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やる夫は能力者ですが、そんな事より腹が減ったそうです 2スレ目
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┃.〜 やる夫は能力者ですが、そんな事より腹が減ったそうです 〜.. .┃
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.. ´:::::::::::::::::::::::::::::::::::: へ. ※注意点
――― 現時点で、100話超える予定 ::::::::::::\\
/ :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ:\ ・筆者は 『 やる夫スレ初投稿 』 です。
/ :::: まだ14話。終わりは見えるのか?――― 拙い点も多々あると思いますので、
′:::::::::::::::::::::レ ´...-―── - ミヽ:::::ト:::::::::::::::::-... 色々と教えていただけると幸いです。
| ::::::::::!::::::::::::|/:::::::::::::::::::::::::::::::、::::Y:::l!:::::::::::::::::::::::
| ::::::::::!::::::::::::|::::::::::/1::::::'.:::::::::!:::::::::::::::i!::::::::::::::::::::::: ・一応 『 オリジナル作品 』 ですが、
| :::::::イ!::::::::::::|::::::::.' !:::::ハ :::::i:::::|::::|::::i!::::::::::::::::::::::: .『 何処かで見た設定 』 等も
'. ::/ |::::::::::::::|__::/_|::/ _'_::ハ__j_: |::::i!::::::::::::::::::::::: 入ってくると思います。筆者は影響を
V::{f|::::::::::::::|:::/ j/ V V|:::从リ:::::::::::::::::::::::: 受けやすい人なので、ご了承願います。
| :ゝ :::::::::::::|/弋ゥテ ぅテ1!:ヽ:::::::::::::::::::::::::::
| ::: | ::::::::::::| . 八:::::ヽ:::::::::::::::::::::: ・超能力者が出ますが、
ゝ : | ::::::::::::| _ イ::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 『 バトル物ではなく日常物 』 です。
\ : ::::::::::|:> _ r<:::::|:::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 各々の趣向に合うかご確認願います。
\:::::::::ヽ: ̄/ー「:::::`ト┬「フ ⌒ヽ::::::::::::::::::::::
――― 大丈夫 ――― !::::::ト .._::::: ● 『 完 全 脳 直 』 で作成しています。
/ ヽ| !:{_ヽ::::::\¨「、 ̄ ::::|| !::::::|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
.′ |::::::¨:ヽ:::::::\iハ :::::::|| //| ::: | 辻褄を合わせる努力はしますが、
――― 終わりは必ず訪れるから ゝヽ::::|| .'/ i| ::: | 設定に矛盾が生じる可能性があります。
く\ |!:::::::://::>‐<| | V / /イヽ |:::::ノ― - _ ご注意下さい。
/ \\ | |::/'/ // ⌒ヽ| |ヽ/ /、:::\/ >−-‐<:::::::::::::::::::: ヾ|:: ノ
/ \\ / | |// ! きっと、完走してみせるから ヽ:::::::::::::::::::/
′ |/\\ | |/ || ヽ′ | ー───── }::::::::::::::::::: !
