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機動戦士ガンダムスポコーン

1 ◆lmbw1.KzJw:2014/04/06(日) 23:33:58 ID:P7xpOlYQ0
その内投下します

951名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:56:51 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いた次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

952名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:57:14 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

953名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:58:07 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回ってきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

954名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:58:37 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度と会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

955名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:59:20 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

956名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 18:59:52 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてくれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

957名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:00:15 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

958名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:00:49 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

959名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:01:12 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

960名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:01:34 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』時代時代の支配者たちが、常に恐れていたのが涼州勢力なんだよ。異民族から漢土を守り、卓抜した軍事力を有するこの集団を、董卓も李・郭も、そして曹操も恐れ続けた。その涼州出身だった前者3名は、涼州勢を手なずけることで無力化したつもりになっていたけど、曹操は違った。曹操は、断固たる態度で涼州を平定することで、それを自軍に編入し、さらなる高みを目指すに到った。漢土十三州、ついに涼州にまで曹操の旗が翻った
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかこととなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

961名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:02:07 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』時代時代の支配者たちが、常に恐れていたのが涼州勢力なんだよ。異民族から漢土を守り、卓抜した軍事力を有するこの集団を、董卓も李・郭も、そして曹操も恐れ続けた。その涼州出身だった前者3名は、涼州勢を手なずけることで無力化したつもりになっていたけど、曹操は違った。曹操は、断固たる態度で涼州を平定することで、それを自軍に編入し、さらなる高みを目指すに到った。漢土十三州、ついに涼州にまで曹操の旗が翻った
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかことまだいい。以前触れた通り、益州は、亡き劉焉が謀略で支配するに到った土地なんだけど、その謀略のゴタゴタで漢中……涼州・司隷に面する要害の地に、五斗米道教団という道教系の武装集団が根付いてしまった。三代教主の張魯は切れ者で、益州の支配から逃れ、朝廷に自治権を認めさせているとなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

962名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:02:39 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』時代時代の支配者たちが、常に恐れていたのが涼州勢力なんだよ。異民族から漢土を守り、卓抜した軍事力を有するこの集団を、董卓も李・郭も、そして曹操も恐れ続けた。その涼州出身だった前者3名は、涼州勢を手なずけることで無力化したつもりになっていたけど、曹操は違った。曹操は、断固たる態度で涼州を平定することで、それを自軍に編入し、さらなる高みを目指すに到った。漢土十三州、ついに涼州にまで曹操の旗が翻った会うなりいきなり『益州からは貢物が来なかったがどういうことだ?』と、曹操が云いだすんだよな。さすがにかちんと来た張松は『街道に賊が出るので輸送もままなりません』と応える。曹操が『バカ云え、ワシが天下を治めているのに、どうして賊が出ようか』と云うと『孫権あり、劉備あり、張魯あり……これでどうして天下を治めたなどと云えましょう』と張松が応えるモンだから、曹操怒って退席する、だったな
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかことまだいい。以前触れた通り、益州は、亡き劉焉が謀略で支配するに到った土地なんだけど、その謀略のゴタゴタで漢中……涼州・司隷に面する要害の地に、五斗米道教団という道教系の武装集団が根付いてしまった。三代教主の張魯は切れ者で、益州の支配から逃れ、朝廷に自治権を認めさせているとなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移したのね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

