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現代文学のちょっとした裏話・第5巻

1名無しのやる夫だお:2015/02/04(水) 18:08:27 ID:mA/3U2TI0
https://twitter.com/kcxxifcwsc
復活されるのを待ってます

51名無しのやる夫だお:2023/05/25(木) 12:57:07 ID:waVnZuHU0
(6)日本列島への濊人の移動



 弥生時代後期後半から同終末期、古墳時代初期にかけて日本列島に墳丘墓と初期の古墳をもたらしたのは濊人であったと考えられる。



 例えば、瀬戸内海に面した讃岐の海岸部の初期の古墳の中には盛り土をしないで積石をすることで墳丘を構築したものが幾つかあるが、これは高句麗の積石塚の模倣であり、これらの初期古墳は移住してきた濊人によって築造されたものであったと考えられる。



 また、古墳に葺石を貼るのも、その外見を積石塚に似せようとしたものであり、濊人が伝えたものがその出発点となったと考えられる。



 そうすると、山陰地方の日本海沿岸に構築された貼石墳丘墓や四隅突出墳丘墓などの墳丘墓も、その初期のものは移動してきた濊人によって築造されたものであったと考えられる。



 加えて、伊藤論文が指摘するように、濊人が漢字と中国の教養を身に着けて楽浪郡にいたというならば、朝鮮半島と日本列島を移動した「楽浪商人」にも多くの濊人が含まれていたと考えられる。



 そうすると、初期には交易のために日本列島に渡来してきた濊人のうちで、そのまま日本列島に定住し、日本列島で国内外の交易に従事し、そのことで権力を持っていった濊人がいて、彼らが、当時の朝鮮半島の先進的な墓制であった積石塚を模倣して、初期の墳丘墓や初期の一部の古墳の築造を始めていったのだと考えられる。



 これらを前提とするならば、伊藤論文が指摘する「「高句麗地名」に確実な倭語要素」の多くは、こうした濊人の日本列島への流入と、彼らと当時の日本列島の言語集団の基層集団の言語接触によって、日本列島にもたらされてものであったと考えられる。

52名無しのやる夫だお:2023/05/29(月) 20:54:26 ID:8XpkEBr.0
       ┏━━━━━━━━━━━━━━━━───
       ┃
          胡亥同様、劉邦も即位したばかりで、
                        「実」など無かった。
                                   ┃
         ───━━━━━━━━━━━━━━━━┛

                         _,,..-―‐-..,,_
                   ,,-''"       `ヽ、
                 /              l| \
                   /            U  .ヽ
                   ,'           l        ヽ
                l ____l  ヽ-―‐tイ''"´  ',‐-、        そりゃおめえ、どん百姓上がりの男が
             ,-''"|       `′        `′ .〃 .lヽ .'.,       小役人だの屠殺業者だのを率いて
             | l'´.',  ≡≡/       ヽ≡≡彡 ,'  ヽヽ_      取った天下だからな
             / |  .'.,    (    .,、   )     /  ./  ヽ、
             / \  ヽ、   ` ̄ ´ `  ̄´   / /  _,,..-'
              {   `''-‐"ヽ-..,,__      __./ ̄ ̄´ .,,..イ ∨     血筋の尊さなんざ皆無で
            /.T ‐-..__    _.ヽ ̄ ̄ ̄/,..-――‐'" /  ∨    威厳そのものもあまり無いお
          r┘ ',.    ̄ ̄  〈 ̄\ ./イ´       / /  ∨
          | ヽ-、',       /      .ヽ      //   ∨
         ./  ヽヽ .',      ロ       `ロ ヽ、 /      .∨
         /   、__ ', _/                \|    L__ ∨

53名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:14:55 ID:qdUrPfg.0
「私もだ」

54名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:19:00 ID:qdUrPfg.0
「私も好きだ」

55名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:19:23 ID:qdUrPfg.0
愚弄するような卑怯者は私たちだけでいい

56名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:19:41 ID:qdUrPfg.0
オタクを根絶やしにしたいほど憎いけどアニメが好きみたいな話?

57名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:20:00 ID:qdUrPfg.0
戦い方が卑怯でも目的が誇り高いなら問題なしやで

58名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:20:31 ID:qdUrPfg.0
『修行って何をすればいいの?』

59名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:20:47 ID:qdUrPfg.0
「私と同じくらい」

60名無しのやる夫だお:2023/11/24(金) 20:21:10 ID:qdUrPfg.0
「一生だ」

61名無しのやる夫だお:2023/11/29(水) 22:32:12 ID:1L5nS.T.0
千葉科学大学

62名無しのやる夫だお:2023/12/04(月) 08:54:57 ID:EusjwG3Y0
王必や陸遜の例にあるように、後漢末から三国時代頃だと「孝廉や茂才になる」というのが一種のステータスだったらしいので、それを経由しなかったらしい袁紹はなかなか面白い存在だ。



縁故採用だったと思われるが、縁故だけでは出来なさそうな勢力を思ったより短期間で構築しているわけだから。




それとも、それほどに縁故の力が凄いのだろうか?