/ ! \ | | ! || | (震え声) ―――:::::::::::::::::::ノ
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王莽は、昭帝のときの霍光を先例にして、外戚になろうとした。自分の娘を皇帝に娶らせるんだが、また面倒くさいことをやった。
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まず、王莽の提案。
「皇后を選ぶなら、12人の候補を名門から挙げるのが礼です」
こう言っておいて、自分の娘を混ぜた。だが、
「私の娘は徳がないから、きっと選抜を勝ち残ることはできない。12人の中に混ぜるのは辞めよう」
と恐縮し始めた。元后は誠実なことだと感心し、
「王莽の娘を、候補者に入れるな」
と命じた。
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すると1日に1000人以上の人が、
「功勲のある王莽さまの娘が、初めから皇后の候補から漏れているなんて、いけない。天下の秩序が保たれない」
と訴えて押し寄せた。
王莽はいちいち反論の使者を出したが、逆効果だった。元后は、
「もういい。王莽の娘を、皇后にせよ」
と命じた。だが王莽は、
「いえいえ、12人の中から広く選ぶべきです」
と譲らない。王莽の娘に皇后の器量があるか、役人が次々と面会に行き、申し分ないという回答を得た。元后は占いをやり、吉が出たので、やっと皇后が決定した。
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平帝も王莽の娘も、13歳だった。
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王莽の娘を推す声を集めるため、腹心による世論操作の働きかけはあっただろう。
だが王莽は、正当な方法で政治改革や恤民政策をやっており、王莽に対する評価が相当に高かったことも否定できない。王莽は、政治的嗅覚によって、見極めが付いていたんだろう。
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周公に比す
王莽は、伊尹が就いた「阿衡」と、周公が就いた「太宰」をドッキングさせて、「宰衡」という新ポストを作った。
三公が宰衡に何か言うときは、
「敢えて之れを言う」
と前置かねばならないルールだった。これは下から上に発言するときの慣用句。つまり、宰衡は三公より上に位置づけられた。
「宰衡・太傅・大司馬印」
という印璽を新作した。
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王莽が周公にこだわったのは、古文経学の聖人として、周公が祭られていたからだ。王莽は、政治の立場も、支持する学派も、周公と関わりが厚かった。
ちなみに今文経学の聖人は、孔子です。
周公は、天子として群臣に接したという学説があり、王莽は自分と重ねた。ただし周公は、大人になった成王に政権を返上した。この時点で王莽は、まだ皇帝になるつもりはなかった。これが東氏の意見。
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王莽は、地方行政区画をした。州を再編し、地方から上がってくる人材は王莽が全員面接することにした。王莽にとってのイエスマンばかりが、任用される仕組みができた。
儒教に基づく祭祀や建築物を、整えた。
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「周公でさえ、摂政になって7年目に、やっと制度を定め始めた。だが王莽さまは、たった4年で終わらせてしまった」
これは、群臣からの上奏です。
「明堂(儒教の施設)は、1000年間も建てられずにいた。だが王莽さまが工事を命じた翌日には、10万人の学生・庶民がボランティアに駆けつけ、20日で完成した。尭や舜が洛陽を作ったときでも、これほど早くなかった」
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この文は、どこへ行くかと言うと・・・
「だから王莽さまは、九錫を授けられるべきだ」
となります。
九錫が授けられるのは、史上初。以後、曹操をはじめとして、禅譲のためのステップとして、真似されていく。
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「劉氏しか王にしてはいけないという劉邦の遺言が生きていた。だから王莽は、皇帝の前段階として、王にならなかった。安漢公は、後世の王位(曹操の魏王、司馬昭の晋王など)の代わりである」
と指摘した。
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後5年、平帝が病没した。王莽が毒殺したという説があるが、『漢書』に記述のないことである。後漢になって挿入された注にあり、『資治通鑑』が採用してしまった。
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「定かではない毒殺説に拠って、王莽の人柄や政治を悪辣に言うのは、良くない。宮中のことだから、真実は不明だ。残された道は、政治状況や王莽が自分のポジションをどう捉えていたか、政治的願望や意欲や心理状態を勘案して、毒殺を決断する確率を測定することだ」
みたいに述べている。
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「王莽はすでに政治的最高権力者の地位を確立していた。だから、『簒奪者』という評価は、漢の血統を重んじる立場からは出てきても、政治や社会秩序安定化の必要性の観点からは生じにくい。当時の政治や社会の状況からすれば、王莽の政治権力掌握、皇帝即位は是認される、という評価もまた一理を有するのではなかろうか」
