明滅亡後のギリシアは人口が激減し線文字も人々から忘れ去られていったようである。
エーゲ文明滅亡から古代ギリシア諸ポリス成立までの約400年間は記述による記録も残っていないためこの時期については不明である。そのためその時期を暗黒時代と呼ぶ。
キクラデス文明(キクラデスぶんめい;Cycladic civilization)とは、新石器時代から青銅器時代初期にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明で、エーゲ文明に含められる。年代は紀元前3000年頃から2000年頃にわたり、これはクレタ島のミノア文明よりも前に当たる。
歴史
ケロス文化タイプの大理石像
この文明で最も有名なのは、極度に様式化された大理石製の女性像である。これらは約1400体知られているが、20世紀初頭に盗掘され、出土地がわかっているのはその40%にすぎない。
エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前に、アナトリアとギリシア本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えた。これはエンマ小麦、野生種の大麦、羊、山羊、海で捕れるマグロに依存していた。サリアゴスSaliagosやケファラKephala(ケア島)の遺跡からは、銅細工を行った証拠が得られている。
各島は小さくせいぜい人口数千人規模だったが、キクラデス文明後期の船の模型から、多数の島から50人ほどの漕ぎ手が集まって航海をしていたと思われる。
クレタ島で高度に組織化された宮廷文化が発展すると、キクラデス諸島は重要性を失ったが、デロス島だけは聖地としてギリシア古典期を通じて名声を保った(デロス同盟も参照)。
キクラデス文明の編年は大きく前期・中期・後期の3期に分けられる。前期は紀元前3000年頃始まり、紀元前2500年頃に中期(考古学的にはまだ不明の点が多いが)に移行する。キクラデス文明後期の終わり(紀元前2000年頃)までには基本的にミノア文明に吸収された。ただキクラデス文明の編年には、文化史的なものと年代学的なものの間でやや食い違いがあり、これらを結び付けた編年も一定していないが、普通には次のようにまとめられる。
ミノア文明(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明とも呼ばれるが、クレタ文明と呼ばれることもある。
概要
クノッソス宮殿
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、クノッソス、マリア(英語版)、ファイストスなど、島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、高度な工芸品を生み出した。紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。
紀元前1600年頃の後期ミノア期には、各都市国家の中央集権化、階層化が進み、クノッソス、ファイストスが島中央部を、マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き[1]、紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、略奪されミノア文明は崩壊した。
クレタの宮殿建築は非対称性、有機的、機能的な構成で、中庭は外部から直接に進入することができ、かつ建物の各部分への動線の起点となっている。建物は常に外部に対して開放されており、当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。
初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、後期ミノア時代に社会体制が中央集権化、階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、他の建築物が建てられた。祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。
ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。その原因を、イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)に巻き込まれたとする説を唱えた[2]。しかし、アクロティリ(英語版)遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している[3]。
