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【NW3rd】彼らは未来をつかみ取るようです【リプレイ】
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l | 玩テミ 玩示: | |
v | ト=ソ ゞ=' |: l |
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l | ! __ |:. //
だからスープが切れたから レlハ |、 (_ ) /|://
これでおしまいです |ハ. |: > . ‐ /: : j' l|
///^ ー┐_≧= ' i: :|: : l廴_
(ラブが土下座まで 7:/ 厶エナメ ] v:l: : \
してるのに、なんなの? // /⌒寸"8 ソ: ハ
この人・・・・・・) _ ,//| /⌒} 8 /: :/ | lー 、
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まことに全ての「中国専門家」は盲目である。
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南方はちょっかい出すと虎の尾を踏むことになるから手を出さない方が良さそうやな
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私立東北学院大学文学部
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うちの会社で優秀だったのは早稲田大学第一文学部の奴等
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マクドと言ったら関西人
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関西人
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実は立命館大学
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経営学部二部
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経営学部二部経営学部二部経営学部二部
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厚生労働省「令和2年賃金構造基本統計調査」によると、日本の労働者のうち30〜34歳の人の平均年収(※)は、およそ441万円です。男女別に見ると男性:約476万円、女性:約378万円で、男女間で100万円近い開きがあります。
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そのまま項羽たちは長江の渡し場の一つ、烏江という長江の渡し場に着いた。そこの亭長は項羽の顔見知りだった。
亭長は項羽たちを船に乗せて対岸へと案内しようとする。対岸は、項羽の故郷だった下相である。
しかし、項羽は穏やかに首を振った。
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享年三十一歳。余りにも早い、激動の死であった。
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それでいて個人レベルでは、年長者に対しては礼儀正しく、下の相手には優しく情け深いと言ったエピソードが多い。
例えば叔父の一人の項伯はしばしば内通じみた行動を取っていたにも拘らず、叔父と言うことで丁重に扱っていた。
鴻門の会でも范増から「我が君は残忍なことができない(劉邦の目的が秦の略奪ではないということは、真の目的は天下取りだと范増が言ってるのに、命乞いをする劉邦を殺せない)」と言われている。
死の間際に烏江亭長に残した言葉は、責任感や思いやりの深さなどが読み取れるものである。
垓下で虞美人に詠んだ優しくも物哀しい詩は、学校の教科書などで読んだ人も多いのではないだろうか。
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政治面や戦略面などはすがすがしいほどにからっきしであり、行く先々で破壊と虐殺を繰り返し、そのせいで戦闘が終わった先から反乱や盗賊が跋扈する、という悪循環を引き起こした。
特に虐殺においては、投降した二十万人を穴埋めにしたり、抜いた城の住民を片っ端から皆殺しにしたりと、キリングマシーンと言われた白起と並ぶかそれ以上の殺しっぷりを見せている。
そのせいで敵が「投降しても殺される」と思って死力を尽くして抵抗するから、攻略に時間がかかる…と良いことがない。
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また当時の行政システムの中枢だった咸陽を焼き払い、豊穣な天険だった関中に拠点を置かなかったことも、彼の政治見識の無さを象徴している。
実際、関中に本拠を持つべきだと諫められたのだが、この時項羽は
「富貴になっても故郷に帰らない。これは錦を着て夜に歩くようなものだ、誰がこの栄達を知る」
と答えた。「錦を飾る」の由来だが、人間としては素朴でも、天下を担う政治家としてはなんの理由にもなっていない行動である。
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周の武王に倣った封建王国を目指したが、春秋戦国時代を通して国家の行政システム、法律システムは高度化し、中国全体を効率的に統治できるようになっていた。春秋戦国時代には、既にゆっくりと封建制から郡県制に進化していたという論もある。
つまり封建制によって分割統治する時代ではすでになかったのだ。むしろ他の勢力(劉邦)が天下統一を目指したときに、たやすく瓦解するシステムとなっていた。
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もっともこの当時、そうした事実に気付いていた人物のほうが少数派であった。
例えば劉邦は途中張良に諫められるまで漠然と戦国七雄時代に戻すことを考えていたし、始皇帝時代の秦朝でさえ宰相の王綰、馮劫、淳于越といった高官たちが封建制に戻すよう訴えていた。
李斯、張良たちこそが少数派で、項羽は単なる多数派だったと言うことだが、それこそが項羽の限界を示している。
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天下を争った相手である事から劉邦と比較され 人の上に立つ者の資質が全て負けていると後世まで言い切られる程にフルボッコ であるが、一概にそうとは言い切れない面もある。
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そもそも担ぎ上げとは言え初めからトップであった劉邦と、叔父と共に旗揚げし引き継ぐ形でトップになった項羽では組織の構造面で違いがあり、同じ運営方法が通用するとは言い難い。
「鴻門の会」時は劉邦も項羽もあくまで懐王の配下であり、非があったのは関中に引きこもり項羽を締め出そうとした劉邦側なので攻める姿勢は間違っていない。また、殺さなかったのも「(暗殺の)前科がある状態で、再び殺せばさらに人望が落ちる」と考えたからとも思われる。
