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【日常?】やる夫たちは逸般人のようです その7【コメディ】
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 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄< 逸般人のようです > ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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, ', -、ヽ'´ `'´, -、ヽ // l//L」| ∧l | ! |l | !\ | ; | \\ ト、ヾTリ. |
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テンプレは>>2-8ぐらい
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「それから、「東夷伝」の「東沃沮伝」にある文章「又言有一眼亦在海中、純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中眼人衣、其所袖長三丈。」は女だけの国があると記述しており、「魏志倭人伝」は荒唐無稽な記述があり信憑性に疑問があるなどとされている」
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「「魏志倭人伝」には「山海経」に出てくる黒歯国や侏儒国(小人国)が出てくるが、従来はそのことから、「魏志倭人伝」にも「山海経」と同様に荒唐無稽な記述があり信憑性には問題があるなどとしている」
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「しかし、このような「魏志倭人伝」や「東夷伝」評価というのは、陳寿の「優れた先史を継ぐ」という視点での理解がされていないものである」
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「まず、「魏志濊伝」の箕子記述だが、当時では最高峰の史書である「漢書」を引き継ぎ、そのまま引用したと陳寿は述べている」のである。
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「陳寿は、自分で知りえた実際の事象については史実を書くことに留意したのだが、知りえぬ未知の事象や世界については当時の最高峰の司馬遷の「史記」、班固の「漢書」を尊重して、東夷伝では、これらの史書をなるべく原文に忠実に引用したのである」
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ただし、陳寿は慎重で客観性もあり、「漢書」が述べている前漢時代以前のことは史実とは言えぬかもしれないとして、陳寿は用心深く「昔」という文字を使って「伝承で伝説」であるから史実かどうかはわからないという意味を暗に込めて記述もしている」のである。
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「次に、「東夷伝」の東沃沮にある女だけの国の文章であるが、当時としては著名な張華の「博物志」の東方記述はやはり最高峰であるという認識から、真偽は別にして陳寿は引用したのである(陳寿の援助者であった張華を喜ばせる意も多少はあったかもしれないが)」
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「また、陳寿は「三国志」では先史を継ぐという概念から、史書以外でも当時では最高峰の地理志である「山海経」を引用しているのだが、東方の倭とは当時の最高峰の地理書「山海経」から小人国(侏儒国)と黒歯国に至る途中の国という認識が陳寿にはあった」のである。
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「陳寿は「三国志」では確かな情報や知識だけを書く努力をしていたが、陳寿とて万能ではなく自分にとって未知である地理の部分については、当時では最高峰の地理書「山海経」を尊重して継ぎ、小人国(侏儒国)と黒歯国を引用したのである」
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「近代以降の視点で「山海経」の黒歯国や侏儒国(小人国)を考えればまったくの荒唐無稽だが、当時では陳寿を含め、これら「山海経」記述を否定できるような人は誰もいなかったのである」
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政宗辞世の句
「曇なき 心の月を 先立てて 浮世の闇を 照らしてぞ行く」
勝てば官軍なのは分かるけれど、後世の僕らに沢山の教訓を与えてくれた名君だと思う。
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政宗のエピソードは今聞いてみても面白いものばかりやでw
もし現代に生きてたら、有名な料理人にでもなっていたかもしれん。
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ぶっちゃけた話、大阪の陣の頃には戦の経験のある武将や兵が少なくて「(特に徳川方で)大阪の陣がデビュー戦!」ってのがゴロゴロしててまともな戦になってなかったらしいね。
ある時攻撃を受けた訳でもないのに前にいた兵が四散して本陣が前の様子を探らせた処、足軽大将がトボトボ歩いて来て「これは『味方崩れ』です。」のひと言とかあったらしい…。
てか藤堂高虎も「味方撃ち」やってますからね。
理由は政宗と同じく「陣の混乱を防ぐため」ですから。
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なお、「魏略」逸文との比較でも理解できるのだが、陳寿は「魏略」とは違ってあくまでも種々の資料を吟味し選択して先人たちの資料を引用もしており、安易には先人たちの資料は採用していないのである」
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「前漢時代末に顕著になった「先史を継ぐという概念」は、時として間違った事象を、そのまま引き継ぐという問題点はあるのだが、古代中国の私選的な「史記」や「漢書」、「説文解字」、そして、三国志」に関しては「先史を継ぐ」とは「史実や事実を極力、後世に残す」という概念が強く含まれているのである」
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「古代中国史料である司馬遷の「史記」や班固の「漢書」、そして、陳寿の「三国志」を正しく理解するには「先史を継いでいるという視点」が重要になる」のである。
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「魏志倭人伝」や他の「東夷伝」の記述内容について、従来から、「信憑性に欠ける」という指摘がある個所は、陳寿が自分の専門分野以外については、その分野で当時の最高峰の先行する古代中国資料をそのまま引用した箇所であり、それは取りも直さず、その当時の学問の水準を反映しているものであって、陳寿自体の考えではないので、そうした記述の存在することを理由にして、「魏志倭人伝」や他の「東夷伝」の記述内容の「信憑性」を評価すべきではない、という。
