レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
「流刑地」
IP集積場
やる夫の魔王の道への粘着
58-188-8-81f1.osk2.eonet.ne.jp
固定IP
大学院
従来は、課程記号として博士前期課程(修士)にM、博士後期課程(博士)にDを使用していたが、2011年度の学籍番号の変更に伴い、各専攻についても略称表記(専攻記号)が導入された。
工学研究科
工学専攻
先端理工学コース(旧先端理工学専攻(旧・総合電子工学専攻)(博士(前期・後期)課程))
F 電子通信工学コース(旧電子通信工学専攻(博士(前期・後期)課程))
M 制御機械工学コース(旧制御機械工学専攻(博士(前期・後期)課程))
I 情報工学コース(旧情報工学専攻(博士(前期・後期)課程))
建築学コース(2022年4月新設)
医療福祉工学研究科
L 医療福祉工学専攻(博士(前期・後期)課程)
総合情報学研究科
Q デジタルアート・アニメーション学専攻(旧:メディア情報文化学専攻)(博士前期課程)
W デジタルゲーム学専攻(博士前期課程)
T コンピュータサイエンス専攻(博士(前期・後期)課程)
【学歴厨死亡】「無能な高学歴が淘汰される時代はもう来ています」勉強だけ出来るバカの末路がこちらです【岡田斗司夫 / 切り抜き / サイコパスおじさん】
同人時代
1978年(昭和53年)、大阪電気通信大学も参加して発足していた関西学生SF研究会連盟の会合に顔をだすようになる。ここで武田康廣と出会う。同年、第17回日本SF大会 (ASHINOCON) に参加し、武田康廣と共に舞台で話芸を披露。「関西芸人」の異名を取る[17]。
1979年(昭和54年)、関西学生SF研究会連盟が大阪で主催した第4回SFショーの事務局長を務める[18]。本来は日本SF大会の大阪第3回大会 (DAICON3) を開こうとしたものだったが、開催ルールを知らなかったため認められず、野田昌宏が始めたイベントのSFショーの名を借りて開催した[19]。企画・構成・演出を務め、桂枝雀のSF落語やコスチュームショーなどを企画構成した[18]。
1981年(昭和56年)、第20回日本SF大会 (DAICON3) を開催。オープニングでDAICON FILMの自主製作アニメーションを上映。会場でグッズやガレージキットを販売したり、自主制作作品のビデオ販売で大会の赤字を補填できたことなどにより、このジャンルがマニア向けのビジネスになると直感し、両親からの出資を得て実家の会社の一部門として1982年(昭和57年)にSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を開店する[18]。
1982年(昭和57年)、脚本を執筆したDAICON FILMの自主製作映画『愛國戰隊大日本』がSF界で論争になる[20]。同年6月27日に放送の劇場アニメ『伝説巨神イデオン』の宣伝番組に武田康廣と共に「双子の悪魔」としてテレビ出演し、数々のパフォーマンスを演じた[21]。
1983年(昭和58年)には、DAICON FILMの自主制作映画『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(総監督・主演:庵野秀明)の脚本を執筆した。
ガイナックス設立
岡田はゼネラルプロダクツの女性従業員と不倫関係に陥り[いつ?]、女性が岡田との関係に悩んで周囲の人間に相談したことから不倫が発覚した。岡田は周囲から「軽蔑する」などと非難され、大阪にいられなくなったと実感する。同時期、大阪での活動に限界を感じていた山賀博之は岡田の窮地を契機と考え、岡田を東京進出に誘う。岡田は自身の利害と一致していたため、山賀の誘いに乗り、東京進出を決めた[22][23][24]。
1984年(昭和59年)、アニメ制作会社「ガイナックス」を設立し、代表取締役に就任する。アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、OVA『トップをねらえ!』、NHKテレビアニメシリーズ『ふしぎの海のナディア』や、PC用ゲームソフト『プリンセスメーカー』などのヒット作を生み出す。