劉邦側は調略による配下との引き離し、騙し討ちによる襲撃、留守の時を狙っての攻撃等知略を駆使…悪く言えば卑怯なやり方で項羽を滅ぼしており、人格面で劉邦が優れているとは言えない*34。
「擁歯封孔」のエピソードや漢王朝成立後も反乱が度々起きていた事、項羽配下の中にも優れた人材が最後まで残っていた事を踏まえると、人望・君主としての魅力で項羽が完全に劣っていたとも言い切れない。
また故郷に錦を飾るというのも当時の視点で見れば個人的な思考と単純に決められない面もあった。項羽は楚国の名将項燕の末裔であったので、故郷へ帰って自らの功績を示すと同時に楚国の栄光を再び取り戻す意味合いもあったと言える。
加えて、彭城があった江東地域は「気候が穏やかで米も取れる」という当時としては実に過ごしやすい地域であり、ここを拠点にするという判断自体が間違っていたとは言い切れない。
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つまるところ、項羽の長所は個人レベル、戦術レベルのものでしかなく、戦略や政略にはまるで役に立たなかったということだ。
韓信が彼の数々の長所を認めたうえで評した「匹夫の勇と婦人の仁」という言葉が、彼の評価そのものといえる。
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范増
「亜父」、父に次ぐ者として尊称した軍師。
孫氏呉氏にも劣らぬという評判の智謀で、項梁によって起用された時点で70歳前後になっていたという。
しかし実は史書でもほとんど名前が出てこない。つまりあまり献策した様子が見られないのである。
その献策も「楚の王族を担ぎ上げ大義名分を得るべし」位で他には「劉邦と韓王成を暗殺する」といった対処療法、もしくはズレたものばかりで、はっきり言って評判倒れである。
大義名分の確保として旧王族を担ぎ上げる策も、項梁の死という予想外の事態があったとはいえ、懐王の策謀を許すなど粗も多い*38。(これに関しては兵法三十六計の借屍還魂が詳しい)
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まともな軍師だったのなら、項羽の無謀で粗雑な封建や根拠地選びを諫め、人材発掘を進めるべきであったが、
それをしなかった点で少なくとも政治面では大した軍師ではなく、何よりそんな彼が「随一の知恵者」と評された時点で、項羽側がいかに謀臣がいなかった・育ちにくかったかが証明されている。
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とは言え、記録に残った献策が少なすぎて想像で埋めるしかないのが実情ではあるが、
劉邦陣営をしっかりと敵として認識し警戒していた事、劉邦陣営側は計略を用いてまで引き離しを図っている事からその知恵は侮れない物であったのは事実であろう。
実際に彼が離間の計によって除かれて憤死した後、項羽は完全に劉邦と彭越に翻弄されるようになっていくので、軍略の方に関しては評判どおりであった可能性は大きい。
劉邦も後に「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」って言ってるし。
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また違う見方として、「項羽は范増を亜父として敬愛したが、肝心なところでの進言を聞かなかった」というものがある。
人間、言うことを聞いてもらえなければやる気が無くなってしまうものである。范増は老齢だったためそれでも仕えたが、周囲の人間は離れてしまってもおかしくない。
まさに韓信の言う「婦人の仁」が原因である。
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龍且
数少ない、項羽と離れて行動できた大幹部。項梁が挙兵して間もない時期から活躍していた。
劉邦側に寝返った黥布を討伐し、身一つで落ち延びさせるなどかなりの強さがあったが、韓信を討伐するべく北上したときに返り討ちにあい、戦死。
まあ良将ではあったようだが、策略の類には秀でてなかったのであろう。
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項梁
項羽の叔父貴ィでございます。
項羽よりは頭が切れる感じで、人の使い方もある程度は心得ていた。
しかしそれも項羽と比べればという程度の話。懐王を擁立すれば宋義の台頭を招き、斉国の救援を兼ねて章邯討伐に行ったら斉国との外交に失敗して孤立無援となり見殺しに遭って殲滅される*40という結末を迎えており、時代を牽引する覇者としての手腕には明らかに乏しい。
項羽の弱点である組織を支える部下が少ないという欠陥も項梁のころからあった。
結局、叔甥含めてなるべくして辿った末路だったといえる。
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しかし殺人を犯して逃亡している最中に人を集めて反乱軍の首領にまでなっているので、あのまま生きていたらどうなっていたか…という人物でもある。
また部下が少ないというのも立ち上げ直後なので仕方ない面はあり、また人材を集めていたとも書かれているので*41、やはりあのまま生きていれば叔甥ともに違った結果があっただろう。
そもそも脳筋で政治的な能力が皆無の項羽が首領にならざるを得なかったことが問題でもあるので…
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また、項羽が陳勝残党を生き埋めにしたりした後、秦兵20万を生き埋めにするまでそうしたことをしたという記述が存在しないため、項梁に何かしらの注意を受けた可能性もある。
まあ項梁敗死後しばらくしたら忘れちゃったようだが…
ちなみに項羽は甥なのだが、項梁の息子はいっさい記録が無く、本人も項羽を跡継ぎと考えていた節がある。子供を作れなかったのだろうか。
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項伯
項羽のもう一人の叔父。資料によって項燕の長男だったり末弟だったりでハッキリしない。
楚が滅亡してからは秦に追われる身となり、この時張良と知己となり殺人を犯した際には匿われ、恩義を受けた事から張良とは友誼を結んだという。
項梁の挙兵に参じ、項梁の死後には宰相格に取り上げられた。…のだが、どうもこの叔父、その倫理は「侠」の人間だったらしく、項羽軍での活躍より上記の張良との個人的な縁を重視していたらしく、劉邦を殺せる機会には張良の説得に応じ項羽を説き伏せ弁明の機会を与え、項羽が封建の地を考えている時またも張良に入れ知恵され漢中の地を劉邦に与えるよう進言するなど、ことごとく項羽の足を引っ張ってしまう。
身内贔屓で年長者を重んじる項羽にとっては余程この叔父の言葉は逆らえない物だったようだが、最終的には項羽を見限り劉邦に帰順。
君臣や一族の倫理に立てば都合のいい裏切り者でしかないため、後世の評判は悪いが、劉邦=善・項羽=悪の構図になっている場合はあまり悪く描かれなかったりする。
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天敵となった劉邦とは義兄弟の関係であったらしい。上記の劉邦の親父を人質にとった時の会話が元。
