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【何だかんだで】やる夫とパルスィ その7【続く】

1 ◆/BD1vqdu5c:2012/08/07(火) 21:38:44 ID:7FvaADV.0

          ´ /ヘ         ≠=‐ミ
        /            `ヽ  `ヽ::`:..
      /     U            \.......:::::::::ヽ
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     く:::::Y:::人   ′     u  j:::::::::::::::::::人ゝ
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.          ソ∨   ーr‐ ´ /      />< ス
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※オリジナル
※のんびり進行(遅筆ともいう)
※恋愛描写に自信なし
※小ネタとして他の話も同時進行しています
※合いの手歓迎

前スレ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1325498704/


1 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1309800091/
2 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1312516467/
3 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1315671064/
4 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1319288572/
5 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/12973/1323858926/

951名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:41:30 ID:m7ugntKU0
礼記の「刑不上大夫」から出た言葉。ただし、「刑不上大夫」は「礼不下庶人」と対になっており「大夫は廉恥を知る者のはずなので刑ではなく礼によって身を律する、庶人はそれができないので刑によって取り締まる」ということで本来は別に大夫を寛大に扱う趣旨ではなかった。

952名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:41:59 ID:m7ugntKU0
「党組」とは各国家機関・組織におかれた中国共産党の領導組織。正副書記と成員の数名で構成され、その構成員は当該機関の幹部と同一。坪田(2009年)、96ページ、脚注7。

953名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:42:13 ID:m7ugntKU0
中国共産党中央政治局(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうせいじきょく)は、中国共産党を指導し、政策を討議・決定する機関。

954名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:42:39 ID:m7ugntKU0
概要
中国共産党の最高指導機関は通常5年に一度開かれる全国代表大会(党大会)によって選出され、党大会閉会中にその職権を代行する党中央委員会であるが、中央委員会も毎年1回程度しか開かれないため、平常時における党の指導および政策決定は、中央委員会全体会議によって選出される党中央政治局が行う。政治局は中央委員会全体会議の閉会中に中央委員会の職権を行使し、党大会や中央委員会全体会議で採択された路線や方針、政策を執行する。中央政治局には上位機関として中央政治局常務委員会が置かれ、政治局常務委員会の意見に基づいて政治局会議が党の「全体局面に関わる活動方針、政策」を決定する[1]。なお、政治局会議は毎月1回の開催に対し、政治局常務委員会は毎週1回開催されており、政治局常務委員会が日常的に政策を計画、実施している。

中央政治局および中央政治局常務委員会は、次期党大会の開催中も党の日常活動を継続して行い、次期中央委員会で新しい政治局および常務委員会が選出されるまで業務を行う[2]。

中央政治局は1927年5月の第5期党中央委員会第1回全体会議(第5期1中全会)で設立された。1949年の中華人民共和国建国以降、中央政治局とその事務処理機構である中央書記処の構成員は、全国人民代表大会・国務院・中央軍事委員会などの国家機構、全国政治協商会議、党中央の各部門及び各地の重要な任務を担っている。このため、政治局委員・中央書記処書記・中央軍事委員会委員は「中国の指導部」とされる。

955名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:42:51 ID:m7ugntKU0
定年制
政治局常務委員には暗黙の了解として定年制が設けられており、1997年から党大会時に70歳、2002年からは68歳となっていた場合はメンバーとして留任できないこととなっている(七上八下)。ただしこれは制定時に特定の人物を排除するために作られた恣意的なものである[3]。なお、2017年の第19回党大会までは定年制が厳格に適用されており、定年制を破っての留任が取り沙汰されていた当時の中央規律検査委員会書記だった王岐山(後の国家副主席)が退任したが、2022年の第20回党大会では69歳の習近平のほか、新たに政治局員となった国務委員・外交部長の王毅、党中央軍事委員会副主席の張又侠が留任した一方、68歳に満たなかった、いずれも67歳の李克強(国務院総理・団派)と汪洋(中国人民政治協商会議全国委員会(中国語版)主席(中国語版)・団派)が退任したことで定年制は事実上形骸化することとなった[4]。

