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オリロワA part2

100 ◆VdpxUlvu4E:2025/04/11(金) 10:47:13 ID:8Jj.OZX.0
投下を終了します

題名ですが
STAND & FIGHT
です

101 ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:34:02 ID:lVpKkl.Q0
投下乙です

>STAND & FIGHT
エルビスさん強すぎィ!! 弾丸すら拳で打ち砕くのはヤバい。ここまで強いと善戦した四葉の株も上がるというもの
超力とは別に進化した現代人の身体能力の高さは散々描写されてきたけど、ネオシアン・ボクスという地下格闘場でビックリ人間たちとの戦闘経験を積み重ねてきたエルビスさんの強さと対応力はその最高峰としての説得力がある
花空間が寝技すら封じているという想像以上に厄介なことになっていて、同じく人類の到達点である只野くんが武器を駆使しても圧倒する強さを発揮している、並び称される漢女と果たしてどちらが強いのか気になってしまう
すっかりフリー素材と化した百歩神拳、現代人の最高峰が集まっているので再現可能な技術になるのはそれはそう、ただですら無敵の拳闘士が遠距離攻撃まで手に入れたのはマズいのでは?
エルビスさんからすればブラックペンタゴンを調査しようとしている奴らが向こうからやってくる絶好の狩場だけど、調査側はこの門番を突破せねばならないのは難易度が高すぎる、なおヤミナの事は考えないものとする


それでは私も投下します

102キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:34:59 ID:lVpKkl.Q0
焦げ跡の残る大地に、冷たい霧が立ち込めている。
立ち上がる煙の匂いと、かすかに残った焦熱の余韻。
ここがつい先程まで“地獄”だったなど、今の静けさからは想像もつかない。

その中心に、ハヤト=ミナセはいた。

右膝をつき、肩で息をしながら、セレナ・ラグルスの様子を見守っている。
その小さな身体は未だ眠りから目を覚まさない。
だが、彼女の胸は確かに上下していた。
微かに、だが確かに――生きている。

「……命は、ある……よな」

そう呟いてから、ハヤトは自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
熱と冷気、爆風の連続。呼吸を忘れていたせいで、肺の奥が焼けているようだ。

傍らでは、夜上神一郎が最後の祈りのようなものを終えたところだった。
焚き火のように消えたフレゼアの遺灰を静かに見下ろし、やがて背を向ける。

「貴方は、もう大丈夫ですね」
「何が、だよ」

ハヤトは疲れた声で返す。
問いに答えたようでいて、何も答えていない夜上の言葉に、若干の苛立ちすら覚えた。
だが、神父は気にした様子もなく、歩き出す。

「神(わたし)の助けはもう必要ないという事です。あなたの試練は目の前の彼女が持っているようだ」
「なんだそりゃ、意味がわからねぇよ」

呟いた声に神父は振り向かない。
その代わりに、ひとつだけ、意味深な言葉を残していった。

「己が向き合うべき神の兆しを得たのです。その兆しをどうするかはあなた次第」

ハヤトは言葉を返せなかった。
――神なんて、信じたことは一度もない。
それでも、この地獄の中で、あの男の存在は何かだったと、今は思う。

少年と少女を残して白い足音が、霜の大地を遠ざかっていく。
ハヤトは神父の背を止めるでもなく見送った。

今は神父のことなど気にしている場合ではない。
命があると言ってもセレナの傷は放っておけば命にかかわりかねない傷である。
包帯代わりの囚人服で最低限の止血が為されているだけだ。
ちゃんとした治療をしなくてはならない。

呼吸は浅く、時折ぴくりと喉が震えるたびに、胸元がわずかに上下する。
ハヤトは状態を確かめるべく、セレナの首元に手を添えた、その身体は驚くほど冷たかった。
傷口に触れずともわかる。皮膚の表面は青白く、獣人特有のもこもこの毛並みにすら熱がなかった。

「……マジかよ、おい……」

夜は明けたとはいえ、まだ気温は低く、吹き抜ける風は容赦なく熱を奪っていく。
その上、爆撃と氷刃の直撃を受けた身体には、保温どころか、痛みを感じる余裕すら残っていないのかもしれなかった。

ハヤトは彼女の手を両手で包み込んだ。
氷のような感触に、無意識に力がこもる。

「おい……冗談だろ、セレナ……」

名を呼ぶも、返答はない。
それどころか、手に伝わる体温はますます失われていくように思える。

助けを求めるように周囲を見渡す。
既に神父は立ち去った後だ、誰もいない。
焦りが喉を締め付ける。寒さに凍えた命が、今にも指の隙間からこぼれ落ちそうだった。

そのとき――耳元で、かすかな音がした。

ハヤトは一瞬、風のせいかと思った。
だが違う。それは、セレナの耳元につけられたアクセサリーから発せられた、微かで高い電子音のような共鳴だった。

103キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:36:06 ID:lVpKkl.Q0
「……光ってる……?」

その流れ星を模した飾りが、淡く光を帯び始める。
点滅ではなく、まるで小さな命が脈を打つような、規則的な明滅。
きらきらと煌めくというよりは、静かに、控えめに、だが確かに光っていた。
ハヤトは戸惑いながらも、そのアクセサリーにそっと触れる。

「温かい…………?」

ほんのわずかに、だが確かに、ぬくもりがあった。
金属製であるはずのその表面が、体温のように手のひらにじんわりと熱を伝えてくる。

その温もりはセレナの首元へと広がり、やがて肩、胸、腹部へと拡がっていく。
獣人の毛並みにもかすかな色が戻り、青ざめていた耳の先に、うっすらと紅が差していくのが見えた。

「体温が……戻ってる……?」

ハヤトが触れる指先にも熱が帯びる。
まるで、今にも落ちそうな星を、空に戻そうとするような、命そのものが引き戻されているかのようだった。
炎のような激しい輝きではない。
だが、憎しみでも、怒りでもなく、誰かを助けるために遺した『炎』が、そこにはあった。

ただし、それはあくまで延命措置に過ぎない。
本質的な傷は何も癒えていない。
深く抉れた太腿の傷からは、まだ滲むように血が流れ出ている。包帯代わりに巻いた布も、すでに役に立っていない。
その出血は少しずつ、しかし確実に彼女の命を削っていた。

「これじゃ、持たねえ……」

見殺しにはしたくない。
命を懸けて自分を庇った少女を、ここで見捨てるなんて、出来るはずがない。
けれど今のハヤトには、医療の知識もなければ、物資もない。

囚人服のポケットを探るが、当然ながら何も出てこない。
デジタルウォッチに表示された恩赦Pは、相変わらず【0pt】のまま。

「……そうだ」

ハヤトの目が、セレナの手の中に握られているあるものに留まる。
それは、フレゼア・フランベルジェの首輪だ。

戦いの終焉に、その炎の魔女が灰となったあと、枕元に転がったそれを、セレナは無意識に拾っていた。
首輪に刻まれた『無』の一字が取得可能を示すように淡く輝いている。

「こいつをポイントがあれば―――!」

横からポイントを掠めとるのは火事場泥棒のようであるが、今更それを気にするような育ちはしていない。
その首輪を手にして自身のデジタルウォッチに首輪をかざす。
ハヤトの喉がごくりと鳴る。

デジタルウォッチの画面上に100ptの取得が表示された。
それを確認して端末を操作する。
刑務作業用の交換リストが展開され、その中にいくつかの項目が浮かび上がった。

【応急処置キット - 20P】
【治療キット - 50P】

目的の項目を見つけた。
これはどう違うのか、あまりにも説明不足過ぎるUIに内心で文句を垂れる。

だが、文句を言っている暇はない。高い方を選択し、決定。
すると即座に目の前の地面にトスと言う音が鳴った。

転送されたのは、赤十字の書かれた軍用風の簡素なケースだった。
中には止血剤、包帯、滅菌ガーゼ、焼けど用のクリーム、鎮痛剤、AEDといった基本的な治療品に加え。
ナノマシンにより傷口をふさぐナノメディック・スプレー、血液中に酸素を運ぶ高圧酸素注入剤、組織再生を促す再構築細胞カプセル。
その他にも死人出なければ治せるような最先端医療品が取りそろっている。
さすがに50ptもぼったくるだけのことはある。

専門知識はなくとも抗争で負傷した仲間の治療を行ったくらいはある。
ハヤトは急いで手を動かす。

まずは傷口の洗浄。
火傷箇所にはクリームを塗り、氷刃の刺し傷には慎重に止血剤を流し込む。
そして、呼吸が浅くなるたび、震える手で薬を使っていく。

「……痛むかもだけど、我慢しろよな」

気絶しているとはいえ、苦しげな表情が浮かぶセレナに、思わずハヤトは語りかけていた。
次に手を伸ばしたのは、ナノメディック・スプレー。
スプレー缶の噴射口を傷口に向けると、無音で透明な霧が吹き出し、患部を包み込む。

ナノマシンは血流に乗って傷口に到達し、破損した毛細血管や筋繊維の断裂部を結合していく。
スプレー噴射から十数秒後、裂けた皮膚の色がわずかに戻り始めた。

掌大の小瓶に詰められた赤い液体――高圧酸素注入剤を注射器に移し替える。
体毛をかき分けセレナの腕に静脈を探りながら、震える手で針を刺す。

104キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:36:21 ID:lVpKkl.Q0
「もう少し、我慢してくれよ……」

注入すると、少女の呼吸が目に見えて安定し始めた。
浅く速かった呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。
これで、血中の酸素が回って、臓器の機能も回復するはずだ。

最後に取り出したのは、小さなカプセル――再構築細胞カプセル。
口元に持っていき、指先でこじ開けて中のゲル状の成分をそっと舌に載せる。

「頼む……目、覚ませよ……」

しばらくして、セレナの顔色がわずかに良くなってきた。
耳の先の紫が薄れていく。呼吸も穏やかに、深く。
ハヤトは無意識に、張り詰めていた息を吐き出した。

「……助かった、よな」

ハヤトは、安堵と共に地面にへたり込む。
片手を見れば、血と薬でぐちゃぐちゃだ。

彼の膝元には、落ち着いた呼吸を取り戻したセレナの姿。
獣人系の超力者の体力と回復力であれば十分に持ちなおせるだろう。

少女の耳元では、あの流れ星のアクセサリーが再び穏やかな光を灯していた。
そして、手元に残ったのは、炎の魔女のポイントで得た救急キットと、その首輪。

「あんたの炎、確かに使わせてもらったぜ、くそったれ」

それはまるで、遠くで聞こえるような幻の声に向かって呟くようだった。

処置が終わった頃には、もう陽は完全に昇っていた。
あの地獄のような夜は、確かに終わった。
だが、いつまでもここにいるわけにはいかない。

焦げた草原。
散乱した氷の欠片、爆風でえぐれた地面、吹き飛ばされた木の幹。
何もかもが酷く荒れ果てていて、あまりにも目立ちすぎる。

「こんな場所で寝かしとけるかっての……」

セレナは今、フレゼアの遺した首輪と、例の流れ星アクセサリーに包まれるようにして眠っており、意識はまだ戻らない。
火傷の痛みが身体のあちこちを刺しているが、それ以上に、今はセレナの命が気がかりだった。

「このままじゃ、また誰かに見つかる……場所を移さねぇと」

立ち上がり、ハヤトはセレナの身体を慎重に背負った。
細く軽い――けれど確かな重さが、彼の背にのしかかる。
傷を負った箇所が軋み、視界がぐらついた。

「ったく……どこ行きゃいいんだよ……」

ひとまず安全な場所。人の目につかず、隠れて休める場所。
他の囚人たちから遠ざかるには、開けた草原地帯は悪手すぎた。

ふと、思い出す。
最初にこの島に『投下』されたとき、自分が降り立ったあの場所。
今となっては奇跡の着地だった、鉄骨とクレーンの立ち並ぶ朽ちかけた港湾。

そこには隠れられそうな所もそれなりにあった。
船が出ている訳でもない港湾にわざわざ訪れる者がいるとも考えづらい。
何より今の自分には、あそこくらいしか思い当たる当てがない。

ハヤトには看守から与えられた任務、ハイエナ――死体の確認と回収がある。
その任務をこなすために一度は立ち去った場所だが、いま目の前にいる少女の命と、それを天秤にかけるほど自分は腐ってはいない。

目的地が決まれば早い。
ハヤトはセレナを背負ったまま、北東に進路を定めた。
既に太陽は昇り始めており、背後から伸びる影がふたり分、長く草原に伸びていた。

「港まで……なんとか歩けりゃいいが……」

ハヤトも無傷という訳ではない。
傷だらけの足を踏み出すたび、体力は削られていく。
けれど、背に感じる命の重みが、その一歩を確かなものに変えてくれる。

――自分一人だったら、たぶん座り込んでたな。

「馬鹿だよな、お前も……」

セレナの柔らかな耳が、風で微かに揺れている。

「でも……オレも同じくらい馬鹿なんだよ」

ハヤトはそう笑い、歯を食いしばって、白く煙る草原の向こう、港湾の影を目指して歩き出した。



105キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:37:39 ID:lVpKkl.Q0
草を踏むたび、湿った大地の匂いが鼻をついた。
爆炎と冷気の混じったあの戦場とは違う、どこか素の匂いだ。

「ったく……あのクソ神父、勝手なことばっか言いやがって」

ハヤトはセレナを背負ったまま、ゆっくりと歩を進めながら、誰に聞かせるでもなくぼやいた。

「試練だの、神の兆しだの……わけがわかんねぇよ」

声に出すことで、気持ちを紛らわせていたのかもしれない。
来た道を引き返している状況だが、今回はセレナの索敵がない。
その足取りにも若干の不安が浮かんでいた。

「でもまあ……たしかに、あいつの言う通りかもな」

言葉は静かに変わっていく。

「オレにとっちゃ、お前が……一番、向き合わなきゃなんねえ現実だったよ」

背中のセレナは、反応しない。
けれど、ハヤトは続けた。

「オレはさ……ただ生き延びて、兄貴の仇であるネイ・ローマンをぶっ殺して、それで終わりだと思ってたんだ」

言葉が喉にひっかかる。
息を吐くたびに、胸が重くなる。

「でも……お前に会ってから、ちょっとずつ……いや、ちゃんと変わってきたって思う」

風が耳を撫でる。
誰もいない草原に、独白が流れていく。

「お前がオレを庇ってくれたとき、勝手に自分の身を犠牲にしたお前に腹が立ったし、何もできなかった自分が情けなかった。
 けど、正直に言うと、それ以上に怖かったんだ。周りで暴れる怪物どもよりも、自分を庇ったお前が死ぬ事よりも。
 自分の過去(よわさ)を振り払って前に進もうとするお前が、何よりもオレは怖かった」

氷結の怪人よりも怨炎の魔女よりも享楽の爆弾魔よりも正体不明の神父よりも。
あの瞬間、セレナ・ラグルスとう少女はハヤトにとって誰よりも恐ろしかった。
自分の弱さや後悔と向き合い、立ち向かう道を選び取った。
その強さが余りにも眩しくて、恐ろしかった。

「あの瞬間、オレの中で何かが否定された気がしたんだ」

黙って、数歩、進む。
セレナの毛が揺れ、背中にふわりと触れた。

「兄貴がオレを置いて逃げたことは仕方ない事だって理解してんだ。逆の立場ならオレだってきっとそうしたと思う。
 そうやってオレはずっと、『仕方なかった』で自分を納得させてきた。兄貴に見捨てられたことも、自分が選べなかった過去も、ぜんぶ」

自分が生き残るのが第一だ。
誰かを見捨てて生き延びる。
厳しいストリートで生き抜くためには仕方のないことだ。

「けど、本当はそうじゃねぇんだよな。生きるために仕方ないって、それは本当なんだろうけど。
 誰だってそうしたかったわけじゃねぇんだよ、オレも……兄貴だってきっと」

清く正しく生きていけたらいい。
誰だってそう願う。

けれど現実はそれを許さない。
弱者は這いつくばってでも、泥を啜ってでも。
汚れちまった悲しみを背負って、罪を重ねても生きて行かねばならない。
過酷な世界の中で、力なき者は道を選ぶことすら許されないのだ。

「弱者は選ぶこともできないって、そう思ってた。けど、きっと違うんだよな」

選べないのは、自分たちが弱いからだと思っていた。
ストリートを牽引するネイ・ローマンやスプリング・ローズが己の意思を貫けるのは強い力を持っているからだと思っていた。
それはきっと、それは違った。

力のあるなしじゃない。
爆炎の中。氷の刃が降り注ぎ、死の風が吹き荒れたあの地獄の夜。
誰よりも力のないこの少女が、誰よりも己の我侭を押し通していた。

仲間たちを見捨てた過去を振り払うために、己のしたい事をした。
こっちの都合なんてお構いなしにだ。なんて我侭なのだろう。

106キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:37:49 ID:lVpKkl.Q0
「お前を見てたら……それがただの逃げだったって、わかった気がしたんだよ」

自分の思いを口にしながらセレナと向き合う事こそがハヤトの試練だという神父の言葉意味が分かってきた。
あの瞬間に訳も分からず感じたことを言語化していくうちに、背負っているセレナの重さが心にじわりと染み込んでくる。
己の罪を後悔しながらそれに立ち向かった彼女の在り方は、これまでの自分の間違いを突きつけられるようで。
だから、恐ろしかったのだ。

逃げる事は悪い事じゃない。
世の中は、どうしようもない事ばかりだ。
立ち向かたって意味のない、逃げる事が最適解な状況だってある。

けれど、それと同じくらい逃げちゃいけない事だってある。
逃げたくない事だってあるはずなんだ。
そこからずっと目をそらしていたんだ。

「オレは逃げたくなかったんだ。逃げちゃいけない事から、自分から、お前からも」

困難に立ち向かう不撓不屈の人間でありたかった。
清くも正しくもなくていい、ただ、自分の選びたいものを選べる、そんな人間に。

仲間を、友達を見捨てない。

ずっと、そんな当たり前を選びたかった。
そんな当たり前を、誰かに、選んで欲しかった。
あの時、炎と氷の爆ぜる渦中に立ち向かった理由はそれだけだ。

「…………助けてくれて、ありがとな」

最初に言うべきだった言葉を告げる。
意識のないセレナに聞こえていない事は理解しているが、それでいい。
面と向かって礼を言うのなんてガラじゃない。

「……ま、聞こえてなくてもいいさ。言っておきたかっただけだ」

歩き続けてどれほど経ったか、やがて視界の先に、鉄骨の残骸が姿を現した。
錆びついた支柱、倒れかけたクレーン。
記憶よりも少しだけ色あせて見えたのは、夜明けの光のせいか、それとも、見る自分が変わったからか。

人気のない朽ちた港湾は、朝靄に包まれていた。
船も人影もなく、あるのは潮の匂いと、波の音だけ。

「戻ってきちまったか、ここに――――」

始まりの落下地点。
ゆっくりと地面を踏みしめる音が、静かな風のなかに吸い込まれていく。
ハヤト=ミナセは、命を背負ったまま、そこへ向かって歩き続けた。

【B-3/港湾近く/一日目・早朝】
【ハヤト=ミナセ】
[状態]:疲労(大)全身に軽い火傷、擦り傷、切り傷
[道具]:「システムA」機能付きの枷、治療キット
[恩赦P]:50pt(フレゼアの首輪から取得 + 100pt、治療キット - 50pt)
[方針]
基本:生存を最優先に、看守側の指示に従う
1.港湾に避難してセレナの回復を待つ。
2.『アイアン』のリーダーにはオトシマエをつける。
3.セレナへの後ろめたさ。
※放送を待たず、会場内の死体の位置情報がリアルタイムでデジタルウォッチに入ります。
 積極的に刑務作業を行う「ジョーカー」の役割ではなく、会場内での死体の状態を確認する「ハイエナ」の役割です。
※自身が付けていた枷の「システムA」を起動する権利があります。
 起動時間は10分間です。

【セレナ・ラグルス】
[状態]:気絶中、疲労(中)、背中と太腿に刺し傷(治療済み)
[道具]:流れ星のアクササリー、タオル、フレゼアの首輪(P取得済み)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:死ぬのも殺されるのも嫌。刑期は我慢。
1.ハヤトに同行する。
2.ハヤトとは友人になれそう。できれば見捨てたくはない。

※ハヤトに与えられている刑務作業での役割について、ある程度理解しました。
※流れ星のアクセサリーには、高周波音と共に音楽を流す機能があります。
 獣人や、小さい子供には高周波音が聴こえるかもしれません。
 他にも製作者が付けた変な機能があるかもしれません。

※流れ星のアクセサリーには他人の超力を吸収して保存する機能があるようです。
 吸収条件や吸収した後の用途は不明です。
 現在のところ、下記のキャラクターの超力が保存されています。
 『フレゼア・フランベルジェ』

107キミに願い ◆H3bky6/SCY:2025/04/11(金) 20:37:59 ID:lVpKkl.Q0
投下終了です

108 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:06:56 ID:6mJkdVQQ0
投下します

109ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:08:28 ID:6mJkdVQQ0
ネイ・ローマンに敵対してはならない。

ヨーロッパのストリートには、そんな不文律が存在する。

誰が明言したわけでも、明文化されたわけでもない。
だが、その名の周囲には、いつだって目に見えぬ境界線が引かれていた。

笑いながら話す者はいても、その名を嘲る者はいない。
その一線を越えた者が、次々と姿を消していったことを、誰もが知っていたからだ。

そして、誰もがその理由を口にしない。
言葉にしなくとも、皆が理解している。

ネイ・ローマンに敵対してはならない――と。



110ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:10:32 ID:6mJkdVQQ0
乾いた風が、黒き五角形の建造物を撫でるように吹き抜けていく。
霞のような土煙が、まだ陽の届かぬ影を漂っていた。

岩を背に、ジェーンとメリリンは地面に腰を下ろしていた。
やや距離を置いて立っているのはドミニカ。依然として静かなままだ。

「…………ようやく、胃の中が元の位置に戻った気がする」

額を抑えながら、メリリン・"メカーニカ"・ミリアンは小さく呻いた。
口調こそ軽いが、その顔は明らかにまだ青白い。
隣で同じようにしゃがみ込んでいるジェーン・マッドハッターもまた、無言で呼吸を整えていた。

「メリリンまで乗り物酔いするタイプなのは意外だったわ」
「乗り物っていうか、落下方向が上だったり下だったり、ぐるぐる回されたみたいな感覚だったし……酔わない人類なんていないと思うよ、あれ……」

メリリンが顔をしかめる。

「申し訳ございません……何分、他者を運ぶのは初めてのことでしたので、その……加減が分からなくて……」

すまなそうに眉尻を下げるドミニカ・マリノフスキ。
淡い氷のようなその目には、申し訳なさそうな色が浮かんでいた。

超力酔いしている二人と違い、ドミニカに自分の能力による影響はない。
岩山を落下した擦り傷や汚れはあれど、精神は明瞭なままだ。

「……いや。別に怒ってるわけじゃないから、謝らなくてもいいわ」

ぶっきらぼうに言うジェーン。
ドミニカに悪意がないことは分かっていたからだろう、その声に棘はなかった。

三人はしばし無言で、前方にそびえ立つ漆黒の建造物――ブラックペンタゴンを見上げていた。
無骨な五角形の壁面は、朝日を浴びてもなお、影のように沈黙を守っている。

「……あそこに何があるかは分からないけれど、体調は万全にしておいた方がいいかなぁ」

静かに、メリリンが口を開く。
何が待ち受けているのかわからない場所だ。
せめて体調くらいは万全にしておくべきだろう。

「……そうね、もう少し休みましょう」
「はい。私は山の世界改変者を罰さねばなりませんので、中まではお付き合いできませんが、お二人が回復するまで責任を持ってお守りいたします」

ジェーンは軽く頷くと、背後の岩に肩を預け、瞼を閉じた。
風に揺れる髪が顔にかかるがそれを払いもせず、ただじっと呼吸を整える。
戦場の兵士のように緊張感を保ちながら休息をとるその姿は、さすがはプロの殺し屋と言ったところか。

メリリンもそれに倣い、この場はドミニカに任せ、体調回復に努めることにした。
だが正直、天然の入ったこの修道女に見張りなど務まるのかという疑問はある。
メリリンがちらりとドミニカを見やると、目が合い、ドミニカはかしこまって頭を下げた。
それに合わせてメリリンも何となく会釈を返す。

だが、そんなささやかなやり取りの最中――ふいに、風向きが変わった。
真っ先に反応したのは見張りをしていたドミニカではなくジェーンだった。

素早く立ち上がったジェーンは、風のわずかな変化と砂の鳴る音で異変を察知した。
まだ相手の姿は見えない。だが体を半身に構え、念のため手元の石にそっと手を伸ばす。

「……誰か来る」

その言葉に、メリリンも続けて立ち上がる。
ドミニカが一歩前に出たが、ジェーンが制した。
土を踏む足音が近づいてくる。

三人の視線が一斉に同じ方向を向く。
突如、空気の密度が変わったように感じた。
地の底から響くような、熱を含んだ気配。

重くはないが、確かな存在感があった。
小高い斜面の先、ゆらりと姿を現したのは――

「――――――――よぅ」

鋭い眼光。燃えるような怒りをその奥底に隠したまま、ゆっくりと歩みを進める青年。
砂煙を蹴立てながら、彼女たちの前に現れたその顔を見て無感情なメカニーカの表情が珍しく引き攣った。

111ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:13:26 ID:6mJkdVQQ0
「俺の顔は分かるな? メリリン・"メカーニカ"・ミリアン」
「…………ネイ・ローマン」

メリリンの口から漏れたその呼び名に、ローマンは満足したように口端を吊り上げる。

「上等。すっとぼけやがったらその場でぶち殺しちまう所だったぜ」

冗談とも本気ともつかない言葉を吐き、やれやれと首を繰る。

「先に言伝を済ましちまおう、ルメス=ヘインヴェラートがお前を探してたぜ」
「……ルメスが? どうして?」
「知らねぇよ。ただの伝書鳩だ。確かに伝えたぜ」

言うだけ言って、あとは知らんとばかりにメリリンから視線を外し、周囲の二人に向ける。

「そっちの女も、その反応からして、俺の名前くらいは知ってるみたいだな」
「…………ええ。『アイアン・ハート』のリーダー、でしょ?」
「それが分かるって事は、お前も碌な人間じゃねぇな。ま、アビス(こんなところ)にいる時点で今更か」

ジェーンも殺し屋として裏社会で生きてきた人間だ。
同じEU圏を活動拠点とするストリートギャグ『アイアン・ハート』のリーダーの名前くらいは聞いたことがある。
ヨーロッパ最大のマフィア『キングス・ディ』を後ろ盾に持つ『イースターズ』と異なり、何の背景も持たず、ただ力だけでのし上がった恐るべき子供たち。

「初めまして。メリリンさんのお知り合いでしょうか? 私、ドミニカ・マリノフスキと申します」

ドミニカに空気を読むという機能は存在していないのか。
剣呑な空気を無視して恩人の知り合いへと名乗りを上げて、丁寧に挨拶を交わす。
ローマンはその名を聞いた瞬間、まじまじとドミニカを見据え、眉を寄せた。

「……あぁ? お前が『魔女の鉄槌』かよ。巨大カルトを単身で壊滅させたと聞いてたが、まさかこんな女だったとはな」
「はい。私はただ、神の御心に従ったまでです」
「神ねぇ……」

ローマンはどことなく呟き、砂利を踏みしめる足音を強める。
彼はゆっくりと歩み寄り、ドミニカの真正面に立つと、低く問う。

「神の指図で人を殺したってか? そりゃ笑えるな。神ってのは殺しのライセンスか?」
「正義の執行です。人の身を冒涜し、神の摂理を歪めた者へ、裁きを下したまでです」
「なるほどな。大した盲信っぷりだ、感心するぜ」

その嘲りにも似た皮肉は、ドミニカ本人にはまるで届いていないようだった。
ローマンは呆れたようにため息をついて肩を竦めた。

「それで、お二人はどういったご関係なのでしょう?」

ドミニカの問いかけに、ローマンが鼻を鳴らす。
冷笑と共に、嫌味なほどに肩をすくめて答えた。

「単なる商売敵さ、なぁメカーニカ?」
「商売敵……? 一方的にこっちの仕事を潰してくれたの間違いでしょう?」

冷淡な声。だが、その響きの奥にかすかな怒りが滲む。
メリリンは努めて感情を押し殺し、いつも通りの抑揚のない口調で応じた。

「ご挨拶だな、世話をかけられたのはお互い様だろう? こっちとしてもテメェが流した玩具のおかげで、随分とやりづらくなっちまった」

皮肉めいたローマンの言葉には、確かな敵意が込められていた。
その敵意を敏感に感じながらも、メリリンは冷静を装って言葉を返す。

「私は組織の技術屋として、求められた仕事を全うしていただけよ」

その言葉は、事実であり、同時に免罪符でもあった。
だがローマンには、そんな理屈は通じない。

「テメェの作った玩具がどう使われようが知ったこっちゃねぇってか? そいつぁご立派な考えだな。
 だったら、親がヤク漬けになって家庭崩壊したガキの前で同じことを言ってみろよ。ストリートにはそんな奴らがダース単位で転がってたぜ。
 お前がスイッチ押すたびに、どこかのガキが地獄を味わってんだ。その辺の自覚がなかったとは言わせねぇぜ」

鋭い言葉が、喉元を刺すように突き刺さる。
メリリンは、少しだけ視線を逸らした。
責任の所在を冷静に切り分ける女――そう思っていた。
だが、それがいつだって正義たり得るわけではない。
この場の空気が、それを突きつけていた。

「そうね。……自覚がなかったわけじゃない。
 確かに私は、自分の技術を披露することが最優先で、それがどういう結果を生むかまでは深く考えていなかった」
「いいね。下手な言い訳をしねぇのは悪くねぇ。俺との交渉のやり方を心得てるな」

何がおかしいのか、ローマンはくっと笑うと、一歩、足を踏み出す。
その歩みに呼応するように、周囲の空気が微かに震えた。
熱と圧を含んだ気配。まさに嵐の前触れ。

その空気を感じながら、ジェーンは一歩下がった位置から周囲に目を配る。
彼女は石を指先で弄りながら、いつでも反撃できる体勢を取っていた。

112ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:17:42 ID:6mJkdVQQ0
「だったら今ここで選ばせてやる。ルメスの言伝はした。それとは別に、俺からの取引だ」

拳を握り、唇の端に険のある笑みを浮かべながら、彼は言い放つ。

「メカーニカ。お前、『アイアン』の傘下に入る気はあるか?」

突然の言葉に。
一瞬、沈黙が流れる。

「この流れで引き抜きって……正気?」
「どうだろうな? 俺にもわからねぇよ」

メリリンは冷笑を浮かべる。だが、その目は真剣だった。
ローマンも同様に、冗談めかしながらも目は鋭く光っていた。

「『アイアン』に入れって……旗印であるあなたが捕まったんだから、表で組織が維持できているとは思えないけど」
「確かに、俺がパクられてチームの連中は散り散りになっちまったかもな。
 だが、ヤクを潰すという『鋼の意思』こそが『アイアン・ハート』の本質だ。
 ヤクに関わる物は需要も供給も、根元から叩き潰す。俺がいる限り、その流儀は不滅だ」

握りこぶしと共に語られたその言葉には、強い信念が込められていた。
単なる感情論ではない。これまで積み重ねた闘争と意志の結晶がそこにはある。

「つまりは、私の技術で流通ルートを潰す手助けをしろって言うの?」
「そうだな。何でも道具に頼るのは好きじゃねぇが、薬物に絡むクソどもを潰せるなら何でもいい、必要ならそうするまでだ。
 テメェがパクられようが、テメェの用意した玩具はもう動いちまってる。
 それに対抗するには、同じ力が必要だ。敵だったからこそ分かる。お前は本気になれば、それを止められる側に立てる」

ローマンの言葉には怒りではなく、鉄の信念と冷徹な実利が含まれていた。
この勧誘はジョニー・ハイドアウトの提案によるものだが、敵対者であろうと目的のために取り込む貪欲さは彼の本質だろう。
続けて、ルメス=ヘインヴェラートから受けた助言を告げる。

「アンタも別に薬に拘ってるわけでも、組織に忠誠を誓ってるってわけでもねぇんだろ?
 今の組織にいるのは、サリアって女の縁だと、そう聞いてるぜ?
 その女がいなくなっちまった以上、組織にこだわる理由はないと思うが」

その名を聞いた瞬間、メリリンの表情がわずかに凍りつく。

「……気安くサリアの事を口にしないで」

声は低く、抑えられていた。
だがその一言に、痛みと怒り、そして未練が滲んでいた。

「……そうかい、そりゃ失礼したな」

ローマンの謝罪は、軽い口調に反して真摯だった。
死者の名を利用されてはそれは確かにいい気はしない。
残念ながらルメスの助言は逆効果に働いたようで、場の空気は険しさを増す。

「なら、決裂ってことでいいか?」

短く問う。
その言葉には最後の警告に近い響きを含んでいた。

「だったらそのまま今の組に戻ってもいい。……ただし、その場合は、俺の敵として潰すだけだ」

その意味を理解しているメリリンの口元が強張る。
その瞬間、横から静かな声が割り込んだ。

「そこまでに致しましょう――」

不意に割って入ったのは、ドミニカだった。
ドミニカは微動だにせず、まっすぐにローマンの前に立つ。
氷のように澄んだ瞳には、怒りも恐れもない。ただ、神への忠誠と信念だけが静かに燃えていた。

113ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:21:19 ID:6mJkdVQQ0
「私の目の前で、私の恩人を侮辱するのは、赦しません」

その一言が、場の空気を変えた。
ローマンは鼻で笑い、ドミニカを一瞥する。
その視線には、あからさまな揶揄と軽蔑が滲んでいた。

「今までの話の流れを聞いて理解できなかったのか、鉄槌。
 そいつぁヤクをばら撒いて、世界の摂理を歪めてきた張本人だぜ?
 正義の執行者様が庇い立てするような相手じゃねぇだろ」

だがその皮肉を浴びても、ドミニカは怯まず一歩、静かに前へ出た。
殺気も威圧もない。ただそこにあるのは、揺るぎない神の使徒としての気高さと、断固たる意志。

「人は誰しも過ちを犯します。
 けれど、悔い改める意志と、再び人として歩もうとする覚悟を捨てていない限り、神はその者を見放したりはしません」

静かで揺るぎない声音。
その穏やかさこそが、ドミニカという存在の中にある不動の信仰を物語っていた。
ローマンは肩をすくめながら、乾いた笑いを洩らす。

「そりゃまた都合のいい話だな。
 神の意思だと言い張りさえすりゃ、殺しもヤクも全部チャラになるってわけか。神様ってのは便利な免罪符だな?」
「いいえ。神は免罪符などではありません。
 神の御名を騙り、己の罪を覆い隠そうとする者こそ、最も厳しく裁かれるべき存在です。
 ただ己の過ちを悔い、変わる覚悟をもってはじめて――赦しの扉は、開かれるのです。
 それが無ければ、私の鉄槌が、天に代わって下されるだけです」

その淡々とした言葉の奥には、冷たい刃のような凄みがあった。
神の御心に反する悪を滅ぼす、それが『鉄槌』と呼ばれる所以だった。

「結局、判断は『神の意思』ってやつが代わりにやってくれるわけだ。
 お前の都合がいい時だけ顔を出してくるその神ってのは、信仰心ってより、ただの逃避に見えるぜ」
「逃避ではありません。信仰とは、己の弱さと向き合い、それを神の御前に委ねることです」

ドミニカは静かに言葉を返す。
対してローマンは、冷笑を崩さないまま、さらに突きつける。

「下らねぇ。神なんてありもしねぇモノの言葉に縋らなきゃ、誰かを許す判断もできねぇのか? ちったあテメェの頭で考えろよ」

ドミニカの眉が僅かに動いた。
だが、すぐに静かな眼差しを取り戻し、応じる。

「神の実在を疑われますか? 神は人の尺度で測れるものではないのです。
 神の存在が見えないのは、それをあなたの知覚でのみ理解しようとするからです。
 空気も、重力も、目に見えなくとも在る。私は神の在り方を、世界の理の中に感じているのです」

その言葉に、ローマンの表情がわずかに険しさを増した。

「なるほど、神はいる。だから『神の言葉』に従った殺戮も正義だってわけだな――なぁ『魔女の鉄槌』?」

その名は、明確な皮肉を帯びて投げつけられた。
自らの信仰のもとに、、新興宗教の信者を皆殺しにした虐殺者にむけて。

「赦すも罰するも、すべて神のお達し、そう言い張りゃ、自分の責任は帳消しだ。
 自分が赦したんじゃねぇ、神が言ったから赦してやった? それはただの責任逃れだろうが」

吐き捨てられたその言葉には、ただの皮肉ではない、深い憎悪が滲んでいた。
ローマンの信仰への否定、それは単なる思想の違いではなく、過去に根差した怒りだった。

「知ってるぜ。世界で一番人を殺したクソ野郎が誰か。
 『神』の名のもとに命を刈り取ってきたてめえら狂信者どもだ。
 『神』ってのはその言い訳に使われるだけの張りぼてだよ」

その瞬間、空気が凍りついた。

「――――――我が信仰を、愚弄なさいますか?」

ドミニカの声が低く、鋭く、深く沈む。
その瞬間、彼女の周囲に黒い重力の膜が揺らめきながら広がった。

微細な振動が空気を揺らす。
まるで凍てついた氷の針が空間に満ちていくような緊張感。
それは、神の名においてその『鉄槌』を振り下ろす覚悟が固まったことを意味していた。

その信仰心で異教徒を殺戮した『魔女の鉄槌』。
ローマンは微塵も怯むことなくその殺意を堂々と受け止めるように立つ。

「いいか、こいつは忠告だぜ、狂信者。
 ――――――これ以上、そのブサイクな殺意を俺にぶつけるな」
「ダメよ、ドミニカ! こいつに攻撃しちゃ……!」

次の瞬間に起こる事を予感し、メリリンが身を乗り出して静止の声を上げる。
だが、その警告は間に合わなかった。
ドミニカの足が一歩踏み出された瞬間、彼女の周囲に展開されていた重力場が一気に濃度を変える。
空間が歪み、まるで世界が彼女に引きずられるように、空気が震え、重く沈む。

「神罰を執行します――――――!!」

ドミニカが一歩踏み出すと同時に、重力場が空気をねじ曲げ、地を蹴ったその姿が残像になった。
重力の加速でドミニカの身体は視認すら困難な矢となり前方へと射出される。

114ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:22:58 ID:6mJkdVQQ0
鈍い衝撃音が響く。
その瞬間、何が起きたのか。
気がつけば、ドミニカの影は突っ込んだ方向とは真逆、メリリンの脇をすり抜け後方の岩肌に叩きつけられていた。

「逸らしたか。思いの外やるじゃねぇか」

岩肌に叩きつけられたドミニカを見て、ローマンは感心したように言う。
それは皮肉でも煽りでもなく、純粋な評価だった。

不動のまま放たれたのはローマンの超力。
破壊衝動を衝撃波としてぶつけるというだけのシンプルな力だ。

あの一瞬、放たれた衝撃波がドミニカを飲み込んだ。
ドミニカは瞬間的に展開した重力場の方向を操作して、ローマンが放った衝撃波の軌道をほんの僅か逸らして正面衝突を避けていた。
正面から受けていたら昏倒する程度では済まなかっただろう。反応が一歩遅れていれば、死を免れたかも怪しい一撃だった。

感情がそのまま攻撃に繋がる彼を苛立たせるという事はこういう結果を生む。
ネイ・ローマンとの交渉を行う上で挑発はご法度であるとされる所以である。

「くっ……!」

ドミニカはなんとか意識を保っているものの動くことが出来ず呻き声を上げて崩れる。
それと同時に、ジェーンが動いた。
もはや開戦の火蓋は落とされた、後れを取らぬよう殺し屋としての経験が彼女を動かす。

彼女が放ったのは、手の内に隠し持っていた小石。
だが、その彼女が手にしたモノには、『生物に対する殺傷性』が付与される。
目にも留まらぬ速度で飛翔したその小石は、獣のような軌道でローマンの側頭部を狙う。

だが、振り返ったローマンが鋭く睨みつけた瞬間。
パァンッ、と甲高い音を立てて、小石は空中で粉砕された。

「なっ…………」
「……ったく、傍で転がってるだけの小石でいりゃ見逃してやったのによ」

余りの結果に言葉を失うジェーンに冷たく、苛立ちを含んだ声が返る。
その声に呼応するように、ローマンの身体を取り巻く空気が震え始めた。
重く、湿った圧力の波が辺りに広がっていく。
その視線の中には立ちすくむ女と、立ち向かう女と、立ち上がろうとする女が映る。

「そうかい。だったら――――」

ローマンが、ゆっくりと地面を踏みしめる。
そのたった一歩が、世界をくにゃりと歪めた。
目に見える形となってネイ・ローマンの敵意が爆発的に膨れ上がる。

「テメェら全員――――俺の敵だ」

激震が走った。
その言葉を引き金にするように、ネイ・ローマンの敵意が爆発する。
感情が爆発するとはよく言ったものだが、彼の感情は文字通り大爆発を引き起こす。

地面が震え、空気が裂けた。
中心から外側へ放射状に広がった衝撃波が、四方八方へと解き放たれる。
赤黒い衝動の奔流が地面を割り、熱風となって吹き荒れた。
大地が波打ち、破片が弾丸のように飛散する。

次の瞬間、三人全てが、その爆発的な力の奔流に呑み込まれた。
大気が裂ける音と、肉体が吹き飛ぶ衝撃が、辺りを包み込んだ。

三人の影が、爆風に呑まれ、飛び散る。
地面は抉れ、巨木は根こそぎ引き抜かれ、あたりは荒廃した焦土と化す。

「――――――話になんねぇ」

戦いは、始まって数秒で決着していた。
いや、それは戦いとすら呼べるものではなく、一方的な蹂躙でしかない。
ネイ・ローマンは、その場にただ立ち尽くすだけで、ただひたすらに圧倒的だった。



115ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:25:34 ID:6mJkdVQQ0
乾いた土が鼻腔を刺す。
風が止まり、砂粒すらも沈黙したような静寂が、辺りを支配していた。

「……く……ぁ」

ジェーン・マッドハッターが、倒れたまま呻き声を上げる。
耳鳴り。血の味。歪む視界。焦点の合わない空が、波のように揺れていた。
全身が麻痺したように痺れている。指一本、まともに動かせない。

(重力波……ドミニカの……)

思考が霞む中で、自分が助かった理由をギリギリで理解する。
ローマンの超力――あの爆発的な敵意を帯びた衝撃が到達する直前。
ジェーンの目の前を盾のように黒い幕が覆った。
ドミニカの超力が重力の歪みで逸らしてくれたのだ。

完全に防ぎきれたわけではない。
だが、あれがなければ身体ごと吹き飛ばされていた。
その代償として、ドミニカは岩肌に叩きつけられ、意識を失って動かない。

(……やられた。こっちが……完全に、格下だった……)

地面は抉れ、木々は薙ぎ倒され、あたり一面が爆撃でも受けたような有様だ。
焦げた臭いと、風に舞う破片が、惨状を物語っている。

たった一撃で、完全に勝負は決まった。
ネイ・ローマンの力は、もはや兵器そのものだ。

ネイ・ローマンは全てが吹き飛ばされた荒野の中心に、堂々と立っていた。
全身を包む怒気が霧のように揺らぎながら、彼は微動だにせずそこにいる。
その存在感はまさに、力による支配の権化だった。

彼の戦闘力は感情によって大きく左右される。
和やかな手合わせや小競り合いとは違う、彼が本気の敵意を見せた時どうなるのか。その結果がこれだ。
ここに殺すべき相手への殺意まで含まれた場合どうなってしまうのか、想像すらできない。

――――強すぎる。

同じネイティブでも次元が違う。
これがネイティブの集団であるストリートチルドレンを支配する頂点の力。
こんな怪物に、どうやって勝てるというのか。

だが、その怪物の前に、静かに立つ者がいた。

メリリン・“メカーニカ”・ミリアン。

構えはない。敵意も殺意も、その姿には感じられなかった。
だが、青ざめた顔色ながらも、彼女は立ち上がり、静かにローマンの目を見据えていた。

「よぅ。加減が過ぎたか? やはり組織の連中から俺への対処を聞いていやがったようだな、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン?」

ローマンが、冷たい声で告げた。
あの瞬間、ローマンの怒りは全方位へと放たれていたが、メリリンに対してだけは、わずかに軌道が外れていた。
彼女だけはローマンに対して攻撃を行わず、明確な敵意を示さなかった。

ネイ・ローマンに敵対してはならない。

ストリートに存在する不文律だ。
彼のネオスは敵と見做した相手に容赦をしない。

直接的な敵意を向けても、向けられてもならない。
それはすなわち致命の破壊力となって返ってくる。
本気の彼の敵意を受けて生き延びたられたのは、同じストリートギャングの一大組織を率いるスプリング・ローズくらいのものだ。
敵にならないことこそが生き延びる唯一つの手段である。

「……わかった。従う。あんたの傘下に入る、これでいい?」

メリリンは両手を上げ、降伏の意思を示した。
虚勢ではない。現実を見据えた上での、冷徹な判断。
これほどの力の差を見せつけられては、選択肢など他に残されていなかった。

「ただし、条件を付けさせて」
「この状況で条件を提示する度胸に免じて聞くだけ聞いてやるよ。聞き入れるかどうかは別だがな」

メリリンは視線を後ろに向けた。
倒れたままのドミニカ。動けず地を這うジェーンを見て再び、ローマンと向き合う。

「この二人は見逃して」

その一言に、ローマンは薄く口端を吊り上げた。

「そいつぁ、そいつらの態度次第だな。これ以上逆らわねぇってんなら、見逃してやってもいい」
「これだけの力の差を見せられれば、逆らう気なんて起きるはずないでしょう?」
「どうだか。狂信者ってのは、往々にして理屈じゃ動かねぇからな。……ま、いいだろう」

皮肉のように吐き捨てるが、それは了承の言葉だった。
ローマンはドミニカのことを脅威とすら感じていない。
大人しくしているなら見逃す。逆らうなら潰す。ただそれだけのことである。

116ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:27:16 ID:6mJkdVQQ0
「それともう一つ」
「まだあんのかよ」

ローマンが呆れの言葉を漏らすが、メリリンが図々しくもさらなる要望を口にする。

「……私は『サリアの亡霊』を終わらせたい。そのために協力して欲しい」

死者であるはずのその名を聞いた瞬間、ローマンの目が細くなった。

「……どういうことだ?」

簡潔に、メリリンは語った。
この地にはサリア・K・レストマンの姿を模した亡霊がいると。
話を聞き終えたローマンは意外にもすんなりとこの話を受け入れた。

「なるほどな……ハイヴの奴と似たような超力者がいるという訳か」

ローマンは死者を取り込む超力者の前例を知っている。
『アイアン・ハート』や『イースターズ』にも甚大な被害を齎し、あのスプリング・ローズすら退け、他ならぬローマンがとどめを刺した相手だ。

「いいだろう。死者の自由まで奪う輩は俺としても胸糞が悪ぃ。ついででよければ処理してやるよ」

ローマンが条件を飲む。
これで契約は成立した。

「これから私はあなたの部下ってことね。同行すればいいのかしら? それともルメスたちに協力すればいいの?」
「ルメスたちにそこまでしてやる義理はねぇな。ひとまずは俺に同行しな。傘下に入った以上、この場で無駄死にされても困るからな」

そう言いながら、ローマンは足元で転がるジェーンへと視線を向ける。
うずくまるように身を縮め、まだまともに動けない彼女へと、淡々とした口調で言葉が落とされた。

「聞いた通りだ、俺に歯向かわない限りは見逃してやる。そこで伸びてる鉄槌にも伝えておけ」

ローマンはそれだけを言って踵を返した。
無言で歩き出すその背へ、メリリンもついていく。

だが、メリリンはふと足を止め、振り返った。
その瞳が、倒れ伏すジェーンをとらえる。

メリリンは相変わらずの無表情。
ただ静かに、何かを伝えるように口を動かすことなく視線を交わす。

それは言葉の代わりに交わされた、無音の会話。
だが、その交錯も一瞬。メリリンはローマンの背へと再び向き直り、歩き出した。

二人の足音が、傷ついた大地の上に淡く響く。
朝焼けに照らされるブラックペンタゴンの中へ、ゆっくりと吸い込まれていった。

残されたのは、砕けた地と、二人の傷ついた女。
ジェーン・マッドハッターは、呻きながら地に手をついた。
熱と痛みがまだ神経を刺す。だが、ローマンが遠ざかっていくその背を見つめるだけの意識は、辛うじて残っていた。

「……見逃された、か」

息を吐くように呟いた言葉には、安堵も、恐怖も、なかった。
ただ一つ、滲んでいたのは悔しさだった。

サリア・K・レストマンの亡霊を終わらせる。
それが彼女に課せられた依頼だった。
別にジェーンはその契約に乗り気ではなかったし、過去の亡霊とやらに何の興味もなかった。
だが、その契約を目の前で奪われたことに、今は無性に悔しさを感じている。

敵うはずのない相手だと、わかっていた。
見せつけられた力の差はどうしようもない程に絶対的だった。

握りしめた拳に、土が食い込む。
まだ立てない。その事実が、さらに彼女を苛立たせる。

「……ふざけんなよ、クソッ……!」

地面を拳で殴る。
砕けた石が散り、皮膚が裂ける。

血が滲む。痛みが走る。
それすらも、今は心地よかった。

視線の先には、まだ気絶しているドミニカ。
彼女を守ってくれたことに感謝すべきなのはわかっている。
それでも、守られたことが、自分の中の矜持を突き崩していた。

ジェーンもまた、牙を持つ者だった。
己が望まずとも強い力を持ち、殺し屋として生きてきた。
誰にも頼らず、自分の仕事は自分で果たす。そういう流儀で生きてきた。

それなのに今はどうだ?

圧倒的な暴力を前に、ドミニカの超力に守護られ、メリリンの自己犠牲に救われた。
これほど、みっともない結末があるか。

117ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:28:01 ID:6mJkdVQQ0
元より死刑囚。
人を殺すしか能のない自分は生きているべきではないとすら思っている。
己が暴力性を肯定するギャングスタ―と己が超力を嫌う殺し屋では、その性根からして話にならない。
ならば、この痛みも悔しさも、当然のものとして受け入れ目を閉じるべきだ。

唇の端をかすかに歪め、血を拭う。
風が戻ってきた。土煙が再び舞い、夜が完全に明ける気配が迫る。

彼女は目を閉じる。
もう一度立ち上がることが出来て、再びメリリンとローマンと相まみえたとして自分は何を思うのか。
その感情を、どこに向ければいいのか。
彼女自身にも、まだ分かっていなかった。

それでも、朝が来る。何があろうと。

【E-5/ブラックペンタゴン南東入口/一日目・早朝】
【ネイ・ローマン】
[状態]:両腕にダメージ(中)、疲労(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
1.ブラックペンタゴンでルーサーとローズを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。

【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
1.サリヤの姿をした何者かを探す。見つけたらその時は……
2.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する
3.山頂の改編能力者を警戒。取り敢えずドミニカ任せる
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました

【E-5/ブラックペンタゴンの近く/一日目・早朝】
【ジェーン・マッドハッター】
[状態]:全身にダメージ(中)、一時行動不能(回復中)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.無事に刑務作業を終える
1.回復に努める
2.山頂の改編能力者を警戒
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました

【ドミニカ・マリノフスキ】
[状態]:気絶、全身にダメージ(大)、全身に打撲と擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.善き人を見定め、悪しき者を討ち、無神論者は確殺する。
1.ジャンヌ・ストラスブール、フレゼア・フランベルジュ、アンナ・アメリナの三人は必ず殺す
2.神の創造せし世界を改変せんとする悪意を許すまじ
3.山頂の改編能力者について、ソフィア・チェリーブロッサムに協力を仰ぐ。
※夜上神一郎とは独房に収監中に何度か語り合って信頼しています
※メリリンおよびジェーンと知っている刑務者について情報を交換しました。
※ルーサー・キングについては教えて貰っていない為に知りません。

118ストリートの不文律 ◆H3bky6/SCY:2025/04/16(水) 21:28:29 ID:6mJkdVQQ0
投下終了です

119 ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:13:54 ID:NfklpSNc0
投下します

120Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:15:14 ID:NfklpSNc0



 キリキリ、カラカラ、音が鳴る。
 くるくる、ころころ、鉄が回る。
 カチカチ、キチキチ、槌が昇る。

 どこか遠くに聞こえた銃声と、頬に伝わるヒンヤリとした感触。
 かすかに捉えた、意図的に声量を抑えたような、数人の囁き声。
 少しずつ戻ってきた身体の感覚に、スプリング・ローズは重い瞼を持ち上げた。
 
「…………ん」
「あ……ろ、ローズちゃんが……お、起きた……みたい、だ」

 ぼやけた視界が徐々に晴れ、視力を取り戻してもなお周囲は薄暗い。
 そこは妙に圧迫感のある空間だった。
 ローズは突っ伏していた机から頬を引き剥がし、身体を起こしながら軽く肩を回す。

 額に張り付いていた赤髪が、さらりと流れて視界の半分を覆った。
 なんとなく、ぺたぺたと手で自分の顔に触れてみる。
 額に孔は無い。両目はしっかりついている。血の一滴も流れていない。
 夢を見ていたのだと思った。それも、とびきりの悪夢を。
 
「お、おはよう、ローズちゃん」
「おはようございます」
「随分と呑気に寝ていたな」

 そうして、今も、ローズは夢の中にいる。

「ああ……そっか、お前らか……」

 明晰夢。
 もう二度と、この幸せな悪夢から、覚めることはないと知っていた。

 ふああ、と。リラックスしながら大きな欠伸を一つして。改めて、周囲を見回してみる。
 だだっ広いのに、どこか圧迫感のある石畳の部屋。暗くて狭くて動きにくい。
 少し前の自分なら、きっと我慢ならない息苦しさを感じたであろう閉塞に、今は何故か不思議と落ち着く。
 閉所恐怖症の人間であれば発狂ものの場所が、まるで自分だけの為に誂えた寝床であるかのようにフィットする。

 どうやらローズは座ったまま、机に突っ伏して寝ていたようだった。
 その机は部屋の面積の殆どを占める大きな円卓。
 黒い大理石のような艶のある素材で出来た円形の先、3人の家族が同じ卓を囲んでいる。

「大丈夫? 疲れてるなら、もうちょっと寝ててもいいからね。
 えっと、スプリングちゃん……ローズちゃん?」

 ローズの右隣の席に座る女性が、朗らかに微笑みながら言った。
 
「いい、もう充分寝たっての。変な気を使うなよサリヤ。
 あと……名前なんて呼びやすいように呼べ、アタシ達はもう……」

 家族なんだからさ、とぶっきらぼうに呟きながら。
 ローズは座っていた椅子の背もたれに深く身体を沈め、その素晴らしい座り心地に合点がいった。 

 道理で落ち着くわけだ。これは自分の椅子だ。かつてのイースターズ、その王座だったもの。
 今は遠い場所にあるアジトに残してきた筈の、スプリング・ローズの愛用した椅子と殆ど相違ない。
 拾い物でボロい、しかし使い古して身体に合った、所々繊維の破けた赤い小型ソファ。
 本物との違いが有るとすれば、その背に『Ⅵ』の刻印が入っている、その程度のことだった。

「そう、良かった。……そうだ、無銘さんも、もう少し寝てて大丈夫ですよ。まだ辛いでしょう?」
「……俺のことも気にするな。じっとしていれば意識くらい保てる」

 円卓の『5』の席に座る女――サリヤ・K・レストマンが、ローズの正面に位置する『叁』の席の男に話を振る。
 男――無銘は椅子に腰掛けたまま目をつぶっていたものの、眠ってはいないようだった。

「さっさと始めろ。時間が惜しい」
「分かりました。でも辛くなったら無理しないで、眠ってしまって良いんですからね?
 ……では、清彦さん」

 そうして最期の一人に視線が集まっていく。
 ローズの左隣、『一』の席に座る男、この群生の主人格に。

「始めましょうか」
「う、うん……そ、それ、じゃあ……」

 ぼんやりとした輪郭の男。
 平凡で印象に残りにくい、平均的な体格の日本人男性は、常通りのか細い声で宣言した。

「第XX1回……〝弾倉会議〟を開始するよ」 





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121Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:16:15 ID:NfklpSNc0













『――アタシがバケモンになったんじゃねェ。テメエらがヒト未満なだけだろうがッ!』





                     ――スプリング・ローズ(Chamber6-Memory)







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122Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:18:53 ID:NfklpSNc0

「……じゃあ……そ、その……ろ、ローズちゃん……から、どうぞ」
「…………?」

 会議が始まって即効で向けられた話の水に、ローズは一瞬ついて行けずに固まってしまった。

「清彦さん、そのフリじゃあローズちゃんが困っちゃうよ」
「……ああ、そ、そっか、そっか、ローズちゃん、会議は初めてだもんね……」

 呆れながらフォローを入れるサリヤと、慌てた様子でのけぞる本条。

「いや、悪い。アタシもちょっと寝ぼけてた」

 しかしそんな様子の彼らを見ている内に、ローズも状況に追いついてきた。
 根本的に、彼らは肉体と精神を共有する、まさに一心同体の群生である。
 心同士を接続したものに隠し事はないし、する必要もない。
 なので、此処がどういう場であるのか、ローズも既に理解していたのだ。

「名簿の中に、知ってるやつは何人か。
 そこにさっき会った2人加えて、大体5,6人ってとこか」

 これは彼らの情報整理だ。
 既にローズの知識は他の3人に共有され、3人の知識はローズに共有されている。
 しかし4人分の知識と願望を纏め上げ、群生としての行動方針を決定する為に、こうして会議が開かれているのだ。

「〝知っての通り〟アタシは欧州でギャングの頭を張ってた。
 それなりにツラも知れてるだろう。そんで、それなりにツラを知ってもいる。
 中でも、特にお前らに言っておきたいヤツが二人いる」

 自己紹介など今更必要ない。
 あの時、ローズの眉間を銃弾が穿ち、殺人という何よりも深い接触が行われたその時。
 彼女の人格は捕食されたのだ。そしてその瞬間に、彼らは互いにとって最大の理解者、家族となった。
 
 殺人鬼。我喰い。回転式魂銃。
 彼らの心に壁はない。
 互いの全てを理解しているからこそ、互いへの不審も恐怖もありはしない。

「言うまでもねえけど、ルーサー・キング―――ボスは、生半可な覚悟で近づかない方が良い」 

 彼らには在るのは、互いが絶対的な味方であるという安堵。
 同時に、埋まりきらぬ空隙への寂寥。
 そして―――

「ボスがアタシ達のファミリーに加わってくれりゃあ、心強いけど。
 それ以上に、正直言ってアタシは怖え。
 ボスは――キングは強え、ただ超力が強いだけじゃねえ、その在り方が恐ろしい」
「そう聞くと……俺は戦ってみたくなるが」
「無銘、アンタは直接会ったことがないから、分かんねえんだよ……」
「ぼ、僕は……ちょっと……怖いなあ……憶えておくよ……」

 そして、群生としての行動方針。
 欠損が在れば、埋めねばならない。
 完全な状態であるために、誰一人、ずっと寂しくないように。

「もう一人は?」

 右隣の女性が問う。
 ローズにとっての、スプリング・ローズの残影にとっての、もう一つ。

 群生の在り方、何より生存を優先し、個よりも群としての生存を優先する。
 そこに例外が在るとすれば。

「ネイ・ローマン」

 死して尚、続けたいと、叶えたいと願うこと。

「こいつはさっきとは逆だ」

 群生は望む。

「こいつとは……出来れば決着を付けたい」  

 〝みんな〟の願いを叶えたい。

「たとえ撃鉄を上げてでも……だ」

 ネイ・ローマン。
 『イースターズ』の宿敵。『アイアンハート』のリーダー。
 生前叶わなかった打倒。
 それは今も、喉に刺さった小骨のように、ローズの影を縛り付けている。

「できる限り家族には迷惑かけねえ。
 ただ、もしもチャンスが巡ってきた時、コイツに出し惜しみはしたくねえんだ。だから……」 

 だから、相対が成った時、おそらくローズは安全装置(リミッター)を外すだろう。
 超力の最大出力、その発露。

123Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:19:46 ID:NfklpSNc0

 つまり6番目の弾倉が再び射出され、空になることを意味する。
 それは我儘であると、分かっていたからこそ。

「私たちに、素直な気持ちを伝えてくれてありがとう。
 大丈夫、ローズちゃん。
 この会議はそういう気持ちを、ちゃんと共有しておく為の場なんだから」

「強者と存分に戦いたいという望みは、俺にも理解できる」

 誰一人反対意見が出ず。
 全員が協力を申し出た時、ローズは本当に嬉しかった。

「せ、先代の6番も……自分の望みに殉じたよ。
 でも、それは何も、恥ずべきことじゃない、君もね」

 言葉にせずとも、心だけで伝わることだったとしても。

「僕らは、生きていたい。できればずっと、一緒に生きていたいと思う。
 だけど同じくらい僕らは、僕らの願いを叶えてあげたい。
 そのために、全員が全員のために力を尽くす。
 結果として君が居なくなるのは寂しいけど、君の心からの願いの為なら、僕らは協力を惜しまない」

「……そっか……ありがとな」

 照れたように顔を背けながら、ローズは何年ぶりかも知れない、素直な礼を言葉にした。
 礼、なんて。非を認めるなんて。自分だけの我儘を訴えるなんて。
 ギャングの頭としての立場にあっては、決して出来なかったことだ。

「アタシも……その分ちゃんと、お前らの力になるよ、家族(ファミリー)として……」

 ナメられてはならない。
 弱みを見せてはならない。
 足を掬われないように、絶え間なく強さを誇示しなければならない。

 ずっと晒されていたそんなプレッシャーは、今やない。
 だって、繋がっているから、血よりも固い絆で、魂の結びつきで感じているから。
 彼らが真に味方であり、心からローズの家族であり続ける事を、理屈を超えて知っているから。


『―――君には、生きてほしいと―――』


 かつてない多幸感の中で、ほんの一瞬、過った寂しさは、未だ埋まらぬ2発分の弾倉から吹き抜ける隙間風か。
 あるいは―――

「ああ、そうだ。ついでに、もう一人」

 少し湿っぽくなった空気を変えたくて、口調を崩してその名を告げる。
 過った寂寥はほんの一瞬の事で、もう何だったのか、残影には分からない。

「アンリ・ホクレイ、だっけな。
 こいつに会う機会があったら、家族に加えてやっても良いと思う」
「へ、へえ、ローズちゃんの推薦かあ……い、良い子……なの?」
「いいや? オカマ臭え、変体ホモ野郎だよ。キヨヒコ程じゃねえが、気持ちわりいヤツだ」
「……ひどい」
「だが……まあ……」

 影は影に飲み込まれ、蠢きながら進んでいく。
 それはもう、終わってしまった物語の、その先にあるモノだ。
 
「機会があるなら、アタシの弟にして、腐った根性を叩き直してやってもいいかもな」

 ―――なあ、アンリ。

 物語の終わった先で、終われなかった何かが蠢いている。
 正しく終われなかった誰かの魂が、奈落の底から手を伸ばす。

 ―――ここは悪くないぜ。

 キリキリと鳴る。
 狭苦しい弾倉の中で。
 それは、開放の時を待っている。

 ―――辛えならさ、お前も来いよ。

 スプリング・ローズは、銃弾になった。






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124Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:21:51 ID:NfklpSNc0












『――俺は誰だ。お前は誰だ。此処は何処だ。今は何時だ。全て、どうでもいい。闘ろう』





                             ――無銘(Chamber3-Memory)







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125Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:23:26 ID:NfklpSNc0

 ルーサー・キング、ネイ・ローマン、ハヤト=ミナセ、イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ、北鈴安理。
 ハヤト=ミナセはローマン程の宿敵ではないが、かつてローズの縄張りに不用意に踏み込んだ野良犬。
 イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノは北鈴安理と同行していると思しき〝災害〟。

 スプリング・ローズは知る限り一通りの名前を上げた。
 もっとも新参の少女の話が終わった後、視線は彼の元に集まっていく。

「なるほど、次は俺か」

 三番目、『叁』の席に座る男、ローズの対面、黒い長髪を頭の後ろで束ねた武闘家だった。
 
「あんた……中華圏にルーツでもあんのか?」

 ローズの問いは彼の席次に記された文字を見てのものだろう。
 しかし、無銘はゆっくりと首を振る。

「悪いが憶えていないな。それに今や興味もない」
「みたいだな、続けてくれ」

 ローズもそれ以上は追求することはなかった。
 精神的に繋がっている彼女にも、それが嘘でないことが伝わったのだろう。

 事実として、無銘は自らの出自の詳細を曖昧にしか憶えていない。
 その名前すらも、誤魔化しているわけではない。
 彼は本当に、自分の名前を憶えておらず、どうでもいいと思っている。

「見ての通りの有り様だ。方針を示せるとは思えない。
 俺がこの地で戦ったのは、お前たちの他には……なんといったかな。
 虫の使い魔を扱う超力の女くらいか……そういえば名前も聞いていなかったな」

 つまり、他者の名前も同様に。
 闘争のみに先鋭化された精神は余計な情報のストックを必要としないのか。
 彼から共有される情報、狙うべきターゲットが示されることに期待はできない。

「ただ……そうだな。お前たちのことは、家族としてちゃんと守るさ。そのうえで……」

 しかし彼は彼で、確固たる信念がある。
 その在り方は、群生の一部と成った後も変わっていない。

「俺は強い奴と戦いたい。それが俺の望みになるだろう」 

 男は戦いを欲している。
 それは生の尽きた後も続く男の在り方。

「その意味では、あの武人は素晴らしかったな」 
「も、もしかして……剛田さんのこと?」
「ああ、彼はもう居ないのか?」
「剛田宗十郎さんは、貴方を倒すことと引き換えに発たれました。先代の3番ですね」
「そうか……ここに座っていたのか」

 無銘は改めて、己が椅子に深く腰掛ける。
 彼らしい、背もたれのない、石を積み上げて出来た無骨な椅子だった。
 僅か数刻前の戦いを思い出しながら、男は味わうように感慨に耽っている。

126Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:23:51 ID:NfklpSNc0

「あの寝技は見事だった。願わくば、全盛期に立合いたかったものだ」
「へぇ、アタシより強かったのか? そいつは?」

 ふとローズから向けられた視線に、無銘は表情を緩ませる。
 彼自身、そんな経験は初めてのことだった。

「そうだな、単純な腕力はお前の方が強い。しかし技は、かの御老体が上回っていた。
 俺がお前に勝った理由であり、御老体に負けた理由でもある」
「なるほどなあ……あ? まて、誰が誰に勝ったって?」
「うん? 俺がお前に勝ったという話だが」

 そして誂うように口角を上げる。

「おーいおいおい、人の名前は忘れても勝敗結果だけは忘れんなよ。
 テメエ最後は気絶しただろ。完全にアタシが勝ってただろうが」

 ローズは憤懣やる方ないと言った様子で腕を振り回している。
 それをあしらう兄のように、無銘は飄々と話していた。

「そうだな。で、その後お前はどうなった?」
「……アタシを殺したのはサリヤであって。お前じゃねえ」
「一緒のことだ。俺達は一体だからな」
「けっ……納得いかねえ。……同じ肉体になっちまって残念だ」
「それについては同意しておこう。お前とも、もう一度、闘ってみたかった」

 彼もまた群生の一体。
 名無しの男は、しかし最後に一つだけ付け加える。

「ああ……ただ……あれだな」
「ど、どうしたの?」
「内藤四葉に会う機会があれば、必ず俺に闘らせてくれ」

 ただ一人、唐突に。
 家族以外では、初めて無銘の口から発せられたフルネームに、にわかに全員の興味が集中した。
 
「へ、へえ、あなたから個人名が出るなんて珍しい。そ、その子、良い子なんですか?」
「無銘さんって、人の名前憶えられたんですね」
「どういう関係なんだよ」
「あのなあ……」

 精神的な繋がりから、おおよそ答えの分かっている筈の問いを四方から浴びせられ。
 無銘は肩をすくめ、苦笑いながら答えたのであった。

「自分の名前も忘れた奴が、そんなこと憶えてるわけないだろう」







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127Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:24:51 ID:NfklpSNc0












『――ねえ、メリリン。本当の悪ってなんだと思う?』





         ――サリヤ・K・レストマン(Chamber5-Memory)







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128Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:27:02 ID:NfklpSNc0

「私の番ですね」
 
 やがて、目を閉じて押し黙った無銘の後を引き継ぎ、話し始めたのは第5席の女。
 それは成熟した女性のようにも、儚げな少女のようにも見える。
 見る角度によって印象を異にする、独特の雰囲気を纏う女性だった。
 左右に紫水晶(アメシスト)と琥珀(アンバー)の色を湛えたオッドアイ。
 綺羅びやかな薄紫色のウェーブヘアをハーフアップにしている。

「無銘さんがお疲れなので端的に。ローズちゃんにはもう話したけど、ここに親友がいるの。だから迎えに行ってあげたい」

 年上と年下で敬語とタメ口を使い分ける口調。
 さりとて堅苦しいわけでもない、朗らかな話し方。
 サリヤ・K・レストマンは穏やかに微笑みながら、家族に向けて語っている。

「メリリン・"メカーニカ"・ミリアン 。あの子は多分、塔に向かってる」
「ぶ、ブラックペンタゴンか……た、たくさん人が、あ、集まってそう……だね」
「機械好きで、なんだかんだ好奇心には素直なあの子のことだから。
 工業地帯に居ないのなら、もう中央を目指してる可能性が高いでしょう」

 それに私も、あの塔には個人的な興味があるしね。
 と、付け加え、サリヤは円卓を見回した。

「アタシは異議ねえよ。目立つ場所だしな。アタシの標的も向かってるかもしれねえ」 
「強者が集う場所に行くのだろう、是非もない」
「ぼ、僕も賛成だよ……み、みんなで、む、迎えに行ってあげよう、サリヤちゃんのお友達を……」
 
 提案された進路は満場一致で受け入れられた。
 恭しく一礼したサリヤは、ああそうだ、と思い出したように。

「私からも、反対に、幾つか警戒すべき名前を挙げておきますね」

 不意に、自らの唇に人差し指を当てたその動作を見て、隣の席のローズがぴくりと反応する。

「イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ、そして恵波流都。この二人には、特に注意してください」 

 内一人の名前が挙がるのは本日二度目だ。
 ローズはポンと手を叩いて、仰け反ってみせる。
 足を投げ出して円卓に乗せた体制はとても行儀が悪かったが、この場で咎めるものはない。

「そっか、あんた……やっと思い出した……!
 誰かと思えば〝メルシニカ〟の元頭領じゃねーか」
「そうね、〝イースターズ〟の頭(リーダー)さん。不思議ね、これも縁かしら」
「てことはアレか、メカーニカってのが例の相棒(おかかえ)技術者かよ」

 かつて、ラテンアメリカの僻地にて、サリヤ・K・レストマンの立ち上げた組織。
 非認可かつ非合法の機材を生産販売するブローカー紛いの彼女らが、突如として飛躍的な成長を遂げたのは、ある技術者の加入によるものと噂されていた。
 〝メカーニカ〟天才メカニックたる彼女の才能と、サリヤの〝前職〟で培った科学知識の合一によって、ステルスドローンを初めとした様々なオーバーテクノロジーを闇市場に流通させたのだ。
 
 後に彼女らは『メルシニカ』と呼ばれた。
 メカーニカとシエンシアの合一。サリヤの親友と母親の名を組み合わせて出来たコードネーム。
 闇市場にひたすら開発品をばら撒く者たち。その功罪は計り知れない。

 彼女らが開発した不法機器は善行にも悪行にも使われている。
 怪盗『ヘルメス』の義賊的な行いに役立つこともあれば、その反対も。
 ローズがリーダーを努めていたギャング―――イースターズも、間接的な得意先と言えた。

「アタシも直接やり取りしたことはなかったけどよ。
 こっちに流れてきた商品は上手く活用させてもらってたよ。
 おかげさまで、ヤクの取引が随分やりやすくなったもんだ」

 ステルスドローンは当時、イースターズの取引を潰そうと躍起になっていたローマン率いるアイアンハートの目を欺き。
 ヨーロッパ圏での違法薬物の流入加速に一役買っていた。
 それはメルシニカの意図した事ではないが、彼女らの行いが間接的に為した事象ではある。

「なるほど、ラテンアメリカの犯罪組織、か。それで"デザーストレ"を警戒してるわけだ」
「ええ、さっき名前を挙げた二人は、私の仕事上で関わりのあった者達。
 だからその危険性は熟知しているの。遭遇した場合は優先的に排除すべきね」

 都合の悪いことを知る者、あるいは知り得る者達。
 味方になれば心強いが、敵に回れば厄介な存在。

「め、珍しいね、サリヤちゃんが、敵視するなんて」
「まあ確かに"デザーストレ"は厄介な奴だったな」
「強いのか……そいつらは?」
 
 そうして、家族や親友を語るときとは正反対の、氷の如く玲瓏な笑顔でサリヤは締めくくった。

「ええ、見つけたら殺すことを勧めるわ。
 ……たとえ、シリンダーに空きがなくてもね」

















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129Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:30:26 ID:NfklpSNc0












『――生涯をかけて、幸せな家庭を築くことを誓います』





            ――本条清彦(Chamber1-Memory)







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130Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:31:31 ID:NfklpSNc0


「あ……そ、そ、そっか、ぼ、僕が最後なのか」

 全員の視線を集めている事に気付いた第1席の男は、たじろぎながら背筋を伸ばした。
 慌てて左右をキョロキョロと見回しつつ、本条清彦は口ごもる。
 話すことを考えていなかったらしい主人格は、情けない様相で頭を掻いている。

「ご、ごめん、いつもた、頼りなくて……」

 その視線はつい左側に流れてしまっていた。
 『二』の席。先の戦いで主を失った椅子、今も空席となったままの弾倉。

 今、彼女が居ればなんと言っただろうか。
 きっと笑っただろう。
 笑いながら、馬鹿にしながら、それでも本条の背中を叩いて、励ましてくれた筈だ。

「さびしい?」
「え……?」
 
 顔を上げると、サリヤがいつもより、ほんの少しだけ細めた目で本条を見ていた。

「杏さんが居なくなって、さびしい?」
「そう……だね、うん、寂しいよ」 

 強がることに意味はない。
 全ては言葉にせずとも、家族には伝わっているのだから。

「だけど、大丈夫。
 今は、無銘さんも、ローズちゃんも、サリヤちゃんも……一緒にいて、くれるから」

 だからこの気持ちも、伝わっている筈なのだ。
 家族に対する心からの信頼と親愛。
 そして、同じように伝わってくる。

「俺達は家族だからな。共に往くのは当然のことだ」
「シケたツラしてんじゃねえよ、キヨヒコ。このアタシがついてんだぜ。何を怖がることがある?」
「ほら、みんな貴方の味方だから。ね、元気を出して、清彦さん」

 愛すべき家族(ファミリー)達の心。
 本条が彼らに与えるものと同じだけの―――いや、三倍もの、信頼と親愛。

「あ、ありがとう、みんな。
 こんな良い家族に囲まれて、僕は、し、幸せだなあ……!」

 ここに、確かなる幸福の形がある。
 閉じた輪の中で、それは紛れもない楽園を生み出した。

「それでだ本条、結局お前は何か言っておくことは無いのか?」
「あ、そっか、僕からみんなに共有すべきこと……か。
 うーん、でも僕みたいな根暗に、大した知り合いなんて居ないしなあ……あー、いや、知ってる人はいるけど……」
「んだよ、煮え切らねーな。なんかあんなら言っちまえよ、キヨヒコ」

 出し抜けに、ローズが椅子ごとぐいっと左側に寄って、本条の肩を掴む。

131Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:31:49 ID:NfklpSNc0


「ほら、言えよ。男か? 女か?」
「えっ、あ、その」
「その感じは女だろ? 誰だよ、惚れた女か? 抵抗すんなよ、アタシらに隠し事が出来ると思ってんのか?」

 赤髪の少女は、本条の背中をバシバシと叩きながら囃し立てた。
 その様子を、他の二人は微笑ましく見守っている。

「い、いや、で、でも、ほんとに知り合いとかじゃないんだって!」
「オイ、いい加減みっともねーぞテメェ、さっさと言わねえとまた股間蹴り上げんぞォ!?」
「ひィィィィ……いじめっ子が居なくなったと思ったら……もっと凶暴ないじめっ子が来ちゃった……」

 キリキリ、カラカラ、音が鳴る。
 くるくる、ころころ、鉄が回る。
 カチカチ、キチキチ、槌が昇る。

「……ひ、ひーちゃん、だよ」
「はあ?」

 薄暗い部屋の中央には、大きな円卓が鎮座している。
 それを囲む六つの椅子(チャンバー)。
 現在、装填された弾丸は四発。

「ひーちゃん……鑑日月。アイドルだよ。ファンなんだ、僕」
「んだよ、そりゃ、見た目通りのネクラキモオタクかよ……」

 残る空席はあと二つ。

「しょうがねえなぁ! じゃそいつ見つけたらよ、姉ちゃんがアイドルの家族をプレゼントしてやるか!」
「そ、それは嬉しいけど……ええっと、僕、い、一応君より一回りくらい年上なんだけど……」
「ああ? っせーなテメエ、精神年齢が遥かに下なんだよ」


 そして―――


「じゃれ合うのも程々にしておけよ。俺はもう少し寝る」


 円卓の中央、くり抜かれたような内円の真中に。


「ハイ、では、皆さん。会議はこのくらいにして」

 
 まるで、引き倒されたように。


「そろそろ行きましょうか。
 ……ほら、ちょうど目的地が見えてきましたよ」
  


 転がった何かの残骸が―――














-

132Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:33:11 ID:NfklpSNc0








『―――I shot the sheriff,(保安官を撃ったのは俺さ)』




 寂れた路上を、蠢く人影が進んでいく。
 昇り始めた朝日の下、小さく歌を口ずさみながら。




『―――but I didn’t shoot no deputy.(でも副保安官をやったのは俺じゃない)』




 その影は大人のようでもあり、子供のようでもあった。
 その声は男性のようでもあり、女性のようでもあった。




『―――I shot the sheriff,(保安官を撃ったのは俺さ)』




 銃弾は放たれる。それぞれの標的に向けて。
 回り続けるシリンダー。目前には黒き塔。 




『―――but I didn’t shoot no deputy.(でも副保安官をやったのは俺じゃない)』




 今はただ、着弾の時を待っている。








【F-4/北部路上/1日目・早朝】

133Revolver ◆ai4R9hOOrc:2025/04/20(日) 00:33:55 ID:NfklpSNc0


【本条 清彦】
[状態]:全身にダメージ(中)、現在は本条の姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt(スプリング・ローズの首輪から取得)
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
1.殺人によって足りない2発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンへ行って“家族”を探す。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度 睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:無銘(前3番の剛田宗十郎は弾丸として撃ち出され消滅、超力は掌に引力を生み出す程度だった。睡眠中)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:スプリング・ローズ(前6番の王星宇は呼延光との戦闘により死亡、超力は獣化する程度だった)

134名無しさん:2025/04/20(日) 00:34:20 ID:NfklpSNc0
投下終了です。

135 ◆H3bky6/SCY:2025/04/20(日) 10:23:35 ID:z9nbVmdk0
投下乙です

>Revolver
本条さんの脳内家族会議、知識共有だけではなく意見交換もできるのは群体の強みを生かしまくってる、けどこれ傍から見たら独り言の危ない人なんだろうなぁ
一見すると和やかな家族会議だけど、話している内容は次の標的をどうするかという話なので物騒なことこの上ない
ローズもすっかり取り込まれちゃって人格は維持されるのに価値観だけ書き換えられるのはだいぶ尊厳破壊な気もするけど、家族を得られた安らぎを得て当人たちは幸せそうではある
全員が未練という形で因縁を果たそうとするので、フラグの宝石箱となっている本条さんの抱えるフラグが今回の会議でだいぶ整理された気がする
謎多き存在だったサリアの情報も徐々に明かされていき、主人格の本条さんが一番謎かもしれない

136 ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:43:12 ID:jCwqhpJw0
投下します。

137ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:44:11 ID:jCwqhpJw0



 ――――デザイン・ネイティブ。
 人体実験によって生まれた“人工超力世代”。

 それは、欧州の裏社会で語られる都市伝説。
 それは、欧州の裏社会で密かに生まれた狂気。
 その実態は、アジア圏における“超力研究技術“が闇の世界に流入した成れの果て。
 人の悪意と欲望が作り出した、業の結晶である。

 非人道的な薬物投与や遺伝子改造によって、生まれながらにして“意図的な超力”を与えられた子供たち。
 特定の異能を生まれ持たせるために、胎児期からの細工や改造を行われた新世代の命。

 ――非合法的な稼業の開拓や穴埋めを担う為の道具として。
 ――暗殺や隠密活動など、公に出来ない任務のための尖兵として。
 そうした目的のために、彼らの開発は進められた。
 某国の製薬会社を隠れ蓑にした“製造元”は、裏社会との接点を持つ組織や機関からの支援を受ける形でデザイン・ネイティブの研究を行った。

 されど、超力はあくまで個々人の素養に大きく依存するもの。
 その原理を歪める形で行われる“意図的な改造”は、人体への多大な影響を齎すことになる。
 結果として、研究の過程で数多の命が“消費”された。

 超力の機能不全。
 身体機能の致命的欠落。
 知的機能の甚大な損傷。
 認知能力の著しい障害。
 基本的な発達機能の破綻。

 生まれてきた子供たちの多くは、“過度な人体実験”の結果として重大な後遺症を負った。
 十分な成果を出せず、実験データの回収も済んだ彼らは、最終的に失敗作として廃棄された。
 彼らの一部は“超力奇形児”という呼び名を与えられ、裏社会の人身売買ルートへと流されたとされる。

 麻薬ビジネスのために欧州へと投入された“ネイティブ・サイシン”は、そうした犠牲の蓄積を経て生まれた“完成体”である。
 ――デザイン・ネイティブにおける貴重な“第一世代”だ。

 彼らでさえも身体機能の欠陥や情緒の不安定と言った障害を背負っていたものの。
 それでも破棄されてきた失敗作達に比べれば、薬物投与などで“強引に封じ込める”範疇だった。
 その代償として、彼らは初めから摩耗した“消耗品”として生きることを余儀なくされた。
 いずれも成年を迎えるまで生き延びることは難しいだろう――そう目されていた。

 この世界は、廃棄品(スクラップ)で溢れ返っている。
 ヒトとしての価値を失った者たち、あるいは奪われた者たち。
 彼らという存在は、光さえも届かぬ掃き溜めで無造作に積み重なっている。

 生まれ落ちた命であろうと、人の手で作り出された命であろうと、変わりはしない。
 全能なる神は救いを与えず、指先で運命を弄ぶだけだ。
 開闢と繁栄の足元で、人間というものは混沌の渦に翻弄されていく。




138ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:44:42 ID:jCwqhpJw0



「お久しぶりですね、“鉄の騎士”殿」


 ――その神(おとこ)は、眼前の相手を見上げていた。


「失せろ、神父。あんたはお呼びじゃない」

 
 銃頭の男は、威圧するように神(おとこ)へと告げる。


「これはこれは、随分と手厳しい歓迎だ。しかし慈悲と寛容の心を以て赦しましょう」


 されど神(おとこ)は、悠々とした微笑を崩さない。


「あんたの説教には興味が無い――そう言いたいのが分からないか?」


 “鉄の騎士”、ジョニー・ハイドアウト。
 彼はその頭部の砲口を突きつけるように、神(おとこ)へと吐き捨てる。


「神(わたし)の言葉を必要とするか否か、それを決めるのは貴方ではない。各々の内なる意思です」


 “神父”、夜上 神一郎。
 彼は銃頭の敵意を物ともせず、粛々と言葉を並べ立てる。

 二人の男は、至近距離で対峙する。
 互いに睨み合うように、それぞれの論理を突きつける。
 ――彼らは、“久方ぶりの再会”を果たしていた。

139ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:45:38 ID:jCwqhpJw0

 そんな二人を一歩引いた距離から、若き怪盗が見つめる。
 両者の間にある確執。その実態を知らぬ彼女は、一触即発の状況に息を呑みつつ。
 それでも怪盗ヘルメス――ルメス・ヘインヴェラートは、神父へと話し掛ける。

「……夜上神父、貴方の話は聞いている。
 ラバルダさんの教誨にも立ち会ったことがあるんでしょう」

 オーストラリアの麻薬女王、“サイシン・マザー”ことラバルダ・ドゥーハン。
 先刻にローマンとの遣り取りでも上がった名前を、ルメスは言及した。

「ええ。彼女もこの刑務に居合わせてくれれば良かったのですが」 

 夜上は何処か含みを込めた返答を、温和な声色で紡ぐ。 
 ――模範囚であるとはいえ、夜上の立場は破格と言っていい。
 単なる一囚人でしかない男が、その教養と知性を買われて所内での“役割”を与えられているのだから。

「そちらのお嬢さん……“怪盗ヘルメス”ですね?
 貴女も今まさに“試練”へと直面しているようだ」

 そんな夜上は、飄々とルメスへと語りかける。
 透明な硝子細工のように澄んだ瞳が、若き怪盗の双眸を捉える。
 ――まるで心の奥底を見透かされるような言葉に、ルメスは思わず目を見開く。

「貴方が神を見出しているのか、あるいは未だに迷える子羊として彷徨い続けているのか。
 ――――神(わたし)は、そこに関心があります」

 つい先刻の会話が、彼女の脳裏に蘇る。
 若きギャングスター、ネイ・ローマンとの対峙。
 悪意の犠牲者である彼が語った残酷なる現実、人の欲望が生んだシステム。
 メカーニカ、ラバルダ・ドゥーハン。その片鱗に触れながらも、真実を掴みきれず――理想と善意に眼を眩ませていた己自身。

 弱者を救う怪盗としての活動が、社会の闇に次なる混沌を呼び寄せた。
 ネイティブ・サイシン。人体実験の成果として人為的に生み出された、麻薬生成能力を備えた子供たち。
 生半可な正義感では何も変えられない。世界の悪意は留まることを知らず、“仕組み”と化して歯車を動かし続ける。 

 込み上げる負い目に苛まれるように、口を噤むルメス。
 苦悩と葛藤が、その胸の内を刃のように突き刺していく。
 しかし――それでも彼女は、諦念に膝をつくことを拒絶する。

 迷いの霧は、今なお晴れていない。
 善意が悪意によって踏みにじられる。
 過去にも幾度となく繰り返してきた経験だった。

 だからといって、容易く絶望するつもりはない。
 理想と現実の狭間。不自由な生き様を貫くことこそ、怪盗ヘルメスなのだから。
 ――“延ばした手に、必ず意味がある”。
 師である叔父から伝えられた教訓は、今も胸の内で灯火として宿り続けている。

140ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:46:30 ID:jCwqhpJw0

 僅かに振り返ったジョニーと、刹那の合間に視線を交わした。
 自身を案ずるような彼の素振りを前に、ルメスは一呼吸を置き。
 相手のペースに飲まれぬように気丈な意思を保ちながら、口を開いた。

「あなたは、此処で何を望んでるの?」
「無論、人間(ヒト)を見極めることです」

 そうして、夜上はさらりと打ち明ける。
 自らの素性を良く知るジョニーが居合わせているからこそ、彼は包み隠すことなく語る。

「正しき者には神の導きを。
 悪しき者には神の裁きを。
 ただ、それだけですよ」

 ――涼しげに語る彼は、微笑みの裏に狂気を宿す。
 夜上神一郎。神父にして凶悪犯。
 “キルケニーの葬者”と称された連続殺人鬼。

 いかに刑務所内での信頼を勝ち取ろうとも。
 彼のことを知る者ならば、誰もがその悪名を知る。
 そのうえで尚、彼は一部の刑務官や囚人から崇敬を得ているのだ。
 夜上との直接の面識を持たなかったルメスにとっても、それは警戒に値すべき事柄だった。

「……それは、神父として?」
「如何にも。それが生業ですから」

 だからこそ、彼の温和な態度は異様なものとして映る。
 自らの思惑を語ろうとも、夜上の佇まいは変わらない。
 
「神(わたし)は可能な限り、多くの受刑者との邂逅を望んでいます。
 この刑務を通じて罪人達が何を思い、何を選び取るのか。
 ――――それを見定めることが、我が使命です」

 彼はただ、粛々と己の目的を告げる。
 まるで信者に自らの想いを語りかけるように。
 聖書を読み解き、神の教えを諭すかのように。

 受刑者達と対峙し、彼らが各々の罪や神と如何に向き合うのか。
 その果てに何を選び取るのか。そして、彼らに“道を歩む”資格があるのか否か。
 それを見つめて、善悪を見極める――夜上は裁定者の如く振る舞う。

 彼は、その思惑に迷いを持たない。
 それが在るべき行いであると、疑いの余地を持たない。
 何故ならば彼は、己が宿す“神”を信じて疑わないのだから。
 自らの絶対的な法と掟に従い、人を裁くことに躊躇を抱かないのだから。 


「“イエスはこう答えられた”」


 そんな神父に対し。
 “鉄の騎士”が、口を開いた。


「“主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ――と記されている“」


 “マタイによる福音書”、4章10節。
 神の教義を基に、悪魔の誘惑を跳ね除けるイエスの逸話。
 廃材じかけの便利屋(ジョニー)は、その内容を呟く。

141ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:47:23 ID:jCwqhpJw0

「なあ、神父。あんたは何に仕えている」

 そうしてジョニーは、返す刀で問い掛けた。
 彼の胸中に宿り続ける疑念の刃は、眼前の夜上へと向けられる。

 邪なる神父は――――ほんの一瞬、その表情から笑みが消え失せる。
 刹那の狭間、無言のままに“鉄の騎士”を射抜いた眼差し。
 硝子のような瞳が、沈黙の最中に訴えかけた。
 お前は何を訳の分からないことを言っているのだ、と。

 やがて夜上の訝しげな表情が、柔和な微笑みへと変わる。
 何事もなかったかのように、“温厚な神父”の顔へと戻る。

「奇妙な問いだ。“私”は神に仕える身ですよ」
「……そうかい」

 夜上の返答に対し、ジョニーは腑に落ちない態度で呟く。
 彼は夜上という男を知っている。彼が如何なる男なのかを、既に理解している。

 ――――神とは、個々の魂に内在するもの。
 夜上は自ら“神”を名乗りながら、“神”を偏在化させている。
 各々の秘める“内なる神”を掘り起こし、その信仰と価値を確かめていく。

「あんたは、御託を並べているが」

 自らが人を見定め、人に判決を下す立場にあると規定している。
 己こそが人を諭し、人を誅する者であると、傲岸なまでに確信している。
 なればこそ、この男は――――。


「信仰(かみ)を見失ったんだろう?」


 この男は、最早”神父“ではない。
 何故なら彼の思想は、然るべき”神の教義“から踏み外しているのだから。
 ジョニーは、そんな疑心を夜上へと突きつけた。


「いいえ、見つけたのですよ」


 対する夜上は、答えた。
 己はただ、信仰の在るべき姿を見つけただけだと。
 聖像のような笑みを浮かべて、何の躊躇いも無しに言い放った。
 酷く穏やかで、何処か非人間的に見えるほどの“仮面”を貼り付けていた。

142ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:48:22 ID:jCwqhpJw0

 そんな彼の返答に対し、ジョニーは沈黙した。
 思いを巡らせるように、微笑む夜上を見据えながら。
 人のカタチを失った顔の裏側で、鉄の騎士は黙考する。

「何故、そのようなことを問うのですか?」
「こうしてまた顔を合わせて、気になったのさ」

 柔和な笑みを浮かべたまま、問いかける夜上。
 ジョニーは、ふぅと一息を付き――僅かな間を置いてから言葉を続けた。

「なんで“あんたが”人を裁くのか、ってな」

 そう告げるジョニーの声から滲み出る、不信と疑念。
 自らを神であると標榜する男に対する、確固たる嫌悪。
 そして“何がこの男を此処まで駆り立てたのか“という、ある種の哀れみ。

「この眼に、焼き付いたからですよ」

 “神父”は、酷く眼が良い。
 あらゆる存在を捉えてみせて。
 あらゆる真理を見通してみせる。

「“世界の歪み”というものが」

 ヒトの眩き光も、忌むべき闇も。
 尊ぶべき善も、裁くべき悪も。
 その網膜に刻み込まれている。
 瞳孔を蝕んだ澱みは、いつまでも消えない。

 この現世の本質を、悟ってしまったが故に。
 己だけがそれを理解していると、妄信の魔道へ突き進んでしまったが故に。
 夜上 神一郎は、自らの狂気が導き出す“神”を説くのだ。
 
 “神”は揺るがない。“神”は動じない。
 強固な意志へと昇華された狂信が、彼を怪物へと変える。

「……神(わたし)も、気に掛かっていたことがあります」

 故に彼は、動じることもなく。
 自らもまた、鉄の騎士に対して問い掛ける。

「なぜ貴方は、人の姿を棄てている?」

 夜上が見据えるのは、ジョニーの姿そのもの。
 全身に金属を取り込み、人の形をした“継ぎ接ぎの鉄屑”へと成り果てた怪人。
 己の肉体を改造し続け、人としての容貌を棄て去った異形の銃頭(ガンヘッド)。
 それがジョニー・ハイドアウトという男だった。

 人ならざる姿を“生まれ持ってしまった”亜人型、異形型の超力使いとは事情が違う。
 この鉄の騎士は、自らの意思で人の姿を“棄てている”のだ。
 己の出自も、人種も、アイデンティティさえも捨て去る行為に等しい。
 ともすればそれは、相応の決意か――あるいは狂気がなければ踏み越えられぬ一線だ。

 鉄の騎士は、口を閉ざしていた。
 静寂の中で、何かに思いを馳せるように。
 ――何故、人の姿を棄てているのか。
 突きつけられた問いに対し、やがてジョニーはただ一言だけ答える。

「まともじゃ居られなくなったからさ」

 彼はもう、聖書を振り返らない。
 錆びついた世界で、神は人を救わない。
 鉄屑の騎士は、そう考える。

143ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:49:07 ID:jCwqhpJw0

「成る程。確かにこの罪深き俗世で、正気を保ち続けるのは難しい」

 そんなジョニーの意を汲んだように、夜上は目を伏せる。
 彼もまた、目の前の相手に対する僅かな憐れみをその瞳に抱く。
 鉄の騎士。無機物の肉体に包まれた奥底。そこに宿るものを、夜上は薄々と悟る。

「故に、だ」

 そうして夜上は、言葉を続けた。
 伏せていた目を見開き、狂信の月を輝かせる。

「道なき世界にこそ、信仰(かみ)の導きが必要なのですよ」
「信仰?あんたは“誰かを断じる自分自身”に祈ってるだけだ」

 己が絶対的に信じる道を指し示す夜上。
 されどジョニーは、そんな彼の施しを切って捨てる。

「あんたが人を救うのは、結果でしかない」

 ――何処か、己自身に言い聞かせるように。
 ――自らに対する、戒めを刻み込むように。
 ジョニーは、神父をそう断じる。

「結局のところ俺達は、社会の掃き溜めを生きる“悪人”だろう」

 夜上の顔から、次第に笑みが失せていく。
 否、その笑みの意味が切り替わっていく。
 柔和なる聖職者としての微笑みが、変質していく。
 傲岸なる眼差しを湛えた、冷酷なる破顔へと。
 巡礼の神父は、その仮面を変えていった。

「ましてや、屍の山を築いた男が――」

 そして、ジョニーの右腕が。
 まるで部品を組み替えていくかのように。
 鉄とパイプが、変形を遂げていく。
 右手の形状が、鉄板にも似た刀剣と化していく。

 “鉄の騎士(アイアン・デューク)”。
 ジョニー・ハイドアウトの超力。
 金属を無造作に取り込み、自身の肉体を改造する。


「聖人を気取るなよ」
「抜かせ、銃頭」


 騎士と神父。二人の悪党。
 両者の緊張が、限界を迎えるように。
 その敵意が迸り、“一瞬の交錯”が成った。




144ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:50:05 ID:jCwqhpJw0



 ――夕焼けの空の下。
 日が落ちゆく中で、仄暗い灯火が燈される。
 悲哀を滲ませるように、世界が赤く染まる。

 朱色の光に包まれる、小さな丘の片隅。
 近場の町外れに位置する、質素な墓地。
 足元の雑草が、風に揺れ動く中。
 八つの墓標が、寂しげに建てられていた。

 簡素な墓石には、死者の名がそれぞれ刻まれて。
 申し訳程度の柵が、彼らの領域を囲んでいる。
 並び立つ墓標の前に立つのは、全身が鉄屑で構成された怪人。
 砲身の頭部を備えた異形の男――その表情は伺えず、しかし思いを馳せるように墓石の名を見つめる。

 この地に、彼らを勧んで弔う者達はいなかった。
 彼らとは何の縁も無く――その存在を知る者さえも、殆ど居ないからだ。
 故に此処を訪れる者は、ただ二人だけしかいない。

 “事件”に関わって事情を知り、彼らを弔うことを選んだ墓主の神父。
 そしてこの墓地で眠る者達の命を葬った張本人――今も近場の街に滞在する“便利屋”だった。
 それはアビスの刑務から、2年と数ヶ月前の出来事。
 
『今日も、弔われているのですね』
『ああ。そうさ』

 便利屋、“鉄の騎士”の後方から語り掛ける声。
 近隣の教会に務め、この小さな墓場を築いた老神父が、この場を訪れていた。
 ある事件を解決して以来、鉄屑の怪人は近隣の町に滞在していた。
 この地域を離れるまでの間、彼は“墓参り”を欠かさなかった。

『俺は神を信じちゃいないが』

 錆びた鉄屑の匂いと共に、金属仕掛けの口元から蒸気のような息を吐く。
 憂いのような感情を込めて、一呼吸を置いた。

『この子達の慰めには、神が必要なんだろう』
『……ええ。それが我々に出来る、せめてもの祈りです』

 この墓場に葬られているのは、人間の業の犠牲者たち。
 人の手によって作られ、人が命を弄んだ結果としての産物。
 混沌の時代が生み出した、禁断の果実。

 計8名の“デザイン・ネイティブ”。
 人体実験によって暗殺に適した超力を生まれ持ち、試験的に実戦へと投入されていた。
 彼らはいずれも十歳に満たぬ少年少女だった。
 その全員が、暗部の依頼を請けた“鉄の騎士”の手によって始末された。
 
 ――この時は知る由もなかったが、彼らは後に欧州へと本格投入されることになる“ネイティブ・サイシン”の前身である。

 鉄の騎士、ジョニー・ハイドアウト。
 彼はかつて、闇の一端に触れていた。

145ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:51:03 ID:jCwqhpJw0

 そう、これはただの仕事。
 いつもと変わらない、汚れ役だ。
 元より大義なんか信じちゃいない。
 
 依頼を受けて、オーダー通りに任務を遂行した。それだけのこと。
 ましてや、欧州の暗部に流れ込もうとした“闇”を食い止めたのだ。

 されど――便利屋の胸中には、遣る瀬無さだけが纏わりつく。
 この件によって犠牲になったもの。踏み躙られたもの。
 自らが終止符を打った。彼らの死を以て、ケリを付けた。
 ジョニー・ハイドアウトは、人の罪によって生み出された少年少女達を葬ったのだ。

 子供達を罪から解き放った、と言えば聞こえはいいだろう。
 しかし目の前に横たわる事実は、そんな単純な言葉で割り切れるものではなかった。

 彼らは生まれながらにして、その生命を侮辱された。
 その尊厳を誰にも守られなかった彼らに対し、死という終着を与えることしか出来なかった。

 いつものことだ。いつも通りの世界だ。
 路地裏に廃材が積み上がるばかりの、掃き溜めの現実でしかない。
 
『……神父様よ。俺は、何をしてるんだろうな』

 それでも、便利屋は呟く。
 自らの罪を省みるように、懺悔の一言を零す。
 ――この狂気の世界を“生き抜く”ために、人の姿を捨てた。
 しかし意思というものは、そう容易く割り切れるものではないらしい。
 そんなジョニーの背中を、老神父は無言で見つめる。
 
 ――――死者の思念を取り込み、自らの精神世界に内包させる。
 それがこの老神父の“超力”。他者を吸収する群体型能力の変則的な亜種。
 彼自身にも制御の出来ない、自動発動型のネオスだ。
 
 神父として数多の死を見届けてきた彼は、夥しい数の思念をその身に宿している。
 鉄の騎士が仕留めた少年少女たちが何を思い、何を感じていたのか。
 この老神父は、それを知っている――されど彼は、自らが取り込んできた思念について断じて語ったことはない。
 死者達の尊厳を守るように、彼は強固な理性によって沈黙を続けていた。

 掃き溜めを生きる鉄の騎士が、誰かの死を踏み越えていくように。
 老神父もまた、誰かの死を背負い続けている。
 葛藤を覆い隠しながら、互いに歩んでいる。

『私には、貴方の是非を問うことは出来ない』

 やがて神父は、静かに語りかける。
 自らの思いを淡々と、噛み締めるように。

『しかし貴方の心には、彼らへの確かな慈悲が存在する」

 自らの罪を振り返る“鉄の騎士”。
 悔やむ彼の意思を、神父はその言葉と共に労う。

『それだけは間違いないと、私は信じています』

 それが正しき行いなのか、悪しき行いなのか。
 偶然にこの一件に関わっただけに過ぎない神父は、その答えを断じることは出来ない。

『貴方の胸中には……善き心がある』

 されど“鉄の騎士”が抱く想いは、決して否定されるべきものではないと。
 神父は確信を抱くように、彼へと告げていた。

146ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:52:32 ID:jCwqhpJw0

 自らの懺悔に対し、有りの儘に答えた神父。
 そんな彼の言葉を噛みしめるように、ジョニーは沈黙する。
 暗闇へと向かう夕陽の下で、静寂が吹き流れる。

『……悪いな』

 やがて暫しの沈黙を経た後。
 “鉄の騎士”は、ただ一言の礼を告げた。
 引け目のような意思と、感謝の念を込めて。

 彼は、神を信じていない。
 彼は、神を望んでいない。
 この地の底に、神は救いを与えない。
 所詮は世界を弄ぶだけの虚像であると。
 掃き溜めの騎士は、神を否定する。

 しかし、人はなぜ神へと祈るのか。
 それだけは、理解できる。

 人には、慰めが必要なのだ。
 救いを信じるための“大きな器”が必要なのだ。
 だからこそ、彼は祝福を以て“子供たち”を弔う。
 神を見失った世界で、せめてもの安寧を願った。

『“騎士”殿』

 それから老神父が、再び口を開いた。

『彼らを葬ったのも、依頼を受けてのことだとお聞きしました』

 その声色からは、迷いや葛藤が垣間見える。
 彼の悔いを理解した上で、彼へと“話”を投げかける。
 それに対する負い目を、神父はその素振りから滲ませた。

 されど、ジョニーは神父を咎めなかった。
 ――何故、この墓地で自分へと声を掛けてきたのか。
 その理由を、彼は薄々と察していたからだ。
 ただ自分と共に子供たちを弔いに来ただけではないのだと、ジョニーは直感で悟っていた。

『……どうか貴方に、“調査”を頼みたい』

 そうして老神父は、依頼を持ちかけた。

『アイルランドのある地域に着任している“日本人の神父”』

 この“鉄の騎士”が報酬次第であらゆる依頼を引き受ける便利屋であることを見込んで、自らの事情を話した。

『彼の周辺で、多くの行方不明者が出ている』

 それは、まことしやかに囁かれる噂話に過ぎず。
 その男の信頼は厚く、誰もが彼を疑うことをしない。
 されど彼と旧知の仲である老神父だけは、疑念の眼差しを向けていた。