が、史記の中でもそこにしか出てこないので本当に影が薄い設定。
「俺とお前は懐王の前で義兄弟の契りを結んだ仲」とあるので、秦への本格的な侵攻を開始する前に行われたことと思われるが、なにぶんその頃を書いた記述に出てこないので詳細不明。
時期的に項羽25歳、劉邦49歳くらいの頃と思われる。もしかしたら死んでしまった叔父の姿を重ねていたのかもしれない。
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南方圏の出身者で、圧倒的な強さがあり、急速に勢力を拡張したといういくつもの共通点から、のちの孫策が「項羽の如し」と評された。これから派生して、三国演義では「小覇王」の二つ名が付いている。
しかし当時は仮初にも後漢王朝の時代であり、孫策に対して「項羽の如し」というのは「漢王朝に仇なす強力な危険分子」というに等しい、讒訴の言葉だった。
しかも孫策はこの時点で皇族で揚州刺使だった劉繇を駆逐している。
当然孫策は激怒し、それを奏上した許貢を惨殺している。
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陳勝とは、秦朝末期に忽然と現れ、忽然と消えた張楚の王であり、名言メーカーであり、三日天下ならぬ半年天下に終わった流星である。
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【出生】
汝陰郡は陽城県の人。字は「渉」。
若いころは貧乏な日雇い農夫、兼街の警備員で、言うことだけは大きいチンピラだった。
あるとき貧乏農夫仲間と休憩したときに「いつか金持ちになっても、仲良くいようぜ!」と放言した。
しかし相手は「オレらみたいなのが金持ちになんてなれるわけねーだろが。JK」とあしらった。
このとき陳勝が叫んだのが「嗟乎! 燕雀安くんぞ知る鴻鵠の志を!」――ザコに大物の意志が分かってたまるか!――である。
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しかし、すでに秦朝の支配に辟易していた民衆たちや、見切りを付けた本職の兵士・役人たちまでもが合流し、陳勝軍団は雪ダルマ式に増大。
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まず趙国では、陳勝が派遣した武臣が旧首都・邯鄲を落とし、趙王として自立。
続いて、武臣の配下・韓広が派遣先の燕国を平定し、燕王として即位した。
魏国ではやはり陳勝派遣の周市が領土を平定。自らは宰相となり、旧魏王族の魏咎を王として奉戴した。
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陳勝と無関係に立ったのは斉だけか
韓国もコウリョウが張良をだし
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斉国でも、もと王族の田儋(田タン)が王となり、斉国を復興させていた。なお、魏王を奉戴した周市は本来斉国の平定に派遣されていたが、田儋はそれを追い払っている。
また、呉中ではやはり楚国系の項梁が決起していた。
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各地の守備隊を粉砕・吸収しつつ急速に勢力圏を広げ、かつて楚国の都があった陳県*5を制圧するころには、戦車六〜七百、騎兵一千、歩兵は数万から十万以上と言う大勢力となった。
ここに至り、陳県の長老たちは陳勝を擁立して楚の王として迎え、楚国を復興させた。「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」を地で行ったわけだ。
なお、この楚国は単に「楚」とも言うが、「勢力拡張」という願をかけて「張楚」とも呼ばれる。
また陳県に首都をおいたことで「陳王」とも呼ばれる。*6
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張楚 陳王
陳勝が派遣した武臣が旧首都・邯鄲を落とし、趙王
武臣の配下・韓広が派遣先の燕国を平定し、燕王
陳勝派遣の周市が領土を平定。自らは宰相となり、旧魏王族の魏咎を王
斉国でも、もと王族の田儋(田タン)が王
陳勝の死後に張良が項梁に進言し、とりあえず韓成が韓王
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楚趙燕魏斉韓の順に復興か
秦滅亡の前に衛が滅亡、その前は斉、その前は代
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陳勝が大沢郷で決起してから王号を称し、破滅して殺されるまでの時間は、たった六カ月間のことだった。
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その後、残党はいくたびか首領の座を巡り殺し合いが起きたのち、項梁に攻められて敗北、項羽に皆殺しにされた。
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「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を」「王侯将相、種あらんや」という名言が象徴する通り、陳勝には壮大な胆力と気迫が備わっていたのだろう。
それゆえに時代の最先端を突っ走り、この後の楚漢戦争までの激動の幕を上げる役を果たした。
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国号の前につける字は大以外ではこの張だけか
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しかし、気迫と胆力だけでは一時は名を挙げても長くは続かない。
気迫と胆力のほかには取り立てて強さも政治手腕もなかった陳勝は、自らが幕を開けた舞台を彩る最初の生け贄となったのだった。
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死後、漢帝国の世になった際に、漢の高祖・劉邦から「隠王」との諡号を送られた
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結果としてあっけなく鎮圧されたものの、自分や項羽よりも先に秦朝に決起したことを讃えると言う意味があったらしい。
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しかし、司馬遷は同じく劉邦の前に秦朝に立ち向かい、かつ同じように王を名乗って旧六国を復興させた項羽には帝王を描く「本紀」を立てているのに、
陳勝に対しては諸侯を紹介する「世家」に記載しており、項羽ほどの重要さを見出してはいなかったようだ。
なお、漢書においては「陳勝項籍伝」として、二人あわせて列伝にまとめられた。二人にとっては格落ちである。
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決起の時のエピソード
中国では、旗揚げする群雄は大概何かしらの「瑞兆」を得る。
陳勝の場合も釣った魚の中から「陳勝が王になる」と書いた布が出てきたり、土地廟から「大楚が興り陳勝が王になる」と狐が叫ぶ、という霊威が出ている。