956名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:43:09 ID:m7ugntKU0
職権
日本の中国政治研究者である坪田敏孝によると、中央政治局の職権は以下の通り[5]。

党大会と中央委員会が確定した路線・方針・政策に基づいて、党中央の名義で発出する全体局面に関わる活動の方針、政策性の文書について討論、決定する。
中央政治局常務委員会の活動報告を聴取し、審査する。
党中央規律検査委員会、党中央軍事委員会、全国人民代表大会常務委員会党組、国務院党組が提出した重大事項について審議する。
党中央各部部長、各省・自治区・直轄市党委員会書記と国家機関各部長・委員会主任、各省省長・自治区主席・直轄市市長の任免の指名を審査・批准する。
中央委員会全体会議を毎年1回から2回開催する。
中央委員会に対して責任を負い、報告を行う。その監督を受ける。
会議制度
坪田敏孝の研究によると、中央政治局の会議制度は以下の通り[6]。

政策決定は一般に会議形式で行う。政治局会議は一般に毎月1回開催する。政治局も民主集中制と集団領導[7](指導)の原則を実行する。
問題について決定を行う際、少数は多数に従う原則に基づいて表決を行う。表決は無記名投票、挙手方法、その他の方式を採用できる。重要幹部の任免あるいは人選を指名する際は逐一表決しなければならない。表決結果は主宰者がその場で公表する。

957名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:43:34 ID:m7ugntKU0
政治局常務委員

958名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:43:52 ID:m7ugntKU0
政治局員

959名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:44:19 ID:m7ugntKU0
中央委員

960名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:44:34 ID:m7ugntKU0
中央候補委員

961名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:45:02 ID:m7ugntKU0
政治局委員

962名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:45:48 ID:m7ugntKU0
北京地質学院地質構造学部修士

963名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:46:06 ID:m7ugntKU0
延辺大学朝鮮語専攻

964名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:46:27 ID:m7ugntKU0
清華大学水利工程部

965名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:47:00 ID:m7ugntKU0
中国共産党中央書記処(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおうしょきしょ、簡体字:中国共产党中央书记处、繁体字:中國共產黨中央書記處、拼音: Zhōngguó Gòngchǎndǎng Zhōngyāng Shūjìchù)は、中国共産党中央政治局と中央政治局常務委員会の事務処理機構。他国の共産党や左翼系政党の書記局に当たる。略称は中共中央書記処や中央書記処など。構成員である書記は中央政治局常務委員会が指名し、中央委員会全体会議によって選出される。

沿革
1934年1月、第6期5中全会で中央政治局常務委員会が中央書記処と改称。中央委員会全体会議が閉会中、中央書記処は中央委員会の職権を行使するため、事実上の最高機関となる。
1956年9月、第8回党大会で中央書記処が改組され、再び中央政治局常務委員会が設置された。中央書記処は、中央政治局および中央政治局常務委員会の指導下で党の日常業務を処理する機構となり、中央委員会を代行する職権はなくなる。中央書記処の統括責任者として「中央書記処総書記」が設置され、鄧小平が総書記に就任。
第9回党大会(1969年4月)で、中央書記処は廃止。第11回党大会(1977年8月)まで設置されなかった。
1980年2月、第11期5中全会で中央書記処が再設置される。第8回党大会のときと同様、中央書記処は中央政治局および中央政治局常務委員会の指導下に置かれ、党の日常業務の処理機構となった。中央書記処総書記には胡耀邦が就任(1981年6月より党主席兼中央書記処総書記となる)。
1982]9月の第12回党大会において党主席制が廃止され、「中央委員会総書記」(党総書記)が設置される。胡耀邦は党総書記に就任し、中央書記処総書記は廃止される。中央書記処は引き続き党の日常業務の処理機構として存続する。
1987年11月の第13回党大会における党規約改正によって、中央書記処は中央政治局および中央政治局常務委員会の事務機構と位置づけられ、現在にいたる。

966名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:47:14 ID:m7ugntKU0
歴代中央書記処書記
第11期中央書記処
(任期:1980年2月-1982年9月)

