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やる夫がウメハラについて語るようです。
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| (__人__) | ___________ 異世界転生モノってどーやって描くんだお?
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ノ \ .| | |
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| l | | |
ヽ -一ー_~、⌒)^),-、 .|_|___________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニニニ _|_|__|_
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/ _ノ \
| ( 一)(●)
| (__人__)
| `⌒´ノ 異世界転生か。
| ,.<))/´二⊃ 自分が異世界に転生したらどうなるかって事を描けばいいんだよ。
ヽ / / '‐、ニ⊃
ヽ、l ´ヽ〉
''"::l:::::::/ __人〉
:::::::::|_/ヽ. /|||||゙!:゙、-、_
:::::::/´∨/`ー'〉゙||i l\>::::゙'ー、
:::y′.: ',ゝ、_/ヽ.||||i|::::ヽ::::::|:::!
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万博訪問は「貿易交渉より、アメリカを祝うための催し」 アメリカ・ベッセント長官が言及
FNNプライムオンライン によるストーリー•
17 時間
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姜維の包囲が成功するか失敗するかも分からない状況で、
失敗したら危険だからと前進をためらったということ?
何よりも速度が重視されるこの作戦で、そんな判断はしないだろう。
作戦の成功が、関城と剣閣の迅速な突破に掛かっていると言っても良いくらいなのだから。
リスクの軽減を求めようとするなら、まず漢城と楽城を完全に陥落させてるよ。
特に漢城は漢中の軍事・行政の中心だから、後方の敵兵を撃破するという事以上に、
その陥落は大きな効果がある。
姜維が剣閣に入るのを黙って見ながら、なお二城を放置して進む事からは、
鍾会のそんな慎重な姿勢は見受けられない。
第一、姜維が漢中に戻ってくるのが危ないと言うのなら、
まず胡烈の前軍を剣閣に急行させるだけでも良い。
鍾会が関城が陥落してもなお、姜維らの行動を案じてしばらく停止していたのなら、
関城が陥落した時点で姜維はもちろん張翼らも剣閣には到達していなかっただろうしね。
また、陽平関を押さえつつ白水辺りに軍を派遣すれば、
?ケ艾や諸葛緒と連携しつつ姜維を完全に包囲・撃破できる体勢が整う。
ただ徒に漢中に全軍を留めると言うのは、一番やらない事だと思うが。
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確かに二城攻略の部隊はともかく
全軍で漢中に残っている必要はないな
関城の陥落時期については同意する
でもそれならなぜ諸葛緒は姜維を追わなかったのだろう
>何よりも速度が重視されるこの作戦で、そんな判断はしないだろう。
>作戦の成功が、関城と剣閣の迅速な突破に掛かっていると言っても良いくらいなのだから。
なら諸葛緒の当初目的は姜維を鍾会の戦線に出さないことになるから
廖化らと合流して勝ち目がなくなるまでは追わないといけないはずなのに
1日間に合わなかったぐらいであきらめるのだろうか
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蒋エン・費イは荊州出身で諸葛亮時代から名のある人物だけど姜維は降将だからなあ
信頼も人脈も足りず陳祗は黄皓に媚びるから二頭体制にもできない
姜維のやり方を擁護したいわけではないが環境も悪かったのでは
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>黄皓が悪者扱いされている状況を考えれば,むしろ称賛される
確かに。賞賛するような記述は実際無いしね。
詳しく書いてないから、記述同士を自由に解釈して繋げて仮定してみたけど、苦しいか。
閻宇を召還した時期が不明だけど、
蜀側の対応・情報が全体的に後手後手に回っていた点から、
召還自体が遅くて間に合わなかった線が濃厚かなぁ。
蜀側の対応が後手後手だったのは、それだけ魏の侵攻が早かったのと、
当時の情報通信の困難さ、中国は広大ってのが理由かなぁ。
漢中方面とやりとりするだけでも時間がかかり、
また当初、中央が姜維の援軍要請にすぐに応じなかった点を合わせて考えると、