しかし司馬遷はこうした「瑞兆」をすべて「陳勝と呉広が仕込んだトリック」とバッサリ言い切ってしまっている。
しかも占い師には破滅を予見されたのに本人たちは気付かなかったというオマケ付き*12。
中国史を彩る「名君が現れる時の瑞兆」をそのまま信じなかった司馬遷の鋭い目がうかがえる。
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鄧小平と農民
二十世紀も後半に入ったある日のこと。
中華人民共和国の首脳・鄧小平が、内陸部の貧乏な農村へと視察に来た。
鄧小平が、貧乏そうな農民に問いかける。「今必要なものは何かね?」
農民は答えた。「陳勝と呉広」
社会主義政策下の農民が求めるのは、金や衣類のような保障でも有効な政策でもなく、農民反乱指導者である、ということを示す逸話……
……ではなく、ソヴィエト連邦において、中国を題材にしたアネクドート(民間の風刺ジョーク)の一つである。中国発祥ではない。たぶん。
ともあれ陳勝は「農民反乱代表者」として、外国にも聞こえるほどの知名度がある、ということで一つ。
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▽始皇帝
中国で初めて皇帝を名乗った男。
虞美人を妻に迎える。
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始皇帝とは、秦王国の三十一代目国王にして、秦帝国の初代皇帝のことである。
本名は「政」。本姓は嬴(えい)であり、「嬴政(えい せい)」が本名となる。
「皇帝」という称号自体が彼から始まったものなので、皇帝即位前は一般に「秦王政」と呼ばれる。
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紀元前259年、秦国王「昭襄王」の孫・子楚と、その妻・趙氏の間に生まれる。
この時、父親の子楚(後の荘襄王)は趙国に人質に出されており、政が生まれたのもその首都邯鄲であった。
彼が生まれたときの王であった昭襄王は、なんとこの時代に七十歳以上生きており、在位年数も五十年以上に及ぶ。
それだけ長いと、子供たちも自然に年を取ってしまう。
昭襄王が没したとき、次代の孝文王(政の祖父)は五十三歳となっていた。
そのせいで結局孝文王も、父の喪が明けてから三日で死去。
孝文王の子であり、長い趙国の人質生活からやっと帰国できた子楚=荘襄王が即位したが、彼もまた三年で死亡してしまう。
その荘襄王の息子・政が、新たに秦王に即位した。
この秦王政こそが、後の始皇帝である。当時十三歳であった。
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この時、紀元前246年。
春秋戦国時代が始まってから五百年以上が経過しており、天下は斉・燕・韓・魏・趙・楚・秦の七大国、
世にいう「戦国七雄」が並立している状態だった。
といっても秦は、始皇帝から百年ほど前に商鞅という政治家が法治主義を基礎においた大改革を断行しており、それ以来秦国は他の東方六国に比べて圧倒的な国力と組織力を持っていた。
かつて昭襄王も既に名前だけの存在となっていた周王朝を完全に滅ぼしており、秦王政の頃には秦による天下統一は時間の問題とさえ言われていた。
そんなとき、秦王政の前に二人の人物が現われる。
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まず現れたのは尉繚うつりょうという兵法家であった*1。
そして、その尉繚子は友人である法家、韓非の書いた著書「韓非子」を渡す。
そこに書かれていたのは、老子の説く「道タオ」の思想を根底に置いて、これまでの数々の情報・事件・思想を批判統合した、極限まで洗練された帝王学であった。
秦王政はその思想に驚愕、「この著者に会えるのならば死んでもいい!」と絶叫したという。
そこで韓に攻め込み、講和の使者に韓非を指名するという強引な手法で彼を招聘*2。
彼から帝王学を教わり、天下統一の大事業に乗り出した*3。
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すでに秦国は圧倒的な国力を持っており、さらに韓非から「統一に足りないのは群臣の知恵と、なにより君主の覇気だ」といわれていた秦王政は、
その国力をフルに稼動させ、不退転の決意の下に各地に出兵。
幾度か苦戦しつつもその戦略は揺らがず、ものの数年で、数百年ぶりに天下を統一した。
天下を統一した始皇帝は、これまでの王族や功臣に土地を与えてその地を治めさせる封建制を廃し、中央から派遣する役人を地方長官とする郡県制を採用。
あわせて、高度な官僚社会を作り上げ、周王朝以前とはまったく形態の違う中央集権国家を作り上げた。
また秦王政は「これから新しい時代が始まるんだ!新しい称号を使うぜ!」といい、皇帝という称号を作り自ら称した*4。
以後、中国の最高支配者は1912年の清朝皇帝溥儀(あるいは1916年の袁世凱)の退位まで、皇帝と名乗ることになる。
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袁世凱は中華帝国皇帝
溥儀は満州国皇帝
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始皇帝は自分を完璧な存在だと思い上がり、人の意見を聞かず、残忍であった。
貪欲な心を持ち、自分の知恵だけに酔いしれ、功臣も人士も人民も信用せず、王道を廃して一族だけを大切にした。
学問を弾圧して刑罰を残虐にし、武力や謀略ばかりを考えて仁義を顧みない。
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もともと秦国は法律を厳しくして刑罰を残酷にし、全盛期には世界中を恐怖させ、衰えだすと人民も役人も恨みを起こした。
昔の聖王や、文王・武王の周王朝などは、君臣の心が通じないことが危険であると知っていた。
だからこそ、全盛期には王が諸侯を束ね、春秋戦国時代になり衰えても、「春秋五覇」が周王を補佐して、社稷を数百年の長きに渡って保つことができたのだ。
ここに秦帝国滅亡の原因も見えてくるだろう。
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仁義を人々に施さず、君臣の心のつながりを顧みず、権力や武力のみに頼って民の恨みを買った秦帝国が、滅びるのは当然であった。
しかし自業自得とはいえ、その無常さには哀れみさえ覚えるものであった。
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袁世凱とは、清朝末期から中華民国初期までの人物。
清帝国の官僚であり、中国史上最初の大総統であり、最後の皇帝である。
生没年は1859〜1916年。
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【生涯】
◆出生
咸豊帝9年の生まれ*1、河南省は陳国府の項城県の出身。
生家は何人もの官僚や軍人を輩出した地元の名族だった。
こうした家系で育った若き日の袁世凱も野心と向上心に満ちており、当然のように清朝の官僚としての立身出世を志したが、科挙試験に二度挑戦し、二度とも失敗してしまう。