1992年(平成4年)、岡田自ら企画したPC用ゲームソフト電脳学園シナリオI Ver2.0が有害図書指定され、宮崎県を提訴して最高裁まで争うが棄却される。その後、ガイナックスはEOCSに加入する[要出典]。同年、岡田はガイナックスを退社する。退社についてネット上では会社内での不仲説などが流れたが、岡田と共に同社を立ち上げた武田は「社長でありながら仕事をしなくなった岡田に会社を辞めるよう迫った結果だ」とし[17]、岡田本人は、著書『フロン』において「子供が生まれてからSFや美少女モノの話が作れなくなってしまったため」と語っている。
フリックス (FREEex) とは、岡田斗司夫が2010年(平成22年)に設立した後援会的組織「オタキングex」を前身とする組織。前身組織から引き継いだ "ex" は「未来への可能性」を意味する拡張子に由来し、現組織名は、"free" との合成で「自由の未来への可能性」などといった意味合いをもって命名された。自由でこそ本来のポテンシャルを活かせる岡田を自由に活動させ、そこから生まれるものを岡田以外の者が自由に利用できるようにすることを設立理念とする。作家・評論家としての岡田斗司夫のコンテンツを著作権フリー化し、無料で世の中に広めることを重要な目的および手段としている。上記の騒動により、団体代表を退いている。
人物
オタキング
「オタキング」とは、日本語の俗語「おたく」と外来語「キング」の合成語で「オタク王」を意味する自称で他称。「オタクのカリスマ」[49]「おたくの教祖」とも称される。
戯画的にオタクを演じることでオタクの顔であった宅八郎に替わり、1996年(平成8年)からオタク関係の著書を立て続けに出版し、並行して各種メディアに頻繁に露出するようになり、そのなかでオタクをひたすら擁護・称揚して、それまでネガティブなイメージであったオタクの社会的地位向上のための言論活動を1998年(平成10年)まで行なった[50][51]。
オンリーワン
自分はナンバーワンよりオンリーワンになることを望む」と、2000年(平成12年)の自著『人生テスト─人を動かす4つの力』の中で語っている[52]。例えば、1982年(昭和57年)に開店したSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」は大成功を収めていたが、同じような業態の競合店が増えてくると、そのなかで競争することにはあまり興味がなく、経営から手を引いたうえでアニメ制作会社ガイナックスを仲間と設立し、アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の製作に注力していた。
岡田 斗司夫(おかだ としお[3]、(1958年〈昭和33年〉[3]7月1日 - )は、日本のプロデューサー、評論家、文筆家、実業家、企画者、講演者。本名同じ[1]。
株式会社オタキング代表取締役、株式会社クラウドシティ代表取締役、FREEex設立者、株式会社ガイナックス元代表取締役社長(初代)、東京大学教養学部元非常勤講師、大阪芸術大学芸術学部キャラクター造形学科元客員教授。
大阪市[3]住吉区出身、東京都武蔵野市吉祥寺在住[4]。大阪電気通信大学中退[5][6]。血液型O型[7]。離婚歴あり、独身[2]。通称、オタキング[3]。
生い立ち
1958年(昭和33年)7月1日、大阪市住吉区で暮らす岡田家に、一男一女の第2子として生まれた。出生した場所は大阪府立病院。「斗(闘い)を司(司る)夫(ますらお)」の意で名付けられた[8]。
1963年(昭和38年)、住吉区遠里小野[gm 1]にある遠里幼稚園に入園した。幼稚園2年目で既に漢字が読めるなど早熟であったため、幼稚園は無意味だから辞めたいと主張し、父母らの同意のうえで1964年(昭和39年)に退園する[5]。
この頃、家計は貧窮し、ご飯のおかずはきな粉という食生活で、長屋に3家族で生活していた[注 1]。幼少時に学校で受けた知能検査で、知能指数が148以上あることを知り、頭が良いのなら宿題などは単なる機会損失に過ぎないと、以後の勉学を放棄した[5]。この頃の夢は科学者になることであった。大阪市立遠里小野小学校入学[9]。父親はUFOや超能力などオカルト好きで、中でも横山光輝の『バビル2世』の大ファンで[6]、父親が買ってきたUFO関連の書籍を拾い読みし、日本万国博覧会(大阪万博)の御当地という環境もあって科学・物理方面に明るい子供となり、父親と空想上の乗り物の内燃機関について互いに知恵を絞っていた[要出典]。
小学三、四年生の頃、働き詰めに働く母が内職(縫製)の規模を拡大させて有限会社岡田刺繍を設立すると、父が教師を辞めて社長に就任した[10]。