 
『――――名は、コウイチロウ・ヤガミ』


 夜上 神一郎。
 アイルランドの日系移民であるカトリックの神父。
 神学校では神童と謳われた敬虔な聖職者である彼は、若くして地域の中心的な教会の統括者となっていた。

 この老神父は、夜上との親交を持っていた。
 少年期から彼のことを知っているが故に。
 彼が抱える“歪み”のようなものを、察知していた。
 そして夜上の周辺で語られる“噂話”をきっかけに、その疑念を強めることとなった。

『神を見失って久しい、この世界ですが……』

 故に老神父は、鉄の騎士へと“依頼”する。
 この疑念の真偽を確かめるために。

『私はせめて、善が喪われていないと信じたい』

 神の祝福が、神への信仰が衰えつつあるこの世界で。
 せめて善悪には正しき報いがあることを、祈るために。

 老神父が語った“依頼”を、鉄の騎士は無言で聞き届けていた。
 彼の言葉に対し、その鉄仮面の下で思いを巡らせる。

『――“願わくは主が貴方を祝福し、貴方を守られるように”』

 それは聖書の一節。
 老神父に送る、祝福の言葉。
 世話になった礼を告げるように、鉄の騎士は呟き。
 やがて静寂の狭間を経て、静かに口を開いた。


『仕事の話をしようか』




147ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:53:26 ID:jCwqhpJw0



 沈黙と、静寂。
 朱色に染まりゆく草原の中央。
 朝焼けの中に、鉄の騎士が佇む。

 夜上の姿は、既にこの場には無かった。
 ほんの一瞬の交錯。刹那の攻防。
 その狭間を経て、彼は迷わず撤退を選んだ。
 彼はジョニーの実力を知っている。
 それに加えて、ルメスの介入を警戒したのだろう。

 彼は娑婆においても、鋭い危機察知能力を備えた人物だった。
 何の後ろ盾も持たず、自らの話術と工作を駆使しながら連続殺人を実行してきたのだ。
 ごく一部、彼に心酔した信者を手駒として利用もしていたが――隠蔽や偽装も含めて、その大半をほぼ単独で遂行し続けた。
 故に窮地への嗅覚は鋭く、今回も迷いなく“退くこと”を選んだのだろう。

 夜上を追撃することも考えたが、他の目的を優先するべきだろう。
 ジョニーはルメスと視線を合わせて、その認識を共有する。
 この刑務での生存。依頼の遂行。メカーニカとの合流、メアリー・エバンスの対処。
 互いに生き延びていけば、自ずとまた対峙することになるかもしれないが。
 それでも今のジョニーは、あくまで行動の優先順位を冷静に見極める。

「……悪いな、ヘルメス。頭に血が上っちまった」
「気にしないで、便利屋(ランナー)さん」

 ジョニーは、ルメスへと謝罪を述べる。
 自らの過去の確執に彼女を巻き込んでしまったが故に。
 しかしルメスは、あくまで微笑みで返す。
 彼を咎めることはせず、そして次の言葉へと繋げる。


「お互い様でしょう。この世界で、ずっと戦ってきたのは」


 ――――ジョニーが如何なるものを背負い、此処まで歩んできたのか。
 ルメスはそれを知らない。彼という男について、未だ多くを知らない。
 それでも彼女は、先程の夜上との遣り取りの中で、その断片を察していた。

 鉄の騎士。彼が神父へと向けた怒りは、単なる嫌悪のみに基づくものではない。
 彼もまた世界の理不尽を知り、その上で歩き続けている。
 それを直感のように見抜いたからこそ、ルメスはそう告げた。

 ジョニーは、鉄屑の顔の下で微かに驚愕を抱く。
 思わぬ労いを前に、暫し惚けるように沈黙をしていたが。
 やがて彼は、ふっと笑みの声を漏らした。

「……ああ。そうだな」

 鉄の騎士は、ただ一言。
 思いを抱くように、そう返答をした。

148ピルグリム・ブルース ◆A3H952TnBk:2025/04/20(日) 13:54:33 ID:jCwqhpJw0

 互いの沈黙の中で、意思を交錯させる。
 決意と葛藤を、それぞれ振り返りながら。
 自分達が為すべきこと、止めてはならない歩み。
 それらを省みるように、静寂の中で世界を見つめた。

 そうして二人は、互いに視線を動かす。
 自分達が目指す地点を、改めて見据える。
 会場の中央に聳え立つ、漆黒の巨塔。
 ――――ブラックペンタゴン。

 ルメスが“メリリンの向かう先”として目星を付けた施設。
 刑務にまつわる手掛かりとして、あるいは彼女の好奇心の対象として。
 メリリンが目的地として選ぶ可能性は高いと、ルメスは踏んでいた。
 そしてルメスとジョニーもまた、この施設を調査する必要は大きいと考えていた。

 朝日が昇りゆく。夜は終わりを告げる。
 この刑務において、最初の夜明けが来る。
 ――放送の時が、近づいている。


【F-4/草原(北部)/1日目・早朝】
【ジョニー・ハイドアウト】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.受けた依頼は必ず果たす
1.頼まれたからには、この女怪盗(チェシャキャット)に付き合う
2.脱獄王とはまた面倒なことに……
3.岩山の超力持ちへの対策を検討。
4.メカーニカを探す。見つけたらローマンとの取引内容も話す。
5.夜上神一郎への強い不信感と敵意。
※ネイ・ローマンと情報交換しました。

【ルメス=ヘインヴェラート】
[状態]:健康、覚悟
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.私のやるべきことを。伸ばした手を、意味のないものにしたくはない。
1.まずは生き残る。便利屋(ランナー)さんの事は信頼してるわ
2.岩山の超力持ち、多分メアリーちゃんだと思う……。出来れば、殺さないで何とかする手段が。
3.メカちゃんを探す。脱獄王からの依頼になったけど個人的にも色々あの娘の助けがいりそう。ローマンとの取引内容も話す。
※後遺症の度合いは後続の書き手にお任せします
※メカーニカとは知り合いです。ルメス側からは、取引相手であり友人のように思っていました。
※ネイ・ローマンと情報交換しました。

【夜上 神一郎】
[状態]:疲労(小)、多少の擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
1.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
2.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
3.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
4.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。

149名無しさん:2025/04/20(日) 13:55:06 ID:jCwqhpJw0
投下終了です。

150 ◆H3bky6/SCY:2025/04/20(日) 20:06:07 ID:z9nbVmdk0
投下乙です

>ピルグリム・ブルース
神父と便利屋の因縁と一瞬の交錯、戦闘系の超力じゃないのでやり過ごせる神父の戦闘力はなんなの?
デザイン・ネイティブとかいうこの世界の闇。醜く歪んだ世界を目の当たりにして、人間を捨てないとやってられなかったジョニーと救うべき人と裁かれるべき人を見極めることを選んだ神父
神父の問答は今のところいい感じの救いを齎らしているけれど、多くの犠牲者を出してアビスに落とされるだけの悪行も重ねていることを思い出させてくれる
ジョニーは便利屋としての仕事として割り切っているようで、その奥底に捨てきれない信念が感じられてシブいねぇ
死者を収集する老神父、老神父は善人っぽいけどこの手の超力者が割といるこの世界怖すぎる

151 ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:29:47 ID:r.LizDtA0
投下します

152新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:31:05 ID:r.LizDtA0
東の空が、わずかに朱を含んでいた。
闇を押し返すように、冷たい光が地平を撫で、草の一つひとつを薄明の中に浮かび上がらせていく。
夜の名残をまとった草原に、ようやく新しい朝が訪れようとしていた。

鳥の囀りの聞こえぬ静寂の世界。
草葉は夜露を宿し、踏みしめれば靴底にじわりと水気が染みこむ。
低く垂れ込めていた霧が、白んでいく空に溶け込むたび、夜と朝の境界がゆるやかに融けていく。

緩やかな風が吹きぬけ、草が揺れ、朝露が空に舞う。
それは、夜を越えた世界が静かに動き出す、わずかな合図だった。

その草原を、二人の男が並んで歩いていた。
ディビット・マルティーニとエネリット・サンス・ハルトナ。
彼らは氷月蓮と別れた橋付近から、中心部の「ブラックペンタゴン」を目指していた。

水場よりも先に、標的を探す。それが彼らのとった方針だった。
確かに、水場を巡る争いは避けられないだろう。
だが、それが本格化するのは、夕暮れから夜にかけての後半戦。
水筒のような水の保存手段もない今、先に水場を確保したところで利は少ない。
それならば、今は人が集まりやすい場所を抑えて首輪を狙った方が得策だと結論づけた。

二人が進むのは、岩山の北側に沿って広がる草原地帯。
夜に踏破しいた鬱蒼とした森とは違い、開けた空間は風通しも良く視界も広い。
だがその分、隠れ場所の少ないこの地では、遠距離攻撃に晒されるリスクも跳ね上がる。
だからこそ、警戒を怠るわけにはいかなかった。

先頭を歩くディビットは超力を発動し、自身の観察力を4倍に引き上げていた。
草のしなり、風の抜け道、遠くに見える岩肌の凹凸。
その全てを精密に捉える鋭利な視線が、僅かな違和感を探し続けている。

その代償として、聴力は著しく鈍っている。
風のささやきも、鳥の羽ばたきも届かない。だが、この瞬間において必要なのは音ではない。

ふと、ディビットが足を止めた。
射抜く様に鋭く視線を細める。

「……妙だな」

その低い呟きに、後ろを歩いていたエネリットが足を止める。
即座に空気を読み取り、周囲を警戒するように視線を巡らせた。

一見して変わった様子はない。
朝露に濡れた草が風に揺れ、空気は清浄で、曙光に照らされた地平が静かに広がっている。
だが、ディビットは眉をひそめ、岩山の方向を見上げた。

「見ろ。あそこだ」

ディビットが指し示した先、岩山の稜線へ続く斜面をエネリットが見上げる。
そこに、不自然な空間があった。

よく見れば朝靄の流れが断ち切られている。
風に煽られるはずの砂粒が、ふわりと宙に浮かび、静止している。
小石が傾斜を転がることなく、地面から数センチの空中で、まるで時間が止まったように留まっていた。

それは、目を凝らさなければ見逃してしまうほどの静かな異常。
視覚的な歪みもなければ、結界のような境界も存在しない。
ただ物理法則だけが、何かの意志に切り取られたように消失していた。

153新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:31:17 ID:r.LizDtA0
「明らかに境界がおかしい。恐らく、領域型の超力だ」

ディビットは超力を一旦解除し、聴力を回復させた上で静かに推測を述べた。
その言葉に、エネリットが何かを考えるように眉をひそめる。

「……ディビットさん。山頂の方を確認できますか? 使い手がいるはずだ」

ディビットは軽く頷き、再び超力を発動する。
4倍化された8.0の視力で、朝焼けに霞む山頂を見上げる。
そこには、確かに人影があった。

「人がいる、いや……浮いているな。体格はかなり小柄だ……少女か?」

重力から解き放たれたように、空中にたゆたう小さな影。
輪郭は小柄で、どう見ても子供。
長い金糸のような髪が宙に漂い、胎児のように丸まった姿勢で、静かに眠っていた。
その言葉に、エネリットは瞳を細めた。

「……ディビットさん。寄り道なりますが、少し確認しにいってもいいですか?」
「どういうつもりだ?」

この状況での接近は、無用なリスクだ。
領域型の超力者がいるという時点で、危険性は確実に高い。

「ちょっとした心当たりと懸念があります。ダメでしょうか?」

ディビットはしばし無言のままエネリットを見つめる。
その目には警戒があったが、やがて静かに息を吐いた。

「……考えがあるんだな?」

無言のまま、エネリットは頷きを返した。

「いいだろう。だが深入りはするな。戻れなくなったら元も子もない」

その了承を受け、エネリットは軽く一礼すると、岩山へと足を向けた。

草露を蹴って走り出すその背中に、ディビットは一瞬だけ視線を送る。
再び視力を強化し、浮かぶ少女の姿を睨んだ。

あれは偶然そこにいただけなのか。
それとも、何かの罠なのか。
新たな危機の予感が、静かに、確実に、夜明けの空に広がりつつあった。



154新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:31:39 ID:r.LizDtA0
近づいてみれば、その異常ははっきりと輪郭を持っていた。

視覚的な境界線は見えない。
だが、視界の悪い夜ならいざ知らず、朝日に照らされてよくわかる。
その足元に広がる現象は『向こう側』と『こちら側』で明確に世界が違っていた。

風が吹いても草は揺れず、朝靄は一定の高さから内側へと入り込まない。
重力を忘れたように、砂粒や小石が宙に浮かび、ぴたりと静止している。
まるで透明な水槽にでも仕切られているような、自然法則の断絶。

「ゆっくりながら領域が広がってますね……ディビットさん頂上の人影と領域の端までの距離は分かりますか?」

問われディビットが強化された認識力で目算を取る。

「そうだな……直線距離で500mと言ったところか」
「領域の拡大速度は1秒ごとにおおよそ3cm程ですね。1時間で約100mほど領域が拡大していると言う事になります」

ディビットが距離を測っている間に、エネリットも領域の拡大速度を計測していたようだ。
このまま進めば刑務作業終了時には半径2㎞以上の巨大領域になっていると言う計算になる。

「それで? どうするつもりだ?」

広がり続ける境界の寸前に立ち。
調査を要求した少年にディビットが問いかける。

「僕が直接、中に入って調べてみます。ディビットさんには命綱の役割をお願したいのですが」

エネリットは迷いなく言った。
自らリスクの中に飛び込んでいくことが当然であるかのような発言に、ディビットは眉間に皺を寄せた。

「気をつけろ。異常な領域だ。深く入りすぎるな」

エネリットは頷き、軽く息を吐いた後、目を閉じて集中する。
次の瞬間、彼の髪が静かに蠢きはじめた。
アビスの看守官――マーガレット・ステインの超力『鉄の女(アイアン・ラプンツェル)』。
エネリットが徴収したその力により、彼の黒髪は命ある鋼の糸のようにするすると伸び、一本の丈夫なロープと化す。

エネリットはその伸ばした髪の端をディビットへと預けた。
ディビットは領域の外に立ったまま、じっと険しい視線でその命綱を握りしめる。

「何か異変があれば即座に引き戻す。いいな?」

ディビットの言葉に、エネリットは再び静かに頷く。
そして、ゆっくりとエネリットが前に踏み出し、領域の境界を越えた。
境界の向こうに一歩踏み込んだ瞬間、彼の身体は宙に浮き上がった。

何の前触れもなく、浮遊感が全身を包む。
足元の踏み応えが消え、膝から下が重力の軛を失ったように宙に持ち上がる。
浮遊感に襲われつつも、エネリットは慌てることなく冷静に状況を観察する。

領域内部は、明らかに物理法則が乱れていた。
草は下ではなく横に向けて伸び、小石が弾丸のように散乱する。
宙に浮いた砂粒は微動だにせず宙に固定されている。
全てのものが、違う意思を持ったかのように、元あるべき法則から逸脱していた。

エネリットは、慎重に右腕を持ち上げようと試みる。
しかし、反応したのは左足だった。
指を動かすと、瞼が開閉する。脚を伸ばそうとすると、頭が僅かに横に傾く。
この領域では、体の各部位の制御が完全に入れ替わってしまっているようだった。

この異界常識に対して、エネリットはまるで知っていたかのような落ち着きようである。
エネリットは集中を深め、ひとつずつ、動作と反応を試しながら少しずつ身体の法則を理解していく。
試行錯誤を繰り返すうちに、徐々にぎこちないながらも身体の動きが制御可能になり始める。
そうして、ようやく呼吸を整え直し、状況を正確に観察しようとした――その時だった。

突如、視界の端に巨大な影が現れた。
空中で静止していた巨大な岩塊が、唐突に火山弾のようにエネリット目掛けて急激に動き出したのだ。

物理法則の乱れの中でも、その動きは異様なほど俊敏だった。
エネリットは咄嗟に『鉄の女』を操作し火山弾を弾こうとするが、超力の操作が覚束ず、まるで間に合わない。
岩塊は、確かな殺意を帯びて真正面からエネリットに襲いかかった。

155新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:32:07 ID:r.LizDtA0
「チッ……!」

領域外からその光景を凝視していたディビットが舌打ちをして、鋼の髪を力強く引き寄せた。
エネリットの身体が瞬間的に宙を走り、境界線を越え、外へと引き戻される。
岩塊は領域の外にまでは追いかけてこず、その寸前で空中に止まり、そのまま静止するとまたふわふわと風船みたいに宙に浮かんでいった。

「無茶をするなと、言ったはずだが」
「こほっ……すみません。ありがとうございます」

直後、鋭い視線のディビットが彼を睨みつける。
エネリットは岩肌に叩きつけられるように着地し、軽く咳き込みながら呼吸を整えた。

「それで、何が確認できたんだ?」

ディビットが鋭く成果を問う。
エネリットは呼吸を整えながら、静かに顔を上げた。

「あの領域の主は、メアリーちゃんで間違いないようですね」
「メアリー……メアリー・エバンスか」

ディビットの眉間の皺が僅かに深まる。
その名はディビットも知っている。アビスに収容された危険指定児童。
世界に七人しか存在しない空間対象型の常時発動型超力者であり、世界を改変する異端児。

「知った風な口ぶりだが、どういう関係だ?」
「お互いアビス育ちですから。それなりに、ですね」

物心つくよりも前にアビスへ収監され、外の世界を知らずに育ってきた『生まれながらの囚人』。
彼らは罪を犯したのではなく、存在そのものが罪とされた者たちだった。
己を含んだその境遇をエネリットは何の感傷もなくただ事実として語る。

「ディビットさん。アビスでの彼女の身柄がどう収容されてるか、ご存知ですか?」
「いいや。知らないな」
「彼女は直接システムAの枷を取り付けるのではなく、システムAの壁で取り囲まれた部屋に幽閉されています。
 僕たちがあの超力空間の中で生きていけないように、超力のない彼女はこの現実世界では生きられない。
 だから彼女を生かして管理するには、常に超力を維持させ続ける必要があるんです」
「ふん。世界に慣らしてやらねば、それこそ生きていけないだろうに」

ディビットがつまらなそうな口調で吐き捨てる。
だがその感情の矛先は少女ではなく、その管理体制そのものに向けられているようでもあった。

「ケンザキ刑務官が赴任してからは幾分と状況が改善されたようですが、以前の彼女の『お世話』は相当に大変だったと聞いています」

それこそ食事一つ与えるのに死者が出かねない状況だったと聞く。
その過酷さに職を辞した職員も少なからずいたようだ。

「涙ながらの苦労話だな。それで? 結局何が言いたいんだお前?
 同じ境遇で苦労をしてきた相手だから殺したくないとでもいうつもりか?」

脅しつけるような低い声。
そのような甘さを見せるのなら即座に関係と共に命を断ち切るという凄みが含まれていた。
だが、エネリットは首を振る。

「まさか。本題はここからですよ」

アビスで価値観を育んだアビスの申し子。
殺したくないなんてそんなまともな感情があるはずもない。
一拍置き、表情を引き締めて告げる。

「僕は、一度だけ彼女の幽閉区域に忍び込んだことがあります」
「…………何?」

話の核心を告げる。
子供のいたずらのように語られるが、アビスで他者の独房に忍び込むなどそう簡単にできる話ではない。

「その時に彼女の超力を味わったことがあります。
 ですが、今しがた体験した空間は、当時とは明らかに性質が変質していました」

体験と体感を基にしたエネリットの報告にディビットの目が鋭く細まる。

「どう違った?」
「基本構造は変わっていません。重力や感覚、運動機能の『世界の法則』が塗り替えられている点は同じです。
 ただ、その改変が以前よりずっと攻撃的になっているよう感じられました」

エネリットは少し言葉を選ぶようにして、続けた。

「そうですね……以前の世界は、なんというか別の法則で動いていて、ただ『生きづらい』だけでした。
 今回は『殺しにくる』空間です。まるで、異物の侵入を許さないような排斥の意志を感じました」

エネリットの言葉に、ディビットが真剣な眼差しで耳を傾ける。

「それに、以前の僕は彼女の世界で1時間掛けても指一本まともに動かせませんでした。
 でも今回はものの数分である程度は身体の操作が出来るようになった。
 一度経験していることを差し引いても、明らかに身体操作の難易度が下がっています」

前回は指先一本どころか表情筋一つの操作すら別のところにつながっていたが、今回はその配線がだいぶ大雑把にまとめられていた。
コツをつかめば無重力空間でも動くこと自体は可能だろう。

「ただ、その代わりと言っては何ですが、明確に難易度が上がっているものがありました」
「それは何だ?」

「――――超力の操作です」

ディビットの問いにエネリットが答える。

156新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:32:54 ID:r.LizDtA0
「あの岩塊が襲ってきた瞬間、僕は『鉄の女』を操作して対応しようとしましたが、ですがまるで操作が出来なかった。
 これは初めて彼女の世界に触れた時に感じた身体操作の混乱に近い感覚でした、度合いで言えばそれ以上かもしれません。
 おそらく、あの世界は対超力を強く意識した方向に改変されています」

エネリットの説明に、考え込むようにディビットが腕を組む。
そして静かに問い返した。

「それは意図的な変化だと思うか?」
「わかりません。超力が精神状態や成長によって変質する事例はない話ではない。
 ですが、あそこまで急激に攻撃的に変質したとなると……メアリーちゃん、ぐれちゃったのかな?」

何気ない様子で疑問を呟く。
ディビットはそれには取り合わず、追及を続ける。

「だが、外から持ち込んだ髪は問題なかった。つまり、外部から発動して持ち込んだ力なら通る、そういうことか?」
「そうですね。領域内での発動が阻害されるだけで、既に発動した超力の効果そのものまでは打ち消されていませんでした」

内側からは超力を封じ、外からの状態は維持される。
中に入ってから力を使おうとしても遅い。

「どう攻略するか。対抗策はあるのか?」
「正攻法なら、やはり超力の無効化ですね」
「無効化系の超力者を使うってことか」

ディビットは腕を組みながら視線を落とす。
その手の超力者はレアではあるがそこまで珍しいものではない。
今この刑務作業に参加している者の中にいる可能性もあるだろう。

「それも一案ではありますが、最も有効なのは、メアリーちゃん自身の超力を無効化することです。それだけで彼女は完全に無力化できます」

超力という海がなくなってしまえばメアリーは地上に打ち上げられた魚のように、生きていけなくなる。

「だが、システムAでも使わなきゃ無効化は難しい話だろう……いや、そうか」

ディビットは目を細める。
思い当たる節があった。

「お前の超力が、疑似的なシステムAになる、だったか」

氷月に対して説明したように、エネリットの超力は疑似的なシステムAとして機能する。

「それは双方の同意を得て譲渡をした場合ですね。
 一応強制的に徴収もできますが、その場合効果は半減にとどまりますし、使用にも一定以上の好感度というか信頼関係が必要となります」
「はっ。なるほどな。遠くから手でも振ってガキをあやしてみるか?」

皮肉を交えてディビットが笑い飛ばす。
殺すために好感度を稼ぐというのもなかなかに倒錯している。
何より、現実的ではないだろう。

「無効化という意味では、領域型同氏をぶつける、という方法もありますが」
「領域型同士の干渉か。だが、強度で勝る力がなきゃ打ち消せんだろう」
「そうですね……単独ではおそらく無理でしょう。メアリーちゃんの領域強度は、下手をすれば世界有数ですから。
 何らかの強化(バフ)を得て強度を高めるか、複数の領域を同時にぶつけるかすればあるいは……と言ったところですね」

圧倒的な支配力を誇る彼女の超力に、まともにぶつかって勝てる領域型などそうそういるものではない。
もとより領域型の超力は貴重だ、複数名そろえるというのも難しいだろう。

157新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:33:28 ID:r.LizDtA0
「中で発動できないのなら、範囲外からの遠距離攻撃は有効なんじゃないのか?」

ディビットが超力を発動できる外からの攻撃を提案する。

「それも厳しいでしょうね、彼女の領域は、物理的な干渉を内部で歪める性質がある。
 半端な攻撃では放ったところで弾道も、熱も、空間も、破滅的な世界の環境に全て潰されてしまう。
 それこそ音に聞くネイ・ローマン級の超力であれば届くとは思いますが」
「どうだろうな、奴が恨みもない幼子相手に強い敵意や殺意を抱けるとは思えんが。そうなると、遠距離攻撃での攻略は難しいか」

ディビットは短く吐き捨てるように言った。

「けれど、メアリーちゃんがこの場に転移されている以上、ケンザキ刑務官の超力は通っていると言う事です。
 ならば、外部から攻撃を放つのではなく、直接対象を指定する『他対象』の超力であれば通るはずだ」

物理現象を発生させるのではなく、直接的に対象に発動する超力。
そういった使い手であればメアリー・エバンスの世界を超えられる。

「直接は無理でも、外から間接的に干渉するのはどうだ?」
「間接的というのは、どういう方法でしょう?」
「さっきお前が突入した時のように外部と内部を繋ぐ導線を使って、外から内部の人間を遠隔操作するってのはどうだ?」

中の人間がどれだけ自由を奪われていても、自由を維持している外の人間が突入した人間を操り人形のように操作すればいい。

「いやぁ……さすがにそれはどうかと。それにこの髪は8メートルほどしか伸びないので、いずれにせよ届きませんよ」

目算で山頂のメアリーとは数百メートルは離れている。
借り受けた『鉄の女』ではまるで足りない。

「結局は、攻略のためには内部に突入するしかないと言う事か」
「そういうことになりますね」

最終的にはもっとも原始的な結論に帰結する。

「ただ、以前と違って身体操作が容易になったというのは大きい。
 体の動かし方を学んでしまえば、あとは中で起きる現象にすべて対応できる身体能力があれば攻略は可能だ。
 それこそ、対応力を倍加したディビットさんなら攻略可能なのでは?」
「ふん。無重力でさえなければな」

ディビットの言葉にエネリットも苦笑する。
仮に自由に体を動かせるようになったとしても、重力が歪んだ世界ではまとも動くことはできないだろう。
何より、ディビットの強みは状況に応じて長所を切り替えられる点だが、空間内ではその強みも封じされる。
可能性はあるにしても、リスクが大きすぎる。

「……手詰まりか」

案を出し合ったがこれといった有効打は浮かばなかった。
いくつかの攻略法はあるにはあったが、現時点ではまともに運用できる方策はない。
今すぐできるのは一か八かの特効だけだが、そこまでのリスクを冒すにはまだ早い。

「そのようですね。今は打つ手がなさそうだ。
 できれば今のうちに処理をしておきたい案件ではあったのですが」

エネリットは真剣味を帯びた表情でそう呟く。

「何故だ?」

その表情に微かに不穏なものを感じ取り、ディビットが目を細めた。
エネリットは短く答えた。

「――――朝が来たからですよ」

158新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:34:16 ID:r.LizDtA0


──山頂。
空はわずかに白み始め、東の稜線が冷たい金色に染まっていく。
その光を背に、岩山の頂に浮かぶ一つの影――メアリー・エバンスは、宙に身を委ねたまま眠っていた。
胎児のように膝を抱え、小さな身体を丸めて。まるで、世界そのものが揺り籠になったかのように。

やがて、彼女の指先がかすかに動く。
何の前触れもないその微動に、空中を漂っていた石片たちが軌道を変えた。
別の法則。別の重力。
その命に導かれるように、ゆっくりと静かに、物理が歪みを始める。

睫毛が、微かに震えた。
夢の奥底にある何かが、現実という薄膜を突き破り、染み出してくる。
空気が鳴ることもなく、何かが動き始めていた。



「朝が来れば、彼女が目覚めます」

世界の危機でも伝える深刻さでエネリットは静かに呟いた。



光が差し込む。
朝陽が、まだ温度を持たぬ鋭い刃のようにメアリーを照らした。

その眩しさに誘われるように、彼女の瞼が開かれる。
深く、限りなく透き通った、未明の空のような青い瞳。
彼女だけが見ていた夢の続きが、確かに瞳の奥に広がっていた。

メアリーは言葉を発しない。
ただ、指先をゆっくりと空に伸ばす。
まるで、夢を引き寄せるように。現実へと連れてこようとするように。

その動きと同時に空間の重力がねじれる。
遠く離れた草原の端で、小石がふわりと浮いた。
引力が、圧力が、方向が、意味を失いはじめる。



「……目覚めてしまえば、動くんですよ、彼女は」

観念めいた声で、エネリットは当たり前の言葉を継いだ。



そして―――メアリーが、もう一度瞳を瞬かせる。
そのまばたきが、古き世界の夜を終わらせた。

微睡みの続きをそのまま引きずるように、彼女の身体が空中でゆっくりと回転する。
くるりと円を描き、やがてり、無重力の中で少女が起立する。
足は地についていない。そもそも、彼女の世界に地面など存在しないのだから。
そして大きくあくびを一つ。

メアリーは、ゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳に、まだ誰も知らない物語が浮かんでいる。

現実は少女の夢に侵食される。
無垢で、優しく、凶暴で、理不尽な、少女の世界が動き始めた。




「――――――新世界(じごく)を引き連れて」

159新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:34:38 ID:r.LizDtA0
【E-6/岩山中腹/1日目・早朝】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:鼻と胸に傷、衝撃波での身体的ダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.標的を探す
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です
 現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

【ディビット・マルティーニ】
[状態]:苛立ち
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める

【F-6/岩山頂上/1日目・早朝】
【メアリー・エバンス】
[状態]:目覚めた、少しご機嫌斜め
[道具]:内藤麻衣の首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.不明
※『幻想介入/回帰令(システムハック/コールヘヴン)』の影響により『不思議で無垢な少女の世界(ドリーム・ランド)』が改変されました。
 より攻撃的な現象の発生する世界になりました。領域の範囲が拡大し続けています。
※麻衣の首輪を並木のものと勘違いして握っています
※メアリーがありすに助けを呼んだその時に、何が起こるかはご想像にお任せします

160新世界の目覚め ◆H3bky6/SCY:2025/04/21(月) 22:34:54 ID:r.LizDtA0
投下終了です

161 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:29:34 ID:TbuMome60
投下します

162怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:30:03 ID:TbuMome60
見上げると、そこに天井はなかった。
淡く白みはじめた空が、ぼんやりと広がっているだけだった。

どれほど意識を失っていたのかはわからない。
まぶたは重く、耳の奥に微かな痺れが残っている。
喉はひどく乾き、こめかみは鈍く疼いていた。顎に走る鮮明な衝撃の記憶。

それでも身体には、不思議と冷たさも熱さも感じられなかった。
それが、生きていることを何よりも実感させ、ここが天国でも地獄でもないと気付かせた。

「……ん、あ……」

小さく呻きながら上体を起こそうとした瞬間、そっと肩に手が触れて、それを制した。
その手は静かで、優しく温かかった。

「……まだ無理はしないで。目は……ちゃんと開けられますか?」

穏やかな声で静かに語りかけてくるのはイグナシオだった。
いつものように柔らかな声。けれど今はそれに、どこか誇らしげな響きが混じっていた。

徐々に視界が定まり、世界が輪郭を取り戻していく。
まだここは大金卸樹魂と戦った工業地帯。
海辺に近い、ひび割れた舗装と歪んだ鉄骨の陰。潮風が、壊れたものの隙間を吹き抜けて唸っていた。

「フレスノさん……ボクは……」
「ええ。貴方は、自分の意思で、ちゃんと戦いましたよ」

その言葉を聞いた瞬間、安里の中に記憶が一気に押し寄せた。
圧倒的だった漢女の気配。足が竦むほどの恐怖。
それでも、自分の足で踏み出した一歩。
そして、渾身の尾撃を放った、その先で途切れた意識。

「……勝負は、どうなったんでしょうか」

そう問うた声は震えていた。
けれど、それ以上に知りたかった。

「勝敗だけで言えば、君の完敗です」

イグナシオははっきりと告げたが、すぐに穏やかに笑みを浮かべる。
それは戦いを終えた者同士に向けられる、敬意に満ちた微笑だった。

「けれど君の一撃は……彼女の胸に、確かに届いた。これは、間違いなく大きな一歩です」

あの、大金卸樹魂の胸元に。
たった一撃とはいえ、確かに傷を与えた。
それは、冗談では済まされない偉業だった。

「そして何より……君は、自分に勝った。
 それが一番、素晴らしいことですよ」

顎を押さえながら、安里はゆっくりとうなずく。
その目に映る空は、もうすっかり白みはじめていた。
昨日よりも、ほんの少し。世界が澄んで見えた。

「それから、樹魂さんからの伝言です──『強くなれ』と」

それは短く、けれど深く、胸に刻まれる言葉だった。

「強く……」

思わず握りしめた拳が、微かに震えていた。
何もかもが曖昧だった自分が掴みたくて仕方なかった、何か確かなもの。
その一端を、ついに手にしたような気がした。

「もう大丈夫です……行きましょう、フレスノさん。時間が惜しいです」
「! ……ああ」

足元はまだふらつく。
けれどその声は、はっきりと前を見据えていた。

もう少しだけ、強くなれる。
そんな確かな予感が、安里の胸に静かに灯りはじめていた。

その姿を、イグナシオは複雑な眼差しで見つめていた。



163怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:30:52 ID:TbuMome60
工業地帯の片隅から、二人は静かに歩き出した。
足取りは慎重で、砂利を踏む音すら立てぬように。
イグナシオが落ちていた鉄片を避けるようにしかめ面をすると、安里もまた、その動きを真似て、足元を一つ一つ選ぶように進む。

夜は明けていたが、朝霧はまだ濃く、ひんやりとした湿気が周囲にまとわりついていた。
頬を撫でる風すらも湿り気を帯び、肺の奥まで冷たさを連れてくる。

目指すはスプリング・ローズの行方と、何者かの痕跡が重なったF-2方面。
どちらの後を追うかを決断するのは痕跡の行く末が分かれてからでも遅くはない。
そこに居たいるために、2人は旧工業道路を北へ辿っていた。

舗装が剥がれた路面には、無数のタイヤ痕とひび割れた痕跡が刻まれていた。
アスファルトの裂け目には、自然に取り残された雑草が這うように根を張っている。
かつて人の手で作られた空間が、ゆっくりと自然に呑まれていく様は、どこか不気味ですらあった。
その風景の中を歩く二人の足音は、まるで異物のように場違いで静寂の中に、不安なリズムを刻んでいた。

「……この島の過去に、何があったんでしょうね」

ふと漏らした安里の呟きに、イグナシオは目を向けず、答えた。

「それを、今から確かめに行くんです。できる限り、ね」

システムAの様な特殊な妨害機構か、それとももっと別の理由か。
この島には彼の超力をもってしても再現できない過去(なにか)がある。
それが謎である以上、探偵であるイグナシオにとってそれを解き明かす事こそ譲れぬ一線だった。

足取りはゆっくりと、だが確実に痕跡をなぞってゆく。
そして、坂道を越えて視界が開けた、そのときだった。

腹の底に響くような振動が、地面を伝って鼓膜を揺らした。
金属が裂ける甲高い悲鳴。コンクリートが砕ける重く湿った音。
続いて、風を巻き込むような唸り声のような残響。

一瞬、安里の鼓動が跳ねた。
思わず立ち止まり、周囲を見回す。

「今の音は……?」
「……あちらからのようだ」

イグナシオが声を抑えながら鋭く目を細めた。
常人には聞き分けられぬ残響の層を、彼の耳は的確に拾っていた。
それは戦場に身を置いてきた者の感覚であり、探偵としての直感でもあった。

だが、その瞳に浮かんでいたのは、好奇心ではない。
確かな警戒である。

「どうしますか……行きますか?」

問いかける安里に、イグナシオは静かにうなずいた。

「そうだな……音はもう止んだようだ。戦闘は終わったと見ていいだろう。
 だが、そこに何が残っているかは別の話だ。慎重に進もう」

言葉の通り、二人は足取りをさらに落とし、先ほどの轟音の方向へと進んで行く。
冷えた風が、瓦礫の隙間をすり抜けていった。
どこかで、乾いた音がひとつ。崩れかけた石材が落ちたような音が響いた。

安里の心臓が早鐘を打つ。
ただの恐怖や怯えによるものだけではない。
何かが待っているという、本能的な予感があった。

廃墟の向こう。
丘を越えて広がっていたのは、かつての建造物が密集していたはずの一帯だった。
だが、そこに建物と呼べるものは何一つ残っていなかった。

地面は剥がれ、鉄骨は折れ曲がり、壁も柱もすべて粉砕され、跡形もなく崩れ去っていた。
白灰色の瓦礫と鉄屑だけが、霞む朝の空の下に散らばっている。

164怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:31:33 ID:TbuMome60
「これは…………?」

まるで爆撃の中心地。
地形ごと、塗り替えられたような荒廃を前にして唖然としたまま立ち尽くす安里の視線の先に、なにか異様な存在があった。

人型。
だが、それはもはや人とは思えない死体だった。

瓦礫に囲まれたその死体は、驚くほどに直立していた。
巨躯。砕けた頭蓋。折れた膝。引き裂かれた両腕。
なのに、背骨だけが、まるで祈るように、奇跡的に真っ直ぐを保っている。

鉄の柱のように。
まるで、それは『鉄塔』そのものだった。

そして、イグナシオはこの鉄塔────呼延光を知っている。

中国裏社会の最強の凶手。
あの大金卸と、並び立つ程の武勇を誇る武の化身だ。
その男が、敗れて立ち尽くしている事こそが、この地の異常を誰よりも雄弁に語る存在だった。

「……立ったまま、死んでる……?」

呟いた声すら、音を憚られるような静けさだった。
乾ききった血の気配と、粉塵の匂い。
けれどそれ以上に、この場には、空間そのものを支配するような重圧があった。
異様な場に飲み込まれる安里と違い、イグナシオは検分でもするように冷静に死体を見やりながら呟く。

「この潰れ方……衝突じゃない。押し潰されたのでもない。
 ──叩かれたんだ。強く、真上から」

彼の目が捉えたのは、明確な痕跡。
鉄球やハンマーのような巨大な凶質量の暴力によって打ち砕かれた、即死に近い致命傷。

大金卸と呼延の戦闘が行われ、この被害はそれによるものかと思われたが、彼女は容疑者がから外される。
もっとも、いかに超人同士であろうとも素手の戦いで周囲にこれほどの被害をもたらす事になるとは考えづらいが。

「……それでも、倒れていない」

死してなお屹立する身体。
その事実こそが、最も異常だった。
この姿勢を貫いたのは、単なる死後硬直ではなく、武人としての意地だったのか。

「『見せてください、荒々しい古の壌を(トランスミシオン・ヘオロヒコ)』」

イグナシオがそう唱えると同時に、指先が虚空へと静かに伸びる。
その瞬間、空気がわずかに脈打つように揺れ、空間の一部が熱を帯びたように歪んだ。
廃墟と化したコンクリートの上に、じわじわと別の時間の輪郭が滲み始める。
音もなく、しかし抗いがたい力に引き寄せられるように、過去が姿を現した。

次の瞬間――かつて壁だった場所が、何の前触れもなく弾け飛んだ。
砕け散るコンクリート。撓みきった鉄骨。吹き飛ぶ建材。
重力を歪めるかのような力が、空間を幾度となく襲い、建造物のあらゆる構造が破壊されていく。
嵐の中心に放り込まれたような錯覚。だが風はない。ただ凄まじい暴力だけが吹き荒れていた。

まるで巨人の拳が、無差別に周囲を殴り続けているようだった。
太さ数十センチに及ぶ柱が根元からねじ切られ、散弾のような瓦礫が空間を駆け抜ける。
壁も、梁も、機材も、見る間に粉塵と化し、再現された過去の中で暴風のように吹き飛ばされる。

破壊は一瞬たりとも止まらない。
床材が剥がれ、下にあった配管や鉄網がぐしゃりと潰される。
かろうじて立っていた壁は崩落し、何かの重機と思しき物体が巻き込まれ、原型を留めぬまま砕け散った。

しかも、それはただ一度では終わらない。
わずか数秒のうちに、同じ範囲内で三度、四度と破壊が重ねられる。
容赦のない連打。獲物を逃がす気など一切ない、明確な殺意の連続。

165怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:32:13 ID:TbuMome60
「…………っ」

安里は声を失っていた。
あまりに苛烈な光景。あまりに非現実的な破壊。
こんなものが人間にできるのか、そんな問いすら、もはや虚ろに響く。
人が兵器と化すこの超力社会にあってなお、異常としか言いようのない何かが、ここには存在していた。

イグナシオでさえ、息を詰めて見入っていた。
呼延光が、なぜ屹立したまま死を迎えたのか。
なぜ、あの男でさえ為す術なく終焉を迎えたのか――今なら、わかる。

再現されているのは直径五メートルの空間に過ぎない。
だがその外にも、無数の破壊が同時多発的に生じていたことは明白だった。
範囲外で何が起きていたのかは見えない。だが見えないがゆえに、想像は際限なく膨らむ。
どれほどの地獄が、この一帯を呑み込んだのか。

やがて再現は終わり、幻のような光景が消えて、現在と風景が重なる。
コンクリート片も、鉄骨も、宙を舞っていた粉塵すら、空気へ溶けるようにして消え去った。

残されたのは、沈黙と、変わらずその場に立ち尽くす、ひとつの影。
呼延光の死体。否、『鉄塔』と呼ぶべきそれは、何も語らぬまま今もそこにあった。

あの凄惨な破壊の渦中に在りながら、倒れもせず、屈することもなかった。
どれほどの衝撃を受けてもなお、立ち続けたその姿こそが、この場で起きた何かの、唯一にして決定的な証拠だった。

「……ここを離れよう。今すぐにだ」

イグナシオの声には、珍しくはっきりとした切迫を帯びていた。
先ほど再現された惨劇は、あまりにも常軌を逸していた。
あの呼延を殺すような存在が、この廃墟のどこかに潜んでいるのだとしたら、もはやここはこの島でもっとも危険な地雷原だと言っても過言ではない。
もしこの正体不明の怪物に襲われでもしたらイグナシオ一人ならまだしも、安里を守護れる自信はなかった。

だからこそ、イグナシオはすぐにこの場を退くべきだと判断した。
だが、その言葉に、安里はすぐには頷かなかった。

「…………アンリ君?」

彼の沈黙に、イグナシオは僅かに眉をひそめる。
空気の張りつめた気配。問いかけるまでもなく、少年が何らかの意志を宿していることに、すぐに気づいた。

「さっきの破壊を起こした相手が……まだこの辺りにいるかもしれないってことですよね……?」
「…………そうだ。だから、離れるんだ。今ならまだ間に合う」

言いながら、イグナシオは気づいていた。 自分のその言葉が、わずかに遅れて出てきたことを。
言うべきだとわかっていながら、一瞬だけその口が閉じてしまっていたことを。

──見たいと思っていたのだ。

あの破壊の続きを。
呼延光すら屠った、その何かの在処を。
『災害』のようなこれ程の破壊をもたらした怪物は、どんな構造で、どんな形で、どんな狂気を孕んでいるのかを。

(……駄目だ。落ち着け、今は……フレスノでいろ)

自分を律するように、イグナシオは歯を噛みしめる。
けれどその一方で、奥歯の奥に微かに宿る熱。
誰にも言えぬ、抑えきれぬ本能的な血の滾りが疼いていた。

この場を離れるべきだという彼の切迫には外的な脅威だけではなく、内側の衝動に対する焦りも含まれていた。
あの大陸の闇を駆け抜けた『デザーストレ(災害)』としての己が、危険という名の香りに呼応している。
だがその衝動を表に出すわけにはいかない。目の前にいるまだ未熟な少年のためにも。

「わかってます……でも」

安里が言葉を繋いだ。
その声は、迷いと勇気の狭間を振り切ったように、震えていない。

「もし、その人が……今も誰かを傷つけようとしているなら……ボクは、それを黙って見ているわけにはいきません」

その目に、迷いはなかった。
大金卸との戦いの中で、確かに何かが変わった。
臆病で、引きこもっていたあの少年はもう、ここにはいない。

「怖いです。……本当に怖い。フレスノさんがすぐに逃げようって言うくらいの相手なんですから。
 でも、それでも……何もせずに背を向けるなんて、ボクはもう、したくないんです。
 少しでも……今のボクにできることがあるなら、やりたい……!」

勇気を振り絞るように言い切ったその声は、少し息が上ずっていた。
けれど、大金卸との戦闘を経て、少年の中で自信の芽が確かに生まれ、彼の中で息づきはじめている。
だが、その言葉を受けたイグナシオは眉をひそめ、心を落ち着けるように静かに息をついた。

166怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:32:32 ID:TbuMome60
「……アンリ君。危険すぎる。さっきの再現だけでもわかるはずだ。
 ここには、まともではない何かがいた。下手に探ればその牙は私たちに向くかもしれない」

イグナシオの静かな制止に、安里の肩が小さく揺れる。
一瞬、口を開きかけて閉じる。けれどやがて、視線をイグナシオに向け直して、言葉を吐いた。

「わかっています。けど…………! そんな危ない相手だからこそ放っておけないじゃないですか!
 だって、もしかしたら次に襲われるのがボクの知っている人、大金卸さんや……ローズさんかもいしれない」

イグナシオの目がわずかに細められた。
それはまるでかつての自分を、別の角度から再現するかのような台詞だった。

「あの二が、ボクなんかよりずっと強いってことも分かってます。
 でも、誰かが危ないってわかってて何もしないのは……やっぱり、嫌なんです」

真っすぐな意見だった。
それこそがようやく得た彼の自分の意志なのだろう。

(……変わったな、君は)

彼の中に、あの人の影がある。
自らの信念に従い、力の意味を問うことなく拳を振るうあの人の姿が。
不思議と、安里の言葉の端々に大金卸の口調すら僅かに滲んでいるようにすら感じた。

安里はあの大金卸に一撃を届かせたという成功体験を得た。
遥かに格上の相手とも戦えたという手応えが、彼の背中を押していた。

その成長は喜ばしい事であるはずだった。
だが、イグナシオの胸は重く、騒がしかった。

(だが、違う。これは……)

心の奥底に、どす黒い警鐘が鳴る。
この言葉、この姿勢、この瞳。全てが彼にとって懐かしいものだった。
かつて、イグナシオが故郷で見たものと、まったく同じものである。

大金卸に惹きつけられた者の末路。
その目覚めの多くは、破滅に至るものだった。
その影響を受けた者は、勇気と無謀をはき違え、誤った自信をつけて斃れていく。

かつてのナチョもそうだった。
イグナシオの脳裏に浮かぶのは、あの汚れたリゾートの光景。
あの時、彼に『戦え』と言った大人がいなければ、今の『狂った探偵』など存在しなかったかもしれない。

安里もまた、同じ末路を辿ろうとしている。
そして、今、その文岐路に立とうとしている少年の前にいる大人は自分自身になっていた。

(だが……これは、危うい)

彼が今向かおうとしているのは、誰かを助けるためではなく、自分の力を試すためではないか。
いや、それは純粋な善意と衝動が結びついているだけに、余計に危うい。

今ここで「それでいい」と言えば、安里はイグナシオと同じ道を進むだろう。
あるいは、破滅していった多くの子供たちと同じ末路を辿るのかもしれない。
いずれにせよ、その道は闘争を肯定する『戦いの渦中』に繋がっている。

だが、ここで否定すれば、ようやく芽吹いた自信は潰えるかもしれない。
性別も、過去も、自分自身すら曖昧だった少年が、今ようやく『自分』を手に入れようとしているというのに。
大人とは、本来それを肯定してやるべき存在ではないのか。

イグナシオの胸に、言葉にならない苦悩が渦巻く。
かつての自分と、今の自分が、葛藤の末にせめぎ合い、なにを言えば正解なのかわからなかった。
その心の奥に宿るものは、もはや『迷い』ではなく『責任』だった。

167怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:32:50 ID:TbuMome60
胸の奥で、二つの声がせめぎ合っていた。

──肯定しろ。あの時の自分のように、戦わせてやれ。
──否定しろ。もう誰も、あの泥濘の路に堕とすな。

だが、どちらの声も正しくはない。
それをイグナシオはよく知っていた。

肯定すれば、安里はいつか破滅するだろう。
否定すれば、安里は今得た自信と自己を否定し、また失ってしまう。

目の前の少年は変わったのだ。
逃げていた者が、戦おうとしている。
殻にこもっていた者が、誰かを守ろうとしている。
ならば、彼の先達であり、大人であるイグナシオにはこの変化に、応える責任がある。

沈黙の果て、イグナシオはそっと視線を伏せた。
その目に映るのは、砕けた鉄骨と瓦礫に覆われた地面。
朝の光が、破断面に沈んだ鈍い輝きを滲ませていた。

ふっと、イグナシオの肩が緩んだ。
まるで迷いが抜けたように、柔らかな息を吐く。

「……いいでしょう」

安里がはっと目を見開く。
驚きと、戸惑いと、希望と、すべてが混ざった表情がそこにあった。

「君の言っていることは、よくわかりました……その覚悟も、伝わってきた」

イグナシオは安里の目を、真正面から見据える。
もう、逃げずに。

「だが、私は探偵です。命を賭けることが仕事じゃない。真実を暴き、危機を未然に防ぐことが、私の戦いです」

まるで自分自身にも言い聞かせるように、イグナシオは語る
それは理性による防波堤。疼き続ける本能の渦を、せめて言葉で制御するための誓いだった。

「いいですか、アンリ君。我々は今から『怪物の痕跡』を追います。けれどそれは、『怪物を討つ』ためではありません。
 今どこにいるのか、何をしようとしているのか。危険を把握し、次の犠牲を防ぐためです。
 もちろんその時に襲われる人がいれば助けにはいることにはなるでしょうが、倒すことまでは考えない、その線引きを忘れないでください」
「……はい」

安里はまっすぐに頷いた。
彼の中で、何かがようやく地に足をつけたようだった。
イグナシオは言葉を続ける。

「必要なのは覚悟ではありません。観察力と判断力、そして──生き延びる意志です」

イグナシオは一歩前へ出て、そっと安里の肩に手を置く。

「君が手にしたその『誇り』を、大切にしてください。
 でもそれは、戦うための理由に使うものではない。
 君自身を支える柱であって、武器じゃないんです。その『誇り』の使い方を、どうか間違えないように」
 
その言葉には、祈りが込められていた。
彼の意思を肯定した上で、自分とは違う道を進んで欲しいという願い。

それが、イグナシオがようやく辿り着いた、第三の答え。
戦いに溺れるのではなく、自分を誇れる道を進ませる道しるべとなる。
誰も彼に教えてくれなかった、自分自身への贖いだった。

「……ありがとうございます、フレスノさん」

それは、心からの声だった。
自分を否定せずに、受け入れてくれたこの大人が。
どれほどの意味を持つ存在か、今はもう、はっきりとわかる。

イグナシオは微笑んだ。
ほんの一瞬だけ、柔らかな顔で。

168怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:33:13 ID:TbuMome60
「では、始めます……私の力で、この場の『痕跡』を追いましょう。
 周囲を調べて行きますので巻き込まれないように少し下がっていてください」
「はい!」
「相手に気づかれないよう、声は出来る限り小さくしてください」
「…………すいません」

イグナシオの指摘に慌てて自分で口を手で押さえる安里。
その様子にイグナシオが苦笑した。

「……可愛い奴だな」

誰にも聞こえぬよう、口の中で呟く。
それはもう失ったと思っていた、他人を思う感情。
そしてその残り火が、安里の姿を見て確かに、また灯り始めていた。

「行きますよ」

虚空へと手をかざす。
探偵の超力が、戦場に残された怪物の痕跡を撫でるように追い始める。

夜が明けた世界の中、朝の霧がゆっくりと晴れ始めていた。
そして、瓦礫の影から新しい一日が、ゆっくりとその姿を現していた。

【F-2/工場跡地周辺(東側)/一日目・早朝】
【北鈴 安里】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。
1.暫くは、生きてみたい。
2.イグナシオの方針に従う。
3.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
4.スプリング・ローズには死んでほしくない。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。

【イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ】
[状態]:腕に軽い傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.子供や、冤罪を訴える人々を護る。刑務作業の目的について調査する。
1.怪物の痕跡を調べる。あくまで調査のみで戦闘はしない。
2.自分の死に場所はこの殺し合いかもしれない。
※ラテン・アメリカの犯罪組織との繋がりで、サリヤ・K・レストマンのことを知っています。
※島内にて“過去に島民などがいた痕跡”を再現できないことに気付きました。

169怪物の気配 ◆H3bky6/SCY:2025/04/25(金) 20:33:23 ID:TbuMome60
投下終了です

170 ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:14:18 ID:K5LZsz7o0
投下します。

171遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:16:28 ID:K5LZsz7o0



 ――――被告人、ルクレツィア・ファルネーゼ。
 ――――これより判決を言い渡します。


 彼女は、ぽつんと佇んでいた。
 身嗜みの化粧はろくに整えられず。
 可愛げのない衣服を着せられて。
 銀髪の手入れもさせて貰えず。
 それでも彼女は、美しく佇んでいた。

 由緒正しい家系に裏付けされた、気品に満ちた姿。
 ただ其処に立っているだけで、優雅なる美しさが滲み出る。
 麗しくも儚げな風貌で、まるで一輪の華のように立ち尽くす。
 その眼差しは、自らを取り巻く状況をじっと眺めている。

 被害者に耐え難い苦痛と屈辱――。
 人道を著しく侮辱した悪質な犯行――。
 極めて残虐と言える鬼畜の所業――。
 更生の余地は全く見られず――。

 そんな淑女に対し。
 見下ろす裁判官は、粛々と言葉を述べる。
 彼女の罪を示す論拠を、淡々と告げていく。


 ――その罪を鑑みて、被告に死刑を言い渡します。


 やがて裁判官は、凛と佇む淑女へと告げた。
 貴女は最早、生きるに値しない。
 社会から告げられた、決別の言葉だった。

 突きつけられた宣告を、暢気に受け止めながら。
 彼女は何てこともなしに、周囲へと視線を向けた。

 多くの聴衆が、自分という存在を監視している。
 自分を取り囲むように並べられた席に座り、じっと凝視している。
 その眼差しから滲み出るのは――嫌悪、憎悪、忌避の感情。
 そして、“猟奇犯罪を犯した令嬢”に対する好奇の目が一匙分ほど。
 彼らは今にも罵声を吐き出しそうな様子で、裁判を傍聴していた。

 檻に入れられた動物なんかも、案外こんな気持ちなのかもしれない。
 この状況を前に、ふいにそんなことを考えてみたが。
 だとすれば、今の自分はもう“人間”ではないのかもしれない。
 それは随分と寂しいことだなと、何気なく思ってみる。
 思考とは裏腹に、感情は凪のように静まり返っている。

 流し見るように、聴衆をざっと見渡していた中で。
 ルクレツィアは、父の姿が居ることに気づいた。
 由緒正しき貴族の家系であり、高名な資産家である父。
 自らの娘の凶行を止めるべく、警察へと通報した張本人。

 判決の行く末を、固唾を飲んで見守っていたようだったが。
 死刑が下された瞬間から、彼は神妙な面持ちを浮かべていた。
 納得と悲嘆。安堵と後悔。相反する感情が、複雑に入り混じるような。
 そんな様子を見せて、父はルクレツィアをただ死を告げられた娘を見据えていた。

 その逮捕が大々的に報じられて依頼。
 彼女の悪名は、欧州にて広まった。
 残虐にして無慈悲なる凶行の数々。
 人を人として弄ぶ、悪魔の所業。
 儚くして、可憐にして、悪逆非道。

 それを成したのは、貴族の血を引く資産家の令嬢。
 上流階級の間でも“麗しき淑女”として知られていた少女。
 故にその犯行は、衝撃を以て受け止められ。
 やがては畏怖や忌避と共に語られた。

 ――――やがてルクレツィアは、“最期の言葉”を促された。
 即ち、数多の被害者への謝罪。自らの罪への懺悔。
 裁判官は、目の前の淑女へと問い質した。

 淑女は、惚けたように裁判官をじっと見つめてから。
 それから暫しの間を置いて、ごほんと咳払いをした。

 何か、喋る必要があるらしい。
 裁判が始まる前に、弁護士から指示や助言も与えられたが。
 死刑となった今では、最早どうでもいいことだ。

 どうせ、これから自分は死ぬのだ。
 自分ほどの重罪人なら、きっと噂の“地の果ての監獄”にでも幽閉されるのかもしれない。
 そこで孤独に短い余生を過ごすことになるのならば。
 きっと今こそが、自分にとって最期の“晴れ舞台”となるのだろう。

 走馬灯のようなものは、特に思い浮かばなかった。
 希薄な思い出。華美な装飾と、絢爛な邸宅。
 代わる代わるに入れ替わる使用人や家庭教師。
 倫理や道徳を説いてきて、道を示そうとする父親。
 何もかもがどうでも良くて、煤けた記憶に横たわっている。

 だからこそ、鮮明に過ぎる“高揚”だけが色彩を保ち続けていた。
 それは猟奇の果てに得られた、快楽と興奮。
 何度振り返っても忘れ難い、本物の悦び。
 朧げな感覚を抱いて生き続けてきた自分にとって。
 唯一にして至高と呼ぶべき、存在の実感――。

172遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:16:56 ID:K5LZsz7o0



 かちり、かちり。
 カメラのフィルムが回る。
 音響が淑女の声を拾う。
 スポットライトが役者を照らす。
 この世界の、遥か外側で。
 悪辣なる女優に、焦点が当てられる。




173遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:18:55 ID:K5LZsz7o0


『私は、常々思うんですよ』


 そうしてルクレツィアは、自然に口を開いていた。
 その口元に、優雅な微笑みを浮かべながら。
 自らの論理を、静かに説いていく。


『この世界は、命を粗末にし過ぎている』


 まるで優美なオペラのように、流麗に言葉を紡ぐ。
 誰もが理解できず、耳を疑うような一言を吐き出す。

 
『人を人とも思わず、焚いては棄ててばかり』


 聴衆が彼女を見つめている。彼女を眺めている。
 唖然とした様子で、その視線を突きつけている。

 
『誰も彼もが命と向き合うことを放棄して、自分の正当化に腐心し続ける』


 お前は、何を言っているんだと。
 どの口で、それを言っているんだと。
 聴衆が、その眼差しで訴えかけている。
 

『――――そんなの、面白くないでしょう?』


 けれど、麗しき淑女は意にも介さない。
 父親から勧められた、退屈で堅苦しい歌劇。
 その所作や発声を思い返しながら、彼女は発言を続ける。


『私は、命を平等に扱いました』


 そうして、その笑みに恍惚が宿る。
 頬がほんのりと赤らみ、妖艶に照らされる。


『白い肌も、黒い肌も、赤い肌も、黄色い肌も、亜人も異形も、すべて等しく人間なんですよ』


 悪しき罪を裁く法廷に、淑女の声が反響する。
 誰もが理解できぬ論理が、淡々と木霊し続ける。


『痛みを与えれば泣き叫び、苦悶に嗚咽して必死に足掻いて。
 希望を根こそぎ簒奪され、絶望の中で何とか息をしようと藻掻き続ける』


 透き通るような声に、静かなる熱が篭る。
 それは、悪辣にして残忍な――演説だった。

174遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:19:31 ID:K5LZsz7o0


『痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい――――。
 みんな同じように、そう唱え続けていました。
 お父様と鑑賞した歌劇(オペラ)なんかよりも、ずっと甘美な旋律が部屋に響くの』


 ――――お父様、一体どう思われるのかしら。
 淑女の脳裏に、そんな思考がふいに過ぎる。
 けれど、最早どうだってよかった。
 自分の快楽を阻む者のことなど、何だってよかった。


『やがて最期に、彼らはこう言うのです。
 ――“殺してください”。“もう楽にしてください”』


 倒錯へと沈んでいく、絶え間ない愉悦。
 白いシーツを、数多の血で染めていく興奮。
 それが全てだった。それだけが彼女にとって。


『私が焦がれ続ける、“生の感覚”が其処にある』


 ――倒錯の果てに抱く、“痛み”の実感。
 ――それこそが、彼女の渇望。


『誰も粗末に棄てたりなんかしないわ』


 紫煙を纏う淑女、ルクレツィア・ファルネーゼ。
 彼女の魂は、悪徳に穢れ切っていた。
 その逮捕が報じられてから。
 やがて誰かが、彼女をこう呼んだ。


『人間の命は、こんなにも愛おしいもの』


 ――“血塗れの令嬢(エリザベート・バートリ)”。
 華美にして残虐なる、鮮血の貴婦人。
 大罪には、悪名が付き物だ。

 そして最後に、スッと一礼をした。
 まるで舞踏会で挨拶をする淑女のように。
 瀟洒なる所作で、聴衆へと微笑みかけた。


『――――ご静聴、感謝いたします』


 拍手も、喝采も、返ってはこない。
 誰もが、言葉を失っているのだから。




175遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:20:52 ID:K5LZsz7o0



「やっぱり読書は退屈です」


 椅子に背中を預けて腰掛けながら。
 ぽい、と本を放り投げるルクレツィア。
 つまらなそうに目を伏せて、はぁと一息を付いていた。

 時刻は早朝、放送も目前。
 場所はブラックペンタゴン。
 1F北西ブロック、図書室。

 都市部の施設を思わせる大規模な空間。
 幾つも立ち並ぶ棚に、数多の本が整然と収められている。
 その片隅には、読書用のスペースが設けられていた。
 ――そう、ルクレツィア・ファルネーゼは読書に勤しんでいた。

 “ネイティブ世代の犯罪心理学”だの何だのというタイトルだったが、数分足らずで内容への関心を失った。
 “血塗れの令嬢”――自身の心理傾向について考察したページもあったらしいが。
 あれこれ理屈を並べているだけの内容に冒頭から辟易し、読む価値もないと判断した。

「幼い頃に何冊も読まされてから気付きましたけど。
 やはり人は経験にこそ学ぶべきだと思います。
 活字で得られるのは机上の能書きばかりです」
「わたくしが今しがた学んだのは、貴女に読書の素養は無いということですわね」

 持論を述べるルクレツィアの傍らのテーブル。
 その上には既に十冊ほどの本が雑多に散乱している。
 ブラックペンタゴン突入後、二人は図書室へと足を踏み入れていた。
 施設の案内板を見て興味を引かれたルクレツィアに促され、ソフィアがそれに渋々と従った結果である。

 つい先刻、此処には二人の受刑者が滞在していた。
 エンダ・Y・カクレヤマ。只野仁成。
 彼らと入れ違いになる形で、ルクレツィア達は図書室へと居座っていたのだ。

 ブラックペンタゴンの物々しい外装とは裏腹に、図書室は充実した空間となっていた。
 本棚にはアビスでは検閲の対象となっているような書籍も散見され、“刑務”さえなければ此処で暫く時間でも潰せそうな程だった。
 そうして二人は図書室を調査している内に、いつしかルクレツィアが勝手に本を漁り始めたのである。
 
「本当にぞんざいですね……」
「人は粗末に扱いませんけど、本は別です」
 
 尤もルクレツィアは本を開いてはすぐに放る行為を繰り返しており、ろくな読書をしていない。
 互いに上流家庭の出であり、相応の振る舞いを身に着けている二人だが――“血塗れの令嬢”は遥かに気まぐれである。

 ルクレツィアは、憂鬱な眼差しを浮かべて。
 潤う唇を、ゆっくりと動かしながら。
 ふぅ――と、その口から紫の煙を吐き出した。

 陶器のような白い右手には、古風な煙管が添えられている。
 自らの超力を発動するための媒介であり、彼女の意思に応じて自在に出現する道具だ。
 まだ二十に満たない乙女であるにも関わらず、長身の器具で悠々と喫煙をする。
 蜃気楼にも似た妖艶な濃紫が、令嬢を取り巻くように漂っていた。

「にしても、煙管……どうしてわざわざ吸ってるのですか?
 普段その超力は発揮できないのでしょう」
「落ち着くんですよ。吸っていると」

 ――赤ん坊の”おしゃぶり“みたいなものですよ。
 そんなふうに、ルクレツィアは戯けて冗談を言う。
 何処からかブックスタンドを用意し、読書の片手間に喫煙をしていた。
 行儀の悪い所作であるにも関わらず、その佇まいも相俟って不思議と気品は損なわれない。

176遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:21:56 ID:K5LZsz7o0

「読書もそうでしたけど、お父様からは日々芸術を勧められました。
 “豊潤な感性が養われる”だの、“より広い視野で価値観が培われる”だの。
 何やら四の五のと方便を並べていましたが、どれも下らないものばかりでしたね」

 紫の煙を纏いながら、ルクレツィアは記憶を振り返るように淡々と述べる。
 荘厳な劇場でオペラを鑑賞したり、歴史ある美術館で著名な絵画を見て回ったり。
 家系に由来する父の貴族趣味に幼い頃から付き合わされたものの、いずれも令嬢の心には刺さらなかった。

「お父様、きっと心配だったんでしょうね。
 私が使用人たちに怪我を負わせた時から」

 幼き日に自分の希薄な感覚を埋め合わせるために、使用人達を傷付けて『痛み』を理解しようとした。
 それを知った父からは厳罰を受けたものの――以来、父が自分を“芸術鑑賞”に連れ出す機会も増えた。

 それは、父親による情操教育だったのだろう。
 倫理を踏み外しそうになった娘に、道徳や感性というものを教えようとしたのだろう。
 ルクレツィアは振り返って、思いを馳せる。

「歌劇(オペラ)も演劇(テアトロ)も、大抵は退屈だったけれど。
 拷問の際に仮面即興劇(コメディア・デラルテ)を模して戯れたことはありますね。
 まぁすぐに飽きましたけど、あの時はみな滑稽で楽しかったです」

 ――尤も、芸術に触れて得られたものがあるとすれば。
 さして意味の無い教養と、拷問で趣向を凝らすためのアイデアくらいだった。
 幾ら“まともな”教育を与えようとした所で、ルクレツィアの飢えは満たせなかったという訳だ。

「ああそうだ、ソフィア。
 私、好きな映画(フィルム)ならあります」

 ソフィアは何とも言えぬ表情のまま、ルクレツィアの話を黙って聞き流していたが。
 その沈黙にかこつけるように、彼女がふいに話を振ってきた。

「……はあ、何ですか?」
「『ローマの休日』」

 ――余りにも“らしからぬ”古典的なタイトルに、ソフィアは訝しげに眉を顰めた。
 対するルクレツィアは、仄かな恍惚に頬を染めている。 

「ローマの……はい?」
「オードリー・ヘプバーンの映画ですよ。
 古典とはいえ、それくらい知ってるでしょう?」

 思わず聞き返したソフィアに対し、ルクレツィアは飄々と言葉を返す。
 確かに知っているが、そういう問題ではない。
 この暴虐の淑女が、そんな映画を嗜んでいることにソフィアは意表を突かれたのだ。

 麗しき王女と冴えない新聞記者、ローマを舞台に描かれる身分違いのラブロマンス映画である。
 束の間の休日の中で二人は心を通わせ、最後には思い出を胸にそれぞれの道へと分かたれていく。
 映画界では当時無名だった英国の舞台女優オードリー・ヘプバーンを大スターに押し上げた古典の名作だ。

「それはまた、随分とロマンチストというか……懐古趣味ですわね」
「ええ。あの映画のオードリー、とっても可愛らしいのよ。
 私がグレゴリー・ペックだったなら、間違いなくあのままオードリーを監禁していたと思います」

 うっとりした表情で、物騒な願望を語るルクレツィア。
 ――でしょうね、と言わんばかりにソフィアはジトッとした目付きで彼女を流し見る。
 あの映画の主演女優であるオードリーが可愛らしいこと自体は、ソフィアも否定はしないのだが。
 どうせ邪な想いでもあるのだろうと勘ぐっていたら、案の定だった。

 “開闢”の混乱を経た現代において、彼女のような“世界規模の大スター”という概念は衰退傾向にある。
 国際情勢の悪化に伴い、多国間の文化交流の場がカルチャーを問わず減少しているからだ。
 そんな中でも老齢でありながら今なお主演やスタントを務め、世界初の“超力アクション映画”をプロデュースしたことでも有名な米国人俳優トム・クルーズは数少ない“生きる伝説”と称されている。
 ――――閑話休題。

177遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:23:00 ID:K5LZsz7o0

「というか、初めから“そういう作品”でも見ていれば宜しいでしょうに」
「暴力や悲劇の物語はわざわざ見ませんよ。
 どれも嘘っぽくて胡散臭いですから」

 マルキ・ド・サドの本とかは幾らか参考になったんですけどね、と付け加えつつ。
 芸術への関心が薄いルクレツィアは、かといって“露悪的な作品”への興味も乏しかった。
 他者を傷つけることに慣れ過ぎているが故に、作劇で見ると“虚構性”が鼻についてしまうのだ。

 幾ら物語の中で暴虐の有様が繰り広げられていても、大抵は単なる想像力の産物。
 故にどこか偽物っぽくて、つい茶々を入れたくなってしまう――有識者の如く。
 そもそも人身売買で“拷問用の人間”を確保できるルクレツィアからすれば、わざわざ架空の物語で嗜虐性を楽しむ必要がない。

「空想(ファンタジア)は、やっぱり空想として楽しみたいのです。
 血の匂いというものは身近すぎて、作劇で描かれると却って色々気になってしまいますから」

 それで好きな映画が『ローマの休日』というのも、奇妙な話ではあるが。
 ともかくルクレツィアは、そんな自らの拘りや趣向をつらつらと語っていた。
 ソフィアは、そんなルクレツィアを無言のまま見つめている。

 ――彼女が、眼前の“血塗れの令嬢”へと抱く想い。
 倫理の破綻に慣れ親しんだ物言いに対する、確かな嫌悪感。
 今なお言動の真意を掴み切れない、仄かな不安のような感情。

 ルクレツィアを赦したくはないし、認めたくもない。
 彼女は紛れもなく、他者を踏み躙ることを厭わない“理不尽”なのだから。
 その欲望と好奇心の赴くままに、数多の命を消費し続けてきた。
 どれだけ気さくに話しかけられようと、彼女に対して心を開きたくもない。
 ソフィアはまるで戒めを刻むように、そう思い続ける。

 それでも、今の自分にとって。
 ルクレツィア・ファルネーゼという悪女は。
 絶対に、必要不可欠な存在であり。
 そして、彼女は自分を“友人”と呼び――。

 そんな現状を俯瞰して、ソフィアの心はざわめく。
 まるで潮の満ち引きのように、感情が揺れ動く。
 自分が今、何処にいるのか。何処に佇んでいるのか。
 それさえも曖昧になるような動揺の中で。
 ソフィアはふいに、口を開いていた。

「……ねえ」

 ルクレツィアが挙げた映画のタイトルを振り返って。
 ソフィアは、何処か躊躇いがちに、静かに言葉を紡ぐ。

「ルクレツィア」

 ――“自分がグレゴリー・ペックなら、あのままオードリー・ヘプバーンを監禁でもしていた”。
 先程ルクレツィアがぼやいた、酷く不純な願望。
 その言葉を、忌まわしいとさえ思ったのに。
 ソフィアの心の奥底には、一種の共感のような想いがあった。


「わたくしは、嫌いですよ。あの映画」


 しがない新聞記者と、麗しき王女。
 たった一日限りの、束の間の“休日”。

 もう二度と出逢うことの叶わない二人の恋が。
 もう永遠に通い合いことのない二人の愛が。
 あんなにも美しく描かれていたのだから。
 それが憎らしくて、妬ましかったから。

 夢から永遠に醒めてしまうくらいなら。
 夢に浸り続けていた方が、良いじゃないか。
 それこそ――――ずっと縛ってでも。




178遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:24:01 ID:K5LZsz7o0



 ――図書室へと足を踏み入れ、内部を調べた際にルクレツィアと共有した事柄。
 それは“明らかに物色された痕跡があり、恐らく既に先客が此処を訪れている”ということだ。

 ルクレツィアを尻目に、ソフィアは思考する。
 既にこのブラックペンタゴンには、他の受刑者が足を踏み入れている。
 そのことは明白であり、恐らくこれから先も“更に増える”ことが予想される。

 この刑務の会場となる孤島の中心に聳える大規模施設。
 刑務に反抗する者ならば、脱出の手掛かりを探すために。
 刑務に積極的な者ならば、他の受刑者が集う狩場として使うために。
 そのどちらにせよ、水道や電気の生きた“拠点”を求めるために。
 複数名の受刑者達がこの施設を目指す可能性は極めて高いと推測された。

 故に、既に図書室に物色の跡があったことも予想の範疇だった。
 現時点ではまだ施設内で他の受刑者との対峙はしていないが。
 恐らくは次の放送を前後して、更なる鉄火場になることは必至だった。
 そして、それこそが恩赦ポイントを求めるソフィアの望むところである。
 その上で、懸念は複数に渡って存在する。

 ルクレツィアに恩赦ポイントを稼がせて、彼女の罪を一等減じて無期懲役にする。
 それはルクレツィアの超力を利用し、尚且つ彼女を檻の外へ出さないためのプランだった。
 しかし、果たしてそれは可能なのか――その一点がそもそも最大の問題だった。

 自分の目的を果たすために、少なくともルクレツィアを生存させねばならない。
 もしも死刑囚や無期懲役囚が“恩赦ポイントの一括払い”のみしか認められない場合。
 即ち“100年扱いの刑期を帳消しにして釈放させること”のみしか出来ない場合。
 彼女の罪を一等減じるというソフィアの目論見は外れることになる。

 それでも今後の可能性を掴む為に、恩赦ポイント自体は集めなければならない。
 仮に一等減がルール上認められずとも、恩赦を稼ぐことで刑務官側に此方の要求を通せる可能性もある。
 そうでなくとも、恩赦さえあればルクレツィアの生存は保証できる。
 減刑にせよ、釈放にせよ、己の目的のためには彼女が必要となる。

 ――彼女という凶悪犯が外界へと解き放たれる可能性は、隅に置いた。
 当然に分かっていながらも、自ら目を逸らした。
 そうして問題を先送りにするように、ソフィアは思考を続ける。
 
 ルクレツィア・ファルネーゼが、何故これまで猛威を振るってきたのか。
 これから直面するであろう交戦を前に、ソフィアは考察する。

 超再生能力に物を言わせたタフネス。
 人体の破壊や苦痛を熟知した暴力の行使。
 骨の髄まで狂気に染まり、常軌を逸した精神性。
 その理由は様々に挙げられるだろうが。
 より端的に述べるなら、二つの事柄が肝となる。

 一つ目は、”恐ろしさ“という単純明快な脅威。
 その四肢を徹底的に潰されようと、彼女は生きる屍のように蠢き続ける。
 破綻と荒廃に歪んだ自らの狂気を振り撒き、対峙した相手の心さえも蝕む。
 幾ら己の血肉を撒き散らそうとも、ルクレツィアは決して怯まない。決して動じない。
 嗜虐的な笑みを浮かべながら、“人間”を甚振ることを愉しみ続ける。

 そうして相対する他者は、ルクレツィアへの畏怖に絡め取られていく。
 ――ソフィア自身もまた、何度壊しても追い縋ってくる彼女に対して心を折られたのだ。
 恐怖や戦慄を植え付けるという点で、この淑女の猟奇性は群を抜いている。

 二つ目は、“初見殺しを封じられる”という点。
 超力戦闘とは、常に敵の手札を探ることが重要となる。
 相手が如何なる異能を使い、如何にして自身のルールを押し付けてくるのか。
 敵の術中に嵌まることを避けながら、それを見極めていかねばならない。
 そうした戦闘では、往々にして“相手が見極める前に嵌め殺す”という先手必勝が生じるものだ。

 しかしルクレツィアはその驚異的な回復能力によって“初見殺し”を凌ぐことが出来る。
 先刻彼女が相対した“自身の拘束部位に応じて人間の四肢を捻じ曲げる超力”など、本来ならば一撃必殺の技となりうる異能なのは明白だ。
 純粋な殺傷力による“当てれば勝ち”の超力を強引に受け止め、即死を凌ぎつつ敵の手札を暴ける――そんな泥臭い強みを有していた。

179遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:24:40 ID:K5LZsz7o0

 このブラックペンタゴンでの戦闘は、十中八九混迷を極める。
 突発的な遭遇戦から、複数の受刑者が入り乱れる乱戦など。
 これまでの自分やルクレツィアが経てきた交戦とは、間違いなく構図が変わる。

 されどルクレツィアの強みは、そうした情勢にも幾らか優位に働くだろう。
 数多の超力が入り乱れ、これまで以上に即殺が罷り通る戦局。
 そんな中で“初見殺しの無効化”を押し通し、強引に攻められる彼女の強みは大きい。
 上手く行けば、敵の手札を暴きながらこちらが後手で優位に出られる。

 ルクレツィアの強みはそうした部分に依存する。
 彼女は恐ろしい。彼女はしぶとい。
 それらの強みに物を言わせて、強引な暴力を押し付ける。
 逆を言えば、それが通用しない相手に対しては効果的な決め手を失うのだ。

 揺るがぬ精神力で、精神の汚染をものともしない者。
 卓越した体術により、白兵戦での制圧に長ける者。
 より力押しの火力によって畳み掛けてくる者。
 暴力以外の搦手によって、敵を封じ込める者。

 ルクレツィアは暴力に長けているが、戦闘者ではない。
 人体の急所を熟知し、破壊や殺傷を行うことには優れている。
 しかし体術の技量や駆け引きという点では、明確な素人なのだ。
 よって彼女の強みを封じ込める受刑者が現れれば、一気に窮地へと追い込まれかねない。

 故に、“超力を封じる超力”を備える自分がその弱点を補う必要がある。
 ルクレツィアも、ソフィアも、敵の超力を強引に封じ込めることに長けているが。
 より直接的な攻勢に出ることを得意とするのは、文字通りの無効化が可能なソフィアの方だ。
 彼女を死なせる訳にはいかない以上、そこも含めて戦術を意識せねばならない。

 これから図書室で敵の来訪を待ち伏せるか。
 あるいは、一階の探索を続けて敵を探すか。
 まだ決まっていないが、いずれその答えは出ることになる。
 今後の突発的な交戦に際し、ルクレツィアとの連携を確認する必要もある。

 此処からが正念場なのだ。
 恩赦ポイントを稼ぐために、本格的な交戦へと突入する。
 覚悟せねばならない。これから、凶悪な犯罪者達と相見えるのだから。

 可能であれば、彼女に殺されても構わない凶悪犯を選別したい。
 悪辣な淑女を誘導して、自らの思惑へと沿わせる。
 外界に解き放ってはならない悪党を始末し、危険度の低い面々は回避させる。
 そうすることで少しでもルクレツィアによる被害を減らし――。
 
 そんな言い訳がましい思考を繰り返して。
 ふいにソフィアは、我に帰るように思った。


 ――――何をしているのだろう、自分は。


 奸計の真似事か。
 慣れもしない暗躍か。
 参謀でも気取っているのか。

180遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:25:10 ID:K5LZsz7o0

 そもそも、何を考えている。
 自分は、何を思っている。

 ――目的のために彼女を生かす?
 ――狙う相手を選別する?

 自らの非合理に対し、無理矢理に合理を塗装しているだけじゃないのか。
 それらしい方便を並べて、自分の罪を誤魔化したいだけじゃないのか。
 心の奥底で、そんな糾弾の声が顔を擡げてくる。
 それを自覚した瞬間から、言い知れぬ疲弊感がどっと押し寄せてきた。

 まるで何かに絡め取られるような。
 自分で用意した縄に、雁字搦めにされるような。
 そんな息苦しさと、罪の意識が、己を縛っている。

 地獄へと向かう切符が、この手の中にある。
 自分は、それを握っては離さない。
 自らの意思で、この道を歩もうとしている。
 結局は、それが全てではないのか。
 ソフィアの胸中に、そんな不安と動揺が渦巻く。
 
 どれだけ御託を並べようと、行き着く事実はひとつ。
 自分は、ルクレツィア・ファルネーゼを見逃すために尽力している。
 積み重ねている理屈も、言い分も、何もかもが“そのため”に焚べられている。

 どのように取り繕っても。
 今の自分は、“人殺し”の友人だ。

 その事実を、見つめた瞬間に。
 ソフィアは、闇の奥底へと引きずられるような。
 そんな焦燥と、それでもなお逃れられぬ渇望を掻き抱いた。

 自分の“これまで”とは。
 一体、なんだったのだろう。
 ソフィアは、ふいに思う。

 離別を経て、何も得られず。
 離別の果てに、愛を守ることも出来ず。
 結局は転げ落ちていくだけの道のりだった。

 きっと、つまらない人生なのだろう。
 きっと、無意味な旅路だったのだろう。
 これまでも、これからも、変わらない。
 だからこそ――――。
 在りし日の夢にしか、縋ることが出来ない。

 視線を交わして、悲しみを瞳に湛えながら。
 それでも清々しく別れを告げて、自らの生きる道を進んでいく。
 そんな“王女と記者”には、何時までもなれやしない。

 だから、私(ソフィア)は。
 誰かを殺す為の合理を、必死に固めていく。
 血塗れの淑女と歩む為の理由を、吐き出しそうな顔で積み重ねる。

 そうして、これから。
 この死線の渦中へと、身を投じていく。





 ねえ、ソフィア。私達はね。
 愛しき人(オードリー)を縛れるんですよ。
 だって、誰もが“あの日”を迎えたから。

 “開闢の日”を経て――――。
 人間は、人間を傷付ける力を手に入れたんですよ。
 自らのエゴを押し通す力を抱いて、生まれ落ちるのです。

 それは何よりも愛おしい、祝福と呼ぶべきもの。
 生来の欠落さえも、いつしか喜びに変わったように。
 私達はきっと、自分を肯定することを赦されている。

 だから、安心してください。
 貴女の罪は、私が認めてあげます。
 堕ちた先にも、安らぎがあるから。

 これ以上、離別に胸を痛める必要なんてない。
 身勝手な遊興と渇望に浸っても、赦されるの。
 それって、本当に喜ばしいことでしょう?

 ソフィア。
 この世界というものは。
 とっても、美しいんですよ。




181遊興と渇望のアフターマス ◆A3H952TnBk:2025/04/26(土) 11:25:56 ID:K5LZsz7o0

【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(中央) 図書室/一日目・早朝】
【ルクレツィア・ファルネーゼ】
[状態]: 疲労(小) 上機嫌 血塗れ 服ボロボロ
[道具]: デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針] 殺しを愉しむ
基本.
0.もっと素直になれば宜しいのに。
1. ジャンヌ・ストラスブールをもう一度愉しみたい
2.自称ジャンヌさん(ジルドレイ・モントランシー)には少しだけ期待
3.お友達(ソフィア)が出来ました、もっとお話を聞いてみたい気持ちもあります
4.さっきの二人(りんかと紗奈)は楽しかったです

【ソフィア・チェリー・ブロッサム】
[状態]:精神的疲労(中)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦を得てルクレツィアの刑を一等減じたい。もしも、不可能なら……。
0.待ち伏せるか、動くか。
1.ルーサー・キングや、アンナ・アメリナの様な巨悪を殺害しておきたい
2.この娘(ルクレツィア)と一緒に行く
3.あの二人(りんかと紗奈)には悪い事をしました
4.…忘れてしまうことは、怖いですが……それでも、わたくしは

182名無しさん:2025/04/26(土) 11:26:38 ID:K5LZsz7o0
投下終了です。

183 ◆H3bky6/SCY:2025/04/26(土) 13:50:19 ID:EsWt6ecI0
投下乙です

>遊興と渇望のアフターマス
裁判シーンから始まる冒頭、この世界の司法の終わりっぷりを示す安定の劇場型裁判所に、女優のようなルクレツィアの演説が妙にハマっている
紫煙を吹かしながら一緒に本を読んで好きな映画について話す、こんなのもう友達じゃん! いや……本当にそうか?
『ローマの休日』を巡る二人の対話も印象的、ルクレツィアがオードリーを監禁したがるのそうだろうねと思わされる説得力がある。二度と会えない恋人に執着するソフィアが美しい別れを選んだ最後に嫉妬するのもわかる。
秩序の側にいたソフィアが夢に縋るためだけに狂気の令嬢を解放しようとしている、ルクレツィアはその罪を認め堕落への免罪符を与えようとしている。ある意味で凹凸のハマった関係である、この関係性の行きつく先がどうなるのか予想もつかない

184 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:15:21 ID:QuvhKGJc0
投下します

185祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:16:20 ID:QuvhKGJc0
そこはコンクリートに覆われた冷たい部屋だった。
日の光の入らない、電灯だけが照らす薄暗い室内。
衛生状態も悪く、鼻を刺すような異臭が漂う。
葉月 りんかが11歳から14歳の間、犯罪組織によって監禁されていた場所だ。

事の発端は刑事であるりんかの父が追っていた児童失踪事件。
それがある犯罪組織に関わりのある案件とも知らず
組織の闇を暴く決定的な証拠を手に入れてしまったばかりに
葉月一家は犯罪組織によって拉致され、証拠ごと闇に消された。

アジトに連れ込まれると父と母は娘達の目の前で無残に殺され、夥しい血と両親の絶叫が彼女の幼き心を切り裂いた。
りんかとその姉、『葉月楓花(はづきふうか)』は容姿を気に入られたおかげですぐさま処刑は避けられたが
それは彼女達の地獄の責め苦の始まりでもあった。

16歳の姉――優しく、美しく、りんかの憧れのお姉ちゃんである楓花は
組織の男達の魔の手から当時11歳だった妹のりんかを守るために
自らが積極的に犯されるように男達に懇願し、その身を差し出した。

集団から玩具のように嬲られ、痛めつけられ、弄ばれる日々。
楓花のうめき声が響き渡る密室でりんかは鎖に繋がれたまま「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」と叫ぶだけで何もできなかった。
ひたすら慰み物に使われる楓花の悲痛な声が耳にこびりつき、りんかの心を抉る。

だが男達の欲望はそんなことでは満足するはずがなかった。
妹を守ろうとする楓花の献身的な姿を見て組織の人間はこう命令した。

『そのナイフで妹を刺し殺せばお前をここから開放してやる』と

この世界では弱者は何も守ることは出来ない。
その身を犠牲にしてまで妹を庇う、楓花の気高い意志さえも。
組織の連中は楓花の肉体だけでは飽き足らず、妹を愛する心までも蹂躙しようとした。

「楓花お姉ちゃん……」

ナイフを渡された楓花に視線を向けるりんか
我が身を犠牲にする姉の姿をこれ以上見ていられなかった。

「私を、殺して」
「だ、だめ……そんなの」

りんかは三年前に起きた災害でも自分だけが生き延びた。
その時に瓦礫の中から救い出されただけでも自分は十分な幸福を得られた。
この命で大好きなお姉ちゃんを救えるなら喜んで捧げられる。

「楓花お姉ちゃん……私はもういいの」

りんかは災害で自分一人が生き残った事で罪悪感を抱いていた。
炎に包まれた街で死んでいく人間をただ見ていることしか出来なかった。

「私はお姉ちゃんに生きてほしい」

その贖罪を今ここで果たそう。
それが私のできる唯一の償いなんだ。

186祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:16:49 ID:QuvhKGJc0
「ありがとう……りんか」

楓花は妹を思って涙する。
りんかと楓花の間に血の繋がりは無くても、実の姉妹以上に深い愛情で結ばれていた。
楓花は涙を流しながら握りしめたナイフを振り下ろした。

「……ごめんね」

振り下ろされたナイフは自らの心臓を突き刺した。
血を零しながらりんかに謝罪の言葉を呟く楓花。

「お姉ちゃんっ!?お姉ちゃぁぁんっ!!」

倒れ伏す姉の手を取り、必死に呼びかけ続けるりんか。

「聞いて……りんか……」
「おねえ、ちゃん」
「りんか……どんなに辛くても、貴女は生き続けて……決して希望を捨てないで……いき、て」

遺言を伝え終える前に息を引き取る楓花。
その後は何度、呼びかけても二度と目を開ける事はなかった。

「どうしてっ!?なんでお姉ちゃんが死ななきゃいけないのっ!?
お姉ちゃんは何も悪いことなんてしてないのにっ!ただ、私を守ってくれただけなのに!」
こんなの……こんなのあんまりだよぉっ!!」

りんかは泣きじゃくりながら風沙の亡骸に縋りつき、喉が枯れるまで叫び続けた。

「楓花お姉ちゃん……いやぁぁぁっ!!」

最愛の姉が目の前で殺された。
その事実を受け入れられず、姉の側を離れようとしないりんか。

そんな彼女の様子をニヤつきながら眺めて見ていた男達。
姉妹の絆を断ち切れなかったにせよ。
楓花の死に嘆き悲しむりんかの惨めな姿は男達を楽しませるための余興にはなった。
彼らにとっては彼女達の命など娯楽として消費される程度の価値でしかない。

その後、りんかを一頻り嘲笑った所で男達はりんかを標的とした。
男達は楓花の遺体へと近づく。

「嫌っ!来ないでっ!お姉ちゃんに触らないでぇっ!」

男達は泣き叫ぶりんかから楓花の遺体を引き離して、そのままどこかへと運んでいった。
そして「お前にはこれから自分の立場を分からせてやる」と言い放ち
冷酷に笑いながらりんかの手足を切断した。

振り下ろされた斧の鋭い刃が肉を裂き、骨を砕く音が耳にこびりつく。
奴隷を延命させるために用意された回復能力者によって傷口は塞がれ。
達磨のような体型に変えられて彼女は生かされた。

りんかは日夜、休むことを許されず、男達の欲望の捌け口として毎日利用された。
彼女のうめき声と、肉を打ち付ける音が、狭い部屋に響き渡る。
ひたすら穢され、体力精神ともにすり減らされる日々。

犯罪組織によって誘拐された少女はりんか以外にも沢山いた。
主に鉄砲玉にも使えない戦闘に不向きな超力者、それでいて見た目は悪くない少女達が集められた。
使い捨ての子供達などいくらでもいた。

容姿で気に入られなければ、人体実験用として売買されるか。
臓器のみ取り出され、不要なパーツは生ゴミに捨てられるか。
命が尽きるまでひたすら玩具として利用される。
そこには救いも希望も存在しない。
地獄としか言いようが無い世界だった。

187祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:17:28 ID:QuvhKGJc0
男達のちょっとした気まぐれで少女たちの命はいとも容易く奪われた。
力加減を間違えたり、不愉快に思われただけで殺された少女も多い。

そんな世界でりんかが今、生きていられたのは
姉の想いを無下にして自らが死を望むまで苦しませてやろうとする男達の下衆な欲求によるものと
もう一つは、りんかの超力『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』による彼女の生命力の増幅である。

希望を捨てずに生き続けてほしい楓花の想いがエターナル・ホープの出力を上げていた。
その結果、決して生きるのを諦めない強い意志がこの絶望の世界から彼女を生き永らえさせていた。

三年間による監禁生活はりんかの肉体を著しく破壊し、歪め続けられた。
眼孔姦によって右目を抉り取られ、赤い瞳の一つが永遠に失われた。
人体改造を施され、身長146cmの小柄な少女には不釣り合いな98cmのバストに膨乳され
まるで乳牛を扱うように搾乳され続けた。
孕む度にひたすら腹部を痛めつけられて流産させられた。
子宮は壊れ、もう二度と子を宿せない体にされた。
どんなに穢されても、どんなに傷つけられても、彼女は決して希望を捨てなかった。

助けたい。救いたい。
誰かのために生きると決めた。
そんなりんかの強き意志が超力を成長させた。

『希望を照らす聖なる光(シャイニング・ホープ・スタイル)』

悪夢の日々を耐え続けた影響が、りんかの肉体に変化を与えた。
超力による光がりんかの肉体を包んで、体を作り変える。
光が収まった頃にはまるで楓花お姉ちゃんの意志が宿ったかの如く
りんかの肉体は姉そっくりの姿に変化していた。

黒いレオタードスーツに、茶色のバトルジャケットとバトルスカートを重ね
黒いブーツとハイソックスを纏った変身ヒロインのような姿となった戦士の装い。
両腕にはシルバーの篭手が輝き、光のエネルギーを武器に戦う。

それがりんかが得た新たなる力だった。
りんかを強化するような超力を楓花が持っていたのか。
それともりんかを想う楓花の願いがエターナルホープと作用したのか。

(どうしてこの姿に変身出来たのかは分からない、でもきっと楓花おねえちゃんが私に力を貸してくれたからだと思う)

りんかはその力を行使して自身を束縛していた鎖を断ち切ると
アジトから脱出するべく行動を開始した。

脱走に気づいた男達を一人、また一人と迎撃していくりんか。
光のエネルギーを込めた拳は強力なパワーが込められ、大人達すら寄せ付けなかった。
アジトから抜け出した後は誘拐されてきた子供達を救うべく、この惨状を報告し
警察達に協力を求めようと考えていた。、

だが現実はヒーロー番組のように甘くはなかった。
少女が一人、新た超力を覚醒した所で現状を覆すことは出来なかった。
圧倒的な力を持つ組織の用心棒が現れると
一方的な戦況となり、また衰弱状態であったためりんかの体力はすぐ底を付き
変身が解除されて敢えなく敗れ、再び捕らえられた。

その後、りんかが得た力は彼女の望まぬ方向で悪用された。
戦闘に役立つと分かると、りんかは組織の鉄砲玉として扱われた。
洗脳によって彼女の意志を捻じ曲げ、兵士として教育し銃火器を装備させた。
敵対する組織の殲滅だけでなく、罪も無い民間人の虐殺も行わせた。

シャイニング・ホープ・スタイルによる強化された身体能力に
犯罪組織が用意した凄まじい火力を誇る特注の銃火器を装備されて多数の人間を射殺した。
襲撃した街で幼き子供を庇う母親ごと消し炭に変えた瞬間は今でも脳裏に焼き付いている。

いくら謝罪しようが永久に赦されない罪。

ある日、アヴェンジャーズの一人がりんかと遭遇し、激戦の末にりんかを行動不能に追い込んだ。
おかげで私は捕らえられ、洗脳も解除され、凶行を止められた。
アヴェンジャーズには感謝しても足りない。
私もアヴェンジャーズの皆さんのように人助けをしたい。
それが私の出来る唯一の贖罪だから

裁判では情状酌量の余地ありとして、死刑は免れた。
りんかの境遇を知り、同情した財団によって義手義足義眼がプレゼントされた。
義手義足は宇宙ロケットの素材にも使われている丈夫ながらも軽く
激しい運動にも耐えられるように作られたオーダーメイド製で

右目に取り付けられた義眼は振動や赤外線などを感知する機能が備わっており
義眼からでも周囲を認識する事が可能となった。
アヴェンジャーズによって私は一人でも多くの生命を救い、償うチャンスをくれた。

この刑務でも私は人を救いたい。
アビスに入れられた人達の中にも事情があって捕まっている人がいるはずだから。

――そう。大人達の欲望の被害者であり、加害者になるしか身を守る術がなかった交尾 紗奈ちゃんのように――

188祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:18:00 ID:QuvhKGJc0




「楓花お姉ちゃん……」

ぽつりと寝言で姉の名を囁くりんか。
紗奈に膝枕されていたりんかはいつの間にか眠っていた。
意識を手放した事でりんかの変身が解除され、本来の小さな姿に戻っていた。
姉を思い出す彼女の瞳からは涙が溢れ、頬を濡らす。

「りんか、私のヒーロー」

紗奈に膝枕されている少女、葉月りんか。
起きている間はヒーローのように私を守ってくれてるけれど
どこか必死に無理しているような歪さも伝わってくる。

小柄な体型で童顔な顔付きなのもあって
姉の名を呼んで涙を流すりんかの姿はとても小さく、儚くも見えた。
このままだと、いつか壊れてしまうんじゃないか。
ヒーローになろうとする責務に耐えきれずに、押し潰されてしまうんじゃないか。

「りんか……」

眠っているりんかを愛おしそうに抱きしめる紗奈。

死なないでほしい。
生き続けてほしい。

それがこの世界でどんなに難しいことなのかは知っている。
それでも紗奈は願わずにはいられなかった。

鉄の牢獄で一人きりで良いと思っていた。
誰にも襲われず、誰にも傷つけられず、牢の中で一生孤独に生きるのが一番の幸せだと思っていた。

でもりんかと出会って私は変われた。
りんかと触れ合ったことで私は温もりを知った。
私を照らし、孤独から晴らしてくれた希望の光。

絶対に失いたくない。
その小さな体にのしかかる重圧を私も背負いたい。
二人で一緒に生きて行きたい。
紗奈はそう願いながらりんかを抱きしめ続けた。

「ん、紗奈?」

ゆっくりと目を開けるりんか。
目の前には優しく微笑みかける紗奈の笑顔が映った。

「おはよ。りんか」
「うん、おはよう。紗奈」

寝起きで少し眠たそうに挨拶を返すりんか。
紗奈の膝上で横になりながら、どこか安心したように微笑む。
そんなりんかの頭を優しく撫でる紗奈。

「ねぇ、りんか」
「ん?なに?紗奈」
「私ね。夢が出来たんだ。もし、ここから出られたら叶えたい夢がさ」

嬉しそうに語る紗奈の笑顔にりんかも嬉しくなる。
アビスから出られた事を考えるほどに紗奈は希望を持つことが出来たのだから。
りんかにとっても紗奈の変化はとても喜ばしい出来事だった。

「そうなんだ。どんな夢なの?」
「それはね。りんかと一緒にね」

その時だった。
突如として異常な寒さの冷気が二人の間を通り抜けた。
それは一時の平和の終わりを意味していた。

189祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:18:27 ID:QuvhKGJc0



「ああ……ジャンヌよ、貴女は一体、何処に……」

ざくっ、ざくっとふらついた足取りで歩く者がいた。
虚ろな瞳でひたすらジャンヌの名を呟く男。
その名はジルドレイ・モントランシー。

厳密には男だったと言うべきが正しいだろう。
彼はジャンヌの姿を一人でも多くの人間に認識させるために己が姿を捨てた。
肉体を別の姿に変化させる施術を扱う超力者を雇いジャンヌと同じ姿となった。

端麗で意志の強い整った顔立ちも、張りのある豊満な胸も、細く引き締まった腰も
男の特徴である陰茎も切除し、性器も女性と同じに作り替え、声帯も本人そっくりの声色になるよう弄った。
筋肉の付き具合も、骨格の形も、完全な女性の体型へと人体改造を施された。

ただ一つ、髪の色だけは変えられなかった。
それだけは髪染めで色を付けて再現するしかなかった。

今では自分の素顔すら思い出すことは出来ないだろう。
ジルドレイは既に元の姿への未練は完全に消えている。
ジャンヌ、彼女の存在だけがジルドレイの生きる糧だ。

(会わなければ……ジャンヌをその目で、その心で焼き付けねばぁ……)

ジルドレイはひたすらジャンヌを求め続ける。
我が身の虚無をジャンヌで満たすために、どこにいるかアテも無いまま彷徨う。
すると耳元から少女達の話し声が聞こえてきた。

(やはり必要になりますか。ジャンヌに捧げる贄が……)

未だ仕留めた受刑者は最初に出会った銀髪の女のみ
ジャンヌに再会するには積んだ屍の数がまだ足りない、とジルドレイは解釈した。
天命を悟ったジルドレイは声の聞こえる方角へとゆっくり歩を進めた。





「ジャンヌ、さん?」

りんかと紗奈の二人を見て微笑む女性が姿を現した。
髪の色を除いては見た目がジャンヌ・ストラスブールそっくりの女性。
アヴェンジャーズの一員であるジャンヌはりんかにとっても憧れの人物である。
だけど様子がどこかおかしかった。

「りんか、あの人」
「うん、分かってる紗奈」

紗奈がりんかの手を握りながら警戒を示す。
目の前の人間は正気じゃない。
表情こそ優しく微笑んでいるが彼女から発している気配が危険人物そのものだと伝わってくる。

「フフ、貴女もジャンヌを知っているのですね」
「は、はい。私の憧れのヒーローです」
「私も彼女の事をよく知っています。美しく気高く、遥か高みで輝き続ける光。
貴女のようにジャンヌを好いてくれる子供がいることは私にとってもすごく喜ばしいことです」

うっとりとしながらジャンヌを語るジルドレイ。
ジャンヌに憧れを抱く少女の存在に心を踊らせた。
一人でも多くの人間にジャンヌを記憶させるのがジルドレイの目的の一つでもあるのだから。

楽しそうにジャンヌを語るジルドレイの姿にりんかも警戒が解け始める。
世間では大罪人として扱われたジャンヌであるが、りんかは彼女を信じていた。
極悪人である流都にすら手を差し伸べようとするりんかの心は人の善性を信じようとする意志が強い。
目の前にいるジャンヌそっくりの女性に対しても無意識に信じようとしていた。

「私もそんな子供達を愛していました。ジャンヌのようにこうやって」

ジルドレイは愛情に満ちた顔でりんかの頭をそっと右手で優しく撫でる。
何度か撫でると、次はりんかの頬、首、鎖骨とゆっくりとなぞるように触れていく。

「あの……いやっ!」
「りんか!」

りんかの顔ほどにもある乳房をがっしりと鷲掴みにされた。
嫌悪感で悲鳴の声が出るりんか。
嫌がる彼女を他所にジルドレイは恍惚な笑みを浮かべる。

「りんかから離れてっ!!」
「知っていますか?ジャンヌも自らを慕う子供達と愛を育んでいたことを……」
「い、痛い……やめてください」

乱暴に胸を掴まれ、痛みで顔が引きつるりんか、
そんなりんかを見て頬が紅潮し、息を荒げるジルドレイ。
ジルドレイはジャンヌの全てを模倣し続けた。
メディアが報じたあらゆるでっち上げの冤罪行為も全て。

190祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:18:56 ID:QuvhKGJc0



いつだって戦禍で苦しむのは力を持たない弱者、特に子供達だ。
ジャンヌは子供達へ手を差し伸べて救い続けた。
ならば私もジャンヌのように子供を救おう。

幸いにして金だけは有り余っていた。
財力を惜しみなく投資して立派な孤児院を建てた。
身寄りの無い子供達は誰も飢えることなく、安定した暮らしが出来るようになった。
定期的に孤児院へ訪れては子供達に手を伸ばし、元気付けるように言葉をかけていた。
ジャンヌに真似て手を差し伸べる。それが正しい行いなんだ。

ジャンヌが逮捕された。
子供達を助けては、自らを慕う少年少女達とまぐわい、惨殺していたと報じられた。
ならば私もジャンヌのように子供達を犯し、殺害しよう。

ジャンヌが逮捕されたその日からジルドレイはおぞましい所業を繰り返した。
元は報道屋が広めたジャンヌの悪評をジルドレイは尽く実行した。

孤児院で暮らす少年が一人、ジルドレイの屋敷で小姓として召し抱えられることになった。
憧れの人物であるジルドレイに眼を掛けられた少年は期待し、つかの間の夢を抱いた。
これから貴族の下で教育を受け、教養を積んだ大人になれる。
他の子供達が羨むような人生を歩めると胸が高鳴った。

しかし、少年に待っていたものは身の毛のよだつ恐ろしい運命だった。
城に到着すると、暖かく迎えられた。
まず風呂に入れられ、体を洗い浄められるのである。
その後、美しい服を着せられ、整髪されたりして、少年は見違えるほど美しくなる。

やがて夜になると、少年はジルドレイの寝室に連れていかれた。
寝室で待っていたのは布切れのように薄く透けたネグリジェで身を纏うジルドレイの姿だった。
ジャンヌそのままの姿で、芸術品のように美しいジルドレイの肉体を間近で見た少年は欲情が止まらなかった。

何度も孤児院に来てくれた憧れの女性の裸体を目にしたのだから無理もない。
興奮冷め上がらずに俯く少年を前にジルドレイは優しく抱擁し

「ほら、前を見て笑って。そうです。君はとてもかわいい。もっと私を見て、その愛らしい顔を見せておくれ」

そう呟いて少年を安心させてから、唇を重ね合わせた。
その後、少年の全身を愛無しながらネグリジェを脱いだジルドレイは少年をベッドに寝かせて重なり合った。
初めて味わう感覚に少年は夢中で快楽を味わった。

下腹部から来る未知の感覚が今、まさに達しようとしたその瞬間、少年の喉元が熱くなった。

驚いた少年が目にした物は氷で造られた短剣を手に持つジルドレイの姿。
そして、首元から噴き出す少年の鮮血だった。

恐怖した少年はかん高い叫び声を上げた。
ジルドレイは返り血を浴びながら高らかに笑い、少年の腹部を何度も短剣で突き刺した。
少年の息の根が完全に切れたタイミングで、ジルドレイは刺突を辞めて立ち上がる。

「これが……これがジャンヌの愛なんですね!ああ、なんて瑞々しく、情熱的な愛なのでしょう!
未だ我が肉体の滾りは収まりません。これほどの興奮を覚えたのは生まれて初めてです!」

全身が少年の血で真っ赤に染まり上がり、秘部からは少年が死の間際に放った精が滴り落ちる。
生まれてこの方、性欲らしい性欲を持つことが出来なかったジルドレイだったが
ジャンヌの模倣を繰り返す内に、彼は少年少女達を苦しめ、命を奪う行為に情欲を満たす性癖が構築されていった。

彼の凶行はその後も続いた。
ある時は生きたまま子供の皮膚を剥いで殺害したり、少女の秘部に氷で出来た陰茎押し込んで全身を串刺しに貫いたり。
自らの超力以外にも様々な拷問器具を持ち入り、惨殺を繰り返した。

希望を胸に抱いた子供達の顔が絶望に染まるその瞬間がジルドレイはたまらなく好きだった。
それがジャンヌの好む愛情だと疑うこと無く彼は逮捕されるまでその悪行を繰り返した。

逮捕後、モントランシー家を家宅捜索された際には子供達の遺骨が大量に発見された。
行方不明者とDNAが一致する遺骨だけでも30人を超えており
その残虐性極まりない事件は彼が死刑となるには十分過ぎる理由だった。

191祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:19:36 ID:QuvhKGJc0



「危ない!」
「っ!?」

紗奈の声を聞いて即座に下がるりんか。
それと同時にりんかのいた場所に振り下ろされる氷の短剣。
ジルドレイが初めて子供を殺害した際に用いた短剣だった。

「おやおや、外れてしまいましたか」
「何をするんですか!?」
「フフフッ……ジャンヌのために贄を捧げるのですよ。彼女を慕う子供ならジャンヌもお喜びになるでしょう!!」
「貴女は……」

アビスには凶悪な囚人達が集められている。
流都やルクレツィアのように混沌や殺戮を楽しむ囚人が他に何人も存在する。
目の前にいるジャンヌそっくりの囚人もその類だとりんかは理解した。

「気を付けてりんか!アイツは普通じゃない!」
「うん!」

りんかの体が眩く光り輝く。
超力の光が肉体を構築し、新たな姿へと変わる。

『シャイニング・ホープ・スタイル!!』

りんかを庇い、死んでいった姉、葉月楓花そっくりの美しい女性の姿に。
格好はまるで魔法少女アニメに登場する変身ヒロインのような可憐な衣装の戦士。
かつては空想の産物にしか過ぎなかった存在も今では現実として存在する力。

「ああ、ジャンヌよ!!これから二人の少女を贄に捧げます。どうか見守っていてください!!」
「下がって紗奈っ!」

紗奈はコクリと頷いて森の中へと入る。
自分が側にいてはりんかが集中して戦うことが出来ない。
足手まといになる訳にはいかない紗奈は急いで二人から離れた。

「安心してください。寂しくならないように二人仲良くすぐにあの世へ送ってあげましょう!!」
「やらせない!」

ジルドレイは仰々しい振る舞いと共に氷の槍を大量に構築していった。
合図と共に空中で静止していた氷の槍がりんかに向かって上空から降り注いでいく。
大地を蹴り上げ、低姿勢で走り抜けて、氷の槍の雨を掻い潜っていく。

「はぁぁっ!!」

シルバーのガントレットが光り輝き、渾身の右ストレートをジルドレイの顔面に叩き込んだ。
ガキンッ!と金属の衝突音が響き渡る。
りんかの拳はジルドレイには届いておらず
二人の間には分厚い氷の壁が立ち塞がっていた。

(まずいっ)

ジルドレイの右手に氷の槍が握られているのに気づく。
りんかは即座に距離を取ろうと動いたが
その瞬間に突き出た氷の槍が、壁をすり抜けてりんかを貫いた。

「うぐっ」
「りんかァ!!」
「大丈夫!まだ、やられてない!」

紗奈の悲痛な声が聞こえる。
幸いにも、槍が刺さる寸前に体を捻り、僅かに肩を貫かれるだけに留まった。

「ちょこまかと動き回られると面倒ですね」

パキパキと空気が凍りつく音が響き渡る。
急激な温度低下が周囲へと広がっていき、氷のフィールドが形成されていく。
ジルドレイから発せられる冷気の影響だった。

冷気が霧状となり、りんかの体温を容赦無く奪っていく。
じっとしていては肉体が完全に凍りついてしまう。
ジルドレイの冷気から距離を取ろうと、りんかは動く。
だが氷の世界は彼女の機動力を著しく奪っていった。

逆にジルドレイは凍りついた道を何の弊害も無く突き進む。
霧がジルドレイを包み込んでいき、やがてその姿が見えなくなった。

192祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:20:02 ID:QuvhKGJc0
「くっ!」

りんかは辺りを見渡した。
しかし、霧で視界が悪いせいで何も見えない。
気配も感じられず、どこから攻めてくるかも分からなかった。

(さぁ、その一突きで貴女の心臓を貫いて差し上げましょう。苦痛に藻掻き苦しむその姿を私に見せてください!)