科挙官僚には気質からして向いてなかったらしく、科挙のためあらゆる知識を詰め込まなければならない時期に、馬に乗って駆け出していたという逸話も残る。
本人も科挙は無理と分かっていたらしく、二十一歳にして官僚コースを早々にあきらめて軍人コースに転出。
当時、西洋式の武装を編成していた李鴻章麾下の淮軍に所属した。
淮軍には呉長慶という幹部がいた。彼は、袁世凱の叔父*2の友人であり、その叔父の葬儀も執り行なってくれたため、その縁を頼ったそうである。
かくして淮軍に入隊した袁世凱は、まもなく頭脳の明晰さと機敏さが認められ、呉長慶の幕僚に抜擢された。
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◆朝鮮の若き才子
朝鮮半島への進出を進めていた日本に対抗するため、李鴻章の命令で呉長慶が李朝末期の朝鮮半島へと配属されると、呉長慶の幕僚だった袁世凱も共に朝鮮へと送られた。
当時の袁世凱は若干二十三歳の青年だったが、赴任するや外交参謀としていきなり頭角を現す。
ほどなく朝鮮で起きた壬午政変(1882)と甲申政変(1884)にて、若き袁世凱は知略を巡らせつつ見事に鎮圧。半島情勢を清朝サイドに有利に収めた*3。
才覚を顕した袁世凱は李鴻章の信任を受け、また甲申政変と前後して上官であり恩師でもあった呉長慶も没したため、呉長慶の軍を引き継ぎ、朝鮮半島における清朝の最高司令官となった。
当時袁世凱、弱冠二十五歳。
一躍、清帝国における少壮軍人のホープとなった袁世凱は、以後、朝鮮半島における清朝の代理人として十年に亘って同地に留まり、李朝朝鮮を内政や経済までコントロールするほどの辣腕を発揮する。
袁世凱はこの朝鮮時代に、権力に初めて触れたといっていい。
また、これは袁世凱の人生にも因縁あさからぬ明治日本との初めての激突ともなった。
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◆日清戦争
しかし1894年、朝鮮の反乱をきっかけとして日清戦争が勃発。親分・李鴻章の作った虎の子の淮軍が大敗してしまう。
袁世凱も敗軍の将の一人となり、朝鮮半島を追い出された。
中国は歴史的に、平時であっても官僚や軍人の腐敗が著しい。王朝末期となるとそれに拍車がかかるのが常だ。
当時の清朝および清軍もその例に漏れず、将校は予算を横流して兵卒は騒ぐだけ、という状況であった。
中国史ではそういう軍隊も決して珍しくはないのだが*4、古来より戦争を社会への奉仕として重要視してきた西洋軍や、持ち前の生真面目さで近代戦争の規律や戦意を骨の髄までたたき込んだ日本軍には、中国らしい粗雑な軍隊ではとうてい対抗できなかったのだ。
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いや、あるいは清朝そのものが限界に達していたからだろうか。
日清戦争が起きたのは1894年。
この時からちょうど100年前、清朝はイギリス大使ジョージ・マカートニー伯爵の訪問を受け、イギリスによる対清貿易の自由化を要求されたことがある。
これに対して、齢八十代になっていた乾隆帝治下の清朝は剛柔取り混ぜた交渉を行った。
当初、マカートニーに「三拝九叩頭の礼」を求めたが、マカートニー側が拒絶したため「夷狄には夷狄の礼があろう」ということで、乾隆帝の手に接吻するというイギリス式の礼で妥協した。
しかしその「妥協」と引き換えにして、清朝はイギリス側の求めていた開港・自由貿易の要求を拒絶し、清朝が求める戦略的実益を確保できた。
当時の清朝はやや陰りの兆候こそ見えていたが、まだ剛柔取り混ぜた外交を行い、求める結果を出すだけの力と知恵があった。
しかし乾隆帝とマカートニー大使の戦いから50年を経て、アヘン密輸に始まるイギリスの卑劣な陰謀*5に清朝は対抗しきれず、「アヘン戦争」に大敗を喫したあげく、植民地として欧米列強に食い荒らされることになった。
そのアヘン戦争からさらに50年。
清朝は、かつての康熙帝や雍正帝、乾隆帝のような大皇帝がいたころの、偉大なる清朝ではなかった。
時はもはや「清末」と呼ばれる代に入っていたのだ。
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◆北洋軍閥
順調に出世の階段を上っていた袁世凱のキャリアもこれで終わりかと思われたが、この後、袁世凱は人生最大のチャンスに恵まれる。
新興国日本に大敗を喫したことで、遅まきながら近代化の必要性に気付いた清帝国は、西洋式の軍制による「新式陸軍」の創設を決意。
そしてその「新式陸軍」の創設を命じられたのが、他ならぬ袁世凱だった。
以後の数年を袁世凱は「新式陸軍」の創設に全力を尽くし、それまでの中国にはなかった近代的な軍を一から創り上げた。
彼は兵士から士官・将校に至るまで、西洋式の最新兵器と、それを使いこなすだけの技術・規律を徹底的に仕込み、精強な陸軍を作り上げることに成功。
その実力は欧米列強や日本さえも驚くほどのものである。
小柄な袁世凱のあだな「ストロングマン」は、その実力からついたものである。
この「新式陸軍」こそ、袁世凱が自分のために創り上げた人生最大の財産であり、その後の歴史における袁世凱の活躍を支える最大の基盤となった。
以後、袁世凱は麾下の洋式陸軍の増強に邁進。やがてこれは袁世凱の勢力「北洋軍閥」として成長する。
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◆戊戌の政変
洋式改革の徹底を目指したのは、なにも袁世凱だけではない。
清朝の中枢では、洋式改革の徹底を目指す「変法派」が、守旧派と激しく争っていた。
その「変法派」のボスはほかならぬ清朝皇帝・光緒帝である。彼は康有為や梁啓超ら改革派知識人の影響もあり、日本の明治維新をモデルに内政改革に着手した。
しかし、それは国内の保守勢力、すなわち清帝国の影の女帝たる西太后との対立を意味していた。
当時の清帝国は、光緒帝の伯母に当たる西太后が三十年近くにわたり権力を握っており、光緒帝の即位も西太后の後援によるものであった。
光緒帝は皇帝でありながら実権はなく、清帝国の最終決定権は西太后が握っていた。
光緒帝を中心とする新法の実施は、それまで西太后が握っていた権力が西太后から光緒帝へと移って行くことを意味する。
西太后は当然ながら若き皇帝の改革を快く思わず、朝廷内は光緒帝を中心とする改革派と、西太后を中心とする保守派に二分された。
もともとの権力は西太后のほうが圧倒的に強かったため、劣勢の改革派は武力クーデターによる巻き返しを図った。
この時にクーデターの実行役として改革派に目をつけられたのが、他ならぬ袁世凱であった。
袁世凱は「新式陸軍」の責任者だった関係上、平素より西洋の技術や新制度の導入に積極的な姿勢を取っていた洋務運動の象徴であり、世間からは改革派の一人と見なされていた。
光緒帝から秘中の秘であるクーデター計画を打ち明けられた袁世凱は、感動の面持ちで計画に賛同し、もし事あらば全軍を率いて光緒帝の下に駆けつける事を誓った。
しかし、実はこのとき袁世凱は既に保守派に繋がっており、光緒帝のクーデター計画は全て西太后の耳に筒抜けとなった。
激怒した西太后は逆にクーデターを実行。
光緒帝は宮廷の離宮に幽閉され、康有為と梁啓超は日本へと亡命、他の改革派は軒並み処刑され、改革は失敗に終わった。
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◆清朝随一の実力者へ
