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【D&D3・5版】やる夫はDMに挑戦するようです【キャンペーン】

1テリオン ◆ya1gALA3yY:2015/04/21(火) 21:02:21 ID:XP5WYAaQ0



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       【D&D3・5版】やる夫はダンジョンマスターに挑戦するようです【キャンペーン】

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   注意事項

   1:この作品はウィザーズ・オヴ・ザ・コースト社版TRPG「ダンジョンズ&ドラゴンズ3・5版」の自称リプレイです。

   2:このリプレイは1が実際に主催していたTRPGサークルで行ったプレイです。
     AAの都合や一部演出など脚色していますが6割前後は実際に起こったことです。

   3:1はやる夫スレ初投下です。色々不備やAAの演出がおかしいこともあるかもしれませんが、ご了承ください。

   4:合いの手バッチ来いです。乙や感想が貰えると嬉しいです。

   5:週一で投下を目指していますが、製作速度によっては不定期になる可能性があります。

951名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:22:40 ID:0EMLB7bQ0
此{陳璋壷}銘中最可注意的,是“伐匽亳邦”一語,它明白地表示出亳在燕境。
この(陳璋壷)銘で最も注意すべきなのは、「匽亳えんはくの邦を伐つ」の一語である。
それは亳はくが燕えんの境界に存在することを明白に表わしている。

952名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:22:55 ID:0EMLB7bQ0
亳はくは殷の都城を表す汎称・・(顧頡剛説)
《左傳》昭九年:“及武王克商,蒲姑、商奄,吾東土也。……肅慎、燕、亳,吾北土也。”
(中略)亳乃是商王都城的一個公用的名詞。
(中略)在這些記載裏儘管尚有很多待考辨的問題,
但商王的都城,無論遷到那裏,都可以稱爲“亳”,這是一個確定存在的事実。

『春秋左氏伝』昭公九年に「武王が殷に勝利した以降、蒲姑と商奄は、周の東の領土である。……
粛慎と燕と亳は、周の北の領土である。」とある。
(中略)亳はくは殷の都につけられる共通名詞である。
(中略 具体例の記述のあとに)
これらの記載についてはまだ考察すべき問題が多くあるけれども、
殷王の都についていえば、それがどこに移動しようとも、全て「亳」と称しうることは、一個の確定的事実 である。

武庚北奔,離開周公的鋒鏑,到東北建國,仍名其都“亳”,這事有極大的可能性。
康王之世,伯懋父“北征”,恐怕就是爲了解決這個亡国之君“死灰復燃”的問題。
武庚は北に奔り、周公の攻撃を避け東北地方に建国して、その都を「亳はく」と名づけた、この可能性が最も高い。
康王の時代になって、伯懋父はくぼうほが「北征」したのは、 恐らくは、国を失ったこの君主の「死灰しかい 復また燃もゆ(一度衰退したものが再び勢力を盛り返す)」問題を 解決するためであろう。

953名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:23:09 ID:0EMLB7bQ0
『史記』の北殷氏(顧頡剛説)
《史記・殷本紀》:“契為子姓:其後分封,以國為姓,有殷氏,……北殷氏。”《索隠》: “‘北殷氏’蓋秦寧公所伐亳王,湯之後也。”
(中略)秦寧公所伐的亳王、是殷裔在西方所建之國。
這“北殷”該是武庚失敗後逃到東北所建的新國,
司馬貞不得其解,以爲即是《秦本紀》的亳王,其實那邊只該稱“西”而不該稱“北”。

『史記・殷本紀』に「契は子姓を称し、その子孫は各地に分封され次のように国名を姓とした。 有殷氏、・・・北殷氏である。」とある。
(司馬貞の)『史記索隠』に「「北殷氏」は秦の寧公が征伐した亳はく王で、殷の初代の湯王の子孫である。」とある。
(中略)秦の寧公が征伐した亳はく王は、殷の末裔が西方に建てた国である。
一方こちらの「北殷」は武庚が反乱失敗後東北方面に建てた新国である。
司馬貞はその解釈ができず、北殷を史記の秦本紀に見える亳の王としたが、
実際には、その場合であれば「北(殷)」ではなく「西(殷)」と呼ばれたはずだ。

954名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:23:21 ID:0EMLB7bQ0
北に逃亡することは可能・・(顧頡剛説)
按武庚封於邶,依王國維説,邶即燕,或是近於燕的地方,則武庚失敗後北向逃亡,
直至塞外,超越了周公的勢力範圍,是很可能的事。

考えるに、武庚は邶はいの地に封じられたのであるが、王国維説によれば、邶は即ち燕、或いは 燕に近い地方である。
それゆえ、武庚が反乱失敗後北へ逃亡し、国境外へ出て、周公の勢力範囲を越えることは、 十分可能なことである。

955名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:23:47 ID:0EMLB7bQ0
中国の李學勤氏は「聖と 耿こう は本来同音である」という説を見解を採って・・・
整理者{李學勤}は(中略)
「 宀
彔 子耿こう」は

大たい 保簋ほき にいう「 彔ろく 子し 耳口」 のことである とし、
「耿」字は古音では見母耕部{つまりコウに近い音}で,
「耳口」に從う 「聖」字は書母耕部{つまりショウに近い音}であり,

「聖」と同音の「聲」が從う「殸」は溪母であるから
{=「聖」と同音とされる「聲(声)」という字があるが、聲(声)は形声文字であって音は 殸という部分で表わされ、かつ殸はケイと読む溪母の字なので、[聲(声)の音であるセイ、ショウは ケイ、キョウのような音から変化したものであって「聖」も同様にケイ、キョウのような音から変化したと考えられるから]},

『説文』の引く杜林説は「耿」字を「从火,聖省聲」とする
{=『説文解字』に引用される杜林説が「耿の字は意味は火で発音は聖声」としている[のは耿を ショウ・セイと読ませる趣旨でなく、聖の本来の音(キョウなど)と同音に読ませるとの趣旨なのである]}

956名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:24:03 ID:0EMLB7bQ0
例えば、『詩経』小雅の「大東」という詩は東族の悲哀を歌った詩の代表例といえそうである。
その一部分を引用してみる。

東人之子、職勞不來。
西人之子、粲粲衣服。
(中略)
私人之子、百僚是試。


東人とうじんの子、 職しょくとして勞ろうして來ねぎらはわれず。
西人せいじんの子、 粲粲さんさんたる衣服。
(中略)
私人しじんの子、 百僚ひゃくりょう是れ 試もちひいらる。

東国の人は、ひたすら苦労しても報いられない。
西の都の人は、きらびやかな衣服を身にまとっている。(中略)
西の人なら召使いであろうと役人に雇ってもらえる。

957名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:24:49 ID:0EMLB7bQ0
ただ、虚像説についても、参考になるかもしれないのでもう少し採り上げておきたい。
太公望の活躍を虚像とする点で近似する見解として、落合おちあい淳あつ思し氏の見解が挙げられる。
氏は次のように述べておられる。

太公望は、「斉せい」という諸侯の初代であり、『史記』等の文献では文王・武王の軍師とされている。
(落合淳思『甲骨文字に歴史をよむ』筑摩書房 2008年 p.204)

斉せいが元は殷側の勢力だったことが窺うかがわれる。・・『史記』などに記された太公望の活躍は
後世の創作と考えてよいだろう。(同書p.206-p.207)

958名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:25:03 ID:0EMLB7bQ0
斉の初代君主は太公望のモデルとする説等について

一方、これに反対する説として、2010年に山東省淄し博はく市高青こうせい県花溝鎮の陳荘ちんそう遺跡で出土した銅器の「豊啓 觥銘こうめい」に豊啓という人物の祖として記された「祖甲斉公」を、太公望のモデルとなった人物であると解し、
やはり彼は斉の君主にもなっていたのでないかと見る見解が出てきている。

「祖そ甲斉公こうせいこう」の号を刻した(中略)青銅器が発見された。
これはおそらく初代の斉公の号であるが、殷代以来の十干諡号を用いているのが注目される。
(中略)この「祖甲斉公」が伝世文献上の太公望を指しているのかもしれない。

(佐藤信弥『周─理想化された古代王朝』中央公論新社 2016年 p.42)