ミケーネ文明(ミケーネぶんめい)またはミュケナイ文明(ミュケナイぶんめい)は、エーゲ文明のうち、ペロポネソス半島のミケーネ(ミュケナイ)を中心に栄えた青銅器文明である[2]。
歴史
ミケーネ文明は、紀元前1600年頃、南下したギリシア人の第一波とされるアカイア人によってアルゴリス地方で興り、地中海交易によって発展した。クレタ島のミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、これが事実かどうかは推察の域を出ない。紀元前1200年頃、突如勃興した海の民、もしくはドーリア人によって、ミケーネ、ティリンスが破壊され、ミケーネ文明は崩壊したと思われる。また、内部崩壊説や気候変動説も存在する[3]が、はっきりとした事情は不明である。この後、ギリシアは暗黒時代と呼ばれる混乱時代に突入し、線文字Bが使われることも無くなった。 ミケーネやティリンスの遺跡などは1876年以降からシュリーマンによって発掘された。
特徴
ミノア文明(クレタ文明)の建築が開放的であったのに対し、ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものとなっているが、これはミノア文明とは異なり外敵の脅威にさらされる可能性があった為と考えられている。中庭はミノア文明のそれとは異なり、動線の基軸として機能していない。中庭に代わる動線の基軸はメガロンと呼ばれる室内空間で、記念性を持った特権的な空間を構成し、中庭はその付属物である。建物は対称性が重視されている。その他、戦士や狩猟などの壁画、幾何学的文様・抽象的文様の陶器、金銀杯が特徴である[4]。アガメムノンの黄金のマスクは、シュリーマンが1876年のミケーネ遺跡発掘の際に発見し、現在はアテネの国立考古博物館に所蔵されている。尚武的なミケーネ文明は、剣や甲冑の製作に秀でていたほか、貴金属細工にも優れた作品を残している[4]。
政治
ミケーネ文明はミケーネ、ティリンス、ピュロスなどに巨石でできた城塞王宮とそれを中心とする小王国の分立という政治体制だった。のちのポリス社会と異なり、これらの小王国では専制的な権力を持った王が君臨し、統治下の村々から農作物、家畜、武器などを貢納として取り立て、それによって王宮で働く多数の職人や奴隷を養う貢納王政の仕組みをとっていた。貢納を受ける役人が存在していたが、エジプトやメソポタミアほど統治機構の整備は進まなかった[1]。
文字・言語
線文字Bが使われていた。この文字はイギリスの考古学者、マイケル・ヴェントリスによって解読され、古いギリシャ語であることが判った。ミケーネ・ギリシャ語と呼ばれている。
なお線文字Bは、刻まれた粘土板がクレタ島のクノッソスで初めて発見されたことから、当初はミノア文明(クレタ文明)発祥のものと考えられていた。1939年にピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土板が発見され、実際にはこれはミケーネ文明で用いられたものと判明した。1952年にはミケーネ王宮、1971年にはティリンスでも粘土板が発掘されている。
線文字B(せんもじB、Linear B)は、紀元前1550年から紀元前1200年頃まで、ギリシア本土およびクレタ島で使われていた文字である[1]。古いギリシア語の方言を表記するのに用いられた。
主に粘土板の上に左から右に書かれ、音節文字と「表意文字」と呼ばれるが実際は文字ではない絵画的な記号、および数字と単位記号から構成される。
この文字によって表されるギリシア語をミケーネ・ギリシャ語と称する。
概要
線文字Bを記した粘土板は、ギリシア本土のピュロス、ミケーネ、テーバイ、ティリンス、およびクレタ島のクノッソスとハニアから発見されている[2]。線文字Bは、書簡や論文などには使用されず、また、文字が書き留められた粘土板は、人為的に焼成されていないことから、単純に記録を伝えるためだけに用いられたものと考えられている。文学はなく、人名と職業が書かれた帳簿、物品目録、宮廷内の単なる事柄が記録されていた[3]。
多くの場合、粘土板の上に横に罫線を引き、その上に左から右へ字が書かれる。