序列 姓名 入党年月 兼任する職務 備考
1   胡耀邦 1933年9月 中央政治局常務委員、中央書記処総書記 初任
2   万里 1936年 国務院副総理 初任
3   王任重 1933年 国務院副総理、党中央宣伝部長 初任
4   方毅 1931年 国務院副総理 初任
5   谷牧 1932年7月 国務院副総理 初任
6   宋任究 1926年 党中央組織部長 初任
7   余秋里 1931年5月 国務院副総理 初任
8   楊得志 1928年10月 党中央軍事委員会常務委員、中国人民解放軍総参謀長 初任
9   胡喬木 1932年 中国社会科学院院長 初任
10   姚依林 1935年 国務院副総理 初任
11   彭冲 1934年8月 全国人民代表大会常務委員会副委員長 初任
12   習仲勲 1928年 全国人民代表大会常務委員会副委員長 1981年6月補選

967名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:47:41 ID:m7ugntKU0
中国共産党中央委員会総書記(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおういいんかいそうしょき)は、中国共産党の党首。中華人民共和国の指導政党である中国共産党中央委員会の最高指導者が就任する役職、本職にある者が同国の事実上の最高指導者となる。党中央政治局会議および党中央政治局常務委員会会議を招集し、党中央書記処の事務活動を主宰する。

略称は中共中央総書記、中共総書記、共産党総書記、党総書記など。江沢民がこの役職を務めて以降、中国共産党が中華人民共和国を指導していくことが謳われているため、総書記は共産党と国家の最高指導者とされる。江沢民、胡錦濤がこの役職を務めて以降、党中央軍事委員会主席を兼任し、実権を掌握している。現在の党総書記は習近平(第5代[注釈 1])。


ウィキソースに中国共産党規約の日本語訳があります。
中国共産党中央委員会総書記は中央委員会全体会議によって選出される。中央政治局常務委員から必ず選出される。総書記の職務権限は、中央政治局会議、中央政治局常務委員会会議の招集を行うほか、中央政治局と中央政治局常務委員会の事務組織である中央書記処を主宰し、各中央書記処書記の間の調整を行い纏めることである。(党規約第22条)

また、1980年開催の第11期5中全会で決議された「党内の政治生活に関する若干の準則(中国語版)」において、「集団指導制は党の指導の最高原則の一つである。中央から基層にいたる各級党委員会は、いずれもこの原則に基づいて集団指導と個人の分担責任を結合する制度を実行しなければならない。」「書記と委員は上下関係ではない。書記は党の委員会の中で平等な一員である。」などと定め、党の組織の集団指導の堅持と個人独裁の否定の原則が示されている[1][2]。(党内の政治生活に関する若干の準則、第2条)。

968名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:48:57 ID:m7ugntKU0
江 沢民(こう たくみん、簡体字: 江泽民、繁体字: 江澤民、拼音: Jiāng Zémín、チャン・ツェーミン、1926年8月17日 - 2022年11月30日[1])は、中華人民共和国の政治家。第3代中国共産党総書記、第4代党中央軍事委員会主席、第5代国家主席、第2代国家中央軍事委員会主席を務めた。

来歴
生い立ち
1926年8月17日、江蘇省江都県田家巷に誕生する。祖父の江石渓は安徽省徽州府婺源県の出身。本貫は安徽省寧国府旌徳県。江沢民の実父の江世俊(冠千)は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関ジェスフィールド76号に協力をしていたとされ[2]、日中戦争時代の日本の傀儡政権である汪兆銘政府の官吏だったとみられるが[3][4]、中国当局はこれを否定する[5]。

叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争時に地元匪賊に殺害された[6]。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父の江石渓からみて第6子にあたる叔父の江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠し、自らの「紅い血筋」を創りあげるためと考えられている[3][7]。

1943年に揚州中学を卒業した後、南京中央大学に入学する[2]。

日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業したために学歴上は上海交通大学卒業となり、江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。

969名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:49:28 ID:m7ugntKU0
テクノクラート
上海交通大学卒業後、上海市で益民食品第一工場や上海市石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年に第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任した。1962年に上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年に第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。