大阪市立三稜中学校へ進学。中学では友人から機材を借りて自主短編映画を撮影し、学校の行事などで上映していた。この頃の岡田はSF作家になることを夢見る少年であったが、知識とアイデアは大量に出てくるが、それを創作物という形にするのは全く別の才能だということを悟る。映画・特撮・アニメーション・模型・空想科学の流行に没頭。浜村淳のラジオ番組『ヒットでヒット バチョンといこう!』の「もし地球の自転が停止したら」という投稿コーナーで「地球の自転が停止したとしても、エネルギー保存則まで消えてしまうわけではない。行き場をなくした膨大な運動エネルギーは瞬時にして熱エネルギーに変換され、あっというまに地球は灼熱の惑星となって生物は絶滅する」と投稿し、これが浜村に絶賛された[11]。
1974年(昭和49年)、大阪府立今宮高等学校へ進学する。事業の成功により家が新築され、コップの水が凍る程強力な業務用エアコンが設置された45畳の部屋が岡田の自室として宛がわれ、20歳までの3年間で蔵書が1万7千冊以上となる[12]。テレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』を観て衝撃を受け、父親を説得して当時30万円するビデオテープレコーダ「Uマチック」を買ってもらった[13]。当時60分で14,000円したビデオテープは1本しかなく[注 2]、何度も再生して暗記しては上書き録画した。1977年(昭和52年)、同校を卒業するも、大学受験に失敗し、夕陽丘予備校に通い始める[6]。
1978年(昭和53年)、コンピュータを学ぶために大阪電気通信大学に入学する[14]ものの、当時発足していた「SF&アニメーション研究会」へ入部し、学業以外の打ち込める場所をここに得て没頭し始める。のちに大阪芸術大学の講義で本人が語ったところによれば、一年生の時に履修届を丸々忘れてしまい、以降4年間は大学へ行くふりをしながら両親には仕送りを続けてもらい、籍を置いたままファン活動にのめり込んでいる。同年、映画『スター・ウォーズ』が日本で公開されると熱烈なファンになった。幼少時から家業の縫製技術を見て育った岡田青年は、どういうわけか「大魔神」の衣装を自作して扮装し、梅田の映画館「OS劇場」に出向いて初公開を待ちわびる人々の行列に並ぶも、全身黒づくめの巨漢に不安を感じたと思われるイベント会社の社員に入館を拒まれて小競り合いになる。後日語ったところによれば、ダース・ベイダーなど同映画のキャラクターではなく何の関係も無い大魔神のコスプレをして行ったことに対して、当時OS劇場でアルバイトをしていた竹内義和に「なんで大魔神やねん!?」と怒られたという。
ある日家に立ち寄ってみると3階建てであったはずの実家が4階建てへと増築されており、最上階の1フロアが丸々「巨大な神殿」に変わっていた。父親からは「今日からお母ちゃん(神道系の)神さんやで」と告げられて驚愕する[15]。訊けば、かねてより会社の収益が税金として徴収される理不尽さに嘆いていた母が税金対策として新興宗教を立ち上げ、実母自らが教祖となっていた[15]。家庭から出てゆくお金を少しでも減らそうとしたにも拘わらず、宗教法人としての必要経費の方が零細企業である有限会社岡田刺繍のそれに比べて大きすぎ、結局は素直に税金を納めていたほうがマシというのが実態であった[15][16]。
同人時代
1978年(昭和53年)、大阪電気通信大学も参加して発足していた関西学生SF研究会連盟の会合に顔をだすようになる。ここで武田康廣と出会う。同年、第17回日本SF大会 (ASHINOCON) に参加し、武田康廣と共に舞台で話芸を披露。「関西芸人」の異名を取る[17]。
1979年(昭和54年)、関西学生SF研究会連盟が大阪で主催した第4回SFショーの事務局長を務める[18]。本来は日本SF大会の大阪第3回大会 (DAICON3) を開こうとしたものだったが、開催ルールを知らなかったため認められず、野田昌宏が始めたイベントのSFショーの名を借りて開催した[19]。企画・構成・演出を務め、桂枝雀のSF落語やコスチュームショーなどを企画構成した[18]。
1981年(昭和56年)、第20回日本SF大会 (DAICON3) を開催。オープニングでDAICON FILMの自主製作アニメーションを上映。会場でグッズやガレージキットを販売したり、自主制作作品のビデオ販売で大会の赤字を補填できたことなどにより、このジャンルがマニア向けのビジネスになると直感し、両親からの出資を得て実家の会社の一部門として1982年(昭和57年)にSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」を開店する[18]。
