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やる夫は才能豊かな劣等生 4

1亜鉛人 ◆ZB2z7gOrzo:2015/07/06(月) 23:49:43 ID:X5VTcoAk0


         やる夫は才能豊かな劣等生


・このスレ以前書いた短編を長期化したものです

・短編を読んでいなくても問題ありません

・GBAソフト 「マジカルバケーション」の設定を一部借りていますが
 原作未プレイでも問題ないよう書き進めていきます

・一部不快になるような表現が有るかも知れません

・相の手や感想、アドバイスは大歓迎です 1の活力になります

951名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:07:39 ID:xPRnhWUU0
ところが、この帰還報告に驚いたのは、成都に留まっていた張松だ。劉備に帰られてはいち大事と、自分が成都の中で呼応するから考え直すように書状をしたためていたところ、兄が訪ねてきた。いやいや応対した張松だけど、酔い潰れてしまい、問題の書状が兄の手に渡る。兄はそれを劉璋に届け、さすがのバカも状況が理解できた。張松を殺し、劉備討つべしと息を巻く

952名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:08:16 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

953名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:08:51 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしている日月形の土塁を作り上げていた」

954名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:13 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明とともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何と云ったのかは、正史にもない戦ったりしている日月形の土塁を作り上げていた」

955名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:37 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明とともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何どう動いたのか明記はないんだけど、たぶん、張遼が暴れてる隙に近郊に隠れて、呉軍の補給線を衝いていたんだと思う。でなきゃ、援軍が来ない城を十日で諦めるような真似はしないだろうからと云ったのかは、正史にもない戦ったりしている日月形の土塁を作り上げていた」

956名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:47 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明とともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何どう動いたのか明記はないんだけど、たぶん、張遼が暴れてる隙に近郊に隠れて、呉軍の補給線を衝いていたんだと思う。でなきゃ、援軍が来ない城を十日で諦めるような真似はしないだろうからと云ったのかは、正史にもない戦ったりしている日月形の土塁を作り上げていた」

957名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:10:50 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬

958名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:11:13 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬今度こそ救急車を警戒したのかねェ。かくて呉に張遼の名は鳴り響き、夜泣きする子供でも『張遼が来るよ』と云われると泣きやんだという

959名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:11:27 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬今度こそ救急車を警戒したのかねェ。かくて呉に張遼の名は鳴り響き、夜泣きする子供でも『張遼が来るよ』と云われると泣きやんだという

960名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:12:03 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはまだ先のオハナシ

961名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:12:30 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開されるまだ先のオハナシ

962名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:12:56 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

963名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:13:24 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

964名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:13:47 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州を割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

965名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:14:14 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

966名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:14:39 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備に降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

967名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:12 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

968名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:29 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

969名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:54 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

970名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:16:14 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

971名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:16:38 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

972名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:17:05 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

973名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:17:27 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

974名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:17:54 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

975名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:18:15 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

976名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:18:39 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

977名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:07 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

978名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:30 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えて記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだようにいない国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

979名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:50 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えて記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』さて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築き上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦火を交えると呼んだようにいない国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

980名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:20:11 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えて記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』さて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築き上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦手柄を立てられなければ帰ってくるなと責められた龐徳は、曹操の首級を狙い攻め入るものの、ついに捕らえられ、降伏した。コレに困り果てた張魯は、ついに漢中の城を捨てる決意を固めたものの、城内の倉庫は『コレはもともと国家のものだしなぁ』と、鍵だけかけて持ち出さず、城を出て……楊松に裏切られ、追いつめられて降伏した火を交えると呼んだようにいない国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

981名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:20:35 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはというわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦そこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉うむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分このふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操にうむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争のそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなか劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑さ本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えて記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』さて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築き上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦手柄を立てられなければ帰ってくるなと責められた龐徳は、曹操の首級を狙い攻め入るものの、ついに捕らえられ、降伏した。コレに困り果てた張魯は、ついに漢中の城を捨てる決意を固めたものの、城内の倉庫は『コレはもともと国家のものだしなぁ』と、鍵だけかけて持ち出さず、城を出て……楊松に裏切られ、追い――「人苦不知足」既得隴、復望蜀耶(欲望ってのはきりがねェな、漢中を得て蜀までほしいのか?)つめられて降伏した火を交えると呼んだようにいない国教に定めていたれている三蔵っているんだよ得た劉備は、兵梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……ったという様相を呈した降伏したかれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどに降伏している備は震え上がったを割譲する、とがまとめて降った任は取り逃したが展開されるまだ先のオハナシ

982名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:20:56 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いさて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築手柄を立てられなければ帰ってくるなと責められた龐徳は、曹操の首級を狙い攻め入るものの、ついに捕らえられ、降伏した。コレに困り果てた張魯は、ついに漢中の城を捨てる決意を固めたものの、城内の倉庫は『コレはもともと国家のものだしなぁ』と、鍵だけかけて持――「人苦不知足」既得隴、復望蜀耶(欲望ってのはきりがねェな、漢中を得て蜀までほしいのか?)ち出さず、城を出て……楊松に裏切られ、追いつめられて降伏したき上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦火を交えるしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだようにり込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