1970年に北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。1971年にルーマニアのチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国に滞在する。帰国後、第一機械工業部外事局長に就任。1980年8月、国家輸出入管理委員会副主任(次官)兼秘書長となり、翌月には国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長も兼務して、貿易・外国投資に関する業務を担当した。

1982年5月、新設された電子工業部の第一副部長(副大臣級)に任命される。同年9月、第12回党大会において中央委員に選出。1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任する。

970名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:49:42 ID:m7ugntKU0
胡 錦濤(こ きんとう、簡体字: 胡 锦涛、繁体字: 胡 錦濤、拼音: Hú Jǐntāo、フー・チンタオ、1942年12月21日 - )は、中華人民共和国の政治家。2002年から2012年まで中国共産党総書記・中国の最高指導者、2003年から2013年まで中国国家主席、2004年から2012年まで中央軍事委員会主席を歴任した。1992年から2012年まで、中国の事実上の最高意思決定機関である中国共産党政治局常務委員を務めた。

中国共産党では、貴州省・チベット自治区の党委員会書記を務め、厳しい反対意見の弾圧で上層部から注目された。江沢民のもとで中国共産党中央書記処第一書記、中華人民共和国副主席に出世した。胡錦濤は、内戦や共和国建国に参加した世代より若い世代の共産党の最初の指導者であった。宋平・胡耀邦・鄧小平・江沢民ら旧世代からの有力な支援者が彼の躍進を促した。

胡錦濤は在任中、前政権で緩和されていた経済の一部分野で国家統制を再び導入し、政治改革も保守的に行った。この間、胡錦濤は温家宝首相とともに、10年近くにわたる一貫した経済成長と発展を指揮し、中国を世界の主要な大国として確固たるものにした。胡錦濤は、「科学的発展観」を通じて、国内における社会経済的平等性の向上を図り、豊かで社会的紛争のない「調和のとれた社会主義社会」の建設を目指した。また、社会的混乱や少数民族の反発、反体制派を取り締まり、チベット騒乱や「反分裂国家法」の成立など、多くの物議を醸すことになった。外交政策では、胡錦涛は「中国の平和的発展」を唱え、国際関係におけるソフトパワーを追求し、企業外交を展開した。胡錦濤の在任期間中、アフリカ、中南米などの発展途上国での中国の影響力は増大した。

胡錦濤は謙虚で控えめな指導者であり、集団指導と合意に基づく統治を特徴としている。このため、胡錦濤は世間的には謎めいた存在であった。胡錦濤政権は、人格よりも技術的な能力を重視することで知られていた。胡錦濤は在任期間終了後、すべての役職から自主的に退いたことが高く評価された。後任には習近平総書記が就任した。

971名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:50:38 ID:m7ugntKU0
小学校から高校まで
胡錦濤は2人の妹と共に泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った[9]。1947年9月にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、1953年6月に10歳6か月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った[10]。

1956年9月、泰州第一中学校高等部1年4組に入学する[10]。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという[10]。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という[11]。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている[12]。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、卓球だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。1959年に清華大学へ入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時では最も若い新入生であった[12]。高校の数学教員の葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、と助言を与えたという。そこで胡は清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した[12]。ここの卒業生は、ほとんどが地方(または辺境)のダム(水力発電所)に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。

972名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:51:32 ID:m7ugntKU0
小学校から高校まで
胡錦濤は2人の妹と共に泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った[9]。1947年9月にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、1953年6月に10歳6か月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った[10]。

1956年9月、泰州第一中学校高等部1年4組に入学する[10]。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという[10]。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という[11]。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている[12]。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、卓球だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。1959年に清華大学へ入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時では最も若い新入生であった[12]。高校の数学教員の葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、と助言を与えたという。そこで胡は清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した[12]。ここの卒業生は、ほとんどが地方(または辺境)のダム(水力発電所)に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。

973名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:51:43 ID:m7ugntKU0
高校の数学教員の葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、と助言を与えたという。

