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やらない夫の”浅い眠り”
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・オリジナル作品です
・全3話程度を予定しています
・よろしくお願いします
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たまにこういう観点でそこまで冷酷じゃない人みたいに言う意見あるけど、むしろこの手の擁護のほうが現代の価値観で判断しているように思える
そういう擁護の記述は寡聞にして史料に見たこともないし、むしろ当時の価値観を持った人たちによっぽど痛烈に批判されてるわけだし
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他の奴なら族滅するような奴は族滅してるんだけどね丁一族みたいに
それに昔曹操に阿って自分より曹植のほうが優れてるとか言った楊俊を即位後司馬懿の嘆願無視して蒸し返して処刑とかしてるし、下手な暗君暴君よりよっぽど親の七光で得た権力を笠に好き勝手してる
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典論での自分語りで兄の能力は限界があったとか偉そうな評論してたけど、父親の曹操から見たら五十歩百歩程度の違いしかないよな
曹操からすれば、むしろ人間性を加味したら曹昴のほうがまだマシくらいにさえ思ってそう
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いい話っぽいエピソードもあるにはあるけど、それもほとんどは皇帝として見たらダメなエピソードなのもすごいところ
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短い治世なら誰だって良い皇帝でいられるという格言に対して、曹丕ほどその反証になってる存在は中々いない
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賈詡の言によると「長子だから」後継者になっただけで、特に英邁でも特質する功績があったわけでもないという。
完全な暗君ではないが、司馬懿の重用と軍事面の不成功を考えると凡庸か中の下くらいか?
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2代目は難しいんだよ
諸葛亮が「孫権は江東を領有して拠り、已に三世を歴し、国は険阻で民も附き、
賢能もその用を為しており、これは援とすべきであって図ってはなりません。」
と語ったように、代を重ることは勢力を安定する力となる
曹叡は諸葛亮が語った孫権と同じく三代目で魏には同じ固さがあった
早死にして代積みを早めたのは功績といえよう
毎度天下が振動した諸葛亮の北伐
2代目曹丕のままだったら魏は崩壊してたかも知れんね
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あえて良いところを挙げるというテーマに沿ってないw
小心者で猜疑心が強いって、そんなに責められることかなぁ?
超絶的な英雄には無用な能力だけど、そのワンランク下である普通の英雄が人生を全うするには優れた才能だと思うけど。
小心な英雄は部下の猜疑心や恐怖心を理解できるし身の危険を察知できる。なぜなら自分も猜疑心や恐怖心を持っているから。
日本で言えば豊臣秀吉や徳川家康タイプだよね。
スーパーな英雄は性格も常人の範疇を出ているから、常人である部下の気持ちに寄り添えなくて大ポカをする可能性があるけど、小心な英雄は部下をコントロールするシステムを作る。
稀代の英雄は自身が第一の戦力で、かつカリスマで周囲を牽引していくけど、小心な英雄は有能な部下を上手く使い、部下の歓心を買うことを忘れない。それでいながら猜疑心が強いので有能な部下の排除も考えるし、個人の能力に頼らず運営できる組織構築を考える。
こう書くと劉邦っぽいw
あ、もちろん彼がクズだという前提に異論はないですよ。
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曹丕さんは相手がどう思うか理解した上で嫌がらせをするタイプのサディストですから…
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まぁ結果責任で言えば
6年の治世で軍事は3〜4敗してるし
政治でなんらかの結果を出すには
6年は短すぎる。
敢えて言うなら司馬懿に強力な権限を与えて
曹叡時代の国防を磐石にした事かな。
司馬懿を抑える事が出来なかったのは
曹叡の問題だし。
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政治力と人材利用は優れてただろ。司馬懿ばかりが挙げられてるけど陳羣や曹真など優秀な人材を重用して次代にも引き継いでる
孔明が北伐をする理由の一つとして曹丕の死を挙げているし、当時周りからは曹丕が無能とは見られていなかったことは明らか(孫晧なんかは生きている内が呉を滅ぼすチャンスだと見られてた)
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ちなみに曹丕の一番悪いところは
性格じゃなくて早死にしたところだな。
あと20年生きて60歳で死んでりゃ
司馬懿効果で政治軍事共に
ある程度見られるものになった可能性は高い。
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魯粛の天下二分の計は失策
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曹操は袁家制圧しました
孫呉は劉表攻撃してましたが領土広がりませんでした
赤壁になって弱小劉備と同盟結びました
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魯粛の天下二分の計は時間と兵を浪費して、将来の味方になりうる荊州勢と殺し合って、最大勢力の曹操に利敵しただけなんだよ
荊州ニ郡か三郡取れてれば部分的成功ではあるから良策だった、とは言えるかもしれないが
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少なくとも天下二分の計は失策じゃ無いからな
天下三分として実現してるし孫権は皇帝を称するに至ってる
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結果的には言ったとおりにはなったから計自体は失敗ではないが魯粛の計画のままでいってたら荊州はとれなかったという話だろう
なので五分五分じゃないかな
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結果的には言ったとおりにはなったから計自体は失敗ではないが魯粛の計画のままでいってたら荊州はとれなかったという話だろう
なので五分五分じゃないかな
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魯粛の言うとおりに曹操が袁家を片付ける前に荊州制圧できたら成功
できてないから失敗
至極当然な理屈だと思うが
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一年で荊州平定できると提案した魯粛は孫権軍の弱さを見誤ってた!ってやつ
当時は反乱反乱山越山越で揚州平定にいっぱいいっぱいでそれどころではなかったんだよ
こんなんで跪くとかそりゃ想定外だろ
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まあ色々と想定外だったんだろうね。
曹操の強さ、劉表軍の強さ、孫権軍の強さ
何もかも魯粛の想定外だったんだろう
→想定外だったから失敗してない!