「戊戌の政変」で、袁世凱は世間の予想を裏切り、保守派についた。わけても、袁世凱の支持を受けたと思った西太后の喜びはひとしおであった。
しかし、それは西太后の早合点である。
1900年、「義和団の反乱」が起きる。
尊皇攘夷を掲げて欧米列強を駆逐しようとする義和団に対して、西太后は「義和団と結んで欧米列強を打ち払え!」と命令を下した。
しかし袁世凱は、西太后の命令を無視して義和団を鎮圧。
さらに北京近郊の清軍*6が列強に壊滅されるのを放置し、ライバルを減らして「中国最強の軍閥」としての立場をより高めていった。
1901年には死期を悟った李鴻章から北洋通商大臣*7・直隷総督*8といった地位も継承。
名実ともに清朝随一の実力者となった袁世凱は、実質の総理として清朝の国政をも左右するほどとなった。
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◆失脚
1908年に光緒帝と西太后が相次いで没すると、光緒帝の甥の溥儀ふぎが宣統帝として即位するが、彼はまだ二歳の幼児であったため、宣統帝の父親である醇親王じゅんしんのう・載灃さいほう*9が摂政として実権を握った。
彼は政権を握るや否や、すぐさま袁世凱から政治権力を取り上げ、袁世凱を引退に追い込んだ。
醇親王は十年前の「戊戌の政変」で、袁世凱の密告によって実兄である光緒帝が監禁された経緯をよく覚えており、袁世凱に対して強い不信感を持っていたのである。
しかし、このころの袁世凱は、もはや清朝の手に負える相手ではなくなっていた。
確かに表向き、彼は「全権を解任」されて故郷の河南省にて「隠居」したものの、北洋軍閥の実権は掌握しており、政権中枢まで届く権力ネットワークもがっちり握っていた。
失脚直後の醇親王の暗殺計画さえ事前に察知して対処するほどである。
そして、西太后もすでに亡く、屋台骨などなくなっていた清朝にとって、袁世凱は「なくてもいい」相手ではなかった。
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◆辛亥革命
1911年、孫文を首班とする革命派が、中国南部の都市「武昌」で清王朝からの独立と中華民国の樹立を宣言。
この革命、当初は大した規模でもなかったのだが、衰退しきった清朝にはこれすら手に負えなかった。
慌てた清王朝は北洋軍に鎮圧を命じるも、袁世凱の子飼いの部下たちは朝廷の命令に従わず、代わりに袁世凱の司令官への復帰を願い出た。
朝廷内の多くの重臣たちからも「袁世凱でなければ事態の収拾は難しい」という意見が出たため、醇親王も渋々ながら袁世凱の復帰に同意した。
こうして復権を果たした袁世凱は、清王朝より内閣総理大臣に任命され、反乱鎮圧のために革命軍の本拠地・武昌に向かって進軍した。
しかし「一度追放した相手を結局起用した」この顛末は、清朝にはもう袁世凱を支配できないことのなによりの証明であった。
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北洋軍を率いて武昌に攻め入った袁世凱は、まず革命軍と一戦を交え、革命軍に大きな打撃を与えた。
「革命軍」と言っても所詮はアマチュアの集まりである。戦争のプロフェッショナルである北洋軍の敵ではなく、革命政府はたちまちのうちに窮地へと追い込まれた。
しかし袁世凱は、革命軍に対する仕上げの総攻撃を一切仕掛けなかった。
それどころか、窮地の革命政府に対して「共に手を取り合って清帝国と戦おう」と持ち掛けた。
袁世凱が革命政府に突き付けた条件はただ一つ、「清王朝の打倒に成功した暁には、自分を新しく誕生する共和制政府の大総統とせよ」というものだった。
壊滅寸前の革命政府は、結局この袁世凱の要求を呑むしかなかった。
それでなくても、大した戦力などない革命軍は、袁世凱でなくとも倒せる相手である。
逆に、中国最強の勢力である北洋軍閥を「仲間」にすることができれば、「張子の虎」の革命政府は「本物の虎」になれるかもしれない。
さらに言うと、辛亥革命にはまともな指導者がいなかった。
そもそも孫文は辛亥革命に関わっていない。最初の「武昌蜂起」が起きた時、彼は遠くアメリカにいて、新聞で革命騒ぎを知った次第である。
しかもその革命勢力にも「我こそ」と名乗りを上げる指導者がおらず、慌てて帰国した孫文に「知名度のあるあなたなら」とあっさり譲り渡した始末。
選択の余地などどこにもない。むしろ、袁世凱がリーダーになってくれるというのは、革命軍にとっては僥倖でさえある。
満場一致で革命政府のリーダーとなった袁世凱は、革命軍を率いて首都である北京に進軍すると、幼い皇帝に対して退位を迫った。
すでに清朝には抵抗する術などなく、「ラスト・エンペラー」宣統帝がついに退位*10して、三百年近く続いた清王朝は滅亡。
袁世凱は、まず「臨時」がつくものの大総統となり中華民国の元首、中国の代表となった。
その三日後、袁世凱は中華民国の初代大総統に就任したのだった。
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その三日後、袁世凱は中華民国の初代大総統に就任したのだった。
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◆中華民国大総統
中国第一の軍閥にとどまらず、中国全土の元首となった袁世凱は、いよいよ中国全土の運営・統治に着手。
日本含む列強から大規模に資金を借り入れ、その資金を元手にインフラを整備。
反対する勢力が各地で反乱を起こしたが、北洋軍の力は伊達ではなく、これらの反乱をあっさりと鎮圧。
かつて「四億の人民すべてが匪賊となった!」*11といわれたほどに乱れていた中国が、袁世凱の鋭敏な手腕とどっしりとした権力によって、ようやく秩序を取り戻したのである。
西欧的な議院内閣制を訴えた宋教仁を暗殺し、反乱に関与した孫文らを追放、国民党を解散させるなどしているが、袁世凱の勢力はびくともしなかった。
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◆第一次世界大戦
1914年、第一次世界大戦が勃発する。
「世界大戦」とはいえ、「欧州大戦」とも呼ばれたように基本はイギリスなどの連合軍とドイツなどの同盟軍に二分されたヨーロッパの戦争であり、袁世凱はこれに関わろうとしなかった。
しかし日本は違った。当時イギリスと同盟を結んでいた日本は、「連合軍側の一員として、盟邦イギリスを苦しめるドイツを攻撃してイギリスを支援する」という名目のもと、ドイツが植民地としていた膠洲湾を攻撃し、これを占拠。
袁世凱はこれを「本来は中国の領土」として中国に渡すよう交渉したが、できなかったばかりかかえって「二十一ヶ条要求」を飲まされてしまう。
膠洲湾についてはドイツから日本への移動であり、戦争に関わらなかった袁世凱には関与する余地がそもそもなかったのだが、「西欧に奪われた土地の奪還」こそが問われていた当時、植民地の奪還に失敗し、あまつさえ「二十一ヶ条要求」まで受けたのは、やはり外交的な敗北といえる。
これはさしもの袁世凱の威光にも陰りをもたらすものであった。
また、袁世凱は欧米列強から莫大な資金援助を受けており、これが北洋軍閥と並ぶもうひとつの戦力であった。
しかし第一次大戦で欧米列強の目はヨーロッパ戦線に立ち返ってしまい、袁世凱への支援が薄くなっていた。これもまた、袁世凱へのダメージとなる。