974名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:52:41 ID:m7ugntKU0
天皇陛下

975名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:56:21 ID:m7ugntKU0
清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻

976名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:56:50 ID:m7ugntKU0
清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻

977名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:57:09 ID:m7ugntKU0
清華大学
1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。胡錦濤は友人に「本当は政治家ではなくエンジニアになりたかった」と語ったことがあるという[13]。胡が清華大学に入学した頃の中国は大躍進政策による農業政策の失敗と自然災害に起因する飢饉に見舞われており、学生の食事は質素なものであった。主食は小麦粉とトウモロコシの蒸しパン各1個ずつ、野菜炒め、白湯一杯であった。当時の清華大学の食堂には椅子がなく、学生たちは立ち食いしていた。胡のような南方出身の学生たちは、子供の頃から米食で育ったため、小麦粉とトウモロコシには慣れていなかった。彼らにとっては白米が一番の贅沢であった[14]。

同級生の回想によると、胡は歌とダンスが上手で、キャンパスで注目される存在であったという。入学後まもなく文芸宣伝工作団に入り、部隊隊長に選ばれた[15]。

978名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:57:42 ID:m7ugntKU0
劉 永清(りゅう えいせい、リュウ・ヨンチン、1940年〈民国29年〉10月3日 - )は、元中国共産党中央委員会総書記および元国家主席である胡錦濤の妻。

伝統的にファーストレディーとして求められる役割は主に国内向けのものであったが、国家指導者による外遊が増えるにつれ変わっていった。劉永清は夫の外国公式訪問に連れ立ち、世界中の慈善団体や文化施設を私的訪問した[1]。

979名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:58:09 ID:m7ugntKU0
来歴
劉永清は1940年に重慶で生まれ、巴蜀中学(英語版)に通った。後に夫となる胡錦濤とは北京の清華大学で出会った(夫は2学年下[2])。その後劉永清は北京都市計画委員会で働いた。

胡錦濤とは1970年4月に結婚した[3]。

夫と同様、劉永清の来歴や背景は海外では余り広くは知られていない。胡錦濤が国家主席になるまで、劉永清は実質上全く世間の耳目を集めなかった。胡錦濤自身も注目されることは好まず、政治的キャリアの中でも世間の関心を避ける傾向があった[1]。

980名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:58:29 ID:m7ugntKU0
子供
胡錦濤との間に1971年と1972年に胡海峰(中国語版)と胡海青(中国語版)の一男一女を儲けており、2人とも清華大学で教育を受けた。胡海峰はビジネスマンをしていたが、のち政界に入り、現在は浙江省嘉興市の市長を務めている。娘の胡海清は2003年に33歳で茅道林(中国語版)と結婚した[3][4]。

981名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:58:53 ID:m7ugntKU0
彭 麗媛(ほう れいえん、ポン・リーユアン、Peng Liyuan、1962年11月20日 - )は、中国の軍隊歌手。中国国家一級演員。

人民解放軍での階級は少将。人民解放軍総政治部歌舞団団長。現在の中国の第一夫人(ファーストレディ)であり、夫は現中国の最高指導者、党中央委員会総書記、党中央軍事委員会主席の習近平。 80年代初頭に「在希望的田野上」という曲で一世を風靡し、スター歌手となる。

中国では宋祖英・董文華・張也・李谷一・殷秀梅らとともに民族歌謡・愛国歌謡の大御所として知られる。

人物
山東省生まれ[1]。父親は町の文化会館の館長、母親は劇団員という芸術一家にて育つ。親族に中国国民党関係者がいたことから[1](母方の叔父と、黄埔軍官学校出身の叔母の夫が台湾にいた)、父親は文化大革命時に「右派の反革命」と批判された中で育つ [2]。14歳のときに山東芸術学校に入学し、18歳で人民解放軍の文芸兵となった後、20歳で中国中央電視台春節聯歓晩会に出演し、22歳で人民解放軍総政治部歌舞団に入団、同時に中国共産党党員となる。1987年に、知人の紹介で、当時廈門市副市長であった習近平と結婚した[1]。一人娘の習明沢(1992年生、ハーバード大学卒業)がいる[3][4]。妹の彭麗娟は浙江吉利控股集団董事長(取締役会長)の李書福の妻とされる[5]。