対呉戦力を割いてでも巴東の閻宇を召還する必要がある状況と
分かるまで・中央が判断に至るのに時間を要しただろう。
それから閻宇に連絡を取り、閻宇が軍を召集して成都まで向かうとなると、
ここでもそれなりの時間を要すから、やっぱり上述の理由で判断・情報伝達遅れで間に合わなかっただけかなぁ。
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紙を発明した後漢の蔡倫。
外戚専制体制を打倒して、善政を行った後漢の鄭衆。
後漢末の政治腐敗と戦ったり、清流派の復権に努力したり、
黄巾を倒す戦略を立てたりしたけど、十常侍に陥れられた呂強。
唐末期から五大十六国の初めまで河北で割拠した晋の宰相で、
忠誠無比と言われて誰からも尊敬されてた名宰相張承業。
明の洪武帝の腹心として、天下取りから戦後の軍事や政治を助けた、
大航海で名高い鄭和を初めとする宦官武将や宦官大臣。
反乱軍が突入した時に、明の崇禎帝に殉じたただ一人の家臣王承恩。
思い付いたのをざっと並べたけど、それだけでこれぐらい。
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永安については、劉備が魚腹から名を改めた事が書かれるのみで、
特に何かを造ったり建てたりとかって記述は見当たらないね。
皇帝が自分の最期の地に選んだんだから、宮殿の改修くらいはしてるだろうけど。
水経注の記述だと、唐代には打ち棄てられていたように読めるね。
周書には北周の陸騰が劉備故宮城(白帝城)の南、諸葛亮の八陣の北に城を築いた事が書かれてたりするけど。
もしかするとこれが原因かも。
水経注の記述だけで見るなら、赤甲城の方が堅固そうだね。
東の高さが二百丈(約600m)、西北が一千丈(約3000m)って記述がちょっとよく分からないけどね。
城壁の高さにしてはおかしすぎる。
山にしても、あの辺の山は3000mも無い。
測量技術の未発達で非常に大雑把な標高を書いただけかもしれないけど。
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羅憲が篭城したのは白帝だろう。
三国志に、「羅憲以重兵拠白帝」とある。
ちなみに、水経注の白帝辺りの記述は、
「江水又東巡南鄉峽、東巡永安宮南、劉備終於此、諸葛亮受遺処也。
其間平地可二十許里、江山回闊、入峽所無。
城周十余里、背山麺江、頽墉四毀、荊棘成林、左右民居、多墾其中。
江水又東巡諸葛亮図壘南、石磧平曠、望兼川陸、有亮所造八陣図、東跨故壘、皆累細石為之。
自壘西去、聚石八行、行間相去二丈、
因曰:八陣既成、自今行師、庶不覆敗。皆図兵勢行蔵之権、自後深識者所不能了。
今夏水漂蕩、歳月消損、高処可二三尺、下処磨滅殆尽。
江水又東巡赤岬城西、是公孫述所造、因山拠勢、周回七里一百四十歩、
東高二百丈、西北高一千丈、南連基白帝山、甚高大。不生樹木。
其石悉赤。土人雲、如人袒胛、故謂之赤岬山」
この後段にある赤岬(甲)城に籠もったわけではなく、白帝城の方だろうね。
城は周十余里(約6km)なので、1辺1km以上あるね。
1mに一人配置すると6千人くらい必要。
っても、山を背にして長江に面しているので、多くても東西南の三箇所を重点的に守ればよい。
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もたもたしてる間に成都が降伏したってとこじゃないか?
だから、記録するに値せずってことで、何も書かれなかったんじゃ?
閻宇が生きて成都に着いてたら、降伏前に成都にいる最高位の将軍として何かしら言ってただろうし、
生きてるか死んでるかはおいといて、その兵を諸葛瞻が率いてたら、
諸葛瞻軍の指揮官が尚書や羽林の人間しか名前が残ってないってこともないだろう。
そんなのに兵を率いさせるより、巴東軍の高級武官に指揮させた方が確実だし。
さらに言うなら、閻宇が諸葛瞻出撃前に成都に着いてたら、
実戦経験の無い諸葛瞻じゃなくて、ベテランの閻宇が出撃してたと思う。
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降伏以外の選択肢はあったと思うよ。
ただ、>>201-212でも語っているように、鍾会軍を何とかする必要はあったと思う。
なので、成都での篭城は残っている物資を考えると現実的ではないかな。
成都に残っている将兵や官吏を動員して1,2ヶ月篭城するだけの物資はあるけど、
そこに4,5万が入って3,4ヶ月とか篭城するには厳しい。
あえて成都を棄て、皇帝を抱えた姜維が魏軍を各個撃破するシナリオが現実的かな、と。
それでも厳しいけどね。
むしろ、生き延びるというだけなら南中の方が容易い。
いくら鍾会でも南中への追撃はためらうだろうからね。
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一つ聞きたいんだけど、ショウ周が成都開城を決定付けた議論はどう思う?