主要な部分は1つの母音(V)、または子音と母音(CV)を表す音節文字であり、59文字から構成される[4]。このほかにおそらく二重母音や気音、あるいは子音結合をふくむ音節を表したと見られる16の文字がある[5]。そのほかに11の文字があるが、使用頻度が少ないために音価がわかっていない[5]。単語を区切るための縦棒があり、単語はこの記号、またはスペース、または文字の高さの変更によって区切られる[4]。
線文字Bはギリシア語の有声・無声・帯気音の区別のうち、t と d 以外は区別されない。r と l の区別もなく、母音の長短も区別されない。子音結合は前後の母音を補う場合もあるが、一部の子音は書かれない。語末の子音(s,r,n)も省略される[6]。
「表意文字」と呼ばれる記号はミケーネ・ギリシア人の経済にとって重要だった資産を絵にしたものである[5]。その総数ははっきりせず、今後も増える可能性がある。ほかに数字がある。
キュプロス文字(キュプロスもじ、Cypriot script)は、キプロス島で紀元前8世紀から紀元前3世紀にかけて[1]使用された、主にギリシア語を表記するための音節文字である。紀元前6世紀から紀元前3世紀頃の碑文がある。キュプロス音節文字(Cypriot syllabary)とも呼ばれる。
右から左へ書かれる。
概要
ギリシア語圏では線文字Bのような音節文字が使われていたが、紀元前1千年紀になると音節文字の使用はとだえ、アルファベットで書かれるようになった。しかし、キプロス島だけはどういうわけか音節文字が残存した。ギリシア語だけでなく、エテオ・キュプロス語(英語版)(純正キュプロス語とも)と呼ばれる未知の言語の表記にも用いられた[2]。
キュプロス文字は55文字から構成され、各文字はCV型の音節(開音節)を表す。子音の数は13(ゼロ子音を含む)、母音の数は5である。ギリシア語にある母音の長短、子音の無声・有声・帯気音の区別は表記されない。
音節末の流音と歯擦音、および語末の鼻音については e が補われる[1]。また子音結合は前後にある母音を補う。したがって、たとえば πτóλιν (ptolin)「市を」[3]はポトリネ(po-to-li-ne)のように表記される[4]。
紀元前4世紀になるとギリシア文字と併用されるようになり、紀元前3世紀にはキュプロス文字は廃れた。
『エヌマ・エリシュ』はインキピット(文書の冒頭の数語をさす言葉)であり、「そのとき上に」を意味する。第1板は以下の言葉から始まる。
e-nu-ma e-liš la na-bu-ú šá-ma-mu
上にある天は名づけられておらず、
šap-lish am-ma-tum šu-ma la zak-rat
下にある地にもまた名がなかった時のこと。
ZU.AB-ma reš-tu-ú za-ru-šu-un
はじめにアプスーがあり、すべてが生まれ出た。
mu-um-mu ti-amat mu-al-li-da-at gim-ri-šú-un
混沌を表すティアマトもまた、すべてを生み出す母であった。
A.MEŠ-šú-nu iš-te-niš i-ḫi-qu-ú-šú-un
水はたがいに混ざり合っており、
gi-pa-ra la ki-is-su-ru su-sa-a la she-'u-ú
野は形がなく、湿った場所も見られなかった。
e-nu-ma DINGIR.DINGIR la šu-pu-u ma-na-ma
神々の中で、生まれているものは誰もいなかった。
— 『エヌマ・エリシュ』冒頭部
エジプト・ヒッタイト平和条約は、紀元前1269年頃[注釈 1]にエジプト第19王朝とヒッタイトの間で調印された外交条約。銀の条約とも呼ばれる。
書面による明確な物証を伴った[2]最初の平和条約であり、紀元前1285年頃のカデシュの戦いから16年後に、エジプトのラムセス2世とヒッタイトのハットゥシリ3世の間で正式に結ばれた[3]。エジプト文字と、楔形文字によるヒッタイト-アッカド語で記された条約の複製2通りが作成され、いずれも現存している。エジプト版は、和平を求めたのはヒッタイトの王であったと記されており、ヒッタイト版では、使者を送ってきたのはラムセス2世だったと書かれている点で相違が見られる。
歴史
戦後、ラムセス2世が自軍の勝利を宣言した[1]にもかかわらず、優勢であったヒッタイト[4]もまた勝利を主張し[1]、ヒッタイトはカデシュを含むシリアのほぼ全ての地域に影響力を拡大し、両勢力間で不安定な状態が続いた。政治面でも影響力を有していたハットゥシリ3世の妃プドゥヘパ[5]とラムセス2世の妃ネフェルタリは、王たちよりも盛んに書簡を交わし、双方の働きかけにより、ハットゥシリ3世はハットゥシャで条約文を起草してエジプトのタニスに送り、それをラムセス2世の書記官が審査した。