とある。
なぜこんなに熱っぽいかと言えば、次の章のタイトルが「摂皇帝となる」だからだ。山場なのだ。
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平帝が死ぬと、七廟に葬った。トコロテン式に、王莽と対立した哀帝が、七廟から外された。
後継者は、宣帝の玄孫23人のうち最も幼い、2歳の劉嬰が選ばれた。
「占いの結果が、いちばん良かった」
が理由だが、王莽が政権を取り続けるための口実だ。
この新しい皇帝は、周囲の人との会話を禁じられた。だから、六畜(馬・牛・羊・豕・犬・鶏)の名前すら言えなかった。
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後5年末、謝囂が上奏した。
「武功県の人が、井戸をさらったら、白石を得ました。安漢公莽に告ぐ、皇帝となれ。朱で文字がそう書いてございました」
元后は、
「これはイタズラだ。無視せよ」
と取り合わなかったが、要職の王氏が、
「天からの通達があったことに、逆らえません。きっと王莽に皇帝の役割を摂行させよという意味でしょう」
と言ったから、王莽は摂皇帝と呼ばれた。
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後6年、王莽への叛乱が、宛県を攻めた。
「王莽は劉氏から政権を奪うだろう。漢の皇族として、恥に思う。劉氏の私が先駆ければ、天下が呼応するだろう」
と安衆侯の劉崇が立ち上がった。一瞬で片づけられた。
つぎの翟義の叛乱は、
「王莽は平帝を毒殺した」
と決め付けた檄文を飛ばし、山陽郡で10万人に膨らんだ。王莽は食事が喉を通らなくなったが、
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「周公のとき、管と蔡(いずれも小国)が逆らった。周公のような聖人ですら、叛乱を懼れた。まして私など」
と、ふたたび周公に自分を重ねて、心に折り合いをつけた。同時に、自分が周公の立場だと宣伝した。
陳留郡で王莽軍は大勝して、翟義は長安で磔にされた。
長安の西方でも呼応があり、その戦火を王莽は、孺子嬰を抱いて長安から眺めた。
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この戦勝で、王莽は「天と人の助力を得た」と解釈し、12月に帝位についた。こう因果関係を語るのは、『漢書』だ。
「翟義の叛乱は、王莽の皇帝位への願望を現実化させるひとつの契機となった」
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大きな叛乱を受けても、将軍たちは王莽のために戦ってくれたし、そして勝ったのだ。勢いは、王莽にあった。
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後7年、戦勝した将軍が戻ると、王莽は周の五等爵に基づいて、公・侯・伯・子・男の位を与えた。秦漢でつかった二十等爵制をやめて、周代に戻したことになる。
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王莽は、名声のある人士招いたが、失敗もした。
「賢者を招致できない君主は、不徳なのだ」
儒家のロジックから見れば、「そうなっちゃう」ので、王莽は懼れた。従わない人は、法の網に引っ掛けて、自殺させた。士人が新王朝を支持するかどうかは、王莽が摂皇帝だった時期に、ほぼ見極められた。
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後7年、「符命」が続々と奉られた。
符命とは、木の札を2つに折ったもの。権力から与えられた、命令や恩恵を証明するもの。
各地から、
「摂皇帝は、真皇帝となるべきだ」
というメッセージが届いた。董仲舒が体系化した災異説に重ね合わせ、符命が未来の兆しを示すと考えられた。
前例がある。前漢の宣帝は、虫が食った葉が、
「公孫病已立」
と読めるから、即位できる予兆だと喜んだ。彼の名は、劉病已だった。果たして継承権のなさそうだった劉病已は、皇帝となれた。
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後8年11月21日、王莽は元后に、符命の言葉を報告した。
たった4日後、
「王冠を御し、真天子の位に即き、天下を有するの号を定めて、新と曰わん」
と元后に報告し、王莽は早業で皇帝になった。このとき54歳。
2001年に長安城から出土した祭文を刻んだ玉から、王莽が泰山で封禅する準備をしていたことが分かった。叛乱軍に敗れて、実現しなかったが。
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王莽の弟が、元后のところに来た。元后が持っている、漢の伝国璽を回収するためだった。
元后は罵った。
「私たち王氏は、漢家のおかげで代々富貴となれた(元后は王莽の伯母だ)。だが恩返しをせず、父のいない幼い皇帝の隙を見て、国を奪い取るとは、何事か。人間もこうまで悪事をすれば、その食べ残しはイヌやブタも食べないでしょう」
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さらに言う。
「広い世界に、お前たちの兄弟のような奴は、いないよ。もし王莽が皇帝になると言うなら、自分で伝国璽を作って、万世に伝えたら良いでしょう。どうして漢家の伝国璽を、奪いに来るのかね」
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ここからが、心に染みる名言!