群臣からは南中へ退いて抗戦を続けると言う案が出て、それをショウ周ははっきり否定したわけだけど、
南中での抗戦と、呉への亡命と、成都開城以外に選択肢は無かったのかと。
たとえば、成都の守りを固めて?ケ艾を防いで、その間に鐘会を振り切った姜維が来援して?ケ艾を排除後成都に入って、
姜維指揮する蜀軍数万が鐘会の大軍を補給切れになるまで籠城で抵抗するというシナリオは現実的にどうかと。
鐘会は剣閣で姜維と対峙してた時点で、補給の困難から撤退を考えていたから、
成都に姜維が入城したら、撤退せざるを得なかったような気もする。
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?ケ艾の置かれた状況のやばさは、?ケ忠と師纂への対応にも現れてるね。
勝たなきゃ自分たちが滅ぶという事を正しく認識していた?ケ艾と、
危機感の足りない?ケ忠と師纂という対比がよく表されていると思う。
その能力に加え、どんな状況に陥っても勝利を掴もうとする意志の強さは、名将に必要な条件かと。
そして?ケ艾はそれを持っていたという事だね。
鍾会は能力は高いけど、その辺は持ち合わせていない感じがする。
追い詰められた局面での彼の態度とかを考えるとね。
あの時代では?ケ艾と姜維は頭一つ抜けてる感がある。
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あの時点で?ケ艾を撃退するだけなら、姜維ほどの将じゃなくても大丈夫かと。
?ケ艾にしてみれば、あのタイミングで諸葛瞻のまとまった軍勢が現れるだけで誤算だった。
「自分が奇襲すれば、敵のがら空きの脇腹を突くことができる。
剣閣の軍勢が引き返せば鍾会は前進できるし、そうでなければ涪で対応できる敵は寡兵である。」
なんて言ってるんだしね。
諸葛瞻が涪で粘っていたら、?ケ艾軍は早晩瓦解したと思うよ。
幸運にも諸葛瞻が涪を放棄してくれたので?ケ艾は前進する事ができたが、
それでも自軍に敵するような軍勢が立ちふさがっている事に変わりはない。
?ケ艾は段谷の姜維に匹敵するくらい追い詰められていたと思うよ。
その状況をひっくり返したからこそ、あの傲慢な発言が出てきたんじゃないかと。
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彊川口で姜維を撃破しながら、追撃が緩慢になり、尚且つ陰平で前進を停止した?ケ艾。
既に挙がっているが、諸葛緒が建威に向かった事を察知してから陰平で停止した廖化など、
諸葛緒にかかわらず武都・陰平方面の動きは不可解なものが多い。
諸葛緒に関して言えば、相当な強行軍でない限り姜維に追いつけないであろう事、
作戦の失敗を?ケ艾に相談する必要があった事などの理由があるのではないかと思う。
姜維と廖化が合流したタイミングは不明だが、廖化が陰平郡治にいたのなら諸葛緒をかわす前。
廖化が白水辺りにいたのならその後、という事になる。
いずれにしても、諸葛緒が姜維にかわされた時点で、姜維と廖化の合流は成功していると見て良いと思う。
その場合、諸葛緒の戦力は姜維らと同等程度にまでなり、
?ケ艾の到着するタイミングも分からない以上、姜維と戦闘に及べば敗北を喫する公算が高いだろう。
諸葛緒は、?ケ艾に奇襲への同行を誘われても詔勅に無いからと断るほどなので、
当初の作戦から逸脱した行動を取れるような性格ではないと思う。
だから、リスクの大きくなった状況においては諸葛緒が史実通りの行動を取ったのも分からない事では無いと思う。
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某蜀叩きの釣りスレを読んでて思ったんだけど
蜀滅亡時の蜀国内の全兵力が10万だったんだよな?