条約文には神々への誓い・互いの勢力圏の策定[2]・有事の際の相互援助[6]・逃亡者が出た場合の送還規定などいくつかの条項が含まれており、神々に対する一連の呼びかけと、条約を破った人間に対する呪い、そして条約が有効である間、全ての人々へのあらゆる幸福を祈願する言葉で締めくくられている。神々の召喚の下になされた条約を破ることは、神の律法に背くことと同意義であった。
調印後、エジプト版の複製がカルナックにあるラーとアメンの神殿に、ヒッタイト版の複製がハットゥシャにあるテシュブ(英語版)神殿にそれぞれ納められた。
条約が結ばれた後、その取り決めは尊重され、それ以来、両国間で多くの交易が行われるようになった[7]。エジプトの建築家がヒッタイトの宮廷に招かれ、青銅器を用いていたエジプトでは鉄器が扱われるようになった。その後、ラムセス2世の治世34年目に対応する紀元前1256年、ファラオとヒッタイト王は婚姻をもって[1]条約を統合した。ハットゥシリ3世の娘がラムセス2世の妃としてエジプトに送られ[8]、マーホル・ネフェル・ラー(英語版)の名前で偉大なる王の妻となった。エジプトとヒッタイトは、ヒッタイトが「海の民」によって滅ぼされる紀元前1190年までの間、平和を維持した。
1906年に粘土板に書かれた版がボガズキョイで出土した[3]。1970年9月24日に粘土板のレプリカがトルコ共和国政府から国際連合に寄贈され、式典にはトルコ外相のイフサン・サブリ・チャーラヤンギル(英語版)と事務総長のウ・タントが出席した[3]。現在、レプリカはニューヨークにある安全保障理事会会議室北側の入り口に展示されている[3]。
海の民(うみのたみ、英語: Sea Peoples, Peoples of the Sea)は、古代の東地中海沿岸の各国(エジプトなど)へ海から侵攻した集団を指す。侵攻を受けたことが原因で不安定となり滅びた国・都市も少なくないと考えられている。そのような集団・傭兵の活動は古代資料に残るが、この語自体は後世に作られた。
古代エジプトでは、第19王朝のメルエンプタハ5年、第20王朝のラムセス3世5年に、このような連合集団による侵犯が古代資料に記録されており、1881年にガストン・マスペロが「海の民」と命名した。
歴史的記録
ペルイレルの戦い
確実に海の民であるとはっきり特定できる最初の言及は、メルエンプタハ(前1213年 - 前1204年)の時代の石碑[1] に見える。メルエンプタハ5年(前1208年)の文書 [1] では、古代リビア人及び海の民の連合軍の侵略に打ち克ち、6,000人の兵を殺し9,000人の捕虜を得たと書かれている(ペルイレルの戦い、Battle of Perire)。
このときの海の民は、アカイワシャ人・ルッカ人・トゥルシア人・シェルデン人・シェケレシュ人の5つの集団から構成されていたことが記録されている。各集団は以下のように比定されている。
アカイワシャ人 - ホメロスの伝えるところのアカイア人、すなわちミケーネ文明の担い手であったギリシア人
ルッカ人 - 小アジア南西部のリュキア人(アナトリア語派)
トゥルシア人 - エトルリア人
シェルデン人 - サルデーニャ人
シェケレシュ人(Shekelesh) - シチリア人
なお、アカイアは紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られた勢力で、ルッカ人やシェルデン人は海の民出現に先立つ紀元前1286年にはヒッタイトとエジプトが戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営の傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉のアマルナ書簡でルッカ人の海賊、シェルデン人の王について言及したものが知られる。
つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力は目新しいものであったが、その個々の構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。彼らの大規模な移動と侵略行為は、紀元前1400年ごろのミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものと考えられている。研究者には、トロイア戦争におけるギリシア(アカイア)側の予言者モプソスの活動を海の民の集団の指導者と結び付けて考えている者もいる。