りんかの背中目掛けて氷の槍が差し迫る。
その時だった。
りんかは胸元で両腕の拳を合わせ、ガントレットを密着させた。

「ホーリー……フラァァァァッシュ!!!!」

りんかを中心に強烈な閃光が走った。
放たれた線熱が氷の世界を突き抜けていく。
霧が一瞬で拡散され、光に目が眩んだジルドレイの体がよろめいた。

「おのれ、小癪な真似をっ!」

目眩ましとも思える閃光を直視してしまったせいで、ジルドレイは目を強く手で押さえてうずくまった。
その隙を逃すまいとりんかは跳躍する。

「どこに、どこにいるのです!?」

ジルドレイは周囲を見回すが、りんかの姿はどこにもない。
りんかは飛び上がっていた。
氷のフィールドの範囲外に逃れ、そこから一気にジルドレイの頭上まで跳躍していた。
背中には流都との戦いの最中に会得した新たなる力、光の翼を生やして。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」

落下の速度を上乗せして放たれるりんかの必殺技。

「シャイニングゥゥキィィィィィック!!!!」
「ぬぅぅっ!?」

頭上から迫りくる光の奔流に気づいたジルドレイは即座に氷壁を展開。
彼の超力によって構築された氷壁は鋼鉄に勝るとも劣らない。
しかし、りんかの弾丸の如き速度による一撃は、氷壁の強度を高めるよりも早く衝突を起こした。
シャイニングキックが氷壁を粉々に砕き、ジルドレイの肉体をも貫いた。

「はぁ……はぁ……」

大技を放った影響でスタミナを消耗し、息を切らすりんか。
僅かに睡眠を取っただけでは万全とは言えず
長期戦だと勝ち目は無いと悟っての短期決戦だった。

りんかが振り向くと、そこには胸元に大きな風穴が空いたジルドレイが立っていた。
ピキピキと音を鳴らしながら砕け散り、粉々に砕けた氷像へと変化した。

「えっ」

それが偽物だと気付いた時には、りんかの背後から放たれた氷の矢が背中にいくつも突き刺さった。

193祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:20:40 ID:QuvhKGJc0



辺りが冷たい霧に包まれたと思ったら、太陽の様に眩しい光が放たれた。
その後、激しい爆心音が鳴り響いたと思ったら倒れ伏すりんかの姿が見えた。

「りんかァァ!!」

叫ぶ紗奈の姿を見てニヤつくジルドレイ。
まるで紗奈の苦しむ様を楽しむかのようにゆっくりとりんかへ近づく。

「駄目!そんなの!」

せっかく大切な人が出来たのに。
大好きな人が出来たのに。

また奪われちゃうの?私から全て奪ってしまうの?

【しょせん、お前は死神だ】

悪意に満ちた大人達の声が聞こえる。
流都のように侮蔑して、否定して、嘲笑う醜い大人達の声が。

【この人殺しめ】【生まれてきたのが間違いだったんだよ】【周囲に災いを振りまく忌み子がよ】

【死刑にしていればこんな事にならなかった】【またお前のせいで犠牲者が増えた】

違う!違う!違う!

【お前は永遠に呪われた死神だ!】

違う!!私は死神じゃない!!
もう死神にはならない!!

死神の力を使うとりんかはとても悲しい顔をしていた。
この力は他人だけでなく自分も、大事なりんかも傷つけてしまうんだ。
こんな呪われた力なんて使わない!もういらないんだ!!

「うわぁぁぁぁ!!」

紗奈は雄叫びと共に駆け出した。
りんかを救うためにジルドレイに果敢に挑んだ。
感情が昂っているからか、物凄く身体が熱かった。

「りんかに手を出すなぁぁ!!」
「ぬぅっ」

紗奈の拳を受けてぐらつくジルドレイ。
幼き子供の力では無い。
明らかに超力による身体強化が加わっていた。

「何なのですか?その光は?」
「…………?」

紗奈自身も気付いていなかった。
彼女の胸元から眩い光を発しているのを。
身体が熱いのもその光が原因だとようやく気付く。

「まぁいいでしょう。邪魔をするなら貴女から贄に捧げるだけです」

身体が焼けるように熱い。
だけど私には分かる。
この光は敵じゃない。
私の力となる味方なんだ。

(お願い、力を貸して……りんかを守れる力を私に!!)

光が紗奈の願いに呼応するように一層強く輝いた。
すると不思議な事が起きた。
光に包まれた紗奈の肉体が作り替えられていく。

小さな少女の肉体は167cmのサイズに伸び
身体のラインがくっきりと見える黒いボディスーツ。
純白のマントを身に纏い、胸元は白銀のプロテクターに覆われ
腰には白銀のスカート型の装甲がフィットし
脚部は白銀のグリーヴ、腕には白銀のガントレットが装着された。

サラサラとした美しく長い黒髪に、凛とした整った顔立ちの美女。
まるで白銀の騎士を思わせる戦士だった。

「これが……私の力……」

これは神が起こした気まぐれか。
それともりんかから与えられた『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の力が
紗奈の『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』と結びついて進化を引き起こしたのか。

ただ一つ分かるのは、これはもう呪われた死神の力では無い。
希望のための力だということだ。

194祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:21:35 ID:QuvhKGJc0
「繋いで結ぶ希望の光ッ!!シャイニング・コネクト・スタイルッ!!!!」

希望と性愛という異なる二つが合わさって生まれた奇跡。
紗奈の新しい力、シャイニング・コネクト・スタイルがここに誕生した。

「紗奈……」

意識を取り戻したりんかは目の前の光景に呆然と見惚れていた。
あまりに美しき白銀の騎士の姿に目を奪われてしまったからだ。

「……く」

紗奈から感じる神聖な気配にジルドレイは思わず後退る。

「じゃ、ジャンヌ……」

思わず呟いてしまった。
彼女から発せられる希望の光を目にしてジャンヌを思い浮かべてしまった。

『言ったはずだ。人は誰もがジャンヌになれるとな』

失った右目の中から囁く神の姿が見えた。
未だ私の前から消えようとしない忌々しい男が。

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違うっっっ!!!!
お前はジャンヌではない!!!!捧げられるだけの贄でしかないガキの分際でぇぇえええぇぇええっっ!!!!
唯一無二にして絶対であるジャンヌに成り代わろうとするなぁぁぁぁぁぁああぁああああっっっ!!!!」

狂乱状態に陥ったジルドレイは氷の槍を無数に生成し、紗奈に目掛けて投げつける。

「はぁっ!!」

紗奈の手から光のリボンが構築される。
まるで新体操のようにリボンを振るい、氷の槍を次々と撃ち落とす。

「おのれぇ!」

怒りの形相を剥き出しにするジルドレイ。
紗奈に向かって次なる攻撃を繰り出そうとしたその瞬間、脇腹に突き刺さるような激痛が走る。

「紗奈ちゃんだけには戦わせません!!」

りんかの放った飛び蹴りがジルドレイの脇腹へと直撃したのだ。
完全に警戒の外だったためにまともに喰らい、ぐらりと怯む。

「これでぇぇ!!」

紗奈の放ったリボンが、ジルドレイの右腕に絡みつく。
するとジルドレイの右腕から発せられた冷気がピタリと止まった。

「ぐっ!?冷気が……」
「これ以上、その力でりんかを傷付けさせない!」

今まで自らを束縛して生きてきた。
でもこれからは違う。
これからは悪い大人達を縛り付けて、手を出させないようにしてやるんだ。

『希望を照らす聖なる光(シャイニング・ホープ・スタイル)』による光の力と
『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』による加害性のある者に罰を与える力が
混ざり合い、光の拘束具として進化した。

今のジルドレイは右腕を封じられ、片腕状態になったも同然だった。

「たかが片腕を封じたぐらいで勝ったつもりですか!? 私の氷の力はまだまだ尽きません!!」
「もう、辞めませんか?」

未だ興奮冷め上がらないジルドレイにりんかは語りかける。
その瞳は悲しみに満ちていた。
ジャンヌに憧れる者同士で傷付け合うなんて悲しすぎる行為だった。

「ジャンヌさんが投獄されて辛いのは私も同じです。でもこんなことをしてもジャンヌさんは悲しむと思います。だから「黙れ」

りんかの説得を遮るジルドレイ。
その表情は怒りでも憎しみでもない。
ただただ感情の無い顔付きでりんかを見ていた。

「お前がジャンヌを語るな。虫唾が走る」

195祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:21:54 ID:QuvhKGJc0
サクッと肉が切れる音が響いた。
左手から生み出した氷の短剣で、拘束された右腕を切断したのだ。
ぼとりと落ちる右腕。
傷口は冷気で瞬時に塞いで止血し、新たな右腕を作り出した。

ヒグマをも超えるサイズを誇る氷で出来た異形の右腕が構築される。
禍々しく鋭い爪を持つ魔手がりんかに向かって振り下ろされる
寸前の所で後方に下がって回避するりんか。

「させない!!」

紗奈はリボンを操り、ジルドレイの魔手を拘束しようとする。

「同じ手はくらわんよ」

魔手を自壊させ、リボンの拘束を回避する。
攻撃の手を緩んだ所をりんかのハイキックがジルドレイの頭部を狙う。
氷壁が立ち塞がり、蹴りを阻害する。

「これ以上の戦いは不毛なようだ。ここは引かせてもらいましょう」

二対一での不利な状況、さらに超力の使用を封じる拘束技に危険性を抱いたジルドレイ。
ジャンヌに出会うまでに力尽きる訳には行かないジルドレイは冷気の霧を発生させて二人を包んだ。

「りんか!」
「大丈夫、もう行ったみたい」

霧が晴れた時にはジルドレイの姿は完全に消えていた。
脅威が去ると、紗奈はりんかの元へ駆け寄る。
ぎゅっとりんかを抱きしめた。

「心配したよ……りんか」
「ごめんね。でも紗奈ちゃんが変身できるなんて驚いちゃった。私よりも大きくなって」
「これで私もりんかを守れるよ……あのね、私の夢の話だけどね」

会話の途中で襲われたために言えなかった紗奈の夢。
それは……

「それはりんかと一緒にヒーローになることだよ」
「なれる。絶対になれるよ。紗奈ちゃんなら」
「えへへ、ありがとう!りんか」

夜が明け、朝日がヒーローを照らす中で二人は熱い抱擁を交わした。

(大好きだよ……りんか……)

【D-3/森の中/一日目 早朝】
【葉月 りんか】
[状態]:シャイニング・ホープ・スタイル、全身にダメージ(極大)、疲労(大)、腹部に打撲痕、背中に刺し傷、ダメージ回復中、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。
0.今は少しだけ、休む。
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。

【交尾 紗奈】
[状態]:シャイニング・コネクト・スタイル、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかに対する信頼、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
0.新たに得た力でりんかを守りたい
1.超力が効かない相手がいるなんて……。
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。
※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。

196祝福 ◆IOg1FjsOH2:2025/05/02(金) 00:22:18 ID:QuvhKGJc0



「忌々しい、忌々しい、忌々しいぃぃ!!」

りんかから向けられた慈悲の視線。
手を差し伸べようとする彼女の振る舞いからもジャンヌに近しい気配を感じられた。
なぜ?あの紛い物に続き、あのような贄にしか過ぎぬ子供達までもがジャンヌに近い輝きを放っているのだ?

『自分でもとうに気付いているはずだ』

また右目から声が響いてくる。
聞きたくないのに、見たくないのに。
あの男の声が、姿が私の脳裏から焼き付いて離れようとしない。

『ジャンヌは唯一無二にならず、誰もがジャンヌと同じ道を歩むことが出来るのだ』

「黙れぇェぇぇぇぇぇえええっっっ!!!!我がジャンヌをこれ以上侮辱するなぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

ああ、気が狂いそうだ。
早くジャンヌと出会い、わが魂に彼女の存在を刻み込まねば。

「ジャンヌよ。どうか哀れな私に救済を……お導きを……」

【D-3/草原/一日目 早朝】
【ジルドレイ・モントランシー】
[状態]: 右目喪失、右腕欠損、怒りの感情、発狂、神の幻覚、全身に火傷、胸部に打撲
[道具]: 無し
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本. ジャンヌを取り戻す。
1.ジャンヌに会いたい。
2.出逢った全てを惨たらしく殺す。
※ジルドレイの脳内には神様の幻覚がずっと映り込んでいます。
※夜上神一郎によって『怒りの感情』を知りました。
※自身のアイデンティティが崩壊しかけ、発狂したことで超力が大幅強化された可能性があります。

197名無しさん:2025/05/02(金) 00:23:10 ID:QuvhKGJc0
投下終了です
長期に渡ってキャラを拘束してしまい申し訳ありませんでした

198 ◆H3bky6/SCY:2025/05/02(金) 00:40:15 ID:GSTrOTow0
投下乙です

>祝福
改めて描かれるりんかの過去が壮絶すぎる。この世界、反社が蔓延りすぎている。まあアビスがその煮凝りが集められた場所だから深淵が目につくんだろうけど
これだけつらい過去を抱えながら、ヒーローとしての心を失わないりんか凄すぎるけど、ただの15歳の少女なんだからそれを支える存在が必要なんだよねぇ
そんなりんかを守護する騎士として守護られる立場だった紗奈が覚醒、これまで紗奈の超力はピーキーすぎたし毎回脱いでセルフ拘束という痛々しさもあったのでようやく戦う力を得たとも言える
自分の超力とりんかの超力が組み合わさったような力は正当進化感がある、変身ヒーローが2人になって、お互いピンチを乗り越えるたび強く近くなりそう
ジルドレは娑婆にいた当時から妄信からの狂気に走っていたようだけど、この刑務作業でもまだ迷走を続けている、神父の精神攻撃が効きすぎている
片目片腕という同じジャンヌの信奉者であるフレゼアと左右対称の欠損を負って、フレゼアは欠損が進む度に怪物化が進んで行ったが氷結怪人はどういう結末を辿るのか

199 ◆H3bky6/SCY:2025/05/04(日) 19:35:18 ID:qhW1Uu3c0
【お知らせ】
ほとんどのキャラクターが早朝に到達しており、現在有効な予約がなくなったため第一放送を投下したいと考えています。
放送は本日の24時に投下する予定ですので、第一放送前に投下したい作品があるのであれば、それまでに投下するようお願いします。

200 ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:43:54 ID:kqZFijO60
メリリン・"メカーニカ"・ミリアン、ネイ・ローマン
ゲリラ投下します。

201Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:50:46 ID:kqZFijO60






【scrapper】(スクラッパー)


[スクラップ]解体業者、解体作業人のこと。


〈俗〉喧嘩っ早い人。






-

202Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:51:57 ID:kqZFijO60




 ――あの夜のことは、今も鮮明に憶えている。


 賑やかな酒場の喧騒と心地の良い疲労感。
 鉄と油の残り香の中を通り抜けた、鼻腔をくすぐるワインの匂い。

「よぉ、功労者! 飲んでるかぁ!?」
「メカーニカ、早くこっちのテーブル来いよ!」
「飲み比べだ飲み比べ! 今日こそ勝つぞぉメリリ〜ン……そんで今夜こそお前を……ぐへへ……」
「おまえ勝負する前からへべれけじゃねえか……。バカどものことは気にせず楽しめよ、メリリン!」

 カウンター席の後ろを通り過ぎる仲間達が、代わる代わる私の背中を叩いてくる。
 うぶ、と。
 軽い振動によって、丁度口元に運ぼうとしていたジョッキからビールがこぼれ落ち、カウンターテーブルを少し汚した。

 打ち上げが始まってからそこそこ時間が経っているのに、貸し切られた店内はずっと賑やかだった。
 お酒は好きだけど、騒がしい場所はあまり得意じゃない。
 数年前の私なら、30分と耐えられない空間だったろう。
 そんな私でも、今日ばかりは空気を読んで大人しく祝いの席に座っている。

「我らが天才メカニック、メカーニカに乾杯!」

 背後のテーブル席から、そんな歓声が聞こえる。
 非認可技術者集団、メルシニカの取引は大成功の内に終わった。
 本拠地であるラテンアメリカから欧州に販路を開くという遠大な計画はこの日、遂に結実を見たのだ。

 組織は名実共に飛躍的成長を為し、今後は使える資金も潤沢になるだろう。
 もっと色んなものが作れる。自由気ままに。技師達の理想を実現できる。

『メカーニカ、お前のおかげだ』、なんて。みんなが私を褒めてくれた。
 天才メカニックなんて持て囃されて。それはちょっぴり悪くない気持ちだったけど、同時に、少しむず痒くて気が引ける。
 だって私が組織に加入したのはほんの数年前で、10年近く前から、それこそ組織が発足する前から計画を進めていたのは―――

「メリリン、今日は来てくれてありがとね」

今、私の隣に座っている、彼女なのだから。

「こういうとこ、苦手なのに。無理させちゃって、ごめん」

 隣のカウンター席に座るサリヤは、片手に持ったワイングラスを傾けながら小さく詫びる。
 カウンターには私と彼女の2人だけ。
 店主(マスター)は隅の方で静かにグラスを磨いている。
 背後に仲間達の喧騒を聞きながら、私たちは一席分の距離感で視線を交わしていた。

「謝らなくていい。私が来たくて来たんだから。それに……その……前ほど嫌じゃ、なくなったし……」
「ふ〜ん、それはどうして?」
「ほんの少し慣れちゃったんだよ。誰かさんが、いちいち振り回してくれたからでしょ」

 非難がましく、と同時に少し照れ臭く、じとっと見つめてやる。
 厭世的で引き篭もりがちなメカニックを組織に引き入れた彼女は、何かにつけてそいつを連れ回した。
 そのせいでというか、おかげさまでというか、とっくに諦めていた対人能力というものをほんの少しだけ獲得した私は、今はこんな騒がしい飲み会にも参加している。

 まあ本音を言うと、さっさと帰って機械弄りでもしてたい。そういう感性は今も変わらないけど。
 でも、彼女や、彼女が紹介してくれた仲間たちと嫌々交流している内に、いつの間にか、たまになら悪くないなって、思えるようになっていた。

「そうね、ちょっと変わったわ、メリリンは。
 昔はも〜っと口下手で、踏み込まれるとすぐアタフタして、ウチベンケイで……あ、ウチベンケイは今もか」
「う、煩いな……っそ、そんなこと……ない」
「そうそう、こんなふうに吃りがちで。パニックになると今でもたまに出てるわよ、そのクセ」
「ば、バカにしてるでしょ?」
「ううん……私は可愛いと思うわ、そういう子。いじりがいがあって」

 揶揄われてむくれる私をよそに、サリヤは嬉しそうに目を細める。
 それはちょっと意地悪をしているとき特有の、彼女のクセだった。

 サリヤ・K・レストマン。
 私にとって、数少ない友人と呼べる存在。
 彼女のフェーブがかった薄紫色の髪が、酒場の暖色ライトに照らされて、どこか浮世離れした空気を纏わせている。

203Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:52:27 ID:kqZFijO60

 今日は組織にとっても、彼女にとっても節目の日。
 だから私も、ちょっとくらい頑張って慣れない場にも顔を出す。
 それくらいはしても良いって思えるくらい、私はこの組織(ばしょ)に、彼女の隣に、価値を見出している。

「……ん」
「なあに? これ」
「今回の成功祝い、みたいなもの。でも意地悪ばっかり言うならあげない」

 だから私はそれを持ってきた。
 ぶっきらぼうに、彼女の目の前に突き出す。
 今日ここに来たのは、実際のところ、それを渡すためだった。

「ごめんごめん……これ、耳飾り?」
「……ん」
「わぁ……素敵ね」
   
 ちらりと、その表情を盗み見て。
 ずるいなあ、と思う。
 揶揄われて腹が立つので、渡したらすぐ帰ってやろうと思っていたのに。
 そんな顔をされたら毒気を抜かれてしまう。 

 サリヤはいつも大人びていて、たまに怖いくらい冷静な女性なのに。
 時折、こういう子供っぽい表情を見せるから、ずるいと思う。

「なんと高周波の虫除け機能つき。フィールドワークに行くとき使えるでしょ?
 それから……試しに、前にサリヤが言ってた理論(アレ)を組み込んでみた。
 オマケだし、実際に正しく機能するかは分からないけど」
「アレ……?」
「ほら、一度だけ……私の家で宅飲みしたことあったでしょ? あのとき言ってたやつ」
「憶えてない……」
「サリヤってさ……酔っ払うと記憶飛ばすよね……」

 本当は、制作の過程で、同じものがもう一つ私の家にあって。
 二つで左右ペアになる耳飾りなんだけど。
 私は結局、このとき、それを口にすることは出来なかった。

 重たい贈り物みたいになってしまいそうだったし。
 なにより、サリヤは何故か、『分け合う』ことを極端に忌避するきらいがあった。
 それを知っていたから。

「……とにかく、おめでと」

 まあ、なにはともあれ。
 私がやりたかったことは、サリヤにその言葉を伝えることだった。

 大仕事を終えたメルシニカは明日から長期休暇に入る。
 長く休んで、集まって好き勝手に製造して、取引を終えてまた休む。私達のルーティーン。
 だけど今回の仕事は今までで一番大きいヤマだったわけで、次に集まるのは少し先になるだろう。
 だからその前に、ちゃんと伝えておきたかった。

「……うん、そうだね……おめでとう、か……うん」

 なのに、どうしてなのだろう。

「ありがと……メリリン。
 あなたがいたから、私達は……私は……ここまで来れた」

 サリヤの表情には少しだけ、影があるように見えた。



『―――I shot the sheriff,(保安官を撃ったのは俺さ)』



 沈黙の合間に、酒場のBGMがすり抜けるようにして耳に入る。



『―――but I didn’t shoot no deputy.(でも副保安官をやったのは俺じゃない)』


 それはジャマイカ人歌手による、古いレゲエソングだった。
 正義に追われる男の独白。
 哀愁漂う歌詞と、反してノリの良い軽快な曲調が組み合わさり、胸に染み込むような独特の聞き心地を与えてくる。
 
 サリヤは左の手で耳飾りを握りしめたまま、右手に持ったワイングラスに口をつけ、軽く傾けた。
 視線はカウンターの向こう、酒棚の上に鎮座したボロいテレビの画面に向けられている。

『違法薬物、"サイシン"の元締め、近く強制捜査か』

 BGMと音がかち合わないよう、消音状態のテレビ画面に表示されたニュース番組、その字幕に書かれていた。
 サリヤは躊躇うように数秒、間をおいて。
 やがて、意を決したように、あるいは諦めたように、軽く息を吐いて。


「――ねえ、メリリン。本当の悪ってなんだと思う?」


 そんなことを、口にした。




-

204Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:53:38 ID:kqZFijO60

「なんだ、考え事か? 余裕だなァ、メカーニカ」

 前方から聞こえた鋭い声に、乖離していた意識を引き戻す。
 回想は一瞬。現在の焦点には、硬いコンクリートの床と、そこに転がったワインボトル。
 ああ、そうか、アレを見て、私は、あの夜の記憶を想起したのか。

「別に……ちょっと昔を思い出しただけ」

 視線を切って、前を歩く男の背を追った。
 ブラックペンタゴン、刑務開始から目指し続け、やっとたどり着いた、島の中心施設。
 その南東エリアの入口は、物資搬入口を兼ねているようだった。
 先ほど見たようなワイン――酒類を初めとした食料品、衣類、日用雑貨など。
 様々な物資の詰められたコンテナが、コンクリむき出しの壁に囲まれた作業場に所狭しと並んでいる。

 ふと貴金属の詰められた箱が目に止まる。
 レアメタルでも入っているならくすねておきたいところだけど、生憎といまの私に、勝手に足を止める自由はない。

 キラリと光る宝石の輝きが、いつかのシーンを再生する。
 そういえば、あの耳飾りはどこにいってしまったのだろう。
 サリヤの遺体から、流星の形をしたアクセサリは見つからなかった。
 私が持っていたもう一つは、確か……ああ、仕事で知り合った、可愛らしい獣人さんにあげてしまったんだっけ。

 誰かとの形ある思い出は、時に痛みになる。
 あの頃、あの耳飾りを見る度、私は辛くなった。
 忘れるために、吹っ切るためにと手放して、あとになって馬鹿みたいに後悔したのを憶えている。

 迷路のように入り組んだ隙間を抜けて、私は施設の奥へと進んでいく。
 とはいえ、私の自由意志で進んでいるわけじゃない。

「一応の忠告だ。妙な気を起こすんじゃねえぞ?」

 先導する男、ネイ・ローマンが、首だけを傾けてこちらを振り返り、ニィと口角を釣り上げる。
 言われなくとも、私に出来ることは何もないし、抵抗するつもりはない。
 少なくとも、今は。
 
 ストリートギャング『アイアンハート』のリーダー。
 ネイ・ローマン、新進気鋭のギャングスタ。
 彼によって、私は強引にアイアン傘下への引き抜きを承諾させられ。
 数十分前までのパートナーと分かたれ、こうして施設探索に同行させられている。

 ローマンは私に無防備な背を向けたまま、ずんずん施設内を進んでいく。
 けど、それは私を信頼しているわけでも、舐めきっているわけでも、どちらでもない。
 
「……さぁて、晴れて『アイアン』入りするテメェには、聞いておきたい事がある」

 ピリピリとした、静電気のように突き刺すプレッシャーが、彼の背中からは常に放たれている。
 まるで不可視の銃口が背から無数に生え出し、こちらを狙っているかのよう。
 事実として、彼は振り返るまでもなく、気の向くまま、無手のまま、不動のままに私を殺せる。
 その凄まじい破壊衝動(ネオス)によって。

 ネイ・ローマンに敵対してはならない。
 その不文律を守っているからこそ、私はまだ、生かされている。

「さっきも言ったが、今はバラけちまったとは言え、アイアンの本質は変わらねえ。
 だからこいつはまァ、アレだ、そいつに沿えるかどうかの、入団テストみてえなもんだな」

「テスト……? こっちは強制的に引き込まれたんだけど?」

「はッ、テメエの言い分は最もだ。しかし話の通りなら、オレ達の関係は娑婆に出てこそ続くんだぜ?
 だったら今後のために、白黒つけなきゃいけねえコトもあるだろうよ」

 なにが、気に食わないのだろう。
 そう、直感的に、私は思った。
 
 ここに至る経緯が経緯だ。彼が私を信用できないのはわかる。
 警戒を解かないのも自然の成り行きだ。
 だけど、突き刺すようなこの敵意は、ずっと向けられ続けている苛立ちは、それだけが理由ではないように思えた。

「オレはここから出て、もう一度アイアンハートを復活させる。
 そして今度こそ、欧州のヤクを根絶する。
 テメエは、その為の役に立つと、そういう話だったろうが」

 話しながら、ローマンは足早にコンテナの迷路を抜けていく。
 同行者にまったく配慮のないペースなものだから、時折、小走りになりながらも追い続ける。
 遅れたら殺すぞと、目の前の背中が告げていた。 

「だが、オレのアイアンの中で、果たしてテメエがやっていけるのか。
 オレはそいつが、どうにも心配でね」

 一体、なにが、気に食わないのだろう。
 もう一度、繰り返し、そう思う。

205Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:54:04 ID:kqZFijO60

 向けられ続ける敵意によって確信する。
 ようするに、この男は私のことが嫌いなのだ。
 今日まで一度も会ったこともない私に対して、一方的な嫌悪感を抱いている。

「能力は買ってやるがそれだけじゃ足りてねえ。気質ってやつが問われんだよ。
 加えて言えば、女としてもオレの好みじゃあねえしな。年増は趣味じゃねえんだわ」

「ご心配どうも。じゃあさっさと聞けば?
 ……あとだれが年増だ! 一応まだ二十代なんですけどっ!?」

 失礼千万である。
 ネイ・ローマン、粗暴で、危険な男。
 だけど、間違いなく、強い。
 
 ネイティブ世代の中でも突出した暴力性とカリスマで、欧州のストリートギャングを纏め上げた若き新星。
 極まった凶暴性に反し、違法薬物に対する苛烈な敵対心、売人と関わる組織に対する激しい攻撃で名を馳せた狂犬。
 アイアンハート。鉄の絆は、鉄の掟によって固められていた。
 彼らの掟(ルール)に反したものは、仲間であろうと容赦なき粛清の対象になるという。
 なんて知識は、全部サリヤからの受け売りなんだけど。
 
 私にとっては結局のところ、目的を達せられればそれで良い筈で。
 ブラックペンタゴンの探索も、その先にある目的も、彼と共に行うことに異論はない、はずだ。
 私は、サリヤの亡霊を終わらせられるなら、終わらせてくれるなら、それが誰であろうとも。
 誰に従うことになろうとも構わないと思っていた。

 でも、だとしたら何故、私はこんな事をしているのだろう。
 先程から、ほんの少し、微量の超力を行使している。
 そのことにローマンは気づいていないのか、あるいは泳がせているのか。 

「そうかい、じゃあ質問だ」

 ちょうどそのタイミングで、ローマンはゴールにたどり着く。
 コンテナの迷路を抜け、南東エリア第2ブロックへ続く扉が目の前にある。
 彼はそれを押し広げながら、もう一度、こちらを振り返った。

「いいか、改めて言うが、こいつはテストだ。慎重に答えろよ」

 背中から不可視の銃口を突きつけたまま、彼は次のブロックに進む。
 ウルフカットの白髪が闇に溶けていく。扉の先はだだっ広く、そして薄暗い空間のようだった。
 私もまたその背を追って闇の中へ。

 まだ、目が慣れない、何も見えない。
 だけど、耳はその機能になんの不具合もなく。
 どこからか、一定のリズムで響く駆動音の中でも、彼の質問は問題なく届いていた。



「――なあ、メカーニカ。テメエにとって、許せねえ悪ってのは、なんだ?」





-

206Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 21:57:15 ID:kqZFijO60






「――ねえ、メリリン。本当の悪ってなんだと思う?」


 ―――I shot the sheriff,(保安官を撃ったのは俺さ)。


 刹那、リンクした問いかけに、その言葉を思い出す。


 ―――but I didn’t shoot no deputy.(でも副保安官をやったのは俺じゃない)。


 酒場の情景が甦る。耳に残るBGMが返ってくる。
 彼女の声が、あの日の彼女の微笑みが、私の隣に戻って来る。
 たしか、あの日、サリヤはこう続けた。

「……私にとって、それは『マリア・C・レストマン』という、一人の女性だったわ」

 遠くを見るような目で語られた、本当の悪。
 サリヤが自分のことについて話すのは、とても珍しかった。
 酔いや仕事の成功による気の緩みを勘定に入れて尚。

 自分のことになると、彼女はいつも話を煙に巻いてきた。
 仲間の誰もがサリヤを知ろうとして、いつも柳のようなレトリックに躱され、有無を言わせぬ微笑みに黙らされるのが定番だったから。

「本当の悪を打ち破るためなら、相対的な小悪の全ては正義となる。
 大戦の英雄が殺人の罪に問われることはない。
 そういう驕り高ぶった自己正当化が、生命の冒涜者を生み出した」

 生命の冒涜者。その蔑称が指す存在は、現代に一人。
 "シエンシア"。10年ほど前に国際指名手配されていた逃亡被疑者。
 その女の罪状は国家機密文書の窃盗と流出、そして違法な人体実験を目的とした誘拐、拉致、監禁、傷害致死。
 素性は科学者だったらしい。それも元GPA所属、当時最先端だった超力研究チームのメンバー。

 追われ始めて僅か数年後、女はオーストラリアの僻地にて、白骨化した遺体で発見される。
 しかし、後に明らかになった生前の罪状は、筆舌に尽くし難い非人道性に満ちていた。

 当時、女が配属されていた超力研究所アジア支部。
 開闢当初、超力というカタストロフが人類に与えた影響は底知れない。
 国家の裏側においても、超力の原理を明らかにするため、その効果的な活用法を他国に先んじて解明するために、表沙汰にできない人体実験が横行したという。
 しかし、その枠組の中ですら、女は満足できなかったのか。

「生きた人間、オールド世代の身体を弄くり回すことに行き詰まった女は、次に生まれてくる存在、つまり赤ん坊に目をつけた。
 だけど当時の研究チームも、流石にそこまで外道になれなかったんでしょうね。
 結果として、公的機関では自分のしたい研究が出来ないと結論付けた」

 そうして、女は暴挙に出る。
 研究所が極秘に行っていた超力研究の黒い成果を国外に持ち逃げし、あろうことか犯罪組織へと売り渡したのだ。
 全ては、己の理想とする研究を進めるために。

 女が望んだのは非合法の実験を可能とする資金と、GPAの追手から身を隠すための場所。
 そして当時、欧州進出を狙っていたオーストラリアの麻薬女王、『サイシン・マザー』は、この科学技術を喉から手が出るほど欲していた。
 ここに、利害が一致する。

 そうして、闇の中で芽吹いた背徳の研究成果。
 生まれる前から狂わされた命、超力を改造された状態で生まれた子供たち。
 デザイン・ネイティブ。その第一世代、麻薬製造に特化した超力を付与された、ネイティブ・サイシン。
 技術を悪用するべく繰り返された誘拐と人身売買。GPA研究技術の流出は、結果として夥しい数の子供を殺した。
 
 ――マリア・"シエンシア"・レストマン。
 生命の冒涜者。しかし犯罪組織においては、"シエンシア"の名は畏敬をもって扱われる。
 その技術は、確かに裏社会に莫大なる富をもたらしていたから。

「女はよく言っていたわ。本当の悪は人類の"停滞"だって。
 そいつを打ち破るためなら、全ての小悪は肯定される」

 そして現在、組織の中でも一部の者は、サリヤをこう呼ぶことがある。
 "シエンシア"の再来。

 彼女自身がそれを肯定したことは一度もない。
 ただ、彼女は確かに、"メルシニカ"に超力の先端科学を与えていて。
 仲間が冗談めかして、"シエンシア"と呼ぶと、少し辛そうに笑うのだった。

「サリヤの"お母さん"は、マッド・サイエンティストだったの?」

 意を決して、口にしたその問いに。
 彼女は呆気なく、答えた。

「きっと、そんな上等なものですらないわ。小さい頃はずっと、あの女の助手をさせられていたけど。
 昔は野心なんて微塵も見せなかったもの。
 多分、ロシアの諜報員だった父に誑かされたっていうのが、私の見立て」

 その父も失踪して、サリヤ・K・レストマンは天涯孤独になった。
 ただ、親の罪だけを、傍らに残されて。

207Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:00:46 ID:kqZFijO60

「私は、私にとっての『本当の悪(シエンシア)』が死ぬだけじゃ、納得できなかった。
 間違いから生まれたものは、間違いしか産まない。
 だから、彼女が残した一切を否定したかった」

 サリヤの視線は、酒棚のテレビに向けられたままだ。

『違法薬物、"サイシン"の元締め、近く強制捜査か』

 揺らぐ、オーストラリアの犯罪組織。 
 ラテンアメリカ系麻薬組織との競争に負けたサイシン・マザーは欧州への求心力を失い、盤石なる足場を失いつつある。
 メルシニカによる物流開拓が、ラテンアメリカの側を勝利に導いた。
 その舵取りを行ったのは他でもないサリヤだ。偶然とは思えない。
 シエンシアの負の遺産、彼女はその全てを消してしまいたいのだろうか。
 
「でもね、笑っちゃうでしょう? 所詮、血は争えないってことかしら」

 彼女が今、何が言いたいのか、わかる。
 そうして目的の一つを達しても、ちっとも嬉しそうじゃない、その理由も。

 巨悪、シエンシアの遺産の一つ、ネイティブ・サイシン。その根絶。
 非人道的な人体実験の連鎖を止めることと引き換えに、私達が為した、無視できない悪がある。
 サイシンの代わりに、ラテンアメリカの麻薬が欧州へと流れ込む。
 それはまるで―――本当の悪を打ち破るためなら、相対的な小悪の全ては黙認されるという理論を実践したようで―――

「"真理は汝を自由にする"。聖書の引用、あるいは曲解。あの女の口癖だった。
 ……人って、嫌いな人の言葉こそ、いつまでも憶えているものね。嫌になっちゃう」 

 その皮肉に、彼女は自嘲しながら俯いた。

「シエンシアの遺産はデザイン・ネイティブだけじゃない。
 チカラの発現、改造、変質、消失、そしてコントロール。
 畢竟、超力のシステム化という、研究者達が目指した理想への道程。
 暴走した知識欲は……真理(すべて)を手に入れるまで止まらない」

 命を解体する人体実験。
 人間の生(はじまり)と死(おわり)、神の聖域を侵した冒涜者。

「ずっと……家族が嫌いだった。それこそが、私の定義する悪(まちがい)だったから。
 でも、だったら、その悪から生まれた存在って、一体なんなのかしら」

 間違いから生まれたものは、間違いしか産まない。
 その理論、彼女が否定するものの中に、間違いなくサリヤ自身も含まれている。
 それはとても悲しくて、寂しいことのように思えた。

 彼女と初めて会った日のことを思い出す。
 明るくて、コミュニケーション能力に優れた、私とはまるで正反対な女性。
 隅っこが落ち着く陰キャな私と、既に組織を立ち上げ、人の中心に立っていたサリヤ。
 彼女の差し出した手を取った、あのとき、私の人生の停滞は終わった。

『私たち、きっと似た物同士ね』

 最初はまるで意味のわからなかった言葉が、いつしか理解できるようになっていた。
 私とサリヤは表面上は正反対で、だけど心の芯に、共通する孤独を抱えている。

 誰にも分かってもらえない。期待なんてしたくない。
 だけど、心のどこかで思っている。
 誰かに、分かってもらいたいと。

「自分を否定するようなこと、言わないでよ」
「どうして?」
「私が、嫌だから」 
「それは……どうして?」
「……だって、私達――――」

『――"家族"みたいなものなんだから』。
 なんて、声にしようとした言葉を、あのとき言えていたら。
 なにかが、変わったのだろうか。
 
 どうして躊躇ってしまったのだろう。
 きっと、怖かったんだ、私も。
 否定されることを恐れていた。

「――"親友"、なんだから」
「……うん」

208Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:01:17 ID:kqZFijO60

 少女のような切なげな笑みで頷いたサリヤが、グラスをテーブルに置く。

「あーあ、良くないわ。喋りすぎちゃった……普段はこんなに酔わないのに。
 メリリン相手だと、なんだか口が軽くなっちゃうみたい。
 ……お酒とメリリン、こいつは危険な組み合わせね」

 照れ隠しのように冗談めかして、おどけた表情を浮かべ、サリヤは再び顔を上げる。
 私に軽く流し目を送った後、テレビの画面に目線を戻し。
 そうして、その瞳が大きく見開かれた。

「……メリリン、今回の休暇って、なにか予定ある?」
「んー、いつも通りかな。家で機械いじったり、パーツ集めにトラック転がしたり……」

 サリヤは話題を変えようとしている。
 彼女の背景について知る、珍しい機会が過ぎようとしている。
 なのに、不思議な安心感を得たのはなぜだろう。

「そ、私もいつも通り、またフィールドワークに出かけるわ」
「へえ、今度はどこに行くの?」

 ―――『ハイブを名乗る逃亡中の軍勢型(レギオン)、欧州にて死体で発見される』。

「日本よ。メリリンもたまには一緒に来る?」 
「ええ!? 私も!? うーん……」
「冗談よ、言ってみただけ。あんな人の多い国、メリリン空港で昏倒しちゃうわ」

 微笑みながら、サリヤの琥珀色の片目(アンバー)はニュースの字幕を追い続けている。
 その横顔は、ぞっとするほど冷たい。
 氷のように玲瓏な、それは彼女の、敵に向けられる顔貌だった。

 ―――『ストリート・ギャングとの大規模な衝突があったと見られている。遺体は既に検死に回され、現地警察が経緯を捜査中――――』。

「てか日本なんて、今更なにしにいくの? 例のヤシオリだかヤマナシだかいう土地?」
「ヤマオリね、アレは多分、今後10年以上は近寄れないし行っても無駄よ。今のトレンドはやっぱりカクレヤマね」
「オカルトでしょ? よくわかんない。サリヤもなんだかんだで学者っていうか、知りたがりだよね」
「メカニックさんは分かんなくていいの。現実だけ見てなさい。
 ……ふふっ、でも確かに、やっぱり血は争えないわね。私も、真理に惹かれてるってことか」

 テレビから視線を切って、私に目を向けた彼女の表情は嘘のように穏やかで。
 先程までの冷たさなんて微塵も残っていない。
 いつも通りのサリヤだ。

 ほっとする。良かったと、安心する。 
 さっき感じた嫌な予感なんて、きっとまやかしに違いないと。
 このとき私は、呑気な気休めを心地よく受け入れた。

「帰ってきたら、また一緒に飲みましょう。美味しい日本酒(おみやげ)買ってくるね」

 微笑みながら、オッドアイの片目を閉じている。
 人差し指を唇の端に押し当てる。
 彼女のそんな可愛らしいクセは、どういう意味を持つんだっけ。

「……ん、楽しみにしてる」

 心地よい酩酊と、安寧の中で思考が溶ける。
 私達には時間がある。きっとまた、機会が巡ってくるはずだから。
 今夜のようなときが、もう一度やってきたなら。
 そのときこそ、本当の意味で、ちゃんと彼女を理解しよう。

 伝えるべき言葉を、伝えよう。
 次の夜にこそ、きっと。
 彼女が帰ってきたら、きっと。

「またね、メリリン」

 だけど、これがサリヤとの、最後の会話になった。
 機会は二度と、訪れることはなかった。

 一ヶ月後に帰ってきた彼女は、何を語ることも、聞くこともない。
 つめたい死体になっていたから。
 
 


-

209Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:03:59 ID:kqZFijO60


 

「言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいい」
「なに……?」

 薄暗い空間の中で、前を進む男が立ち止まる。

「あんた、私が気に食わないんでしょ? 理由を言いたいなら、聞いてやるって言ってんの」
「オレの質問に質問で返すとはいい度胸じゃねえか。死にてえのか、オイ」

 徐々に目が慣れてきた。
 薄っすらと、ここがどういう場所か見えてくる。
 ローマンも気付いたはずだ。

 だけど私にとっては、見るまでもなく、最初から分かっていた。
 ゲートをくぐったときから聞こえる駆動音、それに混じって伝わる、金属同士が擦れ合う摩擦音。
 耳に馴染む、固くて煤けた交響曲。

「昔、友達が言ってたわ。禅問答を仕掛けてくる奴は大抵、何かを語りたがってるって」
「……へえ、例の親友ってやつか?」
「さあね」

 男の足が止まる。
 ブロックの中央、大きな作業台の傍らで、ネイ・ローマンは振り向いた。
 ナイフの如く鋭い目つきが、改めて私を値踏みするように、突き刺すように睨み据える。

「御名答、オレはテメエが気に入らねえ。もっとに言えば、"テメエら"が、だ」 
「その割には随分、私達の周りを調べてたみたいね。わざわざ、こっち(ラテンアメリカ)の探偵まで雇ってたって聞いたけど」
「まあな、こういうの何ていうんだっけな。"汝の敵を愛せ"ってやつか?」
「違うと思うけど」
「現にこうして勧誘してやったんだ、そう遠くもねえだろう」

 つまり彼は、"メルシニカ"のあり方について、前々から思うところがあったのだろう。

「さっきも言ったけど、私達がアイアンに危害を加えたことなんて一度もない。
 なのに、あんたたちは前々から、私達を一方的に目の敵にしてた。
 そりゃ麻薬組織と関わったことは、容認出来ないかも知れないけど―――」

「テメエらの在り方は不細工だ」

 私の言葉を遮って、ローマンは切り捨てるように言った。

「動いてるだけでも気色悪ぃのに、そいつらがオレのルールに抵触したんだ。なあ、潰したくなるのも道理だろうが」

 ルール、それが指しているのはアイアンの法、なのだろうか。
 ヤクをやるな、ヤクを売るな、ヤクを売る者を助けるな。
 理屈はわかる。それでも、目の前の男がぶつけてくる怒りに対して、こちらも思うことろが無いわけじゃない。

「確かに違法ドラッグは悪だろうね。それを扱う組織に運送機材を売ったのも、悪いことだよ。
 それくらい、私達も分かってる。私達の生き方が正しいなんて、思ってない。
 だけど、じゃあんたは? あんたは全部正しいっていうの?」

 ヤクの根絶を掲げる意思。それは立派な心意気だ。
 だけど、それだけをもってして、ネイ・ローマンは善人か。
 他人の悪を糾弾できる程の聖人か。
 ヤクが絡まなければ、振るう暴力の全ては肯定されるのか。

 そんなわけがない。
 殺人罪、暴行罪、窃盗罪。下された刑期こそ15年。
 それでもストリート・ギャングの頭たる彼の背負った罪科は、決して軽いものじゃないはず。
 つまり、そう、お前が言うなって話。なのに――

「馬鹿が。正しいに決まってんだろうが。
 オレがやってきた全部は、オレが正しいと思ったからやったんだぜ」

 返された答えは、ビックリするほど清々しい俺様宣言。
 彼は本気で、自分の悪徳の全てを肯定している。
 マジか。こうもまっすぐ堂々と言われると、流石にちょっと面食らった。

「『私達の生き方が正しいなんて思ってない』、だぁ?
 クソが、テメエらと一緒にすんじゃねえ、虫唾が走るんだよ」

 ピリピリと凄まじいプレッシャーが押し寄せてくる。
 2メートル以上の距離があるのに、眉間に銃口を突きつけられているような、暴力的な圧にプレスされる。
 この鋭い敵意に、ほんの少しでも敵意(へんじ)を返したら、私の頭はザクロのように弾け飛ぶのだろう。

「いいか、オレにとって許せねえ悪はな、メカーニカ。
 "オレの真理(ルール)"に反した奴だ。シンプルだろうが」

 正体不明の怪物のようだった彼のことが、ほんの少しだけ分かった気がする。
 つまり彼にとっての法とは、倫理とは、国家が定めたものじゃない。
 彼の定めた、アイアンの掟のみが、彼にとっての法なのだと。

「オレはオレの生まれた国の中じゃあ、死ぬまで奴隷だったろう。
 奴隷が自由になるにはどうすればいいと思う?
 方法は一つだ、自分の国(そしき)を作るんだよ」

210Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:05:04 ID:kqZFijO60

 アイアンハートは、ネイ・ローマンの国だ。
 鉄の掟こそ彼の法、彼にとって自由の象徴。
 善悪は、神が決めたものではない。

「組織(くに)を組織として成り立たせるものが二つある。
 真理(ルール)、そして暴力(パワー)だ」

 やっと、彼が言いたいことが見えてきた。

「オレがイースターズを認めねえのはな、奴らの真理(ルール)が破綻してるからだ。
 力だけ振り回す能無し共、キングの野郎に玩具にされたガキの集まり、反吐が出るぜ。
 そして、お前らは――その逆だな」
 
 メルシニカ。裏社会に溶け込む技術者集団。
 そう言えば聞こえはいいけど、ようするに根無し草の臆病者達。

 地に足をつけて君臨するに足る力(パワー)を示そうとしない。
 隠れ潜んで、犯罪組織に利用価値を表明して、器用に立ち回ることで敵を作らず姑息に生き延びてきた。

「真理(ルール)を真理たらしめるものは、後ろ盾になる暴力だ。
 力もねえ、テメエでやったことの責任も取れもしねえくせに。
 テメエらはいっちょ前に、裏社会に無視できねえ影響を与えてきやがる。
 属する度胸がねえなら、大人しくカタギでせせこましくしてりゃあいいものを」

 私達の在り方は確かに歪だった。
 やったことの責任から逃れるような、ふわふわとしたスタンス。  
 大きな組織に属することを嫌っていたのか、恐れていたのか。
 
「遅かれ早かれ。無力なテメエらは潰されたろう」

 事実、サリヤの舵取りを失った後、私達はあっけないほど簡単に瓦解したのだ。
 認めてもいい、彼の言葉にも一理ある。

「覚悟もなく自由を気取る代償を、じきに支払わされていた筈だ」

 だけど、やっぱり彼は、少しだけ誤解している。

「ルールとパワー。
 二つを両立させた存在を、オレは認める」

 真理と暴力。
 この島で最初に会った漢女のようにな、と。
 誰かを思い出しながら、彼は言った。
 
「つまり、あれだな、"真理に従って力あり"、ってやつだ」

 まただ。またしても引用、そしてわざとらしく曲解じみた誤用。
 馬鹿にしたように、吐き捨てるように、苦々しげなトーンで放たれる声に、私は気づく。
 そして同時に、気づかせないように、会話を続ける。

「そんなに神様が嫌いなの?」
「なんでそう思う?」
「不快そうに、聖書を引き合いに出すものだから」
「敬虔な信者かも知れないぜ?」
「……人は、嫌いな奴の言葉こそ憶えているんでしょ」
「そりゃ、ま、違いねえ」

 この男は粗暴に見えて頭が切れる。
 敵のことを知って、自分なりに理解した上で、容赦なく叩き潰す。
 理性と獣性を両立させたギャングスタ。

 だから慎重にやらなきゃいけない。
 気づかれないように、ゆっくりと。
 少しでもボロを出すと、今に―――

「とにかく、あんたが、私達を嫌う理由は分かった」
「結構、それでテメエはどんな答えを返す? オレに認めさせる答えを知ってるか?
 もし回答を間違えたらテメエ、分かってるよな?」

 男の圧力が強まる。ネイ・ローマンの超力は凄まじい。
 ジェーンとドミニカ、殺し屋と魔女の鉄槌。
 私よりもずっと強い二人を、不動のまま一撃で打倒した彼の実力は本物だ。
 
 伝え聞く、ストリートの不文律。そして先程見た現象から確信する。
 彼の爆発的な破壊衝動が破壊力に転化される。
 それだけでも恐ろしいのに、敵対者の敵意が倍掛けになって跳ね返る。

 ネイ・ローマンに敵対してはならない。
 この男に敵意を向けてはならない。

211Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:08:21 ID:kqZFijO60

 ジェーンもドミニカも分かっていなかった。
 いや分かっていても、実践出来る者など存在しない。
 敵意をぶつけられながら、敵意を抑え続けることなど。

「私も、神様なんて、信じたことない」
「オレに媚でも売りてえのか?」
「でも別に、嫌いってわけでもなかった。
 どうでもよかったって言うのかな。
 私は神様よりも、もっと信頼できるものに囲まれていたから」

 子供の頃は、家族も環境も、決して良いものじゃなかったけど。
 私にはそれがあったから、生きていけた。私はそれが、人間よりも神様よりも、ずっと好きだった。
 人間も悪くないなって思えるようになるのは、ずっと後になってからのこと。

「そうかい、ところで、チルチルミチルのマネごとはもう終いか?」
「……バレてたの?」
「気づかねえと思ったのか、馬鹿が。
 味方頼りの他力本願。テメエらしい小細工だぜ」

 ここに至るまでの道中。私は超力を使い続けていた。
 さり気なく金属類を動かして、コンテナ迷路の壁に傷を付け。
 後から追ってくる者への、道しるべを残していた。

 あのとき、ジェーンと交わしたアイコンタクト。
 彼女の目は闘志を失っていないように見えた。
『ふざけるな、契約は終わっていない、必ず追いつく』、と。
 私は、そう受け取ったから。 

「この区画に入ってからはやってないよ」
「だから何だよ。黙って泳がしておけば、好き勝手やりやがる。覚悟は出来てんだろうな?」
「その意味は考えないの?」
「あぁ?」

 薄暗い空間の中で、音が聞こえる。

「私がここにきて、童話の真似事を止めた理由だよ。あんた、そういうこと、ちゃん考えるタイプでしょ?」
「んなもん、さっきと違って、こう広い場所じゃあ目印なんざ残す意味もねえだろうが。やる必要も……」

 アルミの振動が伝える駆動音、鉄と鉄が擦れ合う摩擦音。

「テメエ、まさか」
「そうだよ。ネイ・ローマン」

 ばらまかれるネジ、ボルトを流すコンベアー、鉄の棒に加えられる熱と力。

「やる必要がなくなったから、やめたんだ。だって、もう助けを待つ必要はない」

 それらは、この南東第2ブロック、工場エリアで駆動する。

「私は一人で、あんたと闘うことが出来るから」

 機械たちの交響曲だ。

「――補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)」

 遂に抑えきれなかった敵意が摩擦する。
 迸る火花と衝撃に、私はおもいっきり後方に吹き飛んだ。

 背後にあった機材に衝突し、引き倒しながらぶっ倒れる。
 それでも、問題ない。ちょっと身体を打った程度だ。
 なぜなら既に、生成は終了していたのだから。

「オイオイ、こいつは驚きだな」 

 ネイ・ローマンの、怒りと困惑の入り混じった声が響く。
 彼も漸く目が慣れたのだろう、その視界に見えたはずだ。
 全身をアーマープレートで固めた女が起き上がる姿、そして、周囲の状況を。

「ここに来たのは間違いよ。ネイ・ローマン」

 広大な金属工場エリア。
 加工された金属類、ガラス、アルミ、そして設置された機械設備の数々。
 ここは、私のテリトリーだ。

「殻に籠もった程度で何をのぼせてやがる。んなもん2、3発あれば余裕で凹んで終いだろうが」

 人工的な物質を操り、変形加工する。それが私の超力だ。
 鉄を組み立てガラスを集めアルミを曲げて武器(ガジェット)を作る。
 そのためのパーツが、この場所にはごまんとあるのだから。

212Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:09:24 ID:kqZFijO60

「一つ、あんたの誤解を解いておく」

 一歩踏み込んだローマンの足が、ぴたりと止まる。
 次いで、左右をそれぞれ一瞥し。

「鬱陶しいんだよッ!」

 挟み込むように設置されていたボルトガンを、飛来するボルトごと、一瞬にして叩き潰した。
 ついでに、またしても敵意を向けた私の身体は再び宙を舞い、壁に叩きつけられて床に落ちる。
 プレートのおかげで大きな怪我にはならないものの、とても痛い。
 気を失わないよう、意識をしっかりもたなければ。

「こんな玩具並べて、オレに勝てるつもりかァ!?」
「私達は、無力じゃない」
「ナメてっと本当にぶっ殺すぞテメ―――」

 男の声が途切れる。
 ポタり、と赤い雫が床に落ちた。
 咄嗟に顔面を腕で庇ったのは流石の勘。
 だけど、その上で、ローマンは驚愕とともに自分の右腕を眺めている。
 彼の手の付け根の部分に、二本のボルトが突き刺さっていた。

 彼と言えども、常に全方位に気を配ることは出来ない。
 左右に設置されたボルトガンへの注意、そして同時に正面から私が向けた敵意。
 その隙間を抜けた一撃だった。
 彼の背後を取っていた、空中に浮かぶ小型ドローンに設置されたボルトガンの銃口。

「そうか、ここに入ってから、ずっと作ってやがったのか……!」

 細心の注意を払ったとは言え、気取られないかと、ずっとどきどきしていた。
 幸い、超力を使っていたことは第1ブロックで行った小細工が隠れ蓑になって。
 ドローンやボルトガンの生成音は工場自体の駆動音が誤魔化してくれた。

 既に、無数の銃口がローマンを包囲している。
 会話によって稼いだ時間で、最低限の準備は整った。
 ボルトガンを取り付けたドローンが4機、四方に散って旋回する。
 更に自走するラジコンが3機、死角の多い工場床を走り回り、攻撃の補助を行う。
 そして、それだけでは終わらない。

「あと、言っておくけど」
 
 あたり一面に撒き散らされた工具がひとりでに動き、新たな機械を生成する。

「御生憎様、私達、相性最悪だね」
 
 ネイ・ローマンに敵対してはならない。
 この男に敵意を向けてはならない。

 分かっていても、実践出来る者など存在しない。
 敵意をぶつけられながら、敵意を抑え続けることなど出来ない。
 しかしここに、例外は存在する。

「私にとって、許せない悪を教えてあげる」

 感情無き機械の攻撃に、敵意は乗らない。
 つまり、私の可愛い機械が放つ間接攻撃は、彼の超力に摩擦しないのだ。
 
「他人の都合を考えずに、自分勝手なルールを一方的に押しける輩だよ。憶えとけクソガキ」

 示された戦いの構図はシンプルだ。
 ローマンは私を殺してしまえば、それで私の超力も止めてしまえる。
 だからこのプレートが壊れてしまう前に、配置したガジェットが彼を行動不能に追い込むことが出来るかどうか。
 彼にとっても、私にとっても、半ば時間との勝負といえる。

 そんな事を考えていた私を他所に、ローマンの動きは止まったままだった。
 腕のボルトを引き抜き、床に投げ捨てた後は、直立不動で黙り込んでいる。
 男の腕からは血が流れ続けている。

「…………」

 てっきりブチギレて手がつけられなくなると思っていただけに。
 逆に不気味というか、薄ら寒い気配がした。

 というかおかしい、なぜすぐに攻めて来ないのだろう。
 時間が経てば立つほど、ガジェットの数は増え、機械の脅威は育っていく。
 状況が不利になるのはあっちなのに。

「…………く」

 ややあって、男の口から息が漏れる

「…………くく」

 それは聞き間違いでなければ、笑い声のように聞こえた。

「くは、は、はははははははッ!!」

 乾いた笑いをひとしきりもらした後。
 彼はゆっくりと、こちらに歩き出した。

 大慌てでドローンとラジコンを動かし、同時並行でプレートの修復を開始。
 次いで、ガジェット達に一斉掃射を命じようとして。

213Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:11:18 ID:kqZFijO60

 またしても、困惑させられる。
 ローマンは私との中間地点にある作業台の前で足を止めた。
 そして乱暴に椅子を引き、そのままふんぞり返るようにして腰を下ろしたのだ。

「な……なに?」
「合格だ」
「は?」

 ほら、お前も座れよ、と。対面の席を指し、気安く促してくる。
 信じられない。この男は今、全方位17機のボルトガンに照準を合わせられた状態で。
 そして、それに気づいていて尚、涼し気な表情で座っている。とんでもない胆力だった。

 嫌な予感がする。
 男はさっきまでずっとキレかかっていた筈なのに、一体どんな心境の変化があったのか。

「どういうこと? ビビったの?」
「はッ、ずっとビビってんのはお前だろうがよ」
「言っとくけど、油断はしないからね。作る手も止めない」
「好きにしろよ。そのままで聞け」

 ローマンは椅子の上でふんぞり返った体勢のまま、こちらを指さして、口角を釣り上げた。
 剥き出し犬歯と歪む頬の古傷が、壮絶な笑みの形を作り出す。
 私の背中を、猛烈な寒気が駆け上がった。
 
「認めてやる。オレは確かに、お前を誤解してたらしい。
 さっきのは良い答えだったぜ。ああ、気に入ったよ。心からな」

 こいつまさか、本気で言ってるのか。

「お前をアイアンに入れてやる。正式にだ」

 呆れて物も言えない。
 こいつ、事ここに至って、なんて上から目線。

「もう、そんな状況じゃないってわかるでしょ。
 ついでだから、もう一度ハッキリ言ってあげよっか?
 私もあんたが嫌い。だからあんたに認められなくても結構」

「ああ、勘違いさせちまったか? じゃあオレも言い直すぜ」

 だけど事は、私が思っていたよりも深刻な状況だった。

「オレは、お前を、アイアンに、入れるんだ。
 気に入ったと言っただろ?
 お前が欲しくなった。だから、オレのものにする」

「………………はい?」

 意味が分からない。
 いや、分かりたくない。

「あの……え? 状況、分かってるよね。
 もっかい言うけど、もう殺し合い始まってるっていうか」
「ああ、続けるのか?
 それでも別に良いぜ。どっちでも結果は変わらねえからな」

 ふざけんな。
 こんなの、聞いてない。

214Scrapper ◆ai4R9hOOrc:2025/05/04(日) 22:12:24 ID:kqZFijO60




「あのさ、一応、聞いておくけど、どういう結果が、変わらないって?」
「お前が、オレのものになる。っていう結果に決まってんだろ」

 ネイ・ローマンに敵対してはならない。
 とは聞いてたけど。

「オレはずっと、欲しいものは己の手で掴み取ってきた。
 だからそうするってだけの話だ。まあ、実を言うと、ちょいと自分に驚いてんだよ。
 いや、年増は趣味じゃねえ筈なんだが、なかなか世の中、奥深いもんだな」

 ネイ・ローマンに"気に入られてもいけない"、なんて。
 聞いてないよ、サリヤ。

「だ、だから年増いうなっ!
 ていうか誰が、あ、あんたのものになんか……!
 ええい、はよ立ていっ、こ、殺し合いの続きするぞクソガキ!」

 半ばパニックになりながらローマンに近づき、ガジェットを動かそうとして。

「shhh...! 静かに」
「あんた、一体なんなの……?」

 またしても機先を制される。
 口元に指を当てた白髪の男は私を見上げながら、ほんの少し悪戯っぽく笑っていた。

 そのおどけた動作がどこか、誰かと重なったからだろうか。
 初めて、この危険極まりない男が、年相応の青年に見えた気がした。

「別に続きをやってもいいけどよ。もうちょっと後にしようぜ」
「どうして?」
「決まってんだろ、ほら」

 ビリ、と。空気中に伝わる電子音の気配。
 そうしてやっと、思い至る。
 やはり、私は冷静じゃなかったらしい。

 色々なことがありすぎて、すっかり忘れてしまっていたのだ。
 刑務開始から、今がちょうど、6時間。
 混乱する私を置いて、時計の針は進んでいる。
 
「座れよ。静かに聞こうぜ、一緒にな」

 私の戸惑いも、彼の感情も、誰かの想いも。
 何もかもを、置き去りにして。



 始まるのだ―――第一回、定時放送が。












【E-5/ブラックペンタゴン南東第2ブロック・工場エリア/一日目・早朝(放送直前)】


【ネイ・ローマン】
[状態]:両腕にダメージ(小)、疲労(中)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.……おもしれー女。
1.ブラックペンタゴンでルーサーとローズを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。

【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(小)、フルプレートアーマー装備、軽い打ち身
[道具]:デジタルウォッチ、生成ドローン4機、ラジコン3機、設置式簡易ボルトガン。
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい。サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
0.ひとまず放送を聞く……か。
1.サリヤの姿をした何者かを探す。見つけたらその時は……。
2.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する?
3.山頂の改編能力者を警戒。取り敢えずドミニカに任せる。
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました。

215名無しさん:2025/05/04(日) 22:14:00 ID:kqZFijO60
投下終了です

216 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:00:35 ID:J152ZY1w0
投下乙です

>Scrapper
これまでの世界の醜悪さを繋げるシエンシアとかいう諸悪の根源、これがサリアの母かぁ……その負の遺産を消し去ろうというサリアの目的や人となりも見えてきた
『悪』を問うアイアンの入団テスト、結局は己が法というローマンに従えるかというとんでもない傲慢な内容ではあるんだけど、それを実現するローマンには力がある、結局は暴力
工場エリアで本領発揮されるメリリンの超力、敵意を返すローマンに敵意のないドローンで攻撃するという攻略方は上手い、旧工業地帯でスタートしてればとんでもない強さだったのかもしれない
けどその状況で余裕のローマンもすごい、傲慢なオレ様にはおもしれ―女が効く、少女漫画にもそう書いてる


それではこれより第一放送を投下します

217第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:01:23 ID:J152ZY1w0

――――定時放送の時間だ。

諸君、刑務作業の進捗はいかがかな?
贖罪を果たし、己の価値をほんの少しでも証明できた者がいれば喜ばしい。

さて、それでは事前に説明していた通り、これより刑務作業の経過報告を行う。

アンナ・アメリナ
並木 旅人
羽間 美火
舞古 沙姫
ドン・エルグランド
宮本 麻衣
恵波 流都
無銘
フレゼア・フランベルジェ
アルヴド・グーラボーン
呼延 光
スプリング・ローズ

以上の者たちが刑務作業により懲罰を執行された者たちだ。
つまり君らの働きの『成果』だ。

いやはや、実に順調だ。
獣としての衝動に正直なことはある意味で誠実とも言える。
今後もぜひ、己が本懐を存分に披露してくれたまえ。
それが君たちの贖罪になりうる。今後も励んでくれたまえ。

続いて、禁止エリアの指定を行う。

A-4
B-6
C-1
D-8
E-2
F-7
G-3
H-5

以上のエリアは、今後立入禁止とする。
実施まで30分の猶予を設けるので、該当エリアにいる者は即刻退去するように。

もちろん無闇な好奇心で近づく者には、応分の代償が伴うことをお忘れなく。
首輪は公平で優秀だ。命令を忠実に実行する点において、君たちより遥かに信頼できる。

指定された禁止エリアはデジタルウォッチの地図にも自動反映されている。
記憶力に不安のある者も、どうぞ安心してくれたまえ。

君らに伝えるべき報告は以上だ。
引き続き、刑務作業に励みたまえ。
どうか、己が罪と向き合う有意義な時間を。



218第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:01:47 ID:J152ZY1w0
ピッ。という短く乾いた電子音が、静寂な執務室にこだましたのを最後に、定時放送は静かに幕を下ろした。

鋼鉄と囲まれたその空間は、アビスの中央管理棟に位置する看守長執務室である。
硬質な照明が冷たく照らす中、一人の男――オリガ・ヴァイスマンが、ゆるやかに椅子の背にもたれかかる。

一仕事を終えたヴァイスマンは足を組み直し、ややあって顔を上げた。
その視線の先には、既に一人の若き看守官が立っていた。

「お待たせしたね。それで? 何のご用件かな――――天野看守官」

皮肉をたっぷり含んだ声音で言葉を投げる。
その視線は、机の前で背筋を真っ直ぐに伸ばし、律儀に立ち尽くす若者――天野 秤へと注がれていた。
天野は背筋を正し、敬礼もそこそこに言葉を紡ぐ。

「看守長……無礼を承知で申し上げます」

若く張りのある声が静かな空間を貫く。
その声には、まっすぐな誠実さと、消せぬ動揺が混じっていた。

「今回の刑務作業……本当に、これで良かったんでしょうか?」

努めて冷静さを保とうという口調だったが、その言葉の端々には疑念と葛藤、そして強い正義感が滲んでいた。
その色の違う双眸はサングラスの奥に隠れているが、真摯な思いはその声に宿っていた。
だが、その正義はこのアビスという常識の通じない場所では、時として異端となる。

「……良かった、とは? どういう意味かな? 意図は明示したはずだが」

ヴァイスマンは背もたれに深く体重を預け、退屈な演目でも観ているかのような目を向ける。
その表情に宿る色は、青臭さを鼻で笑う支配者のそれだった。

「単独戦、集団戦、肉弾戦、超力戦、電撃戦、撤退戦、包囲戦、決死戦、継耗戦、籠城戦、殲滅戦、奪取戦、心理戦――。
 現代におけるあらゆる状況下での戦闘データの取得。それが『今回の刑務作業』の主目的だ。
 そしてその通りに推移している。ならば良好と結論づけるのが妥当ではないかね?」

当然のことのように言葉を並べ立てる。
その口調に葛藤や感情は何一つ存在していなかった。

「……本気で、あれを『刑務作業』と呼ぶつもりですか? 殺し合いをさせるなんて……それが我々のすべき更生支援なんですか?」
「ふむ、なるほど。刑務作業の内容に対する話だったのか」

ヴァイスマンはとぼけた様に小さく笑い、椅子から背を離すことなく冷めた調子で淡々と続けた。

「もっとも、抗議というものは通常、始まる前に行うものだ。
 こうして既に歯車が回り始めてから憤るのは、どうにも……非効率という他ないね」

殺し合いは既に始まり、多くの死者は出た、時計の針は戻らない。
今さら正義を振りかざされても、遅きに過ぎる。
そんなものは偽善にもならない。

「非効率で済まされる問題じゃありません!!」

天野の大きな声が発せられ、拳がわずかに震える。
だがヴァイスマンは、耳を劈く声をうるさがるように表情をゆがめ、まるで子供の戯言を聞くかのような目で見下ろしていた。

「こんな方法で受刑者を処理するなんて、許されるはずがない!」

天野が続ける。
その言葉に、ヴァイスマンの唇がゆっくりと歪む。
まるで滑稽な冗談でも聞いたかのような、酷く陰湿な笑みだった。

219第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:02:19 ID:J152ZY1w0
「この刑務作業の目的は受刑者の処理ではない。そこをはき違えてはならない。
 これは―――恩赦であり、慈悲であり、救済なのだよ。だいたい殺すだけなら、首輪をつけた時点で一斉爆破すれば済む話だろう?」

そもそもが刑務官と受刑者という絶対的な立場の違いがあるのだ。
ただ処分したいのであればここまで手間をかける必要などない。

「ですが、彼らの命を……利用している」
「確かに、命を賭けた内容ではある。それを利用と呼ぶなら、私は否定しない。
 だが、それがどうしたというのかね?」

一歩も引かず、涼しげに即答する声に一切の躊躇はなかった。
彼にとって、それは取るに足らない意見だった。

「命を担保とした仕事など世の中にいくらでもある。
 戦地、炭鉱、火災現場。刑務官である我々とて、命を賭けて任務に臨む時がある。
 過酷な刑務作業に見合う報酬を提示しているつもりだ」

その報酬こそが恩赦ポイントだ。
外の世界への帰還という名の希望。
誰よりも自由に飢えている者たちにとっては十分すぎる飴だ。

「それとも、受刑者にはせめてスコップでも持たせて鉱山を掘らせるべきだったかね? それだって命の保証はない。
 別に全員死ぬまでやり合えと言っている訳ではないんだ、結局どんな形であれ、労役に命の危険は付き物なのだよ。
 確かに職業選択の自由こそ奪われているが、罪を犯してここに来た時点で、選択肢を狭めたのは彼ら自身だろう?」

どのような仕事でも死者が出る事はある。
この刑務作業中の死者もそれと同じだ。
表向きには刑務作業中の事故死として処理されるのだろう。

天野の手が拳を握りしめた。
なんとか自信を落ち着けようと一呼吸おいて、天野が強く言葉を重ねる。

「中には冤罪の可能性がある受刑者だっているはずです。調査もままならず、このような仕打ちは……『正義』じゃない」

その言葉に、ヴァイスマンの眉が僅かに動いた。

「やれやれ……これは本格的に、基礎教育からやり直してもらわないといけないかな」

まったく新人教育はどうなっているのかと、呆れたように小さく首を振った。

「天野看守官。ここは個々の善性や事の真偽を計る裁判所ではない。
 アビスに収監される者は社会全体にとってのリスク因子となる『社会悪』なのだ。
 それらを閉じ込め管理する事こそが我々の役目だ」

そして、彼は語り出す。
冷酷なアビスの論理を。

「例えばジャンヌ・ストラスブール。
 彼女の人間性は間違いなく善性であると言えるだろう。GPAだって彼女が冤罪を押し付けられただけなどという事は分かっている。
 だが、彼女が存在することで世界にどのような影響が生まれた? 彼女を担ぎ上げた連中の手によってどれだけの血が流れた?
 彼女の存在が多くの死者を生み、フレゼア・フランベルジェやジルドレイ・モントランシーのような多くの”模倣犯”を生んだ。
 その影響力は存在するだけで社会に混乱をもたらす社会悪だ」

「例えばメアリー・エバンス。
 今回の刑務作業でも確認されたはずだ、彼女はそこに居るだけで人に害をなす。
 彼女には悪意がない。常識も倫理観も未発達。善悪の判断を下す以前の存在だ。
 本来、幼い子供は保護されるべき存在だろう。だが、彼女に限って言えば、それを許せば世界が壊れる。
 彼女に悪意はない。だが、悪意の有無と危険性は別だ。世界を破滅させる無垢を閉じ込めるのがこのアビスだ」

「例えばエネリット・サンス・ハルトナ。
 かつてハルトナ王国に起きた革命により、彼は王制そのものの象徴として幼児時分でありながら投獄された。
 もし彼が外に出て祖国に戻ればどうなる? 支持者は当然現れる。民衆の一部は悲劇の王子に心を寄せ、内戦の火種となる。
 逆に、彼の復帰を恐れる現政権や国外勢力は、先手を打って謀殺するか、再び弾圧に走るだろう。
 彼が何を望もうと、存在するだけで争いの理由になってしまう。
 つまり、彼個人の罪ではなく、彼の存在が社会を不安定にする罪なのだよ」

上げられたこれらは一例でしかない。
もちろん直接的な社会不安を生む凶悪犯もアビスには多く収監されている。
名を挙げながら、ヴァイスマンは天野に視線を向ける。

220第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:02:51 ID:J152ZY1w0
「冤罪であろうと、世間に『悪影響』を与えてしまった時点で、もはやその存在は社会にとっての悪だ。
 それでも守るべき『法』や『規律』もあろう。だが開闢以降の混乱した世界を抑えるにはその枠組みが邪魔になる事もある。
 その枠を超えて、その毒を封じる毒壺が必要となるのだよ。このアビスはそのためにある」

それぞれの『罪』は、彼ら自身の内にあるものではない。
その存在そのものが社会秩序を乱す毒となる。

「故に、我々に求められるのも『正義』などではない、『必要悪』なのだよ。
 冤罪か否かなど、この施設においては些末な問題だよ。
 アビスの職員たるものがこの前提を理解せず正義などと言うお題目を掲げるとはいやはや困ったものだ」

呆れたようにこれ見よがしに肩を竦めて首を振る。
『社会悪』を管理する『必要悪』。
これこそがアビスの存在意義だ。

「…………詭弁です」
「その詭弁が理解できたのなら、持ち場に戻りたまえ。
 同僚が懸命に働いてる横で、何時までもこうして駄弁ってるわけにもいかないだろう?」

ヴァイスマンは会話を幕引くように手で軽く追い払うように言った。
天野からすれば処分覚悟の進言のつもりだったが、ただの雑談だと流された。
まともに取り合うつもりがない事を理解して天野は悔しげに歯を噛みしめる。

「……失礼します」

それでも彼は規律を忘れず、背を向け、静かに執務室を後にした。
重く閉まる扉の音が空気を震わせる中、ヴァイスマンはやれやれといった風に小さく息をつく。

「まったく……職員の質が低下しているな。正義などと、嘆かわしいことだ」

吐き捨てるような溜息と共に、再び背もたれに深く体を預ける。
そして青みがかった瞳を閉じると、己が超力『支配願望』を起動した。
するとヴァイスマンの意識にアビスに在籍する全ての看守官たちの状態表が浮かび上がる。

「ふむ……ステイン主任看守とライラプス特任看守官には心労が見えるな。
 ステイン主任看守は表面上は見事に取り繕っているが、ライラプス特任看守官の方は正直だな、作業効率が落ちている。困ったものだ」

職員の状態を確認しながら、独り言のように呟く。
一つの状態表を確認した所で僅かに、眉をひそめた。

「こちらもサボりか。まったく……」

目を開いたヴァイスマンは右手のデジタルウォッチを見つめた。

「そろそろ、ご到着の時間か」

ヴァイスマンは椅子を離れ、黒衣の裾を整えて立ち上がる。
静かにドアに手を掛けながら、唇にわずかに笑みを浮かべた。

「ちょうどいい機会だ、優秀な部下をご紹介しておこうか」



221第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:03:14 ID:J152ZY1w0
静まり返った廊下に、わずかな生活音が反響する。
その一角にある職員用の休憩スペース。簡素なベンチと簡易的な給水機だけが並んだ、無機質な空間。
そこに、だらしなく腰を下ろす一人の男の姿があった。

このアビスにおいて第一班の主任看守の立場を預かる男、クロノ・ハイウェイ。
手元のタブレットに片手で触れながら、もう片方の手でスナック菓子の袋をいじっている。
眠気と倦怠にまみれたその姿は、とても勤務中の看守には見えなかった。

「またサボりかね。ハイウェイ主任看守」

不意にかけられた声に、クロノの体がビクリと跳ねる。
タブレットが膝から滑り落ちそうになったのを、慌てて片手で支えた。

「げっ……看守長……」

顔を上げたクロノの目に映ったのは、例のごとく完璧に着こなされた漆黒の制服――看守長オリガ・ヴァイスマン。
その眉間には、軽く呆れたような皺が寄っていた。

「いやぁ……その。24時間体制の超重労働っすよ? こうして合間に休んどかないと持ちませんって」

ヘラリと笑いながら言い訳するが、どこか視線が泳いでいる。

「君らの身体的・精神的状態は、常時こちらで把握している。
 休息が必要なら、高原サポート員に正式申請すればいいだけの話だ」
「あー……っすよねぇ……」

反論しようとして、やめる。
『支配願望』による監視網の前では、どんな嘘も誤魔化しも意味を成さない。
クロノもそのことは嫌というほど分かっている。

「まったく……少しはケンザキ刑務官を見習いたまえ」
「いやー……あれはあれで特殊技能っすよ。ていうか、なんか別のジャンルっす」

かつてネット配信者だった経歴を持つ彼女は、アビスにおける物資管理と転送を一手に担っている。
24時間、倉庫の映像が投影されるモニターの前に貼り付き、支援要請が来るたびに即応。
しかも彼女にとってそれは苦でもなんでもないのだろう。

「彼女の支援は、君の仕事にも関わっているはずだが?」

クロノの『時短主義』は、周囲の時間を圧縮する。
倉庫からの搬送にかかる時間を丸ごと圧縮し、現地に即時配送を可能にしていた。

「まあ……そっすね。放送直後で現場もバタついてるだろうし……ちょっとくらい、大丈夫っすよ」

ヴァイスマンのため息が一つ、重たく落ちる。
この男は、適当にサボっているのではない。
しっかりと手の抜きどころを見越しているから性質が悪い。

「……まあ、よかろう。手が空いているのなら、付き合いたまえ」
「へ? どちらまで?」

気怠げに尋ねるクロノに、ヴァイスマンは背を向け、歩き出したまま答えた。

「お出迎えだよ。所長が久しぶりにご帰還なされるのでね」



222第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:04:30 ID:J152ZY1w0
廊下を並んで歩きながら、クロノ・ハイウェイはため息混じりに口を開いた。

「俺、所長と直接話すの何気に初めてなんすけど……どういう方なんすか?」

クロノは気だるげに首を傾げる。
正直、余計な上司が増えることに気乗りはしていなかった。

「まぁ、お忙しい方だからね。一言で言うなら――――」

ヴァイスマンは不意に言葉を切り、珍しく芝居がかった口調で告げる。

「――――――『英雄』だよ」

予想外の単語に、クロノは訝しげに眉をひそめる。
地獄の看守長らしからぬセリフだ。

「……英雄、っすか?」
「世界を救った英雄だ。かっこいいだろう?」

ヴァイスマンの口元に笑みが浮かんでいる。
それが本気か冗談か、クロノにはいまいち判断がつかなかった。

「元は軍人でね。現役時代には多くの功績を上げられた方だ。
 『開闢の日』の発生にも関与されていたと伺っている。
 軍の退役後、このアビスの所長に就任された」
「つまり……天下りっすか?」
「天下りというより、地獄送りと呼ぶ方が適切だろうねぇ」

ヴァイスマンはクツクツと喉の奥で笑う。
その笑みはどういう意味が含まれたものなのか、やはりクロノには分からなかった。

「なんか……聞けば聞くほど、怖い人っぽく聞こえるんすけど……」
「安心したまえ。極めて理性的で、穏やかな人格者だよ。私と違ってね」

ヴァイスマンが言い終わる頃、二人は廊下の最奥、地の底と地上を繋ぐ唯一の出入り口へ辿り着いていた。
鋼鉄製の扉の前で2人は待機していると、ややあって地上から降りてきたエレベーターの扉が重々しい音を立てて開いた。

中から現れたのは、背筋を真っ直ぐに伸ばした一人の壮年の男。
規律正しく切り揃えられた髪、端正だがどこか威圧感を伴う顔立ち。
そして、その眼差しは左右の瞳の色が異なるオッドアイだった。

「ご苦労様です、看守長」

軽い挨拶と共に現れた男にヴァイスマンが恭しく頭を下げる。
その姿には、普段の皮肉や揶揄の影はなかった。

「おかえりなさいませ――――――――ノギヒラ所長」

その男の名はさすがにクロノも知っている。
ヤマオリ記念特別国際刑務所 所長、乃木平天。
彼は穏やかに笑みを浮かべ、静かに看守長の礼に応じながら、視線を横に控えていたクロノへ向ける。

「顔を合わせるのは、君が主任に昇格して以来になりますか。
 こうして落ち着いてお話しするのは初めてになりますね、クロノくん」
「っす。どーも……よろしくお願いします、所長」

緊張したような、しないような微妙な空気の中、クロノが気怠げに頭を下げる。
その態度に、ヴァイスマンの眉がぴくりと動く。

「ハイウェイ主任看守。態度と言葉遣いには気をつけたまえ」
「まあまあ、構いませんよ。楽な言葉遣いで結構です。気軽に接してくれる方が私にとってもありがたい」

所長は気さくにそう言うが、ヴァイスマンの視線が鋭くクロノを射抜いている。
その狭間で、クロノは視線を逸らしながら苦笑いを浮かべるしかなかった。

「では、私のほうが偉いので、私の指示に従ってもらいましょうか」

乃木平が冗談めかして言うと、ヴァイスマンはさらに苦々しい表情を浮かべる。
二人の上司に挟まれ、クロノの居心地の悪さは頂点に達していた。
これが、サボりへの釘刺しのつもりなら、相当に性格が悪い。

「……あー、それじゃあ所長室までお連れします。どうぞ、こちらっす」

別にご案内もないだろうが、居心地の悪い空気を変えようとそう促して、クロノは前を歩き始める。
その背後から、二人の上司が静かに付いてくる気配を感じる。

ヴァイスマンの刺すような視線と、乃木平の穏やかな気配。
この両極端な空気に挟まれ、クロノの歩く廊下はまるで針の筵のようだった。

(こんなことになるなら、真面目に働いてりゃよかったなぁ……)

そんな後悔を胸に抱えながら、彼は所長室への道を辿る。
その足取りは、地の底よりも重かった。



223第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:05:00 ID:J152ZY1w0
所長室。
アビスの施設内とは思えないほど整然として清潔な空間で、三人の男が静かに対面していた。

机を挟んで座るのは、所長の乃木平と看守長であるヴァイスマンだ。
最も立場が下であるクロノ・ハイウェイだけは、落ち着かない様子でヴァイスマンの座るソファーの裏に立ち尽くしていた。

「私が立案したにも拘らず、準備から運営に至るまで任せきりで申し訳ありません」
「いえ、所長のご多忙は重々承知しております。実務は我々現場の者が担うべき仕事ですから」

穏やかに切り出す乃木平に、ヴァイスマンは慇懃に応じる。

「え、今回の刑務作業を考えたのって、所長だったんっすか? てっきり看守長が考えたんだと」

後ろで話を聞いていたクロノが思わず驚きの声を上げた。

「上(GPA)からの要望を受けた形ではあるが、企画の立案は所長だよ。まあ、ルールや内容の詳細を詰めたのは私だがね」
「あぁ、どうりで……」

性格の悪い仕掛けが多かったという言葉は、さすがに飲み込んだ。
数々の陰湿で性格の悪い仕掛けが散りばめられていることも納得だった。

「けど、やっぱ意外っすね。所長がこの『刑務作業』を提案したなんて」
「『殺し合い』など提案するようには見えない。そう思いますか?」

乃木平は声を荒げるでもなく微笑を浮かべている。
たが、クロノはうっすらと背筋に寒いもの感じた。

「…………ええ。まぁ。そうっすね」

悪寒を感じながらもクロノは返事を返す。

「ふふ。誉め言葉として受け取っておきましょう。
 ですが、このやり方には少し覚えがありましたので」

さらりと告げる。
まるで本当に『人類の発展のために行われる閉鎖環境での殺し合い』なんてモノに覚えでもあるかのようだ。

「それで、職員たちの反応はいかがです?」

乃木平の問いに、ヴァイスマンは少し顎を引いて答える。

「正直なところ、芳しいとは言えませんね。
 明確に否定的な態度を取っているのが一割、内心に疑念を抱えつつも職務を全うしている者が二割、といったところでしょうか」

ヴァイスマンは職員の内心を見透かし答える。
乃木平はふむと何でもない様子でうなずいた。

「まあ仕方がないでしょう。汚れ役を担うには、それ相応の覚悟が必要ですからね。私も若いころは何度も経験しました」

その口調は柔らかだったが、その内にはどこか異様な威圧感がある。
この男の積み重ねてきた経験の厚みがそうさせるのだろう。

224第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:05:22 ID:J152ZY1w0
「手を汚すことは罪ではない。罪あるとするならばそれは己が何を踏みにじっているのか無自覚であることだと私は考えています」

英雄と呼ばれるまでに幾度となく国家の崩壊の危機を防いできた男。
人知れず、何度命の選別を冷徹に下してきたのか。

「忘れぬことです。自分が何を踏みにじってきたのか。それこそが己を支える礎となるのだから」

クロノは思わず背筋を正す。
この所長、表向きには穏やかでも、その内側には途方もない業が眠っている。
その気配が、肌の奥で静かに刺さった。

「とはいえ、経験というのは何よりの教師です。
 一度大きな壁を越えれば、職員たちは確実に成長する。
 今回の作業は、彼らにとっても良い経験となるでしょう」

さらっとにこやかに、とんでもないことを言う。
やっぱりこの人、本質的に怖い人なのでは?
クロノはそんな疑念を抱きながら、話題が逸れることを願い視線を逸らした。

「ちなみにクロノ君。君自身は、今回の刑務作業をどう受け止めているかな?」

だが、その希望は裏切られ、次に投げられた問いは彼に向けられたものだった。
二人の上司の視線が、一斉に彼に注がれる。

「……はぁ」

その問いかけに、気の抜けた返事しか出なかった。
逃げ場のない空気の中、クロノは肩を竦め、苦笑気味に答えた。

「ま……アレっすね。
 最終的に外が少しでもマシになるんなら、それでいいんじゃないっすか?
 そもそもアビスって、そういう場所でしょ」

いつも通りの飄々とした口ぶりではあったが、本音を含んだ発言だった。
そんなクロノの言葉に、乃木平が薄く笑い、ヴァイスマンは楽し気に口元を歪める。

「――やはり、君は理想的なアビス職員だよ、ハイウェイ主任看守」

ヴァイスマンが愉悦を滲ませた声で言う。
褒め言葉として受け取っていいのか微妙な言葉であるが。
それ以上にこの看守長に素直に褒められた気味の悪さが先に立ち、クロノは苦笑を浮かべる。

225第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:05:55 ID:J152ZY1w0
「それでは、そろそろ本題に入りましょうか。刑務作業の経過報告をお願いします」

所長が柔らかな声で雑談に区切りをつけ、業務の本題に入る。
看守長は淡々とした口調で答え始めた。

「エンダ・Y・カクレヤマの死亡と復活と、それに伴うドン・エルグランドの死亡と言った多少の想定外はありましたが、大方は当初の想定範囲内で推移しています。
 バルタザール・デリージュの超力暴走とフレゼア・フランベルジェ、ジルドレイ・モントランシー中心に勃発した大規模戦闘に関しては別途レポートにまとめていますのでご確認いただければと」
「了解しました。事前想定と大きく乖離しないなら、問題はないでしょう」

事前の想定とやらは頭に入っているのだろう。
乃木平は静かに頷くだけで、内容に対する追及は見せなかった。

「次のフェイズでは刑務作業者の半数近くがブラックペンタゴンに集結する予定です。大規模な室内戦のデータが収集できると思われます」
「ふふっ。ブラックペンタゴンですか。面白い施設ですね」
「いや、我がことながらお恥ずかしい」
「?」

上役二人は冗談でも言うように笑いあうが、何がおかしいのかクロノにはわからなかった。

「作業者たちの超力の状態はいかがでしょうか?」
「他者の超力の干渉ありきではあるものの、いくらか変質の傾向がみられました。やはり極限状況では超力の変質は発生しやすいようですね」

ヴァイスマンの報告に、乃木平はふむと小さく頷く。

「結局のところ、超力とは人間の脳から出力される力です。そのため脳の構造が変化すれば、それに伴って超力の出力も変化するのではないかという考えは昔から根強くあります。
 そのため、『裏』の方では超力の進化を促すために人為的に過度なストレスを与え脳委縮を引き起こさせたり、物理的に脳の一部を切除する、などという実験が行われていた。
 もっとも、このやり方の成果は余り芳しくはなかったようで、シエンシアの件もあってか、最近は『新規』に作る方にトレンドがシフトしているようですが」

ただ削るだけでは劣化にしかならない。
皮肉にも裏社会で行われている非人道的な実験によってそれは証明されている。
進化を促すのであれば、それを促す条件を洗い出す必要がある。

「単純なストレスだけではない。別の条件があるということですね」
「ええ。その条件の洗い出しは必要ですね。長期化する戦場を想定するのであれば、それを考慮に入れることになるでしょうから」

大規模な戦争を想定した戦闘実験。
そのための懸念点を洗い出すのがこの刑務作業である。
今後の戦争で超力の進化を考慮する必要があるのなら、その条件を洗いだねばならない。

「被験体Oの調子はどうでしょうか?」
「GPAからの報告によれば経過に問題はないかと。午後にはGPAからの使者としてアマハラという職員が来所する予定ですので、そのタイミングで投入可能かと」
「なるほど、天原くんですか。でしたら私が対応しましょう。ちょっとした顔見知りですので」

乃木平とヴァイスマンは事務的な確認作業を行っていく。
話は進み、自身の知らない領域にまで踏み込まれてゆくその様子をクロノは無言で見つめていた。

「では――『システムB』の調子は如何ですか?」

乃木平の声は静かだったが、一番の本題を切り出すような問いかけに空気がわずかに張り詰める。
その問いに、ヴァイスマンは一切の間を置かずに答えた。

「並木旅人の干渉を受けたメアリー・エバンスの超力拡大によって何らかの影響が懸念されましたが、現在のところ大きな問題は確認されておりません。
 綻びの確認のためテスト要因として選出したトビ・トンプソンは、現在のところは何も糸口を掴めておらず、依然として通常の範疇。
 また、イグナシオ・“デザーストレ”・フレスノも超力による微細な違和感を感知しているようですが、今のところ確信に至るほどではありません」

まるで観察動物の挙動を語るかのように、淡々と述べるヴァイスマン。
だが、そこに含まれるのはまるで陰謀でも企むような危険な香りだった。
『システムB』に関する報告を締めるように、ヴァイスマンは小さく息を吐いた。

226第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:08:08 ID:J152ZY1w0
「今の所テストとしては及第点でしょうが……正直、そもそもアレ自体が必要なのか、私は些か疑問ですねぇ」

規律に厳しい男にしては珍しく、所長に対する語尾に皮肉めいた含みがにじむ。
その言葉に、乃木平は目を細めて返す。

「お偉方は必要だと考えているのでしょう。我々が疑問を挟むところではないですね」
「おっと。それは失礼を」

軍人上がりらしい、忠実かつ端的な答えだった。
ヴァイスマンが肩をすくめた時、傍らで黙って聞いていたクロノが、唐突に口を挟んだ。

「そもそも、どういう物なんっすか? あの『システムB』って」

軽口を開いたようでいて、実は鋭い急所を突くその質問。
要点を抑えるべく意図的に空気を読まない。
その抜け目のない在り方こそ、クロノ・ハイウェイという男が今の立場にある理由だった。

その質問にヴァイスマンが一度、所長へと視線を向ける。
乃木平は、僅かに頷き肯定を示す。

「構いませんよ」

上司からの発言許可を得たヴァイスマンは頷きを返し、言葉を選ぶように語り始めた。

「ハイウェイ主任看守。昨今、GPAのお偉方が何にご執心は知っているかね?」
「……はぁ、まぁ一応は」
「答えてみたまえ」

答えを教えるのではなく、わざわざ回答させあたり性格の悪さが滲んでいる。

「『システムA』っすよね」
「そうだね。まあハズレではない」

皮肉を含ませつつ、ヴァイスマンが及第点を与えるように頷いた。

「つまりは、超力のシステム化だ。『システムA』はその試験作という訳だよ」

超力のシステム化。
個人に依存した力は管理もしづらく、何より脳を出力元とする超力では出力に限界がある。
これをシステム化することで能力の方向性を調整したうえで、個人を超えた大規模な運用が可能となる。
そして、誰でも使える形に落とし込むことができる。

「旧世紀の重火器や核兵器と同じく、均質化された力。
 お偉方は、管理可能な『暴力』を求めている。個人の才覚が支配するこの時代を、彼らは嫌っているのさ」

老人共が望むのは、個人が力を持ちすぎる現代より、重火器や核兵器といった誰もが力を持つ旧世界の回帰である。
その試験作こそが『システムA』である。
つまり、超力の無効化という効力よりも、システム化された超力であるという意味合いの方が重要なのだ。

「『システムA』の大元は20年以上前から研究されているが、秘匿受刑者の超力を解析することにより、大きく発展した」
「20年、以上…………?」

20年と言えば開闢以前の話である。
ジェイ・ハリックの様な天然の能力者でもいたというのだろうか。

227第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:08:57 ID:J152ZY1w0
「なら、『システムB』も秘匿の誰かの超力から生まれたものってことっすか?」

返るのは無言。
ヴァイスマンが静かに首を振る。

「いいや、アレは別口だよ」
「別口?」

その口調に容易に口にできない重々しさが含まれていた。
口の重くなったヴァイスマンの代わりとばかりに、乃木平が静かに語りを継いだ。

「クロノくん。君はヤマオリについてどれだけ知っていますか?」

話題の急な方向転換である。
クロノは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに気を取り直して答えた。

「まあ、教科書で習った程度には」

ヤマオリ。
それは今や存在しない村の名である。

正式には山折村。
日本にかつて実在し、Z計画と呼ばれる極秘研究が行われていたとされる閉鎖集落だ。

震を契機に生物災害が発生し、村内に未知のウイルスが蔓延。
全住民が死亡するという、歴史的にも類を見ない悲劇的な結末となったバイオハザード事件である。

しかし同時に、この事件をきっかけにウイルス研究は飛躍的な進展を遂げ、
その技術は後に超力社会の切っ掛けとなる基盤技術【HEUウイルス】系列として昇華される。
これらの事件は未名崎錬博士の告発により事実が表面化し、世界的な動揺と混乱の末、GPAが設立される運びとなった。

現在、山折村跡地は国際立入禁止区域に指定されており、
『超力社会の原点』として教科書でも扱われる、半ば伝説化した土地である。

その性質から、尾ひれの付いたうわさ話や都市伝説は山のようにあるが、一般常識としてこんなところだろう。
ここまでは義務教育を受けた者なら誰でも知っている、ごく基本的な知識だ。

「では、『探索隊』の存在については?」
「確か、立ち入り禁止区域であるヤマオリの地に侵入しようって連中のことっすよね?」

新世界始まりの地。
その場所を宗教的な聖地として、あるいは学術的な研究を目的として、様々な目的を持って訪れる者は後を絶たなかった。
その中でも探索隊と呼ばれる、一攫千金を狙いヤマオリに残された遺物を狙う集団が存在する。

「けど、大抵が行方不明になってるって噂っすよね」
「そうですね。大方はそうなっています」

あの村に敷かれた立ち入り禁止はお飾りではない。
侵入したが最後、もはや戻ってこれない魔境である。

「大方ってことは、帰還した探索体も存在する、って事っすか?」
「さすがに目ざといなハイウェイ主任看守」

満足げに笑みを浮かべながら、ヴァイスマンが頷く。

「その辺の野良とは違う、ヤマオリの地を調査すべくGPAが『非公式』に立ち上げた探索部隊が存在したのさ」

GPAの探索部隊であるにもかかわらず非公式。
それはつまり、このアビスと同じく秘匿された存在であると言う事だ。

「その初代探索隊を率いられたのが、こちらのノギヒラ所長だ」
「あまり持ち上げないでください。私が選ばれたのもヤマオリの経験者であったからという一点でしょうし、もう10年以上前の話ですから」

素人の寄せ集めでしかないトレジャーハンター連中とは違う。
乃木平の率いる精鋭部隊『ヤマオリ探索隊』がGPAにより秘密裏に結成された。

「それで、その所長さんが率いた探索隊が、この話とどう関係するんっすか?」

かなり話が逸れたようだが、元は『システムB』の話だったはずである。
所長の武勇伝を聞きたいわけではない。
だが、その実、話は逸れていなかった。

「ノギヒラ所長の率いられた『ヤマオリ探索隊』は、ヤマオリの地で2つの遺物を発掘した」

話が核心に迫りヴァイスマンの声が、わずかに沈む。

「そのうちの一つが『システムB』の鋳型となったとある『異能』だ」



「『異世界構築機構(システムB)』。異世界を創ると言う、超力よりも限りなく魔法(げんしょ)に近い異能だよ」

228第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:09:53 ID:J152ZY1w0
以上で第一放送は終了となります。

放送以降の予約は

5/5(月) 01:00:00

からとなります。

また第一放送に到達しましたので、基本予約期間を5日に延長いたします。

それでは今後もオリロワAをよろしくお願いします。

229第一回定時放送 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:10:31 ID:J152ZY1w0
あと所長のキャラシです

【名前】乃木平 天(のぎひら そら)
【性別】男
【年齢】54
【役職】所長
【外見】右目が灰で左目が黒のオッドアイ。渋みを増しているが女性受けのいい端正な顔。
【性格】空気を読むことに長けて穏やかな人物。奥底にどこか凄みを感じさせる。
【超力】
『不明』
現時点で乃木平が超力を使用したという記録は見つけられない。
【詳細】
ヤマオリ記念特別国際刑務所の現所長。
元日本の秘密特殊部隊の隊長を務めていたが、退役後にGPAからの要請を受けアビスの所長に就任した。
27年前のヤマオリでの作戦行動に参加しており、『開闢の日』の発生にも関与している。
昔は甘さの残る青年だったが、数々の修羅場を乗り越え、多くの非情な決断を下してきた経験を重ね指揮官としての冷徹さを身に着けた。