佐藤氏は「かもしれない」と含みを持たせた表現をされているが、中国の方などでは、「祖甲斉公」イコール 太公望であると断定する学者も増えてきている。
その上で、太公望の業績のほとんどは虚像である等としてバランスをとるわけである。
自説では、斉の君主の初代は当然ながら太公望のモデルではないし、また、 実在した太公望の前半生は虚像ではなく実像であると考える。
周の勝利に多大な貢献をした人物だからこそ その誅滅を東族こぞって喜んだのだと。

959名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:25:19 ID:0EMLB7bQ0
1930年代の中国の代表的歴史学者の一人である傅ふ斯し年ねんはその有名な論考「大東小東説」(1930年発表)で次のように 主張した。

(上記『史記』の太公望就任時の部分を引用した後に)

拠此。可見就国営丘之不易。
これによれば、営丘に就任するのが容易ならざることがわかる。

至于其就国在武王時否、即甚可疑。
太公望が周の武王の時に就任したのかが強く疑われる。
(中略)
武王之世、殷未大定、能越之而就国乎?
武王の世は、殷はいまだ完全に平定されていなかったのに、これ[済水]を越えて就任などできるだろうか?
(中略)
綜合経伝所記、即知大公封邑本在呂也。
諸経・注釈の記載を総合すれば、太公望がもともと封じられたのは[斉の国ではなく] [今の河南省に属する、成周の都のおかれる場所から遠くない] 呂の地であったと知ることができる。
(傅斯年「大東小東説」(『傅斯年全集』第三冊 聯經出版 2017年所収 p.0750))

このように傅ふ斯し年ねんは太公望の斉せいの国への就任を否定したのだ。
この見解では、「太公望(実在)」と「斉せいの初代君主」は別人ということになる。
自説でも、太公望は実在で、しかし斉の初代君主にはなっていないと考えるので、別人という点では一致する。

960名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:25:40 ID:0EMLB7bQ0
逆旅人曰、吾聞、時難得而易失。
逆旅げきりょの人曰いわく、吾われ聞く、時は得え難がたくして失うしない易やすしと。
旅館の主人は言った。「私は、時は得がたく、失いやすいものだと聞いている。

客寝甚安 殆非就国者也。
客、寝いぬること甚はなはだ安やすし、 殆ほとんど国くにに就つく者に非あらざるなり、と。
お客様は、ゆっくり寝てとても安楽にしている。国に赴任する人とはとても思えない。」と。

太公聞之、夜衣而行、黎明至国。
太公たいこうは之これを聞き、夜に衣きて行き、黎明れいめいに国に至る。
太公望はこれを聞いて、夜のうちに服を着て出て行き、夜明け前に国に到着した。

萊侯来伐、与之争営丘。
萊侯らいこう来たりて伐うち、之これと営えい丘きゅうに争あらそふ。
萊侯らいこうが到来して太公望を攻撃した。太公望は萊侯と営えい丘きゅうの地で戦った。

営丘辺萊。萊人夷也。会紂之乱而周初定、未能集遠方、是以与太公争国。太公至国、修政(以下略)
営えい丘きゅうは萊らいに辺へんす。萊人らいじんは夷いなり。紂ちゅうの乱に会かいして周しゅう初めて定まるも 未いまだ遠方を集やすんずる能あたはず、  是ここを以もって太公たいこうと国を争あらそふ。太公は国に至り、政を修め、(以下略)
営えい丘きゅうは萊らいに隣接している。萊人らいじんは、夷いの族である。紂ちゅう王の乱の際に周は初めて天下をとったが、未だ遠方の平定 はできていなかった。それゆえ萊らいは太公望と国を争ったのである。太公は国に至り、政治を整えた(以下略)。
(『史記』巻三十二「斉太公世家」)

961名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:26:09 ID:0EMLB7bQ0
ただ、契丹古伝では、殷が倒された後の25・26章で、「夏莫けむ且しょ」という裏切り者を退治する場面が出てくる。


武ぶ伯はく山軍さんぐん、冀きに糾合きゅうごうし、南に跳ちょう破はするに当たって。偶たまたま寧羲騅にぎし、其その舟しゅう師し及び弩ど旅りょを以もって渝ゆ浜ひんに会かいす。

武ぶ伯はくの山軍さんぐんは冀きの地(ここでは今の河か北ほく省の一角)に集合し、南方への猛突進を開始しようとしていた。
そこへたまたま寧羲騅にぎしという人物が水軍と弓矢隊を率いて[武ぶ伯はくのいる場所にほど近い]渝ゆ浜ひんという場所で集結した。

高令、国を挙げて前走ぜんそうし、歌って曰く。「鄲納番達謨孟たにはたまも。珂讃唫隕銍孟かさきいつも。伊朔率秦牟黔突いそすすむかと。壓娜喃旺嗚孟あななおえも。」

そこで[喜んで]部族丸ごと先さき駈がけを勤めることをかって出た高令部族が「鄲納番達謨孟たにはたまも。珂讃唫隕銍孟かさきいつも。伊朔率秦牟黔突いそすすむかと。壓娜喃旺嗚孟あななおえも。」 と歌う中、進軍が行われた。

武ぶ伯はく、追って夏莫けむ且しょを獲。寧羲騅にぎし、之これを斬きって以もって徇となふ。諸しょ族ぞく、喜き躍やく響きょう応おうす。伝つたへて兪于入ゆうにの誅ちゅうと謂いふ。

武ぶ伯はくは夏莫けむ且しょを追って捕獲し、寧羲騅にぎしは夏莫けむ且しょを斬きって人々に示し[誅ちゅう滅めつ成功を]告げ知らせた。 東族は皆飛び上がって勝かち鬨どきの声をあげて喜んだ。 この事件を兪于入ゆうにの誅ちゅうと言い伝えている。


この「夏莫けむ且しょ」という東族語表記らしい名をもつ人物は、本文解説でも述べたように裏切り者であると解されるが、
東族が飛び上がって誅ちゅう滅めつを祝うほどの裏切り者とはだれなのだろうか。

(「夏莫且」は単純に呉音読みすればゲモソ、ゲモシャ等となるが浜名氏はこれをケムソと読んでいる。正確な発音の復元はいずれにしても困難で あり、カマシャなどと書くこともできるが、折衷的に本サイトではケムショと読んでおきたい。)

962名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:26:24 ID:0EMLB7bQ0
契丹古伝23章

淮徐わいじょ、方に郊戦こうせんに力つとむるも。
[東族側である]淮わい族・徐じょ族は、そろって[殷周の決戦の場である]牧ぼく野やの郊戦こうせんに力をつくしていたが、

姜きょう、内うちより之これを火やく。
この際、姜きょう族は、内より火を放って焼しょう毀きした。
(浜名氏も本章の「姜」について「太公望の氏族をいう」としている。)


また、姜きょう族は契丹古伝20章で東族の諸族を列挙した「神統しんとう志し」に登場し、東族であることが明示されている。

姜きょう・濮ほく・高こう・畎けんの諸しょ委い 焉これに属す。 以上通して諸これを夷いと称するは神の伊尼に因よる也。
姜きょう・濮ほく・高こう・畎けんの諸しょ委いがこれ[(=東族の分類で太祺毗たきひ系の族)]に属する。 以上を通してこれらの族を「夷い」と称するのは神の「伊尼」に由来するのである。


(本稿において、契丹古伝発見・解説者の浜名寛祐氏の著書は 原則として次のように略号表記する。
浜名寛祐 詳解(または浜名詳解または詳解):浜名寛祐『契丹古伝詳解』東大古族学会 1934年
浜名寛祐 遡源(または浜名遡源または遡源):浜名寛祐『日韓正宗遡源』喜文堂書店 1926年 もしくはその復刻版である『神頌 契丹古伝』八幡書店 2001年)
※契丹古伝の章立ては浜名氏が付加したものだが、便宜上、本稿でも章の分け方・数字は氏のものを使用する。原文は本サイトの読み下しページ に掲載した(浜名氏の上記本に準拠)。読み下しや、東族固有語の読みには本稿筆者独自の部分もある。
なお、本稿では漢字は旧字体を適宜新字体に改めてある。

963名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:26:40 ID:0EMLB7bQ0
といえば、周の軍師となり殷いん朝を倒した立役者として、古来中国で礼賛され続けてきた存在だ。
釣りをする太公望を周の文王ぶんおうが見出したというエピソードも有名で、日本でも周知である。
出世した人物として、また賢人として、好印象を持つ人も多い人物であることは確かである。
殷朝を倒した後は、山東半島の斉せいという国の初代君主に命じられ、長寿を全うしたことになっている。
それが、殺されていたとは何たることか。このサイトの作者は気が触れたのではないか?
と驚かれる方も多いのではないだろうか。
しかし、このサイトで解説している『契丹きったん古こ伝でん』を丁寧に読み込めば、むしろ非常に有りうる話なのである。