デルタの戦い
デルタの戦い。「海の民」と戦うエジプト第20王朝のファラオ・ラムセス3世(メディネト・ハブのラムセス3世葬祭殿の浮き彫り)。
ペルイレルの戦いから約30年後、ラムセス3世はまた別にペリシテ人と連合した海の民の侵攻に対処しなければならなかった(デルタの戦い(英語版))。彼がテーベに葬祭神殿には、ラムセスが、いかなる国もその前に立ちはだかることは出来ないといわれ、ヒッタイト・キズワトナ(英語版)・カルケミシュ・アルザワ(英語版)・アラシア(英語版)の諸勢を撃破し彼らの都市を壊滅せしめた海の民の勢力と如何にして海戦で破ったかが述べられている。彼はこの時に侵攻した海の民を構成した諸族の名前を示している。ペリシテ人・チェケル人・シェケレシュ人(Shekelesh)・デネン人(英語版)・ウェシェシュ人(Weshesh)である。しかし、このリストはメルエンプタハの勝利の石碑に書かれたものを含んでおり、かつ、ラムセスが神殿の壁に創作の勝利を記述していることなどから、エジプト学者の中には、ラムセスは実際には海の民と戦わず、ただ、メルエンプタハの事蹟をファラオに共通する課題として、自らのものとして主張したに過ぎないとする説もある。
ラムセスが戦った海の民にはメルエンプタハの時代には記録されなかった集団がいくつか加わっているが、その中にペリシテ人とチェケル人がある。ペリシテ人は考古学的にミケーネ文明を担った集団の文化を持っていたことが確認されており、ギリシア世界の出身と考えられている。またチェケル人はその集団名をトロイア戦争当時のイリオス王プリアモスの6代前の始祖テウクロスと結びつける説があり、トロイア戦争として後世伝えられた歴史事件の両陣営ともが海の民に加わっていたことになる。
海の民は、紀元前12世紀初頭のものと推定される別の記録群にも表れている。ウガリット王のアンムラピ(英語版)(Ammurapi, c.紀元前1191年-紀元前1182年)は、ヒッタイト王シュッピルリウマ2世より、「船上で生活する Shikalayu 」について警告を受けている。これはメルエンプタハのリストにあるシェケレシュ人と同じ人々であると見られる。このこととウガリット王が通信を受け取った少しの後に顛覆せられ、ウガリットの都市が略奪に遭い居住不能になったこととは関係があるかもしれない。
海の民を巡る仮説
「海の民」の移動
紀元前1200年の前後5年間の間に発生した複数の文明の突然の終焉は、多くの古代の歴史家に海の民がヒッタイト、ミケーネ文明、ミタンニ王国の崩壊の原因となったという仮説を提唱させることになった。しかし、マーク・ヴァン・デ・ミエループ(コロンビア大学教授)らはいくつかの問題からこの説に反対している。グリマルは、アッカド人が Habiru と呼ぶ、定住地の外縁に居住していたグループによってミタンニ・アッシリア・バビロニアが滅ぼされたとするほうが適当であると論じた。また、ラムセス3世が防いだという海の民の攻撃の目的は、彼の神殿の壁に誇大して勝利が記録された小戦闘以上のものではないと述べる。ウガリットの考古学的遺跡から明らかになることで、アシュケロンとハツォルが殲滅せられたのはこのときでもカルケミシュやそれと同じ地域にある都市のビブロスやシドンは無傷でいた。
別の仮説では、彼らの記録された名前に基いて、海の民はこの時代のギリシア人移住、或はギリシア語を話す侵入者("Ekwesh" はアカイア人、デネン人はギリシア人の古名である Dananoi に同定される)がきっかけとなって形成された人々であるとされる。この説ではペリシテ人はギリシア語話者集団の一部であるとほのめかされる。海の民は初期のいくぶんか文化されたギリシアのミケーネ文明の都市国家の人々が、数十年に及ぶ凄惨な闘争で同士討ちしたものであったとして、この説をドイツ人の考古学者 Eberhard Zagger が2001年初頭にドイツで再提唱した。他の侵略者は少数、あるいは皆無で、またエーゲ海文明のギリシア語話者集団からのほんのわずかな違いがあったのみであろう。当時、ギリシア語の古い書字法である線文字Bなどを使って複雑な音韻を表記できるものは少数であったから、識字度は高くなかった都市国家には戦争の同胞殺しの本質を記述できるような日常生活での文書は比較的少なかった。対照的に、紀元前800年ごろに古代ギリシアで登場した完成度の高いアルファベットの書記法は習得も使用も比較的容易で、創作・非創作を問わずさまざまな文書の作成を促した。