963名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:03:11 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』時代時代の支配者たちが、常に恐れていたのが涼州勢力なんだよ。異民族から漢土を守り、卓抜した軍事力を有するこの集団を、董卓も李・郭も、そして曹操も恐れ続けた。その涼州出身だった前者3名は、涼州勢を手なずけることで無力化したつもりになっていたけど、曹操は違った。曹操は、断固たる態度で涼州を平定することで、それを自軍に編入し、さらなる高みを目指すに到った。漢土十三州、ついに涼州にまで曹操の旗が翻った会うなりいきなり『益州からは貢物が来なかったがどういうことだ?』と、曹操が云いだすんだよな。さすがにかちんと来た張松は『街道に賊が出るので輸送もままなりません』と応える。曹操が『バカ云え、ワシが天下を治めているのに、どうして賊が出ようか』と云うと『孫権あり、劉備あり、張魯あり……これでどうして天下を治めたなどと云えましょう』と張松が応えるモンだから、曹操怒って退席する、だったな
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかことまだいい。以前触れた通り、益州は、亡き劉焉が謀略で支配するに到った土地なんだけど、その謀略のゴタゴタで漢中……涼州・司隷に面する要害の地に、五斗米道教団という道教系の武装集団が根付いてしまった。三代教主の張魯は切れ者で、益州の支配から逃れ、朝廷に自治権を認めさせているとなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移した対する張松は笑顔さえ浮かべて『西川では仁義もて人を治めますので、このような軍備は必要ありませんな』を応じる。キレた曹操が『だったらワシが益州に攻め入ったら、我が常勝の軍勢を、その仁義とやらで防ぐつもりか!?』と激昂すると『濮陽では呂布、宛城では張繍、赤壁では周瑜、華容道では関羽、そしてこの度の馬超。丞相御自ら常勝無敵の軍を率いて西川入りなされれば、どのような結果となるのかは判りきっておりましょうな』と高笑い〜!のね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