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◆皇帝即位
この状況下で、袁世凱は水面下で皇帝即位運動を展開させ、表向きは「人民の嘆願に答える」という形をとりつつ、1916年の正月より正式に皇帝として即位した。
国号はズバリ「中華帝国」、元号は「洪憲」である。
袁世凱の皇帝即位は、もちろん皇帝になりたいと願う中国人らしい野心があってこそだが、同時に「混迷いちじるしい中華を束ねるだけの、強大な力を持った立憲君主制」を指向したものでもあった。
皇帝という称号は、そこに権威と権力が備われば、それだけの威信がある。
そして袁世凱は長年にわたって絶大な権力を保有しており、その実績がすなわち彼の権威でもあった。
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当時の中国に「皇帝」の称号が似つかわしくなかったというと、そうでもない。
なにせ、後年に張勲なる人物が、あの愛新覚羅溥儀を担ぎ上げて「復辟」を実行しているのだ。
この張勲復辟は無惨な失敗に終わったが、選択肢として常識の発想で十分あり得たということである。
袁世凱の「末裔」も、さすがに「皇帝」の号こそ用いなかったものの、毛沢東は明清の皇帝よろしく紫禁城の天安門で手を振り、蒋介石は台湾の政権を息子に世襲させた。孫文も、革命の時期に「明の陵墓に反清復明を祈念した」という。
皇帝という名前、あるいは皇帝という存在は、宣統帝が退位したからといってそうそう消え去るものではない。
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いやそれより、「大総統」という名前自体が「中国史」においてはなじみが薄すぎる。
「皇帝」はもう二千年以上も至高の称号であり続けた。なにより、中国の指導者は今も昔も「皇帝的」なのだ。
袁世凱は「中国第一の実力者」である。それが「中国第一の称号」を備えて、名実ともに中国代表となるのに、なんの不都合があるか、と彼が考えても不思議はない。
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◆思わぬ転落
ところが、事態は袁世凱の予想だにしない顛末を迎える。
袁世凱の皇帝即位に対して、中国内外を問わず猛烈な大ブーイングが起きたのだ。
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まず、いわゆる「進歩的」な学生たちが、袁世凱の帝号を「古くさい」ものとして激しく糾弾。
これだけならばしょせんは「権力を伴わない学生運動」であり、袁世凱にとっては取るに足らない騒ぎだったのだが、この騒ぎに各地の中小軍閥も便乗し始める。
それでも、北洋軍閥の軍事力ならば十分鎮圧できたはずであった。
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だが、「皇帝反対」の怒号は頼みの北洋軍閥の内部にも発生した。
袁世凱が中華民国の大総統であれば、袁世凱の死後、自分が大総統としてトップに立てる可能性もある。
しかし袁世凱が皇帝になってしまうと、袁世凱の死後に皇帝となるのは袁世凱の血を引く者であり、自分たちは生涯、袁王朝の家臣として生きるしかなくなる。
故に実力者ほど袁世凱の即位に難色を示した。
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これこそが袁世凱にとっての致命傷となる。
袁世凱の権力の源泉にして中枢、彼の生命そのものであった北洋軍閥が、彼の威光に従わなかったのだ。
そして第二の致命傷となったのが、袁世凱の皇帝即位に欧米列強までもが反対したことである。
袁世凱にとっては、北洋軍閥の軍事力と、欧米列強からの財政支援があっての「袁世凱皇帝」であった。
しかしそのいずれをも失った袁世凱には、もはや歴史を動かす力はなかった。
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◆天運尽きる
「龍は雲に乗り、騰蛇*12は霧のなかで戯れる。しかし雲が去り霧が晴れれば、龍はミミズや虫ケラと同じだ」
――と、春秋戦国時代の慎到はいった。
袁世凱は権力を握っている限り、元帥であり大総統であり皇帝である。
しかしその権力を失ってしまえば、ひとりの人間でしかない。
「王侯相将、いずくんぞ種あらんや」*13
――と秦末漢初の陳勝はいった。
この言葉を借りれば、袁世凱もチャンスさえあれば皇帝になることはできた。
しかしこの言葉は、帝王や将軍といえどもきっかけ次第で落ちてしまうことも意味する。
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自らの不利を悟った袁世凱は、悲願の末に手に入れた皇帝号を返上した。即位からわずか八十三日後の、三月二十二日のことである。
2137年前の始皇帝即位に始まる「中華の皇帝」は、ここにその長い歴史の幕を閉じたのである。
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これまでも袁世凱は、失脚や暗殺の危機に見舞われたことは何度もある。しかしその都度しぶとく返り咲いてきた。
念願の皇帝号にもあまりこだわらず、三カ月と待たずに返していたのも、あるいは他日の再起を期していたのかもしれない。
だが、もはや袁世凱の天運は尽きていた。退位からほどなくして病に倒れたのである。
二カ月ほど病床で憂悶した末に、1916年の6月6日、一世の梟雄袁世凱は、56歳で波乱の生涯を終えた。
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◆死後
袁世凱が死んだからとて、中華民国も北洋軍閥も滅びるわけではない。
まず、副大総統の黎元洪がくりあがって大総統に就任。
北洋軍閥の実権は、段祺瑞と馮国璋が握った。段祺瑞の一派は「安徽派」、馮国璋の一派は「直隷派」と呼ばれる。
しかしこれは、国家元首たる黎元洪は権力を持たず、国家の実権はふたつに分裂し、しかも段祺瑞も馮国璋も一抜けるような権威を持たないことを意味する。
権力と権威がバラバラになってしまったのだ。袁世凱とともに、彼が持っていた辣腕とカリスマも世を去ってしまったのだ。
かくして、落ち着きを取り戻しつつあった中華大陸はふたたび混迷に陥り、黎元洪は一年で失脚した。
北洋軍閥も分裂を繰り返し、安直戦争、奉直戦争と内紛に明け暮れて崩壊。
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だが、時代はやはり変遷する。
袁世凱の死後、かつて追放されていた孫文が帰国。政治手腕は相変わらずイマイチだったが、「大砲」といわれたほどのカリスマにますます磨きを掛けて帰ってきた。
帰国からすぐさま動き回った孫文は、袁世凱没後の翌年・1917年には広東に自らの軍閥「中華民国・広東軍政府」を設立。
その広東政府の中枢・中国革命党は、やがて「中国国民党」に改称し、いつしか中華民国の、ひいては中華大陸のリーダー、中国史の主人公として突っ走るようになる。
さらに、上海マフィア――「青幇」の大ボス・杜月笙らの支援を受ける蒋介石も、孫文に抜擢されて中国国民党から頭角を現していく。