1982年(昭和57年)、脚本を執筆したDAICON FILMの自主製作映画『愛國戰隊大日本』がSF界で論争になる[20]。同年6月27日に放送の劇場アニメ『伝説巨神イデオン』の宣伝番組に武田康廣と共に「双子の悪魔」としてテレビ出演し、数々のパフォーマンスを演じた[21]。
1983年(昭和58年)には、DAICON FILMの自主制作映画『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』(総監督・主演:庵野秀明)の脚本を執筆した。
ガイナックス設立
岡田はゼネラルプロダクツの女性従業員と不倫関係に陥り[いつ?]、女性が岡田との関係に悩んで周囲の人間に相談したことから不倫が発覚した。岡田は周囲から「軽蔑する」などと非難され、大阪にいられなくなったと実感する。同時期、大阪での活動に限界を感じていた山賀博之は岡田の窮地を契機と考え、岡田を東京進出に誘う。岡田は自身の利害と一致していたため、山賀の誘いに乗り、東京進出を決めた[22][23][24]。
1984年(昭和59年)、アニメ制作会社「ガイナックス」を設立し、代表取締役に就任する。アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、OVA『トップをねらえ!』、NHKテレビアニメシリーズ『ふしぎの海のナディア』や、PC用ゲームソフト『プリンセスメーカー』などのヒット作を生み出す。
1992年(平成4年)、岡田自ら企画したPC用ゲームソフト電脳学園シナリオI Ver2.0が有害図書指定され、宮崎県を提訴して最高裁まで争うが棄却される。その後、ガイナックスはEOCSに加入する[要出典]。同年、岡田はガイナックスを退社する。退社についてネット上では会社内での不仲説などが流れたが、岡田と共に同社を立ち上げた武田は「社長でありながら仕事をしなくなった岡田に会社を辞めるよう迫った結果だ」とし[17]、岡田本人は、著書『フロン』において「子供が生まれてからSFや美少女モノの話が作れなくなってしまったため」と語っている。
メソッド
レコーディング・ダイエット
詳細は「レコーディング・ダイエット」を参照
岡田斗司夫が2007年(平成19年)の著書『いつまでもデブと思うなよ』[48]で紹介したダイエット法である。日々摂取する食物とそのカロリーを記録することで、自分が摂取しているカロリー、食事の内容、間食などを自覚し、食生活の改善につなげるというものである。
フリックス
詳細は「フリックス」を参照
フリックス (FREEex) とは、岡田斗司夫が2010年(平成22年)に設立した後援会的組織「オタキングex」を前身とする組織。前身組織から引き継いだ "ex" は「未来への可能性」を意味する拡張子に由来し、現組織名は、"free" との合成で「自由の未来への可能性」などといった意味合いをもって命名された。自由でこそ本来のポテンシャルを活かせる岡田を自由に活動させ、そこから生まれるものを岡田以外の者が自由に利用できるようにすることを設立理念とする。作家・評論家としての岡田斗司夫のコンテンツを著作権フリー化し、無料で世の中に広めることを重要な目的および手段としている。上記の騒動により、団体代表を退いている。
【としおが嫌いな人達】「お前は100%間違ってる」相手を否定して自分の非を一切認めない論の張り方。そんな下品な勝ち方するなら僕は負けで結構です【岡田斗司夫/切り抜き/サイコパ
人物
オタキング
「オタキング」とは、日本語の俗語「おたく」と外来語「キング」の合成語で「オタク王」を意味する自称で他称。「オタクのカリスマ」[49]「おたくの教祖」とも称される。
戯画的にオタクを演じることでオタクの顔であった宅八郎に替わり、1996年(平成8年)からオタク関係の著書を立て続けに出版し、並行して各種メディアに頻繁に露出するようになり、そのなかでオタクをひたすら擁護・称揚して、それまでネガティブなイメージであったオタクの社会的地位向上のための言論活動を1998年(平成10年)まで行なった[50][51]。
オンリーワン
自分はナンバーワンよりオンリーワンになることを望む」と、2000年(平成12年)の自著『人生テスト─人を動かす4つの力』の中で語っている[52]。例えば、1982年(昭和57年)に開店したSFグッズ専門店「ゼネラルプロダクツ」は大成功を収めていたが、同じような業態の競合店が増えてくると、そのなかで競争することにはあまり興味がなく、経営から手を引いたうえでアニメ制作会社ガイナックスを仲間と設立し、アニメ映画『王立宇宙軍 オネアミスの翼』の製作に注力していた。