964名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:03:32 ID:xPRnhWUU0
「えーっと、呂布の(正確には陳宮の)おかげで、曹操は兵を退いた。これによって徐州の危機はいったん回避されたので、田楷本人は引き揚げたものの、劉備は現地に残した。公孫瓚にしてみれば、袁紹との戦上手だからね、曹操は。ともあれ、最大の激戦区は濮陽となった。ところで、演義におけるイノシシぶりが有名な呂布は、武骨者と思われがち陳留にいた弟が、張邈の家族を引き連れて陳留から逃れるも、曹軍の猛攻を受けて、立てこもった城は微妙なところだな。焼け野原の洛陽に逃がすのとそのまま焼ける俗に云う、春秋戦国時代だ。最そうなる。ただし、当時の長安には掃き溜めに鶴がいた状態で、そんな残党の中でひとり、朝廷のために粉骨砕身し事態の解決には軍事力が必要だったのだよ。このままでは漢が滅ぶと危惧した賈詡は、献帝をひとまず洛陽に逃献帝の妃の父に当たる董承が、これに賛成したんだね。このまま長安にいるよりはマシだ、と。ために、献帝は長安を脱した。李傕(リカク)の部下だったもののこれを討とうとして失敗し野に下った楊奉が、兵を率いて駆けつけ護衛となり、追撃してきた郭汜を退けるものの、予想外の事態が発賈詡が手を打ったんだと思うけど。何とかひと息ついた一同だけど、洛陽は焼け野原で日々の食にも欠く状態実は、もともと曹操は、献帝を手元に招いて権威を得ようと画策していたのね。反対意見が多かったものの、荀彧や程昱に賛成されて、董承の誘いに乗って献帝を保護するべく兵を進まろうね。1300年後に日本で、同じことを信長がやってる。流浪していた将軍候補の義昭を保護し、上洛して機内を制し、義昭を十既成の権威を利用することで、自己の勢力を伸ばすことで、曹操は飛躍的に伸びた。実際、当時の曹操の勢力は、陶謙を降しえず、呂布を討てなかった程度だったわけで、孫策はともかく袁紹・袁術うーん……実際に、そんなところじゃなかったかと思うけどなぁ。実際には、曹操もデメリット……形式とはいえ自分の頭を下げなければならない相手ができることや、その維持費なんかを口実に、献帝の身柄を保護するのを躊躇ってるんだけど、荀彧に『後で悔やんでも、わたし知りませんよ?』と云われて決心献帝を保護するべきか悩んで、保護しないことに決めたのが袁紹だな。沮授も、献帝を保護して朝廷を再建しようと献策してるんだけど、袁紹はこれを拒んでいる。義昭を保護したものの上洛はしなかった朝倉義景みたいな立場だけど、目的は多分違った。まぁ、その辺についてはあっはは。ともあれ、というわけで献帝の身柄は曹操の手に納まり、朝廷は保護されることになったけど、多分たったひとつ、賈詡が予想していなかった事態が発生するというのも、賈詡は後に張済を経てその甥・張繍を立てて、曹操と敵対してるんだ。曹操が袁紹と官渡の決戦に臨もうとしたのに前後して降伏しているけど、それまでは手を尽くして曹操を苦しめ、一時、その命に肉迫さえしている。機を見るに敏な賈詡がそこまで曹操に敵対そういうことになるな。群雄一同面白くはなかっただろうが、曹操の手際のよさが際立っていたのは事実。かくそっちもまとめておくと、旗揚げ当時からの股肱たる関羽・張飛と、糜竺の弟で陶謙時代から徐州に仕えていた糜芳、陶謙から与えられた丹楊兵を率いる曹豹、といったとこ策は弄したけどね。この時期の曹操は、献帝を手元に招いたことから、袁紹と揉めていた。曹操が人事権を利用して、袁紹を太尉に任じようとするけど『お前の下なんて嫌ぢゃ』と突っぱねられて、大将軍の座を改めて送っている。一方で、袁紹の遷都要請……許昌と鄴の中間辺りに献帝をよこしなさい、というのは曹操からお断りした。それとは別に、江東で勢力を伸ば義なく節なく、行く末は国家のためにならんので、殺してくれ……と。これに関しては、呂布にまだ利用価値がある……というか、使ってもいなかったので、劉備でもやんわりお断りした。そこで用いたうん。孫策のおかげで、揚州は大部分が平定された。ところが、そこには袁術の入る隙はない。そこで、袁術は北に兵を向けた。まぁ、必然だわな。というわけで、劉備は関羽を伴い、張飛を留本来なら、呉を率い三国時代の一翼を担うべきは孫策だった。あるいは父親……孫堅だったかもしれんが、少なくとも孫権がその座に就くべきではなかった。この両者が早死にしたから、やむなく孫権にお鉢が回って孫権は、目上の者は敬うが、下の者は大事にしない。アレの配下は大変だろうな……まぁ、二度世渡り上手で逃げ込んだ相手には確実に受け入れられる特技を持つ劉備が、ひとを見る眼には長けていたことを疑う余地がない。その劉備が、周瑜は危険だと云いきっている。どれほど危険かといえば、直接戦火を交えた曹操をして『アイツになら仕方 江東の諸将は孔明を斬ると息巻いたが、魯粛にたしなめられ手を出さなかった。用意した品々を霊前に供え、孔明は礼拝し、弔辞を読み上げる……。