982名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:59:16 ID:m7ugntKU0
皇室の政治利用
「天皇特例会見」も参照
2009年11月8日から11月20日まで来日。自身が団長を務める人民解放軍総政治部の歌舞団は東京と札幌で中国歌劇『木蘭詩編』を公演し、彭麗媛本人は総芸術監督を務めた。学習院大学で公演した際に、皇太子徳仁親王が私的に会場を訪れて2階VIP席で皇太子と隣り合わせの席で観劇し、言葉を交わしたという。中国にとって、天皇との外交は「政治」そのものであり、近平と同様に、「皇室の政治利用」にて内政上の宣伝意図があったものとみられている。皇太子を呼んだ指揮者の堤俊作と宮内庁側から報道自粛の要請があったという(宮内庁側は否定)[7][8]。

第一夫人と「爆買い」
中国の第一夫人の好みは、中国人による「爆買い」にも影響を与える[9]。大手百貨店の髙島屋では、2016年2月期は外国人向けの免税対象として売れた真珠製品が2015年度の2倍となった[9]。宝飾大手のミキモト銀座店では真珠ネックレスなどを中心に外国人向けの売り上げが2015年の1.5倍に増えた[9]。中国景気の減速と習近平政権下での倹約令は、宝石業界には逆風となっていたが、2014年ごろから彭麗媛夫人が真珠を好んでいることが広く知られるところとなり、中国での真珠人気がそれまで以上に高まった[9]。宝石関連企業が集まる東京・御徒町では、中国人客が高品質の値段の高い真珠から順番に買っていくといわれる[9]。

983名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:59:44 ID:m7ugntKU0
叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争時に地元匪賊に殺害された[6]。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父の江石渓からみて第6子にあたる叔父の江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠し、自らの「紅い血筋」を創りあげるためと考えられている[3][7]。

1943年に揚州中学を卒業した後、南京中央大学に入学する[2]。

日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業したために学歴上は上海交通大学卒業となり、江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触れられることは少ない。1946年4月、中国共産党に入党。このときの江は、大学の党支部書記など指導的立場ではなく、一党員に過ぎなかった。

984名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 22:59:54 ID:m7ugntKU0
【大魔王】やる夫と4人の魔王様2【店長】

985名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:00:09 ID:m7ugntKU0
テクノクラート
上海交通大学卒業後、上海市で益民食品第一工場や上海市石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年に第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任した。1962年に上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年に第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。

1970年に北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。1971年にルーマニアのチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国に滞在する。帰国後、第一機械工業部外事局長に就任。1980年8月、国家輸出入管理委員会副主任(次官)兼秘書長となり、翌月には国家外国投資管理委員会副主任兼秘書長も兼務して、貿易・外国投資に関する業務を担当した。

1982年5月、新設された電子工業部の第一副部長(副大臣級)に任命される。同年9月、第12回党大会において中央委員に選出。1983年6月、電子工業部部長(大臣)に就任する。

986名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:00:25 ID:m7ugntKU0
上海市長・党委書記
1985年、上海市の実力者であり、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出。1987年11月、第13期党中央委員会第1回全体会議(第13期1中全会)において中央政治局委員兼上海市党委員会書記に昇進する。翌月に上海で発生した学生の民主化要求運動に対しては、学生と直接対話し説得した。

987名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:00:46 ID:m7ugntKU0
引退後
2004年9月に党中央軍事委員会主席を、2005年3月に国家軍事委員会主席を退いて一党員となったが、2007年11月の第17回党大会に出席した際にその席次が党総書記の胡錦濤に次ぐ第2位であるなど、依然として「党と国家の指導者」として遇されている。これは1990年代に鄧小平や陳雲らが受けた待遇に近い。また、2008年の旧正月には上海市党委書記と市長を伴って公式の場に現れ、健在振りを誇示した。北京オリンピックの開会式では胡錦涛夫妻の左隣に並んで出席した[33]。