同人時代
1978年(昭和53年)、大阪電気通信大学も参加して発足していた関西学生SF研究会連盟の会合に顔をだすようになる。ここで武田康廣と出会う。同年、第17回日本SF大会 (ASHINOCON) に参加し、武田康廣と共に舞台で話芸を披露。「関西芸人」の異名を取る[17]。
大阪電気通信大学は、1941年に創設された東亜電気通信工学校を直接の起源としている。創立に際し、大阪無線電信学校の関係者が多く関わったことなどから、両校は近い関係にあったが、組織としては別である。1956年に大阪無線電気学校は大阪電気通信高等学校に統合された。
施設
寝屋川キャンパス
メディアコミュニケーションセンター
図書館
実験センター
3D造形先端加工センター
メカトロニクス基礎研究所
衛星通信研究施設
情報学研究所
エレクトロニクス基礎研究所
自由工房
エコラボ
四條畷キャンパス
先端マルチメディア合同研究所
臨床工学実習室
運動解析実習室
図書館
コナミホール
KOZUKIホール
第1グラウンド
第2グラウンド(全天候型陸上競技場)
大阪電気通信大学チャンネル
大阪電気通信大学ドラマチャンネル「電ch!(でんチャン)」とは、同学の学生が、テレビ局やプロスタッフの協力のもと、監督を始め主なスタッフを務める、産学連携による連続テレビドラマを制作・放映するプロジェクトである。
同学の産学連携に対する中心的施設である先端マルチメディア合同研究所“Joint Institute for Advanced Multimedia Studies”(JIAMS:ジェイムス)の産学連携プロジェクトの一環として、現役の学生が監督や脚本を含む演出や各技術パートにおける主だったスタッフを務め、学外プロスタッフ(映像制作会社)や学内プロスタッフ(教員やJIAMS所属研究員)らの指導と協力のもとに企画・制作を行う制作体制で行われている。日頃コンテンツ分野の研究教育を柱とした、総合情報学部のデジタルアート・アニメーション学科や、デジタルゲーム学科に所属する学生や教員が中心となり、制作・放映が行われている。
他大学等との連携・協定
大学コンソーシアム大阪加盟
北京科技大学(中国)
ブリティッシュコロンビア大学(カナダ)
湖西大学校(韓国)
ユトレヒト芸術大学(オランダ)
アムステルダム応用科学大学(オランダ)
江南大学(中国)
サン・カルロス大学(フィリピン)
外部リンク
大阪電気通信大学
大阪電気通信大学チャンネル
表話編歴
学校法人大阪電気通信大学
関連項目
典拠管理データベース ウィキデータを編集
スタブアイコン
この項目は、大学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:教育/PJ大学)。
カテゴリ: 大阪電気通信大学大阪府の私立大学
アクセス
寝屋川キャンパス
学部 - 工学部、情報通信工学部
大学院 - 工学研究科
京阪本線 寝屋川市駅から徒歩約7分。
京阪バス「電通大寝屋川キャンパス」下車。
駅前キャンパス
[icon]
この節の加筆が望まれています。
京阪本線 寝屋川市駅下車すぐ。
四條畷キャンパス
学部 - 医療福祉工学部、総合情報学部
研究科 - 医療福祉工学研究科、総合情報学研究科
JR西日本学研都市線 忍ケ丘駅から徒歩約20分。
JR西日本学研都市線 四条畷駅から近鉄バスで「四條畷電通大」下車。
京阪本線 大和田駅・寝屋川市駅から京阪バスで「電通大四條畷キャンパス」下車。
【次の時代を生き残る唯一の方法】どこの業界ならマシ、なんてことはありません。「資格?スキルアップ?今さらやっても無駄だよ」【沈みゆく日本】【岡田斗司夫 / 切り抜き / サイコ
地方公共団体との連携・協定
以下の地方公共団体、企業等と連携・協定を締結している。
寝屋川市 - 包括連携協定(大学および学校法人との間で)
四條畷市 - 包括連携協定(学校法人との間で)
茨城県教育委員会 - プログラミング教育に係る連携協力に関する基本協定
大阪市教育委員会 - プログラミング教育に係る連携協力に関する連携協定
寝屋川市教育委員会 - プログラミング教育に係る連携協力に関する連携協定
四條畷市教育委員会 - プログラミング教育に係る連携協力に関する連携協定
沿革