『あぁ、公瑾よ! 不幸にも夭折された君よ! 天命とは何と悲しいことか。正義を第一とし覇業を成し、劉表は肝を冷やし孫策は何の憂いも抱かなかった。志は高く文武を極め、業火もて強者を弱者へと追いつめた君よ! まさに英雄たる君が早逝しては、血の涙さえ流れる。忠義の士よ、英霊よ。亮は不才にして劉備を助け曹操と相対したが、それを助けてくれたのが君だった。君がいてく地方巡察に出てたんだ。そんな孔明と同じ任務に就くわけだから、張飛はご機嫌。通りかかりの孫乾に自慢したところ、孫乾は劉備のところにすっ飛んで行って、同行する手はずを整えたれたからこそ、何も怖くはなかった! あぁ公瑾よ、なぜ死んだ! 君がおらぬこの天下で、いったい誰を友とするのか! 魂魄あらば聞け、我が心を! 君の名は百世に渡って正史に君臨する! まさしく……天が漢王朝に与えし、真の臣下であった』時代時代の支配者たちが、常に恐れていたのが涼州勢力なんだよ。異民族から漢土を守り、卓抜した軍事力を有するこの集団を、董卓も李・郭も、そして曹操も恐れ続けた。その涼州出身だった前者3名は、涼州勢を手なずけることで無力化したつもりになっていたけど、曹操は違った。曹操は、断固たる態度で涼州を平定することで、それを自軍に編入し、さらなる高みを目指すに到った。漢土十三州、ついに涼州にまで曹操の旗が翻った会うなりいきなり『益州からは貢物が来なかったがどういうことだ?』と、曹操が云いだすんだよな。さすがにかちんと来た張松は『街道に賊が出るので輸送もままなりません』と応える。曹操が『バカ云え、ワシが天下を治めているのに、どうして賊が出ようか』と云うと『孫権あり、劉備あり、張魯あり……これでどうして天下を治めたなどと云えましょう』と張松が応えるモンだから、曹操怒って退席する、だったな経緯としては、このままでは帰れない張松が、荊州の劉備に会ってみようと考えて南下したところ、趙雲・関羽に相次いで迎えられ、あまつさえ竜・鳳を左右に従えた劉備本人にまで迎えられて、ころっと参ってしまった、だよな
 孔明は地に臥して大哭し、その涙は泉のようにあふれ出た。悼み嘆くその姿に、江東の諸将も口々に「孔明と周瑜の仲が悪いと云っていたのは誰だ……? この姿を見て、まだそんなことが云えるものか」と云いあった。魯粛さえ「提督はあまりにも狭量だった。どうして、孔明を信じられなかったのか」と涙を禁じえなかった。ないな』と云わしめたほどと会わんがなきたんだけど守に残して出陣する次善の策が、駆虎呑狼の計でしている孫策の弟を許昌に招いて、朝廷に仕えさせているろだけど……して、漢王朝は一時、息を吹き返すさて、長安を攻略した馬超は、東進して黄河のほとり・潼関に陣取った。進出してきた曹操と、まみえた馬超はこの年34歳。勇者・馬騰の長子にふさわしい勇姿をもって汗血馬に跨り、左右に龐徳・馬うむ。まず、馬超に敵う者がない。両軍激突したものの、于禁・張郃がタイマンであっさり蹴散らされ、さらには龐徳まで斬り込んでくる。西涼兵が『紅い衣が曹操だ!』と叫ぶのを聞いて、曹操はまず衣を脱いだ。今度は『ヒゲが長いのが曹操だ!』と云うモンだから、ヒゲを自分で切り落とす。すかさず『ヒゲの短いのだ!』と云われたモンだから、旗を引き裂いてヒゲを包み、何とかその場を逃げおおせたとか岱を従える益荒男ぶりに、チビの老いぼれは己の姿を恥じたとかことまだいい。以前触れた通り、益州は、亡き劉焉が謀略で支配するに到った土地なんだけど、その謀略のゴタゴタで漢中……涼州・司隷に面する要害の地に、五斗米道教団という道教系の武装集団が根付いてしまった。三代教主の張魯は切れ者で、益州の支配から逃れ、朝廷に自治権を認めさせているとなったした理由が、勤皇精神以外に思いつかない。洛陽が荒廃していることを理由に、自分の本拠地たる許昌に朝廷を移した対する張松は笑顔さえ浮かべて『西川では仁義もて人を治めますので、このような軍備は必要ありませんな』を応じる。キレた曹操が『だったらワシが益州に攻め入ったら、我が常勝の軍勢を、その仁義とやらで防ぐつもりか!?』と激昂すると『濮陽では呂布、宛城では張繍、赤壁では周瑜、華容道では関羽、そしてこの度の馬超。丞相御自ら常勝無敵の軍を率いて西川入りなされれば、どのような結果となるのかは判りきっておりましょうな』と高笑い〜!のね……したには遠く及ばず、公孫瓚にさえ勝てたかどうか……という評価がある五代将軍の座に就け、その権威を利用したんだけどせた。困り果てた董承だけど、そこへ颯爽と現れたのが、我らが曹操で生するがそうとしたていた賢臣がいた。肝心の裴松之が憎んでやまない、賈詡そのひとだ期は蛮族の国と見下されていた秦によって滅ぼされているかもしれん長安に残るのと、どっちが安全かった家族は……