さきの関係する記録の原文の解釈と対比すると、考古学的な記録からは中央ヨーロッパやイタリア半島からきた人々が海の民の事件に関係しただろうと信じうる確固たる論拠を導くことができる。海の民によって焼き尽くされたと考えられている都市の炭化した遺構の上に建てられた構造物の遺跡からは、多量のイタリアの型である陶器や青銅の武器が発見されている。海の民は確かにイタリア人だと同定する試みがなされている。例えば、シェケレシュ(Shekelesh)はシチリアにいた古代人に同定できると考える学者がいる。
加えて、飾りのない中欧型のブローチや琥珀のビーズも複数の都市で発見されている。いずれの物品も海の民以前のその土地の遺物の記録には現れないものである。また、ハンガリーや中央ドイツから発掘された紀元前1800-1600年にかけてのナイフやコップに、イタリア様式のナイフやコップが強い類似を示しているのを記すに足る。
海の民の蹂躙により豊かな都市がいくつも崩壊されたのには疑いようがない。彼らはこの富を維持しようとはせず、遺構の上に低文化・経済水準の定住地を築いた。これはそれらの都市の象徴するものへの深い軽蔑を示す。ホメロスの作品を手引きに考えるならヘラディック期(英語版)後期 (Late Helladic, LH) の戦士階級が戦利品を捨てたろうというのはありそうもないことである。
そのため海の民は誰であったかということの別の説を探す気になる。文献や遺物の記録はギリシアとエジプトの国家が北や西からの傭兵を活用したと示している。これらの傭兵の集団が数多くの社会構造、特にギリシアや近東の硬直した国家構造を破壊するために土地の奴隷層と同盟したという可能性が出てくる。
紀元前12世紀のいつごろかに、海の民の連合を見捨ててイスラエルの部族連合に入ったと考えてダン族を海の民の一つの "Danua" やデナイ人に比定する学者がある。このような比定は士師記にあるダン人とペリシテ人の根深い敵意を説明もするだろう。
前1200年のカタストロフの後、ギリシャは暗黒時代に入り、そのかわりにフェニキア、カナン地方が交易、海賊行為で隆盛を極めたことから、彼らが海の民に関係しているという説、海賊の寄留地として栄えたという説がある。
ヒッタイト(/ˈhɪtaɪts/)(英語: Hittites[ˈhɪtaɪts]、古代ギリシア語: Χετταίοι、ラテン語: Hetthaei)は、紀元前1600年頃にアナトリアの北中部に位置するハットゥシャを中心とした王国を樹立する上で重要な役割を果たしたアナトリア人である。この王国は、アナトリアの大部分だけでなく、レバント北部と上部メソポタミアの一部を含む領域を領有していたシュッピルリウマ1世の下で紀元前14世紀半ばにその絶頂に達した。
概要
紀元前15世紀から紀元前13世紀の間に、慣習的にヒッタイトと呼ばれるハットゥシャの王国は、近東の支配のためにエジプト新王国、中アッシリア帝国やミタンニ帝国と競合するようになった。中アッシリア帝国が最終的に優勢な勢力として現れ、ヒッタイト王国の多くを併合したが、残りの部分はこの地域へのフリュギア人の新参者によって略奪された。紀元前1180年以降、青銅器時代後期の崩壊時に、ヒッタイト人はいくつかの独立したシロ・ヒッタイト国家に分裂し、そのうちのいくつかは新アッシリア王国に屈服する前に紀元前8世紀まで存続した。
ヒッタイト語はインド・ヨーロッパ語族のアナトリア語派の言語のうちの一つで、密接に関連しているルーアン語とともに、歴史的に記録されている最古のインド・ヨーロッパ語であり[1]、その話者によってnešili「ネサの言語」と呼ばれている。ヒッタイト人は自分たちの国をハットゥシャ王国(アッカド語ではハッティ)と呼んでいたが、これは紀元前2千年紀の初めまでこの地域に住んでいたハッティ人に由来する。しかしハッティ人の言語であるハッティ語は、ヒッタイト語とは無関係の言語である[2]。慣習的な「ヒッタイト人」という名称は、19世紀の考古学が最初に彼らが聖書のヒッタイト人であると識別したことによるものである。
ハットゥシャ(現トルコ共和国、ボアズカレ)のライオンの門
ヒッタイト文明の歴史は、彼らの王国の地域で発見された楔形文字のテキストから主に知られており、アッシリア、バビロニア、エジプト、中東の様々な史書で発見された外交と商業の文通から、その解読はまた、インド・ヨーロッパ研究の歴史の中で重要なイベントであった。