2010年5月1日より上海万博が開催された。地元での万博開催は江沢民にとっても悲願であったが、4月30日に挙行された開会式には江沢民派の上海市長韓正が出席し、江の姿はなかった。このことが健康不安説や、上海閥の領袖として長きに渡り中国政界に君臨していたが、遂に胡錦濤派(共青団派)に完全に権力を握られたなど、様々な憶測を呼んだ[34]。同年12月には上海で開催された京劇俳優による歌唱大会を鑑賞したことが報道され、健在ぶりを示したが[35]、2011年4月に急病で入院。一時は意識を失うまで容態は悪化した。7月1日に開催された中国共産党創建90周年記念祝賀大会には欠席し、再び健康不安説が表沙汰になった[36]。その後まもなく香港や日本の一部マスメディアが死亡説を報じたが、実際には自宅療養しており[37]、8月ごろから回復。10月9日に人民大会堂で開催された辛亥革命100周年記念式典では、歩行に介助が必要ではあったものの出席を果たし、死亡説を払拭した[38][39]。

2015年9月3日の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では党総書記である習近平の左隣に胡錦濤とともに並んで健在ぶりをアピールした[40]。

2017年10月18日の中国共産党第十九回全国代表大会では党総書記である習近平の両脇に胡錦濤とともに並んで党の団結をアピールした[41]。最後に公の姿を見せたのは2019年10月1日に開催された建国70周年式典で[42]、96歳となっていた2022年10月16日に開幕した中国共産党第二十回全国代表大会には姿を見せなかった[43]。

988名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:01:08 ID:m7ugntKU0
韓国
朝鮮戦争以来敵対し、台湾と国交を持っていたアジア最後の国である大韓民国と1992年8月に国交正常化した[77]。同年9月29日に当時の盧泰愚大統領は中国を訪問した。盧泰愚の前任の全斗煥大統領も日本政府に対して中国の胡耀邦に韓国の国家承認を働きかけるよう要請し[78][79]、全斗煥の前任の朴正煕大統領も日本の財界の後押しで鄧小平と接触[80]するも何れも国交樹立には成功せず、中国が江沢民政権となってから中韓は急速に接近した。その後任の金泳三大統領も1994年に中国を訪問して江沢民と会談し、1995年11月13日には江沢民は中国の指導者としては初めて韓国を訪問した。1998年には金大中大統領は江沢民と「中韓協力パートナーシップ」構築で合意した[81]。

1990年3月、江沢民は北朝鮮を訪問した際に金日成国家主席に対して韓国との通商代表部設置を遅らせることは難しいと述べ[82]、1991年10月に金日成は生涯最後の外遊で訪中して中韓国交正常化の見送りを要請するも江沢民ら中国指導部は北朝鮮核問題の解決を求めた[82]。1992年7月に外交部長である銭其琛が訪朝して江沢民の中韓国交正常化の意向を金日成に伝えた際は恒例の宴会も開かれず、中朝関係は冷却化した[82]。2000年に鄧小平と犬猿の仲[83]だったとされる金正日が朝鮮労働党総書記就任後の初外遊で17年ぶりに訪中した際はその後に行われた初の南北首脳会談を調整したとされ[84]、南北等距離外交を基本とした。また、2001年に金正日が再び訪中した際はこれに同行した金正日の長男の金正男は江沢民の長男である江綿恒と会談して中国の太子党と親密になったとされる[85]。

989名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:01:24 ID:m7ugntKU0
ベトナム
中越戦争以来初めて中国を訪問したベトナムのグエン・ヴァン・リン書記長らと会談して、国境の非武装化や捕虜交換などの国交正常化を進めることで合意した[74]。中越戦争を「中国の侵略行為」として謝罪を求めるベトナムに対しては、「戦争の原因はベトナムのカンボジア侵攻」として、謝罪はしていない[75]。2002年2月末にベトナムを訪問した際、ベトナム側の首脳に対し、「もう過去のことは忘れよう」「(中越)両国は未来志向であるべきだ」と主張し、ベトナムで使用されている教科書から中越戦争の記述を削除するよう要求した[75][76]。