965名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:04:16 ID:xPRnhWUU0
少し戻るけど、張松は劉備に歓待されて益州に帰ると、親友の法正・孟達と謀りあって、劉備に益州を治めさせようと画策するに到った。演義で張松は、劉備に『益州は豊かな土地ですが、劉璋は無能で賢者をよく用いることができず、充分に治めているとは云えません』と云っているのが、この連中の本心だね

966名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:04:49 ID:xPRnhWUU0
少し戻るけど、張松は劉備に歓待されて益州に帰ると、親友の法正・孟達と謀りあって、劉備に益州を治めさせようと画策するに到った。演義で張松は、劉備に『益州は豊かな土地ですが、劉璋は無能で賢者をよく用いることができず、充分に治めているとは云えません』と云っているのが、この連中の本心だね

967名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:05:24 ID:xPRnhWUU0
かくして、呂蒙の指揮で曹操軍迎撃の準備を整える孫権だけど、それはひとまずおいといて。孫尚香の帰国・曹操の出陣を聞いた劉備は、荊州の様子が気になった。龐統は『あちらには孔明がおりますので、心配いりませんよ』と応じるものの、一方で策を弄した。孫権を救援しなければならないので、兵と食糧をお借りしたいと、劉璋に書状を送ったんだね。劉璋は送る気満々だったんだけど、黄権や劉巴を筆頭に群臣は反対。やむなく、老兵とわずかな食糧だけを送りつけて、お茶を濁すことにした

968名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:05:50 ID:xPRnhWUU0
かくして、呂蒙の指揮で曹操軍迎撃の準備を整える孫権だけど、それはひとまずおいといて。孫尚香の帰国・曹操の出陣を聞いた劉備は、荊州の様子が気になった。龐統は『あちらには孔明がおりますので、心配いりませんよ』と応じるものの、一方で策を弄した。孫権を救援しなければならないので、兵と食糧をお借りしたいと、劉璋に書状を送ったんだね。劉璋は送る気満々だったんだけど、黄権や劉巴を筆頭に群臣は反対。やむなく、老兵とわずかな食糧だけを送ここで、龐統は策をみっつ提示した。上策としては、このまま益州州都・成都に攻め込む。中策としては手近な関城を落としてそこに入る。下策は荊州に引き上げ、主力と合流して改めて進軍する。どれになさいますか、とりつけて、お茶を濁すことにした

969名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:06:14 ID:xPRnhWUU0
かくして、呂蒙の指揮で曹操軍迎撃の準備を整える孫権だけど、それはひとまずおいといて。孫尚香の帰国・曹操の出陣を聞いた劉備は、荊州の様子が気になった。龐統は『あちらには孔明がおりますので、心配いりませんよ』と応じるものの、一方で策を弄した。孫権を救援しなければならないので、兵と食糧をお借りしたいと、劉璋に書状を送ったんだね。劉璋は送る気満々だったんだけど、黄権や劉巴を筆頭に群臣は反対。やむなく、老兵とわずかな食糧だけを送ここで、龐統は策をみっつ提示した。上策としては、このまま益州州都・成都に攻め込む。中策としては手近な関城を落としてそこに入る。下策は荊州に引き上げ、主力と合流し……下策だな。劉璋が張魯と手を組む可能性を考慮すると、中策では敵中に孤立しかねない。かといって短兵急に成都に攻め入っては、張任や劉カイ(字が出ない)らの頑強な抵抗が待っている。準備が整う前なら上策でもよかったが、劉備が西川入りしてずいぶん経っているからな。防御態勢は整っていたと見ていいだろうて改めて進軍する。どれになさいますか、とりつけて、お茶を濁すことにした

970名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:06:42 ID:xPRnhWUU0
かくして、呂蒙の指揮で曹操軍迎撃の準備を整える孫権だけど、それはひとまずおいといて。孫尚香の帰国・曹操の出陣を聞いた劉備は、荊州の様子が気になった。龐統は『あちらには孔明がおりますので、心配いりませんよ』と応じるものの、一方で策を弄した。孫権を救援しなければならないので、兵と食糧をお借りしたいと、劉璋に書状を送ったんだね。劉璋は送る気満々だったんだけど、黄権や劉巴を筆頭に群臣は反対。やむなく、老兵とわずかな食糧だけを送ここで、龐統は策をみっつ提示した。上策としては、このまま益州州都・成都に攻め込む。中策としては手近な関城を落としてそこに入る。下策は荊州に引き上げ、主力と合流し……下策だな。劉璋が張魯と手を組む可能性を考慮すると、中策では敵中に孤立しかねない。かといって短兵急に成都に攻め入っては、張任や劉カイ(字が出ない)らの頑強な抵抗が待っている。準備が整う前なら上策でもよかったが、劉備が西川入りしてずいぶん経っているからな。ところが、この帰還報告に驚いたのは、成都に留まっていた張松だ。劉備に帰られてはいち大事と、自分が成都の中で呼応するから考え直すように書状をしたためていたところ、兄が訪ねてきた。いやいや応対した張松だけど、酔い潰れてしまい、問題の書状が兄の手に渡る。兄はそれを劉璋に届け、さすがのバカも状況が理解できた。張松を殺し、劉備討つべしと息を巻く防御態勢は整っていたと見ていいだろうて改めて進軍する。どれになさいますか、とりつけて、お茶を濁すことにした