諸葛亮の北伐の時より数が減ってるのは
(姜維の敗戦で討たれた兵数だけじゃなくて)
国の乱れにより国外に逃げた民が多かったからなのかな
大赦の回数が増えている事から考えても
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記録上の人口は建国時90万(20万戸)
滅亡時94万(28万戸)なのでほぼ変わっていない
ただ間に南征や異民族の移住でそれなりに増えていただろうから
民の逃亡自体はあったかもしれない
また1戸当たりの人数が減っているので
徴兵されて戦死した者もかなりいたとは思う
諸葛亮がの「悉大衆」を引き連れた234年の北伐で
司馬懿は司馬孚への手紙で「10万」と表現しているから
諸葛亮の兵力は10万に近い数字ではあったと思う
当時南中では劉冑の反乱でそれなりの兵力がいただろうし
成都や永安等の防御がいただろうから
合計すれば滅亡時よりは多かったと思う
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「帶甲」と「衆」では数え方が違う。
帶甲はつまり、兵士として武装して訓練を受けた者の数。
当時は兵戸制を取ったと考えられるから、兵戸に属して
武具を与えられ、召集に応じる義務を持った者の数になるだろう。
「衆」は軍役に動員された者の総数。
特に大規模遠征になれば、輜重隊や工兵的な役を追う人夫に相当数が必要になるので、
兵戸内の正卒以外の弱卒や民戸からの徴集がそれに当てられただろう。
だから諸葛亮が北伐で10万人動員したとするなら、
実戦に投入される「帶甲」は5万とか7万とかいう数字に落ちる。
それでも蜀漢の国力からすればかなりの数字だが。
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第173回芥川賞は「該当作なし」 2011年の第145回以来14年ぶり
FNNプライムオンライン の意見•
2 時間
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蜀滅亡戦と言えば、剣閣放棄後の鍾会の行った部署も興味深い。
鍾会の率いたのは18万の内12万。
その内、それぞれ1万を漢城と楽城の包囲に割いている。
また、黄金囲で抵抗を続けていた柳隠にも軍を割いているし、
連絡線の防護にある程度の軍を割いていただろう。
諸葛緒の率いた軍を接収したとしても、剣閣を抜けた時点で使える兵力は、
15万を超える事はないだろう。
そして鍾会は、剣閣を抜けると姜維を包囲する為に自軍を分けて進ませている。
一部は剣閣より巴方面へと真っ直ぐ姜維を追い、
また別の一部は涪から南下し、三つ目は大渡へと向っている。
そこに鍾会率いる涪の予備を合わせ、全部で大きく四つに軍を分割している。
したがって、個々の軍は3万から4万と言ったところだ。
この時の姜維の軍勢は、鍾会の言によれば4,5万となる。
つまり、分遣された各軍は姜維と接触したとしても、場合によっては拮抗するが、
恐らく姜維に対して6割から8割程度の戦力で当たらざるを得なくなる。
各軍の進み方や、姜維と接触した後の遅滞行動の巧拙によっては、
各個撃破される可能性もあっただろう。
ましてや益州は敵地であり、句安以外に街道の状態等を知っているものがどれだけいたかも分からない。
そして、鍾会は夏侯咸や皇甫闓に更なる軍の分割を命じている。
地勢を恃みに抵抗する事を期待したらしいが、どれだけ成功する見込みがあったのか。
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緜竹失陥後の成都での議論は,譙周の降伏論を除けば
孫呉に逃げるか南中に逃げるかしか出てこない
要するに成都で抵抗して何とかできるとは誰も思っていない
(劉?ェですら社稷のために死ぬことしか主張していない)
そこだけ見ると姜維の居場所を知らなかった可能性はある
でも東広漢郡で撤退中の姜維からすれば
自身の戦力がまだ残っていて劉禅を守るつもりがあったのだから
成都に使者を送ってその旨を伝える程度の知恵はあったと思う
(>>132で言った様にそこまで余裕を失っていたとまでは思わない)
(ただ,263年初めに曹魏の侵攻を察知したときに
援軍要請をもみ消されたにもかかわらず何の対応も取っていないことから
成都と連絡を取ること自体あきらめていた可能性もあるけど)
譙周の降伏論も戦力の多寡は全く問題にされていないから
姜維がいても大勢は変わらないと思っていたのではないかと
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Google Earthとかで南方の地形を見ると、結構険しいよね。
鍾会も、地理も分からない、蜀軍の動向もつかめないとなれば、無理に南に軍を進めようとは思わないだろうな。
そうするとそのまま南中で自立ってのも考えられるけど、
ジリ貧だったのが更に追い込まれるだけで状況は好転しないね。
異民族ばかりの所に逃げ込んで自立自存ってのも難しいだろうし。
やはり姜維は南に後退するとしても長江の線辺りまでで決着をつけるべきだね。
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さすがに一戦役だけではそこまで多くを語れないのだろうか?