太公望は姓を姜きょう、氏を呂りょ、名を尚しょうといい、姜きょう族の出身とされる。

この「姜きょう」族自体は、契丹古伝にも登場している。 (以下、緑字は筆者による現代語訳)

964名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:26:55 ID:0EMLB7bQ0
太公望たいこうぼうといえば、周の軍師となり殷いん朝を倒した立役者として、古来中国で礼賛され続けてきた存在だ。
釣りをする太公望を周の文王ぶんおうが見出したというエピソードも有名で、日本でも周知である。
出世した人物として、また賢人として、好印象を持つ人も多い人物であることは確かである。
殷朝を倒した後は、山東半島の斉せいという国の初代君主に命じられ、長寿を全うしたことになっている。
それが、殺されていたとは何たることか。このサイトの作者は気が触れたのではないか?
と驚かれる方も多いのではないだろうか。
しかし、このサイトで解説している『契丹きったん古こ伝でん』を丁寧に読み込めば、むしろ非常に有りうる話なのである。

太公望は姓を姜きょう、氏を呂りょ、名を尚しょうといい、姜きょう族の出身とされる。

この「姜きょう」族自体は、契丹古伝にも登場している。

965名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:27:18 ID:0EMLB7bQ0
第1章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
曰若稽諸。傳有之曰。 曰若ここに諸これを稽かんがふるうるに。伝でんにこれ有りて曰いは(いわ)く。 さて、考えるに、伝でんには(次のように)云う。
神者耀體。無以能名焉。 神は耀やう(よう)体。以もって能よく名なづくる無し。 神は耀体ようたいであり、そのありさまを表現できる言葉が無い。
維鑑能象。故稱鑑曰日神體。讀如戞珂旻。 維これ 鑑かがみ 能よく象かたどる。故ゆゑ(ゆえ) に鑑を称して日神体と曰いふ(う)。読んで戞珂旻かかみの如ごとし。 (ただ)鑑かがみはこれをかたどることができる。ゆえに、鑑を称して日神体という。読むと戞珂旻のごとくである。

966名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:27:32 ID:0EMLB7bQ0
第2章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
恭惟。
日祖名阿乃沄翅報云戞靈明。澡乎辰云珥素佐煩奈。淸悠氣所凝。日孫内生。 恭うやうやしく惟おもんみるに。
日祖、名は阿あ乃の沄う翅し報ふ云う戞か霊る明め。辰し云う珥に素す佐さ煩ぼ奈な、清悠せいいう(せいゆう)の気の凝こる所に澡さう(そう)す。日孫、内に生る。 恭うやうやしく考えるには、
日祖は、名を「阿あ乃の 沄う翅し報ふ 云う戞か霊る明め」という。清悠の気の凝こる所である辰し云う珥に素す佐さ煩ぼ奈なにおいて「澡(=水浴すいよく) 」していた。すると、日孫が、内に生まれた。

967名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:27:46 ID:0EMLB7bQ0
第3章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
日孫名阿珉美辰沄繾翅報順瑳檀彌固。
日祖乳之。命高天使鷄。載而降臻。是爲神祖。 日孫 名は阿あ珉め美み・辰し沄う繾く翅し報ふ・順す瑳さ檀な彌み固こ。
日祖、之これに乳にゅうし。高天使鶏に命じ、載せて而しかして降り臻いたらしむ。是これを神祖と為なす。 日孫は名を「阿あ珉め美み・辰し沄う繾く翅し報ふ・順す瑳さ檀な弥み固こ」という。
日祖はこれに授乳し、高天使鶏に命じて、(日孫を)載せそして(地上に)降り臻いたるようにさせた。これ(降臨した日孫)を神祖とする。
蓋日孫讀如戞勃。高天使鷄讀如胡馬可兮。
辰沄繾翅報。其義猶言東大國皇也。 蓋けだし日孫読よんで戞か勃もの如ごとく。高天使鶏読んで胡こ馬ま可か兮けの如し。
辰沄繾翅報しうくしふは、其その義ぎ猶なほ(なお)東大国皇と言ふがごとき也。 思うに、日孫は戞か勃もの如く読み、高天使鶏は胡こ馬ま可か兮けの如く読む。
辰沄繾翅報しうくしふは、東大国皇と言うような意味である。

968名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:28:06 ID:0EMLB7bQ0
第4章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
族延萬方。 族 萬方に延はびこる。 族は「万方に」広がった。
廟曰弗莬毘。廷曰蓋瑪耶。國曰辰沄繾。稱族竝爲辰沄固朗。稱民爲韃珂洛。尊皇亦謂辰沄繾翅報。 廟を弗ふ菟と毘ひと曰いひ。廷を蓋こ瑪ま耶やと曰ひ。国を辰し沄う繾くと曰ひ。族を称して並びに辰し沄う固か朗らと為し。民を称して韃た珂か洛らと為す。皇を尊んで亦辰し沄う繾く翅し報ふと謂ふ。 「廟」を「弗ふ菟と毘ひ」と曰いい、「廷」を「蓋こ瑪ま耶や」と曰い、「国」を「辰し沄う繾く」と曰い、「族」の呼称としては「並びに(ともに)」「辰し沄う固か朗ら」と呼び、「民」を「韃た珂か洛ら」と称する。「皇」を尊んでまた「辰し沄う繾く翅し報ふ」という。
神子神孫國于四方者。初咸因之。 神子神孫四方に国する者。初め咸みな之に因れり。 神子神孫であって四方に「国する」者は、初めはみな以上(の言い回し)に基づ(く呼称を用)いていた。

969名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:28:35 ID:0EMLB7bQ0
第5章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
或云
神祖名圖己曳乃訶斗。號辰沄須瑳珂。
初降毉父之陰。聿肇有辰沄氏。
居於鞅綏之陽。載還有辰沄氏。
是爲二宗。 或は云ふ。
神祖、名は図と己こ曳乃訶斗。号は辰し沄う須す瑳さ珂か。
初め毉巫いふの陰に降り、聿ここに肇めて辰沄氏有り。
鞅あ綏しの陽に居り、載すなわち還また辰沄氏有り。
是を二宗と為す。 或あるいは次のようにも云う。
神祖は名を図と己こ曳乃訶斗、号は辰し沄う須す瑳さ珂かといい、
初め、毉巫いふの陰に降臨し、ここにはじめて辰沄氏が現れた。
また、鞅あ綏しの陽に居て、ここにもまた辰沄氏が現れた。
これら(二つの辰沄氏)を「二に宗そう」(二大宗家)という。
別嗣神統顯于東冥者爲阿辰沄須氏。其後寧羲氏著名五原諸族之間。 別に神統を嗣いで東冥に顕はるる者を。阿あ辰し沄む須す氏と為す。其の後寧羲氏、名を五原諸族の間に著はす。 これらとは別に神統をうけて「東冥」にあらわれた者を、阿あ辰し沄む須す氏という。其その後裔たる寧羲氏は、五原諸族の間で著名となった。

970名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:28:45 ID:0EMLB7bQ0
二大宗家と阿あ辰し沄む須す氏についての補足
この後者(「東冥」にあらわれた阿辰沄須氏)は、後の章にも「東表の阿斯牟須氏」等として登場する 重要な存在であるが、上にも述べたように、この東表は、日本列島内に存した可能性もある。 浜名氏も当然そのように考えている(「冥」は「溟」と同じで海の意である等とする)し、 下記◆部分に述べたことや30章の内容から、東表は二大宗家からかなり離れた場所にあるということ、その他37章の位置関係からして も十分可能性がある。少なくとも東表系勢力があったとは言えないか、検討すべきだろう。

ただし東表を山東半島に比定する佃氏の説(太公望篇参照)もあり、東表の範囲や移動については まだ未解決の部分が多い。 東表=日本としても、日本そのものとする浜名説や、大分県に比定する鹿島説など、その位置や、 いかなる氏族であるかということについては争いがある(詳しくは別に述べたい)。