ハットゥシャ(ヒッタイト語: 𒌷𒄩𒀜𒌅𒊭 - URUHattuşa)またはハットゥシャシュ (トルコ語: Hattuşaş)は、トルコの首都アンカラより東に145キロメートルのボアズカレ(旧・ボアズキョイ)近郊、海抜1000メートルほどの丘陵地帯にある遺跡。紀元前17世紀 - 紀元前13世紀に繁栄したヒッタイト帝国の都。
ヒッタイト人 (Hittites) は、クルガン仮説による黒海を渡って来た北方系民族説と、近年提唱されているアナトリア仮説によるこのアナトリア地域を故郷として広がって行ったという2つの説が提唱されているが、決着していない。
近年、カマン・カレホユック(英語版)遺跡(トルコ共和国クルシェヒル県クルシェヒル)にて鉄滓が発見され、ヒッタイト以前の紀元前18世紀頃(アッシリア商人の植民都市がアナトリア半島一帯に展開した時代)に鉄があったことが明らかにされた。その他にも、他国に青銅を輸出或いは輸入していたと見られる大量の積荷が、海底から発見された。
ヒッタイト古王国
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディターナ率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立した。
ラバルナ1世(Labarna I、? - 紀元前1565年頃)は、ヒッタイトの大王。ヒッタイト古王国初代の王。
経歴
彼の出自はよくわかっていない。名前とされる「ラバルナ」(「タバルナ」と読む説もある)も、本名なのか王としての称号なのかも不明である。ただのちのヒッタイト王は「大王」という意味で代々「ラバルナ」[1]を名乗るようになる。また次代のハットゥシリ1世と同一人物で、単に改名の前後の違いだとする説もあるが、それぞれについての文字史料に差が見られるため、別々の人物とする見方が強い。それはラバルナの文書には冒頭に必ず「国土は小さかった」(が、ラバルナが大きくした・・・と続く)と常套句のように告げられるのに対し、ハットゥシリの文書にはこの文句が見られず、ラバルナによる征服の結果、ハットゥシリが即位した時にはすでに大きな国土を得ていたと解釈されうるからである。ただしこの時代についての史料はいずれも後世のヒッタイト人が筆写したものであるため、一人物の称号であるラバルナと個人名であるハットゥシリを別々の人物と勘違いしたとする説も捨てがたく、なお議論は続くと思われる。
ラバルナは祖先と同じくクッシャラ(英語版)を首都としていた。クッシャラはどこに位置したのかは不明だが、クズルウルマクの南にあると推定されている。ラバルナはクッシャラを拠点にフプシナ、トゥワヌワ(ドイツ語版)、ネナッサ、ランダ(フランス語版)、ザッララ、プルシュアンダ、ルスナを征服し、それぞれに自分の息子を支配者として送り込んだという。また後世のテリピヌが伝えるところでは「彼は敵を海にまで追いやった(=国境を広げた)」とされるため、地中海あるいは黒海まで領土を広げたとも考えられる。こうして彼によりヒッタイト王国が建国され、彼以降を「ヒッタイト古王国」と呼ぶ。
紀元前1565年頃にラバルナは死去し、王妃タワナンナのいとこであるハットゥシリ1世が跡を継いだという。上記の通りラバルナには7人の息子がいたと記録されているため、この継承は異様な背景を思わせる。
テリピヌは大王アンムナの息子である。アンムナの死後、兄弟のティッティとハンティリは王位をめぐる争いに巻き込まれ、家族もろとも護衛隊長ズルとその息子タフルワイリによって殺された。その後王に即位したのはおそらくその暗殺を教唆した貴族のフッツィヤ1世だったが、テリピヌはフッツィヤの妹イシュタパリヤの婿だったために殺されずに済んだ。むしろフッツィヤはテリピヌと義兄弟であることを根拠に王位相続権を主張したのだが、テリピヌが邪魔になった。テリピヌはフッツィヤによる暗殺計画を聞くや、機先を制してフッツィヤを退位させ、自ら大王に即位した。
即位したテリピヌは、家族を殺した者たちを寛大に扱った。フッツィヤとその5人の兄弟はテリピヌにより追放されたものの、彼らに危害を加えないよう布告を出した。タヌワという男が布告に背いて彼らを皆殺しにしてしまったが、テリピヌの兄弟たちを殺した「金の槍持ち」タフルワイリやタルスフの場合と同様、いったん死刑を宣告した後に恩赦した。続く時期に彼の妻と息子アンムナが死んだが、これも殺害されたと思われる。こうした王位をめぐる悲劇を繰り返させないため、テリピヌは王位継承の原則などを定めたテリピヌ法典を制定した。