魏軍の目的は成都を含めた蜀の領土を奪うことではなく、
漢の皇帝を名乗る賊の捕縛と、その国家の解体であるはずなので、劉禅が逃げれば当然それを追う。
つまり、姜維が皇帝なら何の問題も無くなる。
最後の一兵まで戦い続けてくれるだろう。
と、ここで両軍の陣容を整理しておこう。多分まだスレでまとめた事は無いだろう。
魏軍
○鍾会…12万
・司馬:夏侯咸
・長史:杜預
・主簿:?ケ攸
・功曹:向雄
・護軍:荀?ト、田続
・参軍:爰せい、皇甫闓、羊?e
・監軍:衛瓘
・帳下督:丘建
・征蜀護軍:胡烈(右将軍)
・将軍:李輔(前将軍)、句安、王買、龐会、田章
・牙門将:許儀
・太守:劉欽(魏興)
・不明:胡淵
○?ケ艾…3万(内5千は涼州の羌胡)
・司馬:師纂、段灼?
・太守:楊欣(金城)、王頎(天水)、牽弘(隴西)
・不明:?ケ忠、柯迴
○諸葛緒…3万
あと誰かいたっけ?
蜀の方はまた今度。
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さて、当該戦役における蜀軍の陣容もまとめましょう。
○沓中方面…2〜3万?
・大将軍:姜維
・参軍:来忠(存命なら)
・牙門将;趙広
○漢中諸城…2万数千?
関城…1万程度?
・傅僉(関中都督)、蒋舒(官職不明)
漢城、楽城…各5千
・蒋斌(漢城護軍)、王含(監軍)
秦嶺諸囲…合わせて数千?
・柳隠(黄金囲督)
○武都諸囲…数百×7で3,4千?
○漢中救援軍…数千〜1万
・張翼、董厥
○姜維救援軍…数千〜1万
・廖化
○巴東都督麾下…1万数千
・閻宇、羅憲、楊宗
○ライ降都督麾下…1万程度?
・霍弋
○成都…1万程度?
・諸葛瞻 他
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何処に誰がいたかという記述が殆ど無いので、名前は挙げ難いね。
兵数に関しても分かっているのは、
・漢城と楽城の兵数
・姜維、廖化、張翼、董厥ら合わせて4,5万
・?ケ艾に提出した目録での総兵力10万2千
という3点だけ。
剣閣における姜維らの兵数を4万とし、上に挙げた数字を全部足すと10万強。
各郡太守麾下の兵を足してしまうと目録の数をオーバーしてしまうが、
その辺は廖化や張翼の軍が郡兵でも構成されていたと考えれば何とかなる。
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諸葛瞻軍はもっと多くないか?