971名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:29:01 ID:0EMLB7bQ0
阿棋毗は、第20章に見える神聖語である阿祺毗・暘霊毗・寧祺毗・太祺毗のうちの一つ(同章参照)。 浜名氏はこれを日本の「和魂にぎみたま」のような神霊の分類法のように捉えているようだ(諸説ある)。
また、秦率旦は神祖の名「順す瑳さ檀な彌み固こ」の 順瑳檀に由来すると浜名氏は解しているが、詳しくは別に記す(少なくとも関連する言葉であることは確かであろう(15章も参照))。
ただし鹿島曻氏の著書の古い訳では、 阿棋毗の「アキ」=「王倹(檀君神話の檀君の名)」と捉える(秦率旦阿棋毗=壇君王倹の霊とする) がこれは誤りであろう(ちなみに鹿島新説ではアキ=シュメールの神アン・キ)。(これらの点については、機会を改めて検討したい)。
阿藝について浜名氏は古の日本であるとする。上の第7章で渤海の塢須弗が日本の別称「秋(津)洲」を 阿其毗由来にしているからである。

972名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:29:14 ID:0EMLB7bQ0
浥婁は、中国の史書に出るいわゆる挹婁で、日本では通常ゆうろうと読むが、東北アジアのオロチョン族のことであることは一般に認められており、その名が本書の羊鄂羅墜と似ていることは興味深い。 浥婁が本来東大古族(シウカラ)には属しなかったが、神祖により組み入れされ教育されたことが記されている。
なお、ヤオロチの名が何となくヤマタノオロチと似ていることから、本章の征伐と素戔嗚尊のヤマタノオロチ退治との関係が指摘されるが、意外と問題がある。

973名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:29:31 ID:0EMLB7bQ0
本章の京の名が節し覇ほ耶やであるが、これを「『潮しお』の『みや(こ)』」と解すれば、 それが「海京」であるという説明とよく符合する。
このことから、第11〜15章における「これが○京である」というのはその直前に記された「○○耶」という言葉の意味をとって意訳したものである ことが推定される。

なお、浜名氏は曷旦鸛済扈枚をアタカシツヒメ(ニニギの尊の后)と同一人物としてこの海京が鹿児島あたりにあったとするが、 誤りであろう。ただ、この人名を含め、日本神話的な響きがすることは注目される。

974名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:29:46 ID:0EMLB7bQ0

第14章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
敎尉颯潑美扈枚。居撫期範紀。
曰濆洌耶。齊京也。 尉う颯さ潑は美み扈こ枚めをして撫む期こ範は紀きに居らしむ。
濆ひ洌れ耶やと曰ふ。齊京なり。 尉う颯さ潑は美み扈こ枚めを撫む期こ範は紀き(の地)に居らせた。
(その京を)濆ひ洌れ耶やと曰う。斉京である。
「濆ひ洌れ耶や」の「濆ひ洌れ」は和語「平ひら」と関係がありそうである。
なぜなら、そう解すると濆洌耶は「平ひらたい京、平たいらかな京」という意味になるが、斉京の斉の字も「土地が均斉である」という意味に解せるからである。

こういった対応関係は、本章や前章では比較的明快だが、第11章・12章ではやや不分明である。(浜名氏は11章の畢ひ識しは聖ひじりであるなどと説明を試みている。)

なお浜名氏は、ムコハキを武庫河の海口に位置する山口県の「萩」に関連づけたり、ウサハミコメのウサを 大分県の宇佐や、日本海の鬱陵島(もと于山島)や対岸の蔚山、あるいはイナバのシロウサギと関連づけたりしているが、 この説は採らない。なお、ウサハミコメ(イサハミコメ)を卑弥呼とするのは鹿島曻説だが全くの誤りである。

975名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:30:07 ID:0EMLB7bQ0
これは、神祖が西方への征服を行う様子を描写したものである。
征服後、その地に都を置いたということになるが、これが次章の幹浸遏のことであり、今の中国の中原と解するのが自然である。
すると、その直前で渡る怒洌央太にれわたは、渤海(これは海の名称)のことと解される。 さらにその前段階で築かれる本章の3つの城は、今の遼寧省またはそれに近接した地域のどこかに設置されたと考えられる。
浜名氏の解釈では、介盟奈敦が旅順方面、晏泗奈敦が営口、葛齊汭沫が河北省の秦皇島としている。 ただ、1)これは征服のための築城であること、2)医無閭山発祥の辰沄氏は、既にその拠点を医無閭からほど遠くない場所に置いているはず(5章解説の※参照)で、それを 営口周辺と考える、とすれば、本章の3城は遼東半島を中心として設置されたようにも思える。

怒洌央太にれわたの場所の比定について、 浜名氏は、場所を明記していないがヒイクイを山東省の登州としているので黄海や渤海が想定される。 佐治氏も、 黄海・渤海湾とする。 鹿島氏も、直隷海峡(今の渤海海峡)(ただし渡海の主体は高句麗王)とする。 浜田秀雄氏も直隷海峡とする。田中勝也氏も、直隷海峡あるいは渤海とする。 安部裕治氏は、神祖が降臨した山東省内の山より西方、山東省西部の東平湖・昭陽湖などの湖が古代には連なって沼沢を形成し「西海」と 呼べる景観を有していたとしてそれを怒洌央太とし、そのさらに西側に斐伊岣倭の岡があるとする。 榎本出雲氏は、怒洌央太をシルクロード方面・内蒙古の居延湖付近とする。

976名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:30:19 ID:0EMLB7bQ0
斐伊岣倭の説明として、西陸塞日之処であるとあるが、浜名氏は「塞」の字を「賽」(「お賽銭」の「賽」の字)に読み換える荒技で 賽日=日を報賽すること のように解して賽日之処=太陽を報賽する場所と解している。
しかし「塞日」のままで解釈できるのではないか。そもそも塞日とは辺境の要塞に斜陽が掛かっている 状態をいい(杜甫の詩に、水静かにして楼陰直く、山昏くして塞日斜めなり とある)、 そうだとすれば西陸塞日之処とは西の要塞の向こう、斜陽が日没直前に照らしているところと解する ことができよう。要するに、「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に〜」の「日の没する処(=中国)」と同様な発想と考えられる。
なお田多井四郎治氏は西陸塞日之処を「西陸日ひを塞ふさぐ之の處ところ (田多井四郎治『契丹古傳 譯並註釋』 p.15)」としている。これは 田多井氏の本を読むよりずっと前、最初に自分が契丹古伝を読んだ時に採った解釈とも奇しくも一致するが、 その解釈をとった場合でも上記とほぼ大差ないと思われる。

977名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:30:33 ID:0EMLB7bQ0
第18章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
初五原有先住之種。
沒皮龍革牧於北原。
魚目姑腹穴於西原。
熊耳黃眉棲於中原。
苗羅孟馮田於南原。
莬首狼裾舟於海原。
咸善服順。 初め五原ごげんに先住之種あり。
沒皮龍革、北原に牧し。
魚目姑腹、西原に穴し。
熊耳黄眉、中原に棲み。
苗羅孟馮、南原に田し。
莬首狼裾、海原に舟す。
みな善く服順す。 初め五原に先住の種族があった。
沒皮・龍革は、北原に牧し、
魚目・姑腹は、西原に穴し、
熊耳・黄眉は、中原に棲み、
苗羅・孟馮は、南原に田し、
莬首・狼裾は、海原に舟していた。
みな善く服順した。
但南原箔箘籍兇狠不格。神祖伐放之海。 但し南原の箔箘籍、兇狠にして格いたらず。神祖伐かって之これを海に放つ。 但し、南原の箔箘籍(ばく ごん しゃく)は、兇きょう狠がんにして格いたらず、神祖はこれを征伐して海に放った。
疏曰。 疏そに曰く。 疏そ(=注釈書)が曰うには、
箔箘籍三邦之名。鳥人楛盟舒之族也。後歷海踏灘波據蔚都猾巨鍾遂入辰藩者。其遺孽云。 箔箘籍は三邦の名、鳥人楛く盟ま舒その族なり。後に海を歴へて灘な波はを踏み蔚う都つに拠より巨く鍾しを猾みだし遂に辰藩に入る者は、其の遺い孽げつと云ふ。 「箔箘籍は三つの邦の名、鳥人楛く盟ま舒その族である。後に海を歴へて灘な波はを踏み蔚う都つに拠より巨く鍾しを猾みだし遂に辰藩 (37章の辰王国の属領、おそらく半島東部) に入った者は、其その遺い孽げつ(残党・子孫)である」と。