230 ◆H3bky6/SCY:2025/05/05(月) 00:39:01 ID:J152ZY1w0
予約再開の直前になりますが
放送を超えて区間が変わったので、再予約禁止期間をいったんリセットします
よろしくおねがいします

231 ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:12:26 ID:3nbibEg.0
投下します。

232神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:14:00 ID:3nbibEg.0



 15歳の時。
 たった一日だけ。
 ある旅人と親しくなった。

 アメリカの片田舎に過ぎない町。
 私が幼き頃より生まれ育ち、祈りに身を捧げる日々を送ってきた町。
 そこで彼は、ごく普通の若者のように行き倒れていた。
 少なくとも彼は、この町の住民ではなかった。
 日課である慈善活動の帰り道に、私は彼を助けることになった。

 あの、大丈夫ですか――私はそんな風に声を掛けた。
 大丈夫です、と彼は手をふらふらと振って答えてくれた。
 勿論、行き倒れて横たわったままに。

 どう見ても大丈夫そうには見えなかった。
 力のない所作で、明らかに無理をしているようだった。
 ぐう、と間の抜けた音を鳴らしていた。
 ぐったりと疲れ果てて、お腹も空かせている様子だった。
 長旅の疲労が祟っていたのかもしれない。

 彼が行き倒れていたのは、修道院の近くだった。
 厳格なる生活を送る信仰の場へと、不用意に他者を運び込む。
 それは本来避けるべきことなのだが、かといって行き場のない人間を見過ごす訳にはいかない。
 他者への慈悲を忘れず、隣人を愛する。それこそが神の教えなのだから。

 そうして私は、彼を来客用の待合室まで連れていくことにした。
 修道院長には半ば強引に事情を話すことになったが、何とか納得させることが出来た。
 私の暮らす小さな世界に、あの旅人を招き入れた。

 まるで何かに引き込まれるかのようだった。
 それこそ運命か、宿命か――そういった不確かなものに。
 私はあのとき、無意識に導かれていたような気がする。

 彼を運ばねばならない、彼を連れて行かねばならない。
 そんな風に、私は誘われていたように思えた。
 何かに駆り立てられるように、私は旅人を助けていた。

 背徳感や、罪悪感のような。
 引け目にも似た感情が、心の奥底で顔を出した。
 けれど私は、それをすぐさま振り払った。

 食事でもてなしながら、私は旅人から事情を聞いた。
 彼は、ひどく“普通の雰囲気”をした青年だった。

 歳も自分とさほど変わらない。
 中肉中背。黒くて短い髪に、碧色の瞳。
 ありふれた外見をした、アジア系の少年。
 有り体に言うなれば、何処までも『普通』だった。

 彼は、世界中を旅していると語っていた。
 今は北米を渡り歩いており、いずれは中南米へと向かう予定だと。
 その途中で旅の駄賃が尽きて路頭に迷っていた、と。
 青年は恥じらいや申し訳なさを滲ませながら言っていた。

 私は彼の言葉を、静かに聞き届けていた。
 彼の事情を汲み、慈悲の心を以て接していた。
 彼が語る言葉に、穏やかな態度で耳を傾けていた。

 会話を重ねていくうちに。
 彼はぽつぽつと、自分の事情を話してくれた。
 来客用の座席で、私と彼はテーブル越しに向き合っていた。

 物心がついた時に、両親を亡くしていること。
 超力の暴発という、ありふれた事故によって引き起こされたこと。
 幼い頃から、様々な施設や里親の元を転々としていたこと。
 超力に関わる苦悩をきっかけに、若くして旅に出る道を選んだこと。
 自分の生き方を探すべく、世界中を見て回っていること。

 彼は、広い世界を識ることを望んでいた。
 旅を通じて、自分の得るべき答えを求めていた。
 自分の人生。自分の生きる道。自分の生きる意味。
 その旅人の青年は、葛藤という茨の中を歩んでいた。

 そんな彼に対して、私は不思議と親近感を抱いていた。
 超力にまつわる苦悩。不幸を招く異能に対する煩悶。
 それは私にとっても、覚えのあるものだった。

 自分が生まれ持った超力の意味。
 自分が真に歩むべき道筋。
 神に仕える身である私にも、拭えぬ疑念だった。

 だからこそ、だったのだろう。
 彼が語った身の上に共鳴するように。
 私もまた、自分の思いを静かに語り出していた。

 彼の名前を最後まで聞くことはなかった。
 “名乗るほどの者じゃない”と、彼は何度も言っていた。




233神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:14:38 ID:3nbibEg.0




 ――――“君は、思い悩んでいるんだね”。

 



234神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:15:04 ID:3nbibEg.0



 一体、何故なのだろう。
 私が、彼の話を聞いていたはずなのに。
 気が付けば、私が胸の内を打ち明けていた。
 まるで神父に懺悔を述べるかのように。
 私は知り合ったばかりの旅人に、自らの苦悩を告白していた。

 次々に、言葉を並び立てていた。
 私は救いを求めるように、想いを吐露していた。

 自分でも分からない内に、流れが変わっていた。
 抱え込んでいた葛藤を、私は必死に吐き出していた。
 神に救いを求めるかのように、私は無我夢中に語り続けていた。

 旅人は、私の告白を淡々と聞き届けていた。
 まるで超然とした教祖のように、私の言葉を受け止めていた。
 口元に微かな微笑みを浮かべ、瞳には微かな哀しみを湛えて。
 彼はただ、私の苦悩をありのままに受け止めてくれた。

 幾ら教養を称賛されようと。
 幾ら慈善を賛辞されようと。
 幾ら信仰を褒誉されようと。
 結局、自分の力は破壊にしか活かせない。

 神から賜った、ネオスという奇跡。
 それが何故、暴威の異能であるのか。
 その意義について、自分は今なお答えを見出せていない。

 ――――何故なのでしょうか。
 私は、問い続ける。

 ――――神は如何にして“これ”を授けたのか。
 私は、訴え続ける。

 ――――神は私に、何を望まれているのか。
 私は、祈り続ける。

 神に尽くす道に生きて、神に身を捧げて。
 人々の為に善行を重ねて、周囲から褒め称えられて。
 それでも尚、私は自分の目指すべき道を見出せていない。
 己の力に対する感情の落とし所を、捉えられていない。

 破壊と、殺傷の道具。
 他を巻き込み、蹂躙する暴力。
 敵を押し潰す、重圧の領域。
 この力の在り方など。
 そのようにしか、言い表せない。

 尽きぬ疑問と、癒えぬ苦悩。
 それはいつしか、心を穿つ風穴と化していた。
 神の慈悲には程遠い、暴威の術を生まれ持ち。
 答えのない迷宮の中を、私は幼き日から歩み続けていた。

 その想いの全てを、出会って間もない青年に訴えている。
 なるべくしてなったかのように。
 彼の穏やかな笑みに誘われたかのように。

 彼の微笑みには、慈悲が宿っていた。
 そして、私の苦悩を聞き届けるその姿は。
 不思議なほどに、何処か満足げだった。
 私に対して、何かを見出すような眼差しを向けて。
 ただ静かに、私を見守ってくれている。

 貴方は一体――何者なのでしょうか。
 まさか、神が遣わした天使なのでしょうか。
 そう思ってしまうほどの安らぎを胸に抱いて。
 私は只管に、彼の恩愛に身を委ねていた。

 彼は、本当に天使だったのだろうか。
 あるいは、私を誑かす蛇だったのだろうか。
 今となっては、その答えも分からない。
 思い返すこともできない。




235神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:15:31 ID:3nbibEg.0




 ――――“君の力は、世に蔓延る悪や神の敵を殲滅する為に有る”。





236神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:16:08 ID:3nbibEg.0



 脳裏に焼き付く、神の啓示。
 記憶の奥底に根付く、眩き道標。
 私の葛藤を振り払った、求道への指針。

 15歳のとき、私は神託を得た。
 神から与えられし使命を手に入れた。
 為さねばならぬことを、ようやく理解した。

 世界の悪を裁かねばならない。
 世界の歪みを糺さねばならない。
 世界の有るべき姿を取り戻さねばならない。

 神のお告げを、私はただ静かに飲み込んでいた。
 ゆっくりと、ゆっくりと――。
 喉の奥へと、薬を注ぎ込まれるように。

 今の世界は、誤っているのだ。
 人々は神の教えを忘れ、悪徳に耽っている。
 我欲と打算に塗れて、正しき信仰を見失っている。

 ――神の国と、神の義を求めるべし。
 ――神を愛し、人を愛するべし。

 困難に満ちた、この世界で。
 多くの者が、福音を忘れている。
 慈愛と救済の理を踏み躙る、忌まわしき悪が蔓延っている。

 ヤマオリ・カルト。
 否定せねばならないもの。
 世界の信仰を歪める者。
 誤った観念を“神格化”する悪。
 
 この破壊と暴力の異能は、何の為にあるのか。
 それはきっと、世界を変える為にあるのだろう。
 人々が犯す過ちを、この手で正す為に“力”を与えられたのだ。
 悪しき魔女を狩る為に、私は鉄槌を授かったのだ。
 私はようやく、己の道を悟った。

 ――“あの神の声は何だったのだろう”。

 そんな疑問が、ふと浮かぶ瞬間もあった。
 あの日のことを、うまく思い出せない。
 目を覚ますと、いつだって記憶が霞んでいる。
 この神託のきっかけを、夢の中でしか思い出せない。
 朝が訪れれば、心の奥底に仕舞われてしまう。

 けれど、その答えを探ることはしなかった。
 神の教えを疑う必要など、ありはしないのだから。

 神はただ、そこに在る。
 私は己の信仰を疑ったりはしない。
 祈りを捧げながら、神の示す道を歩み続け。
 己が至る結末は、神の意志に委ねる。
 それでいい。裁きは、神が下すのだから。

 私は、ドミニカ・マリノフスキ。
 魔女の鉄槌(マレウス・マレフィカールム)。
 審判の力を賜りし、神罰の代行者。


 ――――神への誓いを(コールヘヴン)。




237神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:17:06 ID:3nbibEg.0



 朝日の光が、静かに射していた。
 穏やかな輝きが、粛々と広がっていく。
 顔を照らす眩しさに、意識をくすぐられて。
 ドミニカはハッとしたように、目を覚ました。

 視界の果てには、青空が広がっていた。
 太陽は既に登り、静寂の中で白光が煌々と射す。
 冷えた空気が肌を撫でながらも、微かな暖かさが世界を覆っていく。

 そう、朝が来た。夜明けが訪れた。
 如何なる苦難も葛藤も飲み込むように。
 太陽はただ、粛々と空に照り続ける。
 看守長が告げた刑務は、まだ始まったばかり。
 
 ――青空と太陽を直に見たのは、何時ぶりだろうか。
 ――独房ではいつだって、冷淡な照明によって朝を迎えていたのだから。

 そんな物思いに耽る余裕もなく、ドミニカは認識を切り替えていく。
 どうやら自分は、岩陰で身を潜めるように横たわっていたらしかった。
 それを察した後に彼女は視線を動かし、すぐそばにいる他者の気配へと目を向けた。

 ドミニカの側で、プラチナブロンドの髪を持つ少女が腰掛けていた。
 何処か力無く疲弊した様子で、彼女はドミニカを見下ろしていた。
 ――ジェーン・マッドハッター。
 ドミニカにとって、暫し前から行動を共にしていた受刑者であり。
 そして先の戦闘で、共に辛酸を嘗めることになった相手だった。

 きっとこの岩陰にも、彼女が運んでくれたのだろう。
 そうして意識を取り戻すまで、見守っていてくれたのだろう。
 ドミニカはそのことを理解する。

「……早かったね、目え覚ますの」

 そう呟くジェーンの横顔からは、遣る瀬ない感情が滲み出ていた。
 屈辱と無力感。込み上げる悔しさを噛み締めるように。
 殺し屋の少女は、ただそこに在り続けている。

 そんな彼女の様子を暫し見つめてから、ドミニカは記憶を振り返った。
 つい先刻――ネイ・ローマンと呼ばれる男と対峙した。
 恩人と信仰を侮辱する彼を悪と断定し、神罰を下すことを選んだ。
 されどその圧倒的な超力を前に、自分は容易く制圧されて。
 せめてジェーン達を守るべく抵抗したものの、そのまま気を失い――。

 そう時間は経過していないようだった。
 身体機能の高いネイティブ世代であるが故か。
 あるいは、ドミニカの強固な意志が齎した結果か。
 ともかく彼女は、短時間で気絶から復活を果たしたのだ。

「メリリンさんは……?」
「私達を助けるために、あいつの元へと下った」

 ドミニカの問いかけに対し、ジェーンはそう告げた。
 その一言に籠る感情を前に、ドミニカは静かに沈黙をした。
 ジェーンが告げた言葉の意味を、彼女はすぐに理解したのだ。

 ――メリリンはネイ・ローマンの傘下になった。
 ――その見返りとして、ドミニカ達は見逃された。

 即ち、彼女の自己犠牲によって自分達は命を繋いだということだった。
 それを悟った瞬間から、ドミニカの胸中には深い負い目が込み上げた。

 神罰を下すための力が、あの男の前にはまるで及ばず。
 善人であり、恩人と認めた相手によって、逆に自分が守られた。
 神への信仰を果たすための巡礼で、このような失態を犯してしまった。

 神の啓示を授かった身であるのに。
 この地で善を為さねばならないのに。
 使命を果たすことが、己の道であるのに。
 自分は二人を守ることも出来ず、這いつくばっていた。

 ドミニカの心を、悲しみが突き刺す。
 そして己自身の不甲斐なさに、戒めを刻み込む。
 ――まだ、祈りが足りない。私はまだ、未熟者だ。
 自らの無力に対し、ドミニカは己を罰するように思い抱く。
 唇を噛み締めて、己への怒りを掌に握り締めた。

「ジェーンさん――」
「放送。さっき流れたよ」

 そうしてドミニカは、静かに身体を起こしながら声を上げたが。
 その言葉を遮るように、ジェーンが話を切り替えた。

 ジェーンは今だに、自らの感情に対する整理を付けられていない。
 自らの煩悶と苦悩に対し、納得を得られていない。
 故にドミニカとこれ以上の問答を行うことを避けたのだ。

 話を遮られて、ドミニカは少々不服な思いを抱きつつ。
 されどジェーンの胸中を察するように、放送について問いかけた。

 脱落者や禁止エリアに関しては、手持ちのデジタルウォッチにて随時更新される。
 例え気絶をしていたり、睡眠を取ってとしても、それらの情報は後々に参照することが出来る。
 それでも重要な情報開示であることに変わりはなく、看守長が別件の話をしている可能性もある。
 そのためドミニカは、聞き逃した第一回放送について話を聞くことにした。



238神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:18:29 ID:3nbibEg.0

 ――――12人。
 それがこの6時間で命を落とした受刑者の数だった。
 殆どが名前も顔も知らない相手とはいえ、既に数々の罪人が散っていた。
 恩赦を巡る争いは、早くも幕を開けているのだ。

 きっとこの地には、未だ数多の悪がのさばっている。
 善を守り、悪を挫く。
 ここから先も、己の使命を貫かねばならない。
 先のような失態を繰り返してはならない。

 アンナ・アメリナ。フレゼア・フランベルジェ。
 ドミニカも知る悪人達もまた、この朝を迎える前に裁きを受けていた。
 彼女らが地獄へと堕ちたのは良きことだが、他にも誅伐を与えるべき悪は蔓延っているだろう。
 今なお生き残っている魔女ジャンヌ・ストラスブールにも、いずれは天罰を下さねばならない。

 幸い、信を置く相手である夜上神父は今も生きている。
 地の底においても敬虔なる信仰を貫く、尊敬に値すべき人物だ。
 彼にもまた神の御加護が憑いておられるのだろうと、フレゼアは安堵する。
 それでも、このアビスにおいては何が起きても不思議ではない。
 可能であれば彼とも接触し、無事を確認したいところだが――。

「ジェーンさん」

 放送にまつわる情報共有を終えて。
 ドミニカは、ジェーンに対して呼びかける。

「短い間でしたが、ありがとうございます」

 立ち上がったドミニカは、そのままぺこりとお辞儀をする。
 唐突な礼に、ジェーンは少し戸惑いの顔を見せたが。

「ドミニカ?」
「貴女は、メリリンさんを追いたいのでしょう」

 真っ直ぐな瞳を向けられ、図星を突かれたことで。
 ジェーンは思わず、視線を逸らして沈黙した。
 そんな彼女をじっと見つめながら、ドミニカは言葉を続ける。

「けれど、貴女は私を見守ることを優先してくれた」
「……別に、ほっとけなかっただけよ」
「それこそが慈しみと呼ぶべきものです」

 メリリンがローマンと共にブラックペンタゴンへと踏み込んだのは明白だった。
 ならばジェーンは、何故すぐにメリリンを追わなかったのか。
 気を失ったドミニカを、放ってはおけなかったからだ。

 ドミニカは、メリリンとジェーンの間で交わされた契約を知らない。
 故にこれは、彼女の目線からの推測も混じる事柄ではあるが。
 本来ならばジェーンは、今すぐにでも此処から移動したかったのだと考えた。
 何故ならば目が覚めた直後、傍にいてくれたジェーンの表情や素振りからは。
 言い知れぬ喪失感のような想いが、滲み出ていたのだから。

 ――迷いを抱き、苦悩を背負う。
 かつての自分も、そうだったが故に。
 そうした感情に対して、ドミニカは敏感だった。

「ジェーンさん、感謝いたします。
 出会ったばかりの私に、此処までしてくださって」

 ドミニカは歪んでいる。酷く捻れている。
 しかし、その性根は善性の人間である。
 彼女は他者への恩を感じるし、義理を果たそうとする。

「メリリンさんもそうでしたが、やはり貴女も善き人です。
 私は気にせず、どうか彼女を追ってください」

 だからこそドミニカは、ジェーンに対して促した。
 ジェーンもまた、そんなドミニカの内面を薄々感じていたのか。
 互いに何かを察知する中で、視線を交わし合った。

239神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:19:19 ID:3nbibEg.0

 ジェーンは、沈黙を続ける。
 空気の変化を肌で感じながら、微かな迷いを抱く。
 ドミニカと別れて、メリリンと共に往く。
 それは当初の予定通りのことでしかない。
 故に此処で彼女と離別したところで、有るべき形に向かうだけだ。

 しかし、それでも。
 ジェーンは葛藤の渦中に立たされていた。
 ――自分は、留まらなくてもいいのか。
 迫り来るものを察知しながら、彼女は思う。

「ドミニカ」

 やがてジェーンは、口を開いた。
 目の前のドミニカを、真っ直ぐに見つめながら。


「本当に、任せていいのね?」
「善行こそが、私の本懐ですから」


 ジェーンが手向けた、懸念に対して。
 ドミニカは、清らかに微笑んでみせた。

「以前、私の恩人も仰っていました」

 ドミニカの脳裏に過ぎるのは、アビスの“神父”。
 夜上 神一郎。彼女が信頼し、尊敬の念を抱く受刑者。
 神に仕える生き方を選ぶ、敬虔なる聖職者。

「――――人はそれぞれの“神”に従うべきである、と」

 彼から伝えられた言葉を、ドミニカは口にする。
 己の信ずるものを見出し、その意志に従って前進すること。
 それこそが神に触れる術なのだと、彼は規定していた。

 ドミニカは、彼の信仰を汎神論の一種と捉える。
 自分とは祈りの術が違うだけで、神を信じていることには変わりない。
 故に夜上の語る哲学を、彼女はありのままに受け止めていた。

「ドミニカさん。貴女も、貴女の道を進むべきです」

 そして、かつて葛藤と煩悶を経ていたからこそ。
 ドミニカは、その言葉に対して思うところがあった。
 故に彼女は、ジェーンへの餞として告げた。
 足を止めねばならなかった彼女の善意に報いるために。
 ジェーンの背中を、ドミニカは押すことを選んだ。

 ドミニカの眼差しに射抜かれて。
 ジェーンは再び口を閉ざし、沈黙した。
 微かにでも、迷いを抱くように。
 彼女は僅かな時間の中で、思考を行なっていたが。

 ――――先刻。あの瞬間。
 あの屈辱が、再び脳裏をよぎった。

 地に這いつくばり、何も出来ずに奪われ。
 なけなしの矜持さえも踏み躙られて。
 結局、仲間の自己犠牲に守られるだけの自分がいた。
 無様でみっともない、無力な自分が横たわっていた。

 ジェーンは、あのときの感情を振り返る。
 再び彼女達と相見えたとして、自分には何ができるのか。
 疑念は拭えない。混迷は晴れない。
 答えは今なお、見出すことはできない。

 それでも、去りゆくメリリンが向けた眼差しが。
 ジェーンの脳裏に、静かに焼き付いていた。
 メリリンの望み。メリリンが託した思い。
 それを噛み締めるように、ジェーンは追憶していた。

 今もなお、迷いは胸の内でつかえ続けている。
 だが、それでも――。
 この後悔を拭えぬまま、虚しく彷徨い続ける。
 それだけは、あってはならないような気がした。

 自分は、生きる価値のない人間だ。
 ジェーンは己を卑下する。
 人殺しの才覚しか持たない自分を憎んでいる。
 自らの命を絶てぬまま、ここまで辿り着いている。

 だったら、せめて。
 一欠片の矜持くらい、貫けなければ。
 自分が今も立ち続けている意味すらない。
 そんなふうに、ジェーンは思っていた。

 ――――ふぅ、と。
 ジェーンは静かに、一呼吸を置く。
 自らの思考を整えて、気を引き締めて。
 ゆっくりと、自らの口を開いた。

240神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:19:50 ID:3nbibEg.0

「……わかった。でもね」

 そうしてジェーンは、承諾の意思を伝えた。
 それから矢継ぎ早に、言葉を続ける。

「もしもこの刑務で、会うことがあれば――」

 同じくこの刑務に参加している者。
 ジェーンの組織を壊滅させた特殊部隊の一員であり。
 裏の世界で必死に生きていたジェーンを捕縛した張本人。

「――“ソフィア・チェリー・ブロッサム”に、伝言は伝えておくから」

 超力を無効化する超力の持ち主。
 “迫り来る脅威”に対抗できる余地のある存在。
 ジェーンはかつての遺恨を振り払い、伝言役になることを引き受けた。
 ブラックペンタゴンは、多数の受刑者が入り乱れることが予想される。
 故にメリリンを追う過程で彼女と遭遇する可能性も高いと考えたのだ。

「ドミニカ。ありがとう」
 
 帽子屋(マッドハッター)。
 感謝の意を伝えて、彼女は不思議の国を後にする。
 自らの契約と矜持を取り戻す道へと向き合う。


「“神の御加護を”」


 そうして、ジェーンは最後にそう告げた。
 ドミニカの無事を祈るように、右手で十字を切った。
 見よう見まねの不格好な所作ではあったけれど。
 そんなジェーンの餞別に対し、ドミニカは微笑みで返した。

 ジェーンは背を向け、ブラックペンタゴンへと向かっていく。
 ドミニカは彼女を流し見た後、眼前に聳える岩山を仰いだ。

 青空を背負い、朝焼けに照らされ、其処に有り続ける。
 赤茶色、砂色に染まった岩や土に覆われた山。
 ドミニカを見下ろすように、物々しく沈黙していた。

 ふぅ、と一呼吸を置いた。
 ドミニカは、静かに瞼を閉じた。
 胸の前で手を組み、祈りを捧げる。

 “天にまします我らの父よ”。
 “願わくは、御名を崇めさせたまえ”。
 心中で、神への信仰の言葉を述べた。
 これから迫り来る脅威へと立ち向かうために。

 例の“冒涜者”は、動き出している。
 この地へと、降り立たんとしている。
 その力に立ち向かう術は、未だ揃っていない。

 しかし――それは諦めの理由にはならない。
 神への信心と、神罰の力。
 己に宿る武器を手に取り、立ち向かうのみだ。
 あの脅威は、食い止めなければならない。


 ――――歌が、聞こえてくる。
 ――――無邪気な歌が、耳に入る。


「神への祈りを捧げなさい」


 ――――歌が、聞こえてくる。
 ――――空気が、大地が、震え始める。


「さもなくば、誅伐あるのみ」




241神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:20:34 ID:3nbibEg.0




「♪子猫もウサギも、おめかしして――――」


 夜明けを迎えた、目覚めの朝。


「♪すてきなお家に住んで、暮らしているわ――――」


 蒼い空と、太陽の下で。


「♪お花も、私に話しかけて――――」


 少女は、歌を口ずさむ。


「♪私が寂しいときは、なぐさめてくれるの――――」


 夢に見た“御伽噺”の旋律を唄う。


「♪ほら、聞こえるでしょう――――?」


 少女は、穏やかに微笑む。


「♪私の夢の国――――」


 新世界の幕開けを、感じ取るかのように。


「♪それは不思議の国よ――――」




242神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:21:20 ID:3nbibEg.0



 山岳の下層。岩場の影に身を潜める二人の受刑者。
 バレッジ・ファミリーの幹部、ディビット・マルティーニ。
 アビスの申し子、エネリット・サンス・ハルトナ。
 この刑務における最初の放送を、彼らは聞き届けていた。

 この6時間で、12人の受刑者が脱落した。
 “戦乙女”アンナ・アメリナや“炎帝”フレゼア・フランベルジェ。
 そして“鉄柱”呼延 光などの大台の犯罪者達が名を挙げられていた。

 キングからも名指しで標的とされた恵波 流都も落ちていた。
 キングの息が掛かった『イースターズ』の首領、スプリング・ローズの退場は都合が良いとはいえ。
 ヴァイスマンの口ぶりも含めて、既に各所で交戦が巻き起こっていることは明白だった。

 エネリットも一目置く氷月 蓮が生き抜いていることは予想通りとはいえ。
 先刻に交渉の場へと割り込んできたアイもまた生存中であった。

 キング相手に逃げ延びた、と考えるのは楽観と言う他ない。
 恐らくはあの“亜人の同行者”共々、アイは何らかの形でキングに絡め取られた可能性が高い。
 今後また接触することになれば、警戒が必要だろう。

 そして先の放送において、ディビット達を驚愕させた事柄があった。

「“あの”ドン・エルグランドが、此処まで早く退場するとは」
「ええ。この結果は、僕も流石に予想していませんでした」

 カリブ海を制した大悪党、ドン・エルグランド。
 アビスにおいても一目置かれ、多くの悪党から畏れられた程の怪物である。

「まさか……あの怪物がな」
「この刑務は、決して一筋縄では行かない……。
 それを証明するには、絶好の存在とさえ言えますね」

 ディビットもエネリットも、驚愕を抱きながら取り留めなく呟く。
 あの男が序盤に脱落するなど、一体誰が予想しただろうか。
 奴が朝日を拝めずに散るということを、一体誰が想像しただろうか。
 かの大海賊は、言ってしまえばそれほどの大物だった。

 既に乱戦が勃発し、その過程で奴が落ちたのか。
 徒党を組んだ集団が既に形成され、奴が怨敵や標的として狙われたのか。
 あるいは――奴を真正面から落とせる受刑者が、この刑務に存在するのか。

「……キングはまだ、落ちていないな」

 やがてディビットは、ぽつりと呟く。
 超力の蔓延る世界は、理不尽に満ちている。
 不可能という言葉はない。有り得ないものなど存在しない。
 故にいずれの可能性も十分に考慮できるものとして、ディビットは思考した。

 何より、怨敵であるルーサー・キングは未だ生き延びている。
 奴ほどの実力者がいるならば、ドン・エルグランドが落ちることも有り得るのだろう。
 ディビットはそうして思考を切り替えていく。

「思ったより持ち堪えた、と言っていいでしょうね」
「そうだな。痛み分けが多く生じたか、早い段階で受刑者間の結託が進んだか。
 あるいは、消極的な連中も少なくなかったか……」

 ――12人という人数に対し、エネリット達は“想定の範囲内”という印象を抱いた。
 決して少なくはないが、思った以上の炸裂は起きていない。

 恩赦ポイントの仕組み、そして時間制限まで持ち堪えれば生還は保証されるシステム。
 それらを考慮すれば、終盤になるにつれて刑務の膠着化が予想される。
 故に序盤から受刑者同士の激戦が勃発する可能性を視野に入れていたのだ。
 だが現状の脱落者数を鑑みるに、やはりそう簡単には行かないらしい。

 少なからず交戦は勃発しているが、今はまだ起爆し切っていない。
 現状に対し、ディビット達はそう判断する。
 状況が動き出すのは、寧ろこれからと考えるべきか。
 禁止エリアと、ブラックペンタゴン――この二つが要になるだろう。

243神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:21:59 ID:3nbibEg.0

「やはり、禁止エリアは多数に及ぶようですね。
 刑務における追加は三度のみと考えれば、妥当と言えるでしょうか」
「今回はまだ“僻地”が中心だが、このまま進めば受刑者の移動や潜伏に確実な影響が及ぶな」

 最初の放送のみで、計8つもの区画が禁止エリアと化した。
 今回は中央からは外れる、盤面に影響の薄い領域を中心に選抜されたものの。
 仮に単純計算で行けば、第三回放送の時点で24エリアが封じられる形となる。
 あるいは、それ以上の数に及ぶことも十分有り得る。

 この刑務はルール上、恩赦を巡る駆け引きや交戦を前提としている。
 故に禁止エリアの増加によって受刑者が分断される事態はアビス側としても避けたいだろう。
 今回のエリア指定においても、中央を起点に円を描くような形で選抜されている。
 よって今後もこのような形で“外堀”が埋められていく可能性が高い。

 恐らく終盤戦へと向かうにつれて、受刑者達は“一箇所”へと誘導されることになる。
 ブラックペンタゴンはその布石、刑務開始直後から受刑者を動かすためのギミックだろう。
 受刑者が集結する狩場、受刑者が籠城する拠点、そして受刑者を動かすための目印。
 意図的な密集地帯となり得る場を用意し、受刑者同士の接触を促すことは当初から推測できたものの。
 今回の放送によって、以後の禁止エリア指定を円滑に進めて盤面を誘導していく意図もまた読み取れた。

「例え“場に残された恩赦ポイント”に限りがあるとしても。
 終盤になればなるほど、受刑者同士の接触は余儀なくされるでしょうね。
 多数の禁止エリア指定によって“消極的な潜伏”が妨げられる可能性は高い」
「ああ、だからこそ今の内に“動く”受刑者も増えるだろうな。
 そしてブラックペンタゴンは、その起爆剤となる」

 消極的なスタンスを貫かない限り、この刑務はまず他者と接触せねばならない。
 自分に戦う意思がなくとも、他の受刑者からすれば“ポイント”という餌になる恐れがある。
 故に自らのリスクを削りつつ、今後のリターンを得る為の足掛かりは重要となる。
 他の受刑者との交渉や結託、恩赦ポイント稼ぎ、あるいは集団戦を防ぐ為の数減らし――。
 ブラックペンタゴンは“鉄火場”という形で、そうした場の役目を引き受けるのだろう。

 デイビットとエネリットは、意見を交わし合っていた。
 先程まで居た地点から距離を取って、岩陰に身を潜めて放送を聞き届けていた。
 そうして互いに何事もなく内容を聞き取り、それぞれの所見を述べた。
 脱落者について。禁止エリアについて。今後の刑務の動向への考察。
 少なくとも最低限語るべき事柄は、互いに伝え合った。


「さて、ディビットさん」
「ああ」


 故に彼らは、意識を切り替えるように言葉を交わす。
 “迫り来る気配”を共に察知し、視線を交錯させた。


「動き出しましたね」
「……そのようだな」


 空気が、震えていた。
 大地が、揺れていた。
 重力が、澱んでいた。

 じわり、じわりと。
 世界の法則が、物理の秩序が。
 静かなる歪みを伴い始めている。
 異質なる気配が、徐々に迫ってくる。

 ディビットは、視線を動かした。
 そうして、岩場の向こう側を見た。

 十数メートル離れた地点。
 土が、石が、ふわりと浮き始めている。
 岩盤に、ゆっくりと亀裂が入り始めている。
 斜面を伴った地面が、歪むように軋んでいく。

 その様子を目の当たりにした瞬間。
 ディビットとエネリットは、すぐさま駆け出した。

 超力は発動せず、自らの身体能力と瞬発力のみで動いた。
 そうして二人は迫り来る“領域”から距離を取るべく。
 全速力で駆け抜けながら、後方へと意識を向ける。

 先刻、エネリットが伝えた脅威。
 朝が来れば、彼女は目覚める。
 目が覚めれば、彼女は動き出す。
 地獄を引き連れて、彼女は降りてくる。

 暫しの猶予があったとはいえ。
 そんなエネリットが抱いた懸念の通りに。
 メアリー・エバンスは、進軍を始めていたのだ。




244神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:22:34 ID:3nbibEg.0



 ――――“僕は、君に想いを託した”。


「あなた、だあれ?」


 ――――“新時代の嬰児よ”。


「わからないけれど」

 
 ――――“どうか、世界を終わらせてくれ”。


「いけば、いいのね」


 ――――“君が、世界を糺してくれ”。


「おそらが、まぶしいわ」




245神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:23:09 ID:3nbibEg.0



 足場の悪い岩盤を物ともせず。
 二人の受刑者、ディビットとエネリットは機敏に躍動する。

 ブーツの靴裏で岩場を蹴り、跳躍するように動く。
 跳躍のような動作を繰り返しながら、彼らは移動する。
 付かず離れず。互いの行動を制約せず、しかし有事には即座に援護を行えるよう。
 二人は共に的確な距離を保ちながら、立体的な機動を行なっていた。

 迫り来る“領域”の性質は、既に推理していた。
 重力や感覚などの“法則の変化”は従来通り。
 しかし以前とは違い、明確な攻撃性を伴っていた。
 即ち、侵入者を排斥し、蹂躙する“支配域”と化しているのだ。
 更には“超力の封殺”へと特化する形での変質も見られた。
 
 疾走をしながら、ディビットは微かに振り返る。
 ――視線の先、後方では“破壊”が発生している。
 傾斜に迸る亀裂。打ち砕かれる岩石。澱む大気。

 岩陰に微かに咲いた花が、瞬きの合間に“破裂する”。
 花びらが宙を舞い、それらもすぐさま灰燼と化す。

 殺意に満ちた現象が、自分達へと迫り来る。
 この領域が、この世界が、“移動”を開始している。
 彼女は奔放に動き続け、そして拡大を繰り返す。
 六時間という猶予の中で、彼女は育ってしまった。

 さて――どうする。
 ディビットが、エネリットと視線を交わした。
 このまま放置すれば、領域は無尽蔵に拡大する。

 先程、様々な術を講じて“対策”を模索したが。
 メアリーを食い止めるための効果的な手段は得られなかった。
 少なくとも、今の自分達では打つ手はない。
 そう判断していたが、既に彼女は動き出している。
 故に、可能な限りの手は打たなければならない。

 このまま進撃すれば、恐らくブラックペンタゴンが領域の射程に収まることになる。
 敢えて彼女を誘導し、“爆弾”として投下することも考えはしたが。
 この際限の無い能力を利用すること自体に多大なリスクが生じる。
 立ち回りの全体が崩れることを防ぐためにも、下手な真似は避けたい。
 
 ディビットは思考する。
 この舞台を飲み込み、盤面を覆す前に。
 メアリー・エバンスは処理せねばならない。
 それこそ、始末を視野に入れるべきだろう。

「ディビットさん、あちらを」

 そうして疾走を続けていた矢先。
 傍で並走していたエネリットが、声を掛けてきた。
 彼の声に応えて、視線を動かすディビット。
 エネリットは自らの顔を動かし、“あるもの”を示す。

「別の受刑者か」
「ええ。あの領域に挑むつもりのようです」

 領域との距離を取った二人は、百数メートルほど離れた地点に立つ“受刑者”を見た。
 その受刑者はまだ二十も満たぬ、あどけなさを残す風貌の少女だった。
 岩場には似合わぬ佇まいの少女は、されど眼前の領域に対して一歩も臆さず。
 呼吸を整えながら、自らの超力を発動せんとしている。

「……なるほど」

 その少女を視界に収めて。
 ディビットは、合点が言ったように呟く。

 直接の面識はない相手だった。
 しかし、その悪名は刑務所においても耳に挟んでいた。
 地方都市に拠点を構えていた新興宗教に端を発する事件。
 犯人は、北米において“炎帝”に次ぐ殺戮者と語られる女――。

「奴は北米の“ヤマオリ・カルト”を潰した女だ」


 ――――“魔女の鉄槌”。
 ――――ドミニカ・マリノフスキ。


 迫り来る“領域”と対峙する受刑者。
 その存在を、デイビット達は視界に捉えていた。




246神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:23:38 ID:3nbibEg.0



 もしもし、聞こえますか。
 神さま、ここにいますか。

 私の世界ではね。
 ばかげたことが当たり前なの。
 すべてがとんちんかんで。
 妙ちきりんで、あべこべなの。

 私ね、皆からきらわれてるの。
 だれも私にさわれないし。
 だれも私とふれあえないの。
 パパとママだって、どこにもいないの。

 いつだって、ひとりぼっち。
 友だちは、夢の中にしかいない。
 目がさめたら、私はせまい“カゴ”のなか。

 でもね、でもね。
 私は、ここにいたいの。
 私は、せいいっぱい歩きたいの。
 私は、しあわせでありたいの。

 私の世界が、みんなを傷つけるとしても。
 私のいばしょは、どこにもないだなんて。
 そんなの、私はみとめたくない。
 むねがズキズキいたくて、かなしいから。

 私は、ここにいます。
 私は、生きています。
 私は、笑っています。

 お日さまみたいに明るく、たのしく。
 そんなふうに、いつだってすごしたいから。
 だから、私はまえを向きます。

 私は、メアリー・エバンス。
 ふしぎの国にまよいこんだ、女の子。


 ――――こんにちは、神さま(コールヘヴン)。




247神の道化師、ドミニカ ◆A3H952TnBk:2025/05/06(火) 21:25:05 ID:3nbibEg.0

【E-5/ブラックペンタゴンの近く/一日目・朝】
【ジェーン・マッドハッター】
[状態]:全身にダメージ(中)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.無事に刑務作業を終える
1.メリリンを追う。
2.山頂の改変能力者を警戒。ソフィア・チェリー・ブロッサムを探す。
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました

【E-5/岩場/一日目・朝】
【ドミニカ・マリノフスキ】
[状態]:全身にダメージ(中)、全身に打撲と擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.善き人を見定め、悪しき者を討ち、無神論者は確殺する。
0.領域型の改変能力者(メアリー・エバンス)を食い止める。
1.ジャンヌ・ストラスブールは必ず殺す
2.神の創造せし世界を改変せんとする悪意を許すまじ
3.山頂の改変能力者について、ソフィア・チェリーブロッサムに協力を仰ぐ。
※夜上神一郎とは独房に収監中に何度か語り合って信頼しています
※メリリンおよびジェーンと知っている刑務者について情報を交換しました。
※ルーサー・キングについては教えて貰っていない為に知りません。

【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:衝撃波での身体的ダメージ(軽微)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
0.メアリー・エバンスに対処。
1.標的を探す
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です
 現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
0.メアリー・エバンスに対処。
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める

【E-6/岩山/1日目・朝】
【メアリー・エバンス】
[状態]:少しご機嫌斜め
[道具]:内藤麻衣の首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.ここにいたい。
1.お散歩をする。
※『幻想介入/回帰令(システムハック/コールヘヴン)』の影響により『不思議で無垢な少女の世界(ドリーム・ランド)』が改変されました。
 より攻撃的な現象の発生する世界になりました。領域の範囲が拡大し続けています。
※麻衣の首輪を並木のものと勘違いして握っています
※メアリーがありすに助けを呼んだその時に、何が起こるかはご想像にお任せします

248名無しさん:2025/05/06(火) 21:25:18 ID:3nbibEg.0
投下終了です。

249 ◆H3bky6/SCY:2025/05/06(火) 23:44:02 ID:ncToOhAA0
投下乙です

>神の道化師、ドミニカ
ドミニカに啓示を与えた存在が明らかになり、旅人が残した影響が明かされていく、ほんと余計なことしかしてないなアイツ、まあそれで本望なんだろうけど
夜上の教えを受けたドミニカがジェーンの背中を押し、ジェーンも十字を切って流儀を返すのはいいシーンだ、目的のソフィアもブラックペンタゴンにいるけど協力してくれるかなぁ・・・?
エネリットとディビットは状況を言語化して共有するから偉いよ、ホウレンソウがちゃんとできてる、やっぱこいつらからしてもドンが死ぬのは驚きなんですね
ついに動き始めたメアリーが完全に無邪気な災害、明らかにやばい奴が迫ってる感がすごい
ブラックペンタゴンに迫る脅威に一人立ち向かうドミニカが聖者のようだ、お互い旅人に導かれし者であることが明かされそういう意味でも注目の対決

250 ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:23:24 ID:mnHbbPmw0
投下します

251Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:24:30 ID:mnHbbPmw0
氷のように冷たく輝いていた月が淡く溶けていき、東の地平線からゆっくりと太陽が姿を現した。
朝日は柔らかく橋を照らし、冷え切った夜の名残を静かに押し流していく。

廃墟へと続く橋のたもと、静寂がその場を支配していた。
薄く残る夜の名残を纏うように立つ一人の男と、彼と向かい合う三人の少女たち。
東の空に滲む茜色が、彼らが抱える緊張をゆっくりと浮かび上がらせ、世界が目を覚ましはじめていた。

アイは無意識のうちにその空を見上げ、眩しげに目を細めた。
その小さな瞳は、これまで生きてきた密林の朝焼けを思い出すかのように茜の光を捉え続けていた。
すぐ傍に立つ叶苗は息を呑み、まだ身体の痛みが癒えぬまま身を固くして日月の背後に踏みとどまっている。

そして、日月。
その鋭い瞳は、正面に佇む男、氷月蓮を射抜くように注がれていた。
まるで彼の名が象徴する夜の残滓を見定めるかのように、静かだが警戒を緩めぬ視線を送り続けている。

対する氷月は柔らかな微笑みを浮かべていた。
その表情は、夜明け前の薄明かりのように穏やかで優しく見える。
朝を迎えた明るさの下では、月の柔らかな光は人の目にどう映るのか。

「仲間にねぇ……その前に確認しておきたいんだけど、その服はどうしたのかしら?」

日月は静かな、しかし厳しい口調で問う。
この場において、囚人服以外の衣服を身に着けているというのは、すなわち既に恩赦Pを手に入れていた危険人物である可能性を示唆する。
その問いに氷月は動じることなく、僅かに眉をひそめながら答えた。

「開始早々、焔の魔女に襲われてね。命からがら逃げ延びたけど、その際に囚人服を失ってしまったんだ」
「焔の魔女って……フレゼア・フランベルジェのこと?」
「ああ、そうだよ」

日月の表情がわずかに動く。
その脳裏に、フレゼアに襲われ火傷を負った記憶が生々しく蘇ったからだ。
この周囲にフレゼアがいたのは他ならぬ彼女が証人である、紛れもない事実だ。

「この服は廃墟にあった民家から拝借させてもらったのさ。疑うなら、恩赦ポイントの履歴を確認してもらって構わない」

氷月の言葉には迷いがなく、明確な証明を伴う説得力があった。
恩赦ポイントの履歴を見れば、少なくとも彼がここで誰も殺害していないことは確認できる。
僅かに納得の息をつき、日月は次なる質問を投げかけた。

「じゃあ、もう一つ。あなたの罪状は何? 具体的に聞かせて頂戴」

首輪に示された『30年』という刑期は、このアビスでは決して重罪ではないものの、社会一般に照らせば凶悪な罪状に分類される。
彼を同行者として受け入れるかどうかの判断に、この確認は欠かせなかった。

その質問に叶苗も呼吸を浅くし、そっとアイの肩を抱き寄せるようにして男の返答を待った。
氷月は微笑みを静かに消し去り、まるで痛みに耐えるようにゆっくり目を閉じ、静かな吐息とともに口を開いた。

「罪状は……殺人罪だよ」

叶苗がわずかに身を震わせ、アイがその気配を敏感に察してびくりと身体を強張らせる。
それでも氷月はゆっくりと顔を上げ、悲痛な色を滲ませる瞳を日月に向けた。

「随分と正直なのね」
「嘘をついたところで、後から発覚したらそれこそ信用を失うだけだろう?」

己の安全性をアピールするべき場で、殺人者であることを告白するのは通常であれば得にはならない。
だが、殺人者など珍しくもないこのアビスにおいてはその意味合いは少し変わる。

アビスにおいては殺人者であることよりも、それを隠そうとする嘘を述べる方が警戒対象となる。
この男は罪状を隠すこと自体が疑惑を生み、後のトラブルを呼ぶことを理解していた。
何より、この場所にいる者は誰もが殺人の咎を背負った罪人であり、他人の殺しを非難できる立場にはないだろう。

252Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:25:05 ID:mnHbbPmw0
「なら、動機は何なのかしら? 理由によっては話が変わってくるでしょう?」

この場における問題は動機だ。
情状酌量の余地を問うわけではないが、危険性だけは見積もっておく必要がある。

「僕が手を下したのは、復讐のためだよ」
「復讐……?」

その言葉に叶苗が目を見開き、はっと顔を上げる。
意識せずに口をついて出た疑問は、明らかな動揺を含んでいた。
氷月は彼女の反応を視界の端で捉えながら、遠い記憶を引きずり出すように言葉を紡いだ。

「家族を酷い目に遭わせた連中がいてね……司法は何の助けにもならなかった。何度も訴えたが、結局誰も動かなかったんだ。だから、僕自身が手を下すしかなかった」

その言葉には明確な苦痛が混じり、叶苗は自らの胸を抉られるような共感を覚えた。
それは、かつて彼女自身が感じた無力感と絶望そのものだったからだ。

氷月は穏やかに微笑んで続ける。
しかし、その笑みには隠しきれない哀しみが宿っているようにも見えた。

「罪を後悔したことはないよ。ただ、結局僕は復讐を遂げたことで、このアビスへ落ちることになったけどね」

叶苗は言葉を失ったまま、氷月の姿を見つめた。
同じような苦しみを背負い、同じような決断を下した人間がいる。
その事実が彼女の孤独をほんの少しだけ和らげる気がした。
氷月は再び真摯な表情を浮かべ、言葉を重ねる。

「無関係な者を襲う気は一切ない。それだけは信じてくれないかな?」

彼の言葉と感情に共感を覚え、叶苗は思わず日月に向き直った。

「……日月さん。私は、この人を信じてもいいと思います」

伺うようなその叶苗の眼差しに、日月は僅かな逡巡の後に深く息を吐く。
氷月の申し出の通り、生き残りを目指すだけならば、集団行動が生存率を高めるのは間違いない。
恩赦のための殺人を目的としているのなら、孤立している人間を狙った方がよっぽどやりやすいだろう。
わざわざ危険を犯して集団を狙って騙す必要性も薄い。

猜疑心は拭えないが、確かに氷月の言葉には矛盾もなければ論理的破綻もない。
ゆっくりと頷いた日月は、冷ややかな声で告げる。

「……分かったわ。あなたの同行を認める。だけど、少しでも怪しい動きを見せたら……容赦はしないから」

その声音には脅しではなく本気を帯びていた。
その言葉に氷月は落ち着いた微笑みで応え、穏やかに手を差し伸べる。
日月はその手を冷淡に無視したが、代わりに叶苗が静かに、その手を握り返した。

「それで、君たちはこれからどこへ向かうつもりなんだい?」

形式的な自己紹介が交わされたあと、氷月が尋ねた。
その問いに、叶苗が少し戸惑いながらも答える。

「北東の廃墟……です。人目につきにくい場所があればと思って……」

その言葉を聞いた途端、氷月の表情がわずかに明るくなる。

「それはちょうどいい。先ほども少し言ったけれど、あの廃墟には以前、一度足を運んだことがあるんだ。
 全体の構造や逃げ道もある程度把握している。よければ、僕が案内しよう」

その申し出に、叶苗は一瞬驚き、次いでわずかに表情を和らげる。
この過酷な環境下で、氷月の落ち着いた声色と穏やかな物腰は、思いのほか頼りがいがあった。

ルーサー・キングのように支配と圧で空気をねじ伏せる漆黒の鋼鉄のような男とは対極の存在。
線の細い外見は頼りない印象すら与えるが、その中に芯の通った静かな知性と、周囲を見極める観察眼がある。
まるで透き通る氷のような透明な存在感がある男だった。

「……じゃあ、お願いします」

小さく頷くと、叶苗は隣にいたアイの手を改めて握り締めた。
その手はじんわりと汗ばんでおり、現れた男に対するアイの緊張がまだ完全には解けていないことを語っている。
それでも、叶苗の手を通して伝わる体温に、アイは微かに安堵の色を滲ませた。

「それじゃあ、案内しよう。ついてきてくれ」

氷月が優しく声をかけ、3人を先導するように静かに橋を渡り始めた。
叶苗とアイが連れ立ってその後に続き、日月はその背中を冷静に観察しながら最後に続いた。

253Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:26:12 ID:mnHbbPmw0
橋を渡り切り、朽ちかけた建物が連なる一帯が姿を現すと、氷月はふと足を止め、周囲を見渡す。
まるで古い友人の家に帰ってきたかのように、自然な手つきで視線を流し、状況を確認した。

「この廃墟群は、大まかに分けて東西で構造が違うんだ」

歩みを再開した氷月は背後を振り返らずに口を開いた。まるで、長年の案内人のように落ち着いた声音だった。

「西側には、かつてのビルや店舗跡が多くてね。背が高く遮蔽物にはなるけど、上階に潜まれると視界が利きにくい。
 一方で東側には低い民家や崩れた商店が点在していて、地形は複雑だが、瓦礫が多く隠れやすい。身を潜めるには東のほうが向いている。
 もう一つ、東側の利点は川が近いということだ。万が一の襲撃時、瓦礫を縫って移動すれば川まで逃げられる。
 最悪、対岸まで泳げば追手を撒ける可能性もある。……まあ、水はあくまで一時的な盾だが、何もないよりはずっといい」

氷月の言葉は明快で無駄がない。
彼が一度ここを訪れ、実地で地形を観察していたことは明らかであり、潜伏先の洗い出しだけではなく、いざと言う時の退路まで考慮している。
叶苗は感嘆の吐息を漏らしながら、思わず言葉をこぼす。

「すごいですね……氷月さん。地図を見ただけじゃとても分からないようなことばかりで……」

つい素直な感想が漏れた。
氷月は微笑みながら、まるで当たり前のように肩をすくめて返した。

「冷静でいることは、生き残るための最低条件だからね。僕が生き延びるためでもあるし……それが君たちの助けになるのなら、なおさら嬉しい」

彼の言葉には誇張も押し付けもなく、ただ静かな誠意だけが滲んでいた。
叶苗はその柔らかな言葉に小さく頷いた。

だが、そのやり取りを数歩後ろから見ていた日月は別の感情を抱えていた。
その感情を言葉にはせず、警戒心を滲ませながら沈黙のままその背を追う。

崩れかけた路地を慎重に抜け、氷月の先導で廃墟群の中へと一行は足を踏み入れた。
建材の山がところどころに積もり、剥き出しの鉄骨が地面から突き出ている。風の音に混じって、時折どこかの建物の軋む音が響く。

「このあたり一帯、建物の多くは構造が完全に崩れている。屋根が抜け落ちていたり、床が傾いていたりで、しばらく身を置くには少し危険があるね」

氷月はそう言いながら、足元の瓦礫を枝で突き、地盤の安定を確かめながら進んでいた。
その数歩後方で殿を務める日月は無言のまま、氷月の背を警戒するように見つめている。
その表情からは、警戒心と分析が読み取れた。

その中間に位置する叶苗は、アイを庇うように寄り添わせながら、俯いたまま足を進めていた。
言葉にできない思考が胸の奥を渦巻き、何かを言うべきか否かで迷い続けていた。
やがて、思い切るように、叶苗は小さく口を開いた。

「……氷月さん」

か細く震えた声だった。
その呼びかけに、氷月はすぐに彼女を振り返る。

「何か、気になることでも?」

静かで優しい口調が返ってくる。
その声音に背を押されるように、叶苗は少しだけ顔を上げた。

254Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:26:24 ID:mnHbbPmw0
「さっき……あなた、復讐で人を殺したって言ってましたよね」
「ああ。そうだね」
「……私も、なんです」

その告白に、氷月の瞳がわずかに細められた。
しかし、何も言わず、ただ静かに続きを待つ。
叶苗は、一度小さく呼吸を整えるように息を吸い込み、喉の奥に引っかかるような苦しみを押し出すように、ぽつりぽつりと言葉を重ねていく。

「私……この刑務作業に参加してる、恵波流都って男を探してるんです。
 表の名はそうだった。でも裏では『ブラッドストーク』って呼ばれてて……」

言葉が途切れる。
喉が灼けるように熱く、心臓が痛みで軋んでいた。

「……そいつが、私の家族を皆殺しにした。兄も、姉も、父も、母も。全員……あんな、理不尽な形で」

氷月は、一切口を挟まずに耳を傾けていた。

「……警察も、司法も、結局は何もしてくれなかったんです。
 だから、私がやったんです。……下っ端を、情報をたどって一人ずつ……。 最後に残ったのが、あいつだけで。
 だから、私はこの刑務作業に参加した。ここで、終わらせるために」

その声には怒りも激情もなかった。
ただ、過去に押し潰されてしまいそうな静かな哀しみだけがあった。
そこまで語ったところで、叶苗ははっとしたように氷月から視線を逸らした。

「……すみません。変なこと言って。別に、同情してほしいとか、そういうつもりじゃなくて。
 氷月さんが、何か……恵波のことを知っていればと思って……」

その声は自責に満ちていた。
氷月は、ほんの少しだけ眉を下げ、首を横に振る。

「残念ながら……心当たりはないね」
「そう、ですか……」

叶苗は、微かに肩を落とした。
都合のいい展開を期待していたわけではないが、何度経験しても空振りは少し堪える。

「お力になれず、申し訳ない」

氷月の声は静かで、どこか申し訳なさそうに響いた。
そして、一拍置いて、穏やかに続けた。

「けれど……こういう言い方が正しいのか分からないけど。同じように痛みを抱えてる人間がいてくれるっていうのは、少しだけ……救われるような気がするね。変かな?」

その言葉に、叶苗はかすかに目を見開いた。
そして、ほんのわずかに、だが確かに、表情を和らげて頷いた。

「……いえ。私も、そう思います」

そこには、憎しみの奥に沈んでいた人としての心が、わずかに顔を覗かせていた。



255Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:26:41 ID:mnHbbPmw0
氷月の語った過去――復讐による殺人。
それはもちろん、最初から最後まで嘘にすぎなかった。

躊躇も逡巡もなく口をついて出たその嘘は、彼にとってただの戦術だった。
目的は、相手の警戒を解き、集団の中に受け入れられること。
サイコパスの本領は、冷徹なまでの計算と、情に訴える嘘をもっともらしく語れる才能にある。
氷月はそれを自覚していたし、使いこなしていた。

首輪に刻まれた『30年』という刑期は偽れない。
ならば、納得できる動機をそれに添えるだけだ、その選択肢として、“復讐”という題材は最適だった。

誰かを守るため、あるいは司法に見放された怒りによる制裁。
そういった語り口は人の良心に訴えやすく、特に道徳的な罪悪感の強いタイプには抜群に効く。
生き残りを目指しているであろう弱者同士の集団ならば、そう言う輩もいるだろうという算段だ。

氷月は最初から叶苗の心情を見抜いていたわけではない。
彼はただ、最大公約数的に同情を買えるシナリオを投じただけだった。
だが、復讐と言う言葉に叶苗が明らかな反応を示した。

それは、意識的というよりも条件反射のような反応だった。
彼女の瞳が揺れたその変化は一瞬だったが、氷月の目は見逃さなかった。

すぐに彼の脳内で軌道修正が行われた。
想定していた“同情の得られる話”から、“相手の感情に寄り添う話”へと、語りの重心が滑らかに移行する。

司法に見捨てられ己が手を汚すしかなかったと、悲しみを帯びた口調で続けながら、
氷月はあたかも自分と似た過去を持つ者へ向けた言葉のように、叶苗に対して丁寧に言葉を選んでいった。

その瞳には、確かに傷を知る者の色が宿っていた。
氷月の良く知る復讐者。エネリットの仮面を氷月は完璧に模倣してみせたのだ。
それは彼にとって、呼吸を整えるのと変わらない、ごく自然な行為だった。

氷月の嘘は、状況に応じて変幻自在に形を変えながら、その場に適した最善の顔を選び取る。
叶苗の反応を読み取ったうえで、彼女の心情に寄り添う言葉を投じる。
共感は連帯感を生み、連帯は信頼へと変わる。
これに対して叶苗が自らの過去を打ち明けてきたのは僥倖だった。

彼の語った過去が真実であるかどうかを確かめる術は、この場にはない。
彼の引き起こした事件はそのセンセーショナルさから当時は国内でそれなりに話題になった。
だが、少年犯罪であったため犯人は少年Aとして匿名報道しかされておらず、その犯人が氷月であると言う事実は刑務官などの一部の関係者しか知られていない。
『少年A』として語られたその残虐な支配と殺人の記録は、一般には決して結びつかない。

何より『開闢の日』と言う全てを塗り替える大事件の以前に起きた事件など、大半は世間からはすでに忘れ去られている。
それ以前に、この場にいる少女たちは、事件が起きた時期にはまだ生まれてもいなかったのだ、氷月の素性を見抜けるはずもない。

真実は、彼自身の中にだけあり、誰にも知られることなく静かに氷の月は浸食していく。



256Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:27:08 ID:mnHbbPmw0
瓦礫の山をいくつか越えた先、川からそう遠くない位置に、比較的形を保った一軒の民家が見えてきた。
黒ずんだ外壁は煤け、屋根の瓦はところどころ剥がれ落ちているが、それでも建物全体は傾いておらず、窓枠や外装も比較的無事な様子だ。

「ここにしよう」

氷月が足を止め、静かに指を差す。

「二階が残っている。裏口も健在。崩落のリスクは低く、外敵に襲われても退路の確保が可能だ」

言葉の通り、木造の二階建ては周囲の建物に比べて状態が良く、扉や窓は一部割れてはいるものの、明らかに侵入された形跡はない。
草の伸びた庭を一周しながら氷月は確認を続ける。

「表口は鍵がかかっているけど……あそこの窓から入れそうだ。氷藤さん、少し手を貸してくれるかな?」
「え……あ、はい!」

呼びかけに叶苗が頷き、割れた窓枠の下にしゃがみこむ。
氷月が彼女を軽く支えるように手を添え、叶苗はしなやかに身を翻して窓から内部へと滑り込んだ。

中は想像以上に静かだった。家具はそのまま残され、床はきしむ程度で抜けていない。
空き巣や略奪の跡もなく、人がいなくなってから長い時間が経っていることを感じさせた。
叶苗は息を潜めながら玄関に回り、錆びついた鍵を何度か捻ってようやく開錠音が響く。

「……開きました」

小さく報告する声に、外で待っていた氷月が頷き、日月とアイを促して中へと入っていく。
扉が閉じられると、外の世界から切り離されたような静けさが広がった。

民家の内部は、外観よりも遥かに穏やかだった。
埃にまみれた家具、倒れた椅子、乾いた空気、どれも時間の流れを感じさせるだけで、危険な気配はない。
一行は一階の部屋を手早く点検したあと、リビングらしき空間にひとまず腰を下ろした。

朝を迎えたとはいえ、電気の通っていない民家の内部は薄暗く、空気はひんやりとしていた。
壁に仕切られ、瓦礫の世界から切り離された空間がもたらす安心感に、誰もがほんの少しだけ表情を緩める。
張り詰めていた緊張の糸が、わずかに緩む瞬間だった。

だが、アイだけは、依然として緊張の色を解かず、叶苗の腕にぴたりと身を寄せたまま、じっと氷月を警戒している。
突然現れたオスに対してその小さな肩は硬直し、細い指は叶苗の袖をぎゅっと掴んでいた。
その様子に、氷月は何も言わず、ゆっくりと動きを止めた。

「……大丈夫。怖がらせるつもりはないよ」

低く、柔らかな声。
氷月はアイに敵意がないことを示すように、正面にしゃがみこみ、アイと目を合わせることなく視線をわざと逸らす。
それから、口の中で小さな音を鳴らし始めた。

――チッ、チッ、チッ。

微かな、リズミカルな舌打ちの音。
それはゴリラ社会において敵意がないと示すために使われる非言語的サインだった。
リズムよく鳴らされるその音は、音楽でも言葉でもなく本能に訴えかける原始的な信号である。

「……?」

アイがぴくりと耳を動かし、首をかしげた。
警戒するように、しかし好奇心に負けるように氷月へと目線を向ける。

氷月はその間も一切動かない。
まるで近づいても安全だと伝えるかのように、ただただ、静かに待つ。

そして、アイがおずおずと前へと一歩、また一歩と足を踏み出す。
警戒心が完全に消えきってはいないものの、その小さな歩みは明らかに氷月を安全な存在と認識し始めている証だった。
その変化を、叶苗は驚きながら見つめていた。

やがてアイは氷月の足元まで近づくと、少し迷ったような表情のまま、その場に座り込んだ。
氷月がようやく顔を上げ、優しい声で囁く。

「よく来てくれたね。怯えさせて、ごめんよ」

アイは一瞬迷ったような表情を見せたが、やがてこくりと小さく頷いた。
その小さな仕草が、場の空気をわずかに和らげる。

叶苗は、そんなふたりの様子を優しい目で見守っていた。
自分があれだけ苦労してあやしたアイを氷月はあっさりと懐かせて見せた。
動物は本能で悪人を見抜くなどという幻想を、叶苗はどこかで信じていたのだ。

だが、それはやはり幻想でしかない。
実際にアイの心を動かしたのは、そうした心の清さではなく、動物の飼育に対する知識である。
適切な飼育のための知識は動物ごとに体系化され、正しい知識を持って接すれば動物の信頼を勝ち取るのは人間よりも簡単だ。

氷月の行動はまさにそれだった。
ゴリラに育てられたアイは入獄したばかりの叶苗の耳に入る程にアビス内で知られた存在だ。
彼はその知識を活用して『最適』を選び取っただけである。

257Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:27:36 ID:mnHbbPmw0
「そうだ、氷藤さん」
「はい………?」

何かを思い出したように氷月がふと立ち上がり、リビングの隅から何かを取り出して戻ってきた。
それは、色褪せたが比較的清潔なシャツだった。

「よろしければこれを」

不意に差し出されたシャツに、叶苗は目を瞬かせた。
予想外の申し出に戸惑いながら、彼の顔とシャツとを交互に見つめる。

「さっき家の中を調べた時に偶然見つけてね。たとえ獣人の姿とはいえ、年頃の少女が胸元をあらわにするものではないからね」

その言葉に、叶苗の頬がみるみる紅潮していく。
アイによってボタンをはだけられた彼女の胸元は体毛に覆われており、見えたところで気にしていなかった。
だが、改めて目の前の男にそう指摘され、忘れかけていた羞恥という感情が彼女の中に思い出された。

「あ……ありがとうございます……」

シャツを胸元に抱き寄せるように受け取ると、叶苗は消え入りそうな声で感謝を述べて視線を逸らした。
その様子を見て、氷月は僅かに頷き、言葉もなく静かに扉をそっと開けてその場を離れる。
叶苗が着替える時間と空間を、当たり前のように差し出したのだ。

下心を感じさせる素振りは一切ない。
ただ、必要だと判断したから、それに応じた行動をしたという紳士的な態度だった。

「……よかったですね。氷月さん、いい人みたいで」

シャツを羽織りながら、叶苗はぽつりと呟く。
その声には、素直な感謝と少しばかりの安堵が混じっていた。
アイもすっかり警戒心を解き、氷月に懐いた様子である。
しかし、その和やかな光景を、ただ一人――日月だけが別の角度から見つめていた。

着替えの終りを見計らって別室から戻ってきた氷月がその視線に気づいたのか、ふと振り返り日月と目が合う。
だが、男の顔には相変わらず穏やかな微笑が浮かんでいた。

「道具もないので大したことはできませんが、火傷の応急処置でもしましょうか?」
「結構よ」

日月は即座に遮った。
その声音には、明確な拒絶の意志が滲んでいた。

氷月は微かに肩をすくめ、深く追及することもなく退いた。
まるで、それも予想の範囲内だとでも言いたげに。

(……本当に、人の心を掴むのが上手いわね)

今のところ、彼の言動に怪しい点はない。
それどころか、最も理知的で冷静な判断力を発揮しているのは彼だろう。
けれども、だからこそ警戒すべきだと彼女の経験と直感が告げていた。

廃墟を訪れたことのある氷月が道案内を買って出ているのは流れとしておかしなところはない。
だが、見方を変えれば、入ったばかりの氷月に行動の主導権を握られている状況である。
それが余りにも出来過ぎた流れで気持ちが悪い。

言葉巧みに信頼を集め、穏やかに心の懐へと踏み込んでくるそのやり方。
氷月蓮のそれは、まるで訓練されたカウンセラーのように自然だった。

氷月は、相手が何に怯えているか、何を求めているかを的確に見抜いている。
警戒心の強い相手には距離を詰めず、警戒を解くのに時間をかける。

その姿を目の当たりにすると、日月はどうしても、思い出してしまう。

ステージの上、ライトの中。
無数の歓声と視線を浴びながら、完璧な笑顔を浮かべる『私』。
媚態も、無垢も、怒りも哀しみも、全部が「商品」だった。

観客の心理を読み、台詞を練り、笑顔を計算する。
そうやってファンや周囲の人間の『心を操作する』ことが、自分の存在価値だった。
純粋に光を放つ黄金ではなく、そんな計算尽くのイミテーション・ゴールド。

それが、鑑日月というアイドルの正体だ。
氷月 蓮という男は、あの頃の日月自身にどこか似ている。

優しくて、理知的で、観察に長けていて。
でもその実、他人をどうやって動かすかばかりを考えている目だ。
懐に入ってきて、信頼を集めて、意のままにするタイプ。

違いがあるとすれば、日月は輝くためにそれを使っていた。
でも彼は、何のために使っているのかが見えない。
目的が、動機が、奥底が、何も透けてこない。

だから――怖いのだ。

誰よりも自分が人の心を欺く側だったからこそ、
誰かが心を弄ぶ姿を前にすると、本能的に吐き気がする。

ジャンヌは、光だ。
氷月は、静かな影だ。
私がいるべき場所はどこなのだろう?

誰にも近づけず。
誰も近づかせず。
日月は、また『観察者』に戻っていた。

258Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:28:02 ID:mnHbbPmw0
薄暗い廃墟の中。
風も音も届かぬ、わずかな安息。
その静寂を破るように、不意に機械的な放送が響き始めた。

『――――定時放送の時間だ』

冷淡な看守長の声が響く。

『さて、それでは事前に説明していた通り、これより刑務作業の経過報告を行う』

そして、何の感傷もなく次々と受刑者たちの名を告げ始める。
一つ一つが、誰かの終わりを告げているのに、叶苗の耳には遠い世界の話のように聞こえた。

『……舞古 沙姫、ドン・エルグランド、宮本 麻衣、恵波 流都』

――――恵波 流都。

その名が告げられた瞬間。
まるで時間が止まったかのように、叶苗の思考は凍りついた。

「え……?」

喉の奥から漏れたのは、自分の声とも思えない掠れた疑問だった。
足元がぐらりと揺れ、力が抜けた膝が身体を支えきれず、彼女はその場に崩れ落ちた。

冷たい廃墟の床に膝をつき、両手をついても、感覚がない。
何かを考えようとしても、意識が空白に包まれ、ただ言葉にならない衝撃だけが全身を貫いていた。

「ブラッド……ストークが……?」

震える唇が名前を呼ぶ。
それは、叶苗の人生をかけて追い続けてきた復讐相手――家族を殺した黒幕、自分の心を喰い破った男。
その存在が、自分の手で裁く前に、別の誰かの手で命を絶たれたという報せだった。

それは、確かに喜ぶべきことのはずだった。
憎しみの象徴が消えた。悪が報いを受けた。それ以上の成果はないはずだ。
けれど――。

(終わってしまった……?)

そう思った瞬間、胸の奥を冷たい手が掴んだような、空虚な感覚が広がった。

――――思い出すのは、鉄の匂いだった。

冷たい冬の夜、家の中には血の匂いが満ちていた。
玄関の扉は壊され、父の喉は掻き切られ、母の胸には銃弾がめり込んでいた。
兄は首を吊られ、姉は床に這い蹲ったまま、身体の半分が焦げていた。

その光景を、彼女は見下ろしていた。
泣き叫ぶことも、怒鳴り声を上げることもできず、ただ喉の奥が凍り付いたまま、息を殺して立ち尽くしていた。

「……なんで」

何度、そう呟いたか分からない。
金目的の強盗。そう報道された。
だけど警察は調べなかった。誰も深く追わなかった。

誰も頼れないと思った。
自分がやらなければならないと思った。

だけど、自分は何の力もない小娘でしかなかった。
だから、この復讐を成し遂げるには人生全てを捧げるしかないと思った。
この復讐のために人生全てを捧げてもいいと思った。

その日から、彼女の人生は変わった。
獣人の第六感を頼りにしながら、残された遺産で人を雇ったり、使える物はすべて使った。
そうして、ようやく実行犯を見つけ出して、激情のままその手で裁いた。

一人、また一人と行為を繰り返す。
何度も吐いた。震えた。泣いた。
けれど、躊躇しなかった。
最後の一人を刺し殺した夜、手に残った血がぬるくて、乾かなくて、もう戻れないんだと知った。

そうしてようやくたどり着いたのだ――その裏にいたブラッドストークという存在に。

ブラッドストークさえ殺せばすべてが終わる。
それが、彼女の唯一の救いだった。
だというのに――。

(終わったの? それが……他人の手で?)

あれだけの痛みを抱えて、怒りを燃やして、
すべてを犠牲にして、ようやく手を伸ばせると思ったのに。

259Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:28:25 ID:mnHbbPmw0
目的だった。全てだった。命よりも重かった。
それが今、たった一言の放送で消えた。

誰が殺したのかも分からない。
どんな形だったのかも知らない。
ただ、無感情に“死んだ”という事実だけが突きつけられた。

彼女がこの手で裁くはずだった憎悪の象徴。
誰よりも憎み、誰よりも殺したかった存在。
それが――自分の知らぬところで、唐突に終わってしまった。

呆然とした視線が、焦点の合わないまま宙を漂う。
目的を失った魂が、肉体の中で宙吊りになっているようだった。
息をしているのに、胸が苦しい。心臓の鼓動が、自分のものとは思えない。

(なんで……私じゃなかったの?)

それは勝利ではなかった。
癒しでもなかった。
ただ、喉の奥に鉛のような絶望が沈み込んでいった。

この数年間、自分は何のために呼吸をしていたのか。
怒りを燃料にして、憎しみを道標にして、ようやくここまで辿り着いたというのに。
家族の仇を討つ。それだけが、生きる理由だった。
自分は復讐に残りの人生全てを捧げた。

殺してきた人間たちは。流してきた血は。
心を殺して、生き延びてきた日々は全ての意味をなくした。

何も残らなかった。
何も取り戻せなかった。
ただ、取り返しのつかない命と、擦り切れた心だけが、ここにある。

(私の……全てが、なくなった……)

叫び、怒鳴り、罵倒し、最後にその命を自らの手で終わらせる。
たとえ殺せなくても、何かしらの決着をつけるはずだった。
そうすることでしか、叶苗の『人生』は完結しなかった。

けれど、今、誰かの手によって、簡単に終わらせられてしまった。
まるで、自分の存在そのものを奪われたかのように。

復讐を遂げた先には何も残らないとはよく言うが。
遂げられなかった復讐の先には、果たして何が残るというのか。

そんな叶苗の異変を、誰よりも早く察知したのはアイだった。
不安げに身体を縮めながら、まるで家族の異変を感じ取った幼い獣のように、そっとその身を叶苗へと擦り寄せる。

「アイちゃん……」

掠れた声で名を呼んでも、それに続く言葉は見つからなかった。
叶苗の目からは涙すら流れなかった。
あまりに唐突で、あまりに理不尽で、感情が追いついていない。

ただただ――何もかもが、わからなくなっていた。

生きて、何をすればいいのか。
この先、どこへ向かえばいいのか。
殺意という炎を灯し続けていた灯籠が、何者かによって水に沈められた。
火が消えたあとには、燃え殻だけが、ぽつんと残されている。

叶苗はそんな自分をどうすればいいのか、分からなかった。
ただ、アイの温もりだけが、現実と自分をかろうじてつなぎとめていた。

日月はその様子を黙って見つめていた。
ジャンヌとの尋問で、氷藤叶苗という少女が抱えているものを日月は知っている。
家族を皆殺しにされ、理不尽に人生を奪われ、それでも怒りの炎だけを胸に灯して生きてきた少女。

彼女の抱える痛みは、日月には理解できない。
軽々しく慰めることもできず、同情の言葉などなおさら吐けなかった。

それでも、落ち込んだ『誰か』を元気づけるのがアイドルの役割なのかもしれない。
だが、日月にとってのアイドルとは光り輝くことで周囲を魅了する存在だ。
自身も、『誰か』のためではなく『自分』のために偶像(アイドル)となりその存在を崇拝してきた。

だからこそ、叶苗の沈黙の重さを前に、彼女に対してかける言葉を持たず。
それはまるで、自分は「何者でもない」のだと突きつけられるようでもあった。

260Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:28:39 ID:mnHbbPmw0
そんな日月の沈黙の脇を、氷月蓮が静かに通り過ぎた。
足音を立てぬように気遣うその歩みは、まるで傷つき倒れた子供に近づく医師のように慎重で、優しかった。

崩れたまま動けない叶苗の傍にしゃがみ込むと、氷月はまず何も言わず、同じ高さまで目線を落とした。
言葉をかける前に、まず同じ高さに並ぶこと――それが、彼の最初の手法だった。

しばらくの沈黙。
やがて、氷月は穏やかに口を開く。

「復讐を成し遂げた僕には、君が何を失ったか。正確には分からないだろう。
 でも……人生の中心にあったものを奪われた時の感覚なら、分かるつもりだよ」

穏やかで、低く、心に染み入るような声。
その声には、慰めではなく理解があった。

叶苗はぼんやりと顔を上げ、氷月の顔を見つめる。
彼の表情には同じ復讐者としての深い共感が満ちており、彼女の心に静かに染み込んでいく。

「人間の心は、強い目的によって形づくられる。『復讐』のように強烈な意志は、心の奥深くに根を張るんだ。
 そして、それが突然引き抜かれると……残るのは空洞だ。痛みすら感じない。ただ、空っぽで、冷たい空間だけがある」

ゆっくりと、氷月は言葉を紡いでいく。
感情ではなく、理性で悲しみを解きほぐすように。

「心理学者のカール・ヤスパースは、これを『限界状況』と呼んだ。人が絶対的に避けられない状況に直面した時、価値観の全てが崩壊してしまうんだ。
 君の今の状態は、それに近い。自分の中で定義した『生きる理由』が失われ、心がまだ新しい軸を探せずにいる」

叶苗は微動だにしない。だが、かすかに呼吸が変わる。
無意識に、その言葉に耳を傾けている証拠だった。

「君が間違っていたわけじゃないよ。憎しみに囚われていたわけでもない。
 大切な人を奪われて、その痛みを抱えながら、それでも歩いてきた。
 その気高さは、失われない。だけど……それだけに依存しすぎると、『それを失った自分』を見失ってしまう」

氷月の言葉は、教えるようでもあり、諭すようでもあった。

「人間の精神には空白を埋めようとする力がある。今は、その空白が痛むかもしれない。けれど……そこには、何か新しい目的を置くことができる。
 誰かを守ることでもいい。何かを築くことでもいい。少しでもいいからこう考えてみないかい? 君は『復讐』の代わりに何かを選ぶという選択肢を得たのだと」

それは共感を装いながら、さりげなく『依存先』を誘導する言葉だった。

「……君には、もう君を見つめてくれる存在がいる」

そう言って、氷月は視線をアイへと向ける。
叶苗の腕に寄り添い、子犬のように身を預けている少女。
その小さな温もりが、今も叶苗を現実につなぎ止めている。

「彼女のために生きる。今は、それでもいいじゃないか。
 目的は失われたかもしれない。だけど、終わったわけじゃない。
 君の物語は、まだ続いてるんだ」

氷月は最後に、ほんの少しだけ声のトーンを落とし、叶苗の心に沈むように囁いた。

「……君に及ばずとも、復讐と言う痛みを、分かち合えるのは僕しかいない。
 だから、僕を信じて。君が新しい意味を見つけられるように、僕は力になるよ」

言葉のひとつひとつが、周到に選ばれていた。
丁寧に、繊細に、だが確実に――叶苗の弱った精神を、氷月の存在へと結びつけていく。

日月はその様子を、壁際から静かに見つめていた。
氷月の行動には一切の無理がなく、言葉には強制もなかった。
それなのに、叶苗の呼吸は徐々に落ち着き、目の焦点がかすかに戻りつつある。

――まるで、催眠術のようだった。

(……本当に、人心を掌握するのが上手い男)

その才能に、日月は心の底から感嘆した。
だが同時に、それは氷月という男に対する最大級の警戒信号でもあった。

彼はただの知識人ではない。
人の心の動きに熟達した、冷静な観察者であり、操作手。
他者を選び、導き、操ることに特化した――まさしく、静かなる支配者。

叶苗の肩が震えながらも小さく揺れた。
その震えが嗚咽であると気づいた時、日月は静かに目を伏せた。

261Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:29:06 ID:mnHbbPmw0
【C-7/廃墟東の民家/1日目・朝】
【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.この集団の信頼を得る。
2.集団の中で殺人を行う。

【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.氷月を警戒。
1.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
2.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。

【アイ】
[状態]:全身にダメージ(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(れんはきらいじゃない)

【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(中)、罪悪感、虚無感、尻尾に捻挫、身体全体に軽い傷や打撲
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.新しい生きる目的を得たい。
1.アイちゃんを助けたい。

※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
 以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。

[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。

262Lunar Whisper ◆H3bky6/SCY:2025/05/08(木) 22:30:04 ID:mnHbbPmw0
投下終了です

263Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:13:11 ID:qCFRWJow0
投下します

264Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:13:45 ID:qCFRWJow0



 静寂に満ちた室内の空気を揺らす声。
 密やかに、愉しげに、笑う少女の声が、静まり返った室内の空気を揺らす。

 「随分と愉しそうですね。ルクレツィア」

 先程までとは異なり、熱心に書籍を読み耽るルクレツィア。
 黒檀の椅子に腰を下ろし、椅子と同じく黒檀で出来た机に、背筋をまっすぐ伸ばして座り、紫煙を燻らせていた煙管を消して読みふける姿。
 数ページ読んでは投げ捨て、また新しい本を手に取っていたルクレツィアが“当たり”を引き当てた事を意味していた。

 「愉しいですよ。ええ、とても」

 複数箇所で布地が裂けて、血の染み込んだ刑務服を着ているとは思えない優美さを感じさせる振る舞いでソフィアの方を向き、笑顔を見せた。
 
 「フフフ…他人のプライバシーを覗き見る事は、好きでは無いのですが……。何故そんな目で私を見るのですか?」

 「先刻しどーくんの事を、熱心に訊いて来たのは誰でしたか?」

 「他人では無く、友人でしょう。私達は」

 皮肉をアッサリと切り返され、ソフィアは口を閉ざす。

 「この本が気になりますか?友人ですから教えて差し上げたいのですが…。ソフィアの嗜好には合わないと思いますよ?」

 “合わないのは貴女の存在自体です”。と胸の内で思ったソフィアだが、無論口には出さない。

 「どんな内容かお教えしましょうか?気になるでしょう?」

 「結構です。ロクなものでは無いのでしょう?」

 「そうですね。読む事を勧める人を選びますね………。飼育記録…?いえ、観察記録?ですね、これは。
 “生き物”を飼うのはお好きですか?」

 「………?昔、飼っていたことが有りますが」

 「しどーさんは、どうでしたか」

 「彼は犬派で、わたくしは猫派でしたね」

 「幼い頃に色々とお父様が買い与えて下さったのですが…。私は何方も好きでは無かったですね。“すぐに“死んでしまいましたので。
 まぁ大型動物は長く生きますが…鳴き声が好きでは有りませんでした。
 今では好きなんですけれどもね、愉しめますし」

 微笑を浮かべたまま、少しの間、過去を振り返るかの様に遠くを見る。

 犬や猫でも、人が飼えば10年以上生きるが、ルクレツィアが言っているのは、そう言う事では無いのだろう。

265Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:14:33 ID:qCFRWJow0
 「やはり人間が一番好ましい」

 「………そんな事だろうと思いました」

 「虚勢を張って恐怖を隠し、意地の為に痛みを堪え、あざとく諂って苦痛を与えられない様に立ち回り、小賢しく痛みに屈した様に振る舞い、此方の関心を失わせようとする」

 人間が魅せる千差万別。その全てを痛みと苦しみで塗り潰し、“痛い”と鳴き、“苦しい”と訴える事しかできない様にする。
 その果てに、無惨に卑屈に無様に、死という救済を、生の終わりという安穏を、己を苦しめ抜いた相手へと、乞い願う様になるまでに貶める。
 そこで与える紫煙の夢。偽りの安楽。苦しみも痛みも恐怖も無い、紫煙揺蕩う理想郷。其処から現実へと引き戻された際の絶望と慟哭。

 「気高い人も、誇り高い人も、卑屈な人も、勇気ある人も、臆病な人も…。数多の人間が居て、人間の数だけ異なる反応が有る。
 動物では、ああまで愉しめませんね」

 過去に嬲り殺した人間を思い出しているのか。当然とした瞳で物思いに耽るルクレツィア。
 内面を知らずに、姿だけを見るならば、想い人を想う深窓の令嬢といった風情だが、思い描いているのは、血と臓物で彩られる赤黒い地獄絵図だ。

 「印象に残った方を除けば、一人一人を詳細に覚えている訳では有りませんが…。彼等は私を愉しませてくれましたし、私は彼等を愉しみ尽くしましたよ」

 赤黒く染まった衣服に染み付いたものでは無い、腐敗臭の混じった血の臭いが漂ってきそうな述懐だった。
 
 
 “話がそれてしまいましたね”。などと言うルクレツィアに、“逸らしたのは貴女でしょう”。と思うが、これも口にしない。

 「それでですね。此処に記録されている“生き物”ですが、ソフィアの興味を惹くとは思いますよ。書かれている内容は兎も角。
 ………知りたいですか?」

 「生き物…ですか。動物では無く」

 「生き物ですよ。動物では無く」

 話を振っておきながら、はぐらかすルクレツィアに、ソフィアが僅かに苛立ちを覚えたのを目敏く察し、ルクレツィアは核心を切り出した。

266Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:15:00 ID:qCFRWJow0
 「ジャンヌ・ストラスブールさんの、15歳から17歳までの記録です」

 「えっ……」

 とんでも無い事を言い出したルクレツィアに、ソフィアが魔の抜けた声を出して固まった、
 ルクレツィアは、ソフィアの反応が面白かったのだろう、クスクスと笑って、開いた“観察記録”をソフィアの前へ押しやった。

 「ソフィアが興味を持つだろうと思って、勿体をつけた甲斐が有りました。
 内容に関しては、捏造では無いと思いますよ」

 「何故そう言い切れます」

 「私の記憶と一致する箇所が有りますので」

 興味が有るなら御覧になります?と勧めてきたので、全力で拒絶する。
 ルクレツィアの言う“記憶と一致する箇所”とはつまち、ルクレツィアがジャンヌを“買った”時の記録だろう。
 記されている事は、容易に予想がつくし、必然として読みたくも無い。
 
 「何故こんなものが…?それに、こんなものが有るのならば、ジャンヌ・ストラスブールの無罪の証明になる筈…」

 「なるとは思いますよ。けれども、こんな記録が有りながら、ジャンヌさんは収監され、この刑務に駆り出された。
 ジャンヌさんが無実で有るかどうかはどうでも良いのではないでしょうか。
 寧ろ、ジャンヌさんが無罪であると主張する声が大きくなったときに、使われると思いますよ。此れは」

 続く筈のルクレツィアの言葉を、ソフィアが引き取り、代わりに続ける。

 「……これだけの虐待と凌辱を受ければ心が折れても仕方が無い。
 “あの”ジャンヌ・ストラスブールであっても、所詮は二十にも満たない少女。
 耐えられる筈が無い。耐えられる訳が無い。
 悪に屈して、罪を為してもおかしくは無い。
 本来なら死罪のところを、終身刑とされたのは、事実を汲んだ上での温情だ。
 そういう風に、無罪を主張する人達を黙らせられる」

 「何故ジャンヌさんが投獄されたのかは分かりませんが、この記録の用途はそんなところでしょうね。
それに……」

 僅かに頰を赤く染めて、潤んだ瞳をソフィアへと向けて、ルクレツィアは歌う様に続ける。

 「そう理屈を付けられる。そうやって、届かぬ高みにいる“聖女”を、自分達と同じ高さに居る“只の少女”にまで引き摺り下ろす。
 人は誰しも、そうやって自分よりも高いところに居る人を貶めるのが大好きなのです。
 誰しもが受け入れる、“失墜”の理由ですね」

 「貴女が言うと、真実味が有るわ」

 「否定はしませんよ…。そういう方が、痛みに泣き、苦しみに嗚咽し、私に対して吐き続けていた罵倒を一変させて、、救い(死)を懇願する言葉を紡ぎ続ける。
 其処にこそ…其処だけに存在する、“人を壊した”という確かな実感。
 そうなるまで壊した人間から感じる事が出来る“至上至高の痛み”。
 “人を貶める”という事に於いては、私は世の中の人達よりも、徹底して行いましたからね。
 愉しくて悦べる…。好きな行為ですよ。ええ、とても」

 “ジャンヌさんや、先程出逢ったりんかさんには、到底理解出来ない悦びでしょうね“。
 そう付け加えて、クスクスと笑うルクレツィアに、ソフィアは厭わしいものを見る目を向けていた。
 どれだけ厭わしくとも、ルクレツィアに呪われた様に、離れる事の出来ない己を自覚しながら。

267Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:15:53 ID:qCFRWJow0


 疲れた風情で息を吐き、ソフィアは黙考に耽る。
 無為に時間を過ごしている様にも思えるが、どうせ今は放送直前だ。殆どの刑務者は、フレゼア・フランベルジェの様な狂人でもなければ、行動せずに放送を待つ事だろう。
 それに、戦う者が居れば勝手に潰し合えば良い。
 ルクレツィアの死刑を回避し、かつアビスの外へと出さない事がソフィアの目的。
 他の刑務者達が勝手に潰し合って、勝手に消耗するのならば、首輪の取得が楽になる。

 ────そもそもが、此処(ブラックペンタゴン)へ来るつもりなど無かった。

 ポイントを稼ぐ為に、ブラックペンタゴンへと赴き、適当な相手を見繕う。
 確かに理にかなっているが、ソフィアが欲するのは、ルクレツィアの罪を一等減じる事だ。
 その為に必要なのは、恩赦ポイントでは無い。
 ポイントは確かにいるが、かねてからの懸念である、死刑及び無期懲役の判決を受けた罪人達は、一括で罪を精算すること以外を認めない。という場合。
 死刑や無期刑には減刑など許さない。というルールだった場合。半端にポイントを持っていたところで意味が無い。
 この点を踏まえて考えれば、ポイント以外のアプローチが必要となる。
 つまりは囚人の持つポイントでは無く、囚人そのものの価値。
 言うならば犯罪者としての格。
 外に出た場合、世に及ぼす影響の大きい刑務者を仕留め、その刑務者の持つポイント(刑期)では無く、刑務者自身の名を交渉材料とする。
 
 その為にソフィアは、最初はルーサー・キングを狙っていたのだ。
 欧州に君臨する犯罪界の帝王。
 その生命の価値は、この刑務に服している刑務者全てを併せても、及ば無いだろうl。
 “アビス”の囚人で、世に出してはならない悪は誰かと問われて、誰もが挙げるだろう邪悪の巨名。
 ルーサー・キングの首は、大抵の要求を通せるだけの価値が有る。
 そのルーサーは、態々刑務に取り組む必然性は低い。
 内藤四葉や大根卸樹魂の様な戦闘狂なら兎も角、あと4年で出られる身でありながら、鉄火場に身を投じる理由が無いからだ。
 ソフィアはそう推測し、ルーサーを仕留めるべく、刑務者が集まるだろうブラックペンタゴンを避けて、島の周辺を捜索しようと考えていたのだが。
 その考えは、ソフィアが握りしめる地獄への片道切符が粉砕した。

 ソフィアとルクレツィアの二人で、ルーサー・キングに挑み、勝ち得るかと言えば否である。
 必然として、誰かに助力を仰がねばならない。
 そして、“牧師”を殺害する上で、協力を求める事が可能な刑務者は、二人。
 ネイ・ローマンとジャンヌ・ストラスブール。この両名。
 然し、ローマンとジャンヌの協力は仰げ無い。
 ルクレツィアが過去に拷問して嬲り抜いたジャンヌが、ルクレツィアと共に戦う事を承諾するかと問われれば、否だろう。
 ルクレツィアは自分の事など覚えていないだろうと言っていたが、全く当てにならない。
 もしもジャンヌが、ルクレツィアの事を覚えていれば、顔を合わせるなり殺し合いになりかね無い。

268Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:16:48 ID:qCFRWJow0

 ネイ・ローマンもまた、ルクレツィアが過去にアイアンハートの構成員を嬲り殺している時点で、避けるべき相手となる。
 ルクレツィアの身元が割れる様な不手際を、バレッジ・ファミリーがするとは思え無いが、ルクレツィア自身が口を滑らさないとも限らない。
 ルクレツィアは決して頭が悪い訳では無い。だが、刹那的とも言える享楽主義者である為に、その場の悦と思いつきで行動する傾向がある。
 ソフィアを殺そうとし、実際に生殺与奪を握りながらも、アッサリと殺す事をやめて、友人になろうと言って来たのが良い例だ、

 その為に行動が読み難いが、それは先刻ルクレツィアに襲われた二人が生き延びる事が出来た原因でもある。
 ルクレツィアが最初の予定通りに行動していれば、ソフィアは人の形を留めない二人の骸と対面する事になっただろう。
 ともあれ、気分次第で行動を変えてくるルクレツィアが、ローマンに過去の所業を喋らないとは限ら無い。
 “ネイ・ローマンに敵対してはならない”。
 欧州のストリート・ギャングの不文律は、ソフィアも知っている。超力を無効化できるソフィアだが、ルクレツィアが死ぬ危険性を慮れば、ネイ・ローマンもまた、避けるべきだった。

 「はあ………」

 思い溜息を吐き、結論の出ない考えを続ける。
 ルーサー・キングの殺害が不可能ならば、代わりとなる巨悪を討たねばならない。
 “大海賊”ドン・エルグランド。“戦犯”アンナ・アメリナ。“炎帝”フレゼア・フランベルジェ。
 そして…。

 「……はあぁ…………」

 ”紅血の鴻鳥”ブラッドストーク。
 “開闢の日”以後の日本の裏社会に君臨する、巨大犯罪組織の支配者達を、自警団を隠れ蓑に育て上げ、その後も無数の犯罪者を“創り上げた”怪人。
 
 ブラッドストークの創り上げた犯罪組織が世に知られて以降。
 溢れ返った悪と暴力に対する自警行為に対して、社会の目線が厳しくなり、警察も自警団へと厳重な取り締まりを行うようになった。
 結果、日本に於ける自警を萎縮させ、何人もの自警団員が投獄される原因とされる、日本の治安を著しく悪化させたヴィラン。
 日本に限定するならば、ルーサー・キングに匹敵する巨悪。
 その巨悪も、葉月りんかと交戦して、傷ついた状態ならば、ルクレツィアと二人で掛かれば確実に仕留められた筈。
 そうする事なく、あの場を離れてしまったのは、ルクレツィアがふてぶてしくも眠りこけたのと、ソフィア自身があの二人の近辺にいる事に耐えられなかったからだ。

269Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:17:38 ID:qCFRWJow0

 頭を抱えて長い長い溜息を吐く。
 無性にやるせ無くなってきた、あと何だか腹立ってきた。

 ルーサー・キングを討つ為の助力も、ブラッドストークを仕留める好機も、全てはルクレツィアが吹っ飛ばしてしまった。
 思わず、恨めし気な視線を、未だに悍ましい“観察記録”を愉しげに読み耽るルクレツィアへと向ける。
 視線に気付いたルクレツィアが、ソフィアを見つめると、瞬きを二、三度して、口を開く。

 「どうかしましたか、お疲れのようですが」

 無言で立ち上がると、左右の拳骨をルクレツィアのこめかみに当てて、思い切りグリグリした。

 「あああああああ〜〜〜〜〜〜!!」

 貴女の所為で疲れてるんです。と言っても意味が無さそうなので言わない。
 妙に嬉しそうなルクレツィアに、わざと言ったんじゃないかという疑念が湧き、拳に更なる力を込める。
 暫く続いたグリグリと嬌声は、定期放送が始まるまで続いた。

◻️

270Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:18:07 ID:qCFRWJow0


 「………」

 名簿を見ながら、死者の名を聞いて、ソフィアの気分は沈んでいく。
 大地を灼熱の溶岩と変え、大気を呼吸することすら出来ぬ程の高熱にするという、無効化能力を持つソフィアにとってもやり辛いフレゼアの死は、歓迎する所ではある。
 ドン・エルグランドにしても、下手な強化系のネイティブを容易く凌駕する身体能力を誇る怪物。こんな化け物の相手はソフィアもルクレツィアも分が悪い。
 絶世の武功を誇る呼延光も同様、死刑囚とは言え、避けたい相手ではあった。

 だが、“虐殺者』アンナ・アメリナの死は痛い。
 自己の能力を強化するタイプの超力は、ソフィアにとっては最もやり易い。
 手練れの軍人とは言え、その本領は指揮官で合って戦場の勇者では無い。楽に仕留められる相手だったのだ。
 誰かの所得して99Pと、アンナ・アメリナという悪の巨名の持つ“価値”を思い、溜息を吐き掛け────。
 
 不意に反吐が出そうになった。

 なにを考えているのかと。他者の命にラベルを貼り、死んでも良い者とそうで無い者を選別するどころか、人を只の点数と、点数の入手難易度で判別するなどと。
 死者のポイントに思考を巡らせるのならばk先程ルクレツィア襲撃された二人が生きている事を喜ぶべきだろう。
 そう考えて、りんかと紗奈が傷ついた責任を、ルクレツィアに押し付けている事に気付いて、更なる自己嫌悪を抱く。
 鬱々とした気分を堪えて顔を上げると。

 「肩でも揉みましょうか?」

 ルクレツィアが両手の指を蠢かしながら訊いてきた。

 「結構です」

 肩の関節外されたり、痛点思い切り抉られそうでそうで嫌。あと何だか指の動きが淫猥なのが一番嫌。

 「……貴女は随分と嬉しそうですね」

 残念そうな素振りも見せずに、どことなく嬉しそうにしているルクレツィアへと、冷たい眼を向ける。
 人がこんなにも悩んでいるのに、何故にこんなに嬉しそうなのか?
 大体わたくしが悩む原因は、誰だと思っているのか?
 
 「知っている方が、誰も亡くなられていないのは、喜ぶべき事でしょう」

271Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:18:39 ID:qCFRWJow0
 「……知っている方?」

 「ええ、そうです。
 ジャンヌさんに、ジルドレイさんに、りんかさんに、紗奈さんに、面識はありませんがデイビッドさん。皆さんご無事で何よりです」

 「……………」

 嬲り殺しにしようとした二人の生存を喜べる精神が理解出来ない。
 絶句してしまったソフィアと、嬉しそうなルクレツィア。
 妙な雰囲気の時間が、少しの間続いて。
 
 「ジャンヌさんとあのお二人には、もう一度お会いしたいものです」

 「……ああ、そう」

 この狂人は、もう一度会って何をしたいのか。言葉にせずとも理解できる。
 傷付けて、辱めて、惨たらしく殺したいのだろう。
 それにしても────と、ソフィアの思考は再び自嘲を始める。
 人命をポイントとしか考えていなかったわたくし。
 他者に向けて悍ましい欲求を抱くルクレツィア。
 何方がより厭わしく邪悪なのか?
 改めて問うまでも無い。
 両方だ。
 わたくしもルクレツィアも、諸共に厭わしい。
 
 ────“似合いの友人”じゃないか。

 そんな事を思い、ソフィアの精神は更に陰鬱に沈んで行く。
 沈んだ表情で黙り込んだソフィアに、ルクレツィアは今後の方針について切り出した。

 「当面の間は争いを避けて、何処かに潜みたいのですが…。この刑務は本当に良く出来ている……悪意に満ちていると言っても良いですね」

 「……えっ?」

 意外な発言に、ソフィアは驚きを隠せない。
 即座に惨殺する獲物を求めて、繰り出すのかと思っていたのだが。

 「意外そうな顔をされると傷付きますね。私は戦う事は好きでも得意でも無いのです」

 「…………納得しましたわ…」

 ソフィアの心を折り、りんかを圧倒したとはいえ、ルクレツィア自身も超力による超回復が無ければ、とうに絶命しているダメージを受けている。
 戦闘に秀でていないと言うのは事実であり、殺人者でしか無いルクレツィアは、一方的な殺人ならば兎も角。確かに戦闘は好まないだろう。

 ソフィアの考えている事を察したのか、少しむくれた顔をして、ルクレツィアは話を始めた。

 「此処には刑務者が多く集まってくるでしょうから、隠れていれば、戦って傷付け合った刑務者を楽に殺せます。
 そう考えて気付いたんですよ。この刑務を構成する“悪意”に」

 「悪意ですか」

 「この刑務ではポイントの奪取も譲渡も有り得ない。ポイントを得る為には、刑務者を殺してポイントにするしか無い。
 つまり、恩赦を得る為には、必然的に誰かを殺すしか無い。
 隠れて他の刑務者が消耗するのを待つなど論外。そんな悠長な事をしていては、取得できるポイントが無くなってしまう。
 島の外周部に、円を描くように配された立ち入り禁止エリア…。どうしても殺し合って欲しいようですね。私達に」

272Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:19:49 ID:qCFRWJow0

 ルクレツィアの話を聞き終えて、ソフィアは黙って考える。
 ポイントの取得のみに気を取られていたが、アビス側の設定した条件からしても、殺し合いを強要している。
 それならば、何故に二十四時間という期間を設けたのか?
 そこまでして殺し合わせたいのならば、徹底して殺し合わせれば良いではないか?
 ポイントを物品と交換する任務に従事している超力者────ケンザキと呼ばれていた刑務官だろうが────の健康状態でも慮っているのだろうか?
 まさか労働基準法に抵触するからという訳でもあるまい。物品が支給されない時間帯を設ければ────ケンザキの休憩時間を設定すれば済む話だ。
 そこまで考えて、ソフィアは思考を打ち切った。
 考えても、答え合わせが出来ない以上は、意味が無い事だ。
 もっと有意義な事に時間を費やすべきだろう。
 例えば眼の前にいる、何を考えているか未だに不明な狂人との交流とか。
 
 「貴女は恩赦に興味が無いのですか?ルクレツィア」

 ルクレツィアに対して、好意を抱く事は無いだろうし、抱きたくは無い。
 それとは別にして、ルクレツィアからの好意は得ておかなければならない。
 唐突に心変わりして殺しに掛かって来られない様に、鉄火場でソフィアを見捨てて逃げ出さない様に。
 ソフィアはルクレツィアを切り捨てる事は出来ないが、ルクレツィアはソフィアを切り捨てる事が出来る。
 二人の関係は、決して対等では無いのだから。
 ルクレツィアがどれだけ友好的に接してこようが、ソフィアのシバキを笑って受け入れようが、二人の関係は対等では無い。
 それでも、ソフィアはルクレツィアを手離せない。まるで呪いを掛けられた様に。

 「最初は恩赦を得ようと思いましたよ。牢獄から出られたのが嬉しくて、気分が高揚していましたので。
 けれぢも…時間が経って冷静になると、この刑務は恩赦というもので刑務者を争わせていますが、本当に恩赦の約束を履行するのかと、そう疑問に思いまして」

 「どうして、そう思ったのですか」

 「ソフィアの事ですから、エルサルバドルという国を知っていると思いますが」

 「ああ……」

 国内外の凶悪犯罪者達を収容した巨大刑務所の崩壊。
 それにより国内に解き放たれた三十万にも及ぶ犯罪者達。
 瞬時に政府は崩壊し、地獄と化した国家。
 エルサルバドルの惨状と、それを招いた原因を知っていれば、この刑務で得られる“恩赦”に疑問を抱くのは当然だろう。
 アビスに収監されているのは、更生など望めぬ凶悪犯か、強力な超力を有する、人のカタチをした兵器と呼ぶに相応しい者達。
 ルクレツィアの様な狂人を外に出しただけでも、結果を想像したくもない。
 ましてや、フレゼアやドミニカの様な、破壊と殺戮に特化した超力を有する者など、決して外には出せないだろう。

 「……世間の事には関心が薄いと思っていましたが」

 思わず口を吐いて出た疑問を、ソフィアは直ぐに後悔する事となる。
 
 「エルサルバドルの方と、少し“御縁”が有りまして、難民だったそうです」

 「…………」

 「他人のプライバシーには興味が無いのですが、あの方…とは他人とは言えない間柄になりましたので」

 ポストアポカリプスそのもと化した故国を脱し、異国の地で艱難辛苦の果てに、売られたのか捕まったかを経て、“血塗れの令嬢”を彩る鮮血の一部となった、顔も知らぬぬ異郷の人。
 
 ルクレツィアに呪われた身では、そんな資格などないと知りつつも、ソフィアは深く哀しんだのだった。
 

◻️️

273Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:20:51 ID:X6xozuxM0
️️

 ────危ないところでした。

 ルクレツィアはソフィアの隣を歩きながら、密かに安堵する。
 エルサルバドルの難民の話をした時に、口を滑らせて、殺したのが姉妹だった事を話してしまうところだった。

 ────ソフィアが聞けば、きっと気を悪くしたでしょうね。

 妹を庇う姉と、姉を傷つけられて泣く妹と。

 ────りんかさんと、紗奈さん事を、ソフィアも思い出すでしょうから。

 姉を庇う妹と、妹を傷付けられて慈悲を乞う姉と。

 ────友人とはいえ、そこまで気分を害する話をする訳にはいきません。

 眼の前で、庇った妹を解体される姉の絶叫。

 ────私やニケとは、ソフィアは違うのですから。して良い話を選ばないと。

 ルクレツィアに呪詛を叫び続けた姉が、死を懇願する言葉を紡ぎ続ける様になるまで行った加虐。

 ────それにしても、りんかさんと紗奈さんがお元気そうで良かったです。

 念入りに五体を砕き、全身を切り裂いて、息も絶え絶えになった姉に、初めて使った“紫煙”。
 
 ────もう一度、御二人揃って、お会いしたいものです。

 その時に感じた法悦。
 あの悦びを再度味わえそうな二人は、果たして此処に来るのだろうか、来たとして再開出来るだろうか。

 ────互いに生きて再会したいものです。

 己の“悪”を肯定する令嬢は、暫し邪悪な思考に耽るのだった。
 
◻️

274Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:21:16 ID:qCFRWJow0


 「さて、何時迄も此処で時間を潰していたいものですが……。他にも人が来そうなんですよね。何処に行きましょうか?」

 ルクレツィアがソフィアに決断を要求してくる。
 奔放かつ気ままな御令嬢ではあるが、ソフィアに対して合わせようという意思は有るらしい。
 単純に面倒事を押しつけているだけなのかも知れないが。
 陰鬱さが占めていた精神に、微妙に怒りが混じるのを感じながら、ソフィアは応じた。

 「此処に来たいと言ったのは貴女ですよ?……それはそうとして…そうですね、隠れるとすれば物置……。待ち伏せするとすれば、一箇所しかない階段ですね。
 先ずは物置きに潜んで、それから階段で待ち伏せをするのが良いでしょう。
  先刻わたくしが会いたく無いと言った三人は、全員が室内戦闘を得手とします。警戒を怠らない様に」

 これは嘘でも何でも無い。室内では壁や天井を泳ぎ回る怪盗や、少しの空間があれば潜める脱獄王は、確かな脅威だ。
 ジェーン・マッドハッターにしても、超力で煙草の煙を強力な毒ガスとする事で、何の変哲もない室内を、ガス室に変える事ができる。
 全員が全員。この刑務に於いて、油断出来ない難敵である事だろう。

 真面目に刑務に取り組んでいれば、だが。

 図書室を後に、周囲を警戒しつつ物置へと向かう。
 その道すがら、ふと思い出したのは、死者の名を告げられた際に、名簿を再確認したからだろう。

 ────ハリックね…。"あの”ハリックなのだろうか?