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そして、そこから、「魏志倭人伝」や他の「東夷伝」の記述内容の「信憑性」は、そうした引用文を除いた、陳寿自身の考えによって判断すべきなのである」と考える。
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陳寿は倭人を固有の民族とは思っていなかった
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imasara今更
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「魏志倭人伝」の「「倭人在帯方東南大海之中」という文章の「倭人」というのは、「漢書」「地理志燕地条」の倭人という文句を単に陳寿が引用したものであ」り、「魏志倭人伝」では、「倭(九州地方領域や朝鮮半島南部領域)に住んでいる人々を」「倭人」とは呼んでいないのである。
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「現在まで、すべての日本古代史家や古代研究者は「魏志倭人伝」の倭人を古代日本列島人の総称と思っているだろうが、編纂者の陳寿は優れた文人で、なおかつ、合理的で科学的な人物でもあったのか、倭(九州地方領域や朝鮮半島南部領域)に住んでいる人々を、固有の民族などとは安易に考えてはいなかった」のだと考えられる。
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「そして、当時の倭の領域は日本列島だけでなく朝鮮半島南部も含むことを陳寿は暗示している」のである。
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陳寿は、「倭の人々を「東夷伝」序文では「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中国失禮、求之四夷、猶信(夷狄の国)といえども、俎豆の象(儒教の礼などを守る現象)と述べて」おり、「また、「尊卑有差。計其道里、當在稽東治之東。其風俗不淫」で儒教の影響を受けて儒教の礼があり「倭の風俗というのはみだらではない」と述べている」が、これらの記述から、「陳寿は「漢書」の倭人は「儒教の語る君子に従順な人々」ほどに理解していた」ということが推察できる」
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2ch チャコの魔訶不思議な体験
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社会人になつたばかりのころ私は名古屋にいきなり単身赴任、しばらくしてギボさんに母親が透視相談に行ったときの話。
なんと、部屋の内部の配置から、どんな女の付き合っているか、など聞き出した。それが、皆当たっていたのです、内心驚いたものです。
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ギボさんが出ている番組で、探し物を見つける念を視聴者に送るというシーンで、念を受けるつもりで画面をジッと見ていた時、無意識に左手が動いて、本棚の本と本の間に挟まっていた1万円札をひっぱりだした。めちゃめちゃ驚いた。
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ドイツ連邦共和国
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ドイツ民主共和国
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そして、陳寿は「「倭」の人々を、固有の民族とは思っておらず、どうも漢人とは大差がないと認識していた気配があるし、かなり漢人系も倭の人々にはおり、雑種の人々とみていたようだ」
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下士
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中士
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上士
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元士
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卿士
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隠士
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荘士
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名士
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士族
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士大夫
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「「魏志倭人伝」では陳寿は「其使詣中國皆自稱大夫」(倭の人が中国に詣でるに皆自ら太夫と称す)と記述し」ているが、「太夫は春秋戦国時代の貴族のことで」あるので、「どうも陳寿は倭(古代北九州)の上層部には中国の貴族の末裔がいると考え」、「それを信じていた可能性がある」のである。
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「他方、「魏略」の「太伯の末裔」などは大それており信憑性がないと陳寿は考えていた」と考えられる。
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陳寿は「「魏志倭人伝」で①「人好捕魚腹水無深浅皆沈没取之」②「今倭水人好沈没捕魚蛤」③「舉家詣水中澡浴以如練沐」と記述して、河川で生活を営んでいる人々を生き生きと描写している」が、「このような倭の人々の暮らしは中国本土では黄河の東南域である徐州(昔の東海郡)や揚子江流域と似ている」ので、「陳寿は古代北九州の人々の一部というのは戦国時代の越や呉から逃れてきた貴族の末裔や、それら貴族に従属し逃れてきた人々の末裔であると思っていたのかもしれない」のである。
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ワあ
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霊能とは違うと思うが、大叔母が説明のしようがない不思議な力を持っていたので、何かしら持って生まれてきた人はいるんじゃないかな〜とは思ってる。
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世の中に偶然はない
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