また、第一次世界大戦の結果爆誕したソビエト連邦から社会主義運動が中国に流入し、中国共産党が出現。これはやがて孫文と連合し、そこから天才的な軍事指導者・毛沢東が出現する。
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他方で、中国第一の辣腕であった袁世凱の死は、折しも第一次世界大戦のまっただ中であり、欧米列強の目がヨーロッパに釘付けになっていた時期と重なる。
これは中国大陸進出を図っていた日本にとっては僥倖であり、日本は段祺瑞に巨額の借款を行なうなど、大陸進出を進めていくことになる。
いずれにせよ、袁世凱を通じて中国近代史が大きく進んだことに、変わりはない。
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【余談】
日露戦争
あまり話題にならないが、日露戦争では表向きは中立を表明しつつも、諜報工作などの点で日本を支援している。
袁世凱と日本は、日清戦争期には朝鮮を、第一次世界大戦では膠州湾を巡って対立したが、あくまで局面だけのことであったようである。
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世凱と孫文
中国と台湾の双方で現代中国の父とされ、高い評価を得ている孫文と比して袁世凱の評価は低い。
しかし、とにかく、袁世凱が一時的なものであったとは言え、中国の国家元首として、中国大陸を安定させたのは紛れもない事実である。
袁世凱が居なければ辛亥革命の成功は無く、中国大陸は形骸化した清王朝の支配の元、泥沼の内戦と植民地化の一途を辿っていたであろうことは想像に難くない。
だいたい孫文は革命軍のリーダーとなる素質が欠けている。ハワイ育ちの彼は長年諸外国を渡り歩いて「中国の革命家」としては知られていたが、中国本土では地縁や人脈などの権力基盤を持っていなかったのだ。
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また権力を握った後の「反民主的」な動きは後年批判されたが、中国の歴史を俯瞰すればこうした「民主的」な運動が根付いたかは極めて疑わしく、かえって混乱を招くだけだった可能性が高い。
なにせ、孫文ですらが「民主主義」についてよくわかっていなかったからである。
孫文の有名な理論に「五権主義」というものがある。欧米諸国は立法・行政・司法の「三権」が分立しているが、わが政権は立法・行政・司法に加えて「考試*14」「監察*15」を独立させた「五権」分立主義だ、といった。しかし、数を増やせばいいというものではないし、三権でも制御が難しいのに、制御がますます難しくなるのは目に見えている。
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それにほかの国の歴史を見ても、「民主主義を採用した国がすべて民主主義の思想を実行した」ということはない。
事実、袁世凱の時代から百年以上経った現在でも、中国は未だに中国共産党による一党独裁体制が続いており、選挙等による民主的な手段で政権が交代した事は皆無である。
あのソマリアも一度は民主制を敷き選挙もやったが、結果は部族主義と内戦を引き起こすだけに終わり、それから半世紀を経た現在も無政府状態である。
袁世凱だけに「民主革命を裏切った」と批判するのは、過剰なものいいであろう。彼がいなくても中国に民主主義は根付かなかったはずだ。
また、反対派を弾圧するというのはなにも袁世凱だけの行ないではない。袁世凱以前も袁世凱以後も、中国の権力者は反対派と議論したりはしない。反対勢力は力で倒す。それが中国史なのだ。
袁世凱だけに「西欧人であれ」と求めるのは酷だろう。
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ご先祖様?
袁世凱の生まれ故郷である項城県のすぐ西にあるのが河南省は周口市の商水県で、ここは三国時代の群雄、袁紹・袁術の故郷である。
同じ「袁」姓であることから何らかの繋がりがあるのかもしれない。本当に汝南袁家の末裔なのかも。
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曹丕そうひとは、三国志の人物。
英雄・曹操の息子で、魏の初代皇帝。
字は子桓。
諡は『文帝』。
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【来歴】
【公子時代】
187年に、曹操の三男として誕生。
生まれた当時は母が側室だった為、庶子という立場だった。
しかしながら才は幼い頃から非凡であり、幼くして文章を巧みに書き、剣術や馬術にも秀でた文武両道の人物だった。
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そして197年。当時、曹操は西方にて張繍・劉表の連合軍と戦っていた。
しかしその張繍は一度曹操へと降伏した。おりしも東の呂布、東南の袁術との戦いで手を焼いていた曹操は彼らの降伏を喜び、その拠点・宛城にて彼らを迎え入れた。
ところが、曹操が張繍の叔父の未亡人と密通したため、大激怒した張繍は謀反を起こした。
油断しきっていた曹操軍は壊滅し、従軍していた曹操の第一子・曹昂が戦死してしまう。
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これで激怒したのが、曹昂の養母で曹操の正室だった丁夫人。
彼女は幼くして実母に死に別れた曹昂を愛しており、女の色香に迷った挙句に死に追いやった曹操を憎み、曹操と離縁した。
これによって、曹丕の実母である卞夫人が正室に立て直され、その子である曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになった。
曹昂のほかにもう一人、曹鑠という異母兄もいたが、彼も病気で早世したため、晴れて曹操の第一後継者となる。
その後、曹操の下、副丞相となり、曹操の留守を守るようになる。
曹操から正式に太子に指名されたのは217年。
曹操が「魏王」になったのがその前年なので、「太子」という称号がついたのはこの年ということである。
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【君主時代】
220年にとうとう曹操が病没し、その後を継いで魏王に就任。
すでに漢王朝は有名無実のものとなっており、曹丕は規定コースを通って献帝に禅譲を迫り、皇帝の座に就いた。
これにより、光武帝以来二百年続いた後漢王朝は滅亡し、新たな国号を『魏』とした。
曹操=魏というイメージがあるが、曹操が存命していた頃は肩書だけとはいえ漢帝国の時代であり*1、曹丕の代で禅譲が起こった事で魏帝国は誕生する。
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一方、曹丕が漢帝国を滅ぼして魏帝国を立てたことに触発されて、劉備は漢帝国を引き継ぐ「漢帝国(蜀漢)」の皇帝を名乗り、かなり遅れるが孫権も「呉帝国」の皇帝を名乗る。
これにより、やっと形式の上でも三國鼎立を果たし、ようやく三国時代が始まるのである。
とはいえ曹操も関羽もすでに亡く、劉備も張飛も間もなく死ぬので、ここから三国志の面白さは急速に褪せていくのだが
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