978名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:30:53 ID:0EMLB7bQ0
なお、当然ながら神祖は五原の地を治める後継者を残した上で日祖の地に帰還したのであり、 この点は浜名氏含めほとんどの説において当然の前提となっていると解される。
ただ、佐治芳彦氏は例外で、気候の変動(寒冷化)のため五原の統治を断念して神祖「ら」が五原から撤退して 高天原に帰ったとし、その高天原が雲南だとされる。
そして、璫兢伊尼赫琿は神祖の子孫で雲南にいた者の一人で、異常気象の鎮静化により五原に戻り 統治を再開した、という趣旨のことを述べられているが、残念ながら誤りである。

979名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:31:09 ID:0EMLB7bQ0
第21章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
費彌國氏洲鑑賛曰。 費ひ弥み国こ氏洲鑑しうかんの賛さんに曰く。 『費ひ弥み国こ氏洲鑑しゅうかん』の賛さんに曰う。
海漠象變而地縮于西。乃后稜為海而天遠於東矣。 海漠の象かたち変じて、地 西に縮まり。乃の后こ稜ろ 海と為なって、天 東に遠し。 海漠の象かたちが変化して、大地は西に縮小し。乃の后こ稜ろは海と為なって、東天は東に遠ざかった。
又經洚火災、西族漸入。神牛首者、鬼蛇身者。詐吾神子號。造犧農黄昊陶虞。濫命蕃祀、自謂予聖。 又、洚火の災を経て、西族漸入し。牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者。吾わが神子の号を詐いつはり。犧ぎ・農のう・黄くゎう・昊かう・陶たう・虞ぐを造り。濫みだりに蕃ばん祀しに命じ、自ら予を聖なりと謂いふ。 また、「洚こう火かの災」が過ぎ去った後、「西族」が漸時侵入してきて、牛首を神とする者や蛇身を鬼とする者(である彼ら西族)が、吾われらの神子の号を詐称し、犠ぎ(伏ふつ犠ぎ)・農のう(神しん農のう)・黄こう(黄帝)・昊こう(少昊)・陶とう(堯ぎょう)・虞ぐ(舜しゅん)を造りだして。濫みだりに蕃ばん祀しにまつって、自ら「予は神聖である」と謂いっている。
寧識堯與舜者東族翅報也。渾族有君、肇自夏禹。雖然。禹沄也、夏繾也。 寧いづくんぞ識しらん、堯と舜とは東族の翅し報ふなり。渾こん族ぞくに君あるは、夏か禹うより肇はじむ。然しかりと雖いへども。禹は沄うなり、夏は繾くなり。 どうして識しっているだろうか(=彼らは知らないのだ)、堯ぎょうと舜とは東族の翅し報ふ(皇)である。渾こん族ぞく(混血した西族) が君主を戴いたのは、夏か禹うに肇はじまるのである。そうではあるけれども、禹は沄うであり、夏は繾く(という東族語に由来する名称)である。
(注)「洚こう火かの災」=洪水と火の災い。

980名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:31:31 ID:0EMLB7bQ0

第21章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
費彌國氏洲鑑賛曰。 費ひ弥み国こ氏洲鑑しうかんの賛さんに曰く。 『費ひ弥み国こ氏洲鑑しゅうかん』の賛さんに曰う。
海漠象變而地縮于西。乃后稜為海而天遠於東矣。 海漠の象かたち変じて、地 西に縮まり。乃の后こ稜ろ 海と為なって、天 東に遠し。 海漠の象かたちが変化して、大地は西に縮小し。乃の后こ稜ろは海と為なって、東天は東に遠ざかった。
又經洚火災、西族漸入。神牛首者、鬼蛇身者。詐吾神子號。造犧農黄昊陶虞。濫命蕃祀、自謂予聖。 又、洚火の災を経て、西族漸入し。牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者。吾わが神子の号を詐いつはり。犧ぎ・農のう・黄くゎう・昊かう・陶たう・虞ぐを造り。濫みだりに蕃ばん祀しに命じ、自ら予を聖なりと謂いふ。 また、「洚こう火かの災」が過ぎ去った後、「西族」が漸時侵入してきて、牛首を神とする者や蛇身を鬼とする者(である彼ら西族)が、吾われらの神子の号を詐称し、犠ぎ(伏ふつ犠ぎ)・農のう(神しん農のう)・黄こう(黄帝)・昊こう(少昊)・陶とう(堯ぎょう)・虞ぐ(舜しゅん)を造りだして。濫みだりに蕃ばん祀しにまつって、自ら「予は神聖である」と謂いっている。
寧識堯與舜者東族翅報也。渾族有君、肇自夏禹。雖然。禹沄也、夏繾也。 寧いづくんぞ識しらん、堯と舜とは東族の翅し報ふなり。渾こん族ぞくに君あるは、夏か禹うより肇はじむ。然しかりと雖いへども。禹は沄うなり、夏は繾くなり。 どうして識しっているだろうか(=彼らは知らないのだ)、堯ぎょうと舜とは東族の翅し報ふ(皇)である。渾こん族ぞく(混血した西族) が君主を戴いたのは、夏か禹うに肇はじまるのである。そうではあるけれども、禹は沄うであり、夏は繾く(という東族語に由来する名称)である。
(注)「洚こう火かの災」=洪水と火の災い。

(解説)
本15章から39章までが、『費弥国氏洲鑑の賛』という文献資料からの引用となり、 契丹古伝上重要な位置を占めている。 費弥国氏とは何かは問題であり検討を要する論点である。 まず本章では、天変地異の発生を語る短い神話風の記述の後に、「西族(漢民族)」が東族の住む地に到来する様子が記されている。

まず、冒頭の天変地異の部分について、浜名氏は「海漠象変」とは海が砂漠に転じることとするが納得しがたい。
ここでもし「漠」は「広々とした海原」が本義であるとする異説(石井勲説)を採れば、 「海原の形が変わった」となって意味が通りやすいのではあるが、そこまでせずとも、 (通説通りに)漠を会意文字(「水がないところ」)と解した時には、ここでの漠は「海以外の部分=陸地」を指すと解せるから、 「海漠象変=海と陸の形の変化」となり、いずれにしても海洋の異変に伴う海岸線等の変化をいうものと解釈できる。
そうすると、大地が「西に縮ま」ったというのは、海岸線が西に移動したこと、つまり 大陸の東部沿岸が海没したことであり、「乃の后こ稜ろ」の具体的な場所は不明だが、この沈没した地域の、とある沿岸もしくは島をさすのであろう。

次に、西族の進入についてであるが、ここでは、漢民族は西からやってきて東族のいる地に入りこんだということを述べている。これが本書の特色の一つである。
ここで西族が漢民族を指すことは、犠ぎ(伏ふつ犠ぎ)・農のう(神しん農のう)・黄こう(黄帝)・昊こう(少昊)・陶とう(堯ぎょう)・虞ぐ(舜しゅん)という、史記の三皇五帝の登場人物を 挙げていること等から明白である。これらは、本来は東族の君王であるのを西族がアレンジして自分達の歴史に仕立て上げたということを述べているわけである。
そして最後の方にでてくる「東族」とは、神祖の子孫である各族(しうから)を指すことも明白であろう。

西族の進入時期であるが、最後の方の記述から夏王朝の禹王以前であることは明白だが、具体的には示されていない。(漸入とあるので、時間をかけて少しずつ移住してきたのかもしれない。)

981名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:31:44 ID:0EMLB7bQ0
夏王朝のときに「渾こん族ぞくが君主を戴いた」というのは、「混血した西族自体から君主を出した(君主が混血)」という意味にもとれるし、 「君主は東族だが、このころ西族が東族に侵入したため西族がこの五原の地で東族と入り混じって君主の支配に属したのはこの時から」という意味にもとれる。 ただ、前者の意味だとしても、夏王朝の次の殷王朝はれっきとした東族の王朝であったということになる(後述)。

「牛首を神とする者、蛇身を鬼とする者」の、「鬼とする」について、「特別な存在として崇拝する」と解するか、悪い鬼の意味に解するかも問題である。 浜名氏は、「鬼として祀る」等と書いているので、前者と解しているようである。ただ、鬼という字は、確かに良い意味で使うこともあるが、それは祖先等を指す場合であって、 漢字自体の起源論としてはともかく、ここでは、通常の漢文の文体で書かれている文章の読解をしているのだから、第15章の「鬼䰨」と同様に悪い意味に解するべきであろう。 というのも、大物主神の神話にもあるように、東族には蛇神も普通に存在するのであり、それとの対比を示す趣旨と解されるからである。