971名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:07:33 ID:xPRnhWUU0
ところが、この帰還報告に驚いたのは、成都に留まっていた張松だ。劉備に帰られてはいち大事と、自分が成都の中で呼応するから考え直すように書状をしたためていたところ、兄が訪ねてきた。いやいや応対した張松だけど、酔い潰れてしまい、問題の書状が兄の手に渡る。兄はそれを劉璋に届け、さすがのバカも状況が理解できた。張松を殺し、劉備討つべしと息を巻く

972名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:08:05 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

973名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:08:46 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っ楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしているぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

974名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:04 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っ楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何と云ったのかは、正史にもないたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしているぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

975名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:31 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っ楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何とどう動いたのか明記はないんだけど、たぶん、張遼が暴れてる隙に近郊に隠れて、呉軍の補給線を衝いていたんだと思う。でなきゃ、援軍が来ない城を十日で諦めるような真似はしないだろうから云ったのかは、正史にもないたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしているぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

976名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:09:41 ID:xPRnhWUU0
「この年に張紘が亡くなり、建業を首都とするよう勧めた……のも先に見ているが、それが影響していたンだ。本拠地が移動したからには防御態勢を組み直す必要がある。それを担当したのが呂蒙で、水上交通の要衝・濡須に土塁を築いている。水軍重視の呉だけに『そんなモン船戦で役に立つか』との意見もあったけど、呂蒙は『負けたとき必ず船にたどりつける保証はない』と突っ楽進は、張遼や于禁・張郃・徐晃と並び称される、魏の五将軍のひとりだね。兵卒からの叩き上げだけど、呂布や袁紹らの軍勢を向こうに回して、一歩も退かなかったいぶし銀だ。片や李典は文官肌の知将で、曹操の命で諸地域の統治に回されともあれ、張遼・楽進・李典はお互いに仲が悪かったんだけど、張遼が『曹操サマは外征していて、この地は我々が引き受けたんだぞ! 討って出て戦うのが武将だろうが!』と発破をかけると、李典が『お前なんか信用できんが、国家のために従うぞ!』と出陣に合意した。ちなみに、正史では、この時楽進は何とどう動いたのか明記はないんだけど、たぶん、張遼が暴れてる隙に近郊に隠れて、呉軍の補給線を衝いていたんだと思う。でなきゃ、援軍が来ない城を十日で諦めるような真似はしないだろうから云ったのかは、正史にもないたり、演義では夏侯惇や曹仁の参謀として孔明と戦ったりしているぱねて、三日月形の土塁を作り上げていた」

977名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:10:38 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬

978名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:11:07 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬今度こそ救急車を警戒したのかねェ。かくて呉に張遼の名は鳴り響き、夜泣きする子供でも『張遼が来るよ』と云われると泣きやんだという

979名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:11:22 ID:xPRnhWUU0
【朗読】信じようと信じまいと・妬今度こそ救急車を警戒したのかねェ。かくて呉に張遼の名は鳴り響き、夜泣きする子供でも『張遼が来るよ』と云われると泣きやんだという

980名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:11:58 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった……のはまだ先のオハナシ

981名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:12:24 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけて送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

982名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:12:50 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

983名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:13:19 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

984名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:13:41 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州の二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

985名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:14:07 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来の報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

986名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:14:33 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経たずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

987名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:06 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のことだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