990名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:01:46 ID:m7ugntKU0
家族
1949年12月に結婚した王冶坪との間に2人の子息を儲けた。長男の江綿恒(中国語版)は中国科学院副院長(2015年1月まで)、上海科技大学の学長職を務める[113]。

年譜
1937年 - 揚州中学入学。
1943年 - 南京中央大学入学。
1945年10月 - 上海交通大学に転籍。
1946年4月 - 中国共産党に入党。
1982年9月 - 第12回党大会で、中央委員に選出。
1983年6月 - 電子工業部長(大臣)に就任。
1985年6月 - 上海市党委員会副書記に就任。
1985年7月 - 上海市長に就任。
1987年11月 - 第13期1中全会で、中央政治局委員・上海市党委書記に選出。
1988年4月 - 上海市長を退任。
1989年6月 - 第13期4中全会で、中国共産党中央委員会総書記・中央政治局常務委員に選出。
1989年11月 - 第13期5中全会で、中国共産党中央軍事委員会主席に選出。
1990年3月 - 第7期全国人民代表大会第3回会議で、中華人民共和国中央軍事委員会主席に選出。
1992年4月 - 中国共産党中央委員会総書記として初めて日本を訪れる。
1993年3月 - 第8期全人代第1回会議で、中華人民共和国主席に選出。
1998年11月 - 中国国家主席として初めて日本を訪れる(国賓)。
2000年2月 - 共産党の政権奪取によって階級闘争は終了したとして、永続的な階級闘争を否定する「三つの代表」思想を提起。
2002年11月 - 第16期1中全会で、党総書記・政治局常務委員を退任。
2003年3月 - 第10期全人代第1回会議で、国家主席を退任。
2004年9月 - 第16期4中全会で、党中央軍事委員会主席を辞任。
2005年3月 - 第10期全人代第3回会議で、国家中央軍事委員会主席を辞任。

991名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:03:03 ID:m7ugntKU0
中国 深圳が経済崩壊…ハイテク都市がなぜ急に終わってしまったのか

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992名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:03:44 ID:m7ugntKU0
電子工業部長

993名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:04:32 ID:m7ugntKU0
上海市党委員会副書記

994名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:04:57 ID:m7ugntKU0
中央政治局委員・上海市党委書記

995名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:05:19 ID:m7ugntKU0
中国共産党中央委員会総書記・中央政治局常務委員

996名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:05:39 ID:m7ugntKU0
中国共産党中央軍事委員会主席

997名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:05:59 ID:m7ugntKU0
中華人民共和国中央軍事委員会主席

998名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:06:19 ID:m7ugntKU0
中華人民共和国主席

999名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:07:09 ID:m7ugntKU0
鄧小平は1987年に政治局常務委員を辞任したが、軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位には留まった。さらに、第13期1中全会において、重要問題については引き続き鄧小平の指導を受けるという決議がなされた(この決議は秘密とされていたが、第二次天安門事件直前の1989年5月にソビエト連邦最高会議議長兼共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにした)。鄧小平は1989年に党中央軍事委員会主席の地位を江沢民に譲り、無位無官の身となったが、第13期1中全会の決議により、事実上の最高実力者として江沢民政権に影響力を発揮していた。なお、1994年9月の第14期4中全会において、中央指導体制の第2世代(鄧小平を中心とする世代)から第3世代(江沢民を中心とする世代)への移行が完了したとする公式声明が発表され、これにより鄧小平は政治指導から全て退くこととなった。

1000名無しのやる夫だお:2024/06/11(火) 23:07:28 ID:m7ugntKU0
第16回党大会に先立つ2001年、江が中国共産党創立80周年を記念する講話で「三つの代表」理論を初めて打ち出した際、保守派のイデオローグであった鄧力群らは「階級性こそ党の基本的属性であり、私営企業主の入党は党規約違反である」と批判し、江を「党大会や中央委員会に諮らず重大問題を個人で発表したことは、重大な党規約違反である」と弾劾した。




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