書名について。「費弥国氏洲鑑の賛」とは、「『費弥国氏』の『洲(領域)』について記した『鑑(歴史書)』」に収録されている「史賛」 という意味かと思われる。すると、費弥国氏洲鑑という書物は別にあり、その中のある独特の箇所の抜粋ということになる。((史)賛について下記※参照) ただ、費弥国氏洲鑑とは、少し妙な感じの書名ではある。当古伝の残り大半が費弥国氏洲鑑の引用からなるので、書名について少し検討してみたい。
浜名氏は、「洲」とは東族語を漢字で宛て字した物であろうという。自分も、○○氏洲というような全体の言い回しにも東族語の類似表現が意識されている可能性を 考えるが、いずれにしても「洲」は「領域」的な何らかの意味を含むのであろう。
「費弥国氏」については、費弥国という国の王家という意味に採りたくなるが、「国」も「繾く」を意識したものである可能性も高いから、「国」を「く」とか「こ」と呼んでもあながち的外れではない。 そこで、ここでは鹿島曻氏風に「国」を「こ」と読んでみた。

982名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:31:57 ID:0EMLB7bQ0
※史賛とは、史書の巻末で、史実を引用して史上の人物を讃えたり論評するものをいう。当古伝引用の賛は相当長文であるから、各巻巻末の賛から引用しているということになろう。 ただし論評部分でなく、史実の要約部分を中心に引用したものか、もしくは、総論的な形で一巻の書としてまとめたものがあって本古伝の著者はそこから引用しているのかもしれない。

費弥については、37章のヒミシウ氏との関係が研究者によってしばしば指摘されている。 37章のヒミシウ氏とも関係するヒミ氏の事績を記録する目的で費弥国氏洲鑑が編纂されたという可能性は高いと自分も考えている (ヒミ氏とは何か、何を包含するかは別途論点となる)。

983名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:32:09 ID:0EMLB7bQ0
第22章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
及昌發帥羗蠻而出。以賂猾夏。戈以繼之。遂致以臣弑君。且施以咋人之刑。 昌発、羗蛮を帥ひきゐて出づるに及び。賂を以て夏かを猾みだし。戈ほこを以て之これに継ぎ。遂に臣を以って君を弑しいするを致し。且かつ施ほどこすに咋さく人じんの刑を以てす。 昌(周の文王[姫昌])・発(周の武王[姫発])が羗蛮を帥ひきいて出陣する事態となる。その際(彼らは)、賄賂を以て夏か(=繾(国)。殷朝のこと)を猾みだし、賄賂につづけて戈ほこ(武力)を使って、遂に臣下(武王)が君主(紂王)を弑しいする挙に出て且かつ科刑を食人の刑とする事態を起こすのである。
本22章と23章は、いわゆる殷周革命についての記述であり、24章はその直後の事件 についての記述である。24章以降殷の残存勢力についての記載が第34章まで続き、 さらに関連勢力についての記載が続いていくことになる。
従って、契丹古伝において殷朝は重要な存在とされている。
まず本章では、周の文王とその子(武王)が殷朝打倒を目指し活動を始める様子が描かれている。

984名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:32:23 ID:0EMLB7bQ0

第22章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
及昌發帥羗蠻而出。以賂猾夏。戈以繼之。遂致以臣弑君。且施以咋人之刑。 昌発、羗蛮を帥ひきゐて出づるに及び。賂を以て夏かを猾みだし。戈ほこを以て之これに継ぎ。遂に臣を以って君を弑しいするを致し。且かつ施ほどこすに咋さく人じんの刑を以てす。 昌(周の文王[姫昌])・発(周の武王[姫発])が羗蛮を帥ひきいて出陣する事態となる。その際(彼らは)、賄賂を以て夏か(=繾(国)。殷朝のこと)を猾みだし、賄賂につづけて戈ほこ(武力)を使って、遂に臣下(武王)が君主(紂王)を弑しいする挙に出て且かつ科刑を食人の刑とする事態を起こすのである。
本22章と23章は、いわゆる殷周革命についての記述であり、24章はその直後の事件 についての記述である。24章以降殷の残存勢力についての記載が第34章まで続き、 さらに関連勢力についての記載が続いていくことになる。
従って、契丹古伝において殷朝は重要な存在とされている。
まず本章では、周の文王とその子(武王)が殷朝打倒を目指し活動を始める様子が描かれている。

殷朝を滅ぼした周とは、実は西族の王朝であり、殷は東族の王朝である。
伝統的な中国古典の世界では、殷の末期は堕落した王朝で周の文王や武王は聖人とされるが、 本文献では価値観がそれとは逆である点に注意されたい。
殷から周へこの王朝交代が、大きな文化的変動をもたらしたこと、周が西方に起源を有すること自体は、中国でも認められつつある。
漢民族国家としての中国は、周から始まったものと見てよいだろう。
羗蛮とは、チベット系の羌族で、周の勝利に大いに貢献した部族である。

隣国のサイトで、夏を殷朝でなくその前の夏朝と解し、昌・発を夏朝の王と修正した上で、 「臣下の夏朝」が「君主(本宗家の王?)」に反逆すると解する向きがあるようだが、間違いである(前章末尾で夏朝に一定の評価を与えていることにもそぐわない)。
というのも、「臣を以って君を弑する(臣下が君主を弑する)」は、『史記』伯夷列伝から採られた表現 で、周の武王が殷の紂王を倒そうと出陣するのを伯夷らが思いとどまらせようとする場面の言葉 (「臣を以って君を弑す、仁と謂ふべけんや」(臣下でありながら君主を殺すのは、仁といえましょうか)) から来ている。
それゆえ、ここでいう夏が殷朝を指すことは動かない。
夏(殷朝)は、反逆したのでなく反逆されたのである。隣国のサイトについては、契丹古伝の旧字体を引用符で囲った "契丹古傳" で検索すれば出てくることが多い。(Bing検索の場合 検索結果右上の"Switch to Bing in English"をクリックして英語表示にするか、設定ボタン≡で言語を「英語」、国/地域を「米国」にするとよい。)

なお、咋人の刑の対象が誰かという点については督坑賁國密矩論で触れている (田多井氏の解釈と結論において同じ)。

985名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:32:37 ID:0EMLB7bQ0
第23章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
伯唱而不成。和征而不克。陽勇于津防、而易賣節畔之。 伯、唱となへて成らず。和、征して克かたず。陽、津防に勇なりしも、易、節を売って之これに畔そむく。 伯族は、(大義を)唱となえ(て周の殷への攻撃を止めさせようとし)たが成功せず、和族は、征するも克かたなかった。陽族は、津しん(孟津もうしん)の攻防に勇戦したが、この(攻防の)際、易族は、金財と引き換えに(殷朝への)忠節を捨てて(敵である周に内通し)殷朝から離反した。
周師次牧焉。淮徐方力于郊戰、而姜從内火之。商祀終亡矣。 周師、牧に次す。淮徐、方ともに郊戦に力つとむるも。姜、内より之これを火やき。商祀、終つひに亡ぶ。 周の師団は、牧ぼく(牧野ぼくや)に布陣した。淮族・徐族は、ともに(牧野の)郊戦に力つとめたが、この際、姜族は、内より火を放って焼毀し、商(殷朝)の祀は終ついに亡んだ。
潢浮海、潘北退、宛南辟。 潢、海に浮び、潘、北に退き、宛、南に辟さく。 潢族は、海に浮び、潘族は、北に退き、宛族は、南に退避した。
嘻朱申之宗、毒賄倒兵、東委盡頽。 嘻、ああ 朱しゅ申しんの宗、賄に毒せられ、兵を倒さかさまにして、東委尽ことごとく頽すたる。 嘻、ああ 朱しゅ申しんの宗家が、賄賂に毒せられ、(戦意なき兵が)兵器を倒さかさまにして(敗れ)、その挙句、東委が尽ことごとく頽すたれてしまうとは。
本章では、東族の各部族が、殷朝を助けようと奮闘するが願いかなわず、史上有名な牧野ぼくやの決戦で敗北し、東夷が衰退する様子が語られている。

986名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:32:50 ID:0EMLB7bQ0
ここで名の挙げられた部族が具体的にどの民族に該当するかは興味あるところだが、詳細は別に譲る。
ただ、族名が列挙される中で、易族と姜族(後者は、前章にも登場したチベット系の羌族)が敵となったとされている点に注意を要する。これらは、 本来東族に属する部族であるのに、裏切ったということになる。