となるのはおかしい
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まあ色々と想定外だったんだろうね。
曹操の強さ、劉表軍の強さ、孫権軍の強さ
何もかも魯粛の想定外だったんだろう
→想定外だったから失敗してない!
となるのはおかしい
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盛り上がってる所を悪いが、史実で孫権は、魯粛の天下二分の計を却下してるんだが?
少なくとも魯粛が軍を率いるようになった赤壁の戦いより前は、孫権軍は魯粛の戦略の下に動いてはいないから、史実から魯粛の天下二分の計を成功だ失敗だと論ずること自体がナンセンス。
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孫権が否定したというのは帝王云々の部分で、荊州征伐自体を否定したわけではないな
沈友の荊州併呑とかは受け入れてるわけだし、何より行動が証明してるわな。
で魯粛や沈友、他なら甘寧とか西征論者の言う通りに何回か征伐したが、成果が出なかったわけやな。
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黄祖は孫堅の仇だし、当然荊州征伐するよね。
それが難航した事が魯粛の失敗というのがおかしいと言ってるだけ。
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孫権が皇帝になって孫呉国家を成立させたから魯粛は成功者
経緯はどうあれ目的は達成しとる
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先に言われてしまったが、最初の魯粛の献策どおり、荊州と揚州を地盤として自立し、孫呉を建国して孫権が皇帝になった、だから最終的には成功といえる。
最初の魯粛の失敗と同様、議論の余地もない話だよな
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>>孫権が皇帝になって孫呉国家を成立させたから魯粛は成功者
経緯はどうあれ目的は達成しとる
魯粛の2つ目の戦略
呂蒙の戦略
蜀との再同盟路線
この3戦略による成果だね。
1つ目の戦略は残念ながら何も貢献してないね。
しかしまあ総合的に見れば成功者ではあるだろうね。
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魯粛が失敗したと言ってる奴は、短期目標が達成出来なかったという話に終始して、同時に提案された長期目標が達成されている事は全く無視しているから、やはり賛同は出来ないな
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孫呉の領土は根本的な戦略を変えまくった成果によるものなんだけど
劉備に荊州中南部の実行支配を任せてた時点で、長江制覇戦略という一貫性のある対外戦略の下、動いてたみたいに言い張るのは無理がある。
一貫性があるとは言わず行き当たりばったりや
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孫権は呉を建国して皇帝になった
→その通り。そこに関しては孫権も魯粛の先見の明があった、と振り返ってるな
帝王にするという一貫した戦略で孫呉は動いていた
→動いていない。魯粛の発言を受けた際に帝王云々については引き気味であった。
魯粛の計算通りに物事は進んだ。
→そんなことはない。想定外だらけ。対外戦略について何度も変更した末の結果である。魯粛以外の戦略さえ取り入れてる。
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魯粛の天下二分の計の話の可否の話なんじゃないのか?
>帝王にするという一貫した戦略で孫呉は動いていた
>→動いていない。魯粛の発言を受けた際に帝王云々については引き気味であった。
献策を受け入れてない話をするのであれば、史実で赤壁前に魯粛を起用するまでは、孫権はそもそも魯粛の策を採用しておらず、史実で孫権軍が①を達成できなかったのは、魯粛の策とは何の関係もない
そもそも失敗とか成功とか言うのがおかしい事になる
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>>孫権はそもそも魯粛の策を採用しておらず、史実で孫権軍が①を達成できなかったのは、魯粛の策とは何の関係もない
いや孫権が否定したのは帝王云々の部分だけ。
荊州制覇戦略は記述を見る限り実行してるとしか良いようがない。
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【戦略】とは
戦争・闘争のはかりごと。戦争の総合的な準備・計画・運用の方策。
この定義に従えば
魯粛が当初提言した、目標・到達図(一貫して孫権と共有されてたわけじゃない)は、提言時からは変更要素(劉備の台頭など)や時期の遅れはありつつも形になった。
でその結果は国家戦略をコロコロ変えたことにより達成
なので魯粛の戦略上の成果だけ、で達成したものではないし、計算とか思惑通りに動いたわけでもないな。
予想が6割か7割ぐらい当たった、とは言えるんじゃない?