大阪電気通信大学は、1941年に創設された東亜電気通信工学校を直接の起源としている。創立に際し、大阪無線電信学校の関係者が多く関わったことなどから、両校は近い関係にあったが、組織としては別である。1956年に大阪無線電気学校は大阪電気通信高等学校に統合された。
1924年(大正13年) 大阪無線電信電話学校開設
1932年(昭和7年) 大阪無線電気学校として認可される
1934年(昭和9年) 室戸台風による校舎倒壊のため、泉北郡千舌鳥村の仮校舎で授業再開
1936年(昭和11年) 東住吉区の新校舎に移転
1941年(昭和16年) 東亜電気通信工学校ならびに大阪高等通信工学院が認可され、設置される
1943年(昭和18年) 東亜電気通信工学校が甲種工業学校に昇格し、東亜電気通信工業学校と改称。財団法人東亜電気通信工業学校が認可。同年9月、国家総動員法により、大阪無線電気学校、大阪高等通信工学院が官立無線電信講習所大阪支所に移管され、廃校となる[注 1]
1948年(昭和23年) 東亜電気通信工学校が新制工業高等学校に昇格し、東亜電気通信高等学校に校名変更。同時に付属中学校を開設
電気通信大学(でんきつうしんだいがく、英語: The University of Electro-Communications)は、東京都調布市調布ヶ丘一丁目5番1号に本部を置く日本の国立大学。1918年創立、1949年大学設置。略称は電通大、UEC。
概観
大学全体
講堂
1918年に社団法人電信協会に無線電信講習所が設立されたことが起源である。 その創立経緯から当初は電気通信に関する研究教育が中心であったが、電子工学、機械工学に分野を広げ、今日では情報通信分野に重点がある工学系の単科大学である点が特徴的である。
名称
地名の付かない大学名を採用することで「日本全国に開かれた大学を造る」という建学精神を表している。2020年現在、国立大学法人が設置する学部組織を持つ大学で唯一地名(都市名、地域名)が入らない大学である[1][2][注 1]。
英語表記は The University of Electro-Communications(略称: UEC)である[3]。また、創立100周年に向けての大学のビジョンとして、UECを頭文字に用いて「Unique & Exciting Campus」を掲げている。
学部名の「電気通信学部」も国内唯一であったが、2010年(平成22年)に「情報理工学部」へと名称変更、私立大学を含めてもその名称は珍しかった[注 2]。
2018年の100周年を迎えるにあたり、学際色を打ち出すため、2016年に「情報理工学域」とそのⅠ類〜Ⅲ類の3類に改組した[4]。
広告代理店の電通とは無関係である。
理念
電気通信大学は「人類の持続的発展に貢献する知と技の創造と実践を目指す」として、以下の3つの理念を掲げている[5]。
万人のための先端科学技術の教育研究
自ら情報発信する国際的研究者・技術者の育成
時代を切り拓く科学技術に関する創造活動・社会との連携
大学設置 1949年
創立 1918年
学校種別 国立
設置者 国立大学法人電気通信大学
本部所在地 東京都調布市調布ケ丘一丁目5番1号
北緯35度39分21.9秒 東経139度32分38.6秒座標: 北緯35度39分21.9秒 東経139度32分38.6秒
キャンパス 調布ケ丘(東京都調布市)
学部 情報理工学域
研究科 情報理工学研究科
理念
電気通信大学は「人類の持続的発展に貢献する知と技の創造と実践を目指す」として、以下の3つの理念を掲げている[5]。
万人のための先端科学技術の教育研究
自ら情報発信する国際的研究者・技術者の育成
時代を切り拓く科学技術に関する創造活動・社会との連携
沿革
略歴
電気通信大学の起源は1918年(大正7年)東京市麻布区飯倉町(現・港区飯倉)に社団法人電信協会が設立した無線電信講習所である[4]。 1942年(昭和17年)に逓信省に移管され官立無線電信講習所となり、大戦中の1945年に中央無線電信講習所と改称された。1948年には所管が文部省に移り、1949年(昭和24年)に新制大学に改組されて「電気通信大学」が誕生した。1957年(昭和32年)に目黒区 (旧: 荏原郡目黒村)から調布市[注 3]に移転、1980年代には学部・大学院の改組が行われ(後述の沿革を参照)、2004年度(平成16年度)には国立大学法人となり、現在に至っている。
年表
1893年 電信協会設立。
1916年 安中電機製作所が敷地内に帝国無線電信講習会を設立。