この法典はヒッタイト帝国の滅亡まで受け継がれることになる。それまで王位継承は摂政の推薦でパンク(貴族による評議会)の承認を得て決められていたが、この法典では正妻の息子、側室の息子、女婿といった序列による血統原理に基づく継承原則が定められ、王と王位継承者はパンクの監視と輔弼を受けることになっていた。身分の低い母親から生まれた王子に継承権は与えられず、また長子相続ではなく同等の身分を持つ王子の中から王自身が後継者を選ぶとされた。この法典で国王は絶対権力者ではないのが特色である。また復仇や係累同罪を否定し、死刑を避ける傾向など、この時代としては特色あるものとなっている。
その他の事績
そのほかテリピヌはフルリ人と戦ってカルケミシュの北側を征服し、シリアへの途次にあたる南の隣国キズワトナ(英語版)への遠征を行った。テリピヌはその王イシュプタフシュ(英語版)と同盟条約を結んだが、これは現存するヒッタイト最古の同盟条約である。ただし条文は部分的にしか残っていない。ハッシュワ、ラワツァンティヤ、ツィッツィリッパなどの都市もヒッタイトの影響下に入った。彼の即位時には先祖のハットゥシリ1世やムルシリ1世による遠征で得られた地はほとんど失われていたが、一部を回復することが出来た。
テリピヌの晩年はよく分かっていない。後継者に指名したのは娘婿のアルワムナだったが、実際に即位したのはタフルワイリだったといわれる。後者は上記の「金の槍持ち」タフルワイリと同一人物と思われ、アルワムナはタフルワイリを倒した後に即位できたとみられる。結局テリピヌの後も王位をめぐる争いは止まなかったのである。テリピヌののち、混乱状態になるためか文字史料はきわめて乏しくなる。ヒッタイト史を古王国・新王国と二分する時代区分法と、古・中・新の三期に分ける時代区分法があるが、三期区分の場合は割合事績のはっきりしているテリピヌを以って古王国時代最後の王としている。
ヒッタイト語(ヒッタイトご)は、インド・ヨーロッパ語族(印欧語族)アナトリア語派に属する言語。
アナトリア半島中央部のハットゥシャ(現在のトルコ北部ボアズキョイ)を中心とするヒッタイト帝国で用いられた。インド・ヨーロッパ語族の言語のうちもっとも古い文献の残る言語である。
粘土板に楔形文字によって記された紀元前16世紀から紀元前13世紀頃までの文書が遺っており、第一次世界大戦中に解読された。
ヒッタイト語は他の印欧語と異なる点が多く、早い時期に印欧語から分離したと推測されてきた。印欧語族の「姉妹言語」と考える研究者もいる。
名称
中央アナトリアには非インド・ヨーロッパ語族の言語であるハッティ語を話す先住民のハッティ人が住んでいたが、おそらく紀元前3千年紀ごろヒッタイト人の祖先がやってきて、先住民の名を自称した[3]。ハットゥシャやハットゥシリ1世、ヒッタイト、ヒッタイト語などの名もここに由来する。
ヒッタイト語の文書では、自身の言葉をnesili (またはnasili 、「ネサの言葉で」の意)と書いている。また、Kanisumnili 「カネシュの言葉で」と記された場合もある。カネシュ(ネサ)は今のキュルテペのことである[4]。キュルテペからはヒッタイト王国の起源の上で重要なアニッタ王宮の名前を記した青銅の槍先が発見されている[5]。
発見と解読
19世紀末にフリンダーズ・ピートリーがエジプトのアマルナを発掘し、多数の粘土板を発見したが、その中に、アッカド語と同じ文字を使ってはいるが未知の言語で書かれたものがあり、アルザワ書簡と呼ばれた。ノルウェーのヨルゲン・クヌートソン(英語版)が研究し、アルザワ書簡の言語がインド・ヨーロッパ語族の特徴を持つことを1902年に発表したが、当時は受け入れられなかった[6]。
1906年にフーゴー・ウィンクラーを隊長とするドイツの調査隊がボアズキョイを発掘して多数の粘土板を得た。そのうちにアルザワ書簡と同じ言語で書かれたものも含まれていた。アッカド語で書かれた粘土板から、ここがヒッタイトの首都であるハットゥシャであることが判明した[7]。ヴィンクラーの没後、1915年にチェコのベドジフ・フロズニーが、この言語がインド・ヨーロッパ語族に属すると結論づけた[8]。その後は主にドイツの学者によって研究が行われ、ヒッタイト語は正確に理解できるようになっていった。
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板