「私は漢家の老寡婦だ。もうじき死ぬでしょう。死んだら、漢家の伝国璽とともに葬ってほしいと思っている。王莽に渡すなど、できない相談だ」
元后は、涙を落とした。
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回収の使者は、
「私の力では、元后さまを説得することは出来ませんね。しかし兄(王莽)は、絶対に伝国璽を受け取るつもりです。いつまでも、頑張っていられるものでしょうか」
元后は甥の王莽が恐ろしくなり、
「私は年老いた。すでに死んだようなものだ。お前たち兄弟は、いまに族滅されるだろう」
と叫ぶや、伝国璽を地面に投げつけた。
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お気づきでしょう。この伝国璽は、孫堅が洛陽の井戸で発見し、孫策が兵を借りるために、袁術に差し出したものと同じです。史実とか小説とか、そういう話は今日はナシで(笑)
三国志の名場面。
「女官の死体が、印を帯びていた。何だこれ?」
「ああ、これは確かに伝国璽です。手放した人が天下を失い、手に入れた人が天下を取るという品です」
「ホンモノかね」
「もちろん。その証拠に、カドが欠けているでしょう。これは200年前、元后が王莽に怒り、投げつけたときに欠けたのです」
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『漢書』によれば、伝国璽は始皇帝の持ち物だった。劉邦が、秦王子嬰から献じられたもの。
だが栗原朋信氏よれば、伝国璽が文献に表れるのは、光武帝の頃から。後漢が、前漢の継承者としての立場を主張するために、伝国璽というアイテムを作ったのだと。栗原氏は、『漢書』に伝国璽を投げつけるくだりがあるのは、
「王莽がやったのは、禅譲じゃなくて簒奪だ」
と班固がアピールするためだったと考えた。
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即位の論理
『礼記』によれば、
「天下は公のもので、私の家が独占してはいけない」
となる。
王莽が劉氏から奪うこととは、『礼記』で根拠づけることが出来る。王莽は、前代皇帝(劉嬰)から禅譲の意思を聞いていないから、
「上帝から劉邦の神霊に命令が下り、漢は新に国を譲った」
という理屈づけをして、正当化した。
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「漢代皇帝の神秘的権威は、どのように賦与されるのか。(上帝に天命を授けられた)祖霊(劉邦・劉秀)に承認されることで、賦与されるのだ」
と論じた。
この延長で考えると、劉邦が異姓の王莽を、ご親切に承認してくれるわけがない。
だが王莽は、
「劉氏の祖先は尭で、王氏の祖先は舜だ。尭は舜に禅譲した。劉邦は劉氏しか守らないという、セコい人ではない。劉邦は祖先の尭を見習って、劉氏から王氏への禅譲を支持してくれる」
というストーリーを描いた。
強引だが。。
だから王莽は、劉氏を否定しない。劉氏を優遇したし、漢の歴代皇帝の廟にせっせと参っている。
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高祖への畏れ
皇帝の孺子嬰は、定安公に降格された。
5県の封地を与えられ、漢の祖先廟をその地区内で祭らせた。正朔や服色は、漢のものを使い続けることを許された。新王朝の「賓」の待遇とされた。
劉嬰の新しい身分を発表し終わると、王莽は劉嬰の手を握った。王莽はシクシクとすすり泣き、
「むかし周公は摂政しましたが、成王に政権を返すことができました。だが私は、皇天の威命に迫られて、政権を漢室に返せませんでした」
と弁明した。
劉嬰の中傅(もり役の宦官)が手を取り、劉嬰は殿を降りた。劉嬰に北面させて、
「臣」
と称させると、百官はみな感動した。
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劉氏の叛乱が山東で起こったが、広がらなかった。王莽への期待が大きく、叛乱が拡大する条件が、まだこの時期には整っていなかった。
叛乱より怖いことがあった。
長安に住む狂女が、
「高祖皇帝が、お怒りになっている。すみやかに我が国を返せ。さもなくば、9月にはきっと王莽を殺してやる」
と叫びながら、道を歩いた。
これはきっと巫女で、王莽が高祖廟に参拝することを踏まえて、触れ回ったのだろう、と。王莽は直ちに、この女を殺した。
王莽が劉邦を畏れる気持ちは強まった。
のちに兵士を高祖廟を派遣して、剣を抜いて四面を殴り、斬らせた。斧で、戸や窓を壊させた。 屋根や壁に、桃湯を撒かせ、赤いムチで打たせた。自然科学から見たら無生物の、廟をやっつけた。
気持ちが収まらず、一部隊を高祖廟に留まらせた。劉邦の神霊から、新王朝を「守備」したのだ。
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「黄龍が堕ちて、黄山の宮中で死んだ」
という訛言(流言)があった。
黄龍とは、新王朝のシンボルカラーを踏まえたもの
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黄巾も曹魏も孫呉も、漢を継ぐものを自称したから、黄色をシンボルに選んだ。200年を隔てたが、王莽と同じです。