 血統とともに受け継がれる予知能力を活かし、GPAに優秀な人材を提供し続けるハリック家。
 確か、10年以上も前に、アビスの囚人となったハリック家の者が居たと聞いた事があった。
 もしも、わたくしが知るハリック家の方なら…。
 ソフィアの超力は、超力しか無効化しない。
 ハリック家の者が持つ“予知”には無力なのだ。
 難敵の尽きない事に溜息を吐いて、ソフィアはルクレツィアと並んで歩き出した。
 
 ルクレツィアの尽きせぬ邪悪さに、深まる一方の嫌悪感に苛まれつつも、決してルクレツィアを手放せない己を、この“血塗れの令嬢”に呪われている様だと自嘲しながら。



【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(中央) 図書室付近/一日目・朝】
【ルクレツィア・ファルネーゼ】
[状態]: 上機嫌 血塗れ 服ボロボロ
[道具]: デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針] 殺しを愉しむ
基本.
0.もっと素直になれば宜しいのに。
1. ジャンヌ・ストラスブールをもう一度愉しみたい
2.自称ジャンヌさん(ジルドレイ・モントランシー)には少しだけ期待
3.お友達(ソフィア)が出来ました、もっとお話を聞いてみたい気持ちもあります
4.さっきの二人(りんかと紗奈)は楽しかったです。出来ればもう一度会いたいです。

【ソフィア・チェリー・ブロッサム】
[状態]:精神的疲労(大)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦を得てルクレツィアの刑を一等減じたい。もしも、不可能なら……。
0.暫く潜んでから、疲労した刑務者を仕留める
1.ルーサー・キングや、アンナ・アメリナの様な巨悪を殺害しておきたい
2.この娘(ルクレツィア)と一緒に行く 。例え呪いであったとしても
3.あの二人(りんかと紗奈)には悪い事をしました
4.…忘れてしまうことは、怖いですが……それでも、わたくしは
5.ハリック…。あのハリック家の方なのでしょうか?

275Whatever it is, that girl put a spell on me ◆VdpxUlvu4E:2025/05/12(月) 22:21:31 ID:qCFRWJow0
投下を終了します

276 ◆H3bky6/SCY:2025/05/12(月) 23:36:01 ID:UZ5HV7vE0
投下乙です

>Whatever it is, that girl put a spell on me
ジャンヌの記録を見てニマニマするルクレツィア嬢、そんな資料まであるとかほんと何なんだろうねこの図書室、ルクレツィアの歪んだ嗜虐的思想と、それに伴う過去の残虐行為が描かれ、改めて彼女の狂気がよくわかる
陳情のための首級として狙われるキング、いろんな角度から狙われまくっているなこのジジィ、ルクレツィアが過去に暴れまくったせいで最有力候補と協力できないのは笑ってしまった
ソフィアは元特殊部隊だけあって巨悪に詳しいけど、挙げられた候補の連中も大半が死んでやることなすこと裏目に出ている感じがする
ナチョからも語られたエルサルバドルの件から恩赦の真偽に不信を覚える、まあアビスの連中娑婆に出していいのかって疑問は当然の話なんだよなぁ、かつて虐殺した姉妹とりんかと紗奈を重ねて悦に浸る、やっぱろくでもねぇよこのお嬢!
ソフィアはその狂気を理解しつつも、目的のために彼女と行動を共にせざるを得ない歪な友情(共依存)関係がじっくりと育まれつつある、メアリー退治に協力してくれるかなぁこの人!?

277 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:42:39 ID:bm0uHrFg0
投下します

278満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:44:19 ID:bm0uHrFg0
ブラックペンタゴンの一室。
機器が林立し駆動音が木霊する工場エリア。
ネイ・ローマンとメリリンのふたりはその場で黙して、流れる放送に耳を傾けていた。

無感情な電子音。
それを合図に、施設中に響く定時放送が終わりを告げた。
数秒の沈黙のあと、ローマンがふっと短く息を吐く。

「そうかい。くたばっちまったのか、ローズ」

椅子に腰をかけたまま、彼はただ事実をなぞるように呟いた。

スプリング・ローズ。
『アイアンハート』と敵対するストリートギャング『イースターズ』のリーダーを務めていた女。

敵対する存在として、これまで幾度も火花を散らしてきた。
ローマンにとっては宿敵とも言っていい相手だ。
だが結局、直接の決着はつけられずじまいだった。

哀悼を捧げるような関係ではない。
むしろ顔を合わせれば、間違いなく殺し合っていた間柄だ。
それでも一つの関係が終わってしまった事実に、ほんのわずかな感傷が滲む。

「……沙姫」

メリリンが小さく、別の名を呟いた。

舞古 沙姫。
かつて何度も取引を交わし、簡易ながら共同の技術開発も行ったこともある相手だ。
オンライン越しの付き合いで、直接会ったことは一度もないが、この業界で貴重な信頼に値する相手だった。
そんな稀有な存在の死が、胸の奥を静かに軋ませる。

だが、彼女にとって何よりも衝撃だったのは、ドン・エルグランドの名が呼ばれたことだ。
面識などあるはずがない。
それでも、ラテンアメリカを根城にしていたメリリンの耳には、カリブ海を支配した大海賊の名は幾度となく届いていた。

曰く海賊王。
嘘のような武勇伝。神話めいた逸話を幾つも残した伝説の略奪者。
そうした語り草の中にあった男の死が、ただの情報としてあまりに無機質に告げられた。
そのギャップは、ずしりとした重みを伴って胸に沈んでくる。
重々しく静まり返った空気の中で、それを打ち破るようにローマンが口を開く。

「放送は終わったみてぇだな――で、続けるか?」

椅子の背にふんぞり返り、ニィッと挑発的に唇を釣り上げる。
まるで、直前まで交わされた攻防など忘れたかのような軽い調子。
その目は冴えたように鋭く、メリリンを射抜いていた。

「……決まってるでしょ。こっちは完全に優位なんだから」

ローマンの周囲には取り囲むようにドローンが浮遊し、床ではラジコンユニットが蠢いている。
取り付けられたその銃口は全て、中央の男を正確に捉えていた。
だが、応じた言葉に、ローマンが吹き出すように笑う。

「ハッ、そりゃそうだ。この状況だけ見りゃな。
 だがまぁ、実際、良い線まではいってたぜ。そこは認めてやるよ」

絶体絶命ともいえるこの状況で、なおも上から目線の言葉を吐く。
その度胸は大したものだが、そんなものは強がりでしかない。
少なくともメリリンの目にはそうとしか映らなかった。

279満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:48:49 ID:bm0uHrFg0
だが、状況を気にした風でもなくローマンは同じ調子で続ける。
そして数える様に指を折りながら、静かに言った。

「だがな。二つ、致命的なミスがあった」
「……は?」
「ひとつは、初手でオレを仕留め損ねたことだ。
 不意打ちは、殺しきって初めて意味がある。中途半端な奇襲は、ただの警告にしかならねえ」

言葉と共に、右手の傷をさすりながら、彼は口の端を吊り上げる。

「二発撃つなら。最低でも、殺すための一発と、しくじった時の為に相手を削ぐための一発を分けて打つべきだったな。そうすりゃ次で殺せる確率が高くなる」

撃ち込まれた2発のボルトは両方とも頭部を狙っていた。
これに関しては頭部の狙撃を防いだローマンが上手だったという話だが。
必殺を狙うなら確実に殺せる攻撃を仕掛けなかったのは彼女の落ち度だ。

「そして、二つ目。まあこれは一つ目にも繋がる話だが」

そう言いながら、ゆっくりとローマンは椅子から立ち上がる。

「死角から攻撃してくる何かがあるってことをオレに知れちまったっってことだ。要はテメェの手の内はもう割れてんだよ」

その目に、じわりと残酷な光が宿る。
その光に射抜かれメリリンは思わず息を飲んだ。

「だ、だからなに? それを知ったところで……」

そう簡単に対処できるわけじゃない。
そう言おうとした言葉を、やれやれと言った風に静かに首を振って否定する。

「意図は分かるさ、脅し文句って奴だ。自分の優位を見せつけて、敵を精神的に揺さぶる。よくある話だ。
 だがな、手の内ってのは割れても問題ない物と、割れるとマズイ物がある。小細工を弄する方法ってのは大抵が後者だ」

まるで素人に戦い方を教える教官のような言い方だ。
淡々と語るその声は、圧倒的な実戦で培われた経験の違いを物語っている。

「小細工を弄するなら手の内は隠せ、手の内を晒すなら更に上の奥の手を持て
 そうじゃないなら手の内が割れた時点で、なりふり構わず全力で潰しに来るべきだった。猶予なんて与えるべきじゃなかったんだよ――――お前は!」

その言葉が終わると同時、ローマンが動いた。
目の前の金属製作業台。その端に足を引っ掛けたかと思えば、豪快に蹴り上げる。
50㎏を超える作業台は縦に跳ね上がり、ドン、と鈍い衝撃音と共にその勢いのまま立ち上がる形で地面に固定された。

「くっ……!」

その動きにメリリンも反応する。
殆ど反射的に一斉掃射の命令を出し、計七機のドローンとラジコンが一斉に火を吹く。
空中から、地上から、殺到する火線――――だが。

それよりも早く、ローマンは一瞬の遅れもなく、縦置きになった作業台に背から滑り込み、即席の盾とした。
ローマンの背後から飛来しだ弾丸は、鋼鉄の盾に悉く叩きつけられ、甲高い音を立てて弾かれていく。
死角を削り、攻撃角度を制限されたことで、射線の優位は失われた。
そして、盾の外――制限されたローマンの視界に入った敵機たち。

「――――消えろ」

その一言とともに、ローマンの前方に、凄まじい衝撃が走る。
目に見えているのなら相手の敵意の有無など関係がない。
敵を撃ち落とすのはローマン自身が放つ破壊衝動だ。

ボルトの弾丸が嵐の様な衝撃に飲み込まれ、ドローンが弾かれるように吹き飛ばされた。
地を這うラジコンは、隠れ潜む機器ごと巻き込んで跳ね上がる爆風の中で歪むように破壊される。

「……くそ……!」

メリリンが思わず悪態をつく。
一瞬で、メリリンが用意したガジェットの半数が壊滅した。
残るのは背後側に展開した半数、それも小さな銃身では鉄の作業台は撃ち抜けず、かと言って前に出せば即座に撃ち落とされるだろう。
作業台をどうにかしようにも、メリリンの操作できるのは自身の体重の半分まで。盾となっている鋼鉄製の作業台はメリリンが操作するには重すぎる。

絶対有利の状況が僅か一手で覆された。
これは超力の力だけの話ではない。
戦闘に対する経験が、踏んできた場数が、技術者であるメリリンとは余りに違う。

「で――もう一度聞くぜ。まだ続けるか、メカーニカ?
 死ぬまで続けるってんなら止めはしねぇが、せっかくせっせと拵えたんだ、全部ぶっ壊れる前に降参しちまうのがお勧めだぜ?」

視線を外さず、あくまで静かに問いかけるローマンの声は、もはや軽口ではなかった。
気に入った相手だろうと続けるのなら殺すと、殺意を纏った熱が滲んでいた。

280満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:51:59 ID:bm0uHrFg0


鉄と紫花の庭園から抜け出した四葉は、疲弊した身体を引き摺るようにして通路を進んでいた。
足取りは重く、呼吸も荒い。
破損した甲冑の断片が歩くたびに軋み、銀片が床に落ちては不規則な音を響かせる。

「ったく、アホみたいに強ぇな……チャンピオン……」

肩で息をしながらも、どこか満足そうな笑みを浮かべていた。
鼻血は乾き、口内に広がる血の味も次第に薄れていく。
それでも全身の痛みは消えず、肋骨が何本かいってることに彼女自身も気づいていた。

そんな時だった。
通路の天井に設置されたスピーカーから、あの無機質な声が響いた。

「……あらら。無銘さん、死んじゃったのね」

四葉は立ち止まり、少しばかり間の抜けたような声で呟いた。
軽口に聞こえるその口調に、取り繕うような気配はなかった。
ただ、それ以上でもそれ以下でもないそんな淡白な響き。

それから少し、記憶を辿るように瞳を細めた。

あれは、どこの国だったか。
乾いた大地と、鉄錆のような風が吹く、陽炎の街。

鉄柵に囲まれた荒野で、四葉と無銘は出会った。
言葉少なな男だったが、瞳の奥には確かな熱を宿していた。
まともな武器も持たずに、素手で四葉の甲冑を砕きに来た変人。
戦闘狂(バトルジャンキー)という言葉を、まるで鏡で見たように理解できる存在だった。

一合目で、四葉の肩口を砕かれ。
二合目で、無銘の顎に剣の柄を叩き込んだ。
三合目は――記憶も曖昧な、ただの混沌だった。
最終的には、互いに戦闘不能でその場に転がった。

「いやあ、楽しかったなぁ。あの喧嘩は」

壁にもたれかかり、四葉は息を吐いた。
その表情に、悲しみはない。
驚きすら、ない。

自身の命をベッドしてスリルを買う。
そういう生き方しか、してこなかったのだから。
彼も自分も、どちらかが先に死ぬのは当然の成り行きだった。
けれど。

「もっかいやりたかったなあ……」

そう呟いた声には、ほんの僅かな未練があった。
ただ、戦闘という快楽の続きを楽しめなかったことに対する、本能的な残念さ。
強者と交わす一手、それこそが四葉にとっての対話だったから。

「ま、しゃーないか。次に殴り合う相手に、もっと期待するだけだよね!」

自嘲気味に笑いながら、四葉は再び歩き出した。
どこかにまだ、面白い奴がいると信じて。

血と鉄と毒花の残り香を背に――内藤四葉は、前へと進み続けた。



281満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:57:50 ID:bm0uHrFg0
ブラックペンタゴン・南ブロック1F。
巨大なエントランスホールは、相変わらずの無機質な美しさを湛えていた。
天井から吊るされた照明は、白く静かな輝きを放ち続け、黒曜石のように磨かれた大理石の床が光を受けて、歩く者たちの姿を鮮やかに映し出していた。

その鏡のような床を踏みしめ、甲高い足音を響かせながら、一人の少女が血と破片の痕を引きずるようにして、ホール中央へと四葉が姿を現した。
砕けた甲冑、欠けた指、乾きかけた血の痕が頬を汚し、鋼の装いは半ば崩れていた。
だが、それでも彼女の口元には飢えを満たされた肉食獣のような、満足げな笑みが浮かんでいる。

「よぉ、ヨツハじゃねぇか」

それとタイミングを同じくして、向かいの扉からエントランスホールに姿を見せたのは、白髪のギャングスター、ネイ・ローマン。
目の奥に宿る血の気を隠すことなく、気怠げに口元を吊り上げる。

その背後には、オイルと煤に塗れたプレートアーマーを纏った女、メリリンの姿もあった。
無表情ながら不満げな態度で、ローマンの後ろに従っている様子だ。
現状を見据えながらも、四葉の姿に視線を留める。

「うへぇ……ネイじゃん。入れ食いだねぇ。ちょっと今、お腹いっぱいなんだけど」

ブラックペンタゴンという怪物の胃袋は、次から次へと名の知れた猛者を吐き出してくる。
戦闘狂にとっては垂涎ものの楽園たが、満腹の状態で満漢全席を出されても、食べきれないのでもったいない。

「でも、食べないのはもっともったいないよねぇ…………!」

そう言って、欠けた歯を剥き出しにして、狂犬は笑う。
死線の果てでもなお、彼女の飢えは尽きていない。

「さかるなよ、駄犬。俺ぁテメェとやり合う気なんざねぇんだよ」

ローマンは構えすら取らずに吐き捨てる。

「ちぇ。そりゃ残念」

四葉が舌打ちまじりに肩をすくめる。
四葉としてもやれればラッキーくらいの提案だったのだろう。
即座に引いたあたり、自分の体力的に限界なのは理解しているようだ。

「あれ、そっちの人って……」
「ウチの新人だよ。メリリン・"メカーニカ"・ミリアン」

紹介の言葉に、メリリンが不満げながら軽く会釈を返す。

「そりゃ知ってるけど、あれ? 『メルシニカ』と『アイアン』とはバチってたんじゃなかったっけ?」
「ま、色々あったのさ」
「ふーん。そういうこともあるか。どうでもいいけど」

四葉は興味のなさげに適当に相槌を打つ。
その関心は、他人の因縁や経緯にはない。
彼女の関心はただ一つ、目の前に喧嘩の匂いがあるこどうかだ。

「それにしても、いいザマだな。誰にやられた?」

ローマンの視線は、四葉の欠損した指、砕けた甲冑に注がれていた。
そこに侮蔑も同情もない。ただの純粋な観察だった。

ローマンは四葉の実力をよく知っている。
一方は己が信念のために、一方は、ただの愉快犯として。
理由は違えど、互いに『キングスディ』の縄張りを荒らし回った者同士だ。

今どき欧州の裏の支配者に真正面から喧嘩を売る阿呆など、数えるほどしかいない。
そういう意味でも、ローマンからしても四葉のことはそれなりに気に入っている。

そんな彼女をこれほどまでに追い詰める相手とは何者か。
もしかしたら探している標的かもしれない、という期待も込められていた。

282満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 21:59:57 ID:bm0uHrFg0
「……エルビス・エルブランデス。あの『ネオシアン・ボクス』のチャンピオンだよ」
「エルビス……」

その名に、メリリンが一瞬、息を呑む。
彼女はかつてラテンアメリカで、メルシニカの仲間に連れられネオシアン・ボクスの試合を一度だけ目にした事がある。

超力全盛のこの時代において、拳ひとつで相手を競い合わせる、合法的な“殺人ショー”。
技術、理性、戦術、そんなものが吹き飛ぶほどの、剥き出しの暴力がそこにあった。

その中で、圧倒的な静けさをもって、君臨する王者。
派手な挑発もなく、過剰な演出もなく。
ただ、出てきた相手を順番に叩き潰す。淡々と、黙々と。
機械のようで、人間のようで、どこか幽霊のようだった。

その男が放つあまりにも純粋な暴力に、メリリンは熱狂よりも恐怖を感じていた。
あの静かな恐怖が脳裏に思い出された。

「おいおい、俺の前で他の男のこと考えるなよ? 妬けちまうぜ?」
「……は? 気持ち悪。死ね」

無表情で即答。鋭利な切れ味。
ローマンの戯言は一瞬で切り捨てられ、隣で四葉が吹き出す。

「振られてんじゃん」
「うるせぇよ」

ローマンは気にした風でもなく肩をすくめて軽口を受け流す。

「エルビス、か。噂は聞いていたが……その様子じゃ、本物だったようだな」

ローマンは薄く笑い、満身創痍の四葉を上から下まで見やった。
その傷からエルビスの脅威を測っているような視線だった。

「エルビスなら、あっち。階段の前で誰彼構わず待ち構えているよ。やるんでしょ?」

わずかに顎をしゃくり、ホールの奥、階段の部屋に繋がる扉を示す。
その四葉の目は期待に輝いていた。
ローマンの背後で、メリリンが無言で眉をひそめる。

『ネオシアン・ボクス』のチャンピオンと『アイアン・ハート』のギャングスタ―の対決。
この一戦が実現するなら、それは間違いなくバトルマニアなら何をおいても是非とも見てみたい、涎垂もの好カードだ。

「アホか。やらねぇよ」
「えー、なんでさ。やろーよー」

ローマンの回答はあっさりしていた。
期待を外され四葉は口を尖らせてぶーたれる。

「俺は喧嘩屋じゃねぇんだよ」

ローマンは素っ気なく言い放つと、肩を回して軽く首を鳴らす。

「あいつ階段塞いでるよ? 上の階に用があるんじゃないの?」
「ねぇな。生憎と俺の目的はここの探索じゃなくて人探しなもんでね」

戦闘自体を目的とする戦闘狂と違って、ローマンにとって暴力は手段だ。
それを振るう事を躊躇わないが、無用な戦闘をしたいとは思わない。

「人探し? まーたキングにちょっかいかけようとしてるの?」
「当然だろ? ローズの奴もくたばったってんなら、残る標的はあの老いぼれだけだからな」

ローマンの眼に宿る光が、僅かに鋭くなる。
彼にとっての目的は、常に明確だ。
キングの殺害、それだけである。

「恩赦に興味はないのー?」
「もちろん、頂けるんなら頂くさ。ただな、物事には優先順位ってのがあるんだよ」

標的はあくまでもキングだ。
恩赦を狙うにしてもそれが終わってからである。
奴とやりあうまでに不要な傷は出来る限り負いたくない。

「だが、エルビスが階段を抑えてるってのはいい情報だ」

ローマンがブラックペンゴンを訪れた目的は施設の調査ではない。
そこを訪れた人間の中にキング、もしくはキングの行く先を知る人間がいるかの調査だ。
2階への入り口が塞がれているのなら1階を調べるだけで事足りる。

「邪魔したな」

そう言って踵を返そうとしたその時。

「待ってよ。こっちの話だけ聞いて、情報だけかすめ取って終わりってのはアンフェアじゃんか。
 せめて、こっちにも何か置いてってよ」

言って、四葉が口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
言い分に一理あると感じたのか、はぁとため息つきながらもローマンはめんどくさそうに振り返った。

283満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 22:02:12 ID:bm0uHrFg0
「……なにが欲しい。知りてぇことでもあんのか?」
「この場で出会った強者の話とかさ。あんたが見た面白いやつ、教えてよ」

一拍。ローマンが目を細める。

「強者ねぇ……」

その脳裏に浮かんだのは、一人の漢女の姿だった。
揺るがぬ膂力、正々堂々たる立ち姿、戦うことに一分の曇りもない『本物』だった。

「そういや……大金卸樹魂ってのに会ったな」

ふいにローマンが呟いたその名に、四葉の全身がぴたりと固まる。
ついで、首が勢いよくこちらを向いた。
これまで以上に瞳孔が爛々と輝いている。

「……今、なんて?」
「大金卸だよ。作業の開始直後くらいに、工場跡地辺りでな」
「マジで!? マジで!? あの、漢女の!? 重機女の!?」

声のトーンが一気に跳ね上がる。まるで雪の中をはしゃぎまわる犬のような高揚だ。
四葉は瞬時に興奮の坩堝と化し、傷だらけの身体を構わず前のめりになる。

「えっえっ、それで!? 戦ったの!? どこまでやったの!? 手ェ出した!? アンタの腕、無事!?」
「落ち着けよ駄犬、多少は小競り合いはあったが、途中でやめたから殺し合いまではしてねぇよ」
「ハァ!? バカじゃないの!? もったいないよ! 最後までやれよ!!」
「おいコラ、お前のテンションについてけねぇよ」

ローマンが苦々しく眉をひそめる。だが、四葉の熱は止まらない。
まるで恋人との再会を願う少女のような顔で、四葉は切実に言った。

「……ねえ、その人、なんて言ってた? あんたのこと、どう思ってた?」
「知らねぇよ。けど、お前のその反応を見るに、知り合いだったか? 初めて聞くぞ」
「昔ね。11年前、港湾の倉庫で。一発で心臓撃ち抜かれた感じ? いや、ぶっちゃけ恋した」

目を細め、遠くを見るような視線をしたかと思えば、すぐに獰猛な笑みに戻る。
四葉にとって、あの出会いはすべての始まりだった。

「いいなあ……羨ましい……! ねえ、ねえ、詳細もっと教えてよ! どんな感じで現れた!? 何発くらい撃ち合った!? 私より強かった!?」
「ああ。悪いが、お前なんかより遥かに強かった。てか、オレのネオスすらろくに通らなかった」
「うへえ、相変わらずだねあの人!! もう、ほんとに大好き……!」

四葉がとろけそうな顔をして呟く。
だが恋する少女と呼ぶには凶悪すぎる笑顔だった。
メリリンはそんな様子を見ながら、小声でローマンに耳打ちする。

「……彼女、少しおかしくない?」
「今更かよ」

ローマンが肩をすくめて応じる。

「で、どうしたんだよ。途中でやめたって言ってたよな? ビビった?」
「違げぇよ。あいつの方から止めたんだよ。今のオレじゃ本調子じゃねえって、見透かされてな」
「見透かされた!? あの人、相手の中身までスキャンできんの!? ああもう、ほんと最強じゃん……!
 ッはー!!ああもう、私もまた会いたいあぁ……! ていうか、会ったら次はガチで殺しに行く……!!」

まるで尊敬するヒーローに挑みたいと熱望する子供のように、四葉は拳を握りしめた。
その目には、純粋なまでの闘志と憧れが宿っていた。
それが最終的に殺意に落ち着く辺り、狂犬めいている。

284満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 22:04:12 ID:bm0uHrFg0
「……もういいか?」

ローマンが吐き捨てるように言った。
四葉の暴走トークにつき合うのも、そろそろ限界だったらしい。
気だるげな口調に滲むのは、明らかにそろそろこの場を立ち去りたいと言う本音である。

「あっ、そうだ。忘れてた、私もトビさんと合流しないと。ネイも出会っても襲わないでよトビさん」
「そう言いや、脱獄王と行動してんだったかお前。どういう組み合わせだよ」

ルメスたちから聞いた話を思い返し、呆れたようにローマンが返す。
その時だった。

ギィィィィ、と言う耳を抉るような金属音が、ホール全体に響き渡る。
まるで長く封じられていた蓋が、ついに開け放たれたような、冷たく重たい音。
三人の視線が同時に入口へと引き寄せられる。

ゆっくりと、じわじわと、開かれる扉の先。
現れたのは、頼りなさげな一人の男だった。

だがその姿は、まるで異物だった。
妙に角度の定まらない首、重力に馴染まない足取り。
まるでこの世界のルールに順応しきれないかのような、居心地の悪い違和感を纏っていた。

男は足を止め、キョロキョロと辺りを見渡す。
その仕草は、迷い込んだ草食獣のようであり、空っぽの操り人形のようでもあった。

「――ッ……!」

だが、その男を見た瞬間、メリリンの息が止まった。
一歩、思わず後ずさる。
指先が震え、無意識にその男を指し示す。

「……こいつが……サリヤの、亡霊……ッ!?」

その声は、告発であり、悲鳴であり、怨嗟だった。
凍てつくような怒りと、喉の奥を掠める怯えが混じり合う。

忘れもしない、忘れるはずもない。
そこに立っていた男は、アビスで見つけた彼女の親友サリヤの姿を纏っていた日本人の男だ。

「へぇ……こいつが」

ローマンは一歩下がるような立ち位置を取りながらも、口元に冷えた笑みを浮かべた。
四葉はといえば、既にいつでも飛び掛かれる距離と姿勢を保っている。
動揺と困惑を残すメリリンと違って、ローマンと四葉が一瞬で臨戦に入っていた。

「……えーと……えーと、こんなことになるなんて困ったなぁ、誰の……に、したらいいんだろう」

男――本条清彦は、見つめる三人の圧に押されるようにその場に立ち尽くし、困ったように眉を寄せた。
ぽつりと呟くその声は、外ではなく内側、自分自身に問いかけるような独白だった。

「サリヤ……無銘さん……それに、ローズ……ああ……ごちそうだらけで……まるで、満漢全席みたいだなぁ……」

ぽつり、ぽつりと零される単語。
呆けたように笑いながら、本条は苦悩するように頭を抱える。

その目の奥底で、無数の異なる光がちらちらと点滅しているかのようだった。
次の瞬間、その顔が――変わる。

一枚、また一枚。
ロトスコープのように仮面が、滑るようにめくられていく。

眼差し、口元、皺、角度。
見たことのある者たちの「一瞬の断片」が、男の顔の上に幾度となく現れては、消える。
それはまるで、肉体という舞台に立つ亡霊たちが、交代で仮面を被るかのようだった。

ぞわり、と。
その仮面を覗いた三人の背中に、得体の知れぬものが這い上がる。
それは恐怖ではない。
ただ不快なざわつき。得体の知れない圧力がある。
そして、過去と言う名の亡霊の気配が不気味な男から漂い始めていた。

285満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 22:05:03 ID:bm0uHrFg0
「ネイ、今のって……」
「ああ、こいつぁ死者を纏う。ハイヴのご同類らしいぜ?」

ローマンの静かな声がホールに落ちる。
その言葉に、四葉が愉悦と狂気の入り混じった笑みを浮かべた。
血と狂気に塗れた顔に浮かぶのは、まさに戦闘狂の笑み。

「そりゃいいね。ローズとネイがやっちゃったから、私、戦れなかったんだよねぇ………!」

まるで、お預けにされていた肉を前にした狂犬のように。
四葉の瞳が、殺意の色に染まっていく。

EU圏を荒らしまわった死者を取り込み力を増す、ハイヴを名乗る軍勢(レギオン)。
四葉がその噂を聞いたのは事が終わった後だった。関われなかったことを悔しがったものだ。
軍勢型の超力者だけではなく、そこに巣食うう亡霊ともも含めて、こうして再戦の機会を得た。

「おいおい、脱獄王の所に帰るんじゃなかったのか?」
「イジワル言わないでよ。遊ばせてよ」

細められた目が、きらきらと嬉しそうに揺れる。
敵を前にした者特有の、飢えた視線だ。

メリリンには、喰われた親友への怨嗟が。
ローマンには、因縁を終え損ねた宿敵への殺意が。
四葉には、一度殺し合った好敵手を、再び屠る機会への高揚がある。

緊張と殺気、記憶と因縁。
空気が凍り付き、空間そのものが沈んでいくような錯覚。
空気に溶け込んでいた瘴気が、じわじわと視覚化されるほどに空間を蝕んでゆく。
この均衡は、その感情を溢れさせた誰かがほんの一歩の踏みだせば即座に崩れるだろう。

「ねぇ……どうしよっか……誰からがいいかな……」

本条はなおも呟き続ける。
目の前の三人など見えていないかのように、自身の中に語りかける。

その声には、喜悦も憂いも、悲壮すらない。
まるで、自分が何者であるかを決めかねている亡霊のよう。

「―――――決めた」

挙動不審で不安定だった男の体がビクンと跳ねた。
空虚な器が中身を選び弾倉が回る。
因縁を食らう弾丸が装填された。
放たれる時を待っている。

286満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 22:05:22 ID:bm0uHrFg0
【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・朝】
【ネイ・ローマン】
[状態]:両腕にダメージ(小)、疲労(中)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.ハイヴ紛いの男に対応。
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。

【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(小)、フルプレートアーマー装備、軽い打ち身
[道具]:デジタルウォッチ、生成ドローン2機、ラジコン1機、設置式簡易ボルトガン。
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい。サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
1.サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
2.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する?
3.山頂の改編能力者を警戒。取り敢えずドミニカに任せる。
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました。

【内藤 四葉】
[状態]:疲労(極大)、左手の薬指と小指欠損、全身の各所に腐敗傷(中)、複数の打撲(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.気ままに殺し合いを楽しむ。恩赦も欲しい。
0.なんか楽しそうな流れに対応。
1.トビと連携して遊び相手を探す、または誘き出す。今はトビと合流する。
2.ポイントで恩赦を狙いつつ、トビに必要な物資も出来るだけ確保。
3.もしトビさんが本当に脱獄できそうだったら、自分も乗っかろうかな。どうしよっかなぁ。
4.“無銘”さんや“大根おろし”さんとは絶対に戦わないとね!エルビスともまた決着つけたい。
5.あの鉄の騎士さんとは対立することがあったら戦いたい。岩山の超力持ちとも出来たら戦いたい!
6.銀ちゃん、リベンジしたいけど戦いにくいからなんかキライ
※幼少期に大金卸 樹魂と会っているほか、世界を旅する中で無銘との交戦経験があります。
※ルーサー・キングの縄張りで揉めたことをきっかけに捕まっています。

[状態]:全身にダメージ(中)、現在は???の姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
0.誰を出してあげようか?
1.殺人によって足りない2発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンへ行って“家族”を探す。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度 睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:無銘(前3番の剛田宗十郎は弾丸として撃ち出され消滅、超力は掌に引力を生み出す程度だった。睡眠中)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:スプリング・ローズ(前6番の王星宇は呼延光との戦闘により死亡、超力は獣化する程度だった)

287満漢全席 ◆H3bky6/SCY:2025/05/13(火) 22:05:34 ID:bm0uHrFg0
投下終了です

288 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:40:16 ID:.RmjW0Kg0
投下します

289絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:40:51 ID:.RmjW0Kg0
静かだった。
大地に伏せた草葉が、朝露を抱いて微かに揺れている。
朝の訪れた空は、まるで何も知らぬ顔でただ青く、清々しいほどに晴れていた。

「……りんか、寒くない?」
「ん、大丈夫ですよ。紗奈ちゃんがあったかいから……」

倒木の傍、苔むした岩に背を預けるようにして、二人は寄り添っていた。
恐怖の大王バルタザール。紅血の鴻鳥ブラッドストーク。虐悦の令嬢ルクレツィア。氷結の怪人ジルドレイ。
この僅か6時間で度重なる強敵との死闘があった。
2人の疲労、特にりんかは疲労の極みにあり、半ば眠ったようなまどろみの中で、紗奈の胸元に顔を預けていた。

紗奈の右手は優しく、りんかの髪を梳いていた。
その指先にはまだ、新たに得た力の残光が微かに残っている。

「……すごかったですね、紗奈ちゃんの変身」
「うん、自分でもビックリした。最初は身体が熱くて……でも怖くなかった。不思議と、守らなきゃって思ったの」
「……私、ほんとに守られちゃったんですね」

くすっと笑って、りんかが顔を上げる。
その笑みは誇らしくもあり、少しだけ寂しそうでもあった。

「……ありがとう、紗奈ちゃん。あのとき、紗奈ちゃんがいなかったら……私、きっと……」
「言わないで。それは私の役目だったんだもん。りんかが、あのとき私を守ってくれたみたいに……今度は、私の番だったの」

紗奈の声は震えていた。
喜びとほんの僅かな、焦りにも似た感情が混ざっていた。

「ねえ、りんか」
「うん?」
「これから先も……私が、りんかを守るから。だから、もう無理はしないでほしいの。りんかが傷つくの、見たくない」

その言葉に、りんかは小さく目を見開いた。
紗奈の真っ直ぐな瞳が、嘘ひとつない決意で満ちていた。

「……うん。その気持ちはすごく嬉しいです。けど、それは約束できません。
 だって、私も紗奈ちゃんを守りたいから。ずっと一緒にいて、手を離さないって決めたから」
「ずっと……一緒」

そう繰り返す紗奈の表情に、かすかな朱が混じる。
望みが受け入れられなかったことよりも、その言葉に喜びのような形が口元に浮かぶ。

「分かった。私がりんかも守るから、りんかも私を守ってね。ずっと一緒にいようね」

朝の森の空気はどこまでも澄んでいる。
だがそれでも、二人の間には小さな影が落ちていた。

あまりにも強く繋がった心と心は、時に自分の輪郭さえ曖昧にしてしまう。
それが絆なのか、それとも依存なのか。
今の彼女たちは、まだそれを知る由もなかった。

それでも、確かなのはただ一つ。

今は、離れたくない。
壊れてしまってもいいから、繋がっていたい。
ふたりはそんな風に、互いの存在を確かめ合うように、そっと指を絡めた。

そして――静寂を裂くように、『放送』が響くのだった。



290絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:41:32 ID:.RmjW0Kg0
『――――定時放送の時間だ』

穏やかな森の静寂を破るように、冷たい声が落ちてくる。
風が止まり、葉擦れの音さえ鳴りを潜める。

「っ……放送……?」

りんかがゆっくりと顔を上げた。
どこにもスピーカーの姿はないはずなのに、ヴァイスマンの声だけが、空間を支配していた。

アビスを支配する者の冷徹な声。
地の底で何度も聞いた声。
しかし今だけは、胸のどこかがざわついていた。

そして、刑務作業の成果として、死者の名が機械的に読み上げられる。
その一つ一つが、終わった命の証であると知りながら、りんかの心は追いつけずにいた。

『アンナ・アメリナ、並木 旅人、羽間 美火──』
「っ……」

心臓が、鈍く跳ねた。
首筋に氷を押し当てられたような感覚に視界が一瞬、歪んだ。
口元が震え、喉が言葉をせき止めた。

「……う、そ……」

羽間 美火。
その名を耳が捉えた瞬間、全身の神経が逆流した。

「りんか……?」

紗奈の声が、脇から細く届く。
けれど、それすらも遠くに感じた。
視界の端で紗奈が不安げに見上げているのが分かっていても、目を合わせることができない。

「なんで……美火ちゃんが……」

過去の記憶が脳裏をかすめる。
あの夕暮れの公園で憧れの必殺技を教えてくれた。
『ヒーロー』という概念を、りんかにくれた存在。
その彼女の名が、死者として淡々と読み上げられた。

「そんな……言ってない、よ……お礼……まだ……」

彼女に教わった『必殺技』で救われた命が、自分より先に消えていたという現実に思考が追いつかない。
まるで、燃える星が音もなく墜ちたかのようだった。
そんなこちらの思いなど無視して、放送は感情なく続く。

『……舞古 沙姫、ドン・エルグランド、宮本 麻衣、恵波 流都』

次に続いた名前に、こんどはりんかだけなく紗奈の瞼もぴくりと動いた。
今度の名には驚きではなかった。
けれど、確かな胸の鈍痛があった。

「流都さん……」

呟きは、苦くて重い。
あの時の戦い。
あの一撃。
そして、彼が背を向けた後の姿。

(……もしかしたら……とは思ってた)

思っていた。
りんかの記憶している流都の最後の姿は立ち去る背中である。
彼の死は確認していない、その前にりんかが死んでしまったからだ。

あのしぶとさだ。
あの男のことだ。
そうだと確定されるまでは、どこかで生きている気がしていた。
どこかでまたふざけた調子で「チャオ♪」とか言って戻ってくるんじゃないか、そんな都合のいい予感も、ほんのわずかにあった。

だから今、その名が「死者」として放送されてしまったことが、
どこまでも現実を突きつけてくる。

291絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:41:45 ID:.RmjW0Kg0
「……そっか。……そうだよね……」

小さく、目を閉じた。
涙の代わりに、胸の奥に静かで重たい蓋が落ちるような感覚があった。

一度は全てを否定しようとした男。
けれど、最後に見せた横顔。
りんかの言葉に、明らかに心が揺れたあの一瞬。

「……間に合って、なかったんだ……やっぱり……」

──美火ちゃんは、会いたかった。
せめてもう一度、ちゃんとお礼を言いたかった。
必殺技、使わせてもらったよって、あの蹴りで私、生き延びたよって。

──流都さんは、救いたかった。
救うって、豪語したくせに、間に合わなかったんだ。
ほんの少しでも救えていたら、という願いは、死と言う事実の前で言葉にさえできなかった。

その実感が、ようやく胸に降ってきた。
堪えきれず、涙がひと粒、地面に落ちた。
その胸の隙間を、紗奈の声が優しく埋める。

「……りんかは、救おうとしてたよ」
「……うん……」

その言葉に、また少し目頭が熱くなった。

「私が……ちゃんと強かったら……ちゃんと、救えてたのかな……」
「それは、きっと……誰にもわかんない。でもね」

紗奈が、ぎゅっとりんかの手を握る。

「少なくとも、私を救ってくれたのは──りんかだよ」

その一言に、膝から力が抜ける。
張り詰めていた心が崩れた。

「……う……うぅっ……」

嗚咽が、堰を切ったように溢れ出す。
膝をついて、紗奈の小さな胸元に顔を埋める。

「ごめんね……美火ちゃん……流都さん……ごめん……!」

押し殺した声が、森に溶けていった。
悲しさも、悔しさも、無力さも、全部。
りんかは隠さず、涙と一緒に吐き出した。

「あなたたちが残してくれたもの……私、絶対に無駄にしないから」

その言葉は誰に届くわけでもない。
けれど、確かにりんかの中に生き続けていく。
正義と、希望と、救いの灯として。

紗奈は何も言わなかった。
ただ静かに、りんかの背をさすっていた。

涙の数だけ、人は強くなる。
こうして少女はまた、ひとつ強くなった。



292絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:42:25 ID:.RmjW0Kg0
森を吹き抜ける風が少女たちの涙を優しく撫ぜる。
流れる涙も止まりその跡も乾いた頃。

少女を慰めていた風が、唐突に止んだ。

それは自然の気まぐれではなかった。
まるで森そのものが、何かに恐れを抱き、息をひそめたかのような異常な静寂だった。

次の瞬間――ドン、と低く地を這うような重低音が森の奥から響いた。
それは足音というにはあまりに重く、まるで巨獣が眠りから目覚めたかのようだった。

「……地響き……?」

りんかが顔を上げ耳を澄ます。
風の音はなく、木々の葉も凍ったかのように動かない。
そして、『何か』が、こちらに近づいてくる。

「りんか……」

怯えを滲ませる紗奈の声。
その細い指が、無意識にりんかの服の裾を掴む。

ドン、ドン――。
地を踏みしめるたびに、大地が微かに震えた。
そのたびに枯葉が跳ね、空気がざわつき、風が逆流する。

存在そのものが異常だった。
ただ歩くだけで空気の密度が変わる。
音だけで、世界が沈黙するようだ。

「……なに、この気配……?」

まるで猛獣の接近を察した子ウサギのようにりんかたちの鼓動が跳ねる。
そして次の瞬間、森の木々を薙ぎ、土煙を巻き上げながら、それは姿を現した。

「―――――失礼をする」

凛とした低声が、空間の支配権を塗り替える。
ただの一言で、世界が変わる。
圧倒的な――筋肉(マッスル)。

広い肩幅。
はち切れんばかりの囚人服。
分厚い胸板、幾重にも刻まれた古傷。

これまで出会った誰とも違う。
拳と肉体だけで己を証明してきた、『怪物』の姿だった。

「移動中、周囲が禁止エリアに指定されてしまってな。急ぎ離脱していた。
 その折、人達の気配を感じた故、こちらにはせ参じた。驚かせたのなら、詫びよう」

簡潔に語られる状況説明。
しかし、その声は重い岩のようにのしかかる。

「……あなた……いったい誰……?」

紗奈が『怪物』の正体を訪ねる。
応じるように『怪物』が名乗った。

「我が名は、大金卸樹魂。そちらの名は?」

森の木霊のように響くその名に、どこか獣の咆哮めいた重さがあった。
しばしの沈黙の後、りんかが口を開いた。

「……葉月りんか、です」
「交尾紗奈……」

緊張に喉を絞られながらも、ふたりは名乗りを返した。
名乗りを受けた大金卸は一つ頷き、目を細めると周囲を見渡した。
まるで猟犬のように空気を嗅ぎ、視線を地に落とす。

氷の跡。抉れた地面。乾いた血。痕跡のひとつひとつをなぞるように観察する。
そして、改めてふたりを見つめ直し、問いを放つ。

「我はこの付近にて発生した、“水蒸気爆発”と“白と紅の光の交錯”を追って来た。
 りんかと紗奈よ。この周囲で何があったか、いやここで誰が戦ったかを知っているか?」

言葉は決して荒くない。
だが、その声には、有無を言わせぬ空気の芯を揺らすような圧力があった。

293絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:42:49 ID:.RmjW0Kg0
「……その『白と紅の光』の『白の光』の方は、多分、私です」

りんかは下手な誤魔化しはせず、正直に名乗りを上げた。
止めるように咄嗟に手を伸ばす紗奈だったが、りんかはそれを制し、まっすぐ大金卸を見つめる。
その瞳を見て、大金卸の目が細く細く、笑みに似た弧を描く。

「お主が?」
「はい。ここで“ブラッドストーク”と戦ったのは、私です」

年若き少女の口から語られた戦歴。
だが、大金卸は驚きも疑いもしなかった。
なにせ大金卸もりんか程の年頃には既に牛殺しを果たしている。
超力が蔓延した今の時代であればなおさらだ。

彼女の中に芽生えるのは、疑念でも畏れでもなく、飢えた本能。
外見が酷く愛らしい少女であれど、それが戦士とあらば闘争あるのみ。

「強者を見ると……どうにも、拳が疼く性質でな」

ぞわりと、その背から空気が逆巻く。
殺気ではない。それは純粋な『闘気』だった。

相手を殺したいのではなく、ただその力を試したい。
その一点だけの欲求が、これほどまでに圧を持つという事実。

「りんかよ。お主との立ち合いが望みだ。我が拳と、お主の力が、どちらが上か試させてもらいたい」

その声は、森の全てを揺らす。
言葉も所作も礼儀正しい武人のそれだが、相手の都合など考えず果たし状をたたきつけるような無礼。
りんかと紗奈は、言葉を失ったまま、ただその眼差しを受け止めていた。

「……本気なの?」

紗奈が震える声で問うた。
その瞳は恐怖と怒りと、そして困惑に揺れていた。
唐突に現れ、唐突に喧嘩を売ってきた、理不尽に周囲を巻き込む災害のよう。

「我は、冗談を解さぬ」

ずし、ずし――と、大金卸が一歩、また一歩と前へ進むたびに、空気が震える。
森の木々までもが圧力に耐えかねて沈黙していた。
重力そのものが狂ったようにすら感じられる。

「……恩赦が目的、ですか?」

怯えを隠せぬまま、りんかが問いかける。
だが、大金卸は静かに首を振る。

「否。我が欲するは一つのみ。拳を交えるに足る強者よ」

その声には、欲も憎しみもない。
あるのはただ、戦いへの純粋な希求、それだけだった。

戦闘そのものを歓びとする者。
拳を高めることを己の生とする者。
それが、大金卸樹魂という存在であるた。

「待ってよ! 見ればわかるでしょ……今のりんかは、戦える状態じゃない!」

紗奈が声を張り上げる。
まるで、りんかの代わりに全てを引き受けようとするかのように。
大金卸はしばし無言のままりんかを見つめ、ゆっくりと吐息を漏らした。

「見たところ……四肢は義肢か。腹部に強い打撲痕、背面には刺突創。腎部にも損傷が見られる。
 鼻と喉に軽度の外傷、口腔内には裂傷。だが――意識は明瞭、立脚可能。反応速度にも異常なし」

大金卸はまるで医師のように、冷静に状況を分析してみせる。

「――十分に戦える。その肉体も、魂も折れてはいない」

その判断に一片の迷いもなかった。
戦士にとって戦えるか否かは、心と肉が前に出られるかだけだと。
大金卸目にはりんかは一人前の戦士として映っていた。

「決闘を、断ったらどうなります……?」
「悪いが、その場合は我が先に仕掛けるだけだ。お主らは否応なく応じることになろうな」

その声音には、悪意も敵意もなかった。
彼女はそうやって世界各地で様々な猛者や組織に一方的に喧嘩を売って叩き潰してきた。
ただ限りなく純粋で振るう相手を選ばない。善悪を超越するとはそう言う事だ。

294絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:43:15 ID:.RmjW0Kg0
「ダメよ! りんかは私が守る!」

紗奈の声が、空気を裂いた。
その言葉に、大金卸の足が止まる。
少女がその細い身体で、前に出ていた。
傷だらけの体。それでも、瞳には確かな覚悟が宿っていた。

「りんかはもう限界なのよ……! これ以上、彼女に無理はさせたくない……だから……手を出すなら、私が、相手だぁ!」

紗奈の背中を、りんかが黙って見つめていた。
あんなに小さくて、いつも守ってきたはずの背中が、今は自分の前に立っていた。

「……ありがとう、紗奈ちゃん。でも……私だって、紗奈ちゃんを守りたいよ」

静かに、でも確かに強く。
りんかもまた、一歩前へ出る。
その言葉は、ふたりを繋ぐ光の糸になった。

「どっちかだけが傷つくなんて……もうイヤ。だから――戦うなら、私たちは二人で!」

その言葉に、紗奈も頷いた。

「うん、一緒に。二人で……!」

守られるだけでも、守るだけでもなく。
ふたりで、共に立ち、共に戦う。
それが今の彼女たちの答えだった。

「二人同時か。構わぬ――来るがいい!」

低く、重い咆哮のような声が空気を裂く。
巨漢の筋肉がきしむように膨らみ、漢女は腕を掲げる。

そして――光が走った。

りんかの背中に、再び光の羽根が宿る。
希望を象徴する羽が輝きながら展開し、その身を包み込むように形を成していく。

『シャイニング・ホープ・スタイル』

構築されるのは、誰かの希望を守るためのヒーロー。
その姿は、かつて命を懸けて彼女を救ってくれた姉・楓花の姿を写すように、気高く、美しい。
幾多の痛みと記憶を背負いながら、それでもりんかは立ち上がる。

同時に、紗奈の体にも、柔らかく強い光が走る。
幼い姿は急速に成長し、白銀と黒の意志が絡み合ったような騎士の装いへと変わる。
その瞳に浮かぶのは、過去の痛みを知った少女だけが持ちうる決意の輝き。

『シャイニング・コネクト・スタイル』

白銀の鎧と長くしなやかな黒髪、そして手にしたのは光のリボン。
それは愛と守護の象徴、そして、必要とあらば敵を封じる裁きの鞭。
かつての傷と絆が、彼女を希望の守護者へと変えた。

「これが……私たちの……!」
「光!!」

並び立つふたりに光が収束してゆく。
ふたりの少女が、互いを信じ、誓い合うことで宿した希望の光。
ひとりは純白の英雄、ひとりは白銀の騎士。
純白と銀光が重なり、森の風景をまばゆく塗り替えてゆく。

大地がわずかに震えた。
大金卸樹魂が、わずかに顎を上げて微笑んだ。

295絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:43:55 ID:.RmjW0Kg0
「いくよ、紗奈ちゃん――!」
「うんっ、りんか!」

先手はりんかだった。
光の翼を広げ、高く飛翔した彼女は、掌を突き出す。

「ホーリー・フラッシュ!」

閃光がりんかの掌から迸り、大金卸の視界を白く焼く。
直撃を狙ったものではない。あくまで閃光による撹乱。
その刹那、草陰から飛び出した紗奈が、両手のリボンを螺旋状に撃ち出した。

「今……ッ!」

リボンは幾筋にも分かれ、大金卸の足元へと絡みつく。
拘束が決まれば、その間にりんかがフィニッシュを入れる算段――だが。

「甘いな」

大金卸が右足を少し傾けただけで、膝に絡まるはずのリボンは逆に捻り飛ばされた。
片腕を素早く薙ぐと、空中のリボンすら切断されたかのように飛散する。

「紗奈ちゃん、退いて――ッ!」

りんかが叫ぶ。
リボンに対処するその僅かな隙を突くように、空中で翼を大きくはためかせ回転軌道に乗って急降下する。
受け継がれし必殺の――――。

「――――――――シャイニング・キック!」

りんかの身体が閃光をまとい、高空から回転を加えて急降下する。
本来ならば、聖光と共に降り注ぐそれは、悪を砕く流星そのもの。

刹那、大金卸が腕を交差し、簡素な防御姿勢で迎え撃つ。
交通事故めいた轟音と共に空気が歪む。
地面に衝撃波が広がり、葉が舞い上がる。

しかし――大金卸の姿は、微動だにしなかった。

「っ……!」

落下中にすでに、りんか自身も悟っていた。
連戦の疲労とダメージが、確実に肉体を蝕んでいる。
打撃の速度も、タイミングも、本来の切れ味からは程遠かった。

「きゃっ……!」

振り払うように大金卸が腕を横に薙ぐと、りんかの身体が吹き飛ばされる。
だが、りんかが空中に放り出されたその瞬間、左右からリボンが鋭く走った。
横合いから再び走った紗奈のリボンが大金卸の片腕を捉える。

「今度こそ……封じるっ!」

リボンがその場で発光し、相手の超力を封印を試みる。
相手の超力は不明だが、この常識外れの力の一端が封じられる筈だ。
だが、その目論見は外れた。

「きゃあああっ!?」

巨女の筋肉が唸る。
巻き付いたリボンごと紗奈の体が引き寄せられた。
恐るべきことに、その剛力に超力は一切関与していない。
大金卸の怪力が、拘束ごと少女を振り回し放物線を描いて空へ放たれる紗奈。

「紗奈ちゃん!!」

間髪入れず、その身を追ってりんかが翼を広げる。

「シャイニング・ウィング――ッ!」

先ほど自分が吹き飛ばされた無理な体勢のまま、強引に風を掴んで飛翔。
腕を伸ばし、落下する紗奈をぎりぎりで抱き留める。
そのまま着地――膝を突き、土を滑らせながら衝撃を受け流す。

「大丈夫、紗奈ちゃん……!」
「……うん、ごめん……でも、まだいける」

ふたりは泥に塗れ荒く息を吐きながらも、互いに背中を預け合うように立ち上がる。
痛みはある。傷も深い。だが、信頼の光が瞳から消えることはなかった。
互いが互いを支え、高めあっている。

296絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:44:20 ID:.RmjW0Kg0
「……なるほどな」

その姿を見た大金卸が何かに思い当たったのか、唸るように呟いた。
そして、はじめて一歩後ずさる。

ただの戦術的退きではない。
そこにあったのは、わずかな思案。そして――問い。

「一つ、問いたい」

右手を前へ差し出し、明確に戦闘の中断を宣言する仕草。
息を整えようとするふたりに、大金卸は真っ直ぐに問いかける。

「そなたたちが互いを守ろうとするのは――それは『善意』によるものか?」

互いを庇いあう2人の姿を見て大金卸の脳裏に過ぎったのは数時間前に見た、北鈴安里とイグナシオの姿だった。
未熟で無力、それでも誰かを守るために立ち上がった少年。
この少女たちにも、似た匂いを感じた。

だからこそ、大金卸は問うた。
イグナシオより投げられた『善意』と言う課題について。
その問いに、りんかと紗奈は、顔を見合わせて言葉を詰まらせる

「……善意って言えば、そうかもしれないけど……」

りんかの口から漏れた答えは、曖昧で、どこか頼りなかった。
その言葉が、正しいのかどうか自分でもわかっていない。
どう言語化すればいいのか、言葉に詰まる。
そんなりんかに代わって、紗奈が一歩前に出た。

「全部が善意ってわけじゃない。りんかがいなくなったら……私、きっと壊れちゃう。
 だから守りたいの。それは私自身のためでもある……でも、それでも……守りたいって気持ちは本物なのよ」

手を震わせながら、懸命に絞り出すように語る紗奈。
その言葉を、りんかがその言葉をしっかりと受け止め、優しく頷く。

「……私もそうです。紗奈ちゃんのために戦いたいって気持ちは、ただ優しさだけじゃない。
 私もきっと、救いたかった自分を、紗奈ちゃんに重ねてる」

かつて流都に言われた、痛みを伴う真実。
『自分が赦されたいだけじゃないのか』と、問いかけられたあの言葉が、胸の奥に今も刺さっていた。

「それでも、紗奈ちゃんの光になりたいって思えた。
 そう願ったのは、全部が偽りじゃない。だから……」

不完全で、混ざりものだらけの祈り。
それでも、確かに心から生まれ彼女たちの真実だ。

その言葉を聞いていた大金卸が考え込むように僅かに瞳を閉じる。
しばしの沈黙ののち、彼女はぼそりと呟く。

「……成る程な」

その声音には、かすかな納得の響きが宿っていた。
脳裏に過るのは、数時間前に拳を交えた、未熟な少年の姿。

実力は遥かに格下。戦士としては未熟の極み。
だがあの少年は、確かに大金卸の身体へ一撃を通した。
それは、きっと彼に守りたい者が、ナチョのためにという戦う理由があったからだ。

――そういうこと、か。

安里も、そしてこの二人の少女も。
己のためではなく、誰かのために拳を振るっていた。
その在り方は、大金卸樹魂という、己の強さだけを信じただ『個』を突き詰めてきた存在にとっては、異質だった。

297絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:44:45 ID:.RmjW0Kg0
「……我が問いに答え、感謝する」

低く、静かな声。
大金卸は、ゆっくりと構えていた拳を下ろす。
そして、そのまま、深く一礼に近い動作を取った。

「……こちら望んだ立ち合いにもかかわらず、身勝手とは承知で言おう――ここで立ち合いを、中断したい」

唐突な申し出に、りんかと紗奈は目を見開く。
一方的に仕掛けられたりんかたちからすれば願ってもないことだが、どういう風の吹き回しか。

「……なぜ……ですか?」

恐る恐ると言った風にりんかが尋ねると、大金卸は真正面からその問いに答えた。

「己の中に、迷いが生じた。今この瞬間、闘争に集中できぬ。その状態で拳を交えるは、戦士としての矜持に反する」

言葉に一切の誤魔化しはなかった。
彼女にとって、戦いとは魂のぶつかり合いであり、それが濁っているならば、拳を振るうに値しない。

それは、かつてネイ・ローマンとの一騎打ちの中でも見せた姿勢だった。
彼女は常に、肉体よりも精神の完全性を重んじている。

「だが、そちらが継続を望むのであれば受けて立つつもりだ」
「い、いやいやっ、それは……! 大丈夫です! 全然!」

りんかは慌てて手を振った。
大金卸のように万全ではない相手とは立ち会えないなどと言う話ではなく。
単純に今の二人に大金卸とまともにぶつかる余力はない。

「無論――再戦は望む。今度はお主らも我も、互いに澱なく拳を交えられる時に」

言葉とは裏腹に、その声からはもう迷いが払われていた。
今はただ、ひとつの結論を静かに口にしていた。

返事を待つことなく、大金卸が踵を返す。
静かに歩み始めるその背中に、呼び止める言葉はなかった。
だが、その巨躯が森の奥へと消えかけたその時、彼女はふと立ち止まり振り返らずに、ひとことだけを残した。

「……己以外のための強さ――覚えておこう」

そして、大金卸樹魂は森の奥へと消えていった。
圧倒的な質量が、森の奥へと遠ざかっていく。
足跡だけが、戦場となりかけた大地に刻まれていた。

圧倒的な存在が去った後、風がようやく森に戻ってくる。
呆然としながらりんかと紗奈は、どちらからともなく手を取った。

正直なところ、りんかたちの側に戦う理由などないし、この怪物との再戦などご免被りたい。
だが今この場は命を賭けずに済んだことに安堵する。
この怪物のような強者の心に、一歩でも何かを刻むことができたのならそれは、十分すぎる成果だった。



298絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:45:00 ID:.RmjW0Kg0
約束が一つ果たされぬまま終わり、そして、一つ新たに芽吹いた。

定時放送にて告げられた――呼延光の死。

その名が無機質な声で読み上げられた瞬間、
未だ果たされていなかった決着の火種は、音もなく消えていた。

確かに、口惜しさはあった。
だが、それ以上に胸をざわつかせたのは、あの呼延光を打ち倒した何者かが存在するという事実だった。

(一度、工場跡に戻ってみるか……否、まずは近場の水蒸気爆発の現場を確認してからでも遅くはあるまい)

思考が奔流のように頭を巡る。
高まり始めるのは、戦いへの欲求。
次なる強者の気配を求めて、魂が疼く。

――己の浮気性が、実に困ったものだ。

そう呟いて肩をすくめるその姿は、滑稽ですらあった。
だが、それもまた、大金卸樹魂という漢女の、生まれながらにして変えられぬ性である。

森を駆け抜けるその歩みに、迷いはなかった。
けれど、胸の奥の芯には、確かに微かな揺らぎがあった。
それは、久しく味わっていなかった感覚だった。

彼女は生まれてこの方、己の欲求に忠実なまま拳を振るってきた。
誰かのために拳を振るったことなど、一度もない。
守るためではなく、奪うためでもなく、ただ戦うこと自体に快楽を覚える者。
勝ち、負け、斃れ、打ちのめす。そのすべてに高揚を覚え、戦いという純粋な本能に酔ってきた。

だが、彼や彼女たちは違った。
彼らは、己のためではなく、「誰かを守るために」拳を振るっていた。

その理由には、未だ共感はできない。
『善意』や『絆』という言葉に、憧れなどない。

けれど、その一撃が、確かにこの身に届いたのだ。
その事実を否定することはできない。

思い出すのは、まだ若く、血気盛んだった頃の記憶。
己の拳に、何一つ迷いのなかった時代。
あのとき、師範が静かに言った言葉。

『――お前の武は、我欲に満ちている』

それは、技術の話ではなかった。
いかに肉体を鍛え上げ、技を極めようとも、人としての在り方が足りなければ、真の継承者にはなれない。
そう師は言ったのだ。

当時の彼女には、その意味がわからなかった。
理解しようとも思わなかった。

だが、今は少し違う。
今なら、その言葉の輪郭だけでも、指でなぞれる気がする。

「……拳に、誰かの命が宿ることがあるのか?」

ぽつりと零れたその声は、朝露を割る風よりも静かだった。
その瞳には、こちらに立ち向かう安里と互いを庇いあうりんかと紗奈の姿が確かに焼き付いている。

(他人のために振るう拳が、あそこまで強くなるというのなら)

彼女は拳を開いた。
掌を空へと向け、朝日にかざす。
雲間から射す陽光が、拳を赤く染める。

「……確かめてみても、いいかもしれぬな」

静かにそう呟き、大金卸樹魂は再び歩き出した。

『善意』や『絆』。これまで顧みる事すらなかった力。
だがそれを、己の『武』をより高みへ押し上げる『手段』として捉えるならば。

恐らくそれは師範やナチョが望んだモノではないのだろう。
彼らは『善意』や『絆』を『目的』として望んでいたのだ。
だが、こればかりは変えようのない大金卸樹魂の生き様である。

日に向かって進む。
足跡だけが、戦場になりかけた地に深く刻まれ、朝の陽光に滲んでいた。

299絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:45:16 ID:.RmjW0Kg0
【D-3/森の中/一日目 朝】
【大金卸 樹魂】
[状態]:胸に軽微な裂傷と凍傷、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.強者との闘いを楽しむ。
0.爆発地点(C-3付近)へ向かう。
1.新たなる強者を探しに行く。
2.万全なネイ・ローマンと決着をつける。
3.ネイとの後に、りんかと決着をつける。
4.善意とはなにか、見つけたい。誰かのための拳に興味。

【葉月 りんか】
[状態]:シャイニング・ホープ・スタイル、全身にダメージ(極大)、疲労(中)、腹部に打撲痕、背中に刺し傷、ダメージ回復中、紗奈に対する信頼、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。

【交尾 紗奈】
[状態]:シャイニング・コネクト・スタイル、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかに対する依存、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
1.新たに得た力でりんかを守りたい
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。
※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。

300絆の力 ◆H3bky6/SCY:2025/05/17(土) 23:45:36 ID:.RmjW0Kg0
投下終了です

301 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:33:28 ID:7fJJ6QGQ0
投下します。

302狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:34:06 ID:7fJJ6QGQ0



 ――――刑務会場の北西部、港湾。
 貨物や船舶を管理するための、小さな“管理棟”。
 その一室にて、ハヤト=ミナセは放送を聞き届けていた。

 そこは港湾の作業員のための休憩室だった。
 ガラス張りの喫煙空間や、何も買えない物言わぬ自販機などが設けられている。
 作業員たちが緩やかに寛ぐ為か、ある程度のスペースも確保されていた。

 幾つか並ぶソファ席のひとつに、セレナ・ラグルスを寝かせていた。
 生死の境目を彷徨うほどの負傷を経たが故に、長時間に渡って気を失い続けている。
 しかし先程の治療キットによる手当てや、炎を宿したアクセサリーの効果もあり、既に穏やかな呼吸を取り戻していた。
 
 小さな窓からは、夜明けの陽光が射す。
 電気が通らず、灯りも付かない仄暗い屋内に、微かな輝きを齎している。
 
 12人の受刑者が、この6時間で散っていった。
 ハヤトも名を知らぬ者もいれば、聞き覚えのある者もいて。
 そして、あの死線の中で対峙した面々の名も呼ばれて。
 この場で命を落とした者達が、ただ情報として粛々と告げられた。

 ――ネイ・ローマンの名は、まだ呼ばれていない。
 されどハヤトの胸中は、今も揺れ動いている。
 自分のケジメとは、納得とは、何なのか。
 その想いが、ハヤトの後ろ髪を引き続けていた。

 思うところは、幾つもあった。
 ハイエナとしての役割。ローマンとの確執。
 この刑務で出会った、セレナとの結びつき。
 そして、あの神父の言葉が脳裏に過ぎる。

 ――――“己が向き合うべき神の兆しを得たのです”。
 ――――“その兆しをどうするかはあなた次第”。

 それらについて、考えたかった。
 自分の立ち位置について、省みたかった。
 しかし、今のハヤトには。
 そうする余裕さえも、与えられていなかった。


 ハヤトは、茫然と立ち尽くしていた。
 汗を流して、呼吸を整えていた。
 湧き上がる恐怖と動揺を、必死に抑え込んでいた。


 この場に現れた“来訪者”を、ハヤトは見据えていた。
 休憩室の入り口の前に立つ男を、彼は見つめていた。
 その相手が何者であるのかは、すぐに理解した。

 だからこそ、ハヤトは目を見開いていた。
 震える瞳孔が、眼前の男を捉え続けていた。
 瞳が、畏怖の感情に染まっていた。
 口元から、慄く吐息が零れ落ちていた。
 絶対的な存在を前に、身が竦んでいた。

 どうする。そんな思考が、ハヤトの脳内を支配する。
 どうすればいい。そんな混乱が、ハヤトの脳内を掻き乱す。
 答えなど出ない。自分には、何も出来ない。
 何故ならば、自分が対峙している相手は。

「そう怯えんなよ」

 男は、悠々と言葉を紡ぐ。
 黒い肌と、漆黒のスーツを纏う、巨躯の老人だった。

「女の前で震えてちゃあ、格好が付かねえだろ」

 ふてぶてしく、不遜に。
 どっしりとした低い声で、言葉を吐く。


「なあ、ハヤト=ミナセ」


 目の前の“ちっぽけなチンピラ”に対して。
 欧州に君臨する巨悪は、淡々と語りかける。


「――――ルーサー……キング……」


 欧州の支配者。闇の帝王。
 社会悪(パブリック・エナミー)。
 その男の名を、ハヤトは震える声で呟いた。
 ルーサー・キングが、彼の眼前に立っていた。

 ストリートを奔走する矮小なギャングが。
 ヨーロッパの頂点に立つ大悪漢と対峙する。

303狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:35:08 ID:7fJJ6QGQ0

「聞いたか、放送」

 そうしてキングは呟く。
 先の放送の件を振り返る。

「色々と申してえことはあるが……」

 伝えられた死者、禁止エリア。
 それらを咀嚼して、キングは言葉を続ける。

「スプリング・ローズ。やっぱり使い物にならなかったな」

 それは、ストリートギャングである“イースターズ”のボスの名だった。
 ネイ・ローマン率いる“アイアンハート”と激しく対立する、幼いストリートギャングだった。
 
 ――“あの小娘と直に会ったのはムショに入る直前が最初で最後だった”、とキングは振り返る。
 たった7歳の少女がキングス・デイ傘下のギャングに重傷を負わせたという、そんな事件が発端だった。

 スプリング・ローズ率いる“イースターズ”は、キングス・デイの下部組織が後ろ盾となっている。
 そのことはストリートでは周知の事実であったし、ハヤトも当然知っていた。
 だからこそ彼女らは急速に勢力を伸ばし、幅を利かせていったのだ。
 そんなローズの死に対し、キングは嘆くことも憐れむこともしない。

「わかるか、坊主。あれこそ“負け犬”と言うんだ」

 その瞳に侮蔑の色を滲ませながら、キングは淡々と語る。
 まるでハヤトに対して“反面教師”について説くかのように。

「てめえ一人じゃ何も築けねえ、喧嘩の腕っ節くらいしかまともな取り柄がねえ。
 適当な枷で飼い慣らしてようやく少しはマシになる――この世界に腐るほど溢れかえった、下らんネイティブのガキさ」

 尤も、だからこそ飼い犬としては都合が良かったがな。
 キングは付け加えながら、言葉を続けた。

「挙げ句、ネイ・ローマンと刺し違えることすら出来ていない。所詮はこの程度の器だったって訳だな」

 そう結論付けて、一呼吸の間を置き。
 それからキングは、ゆっくりと視線を動かした。
 
「さて、てめえはどうかと少しは期待していたが」

 低く籠もった声で、キングは呟く。
 強張るハヤトの姿を、彼は真っ直ぐに捉えていた。
 その眼差しから滲み出る意思を、ハヤトはすぐに悟る。

「女を抱えて日和ってやがったとはな」

 ――――自分は“値踏み”されている。
 失望の混じったキングの声と共に、その事実をハヤトは理解した。
 ハヤトの近くのソファに横たわるセレナを一瞥して、キングは言葉を続ける。

304狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:36:03 ID:7fJJ6QGQ0

「さしずめそいつは、てめえにとって“もう見捨てられない女”なんだろ?」

 顎で指し示すように、キングはセレナについて問う。
 ハヤトは、何も答えられない。心臓を掴まれたように、声を絞り出すことが出来ない。
 脳髄を駆け抜けていく緊迫が、彼を硬直させる。

「この世界にはな。ごまんといるんだよ」

 そんなハヤトの動揺を意にも介さず、キングは悠々と言葉を続ける。
 立場の違いを突き付けるように、牧師は冷淡な眼差しを向ける。

「女だの子供だのに絆されて、そいつの為に足を洗おうとする野郎が」

 ルーサー・キングは、半世紀以上に渡ってギャングとして生きている。
 裏の世界に根を張り、彼はあらゆる人間を見てきた。
 守るべきものを得て、愛すべきものを得て、やくざな稼業を抜け出そうとした小悪党など――腐るほど目にしてきたのだ。

「――――で、どうだ?ハヤト=ミナセ」

 故に彼は、何の感慨も抱きはしない。
 傷ついた少女を抱えて、身を潜めていたチンピラの有り様など。
 そんな輩に対する慈悲など、キングは持ち合わせるつもりもなかった。

「てめえはどうなんだ」

 彼が問うことは、ただ一つ。
 お前は自分の期待に応えられるのか、否か。
 行き着く所は、それだけだった。

 ハヤトは、唇を震わせる。
 目を見開きながら、必死に平静を保つ。
 一筋の汗を流して、焦燥へと駆られる。

 ハヤトは既に悟っていた。
 キングは、自分と”アイアンハート”の確執を知っているのだと。
 だからこそ”しくじった”スプリング・ローズの話を振り、ネイ・ローマンとの対峙を促している。
 ローマンが"キングス・デイ"と真っ向から敵対していることは、ハヤトも当然周知している。

 そんなネイ・ローマンを始末するための"鉄砲玉"としての役目を、キングは己に期待している。
 スプリング・ローズの代役としての立場が、自分に与えられようとしている。
 だからこそキングは、セレナを抱えて身を潜めていた自分を試しているのだと。
 立ち竦むハヤトは、否応なしに理解させられた。

 つまり――――生かす価値があるのか、否か。
 キングはハヤト=ミナセを試している。
 鉄砲玉になり得るのか、あるいは腑抜けたのか。
 この闇の帝王は、それを淡々と見定めようとしている。
 そしてハヤト自身もまた、そのことを悟ってしまった。

 ここでキングの望む答えを出せなければ、自分達は”用済み”になる。
 それを理解できぬほど、ハヤトは愚かではなかった。
 使い物にならないチンピラを生かす意義も理由も、彼は持ち合わせていないのだから。
 だったら、恩赦ポイントの足しにでもした方が余程マシだ。

 キングに抵抗することなど、ハヤトは考えもしなかった。
 欧州の怪物に敵う筈が無いことなど、彼自身も理解していた。
 何よりセレナを守らねばならなかったからこそ、ハヤトは迂闊な行動など出来なかった。

 ――――しくじれば、全てが終わる。
 自分達の刑務は、此処で幕を下ろす。

 ハヤトの脳裏に、セレナの重みが蘇る。
 明朝。夜明けを迎える中、彼女を此処まで運んだ。
 彼女を救うために、ただ無我夢中で歩み続けた。
 その瞬間の感覚が、その瞬間の感情が、只管に反響を繰り返す。




305狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:37:00 ID:7fJJ6QGQ0



 オレは、ちっぽけなチンピラだ。
 賢くもない。ろくに頭も回らない。
 心の中では燻りながらも、兄貴に付いていくしか出来ない。
 そうしてスラムを奔走するばかりの、些細なごろつきに過ぎなかった。

 けれど、そんなオレでも。
 今の状況が最悪なことくらいは、理解できる。
 今のオレは、目の前の男に“命運”を握られている。

 今まで生きてきた中で感じたことのない恐怖。
 これまでの人生で抱いたことのない緊迫。
 感情が、闇へと引き摺り込まれようとしている。
 今すぐにでも逃げ出したい程に、絶望が押し寄せてきている。

 それでも、必死に堪える。
 決死の思いで、此処に立ち続ける。
 自らの平静を、何とか繋ぎ止める。
 歯を食い縛りながら、地に足を付ける。
 全てが覆るほどの焦燥を、我武者羅に耐え続ける。


 ――――すぐ後ろで、セレナが眠り続けている。


 オレは、眼前の男と対峙する他なかった。
 自分は所詮、取るに足らないギャングに過ぎない。
 それくらい、オレだって分かっている。
 それでも、欧州に君臨する巨悪に、応えなければならなかった。

「……頼む」

 喉から、声が絞り出された。
 緊張に震えた言葉が、滴り落ちた。

「どうか、見逃してくれ」

 そう訴えながら――オレはその場で跪いた。
 焦燥に駆り立てられるがままに、オレは懇願をした。

「アンタへの仁義は、必ず通す……!!」

 その場に跪き、頭を地面に擦り付けんばかりの勢いで、必死に吐き出していた。

「アンタがオレに何の価値を見出しているのかは、ちゃんと理解している!!」

 眼前の帝王が望むもの。彼の意図を汲んでいることを、オレは服従も同然の姿で訴える。

「オレはッ、アンタの期待を裏切ったりはしない!!」

 形振りなど、最早構っていられなかった。
 命乞いと蔑まれようと、気に留める余裕はなかった。

「『アイアンハート』がオレの兄貴分を粛清したことも、当然分かってる!!」

 キングがオレに望むことは、ただ一つ。
 ”アイアンハート”のネイ・ローマンと対峙することだ。
 だからこそ、自らの価値を示さねばならなかった。

306狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:37:32 ID:7fJJ6QGQ0

「奴らの首領、ネイ・ローマンには必ず落とし前を付ける!!そう誓ったんだ!!」

 脳内で思考が駆け回る。
 閃光のように乱反射を繰り返す。
 混乱の渦中で、闇雲に言葉を絞り出す。

「覚悟は、とっくにしている……!!」

 この場を切り抜けるためにも。
 何がなんでも、キングへと示さねばならなかった。
 自分の価値を、自分の仁義を。

「だから、だから――――ッ!!」

 そうしなければ、きっと。
 自分の命は、此処で終わる。
 そして、何よりも。

「頼むからっ、セレナには……!!
 手を、出さないでくれ……!!」

 セレナさえも、オレの巻き添えになる。
 それだけは、絶対に避けなければならなかった。
 セレナを犠牲にする訳にも、見捨てる訳にも行かない。
 それだけは、何があっても――――。

 必死の思考に駆られていた矢先。
 カラン、と金属の音が響いた。
 何かが転がり、やがて手元に転がってくる。
 唐突な出来事を前に、オレは思わず惚けたような声を零してしまう。


「…………え?」


 それは“鋼鉄の破片”だった。
 掌程度の大きさの、なんてことのない断片。
 まるで硝子片のように、自分の手元に横たわる。
 それがキングの超力で生み出されたものであることは、すぐに理解した。

 オレは、その破片を呆然と見つめていた。
 キングがこれを生み出して、キングがこれを投げ渡してきた。
 そんな事実だけを、オレは漠然と認識していた。

 屋根や窓の隙間から射す、朝焼けの光。
 暖かな茜色が、仄かな輝きを放つ。
 この場に割り込む灯火が、足元の鋼鉄片を鈍く光らせる。
 視線を落とすオレに対して、その存在を突き付けてくる。

「右眼だ」
「は……?」
「右眼を抉り出せ」

 オレは、思わず顔を上げた。
 キングは、悠々と煙草を取り出しながら。
 ただ淡々と、そう言い放っていた。
 まるで“使い”でも任せるように、なんてこともなしに。

「聞こえなかったか。坊や」

 そして、キングの視線が“鋼鉄の断片”へと向けられた。
 彼の言いたいことを、オレはその時に理解した。
 そう、理解してしまったのだ。

 
「てめえの目玉を、俺に差し出してみろ」

 
 ――――“そいつを使って抉れ”。
 キングの眼差しが、オレにそう伝えていた。

307狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:38:46 ID:7fJJ6QGQ0

 それを察した瞬間。
 その言葉を突きつけられた瞬間。
 オレの思考は、空白になっていた。

 動揺と焦燥が、止め処無く流れ込んできた。
 脳味噌や神経を犯すように、意識を蝕んでいた。
 それまで必死に捏ねていた考えが、唐突に真っ白になる。

 頭の中で、何か言葉を捻り出そうとしていた。
 喉の奥から、何か異論を吐き出そうとしていた。
 けれど、そのいずれも、無意味であることを悟っていた。
 
 知っている。誰だって知っている。
 欧州で“やくざ”な生き方をしていれば。
 このことは、当然の摂理なのだ。
 
「俺への仁義を通すんだろう。是非見せてくれ」 

 ――――“牧師”には絶対に逆らうな。
 奴に睨まれたなら、頭を垂れる以外に助かる術はない。
 歯向かえば、その瞬間から全てを奪われるのだから。

「てめえの言葉が単なる“出任せの保身”じゃないことを、今すぐに証明しろ」
 
 思い返す。オレは、追憶する。
 ネイ・ローマンの後ろ姿が、脳裏を過ぎる。
 目の前の“この男”の打倒を狙うとされる、若きギャングスター。
 その意志と矜持を掲げることの意味を、オレは改めて理解させられる。
 あのギャングスターがいかに傑物であるのかを、オレは思い知らされる。

 キングの眼は、先程までと全く変わらない。
 冷ややかな視線で、こちらをずっと“品定め”している。
 相手の価値の有無を、淡々と確かめている。
 ――試されているのは、この場で跪くオレだった。

 悠々と煙草を吸いながら、キングはその場で寛ぐ。
 立ち込める靄のように白煙を吐き出しながら、彼は“見物”をしていた。
 そう、何の感慨もない眼差しで、オレを見下ろしている。

 手が震える。身体が震える。
 油のような汗が、じっとりと纏わりつく。
 転がる鋼鉄の断片を握ることも出来ず。
 オレはただ、何かを懇願するようにキングを見上げることしか出来ない。

308狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:39:45 ID:7fJJ6QGQ0

「キング……」

 必死になって、恐怖を堪えながら。
 辛うじて吐き出した、か細い言葉。
 喉から絞り出した声は、弱々しく震えている。

「おれ、は……」
 
 そうじゃない。違うんだ。
 そんな反論が、飛び出しそうになった。
 何処までも情けない感情が、胸の奥底から零れ落ちてくる。
 
「キング……――――」
「なあ、坊主」
 
 そんなオレの無様な訴えを、キングは低い声でゆらりと遮る。

「てめえ言ったよな。覚悟はとっくにしている、と」

 オレの吐いた言葉。オレの訴えた意志。
 それらを冷淡に振り返り、反復しながら。
 キングは、悠然とオレを見定める。

「“覚悟”って言葉の価値は重いんだぜ。
 言い逃れに使う為の免罪符じゃねえんだ」

 言い訳なんぞに興味はない、と。
 そう言わんばかりに、キングは諭すように説いてきた。
 道理を理解していない子供に、世の真理を突き付けるように。

「俺の言いたいことは、分かるよな」
 
 キングは冷徹な視線を向けながら。
 オレの逃げ道を、感慨も無さげに塞いでいく。
 指先を動かすような容易さで、オレを黙々と追い込んでいく。


「てめえが吐いた決意を、てめえで裏切るなよ」


 ドスの利いた声が、俺の鼓膜を刺激する。
 ゆらりと吐き出された低い声が、頭の中を冷酷に揺さぶる。

309狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:40:23 ID:7fJJ6QGQ0

 混乱と困惑が、同時に押し寄せてくる。
 思考があべこべになって、何もかもが雁字搦めになる。
 寒気のするような汗が、さっきからずっと止まらない。
 何かを訴えようとしても、声は喉を上手く通ってはくれない。

 オレは今、何をやっているんだ。
 オレは今、何をするべきなんだ。

 幾ら自問自答をしても、答えなんてやってこない。
 都合のいい道筋なんて、降り立っては来ない。
 破片に触れる手が、さっきから恐怖と焦燥で震えている。
 自分の取るべき行動を見出せないまま、感情だけが右往左往している。
 
「――あ……う、え……っ」

 言葉のなりそこないのような呻きが、口元から滴り落ちる。
 今にも胃の中の物を吐き出しそうな不快感が込み上げてくる。
 気が付けば、目を見開いていた。
 目の前に転がる破片を凝視して、心臓の音が跳ね上がっていた。

「う、ぁ……」

 何で、こんなことになっている。
 何で、こうしなければならない。
 わかっている。そのくらい、察している。
 混乱の渦中に叩き落されても、それだけは理解できる。

 仁義。覚悟。落とし前。流儀。決意。矜持。意地。
 オレがここで“片目を喪う”理由なんて、後から幾らでも名付けられる。
 ルーサー・キングがそうだと言えば、それが事実として決められる。

 仁義を示すために、目を抉らなければならない。
 覚悟を見せるために、目を抉らなければならない。
 矜持を証明するために、目を抉らなければならない。
 女を守るために――――目を、抉らなければならない。
 この行動の意義など、キングは何だっていいのだろう。

 きっと、どうだっていいのだ。
 キングからすれば、如何様にもできるのだ。
 こうする理由や価値など、彼は思うがままに規定できる。
 彼がオレに対して求めていることは、結局ひとつの事実に行き着く。

 オレというチンピラが。
 ルーサー・キングに従うか、否か。
 結局のところ、それだけだ。

 
「さあ」


 だから、キングは。
 オレに対して、粛々と促してくる。
 生きるべきか、死ぬべきか。
 欧州最悪の大悪漢が、オレの価値を選別している。
 ハヤト=ミナトという小悪党を、試している。


「やれよ」


 ルーサー・キングの意思一つで、何もかもが終わる。
 オレの全てが。そして、セレナの全てが。

310狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:40:53 ID:7fJJ6QGQ0



 ――――“ハヤトさん、わたしね”。
 ――――“ほんとはずっと、不安だったんです”。


 その瞬間。
 脳裏に、あいつの声が反響した。
 あの爆弾魔の攻撃から自分を庇った直後。
 あいつは、オレに胸の内を打ち明けた。


 ――――““ずっと、後悔が消えなかった”。
 ――――“わたしは、みんなを、たすけられなかった”。


 あいつが苛まれてきた痛み。
 あいつが抱えてきた哀しみ。
 オレはあの時、それに触れた。


 ――――“みんなを見捨ててしまったんです”。
 ――――“自分だけ、助かろうとしてしまったんです”。


 ああ、そうだ。
 あいつは、ずっと背負っていたのに。
 あいつは、ずっと苦しんでいたのに。


 ――――“だから今日、もしも”。
 ――――“ハヤトさんを、助けられたんだとしたら”。


 前へ進んでいく勇気を、あいつは選び取って。
 そんなあいつが、オレは怖くて。
 けれど。だからこそ、オレがどうするべきなのか。
 それをやっと、少しでも理解することが出来た。

 恐怖も、不安も。焦燥も、動揺も。
 何もかもが、俺の心に纏わりついて。
 雁字搦めになったまま、離してはくれない。
 震えも止まらない。意識も集中できない。
 一歩踏み外せば、きっとすぐに闇へと引き摺り込まれる。

 逃げ出したい。すぐにでも助かりたい。
 そんな思いさえも、脳裏をよぎって。
 だけど、今のオレは――――。

 ああ、そうだ。
 きっと、オレは。
 例え何があろうと、何が起ころうと。
 どれだけダサくて、不恰好であっても。
 せめて後悔だけは、もうしたくなかった。




311狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:41:42 ID:7fJJ6QGQ0


 気が付けば、オレは。
 手元にあった鋼鉄の破片を、放り投げていた。
 我武者羅になって、明後日の方向へと捨てていた。

 金属音を鳴らしながら、破片は地面を転がっていく。
 自らの眼を抉るための凶器が消え去っていく中。
 荒い息を整えながら、オレは俯いていた。

 破片に目をくれることはなかった。
 それを視線で追いかける余裕など、ありはしなかった。
 自分が今置かれている状況と向き合うことに必死だった。

 キングは、オレを無言で見下ろしている。
 無表情。不服の感情も、反抗への憤りも、その顔からは伺えない。
 ただ無言を貫いたまま、彼はオレを”視ている”。
 まるでオレの方便を待つかのように、キングは煙草の白煙を吐き出している。


「できない」

 
 これは、きっと愚かな答えなのだろう。
 素直に屈服していれば、キングの納得は得られた。
 この命懸けの状況で、オレは無謀な判断をしたのだろう。


「できないんだよ」


 しかし、それでも。
 オレは、そうすることが出来なかった。


「あいつに、これ以上……」


 そうすれば、全てが丸く収まるのだとしても。
 その決断へと踏み切ることなんて、出来なかった。
 苦痛への忌避。片目を失うことへの恐怖。
 それも確かだった。今さら強がることなんて、できやしない。

 けれど、それ以上に。
 オレは、あることが怖かった。
 オレの決断が、あいつを傷付けることになるかもしれない。
 それが、何よりも恐ろしかった。


「後悔を……背負わせたくない……――――」


 セレナのために、オレが目を抉れば。
 あいつはきっと、また後悔を抱くことになるから。
 あいつはきっと、自分の責任だと思うだろうから。

 仲間たちを助けられず、一人で逃げるしかできなかった。
 そのことを悔やみ続けて、あいつはオレに打ち明けた。
 だから。これ以上、罪の意識を与えたくない。

 例え無力で、無様で、弱くても。
 もう何かを諦めて、妥協に生きたくない。
 オレはもう、オレの向き合うべきことから逃げたくない。
 自分が抱いた願いを、手放したくない。
 
 兄貴がオレを支えてくれたように。
 オレもまた、あいつを支えてやりたかった。
 今度こそ、悔いなく前を向けるように。

 あいつは、オレに言ってくれた。
 ――――友達になろう、と。
 あの言葉が、オレに一つの道を示してくれた。

 あいつは、オレに見せてくれた。
 一歩を踏み出すことの意味を。
 あの意思が、オレの葛藤に答えを与えてくれた。


「オレは……納得を、捨てたくない……っ!」


 だから、オレは。
 ちっぽけで、惨めであっても。
 あいつと共に歩きたい。
 そう思っていた。

312狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:42:13 ID:7fJJ6QGQ0


 
 なあ、セレナ。
 オレさ、なっていいかな。
 お前の“兄貴”ってヤツに。




313狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:43:06 ID:7fJJ6QGQ0


 その矢先に。
 誰かの温もりが、ふいに訪れた。
 オレのすぐ傍で、誰かが寄り添っていた。

 跪いていたオレの身体を、誰かが支えている。
 小さくて、けれど暖かな手が、オレに触れている。

 オレは、目を丸くして。
 呆然と、顔を上げて。
 それから、やっと振り返った。

 そこに、あいつがいた。
 褐色の毛皮に、大きな目を持ち。
 長い耳を垂らした、幼さの残る獣人。
 ウサギの姿をした少女が、オレの傍にいた。


「――――ハヤトさん」


 意識を取り戻した、セレナだった。
 あいつが、オレに寄り添うように膝を付いていた。
 既に、その傷は癒えている様子だった。
 あいつの眼差しが、オレをじっと捉えていた。
 申し訳なさと、真っ直ぐな想いを滲ませていた。


「セレ、ナ……」


 いつから、目を覚ましたのか。
 どこまで、話を聞いていたのか。
 その答えは、分からなかったけれど。

 オレはただ、セレナを見つめていた。
 セレナもまた、オレを見つめていた。
 唖然とするようなオレと、あいつは向き合っている。
 その澄んだ瞳が、じっとオレに訴えかけていた。

 ――――ありがとう、と。
 言葉に出さずとも、セレナは伝えてくれていた。

 今なお、緊迫と焦燥は心を雁字搦めにしている。
 目の前の状況によって、恐怖に絡め取られている。
 此処で、死ぬかもしれない。終わるかもしれない。
 そんな感情に、掻きむしられる。

 それでも、ほんの少し。
 ほんの微かにでも、暖かな光が胸に訪れた。
 セレナの温もりに触れて、オレは僅かにでも安堵を抱いていた。

 だから、オレも。
 あいつの瞳を、見つめ返していた。
 あいつに対して、静寂の中で伝えていた。
 オレの意志を。オレの願いを。

 そうして、微かな合間の交錯を経て。
 オレとセレナは、ゆっくりと、視線を向き直した。

314狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:43:53 ID:7fJJ6QGQ0

 沈黙と、静寂が続いていた。
 キングは何も言わず、ただオレたちを見据えていた。
 無感情のままに煙草を吸い、白い煙を漂わせている。

 生きるか、死ぬか。
 此処で全てが決まる。

 オレの決断が正しかったのか、誤っていたのか。
 それさえも見極めることはできない。
 数秒。十数秒。数歩先の未来が、その答えを与えてくれる。
 オレは目を見開き、答えを待ち続けるしかなかった。


 そして。
 ぱん、ぱん、ぱん――と。
 乾いた音が、ふてぶてしく響いた。


 オレはゆっくりと、顔を上げた。
 何が起こったのか。それを理解するのに、時間は掛からなかった。
 視界に入ったのは、ぶっきらぼうな拍手をするキングの姿だった。

 その口元には、ほんの僅かな笑みが浮かんでいた。
 まるで”面白いものを見た”と言わんばかりに。
 欧州の帝王は、オレたちを眺めていた。

「所詮はチンピラだが……」

 そうして、キングが口を開いた。
 オレも、傍にいたセレナも、緊張で身構える。

「筋を通す若造は、嫌いじゃないぜ」

 キングの表情が、傲岸な笑みへと変わっていく。
 その表情も、態度も、明らかに先程までより柔らかくなっていた。

「一先ずは合格だ。喜ぶといい」

 ――許されたのか。認められたのか。
 例えそうだとしても、オレの身体からはまるで緊張が抜けなかった。
 身体を掻き毟るような焦燥感が、今もなお疼き続けている。
 疲弊にも似た感覚が、神経のあちこちを蝕んでいる。

「嬢ちゃん、“セレナ・ラグルス”だろ?」

 それでも、キングは何てこともなしに。
 気さくな素振りで、セレナへと話を振っていた。

「聞いたぜ。祖国じゃ英雄も同然らしいな」

 ――ふいにキングが、そんなことを言い出した。
 話を振られたセレナは、目を丸くする。
 セレナが、祖国で英雄扱い。
 何を言っているのか、オレには分からなかったし。
 そしてセレナ自身も、理解できていない様子だった。

 一体どういうことなのか、と。
 そんな風に問い掛けようともした。
 されどキングは、言葉を続ける。

「暇潰しの相手も欲しかったところだ」

 白い煙を吐きながら、キングは呟く。
 強張るオレの緊迫をよそに、奴は悠々と告げてきた。


「――――坊や達。少しばかり、話でもしようぜ」

315狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:44:30 ID:7fJJ6QGQ0



 キングは、先の放送を振り返る。
 第一回放送。看守長オリガ・ヴァイスマンによる、死者と禁止エリアの通告。

 恵波 流都が早々に脱落したのは都合が良かった。
 社会に根を張り、システムを掌握するキングにとって、ブラッドストークは“いずれ目障りな存在になる”と踏んでいた。
 あの男は“秩序に対する挑戦を仕掛ける者”であると、キングは見抜いていた。

 以前に取引の情報を吐いたという舞古 沙姫も、優先度は低かったとはいえ消されたのなら良し。
 スプリング・ローズについては、先にハヤトへと述べたことが全てだ。

 錚々たる犯罪者から、聞き覚えもない有象無象に至るまで。
 刑務開始からの6時間で、複数の受刑者が命を散らしていた。
 その中で、キングが注目せざるを得なかったことは一つ。

 ――――誰がドン・エルグランドを殺った?