総大将の諸葛瞻以下、官僚や近衛兵の指揮官のような実戦経験が怪しい指揮官が揃った軍で、
歴戦の?ケ艾の一万を一度は撃破してるんだから、?ケ艾と同数ってことは無いと思う。
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トランプ米大統領、FRBのパウエル議長について「解任する可能性は極めて低い」…米メディア報道を否定
読売新聞 によるストーリー•
1 時間
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魏蜀の総戦力の差以上に、人物の差が大きかった気がするな
前線で戦った将にしても、将の将にしても・・・・・・
国と国との戦いというより、姜維軍と魏軍の戦いだったから蜀は滅んだ
劉禅が国家と存亡を共にする覚悟だったなら、勝っていた可能性もあると思う
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抗戦派の意見をことごとく封じたショウ周の議論がすべてだと思う。
要するにどんなに劉禅に抗戦意欲があっても勝ち目ない。
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【外国人の土地買収問題】土地を買われるということの恐ろしさとは!?
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涪を奪ったとは言え、強行軍で疲弊し切った?ケ艾軍なので、
地の利を上手く使えば同数の戦力であっても会戦の一局面で優勢を得る事はできるように思える。
まして?ケ艾には諸葛瞻の撃破が必要なので、諸葛瞻が固く防御している所を攻めなければならない。
諸葛瞻を大きく迂回して成都を目指すと言うのも考えられるが、
諸葛瞻の位置から成都までに、大規模な迂回を可能にするだけの地積も無く、
更に緜竹と成都は指呼の間なので、迂回しても結局会戦を強いられる。
防御に徹すれば良い諸葛瞻と、それを攻撃して撃破しなければならない?ケ艾の差が、
?ケ忠と師纂の後退に現れたんだと俺は考えている。
まぁ、>>214だと動かせる軍として巴東の軍が残っているので、
?ケ艾と戦った際は近衛+巴東諸軍で約2万とする事もできる。
巴東から成都の500km以上の道のりを考えると、?ケ艾の四川進出前に動いている必要があるけど。
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諸葛瞻が綿竹で守り固めてたかどうか怪しいと思う。
黄崇の防衛策を却下して、一戦もせずにフを放棄せざるを得なかった戦音痴ぶりから考えて、
同数で?ケ艾が苦戦するような堅固な守りができるとは思えない。
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諸葛瞻は涪まで強行軍で進み、到着した時には結構な落伍者が出てて、
涪で逡巡したのは、その集結を待とうとしからじゃないかと思ってるんだよね。
成都の慌てぶりからすると、?ケ艾への対処がかなり急を要したのは間違いないし。
んで涪に着いたら、予想以上に?ケ艾の進出が早く、寡兵で進むわけにもいかず、
かと言って涪に居ても戦力の集結前に?ケ艾が到着してしまうって状況だったんじゃないかと。
それでも涪の放棄は愚策だけどね。
疲弊し切った?ケ艾軍に城塞を攻略する事は出来ないだろうし、
城の規模にもよるが、5,6千もあれば涪の防御は十分可能だったろう。
誰かを派遣して落伍した兵をまとめさせて遊軍とし、
城内の軍と遊軍とで?ケ艾を圧迫できれば、恐らく勝てただろうと思う。
と言う事で、戦下手である事は否定し得ないんだけど、
後方に退いて軍を集結し、緜竹で防御を固めるくらいの判断はできたんじゃないかなぁ、と。
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ここで>>219が言ってるのは実際に籠城したかできたかではなく、
一気呵成に城を抜かないと後がない条件で戦闘せねばならない不利を言ってると思うよ。
実際の戦闘でも会戦だったんだし。
?ケ忠はともかく師纂を先陣に起用するくらいだから?ケ艾軍の質はあまり良くない。
行軍の無理もひびいてるに違いないし、鍾会がいつまで剣閣で待ってくれるかも分らない。
後方にいた?ケ艾に「勝てません」だから撤退しましょうと言いたかったんだろう。
たぶん?ケ艾軍2万はないと思う。
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アルビレックス新潟 東洋大に敗れ天皇杯3回戦敗退 入江監督体制でいまだ勝利つかめず
TeNYテレビ新潟 によるストーリー•
9 時間
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諸葛瞻は?ケ艾の強行軍をどう分析してたんだろう
漢中から分かれて、陰平を抜けて来た事は分かってたんだっけ
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【外国人の土地買収問題】土地を買われるということの恐ろしさとは!?