もともと王莽がシンボルカラーを選ぶとき、諸説ある漢の徳の種類の中から、火徳を選んだ。
「漢は火徳(赤)だから、次は土徳(黄)」
だと固めたのは、王莽だ。三国志への影響は大きいなあ。
ちなみに、
龍が死んだ場所は、前漢の恵帝のときに建てられた宮殿。武帝もよく微行した。元后も遊びに行ったし、王莽も付いていった。王莽ゆかりの場所なだけに、不吉っぽさが膨らむ。
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新官制を発布した。『礼記』に基づき、名称にこだわった。官名を変更するときは、建築物や地名も、一緒に変えた。
「必ずや名を正さんか」
と『論語』にあるが、王莽の礼楽好みの性癖も手伝い、とても凝った作業になった。漢の官名は、秦を引き継いだものが多かったから、王莽は徹底的に匂いを消した。
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地名は、ひどいところでは5回も変更され、元に戻されたりもした。住民は置いてきぼり。
詔書を下すとき、わざわざ旧名を括弧書きしなければ、誰もどこの話なのか分からなかった。
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度量衡を整え、貨幣体系を改め、王田制を布いた。
土地政策というのは、ぼくにとっては、
「歴史学の古戦場、いまや地雷原」
みたいな分野だ。東氏が概説した研究史を、このページでまとめることができません。大論争が終わった後に歴史学を知った若者が、フラフラと足を踏み入れようなら、ドッカンドッカンと残留した地雷が弾ける。そして一生、帰って来れないはずだ。
平たく言えば、
「哀帝の限田制も、王莽の王田制も、史料があまり残っていないので、実態がよく分からない。正史を執筆した人の関心も薄いしね」
だが、日本の戦後歴史学がそんな開き直りを許すわけがなく。
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武帝のとき、匈奴と抗争しまくったが、国費が尽きた。割に合わないから、武帝以降の前漢では、匈奴と仲良く折り合ってきた。
だが王莽は異民族に対して、失礼な外交をしたから、関係がこじれた。儒教の読み物に書いてある「華夷」の観念を、杓子定規に持ち込んだのがいけなかった。
匈奴と戦うために、国境に物資を運んだ。これが社会不安をもたらし、王莽政権の崩壊の一因になった。
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王田制も貨幣施策も失敗して、重臣の諌めによって撤回した。
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豪族・民衆の叛乱
瑯邪郡の呂母という女が、息子を県役人の殺された。復讐のために財貨をバラ撒き、兵士を集めた。復讐に成功した後、兵士たちは赤眉に吸収され、叛乱集団に成長した。
「とにかく討てええ!」
王莽は、青州・徐州に大討伐軍を送る。
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「 なぜ民衆が盗賊になるか、王莽は無理解だ」
と言い、王莽が兵を派遣する弊害を指摘する。東氏は、王莽が知らなかった正解を以下に示した。
長いけど引用する。
「民衆は食えないから、略奪し、山や沢に入って食料を求めるに過ぎず、討伐軍に対しては身を守るためにやむなく戦わざるを得ず、その戦闘によって政府軍の指揮者が戦死したり傷ついたりするのである。これを政府に歯向かう不届きな者と断罪するのが、中央にぬくぬくと居て地方の実態が見えない者の習癖ではあろう」
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討伐を任された将軍も、
「軍を送るという方法では、盗賊の発生は解決しません」
と反対したものだから、王莽は将軍を解任した。そのせいで、山東地方は瓦解した。
「王莽には戦略的発想がない、と思わざるをえない」
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王莽の孤独と狂騒
王莽の妻が死んだ。息子たちが自殺させられたから、ショックで失明していた。 不法行為をした子や孫を、王莽はコンスタントに殺した。
「大義、親を滅す」
という信念のもと、王氏に罪人を置くわけにはいかなかった。
方術に凝り始め、「登仙」を願った。
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すでうよるなに良善で界世なDAM\Bは夫るや
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やる夫は能力者ですが、そんな事より腹が減ったそうです 2スレ目
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やる夫は能力者ですが、そんな事より腹が減ったそうです 2スレ目
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