 あのカリブの大海賊が、落とされたのだ。
 奴はこの刑務において、間違いなく上位に位置する怪物だ。
 手負いのジャンヌ・ストラスブールに返り討ちに遭ったなどとは考えられない。
 下手な小物が不意を突いて殺せるようなタマでもない。

 一体奴を落としたのは、何者なのか。
 可能であれば、それを突き止めたかった。

 ドン・エルグランドを仕留めた者にせよ。
 ネイ・ローマンや、他の敵対者たちにせよ。
 この刑務で生き抜いていけば、自ずと接触することになる可能性は高い。

 今回の禁止エリアの配置は、中心部を軸にその周囲を潰すような形で指定されている。
 刑務終了までの放送が残り二度しかないことからして、今後より一層外堀を埋められる可能性が高い。
 この刑務を仕掛けたアビスとて、受刑者達の分断や分散は望まない筈だ。
 そうなれば、受刑者の目線でも“安全圏となるであろう地帯”をある程度推測できる。

 非戦的な受刑者は、確実に安全地帯を確保する為に。
 好戦的な受刑者は、確実に他の受刑者を見つける為に。
 恐らく終盤へと向かうにつれて、生存者は一箇所へと誘導されることになる。
 ヴァイスマンらしいやり方だ、とキングは内心ごちる。
 幾ら刑務に消極的であっても、どのみち受刑者同士の衝突は避けられない仕組みになっているのだ。

 ――そもそも定時放送とは“何処から”流れているのか。
 ――この刑務の舞台は、本当に“ただの島”なのか。

 ふと、そんな根本的な疑問も抱いたものの。
 今はそこを考えた所で仕方がないと、キングはすぐに割り切った。

 さて、今はハヤト=ミナセの処遇についてでも考えることにしよう。
 適当に野放しにするか。
 自身に同行でもさせるか。
 あるいは、予定通り鉄砲玉にするか。
 暫しの“会話”の後に、キングは彼をどう扱うか決定する。
 
 ハヤト=ミナセは、ネイ・ローマンを殺せるか否か。
 そのことはキングにとって、然程重要な事柄ではなかった。
 ハヤトが己に従い、己の意に沿って動くか否か――キングが試していたのは“それ”だった。
 もしもハヤトが腑抜けていたならば、この場でセレナ共々“恩赦ポイントの足し”にすることを見越していた。

 ハヤトが自分の右眼を抉り出せなければ、キングは彼を始末するつもりだった。
 ここで度胸を示せないような輩など使い物にならないし、ましてやネイ・ローマンを相手取れる訳が無いからだ。
 結局ハヤトは、キングからの脅迫を拒絶する結果になったのだが――。
 しかしキングは、ハヤト達を生かすことを選んだ。

 ――――屈服より、矜持を選んだか。
 ――――少しはタマのある小僧らしいな。

 女の為に、自分の為に、ハヤトはキングからの要求を突っぱねた。
 恐怖ゆえの惨めな抵抗ではなく、越えてはならない一線を踏み留まるために。
 自らの矜持を守るために、この若造は“闇の帝王”に拒絶を突きつけたのだ。
 自棄糞の行動ではなく、己の意志を以てして。

 チンピラにしては上出来だ。
 無力な小僧が、ごろつきなりの意地を見せたのだ。
 そのことを無下にするほど、キングは狭量ではない。

 キングは、ハヤトに合格点を与えた。
 だからこそ、彼を生かすことにしたのだ。

316狼たちの午前 ◆A3H952TnBk:2025/05/19(月) 00:45:49 ID:7fJJ6QGQ0

【B-3/港湾(管理棟)/一日目・朝】
【ハヤト=ミナセ】
[状態]:多大な精神的疲弊、疲労(中)、全身に軽い火傷
[道具]:「システムA」機能付きの枷、治療キット
[恩赦P]:50pt
[方針]
基本:生存を最優先に、看守側の指示に従う?
1.セレナと共に行く。自分の納得を貫きたい。
2.『アイアン』のリーダーにはオトシマエをつける?
※放送を待たず、会場内の死体の位置情報がリアルタイムでデジタルウォッチに入ります。
 積極的に刑務作業を行う「ジョーカー」の役割ではなく、会場内での死体の状態を確認する「ハイエナ」の役割です。
※自身が付けていた枷の「システムA」を起動する権利があります。
 起動時間は10分間です。

【セレナ・ラグルス】
[状態]:背中と太腿に刺し傷(治療キットによりほぼ完治)
[道具]:流れ星のアクササリー、タオル、フレゼアの首輪(P取得済み)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:死ぬのも殺されるのも嫌。刑期は我慢。
1.ハヤトに同行する。
2.生きて帰れたら、ハヤトと友人になる。

※ハヤトに与えられている刑務作業での役割について、ある程度理解しました。
※流れ星のアクセサリーには、高周波音と共に音楽を流す機能があります。
 獣人や、小さい子供には高周波音が聴こえるかもしれません。
 他にも製作者が付けた変な機能があるかもしれません。

※流れ星のアクセサリーには他人の超力を吸収して保存する機能があるようです。
 吸収条件や吸収した後の用途は不明です。
 現在のところ、下記のキャラクターの超力が保存されています。
 『フレゼア・フランベルジェ』

【ルーサー・キング】
[状態]:健康
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1、タバコ(1箱)、食料(1食)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました
※ギャル・ギュネス・ギョローレンが購入した物資を譲渡されました(好きな衣服、煙草一箱、食料)

317名無しさん:2025/05/19(月) 00:46:13 ID:7fJJ6QGQ0
投下終了です。

318 ◆H3bky6/SCY:2025/05/19(月) 20:49:45 ID:DdHaBw560
投下乙です

>狼たちの午前
裏社会の支配者とチンピラと言う頂点と底辺、格の違いは明らかで、ハヤトも下手に裏社会の事を知ってるから余計に相手の格に飲み込まれてしまう、出会った時点で終わりのパブリックエネミーすぎる
相手の弱みを瞬時に見極めるのも、下手な言動にはすぐにケジメを要求してくるのもあまりにもヤクザ、女の為に裏社会を抜ける小悪党。エルビスさんが聞いたらどう思うでしょうか?
そして勝手に相手を審査して合格不合格を出すのは奇しくもローマンと同じような事をしている。もしかして両者上から目先の似た者同士なのでは?
そんな相手に主張を通せるのはセレナと出会った成長があってこそ、兄貴に見捨てられたハヤトがセレナの兄貴になりたいと望むのはきれいな着地、この2人は恋愛ではなく親愛に落ち着きそうね

319 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:31:41 ID:NpHdSdPM0
投下します

320「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:33:45 ID:NpHdSdPM0
朝だった。
誰に告げられたわけでもなく、ただそう思った。
空が青くもなく黒くもなく、境界の曖昧な淡い光に包まれている。
それだけで、ずいぶん遠くへ来たんだなと思った。

この刑務作業が始まってから、昔のことをよく思い出す。
俺がナチョだった頃、天井のない部屋で眠った日があった。
壁は汚れていて、床は冷たくて、空だけがひどく広かった。

空だけはいつの時代、どこの国でも変わらないはずなのに、立場と状況で見える景色は違ってくる。
あの時、感じた朝はどれとも違う朝だった気がする。

世界に誰もいない気がして、自分ひとりが生き残ってしまったみたいで、少し泣いた。
まだ、闘争の渦に飲まれる前。涙を流すだけの優しさが、俺にも残っていた頃だ。

あの頃、俺は真実に価値があると信じていた。
誰かが嘘をついても、自分の力でそれを暴ける。
正義という言葉が恥ずかしいものになる前は、それだけで胸を張れる気がしていた。

でも、力のない真実は、誰も救わなかった。
どんなに本当のことを突きつけても、誰かが殴ればそれが全てだった。
どんなに過去を見せつけても、笑われて、蹂躙されて、踏みつけられて。
真実が力に勝てたことなんて、一度だってなかった。

俺の力は、正義の道具じゃなかった。
誰かの命を救う奇跡でもなかった。
過去という名の墓標を暴くだけの、ただの『記録』の再生にすぎない。
どれだけ必死にすがっても、その場に立っていた者の感じた『記憶』の方が、ずっと強いとそう思っている。

だから、俺は戦うようになった。
あの人――大金卸樹魂と出会い、戦いを通じて自分を見出す生き方を選んだ。
最初は真実を貫き通す手段として、その内その手段を目的として。
超力を暴力として振るうようになって、誰かを打ち倒すたびに思った。

生き残った。
だから俺には、意味がある。
死んでいった奴らよりも、価値があるのだと。
生存という形で俺は自分の価値を証明してきた。
そうやって、幾度となく死を踏み越えてきた。

戦いは、楽しかった。
自分の肉体が削れていく音。
骨が軋み、心が燃える感覚。
どこか、性に似た快楽すら覚えた。
勝ったときの高揚は、全てのしがらみを一瞬だけ忘れさせてくれる。

だから、俺は罪人だ。
誰かの命を踏み台にしてまで、快楽を貪った。
どこかで、自分自身が殺されても仕方ないと思っていた。
だから、この刑務作業は自分の終りとしてふさわしい場所なのだと思ったんだ。

けれど今は……アンリくんを見ていると、違う思いも沸いてきていた。
あの子の目は、まだ穢れていない。
あの子の言葉は、俺よりずっと強い。
自分を嫌いながら、それでも生きようとしている。
逃げたいと思いながら、それでも守ろうとする。
俺にはもう戻れない場所を、彼はまだ歩いている。

この子には、俺みたいになってほしくない。
誰かに追いつこうとして、歪んだ道を選んでしまった俺と同じになってほしくない。
だから俺は、同じ道を歩まないように、間違ってしまった先人として自分の記憶と経験、後悔を彼に伝えるのだ。

それはきっと俺の身勝手な願いなのだろう。
彼にとっては有難迷惑な話なのかもしれない。
けど、それでいい。

善意であろうと悪意であろうと押し付けるものだ。
それを受け入れるのも、迷惑として跳ねのけるのも彼の自由だ。
結局、人間など結局は身勝手な生き物なのだから。
俺は俺の我儘を押し通すだけだ。



321「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:34:11 ID:NpHdSdPM0
朝の風が、崩れた鉄骨の隙間を低く唸りながら吹き抜けていた。
瓦礫の奥で、どこか小さな部品がコロリと音を立てて転がる。
灰色に濁った空が静かに廃工場を照らしている。

腐食に蝕まれた建物は、所々で鉄が剥き出しとなり、鋭い影を足元に落としていた。
朝の光は温もりに乏しく、色を与えるどころか、全ての輪郭を鈍く灰へと塗り潰していく。

旧工業地帯・北西部、F-3区画。
イグナシオと安理は、言葉少なに歩いていた。

彼らの足音は、廃墟の静寂に吸い込まれていく。
廃墟に響かぬよう慎重に、まるで音という音を避けるように。
床のコンクリートには、歪んだ鉄くずや破砕された部材が散乱しており、一歩ごとに注意を要する。

この場の沈黙は、呼吸すら控えさせる。
砕けたコンクリ片を踏まぬように。鉄板の上で反響を起こさぬように。
その緊張は、見えぬ何者かの殺意を感じ取っている証だった。

安理はイグナシオの歩調にぴたりと合わせていた。
先を歩むイグナシオの姿を見本として、その動きに倣うように同じ動きを模す。
それは拙いながらも警戒という行動様式を身に着けようとしているようだった。

イグナシオは歩を止めず、虚空へと片手を掲げる。
その指先が探るのは、空間にわずかに残された存在の『記録』。
超力『トランスミシオン・ヘオロヒコ』が過去の残響を伝えてくる。

そこから読み取れる標的の足取りはかなり重い。
それもそうだろう。何せ戦ったのは、あの『鉄塔』──呼延光。
致命的なダメージを負っている可能性は高い。

ならば、どこかに潜伏して回復を図っている可能性は高い。
この区画は、潜むにうってつけだった。
金属音が響きやすく、物陰が多く、退路も豊富。
この廃工場地帯であれば、通常の捜索では見つかりようがない。

だがイグナシオの超力はその不可能を導く。
辿った怪物の痕跡は、崩れかけた路地のさらに奥。
足音の重なり、床に刻まれた微細な圧痕、揺れた空気のわずかな軌道。
それらの重なりが、彼にひとつの確信をもたらす。

「……ここを通ったな、間違いない」

囁くように呟いた声に、安理がすぐさま応じる。

「フレスノさん、それって……」
「ああ、怪物の痕跡だ。しかも、新しい──十分も経っていない」

その瞬間、安理の背筋が緊張でぴんと伸びた。
目の奥に一閃の警戒が走り、呼吸が浅くなる。

イグナシオはその反応に、心中わずかな安堵を覚えていた。
恐怖を抱ける者は、まだ生き残れる。
無謀な勇気よりも、その臆病さこそが生への執着を支えてくれる。
それを超える激情が与えられない限り、その慎重さは崩れないだろう。

周囲には不気味なまでに人の気配がない。
この島に来て以来、動物も鳥も、生命という存在が、まるで姿を隠している。

やはり、この島はどこかおかしい。
幾度となく超力を行使しているが、どうにも遡れる範囲が限られている。
過去がまるごと、最初から存在していなかったかのように霧散していく。

考えられる可能性はある。
だが、それはあまりにも荒唐無稽で実現不可能な推理とも言えない代物だ。
それを言語化すればただの妄言にしか聞こえないだろう。
だが、探偵の勘はその異常に確信を持ち始めていた。

路地を進み怪物の足跡を追っていく。
イグナシオは、ある廃工場の手前で立ち止まった。

「……あの建物の中にいる。間違いないだろう」

問われるより先に、静かに断言する。
その先は、怪物の潜む巣だ。
これまで以上に慎重さが求められる。

「アンリ君。ここから先は一定の距離を保ちましょう。
 これ以上接近すれば、こちらの存在が伝わる恐れがある。
 目的は接触ではなく、観察です。わかりますね?」
「……はい」

改めて念を押すと、安理は短くうなずいた。
喉奥が鳴り、肩がわずかに揺れる。
それでも彼の目は、まっすぐ前を向いていた。

だが唐突に、廃墟に張り詰めていた静寂が砕かれた。
その緊張を切り裂くように、空気が揺れる。

「……──放送」

この刑務作業における、最初の放送が流れ始めたのだ。



322「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:34:26 ID:NpHdSdPM0
「────ローズ、さんが……死んだ?」

スプリング・ローズの死亡。
その事実が、安理の頭の中で何度も反響する。

耳鳴りがした。呼吸が詰まった。視界が白く滲んでいく。
喉の奥が急速に干上がり、呼吸が引きつる。胸が膨らまず、息が吸えない。
血の気が引くとはこういうことかと、頭の片隅で冷静に思う自分がいた。

唇がかすかに震える。手が勝手に強張り、服の裾を握る指先に力が入らない。
心臓が早鐘のように鳴っているのに、身体は逆に凍りついていくようだった。

「そんな……そんなのって……!」

ふらりと膝が崩れかける。足が地面を踏んでいるはずなのに、重さの感覚がない。
言葉は次第に怒気へと変わり、青い瞳が虚空を睨んだ。

イグナシオは、安理の横で立ち尽くしていた。
言葉をかけるべきか、それとも黙って受け止めるべきか、その判断がつかない。

「アンリ君……」

ようやく絞り出したその声も、波の中へ沈むように届かない。
それでも、安理はその声に反応した。
うつむいたまま、ぽつりと、まるで自問のように問いを投げる。

「……フレスノさん」

震える声の底に、焦げるような怒りが潜んでいた。

「この先にいる……怪物の痕跡と……ローズさんの足跡……途中まで、同じだったんですよね?」

イグナシオの目がわずかに動いた。
言葉にしなかった懸念が、安理の口から放たれる。
その意味は明白だ。

「なら────あの怪物が……ローズさんを殺したんじゃないですか……!?」

感情が爆ぜ、青い瞳が怒りに滲む。
冷気を纏うはずの氷龍の少年の身体から、むしろ熱が立ち昇るような錯覚さえあった。
怒りが、悲しみが、どうしようもなく溢れ出す。

「落ち着いてください、アンリ君。その結論は早計すぎます」

イグナシオの声が空気を断ち割るように響いた。
安理は明らかに冷静さを欠いている。
ローズとの交流や大金卸との戦いを得て手に入れた自信が、最悪の形で転がってしまった。
得られたモノが彼の中で大きければ大きい程、ローズの死という傷も大きくなる。

「確かに痕跡は途中まである程度方向が重なっていました。ですが、痕跡の途切れた時間と怪物の移動経路は一致していません。
 この死が、あの怪物の仕業だと断定するには情報が不足しています」

論理的な言葉。探偵としての正しい応答。
しかし、今の安理には届かない。

「落ち着いてなんか……いられないですよッ!!」

喉が張り裂けそうなほどの声が、廃墟の壁にぶつかって反響する。

「待つんだ! アンリ君!」

イグナシオが手を伸ばす。
だが、その制止を振り払った安理の足が、前へ出た。
その時だった。

――ジャラ。

乾いた金属音が周囲に響いた。
視線を落とすと、足元に何かが転がっている。
そこにあったのは瓦礫に紛れてた一本の鎖だった。

それは、ありふれた工業用の廃材の一部──ではなかった。
どこか不自然に真新しく、他の鉄屑が腐食し鈍く濁った色をしている中で、その鎖だけが異様な黒光りを放っていた。
それが何であるかを察したイグナシオの目が大きく見開かれる。

「しまった────哨戒用の罠だッ! 敵に気づかれたぞッ!」

声が落ちきるよりも早く、地を這うように鎖が生き物のようにうねり始めた。
安理は反射的に足を引こうとしたが、遅かった。

鎖はまるで意思を持った蛇のように安理の脚に巻き付いた。
そして、そのまま地面を滑るように安理の身体が引きずられてゆく。

「ッッ!? うわぁああああ!!」
「アンリ君――――ッ!!」

イグナシオが手を伸ばす。
だが、伸ばされた指先が届くより早く、安理の身体は暗がりの奥へと引き込まれていった。

まるで深淵に落ちていくように。
叫びと鎖の音が、廃工場の闇に吸い込まれていった。



323「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:34:46 ID:NpHdSdPM0
天井に埋め込まれた照明が、整然とした空間に影の少ない明るさを注いでいる。
重厚な木製の机と革張りのソファ。壁には数枚の勲章と、抽象画が静かに飾られていた。
ここはアビスの所長室、地獄の底に築かれた矯正機関の心臓部であり、静寂と威圧が同居する特別な空間である。

クロノ・ハイウェイは既に退室し、通常業務へと戻っていた。
所長室に残されたのは、所長である乃木平天と看守長であるオリガ・ヴァイスマンの上席二人だけだ。

「さて、コーヒーでも、入れましょうか」
「いただきましょう。あなたの淹れるコーヒーは苦味が効いていて、実に目が覚めますからね」

看守長が手慣れた動作で保温ポットの蓋を開け、湯気を立てる黒い液体をカップに注ぐ。
湧き立つ香りが、無機質な空間にわずかな温度と湿り気を与えていく。

乃木平が礼を述べながらカップを手に取り、ヴァイスマンも礼をひとつ形ばかりに返してから、対面のソファに腰を下ろした。
互いに言葉を交わすことなく、しばしコーヒーの味と香りだけがその場に在った。

「……ところで、看守長」
「なんでしょう」

柔らかな声で乃木平が沈黙を破った。

「今回の刑務作業の人選について少しお聞きしたいことがあるのですが」

そう言って、所長は手元の端末を軽く指で弾いた。

「トビ・トンプソン、イグナシオ・“デザーストレ”・フレスノ、ジェイ・ハリック、氷月蓮、バルタザール・デリージュ。
 この五名は、オリガ君が直々に選出したという話でしたね? そう言えばその選定理由を詳しく聞いていなかったなと思いまして。お聞かせ願えますか?」

まるで何気ない茶飲み話でもするように問いかける。
ヴァイスマンは一瞬カップを唇に運びかけた手を止め、わずかに眉を上げる。
そして静かに、喉の奥で笑った。

「なるほど。あの五人について、ですか。私などに尋ねずともある程度の察しは付いておられるのでは?」
「買い被りですよ。いずれにせよあなたの口からお聞かせ願いたい」
「モチロンですとも。では、順にご説明しましょう」

ひと呼吸置き、落ち着いた口調で語り始める。

「まず、トビ・トンプソン。
 彼は『システムB』で構築された会場に欠陥がないかどうか、その実地検証のための人材です。
 放り込んでしまえば彼が自発的に脱獄を試みるのは目に見えていますし、万一それが成功するようなら、それはそのまま『穴』の証明にもなります。
 成功すれば修正対象が洗い出せ、失敗すれば安全証明。どちらに転んでも無駄にはなりません」

「次に、イグナシオ・フレスノ。彼もまた『システムB』の実地検証……とりわけ時間的設定の確認について、感知できる適性を持つ人物です。
 ただし彼の場合、戦闘への傾倒がやや強いため、無闇な突撃に走らせぬよう、周囲の職員配置を調整して『調査』の動機を自発的に持たせました。
 適切に導けば、彼ほど鋭い感性を持つ者はいませんからね」

「ジェイ・ハリックは、超力ではない異能者の代表例として選出しました。
 開闢以後、この種の異能者は少しずつ顕在化しつつありますが、戦場において脅威となり得るかは未知数でした。
 ジェイ・ハリックを通じて、超力と異能の複合的な戦闘の検証が可能になります。
 これは将来的な戦力選定においても重要なファクターとなるでしょう」

「そして、氷月蓮。彼の選出理由は戦闘データの多様性確保のためです。
 今回の作業参加者は、どうにも正面戦闘に特化した者が多く、彼のような潜入・諜報タイプの実践データが不足していました。
 その意味で、氷月は非常に貴重なケーススタディとなります」

述べられていく人選理由は、実に理に適っている。
乃木平は納得したように頷きながらその説明を聞き入れていた。

「なるほど。では、バルタザール・デリージュについては?」

乃木平がその名を口にする。
その問いに、ヴァイスマンはすぐに応えることなく、一瞬だけ口元を吊り上げた。



324「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:35:10 ID:NpHdSdPM0
「────うわああああああああッ!!」

黒鉄の鎖に絡め取られた安理の身体が、地を這うように引きずられていく。
破砕された鉄骨が弾け、錆びたボルトが飛び散る。乾いた音が工場内に反響し、火花が黒煙のように舞い上がった。
まるで異世界へ連れ去られるかのように、彼の体は容赦なく闇の中へと引き込まれていく。

「クソッ、やはりそう来るか!」

イグナシオが即座に駆け出す。全身を緊張が包むが、躊躇はない。
安理を置き去りにすることなど、最初から選択肢に存在しない。

「トランスミシオン・ヘオロヒコ!!」

瞬間、空間が揺れ、張り裂けるような音が辺りに響き渡った。
イグナシオの超力が発動される。
彼の前方、安理が引きずられるその進路に、氷河期の地形──全球凍結(スノーボールアース)が顕現する。

突如として床が凍りつく。氷床が這い上がり、雪が積もり、空気さえもその温度を奪われて白く染まっていく。
かつて地球を覆い尽くした氷の記憶が、廃工場の一角に再現されていた。

「ぐっ……!?」

ギリギリの射程内にアンリの足先を捕らえる。
滑るように引きずられていた体が、急激に凍結し、地面に貼り付いた
鎖は引きちぎろうと力を込めるが、氷の抵抗によって軋むだけだった。

「アンリ君、変身しろ!! 氷龍になれッ!!」

イグナシオの叫びが氷気に反響する。
凍える空気が肺を刺す中、安理はその声に導かれるように目を見開いた。

「────あ、あ……ッ!」

全身を巡る痛みと寒さ。それすらも、心の奥底にある何かを呼び覚ます。
胸の奥で弾けたのは、怒りか、悲しみか、それとも。

「うおおおおおおおおおッッ!!」

悲鳴のような咆哮とともに、安理の身体が氷を砕いて弾けた。
青白く輝く鱗が顕れ、長く鋭い尾が空気を裂き、翼が咲くように展開される。
空気が冷え込み、粉雪が舞い上がる。
美しき氷龍が、そこにいた。

白銀の巨体の周囲で霜が震え、鎖がたわみ、凍りついて弾けた。
拘束を断ち切った安理が、その場で膝をつくように息をつく。

「はぁっ、はぁっ……!」

氷龍の呼吸が、吐くたびに冷気の濁流となって地を這う。
だが、安堵の暇はなかった。

なぜなら。周囲の空気が、変わった・
それは凍てつく温度のせいではない。
音でも、光でも、重さでもない。
それでも肌が、骨が、心が……確かに感じていた。

引きずられ連れてこられたその先に────『何か』が、いる。

氷龍の顔がゆっくりと上がる。
淡い朝光に照らされた工場の一角。
その廃墟のただ中に、ぽっかりと穿たれたような隙間にそれは立っていた。

「────バルタザール・デリージュ」

イグナシオが、名を呟いた。
氷龍の体が、ぶるりと震える。
理屈ではなく、本能が警鐘を鳴らしていた。

工場の光が落ちる中央に、禍々しき巨人が立っていた。
異質な重厚感を放つ、鋼鉄の拘束具。
頭部を覆う不気味な鉄仮面はその右目の部分だけが砕け、暗い穴の向こうから覗く瞳は、感情のすべてを剥ぎ取ったかのように無機質だった。

325「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:35:40 ID:NpHdSdPM0
もはや逃れることも出来ない距離。
安理とイグナシオは、息を詰めるように立ち尽くしている。
だが意を決したように、安理がその静寂の中を破って一歩前に踏み出した。

「あなたが……ローズさんを、殺したんですか……?」

恐怖と怒りが絡み合った、震える問いかけ。
だが、バルタザールは一切の言葉を返さない。

答えの代わりに、重く、ゆっくりと一歩だけ踏み出す。
その動きに引き摺られた鎖が、無数の蛇のように音を立て、空気が軋んだ。
鼓膜を圧するような威圧感が、互いの間に横たわっていた。

「アンリ君、後退を──!」

イグナシオが言い切るより早く、鉄球が唸りを上げて宙を裂く。
高所から地へとが振り下ろされる黒鉄の鎖の先端には巨大な鉄球が繋がっていた。
質量そのものが暴力へと昇華されたかのような鉄球が、空気を裂いて迫る。

「っ──トランスミシオン・ヘオロヒコ!」

イグナシオが即座に超力を発動する。
過去この工場に存在していた鋼鉄製の搬送機が虚空に再現され、鉄球の進路を遮った。
鉄球がそれと激突して轟音が響く。

地鳴りのような重低音が、床を割るかのように炸裂する。
鋼鉄が砕け、破片が弾丸のように弾け飛ぶ。
衝突の余波で、氷の表面にまでひびが走った。

「……ッ、馬鹿げた重量だ」

イグナシオが額をしかめ苦悶の声を漏らす。
その隣で、無言の攻撃を肯定と受け取った氷龍が、怒りに染まった咆哮を上げた。

「ローズさんを、よくも…………ッ!!」

怒りに駆られた氷龍が吠える。
怒気に満ちた冷気が瞬時に床を走り、周囲の空気を瞬く間に凍らせる。

氷の翼が大きく広げられ、無数の氷柱が機銃掃射の如く撃ち出された。
突風のような氷の弾丸が、バルタザールに殺到する。

バルタザールはそれを見ても身じろぎひとつしない。
ただ手首を僅かに返す、その一動作だけで鎖が渦を巻くように撓み、氷弾の進路を歪めた。
多数の氷弾が鎖に絡まり、軌道を乱され、無力に地へと落ちる。

しかしアンリは最初から、氷柱で決着をつけようとはしていなかった。
本命は自分自身の突撃。
怒りに目を染め、身体そのものを弾丸に変え、仇であるバルタザールへと突進していた。

だがそれは勇敢というより、激情に囚われた無謀な攻撃だった。
真正面からの突撃する相手を撃退する事など、誰にとっても実に容易い。
バルタザールは即座に脚を大きく振り抜き、枷に繋がれた鉄球を猛烈な勢いで叩き込む。

「――――ッ!?」

だが、そのバルタザールの足元が、いきなり崩れた。
それはイグナシオの発動した超力。
かつて掘削された地熱通路の再現が地面を喰らい、バルタザールの足元が陥没する。

不意を突かれ、巨人の巨体が足場を失い傾く。
その隙を逃さず、氷龍が跳躍し、鋭い爪を振り下ろした。

だが、その一撃は虚しく宙を切った。
バルタザールは崩れた地面に転落せず、鎖を工場内の柱へと絡みつかせ宙に身体を引き寄せていた。
そればかりか、振り下ろされた鉄球が反動で回転し、氷龍の腹部を強烈に打ち据えた。

「ぐ……ぁっ!」

鈍い衝撃音と共にアンリが倒れ込む。
舞い上がった砂埃の中で、その巨体が苦悶の声を漏らした。

326「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:36:02 ID:NpHdSdPM0
「大丈夫ですか、アンリ君ッ!?」

慌ててイグナシオが駆け寄り、その安否を確認する。
粉塵と鉄の匂いの中、安理は倒れたまま肩で息をしていた。

「……っ。へ、平気です」

声は掠れていたが、生命に危険はないようだ。
鉄球の一撃は重く鋭いものだったが、氷龍の分厚い腹筋を貫くほどではなかったようだ。

安理の無事にほっと安堵した。
同時にイグナシオの胸に小さな疑念が浮かぶ。

バルタザールは強敵であることは間違いない。
だが、あの呼延光を殺し、爆心地のような惨状を生み出した張本人にしては『温い』。
蓄積した疲労やダメージがあるにしても、イグナシオと安理でも、こうしてある程度やり合えてしまっている。

何より──この場を支配する大金卸樹魂ような『圧』が、決定的に足りない。
イグナシオのこれまでの戦闘経験がそう直観している。
本当に奴は我々の負ってきた怪物なのか?

(何かがおかしい……これは──)

改めてその出で立ちを注視する。
そもそも、あの鉄仮面からしておかしい。
巨体に鉄仮面と言う出で立ちは異質であり、アビスの内でバルタザールの認知度が高いのはそのためだ。
眼鏡や義肢といった生活に必要なもの以外の不要な私物はアビスでは没収される規定だ。
それなのに、あの仮面だけが特別扱いされているのは何故だ?

得体の知れない不気味さが胸を締めつける。
イグナシオが思考を深める中、その横で安理が立ち上がった。
紅い瞳には未だ激情の焔が燃えている。

「────うおおおおおッ!!」

激昂したままの氷龍が、再び疾走する。
全身を覆う氷はさらに硬く冷たく結晶化し、突撃を敢行する。

撃退の鉄球が迫る。
だが、氷龍は翼をはためかせながら迫る鉄球を無視して突き進んだ。

腹に受けた感触から、数発なら耐えられると判断したのだ。
下手に躱すのではなく、氷で防御を固め最初から受ける覚悟で、相手へのを攻撃を優先した。

鉄球が肩と脚に次々と衝突し、砕けた氷片が飛び散る。
だが、氷龍は止まらない。
この程度の鉄球など、大金卸の一撃に比べれば物の数ではない。
行けるという自信が足を支え、龍の巨体を前に進める。

距離をとるべく後方に鎖をやるバルタザール。
だが、氷龍は自らに叩き込まれた鎖を掴み上げ、綱引きのように引き寄せ逃亡を防止する。

氷の爪が、閃く。
狙うのは、その頭部。
爆ぜるような金属音が響き、火花が炸裂する。

「────!」

その一撃は、呼延の残した亀裂をさらに広げ、遂に仮面の右側がパリン、と音を立てて砕け落ちる。
その下からその素顔が露わになった。

「────……ッ!」

安理の目が大きく見開かれ、イグナシオすらも絶句する。
口を開けずとも伝わる、圧倒的な異常がそこにあった。

分かるのはただ一つ、地獄の釜が、開いたという事だ。



327「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:36:18 ID:NpHdSdPM0


「――――『拡張型第一世代(ハイ・オールド)』。


 それが、バルタザール・デリージュを選出した理由です」

深い焙煎の香りが漂う所長室。
ヴァイスマンの口から、低く響くような言葉が落とされた。
その言葉に乃木平はゆっくりと頷き、指先でカップの縁をなぞりながら応じた。

「裏社会で一時、注目を集めた潮流ですね。
 シエンシアによる『人造第二世代(デザイン・ネイティブ)』理論が流出する以前、限界を迎えつつあった第一世代を物理的に『拡張』しようという試みだ。
 確立された理論もなく各国が手探りのまま独自に行っていた、ある意味では時代錯誤なアプローチでした」

当時を思い出すような口調で乃木平は語る。
ヴァイスマンは静かに補足を入れるように、超力の系譜を整理していった。

「まず、開闢をきっかけに超力を発現した最初の世代『第一世代(オールド)』。
 次に、開闢以降に生まれ、遺伝的に超力を内包した世代『第二世代(ネイティブ)』。
 そして現在はまだ数も少なく、年齢的に台頭と呼べるほどの影響もありませんが、第二世代同士の交配によって生まれた『第三世代(ネクスト)』」
「研究所の予測では、この第三世代をもって人類の進化は一区切りを迎えるだろう、とされていますね」
「それは予測と言うより願望な気もしますがね」

ヴァイスマンは皮肉交じりに笑みを浮かべる。

「すでに第二世代の時点で、人間は己の超力に生き方を縛られる傾向があります。
 それ以上に進化すれば、人が超力を操るのではなく、超力が人を操るという、本末転倒の時代が訪れるかもしれない」

その言葉は、進化の先にある支配の逆転を示唆していた。
恩恵であるはずの力が、意志を凌駕する最悪の未来。
ヴァイスマンは淡々と続ける。

「人間の脳には過剰な出力を抑えるリミッターが備わっています。
 これは脳から出力される超力にも適用されており、通常はその発揮に制限がかけられる。
 メアリー・エバンスのように通常の強度を超えた例外もいますが、一般的には、第一世代で20〜40%、第二世代で30〜50%ほどが限界とされています。
 それ以上の領域には、生理的にも本能的にも踏み込めないようになっている。人間でいたいのなら半分を超えるべきではないという事ですね」

メアリー・エバンスがそうであるように、その領域を超えるとまとも人間の生活は出来なくなる。
そう語るヴァイスマンに、乃木平が頷き、言葉を継ぐ。

「旧ハルトナ王国で受刑者を実験台として極秘裏に実施されていた『超力拡張手術』は、このリミッターを物理的に解除する試みだったようですね。
 バルタザール・デリージュはその成功例という事ですか」

だが、その評価にヴァイスマンは珍しく難色を示す。

「確かに、彼は手術によって脳の超力出力を100%まで引き出すことが可能となったようですが。
 脳が常に限界出力で稼働する以上、発熱や神経負荷は著しく跳ね上がる。
 短時間ならともかく、長期使用すれば脳細胞は文字通り焼き切れる可能性が高い。
 まともに使い物にはなりません。私はむしろ失敗例だと思いますがね」
「そのあたりは、成果の定義次第でしょうね」

ヴァイスマンの冷ややかな評価に乃木平は淡々と答え、静かにカップを傾ける。

「たしかに彼は多くを喪失し、鉄仮面での生活を余儀なくされた
 あの仮面も元はやんごとなき身分を隠すためのものだったようですが。
 現在は、超力の暴走を防ぎ、強制的に出力を抑えるためにの機能が後付けで組み込まれているようでうすね」
「お詳しいですね」
「事情を全て開示するのが、スヴィアンさんともども転所を受け入れる条件でしたので」

そう言ってコーヒーに口を付ける。
二人の言葉が静かに交わされ、再び室内にコーヒーの香りが滲んだ。

「ともあれ、超力の出力強度を極限まで引き上げるという実験目的は、十分に果たされています。
 そう言う意味では目的に沿った成功例と言えるでしょう?」
「実験としての成功は認めるにしても、あれでは使い物にはならない。
 そもそもコンセプトそのものが破綻していた、拡張型第一世代が流行らない訳だ」

ヴァイスマンが、まるで結論を下すかのように言い切る。
そこで、乃木平は改めて本質を突く問いを投げた。

「では――なぜ、そんな危うい存在を今回の刑務作業に選出したのですか?」

穏やかな声色のまま、核心へと斬り込むその問い。
ヴァイスマンはゆっくりとカップを置き、肩をすくめて返す。

「一瞬で弾ける花火だとしても、派手に燃えれば役割を果たせるでしょう?」



328「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:37:00 ID:NpHdSdPM0
仮面の下から露わになった素顔は、ひどく生々しいものだった。
褐色の肌に端正のとれた鋭い目。
だがそれよりも目を引くのは鉄に護られていた頭蓋だ。
髪の生え際に沿って縫い合わされたような手術痕が刻まれている。

深く、乱雑に刻まれた瘢痕は、まるで熱を逃がす排気口のように痛々しく皮膚を裂いていた。
皮膚には金属片のような異物が埋め込まれ、脳を守るべき骨の一部が機械に置き換えられているようにも見えた。
その異様な姿を見て、イグナシオの脳裏にひとつの忌まわしい単語が浮かび上がった。

「ハイ……オールド…………ッ!」

イグナシオが吐き捨てるように呟いた。
その響きは呪詛のように、空気を裂いて消えていく。

その瞬間だった。

「────っ!!」

バルタザールが、動いた。
一本だったはずの鉄球が、二本、三本、五本、七本と、次々に生まれ、黒い嵐となって周囲を覆う。
鎖が唸りを上げ、鉄骨の天井を削り、地を穿ち、風そのものが金属を引き裂く音に変わっていく。

「アンリ君、伏せろッ!!」

イグナシオが叫ぶより早く、氷龍の身体を庇うように押し倒した。
直後、視界のすべてが赤く、黒く、砕け散った。

空間が悲鳴を上げるような轟音と共に廃工場が、崩壊する。
一撃。たった一度、鉄球が地を薙いだだけで。
鉄骨が折れ、コンクリートが砕け、構造体そのものが崩れ落ちていく。

風景が歪む。時間が軋む。
まるで世界の根本が、殴り壊されたようだった。

「くっ……! これが、ハイ・オールド……ッ!」

イグナシオの声には高揚と恐怖が混じっていた。
防ぎきれない。追いつけない。見切れない。
冷静を装ってはいたが、全身が不可能を訴えている。

これは、人知を超えた“災害”だ。

その災害たるバルタザールは破壊の後、頭を抱えて苦しむような動き見せた。
恐らく限界を超えた超力行使の反動。脳にかかった極端な負荷により、激痛と熱の排出に苦しめられているのだろう。

しかし、それでも完全に動きを止めることはない。
露になったその目は、鋭くイグナシオたちをとらえ続けており。
逃げ出そうとすれば即座に追撃される。イグナシオと安理はその殺意を前に、背を向けることが許されなかった。

「くそっ…………くそぉっ! あんなの……ッ!」

悔しげに息を荒げながら、安理が拳を握り締めた。
友人の仇を前にした怒りと、抗いようのない絶望が入り交じり、少年の心を激しく乱していた。
勝てるはずがない――喉の奥まで出かかったその言葉だけは、最後の意地で飲み込んだ。

イグナシオは、その様子に僅かに目を細めた。
ローズの名を聞いた瞬間から、安理は怒りに突き動かされていた。
彼女の死を受け止めきれず、無謀な代償を求めて暴走しかけている。

「ごめんなさい、フレスノさん……ボクのせいで、こんなことに……」
「……アンリ君」

震える安理の声には、自責と絶望がにじんでいた。
圧倒的な暴力は一瞬で人の心を折る。
怒りが消えたわけではないが、理解してしまったのだ。
怒りでは勝てない。仇討ちなど通じない。それどころか自分の命すら容易く奪われる現実。
自分は何もできない。それどころか、大切な人をまた危険にさらしてしまっただけだという事実。

「立ってください、アンリ君」
「フレスノさん……?」

イグナシオは安理を引き上げ、その瞳を真っ直ぐに見据えた。

イグナシオは最初から安理を責める気などなかった。
死にたがりの少年が誰かのために怒りを表すことができる。
それ自体は喜ばしい事であり、彼が変わった証拠だ。
ただ、間と状況が最悪だっただけだ。

それよりも今は話すべきことがある。

「今から私の仮説を話します。冷静に聞いてください」

驚いた安理の顔をまっすぐに見つめ、イグナシオは迅速に結論を告げる。

329「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:37:19 ID:NpHdSdPM0
「この刑務作業の舞台となるこの世界は、恐らく人工的に作られたものです」
「え……?」

突然の言葉に、安理が戸惑う。
だがイグナシオは、その戸惑いを気にも留めず言葉を続ける。

「建物の劣化が不自然に均一で、私の超力で遡れる過去も断片的でしかない。
 つまりここは、現実の地ではなく――創造された『檻』に近い空間です」

安理が言葉を失い呆然としていると、イグナシオは強い口調で言い放った。

「アンリ君。キミは一刻も早くこの場を離れてください。そしてこの空間の仕組みを探り真実を見つけてください。それがあなたの役目です」
「やめてくださいッ! そんなこと……ッ!!」

遺言めいた言葉を否定するように、安理が叫ぶ。

「そんなこと、ボクにできるわけがないじゃないですか!
 逃げるならフレスノさんが逃げるべきだ! 何もできないボクなんかより、あなたの方が絶対に生き残るべきなんだッ!」

有能な人間が、役に立つ人間が生き残るべきである。
安理はそう主張していた。
それは社会性を持つ生物として当然の結論だった。

少年が手に入れた小さな自信は憎悪の前に歪み、圧倒的な暴力によって打ち砕かれた。
今の彼はかつての自罰的に死を望む、死にたがりの少年に後戻りしていた。

「――――――それは違う」

しかし、イグナシオは強く否定した。

「違うんですよ、アンリ君。
 何ができるか、何ができないかで命の価値など決まりません」

安理が呆然とする中、イグナシオは静かながらも、断固として続けた。

「そもそも、命に価値などない。
 生き残るべき命があるのではなく、生き残った命があるだけなのです。
 だからキミが自分が生き残ることに罪悪感を感じる必要はないし、キミは自分が生き残るべきだと傲慢に主張していいのです」
「フレスノさん……でもッ……!」

それでも安理は納得できずに抗う。

「だったらどうしてフレスノさんはボクを逃がそうとするんですか……?」

問い返す安理に、イグナシオは微笑してみせた。

「それは単純に私のわがままです。
 キミのためではなく、私は自分が救われたいがために自分の信念の為に動いているのです。
 それが結果的にキミを逃がすことになるというだけの話でしかない。そこを勘違いしてはいけない」

自分の様な子供を作りたくない。
救いたいというのはイグナシオの信念だ。
彼はそれを守っているに過ぎない。
そして言葉を重ねる。

「それに、私は死ぬつもりなどありません。
 生き残る可能性が高い方が残るべきだという、あくまで合理的な判断です。
 キミという足手まといがいては、私は全力で戦えない!」

突き放すような冷たい言葉に、安理はぐっと言葉を飲み込んだ。
足手まといになるというのが真実だったからだ。

「フレスノさん、ボクは……っ」

それでも強く首を振る安理の両肩をイグナシオは強く掴んだ。
震える瞳を見据えたまま、イグナシオはさらに強く訴えるように続けた。

「もちろん、キミがキミの信念を持ってこの場に残るというのならそれは私には止めようがない。
 命を懸けてローズの仇を取りたいというのならそれもいい。力に溺れて暴れまわるのもいいでしょう。
 自分の命なんだ、使いどころは自分で決めればいい。私にそれを強制する権利はない。
 私にできる事は自分の我侭(のぞみ)を伝える事だけだ。
 生きてくださいアンリ君。それが私の救いになる」

心からの願いを込めて告げるイグナシオの目には、強い覚悟があった。
安理は唇を噛み締め、そしてやっと覚悟を決めたように口を開いた。

「だったら……だったら、合流地点を決めてください! 必ず、必ずそこへ来てください!」
「分かりました……では灯台にしましょう。地図の端にある、あの灯台で落ち合いましょう」

超力負荷による頭痛が収まったのか、バルタザールは既に新たな鉄球を引き上げている。
もうあまり時間はなかった。

「行けッ! アンリ君!!!」

イグナシオの叫びに、安理が地面を蹴った。
氷の翼が大きく広がり、氷龍が風のように跳躍する。

「必ず来てくださいよッ! 必ず――――!」

その叫びは、決して振り返らない少年の覚悟。
その背中が瓦礫の向こうに消えていく。

330「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:37:50 ID:NpHdSdPM0
だがそれをバルタザールが逃すはずがない。
再稼働したバルタザールの巨大な鉄球がその背に向かって迫る。
その鉄球の巨大さは、これまでの非ではない。
触れば一瞬で巨竜であろうとひき潰せる、正しく『恐怖の大王』に相応しい絶望の具現。

だが、安理を粉砕すべく振り下ろされたバルタザールの鉄球が、唐突に――跡形もなく、消えた。

何が起きたのか。
バルタザールが露になった目を大きく見開く。

衝突音もなければ、爆散の気配もない。
粉々に砕けたわけでも、弾かれたわけでもない。
ただ、そこにあったはずの『存在』が、まるで最初から無かったかのように消滅した。

「さて……」

それを成し遂げた男は、静かに呼吸を整えた。
己の中のデザーストレとしてのスイッチを入れる。
いや、これまでずっと抑えていた本能をこの一瞬、解放する。

イグナシオは闘争の悦楽に身を堕とす事を罪深いと感じていた。
だが、今は違う。

「ハハ――――――ッ!!」

狂気を帯びた口元が吊り上がる。
この戦いは、自分のためだけではない。
『誰か』のためという大義名分がある闘争だ。

だからこそ存分に、闘争本能に身を委ねることができる。

「さぁ――――本当の『災害(デザーストレ)』というものを、見せてさしあげましょう…………ッ!!」

災害が如き恐怖の大王を前に、破壊の衝動をその身にまといイグナシオは不敵に笑う。
『探偵』の仮面は捨てた。いま目の前にあるのは、ただ『災害』という名の本性。

沈黙のまま、バルタザールが腕を引いた。
巻き戻されるようにして新たな鉄球が生成され、重たく唸る鎖が唸りを上げて宙を走る。
鉄球が飛来する音は、もはや空気を破るというより空間を裂くようなそれだった。

だがイグナシオは、焦りの欠片も見せなかった。
むしろその目は喜悦に染まり、唇が亀裂のように吊り上がっていく。

「……ああ。来ましたねぇ、この音。血液が躍るようです……!」

破壊の唄に身を浸す陶酔。
イグナシオはまるで楽団の指揮者のように、鉄球の音を歓待する。

飛来する自身の身長はあろうかと言う鉄球に向けて、イグナシオがそっと手をかざした。
瞬間、今度は鉄鎖は中程から、ぷつりと寸断された。

いや、断ち切られたのではない。
鎖の一部がまるで『なかった』かのように、忽然と消失したのだ。
まるで、この空間そのものが武器の存在を拒絶しているかのように。

その先にあったはずの鉄球は軌道を失い、虚空を漂うように遠くへ飛んでゆく。
バルタザールは微動だにせず、その不可解な結果を見据えていた。

「おや? 不思議ですか? 不思議でしょうねぇ! 何が起きたのかあなたには理解できないでしょう!!」

観客の困惑を愉しむ舞台俳優のように叫ぶ。
その声を不快と感じたのか、それを黙らせるべく三度振るわれる鉄球。
今度は複数、全てが一撃で人間など平らに叩き潰せる圧倒的な質量を秘めている。

だが、それがイグナシオに到達する寸前。
正確にはその前方の何もない空間に触れた瞬間。
質量が、消える。音すらも、消える。空間ごと、消える

砕ける音はない。衝突音すらない。
鉄球の姿は──跡形もなく、そこから最初から存在しなかったのように消失していた。

「ふふっ……最高ですね。音のない死は、何より品がいい。騒がしい終焉なんて、下品ですから」

恍惚と呟くイグナシオ。
バルタザールの鉄仮面は沈黙を保ったまま。
だが明らかに、次の鉄球の射出がわずかに遅れていた。
イグナシオはその一拍すら、見逃さない。

「おや……怯えてしまいましたか? 無理もない。
 何が起きたか『過程』は理解できずとも、どうなるのかの『結果』は理解できたでしょうからねぇ!
 ああ、ようやく『恐怖』という名の扉を、あなたも開けましたか? ふふっ、ようこそ……! 楽しんで行ってください!」

無言の怪物とは対照的な狂気じみた声で笑いながら、イグナシオは一歩前に出た。

331「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:38:17 ID:NpHdSdPM0
イグナシオの超力『見せてください、荒々しい古の壌を(トランスミシオン・ヘオロヒコ)』。
それは、その土地がかつて存在した過去の風景を再生する超力である。

だがこの島では、どうしても踏み込めない、再現不可能な過去があった。
当初、イグナシオはそれを『システムA』の様な妨害機構が働いているのだと考えていた。

だが、それは違った。
過去は遡れないのではなく、最初から『無かった』のだ。
イグナシオはそこから、この『世界』はこの刑務作業の為に創られたのだと言う『真実』に辿り着いた。

本来、この超力は地球誕生までは遡れない。
だが、この創られた世界ならばその条件は違ってくる。

世界の創造される以前の空間に何があるのか?
そこにはただ、『何も存在しない』という事実だけがある。

すなわち――――『無』だ。

存在の痕跡すら残さず、触れたものすべてを虚無へと還す再現不能の空白領域。
イグナシオの超力は、その『無』を再現していた。

それはこの創られた世界でのみ使用可能な、バグ技のようなものだった。
そこに触れたものは、鉄球も、鎖も、空気の震えさえも、例外なく消える。
誰にも見えない真実を暴き出す『探偵』としての結論が、誰にも抗えぬ破壊を齎す『災害』を生みだしたのだ。

先ほど、安理に向けて放った「足手まといがいては戦えない」という言葉。
あれは、安理を逃がすためのただの方便ではなかった。

この力は、周囲を巻き込む。
この力は、形あるすべてを否定する。
それ故に、この力を存分に振るうには安理を遠ざける必要があったのだ。

バルタザールは理解した。
原理までは理解できずとも、触れてはならない領域があると言う『結果』を理解した。
即座に鎖を伸ばし、近場に突き立つ鉄柱を軸に宙を舞うように後退する。

「そうっ! あなたは私から離れるしかない!
 この虚無に自分自身が飲み込まれては一瞬で消滅してしまいますからねぇ!!」

イグナシオが吠える。
その顔に浮かぶのは、喜悦と狂気が綯い交ぜになった、災害そのものの笑み。

『無』の再現。
これの最大の脅威は、不可視である事だ。
『無』がどこにあるのかを知るのは使い手であるイグナシオのみ。
この不可視の『無』に触れてしまえば、バルタザールの身は一瞬で消え去るだろう。

即座にバルタザールの立っている空間に発生させなかったことから、超力発動可能な距離があると判断。
故にこそ、距離をとる必要があった。
空間を制圧されれば、一瞬で自分自身が消されるのだから。

「ああ、怯えてますねぇ。恐れてますねぇ。死を…………!!
 互いの命の危機がなければ殺し合いとは言えませんからねぇ!!
 楽しいでしょう! たまらないでしょう!? バルタザールさん……!」

イグナシオは高らかに嘲笑する。
距離をとったバルタザールはその挑発に応じることなく、沈黙のまま射抜くような視線で敵の一挙手一投足を捉えていた。
そして新たな行動に移る。

無数の鎖が四方へと伸び、空間全体を黒い網目で包み込む。
蜘蛛の巣のように複雑に張り巡らされたそれらは、まさしく空間の支配するかのよう。

イグナシオは身をかがめ、その鎖の網目を縫うように躱した。
容易く躱せたのはこれがイグナシオを狙った攻撃ではなかったからだ。
これは攻撃ではなく、『無』の位置を見極めるための探索だ。

まるで空間そのものを封鎖しようとするかのような、狂気じみた索敵。
これ程大量の鎖を一気に広げることなど出力100%の『拡張型第一世代(ハイ・オールド)』でなければ不可能な芸当だろう。

「ほぅ……なるほど。索敵ですか。考えましたねぇ」

イグナシオは愉悦と皮肉を込めて小さく拍手すらしてみせた。
『無』は不可視にして不明。
この見えない死の正体を暴くには、張り巡らせた鎖の消失反応を使うしかない。
位置さえ特定できれば、出力に勝るバルタザールはそこを回避して一瞬で相手を叩き潰せる。

「ですが、そう簡単にはいかないんですよねぇ……! 人生と同じでッ!」

イグナシオの声が跳ねた次の瞬間、空気が灼けた。
凶兆のような呟きと共に、前方の四角い空間が真っ赤に染まる。

イグナシオが超力によって再現したのは『無』ではなく──原初の灼熱(マグマオーシャン)。
原始地球の地殻がドロドロに溶けていた時代の再現。
地表が、地獄そのものに変貌した。

「地を覆うは、紅蓮の記憶――ようこそ、熱き古代へ!」

原始の地球を覆った熔解の大地。
床が赤く光り、ドロドロに溶ける。
張り巡らされた鎖は瞬く間に赤熱化し、軋むような音を立てながらよじれ始めた。

そして周囲一帯に隙間なく覆うその密集こそが仇となる。
あまりに密に張られた鎖同士は互いに熱を伝え、逃げ場を失った金属たちは灼熱の檻となった。

332「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:38:37 ID:NpHdSdPM0
「さあ、お次は……」

イグナシオの声が一段と高くなった。

「一転、絶対零度の過去を──全球凍結(スノーボールアース)」

赤から白へ。灼熱の地獄が、一転して氷の地獄に変わる。
突如降り積もる氷雪、息すら凍りつく酷寒が周囲を包み込む。
さきほどまで灼熱だった空間が、一瞬で凍り付いた。

灼熱から零下へ――その温度差、およそ千度。

熱で膨張しきった金属に、凍結の鎌が振り下ろされた。
熱された直後に急冷された鎖は、ヒートショックにより内部から微細な亀裂を無数に走らせ、バキィンッ──と、鋭い音を立てて次々に破断していった。

「熱と冷気、相反する『災害』の併せ技──あの人の真似事でも、十分に機能するのです!」

吹雪の向こうで、イグナシオはどこか誇らしげに笑う。
その目は、かつて背中を追った大金卸樹魂の幻影を映していた。

索敵の網は破壊された。
『無』がどこにあるのか分からない以上、不用意に距離を詰めるのもできない。
だが、バルタザールは怯まない。

ゴウンッ、と地が鳴る。
次の瞬間、バルタザールの両腕、両脚の枷からそれぞれ四本ずつ。計16本の鎖が飛び出した。
それぞれの先端には、人間の胴ほどもある鉄球。
今度は索敵ではない。殺意に満ちた純粋な暴力。

それらが一斉に、イグナシオへと襲い掛かる。

「……ッ、開き直りましたね!? ここにきて力押しですか……!」

空気の音がない。それほどまでに高速。
その質量、接触すれば即死。
掠めただけで骨など容易く砕けるのはもちろん、かすかな接触で人間の形が崩れるだろう。

物量と質量による単純な力押し。
出力の桁が違う以上、これが一番厄介だ。

左右から、上下から、斜めから、空間を埋め尽くすように振るわれる鉄球。

「ですが……!」

イグナシオは手を掲げる。
『無』の再現。目に見えぬ空白が空間を走り、自らに飛来する鉄球を一つ、また一つと消失させていく。

「ふふっ、力任せの制圧では精度が甘いですねぇ!!」

だが、その軌道には明確な乱れがあった。
その乱れをイグナシオの目は、冷静に捕らえ。
自身に当たる軌道のものだけを的確に消失させていた。

超力の100%行使――それは、限界突破の代償。
異常な発汗、揺らぐ視線、軌道の微細なブレ。
バルタザールは、明らかに限界を超えつつある。
その乱れこそが、イグナシオの勝機だった。

それでも通常であればこの大質量を前にしては押し潰されるのが落ちだろう。
事実『鉄塔』呼延光ですらこれに敗れた。
だが、イグナシオにはこれを防ぐ絶対の盾がある。

嵐のように繰り返される猛攻を的確に『無』を張り防ぐ。
だが、逸れた鉄球が床を砕き、破片がイグナシオの身体をかすめた。
破片、飛沫、衝撃。それら全てが『無』の届かぬ位置から迫る。

「ぐっ……!」

傷は浅い。だが確実に削られていく。
そしてバルタザールもまた、脳への負荷に苦悶の兆しを見せていた。

このままではどちらが持つかの持久戦になるだろう。
だが、そんなものにつき合うつもりはない。

「では────こちらも、そろそろ芸をお見せましょうか」

イグナシオの声が、静かに空気を裂いた。

掲げられた掌から、空間が軋むように揺らぎはじめる。
超力『トランスミシオン・ヘオロヒコ』が、再び世界の輪郭を書き換えた。

今度、再現されたのは、つい先ほど、バルタザールによって破壊されたばかりの工場壁面。
その一部が、バルタザールとイグナシオの間に、突如として出現する。
再現された鉄とコンクリートの障壁が、バルタザールの視界を遮断する。

だが、それも一瞬の事。
唸りを上げた巨大な鉄塊が、再現された壁をまるで紙障子を破るかのように粉砕する。

爆ぜる破片。散る粉塵。
けれど、その向こうに、イグナシオの姿はなかった。
壁の背後にいたはずのイグナシオは既に身を隠しているようだ。

だが、それがどうしたというのか。

ならば、力任せに周囲を一掃するまで。
空間全体を鉄球で薙ぎ払えば、いずれソレは叩き潰せる。
バルタザールは即座に判断する。

333「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:38:53 ID:NpHdSdPM0
が、その直前──

「『災害(デザーストレ)』というものを、見せてさしあげましょう!」

イグナシオの声が聞こえた。
バルタザールは迷わずその声に反応する。
一帯に向けるはずだった鉄球群をその声の方向へ集中させ、一点突破の破壊を放つ。

残骸が飛び散り、地面がえぐれ崩落が起きる。

しかし。

その破壊の中心には──イグナシオはいなかった。

「残念でした! そちらは幻聴ですよ……こちらです、バルタザールさん……!」

声が、今度はバルタザールの背後から響いた。
思わず振り返った視界の端にちらりと映る影。
それは紛れもなく、獲物を仕留めんと背後から迫る狩人の姿だった。

先ほどの声は、イグナシオの超力によって再現された過去の音声。
つまり、土地が記憶していたイグナシオ自身の残響だった。

一瞬だけ工場構造を再現し、バルタザールの視線を制限。
続けて過去の声を再生し、位置を誤認させた。

その全てが、狩るための舞台演出。

破壊の奔流ではない。
論理と構築、欺きと罠、技と知──個人に降りかかる知性ある『災害』。

バルタザールが反転する瞬間。
イグナシオの掌が、前方へ向けて淡く掲げられた。

そこに生まれる、何もないはずの『空白』。
音もなく、振動もなく、影も落とさず。
前方に発生させた『無』がバルタザールのの体を消滅させた。



334「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:39:18 ID:NpHdSdPM0
大量の赤い血が、空へ向かって噴き上がった。
霧のように、雨のように、熱を帯びた血潮が宙を舞い、工場跡の空間を鮮烈に染め上げる。

イグナシオが振り向いたその先、そこにいたのは確かにバルタザールだった。
『無』に呑まれる寸前――奴は反射的に、遠方に投げていた一本の鎖を引き寄せ、己の巨体をその場から強引に引き剥がしていた。

だが、それも完全な回避とまではいかない。
イグナシオの放った『無』の結界に、左腕は完全に呑まれていた。

鎖の枷ごと、二の腕あたりから先が綺麗に消えている。
骨も筋肉も神経も、ただ、どこにも存在していなかったように消え去った。
鋭い刃物で断ち切られたような切断面から血が噴き出す。

仕留め損ないはしたが、ハイ・オールドが相手であろうとも戦える。
この瞬間、この場所限定の力ではあるものの、イグナシオには確かな手応えがあった。
だが、改めてバルタザールの姿を見たイグナシオは、思わず息を呑んだ。

遠く鎖にぶら下がりながら、雨のように血を垂れ流すバルタザールの気配が変わっていた。
熱暴走していた脳が、血液の噴出と共に冷えたのか、怒号のように煮えたぎっていた熱が、静まっていた。
静謐な、何かがそこにいた。

見れば、かつて空間を覆い尽くしていた無数の鎖は姿を消していた。
今残っているのは失われた左腕を除き、残る三本の四肢から、それぞれ一本ずつ。
片腕は消失し、大量の鎖も消え失せた。
確実に相手の戦力は削がれているはずなのに、どう言う訳かイグナシオの胸に、言いようのない不安が広がる。

これまでのバルタザールは、暴力の奔流だった。
幾重もの鎖を無軌道に振り回し、暴風のように空間を圧し潰す獣だった。
しかし今、バルタザールの周囲に残っている鎖は、たったの三本。
それはまるで、リミッターを外したハイ・オールドらしからぬ不要を削った抜き身の刃のようだ。

次の瞬間。

鎖が、動いた。

左足の鎖が──奔る。
素早く伸びる鎖は周囲の建物の壁や天井に絡みつき、バルタザールの巨体を立体的に移動させていく。
その動きは、まるで重力を無視した蜘蛛のよう。制約のない三次元機動。

右足の鎖が──這う。
これまでの巨大だった鎖とは違う、細く長いまるで触覚のような鎖。
地面を滑るように探る、それは目には見えぬ『無』の輪郭を探知する探索用の鎖。

右手の鎖──唸る。
先端には、これまで通りの鉄球が繋がれていた。
イグナシオを狙って弧を描く攻撃が上から叩き落とされる。

移動、探索、攻撃。
それぞれが役割を持って、まるで独立した意思を持つように別々の動きを始める。
これまでのただ振り回すだけだった力任せの暴走とは訳が違う。
怪物が、完成しつつあった。

咄嗟に『無』の再現で振るわれた攻撃を防ぐ。
この質量を受け止められるのはこれしかないのだから、選択の余地はない。
だが、同時に探るように展開された索敵用の鎖が周辺を舞い、目には見えぬ何かに触れた瞬間その一部が唐突に断たれた。
5メートル四方の『無』の輪郭が明らかになる。

それを確認した瞬間、バルタザールの巨体が跳んだ。
左足の鎖による高速移動、判明した『無』の四角を回避する位置に回り込むと、右腕の主鎖が振るわれる。
かつてのような暴風ではない。必要最小限の速度・角度・質量で構築された、殺すためだけの最適解。
ただ100%を振るうのではなく、超力負荷すら抑えた一撃である。

「ッ……くっ!」

イグナシオは咄嗟に身を捻り、直撃を回避した。
だが、掠っただけで肋骨が数本、鈍い音と共に砕け、肉が裂ける。
痛みが、神経を貫き、肺が震え、息が漏れた。

「──がっ……ハハッ……なんてデタラメ、ですか……ッ!」

痛みという闘争の甘美に戦闘狂は笑う。
蹌踉と後退する足元に、もう一本の鎖が走る。
すでに、逃げ場はなかった。

細い鎖に足元が払われる。
なすすべなく仰向けに倒れた。

(…………あ)

空が見えた。
赤く燃えるような朝焼けの空が。

廃墟の中、瓦礫の隙間から見上げる朝の空はいつか見た空のようだった。

335「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:39:36 ID:NpHdSdPM0
──思い出す。

初めて人を殺した、かつての夜。
ただ過去を『見る』だけだった超力が、過去を『再現』する力へと変貌した瞬間。
男娼としてナチョを買った客を、赤熱した柱が焼き尽くした。

娼館から逃げ出して、行き場もなく彷徨い、辿り着いた天井のない廃墟。
崩れた梁の下から、朝の空を見上げた。
あのときも、こんな空だった。

全てが終わり、始まったあの夜明け。
見上げる空があの時の空と同じだとそう気づいた瞬間、彼は己の終わりを理解した。

時間が、伸びる。
一秒が、一分にも、一時間にも引き伸ばされる。
ゆっくりと、走馬灯のように己の人生が解像されていく。

真実に、どれほどの意味があるのか。
その問いには、結局、最期まで明確な答えを出せなかった。

僕(イグナシオ)は真実を追い求めてきた。
真実は世界を変えられると信じていた。
だが、暴力は真実を押し潰し、信じた道は歪みへと沈んでいった。

俺("デザーストレ")は真実を追い求めてきた。
都合の悪い真実が戦いを呼ぶなら、それは暴力の引き金として都合がよかった。
真実は、暴力を肯定するための動機となった。

私(フレスノ)は真実を追い求めてきた。
暴力に屈しない力があれば、真実を貫けると信じた。
けれど、真実を押し通すための暴力と、真実を封じるための暴力。
そこに、本質的な違いはあったのだろうか。

真実と暴力。
本来、相反するはずのそれは、幾度もすれ違い、互いの境界を侵していった。
暴力で歪む真実も、暴力で貫く真実も、どちらも真実の本質ではない。
つまるところ──真実そのものに、意味はなかったのかもしれない。

真実とはただそこに在るだけのもの。
つまるところ、ただの『記録』だ。

俺の力は、その『記録』を掘り起こすことができた
誰にも知られず、誰にも語られず消えていくだけだった『記録』を、見つけ出す力だった。

私はもしかしたら。
そうやって静かに、消えていく『記録』を、誰かに見ていてほしかっただけかもしれない。
誰かに、真実はそこに在ったのだと、ただ伝えたかっただけなのかもしれない。

誰も振り返らない過去に、自分だけが光を灯せると信じたかった。
価値がないと捨てられた無数の記録に、
自分だけは、意味を与えられると、思いたかった。

真実を追い続けた理由は、詰まるところ。
そこに意味があると、信じたかっただけなのだろう。

アンリ君。

キミの瞳にはまだ、歪みきっていない光がある。
キミは迷いながら、それでも前に進もうとしていた。
僕には、できなかった道をキミは、まだ歩いている。

キミには自分の歪みを満たすために戦ってた俺とは違う未来を歩んでほしい。
そんな願いを託すのは、こちらの身勝手だ。
そんな思いなんて、キミには重荷かもしれない。

けれどそれでも。
キミのような人間が、理不尽な暴力に選択肢を奪われるのではなく。
次に何かを選べる世の中であってほしいと願う。

自分のためじゃなく、ローズのために戦おうとした誰かのために戦えるキミならばきっと大丈夫。
それでももしキミが、また迷う日が来たなら。
私の『記憶』を、ほんの少しでも思い出してくれれば、それだけで充分だ。

336「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:39:55 ID:NpHdSdPM0
永遠のような走馬灯が終わり、静止していた1秒が動く。
巨大な鉄球が空を覆い隠し、影が落ちる。
イグナシオはその最期を受け入れるように静かに目を閉じる、のではなく最期まで足掻くようにカッと目を見開いた。

「────最期に一つ……嫌がらせと行きましょう……かッ!」

かすれた笑みとともに、イグナシオの声が空気に焼きつく。

鉄球が叩きつけられる。
だがその瞬間、砕ける音すらなく、それは消滅した。

イグナシオの超力が描き出した、存在そのものを拒む空白。
過去が存在しない土地では、再現されない『記録』として、それは空間から削除される。

だが、それは死を数秒先延ばしするだけの悪足掻きにしかならない。
倒れて動けぬ以上、『無』を迂回する次の一撃で確実に終わる。

だが、バルタザールの追撃はなかった。
呆然としたように制止している。

何故なら、すでにイグナシオは消失していた。

『無』に飲まれ消えたのは鉄球だけではない。
イグナシオ自身もまた、虚無の海へと沈んでいたのだ。

彼は、最後の最後で、自らが生み出した『無』へと身を投じた。
恩赦を齎す首輪もろとも、その存在を消去したのである。

状況的に、もはや死は免れない。
ならば相手の強化を避けるため、首輪を破棄する。
それが、あの場で後に残された者たちのために出来る唯一のことであり、最適解だ。
まさしく最悪の嫌がらせ。

恐ろしくはない。
元より彼にとって死は身近なもの。

何より『真実』とは、ただそこに在るもの。
誰にも語られず、誰にも知られず、静かに消えていくもの。
価値があるかどうかではなく、ただそこに『在った』ということ。

それを知る者が、もし一人でもいるならば──それがきっと、彼にとっての救いとなるのだろう。

すでに意思は託した。
ならば、なにも恐れることなどない。
心残りがあるとするならただ一つだけ。

彼の最期の瞬間思い返したのは、あの海岸と光が降り注いだ白い砂浜。
そして、あの時拳を振り上げた彼女の姿。

戦う彼女の姿は美しく、残酷で、孤独だった。
その美しい在り方に憧れた。
それが救いの始まりであり、同時に過ちの始まりであった。

────強く育てよ、ナチョ。

その言葉に導かれてここまで走ってきた。

弱かったナチョは強くなれただろうか?
その答えだけが、知りたかった。

その死には、肉片も、血飛沫もない。
痕跡も、証拠も、何一つとして残らない。
最初から、何もなかったかのように、空白の事実だけが横たわっていた。

バルタザールは、ただ立ち尽くしていた。

それは勝者の姿ではなかった。
自由のための足掛かりとなる首輪を獲得することもできず、それどころか左腕を喪い、何の戦果も得ることなく終わった。
まるで災害に出会ったようなものだった。

何も言わず、跡も残さず、ただ、消え去った。
まるで、最初からいなかったかのように。
災害は、記録も痕跡も残さず世界を通り過ぎていったのだ。

【イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ 死亡】

【F-3/工場跡地周辺/一日目・朝】
【バルタザール・デリージュ】
[状態]:鉄仮面に破損(右頭部)、左腕喪失、脳負荷(大)、疲労(極大)、頭部にダメージ(大)、腹部にダメージ(大)、
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.恩赦ポイントを手にして自由を得る
0.休む
1.(俺は……誰だ?)
2.(なぜあの小娘(紗奈)を殺そうとした時、動けなくなったのだ?)

※イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノの首輪は消滅しました
※F-3で廃工場が消滅しました



337「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:40:05 ID:NpHdSdPM0
「どうやら、今しがたイグナシオ・"デザーストレ"・フレスノが退場したようですね」

ヴァイスマンが、冷めきったコーヒーカップを音を立てぬよう静かにソーサーへ戻した。
彼の言葉にはこれと言った感慨もない。
まるで、記録簿の一項目を読み上げるかのように、ただ己の超力『管理願望』によって得た情報を淡々と口にしたにすぎない。

「そうですか。それでどうでした? 彼は君が想定した役割は果たせましたか?」

乃木平は、手元のカップを傾けながら、あくまで戦果を確認するように尋ねる。
この刑務を司る看守長は考えるような沈黙を挟み、自ら選んだ駒の成果を評するように目を細めた。

「そうですねぇ。成果としては、上々でしょう。
 当初の目的通り、再現された地形によって歴史設定に齟齬がないことは確認できました。
 何より、あの過去再現型の超力によって『想定外の現象』が発生すると知れたのは、非常に有益でした」

その想定外とは、言うまでもなく『無』の再現の事だ。
存在の痕跡すら辿れない原初の空白に到達するという、『システムB』の初期化未処理領域を突いた行為。
言うなれば、バグ技だ。

「それを用いてハイ・オールドと正面から渡り合うに至ったのは──正直、驚きでした」

そう言いながらも、言葉とは裏腹にヴァイスマンは眉をひそめる。

「ただし、あくまで『システムB』という特殊閉鎖環境における想定外の挙動にすぎません。
 汎用的な戦闘データとしては、残念ながら『無価値』です。参考程度が関の山でしょうね」

そう苦々しい顔で告げる。
この刑務作業、本来の目的である戦闘データの収集としては失敗だ。
一過性のバグを用いた戦いはデータとしての価値がない。
不満げな様子の看守長に、所長は淡く笑う。

「なるほど。オリガくん、君の管理能力は確かに怪物的だ。
 だが、どんなに精密な計画でも、想定外は必ず起こりうる。
 それを拒むのではなく、受け入れ、活かす度量を持たねばならない。
 想定外を『無価値』と断ずるのはそれからでいい」
「……肝に銘じておきます」

短く応じると、ヴァイスマンは椅子を押し引き、立ち上がった。
冷めきったコーヒーカップを丁寧に手に取ると、そのままテーブルの片付けに移る。

「それでは、私は執務室に戻ります。
 何かありましたら──ご遠慮なくお呼びください」

所長は無言でうなずき、看守長が退場する。
再び、静寂が室内に降りた。



338「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:40:22 ID:NpHdSdPM0
工業地帯を抜けた瞬間、世界の色が変わった。

鉄と油の臭いに満ちた灰色の瓦礫の海は、いつの間にか淡く青みを帯びた緑へと変わっていた。
地を覆うのは、足首丈ほどの野草。どこまでもなだらかに広がる丘陵に、花らしきものが風に揺れている。

ひどく遠くから来たような風だった。
廃工場の濁った空気とも、塩気を含んだ海辺の湿気とも違う。
それは、どこまでも乾いて澄んだ空気だった。
だが、胸の奥に吹く風は、少しも穏やかではなかった。

「……っ、は……はぁ……っ……!」

肺が焼けるように痛んだ。
氷龍としての飛翔は限界だった。
肉体的な疲労ではなく、精神の負荷に限界が来ていた。

氷龍の姿を解き、人の姿へと戻った安理は、草原の中央で膝から崩れ落ちた。
空は高く、雲は静かに流れ、かすかな陽光が頬を撫でていた。

草の感触が、手のひらに柔らかく絡みついた。
青々とした草が、春先の絨毯のように一面を覆っている。
こんなにも柔らかく、穏やかな場所があるのかと思った。
けれど、自分はそこに膝をつくことしかできなかった。

「…………ごめんなさい」

誰に向けた言葉かは分からなかった。
けれど、口から零れ落ちていた。

「ボクは……何も、できなかった……」

息をつくたび、心臓が痛んだ。
吐く息は震え、全身にまとわりつく冷気は、自分自身のものではないように感じられた。

けれど、目を閉じれば、鉄球が風を裂いたあの音がよみがえる。
廃工場の瓦礫、ローズの名、そして──イグナシオの背中。

逃げてきたのだ。
あの場所から。
あの怪物から。
そして──あの人から。

守られた。
助けられた。
何もできないまま、置いてきた。

「逃げたんだ……ボクは……また……」

思い出す。
誰にも言えずに引きこもっていた日々。
変わりたくて、強くなりたくて、それでも何かを変えたくて。
色々な人から、色々なものを得たのに、けれど、それすらも台無しにしてしまった。

「…………」

胸にぽっかりと空いた穴が、風に吹かれて冷えていく。
吹き抜ける風が、草を揺らしていた。
その音は、ざわざわと、誰かの囁き声のように聞こえた。

自分の無力さが、悔しかった。
そして何より──生き延びてしまったことが、苦しかった。

それでも、イグナシオの言葉が思い出される。
「その命は、自分のために使っていい」と。

だから今、自分にできることは──この命を使って、彼の言葉を無駄にしないこと。
この草原を抜けた先で、必ず灯台へ辿り着くこと。
それが今の自分にできる事だろう。

だが、足に力が入らない。
立ち上がることもできず、俯くことしかできない。

339「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:40:35 ID:NpHdSdPM0
その時──風が止んだ。

あまりに突然、草原が静まり返った。
音が消える、何一つ聞こえない。

違和感が肌を這う。
まるで、空間ごと息を潜めたかのような。

「道に迷ったようですね――――少年」

男の声がした。
俯いていた顔を上げれば、そこには昇り始めた日の光を背負った男が神の遣いのように立っていた。

「────少しだけ、神(わたし)と話をしましょうか」

その言葉が、何かの始まりであることだけは、確かだった。

【F-4/草原(西部)/一日目・朝】
【北鈴 安理】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(大)、自信喪失
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。
1.灯台に向かう
2.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。

【夜上 神一郎】
[状態]:疲労(小)、多少の擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
1.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
2.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
3.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
4.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。

340「Desastre」 ◆H3bky6/SCY:2025/05/25(日) 13:41:02 ID:NpHdSdPM0
投下終了です

341 ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:23:35 ID:NyEvLM6Y0
投下します

342私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:24:13 ID:NyEvLM6Y0
To:<o.weissman@abyss.deep>, <s.nogihira@abyss.deep>
Cc:<k.anderson@abyss.deep>

Subject: 【看守官連続殉職事件】最終調査結果報告

本文:
掲題の件につき、以下の通り報告いたします。

1. 事案概要
一カ月前より、秘匿受刑囚『並木 旅人』のシステムAの端末子機(以降、子機と略)に原因不明のエラーが6度発生。
並木 旅人を担当する看守が相次いで不可解な死を遂げた。

2.原因
・並木 旅人の超力強度が子機の超力強度を部分的に上回っていた。
・超力『回帰令(コールヘヴン)』が子機を貫通し、子機をクラッキング。
・看守の死因は、超力『回帰令(コールヘヴン)』による肉体の虚弱化および崩壊と結論付けた。

3.対策
・子機の超力強度の向上。
 技術班より、子機の並列運用による超力強度の底上げが可能との提案有。

4.備考
・並木 旅人の超力は既に進化を遂げている可能性が高い。
 管理上の名称は『幻想介入/回帰令(システムハック/コールヘヴン)』に変更されたい。
 並木 旅人がハイ・オールドである可能性も考慮されたし。
・今回の件を受け、概念系超力者によるシステム子機の変質の可能性が浮上。
 また、常時発動型の概念系超力者、および記憶喪失が発生している超力者に関しては、脳波による異常検知の効果が限定的となる。
 慎重な対応を求められる。


所長宛追記事項

近くおこなわれる刑務作業に関して、システムBの超力強度について再確認を提言。
ひいては、刑務作業自体の見直しも視野に入れるべきではないでしょうか。
詳細は別途メールにて連絡いたします。


以上

報告者:
Dr. リヴン・レイナード

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343私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:25:05 ID:NyEvLM6Y0

ブラックペンタゴン2階。
共用シャワー室。


いくつもの小部屋に仕切られ、他者を決して寄せ付けない衛生の要。そして心の睡眠場とも呼ぶべき一室。
肉体に染みついて蓄積した淀みを溶かし、ままならない現世で黒く染まった心を禊ぎ直して。
生誕の瞬間には授けられていたはずの純粋なる肉体と精神に、少しでも引き戻せるようにと設立された施設である。
しかし、アビスの奥底に封じ込められた悪党は、心の芯までドス黒く染まり、もはや人の道には戻れぬ外道ども。
そんな者たちが、心体の清めの間に立ち入るはずもない。

黒いタイルの床は冷たく、忘れられた墓所のように静まり返っている。
時に置き去りにされたようなその部屋で、ぽつんと響く水滴の音が、その寂寥を浮き上がらせる。
来るはずもない来客をひたすらに待ち望み、しかし課せられた役割を果たすこと能わず。
この世界が破棄され虚空に消え果てるまで、永遠に待ち続けるはずだった、忘れ去られた空間。


その扉が。
重々しく閉ざされた外界との境界が。
目覚めの歌と共に解き放たれた。


封じられていた聖所の扉を初めて開いた女。
名はヤミナ・ハイド。

繊維の隙間を水分と草の葉が埋め、ところどころ擦り切れた衣服。
髪は泥に塗れ、擦り傷も目立つ、冷え切った肉体。
あまりにみすぼらしい来客。
だが、それこそが待ち望まれていた者。
彼女は導かれるかのように、迷わず奥の個室へと参入する。


照明が煌びやかに瞬き。
口を開けて待ち侘びていた脱衣カゴは、投げ込まれた衣服を宝物のように抱え込み。
歓びの舞いを踊るように換気扇がぐるぐるとまわる。
それは世界が創生されてから、ようやく巡ってきた初めての奉仕の瞬間だ。

最奥の聖所で確かな存在感を放つ黒いレバー。
それがヤミナの手によっていよいよ引き上げられると、心地よい温もりの透明が、恵みの雨のように噴き出してきた。
温かい光に照らされて、水滴が宝石のように輝き、冷えた肉体がほのかに紅を取り戻していく。

344私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:26:19 ID:NyEvLM6Y0
「いつだってぇ〜 どこに居たってぇ〜 頑張ってる君へぇ〜 伝えたいよ♪」

液体となった暖かみが髪を伝い、しだれる毛髪を潤していく。
先端まで潤し終えたそれは、その毛先から宙空へと旅立ちを告げる。
やがて地上の黒いタイルを満遍なく染め、その最果てで口を開ける次の循環へと吸い込まれていく。

「♪私がいることうぉ〜 ここにいるってぇ〜 この歌にのせてェ〜」

気体となった暖かみが宙を漂い、空間を柔らかく包み込む。
肩を、背を、指先を、そして冷たい金属の輪に包まれた首ですらも、暖かくほぐしていく。
身体を蝕む冷気を道ずれに、ふわふわと、黒い天空へと浮かび上がっていく。
そうして、その最果てに空いた循環へと吸い込まれて、こちらも役目を終えるのだ。


「私の想い 願い 君の所まで 届け 届けぇ♪」

開闢前後、世界を魅了したアイドル戦国時代。
来たるは終末か、新世界の幕開けか。
不安に怯える人々に、彼女たちが謳う希望は熱狂をもって迎え入れられた。
ヤミナも車の中で散々聞かされて育った世代だ。
小学校の音楽の教科書にも載っているこの曲は、世界中の人間が知っていることだろう。
なお、共用シャワールームで歌うのは迷惑行為である。
善人はやるべきではないだろう。悪人もダメだ。


「と・ど・けェエェエェエェエェ〜〜〜〜〜ッッ!」

なんとビブラートを効かせて個室を震わせるという前代未聞の所業に出たヤミナ。
本当に誰かに届いたら困るのはさておき、まさに神をも恐れぬとはこのことである。
しかし、彼女はかの大海賊ドン・エルグランドからポイントの"奪取"に成功した女。
なれば、これほどの豪胆さも備えて然るべきなのか。


腹の底から存分にパッションを吐き出したヤミナは、暖かい慈雨に包み込まれ、まどろむ。
大熱唱、その余韻に浸る。
水流が黒い床を打つ音だけが鮮明に響き渡り。
差し詰め、三度もの嵐に見舞われ冷え切っていたヤミナの身体は、内からも外からも十分に温もりを取り戻した。

やがてまどろんでいたヤミナの目がゆっくりと開かれ。


「〜♪ 恥ずかしくって目も見れない」
なんということだ大変なことになってしまったまさかの二曲目が始まったのである!

「〜♪ けど夢の中ならできる」
驚嘆すべき図太さ。戦慄すべき厚かましさ。
ブラックペンタゴンを自宅か何かと勘違いしているとしか思えないその余裕。
ちなみにこの女、これで模範囚である。
だが、これも許されるのだ。世界が彼女に厚意を与えているのだから。

「Chu! Chu! Chu!」
いい加減、誰もが感じていることだろう。
なぜこいつは命をかけた刑務作業の最中に、シャワーなぞを浴びているのか。
説明するには、しばし時を遡らねばならない。



345私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:28:05 ID:NyEvLM6Y0



――――――んなろォッ!!!!


漫然とした思考でとことこ階段まで戻ってきたヤミナを、獣のような咆哮が出迎えた。
狂犬の剥き出しの闘声を浴びて、ヤミナはネズミのようにびくりと全身を震わせる。

「まだやっているんですかね……。こわぁ〜」
上階に駆け上がるときに見た二人組の片割れと、変な半裸男のぶつかり合いが今も続いているらしい。


「上から覗いてみますか……。ちょっとくらいなら大丈夫だよね?」
特に根拠もないがたぶん大丈夫だろ。
そんな安易な気持ちで階段の手すりに手をかけ、足を踏み出せば、
ブルドーザーと形容すべき建材を震わす轟音が、そして鉄板がひしゃげるような甲高い不協和音が、待ってましたとばかりに出迎える。
ビビッて階段から足を踏み外しそうになり、「ひふぃっ!」と喉を鳴らしてしまう。

けれど万物がヤミナを侮っている。
階下で戦う二人は、互いの命の取り合いに夢中だ。上階のネズミの気配など気にも留めない。


「いやあ、迂闊に近づくのは危ないと思ったんですよねぇ〜」
この足め、この足め、のこのこ危険に踏み込みおって。
そんなふうに白々しく過去の選択を塗り替えて、特にアテもなく階段の前をうろちょろする。
下はしばらく騒々しそうだが、さりとて、再度のこのこ上階から様子を見に行く度胸はない。
美人のヤミナに突如ナイスなアイデアがひらめくことに期待するも、
残念ながらヤミナの脳裏に豆電球が灯るには資質も閃きレベルも足りない。

だが、現実はヤミナにささやかな情を与える。
視線を動かしながらなんとなく見回せば、その先にあるのは二階の案内板。

屋内放送室、仮眠室、食堂、共用シャワー室、ロッカー、更衣室、給湯室、トイレ――
二階は生活拠点としての色が濃い。


ピコンっ!

そんなインスピレーションが走った。
無意識に口を丸く開き、丸めた右拳で左の掌を打つ。
ぽんっと空気が破裂するような小気味いい音が、二階の廊下を駆け抜けた。


警備室だ。
二階には警備室がある。
ブラックペンタゴンの各区画を映し出す監視する詰め所がある。
そうとなれば、善は急げだ。


足早に目的の部屋を訪れたヤミナは、入り口から最も近い制御端末の前に着席。
ヤミナは闇バイトで現場のナビゲーターをこなした経験がある。
当然、この手の監視機械の操作は手馴れたもの……とまではいかないが、無事にシステムの起動を引き当てた。

346私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:30:04 ID:NyEvLM6Y0
端末をガチャガチャと操作すれば、5ブロックに分かれた各所の様子がモニターに映し出されていく。
エントランス、図書室、階段、工場エリア、配電室。
午前5時前、人の姿が見えるのは階段部屋のみだ。
モニターに映るのは、鋼鉄の鎧で全身を包んだ強そうな囚人と変な半裸男の激突である。

「……おおっ」
ヤミナは、思わず感嘆の声を漏らす。
『もっと殺す気で来なよチャンピオン』と挑発していた鎧は、
次の激突で、変な半裸男――訂正――チャンピオンに吹き飛ばされていた。
これは決まったな半裸男が勝てるわけないでしょ、という最初の断定をヤミナは即座に翻した。

ヤミナに格闘技の知識など皆無だ。
なんかすごいスタミナを土台に、なんかすごいステップで懐に入り込んで、なんかすごいスピードで殴りまくってるようにしか見えない。
チャンピオンってすごいんだな〜、とNSS(Nanka、Sugoi、S)な小並感を抱くことしかできないが、
そんなド素人をもってしても目を奪われる気迫があった。


腐敗毒を放つフィールド。
逃亡不可の密室。
鎧を一蹴する圧倒的な強さ。
「……どう考えても、チャンピオンの勝ちなのでは?」

もちろんヤミナは最初からチャンピオンが勝つことを疑っていなかった。疑っていなかったのだ。なのでこの結果に異論はない。
鎧が勝てば二階に上がってくる可能性があったが、チャンピオンは留まるだろう。
花のフィールドに鎮座して次の獲物を待つのだろう。


エンダと仁成は図書館にはいない。
すわ、これはついにヤミナを捕えに動いたか?
しかしこの件については、ヤミナもしっかり準備をしている。
ヤミナへの当てつけと嫌がらせだけのために探偵衣装を取り寄せた、エッ・ラッ・ソ〜〜〜〜ッなアルビノ小娘をぎゃふんと言わせる完璧なる武装の用意がある。

『電子ロックと鎧とチャンピオンのせいで降りるに降りられなくなったんです』
この覆せない絶対的法則を前にすれば、相手はごめんというしかない。
世界は世知辛いので、悪意で森羅万象を説明することはできない。
助けに来てくれてありがとうを添えればますます反論不可能。完璧な理論武装である。


「いきますか? いっちゃいますか? いっちゃっていいですか?」

ヤミナはテレビ番組を最初の三回で見切るタイプである。
スキマ時間という言葉も大好きだ。
未だ乾ききっていない囚人服を身にまとい、時間を無為にしてぼけーっと待つのが果たして正解か。
いや、そんなはずがないだろう。

エンダよし。仁成よし。チャンピオンよし。鎧よし。
問題ない。すべての障害は取り払われている。
休めるときにしっかり休むのは立派な仕事だと、どこかのエラい人も言っていた。


なぜシャワーなぞを浴びているのか?
答えは極めてシンプル。浴びられそうな時間があったから浴びたのである。
世界はヤミナを侮っているが、ヤミナもまた世界を侮っている。
メアリー・エバンスが理の異なる無重力空間を当たり前のものと認識しているように。
ヤミナ・ハイドも運命が微笑んでくれる世界を当たり前のものと認識しているのだ。

347私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:31:14 ID:NyEvLM6Y0


身体からほわほわと湯気をたたせ、ヤミナは再び警備室へと戻って来ていた。
エンダの刑務服は合わなかった。デイパックの奥底に封印されたままである。
では彼女は何を着ているのか。

ピシッとした青い上着に黒いズボン。
縫い付けられた"SECURITY PATROLS"という表記のタグ。
先ほどまでのみすぼらしい罪人ルックとうってかわって、今や見た目だけは秩序の一員、立派な警備員である。
靴が革靴なら完璧だっただろう。残念ながら靴はそのままだが。
制服効果は適切に発揮され、看守側になったみたいで少し気分がいい。
ヤミナの見てくれはそれなりに良いので、黙っていれば求人ポスターのモデルにも抜擢されうるかもしれない。

ちなみに制服の入っていたロッカーはダイヤルパスワード方式だったが、
管理者が悪党を侮っていたため、パスワードは当然デフォルト(0000)である。
悪党に中を漁られるのがイヤな諸君はちゃんとカギをかけよう。


さて、腐敗毒に晒され続ける監視カメラは、既に朽ちていてもおかしくないのだが、万物はヤミナにチャンスを施す。
気化した腐敗毒は通風孔側に吸い込まれ、いまだ階段部屋のカメラは生きている。

階段部屋に鎧はいない。死体もない。
ロックが解除され、鎧は敗走をきたしたらしいことが分かる。


今は第二ラウンドだ。
只野 仁成 VS チャンピオンのマッチアップが執り行われている。

この勝敗はヤミナ自身の今後に影響する一戦だ。
二人の立ち合いのレベルの高さなど一切合切理解できないので、
素手のチャンピオンに対して銃やら刀を使ってようやく食らいつく仁成、程度の認識である。

そして、チャンピオンはそのことごとくを撃ち破り、仁成に武器を抜く間すら与えていない。
圧倒的ではないかチャンピオンの武力は。


そして。
生命の波動を受けて不毛の大地に草花が生い茂るように。
眠りこけていたヤミナの脳皮質の神経回路がぱちぱちと覚醒していく。
ヤミナの灰色の脳細胞をまばゆい電球が照らしあげていく。



――チャンピオンが階段前に居座る限り、ここが一番安全なのでは?

348私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:32:24 ID:NyEvLM6Y0
開闢以来の画期的な閃きに、ヤミナの頬が思わずへにょっと緩む。
鉄壁のチャンピオンを門番に悠々と朝の準備をおこない、優雅に放送を待つ。なんなら刑務終了を待つ。
我ながら惚れ惚れするような完璧な計画だ。
ヤミナ自身、昔忍び込んだ邸宅のSPにボコボコにされたことがあるが、
無敵の護衛を雇う金持ちの気持ち分かるわあと腕を組んで一人うんうん頷いた。


いやいや、とヤミナは気を引きしめる。

もっと冷静になれ。
楽観的すぎるのは御法度だ。
目先の楽に流されてはいけない。

明日まで篭城できると考えるのは浅はかすぎる。
さすがにチャンピオンもトイレくらい行くだろう。
あるいは10人で挑まれて突破されるかもしれない。

それに思い出せ。
仁成とエンダは横暴だが、ドンほどの乱暴さはない比較的マシな同行者だ。
エンダはその見た目通り、ご機嫌取りとヨイショが通じる。
そんな二人がブラックペンタゴンを探索したがっていたのだ。


チャンピオンが強くてやばいので二階に上がれないエンダちゃんと仁成くん。
なんとか10人くらいどどどどっと送り込み、チャンピオンも袋叩きにして突破するも、時間はもう昼過ぎ。

――困ったな。こんなに広いブラックペンタゴンを調べるなんて無理かもしれない。

弱気なイマジナリーエンダちゃんの前に満を持して登場するのが、上階の情報をたらふく抱えたヤミナさま。

――君がここまで気の利く人間だとは思わなかった。これまでの非礼を謝罪するよ。
――ぐぬぬ……。ぐぬぬぬぬ……。く、悔しいけど、あなたのことを見くびっていた。ご……。ごめん。

非礼を詫びて頭を下げるイマジナリー仁成くん。
そしてイマジナリーエンダちゃんの屈辱的な様子が目に浮かぶ。

――あーあ、ちょっと汗かいちゃったなあ。"バーグラー"ブランドの服とか誰か用意してくれないかな〜。
――うう、ううう……!


「ふふっ、へっへっへ……」

ひそかに小鼻をうごめかす。
頭を下げるイマジナリー秘匿衆に、うんうんくるしゅうないくるしゅうないぞとオトナの余裕を見せつけながら、ほっほっほと笑う――
のはちょっと品がないし逆ギレが怖いので、もうちょっと穏やかに場をおさめるつもりだが。

これはもはや選択の余地などあるまい。

349私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:34:18 ID:NyEvLM6Y0
「いっけええ! チャンピオオォォ〜〜〜ンッッッ!!」
勝つのはチャンピオン。逃げるの仁成。
チャンピオンのスペックに全BETだ!

「右から来てますチャンピオン!
 今だ! かわせぇ! 殴り飛ばせッ!
 Go! Fight! Win! Let's Get! Victory! Go! Home! HITONARI!」
この女、誰も来れないのをいいことに、チャンピオンの応援を始めた。
チアガールのように、腹の底から声を張り上げ、ダイナミックに踊り始めた。
大悪党が仁義を重んじるならば、小悪党は仁義を踏み躙る。
その点で、この女の右に出るものはいない。

「あっ、殺しはダメですからチャンピオン!
 最初は強く当たって、あとは流れでお願いします!」
世界はヤミナに甘い、というよりセキュリティ上、警備室は防音仕様である。


そして数刻後。

チャンピオンの圧倒的な強さ。
観客からの感じ取れないプレッシャー。
ついには仁成から天意が失われ、彼は戦略的撤退に追い込まれる。


「やった、やった、やったやったやったあア!
 圧勝快勝大勝利です〜〜!!
 変な半裸男とか思っててごめんチャンピオン結婚して!」

ソロスタンディングオベーション。
素晴らしいエンターテインメントの終幕に行われる、最大の賛辞である。
ネオシアン・ボクスにおいて、チャンピオンの快進撃に魅了された観客たちのように。
ヤミナもまたその勝利を最大限に称えた。

心地よい疲労感だ。
ヤミナの心の奥底から、えもいわれぬやりきった感が滲み出てくる。
勝利の美酒の味わいは、かくも格別なものなのか。


なお警備室で歌って踊って騒ぐのは迷惑行為である。
善人はおこなってはならない。


「さてっ、それじゃあ三階で掘り出し物でも見つけますか!」
大きく伸びをして椅子から勢いよく立ち上がり、鼻唄混じりで三階への階段に向かう。


彼女が三階の探索のために警備室を離れて数刻。
毒花の腐食がついにレンズ本体を侵食し、階段部屋を映し続けていたカメラも静かにその役割を終える。
工場エリアのカメラはネイ・ローマンとメリリン・"メカーニカ"・ミリアンの超力に巻き込まれて破壊され。
配電室のカメラはエンダの霞によって回線が朽ち。
図書室のカメラはルクレツィアが投げた本が直撃して覆いかぶさり。
それぞれ使い物にならなくなった。




350私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:35:45 ID:NyEvLM6Y0


「♪ 一緒に手を取り合って、行ける〜」
ブラックペンタゴン。三階階段。
建物全体にノイズが響いた。
ブラックペンタゴンにおいては、それは天井に取り付けられたスピーカーから流れ出してくる。


「♪……悲しみも、憎しみも全て乗り越えて、輝かしい明日へ〜」
『――――定時放送の時間だ』
オリガ・ヴァイスマンの悪辣なる声色が、島全体に響き渡る時刻が来たのだ。
黒い階段にて、こつ、こつと一定のリズムを刻んでいた足音が一瞬だけ、そのリズムを乱す。
鼻唄混じりのメロディが止まった。

『諸君、刑務作業の進捗はいかがかな?』
ヴァイスマンの問いかけに、口をとんがらせて進捗どうだろうと顔をしかめて考え込んだものの、さして意味はないことに気付いた。

『贖罪を果たし、己の価値をほんの少しでも証明できた者がいれば喜ばしい』
それよりももっと大事なことがある。
ヤミナはデジタルウォッチを起動し、メモを開いて、再び歩き出す。
なお、階段での"ながらウォッチ"は非常に危険なのでおこなってはならない。


『さて、それでは事前に説明していた通り、これより刑務作業の経過報告を行う』
懲罰を受け、アビスの底に消えていった者たちの名前が次々と読み上げられていく。
ある者は悲しみに暮れ、ある者は憎しみを向ける先を失って心に穴を開ける。
彼女たちは悲しみも憎しみも全て乗り越えて、輝かしい明日へ向かっているはずだ。

だが、ヤミナに知り合いなぞ一人もいない。
そもそもアビス自体にヤミナの知り合いがほとんどいない。
アビスにぶち込まれてから二週間しか経っていないのだ。

正確には、恵波 流都はヤミナとはかかわりがある。
ヤミナの関わっていた闇バイト。
あれは、貧しい若者を尖兵に日米の治安を悪化させ、GPAをはじめとした秩序側の威信を削ぎ落し、
自警団の発言力と存在感を向上させる数々の反逆プログラムの一環であった。
だが、そんな思惑などこの女が知るはずもないし、そもそも上の名前を知っているはずもなかった。
彼女はただの文字列として、流都の死を認識した。

他方、チャンピオンの名前は知らないが死んだとは思えないし、仁成もエンダも生きている。
まだまだ三階は安全そうだなと一息つく。
事実、何事もなく三階にまで到着し、ヤミナは聳え立つ巨大な扉を仰いでいる。
世界はヤミナを慈しんでいる。



351私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:37:44 ID:NyEvLM6Y0


ヤマオリ記念特別国際刑務所。
その医務室の一角は今日一日、特別ゲストのために貸し切り状態である。
部屋の主は中学生にも満たない幼い少女二人。
明らかに制服に"着られている"。
囚人たちが見れば、インフルエンサーを使ってアビスの求人でも始めたやがったのかと首を傾げるだろう。


「はぁ、もうイヤになっちゃう。
 アビスで、狭い部屋に押し込められて、これじゃあ犯罪者と変わらないじゃない。失礼しちゃう!」
「私たちは、誤解を恐れずに言えば部外者ですからね」
「部外者も何も、私たちむりやり所長の手下に連れてこられたんだけど?」
「……藍寿は自分で手を挙げましたよね?」
「菜々子お姉ちゃんが無理やり連れてこられたんだから、無理やりなの!」
「分かっていますよ、ふふっ」

高原菜々子。高原藍寿。
今回の刑務にあたり、所長の"伝手"を使って連れてこられた一日刑務官。


彼女たちの業務は、疲弊した刑務官の疲労回復。
高原菜々子の超力『完全力全快』は、人体の状態を"健康状態に変更する"という世界でも指折りの強力な超力である。
母の"恩義"に報いるため、そして菜々子の護衛兼話し相手として、彼女たちはアビスへとはせ参じた。

二人の母親であり芸能界の大物である高谷千歩果は山折村の出身だ。
当然ヤマオリ・カルトが我先にとその触手を伸ばす。そうしなければ、教義の正当性を疑われるからだ。
それはカルトを根切りしたい秩序側にとっても実に都合が良かった。
乃木平は開闢直後、千歩果を"デコイ"に集まってきた国内カルトの大半を一時撲滅したという。
これが高原家との"縁"であり、所長からの"伝手"であり、そして報いるべき"恩義"である。


さて、先の放送は無事終了。
ヴァイスマン――は所用につき不在のため、アンダーソン看守部長からの指示に従い各班をまわった。
刑務官たちを万全の状態に戻し、次のフェーズに備えたのである。

そして、次のお役目まで何をするのかといえば。


「暇ですね……」

菜々子がぼやく。

ダンスのレッスンには狭すぎる。
ボイストレーニングは迷惑だ。
共用スペースや仕事部屋で歌い踊る非常識さを二人は持ち合わせていない。
ならばとビジュアルチェックをしようにも鏡がない。
何もやることがないのである。


アビスに外の物品は原則持ち込めない。
必ず言爺を通して検閲を受けなければならない。
検閲が終わるころには、刑務も終わっているだろう。

菜々子はベッドに腰かけて、両足を交互にぷらぷらさせ、天井の壁紙を目で追う。
変わり映えのしない景色だ。
にわかに飽きてきた。

「藍寿は何をしているのでしょうか?」
「これ。私、お姉ちゃんの護衛だし?」

藍寿が差し出してきたのは、アビスからの支給されたデジタルウォッチ。
刑務作業者たちが着けているものと同じ機器である。

一日刑務官は正規ほどではないにしろ、権限は与えられている。
つまり囚人の立場では知りえない、刑務の状況を知ることができるのだ。


――余談ながら。
ここで得た情報は、決して外には持ち出せない。
黒い粉末状の記憶消去薬を飲み、今日1日の記憶をすべて抹消して退出するべし。
これがアビスの絶対的なルールである。


ウォッチから放たれる液晶のライトが医務室の天井を照らす。
二つの視線が、そのデジタル画面に集中する。

352私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:39:57 ID:NyEvLM6Y0

盤面に孤島が映し出されている。
今まさに刑務作業が執り行われている現場だ。
受刑者たちのものとは違い、全刑務作業者のおおよその現在位置が表示され、
タップすれば、その詳細データも表示される。
監督官たる看守の特権である。


「鑑さんがいるのですね……。日本人の人たちと一緒?」
母親が芸能人である姉妹は、当然日月のことを知っている。

「あっ、一人は模範囚ですか。
 ならば、しばらくは安全、なのでしょうか」
「菜々子おねえちゃんは想定が甘いわ。
 ここはアビスよ?
 こんなところにいる模範囚なんて、表じゃ看守にぺこぺこ頭下げて、
 裏じゃ卑劣な顔して悪行を考えているに違いないわ!」
藍寿は指をわきわきと動かし、ぐへっへっへと三下のような笑顔を浮かべはじめた。
少女におさわりは厳禁。破りし者は然るべき罰が与えられる。
菜々子はぽふぽふと藍寿を叩いて懲罰執行である。

「それに模範囚三人もいるけどさあ、なんかおかしくない?
 二週間でなれるもんなの!?」
藍寿が指さす名はヤミナ・ハイド。
懲役26年の服役期間二週間。国家転覆未遂の大罪人、そして模範囚。
常時発動の概念系超力者であり、洗脳・精神汚染と分類するが、その詳細は不明との記述だ。

「えぇ……? 手続きにミスでもあったのでしょうか?」
「ん〜、ズルをしたのかもしれないわよ?」
「ズル……ですか?」
一人だけブラックペンタゴン3階に乗り込んでいる時点で、確かにとんでもなくきな臭い動きだが。

「システムAがあるのに、そんなことができるのでしょうか?」
「ふっ、甘いわね菜々子お姉ちゃん。
 ハチミツのように甘々だわ!」

藍寿が菜々子に見せつけたのは、システムA子機を搭載したネームプレートだ。
公共機関でよく使われるタイプの備品であり、私はここで超力を使用しないという宣言である。
ただし、アビスのそれは二つのシステムA子機がクラスタリングされていた。
意味は高可用性と性能向上。
すなわち、超力強度の底上げである。
底上げができるということはすなわち、元の強度では足りない事象が過去に発生したということであろう。


「本当はシステムAなんて効いてないのに、澄ました顔で紛れ込んで、油断している菜々子おねえちゃんを……がばっ!!」
「……も、もう。びっくりするじゃないですか。
 なんだか、不安になってきました……」
身を縮こまらせた菜々子に対して、藍寿はいたずらな笑みを返す。

「ふふーっ。問題ないわ。
 こっちの大悪党も、こっちの怪しい模範囚も、みんな私がお姉ちゃんに近づく前にぶっ飛ばしてやるから!」
藍寿とヤミナはまったく面識はないが、こんな一人でコソコソしてるやつはたぶん大したことない。
そんな侮りを持たれている。
ヤミナ・ハイドは接点のない人間にも侮られている。

実際のところ、ヤミナ・ハイドの超力はシステムAのそのものの強度を超えることはできない。
けれど、彼女の超力はすでに、世界そのものの奥底にささやかな足跡を刻んでいる。




353私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:41:23 ID:NyEvLM6Y0


ブラックペンタゴン3階。
それは、三メートルほどの巨大な扉だった。
黒鉄の表面には細かな幾何学模様が刻まれ、僅かな金色の線が走っている。
とはいえ、派手さとは無縁で、黒を強調するような控えめな輝きだ。
いかにも重要そうな何かがこの中に隠されていそうである。

ごくりと唾を飲み込み、引き手に手をかけて扉を開……けない。
傍らに扉に溶け込むように、カードリーダーとテンキー錠が取り付けられている。
これはどちらか片方が合致すれば鍵が開くタイプのようである。

「謎解きでもさせたいのでしょうかね……?」
窓にはめられた格子といい、
建築の基礎をガン無視したような構造といい、
ところどころで進行を阻んでくる仕掛けといい、
なぜか内・中・外をまたがなければ一周できない回廊といい、
まるでブラックペンタゴンで大渋滞でも起こそうとしているかのようだ。
浮かんだ考えをまさかねハハハと拭き捨てて、ヤミナはテンキーとにらめっこを始めた。


にらめっこすればパスコードが湧き出てくるなど、狂人の理論だ。
だが、精神をいたく集中させていると神仏等の超常存在の姿を捉え、告知を賜る人間もいるらしい。
精神修行中に現れる神仏はほぼ幻覚だ。殴り飛ばして病院に行くのが正しい対処法である。
ただしヤミナは世界から祝福を受けている。
おぼろげながら数字が浮かんでくる。


『4646』

入力だけならタダだと四ケタの数字を入力。
上昇調の電子音が鳴り、鍵の開く音が聞こえた。
「開いたっ! 私って、もしかして天才!?」

意気揚々と、ヤミナは部屋へと入っていく。
ヤミナの超力は、システムBへ入り込んでいく。
実世界と同じように、システムBで作られたこの世界にも憑りついていく。
わずかにシステムBに結合し、ほんのわずかに世界を変質させていく。




354私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:42:53 ID:NyEvLM6Y0


高原姉妹は引き続き、刑務島を眺めて時間を潰していた。
「このブラックペンタゴンという建物、本当にたくさん人が集まっていますね」
生存している受刑者のうち、半数近い受刑者が集合している巨大施設。
否が応でも目を引かれてしまう。

「この島に送り込まれたとして、私なら絶対に近づかないわ」
「こんなにたくさんの受刑者がいたら、何が起こるのか分かりませんからね」
「それもあるけれど、もっと別の理由よ」
「?」
「そうね……。私は考えがあるけれど、まずは菜々子お姉ちゃんの考えを聞かせてほしいわ。
 ブラックペンタゴンには、何があると思う?」
「何がある、ですか……。
 私が考え付くものは、大したものじゃないですけれど……。
 島の真ん中で、頑丈そうな大きな建物ですから……。
 たとえば島に電気や水を送り出しているとか?
 あっ、ひょっとしたら放送の電波を受信する装置があるかもしれませんね」

島全体に満遍なくインフラを行き渡らせるならば、やはり中央に大規模な制御施設は欲しい。
そうすることで平等に、電気や水を送ったり、電波からの放送を手早く行き渡らせることができるだろう。

「きっと、刑務作業を成り立たせている根幹のシステムが置かれているのではないでしょうか」




355私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:44:06 ID:NyEvLM6Y0


ブラックペンタゴン3階。
そこは、展示室であった。

立ち入ったヤミナは、その精巧なジオラマ群に目を丸くしていた。
中央にでかでかと置かれているのはこの島のジオラマである。
廃墟、山岳、工業地帯、港、そしてブラックペンタゴン。
ブラックペンタゴンは上からみると綺麗な正五角形だ。
中庭には黒い球体のようなモニュメントが置かれており、上から見るとこんなだったのかと素朴な感想を抱く。
睨んでいるとなんだか心臓の形にも見えてくるこの島。解説パネルには、『世界』とだけ書かれていた。

島のジオラマから少し離れて周囲を見ると、山々に囲まれた村のジオラマや、白い神殿のような巨塔、一見ごく普通の建物の模型がある。

『山折村 〜永遠なる聖地〜』
『超力犯罪国際法廷 〜秩序の門〜』
『ヤマオリ記念特別国際刑務所 〜悪の終焉〜』

何やらかっこつけた抽象的な説明が並んでいるが……。

――あれ、もしかしてこれ、ものすごいお宝なのでは?
超力社会の中枢たるICNCこそ知っているが、
山折村、ましてアビスの模型など見たことがない。
外に出てこの情報を売ればだいぶ金になるのでは?

デジタルウォッチにカメラ機能がないのを大変残念に思う。
デジタルウォッチはアビスの備品なのだが、そんなことに気は回らず、ヤミナは心から天を仰いだ。


まなこにアビスの外観をとくと焼き付け、もっとお宝はないかと視線を反対側に移すと、そちらにはガラスケースに入ったオブジェクトが展示されていた。
その中でも目を引くのは、材質不明、白く光る球体のようなオブジェクトだ。

『システムA』
『とある被験体の異能を抽出、システム化したもの。超力社会の要』
簡素な説明だ。
システムAの本体ってこんな見た目だったんだな、と素朴な感想を抱く。

その隣。
『システムB』
『この”世界”の要』
こちらには、ただパネルと抽象的な説明だけが立てられている。
ガラスケースには、何も入っていなかった。

ふーん、と一瞥したヤミナは、ふと壁際に開いた小さな窓に気付いた。
なんとか顔を出して中庭を覗きこめる程度の、小さな窓だ。
そういえば外に面した部屋や廊下には窓があったが、内に面した部屋で窓を見たことがなかった。
それに、トイレを探して一階を駆けずり回っていた時、中庭に行く通路は見当たらなかった。
この建物の中庭ってどうなってんだろ、と、なんとなしに窓から中庭を覗き込んだ。

356私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:45:53 ID:NyEvLM6Y0
――あれはなんだろう。


黒曜石でできたチェスのような黒い円柱の上で、ふわふわと浮かびながら回転する黒い巨大な球体が置かれていた。
噴水に彩られた美しい庭園に調和するような、宝石のように美しいモニュメントが日の光を受けて輝いていた。

なんか高そうなモニュメントだな、と現金な感想を抱くが、ふとどこかで見たような気がする。
後ろを振り返って飛び込んでくるシステムAのオブジェクト。色以外、中庭にあるものにとても似ている。
島のジオラマ。タイトル『世界』。
システムB。『この”世界”の要』


刑務作業における値打ちもの。
当然、恩赦ポイントがその筆頭だが、それがすべてじゃない。
自分だけが持っている情報アドバンテージもまた、交渉のカードとなる。
受刑者の中には、仁成やエンダのようにアビスに反抗し、調査を目的とする人間がいる。
もしあれが本当に"この世界の要"なのなら、情報としてこれほど強力なカードはない。


何より。
刑期を26年に軽減され。
アビスに入ったが模範囚と認定され。
刑務作業でも首輪を棚ぼたで手に入れ。
チャンピオンに安全を担保され。
ブラックペンタゴンの上階を自由に探索できて。
この部屋に一発で入れて。
今、自力で重大な秘密を握ったかもしれないのだ。
いや、握ったのだ。
風は私に吹いている。


娑婆にいたころから数々の甘い話に引っかかってきたこの女が、自制など効かせられるはずもない。
異質なものに、警戒心と共に好奇心が湧く人間の本能を抑えられるはずもない。

「ふふ、ふへへへ……」

世界はヤミナにやさしい。
世界はヤミナにやさしい。
世界はヤミナにやさしい。


だらしない顔を晒して、展示室を退出するヤミナ。
そういえばパスコードなんだっけと一抹の不安がよぎった。
確かこれだったはずと、四ケタの数字を入力。

『5656』

上昇調の電子音が鳴り、鍵の開く音が聞こえた。
不安は消失する。
安心は強まる。
ブラックペンタゴンから逃げ出そうかという選択肢は、もはや失われていた。



357私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:47:47 ID:NyEvLM6Y0


「私はね、今はブラックペンタゴンには何もないと思うわ」
「何もない、ですか?」
藍寿はその細い指でブラックペンタゴンを指し示す。
周辺には、20名を超える受刑者たちが点在していた。

「大事なものをこんなに人の多いところに置いたら、誰かに壊されちゃいそう。
 私なら、四隅のどこかか、または全部に置くわね」
島の四隅。
灯台、小屋、廃墟、工業地帯。
人気の少ない、会場の最果てを指し示す。

「真ん中には、予備だとか、もしものときの発電機みたいなものならあるかもしれないけれど。
 私の考えはもっと別のところ。
 この刑務作業は戦争の実験よね?」
刑務の目的は刑務協力の条件として聞かされている。
超力を活用した戦争のシミュレーションだと二人は聞いた。

「戦争が続いて、技術が進歩しないなんてこと、あるかしら?
 新しい武器とか、ポジション取りみたいなのが現れるのが当然だと思わない?
 それに、戦争に勝つための条件だって変わっていくかもしれないわ!」
20年以上前に起きた戦争でも、ドローンを用いた戦術は大きく進歩し、各国が新戦術に対応することを強いられた。
戦争によって、兵器も技術も進歩していく。

「私なら、受刑者を真ん中にいっぱい集めておいて、後半にステージをひっくり返すような新兵器を投下するわ。
 この、ブラックペンタゴンの中央に!」
バシッとポーズを取る。
ダンスの最後によく見せる決めポーズである。

「うーん、これって、そういうアビスと受刑者の対決ではないような。ちなみに、新兵器って、たとえばどんな?」
「えっ、それは……う〜ん、たとえば、超力の進化を早くする、みたいな?」
「そんな兵器があるのなら、とっくに使われていそうな気もしますが……。
 というか、今日の藍寿、なんだか考え方が意地悪ではありませんか?」
「私はお姉ちゃんの護衛だもん。
 最悪を考えるのが私の仕事なの。
 今日は私はネガティブになるんだから! ネガティブネガティブ!」
藍寿は唇を尖らせ、腕を組んでふんぞり返る。
だが、その仕草はどこか芝居がかっており、まるで小さな舞台女優のようだった。
背伸びでおませな妹を、菜々子は愛おしいと思う。

「まあでも、そうですね。
 意地悪な考え方をするなら、受刑者自身が自発的にブラックペンタゴンに留まりたくなる仕掛けはあるかもしれませんね」

まあ、島の中央に新兵器が来ようが、刑務者の超力が進化しようが、ただのデコイだろうが、島の中で完結してくれるなら問題ない。
今日一日、無事に過ぎてくれれば御の字だ。

とん、とん、と医務室のドアがノックされる。
「高原サポート官。クロノ主任看守が心労で疲弊したらしい。応対を頼む」
「はーい」
仕事の呼び出しを受け、菜々子は藍寿とともに医務室を後にした。



358私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:51:35 ID:NyEvLM6Y0


世界はヤミナを侮っている。
ゆえに、世界はヤミナに甘い。

彼女の超力は、深層意識に作用する。
自然の可能性を緩やかにねじ曲げる。
けれど、実際のところ、現実を改竄するほどの力は有していない。
意図を以って定められた電子機器の機能を改竄するほどの力は有していない。


展示室。この扉のパスコードを類推させるものは三階各所に散らばっているが、実はどんな4桁の数字でも開く。
"隠された"仕掛けを解いたあなたは”特別”だ。
仕掛けに気付いたあなたは”特別”だ。
だから、あなたがここで手に入れた"成果"は特別なものだ。
そんな祝福を与えてくれるやさしい部屋だ。


中庭には確かにモニュメントがある。
だが、それが何を意味するのかは誰も提示していない。
どうやってたどり着けるのかも分からない。


"何かを保管する"ものなのか?
いや、"何かを制御する"ものなのか?
あるいは、"何かと何かを繋ぐ"ものなのか?
それとも、"中に取り込む"ものなのか?
はたまた、"放出する"ものなのか?
本当に、"ただのランドマーク"なのか?