1918年 社団法人電信協会無線電信講習所が創立、この年を以って電気通信大学の創立年とする。
1920年 荏原郡目黒村下目黒(現・目黒区)に移転。
1942年 逓信省に移管。官立無線電信講習所となる。
1944年 藤沢分教場を開設。
1945年 4月(戦時中)、中央無線電信講習所に改称。
1948年 文部省に移管。
1949年 新制電気通信大学となる。
1952年 北多摩郡調布町の東京学芸大学分教場の校地に調布校舎開設。
1953年 電気通信大学短期大学部を併設。
1957年 目黒校舎から調布校舎へ移転統合を完了。
1988年 電気通信学部改組、5学科制へ移行と同時に夜間主コースを設置。これに伴い短期大学部募集停止。
1999年 電気通信学部改組、7学科制へ移行。
2004年 文部科学省直轄より、国立大学法人法施行に伴い「国立大学法人電気通信大学」となる。
2007年 情報システム学研究科改組、4専攻制へ移行。
2010年 4月1日、電気通信学部および電気通信学研究科を情報理工学部(4学科)および情報理工学研究科(4専攻)に、夜間主コースを先端工学基礎課程に改組。
2012年5月7日、「UEC保育園どんぐり」を開設。女子率の低さを改善すべく打たれた策の一つであり、育児と学問を両立できる環境が整備された[6]。
2016年4月1日 - 1学部4学科+先端工学基礎課程、大学院2研究科8専攻であったのを1学域3類+先端工学基礎課程、1研究科4専攻に改組[7]。
2017年4月1日 - オープンイノベーション拠点「UECアライアンスセンター」を核とする100周年キャンパス"UEC Port"を開設[8]。
2019年4月1日 - 東京外国語大学、東京農工大学と文理協働の共同サステイナビリティ研究専攻を設置[9][10]、1学域(3類+1課程)、1研究科(5専攻)となる。
基礎データ
所在地
公式所在地(東地区キャンパス) - 東京都調布市調布ケ丘1丁目5番地1
西地区キャンパス - 東京都調布市富士見町2丁目11番地
100周年キャンパス (UEC Port) - 東京都調布市小島町1丁目1番地1
多摩川グラウンド - 東京都調布市多摩川7丁目38番地1
菅平宇宙電波観測所 - 長野県上田市菅平高原字菅平1223番地
電通大スカイオフィス - 渋谷区神宮前5丁目52番2号 青山オーバルビル15階
象徴
校章
周波数比5対6のリサジュー図形に「大學」の文字をあしらった図案[11]。
新制大学発足時の1949年、学生・教職員を対象に懸賞募集を行い、松村定雄教授から出された図案が採択された
描かれている曲線は、周波数比 5 : 6、位相差0度で得られる
「5 : 6」は東日本と西日本それぞれの商用電源周波数、50ヘルツと60ヘルツに対応している。これにより、日本全体の調和と、地名が付かない唯一の国立大学として開かれた機関たらんとする建学の精神を表している。
コミュニケーションマーク
2010年4月の改組に合わせて制定された[11][12]。大学の略称である「UEC」と所在地の「TOKYO」を使用したデザインとなっている。制定以降、大学のウェブサイトや広告・看板などは校章に代わってコミュニケーションマークが採用されている[11]。 2021年10月1日にコミュニケーションマークのマイナーチェンジが行われ、所在地を示す「TOKYO」が削除された[13][14]。
スクールカラー
2010年11月24日から2021年10月1日までのスクールカラーはDICカラーガイドシリーズの256番 (DIC256)であり、「UECブルー」の呼称が定められていた[11][15]。
DIC256
CMYK C=90, M=90, Y=17, K=0
RGB値 R=26, G=26, B=212
WEBカラー #1A1AD4
色 ■
コミュニケーションマークのマイナーチェンジに合わせ、2021年10月1日以降のスクールカラーにはDICカラーガイドシリーズのF209番 (DIC-F209)が指定された[13][14] 。
DIC-F209
CMYK C=100, M=95, Y=0, K=0
RGB R=23, G=40, B=139
WEBカラー #17288B
色 ■
教育および研究
組織
電通大100周年に向けた「UECビジョン2018」の一環として2010年に学部改組が行われ、2016年度には「学域・類」に改組された。2018年現在、1学域3類1課程、1研究科4専攻から構成される。
情報理工学域
※2024年度時点
Ⅰ類(情報系)