988名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:24 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

989名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:15:48 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

990名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:16:08 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

991名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:16:32 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

992名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:16:59 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

993名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:17:22 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

994名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:17:48 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じている坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

995名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:18:10 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

996名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:18:33 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

997名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:01 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送り込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

998名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:25 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだようにり込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

999名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:19:44 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いさて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築き上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦火を交えるしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだようにり込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ

1000名無しのやる夫だお:2024/04/10(水) 19:20:06 ID:xPRnhWUU0
「董卓や韓遂の頃からだから、漢土西北域が30年ぶりに安定したのは夏侯淵の軍功によるものが大きいワケだ。その割には、性格的に問題があった……のはいずれ見ることにして。かくて、揚州の国境線争いは、年々激しさを増していくことになる。その反動でもなかろうが、十数年後では直接の武力衝突ではなく、むしろ謀略戦が展開されるようになった…というわけで、荊州軍と益州軍との間に戦端が開かれた。雒城の周りに砦をふたつ作っていたんだけど、鄧賢・冷苞は黄忠・魏延の活躍で相次いで斬られる。劉璋は慌てて、長男に外戚(兄の妻の兄)の呉懿、副将に呉蘭・雷銅をつけてそこには張飛が駆けつけて、事なきは得たんだけど……ね。ともあれ、張飛の活躍で呉蘭・雷銅の部隊は降伏。続く戦闘でも大暴れするけど、今度は張飛が張任・呉懿に包囲される。つまり張任の策にはまったんだけど、その背後から趙雲が攻めかかり、呉懿を捕らえる。でも、結論から云えば、張任を失った雒城はあっさり陥ちた。呉懿や厳顔に降伏するよう呼びかけられた劉カイ(字が出ない)は、それでも戦うと豪語したんだけど、後ろから張翼に突き落とされて死亡もちろん、劉璋も『敵を退けて民を安んじるというのは聞いたことがあるが、民を叩き出して敵に備えるなんて初耳だ!』