末尾近く、「嘻、ああ 」以下では、この経緯を改めて振り返り慨嘆している。
「朱しゅ申しんの宗(家)」が、文脈上殷朝を指すことは明らかで、朱しゅ申しんの宗とは東族の宗家という意味であろう。
浜名氏は、朱しゅ申しんの宗とは粛慎族の長を意味し、裏切った部族の一例と解釈するようだが、文脈上明らかにおかしい解釈である。
☆どうおかしいかについて、今まで説明を省略していたが、
新設ページ(太公望の意外な最期(契丹古伝第23〜28章の新解釈)(令和2.12.15新設))
の附属ページ(本宗家論)の中で論じておいたので、興味あるかたは参照されたい。
殷が本宗家であるからこそ、多くの部族が救援に奔走したのであり、この後の章でもいくつかの部族は殷朝の王族のために活動することになる。
これは、殷朝が(混血族)ではなく東族の王朝であることを意味する。
これについては、その言語などを理由とする批判も予想されるが、詳細は別に譲る。・・・としたまま何年も放置してきたが、言語論のページに掲載した(令和3.11.12)。

987名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:33:08 ID:0EMLB7bQ0
晋(しん氳うん)の原げん:昔の縉雲氏の土地の意味らしいが、縉雲は辰し沄うに通じうる。ここでは華北平原の黄河以北を中心とした地域か。
葛か零れ基き:東族語による地名表記。交黎(今の昌黎)か。
邵燕:いわゆる燕のことで、周建国に功績のあった召公(の親族)が建てた国。
韓:周の武王が親族を封じた国。いわゆる韓侯国。
翳父婁:5章の毉父と同じ。遼西地方の医巫いふ閭りょ (医無閭)山。

988名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:33:20 ID:0EMLB7bQ0
ここで、伯族と淮族に奉じられた子し叔しゅく釐き賖しょは、いわゆる箕き子しで、伝説的人物とも言われるが、本古伝では実在の人物であるとされる。
子は殷王家の姓、叔は紂王の叔父の意。釐き賖しょは名であるが本伝独自のものである。
(紂王の実の叔父とする説の他、傍系の人物、母方の叔父とする説などがある。)
伯族と淮族は、第8章に伯は弭い・淮あ委いとして登場する(20章には淮委と伯)。武伯と智淮という呼び名は他に見えないが、当時そのように呼ばれたものであろうか。 武とか智というのも、本来は東族語の美称に宛字をしたものなのかもしれない。
この淮・伯は、いわゆる朝鮮民族を構成するとされる濊(わい狛ばく)を連想させるが、やや趣を異にする点があるのに注意する必要がある。
濊族は、朝鮮半島の東部(日本海側)からその北方にかけて分布する民族で、今の朝鮮民族の主流であるとも見られるが、北方系の文化をもつ。
しかし本伝の淮族は、中国の太平洋に面した(倭人のルーツの1つともされる)江南地方の淮徐と呼ばれた地域とも繋がりがある種族らしく、31章には別の一族がこの地方から遼寧省に到来している。
一方、本伝の伯は、狛とほぼ同じであると一応考えられる。ただ、高句麗王家・百済王家は狛族とされるが、王家と一般民は言葉が異なると記録されていたり、また、これらの王家は後の新羅による半島統一によって没落したことなどから、狛族は現在の朝鮮民族の主流から外れていることに注意すべきである。

989名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:33:34 ID:0EMLB7bQ0
何よりもまず、伯族と淮族が熱心に奉じた殷が、かなり南方系の要素をもつ王朝であったことに留意すべきで、例えば白川静氏は殷は南方系沿海民族であり、日本の古代文化とも共通点が多いとする。 と述べている。
ところで、殷は夷を意味し、周朝の側からの蔑んだ呼び方ともされるが、夷自体が、東族語に由来する(20章の解説参照)のと同様、殷も単なる蔑称ではないといえるから、「辰沄殷」という国名も不自然ではない。

なお、浜名氏の見解では、殷王家は伯族で、辰沄殷が智淮氏燕と呼ばれたのは外観上は淮族が燕の領域内に樹立した国だからという。ただ、浜名氏の説明によればその近辺は伯族が強い勢力を保持している領域であるから、「武伯氏燕」が出来てしかるべきではないか、と考えるとやや納得できない面もある。 もしかすると、淮族の領域内に辰沄殷が樹立されたのは殷王家には淮族の血も流れていたためで、それゆえに智淮氏燕とも呼ばれたのではなかろうか。(31章で徐族が設立した国(徐珂殷)に「殷」の字が登場するのも、そのことを示唆していないだろうか。)

990名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:33:47 ID:0EMLB7bQ0
第25章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
當武伯山軍糾合于冀跳破於南。偶寧羲騅、以其舟師及弩旅會于渝濱。高令擧國前走。歌曰。 武伯ぶはく山軍、冀きに糾合し、南に跳破するに当たって。偶たまたま寧に羲ぎ騅し、其の舟師及び弩旅を以て渝ゆ浜ひんに会くゎいす。高令、国を挙げて前走し、歌って曰く。 武伯山軍が冀き(の地)に糾合し、南に跳破しようとする時に、偶たまたま寧に羲ぎ騅しが、其の舟師(水軍)及び弩旅(弓矢隊)を渝ゆ浜ひんに集結させた。高令は、国を挙げて前走し、歌って曰うには、
鄲納番達謨孟。
珂讃唫隕銍孟。
伊朔率秦牟黔突。
壓娜喃旺嗚孟。 鄲た納に番は達た謨ま孟も。
珂か讃さ唫き隕い銍つ孟も。
伊い朔そ率す秦す牟む黔か突と。
壓あ娜な喃な旺を嗚ゑ孟も。 「鄲た納に番は達た謨ま孟も。
珂か讃さ唫き隕い銍つ孟も。
伊い朔そ率す秦す牟む黔か突と。
壓あ娜な喃な旺お嗚え孟も。」
ここでは、武伯の軍が周の勢力を阻むため南進しようとするときに、寧羲氏の有力人物「寧羲騅」の勢力が渤海に到着したこと、及び、勢いづいた高令の一族が 先さき駈がけとして行進し、歌をうたう 様子が描かれている。

991名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:34:01 ID:0EMLB7bQ0
渝ゆ浜ひん=渝水が渤海に注ぐ辺り、秦皇島付近とされる。
冀き=冀州。浜名氏は今の山西省であるとする。これは、周王朝の時代に冀州が(現在と異なり)山西省を中心とする地域を指していたことを考慮したものであろう。 しかし、ここでは、それ以前の冀州、すなわち「書経」の「禹貢」にみえる冀州と解すべきで、むしろ今の河北省に比重があったものと考えられる。 武伯軍の出発地と寧羲氏の到着地はそれほど離れていないと考えられるから、そう解したほうが自然である。武伯軍は今の華北平野の北部(または北西部)の山麓にいたと考えられる。

992名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:34:15 ID:0EMLB7bQ0
武伯軍の行動は前章同様晋(しん氳うん)の原げんを守るための作戦であろう。
そこに新たに現れた寧に羲ぎ騅しは、第5章に現れた寧に羲ぎ氏に属し、名を騅という人物であると考えられる。
従って、そのルーツは東表にあるのではあるが、当時五原のどこかに勢力を有していたと考えられる(5章でいう「五原諸族の間で著名」とは、寧羲氏も五原諸族の一員ということを前提とする)。
ただ、浜名氏はそう解していない。寧羲騅とは日本神話の天孫・邇に邇に藝ぎの命みこと であって、東表の地から遠征してきたのであるという。
そもそもニニギとニギシが同一人というのは(当時の国益などの観点からなされた)浜名氏のこじ付け解釈であるので注意されたい。寧羲騅のニギは寧羲氏という氏(5章参照)の名称なので、ニニギ命とは関係ない。
(寧羲騅は5章の別神統の「(東表の)阿辰沄須氏」の後裔の寧羲氏に属する一人であるので、天照大神(浜名説では日祖と同一神※) の孫のニニギ命が寧羲騅と同一人とすると浜名説の内部で矛盾が生じることになる。 (強いていえば阿辰沄須氏がニニギ命の父(天押穂耳尊)とでもいうのだろうか。まず無理であろう。そもそも、37章からすればアシムス氏は神祖の子孫のはずなので、上の強いていえば・・というのも実は初めから成り立たない。)
これで混乱された方は、※の部分につき本サイトの神話論や、それ以外の点について太公望篇などをお読み頂きたい。
ニギシはニニギ命でないとする説を採るのは、関連文献欄でいえば、・佐治氏(ニニギ命説について「懐疑的」)・鹿島氏・高橋氏(多分)・榎本氏・佃氏(多分)・安部氏である(岡崎氏については氏の著書の項目を参照)。