983名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:21:42 ID:xPRnhWUU0
そゆこと。そんなこんなで212年。群臣が、曹操を公に推挙しようと云いだした。後に孔明が、劉備に向かって『我々家臣一同が殿にお仕えしてきたのは、殿が王となり我らも富貴に預かるためですよ!』と云っているけど……

984名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:22:07 ID:xPRnhWUU0
……で、曹操は荀彧に空の器を贈った。贈物が空でした、と云ったら不敬罪に問われる。といって『けっこうなものを頂きました』とか云ったら、曹操から『空箱にナニを云うか!』と云ってくる。もちろん、礼を云わないわけにはいかない。いずれにせよ荀彧は罪に問われる……というシナリオで、結局服毒自殺するんだよな

985名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:22:32 ID:xPRnhWUU0
というか、荀彧が魏公推挙に反対したモンだから、そのせいで殺されたと思われている節があってね。荀彧がナニを考えて反対したのかを追及していくと、興味深いものが見えてくる

986名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:22:53 ID:xPRnhWUU0
正史荀彧伝には、曹丕が荀彧に礼を曲げて接していたことや、荀彧の息子が荀彧の死後、曹植に接近したことが触れられている。また、演義での話になるが、曹植の腹心中の腹心たる楊修が、曹操に無礼な振る舞いをしでかした張松をかばったとき、荀彧はそれに同調しているんだ。その辺の記述から察するに、間違いはないと思う

987名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:23:14 ID:xPRnhWUU0
曹操にはかなり多くの男児がいたんだけど、無条件で優先される長子・曹昂は早くに戦死し、曹操自身が後継者と見込んでいた天才児・曹沖は12歳で死んでいる。というわけで、曹丕と曹植が後継者候補に挙がっていて、やはり曹丕が有利だった。何しろ、曹植は素行が悪くて、詩才はあっても曹操からはあまり評価されず、一度など(とんでもない理由で)出陣前に酔っ払っていて『……お前、もう帰れ』と曹操に呆れられたことさえある

988名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:23:32 ID:xPRnhWUU0
うん、これについては原因を断言してもいいけど、荀彧の死がショックだったんだろうね。魏公に昇っても、後継者を指名することはなかった。……ところが216年、今度は魏王に推挙される。劉氏にあらぬ者を王としてはならない、という劉邦以来の原則を曲げて、だ

989名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:23:52 ID:xPRnhWUU0
いや、215年に、献帝は伏皇后の父に『曹操討つべし』との密書を送ろうとしたんだけど、それが曹操にバレてね。というわけで、伏皇后やその父・一族郎党が処刑されているの(ただし、正史では父が死んだのは209年)

990名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:24:11 ID:xPRnhWUU0
裴松之が評するように、賈詡の伝記を別の巻に編成すると、「後継者争い」という「影の旋律」が浮かび上がらなくなってしまう。「後継者争い」の決め手は賈詡であったのだから。したがって、陳寿が、曹植を推す荀彧、曹丕を推す荀攸、両者による後継者争いに決着をつけた賈詡の三人を一巻に抱き合わせたことには、この「旋律」を浮かび上がらせようとの意図があったのである。

991名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:24:25 ID:xPRnhWUU0
「……おい、賈詡?」
「は? ……はぁ、何ですかのぅ〜?」
「何ですかって……お前、聞いてた?」
「……申し訳ありませんのぅ〜。考え事をしておりまして、聞いておりませんでしたのじゃ〜」
「お前なぁ! オレの後継者を決める大事な席で、いったいナニを考えてた!?」
「昔のことを思い出しておりました。袁紹・劉表父子のことでございます」

992名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:24:50 ID:xPRnhWUU0
歴史は動かせないけど、社会には必要な存在。

993名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:26:40 ID:xPRnhWUU0
歴史は動かせないけど、社会には必要な存在。

994名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:26:54 ID:xPRnhWUU0
【2ch面白いスレ】安価で天国でめちゃくちゃな展開にw【ゆっくり解説】

995名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:27:11 ID:xPRnhWUU0
やきう

996名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:27:43 ID:xPRnhWUU0
「夏侯淵の功績としては、涼州平定により曹操領の西北部を安定させたことにある。もともと曹操配下で機動力に長けていた夏侯淵は『典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里六日で一千里』と称されたほどで」

997名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:28:31 ID:xPRnhWUU0
 ――将たる者は剛と柔を併せ持たねばならん。(将は確かに勇を備えておらねばならんが、いざ戦場に出ては智こそが重要なのだ)いたずらに勇を頼むは匹夫の所業だぞ。
 お前の"妙才"を見せてもらおう。その二文字を辱めるなよ。

998名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:29:01 ID:xPRnhWUU0
【2ch面白いスレ】安価で天国でめちゃくちゃな展開にw【ゆっくり解説】

999名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:29:22 ID:xPRnhWUU0
コロされての方かと思ったらオカされたの方で草
申し訳ないが野獣先輩〇亡説は悲しいのでNG

1000名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:30:35 ID:xPRnhWUU0
実は、それ相応の人材を西域に派遣して、安定に努めるべしと進言したひともいたんだけど、あろうことか"引き抜きメモリアル"と呼ばれた魏王サマの人材収集癖が出て『オレからアイツを取り上げるつもりか!? 魏が滅ぶぞ!』とまで抵抗し、沙汰止みになっていてねぇ




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