教育プログラム[注 4][16]:メディア情報学、経営・社会情報学、情報数理工学、コンピュータサイエンス、デザイン思考・データサイエンス[注 5][17]
Ⅱ類(融合系)
教育プログラム[注 4][16]:セキュリティ情報学、情報通信工学、電子情報学、計測・制御システム、先端ロボティクス
Ⅲ類(理工系)
教育プログラム[注 4][16]:機械システム、電子工学、光工学、物理工学、化学生命工学
先端工学基礎課程(夜間主課程)
大学院情報理工学研究科
2016年度以降、学部組織を持たない独立研究科である情報システム学研究科が廃止され、情報理工学研究科に一本化された。博士前期課程と後期課程を設置している。
情報学専攻(J専攻)
教育プログラム[7]:メディア情報学、経営・社会情報学、セキュリティ情報学、デザイン思考・データサイエンス[注 5][17]
情報・ネットワーク工学専攻(I専攻)
教育プログラム[7]:情報数理工学、コンピュータサイエンス、情報通信工学、電子情報学
機械知能システム学専攻(M専攻)
教育プログラム[7]:計測・制御システム、先端ロボティクス、機械システム
基盤理工学専攻(S専攻)
教育プログラム[7]:電子工学、光工学、物理工学、化学生命工学
共同サステイナビリティ研究専攻
スーパー連携大学院
新たなイノベーションを創出する博士を育成するため、2010年(平成22年)11月18日に『スーパー連携大学院コンソーシアム』を結成、翌年度から学生の受け入れを開始した。これは、所属する大学院と並行して、所定の産学官共同研究、他大学受講を行う大学院教育プログラムであり、文部科学省の2008年(平成20年)度「戦略的大学連携支援事業」教育研究高度型に採択された。修了時の博士号は「イノベーション博士サーティフィケート」である。2018年6月現在、9大学、15の株式会社、研究機関、財団法人、社団法人、個人などから構成され、本学はその正会員となっている[18]。
附属機関
総合コミュニケーション科学推進機構
総合コミュニケーション科学推進室
研究センター
2019年4月現在、下記の研究センターが設置されている[19]。
コヒーレント光量子科学研究機構
レーザー新世代研究センター
量子科学研究センター
先端ワイヤレス・コミュニケーション研究センター
宇宙・電磁環境研究センター
脳科学ライフサポート研究センター
i-パワードエネルギー・システム研究センター
人工知能先端研究センター
先端領域教育研究センター
フォトニックイノベーション研究センター
先端超高速レーザー研究センター
燃料電池イノベーション研究センター
研究設備センター
産学官連携センター
研究
2013年度に文部科学省が創設した研究大学強化促進事業の支援対象機関(22機関)に採択された[20]。「知のボーダレス化」、「連携と協働」、「開放性と透明性」の3つの経営戦略を基盤として、大学院の強化、人材登用の強化や国際化の強化を図ることによって研究推進体制を整備し、「小さくても光る大学」を目指している[21]。
レーザー研究
レーザー研究は21世紀COEプログラムに採択された。国立天文台の干渉計型重力波検出器TAMA300用に周波数安定化レーザーを開発、採用されている。また2001年12月19日には、レーザー冷却技術によってボース=アインシュタイン凝縮を達成。これは東京大学、京都大学、学習院大学に継いで国内4番目である。さらに、2005年1月5日には原子基板(アトムチップ)上でのボース=アインシュタイン凝縮の生成に成功している。
産学官連携
産学連携が行われており、大学内には特許を管理する知的財産部門[22][23]と技術移転機関である株式会社キャンパスクリエイト[24]がある。
大会
UECコンピュータ大貧民大会「UECda」:大富豪の対戦プログラムを競う大会。2006年より開催。
UEC杯コンピュータ囲碁大会:コンピュータ囲碁の大会。2007年より開催。主催は電気通信大学エンターテイメントと認知科学研究ステーション。2012年に日本棋院と協定を締結[25]。
世界コンピュータ将棋選手権:コンピュータ将棋協会主催。第19回から第21回(2009年-2011年)では電気通信大学エンターテイメントと認知科学研究ステーションが共催だった。第22回(2012年)ではコンピュータ将棋協会とともに主催となり、大学のキャンパス内が大会会場となった[26]。
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板