トレトレチャンネル
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江油が突破された報告は届いていただろうし、
黄崇の発言からも?ケ艾が江油から南下してきた事は把握している事が窺える。
一つ注目すべきは、諸葛瞻が涪を放棄する前に、「前鋒破」という事象が存在する事。
諸葛瞻は黄崇の献策に素直に従えなかったものの、様子見の為か軍の一部を?ケ艾へ向けて派遣している。
この対応が中途半端だったために、結局は軍の士気を挫くだけに終わってしまい、
涪の放棄という愚策に走ってしまった。
父と同等とまではいかなくとも、その半分でも軍事的センスがあれば良かったんだろうけどね。
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姜維ぐらいセンスないと役に立たなくないか?
蜀の姜維以外の将軍程度のセンスなら、焼け石に水だと思う
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あの時点で?ケ艾を撃退するだけなら、姜維ほどの将じゃなくても大丈夫かと。
?ケ艾にしてみれば、あのタイミングで諸葛瞻のまとまった軍勢が現れるだけで誤算だった。
「自分が奇襲すれば、敵のがら空きの脇腹を突くことができる。
剣閣の軍勢が引き返せば鍾会は前進できるし、そうでなければ涪で対応できる敵は寡兵である。」
なんて言ってるんだしね。
諸葛瞻が涪で粘っていたら、?ケ艾軍は早晩瓦解したと思うよ。
幸運にも諸葛瞻が涪を放棄してくれたので?ケ艾は前進する事ができたが、
それでも自軍に敵するような軍勢が立ちふさがっている事に変わりはない。
?ケ艾は段谷の姜維に匹敵するくらい追い詰められていたと思うよ。
その状況をひっくり返したからこそ、あの傲慢な発言が出てきたんじゃないかと。
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そういう状況なら、黄崇の意見を聞かなかったことが悔やまれるね。
?ケ艾の勝利は必然じゃなくて、諸葛瞻の無能という偶然に助けられた面が多いわけだ。
苦しい状況から、そういう敵失に付け込んで勝利できるから、?ケ艾は凡庸ならざる将だったんだろうね。
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?ケ艾の置かれた状況のやばさは、?ケ忠と師纂への対応にも現れてるね。
勝たなきゃ自分たちが滅ぶという事を正しく認識していた?ケ艾と、
危機感の足りない?ケ忠と師纂という対比がよく表されていると思う。
その能力に加え、どんな状況に陥っても勝利を掴もうとする意志の強さは、名将に必要な条件かと。
そして?ケ艾はそれを持っていたという事だね。
鍾会は能力は高いけど、その辺は持ち合わせていない感じがする。
追い詰められた局面での彼の態度とかを考えるとね。
あの時代では?ケ艾と姜維は頭一つ抜けてる感がある。
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一つ聞きたいんだけど、ショウ周が成都開城を決定付けた議論はどう思う?
群臣からは南中へ退いて抗戦を続けると言う案が出て、それをショウ周ははっきり否定したわけだけど、
南中での抗戦と、呉への亡命と、成都開城以外に選択肢は無かったのかと。
たとえば、成都の守りを固めて?ケ艾を防いで、その間に鐘会を振り切った姜維が来援して?ケ艾を排除後成都に入って、
姜維指揮する蜀軍数万が鐘会の大軍を補給切れになるまで籠城で抵抗するというシナリオは現実的にどうかと。
鐘会は剣閣で姜維と対峙してた時点で、補給の困難から撤退を考えていたから、
成都に姜維が入城したら、撤退せざるを得なかったような気もする。
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やっぱり分からないのは閻宇だよね。
巴東の軍を率いて成都に向かった割には、その後に名前が出てこないし。
閻宇の軍が姜維と合流した形跡も無いし、恐らくは?ケ艾が四川に雪崩れ込んだ頃には成都に着いてたんだろうけど。
途中で発病して死んだけど、軍勢だけは成都に着いて、諸葛瞻が率いて?ケ艾に当たったとかかねぇ。
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あすにかけ関東〜四国の太平洋側で大雨のおそれ 土砂災害などに注意
日テレNEWS NNN によるストーリー•
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【安価】やる夫は青春を謳歌する様です
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やる夫がウメハラについて語るようです。
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やる夫がウメハラについて語るようです。
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