ヤミナは周囲の状況から、"自分で"その正体に"気付いた"のだ。
自分で気付いたその価値を高く見積もれば見積もるほど、
それを手放すのが惜しくなり、この黒い監獄からは逃れられない。


世界はヤミナに善意を与える。
けれど、人間の強固なる意志と悪意は、ささやかな善意を木っ端に打ち消す。
”普通”でない出来事は、オリガ・ヴァイスマンの超力の前に曝け出される。
それでも黙認されているのなら、それは管理が可能であると判断されたからにほかならない。

彼女はイレギュラーではない。
檻の中に囚われている一受刑者にすぎないのだ。

359私は特別! ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:54:08 ID:NyEvLM6Y0
To:<r.reynard@abyss.deep>
Cc:<s.nogihira@abyss.deep>

Subject: Re:【看守官連続殉職事件】最終調査結果報告

本文:
調査報告書を確認した。
詳細な調査と分析を行い、事案の原因究明および対策案を提示してくれたことに深く感謝する。

しかし、報告書末尾に記載された刑務作業自体の見直しについては、君の職務の範疇を超えた提言だ。
概念型超力者の選出についても、君の抱いた懸念はすべて想定されたケースの範疇であると伝えておく。


刑務作業は予定通り執り行われる。
今後もしっかりと職務に励みたまえ。

以上

------------------------------------

【E-4/ブラックペンタゴン 3F北西ブロック 展示室/1日目・朝】
【ヤミナ・ハイド】
[状態]:疲労(小)、各所に腐食(小)
[道具]:警備員制服、デジタルウォッチ、デイパック(食料(1食分)、エンダの囚人服)
[恩赦P]:34pt
[方針]
基本.強い者に従って、おこぼれをもらう
0.ブラックペンタゴン上階・中庭を探索する
1.下の階へのルートを確保する
2.エンダと仁成に会ったら交渉、ダメそうなら逃げる
※ドン・エルグランドを殺害したのは只野仁成だと思っています。

[共通備考]
ブラックペンタゴン2階北西ブロック:3Fとの階段・警備室・屋内放送室
ブラックペンタゴン2階北東ブロック:共用シャワー室・更衣室・仮眠室
ブラックペンタゴン2階南西ブロック:1Fとの階段・トイレ・ロッカー
中庭のモニュメントはランドマークかもしれませんし、他にも意味はあるかもしれません。

360 ◆TApKvZWWCg:2025/05/26(月) 20:54:25 ID:NyEvLM6Y0
投下終了します

361 ◆H3bky6/SCY:2025/05/26(月) 22:34:50 ID:SMwm7fQY0
投下乙です

>私は特別!
作中でも触れられているけどヤミナが世の中を一番舐めてる
画面越しに出張版『ネオシアン・ボクス』を観戦とは、いいご身分だな、この刑務作業で一番自由なのがお前だ
するすると2階3階と進んでいき、ブラックペンタゴンの最奥まで、メッチャ重要そうなものがちゃんと説明付きで博物館のように置かれている
それそものが蟻地獄のような罠であるという考察、高原姉妹小学生とは思えないほどかしこい、ヤミナは小学生よりかしこくない
あれもこれもが、どこまでヴァイスマンの掌の上なのか、恐ろしいところです

362 ◆TApKvZWWCg:2025/05/27(火) 21:21:22 ID:NFxzmCzA0
>>359
【E-4/ブラックペンタゴン 3F北西ブロック 展示室/1日目・朝】

【D-4/ブラックペンタゴン 3F北西ブロック 展示室/1日目・朝】

座標ミスがありましたので修正します。
失礼いたしました。

363 ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:02:28 ID:Z7qmPaYM0
投下します

364無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:03:09 ID:Z7qmPaYM0
「神の名において――――」

冷たい風が吹き抜ける岩の尾根で、ドミニカ・マリノフスキは再び祈りを口にした。
髪が風にたなびく。その瞳は青空を映しているはずなのに、そこに広がっているのは、奇妙に滲んだ空だった。

見えない境界線を挟み、世界は別の物に分かたれていた。
地平は緩やかに湾曲し、空間は捩れる。花は溶けるように咲いては、意味もなく花弁が逆さに飛ぶ。
風景すべてが、現実の皮を剥がされて歪められていた。

「――――再び、貴女の信仰を問いに参りました……神の冒涜者よ」

ドミニカの足元に重力が集中する。
空間の歪みに抗うように、彼女は球状の重力場を展開しながら進み始めた。

すでに一度、敗北を喫した戦場。
少女が作り出す夢の世界が、いかに現実離れした破壊の領域であるかを彼女は知っている。
そしてその超力が、神の奇跡とは似て非なる、世界を改ざんする冒涜であるということを。
その醜悪さは以前と同じだ。いや、それ以上に悪化している。

しかし、引き返す気は微塵もなかった。
前回の敗北。己の無力さ。メアリーの力に及ばなかった事実。
それらすべてを噛み締めて、なお歩む。祈りと共に、彼女は再びこの悪夢に挑む。
この地に再び立つためにこそ祈りを捧げ、血を吐いて這い上がってきたのだ。

「これは……神の創り給うた世界ではない」

恐怖はない。
純粋なる怒り悲しみと共に拒絶を伝えるように前へ。
メアリーの領域に、真正面から踏み込むと、重力場が波打った。

その瞬間、空間が悲鳴を上げるように捩じれた。
ドミニカの重力場が、再び強大な世界に飲み込まれる。
前回と同じ現象だ。だが、それを恐れる心はもうない。

「――――審判を下しましょう。神罰の名のもとに!」

叫ぶ。
だが、圧倒的な超力の差により一方的に弾き飛ばされた。
それを、信仰心で埋めようとする姿は滑稽ですらある。

それでもドミニカは止まらない。
止まれない。止まってはならない。
彼女は両手を合わせ、重力場を再構築した。

「我、ここにあり――神への誓いを(コールヘヴン)!」

自らを導く祈りの言葉を口にする。
咆哮と共に、ドミニカの周囲に祈りの輪が瞬いた。
信仰を宿した重力が、再び少女の夢世界とぶつかり合う。

重力と無重力。
現実と夢。
光と闇。

その狭間に、ひとりの修道女が立ち続けていた。



365無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:03:29 ID:Z7qmPaYM0
岩肌を砕くように砂礫が跳ねる。
動き始めたメアリーの超力領域から逃れるべく駆けだしていたエネリットたちだったが。
突如、エネリットがその軌道を変えドミニカを追うように岩場を駆けていた。

「どうするつもりだ、エネリット!?」

その背を、数歩遅れてディビットが追う。
風を切る声に、前方を駆けながらエネリットが応じる。

「彼女を支援します――貴重な領域型を無駄死にせるのは惜しい」

ドミニカ・マリノフスキは貴重な領域型の超力者だ。
だが、その超力強度はメアリー・エバンスに遠く及ばない。
世界中を探しても、単独であのメアリーに正面から勝てる領域型などそういない。
単独で挑めば、まず間違いなく敗れるだろう。
少なくとも、事前のブリーフィングでは、そう結論づけられている。

「支援だと? どうやって?」

支援すると言うは易しでも行うは難しだ。
領域型同士の衝突に対して、外部からできることなどそうはない。

その問いにエネリットは突然立ち止まり、くるりと振り返る。
ディビットを見つめるその目には何か策があると言っているようであった。

「そのために、ディビットさんにご協力頂きたいことがあるのですが」
「言ってみろ」
「ディビットさんの超力を、一時的に僕に譲渡していただきたい」
「…………なんだと?」

一瞬、耳を疑った。
足を止めたディビットの顔に、露骨な困惑と怒気が浮かぶ。
だがエネリットはそれに気づきながらも構わず、簡潔に説明を重ねた。

「僕の超力には他人から借り受けた超力を、さらに他者へと間貸しする機能があります。
 これを使ってディビットさんの倍加の超力をシスター・ドミニカに貸し与えます」
「……つまり、俺の『4倍賭け』を使ってあの女の超力強度を補強する、と言う事か?」

足りないのなら補える手段を与えればいい。
察しよいディビットの言葉にエネリットは頷く。

「はい。もっとも、僕との信頼度次第で再現度は変わるので、倍率はかなり下がるでしょう。
 4倍どころか2倍にも届かない可能性は高い。それでも、ないよりは遥かにマシです」

ディビットの顔に、渋い色が浮かんだ。

「そのないよりもマシな手段のために、俺に丸腰になれと?」

氷るような冷ややかな声。
エネリットに超力を譲渡している間、ディビットは無防備になる。
それは、この戦場で裸同然で放り出されると同じ事だ。

「はい。その通りです」

一片の迷いもなく、エネリットは言い切った。
その躊躇いの無さにディビットは舌打ちをひとつ、苛立たしげに響かせた。

「……いいだろう。貸してやる。ただし、この貸しは高くつくぞ」
「ありがとうございます。それと、もう一つお願いがあるのですが」
「チッ……まだあるのか」

あれだけの無茶を要求しておいてまだ要求を続けようというエネリットに、ディビットの声には呆れを通り越して諦念すら滲んでいた。

「もしこの試みが成功すれば、一時的にメアリーちゃんの領域は打ち消されて無防備になります。
 だが、それは再度彼女が超力を張り直すまでのごく短い間でしかない」

つまり、その短い間にメアリーを仕留める必要があるという事だ。

「だが、奴は山の上で、距離がある。そう簡単に詰められる位置じゃない……下手をすれば、またあの異常空間のど真ん中で再起動だ」

そうなれば死は確実だ。
いずれにせよ近接を狙うのはリスクが高い。

「その通りです。だからこそ、領域が途切れたその瞬間を狙える遠距離攻撃の手段が欲しい」
「それを俺に用意しろと?」
「はい。方法はお任せします。僕はシスター・ドミニカに借り受けた超力を譲渡しに行かねばなりませんので、そちらをお願いできますか?」

ディビットは虚空を睨んだ。
超力のない状態で、他の受刑者と接触するだけでもかなりのリスクだ。
その状態で存在するかどうかも分からぬ遠距離攻撃の手段を探せというのか。
無茶ぶりにも、ほどがある。

「……クソッタレが」

悪態をついたディビットの眼光が、再び前方を捉える。
既に刑務開始から六時間が経過している。
4分の1を超えても恩赦Pは未だ得られていない。

「いいだろう…………やってやる」

ディビットはこの提案に命(チップ)を張る事を受け入れた。
どこかで賭けに出る必要があるなら、ここが張りどころだ。



366無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:04:24 ID:Z7qmPaYM0
黒く焦げた岩肌には、戦いの余波がくっきりと残されていた。
焼け焦げた地面には、幾筋もの亀裂が走り、蒸気のような熱がまだ残る。
その地に足を踏み入れた瞬間、空気が震え、肺が焼かれるような錯覚に襲われた。

再びそこに踏み入れのは、ドミニカ・マリノフスキ。
血に濡れた囚人服に身を包みながらも、彼女はなお清らかな祈りを口にする。

「神よ……どうか、我に今一度……審判の力を――!」

重力場が再び彼女の周囲に発生する。
それは彼女の信仰が形を取ったもの。
質量を持たぬはずの信念が、重力を捻じ曲げ球体を形成する。

メアリー・エバンスの領域は、既にこの地を飲み込むように広がっている。
生成されたばかりの重力球が、目に見えぬ何かにぶつかり、波紋のように揺れた。

「っ……ぐ……!」

視界が揺らぐ。
空間が裂けるように歪み、色彩が滲み、音が反転する。
この場所はもはや現実ではない。
否、現実そのものが、メアリーの夢によって塗り替えられようとしていた。
あらゆる物理法則が捻じ曲げられ、常識が砂糖菓子のように崩れていく。

空気が、笑う。
地面が、歌う。
世界が、彼女の信仰を試すように無邪気な声で囁く。

――「ねえ、ここでは、神さまなんていらないの!」

「神は、どこにあっても在す!! 誰の心にも……必ず!!」

その叫びと共に、ドミニカの重力場が爆ぜるように拡張される。
再びの祈り。
再びの挑戦。
だが――それはまたしても拒絶される。

領域が衝突する。
圧倒的な強度差で夢の領域が、重力場を押し戻す。
引力が緩み、ベクトルが狂い空間が螺旋のように回転する。
重力の渦が彼女自身を引き裂こうとし、ドミニカの体が引き裂かれそうなほど軋んだ。

「ぅあ、あああああああああああっ……!!」

その悲鳴は、祈りというにはあまりにも痛切だった。
信仰の力で拮抗できる時間は、もはやほんの一瞬。
その間に、身体の感覚が剥がれ、骨がきしむ音すら聞こえるような錯覚に陥る。

それでも、ドミニカは祈りを止めなかった。
一歩。たった一歩でいい。
正しき世界を、神の意志を、もう一度この手で示すために。

367無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:04:36 ID:Z7qmPaYM0
「神罰は……ここに在り……!」

重力場を押し上げ前方へ踏み込む。
しかし、地面は逆巻き、重力場は回転を始める。
自らの引力に巻き込まれ、歪んだ空間に絡め取られるようにして、彼女の身体は引き裂かれる寸前まで追い詰められる。

それでも進む。
泥に塗れ、血にまみれ、歯を食いしばりながら、体を前へ。
神の意志を、この手で届けるために。
泥と血にまみれ、震える膝でなお前へと進む姿は、信仰者というより殉教者だった。

――そのとき。

轟、と空間が震えた。
二つの世界が交差する、一瞬の均衡。
前回と同じ現象。対極の超力が刹那的に衝突し、中和を起こしかけた――だが。

その前に、ドミニカの重力場は限界を迎えた。

「ッ――!」

力が潰れる。
支えを失った身体が宙に浮かぶ。
逆巻く世界に飲まれ、彼女の身体は再び空へと放り出された。

精神力はなお燃え続けていたが、肉体の方は別だ。
繰り返される無謀な突撃によるものもあるが、ネイ・ローマンとの戦闘のダメージも安くはない。
ドミニカの体は既に限界を超えていた。

「く……っ!」

叫びも、祈りも、届くことはない。
重力の反転が解除され、彼女の体が無防備なまま、下方へと引き摺り下ろされていく。

だが――そのとき。

「シスター・ドミニカ!」

声が響いた。
少年のように若く、それでいて意志のこもった声音だった。
現れた彼は、空間の乱れから弾き飛ばされた彼女の体を受け止めた。

「ご無事ですか?」

誠実そうな顔をした青年だった。

「私はエネリット・サンス・ハルトナと申します。
 どうか、あなたの信仰の助けにならせてください」

静かにドミニカを支えながら、彼はそう言った。
彼の瞳は、迷いのない光を宿していた。
ドミニカの聖なる祈りに――合理と知略を以って、応えようとしていた。



368無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:04:58 ID:Z7qmPaYM0
朝の風が草原を撫で、朱に染まりつつある空気が静かに揺れる。
放送が終わってから、ジョニー・ハイドアウトとルメス=ヘインヴェラートの間にはしばしの沈黙が漂っていた。

便利屋ジョニーは無言のまま地面に腰を下ろしていた。
その傍らでは、怪盗ヘルメスが天を仰いだまま、目を細めて空を見つめている。

「……ドンの名が呼ばれたね」

ぽつりと、ルメスが言った。
ジョニーは短く銃口のような鼻を鳴らしてから、乾いた口調で返す。

「あのまま山から転げ落ちて死んだ、なんてオチなら笑えるが……まあ、あの怪物がそんなタマな訳ねぇか」

吐き捨てるように言ってから、ジョニーは肩を竦めた。

「……ま、誰がどう潰したかは、気にはなるな。まあ、生きていれば近いうちに会うことになるかもな」

発表された死者の名に、大海賊――ドン・エルグランドの名があった。
激突の末、岩山から落下した巨躯の海賊。だが、彼があの程度で死ぬとも思えない。
あれほどの怪物を殺した何者かがいるのなら、それこそが生き残った者によっての脅威だろう。

「それより、だ」

そう言って、ジョニーが立ち上がった。
東の山脈を仰ぎ見る。

「……気づいてるか? 東の空が妙だ」

ジョニーの言葉にルメスはゆっくりと頷いた。
その視線の先で、朝日が奇妙に歪んでいた。
山頂の光景は、現実にフィルターをかけたかのような違和感に満ちている。
世界の秩序そのものを歪ませる存在。そんなものは一つしか思い当たらない。

「うん。メアリー・エバンスが……目を覚ましたみたいね」

確信を込めた声で呟くルメス。

「それで、どうする? このまま無視してブラックペンタゴンに向かうって手もあるが」

依頼人の判断を仰ぐべくジョニーが問いかける。

「行こう。メアリーのところへ」

ルメスの返答に迷いはなかった。
その決断に、ジョニーも異論を挟まなかった。

メアリーへの対処を優先する。
彼らの方針は決まった。
だが――。

369無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:05:26 ID:Z7qmPaYM0
「……その前に、来客みたいだな」

ジョニーが呟くように言ったその瞬間。
岩陰の向こう。朝日を背負いながら、何者かがこちらに向かって疾駆してくる姿が見えた。
その足取りには焦燥と確信が混じっていた。
どうやら向こうも、こちらを認識しているようだ。

「…………知ってる顔だな」

ジョニーが銃頭を険しくする。
ルメスもまた、目を細めてその姿を見つめていた。

「ええ。私も知ってるくらいの大物ね」

イタリア最大のカモッラ、バレッジファミリーの金庫番にして欧州でも指折りの裏カジノ『クリステラ』のオーナー。
そして、血のヴェネチア事件で抗争をたった一人で終わらせた怪物として知られている。
ルメスとジョニーが構える中、近づいてきたその男――ディビット・マルティーニは、涼しい顔で口を開いた。

「便利屋に、怪盗か。いい組み合わせだな」

直接の面識はないがディビットもこの2人のことは把握していた。
特にルメスはキングが殺害対象として挙げた一人だ。
キング討伐の同盟相手候補の一人だが今はそれどころではない。

「よう。大将(オーナー)。まさかノコノコ顔を出してくれるとはな。どういう要件だ?」

ジョニーの声音には皮肉と牽制が滲む。
このタイミングで接触を試みる理由。恩赦狙いであれば、黙って襲えばいいだけの話だ。
なのに、わざわざ正面から声をかけてくるとは、何が狙いなのか。

警戒を強める二人。
だが、実の所ディビットも内心穏やかではない。

現在、ディビットはエネリットに超力を貸出しており超力の使えない状態である。
それを看過されれば交渉が不利になる。
それどころか相手に襲い掛かられては目も当てられない。
故に、求められる立ち回りは看過されぬような慎重さか、それともあえて正直に打ち明ける誠実さか。

「人手を探していてな。お前らが使えそうだったから、声をかけさせてもらった」

ディビットが選択したのは自分の看板を最大限に利用した強気の交渉だった。
単独で武闘派組織を怪物させた怪物としてディビットの名は知られている。
あれは数年に1度の『ジャックポット』の産物であり、今はそもそも超力自体が使えない。
戦闘になれば不利はこちらであろうとも、裏社会での交渉は虚勢こそが通貨だ。弱みは交渉の死である。

「使えそうと来たか。随分と横暴な話だな。こちらも急ぎなんだが」

急ぐようなその言葉にディビットが何かを察したように目を細める。
この状況の置ける火急の要件と言えば思い当たるのは一つだ。

「急ぎってのは……後ろのアレの事か?」

彼は親指で、振り返ることなく東の空を指した。
そこには――空間が歪み、陽光すらねじれて見える『異常』が浮かんでいる。

「ちょうどいい。俺の要件も、まさにそれだ」

ディビットは一歩前に出て続けた。

「――――メアリー・エバンスを仕留める。そのためにお前らには手を貸してもらう」



370無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:05:43 ID:Z7qmPaYM0
「♪わたしの ゆめのなかでは――」

メアリー・エバンスは、微笑んでいた。

地形は崩れ、重力は歪み、空はひっくり返っている。
岩肌は空へと舞い、木々は逆さに根を張り、風は火花をまき散らしながら鳴いていた。
だが彼女は、それらをただ純粋に美しいとすら思っていた。
アビスの特別独房から外の世界に解き放たれた彼女によって新鮮な風景だった。

「♪そらはとっても あおくて ふかくて……」

無重力の世界を泳ぎながら、彼女は世界を編み直していた。

否、彼女自身が世界だった。
彼女が息をすれば風が乱れ、まばたきをすれば空がねじれた。
彼女の中で夢と定義されたものが、外界をそうあるべき世界に塗り替えてゆく。

「♪お花も うたってくれるの。お星さまも わらってくれるの」

崖の縁からこぼれた砂利が、逆に昇っていく。
メアリーが首を傾げると、それに応じて空がふわりと笑うようだ。
重力の反転。時間の遅延。物質の再構成。空間の非ユークリッド化。
これが彼女にとっての現実である。

けれど。

「……さっきからね、“ざらざら”がするの」

メアリーは、胸のあたりをそっと抱きしめた。
世界の端で、何かが何度も衝突を繰り返すような感覚があった。
彼女にとっては羽虫が触れたようなもの。
痛みも脅威もないが、少し不快で、鬱陶しい。

「なんでじゃまするの? ……こんなにステキなところなのに」

彼女の唇が、小さく尖る。
純粋な不満と、少しの寂しさが入り混じるように。

メアリーは無重力の中くるりとまわり、裸足で大地に触れる。
だが、地面はもはや地面ではない。
柔らかい本のページのようにめくれ、花が咲き、笑い声が漏れ出す。

「わたしのこと、きらいなの?」

――誰にも届かぬ呟き。

それは祈りではない。
けれど、祈りのように切実だった。

「わたしは、ただ――すてきな夢を見たいだけなのに」

メアリーの視線の先には、誰もいない。
彼女はどこまでも無垢で、孤独で、それ故に無敵だった。

「もし、じゃまをするなら――」

少女はにっこりと笑った。

「――その人たちも、夢のなかに入れてあげなきゃね」

その一言とともに、空間が震えた。
歪みが拡張し、夢の領域がさらに浸食を広げる。
彼女の楽しいお茶会に、否応なく現実が巻き込まれていく。

けれどそこに――一片の悪意もなかった。
ただ、彼女は世界を可愛く、楽しく、優しくしたいだけ。
ただ、それが誰かを傷つけてしまうだけ。

それが、メアリー・エバンスという無邪気な脅威だった。



371無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:06:35 ID:Z7qmPaYM0
「あなたの信仰の手助けをさせてください。
 私の超力であれば、あなたの力になれるはずです」

まるで天啓のように現れた少年エネリットの言葉には、誠意と敬意が滲んでいた。
しかし、ドミニカ・マリノフスキはその提案を断るように静かに首を横に振る。

「……そのご厚意、感謝いたします。けれど、お力添えは不要です」

端正な声音だった。
拒絶は明確だが、感情ではなく、祈りによって整えられた規律としての拒絶だった。
そんな拒絶の言葉を受けても、エネリットはそのまま視線を外さずに言葉を重ねた。

「なぜですか? 信仰とは、他者の助力すら拒むものなのでしょうか?」
「いいえ。汝、隣人を愛せよ。神は、人が互いに支え合うことを望まれておられる。
 けれど。これは神が与えたもう試練なのです。試練は己が信仰心で乗り越えねば、意味がありません」

その言葉に、エネリットはわずかに息を呑む。
拒絶の響きの中に、殉教にも似た覚悟が垣間見えた。

「……これが、神の試練であると?」
「はい。相手は神の創りし世界の秩序を塗り替える破壊者。神の敵に他なりません。
 それを討つことこそが、私に課された使命なのです」

ドミニカの声音には、凛とした強い信念があった。
それが彼女はそれが己に課せられた役割であると信じて疑っていないようである。

「無礼を承知で申し上げますが……先ほどから状況は芳しくないように見える。
 このまま続けてもあなたは敗北するでしょう。それでも構わないのですか?」

エネリットは静かに、しかし確かな口調で言った。
ドミニカが助力を受け入れるよう誘導するように。

「構いません」

迷いなく断言する。
そのあまりの潔さに、流石のエネリットの表情がわずかに動いた。

「たとえ私が敗れたとしても、私以外にもあの冒涜者を誅さんと動いてくださっている方がいます。
 だからこそ、私は何の憂いもなく使命に殉じられるのです」
「ですが、あなたが敗れるということは、あなたの信仰が破れるということ。
 この世界が神の否定者を赦したということになりなるのではありませんか?
 それは神が否定に繋がるということになるのでは?」

エネリットの問いに、敬虔な信徒は感情を露にするでもなく静かに首を振る。

「私が敗れるならば、それは私の信仰が未熟であったというだけのこと。
 それが神を否定する証にはなりません。神は私などより遥かに高き存在。
 私が倒れようとも、神は常に在すのです」
「それでは、命は惜しくはないと?」
「命など惜しくありません。神が望まれるのであればこの命、喜んで捧げましょう」

一切の迷いのない声音。
そこに宿るのは、諦観でも絶望でもない。
清らかな殉教者としての覚悟だった。

「ええ。むしろ、それこそが証となりましょう。
 この身が滅びても、私の祈りは消えません。
 神の御心に届くように、私は生き、そして死ぬのです」

その言葉はあまりにも澄んでいた。
聴く者に痛みすら与えるほどに、透徹していた。

「なぜそこまで、と言う顔ですね。命を投げ出すほどの信仰を理解できませんか?」

エネリットの表情を読み取り、ドミニカは教えを説く修道女の微笑を浮かべる。

「……正直に申し上げればそうです。信仰とは死後の恐怖を和らげるためにあると理解しています。
 それに殉じて死に向かうと言うのは、矛盾のように感じられてしまう」
「信仰は恐怖管理理論の一つであると言う考えですね。それもまた一つの信仰に対する考え方でしょう。
 このような状態でなれば共に信仰につて語らい、あなたの信ずるものを聞かせていただきたい所なのですが、残念です」

小さく息を吐き、ドミニカは空を仰ぐ。

「――十五歳の時、神の啓示を受けました。
 神は、こう仰ったのです」

『君の力は、世に蔓延る悪や神の敵を殲滅するためにある』

「その瞬間、私は理解しました。
 この破壊の力には意味がある。
 神が私に与えてくださった使命があるのだと」

彼女は空を見上げる。
この世界を見渡し、そしてなお、見据えていた。

「この世界には、神を騙る者がいます。信仰を捻じ曲げ、神の名を騙る邪悪がいます。
 私は、そのような偽りを赦せない。それらに私は鉄槌を下す。
 それこそが、私の信仰の形。私に託された、『審判』という祈りです」

エネリットは何も言わなかった。
この少女の中にあるのは、狂気でも献身でもない。
ただ、純然たる信仰だった。

372無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:07:11 ID:Z7qmPaYM0
「……その在り方に、恐れはないのですか?」
「あります」

即答だった。
そして、意外な答えだった。

「私は、ずっと恐ろしかったのです。
 神が私に与えたもうた力(ネオス)が、ただの破壊でしかなかったことに。
 いくら祈っても、神が黙して応えてくださらないことに」
「では、なぜ……それでも信じられるのですか?」
「答えは、得られていません。ですが、祈りとはそういう物。
 答えを得るためではなく、答えを信ずるために行うものなのです」

祈りの本質。
祈りとは、自らの信仰の為に捧げられるもの。

「そして、信仰とは恐れを忘れるためのものではない。
 信仰とは恐れを抱えても踏み出せる『一歩』を与えるもの」

信仰とは、先の見えぬ暗闇の中で踏み出す勇気を与えるもの。

「それに……あの言葉だけは、胸の奥にずっと残っているのです。神が私に語られた、あの声を。
 あの言葉が私を救ったのは紛れもない事実。
 だから私は――それを信じたいのです。私を救ってくださったあの言葉を」

ドミニカは、自らの両手を静かに見下ろす。
血に濡れ、震えるその掌に、まだ届いていない何かを探すように。

そして、その掌を合わせる。
神にささげる祈りのために。

「この戦いは、私自身の祈り。
 この身を削り、血を流し、命を賭けて。
 ようやく――神に届く気がするのです」

しばしの静寂が流れる。
合理主義のエネリットには理解できない、合理を超えたものがこの修道女の中には確かにあった。

魔女の鉄槌。異端の虐殺者。
過ちのような道を重ねてきた聖女。
だが、それでもエネリットは、その祈りを否定することはできなかった。
返す言葉を失ったエネリットを見てドミニカがにこやかに笑い、問いかけた。

「エネリット様……それでは、お聞かせください。あなたは、私にどのような役割をお求めなのでしょうか?」

エネリットの表情が、初めて明確な動揺を見せた。
これは、ただの問いかけではない。
その瞳は、これまで続けてきたドミニカの信仰を助けたいというエネリットの建前を見透かしていた。

侮っていたわけではないが、真意を見透かされた事は驚きに値した。
それに応じるように、エネリットは初めて仮面を脱ぎ捨てたような声で、語る。

「あなたには、あの領域を打ち倒してほしい。それは偽らざる僕の本心です。
 ですが、これはあなたの祈りのためではなく、僕自身の目的ために必要なことだ。
 だから――――そのためにあなたの力を利用したい」

耳障りのいいお為ごかしを止めて、言葉を飾らず、ただまっすぐに目的を打ち明ける。

「それが、あなたの祈りなのですね」
「はい。僕一人では届けられぬこの願いをどうかあなたに叶えて欲しい」

ドミニカは、目を閉じて静かに頷いた。
信仰とは、己だけのものではない。
願い、想い、祈り――それらすべてが、神に届くべきものなのだと、彼女は信じていた。
それを届けられるのが己だけだというのなら、彼女にその願いを拒む理由はない。

「受けたまわりました。あなたの祈りを、私が神に届けてまいりましょう」
「はい。僕の祈りを、あなたに託します。シスター」

その言葉を合図に、エネリットは静かに膝をついた。
静かに、誓いを立てるように掌を差し出す。
ドミニカは差し伸べられたその掌にそっとふれる。

ドミニカは、血と泥に染まった姿でありながら、聖女のごとき荘厳さを纏っていた。
朝の光を背負った二人の姿は、一枚の宗教画のようだった。

「シスター・ドミニカ。あなたの信仰心は本物だ。その信仰に、敬意を」
「では、祈ってください。あなたも。この祈りが――――神に届くように」

重なり合った掌から、やわらかな光が流れ込む。
それは祝福のようであり、契約のようでもあった。

――神への誓いと、信頼の取引が、この一瞬に交わされたのだった。



373無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:07:40 ID:Z7qmPaYM0
「――――メアリー・エバンスを仕留める。そのためにお前らには手を貸してもらう」

ディビットの言葉が落ちた瞬間、場に重苦しい沈黙が広がった。
その中で、ジョニーの鉄製の指がコツ、コツと乾いた音を立てて鉄の頭を叩く。

「――で? 具体的には、どうする気だ?」

ジョニーが低い声で問うた。
陽光の中、鉄錆にきらめくその異形の頭部が、わずかに軋む音を立てて揺れる。

「こちらの用意した領域型超力者同士をぶつけて一時的に奴の超力を無効化する。
 それが復帰する前に奴を仕留める。その為の遠距離攻撃の手段が必要だ」

ディビットが簡潔にメアリー討伐の作戦を語る。

「つまり、オレらにその手段を求めてるって事か?」

ジョニーからの確認するような問いに、ディビットが頷きを返す。
考え込むように便利屋がふぅんと唸る。

「距離は?」
「500と少しだ」
「500か……ま、出来なくはねぇな」

その返答と共に、ジョニーが左腕を上げる。
軋みを伴って腕の構造が変化していく。
腕全体が砲身のように太く、重々しく再構築されていく。

「オレの超力なら、体内に組み込んだ金属を再構成して砲台を造ることはできる。
 500メートル程度の距離なら弾丸を届かせられるだろうぜ。この銃頭は伊達じゃねぇさ」

平坦な声で語るジョニー。
誇示でも自慢でもない。ただ、できるという事実だけを淡々と述べていた。

「なら話は早い。すぐに準備を――」

ディビットが言いかけたその時、ジョニーが鉄の首をゆっくり振った。

「――気が早ぇな、大将。オレは『できる』とは言ったが、『やる』とは言ってねぇ」
「……なんだと?」
「オレは今、雇われの身でね。やるかやらないかはオレじゃなく依頼人に聞いてくれ」

そう言って、ジョニーは視線を自らの雇い主であるルメスへと送る。
しばし沈黙ののち、ルメス=ヘインヴェラートは静かに口を開いた。

「――――――私は反対」

凛とした声。ためらいのない拒絶だった。
射抜くようなディビットの視線が、真っ直ぐにルメスに向けられる。

「一応。理由を聞いておこう」
「彼女を殺すなんて、そんな解決方法は間違ってると思うから」

ルメスは真っ直ぐに言い切る。

「メアリー・エバンスは、ただ制御できない力を持って生まれた、それだけの子よ。
 そんな相手を殺して解決するなんて間違っている」
「その『それだけ』で、何人死ぬだろうな」

ディビットの言葉は冷酷だった。
その眼差しには、現実主義者の鋭さと、殺意に似た光が宿っている。

「そもそも、拒否権があると思うか?」

武力行使に出て無理やり従わせることもできるのだと、見せつけるようにディビットが腕を鳴らす。
もちろんハッタリだが、彼の看板はそのハッタリに実態を与える。
カモッラを単独でつぶしたという圧は十分に機能していた。

そこに含まれる鋭い殺意に言葉を失いかけたルメスの前に、ジョニーが一歩出る。
だが、守るように立った彼の視線もまた、厳しかった。

374無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:08:14 ID:Z7qmPaYM0
「構わねぇぜ。好きに決めな。オレは便利屋で、今の依頼人はお前だ。
 お前が『戦う』と言うなら従う。『殺す』と言うなら従おう。
 だが、考えなしの無謀には従えないぜ。答えを聞かせてくれ」

ここでディビットと戦うのか、それともメアリーを殺すのか。
便利屋は依頼主に方針を示せと言っていた。
ルメスの表情が、一瞬だけわずかに揺れる。
それでも、彼女ははっきりと答えた。

「――私は、彼女を救いたい」

迷いのない声だった。
義賊として生きる者の、信念が宿った一言だった。

「くだらんな」

理想主義者の夢語りだと、ディビットが一蹴する。

「現実を見ろ。あれは生きているだけで他者を殺す存在だ。
 その領域は拡大し続けている。このまま放置すれば誰にも止められなくなるだろうよ。
 今は岩山一帯を包むだけかもしれんが、時間が経てばこの島全体を喰い尽くすだろう。
 そうなれば刑務作業どころの話ではない。アレはもはや排除するしかない災厄だ――違うか?」

その言葉にルメスは目を伏せ、一拍置いてから言う。

「それは……否定しないわ」

今のメアリーはそこに居るだけで人を殺す、一つの災厄だ。
それは否定しようのない事実である。
ルメスもそれは認めるしかない。

「なら、どうする? 奴が被害を拡大させるのを指をくわえてみているつもりか?」
「そんな事はしない」

それは彼女にとって一番嫌いな見て見ぬふりをするだけの無責任な責任放棄だ。
目の前の不幸や理不尽を許せないから彼女は怪盗をしているのだから。

「なら、つまらん夢物語は捨てて現実を見るんだな。
 それとも別の解決策を提示できるとでもいうのか?」

厳しい口調でディビットが追及を続ける。
押しつぶされるような重々し沈黙の後、ルメスが口を開いた。

「解決策なら――――――ある」

予想外の返答にディビットが眉を吊り上げ目を見開く。
ジョニーも、まともな顔があったなら同じ表情をしていただろう。
あの岩山でメアリーの超力に巻き込まれかけた時から、ルメスはずっと考えてきた。

「彼女の脅威は、常時発動型の領域型超力によるもの。つまり、最大の問題は自分の意思で止められないこと。
 なら、彼女が制御を覚えて自分の超力を切ることが出来るようになればいい。そうでしょう?」
 
それは放置でも殺害でもない、第三の選択肢。
それを出来ないと決めつけて、誰も彼女に教えてあげなかっただけだ。
彼女が自分の意思で超力をオフにできるようになれば、この脅威は解決できる。

「確かに、理屈が通ったいい案だな。不可能であるという点に目をつぶれば。
 どうやって超力制御の方法を叩きこむって言うんだ?」

不可能を唱える者を嘲笑うような声。
不可能に挑む者は怯むことなく答える。

「私が彼女に直接やり方を伝える」
「…………何だと?」

場に、重い沈黙が落ちた。
ジョニーが腕を組み、ディビットが眉間に深い皺を刻む。

「俺の話を聞いていたか? あの少女には近づけない」
「安全に近づく方法(ルート)があればいいんでしょう?」

そう、ルメスは言った。
その目には、もはや迷いはなかった。
ルメスが静かに、傍らのジョニーに向き直る。

375無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:08:38 ID:Z7qmPaYM0
「ねえ、ジョニー。あなたの超力で投石機(カタパルト)は造れる?」
「……できなくはねぇが……おいおい、まさか」
「ええ。その投石する『弾丸』に、私が潜り込む。あなたの超力で――――私を彼女の元まで送り届けて」

あまりの無茶な作戦に、ジョニーの首が軋む音を立てた。

「メアリーの元に辿り着いて、そこで力の制御方法を直接伝える。
 無茶かもしれないけれど、彼女を殺さず事態を終わらせるにはそれしかないわ」

ルメスの語る策を聞き、ディビットがこれ以上ないほど眉間の皺を深くして唸る。

「……正気か?」

成功率は限りなく低い上に、失敗すればまず助からない。
それはもはや博打ですらない。
とても正気とは思えない作戦だった。

「正気かどうかはしらないけど、本気よ。
 私は、彼女を救いたい。無力な力で傷つけてしまう者が、排除されるしかない世界だなんて……そんなの、あまりに哀しすぎる」

その解答には揺るがぬ覚悟があった。
それこそが彼女の譲れぬ矜持。

「そもそも、常時展開型にスイッチを伝授するなんてできると思うのか?」
「すぐにできるとは思わないわ、それでもやり方を伝えればいつかできるようになるかもしれない。超力ってそういうものでしょう?」
「悠長な話だな」
「それでも、これしかない」

これしかないというよりは、これでなければ従わないという断言だ。
応じないのでれば戦闘も辞さない覚悟のようだ。

沈黙が落ちた。
しばらく視線を落としていたジョニーが、ぽつりと呟く。

「……お前、バカだな」

ぽつりと呟いて、ジョニーは背を向けた。
だが――

「……嫌いじゃねぇよ、そういうバカは。
 いいぜ。やってやろうじゃねぇか。お前のその無茶、この便利屋ジョニーが叶えてやるよ。怪盗(チェシャキャット)」
「ありがとう、便利屋(ランナー)さん」

ルメスがわずかに微笑んだ。

「あんたもそれで構わないよな? 大将」

ジョニーの問いに、ディビットはしばらく無言だった。
深い皺を眉間に刻み、唇を結ぶ。

この作戦はあまりにも非合理だ。
成功率は著しく低く、リスクも高い。
単純に殺害を狙った方が安全かつ確実だ。
成功した所で相手を殺せるわけではないというのもポイント狙いのディビットとしては痛い。

しかし、ここでこの案を否定すれば交渉は決裂。
本作戦において彼らの協力は得られないだろう。

超力がない今のディビットには暴力と言う交渉手段(カード)も切れない。
今のディビットは強気のレイズはしても、ショーダウンは出来ないポーカープレイヤーだ。

エネリット側の作戦が上手くいけば、それが作戦開始の合図となる。
そのタイミングを示し合わせられるわけではない。
その時を向かえて、最悪は何もできない事だ。

時間はあまりない。
それまでに次の手段を用意できるとは思えない。
蹴った所で次善策がある訳ではない。

「……いいだろう。乗ってやる」

そう答えた。
作戦開始時の瞬間は迫っている。
最善でなくとも、ここで彼らの手段に乗るしかなかなかった。



376無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:09:23 ID:Z7qmPaYM0
朝日の中、両手を合わせて清廉なる祈りを捧げる修道女の姿があった。
ドミニカ・マリノフスキ。
神罰を執行する者、魔女の鉄槌。

彼女の掌には、エネリット・サンス・ハルトナから受け取った『祈り』が宿っていた。
それは、ディビット・マルティーニが貸し与えた超力『4倍賭け』の力の一端。
奇跡を起こすために、投じられた賭けだった。

ディビットからエネリットに譲渡された超力の再現度は40%。
1の力に3の加算を行い4倍とする能力。理論上、40%で再現できるのは約2.2倍程度。
さらにそこから、ドミニカの信頼度による伝達補正が差し引かれる。

最終的に運用される倍率は微々たるものになるだろう。
少なくとも作戦の立案者であるエネリットはそう予測していた。

「行ってまいります」

迷い無き静かな言葉と共に、大地が裂けるような轟音が走る。
ドミニカ・マリノフスキの身体が、重力場に抱かれて宙へふわりと舞い上がった。
重力の楕円が彼女を抱え、天を撃つ祈りの矢のように加速していく。

彼女はもはや、ただの重力場を操る修道女ではなかった。
信仰を背負った祈りの導弾(グレイスブレット)。
神罰の鉄槌――マレウス・マレフィカールム。

信仰に命を賭した祈りが、世界を貫く弾丸となった。
球状の重力場が黒い尾を引きながら、メアリー・エバンスの世界へ突撃する。

衝突。

いや、それは衝突という言葉では足りない。
重力と無重力。祈りと夢。神の秩序と少女の幻想。
世界と世界が、真正面から激突したような衝撃があった。

それは幾度目となる突撃か。
巡礼のように繰り返される挑戦。
怠けず、驕らず、休まず、諦めず。
日々のように祈りを重ねる。

遥か高く、異なる空を見上げながら。
血に濡れた唇で、静かに祈りを捧げる。

「――我らの父よ、御名を崇めさせたまえ。
 御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」

壮絶な地獄ような世界の中で。
目を閉じ、嫋やかに微笑む。

「神の名のもとに――この悪夢を、退けん」

その瞬間、ドミニカの全身に激痛が走った。
眼球の毛細血管が破裂し、血涙と共に視界が血に染まる。
喰いしばった奥歯が砕け、口内に鉄の味が広がった。

命を削るような壮絶な祈り。
それでも彼女は、なおも祈り続ける
ドミニカは、信じていた。

信仰とは、何かを信じ切ること。
誰よりも強く、誰よりも真っ直ぐに。
その行為において、彼女の右に出る者はいない。

だからこそ、ドミニカはエネリットの手を、100%の信頼で握った。
疑いも逡巡もなく、ただひたすらに純粋な心で他者の『祈り』を受け入れた。

その信じる心こそが、奇跡を呼び込む。

その信頼が超力を伝え。
ドミニカの祈りと信仰により補われた超力強度が、エネリットに託された祈りによって倍化する。
それは、新世界の寵児メアリー・エバンスに届きうる、一つの奇跡であった。

377無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:09:37 ID:Z7qmPaYM0
メアリー・エバンスの領域が軋む。
無垢で、無邪気で、無自覚ゆえに恐るべき支配空間が、初めて外部からの抗いに遭った。

それは、彼女の世界にとっての異物。
全てを拒絶する世界の支配者に、かつて一度も経験したことのない、拒絶される恐怖を齎したのだ。

ドミニカの重力場が空間の中心から放射状に波紋を生み出す。
空気がねじれ、花々が裏返り、空の境界が裂ける。
無垢に歪んだ一つの世界が、人間の祈りに押し返されていた。

「神よ……御心のままに、この祈りを以て――正しき秩序を!」

ドミニカが両手を天へと突き上げる。
血に塗れ、焼け、ひび割れたその掌から、祈りが放たれた。
質量を持たぬ、祈りの凝縮。信仰の結晶。

その意志が、メアリーの世界に届いた瞬間――――空が、砕けた。

世界が爆ぜる。
半径500メートルを超える長大な領域が、中心から花弁のように裂けて弾け飛ぶ。

衝撃が世界を打つ。
空間が断裂し、空気が爆ぜ、音が反転する。
現実と夢の接点が、強引に終わりを迎える。

そして、同時に。
ドミニカの重力場もまた悲鳴を上げるように崩壊を始めていた。
相殺と共倒れの末に祈りと夢の拮抗は終わりを迎える。

「……ああ……」

彼女の声は、まるで子どもの寝息のように穏やかだった。
重力場による支えを失った身体が、当たり前の重力に引かれて落ちていく。
そして、そのまま山の斜面へと向かって落下する。

だが、その表情には悔いはなかった。
むしろ、微かな救いを得たような笑みがあった。

血に染まった唇が、静かに囁く。

「……これでようやく……神に届いた、気がします……」

落ちていく身体。
だがその魂は、どこまでも澄みわたっていた。

誰にも看取られず、誰にも惜しまれず。
ただ、自らが信じる神のために。
ドミニカ・マリノフスキは殉教者として、この地に祈りを捧げ、命を果たした。

空は高く、風は静かだった。

やがて誰かが、この一撃を目撃するだろう。
少女の世界が、一時だけ沈黙した事実を。
そしてそれは、次なる一手の起点となる。

――この瞬間、この神無き地に、確かに神の御業が下された。

【ドミニカ・マリノフスキ 死亡】



378無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:10:08 ID:Z7qmPaYM0
ジョニー・ハイドアウトの肉体が、軋む音と共に変形していく。

その鋼鉄の体は、まるで大砲のように上体全体を張り出し、下半身は屈強な台座のごとく地面に根を張る。
膝下の装甲が開き、内部のパーツが複雑に展開。足場を固定するように四本の支柱が地面へと突き刺さる。
上半身は回転しながら重厚なフレームを再構成し、肩から伸びた鉄骨が、巨大な腕状のアームと連動して弓のような弧を描き出した。

それはもはや『人間』の形をしていなかった。

投石機(カタパルト)。
兵器として設計されたかのような、その異形の『道具』がそこに完成していた。

「久々のフル改造だ、腰をいわさねぇようにしねぇとな」

ジョニーが唸るように言いながら、変形を完了させる。
その間、ディビット・マルティーニは射出用の弾丸となる石を探していた。
投擲重量の関係上、サイズは出来る限り抑えたいが、ルメスが潜れる大きさである事が最低条件だ。

数分の探索の末、見つけたのは岩陰に転がる一つの礫岩。
恐らく、岩山が戦闘の余波で崩れたの一部だろう。
直径はおよそ30cm、表面は粗く不規則だが均質な無機物でできている。

「どうだ、いけるか?」

ディビットの問いに、ルメス=ヘインヴェラートはコクンと頷く。

「この大きさなら体を折りたためばギリギリだけどいける」

そう言って彼女は、ゆっくりと指先をその岩へと伸ばした。
次の瞬間、彼女の指先がトプンと石へと吸い込まれるように沈む。

それはまるで水面に指を差し入れるような滑らかさ。
無機物の表面が波打つように揺らぎ、彼女の手、腕、肩、胴体と、順を追って呑み込まれていく。
まるで雑技団のショーでも見ているような光景だった。

完全にルメスが石に潜り込むと最後に呼吸用に口だけを出す。
内部には確かに人ひとり分の意識と覚悟が宿っているとは思えないほどに、その岩はただの石と見分けがつかなかった。
ディビットがその石を拾い、ジョニーの射出アームへと慎重に乗せる。

そのままジョニーは、弦のような鉄線を引き締め、照準を調整する。
ディビットはやや後方で待機し、山頂を眺めエネリットからの合図を待つ。

ふと、射出直前の静寂の中で。
ジョニーは鉄の弓を引き絞りながら、ぼそりと口を開いた。

「……ルメス」
「なに?」

珍しく名前を呼ばれた。
石の奥から、かすかに声が返る。

「いざって時は――引けよ。誰かを助けようとして自分が死んじまうなんて、冗談にもならねぇ」

その声色には、鉄ではなく人そしての温度があった。
しばし沈黙があったが、やがて石の中からルメスの声が返る。

「心配ありがとう。でも、大丈夫よ。怪盗ヘルメスを舐めないでよね。引き際は心得てるわ。
 失敗したとしてもその時は後悔しながら逃げ出すだけよ」
「――あぁ、信じてるさ」

だからこそ心配なのだが、それは口にしなかった。

「まだ報酬をいただいちゃいねぇからな、ちゃんとおっぱい揉ませてもらうからな!」
「まだ言う?」

岩と投石器が互いに冗談めかして笑う。
それを最後に、ルメスも口を引っ込め、鉄の兵器は僅かに弓を引いた。

379無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:10:30 ID:Z7qmPaYM0
その瞬間だった。

「――――来たぞッ!! 合図だ!!」

ディビットが叫んだ。
遠方の岩場には、脱ぎ捨てた囚人服を長い髪の毛で振るうエネリットの姿があった。

「撃て――――――!」

ディビットの叫びと共に――
ジョニーの腕が、空を裂くように振り抜かれた。

「ッ――――――――――――行けぇえええええッ!!」

重圧の唸りと共に、石が放たれた。
風を切り、空を翔け、流星の如く蒼穹を斬る。

石に宿るは怪盗ヘルメス。
ギリシャ神話の神に名を借りるならば、それは伝令の神であり、救済の使者であり、交渉の神。
言葉を、想いを届けるために、ルメス=ヘインヴェラートは風の翼を得て矢として空を翔ける。

その軌道はぶれることなく美しい弧を描いた。
そして岩山を砕きながら、弾丸はめり込むように『着地』した。
弾丸の中に溶け込むように身を潜めていたルメスはゆっくりと岩の中から飛び出す。

「……っはあ……!」

呼吸を整えながら辺りを見渡す。
空気が肺に流れ込み、身体の感覚が現実へと引き戻される。

そこは、岩山の一角だった。
射出された石は、メアリー・エバンスのに直撃せぬよう僅かに逸れた位置に正確に着弾していた。

完璧な仕事だ。
便利屋の技前に感嘆を漏らす。

ねじれた空もなければ、異常な重力もない。
この瞬間、超力によって歪められた夢の世界――メアリーの領域は、完全に破綻していた。

そして、破壊された世界の中心に、彼女はいた。
胎児のような姿勢で地に伏せる夢を砕かれた少女。

前段階は成功した。
ルメスの賭けはここがらが勝負である。



380無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:10:45 ID:Z7qmPaYM0
「……さて、こっちは仕事終いってわけだ」

ジョニーは軋む体をゆっくりと元に戻していく。
金属が鳴り、骨のように変形し、兵器は再び銃頭の便利屋へと姿を戻す。
やがて静かに立ち上がり、無言で岩の道を歩き出した。

「どこへ行く?」

重々しい音を立てて一歩を踏み出したその背に、ディビットが問う。

「決まってんだろ」

振り返ることなく、ジョニーは言う。

「落とした弾の行方を、見届けにいくんだよ」

その声は、ひどく静かで、ひどく優しかった。

「……失敗すれば、メアリーが再起動する。あの範囲に巻き来れればお前も死ぬぞ」

ディビットの忠告に、ジョニーは歩みを止めることなく応じた。

「……便利屋ってのはな。請けた仕事は、最後まで見届けるのが筋なんだよ」

鉄の背が、朝焼けの中へと遠ざかっていく。
ハードボイルドな背中に、ひときわ冷たい風が吹き抜けた。
この瞬間、希望と死は同じ弾丸に乗って空を翔けていた。

それが、奇跡となるか。終焉となるか。
それこそ神のみぞ、知るだけだろう。

【F-5/岩山麓の草原/一日目・朝】
【ジョニー・ハイドアウト】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.受けた依頼は必ず果たす
1.怪盗(チェシャキャット)の結果を確認する
2.脱獄王とはまた面倒なことに……
3.メカーニカを探す。見つけたらローマンとの取引内容も話す。
4.夜上神一郎への強い不信感と敵意。
※ネイ・ローマンと情報交換しました。

【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康、超力使用不可
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
0.エネリットとの合流
1.恩赦Pを獲得してタバコを買いたい
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める
※『エネリット・サンス・ハルトナ』に超力を【献上】しているため、『4倍賭け』は使用不可能です。



381無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:11:21 ID:Z7qmPaYM0
少女は岩の窪みにうずくまり、砂金のように美しい金髪を振り乱しながら、喘ぐように痙攣していた。
まるで、陸に打ち上げられた魚のように。
焦点の合わぬ瞳が、虚空を彷徨う。

かつて世界を歪ませていた異常な力は消え、彼女の身体は現実の重みによって地面に沈んでいた。
彼女にとってはこの現実こそが歪みの世界である。

その傍に、ひとりの少女が静かに歩み寄る。
怪盗ヘルメス。足音すら最小限に抑えながら、岩場の冷気に身を沈めるように膝をついた。

「……やあ、メアリー。こんにちは」

声は優しく、けれど芯のある響きだった。
返事はない。だが、それでいい。
これは応答を求めるための言葉ではない。伝えるための言葉なのだから。

「驚かせてしまったよね。突然飛び込んできて、ごめんね」

ルメスは微笑を浮かべた。メアリーの表情は読めない。
それでも彼女は続ける。

「でも……どうしても、あなたに会いたかった。
 どうしても、あなたと話がしたかったの」

少女の目はどこかを見ているようで、どこも見ていなかった。
その視線の奥に、ぼやけた泡のような光がわずかに揺れていた。

「私は、ルメス=ヘインヴェラート。通り名は“怪盗ヘルメス”。
 悪人からお宝を盗んで、弱い人たちに返す義賊、そんな風に呼ばれてる。
 この世界の行く末についてちょっと秘密を知っちゃってこのアビスに放り込まれたんだけど、それはどうでもいいよね」

ふと、ルメスは視線を落とした。
言葉を選ぶように、ゆっくりと語る。

「私は悪党の金、権力、嘘いろんなモノを盗んできたわ。
 でもね、本当に盗みたかったのは――この世界の“絶望”だった」

メアリーの意識が、どこかで微かに反応した。
まるで水中に投げ込まれた声が、波紋となって揺れるように。

「……私もね、たくさんの絶望を見てきた。自分のドジだったり、誰かに嵌められたりまあ色々。
 具体的には……子供に話すようなことじゃないね。ボロボロになって、声も出せなくて、助けも来ないと思った。
 それでもね……今もこうしていられるのは、たくさんの人が手を伸ばしてくれたから。
 その手が、私をこの場所まで連れてきてくれた」

風が吹いた。
岩肌を照らす朝日が、ルメスの背を淡く染める。

「だから今度は――私がその手を伸ばす番」

彼女の手が、そっとメアリーへと伸びる。
けれど、触れない。ただ、そっと存在を示すように。
絶望の中にいる者に、伸ばした手には必ず意味があると信じて。

「君の世界は、たぶん優しいものなんだと思う。
 夢と幻想に包まれていて、あなを傷つけるものなどいない、幸せな国。
 でもね。君自身が、その夢に飲まれてはいけない。そこに甘えてるだけじゃダメなんだよ」

ルメスは続ける。

「現実は冷たくて厳しいけれど、そこに向き合う事から逃げていたら何にもなれない。立派な大人にはなれないんだよ。
 超力に振り回されるんじゃなくて、自分で制御する意識を持つんだ、そうすればきっと君は超力なんかに振り回されずに現実を生きていけるはずだから」

こんな世界でも、救いはあるのだと。
こんな地獄でも、光はあるのだと。
絶望の中でも、必ず希望はあるのだと。
願いを、希望を、祈るように口にする。

「超力っていうのは、きっと人の『意志』の形だから。
 だから、君が『やめたい』『止まりたい』って、心から願えば……その力はきっと、君の声を聞いてくれるはずだよ」

メアリーの肩が、かすかに震えた。
微細な、けれど確かな揺れだった。
水の底にいた意識が、ほんのわずか、浮上しようとする気配。

それを見て、ルメスは微笑む。
きっと彼女には見えていない。聞こえていないかもしれない。
それでも、きっと届いていると信じて。

「君が望むなら、私は何度でも来る。
 君が誰かを傷つけるだけの『災厄』なんかじゃなくて、人として生きられるように。
 ……私は、君の味方でいさせて。忘れないで。君には、味方がいるってことを」

それは宣誓だった。
夢の深奥に沈む誰かに、希望を伝えるための祈りだった。
味方がいるという希望がきっと、明日へと繋がる活力になるから。

382無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:12:50 ID:Z7qmPaYM0
沈黙が、再び岩場に満ちる。
けれどそれは、何かが始まるための静寂だった。
ルメスはゆっくりと立ち上がる。

「……さてと。そろそろ、引き際かな」

ショック状態のメアリーが持ち直し始めた気配を感じて怪盗は踵を返す。
再構築された夢の世界が再び現実を侵食する前に、ここから抜け出さねばならない。

言葉を、想いを、希望を。伝えるべきは伝えた。
あとは彼女しだいだ。

ルメス=ヘインヴェラートは、覚悟を決める。
今から逃げたところで、夢の世界に捕まらず逃げる事は出来ないだろう。
だが、この世界に直接攻撃はない。
あくまで殺しに来るような現象が訪れるだけだ。

それを躱しながら、世界の外まで泳ぎ切れるかの勝負だ。

だが、問題はない。
逃げることにかけて怪盗の右に出るものなどそうはいないのだから。

そう自分に言い聞かせながら潜岩に備えて大きく息を吸う。
同時に、メアリーから『不思議で無垢な少女の世界』が領域展開され始めた。
それをスタートの合図として、岩山の中に沈もうとして。

「ぶはっ、ぁ………………え?」

唐突に、血を吐いた。

何が起きたのか。
唇の端から、鮮血が溢れる。

見れば、ダイヤのような形をした穂先が自らの胸から飛び出していた。
振り返る。

そこには――奇妙なトランプの兵隊が立っていた。

赤と黒。スペードにハート、クラブ、ダイヤ。
A、J、Q、K――絵札の名を冠した兵たちが、無言のまま立ち塞がる。

「っ……!」

抵抗の暇も与えず、複数の槍が突き出される。

ザク。

ザクザク。

ザクザクザクザク。

鋭利な音と共に、何本もの槍がルメスの身体を貫いていく。

痛みは、感じない。
ただ、体が沈む。
血飛沫が、夢の空間に赤い花を咲かせた。

少女の想いは、確かに届いた。
伸ばした手には意味はある。
それが、必ずしも、いい意味とは限らないが。

彼女の世界は、静かに沈黙した。

【ルメス=ヘインヴェラート 死亡】



383無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:13:39 ID:Z7qmPaYM0
こわい。

こわい、こわい、こわい……!

ここは――どこ?

なにが、おこってるの……?

空が……地面が……。
世界が、ぐにゃぐにゃにゆがんでる。

「……っ、ぅ……ぁ……」

声が、でない。
息が、できない。

風が鋭い。
空気が重い。
太陽がかたい。
重力が、わたしをつぶす。

こわい。

どうして……どうして、こんなことに……?

ここは、いつものおへやじゃない。
ふわふわとうかぶそらのおふとんでも、ゆめのなかでもない。

ここは、わたしのせかいじゃない――!

(こわい、こわい、こわい、たすけて……)

誰かが、少女の世界を壊した。
ただ無邪気に遊んでいただけの少女の夢を。
たった一つの少女の居場所を壊した。

初めての痛み。
初めての侵略。
初めての、外から与えられた害意。

それが、少女に衝撃と混乱を与える。
少女の心は恐怖に染め上げられていた。

「……やぁ……メァ……は……」

そんな時、誰が話しかけてくるような声がした。
水の中のようにくぐもった、ぼんやりした声。

「突然……込ん……ごめんね。
 でも……どうして……あなたに……かった」

だれ……?
なにを、いってるの……?

「私は悪党……嘘……を……きたわ。
 ……本当に……のは……この世界……絶望」

まって、なにそれ……なにをいってるの?
どうして、そんなことを……?

よくわからない言葉。
聞き取れない言葉が過ぎ去っていく。
曖昧だが、確かに何かを伝えようとしている。

「……望むなら……何度でも……。
 君……を傷つける……『災厄』……として生きられるように」

遠くで水面が揺れる。
こころのなかが、ぽちゃんと波立つ。
わたしの中に、ひとつの音が届いた。

「忘れ……で。……ミには、味方がいる…………を」

『味方』その言葉だけが、はっきりと届いた。

384無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:14:12 ID:Z7qmPaYM0
「……っ!」

思い出した。
自分を助けてくれる友人。その約束を。

『わたしの名前を呼んで。絶対に助けに行くから!』

いつも夢のなかで、一緒にあそんでくれた、たいせつなともだち。

「ありす……! ありす、たすけて……!」

夢うつつの様な曖昧な意識の中で叫びを上げる。

その瞬間、その呼び声に応えるように――――夢の扉が開かれた。

「メアリー! 待たせちゃったね!」

メアリーの意識の中に白いリボンが空にひらりと舞った。
裂け目の向こうから、銀髪の少女が駆けてくる。
真っ白なドレス、真紅の瞳。夢の中でいつも笑ってくれた――わたしのありす。

「こわかったね、大丈夫。誰かにいじめられたの? ――なら、わたしがやっつけてあげる!」

ありすが指を鳴らす。
空間がトランプのカードで満たされる。

「トランプ兵たち、出番よ! 女王陛下をお守りなさい!」

ハート、スペード、ダイヤ、クラブ。
赤と黒の兵士たちがずらりと列を成し、背後に控える。

わたしは、ありすの背中に隠れた。
なんてたのもしいおともだち。
わたしのこころはうれしさでいっぱいになった。

――でも。

その、ありすの顔が、ふるえた。

「……あれ……? なんだか、変……メアリー、あなたの世界……こんなだったっけ……?」

こくんと、うなずく。
でも、ありすの目から、ぽろりと涙が落ちた。

「だめ……これは、少女の夢じゃない……こんなの、ちがう!」

悲鳴のように叫ぶありすの声が震える。

「これ、だれかの……だれかの“よごれ”が混ざってる……!」

言葉と共に、彼女の手に黒い斑点が染みが浮かぶ。
その斑点は、ありすの足元へと広がり、トランプ兵たちの身体にもじわじわとにじみ始める。
それは、どこかで見たような……まっくらで、にがいもの。

385無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:14:44 ID:Z7qmPaYM0
「やだ……やだやだやだ……こんなの、知らない……!」

ありすが、首を振る。
叫ぶように、ふるえるように。
こわれてしまったようにふるえだした。

それは、無垢で穢れない少女の夢に入り込んだ誰かの『悪意』だった。
怒りと恨みと寂しさが、純白の夢を汚す。
それがありすを侵し、彼女の兵隊を狂わせていく。

「メアリー……あなたの、せかいが……! ……ぅ、あ……あぁ……!」

呑まれる。
汚される。
穢される。
汚染される。
ありすのドレスが、にじむように黒く染まる。

白は黒に、夢は現実に。
彼女の姿が、少しずつ、変わっていく。

「ありす……………?」

その声に応えるように、黒のドレスを纏ったアリスが、笑う。
それは純白な少女の笑みではなく、穢れた妖艶な女の笑みだった。

「さぁ、メアリー。
 あなたをいじめた“わるいやつら”を、ぜんぶ、やっつけてしまいましょう?」

黒いアリスが語りかける。
それは、わたしの夢と、誰かの絶望が混ざった混沌。

不思議の国の住人を引き連れて、世界が再び塗り替えられる。

そらが、わらう。
おひさまが、うたう。
おはなが、くるくるまわってる。

なんでもない顔をして、世界はわたしのものに戻っていく。
それがなんだかうれしくって。
それを壊した“わるいやつら”が許せなくって。
わたしは決意するのです。

「わかったよ! こわいものは、ぜんぶぜんぶ、やっつけちゃおう!!」

やさしく、たのしく、うつくしい――。
そんなせかいをまもりましょう。

その奥底で、すべてを壊す悪意がひっそりと笑っていた。



386無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:15:29 ID:Z7qmPaYM0
――ルメス=ヘインヴェラートの間違いは、たった一つ。

それは、少女を「純粋無垢な存在」だと思い込んだことだった。

無垢であることは、必ずしも善ではない。
幼いということは、必ずしも清らかではない。

少女が無垢である――それは希望に縋る者が勝手に描いた理想像でしかなかった。

少女は、普通に人間であり。
普通に、自分を守ろうとし。
普通に、悪意を持つこともあるのだ。

元より、メアリー・エバンスの超力『不思議で無垢な少女の世界(ドリーム・ランド)』は、他者を拒絶し、自分だけの安全な夢に閉じこもる『幼児性』の象徴だった。
その力は、無意識の防衛機制として世界を侵蝕し、現実を塗り替え、他者の存在を消し去っていた。
それまではただ『無自覚』であっただけに過ぎない。

けれど今、皮肉なことに。
ルメスの言葉が、夢に方向性を与えてしまった。

「自分の意思で制御すれば、世界は変えられる」
その真っ直ぐな願いは、メアリーの超力にとって最大の引き金となった。

――自分を否定する者は、いらない。
――自分を傷つけるモノは、いらない。
――自分を脅かす現実なんて、消えてしまえばいい。

その否定は、初めて彼女自身の意思で下された。

メアリー・エバンスは、選んだのだ。
黒いアリスに促されるままに。
「すべてを、やっつけてしまおう」と。

そして、最初に『否定』されたのは――ルメス=ヘインヴェラート、その人だった。

夢の世界に潜り込み、手を伸ばしてきた外の者。
助けに来たはずの少女は、逆に否定対象に分類された。

彼女の命を奪ったのは、ただの現象ではない。
ただの暴走でもない。

――それは、メアリーの意思だった。

無意識に周囲を害していた災厄は、初めて自らの意志で人を殺したのである。

不思議の国の住人であるトランプ兵たちは夢の世界の中でも制約も、理屈も、倫理もない。
行動に制限などなく、自由自在に動き回れる無敵の存在だ。
そして女王たるメアリーが命じれば、誰であろうと否応なく殺害する。

ただでさえ他者の存在を拒む世界に、明確な武力が加わったのだ。
これ以上の悪夢があろうか。
もはや、誰もこの世界には勝てない。
メアリー・エバンスを倒すことはできない。

――旅人が植えた「悪意」
――ドミニカが与えた「恐怖」
――ありすが差し伸べた「助け」
――ルメスが授けた「導き」

それらが、すべて最悪の形で交わった。

こうして、夢は自我を得て。
意志を持つ世界が完成した。

否定するための力。
拒絶するための現実。
誰からも傷つけられないための、終わりなき夢。

そして――そこに幼き魔王が誕生した。

誰より無垢で、誰より歪で、誰より壊れてしまった、
誤った旧世界を塗り替える正しき新世界の寵児。
世界を塗り替える少女の夢が、今ここに現実を侵し始める。

387無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:15:54 ID:Z7qmPaYM0
「……?」

だが、現実世界に侵攻を始めたメアリーの視界が、ふわりと浮いた。

世界が、くるくると回る。

重さがない。
風景が、流れていく。
色彩が、輪郭を持たず、万華鏡のようにうねっている。

メアリーは上下逆さの世界の中で上を向いた。
そこには首のない一つの死体が立っていた。

――――それは、他ならぬメアリー自身の体だった。

その背後に、ひとりの青年がいた。

ぼんやりとしたその姿に、記憶がじわりと滲む。
見覚えがある

いつだったか、たった一度だけ。
一人ぼっちだったメアリーの独房に、ひょっこり遊びに来たことがあった。
名前は、たしか……そう。

「……………………エネ…………リッ、ト……」

口が、自然に動いた。

その瞬間、世界が崩れ始めた。

夢の世界が、瓦解する。
無限に続くはずだった少女の王国が、主と共に音もなく砕けていく。

身体が落ちていく。
景色が反転する。
夢が、深い眠りへと沈んでいく。

主が眠れば、夢もまた終わる。

――こうして、生まれたばかりの魔王の夢は何も成すことなくその瞼を閉じた。



388無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:16:35 ID:Z7qmPaYM0
「……ふぅ」

少年は短く息をついた。
血の匂いが、朝の風に乗って肌を撫でていく。

エネリット・サンス・ハルトナ。
その手で今、ひとつの命を終わらせた男。
額にかかる血に染まった前髪を、指先で無造作に払う。

メアリー・エバンス。
夢の世界の支配者は、いまや空へと消えゆくただの塵となっていた。
『鉄の女』によって用意された髪の刃――エネリットはそれを、寸分の迷いもなく少女の首に通した。

ルメスたちが構想していた作戦の詳細は、彼の知るところではない。
彼に見えたのは、投石が逸れたその瞬間。すなわち――作戦は失敗したという現実だった。
本来であれば、その時点で撤退していたはずだ。

無駄な犠牲は払わない。
無意味な行動は選ばない。
それが、エネリット・サンス・ハルトナという人物の信条だった。

だが、ドミニカ・マリノフスキとの接触を経て、その判断は変化した。
それは感情ではない。
ましてや哀悼でもない。
ただ、彼女の戦いを見て、彼は悟ったのだ。

メアリー・エバンスと言う脅威に対してこれ以上の『勝機』は、もう来ないだろう、と。

あの瞬間を逃せば、もはや再び掴むことはできない。
そう確信したからこそ、エネリットは突入を選んだ。

事前の予想通り、辿り着くよりも先に再起動したメアリーの領域が展開された。
だが、エネリットは無謀な賭けに出る男ではない。
そこには確かな勝算があった。

ドミニカ・マリノフスキの死に伴いディビットの超力『4倍賭け』は中継地点であるエネリットに返還されていた。
エネリットはこれを使用し、自らの対応力を倍加させていた。

そして、領域の中での動き、想定される展開、重力の歪み、現象のラグ。
基本的な世界の法則は既に予習済みである。

倍化した対応力もあり、領域内の移動自体は容易かった。
対メアリーの作戦会議でエネリット自身が提言した『対応力を上げれば夢の世界は突破できる』という仮説は、こうして現実となったのだ。

トランプ兵の存在は予想外だったが、それらはすべて目の前のルメスを標的としていた。
夢の住人たちは、エネリットの存在を認識しないまま、ただ女王に命じられるまま少女の排除に集中していた。
その隙を逃さず背後からエネリットは、無音のまま接近した。

そして、何の感情も挟まず、何の躊躇いもなく。
領域外で事前に設定しておいた髪の刃を用い、少女の首を跳ね落とした。

少女が感情を得たこと。
少女が悪意を得たこと。
自ら選択し、敵意を向けるようになったこと。
それが仇となった。

もしも彼女が、かつてのように無差別で、無自覚で、無指向の存在だったなら。
背後からの侵入者であろうとも、あっさりと消し去っていただろう。

けれど彼女は、自ら望んで敵を定めた。
意志ある存在として選別を行った。
その瞬間に、選ばなかった何かに対する隙は生まれていたのだ。

少女の夢は無垢でなくなった時点で、無敵ではなくなったのだ。

静かに、消えゆき塵となったメアリーの亡骸が空に舞い上がった
朝日の照り返しが空を照らし、風に乗って少女の命の名残が消えていく。
エネリットは、静かにその空を見上げる。

同じアビスで育った。
アビスの外を知らず、アビスの常識で生きてきたアビスの子。

彼女の終わりに、哀悼の感情はない。
けれど、確かに別れの言葉だけは口をついた。

「――おやすみ。メアリーちゃん」

【メアリー・エバンス 死亡】



389無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:17:03 ID:Z7qmPaYM0
風が、静かに吹いていた。

夢が崩れた今、トランプ兵たちの姿はどこにもない。
あの無邪気な破壊者たち――無垢の皮を被った災厄は、霧のように世界から消え去った。
そして、少女が望んだはずの優しい夢の国も跡形もなく、どこにも残っていなかった。

まだ朝靄の残る空の下、ひとりの少年が崩れかけた岩場を歩いていた。

エネリット・サンス・ハルトナ。

彼は、静かに小さく呟く。

「……よし。これで、三つ目か」

手にしているのは、三つの首輪。

一つは、ルメス=ヘインヴェラートのもの。
トランプ兵たちに殺された義賊の証には、『無』の一字が刻まれている。
少女の領域に吸い込まれるように消された彼女の死体は、跡形もなく、どこにもなかった。

一つは、メアリー・エバンスのもの。
主の消滅とともに残された首輪には、同じく『無』の刻印があった。
夢と共に崩れ去った少女の命は、塵となって空に消えた。

そして、もう一つ。
メアリーの首輪の傍ら、転がるように落ちていた謎の首輪。
その表面には『20』という数字が刻まれていた。

出自は不明だが、恐らくはメアリーの世界に殺された誰かのものだろう。
不用意にも災厄に踏み込み命を落とした、名前も知らぬ一人。

メアリー、ルメス、そして名も知れぬ第三者。
その首輪を懐に収め、エネリットは再び歩き出す。

向かう先は、岩山の下。
そこには、ドミニカ・マリノフスキの死体と共に首輪があるはずだった。

風が吹き抜ける岩肌に立ち止まり、ふと顔を上げる。
眼差しは変わらず冷静だ。だがその奥には、わずかに、何かを振り返るような影があった。

「……シスターの首輪を回収すれば、あとはディビットさんと合流するだけ、か」

どこか独り言のように、誰に聞かせるでもなく呟く。

地上に残された戦いの痕跡。
夢の終焉と少女たちの意志。
すべてを記録するように、彼は冷徹に歩を進める。

ディビットと合流後には手に入れた4つの首輪をどう分け合うか、分け前の相談になるだろう。
死も夢も希望も、すべては数字に換算され、秩序の中に数えられていく。
血と夢の狭間で終わったこの作戦は、彼にとっては『通過点』にすぎない。

静かに。淡々と。
ただ風の中を歩いていく。
その足音が、ひとつの決着に幕を引いた。

――こうして、少女たちの夢と祈りをめぐる戦いは終わった。

だが、アビスはまだ、沈黙してはいない。

終わりとは、ただ始まりの形をしているだけだ。

【E-5とE-6の間/岩山/一日目・朝】
【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:衝撃波での身体的ダメージ(軽微)
[道具]:デジタルウォッチ、メアリー・エバンスの首輪(未使用)、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(未使用)、宮本麻衣の首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.シスター・ドミニカの首輪の回収後ディビットと合流
2.ディビットの信頼を得る
※刑務官『マーガレット・ステイン』の超力『鉄の女』が【徴収】により使用可能です。
 現在の信頼度は80%であるため40%の再現率となります。【徴収】が対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。
※『ディビット・マルティーニ』の超力『4倍賭け』が【献上】により使用可能です。
 現在の信頼度は40%であるため40%の再現率となります。

390無垢なる祈りは少女の夢を壊せるか ◆H3bky6/SCY:2025/06/01(日) 19:17:30 ID:Z7qmPaYM0
投下終了です

391 ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:42:12 ID:iFBZSaEk0
投下します。

392We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:44:27 ID:iFBZSaEk0



「プロの意見と、手助けが欲しい」

 ブラックペンタゴン1F、北東内側ブロック――配電室。
 無機質に並ぶ、数多の電気設備に囲まれる中。
 神秘的な雰囲気を纏った白髪の少女が、眼前の男に問う。

「籠の中の鳥は、飛び立てそうかい?」

 少女、エンダ・Y・カクレヤマが放った言葉。
 そこに込められた“含み”に、男は反応する。
 口の端をゆっくりと吊り上げて、不敵な笑みを見せた。 

「“脱獄王”、トビ・トンプソン」

 トビ・トンプソンは、自らの名を呼ぶエンダをじっと見据えていた。
 不敵な笑みで応える中で、彼は内心思慮していた。

 ――――“ヤマオリの巫女”。
 ――――“何故こいつが此処にいる”。
 腹の底から湧き上がった疑問を、トビは決して表情に出さない。

 世界最大規模のヤマオリ・カルト。
 その巫女として担ぎ上げられていた“神の化身”――“ヤマオリ様”。
 既存社会を揺るがしかねない組織で祀られていた、絶対的な象徴(シンボル)。
 ある意味で、名だたる大悪党達に並ぶ存在だった。

 彼女の真なる名は裏社会でも知られておらず、このアビスに投獄されていたという事実も聞いていなかった。
 そう、脱獄王でさえ掴めていなかった――あの銀鈴と同じように。
 そもそも例の巫女は、組織の崩壊と共に命を落としたとも噂されていた。
 その張本人が、こうして眼の前に現れたのだ。

 恐らく彼女は、何らかの理由で秘密裏に投獄された存在。
 即ち、あの銀鈴に並ぶ“もう一人の秘匿受刑者”。
 その答えに行き着くのに、時間は掛からなかった。

 ――元より怪しかった“恩赦なるもの”の信憑性が、いよいよ現実味を失ってきた。
 そもそも秘密裏の施設であるアビスにおいて、更に秘匿されている受刑者たち。
 彼らがこの刑務に複数参加している時点で、アビスが素直に恩赦を認めるとは極めて考えにくい。
 あるいは、アビス側にも何か思惑があるのか――今はまだ真相は分からない。

 故に、今の自分に出来ることはひとつ。
 脱獄王である己が成すべきことは、決まっている。
 ――“籠の中の鳥は、飛び立てそうか”。
 エンダから投げかけられた問いに対し、暫しの思いを馳せた後。

「“フランソワ・ヴィドック”って知ってるか」

 探偵風の装いをしたエンダを一瞥して、トビは口を開いた。

「18世紀フランスに生まれた“世界初の探偵”だ。
 パリ警察の密偵や犯罪捜査局の創設者として成果を上げ、その後独立して自らの探偵事務所を作った」

 不遜な笑みを見せながら、トビは語り続ける。
 ぎょろりとした眼が、エンダを見据える。

「――――そいつは元々、“脱獄のプロ”だったのさ」

 脱獄王と、探偵の少女。
 その巡り合わせの“相性”を言外で訴えるように。
 男の眼差しが、エンダの視線と交錯した。

393We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:45:28 ID:iFBZSaEk0

「オレ様に賭けてみないか」

 今はまだ飛べないが、可能性は模索できる。
 そう伝えるように、トビは提案する。

「2階から3階の調査と、施設の検分。
 そいつをオレ様が全て担ってやる」

 脱獄王から直々の売り込み。
 それをエンダは咀嚼するように受け止めた。

 ――監視のために飛ばした黒靄の蝿は、今もヤミナを追い続けている。
 大まかな位置を探知した限り、彼女は何らかの手段で上層階へと足を踏み入れている。
 既に現場の探索も行っている可能性は否定できない。

 しかし、あくまで使い走りとして悪事を働いた女と、数多の脱獄を成し遂げたプロ。
 実際に現場を見聞きした上でどちらの見解に価値があるかと言えば、間違いなく後者の方だ。
 故にこの提案には、確かな価値がある。

「代わりに――――階段前に居座ってる野郎がいる。
 エルビス・エルブランデス。かの“ネオシアン・ボクス”のチャンピオンさ」

 そして見返りとしての条件を、トビが言及する。 
 この施設は、狩り場としての機能を有している。
 内部の見取り図を眼にした時から、エンダもまたその可能性には勘付いていた。
 一箇所のみしか存在しない階段。そこで待ち伏せを行う受刑者が現れることも、決して不思議ではなかった。

「あの野郎が生きている限り、おちおち探索も出来やしねえ」

 それはこの施設を調査する上で、紛れもなく大きな障壁となる。
 門番が立ちはだかる限り、籠の鳥が翼を広げることは出来ない。

「ヤツを足止め、あるいは排除してほしい」

 ――――地の底に、最初の朝が訪れる。
 それは第一回放送を迎える直前のやりとりだった。




394We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:46:31 ID:iFBZSaEk0



《定時放送の時間だ――――》


 ブラックペンタゴン1F、物置部屋。
 倉庫も同然の空間に、悪辣なる看守長の声が響く。
 第一回放送。この刑務における、最初の定時連絡。
 この数時間における死者の名と、これより追加される禁止エリアについての伝達が行われる。


《諸君、刑務作業の進捗はいかがかな――――》


 されど、彼は――只野仁成には。
 その放送へと耳を傾ける余裕など、ありはしなかった。
 呼吸を整えて、そこに佇む男を視界に捉えていたからだ。
 距離にして十数メートル。積み上がった荷物の影から、ぬらりと現れた拳闘士。
 仁成は戦慄と共に、その男を見据えていた。
 

《贖罪を果たし、己の価値をほんの少しでも――――》


 放送を聞き届けるだとか、連戦の疲弊を癒すだとか。
 そんな御託は、この拳闘士には無用の長物だった。
 階段前の門番として立っていた男は、仁成の追撃を選んだ。
 距離を稼がれる前に、確実に仁成を仕留めに来たのだ。


《さて、それでは事前に説明していた通り――――》


 エルビス・エルブランデス。
 無敗のチャンピオンが、再び仁成の前に立ちはだかる。
 撤退した仁成を追い立てて、再び脅威として姿を現す。


《アンナ・アメリナ、並木 旅人、羽間 美火――――》


 そんなエルビスの姿を、無言で見据えて。
 身体の痛みが疼く中で、仁成は焦燥を抱く。
 つい先程、身を以てその実力を思い知った相手。
 無敵の絶対王者は、自分を逃すつもりなど無いのだと。
 戦慄を感じるように、仁成は息を飲む。

 あの紫骸の庭園からは抜け出したとはいえ。
 それでも彼の凄まじい戦闘力に対し、今なお勝ち目があるかは定かではない。
 真正面からの殴り合いとなれば、確実に相手に軍配が上がる。
 エンダとは、未だ合流を果たせていない。
 彼女の安否もまた、確かめねばならない。

395We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:47:00 ID:iFBZSaEk0


《――――宮本 舞衣、恵波 流都、無銘、フレゼア――――》


 故に、暫しの静寂と、張り詰めた緊迫が吹き抜けた直後。
 仁成は迷わず、瞬時に地面を蹴った。
 近くにある荷物棚の側面へと隠れ、王者の視界から逃れようとした。
 そう、逃れようとしたのだ。


《以上の者たちが刑務作業により懲罰を――――》


 瞬間、仁成の胴体側面に鈍痛が走った。
 拳を叩き込まれるような衝撃が、突如として迸ったのだ。
 駆け抜けようとしたはずの身体が、成す術なく吹き飛ばされる。


《いやはや、実に順調だ――――》


 横転する仁成の身体。
 床を転がり、咽ぶように何度も咳き込む。
 内臓を揺さぶられるような苦痛が、肉体を駆け巡る。

 何が起きた。仁成の思考は混乱を経て、すぐに理解する。
 ――――遠当ての魔技。百歩神拳。
 つい先程の戦闘。自身が行使した技を、エルビスもまた放ったのだ。


《続いて、禁止エリアの指定――――》


 最早仁成に、放送を片手間に聞き届ける余裕は無かった。
 迫り来る。魔技を叩き込んで間も無く、エルビスが肉薄する。
 蹲る仁成をすぐさま追うように、その距離を瞬く間に詰めていた。


《A-4、B-6、C-1――――》

 
 そして、チャンピオンの右拳が振り下ろされる。
 仁成はすぐさま床を転がり、その一撃を回避。
 ――躱された拳が、床の石材を勢い良く打ち砕く。
 まるで鉄槌のような破壊力を前に、仁成は戦慄を抱く。

 仁成はそのまま横たわった状態で、懐から拳銃を抜く。
 拳を振るった直後のエルビスを狙い、発砲――鉛玉を放つが。
 スウェーバックのような動作で、エルビスは近距離からの銃撃を回避。
 そのままコンマ数秒程度の猶予、刹那の合間に彼は再び地を蹴る。

 猛獣のような瞬発力で迫るエルビス。
 思わず舌打ちをした直後、強靭な身体能力を振り絞る仁成。
 両腕両脚を駆動させ、まるでバネのように身体を跳ね起こした。
 跳躍の勢いで後方へと下がり、エルビスとの距離を稼ぎつつ着地。

 再び両足を地に付けた仁成は、すぐさま腕を構えて防御の態勢を取る。
 顔と胴体を庇うように据えられた両腕――その直後、次々に衝撃が叩き込まれる。
 即座に至近距離へと肉薄してきたエルビスが、猛然と拳のラッシュを仕掛けてきた。
 防御の上からも構わず、王者の拳撃が次々に襲い来る。

 耐える。耐える――必死に耐える。
 歯を食い縛り、人類最高峰の身体能力を振り絞る。
 三度も受ければ腕さえ使えなくなると見越した威力。
 それでも、仁成は耐え抜く。決死の覚悟で耐える。
 人類の究極は伊達ではないと、血濡れで叫ぶかのように。

 全ての感覚と筋肉を防御へと集中させて、仁成は拳撃を堪え続ける。
 凄まじい威力の打撃によって、次々に打ち据えられる。
 まるでサンドバッグのように、仁成は幾度も拳を叩き込まれていく。

 仁成は既に、悟っていた。
 どれだけ足掻こうと、どれだけ引き下がろうと。
 この男は、自分を決して逃しはしない。
 徹底的に追い詰めて、仕留めに掛かろうとしている。
 ――それほどまでに、恩赦を求めているのだ。

 自分に与えられた道は、二つだけ。
 チャンピオン、エルビス・エルブランデス。
 この男を倒すか、この男に殺されるか。
 ただそれだけなのだと、仁成は思い知らされた。




396We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:47:57 ID:iFBZSaEk0



 最初の放送を聞き届けて。
 図書室の出入口を通り抜けて。
 二人の淑女は、広い通路へと踏み込んでいた。

 物置部屋で暫く身を潜めてから、階段での待ち伏せを行う。
 じきに受刑者達がこのブラックペンタゴンに集い、乱戦が巻き起こるだろう。
 その隙を突いて、弱った敵へと奇襲を仕掛ける。
 そうした手筈で動き出そうとした、その矢先だった。

 されど――ソフィア・チェリー・ブロッサムは、見誤っていたのだ。
 この地の底の要塞が、既に鉄火場と化していることを。
 彼女が知りもしない怪物が、刑務へと潜んでいることを。


 通路を歩き出した、血濡れの令嬢。
 ルクレツィア・ファルネーゼ。
 何の脈絡もない破裂音が轟いて。
 彼女の脳天が、唐突に爆ぜた。
 予期せぬ衝撃に、その身体が崩れ落ちる。


 何が起きたのか。
 同行者であるソフィアは、理解が遅れた。
 全く前触れのなかった奇襲攻撃に、目を見開いた。
 唐突な銃声。唐突な暴威。

 超力によって気配を断ち、不意打ちを仕掛けてきたのか。
 それは違う。ソフィアは、超力による影響を一切受けない。
 例え気配を遮断していようと、その存在を秘匿していようと。
 その術が超力によるものならば、ソフィアには全く通用しない。
 超力による恩恵だとすれば、如何に息を潜めようとも――ソフィアには筒抜けになるのだ。

 故にソフィアは、その予兆を全く掴めなかったことに動揺した。
 図書室の方角から突如として放たれた“拳銃の発砲”を、一切察知することが出来なかった。


「――――こんにちは、人間さんたち」


 まるで硝子玉のように、透き通るような声が響いた。
 その声の主の存在に、ソフィアもルクレツィアも気付くことは出来なかった。
 相手は突然現れ、突然奇襲を仕掛けた――二人はそれを全く察知できなかった。
 ソフィアは無論、ルクレツィアすらもその瞳に驚愕を宿す。

「麻衣がいなくなってしまったの。とっても悲しいことだわ。
 また“素敵な兵隊さん達”で遊びたかったのに」

 舞うようなステップと共に、その声の主は姿を現す。
 銀色の髪を靡かせ、漆黒のドレスを身にまとう――麗しき令嬢が其処にいた。

397We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:49:14 ID:iFBZSaEk0

「でも、悲しみに浸り続けるのは良くないことね。
 まだまだ楽しいことが此処にはあるもの。前向きに考えるべきだと思ったわ」

 ――――何だ、この女は。
 ――――何者だ、この受刑者は。
 ――――こいつは、一体何だ?
 