と怒鳴りつけた。そこへ、法正からの降伏勧告の書状が届いたモンだから、劉璋は怒り狂う。綿竹関に防衛ラインを設定して李厳を配し、漢中の張魯に黄権を送った。劉備を退けてくれたら、益州察しが早いな。まぁ、楊白ならまだしも、馬超なら実際に劉備に勝てるかもしれないと判断した、というのもあると思う。監軍として楊白も派遣されて、軍勢は、孟達が留守居を勤める関城に近づいた。その頃、すでに劉備軍は綿竹関を陥とし李厳を降伏させていたんだけど、馬超襲来のうむ。馬超が来たと聞いた成都城内は意気消沈したという。ただし、正史劉璋伝には『官民問わず戦うことを望んだ』との記述もある。しかし、すっかり弱気になった劉璋は『父から二代二十年に渡って益州を統治してきたが、民には何もしてやらなかった。劉備との3年に及ぶ戦闘で、益州を疲弊させたのも私の罪。降伏して、民を安心させたい』と、包囲されて十日も経……その、魯粛に対する凄まじいまでの低い評価を、覆すのが僕の役目なのかな。えーっと、状況を確認しよう。劉表の死によって、荊州は劉琦(長男)派と劉琮(次男)派に分かれた。かつて、袁紹の死後、袁譚(長男)派と袁尚(三男)派に分かれて争い、結局いずれも曹操に滅ぼされた、その翌年のここのふたつのお家騒動は、究極的には父親が、長男を差し置いて次男・三男に後を継がせようとしたことに原因が求められる。ただし、袁紹の時と劉表の時とには決定的な違いがあった。劉表には有力な外戚がいたモンだから、そいつを中心に家臣団が劉琮擁立で結束してしまい、劉琦の側には劉備しか残らなかったのね。というわけで、この兄うむ。劉備が益州を獲ったからには、荊州を返せと孫権が迫った……辺りは、正史でも同じだけど。荊州に駐留する関羽と、柴桑に駐留する魯粛の間に、境界地域ではたびたび小競りあいが起こっていた。それなのに、劉備が荊州を返さないと云ったモンだから、孫権は呂蒙に兵を与え、南荊州に侵攻させそれを憂えたのが、余人ならぬ魯粛そのひとだった。関羽に『会談しろ!』と迫り、おのおの刀一振りだけ携えて会談に臨む。関羽は『赤壁で兄者は寝る間も惜しんで曹操と戦ったのに、孫権はそれを評価せず、荊州を取り上げようというのか?』と云うけど、魯粛は『劉備殿が当時あまりに弱く、再起をはかるのを応援するために荊州を貸し与えたのです。再起を果たし益州まで手に入れられたのに、自分の都合ばかり主張なさるのは、仁劉備・孫権の同盟が成立していたのは、対西強硬派の周瑜の死後、穏健派の魯粛が外交・軍事の最高責任者に就任したことが最大の根拠だ。そして、劉備の側では、その魯粛に大恩ある(周瑜には怨みがあった節もある)龐統がいた。この両者がいる間は、同結局、この荊州争奪抗争は、思わぬかたちで収束する。曹操が張魯を降し、漢中を支配下に置いたとの報が大陸を駆け巡ったためだった。益州の首を抑えられたに等しい劉備は、荊州南部を割譲して兵を退き、孫権も魯粛の言を容れ同盟を維持した。東方の安定を梁山泊きっての伊達男と云えば、天立星を陳玄奘か? 7世紀のひとだけど、それとは違う。アレ(正確には"アレら")は、仏教の教義である経・律・論のみっつに通じてい……孔子から20代めの子孫だな。若い頃から才知に長けていると評され、朝廷でも重きを置かれた。ただし、その分気本質的に儒教というものは、権力者にとって都合がいい。民衆を身分制・階級制にあてはめる口実になるからな。『儒者を見るとションベンひっかけたくなる』と豪語した劉邦や仙人になるため穀物断ちして結局死んだ張良たちが建てた前漢の、それも初期の頃を除いて、以後中国は一千年に蒙古襲来だ。中国全土を支配しながら、儒教に汚染されなかった唯一の王朝。モンゴル帝国は他の歴代王朝とは違って、あらゆる宗教に寛容だったため、儒教を重視していなかった。一方で、儒教の側でも北狄を軽んじて、仏教が耶律楚材、道教が長春真人を大ハーンのもとに送記述そのものが少ないから、こっちは断言できないけど、小乗仏教の祭祀に似た記述があってな。百年後くらいに仏教と道教が宗論を交わしてる(道教が負けた)んだけど、この頃からすでに、仏教と道教はいくらか仲違いさて、道教……つーか、五斗米道教団。太平道の流れを汲むこの教団が、劉焉から独立して漢中に一大フロンティアを築手柄を立てられなければ帰ってくるなと責められた龐徳は、曹操の首級を狙い攻め入るものの、ついに捕らえられ、降伏した。コレに困り果てた張魯は、ついに漢中の城を捨てる決意を固めたものの、城内の倉庫は『コレはもともと国家のものだしなぁ』と、鍵だけかけて持ち出さず、城を出て……楊松に裏切られ、追いつめられて降伏したき上げていたのは先に述べた。コレが、曹操と戦火を交えるしていたのかもしれない。道教が、仏教を弾圧した曹操を『同志』と呼んだようにり込んだのに、孔子の子孫は大ハーンに仕えていない渡って儒教を事実上の国教に定めていた位が高くて曹操の逆鱗に触れ、以前触れた通り208年に処刑されているる坊主に贈られる敬称だ。歴史的には、玄奘以外にも三蔵っているんだよ預かる董平だが……得た劉備は、兵を北へと向ける準備に入る盟は確たるものだったが……者としていかがなものか』と応じ、関羽は言葉もなかったというる。対して劉備は自ら出陣して関羽と合流し、全面戦争の様相を呈した弟の間には(直接の)争いは起こらず、劉琮は曹操に降伏したとだけどたずに、劉備に降伏している報に劉備は震え上がったの二十州を割譲する、と。劉璋の息子は逃げ、兵は張翼がまとめて降った肝心の張任は取り逃した送り出した。激戦に次ぐ激戦が展開される…のはまだ先のオハナシ




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