本人は反社会的人物との付き合いばかり記録に残っている気もするが。

63名無しのやる夫だお:2023/12/10(日) 20:01:28 ID:vkMb1ux60
曹爽は元々おっとりした性格、いわば貴公子であった。
曹叡から気に入られ、それが遺詔を託すことになる。
曹叡は基本的に直言は好まない。
基本的に曹叡自身の勅裁を好む。
後付けのような気もするが、
曹叡即位直後に魏明帝曹叡に謁見した劉曄の評価が下記である。
「秦始皇や漢武の風を持つが、この2人にはわずかに及ばない」
秦の始皇帝、漢の武帝は、自身の勅裁を好み、
武力で他国を滅ぼした皇帝である。
これに近いと言っている。また、宮殿の造営など大規模土木建築に
対する皮肉も入っている気がする。

64名無しのやる夫だお:2023/12/12(火) 19:44:42 ID:qesv7BLI0
「アヌンナキ」という言葉は、古代メソポタミアの神々の一群を指す言葉であり、天空の神アヌと大地の女神キの子孫であるとされています12. 1: Wikipedia 2: Wikipedia

65名無しのやる夫だお:2023/12/13(水) 05:20:16 ID:05mhYcAI0
◆ぼくにとっての盧俊義の扱い
盧俊義には、関西・太行山系の首領として、返り咲いてもらいたい。

『宣和遺事』で、花石綱を運ぶ「楊志・李進義・林冲・王雄・花栄・張青・徐寧・李応・穆横・関勝・孫立」は、盧俊義をトップにした人脈を形成してもらいたい。

『水滸伝』のなかで、いまいち、晁蓋・宋江の「本紀」となじまない人々は、この関西・太行山系ではないか。

関西といえば、列伝の筆頭をかざる、史進・魯智深あたりも、関西のひとである。『水滸伝』は、はじめ、王進が延安府にむかうから、関西の話なのだ。



宋江・晁蓋といった、関東・梁山泊系のひとたちの本紀と、盧俊義・楊志・林冲・史進・魯智深といった、関西・太行山系のひとたちの列伝(というより、もはや載記)が並立する。さいごには、関東が関西を吸収する。

という構造をもった『水滸伝』は、どうでしょう。

66名無しのやる夫だお:2023/12/14(木) 18:28:26 ID:clrj5.y.0
天下も何も人と話題を共有できないのだから流行りようがない

67名無しのやる夫だお:2023/12/14(木) 18:56:22 ID:clrj5.y.0
ドナルド・トランプとか金正男は名前そのままなの草生える

68名無しのやる夫だお:2023/12/14(木) 19:12:43 ID:clrj5.y.0
主人公の名言が「また差別か、チョッパリらしいなw」しかないのが弱い

69名無しのやる夫だお:2023/12/14(木) 19:13:12 ID:clrj5.y.0
主人公の名言が「また差別か、チョッパリらしいなw」しかないのが弱い

70名無しのやる夫だお:2023/12/14(木) 19:19:27 ID:clrj5.y.0
全方位を敵に回すことで特定の誰からも叩かれないようにしていくスタイル

71名無しのやる夫だお:2023/12/28(木) 12:06:35 ID:wuqYCVSs0
「白帝の祭祀は春秋以前よりのことであるが、四帝の祭祀は霊公以来のことで、やがて黄帝説をとって五帝を祀るに至った」

72名無しのやる夫だお:2023/12/30(土) 18:53:30 ID:pHYedlSE0
「初期国家に仲間の野蛮人を売ることと軍事的に奉仕することによって、野蛮人は、自分たちの短い黄金時代の終焉に大きく貢献していたのだった」

73名無しのやる夫だお:2023/12/31(日) 18:55:47 ID:bt1IVjUI0
「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕 朝鮮在列陽東海北山南」(「山海経」)

74名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:27:11 ID:/yEKUOtI0
やっとの思いで逃げ延びてみれば

75名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:35:42 ID:/yEKUOtI0
2015/02/04(水) 18:08:27

76名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:39:10 ID:/yEKUOtI0
……どーいう最期だ

77名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:41:56 ID:/yEKUOtI0
どちらが優れていると思う

78名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:43:28 ID:/yEKUOtI0
どちらが優れていると思う

79名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:45:04 ID:/yEKUOtI0
どちらが優れていると思う

80名無しのやる夫だお:2024/04/04(木) 12:46:04 ID:/yEKUOtI0
どちらが優れていると思う

81名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 08:39:24 ID:/SD22juM0
「いや、実際に『岑昏が百人余りを引き連れて頭を床に叩きつけ、寛大な処分を求めた』とある」

82名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 08:45:29 ID:/SD22juM0
2015/02/04(水) 18:08:27