993名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:34:31 ID:0EMLB7bQ0
高令というのは、高夷と呼ばれた部族のことで、当時は渝浜付近に居たと考えられる(浜名氏の説と若干異なるが、大筋では同じである)。 東族の集結に喜び勇んで、先さき駈がけを買って出たものであろう。

壓娜喃旺嗚孟の六文字について浜名は「読めず」とするが、日本語の単語・文章のように読むことができない という趣旨であろう(残りの部分は無理やり日本語の単語に似せて邇邇藝命の遠征シーンに仕立てている。)
特殊な古い神聖語であろうから、自分達の知る日本語の単語の連続として読めるとは限らない。読めない方が むしろ自然であろう。
他の解釈者は独自の訓をつけており、浜田秀雄は「アナナオエモ」と訓ずる(浜田秀雄『契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国』 新国民社 1977年 p.209)。
ここは例えば「アナナオアモ」等と読むことができるが、それほど変わらないので浜田氏の読みに準じておいた。

この進軍は次の章の「夏莫且」という謎の重要人物(東族の裏切り者である人物)を誅滅するために行われており、 歌まで付されていることは、東大古族として立派な、特筆すべき事件であることを示すものと考えられる。

994名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:34:46 ID:0EMLB7bQ0
第26章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
武伯追獲夏莫且。寧羲騅斬之以徇。諸族喜躍響應。
傳謂兪于入之誅。 武伯、追って夏け莫む且しょを獲え。寧に羲ぎ騅し、之これを斬って以て徇となふ。諸族、喜躍響応す。
伝へて兪ゆ于う入にの誅ちゅうと謂いふ。 武伯は、追跡の上夏け莫む且しょを捕獲し、寧に羲ぎ騅しは之これ(夏莫且)を斬って人々に示し知らせた。諸族は、喜躍響応した。
これを「兪ゆ于う入にの誅ちゅう」と謂いい伝えている。
夏莫且という人物が武伯に捕獲され、寧羲騅によって斬られた様子が描かれている。
夏莫且は東族語による人物名表記であると考えられるから、東族出身だが裏切った者ということになる。その正体については解釈上問題となる。
浜名氏は粛慎族の長のことであろうとする(そしてこの人物が宗家の主あるじなのだという)が、これは23章の解釈の誤りに基づくものなので、採ることはできない。

995名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:35:09 ID:0EMLB7bQ0

第27章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
於是、降燕、滅韓、薄齊、破周。 是ここに於いて、燕えんを降くだし、韓を滅し、齊に薄せまり、周を破る。 是ここにおいて、燕えんを降くだし、韓を滅し、斉に薄せまり、周を破った。
ここでは親殷勢力による周側への抵抗活動が続き、燕・韓・斉・周が彼らの巻き返しに会う様子が示されている。
(ただ、韓を除いては、滅ぼすまでに至った訳ではなく、相応の戦績を収めた場合もあったということであろう。)

996名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:35:21 ID:0EMLB7bQ0
まずここで、韓は24章の韓と同じ(武王の子が封じられたとされている国(漢民族扱い)で、春秋戦国の韓(漢民族)とも異なる。韓国の韓とも別)。
浜名氏はこの韓の滅亡を今本竹書紀年によりBC756年頃とし、今本竹書紀年では晋によって滅ぼされたとある のを実は親殷勢力によるものだったと解釈して27章の滅韓にあてる。
しかし、「是ここに於いて」が「26章の事態を受けて」の意味で あることから27章の事件の起きた年代を26章よりあまりに離れた時点にとる浜名説には疑問があり、 むしろ両者の年代は接近していると考えられる。
また28章の冒頭ではまだ殷叔(箕子)が存命であることとの整合性も重要である。
思うに、この韓という国は初期は微弱であったために一旦滅亡もしくは移転したとみることが可能なので(注)、 そのことを「滅ぼした」と表現したと解することができる。 すると「滅ぼした」時期は浜名説より大幅にさかのぼり、東族の抵抗が旺盛だった周の成王(武王の子)の在位した時期と見ることで 27章を無理なく理解することができる。筆者の独自の説ではあるが、今まで見落とされていた重要な点であり かつ正しい解釈であると考えている。

997名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:35:34 ID:0EMLB7bQ0
第28章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
辰殷大記曰。
殷叔老無子。當尉越之將旋于東。養密矩爲嗣。尋殂。壽八十九。
督抗賁國密矩立。
時尹兮歩乙酉秋七月也。 辰殷大記に曰く。
殷いん叔しゅく老いて子無し。尉う越ゑの将まさに東に旋めぐらんとするに当り。密み矩こを養ひて嗣と為なす。尋ついで殂そす。寿八十九。
督と坑こ賁ひ國こ密み矩こ立つ。
時に尹い兮け歩ぶ 乙いつ酉ゆう秋七月也。 『辰殷大記』に曰う。
殷いん叔しゅくは老いており子が無く、(殷叔は)尉う越えが将まさに東に旋めぐろうとする時に際し、密み矩こを養子として継嗣と為なした。その後ほどなくして亡くなられた。年齢は八十九であった。
督と坑こ賁ひ国こ密み矩こが立った。
時は尹い兮け歩ぶ 乙いつ酉ゆう(乙きのと酉とり)の年の秋七月である。
本章では、辰沄殷王の死とその後継者の即位について述べられている。
ここでは、一章だけ『辰殷大記』からの引用が挿入された形になっている。

998名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:35:53 ID:0EMLB7bQ0
殷叔が養子とした督抗賁国密矩について、浜名氏は督抗を意味不明とし、督抗賁という国の密矩とも読めるとする。
しかし、督抗賁国密矩は本古伝に頻出する六音の人名の一種と捉えることができる。
(浜名氏の解釈によると、督抗賁国密矩は尉越である 邇に邇に藝ぎの命みこと の子であり、殷叔の養子となったのだという。するとこの時から辰沄殷の王家は寧羲氏の子孫の系統に移ったことになるが、疑問とせざるを得ない。)

999名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:36:05 ID:0EMLB7bQ0
なお、東族語と思われる尹い兮け歩ぶの意味は不明とされる。東族独自の何らかのカレンダーシステムに基づく表記であろうと思われるが その意味が失われたことは惜しまれる。
「尋ついで」は、 陶淵明の『桃花源記』(桃源境の語源としても著名な作品)に 「未だ果たさずして、尋ついで病みて終はる」([桃源境訪問を]未だ果たさぬまま、ほどなく病気で死んでしまった) とあるように、「まもなく」の意味である。

1000名無しのやる夫だお:2024/06/07(金) 14:36:20 ID:0EMLB7bQ0
第29章
原文 読み下し文 読み下し文の口語直訳(の様なもの)
賛繼前言曰。 賛、前言を継いで曰く。 (『費ひ弥み国こ氏洲鑑しゅうかん』の)賛さんが前の言葉を継いで曰うには。
爾來跳嘯三百餘載。時運漸不利。伯分爲二。一連於弁、一入于秦。秦自是益豪。燕亦加彊。 爾じ来らい跳嘯せう三百余載。時運、漸やうやく利あらず。伯、分かれて二と為り、一は弁はんに連なり、一は秦に入いる。秦、是これより益ますます豪にして、燕も亦また彊を加くはふ。 それ以来彼らが跳嘯ちょうしょうすること三百余年、時運はしだいに不利となった。伯は二つに分かれ、その一つは弁に連なり、一つは秦に入った。秦は、是これより益ますます強くなり、燕もまた境界を拡張した。
殷遂以孛涘勃大水爲界。讓曼灌幹之壤而東。 殷、遂に孛は涘し勃ほ大水を以て界と為し。曼ま灌は幹かむの壌を譲って東ひがしす。 殷は、遂に孛は涘し勃ほ大水を境界とし、曼ま灌は幹かむの地を譲って東に移った。
本章では大いに時間が経過する中で、伯族が離散する様子がまず描かれ、後半では、さらに年数が経過した後に、辰沄殷が燕に圧迫されて領地を失う経緯が描かれている。




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