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国家理念を戦略ねえ。
一貫して行動してるなら戦略として扱っていいかもしれないが、帝王云々の部分については孫権は採用なんてしてないからな
国家レベルで方針共有されてないのは戦略とは言わないだろ
魯粛の発言受けて実行してるのは西征だけやからな
(沈友とか甘寧のように魯粛は西征論者の一人)
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孫権が採用しなかったから、魯粛の天下二分の計は失敗だと言うのなら分かるが、採用しなかったと言うのなら、、史実の孫権軍の行動によって魯粛の策を評価するのはおかしい
劉表攻めは、魯粛の発言を受けて行われたと考えるよりは、その当時の軍事の責任者である周瑜の戦略として行われたと考えるのが妥当
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孫呉の国家理念とか、一貫した考えがあったとか、そんな大層なもんもってなかったよ。いきあたりばったり(少なくとも国家レベルでね)
国家レベルで共有されてたのは西征して劉表と戦うぐらいやろね
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孫呉は情勢を見て自分たちが生き残るために建国した国で国家理念なんかあるはずもない
国家方針は、江東に拠って立ち江東を守るという事で、一貫している
そのためには国家戦略がブレても平気なのが孫呉
江東で自立する事を魯粛が一番最初に言い出して、結局孫呉の国家方針になった事を評価して、魯粛の天下二分の計は失敗ではないと言ってる
魯粛の天下二分の計は壮大な策でも何でもない、ただ火事場泥棒してそのまま居座ろうぜと言う案だと思うし、魯粛が特に軍略に優れるとは俺は思わない
情勢と利害を分析するのが得意で、軍の統率に優れた人物だったが、人を見る目は無かったと思う
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孫権は魯粛について、
魯粛は宴で帝業の大略(曹操が北方を治め、孫権が南方を割拠する天下二分の計)を披露したこと。
赤壁で抗戦を主張し、緊急に周瑜を呼び寄せ、大軍をつけて曹操を迎え撃てと進言してくれた。
魯粛には以上の二つの長所があるが、ただ劉備へ土地を貸すよう自分に勧めたのは短所の一つである。
しかし、前の2つの長所を打ち消すほどではない。
この点では、魯粛は光武帝の名臣であった鄧禹に匹敵すると思っている。
呂蒙は関羽を捕えることにかけては魯粛以上のできばえであった。
魯粛は、帝王が世に出てくるときには邪魔する者は常に駆除されるものです、と自分に言った。
魯粛は口だけだったが、自分は別に咎めようともしなかった。
魯粛の取り柄はやはり、軍事にあった。
魯粛が軍を率いると、命令がピシッと決まっていた。
軍営は言うまでもなく、彼の軍が駐営するところはどこも規律が行き届いてものだ
と論じた
(『呉書』『資治通鑑』)
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孫権は魯粛が天下二分の計を提案した時点では壮大過ぎて突飛な発案だし自分には荷が重過ぎるとして取り合わなかったんだよな
しかし後にそんな発想を堂々と提案してきた事を長所だと賞賛したわけだ
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公瑾昔要子敬、來東、致達於孤。孤與宴語、便及大略帝王之業、此一快也
孫権にとって魯粛が最初に提言した内容は「快也」と言われてる。
つまり痛快だった、ということだ。すんげー奇策だったとか、策が上手く行ったとかそういう話ではない。
後孟德因獲劉琮之勢、張言方率數十萬衆水歩倶下。孤普請諸將、咨問所宜、無適先對、
至子布・文表、倶言宜遣使脩檄迎之、子敬即駮言不可、
勸孤急呼公瑾、付任以衆、逆而撃之、此二快也。
且其決計策、意出張蘇遠矣
二番目の快也は赤壁で交戦を主張したこと。これはもう大絶賛。
張儀・蘇秦を引き合いに出してまで絶賛
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要するに、孫権は魯粛の当初の提言を褒めてる。
孫権を気持ちよくしたので長所の一つに数えてる。
だけど別にそれが成功したとかそういうことを言ってるわけではない。
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名将は戦う前に勝つ戦しかしないもんだよ
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国家統治という意味でも軍政という意味でも優秀だったのは疑いないやろ
前線指揮官としての才能とはまた別やね
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