83名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 08:58:46 ID:/SD22juM0
沈瑩:この牛渚で王濬を防ぐべし
「長江沿岸には頼れる人材がおらず、晋の水軍を防ぐことはできない。この地に駐屯して水軍と決戦すべきだ。水軍さえ打ち破ってしまえば、長江北岸がいくら占領されようとも奪還できる。逆に長江の北岸で決戦を挑んで勝利しても、北岸を維持することができない。最後の切り札である我らが敗れたら、呉の滅亡は必至となろう」
張悌:長江を渡って王渾を討とう
「牛渚で防御するとなると、晋軍は建業近くまで来ることになり、民衆に不安が広がって取り返しのつかないことになりかねない。それに、敵を待つ軍隊は士気が下がり、戦わずに分裂してしまうだろう。ここは長江を渡って決戦し、勝利して北からの脅威を取り除こう。その勢いを維持して長江をさかのぼれば、進軍してくる敵を倒すこともできる」

84名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:06:41 ID:/SD22juM0
諸葛靚「国家の存亡をあんたひとりで背負うつもりか! この場を逃れるべきだ!」
張悌「靚殿、私はかつてあなたの家の丞相殿から抜擢されたのですよ。死ぬべきときに死ななければ、孔明殿の知遇に反することになります。きょうこそが、私の死ぬべき日です。……悩ませないでください」

85名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:28:20 ID:/SD22juM0
「いちおう云っておくと、現代日本ではそんな姑、珍しくも何ともないぞ」

86名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:29:34 ID:/SD22juM0
今から浣腸を使います。

87名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:29:47 ID:/SD22juM0
今から浣腸を使います。

88名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:30:13 ID:/SD22juM0
今から浣腸を使います。

89名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:40:33 ID:/SD22juM0
いちおう云っておくと、現代日本ではそんな姑、珍しくも何ともないぞ

90名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:42:47 ID:/SD22juM0
司馬師に息子が生まれないモンだから、自分の子を司馬師の養子に出して、死後には家督を継がせていた。そのうえで『この天下は兄者が得たのであって、俺の功など何もない!』とか何とか云いだした

91名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:50:35 ID:/SD22juM0
司馬師に息子が生まれないモンだから、自分の子を司馬師の養子に出して、死後には家督を継がせていた。そのうえで『この天下は兄者が得たのであって、俺の功など何もない!』とか何とか云いだした

92名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:51:13 ID:/SD22juM0
「これには、司馬炎より聡明とされる司馬攸を自分の後継者にしたい、という感情もあったのは云うまでもない。だが、長子相続でなければ袁紹・劉表、そして孫権の轍を踏むことになりかねない。踏むなら曹操-曹丕ラインが理想だが、ここで影響したのは、司馬師の死後に司馬攸ではなく司馬昭が後を継いだという事実でな」

93名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:51:28 ID:/SD22juM0
「父や同腹の兄が弟の下について後見するワケにはいかんだろうな」

94名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:51:50 ID:/SD22juM0
「そゆこと。司馬師の死後に司馬攸が司馬家の家督を継いだら、順番がおかしくなる。ために、司馬家の家督は司馬昭に移り、司馬昭はそれを利用した。兄が得た天下なのだから、兄の後継者が天下を継ぐべきだ……と、公言こそしなかったものの、自分のあとは司馬攸に継がせると暗示したンだ」

95名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:52:08 ID:/SD22juM0
「司馬炎と司馬攸が12歳違いなのが割と大きい。司馬昭の意をくんで司馬攸に近づく輩には、司馬攸が幼いから扱いやすいと踏んだ輩もいるだろう。司馬昭の死後に幼い司馬攸を操り、権勢を得ようと考える輩だ。司馬炎にとっては敵であると同時に、厳密には司馬家全体の敵なんだが、往々にしてこういう輩は少なくない」

96名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:52:24 ID:/SD22juM0
「司馬攸が司馬師の家督を継いだのは8歳のとき、司馬師の死んだ255年だが、司馬昭の後を継ぐのが司馬炎・司馬攸のどちらなのか決まったのは、その10年後の265年だった。表面だって揉めた記述はないが、水面下では司馬炎派・司馬攸派に分かれての抗争が続いていたのは考えるまでもない」

97名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:53:02 ID:/SD22juM0
そして、今回も兄が勝った。『長子が後を継ぐのが正しいのです』と司馬炎派の連中が主張したのに、司馬昭も折れたということになるが、武帝紀では、司馬炎は『とても誰かの臣下におさまるタマじゃありませんぜ』とされ、見方によっては『炎殿下が後継者でなければ、我らは炎殿下について叛逆しますよ』とさえ云っているンだ」

98名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:53:23 ID:/SD22juM0
「でも、仕方ないと思うぞ。呉が健在なのにたかだか18歳の後継者なんて立てたら、つけいる隙を自分たちで作るようなモンだろう」

99名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:53:36 ID:/SD22juM0
「そゆこと。そんなワケで司馬炎は晋の王太子たりえた(3ヶ月後に司馬昭死去)が、この瞬間、司馬炎の政治的な立場は地に落ちた。何しろ彼は、家臣たち王太子にしてもらい、そして皇帝にもしてもらったことになるからだ」

100名無しのやる夫だお:2024/04/11(木) 09:53:51 ID:/SD22juM0
「司馬炎派、が具体的に誰かと云えば、まず何曽(カソウ)。晋の建国に併せて丞相となり、先の台詞で司馬炎を推した張本人だが、もともと魏で司徒だった割に晋代ではそれほどの働きはない」


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