 ソフィアは、驚愕と共に目を見開く。
 彼女は、姿を現した淑女を全く知らなかった。
 アビスは愚か、特殊部隊に属していた頃ですら存在を把握していない“未知の悪人”。
 公的な組織に認知されていない悪党など、大抵は名の知れない矮小な犯罪者に過ぎない。
 にも関わらず、そこいらの小物とは一線を画すほどの威圧感を滲ませている。

「歓びというモノは、いつだって寂しい風のよう。
 あっという間に過ぎ去って、遠くへと行ってしまう」
 
 これほどのプレッシャーを放つ受刑者の接近に、何故一切気付けなかったのか。
 ソフィアは、その答えを理解できない。
 ただ悠々と言葉を並べる相手に、戦慄を抱くことしかできない。

 そもそも、この受刑者は一体“誰なのか”。
 こんな囚人が、アビスに収監されていたのか。

「だから、存分に楽しむ価値が在るの思うの」

 ゆらりと、淑女の影が揺れる。
 唐突な銃撃で脳天を掻き乱されたルクレツィアを、彼女は見据える。
 穏やかな微笑みとは裏腹に――まるで虫か何かを見つめるような眼差しで。

 ぞくり、と。
 ソフィアは言い知れぬ恐怖を感じた。
 ――こいつは、人間なのか。
 ――こいつは、悪魔か何かなのか。
 そんなふうに思ってしまう程に、この銀髪の囚人は異様だった。
 優雅に佇んでいるのに、人間味をまるで感じさせない。
 応戦すら忘れてしまうほどに、ソフィアは唖然としていた。


「ねえ」


 秘匿受刑者、“銀鈴”。
 彼女は、次なる玩具を見つけた。


「私達と、踊りましょう?」


 銀鈴が、笑みを浮かべた瞬間。
 銃撃で脳天を破壊されたルクレツィアが、突如として動き出した。
 額と後頭部から血を噴き出し、脳漿を噴き出しながら。
 それでも血塗れの令嬢(エリザベート・バートリ)は、狂気を纏って銀鈴へと迫る。


「――――ルクレツィアッ!!!」


 そんなルクレツィアを目の当たりにして、ソフィアは我に返った。
 鋭利な刃のような殺気の気配を、即座に察知した。
 それは、眼前の銀鈴が放つ匂いではない。
 もう一人。別の新手が、銀鈴の後方で息を潜めていたのだ。

 ソフィアが駆け出し、咄嗟にルクレツィアに追い縋る。
 そして彼女の前に立ちはだかるように、地を蹴った直後。
 その右腕を振るって、銀鈴の後方から放たれた“真空の刃”を掻き消した。

 銀鈴が、感心したように「まあ」と声を上げた。
 彼女の後方から飛び出し、広い通路を駆け抜ける影。
 短いブラウンの髪を持った、オッドアイの男だった。

398We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:50:22 ID:iFBZSaEk0

 男は機敏な動きでルクレツィアの側面へと回り、距離を置いたまま三本の”真空のナイフ”を放つ。
 ソフィアが再び盾になろうとした矢先、銀鈴が妨害の銃弾を放った。
 迫る弾丸に対し、ソフィアは舌打ちをしながら咄嗟に側面へと跳んだ。
 ――超力に関わらない攻撃に対しては、回避を余儀なくされる。

 隙を突かれたルクレツィアはナイフを躱し切れず、その身を刃によって穿たれる。
 脳天に受けた銃撃と、死角から放たれた刃。
 二度の攻撃をその身に受けて、ルクレツィアは怯む。
 ――――その目に、愉悦はない。
 予期せぬ襲撃を前に、彼女は殺意を宿す。


「貴女。見知らぬ顔ですね」


 その治癒能力を活かし、ルクレツィアが強引に躍動した。
 自らの超力によって箍の筈れた肉体を操り、眼前の銀鈴へと接近。
 悠々と佇む銀鈴の長い髪を掴もうと、その右腕を伸ばしたが。

 ひらりと、銀鈴が動いた。
 予備動作も、気配も、全く感じさせない。
 そんな奇妙で、人間味のない動作だった。
 まるで幽鬼のように、希薄な存在感で捨てぷを踏む。

 力任せに身体能力を行使するルクレツィアは、銀鈴の奇怪な動きに対応できない。
 そのまま右手は虚空を掴み、一瞬の隙が生まれて。
 直後に、ピッと首筋に一閃の傷が生じた。
 斬撃を叩き込まれた白い首筋から、血が噴き出した。

 ルクレツィアは、ハッとしたように振り返った。
 銀鈴がゆらりと回避を行った直後。
 すれ違いざまに、彼女は手刀を放っていたのだ。
 その一撃はルクレツィアの細い首を的確に捉えて、皮膚を抉ったのだ。

「ふふ、丈夫な人間さんなのね。
 それが貴女のネオスかしら?
 とっても“長持ち”しそうだわ」

 ふわりと、ドレスの裾を靡かせて。
 銀鈴もまた、踊るように振り返った。
 その顔に、微笑みを絶やさぬままに。
 深淵にも似た瞳が、ルクレツィアを捉え続けていた。

 ――ソフィアが、駆け抜けていた。
 銀鈴がルクレツィアに意識を向けている最中に、側面からの奇襲を仕掛けんとした。
 されどソフィアの前に、男の影が割り込んだ。
 まるで彼女の軌道を“予知”したかのように、機敏な動きで立ちはだかる。

「邪魔は、させねえよッ――!!」

 その男――ジェイ・ハリックは、ソフィアへと目掛けて右足を突き出す。
 槍の刺突のような蹴りが放たれ、咄嗟にソフィアは両腕で受け止める。

 交差した腕で靴底を受け止めながら、肩の筋肉を躍動させた。
 ソフィアは両腕を解き放つような動作で、ジェイの蹴りを弾き飛ばす。
 片足を防がれ、弾かれたことでジェイは体勢のバランスを崩す。
 その隙にソフィアが突進。勢いに乗せて、裏拳をジェイの顔面に叩きつけた。

 がッ――と、苦悶の声を上げるジェイ。
 されど、歯を食い縛りながら堪えてみせた。
 即座にカウンターの左フックを、ソフィアへと目掛けて放つ。
 
 ソフィアは咄嗟に後方へと身体を傾け、左拳を躱す。
 虚空を切るように空振る拳。隙が生じ、胴体がガラ空きとなる。
 その瞬間を見逃さず、ソフィアは瞬時に体制を整え。
 脇腹へと目掛けて、手刀の一撃を勢いよく叩きつけようとした。


 ――――かちゃり。
 奇妙な音が、通路に響いた。


 刹那の合間に。
 ソフィアは、そちらへと意識を向けた。
 直感のように、危機を察知してしまった。

399We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:51:28 ID:iFBZSaEk0

 ルクレツィアは、幾つもの手傷を負っていた。
 その身を刻まれ、穿たれて。
 血を流しながら、それでも継戦を続けていた。

 ――銀鈴には、一撃を与えられていない。
 一切の気配を纏わず、一切の殺意を放たず。
 極端なまでに予兆も前触れもない動作の数々。
 それは戦闘者としての技巧に乏しく、自己治癒と身体能力で強引に戦うルクレツィアの天敵に等しかった。
 人体の急所を知り尽くす暴威の数々も、銀鈴を捉えることが出来ない。


「とっても凄いのね、貴女!
 いくら刻んでも動じないなんて、ふふっ――」


 されど銀鈴もまた、膂力そのものは決して優れていない。
 故にルクレツィアを殺し切る決め手に欠けるのだ。
 互いに身体能力のみで挑めば、勝負はジリ貧の持久戦と化す。


「――“これ”も、耐えられるのかしら?」


 だからこそ、銀鈴は“放り投げた”。
 空中を舞う安全ピン。回転と共に放られる円形の物体。
 それは幾度となく攻撃を受け、手傷を負ったルクレツィアへと迫る。

 ソフィアは、咄嗟に叫んだ。
 惚けたような表情で、投げられた物体を見るルクレツィア。
 ――彼女は強靭な回復能力を持つ。されど、決して不死ではない。
 爆炎で木っ端微塵に吹き飛ばされた上で、命を繋げられる保証はない。

 駆け出すソフィアは、銀鈴へと攻撃を仕掛けんとする。
 されど彼女を妨げるように、ジェイが機敏に飛び蹴りを放った。
 対処を余儀なくされるソフィア。防御を行い、ジェイの脚を弾く。

 虚空で踊り、そのまま地面を転がる円形の物体。
 ルクレツィアは、たんとステップを踏む。
 その場から跳ぶように、後方へと下がらんとした。

 手榴弾。安全ピンを抜かれて、それは起動する。
 先ほどの奇妙な音は、ピンを引き抜いた音だった。


 ――――そして、爆炎と轟音が迸る。
 開闢の時代。超人を殺し切る火力を搭載された、小型爆弾。
 人間を焼き尽くすための武器が、起爆する。


 その炸裂は、この場にいる四人の視界を赤熱で埋め尽くす。
 彼らはそれぞれ、回避行動を取っていた。
 破壊と衝撃を凌ぎ切るべく、咄嗟の機動で距離を取っていた。
 駆け抜ける四人の行動は、やがて戦局の分断へと至る。
 彼らは走る。死の硝煙から逃れる瞬発の果てに、二分されていく。




400We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:52:14 ID:iFBZSaEk0



 呼吸を整えて、ソフィアは駆け抜けていた。
 敵の気配を探るように、意識を研ぎ澄ませる。
 
 先程の手榴弾の炸裂から逃れる過程で、戦局は二手に分かれていた。
 それぞれ別々の通路へと退避し、分断される形となった。
 ソフィアはそうしてあの場から追い返されるように、再び“図書室”へと踏み込んでいた。

 ルクレツィアとは分断された。
 数分前。退避に突き動かされていた刹那、ソフィアは彼女の姿を微かながら視認することが出来た。
 あの“ドレスを纏った銀髪の女”と共に、北東ブロック方面へと進んでいく姿が見えたのだ。

 幾らかの手傷は負ったとはいえ、現状では行動に支障はない。
 開闢時代の人類、それも鍛錬を重ねた者だからこそ、傷が疼きながらも継戦することができる。

 故に、ソフィアは構え続ける。
 テーブルと座席を囲うように、数多の本棚が立ち並ぶ中。
 彼女は、周囲へと意識を集中させる。
 あの分断によって図書室へと踏み込んだのは、自分一人だけではないのだ。

 ――――そして、死角から飛来する。
 ――――“不可視の刃”が、虚空を裂く。

 ジェイ・ハリックの超力、『透明の殺意(インビジブルナイフ)』。
 真空のナイフが、真紅の桜(チェリーブロッサム)へと迫る。
 ソフィアの背後。その細い首筋へと目掛けて、襲い来る。

 不意を撃つ形で鋭く放たれた、虚空の刃。
 しかしそれは、ソフィアへの致命打には成り得なかった。

 殺気を感知し、咄嗟に振り返ったソフィア。
 死角からの攻撃に対し、彼女の反応は間に合わない筈だった。
 だが刃は彼女の首筋に触れた瞬間、まるで硝子のように砕け散る。
 破裂した刃は脆く崩れ落ち、そのまま消滅した。

 ソフィア・チェリー・ブロッサムには、超力が一切通用しない。
 五体を引き裂く攻撃だろうと、砲弾すら防ぐ防御であろうと。
 人間の精神に干渉する術理であろうと、対象の存在さえも抹消する異能であろうと。
 その技が超力である限り、彼女に何の意味も為さない。
 それこそがソフィアの超力、『例外存在(The exception)』。

 故にソフィアに“不可視の刃”は通用しない。
 如何に完璧な不意打ちを叩き込もうとも。
 それが超力であるならば、彼女の命を奪うことはできない。

 そんなソフィアの虚を突くように。
 突如として、ジェイ・ハリックが本棚の陰から躍り出る。
 刃に反応したソフィア、その視界の左側面から飛び出してきたのだ。

 つい先程――ジェイは気配を遮断し、素早く移動しながら息を潜め。
 それから予め生成し、空中に留めさせていた“不可視の刃”を時間差で射出した。
 刃が生成後に維持される時間は僅か2秒足らず。
 その間にジェイは息を殺したまま鋭く駆け抜け、死角からの奇襲を敢行したのである。

401We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:53:25 ID:iFBZSaEk0

 まるで猛禽のように流麗な動きで、ジェイは肉薄した。
 その右手に握り締める武器を、眼前へと突き出す。
 ソフィアは目を見開きながら、すぐさま奇襲へと対応。
 迫る攻撃が超力によるものではないことを、一瞬の内に悟った。

 ソフィアが右手の手刀を鋭く振るい、ジェイの振るう攻撃を弾いた。
 彼の右腕を逸らすような形で、彼女は斬撃を凌いだのだ。
 奇襲への対処に、ジェイもまた驚愕の表情を見せる。

 ――ジェイの手には、木製のナイフが握られていた。
 刺突に適した、杭のような武器だった。
 ブラックペンタゴンへと向かう途中、超力の刃で樹木を削って作り出した即席の武装。
 持続性の低さから投擲と暗殺にしか用いられない超力に代わり、近接戦闘を想定して用意したものだった。

 超力制圧の異能を持つソフィアとて、純粋な武器ならば傷つけることが可能である。
 ジェイは意図せずして、彼女への的確な対抗策を用いていたのだ。

 刺突のように鋭い瞬発力で、ソフィアの左腕が突き出される。
 武器を携えたジェイの右手を抑えようと、掴み掛かる。
 しかし彼は、即座に対応――“先読み”する。
 掴み掛かろうとするソフィアの腕を、咄嗟に左手の一振りで弾いてみせた。

 そのまま間髪入れず、ジェイは即座に右手のナイフの刃を振り上げる。
 これに対し、ソフィアは瞬時に身体をすぐ横へと逸らす。
 刃が左の二の腕を掠めながらも、怯むことなく。
 右手の手刀をジェイの首へと叩き込まんとする。
 直後にジェイが、自らの左腕を振り上げた。
 再び“先読み”。左前腕で手刀を的確に受け止めた。

 防御と同時に、右手の刃をソフィアの腹部へと突き立てる。
 手刀を防がれたソフィアは、瞬時の思考を続ける。
 左手で振り払うように、ナイフを握るジェイの右腕を弾いて逸らす。
 目を見開くジェイ。歯を食いしばり、驚愕の表情を見せる。

 その隙を見逃さず、既に引いていた右手の拳を脇腹へと叩き込まんとする。
 ジェイは動揺しながらも、後方へと即座に下がる。
 右拳のフックを回避。“先読み”によって、軌道を予測した。
 それでもソフィアは躊躇うことなく、床を蹴ってジェイへと接近。
 電撃的な速度で迫るソフィアを、ジェイはキッと睨むように見据えた。


 ――――そこから先は、応酬の連続。
 ――――互いの両腕が、幾度となく交錯する。


 拳撃。刺突。手刀。掴み。フェイント。
 互いに技を繰り出し、その度に互いの攻撃を凌ぐ。
 凄まじい瞬発力と反応速度で、相手の一手を悉く妨げていく。
 至近距離。ゼロ距離。眼前で肉薄する攻防。
 腕と腕が目まぐるしく放たれて、次々に捌かれていく。

402We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:54:38 ID:iFBZSaEk0

 技量においても、余力においても。
 明確に優っていたのは、ソフィアの方だった。
 反射神経と動体視力によって、的確に敵の攻撃へと対処していた。
 対超力犯罪の特殊部隊に所属した過去を持つ彼女は、数多の超力犯罪者を体術によって制圧してきた。

 “超力の無効化”という超力を持つが故に、あくまで戦闘は自らの身体能力に頼らねばならない。
 そうして死線を潜り抜けてきたソフィアの格闘術は、紛れもなく卓越している。
 彼女は応酬の中でも冷静に、淡々と手札を切り続けていた。

 対するジェイの表情に、余裕はなかった。
 鼻血を流して必死に歯を食いしばり、無我夢中の攻撃を繰り返し。
 それでも尚、彼はソフィアとの応酬を成立させている。

 ごく短時間の“未来予知”を連続発動し、相手の一手を次々に予測していたのだ。
 ソフィアの超力無効化の影響を受けない、生来の異能。
 それによる“先読み”を駆使することで、ソフィアに食らいついていた。

 そして、15年ものブランクを背負っているとはいえ。
 ジェイは暗殺者の家系に生まれ、物心ついた時から戦闘や暗殺の訓練を受けている。
 彼にとってはそれが日常であり、それこそが当然の教育だった。
 自覚こそ希薄なものの、ジェイの身には研ぎ澄まされた体術が染み付いているのだ。

 激突が続く。交錯が繰り返される。
 果てしない攻防が、延々と反復されて。
 やがてその均衡を崩したのは、ソフィアだった。

 ソフィアの瞬発力が、先読みするジェイの反射神経を上回った。
 彼女の左手が、ナイフを握るジェイの右腕を掴んで制止させる。
 咄嗟の反撃として繰り出された左拳の一撃も、ソフィアは右手で受け止める。
 そのままジェイの行動を封じ込めて――両者の顔が、至近距離で肉薄する。

「――――ジェイ・ハリック、ですわね?」

 膠着状態。乗るか反るかの状況。
 眼前で視線を交わし合う二人。
 鋭い眼差しを向けるソフィアと、動揺を瞳に浮かべるジェイ。
 互いに睨むような表情で、相手と対峙する。

「知ってんのかよ、俺のこと」
「“予知能力一族”ハリック家のお話は、以前よりかねがね」

 拘束から抜け出そうと力を込めながら、ジェイが言葉を返す。
 冷や汗を流しながらも、強がるようにソフィアを睨みつけている。
 ソフィアはあくまで淡々と、自らの言葉を続ける。

「貴方が行動を共にしていたお方。
 アレは、このアビスにおいても“普通”ではないでしょう」
「……まぁな」

 肉薄する対峙の狭間で、ソフィアは投げかける。
 対するジェイは、自嘲するように苦笑を浮かべる。

403We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:55:24 ID:iFBZSaEk0

 ソフィアは、あの銀色の髪を持つ淑女――銀鈴の佇まいを振り返った。
 名も知らぬあの犯罪者が何者であるのかは分からなかったが。
 彼女が決して“まともではない”ことなど、一目見ただけでも明白だった。

 ハリック家。超力時代を経て立場を失った異能者の一族。
 公権力のエージェントへと転身した優秀な兄とは異なり、身を持ち崩して些細な犯行で逮捕されたとされる弟。
 ジェイ・ハリック――その存在は、一族没落の象徴として扱われていた。
 そうして堕ちぶれた男が、此処に来て“悪魔”に手を引かれている。

「お聞かせください」

 故にソフィアは、この刹那の交錯の中。
 眼前のジェイに対し、問いかける。

「貴方は、彼女と共に」

 まるで、己に対する自戒を刻み込むかのように。
 自らの葛藤に対する答えを求めるかのように。

「“地獄”へ堕ちるおつもりですか?」

 ――――お前もそうなのか、と。
 ソフィアは、ジェイへと投げかけた。

 問われたジェイは、唇を噛み締める。
 苦い表情を浮かべて、葛藤を滲ませる。
 ソフィアの問いかけに迷いを抱くように。
 自らの指針に、躊躇いと不安を抱くように。
 彼は僅かな間、その口を噤む。

 この遣り取りの最中においても、互いの両腕は拮抗し続ける。
 ジェイの両腕を制圧し、行動を留めさせるソフィア。
 ソフィアの拘束を振り払うべく、両腕に力を込め続けるジェイ。
 問答の狭間においても、二人の攻防は静かに続けられる。

「……分からねえ。俺にも、よく分からねえんだよ」

 やがてジェイは、口を開いた。

「でもなぁ」

 晴れぬ疑念と、道半ばの混迷の中。
 それでも胸の内に、兄の教えが宿り続ける。

「“機を伺え、耐え忍べ”って。
 そんな単純な教訓さえも学べなけりゃ……」

 己を見失うな、と。
 兄はジェイに語りかけていた。
 それは今の彼にとって、紛れもない指針であり。

「きっと俺は、今度こそ本当のクズになっちまう」

 自らの存在を繋ぎ止める為の、試練であった。
 故にジェイは、貫くことを選ぶ。

「俺は、俺に価値があるのかを――――」

 瞳に迷いを湛えながらも、ジェイは歯を食いしばる。
 その眼でキッとソフィアを見据えながら、彼は啖呵を切る。


「――――ただ、確かめたいんだよッ!!」


 次の瞬間。
 ソフィアの視界の端で、何かが崩れ落ちた。
 それは勢いよく落下し、一瞬の轟音を響かせた。
 耳を劈くような音と、物体が床に叩きつけられた衝撃。
 思わずソフィアが、目を見開く。

404We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:56:08 ID:iFBZSaEk0

「ッ!!」

 近くの灯りが途絶え、幾許かの影が生じていた。
 ――すぐ傍の天井から、照明器具が落下したのだ。
 ソフィアは咄嗟に、反射的に、そちらへと気を取られた。
 ほんの刹那。コンマ数秒の判断。しかし、それが命取りとなる。

 ソフィアの鼻っ面に、衝撃が叩き込まれた。
 鈍痛が顔面に響き、鼻から血を流しながら後方へと仰反る。
 両腕を拘束されていたジェイが、頭突きを放ったのだ。

 つい先ほど、密かに空中で生成されていた“不可視の刃”。
 不可視であるが故に、初撃は悟られない。
 刃はそのまま虚空へと放たれ、近くの照明器具を破壊したのだ。

 例えソフィアに超力が通用せずとも、周囲の物体へと干渉することは出来る。
 照明器具が破壊された際の音と衝撃によって、彼女の注意を僅かにでも逸らすことは出来る。
 優秀な戦士であるが故に、ソフィアは咄嗟の反応を強いられた。

「っ、の――――!!」

 ソフィアの喉元から、声が漏れた。
 頭突きで怯んだソフィアの隙を見逃さず、ジェイは即座に彼女の両手による拘束を振り払う。
 自由になった両腕を構え直しつつ、彼は後方へと跳ぶ。
 苦悶を堪えつつ、咄嗟に追撃を行おうと右腕を伸ばしたソフィア。

 されどその手は、ジェイが握る木製ナイフの一振りによって妨げられる。
 ソフィアは即座に右腕ごと身体を引き、迫る刃を紙一重で回避。
 攻撃への対処を強いられたソフィア。
 彼女から逃れる形で、ジェイは豹の如き瞬発力で後退。
 そのまま本棚の影へと姿を隠し――その気配を押し殺す。

 暗殺者としての技能。隠密行動の術。
 ジェイはこの大図書室にて、自らの技巧を発揮する。

 鼻血を拭いながら、ソフィアは呼吸を整える。
 並び立つ本棚の陰に潜みながら、敵は虎視眈々と此方を狙ってくる。
 特殊部隊に所属していた頃に染み付いた格闘術の構えを取りながら、感覚を研ぎ澄ませる。

 ルクレツィアとの合流に急ぐか。
 あるいは、此処でジェイ・ハリックを討つか。

 気配に絶えず注意を払いながら、ソフィアは思考する。
 相手もまた、同行者と分断されている状況だ。
 判断を強いられているのは、互いに変わりないだろう。
 攻めるか、退くか。周囲に警戒しながら、彼女は決断を迫られる。


 ――――自分自身に、何の価値があるのか。

 
 先程のジェイの言葉が、ソフィアの脳裏で反響する。
 悪魔の手を取り、地獄へと堕ちていく――。
 自分と同じ面影を、ソフィアはジェイに微かにでも見出していた。
 その姿を感じ取ったからこそ、彼女は問いを投げかけた。

 されど、彼は自分とは違っていた。
 愛を失い、生きていく意味さえも失い、亡霊と化した自分とは違う。
 あの男は――ジェイ・ハリックは、何かを得ようとしている。
 葛藤の中で、自らの答えを探し出そうとしている。

 それを察したからこそ。
 ソフィアは、思い知らされる。
 朝焼けにも似た悲哀を、胸に抱いていた。

 刹那の戦局で、ほんの一瞬。
 彼女は、感傷と悲壮に駆られていた。


【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(中央) 図書室/一日目・朝】
【ソフィア・チェリー・ブロッサム】
[状態]:精神的疲労(大)、疲労(小)、身体にダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦を得てルクレツィアの刑を一等減じたい。もしも、不可能なら……。
0.ジェイ・ハリックに対処。始末か、ルクレツィアと合流か。
1.ルーサー・キングや、アンナ・アメリナの様な巨悪を殺害しておきたい
2.この娘(ルクレツィア)と一緒に行く 。例え呪いであったとしても
3.あの二人(りんかと紗奈)には悪い事をしました
4.…忘れてしまうことは、怖いですが……それでも、わたくしは
5.やはり、あのハリック家の者でしたか。

【ジェイ・ハリック】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)
[道具]:木製のナイフ(樹木を超力で削って作った)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。チャンスがあれば恩赦Pを稼ぎたい。
0.ソフィア・チェリー・ブロッサムに対処。始末か、銀鈴と合流か。
1.銀鈴の友人として振る舞いつつ、耐え忍んで機会を待つ。
2.呼延光、本条清彦、バルタザール・デリージュ、銀鈴に対する恐怖と警戒。

405We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:57:28 ID:iFBZSaEk0



 ブラックペンタゴン1F。
 北東ブロック中央――『補助電気室』。

 そこは配電室のすぐ隣に位置する一室。
 大規模な施設の電気供給を補うために、予備の設備が用意された空間だ。
 四角いキャビネットにも似た電気設備が、整然と並び立つ。
 規則正しく配置された機器の数々が、無機質な内装を形作る。
 灰色の壁や天井には、幾つものパイプが張り付くように伸びている。

 配電盤などが並ぶ通路。
 無骨な施設に似合わぬ、二つの麗しき影。
 分断された戦局の片割れ。

 その姿を血に濡らした二人の淑女が、対峙する。
 共に銀糸のような長い髪を持ち、陶器のように白い肌を際立たせる。
 優雅な佇まいと瀟洒な面持ちで、互いに見据え合っている。

 負傷が深いのは、“血濡れの令嬢”の方だった。
 ルクレツィア・ファルネーゼ。手榴弾の炸裂で、その顔には火傷を負う。
 更には幾度かの銃撃に穿たれ、また手刀によって肌を抉られている。
 また先刻の手榴弾の炸裂によって、その右肩には火傷を負っている。
 ――そうした傷のいずれも、徐々に回復が進んでいる。
 彼女の超力である黒煙が、その身を治癒させている。

 ルクレツィアは、眼前の淑女――銀鈴を見据える。
 相手の負傷は浅い。二、三度だけ強引に打撃を与えられただけだ。
 彼女は優美な姿を保ち続け、そこに悠々と佇んでいる。
 笑みは消えない。飄々と微笑みながら、銀鈴はルクレツィアを見つめていた。
 そんな彼女を捉えるルクレツィアの瞳には、嫌悪と関心の入り混じった色彩が宿る。

「――嬉しいわ。貴女みたいな娘と遊べて」

 やがて、銀鈴が悠々と口を開く。

「貴女、血の匂いが染み付いている。
 粗相をしてしまうのはお互い様みたいね」

 鈴が鳴るように、澄んだ声が。
 ルクレツィアの鼓膜に、そっと触れる。
 得体の知れない手触りのような、奇妙な感覚。
 血塗れの令嬢は、眉間へと微かに皺を寄せていた。

「ええ。好きなんですよ、命と向き合うことが」

 それでもルクレツィアは、すっと答える。
 
「誰かを愛でるのも、苦痛に喘ぐのも、私にとっては極上の愉悦です。
 人間は愉しいですもの。私は骨の髄まで、それを味わうだけ」

 銀鈴の気さくな呼びかけに対し、ルクレツィアは笑みと共に応える。
 ――それは気を張り、強がるような笑いだった。

「まあ、それはそれは――とっても素敵なことだわ!
 私と同じように、人を愛しているのね」

 肩の力を抜き、余裕を持って微笑む銀鈴とは違う。
 彼女は悠々と、ルクレツィアを見つめている。

「こうして巡り会えたのも、きっと何かの縁ね」
「ええ……そうかもしれませんね」

 二人は既に、幾度かの駆け引きを繰り広げていた。
 つい先程まで互いの体術を駆使し、敵の命を刈り取らんと攻防を行なっていた。
 故に、共に呼吸を整えている。

「お名前。伺ってもいいかしら?」
「……ルクレツィア・ファルネーゼ。貴女は」
「銀鈴。宜しくね、ルクレツィア」

406We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:58:21 ID:iFBZSaEk0

 優位に立っていたのは、銀鈴。
 一切の気配も殺気も感じさせない攻撃に対し、ルクレツィアは後手に回り続けている。
 驚異的な治癒能力も含めて、身体能力においては間違いなくルクレツィアに軍配が上がる。

 されど、“血濡れの令嬢”の強みはあくまでフィジカルに物を言わせた強引な攻勢にある。
 戦闘者としての技巧に乏しい彼女は、感知不可能の行動を次々に繰り出す銀鈴に対して不利に陥っている。

 銀鈴もまた、ルクレツィアを殺し切れるほどの決め手に欠けるという状況ではあるものの。
 それでも現状の交戦において常に先手を取り続けているのは、間違いなく銀鈴の方だった。

 ルクレツィアの心は、ざわついていた。
 まるで焦燥の波が押し寄せてくるかのように。
 彼女の思考には、ざりざりとノイズが走っていた。
 言い知れぬ不安が、胸中に押し寄せてくる。

 これは何なのだろうか、と。
 ルクレツィアは、思いを馳せる。
 敵へと傾く戦局への焦りなのか。
 きっと違う。そんなものではない。

「ねえ、ルクレツィア」

 この感情の答えは、眼前の相手から突きつけられている。
 ルクレツィアは半ば悟ったように、銀鈴の言葉に耳を傾けていた。
 彼女を見るたびに、令嬢の心は掻き毟られていく。


「貴女。とてもかわいいわ」


 ――――何故ならば。
 こんな眼差しで見られたことなど。
 生まれて一度も、有りはしなかったから。
 

「貴女も、遊ぶのが大好き。人間を愛してる」


 こういう目を、ルクレツィアは知っている。
 人を、自分と同じモノと思っていない。
 人を、自分とは違う下等な存在と見ている。
 人を人として扱っていないから、幾らでも残酷になれる。


「私といっしょだけれど」


 知っている。とうに見知っている。
 退屈で、不粋で、つまらない眼差しだ。
 人間と向き合おうともしない、稚拙な猟奇だ。
 命を粗末に捨てるだけの、味気無い悪意だ。
 この世界においては、ひどくありふれている。


「あなたはもっと無邪気」


 だと言うのに。
 このざわめきは、何なのか。

407We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:58:59 ID:iFBZSaEk0

 まるで、店頭に並ぶ愛玩動物として見られているかのような。
 ルクレツィア・ファルネーゼという存在を、好奇心で観察しているかのような。
 そんな態度で、眼の前の女は自分を眺めてくる。
 とうに見慣れた筈の眼差しが、ルクレツィアの胸中を淡々と掻き乱してくる。


「無邪気だから、不安げになってる」


 拷問を通じて、散々見つめてきた。
 人間が絞り出す慟哭というものを。
 紫煙を通じて、散々感じてきた。
 人間に刻まれる苦痛というものを。


「――――私と向き合うのが、不安なのね」


 ルクレツィアは、何年も、何年も。
 貪欲なまでに、喰らい続けてきた。


「かわいいわ。ほんとに」


 知り尽くした筈なのに、知りもしない戦慄が押し寄せてくる。
 他人という媒体を介したモノではない、己が身を以て“生の感覚”を思い知らされる。
 今まで生きてきた中でも、全く異質の――胸の内がさざめくような焦燥感。


「かわいい」


 これは、何だ?
 その自問の果てに。
 “血塗れの令嬢”は。
 それを理解する。


「赤ん坊みたい」


 たおやかな微笑が、澄んだ瞳が、ルクレツィアを射抜いた。
 人ですらない“怪物”に愛でられるような動揺を前にして、彼女は自らの感情の意味を悟った。


 ――――ああ、これは。
 ――――“恐怖”なのだと。


 生まれて初めて抱くような、動揺。
 生まれて初めて感じるような、戦慄。

 狩る側。喰らう側。弄ぶ側。虐げる側。
 ルクレツィアはいつだって、誰かの上に立っていた。
 令嬢は常に、他者の命をその手に握り締めていた。

 けれど、今は違う。
 今は、目の前の相手に“見られている”。
 犬か何かのように、貶められている。
 此処に立つ自分は、彼女にとって好奇心の対象に過ぎない。

 まるで自分が、孤児や召使い達を弄んだ時のように。
 銀鈴という淑女は、私を見下している。

 それを自覚した瞬間から。
 言い知れぬような興奮に、掻き立てられる。
 自らを苛める感覚に、胸の奥底から高揚が込み上げてくる。
 ルクレツィアは、情動に揺さぶられていた。

408We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 22:59:39 ID:iFBZSaEk0

 何の感覚も、生きる実感も得られなかった幼少期。
 けれど他者を嬲ることで、人の苦痛に触れることができた。
 自らの超力を使うことで、生の感覚を得ることができた。
 苦痛と絶望。人が人であるが故に得られる、極上の快楽。
 それを求め続けてきた。渇望し続けてきた。

 だからこそ、ルクレツィアは思う。
 これもまた、一つの“痛み”なのだろう。
 ああ、だとすれば――愛おしさすら感じる。

 生粋の“恐怖”を味わうことなど、今まで一度たりとも無かった。
 だからこそ今、眼前に立ちはだかる“闇”さえも愛おしい。
 自分は紛れもなく生きている。そんな感覚を得られるから。

 強がりでしかなかった、強張る笑みは。
 獰猛なまでの、不敵で優雅な笑みへと変わっていた。
 すっと優雅にステップを踏んで、礼儀正しくその場に佇む。


「ねえ、銀鈴さん」


 まるで舞踏会の淑女のように、ぴんと真っ直ぐに佇む。
 その身を夥しい程の赤い血に染めようとも。
 ルクレツィア・ファルネーゼは、ひどく可憐だった。
 そして、彼女は静かに一礼をする。


「悪魔と、踊りませんか?」


 彼女は、舞踏へと誘う。
 目の前の怪物に、手を差し伸べる。
 死の匂いを纏う舞台へと、銀鈴を手招きする。

 そんなルクレツィアからの誘いを、じっと見つめて。
 銀鈴は、口の両端をゆっくりと吊り上げた。
 愛おしさと高揚を掻き抱くように、彼女もまた優雅な所作で応えた。
 片足を後ろへと引き、スカートの裾を摘んで――微笑みと共に一礼をした。


「ええ。喜んで」


【D–4/ブラックペンタゴン1F 北東ブロック(中央) 補助電気室/一日目・朝】
【ルクレツィア・ファルネーゼ】
[状態]: 疲労(小)、複数の銃創や裂傷(中)、顔面に火傷(中)、血塗れ、服ボロボロ
[道具]: デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針] 殺しを愉しむ
基本.
0.さあ、踊りましょう。
1. ジャンヌ・ストラスブールをもう一度愉しみたい
2.自称ジャンヌさん(ジルドレイ・モントランシー)には少しだけ期待
3.お友達(ソフィア)が出来ました、もっとお話を聞いてみたい気持ちもあります
4.さっきの二人(りんかと紗奈)は楽しかったです。出来ればもう一度会いたいです。

【銀鈴】
[状態]:疲労(小)
[道具]:グロック19(装弾数22/10)、デイパック(手榴弾×2、催涙弾×3、食料一食分)、黒いドレス
[恩赦P]:4pt
[方針]
基本.アビスの超力無効化装置を破壊する。
0.ええ、喜んで。
1.ジェイで遊びながらブラックペンタゴンを目指す。
2.人間を可愛がる。その過程で、いろんな超力を見てみたい。
※今まで自国で殺した人物の名前を全て覚えています。もしかしたら参加者と関わりがある人物も含まれているかもしれません。
※サッズ・マルティンによる拷問を経験しています。
※名簿で受刑者の姓名はすべて確認しています。
※システムAに彼女の超力が使われていることが真実であるとは限りません。また、使われていた場合にも、彼女一人の超力であるとは限りません。

409We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:00:28 ID:iFBZSaEk0



 爆発のような轟音と衝撃が、何処からか響き渡る。
 別のブロックか通路で、既に受刑者同士の交戦が始まっているのだろう。
 されど今の仁成に、そこへと意識を向ける余裕などなかった。
 それが手榴弾の炸裂によるものであることも、知る由はない。

 物置部屋では、既に幾つかの棚が“腐敗”していた。
 徐々に室内へと散布されていく、濃紫の瘴気。
 拳闘士を起点に、次々と生まれていく紫花。
 戦場と化した空間を、毒が蝕んでいく。
 紫骸(ダリア・ムエルテ)――エルビスの超力が、展開されていく。
 長期戦になればなるほど、彼の優位は約束される。

 仁成は荒れる息を何とか整えながら、迫る敵を見据えていた。
 エルビスが“待ち受ける側”だった、あの階段前での攻防とは違う。
 むしろ今は、彼が積極的に攻勢に出てくる。
 退却の隙を悉く潰すように、仁成へと幾度となくインファイトを挑んでくる。

 人類最高峰の肉体を持つが故に、辛うじて粘ることが出来ている。
 強靭な肉体を備えるが故に、エルビスの腐敗毒にも気力で持ち堪えることが出来ている。 

 迫り来るエルビスへと向けて、瞬時に拳銃を抜いた。
 所謂、早撃ち。西部劇のガンマンのようなファストドロウ。
 距離を詰めてくる相手への迎撃手段として、即座に発砲を行う。

 ほんの刹那、迫るエルビスの右拳が風を切った。
 脇腹を打ち据えるような低い軌道で、それは虚空へと放たれる。
 ――そして金属の破裂音が響いた。
 放たれた拳が、弾丸を一瞬で打ち砕いたのだ。

 先刻の初戦と同様の技巧だ。
 銃撃の軌道を先読みし、それに合わせて拳を振るう。
 言うのは容易くとも、そう簡単に実行へと移せるものではない。
 故に此度もまた、仁成は驚愕させられるが――。
 それでも一度は目にした技であるからこそ、彼は後方へとステップしながら対応する。

 目視による角度の計測。物質の質量や高度の推測。弾丸の速度。
 仁成はこの一瞬で、それを即座に割り出す。
 そして、仁成は迷わず銃撃する。
 数発の弾丸を、それぞれの角度で瞬時に放った。

 反射音。金属製の棚や、無機質な壁面へと衝突。
 弾丸は弾き返り、跳ね飛び、そして――エルビスへと目掛けて殺到。
 跳弾である。反射した弾丸が、正確な角度で四方から拳闘士を襲った。

 逃亡生活の中で体得した武器術により、仁成は拳銃をも自在に操る。
 更には人類最高峰の身体機能を駆使し、視力と空間認識能力を極限まで引き出した。
 そうして“ぶっつけ本番”で、跳弾を敢行したのだ。
 放たれた銃弾の雨は、極めて正確にエルビスを狙ってみせた。

 ――首や胴体を、ほんの微かに動かしつつ。
 ――エルビスが、最小限のステップを踏んだ。

 弾が掠れる。弾を躱す。
 一撃たりとも、直撃はしない。
 殺到した筈の跳弾が、悉く外れていく。
 僅かな動作のみで、エルビスは完璧に回避する。
 跳弾の“反射音”のみで、彼は弾丸の軌道とタイミングを読み切った。

 そして、迫る。
 エルビスが、再び肉薄する。
 即座に地を蹴り、迫り来る。

 されど仁成は驚嘆しつつも、最早跳弾すら躱してくることを予想に入れていた。
 故に彼は、即座に迎撃の態勢へと切り替える。

410We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:01:23 ID:iFBZSaEk0

 ――拳銃の銃口が軋む。腐敗していく金属が、限界を迎えてゆく。
 紫花の腐敗毒に曝され続けた拳銃が、先の発砲で遂に破損を迎える。
 使い物にならなくなった鉄屑を、仁成は躊躇なくエルビス目掛けて投擲。

 我武者羅な飛び道具など物ともせず、エルビスは突進を続ける。
 拳銃が直撃したところで、怯ませるどころか瞬きひとつの隙を作ることさえ出来ない。

 迫り来るチャンピオンから、バックステップで必死に距離を取り続ける仁成。
 拳の射程から逃れるべく、歯を食いしばりながら後退に徹する。
 その跳躍に乗じて、身を翻して出口へと向かおうとするが――。

 そうして晒した隙をエルビスは決して見逃さず、即座に“遠当ての魔拳”で追撃。
 仁成は対処へと追い込まれる。飛ぶ拳撃に対し、回避や防御を余儀なくされる。

 その僅かな猶予の狭間に、再びエルビスが猛追を仕掛けてくる。
 決してこの戦場から逃しはしないと、獲物を狙う豹の如く機敏に迫る。

 怪物同然の強さを見せつけるエルビス。
 己を殺すべく、牙を向き続けるチャンピオン。
 目を見開く仁成の視界が、思考が、刹那へと収束していく。
 極限の駆け引きの中で、彼は自らを必死に奮い立たせる。
 まだだ、まだ膝をつくな、と。
 己の力を振り絞って、敵を見据える。
 自らの肉体を、全身全霊を持って躍動させる。

 ――――まだ、死ぬ訳にはいかない。

 何が、己を奮い立たせるのか。
 ただ生きるためか。刑務から抜け出すためか。
 生き別れた家族と再会を果たすためか。
 間違いなく、それもあるだろう。
 けれど今は、きっとそれだけじゃない。

 ――――彼女が、自由を求めている。

 そう、あの少女が。
 自分と同じ、孤独と束縛の中に身を置いていた少女が。
 自由と贖罪を求めて、この地の底で生き抜こうとしている。

 ――――彼女が、償いを望んでいる。

 今の自分が、こうも立ち続ける理由。
 そんなものが、あるとすれば。
 結局、そこに行き着くのだ。

 ――――いつか、秘密を語り合おう。

 あのとき彼女と、そう約束したのだ。
 それだけだ、拳闘士(チャンピオン)。
 留まるか、抗うか。
 往くべき道は、既に決まっている。


 ――――くす。


 そして、声が聞こえた。
 まるで仁成の意志に、呼応えるように。


 ――――くすくす。


 あの囁きが、耳に入った。
 まるで仁成の決意に、共鳴するように。

411We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:03:02 ID:iFBZSaEk0


 ――――くす。くすくすくす。


 あの忌まわしき嗤いが、ぬらりと現れた。
 ひどく悍ましく、禍々しく。
 悪霊の如く、忍び寄ってくる。


 ――――くすくすくすくすくす。


 祟りを思わせる、その嗤い声。
 しかし仁成は、静かなる安堵を抱いていた。
 彼女の存在。彼女の証を示す、黒鳥の囀り。
 それは仁成にとって、己に寄り添う“昏き光”だった。


 ――――くすくすくす。くすくすくすくす。


 そして、エルビスが。
 瞬時にその場から跳躍した。
 瞬きの合間に、斬撃が一閃する。
 “漆黒の靄”が、鞭のように駆け抜ける。
 振るわれた一撃が、荷台や貨物をギロチンのように断ち切った。

 跳躍によってその一撃を躱したエルビス。
 彼は後方へと着地し、靄との距離を取る。
 しかし靄は大蛇の如く唸り続け、枝分かれしながら拳闘士へと殺到していく。
 その褐色の肌を貫くべく、黒き敵意が迫り来る。

 されどエルビスは、一呼吸を置いた後。
 そのまま上半身を屈めた姿勢から、身体を∞の形に回転させ。
 猛烈な遠心力を乗せた拳を、次々に打ち出した。
 
 遠心力と反動を乗せた猛打が、黒い靄を打ち砕いていく。
 祟りや禍を思わせる敵の攻撃を、鍛え上げた肉体によって破壊する。
 乱入してきた黒靄を凌ぎ切り、エルビスは再び拳を構え直す。

 ――――仕切り直し。
 ――――エルビスの攻勢が、打ち切られた。

 援護のように割り込んできた攻撃を見つめつつ、仁成は乱れた息を整えていた。
 後方から姿を現し、すぐ傍らへと歩み寄ってきた影へと視線を向けることはない。
 ――それが誰なのか。それが何者なのか。
 その目で確かめることもなく、仁成には理解できたからだ。

 黒い靄が、仁成と“彼女”の周囲に展開される。
 超力を否定する力。その力となる“恨み”の不足により、完全なる無効化は果たせない。
 それでも無差別に撒き散らされる腐敗毒は、その防御によって軽減される。

「“脱獄王”、トビ・トンプソン」

 先程まで響いた嗤い声とは、対照的な。
 透き通るような声が、仁成の耳に入る。

「奴との協力を取り次げた」

 この地の底で出会い、共に困難を乗り越え。
 そして互いの境遇を共有した“同志”が、そこに佇んでいた。

412We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:04:04 ID:iFBZSaEk0

 彼女が口にした受刑者の名は、当然仁成も認知している。
 脱獄のプロ。この刑務から脱出するための要となりうるかもしれない存在。
 彼との協力を取り付けたのならば、それは間違いなく大きな収穫なのだ。

「見返りの条件は?」

 そして、仁成が問いかける。
 当然“ただ”で取引をしたわけではないのだろう、と。

「あのチャンピオンをどうにかすること」

 ――この施設の調査を阻む、最大の障壁。
 無敗のチャンピオン、エルビス・エルブランデス。
 彼の足止めや排除こそが結託の条件であることは、想像に難くなかった。

「……だろうな」

 だからこそ、仁成はその一言で答える。
 苦笑を浮かべながら、視線の先の敵を据える。
 エルビスは、今なお連戦の消耗を感じさせない。
 凄まじいタフネスとスタミナによって、鬼神の如き継戦を果たしている。

 つくづくとんでもない怪物と出会ってしまったものだ、と。
 仁成は己の不運を自嘲し、その上で静かに身構える。
 この刑務から脱出する糸口を掴むべく、あの男を食い止める。
 その為にも――――すぐ傍らに立つ彼女と共に、戦わねばならない。

 仁成は、一呼吸を置いた。
 そして、決意と覚悟を瞳に宿し。
 並び立つ仲間と、言葉を交わし合った。


「――――行くぞ、エンダ」
「――――ああ、仁成」


 その遣り取りが、開戦の合図。
 リベンジマッチの始まりを告げる火蓋。
 第2ラウンドの、幕開けだ。


【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(内側) 物置/一日目・朝】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ナイフ、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスに対処。可能ならば排除。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キング、ギャル・ギュネス・ギョローレンには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
 ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。

【只野 仁成】
[状態]:疲労(大)、全身に傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスに対処。可能ならば排除。
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。

【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、強い覚悟
[道具]:
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.エンダと仁成を殺す。
1."牧師"と"魔女"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。

413We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:04:45 ID:iFBZSaEk0



(――上層階に行けば、警備室の類もあるだろう。
 そいつがあれば施設内の様子を探れる筈だ。
 ヨツハの安否もその時に確認すりゃいい)

 放送を経て、エンダ・Y・カクレヤマと離別し。
 探索を優先して結果的に放置することになった同盟者に対し、僅かに思いを馳せつつ。
 トビ・トンプソンは、再び排気管を移動する最中に思慮する。

 なぜ自分のような受刑者をこの刑務に参加させた。
 なぜ自分という刑務の妨げになるような受刑者を選別した。
 なぜ“脱獄王”と呼ばれる犯罪者に、こうして一時的にでも自由を与えたのか。
 導き出せる答えは単純だ――“放り込むことに意味があるから”。

 自分には何かしらの役割が与えられていると、トビは考える。
 役割を与えたのならば、それを遂行して貰わねばアビスにとっても意味がない。
 これは単なる刑務ではない。戦術や駆け引きが介在する命懸けの競技、いわばゲームなのだ。
 ゲームマスターからすれば、プレイヤーにはイベントを経由して貰わねばならない筈だ。

 この刑務とは、何のためのゲームなのか? 
 最も考えられる推測があるとすれば、それは“超力による戦闘実験”だ。

 “開闢の日”以降、世界では表立った大規模戦争は起きていない――不気味な緊張状態のみが延々と続いているとされる。
 されど東欧での紛争が示したように、対立の火種は今なお静寂の下で燻り続けている。
 いつか超力を動員した国家間の衝突が起きるのも時間の問題であると、表社会でも噂話のように囁かれていた。

 故に決して公の場には出てこない“地の底”で、そうした状況に備えた多角的な実験が行われたとしても不思議ではない。
 それこそ噂に聞く“秘匿受刑者”が現実のものだったように、少なくともアビスは間違いなく犯罪者に“被検体”としての使い道を見出している。

 受刑者同士を意図的に競わせる為の仕組みと、秘密裏に事を進められる“制御された盤面”。
 そうしたシステムさえ用意できれば、世界でも記録に乏しいとされる“本格的な超力戦闘データ”を回収できる。
 ――なればこそ、奴らは実行に移したのだろう。
 現状の世界を繋ぎ止めるGPAからすれば、そのデータは喉から手が出る程に求める代物なのだから。

 そして土台を用意できたのなら、戦闘実験と並行して“受刑者を使った他の現場実験”を行うことも不思議ではない。
 自分のみならず、怪盗ヘルメスやデザーストレのような受刑者も参加させられているのがその証拠なのだ。
 彼らのような受刑者には、戦闘以外での明確な価値が存在する。
 アビスがそうした面々を使い、実験と共に何かしらのテストを目論んでいると考えるのが妥当だ。

 ――先刻と同じように、排気口からトビは躍り出る。
 1Fの階段前。既にそこには四葉の姿も、エルビスの姿もない。
 伽藍堂となっていることを確認したが故に、トビは迷わず降り立った。
 そうして今なお残留を続けている紫骸の瘴気から逃れるべく、彼は迅速に移動する。
 門番がいなくなった階段を、素早く駆け上がっていく。

 エンダによれば、上層階には彼女の同行者が居る。
 ヤミナ・ハイドという女囚らしい。可能であれば彼女を回収してほしい、と頼まれた。
 結託したよしみということもあり、トビはその依頼もまた引き受けた。
 無論、あくまで施設調査が最優先であることは事前に伝えたが。
 そう、施設を探ることがあくまで現状の目的なのだ。

414We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:05:56 ID:iFBZSaEk0

 ――――賭けてもいい。
 この施設には、間違いなく意味がある。

 ブラックペンタゴンは、ただ受刑者達の鉄火場として機能するだけの施設か?
 受刑者達を誘き寄せるための誘蛾灯に過ぎないのか?
 その可能性も高い。順当に考えれば、この施設自体が何かしらの罠なのだろう。
 だが、トビはそれだけではないと推測する。

 この施設のみに電気や水道がある可能性からして、既に予見されていたが。
 禁止エリアの配置からして、アビスは明らかに受刑者達を中央付近へと誘導することを意図している。
 受刑者達の選出に明確な意味があり、彼らに役割を遂行させることをアビス側が見越しているのならば。
 24時間のタイムリミットが設けられている中で、彼らを目的から遠ざけるような采配を取るはずがないのだ。

 単なる刑務ならまだしも、これは恩赦という賞品を懸けた一種の実験(ゲーム)である。
 恐らくは受刑者達を集わせることには明確な意味があり、受刑者達にイベントに挑んでもらうことに意義がある。

 ――廃墟と思わしき島であるにも関わらず、此処には野生動物の気配は一切存在しない。
 この会場が何らかの手段によってアビスが用意した“都合のいい舞台”であることは明白だ。
 有り得ないことなどない。開闢後の世界において、それだけは肝に銘じねばならない。
 そしてこの刑務場がアビスによって用意された舞台であるのなら、彼らの意向に沿う形で会場が整備されているのも必然だろう。

 故にアビスが“目立たない僻地”に刑務の要を設置するとは考えにくい。
 あったとしても、それは多少のヒントに過ぎないか、大局には何の影響を齎さない代物である可能性が高い。
 そして例え今後ブラックペンタゴンそのものが禁止エリアになるとしても、少なくとも現時点では“調査できる猶予”が与えられている。

 電気が通り、水道が通っている可能性が高い。
 受刑者達にとっては刑務を生き延びるための拠点となり、恩赦ポイントを稼ぐための狩り場となる。
 故に、受刑者同士の争いそのものこそが“刑務の要”を守るための抑止力となりうるのだ。
 ブラックペンタゴンは、受刑者達による主体的な相互監視と衝突によって成り立つ施設であるとトビは推測した。

 此処に誘われることが、彼らの思惑ならば。
 トビは、受けて立つのみだった。
 悪党たちの流刑場。地の底の監獄、アビス。
 彼らから直々に挑戦状を叩きつけられているのだ。
 如何なる悪辣な罠が待ち受けていようとも。
 それに挑み、打ち破ってこその“脱獄王”である。

 トビ・トンプソンには過去の脱獄において、超力を含む数々の警備システムを出し抜いてきた。
 彼は脱獄遂行のために、自らの身体機能を幾度となく“作り変えている”。
 ネイティブに多く見られる”脳の自認に基づく心身の変異“を意図的に引き起こしているのだ。
 当然ながら心身への負担は大きいため、おいそれと濫用できる手段ではないが。
 それでもトビは、その変異を要所において的確に利用し続けている。

 そしてアビスへと投獄されたトビは、対ヴァイスマンを見越した術理をも編み出している。
 名付けるならば――――“脱獄最適化”。
 この刑務を見届ける読者諸氏、その全貌については暫しお待ち頂きたい。
 いずれ語られる時が来るであろう。

 尤も、脱獄王がその時まで生き残れるか否か。
 それは全て、彼の実力と天運に委ねられている。
 此処は悪辣なる看守長によって掌握された舞台だ。
 冷徹なる悪意の牙は、脱獄王さえも掠め取らんと機を伺い続けている。

 彼は所詮、釈迦の掌の上で踊るだけの孫悟空に過ぎないのか。
 または緊箍児の束縛さえも超越する、真なる斉天大聖(トリックスター)なのか。
 その答えは、今は誰も知らない。


【D-5/ブラックペンタゴン2F 南西ブロック(内側) 階段付近/一日目・朝】
【トビ・トンプソン】
[状態]:疲労(小)皮膚が融解(小)
[道具]:ナイフ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱獄。
0.ブラックペンタゴン2~3Fの調査、そして検分。可能ならばヤミナ・ハイドとも接触。
1.内藤 四葉と共闘。彼女の餌を探しつつ、護衛役を務めてもらう。
2.首輪解除の手立てを探す。構造や仕組みを調べる為に、他の参加者の首輪を回収したい。
3.ジョニーとヘルメスをうまく利用して工学の超力を持つ“メカーニカ”との接触を図る。
4.銀鈴との再接触には最大限警戒
5.岩山の超力持ち(恐らくメアリー・エバンスだろうな)には最大限の警戒、オレ様の邪魔をするなら容赦はしない。
6.ブラックペンタゴンには、意味がある。
※他にも確保を見越している道具が交換リストにあるかもしれません。
※銀鈴、エンダが秘匿受刑者であることを察しました。
※配電室へと到達し、電子ロックを無力化しました。

415We rise or fall ◆A3H952TnBk:2025/06/02(月) 23:07:03 ID:iFBZSaEk0




 人類の究極は、並び立つ同志と共に往く。
 黒靄の巫女は、地の底から抜け出すべく奔る。
 無敗の拳闘士は、愛に殉じて拳を振るう。
 銀の凶月は、人ならざる好奇に嗤う。
 血濡れの令嬢は、不敵なる狂気を翳す。
 堕ちし桜花は、葛藤の中で過去を求める。
 隠忍の暗殺者は、己の価値を渇望する。
 不縛の脱獄王は、ただ脱獄の為に駆け抜ける。
 
 ――――彼らは戦士。
 ――――彼らは罪人。
 ――――立つか、倒れるか。






[共通備考]
ブラックペンタゴン1Fの北西〜北東ブロックの隣接地において、複数の戦局が同時多発的に発生しています。
今後それぞれの戦闘同士が合流して乱戦化する可能性があります。

416名無しさん:2025/06/02(月) 23:07:47 ID:iFBZSaEk0
投下終了です。

417 ◆H3bky6/SCY:2025/06/03(火) 00:09:42 ID:JU3XbRyI0
投下乙です

>We rise or fall
ブラペンでついに始まった本格的な乱戦、秘匿連中が乱戦の中心になっている、対戦カードが決まってワクワクがとまらねぇぜ!

穴熊決め込んでると思い込んでいたエルビスさんが追撃してくるとか怖ぇえ〜!不動ボスが動くという約束事が破られるとホラーめいた怖さがある
只野一人では歯が立たない相変わらずの強さのエルビス、エンダと合流して2対1でも「勝ったなガハハ!」とは全く言い切れないのが恐ろしいところ

殺気なしでヘッドショットかます銀鈴も怖いけどそれで死なないルクレツィア嬢も相変わらずホラー
動きの最適化された銀鈴と無駄の多いルクレツィアでは命中回避に関しては銀鈴有利で、火力がない銀鈴と無限耐久のルクレツィアではルクレツィアが有利というバランス
多くの人間にとっての恐怖だったルクレツィア嬢が、より強大な捕食者に出会い恐怖を覚える、これもまた節理か。その初めての恐怖も楽しめるのは被虐も楽しむのは流石のメンタルではある

これまでいいとこなしだったジェイくんがソフィアと互角に渡り合えるくらいに強いとは、これまで相手が悪すぎただけで予知と超力の2重能力が弱いわけがないんだよね
言われてみれば、事情は違えど悪魔と連れ立ってる2人なんだなぁ。
相手を通して自分の価値を証明したいジェイくんと、全てを捨てても恋人の夢を見たいソフィアではだいぶ価値観が違うけど

トビは自分自身の存在から刑務作業の目的にまで考察がいっているのは流石の鋭さ、頭も回らなきゃじゃない
すでに2階3階の調査はヤミナが行っているけど、ヤミナと違ってトビなら何か見つける期待感がある
詳細はCMの後というヴァイスマン対策、それどうやってるんだ脱獄王!?

418ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:34:47 ID:VSHBuE7.0
投下します

419ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:34:59 ID:VSHBuE7.0
One for all,all for one(一人は皆の為に。皆は一人の為に)





 「奴等と闘る前に、訊いときたい事が有る」

 弾倉の内部で響く声。外には聞こえぬ、“家族”にしか届かない声。

 「まずはサリヤ。“メカーニカ”の鎧はどんなモンだ?」

 声の主のは、スプリング・ローズ。欧州に悪名を轟かせたストリートギャング“イースターズ”の首魁だった少女。
 至極当然の様に場を仕切っても、誰も何も言わないのは、戦時に於いては“アイアンハート”と覇を競ったストリートギャングのトップが、リーダーに相応しいと認めているからか。
 
 「私達は武闘派じゃ無かったから、あまり戦った事は無いし、戦った所を見た事も殆ど無いけれど…アレはかなり頑丈よ。車に轢かれても耐えたくらいには」

 成程。と頷いて、ローズはサリヤへ向けていた視線を、異なる相手へと動かした。

「次は無銘。アンタはサリヤのサポートが有れば、あの狂犬と“メカーニカ”に勝てるか?」

 「四葉の負傷の具合は俺以上だが、俺もお前と戦った後だ。何方か一人だけなら勝てるが、二人を相手にするのは無理だな」

 「無銘さんは,『二人相手でも勝てる』と言うかと思っていましたが」

 ローズの問いに答える無銘。二人のやりとりに、サリヤが割って入った。

 「粋がっても始まらん。それに、そんな事を言うのは、互いに死力を尽くして戦った、ローズと四葉に対する非礼だ」

 「……そういう、ものなんだね」

 「そうだぜキヨヒコ。戦う男の気概って奴だ。ちったぁお前も見倣えよ」

 ローズに バシバシと背中を叩かれ、清彦が咽せる。
 そんな二人の様子を、無銘とサリヤが温かく見守っていた。


 誰もが理解している。
 今から戦う相手は、誰もが掛け値なしの強敵で。
 この戦いで、“家族”と別れなければならないかも知れないと言う事を。

 「じゃあ…決まりだ。3on3と洒落込むか」

 ローズが右の拳を左の掌に打ちつけ。

 「サポートは任せて」

 サリヤがウィンクをし。

 「こ…怖いけれど……頑張るよ」

 本条は決意を表明し。

 「誰かと力を合わせて戦うのは、二度目の経験だな」

 無銘はいつもの様に自然体。

 「まぁ…機会があれば、私は弾丸になる……。その時は、アンリに宜しく言っといてくれ」

 「ああ」
 「わ、わかった」
 「任せといて」

 四人は“家族”。誰か一人の問題も、四人掛りで臨んで解決する。
 彼等は“家族”。One for all,all for one。


◯◯◯

420ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:35:32 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯


 「ヨツハに気を許すなよ。メリリン」

 四つの殺意が絡まり合い、鬩ぎ合う、一触即発の空気の中で、ローマンはメリリンに警告した。

 「どういう事?アンタ達知り合いでしょ?それとメリリンって呼ぶな」

 肩を竦めて、ローマンは疑問に応えた。

 「あの駄犬は骨の髄まで戦闘狂だ。さっきは此方がヤル気を見せていなかったから、まだ抑えていたが、始まったら確実に見境が無くなるぞ」

 「ええ……」

 「ルーサーの野郎のシマ荒らして、アビスに放り込まれた気狂いだぞ。常識が通じるなんて思うな」

 天を仰いだメリリンを余所に、ローマンは四葉と本条へと、素早く交互に眼線を走らせた。
 未だに茫漠とした気配のままの本条と、獰猛な精気を総身に漲らせ、“その時”を今か今かと待ち望んでいる四葉。
 口の両端を吊り上げ、ネイ・ローマンが凄絶な笑みを浮かべる。
 餓狼の群れでさえも恐れて退散しそうな、そんな笑み。

 「俺だけを見て、俺だけを信じて、俺だけを頼れば良いのさ。メリリン」

 「キッッッッッッショ!あとメリリン呼ぶな」

 「ハッ!その意気だ!メリリン!」

 ローマンの全身に力が漲る。
 闘志と戦意が形を成して、全身を包み、大気を震わせる。
 赤黒い、乾いた血液の様な色彩のスパークが、ローマンを彩る様に、身体のそこかしこで発生した。

 「来いよ牝犬。ケリ着けようぜ」

 ネイ・ローマンの超力。破壊衝動を衝撃波として撃ち放つという至極単純なソレは、しかして単純で有るが故に、侮る事は決して出来はし無い。
 高威力の破壊エネルギーは攻防一体。生半可な攻撃は撃ち砕かれ、ローマンに届く事は決して無い。
 壁の様に撃ち放つ事や、全方位に放出する事も可能な超力は、死角に回り込むことすら許さない。
 速度と力で圧倒するスプリング・ローズが、ネイ・ローマンと複数回戦って未だ決着を得られない理由である。

 「今のテメェは見るに堪えねえよ」

 言葉に込められたのは、嘲りと失望と、ほんの僅かな怒り。
 
 「ルーサーの飼い犬の手下ではあったが…群れのアタマとしては、テメェの事は認めてたんだぜ。
 テメェは手下を盾にしないで、いつも先頭に立っていたからな。
 “ハイヴ”の時だって、テメェが血塗れになって戦った。手下をぶつける事もできたのによ」

 大気が震える。音になら無い振動が、無音のままに、この場にいる全員の鼓膜を震わせる。
 ローマンの周囲に溢れるエネルギーだけでも、その猛威を知らしめるには充分に過ぎる。

 「それが何だ?今の醜態(ザマ)は、先陣切るのは変わらねぇが、取り込まれて良い様に使われてやがる」

 乾いた破裂音が、ネイ・ローマンの周囲で連続して生じる。
 音の正体は、高まるネオスが、空気を引き裂き爆ぜさせる事により生じるものだった。

 「生きてた時も不細工だったが、今のテメェはlルーサーの手下に飼われていた時より不細工だよ」

 四葉の、メリリンの、本条の、全員の耳に聞こえた音。
 荒ぶるネオスが、音の域にまで大気を震わせだしたのだ。

 「殺してやるよ。スプリング・ローズ」

 強く強く、ネイ・ローマンの拳が握り込まれる。殺意と力を僅かも零さぬ様に。

 「一つ言っとくぜ。ローマン」

 答える声は、十代前半の少女のもの。
 一千人の敵も背を向けて逃げ出すだろう、ネイ・ローマンの殺意を正面から受け止め、同等の殺意をぶつけ返す少女が、齢わずかに十三などと、だれが信じるだろうか。

 「私は私の意思で、“家族”の前に立っている」

 本条の姿は既に無く、本条の居た場所に立つはスプリング・ローズ。
 ネイ・ローマンと並び立つ、欧州のストリート・ギャングの絶対者。

 「それは誰にも否定させねぇ」

 少女の姿が変わる。
 矮躯が膨れ上がり、大きく。巨(おお)きく変貌していく。

 「例えボスでもな」

 真紅の毛が全身を覆っていく。
 人体など骨ごと噛み砕けそうな強靭な顎に、生え揃った鋭い牙。
 鋭利な刃物を思わせる、凶々しい鉤爪。
 
 矮躯の少女の姿は消えて失せ、そこに立つは人狼(ヒトオオカミ)。

 「殺してやるよ。ネイ・ローマン」

421ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:36:03 ID:VSHBuE7.0
かつて欧州のストリートで、幾度も激突した2人。
 此処は欧州でも、ましてやストリートですら無い。
 何処とも知れぬ孤島で、強いられた刑務で、しかも片方は死人の残響ときている。
 それでも。
 それでも充分だと。
 殺すべき相手がいれば、それで良いと。
 立ち込める二人の殺意が宣言している。
 広大なエントランスの空間に、二つの殺意が充満し、鬩ぎ合い、弾けて爆ぜるその直前。

 「ねぇ、ネイ。私さぁ、もう一度会いたいと思ってる人がいてさぁ…。その人どうもローズと一緒に居るらしいんだ」

 最後の鎧を装甲し、内藤四葉が割って入った、

 「だからさぁ…。ローズを私が殺っちゃっても……良いよね?」

 「……此奴とケリつけるのは俺だ」

 「早く会いたいんだよぉ〜。トビさんも待ってるしさぁ」

 ローズと殺りあいたいだけだろうが。と、ローマンは心の中っでツッコミを入れた。
 しかし、である。この後にルーサー・キングと決着を着けねばならない。
 そこを考えると、難敵であるローズの相手を四葉に任せる。というのも手ではある。
 四葉とローズ、戦えば五分と五分。どちらが勝つにせよ。生き残った方は無事には済まない。
 四葉が勝てば良し、負けた所で、手負の獣を楽に仕留める事が出来る。
 ローズの“現状”を考えなければ、という前提付きだが。

 「ルーサーとケリつける事も考えると、お前にやらせた方が良いか」

 この後の展開を予測し、ローマンは敵意の方向を切り替える。
 最早敵は一人だけでは無い。

 「ヤッタァ!」

 破顔した四葉は、ガッツポーズを決めて前へと出る。
 ローズとローマン、何方へも襲い掛かれる場所へと。

 「けどさぁ…ネイ。私がローズにぃ、殺されそうになったらさぁ………アンタ私を殺すよねぇ……」

 歓喜漲る精気を全身から溢れさせ、四葉が言う。あまりの精神の昂揚に、呂律が上手く回っていない。
 死闘を前に猛り狂うその姿は、先刻エルビス・エルブランデス相手に、負傷して逃げ出した敗残の身とは思えなかった。

 「当然だ。軍勢型(レギオン)だぞ。お前が取り込まれて面倒なことになる様なら、俺の手で始末した方が、後の面倒がねぇ」

 「そっかあ〜〜。そうだよね〜〜〜」

四葉は笑う。口の両端が裂けたと言っても過言では無い程に吊り上がり、歯を剥き出した顔は、笑顔というよりも、屠った獲物に喰らい付く肉食獣を思わせた。

 「仕方無いよね〜〜〜〜……クヒッ」

 四葉の纏う濃密な闘志を浴びて、ローズとローマンは互いに視線を交わした後、揃って肩を竦めた。

 「サシでケリつけたかったんだがな。ローズ」

 「物事ってのは、ままならねぇよなぁ。ローマン」

 ギャングスターと人狼は、頷き合う。
 この先に何が起きるのか、知り尽くした風情だった。
 一人メリリンだけが何が何やら理解できずに取り残されていた。
 
 「キヒッ…キヒヒヒヒッ!」

 欧州のストリートで覇を競った宿敵同士の間に、狂気そのものの笑声が生じた。
 四葉の狂態に、メリリンが不安気にローマンへと近付き。
 ローズとローマンは揃って溜息を吐いた。

 「キヒヒヒヒヒヒヒヒッ……。ならさぁ……ネイも私の敵って事で良いよねぇ!!」

 狂悦、興奮、歓喜、高揚。
 複数の感情が混じり合った、聴くもの全てが狂気を感じる声と共に、四葉が行動を開始する。
 残った鎧である『ラ・イル』を纏い、手にした長弓から、機銃掃射の如き勢いと数の矢を、三人目掛けて撃ち放った。
 鋼人合体した四葉は、宮本麻衣の眷属の中で、最大の力と巨軀を誇るギガンテスに引けを取らない剛力を発揮する。
その剛力を以って、矢羽から鏃に至るまで鋼で出来た矢を射れば、放たれた矢は音速を超えて飛翔し、岩すら貫く魔弾と化す。
 
 「それが遺言かよ、もう少しは気の利いた事言えや。狂犬」

 ローマンとメリリンへと飛来した矢は四十と三。その全てを超力で微塵と砕き、ローマンが呆れた口調で呟く。

422ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:36:30 ID:VSHBuE7.0
 「テメェも今、此処で死ぬかぁ!?」

 大気が絶叫し、床が砕ける。
 尚も飛来する鋼矢を悉く塵と変え、ローマンと四葉の間を遮る壁の様に形成された破壊エネルギーが、四葉の五体を砕くべく放たれる。
 赤黒い破壊エネルギーは、幅にして20m、高さにして7m。その大きさを以って回避を不能としている。

 「アンタを殺してからにするよ!」

 手に執るは、長弓に非ず、柄が半ばで俺砕けた“ヘクトール”の鋼槍。
 エルビスの拳を防ぐのに用い、守備よく受けたものの支えられず、鋼で出来た柄が砕け、続いて胸甲が撃砕された。
 四葉の超力、『pquatre chevalier(四人の騎士)』。武装した四体の鋼の鎧を召喚し戦わせる超力。
 召喚に際しては、全てを出すのでは無く、一部だけを出現させるという事も可能。
 例えば────騎士の持つ武装のみを出現させるという事も出来るのだ。

 「どっせええええええええい!!!!」

 鋼の鋒を床に突き立てると、叫喚と共に槍を振り上げる。
 大気との摩擦熱で、鋒が燃え出しそうな速度で振り上げられた槍先から、引き剥がされた床が飛ぶ。
 優に数百キロは有るコンクリート塊は、ローマン超力とぶつかり、秒と持たずに砕け散る。
 赤黒い破壊エネルギーは、次いで四葉を捉え、後方へと跳ね飛ばした。


 宙を舞う四葉を見る事無く、ローマンはローズへと向き直り様に、超力を発動させる。

 「土は土に、灰は灰に…塵は塵にっっってなあ!!!」

 死者を埋葬する際の、祈りの言葉を叫び、拳を振るって、破壊衝動を力と変えて撃ち放つ。
 床が捲れ上がる。大気が悲鳴を上げる。轟く音は、龍の咆哮にも似て、メリリンの鼓膜を打ち叩いた。
 形容し難い響きと共に、鋼鉄で出来たホールの扉が捻れて曲がり、複数の鋼片へと裂けながら宙を舞う。
 
 壁や床、高く天井にまで達した鋼片が跳ね返って落ちる中を、真紅の影が疾駆する。
 
 「相変わらず単純だなぁ!そんなんじゃあ当たらねえよマヌケ!猿でも少しは工夫をするぜ!!」

 「残骸が喋るな!癪に触るんだよ!」

 再度放たれる破壊の奔流は、虚しく床を粉砕するだけに終わる。
 ローマンが狙いを付けた時には、既に回避行動に移っていたローズは、ローマンの攻撃で砕けて宙へと舞い上がった床の破片を蹴り飛ばして加速、空中からローマンへと強襲を掛ける。

 「アホが!」

 ローマンが拳を繰り出す。
 ローマンとローズ、二人の間の距離は5m。あまりにも離れ過ぎているが為に、繰り出した拳は、空を打つだけに終わる。
 拳を放ったのが、ネイ・ローマンでなけれさえすれば。
 
 赤黒い奔流がローズを飲み込み────破壊エネルギーが過ぎ去った後に残る、気配も存在感も何もかもが希薄な男。

 「ああ!?」

 「良くやったキヨヒコ!姉ちゃんが褒めてやるぞォ!!」

 “敵対してはならない”とまで言われるネイ・ローマンの超力。
 一度敵対して仕舞えば、怒れる神の劫罰の如くに降りかかる破壊をやり過ごしたのは、本条清彦。
 殺意も敵意も持たず、気配さえ希薄で、かつローマンからは敵と認識されていない本条は、ネイ・ローマンの破壊の意志をすり抜ける。
 “家族”の中でも、知にも武にも暴にも秀でていない本条が、欧州のストリートの絶対者を出し抜いたのだ。
 有りえざる事態ではあるが、不条理が当たり前の様に生じるのが超力が横行する新時代。
 軍勢型(レギオン)の特性を活かした回避と奇襲は、ものの見事に成功し、本条はローマンへと迫る。
 だが、キングス・デイという巨大組織を相手に戦い続けたローマンは、この程度の不条理には飽きる程に遭遇している。
 驚きつつも、意識を余所に、肉体は迅速に対処。
 拳にに赤黒いエネルギーを纏わりつかせ、本条の胸部に鋭い拳打。
 素人の拳打では有るが、踏んだ場数が動きに洗練を齎し、纏わりつかせた超力が、攻撃に過剰なまでの殺傷性を付与する。
 並の“ネイティヴ”であれば、確実に心肺が破裂する威力の拳が、本条の胸部を捉え、鈍い音が生じた。

423ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:36:55 ID:VSHBuE7.0
 「そういう事かよ!」

 ローマンの拳を受けたのは、本条清彦では無くスプリング・ローズ。
 “弾丸”として取り込まれ、能力が劣化しているとは言え、その強靭な毛皮と筋肉は、ローマンの拳打の威力を真っ向から受け止めて微動だにしない。

 「ハッハァ!良い家族だろぉ!」

 振われる真紅の剛腕。残骸に過ぎぬ身であるとはいえ、欧州のストリートに名を轟かせたスプリング・ローズ。
 凡百な強化系ネイティヴならば、躱す事など出来ない速度で腕が振り抜かれる。

 「遅えよ」

 されども相手はネイ・ローマン。本条清彦の“家族”となる前のスプリング・ローズと複数回殺し合って、決着を見なかったギャングスター。
 見慣れたローズの動きよりも、遥かに遅くなっている事に、嘲る余裕すら見せながら、半歩退がってローズの振るった爪を回避、至近距離から凄絶な威力の衝撃波を撃ち放った。

 「ワンパだって言ってんだろ」

 ローマンが衝撃波を放つよりも早く、後背に廻り込んだローズが、背後から五指を揃えた貫手で、ローマンの心臓を穿ちにいく。
 響き渡る鈍い音。ローズの爪を、赤黒い熱風が弾き飛ばした音だった。
 右腕を弾き上げられ、舌打ちしたローズが右の蹴りでローマンの足を刈ろうとするも、ローマンは超力を纏わせた脚で床を蹴り、前方へと跳躍。
 ローマンが空中で身を捻ってローズへと向き直った時には、既にローズが吐息が掛かる距離にまで密着していた。
 ローマンの眼が驚愕に見開かれる。
 明らかにローマンの知るスプリング・ローズの動きでは無い。
 ローマンの知るローズの動きは、並の獣化系超力者や、身体強化系超力者が比較にならない程の身体強化を用いたゴリ押しだ。
 ローズ自身の膨大な戦闘経験が、動きの洗練や駆け引きを齎してはいるが、骨子となるのは超力んk基づく力押し。
 それが、明らかに異なっている。
 ローマンの動きを予測して、先手を取って動いてきている。
 理論の蓄積と、繰り返した鍛錬に基づく理合で動いている

 「遅えよ」

 先刻のローマンの嘲りをそのまま返し、スプリング・ローズの禍爪が、ローマンの首筋へと振われた。
 
 ────間に合わない。

 ローマンの脳裏を“死(DIE)”の文字が過ぎる。
 メリリンがドローンを操作してボルトを放つも、超力を纏ったローマンの拳すらが通じぬ人狼の体毛を貫く事は出来ず、虚しく跳ね返った。

 ────死ぬ。

 ローマンの胸に沸き起こる諦念。そして諦念を薪として燃え盛る凄まじい赫怒。

 ルーサー・キングの首に手が届くというのに、相見える事もできずに死ぬ事への憤激。

 何処かの組織に捕まった仲間が、薬漬けにされ、全身を素手で刻まれ砕かれ潰されて、惨殺された動画を見て、報復を誓った時の激怒。

 麻薬根絶という大願を果たせず死ぬ事への憤慨。

 複数の“怒り”胸の内で渦を巻き、荒れ狂う激情が、身体を突き破って噴出しそうな錯覚を覚える。
 今の状態で超力を放てば、ブラックペンタゴンを半壊させる事も出来るだろうが、ローマンが超力を放つよりも速く、ローズの爪がローマンの頭を落とすだろう。
 
 ローズの爪が、首筋に触れる。その瞬間が、ローマンの眼にはやかにハッキリと、緩慢にすら映った。
 爪が皮膚を破り、眼前の人狼(ヒトオオカミ)の体毛を思わせる赤が滲んで────。

424ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:37:32 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 ローズの爪が上方に跳ね上げられた。
 ローズの体毛を貫けず、跳ね返ったボルトガン床に落ちて、硬い音を立てた。

 ローマンとローズの間を奔る剣閃。
 両目を薙ぎに来た剣閃を、ローズは右の五爪で受け止め、支えきれずに三歩後退する。
 ローマンの眼が、何かを察した様に細められた。
 ローマンが浮かんだ疑問の解消に勤しむ間にも、乱入してきた鎧姿は、連続して鋼の長剣を振るい続け、ローズを後ずらせ続けていった。
 舌打ちしてローズが大きく後ろへ飛ぶ、ローズを追って跳躍した鎧に対し、ローズの姿がオッドアイの女性の姿へと変わり、鎧へと両手の十指を向けた。
 連続して空気が震えた。鎧へと向けられた十の指先から、間断無く撃たれ続ける空気弾。
 空気の塊が鎧の表面で弾ける音が響き続けるが、鎧は意に介することもなく猛進し、剣をを振るい落とし、振り上げ、横に薙ぎ、連続して刺突を入れる。
 その全てを女は躱すと、再度人狼の姿となって後方へと跳躍。鎧も後を追って跳ぼうとしたタイミングで、ローマンの放った衝撃波が奔り抜けた。

 「……ローマン殺したら、無銘に変わってやっからよ。邪魔すんな。狂犬」

 ローマンの衝撃波を躱し、怒りを滲ませてローズが言う。
 後一息でローマンを仕留められたというのに、邪魔をされたのだ。怒りの一つも湧くというもの。

 「い・や・だ・ね!!全員私が喰うの!」

 ローマンの生命を救ったのは内藤四葉。
 衝撃波を受けて跳ね飛ばされ、床に転がったのものの、即座に起き上がって、ローマンとローズの殺し合いに割って入ったのだ。
 ローマンを救った理由は他でも無い。ローマンが死んでローズとタイマンになるよりも、ローマンとローズを同時に相手にする方が面白そうだから。
 欧州ストリートの生ける伝説である、ネイ・ローマンを、心ゆくまで味わいたいから。
 この、常人の利害損得とは無縁の基準は、脱獄を全てに優先する脱獄王に通じるものがある、
 トビと四葉。二人が道連れになるのは至極当然というべきだった。
 ともあれ、狂人そのものの四葉の思惑により、ローマンの生命は救われたのだった。

 「キシシシッ……。ねぇローズゥ、アンタ“達”の動きさぁ…私凄く覚えがあるんだぁ……無銘さんでしょ?」

 手首と指を巧みに動かし、握った長剣を片手で器用に舞わしながら、四葉が
上擦った声で訊く。
 
 「動きが妙に良くなってると思ったら、お前動かしてるのは別の奴か?負けて食われて、チンケなメンツもプライドも、無くしちまったかぁ!?」

 四葉に次いで、ローマンの嘲り。
 己一人で戦う事も出来なくなった負け犬と、スプリング・ローズを嘲罵する。

 「なんとでも言えよ、ボケが。これは今の私の力。私が支え、私を支えてくれる、“家族の絆”だよ」

 「………やっぱ見るに耐え ねーわ。今のお前」

 殺されて取り込まれて、その様で“家族の絆”。生きている時のローズならば、決して口にしないどころか、思いもしなかっただろう言葉。
 それを誇るかの様に語るローズは、殺されて在り方を捻じ曲げられた“残骸”だ。
 ローマンにしてみれば、向かい合っているだけで、反吐が出る様な思いだった。

 「無銘って奴か?お前を殺したのは」

 「ああ?勝ったのは」「俺だ」

 ローズの声に、精悍な男の声が被さった。
 四葉以外は初めて聞く声で、それでも声の主が無銘という名の男だと即座に理解する。

425ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:38:04 ID:VSHBuE7.0
 「テメェ私にしこたまやられて気絶しただろうがっ!」

 一人芝居を始めたローズを放置して、ローマンはメリリンへと向き直った。

 「おいメリリン。さっき狂犬に空気弾撃ってたのが“サリヤ”か?」

 「そうだよ。あとメリリンって呼ぶなクソガキ」

 「…“サリヤ”の超力は、あんなモンだったか?」

 「いいや…サリヤの空気弾は、大口径マグナム位の威力は有った……けれど、アレじゃあ小口径の弱装弾だ」

 そうかい。と呟いて、次に四葉の方を向く。

 「おい狂犬。一つ訊きたい事が有る」

 「何さ」

 「無銘って奴は、どんな超力を使用(つか)っていた?」

 「知らない。使わなかったし、強化系じゃないかなぁ」

 四葉は過去の死闘を思い出して、懐かしげに呟く。
 拳で蹴りで、四葉の纏う鋼の鎧を撃ち砕き、自前の身体能力と、岩をも砕く鎧の剛力とが合わさった、鋼人合体した四葉を相手に、互角に殴り合った無銘の姿。
 四葉や宮本麻衣の様に、何かを召喚すること無く、ローマンの様に力を放つ訳でも無く、ローズの様に変身するでも無く、メカーニカの様に、武器を造る訳でも無い。
 只々己が五体を以って、四葉と戦い引き分けた強者。
 超力が何かと問われれば、身体能力強化系と、誰もが答えるだろうが。

 「違うな。ローズと戦って、メリリンに話を聞いて理解ったが、あの軍勢型(レギオン)に取り込まれると、超力が弱体化する。超力で身体能力を強化するタイプなら、ローズを殺すのは無理だ」

 「ああ〜。超力使って私と互角なら、弱体化した状態でローズと戦うと……死んじゃうねぇ〜。
 つまり、無銘さんは、大根卸さんと同じで……クヒヒッ!悪いねネイ!私だけそのままで!」

 「うるせえ盛るな狂犬。楽に殺せるんなら、それに越した事はねぇ。お前と同じにするな」

 「はぁ〜。男のロマンとか気概とか無いの?男のクセに。タマ付いてる?」

 「うるせえよ!それより狂犬。さっきぶっ飛ばされて分かっただろう?命を助けて貰った借りと昔のよしみだ。詫び入れるなら許してやるぜ」

「んん〜。そうだねぇ、ネイの超力はやりづらいしなぁ……。謝っとこうかなぁ」

 虚空を見上げ、腕を組んで思案する。

 「とか言うとでも?」

 「思わねぇ」

 首目掛けて薙ぎつけられた長剣を、ローマンは衝撃波で弾き飛ばす。

 「テメェ等二人とも、此処で死ね」
 
 ギャングスターが告げる殲戦布告。その言葉を開戦の号砲とし、三つ巴の死闘が開始された。

◯◯◯

426ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:38:36 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 鋼の長靴が床を踏み鳴らし、長剣が空を裂く音が絶え間なく響き続ける。
 衝撃波が大気を軋ませ、床と壁を撃ち砕く。
 空気の弾丸が乱れ飛び、真紅の人狼(ヒトオオカミ)が、爪を振るう。
 三者三様。沸る殺意を抑えもせずに、他の二人の生を此処で終わらせるべく死力尽くす。

 「ッだあありゃああああ!!!」

 四葉が、ローマンの胴を輪切りにするべく、長剣を横薙ぎに振るい抜く。
 対してローマンは、迫る長剣へと左掌を差し出す。
 生身の掌で、鋼の刃を防ぐなどという事は、旧時代に於いての不可能事。
 しかしていまは新時代。超力を用いれば、武器や装甲が無くとも、鋼の刃は防ぎ得る。
 乾いた音がして、四葉の振るった長剣が弾かれる。
 ローマンの左掌に生じた赤黒いエネルギーの塊が、鋼の剣身を弾いたのだ。
 刃が弾かれた勢いで、大きく仰け反り隙を晒した四葉へと、ローズの凶爪が振われる。
 本条の“家族”に加わり、心の安らぎを得たのと引き換えとなったかの様に、弱くなった人狼(ヒトオオカミ)だが、それでも鋼の鎧を内部の人体ごと引き裂く力は確と有している。
 姿勢を崩し、更に不意を突かれた強襲を受けたにも関わらず、四葉は当然の様に爪を回避して、渾身の前蹴りさえ見舞ってみせる。
 数歩後退ったローズへと、追撃の刃を振るう事無く、その場から跳躍。刹那の間も置かずに、四葉の居た場所を、鋼の杭が過ぎ去った。
 
 「“メカーニカ”の話は聞いていたけれど、結構やるじゃん!」

 杭を撃ち放ったのは、メリリンが作成した杭打ち銃。
 設置式ボルトガンとラジコンを材料に形成し、ローマンの攻撃で砕けた床を杭と為して撃ち放つ。
 四葉の鎧にも、ローズの身体にも、ボルト如きでは通じぬと識って、新たに作り出した一品だ。
 作成して、即座に四葉を狙撃するも、死角から撃ったにも関わらず、簡単に回避されてしまった。
 四葉の勢いは止まらない。それどころか、一合交える度に、意気が軒昂となり、全身に力が漲っていく。
 ローズとローマンとメリリンの、三人の攻勢を悉く躱し捌いて、寄せ付けない。
 脳の自認が身体に影響して、身体機能すら変異させる、ネイティブに見られる特性を、四葉は当然の様に発揮している。
 その特性により変異した場所は、脳。
 四つの鎧を自らの意思で操るという性質上、四葉の脳は異常とすら言える成長を見せていた。
 自律で動く宮本麻衣の“眷属”達を相手にして、四つの鎧を縦横に駆使して渡り合った様に、
 狂乱した“眷属”達の猛攻に晒されても、凌ぎ切った様に。
 大脳の持つ情報処理能力が、超力によりネイティブの比では無い程に跳ね上がっている。
 単騎であってもその脳力は、存分に発揮されていた。
 複数方向からの攻撃を全て見極め、優先順位を正確に定めて対処、最適なタイミングを見極めて反撃する。
 四体の練達の武技を振るう鎧も、自らの身体能力に、鎧のそれを加算する鋼人合体も、四葉の強さの本質では無い。
 大根卸呪魂という、超力に拠らぬ強さを持つ怪物に焦がれた少女は、見事に自らを超力に拠らぬ強さを持つ存在へと育て上げたのだ。
 エルビス・エルブランデスと戦った時の様に、脳震盪を起こしても、なおも戦い続けられる程に、四葉の脳は優れている。

427ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:38:55 ID:VSHBuE7.0
対する本条清彦もまた、同様の強みを有している。
 傷ついた無銘は戦わず、無銘の指示を受けてローズが動き、戦う。
 ローズの劣化した超力を、無銘が補い、動きを練達の武人のそれに変えている。
 ローズの感覚と身体能力に、無銘の技量に判断力、この二つが合わされば、四葉もローマンも、有効打を加えるに至れない。
 更に本条が 現状のローズでは到底耐えられない上に、回避が困難なローマンの超力に対処し、サリヤが射撃により援護する。
 戦闘狂の無銘も、ローマンと決着を望むローズも、メリリンを眼前にしたサリヤも、共に“家族”の為に己を歪めて、協力して敵と対峙する。
 この敵には、我意を捨てて、団結しなければ、“家族”が死んでしまうと理解しているから。
 嗚呼、美しき家族愛。彼等の絆に敵は無い。

 この両者に対するネイ・ローマンは、如何なる強みを有しているのか。
 本城清彦と内藤四葉、両者の強みがソフトの部分に有るとすれば、ネイ・ローマンの強みはハードの部分に存在した。
 欧州のストリートに君臨し、邪悪の巨魁ルーサー・キングから、殺しておきたい相手だと認識され、刑務早々に大根卸呪魂と渡り合ったネイ・ローマンの強さを支えるもの。
 単純な肉体と超力の強さ。そして数多の場数を踏むで得た経験。
 撃ち放つ赤黒い超力は、銃弾はおろか超力ですらも捉えて無効化するドミニカ・マリノフスキの重力場をも貫き、
 集束させれば、ヤワな超力など軽く弾く強度の肉体を有する、人狼と化したスプリング・ローズすら撃ち倒す。
 素の身体能力ですらが、膨大な戦闘経験により鍛え上げられ、下手ね身体能力強化系の超力者ならば、最も容易く殴り倒し制圧出来るレベルに達している。
 小賢しい理屈付けなど必要としない。単純(シンプル)な強さ。
 殺人者として生きてきた、ジェーン・マッドハッターをして、『格が違う』と言わしめたその戦力。
 三人が入り乱れる乱戦であっても、巨大組織キングス・デイを相手に戦い続けたローマンにとって、多対一は、むしろ慣れ親しんだもの。
 経験を活かしに活かし、攻防一体の超力を存分に駆使して、他の二人を寄せ付けない。

428ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:39:27 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 振り下ろされる長剣を、ローマンは後ろに下がって躱すと、首筋目掛けて放たれた爪へと、超力を纏わせた拳を打ちつける。
 詰めと拳が接触した場所で、乾いた炸裂音が生じ、ローズの体毛とローマンの前髪を掻き乱した。
 更なる攻撃を行おうとしたローズの顔面へと、複数方向からボルトが連続で飛来する。
 思わず手で目を覆ったローズの腹に、ローマンが超力を纏わせた前蹴り。
 生前のローズならば、直撃しただろう一蹴は、ローズが後ろに下がった事により宙を穿つに留まった。
 攻撃を空振りした程度で、ローマンは止まらない。蹴り脚を踏み込みに用い、勢いのままに再度の拳打。
 この攻撃をローズは大きく横に飛んで回避すると、サリヤの姿に変わりローマンへと指先を向ける。
 
 「洒落臭ぇよ!」

 例え十指を用いての乱射であっても、ローマンの超力は空気弾の全てを砕いてサリヤを殺す。
 ローマンとサリヤの間を隔たる様に放たれた衝撃波は、本条清彦が擦り抜ける。
 だが、本条が擦り抜けたその先には、既にローマンが距離を詰め、超力を纏わせた拳を繰り出していた。
 至近距離で範囲攻撃を放たれれば、例え生前のローズの脚を持ってしても、回避は困難。現在では不可能だ。
 ならばどうするか?単純な問題だった。先程の様に擦り抜けるしか無い。
 そして、ローマンの超力を擦り抜けられる人格は、戦闘能力が皆無である。
 つまりは、楽に殺せる。
 本条清彦はネイ・ローマンの超力を擦り抜けられるが、ネイ・ローマンその人には無力なのだ。
 振われる拳。カリブ海の怪物、ドン・エルグランドでさえもが、受ければ只では済まないだろう猛撃が、本条へと奔る。
 本条が受ければ良くて瀕死、普通ならば即死するだろう攻撃は、先刻の蹴りの様に虚しく宙を疾り抜けた。
 ローマンが間髪入れずに衝撃波を放つ。
 拳が直撃する直前に、本条がしゃがみ込んだのが見えた為だ。
 そして至近距離で攻撃を空振りすれば、次に来るものは。

 「言っただろうが!家族(私達)を舐めるなってなぁ!!」

 当然、スプリング・ローズの猛襲だ。
 真紅の剛腕が、ローマン目掛けて五爪を振るう。
 衝撃波でローズを後ろに退げる事が出来たとしても、胸を切り裂かれる事は避け得ない。
 メリリンが、咄嗟にローマンの襟首を掴んで引っ張らなければ、そうなっていただろう。
 メリリンにより、ローマンの上体は大きく仰け反り、ローズの爪は虚空を薙ぐ。
 衝撃波を受けてよろめいたローズへと、渾身の一撃を浴びせて仕留めようとしたその時、メリリンがローマン前へと出る。
 甲高い金属音を響かせ、鋼の剣身がメリリンの纏う鎧に食い込んだ。

 「随分と頑丈じゃない」

 「俺のネオスに耐えた位だからな」

 あまりの速度でで放たれた破壊エネルギーにより、高速で押し出された大気が、結果として爆ぜる。
 ローマンの放つ凄絶な威力。
 赤黒い本流が三人の女を呑み込み。直後、ローマンは顔めがけて飛んできた鉄拳を、大きく後ろに飛んで躱す。

429ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:39:55 ID:VSHBuE7.0
 「危ないじゃないかクソガキ!」

 「加減はしたし、鎧着てるし、敵意無いから問題無いだろ?信じてるんだぜ、メリリン」

 「次やったら殺すよ。あとメリリンって呼ぶな」

 「戯れるなら、私としなよ!」

 ローマンとメリリンの間に割って入るには、内藤四葉。
 神々の終末(ラグナロク)の時至るまで、ヴァルハラにて殺し合いを続けるエインヘリヤルの如く、戦いを欲し、求め、望み、渇える狂戦士。
 二十を超える鋼矢を、2秒と掛からずローマンとメリリン目掛けて乱れ撃つ。
 裏社会で名の知られた殺し屋であるジェーン・マッドハッターが、一撃で敗北を認めた苛烈な超力を複数受けて、その戦意は些かも減衰していない。どころかより一層盛んとなっている。
 
 「じゃあ遊んでやるよ!」

 ネイ・ローマンの超力は攻防一体。
 銃撃どころか砲撃ですら、飛来する弾を微塵と砕いて防ぎ切り、放った超力で射手を砕く。
 突進する普通乗用車程度であれば、台風に遭った木葉の如くに宙に舞わす事が出来る。
 かつて、ネイ・ローマンを殺す為に、大型犬トラックが持ち出された所以である。
 今もまた、放たれた衝撃波は、鋼矢を全て砕き散らし、四葉に何度目かの空中浮遊を経験させた。

 「芸が────」

 ローマンの言葉が中途で途切れる。
 メリリンに体当たりをされて、跳ね飛んだのだと理解したのは、元居た位置に立ったメリリンの胸に、ローズが強かに強打を撃ち込んでいるのを見た時だった。
 胸部の装甲が大きく歪み、分厚い鎧に覆われたメリリンの身体が広報へとすっ飛んでいく。
 急いでローズ狙いをつけたローマンは、後背から迫る歓喜と殺意の混合物(ブレンド)を感じた。

 「引っ掛かったぁ!!!」

 全ては四葉の計算尽く。
 ローズから距離を置いてローマンへと攻撃し、ローマンの敵意を自身に惹きつける。
 ローマンの意識が四葉に向いている間に、ローズは本条に交替。本条の超力を活かして悟られずに近づき、接近したところでローズに交替。
 そして、ローズが渾身の不意打ちを見舞ったのだ
 ローズに対し、メリリンが気付けたのは、メリリンの意識が“サリヤの亡霊”に注がれていたからだ。
 ローズがローマンへの奇襲を成功させれば、ローズの晒した隙に乗じる。ローマンが迎撃すれば、ローマンの晒した隙に乗じる。
 どちらへ転んでも四葉に損は生じ無い。この作戦が前提として、必然的に、ローマンの猛撃を受ける事になるという事を除けば、だが。
 後ろから振われた凶刃に対し、ローマンは前転する事で、回避と距離を取る事を両立させる。背中を切先が掠り、熱いものが生じた。
 追撃してくる四葉に対し、全方位に衝撃波を放つ事で対処するも────。

 「何度も何度も!食わないよ!!」

 四葉はローマンを起点として、前後左右に放たれる超力の死角────ローマンの頭上へと跳躍。長剣の切先をローマンへと向け、脳天目掛けて繰り出した。
 ローマンもまた、頭上の四葉へと超力を纏った拳を繰り出すが、僅かに遅く、四葉の切先が、先にローマン頭を抉る。
 ローマンが致死の一撃を受ける、その直前。四葉は身体の向きを変え、振われたローズの爪と、長剣を噛み合わせた。
 
 「一遍に仕留める好機(チャンス)だったんだけどなぁ」

 「そうは簡単には行かないよ」

 笑い合うローズと四葉。
 四葉がローマンを殺したタイミングに合わせて、四葉を殺害する事で、強敵を2人纏めて撃破するというローズ“達”の目論見は、四葉が気づいた事により失敗に終わった。
 同時に振われる剣と爪。超力を放とうとしていたローマンは後ろへと跳び、斬殺を回避する。
 
 「愉しくなってきたねぇ〜!!」

 四葉が猛り、

 「テメェ等さっさと死にやがれ」

 ローマンの苛立ちは募る一方。

 「お前等が死にやがれ」

 ローズの殺意は変わらない。

430ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:40:17 ID:VSHBuE7.0
 交錯する剣と爪と拳脚。
 鋼の長靴(ブーツ)が床を踏み砕き、真紅の人狼(ヒトオオカミ)の爪が空を裂き、赤黒いエネルギーが壁を穿つ。
 広大なエントランスは、放埒に暴れ回る三人に耐える事など出来はせず、一秒毎にその姿を喪っていく。
 
 「化け物共め…」

 メリリンの声は、呻きであり心の軋む声だった。
 メリリン一人だけ、着いて行けていない。
 三人の戦いは、ネイティブを基準としても常軌を逸脱していた。
 元より戦闘の経験の無いメリリンでは、この戦闘に介入する能力を持ち合わせ無い。
 制作した杭打ち銃も、このままでは宝の持ち腐れだ。
 何か出来る事は無いかと思っても、出来る事が思い付かない。

 鋼の刃と爪が交わり火花を散らし。
 拳と爪が激突し。
 鋼矢を衝撃波が粉砕し。
 空気弾を鋼弓が打ち払い。

 メリリンが見守る中で、三人の死闘は激化の一方を続けていく。

 
 ◯◯◯

431ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:40:44 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 四葉はローマンの拳を剣で受け、ローズの爪と数合撃ち交わし。ローマンの衝撃波をローズ共々後方に跳んで回避する。
 着地と同時に、折れた鋼槍を取り出して、床に突き立てると、ローズへと向かい掬い上げ、投げつけた。
 
 「ウゼェ!」

 時速にして100km以上の速度で飛来する、100kg近い床の破片を、ローズは腕を振るって弾き飛ばし────視界を鋼色が埋めた。

 「ゴアっ!」

床の破片の後から跳躍した四葉が、ローズの鼻面にドロップキックを見舞い、派手に後方へと蹴り飛ばす。
 間髪入れず、四葉は折れた槍を床に投げつけると、突き刺さった槍を足場にして、思い切り飛ぶ事で、ローマンの衝撃波を回避する。
 空を往く甲冑姿が、不意に大きく姿勢を見出し、地へと落ちた。
 
 「死ねやオラァ!」

 墜落した四葉に迫る真紅の影。サリヤが十指から空気弾を放って四葉を撃ち落とし、立て直す前にローズが仕留める。
 この連携攻撃に対し、四肢に力を込めて、思い切り跳ぶ事で、ローズの禍爪を回避。
 再度放たれた空気弾を、長剣を振るって打ち砕く。

 ────チャンピオンに壊されて無ければなぁ。

 連携の取れた攻撃に、四葉は内心で羨望を覚えた。
 エルビスに壊された、三つの鎧が有れば、此方ももっと連携の取れた戦いを披露してやるのに。
 紫骸に蝕まれ、破城槌の如き拳を受けて砕けた鎧は、四肢を覆う部分が残るだけで、胴と頭部は未だに修復中だ。
 これでは出したところで動かせない。オジェ・ル・ダノワのハルバートも、ヘクトールの長槍も、破損していて戦力として機能しない。
 
 ────ああ、でも、手足が有るなら、何とかならないかなぁ。

 考えながら、ローズの爪を躱し捌いて、剣を横薙ぎに振るい抜き、後ろへ下がって躱したローズへと、逆方向から再度の横薙ぎ。
 ローズが爪で止めたのと同時、前蹴りをローズ腹へと放つも、大きく後方に跳んで躱される。
 視界の端で、ローマンが拳を振り上げるのを見て、跳ぼうとした直前。衝撃を受けてよろめいた。
 ローズがサリヤへと変わり、十の指から同時に空気弾を放ったのだ。
 空気弾に四葉の鎧を貫く威力は無いが、十発同時に直撃させれば、四葉の姿勢を崩す程度の事はできる。
 
 ────しまっ

 よろめいた身体を立て直すことも出来ず、ローマンの衝撃波が放たれた。
 飛来する赤黒いエネルギーの奔流。それを何処か醒めた目で見ているおのれを自覚する。
 これは躱せない。これは防げない。これは死ぬ。
 醒めた思考で現実を正しく把握し。

 ────どうせ死ぬなら。いっちょやってみようか。

 砕かれた鎧を起動する。現れたのは三対の鋼の籠手。
 ひび割れて、指すら欠けている籠手達は、四本が四葉の身体を引っ張って、衝撃波の射線から外し、残りの二本が、ローマンへと殺到した。
  
 「鬱陶しい」
 
 鎧の腕だけが飛んでくるという非条理にも、即座に応じるのが、超力時代に生まれたネイティブ。
 衝撃波で二本の腕を吹っ飛ばすも、直後に足元から出現した鋼の脚に、顎を蹴り上げられた。

 「俺と戦った時には、使わなかったな」

 ローズから聞こえる、男の声。
 ローズの“家族”となった無銘の声。

 「今さ、やってみたら、出来たんだ」

 「あ〜。面倒くささに磨きかけてんじゃねぇよ狂犬」

 「凄いでしょ」

 右手でVサインをする四葉に対し。

 「「死ね」」

 ローマンとローズ。相入れない二人の見解がものの見事に一致した。

 
◯◯◯

432ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:41:56 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 タイマンならば、ローマンは既に本条を下している。
 本条がローマンの超力を擦り抜けられる問いったところで、ローマン自身の拳脚に耐えられ無い。
 因縁の相手であるローズにしても、生前ならば、ローマンの拡散型の衝撃波ならば軽く耐えるが、今のローズは拡散型だろうが当てれば大きなダメージを受ける。
 つまりは、拳の届く位置で衝撃波を放てば良い。
 そうすれば、本条に変わっても殴り殺せば済むし、ローっvズのままなら大ダメージを負うだけだ。
 ローマンのこの見立ては正しい。この戦い方をされれば本条もローズも諸共に死ぬ。
 ならば何故ローマンはそれをしないのか、答えは二つ。内藤四葉の所為である。
 衝撃波を放ち、本条に代わった隙を狙おうにも、そこへ四葉の横槍が入る。
 四葉にしてみれば、愉しい三つ巴の時間を終わらせたくは無いのだろうが、ローマンにとっては良い迷惑でしか無い。
 もう一つはローズの動きだ。衝撃波を放つと、ローズは後ろへ下がる。
 ローマンの拳が届か無い位置まで下がる。
 そうして、本条に代わって、ローマンの衝撃波をやり過ごす。
 その後はサリヤに代わって空気弾を撃つか、ローズに代わって爪を振るう。
 この繰り返しだ。この繰り返しで、ローマンを疲弊させ、若実に仕留められる様になるまで弱らせようとしている。
 ローマンは知らぬ事だが、今のローズ“達”の動きは、ローズがローマンを殺す為に考えた動きと、性質を同じとするものだった。

 「クソが…」

 必然として、苛立ちが募り続けて入る。
 募る苛立ちの中で、冷静な部分が告げている。
 四葉に助けられている状態のローズが、四葉を平然と殺そうとするのは、何か隠し球が有る所為だと。
 その隠し球を見せる前に、ローズを殺すべきなのだが、奔放に暴れ回る四葉がそれを赦さ無い。

 「クソが…」

 戦意が高まる。怒りが込み上げる。
 凶暴な力が、身体の内側に充填されていく。
 だが、解き放つ事は叶わない。
 ローズの動きと四葉の横槍。この二つの要素が、ローマンの怒りに鎖を付ける。
 自由の息子達(Sons of Liberty)名を冠する超力が、鎖で雁字搦めに戒められている。

 「クソッタレが…」

 ローズの爪を衝撃波で弾き、首を薙ぎにくる鋼の刃を回避して、四葉の腹に前蹴りを入れて下がらせる。
 大気を震わせ、衝撃波で二人纏めて薙ぎ払い、擦り抜けた本条を無視して、四葉へと拳を振るう。
 赤黒いエネルギー奔流が真っ直ぐに四葉へと飛ぶが、四葉は大きく横に跳ぶことで回避。ローマンとローズへと鋼矢を乱れ撃った。
 大気が爆ぜ、折れ砕けた鋼の矢が宙を舞う。
 四葉の放った矢を、床に伏せて全て回避したローズが、低い姿勢を維持したままでローマンへと走り寄った。

433ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:42:12 ID:VSHBuE7.0
舌打ちして、ローマンはローズの攻撃を待つ。
 無闇に衝撃波を撃っても意味が無い。ローズの攻撃に合わせて、カウンターとして放つ事で、ローズを殺す。
 身体の周囲に赤黒いスパークを纏わせ、ローマンはローズの攻撃を待つ。

 四葉が再度放った矢を、ローマンが全て粉砕する。

 ローズがローマンを間合いに捉える。

 四葉へと放たれ、躱された衝撃波が、壁に穴を穿ち、朝の光をエントランスへと差し込ませる。

 砕けた鋼の矢が床に落ちる音が響く中、ローズが遂に右腕を振るい、ローマンふぁ衝撃波を放った。

 衝撃波が床を砕き、底の見えない穴が生じる。
 ローズはローマンの背後に居た。
 ローマンがカウンター狙っていることを見越した上で、ローマンの攻撃を誘い、自身は背後へと回り込んだのだ。
 
 ────ローズの動きじゃねぇ…。

 低い姿勢から、飛び上がる様に身体を伸ばしたローズの爪が疾る。

 ローマンは、咄嗟に衝撃波を放ちながら前に跳ぶが、間に合わない事は誰よりも、ネイ・ローマン自身が知っていた。

 「グア…」

 食いしばった歯の間から呻きが漏れた。
 人狼(ヒトオオカミ)の爪に切り裂かれた背中から、派手に出血しているのが判る。
 前に跳ぶ。衝撃波で爪を弾く。どちらかが欠けていれば、背骨を断たれていただろう。
 衝撃波を再度放つ、本条に変わって回避したのだろう、手応えが全く無い。
 身を投げ出す様にして床に転がる。此処まで姿勢を低くすれば、立ち上がったローズの攻撃は届かない。
 床から見上げたローマンの視界に映るオッドアイの女。
 ローマンに右手の五指を、四葉に左手の五指を向けていた。
 サリヤ・K・レストマン。この女の超力は、棒立ちのままでも床に転がる人間を殺害できる。
 ローマンの動きを読み切った上で、最適な交代を行う。
 過去のローズでは、有り得なかった。
 群れの先頭に立ち、仲間を庇って────仲間を頼ることをせずに────戦ってきたローズでは、決して行わなかった。
 もはやスプリング・ローズはネイ・ローマンの知るスプリング・ローズでは無い。
 ネイ・ローマンの敗因は、スプリング・ローズの過去の残影に惑わされていた事だろう。


◯◯◯

434ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:42:42 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 ローマンの視界の端で、メリリンが杭打ち銃を撃とうとしているのが見えた。
 遅過ぎるというべきだが、元より荒事に不慣れなメリリンだ。むしろ早い方だと言うべきだろう。
 四葉もまた、サリヤが撃ち続ける空気弾に、動きを止められている。
 宙に跳ね飛ばされ、落下する最中にありながら、地上を走るローズ眼を正確に射抜くサリヤの技量。
 連続して放たれる空気弾は、四葉の眼の部分に集中し、四葉の視界と動きを封じていた。
 メリリン間に合わず。四葉は動けない。
 ネイ・ローマンは此処に命運極まった。
 
 ローマンへと向けられた、サリヤの五指の指先が、陽炎の様に歪む。
 装填される空気弾。放たれれば、ローマンは死ぬ。
 怒りが、先程よりもさらに強い怒りが、ローマンの胸中に沸き起こった。

 「舐めてんじゃ────」

 衝動のままに、エントランスどころか、ブラックペンタゴンに甚大な破壊を齎す衝撃波を放とうとしたその時。
 サリヤが横に飛び、ローマンでも四葉でもメリリンでも無い誰かへと、空気弾を撃ち放った。

 「メリリン!」

 乱入者は、メリリンへと走り寄りながら、ボルト投げ続ける。
 投げられたボルトが、サリヤの空気弾により撃ち落とされ、床に落ちて硬い音を立て続けた。

 「ジェーン!」

 乱入してきたのは、ジェーン・マッドハッター。メリリンの残した痕跡を辿り、メリリンとローマンの交戦した形跡を過ぎて、今此処に合流した。

 「メリリン!こんな事してる場合じゃ無くなった!」

 血相を変えて叫ぶジェーンに、察したメリリンの顔から血の気が引く。

 「山の上の奴かい!?」

 「エミリーが、どうしたって?まさかこっちに来るのか!?」

 ローマンも事態を察し。

 「えっ?メアリーがこっちに来るの!!」

 事態を知る全員が恐慌する中で、一人平常運転の狂犬。

 そして、事情を知らぬ最後の一人は。

 「邪魔……しやがって!」

 猛り狂ってジェーンへと襲い掛かった。
 元より破格の身体能力は、劣化したとはいえ並のネイティブでは対抗する事など出来はしない。
 更にジェーンの超力は、身体機能を強化するものでは無い。ローマンとメリリンの交戦跡から拾ってきていたボルトを取り出すより早く、ローズの爪がジェーンへと迫る。
 この猛襲に、ジェーンは硬直も後退もせず、冷静に前進。
 意表を突かれたローズの懐に潜り込むと、胸に鋭い右掌打を撃ち込んだ。

 「はあ!?」

 背後から聞こえた、ローマンの間抜けな声に、ジェーンの口元が僅かに綻ぶ。
 ローマンの視界に映る、鮮血を吐いて後退る真紅の人狼(ヒトオオカミ)。
 幾ら劣化したとはいえ、ローズの身体は、ジェーンの掌打でダメージを受ける事など有り得ない。
 ましてや血を吐くなどと────。
 蹌踉めくローズへと、ジェーンの左腕が振われる。
 どう見ても50cm以上の間が有ったにも関わらず、ローズ胸が裂け、鮮血が噴き出した。
 ローズ胸を裂いたものは、ジェーンの左手に握られていた。
 赤い血の球を複数滴らせる銀の糸。ジェーンの髪の毛だった。

435ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:43:25 ID:aaXQZmmg0
 「……この、威力……テメェは…カラミティ・ジェーンか」

 ローズは取り乱すことも、狼狽える事も無く、ジェーンを睨み据えた。
 同じキングス・デイの傘下に在った者同士、ローズもジェーンも互いの事を話には聞いていた。

 曰く、キングス・デイに対立したフランスの政治家を、着火したライターを投げつけて消し炭にした。
 曰く、ハンガリーの反キングス・デイの集会で喫煙し、数十名を即死させ、数倍の人数を病院送りにした。
 曰く、拳銃から放った一発の銃弾で、装甲車を破壊し、中の人間を全員死亡させた。

 超力が存在しない旧時代ならば、戯言として片付けられそうな数々の“実績”は、しかして事実として公式な記録に残る。
 カラミティ(厄災)の名を冠せられるに足る、凄まじいまでの実績だった。
 
 「話には聞いていたが、噂以上じゃねぇか…」

 ローズに血を吐く程の痛手を与えたタネは、ジェーンの右掌に、ジェーンの髪の毛で結びつけられたナットだった。
 『屰罵討(マーダーズ・マスタリー)』。生物に対する殺傷性を付与する超力。
 小石一つぶつけるだけで、人体に穴を開ける、殺人の為の超力。
 生物を殺す事に特化した超力を、劣化している身で受けて、血を吐く程度で済ませた、スプリング・ローズの頑強は、やはり脅威の一言だった。

◯◯◯

436ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:43:44 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯

 「ドミニカが食い止めているけれど、じきにやられる。そうなったら、此処はエミリーの領域に飲み込まれる」

 ローズを警戒しながら、ジェーンが外の状況を説明する。
 ローマンに思うところも含むところもあるが、メアリーという直近の脅威が、それらを後回しにしていた。

 「早く何とかしないと、私達もやばいって事か」

 「エミリーちゃんを止められる人が居るの!?ドミニカって、あの“魔女の鉄槌”!?」

 「何でお前は平常運転なんだよ…」

 「早くどうにかしないと……」

 メリリンとジェーンとローマン。三人が考え込む中で、四葉だけは変わらない。意外に大物なのかも知れなかった。

 「早くソフィアを探さないと」

 「そうするしか、無いよねぇ」

 「いやネイの超力なら、領域の外からエミリーちゃんを仕留められるんじゃない?」

 「出来るのかい?」

 四葉とメリリンに期待の籠った眼戦を向けられて、ローマンは腕を組んで考える。

 「あの山全部覆うくらいだろ…。500m位は有るのか?ルーサーの野郎が相手なら、三キロ離れてても届かせるんだが……」

 「褒めてやるから少しは頑張れ」

 「いや大分キツイぞ、恨みどころか関わりも無いし。ソフィアってのなら何とか出来るんだろ?其奴にやらせろ」

 メリリンの発破も意味は無く。

 「ソフィアは超力を無効化する超力を持っている。だからエミリーの領域にも影響されない」

 ジェーンの言う様に、ソフィアの協力を仰ぐしか、無い様だった。
 
 「決まりだな。ソフィアって奴が何考えてるかは兎も角、此処に来る可能性は高い。先ず此処を捜すとして……。なぁマッドハッター」

 「何?」

 「ソフィアって奴は、超力を計算に入れない場合、スプリング・ローズに勝てるか?あの残骸じゃねぇ、生きてた頃の、彼奴にだ」

 「不可能ね。彼女は強いけれど、常人の域を逸脱してはいない。ドン・エルグランドの様な怪物とは、訳が違う」

 「なら話は簡単だ。一階だけを探せば良い」

 ジェーンと会話する隙に、ローズも四葉も乗じない。
 エミリーの脅威を知る四葉は兎も角、ローズが動かないのは、今後の趨勢に関わる話だと、理解したのと、少しでも回復する為だろう。

437ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:44:06 ID:VSHBuE7.0
 「二階へ通じる階段にはエルビス・エルブランデスが居る。生きてた頃のローズに勝てない様じゃ、エルビスは無理だ。2階には登れねぇ。
 メリリンと一緒に行け、ソフィアがゴネるようなら、メリリン、お前ががシメろ」

 ソフィア・チェリー・ブロッサムが、果たしてエミリーの始末を引き受けるか?
 ソフィアがエミリーを始末するとして、それは今この時か?
 ソフィアはエミリーの領域に影響されない。ならばエミリーの領域で刑務者達が死に絶えてから、悠々とエミリーを始末する事も有り得る。

 「どうしても直に殺したい奴でも居ない限り、エミリーを利用しようとする筈だ。マッドハッターじゃソフィアのポイントになるだけだろう」

 だからこそ、メリリンを付ける。
 メリリンの機械は超力で作成されたものだが、原材料は調達した人工物だ。無効化能力といえども、超力に依らず物理的に存在する物には無力だろう。
 ソフィアがエミリーを利用しようとするなら、その時はメリリンの出番だ。

 「俺は狂犬とクソ犬を躾けなきゃなえあねぇ、頼んだぞ、メリリン」

 場を仕切って、的確な差配をする辺り、欧州に名を轟かせたストリートギャングの首領だけだった事はある。
 
 「メリリン言うな!!!」

 吐き捨てて、メリリンとジェーンが、エントランスから退出する。
 スプリング・ローズは、見送るだけで、後を追って動こうとしない。
 
 「おい狂犬」

 「何さ?ローズ」

 「此処から先は、黙って見てろ」
 
 「最初からそのつもりだけど?」

 「……もうやらねぇのかよ」

 「二人だけの決着でしょ?首突っ込むのは野暮ってものでしょ?」

 「最初からそうしとけ。アホ」

 あまりにもとんでもない言葉に、ローマンが突っ込むも。

 「あのさネイ。さっきは私以外にもメカさんも居たでしょ?」

 「………いや…ああ……もう良いわ」

 何処までも自分勝手で、己の基準で動く狂犬。
 世界を渡り歩いた愉快型超力犯罪者。
 放埒に奔放に暴れ回り、キングス・デイにすら喧嘩を売ったアホ。
 そんな相手に、常識だの道理だのを説くくらいなら、ローズを口説く方が、まだ目は有るだろう。やらないけど。

 苦笑して、ネイ・ローマンは、スプリング・ローズの残影と対峙する。
 
 「決着だ。ローズ」

 「決着だ。ローマン」

438ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:44:42 ID:VSHBuE7.0
────頑張れ、ローズちゃん。
 ────ま、負けないで。
 ────勝てるさ。お前の強さは俺が保証する。

 「ありがとうよ。“家族”(みんな)。

 ────じゃあなアンリ。今度こそサヨナラだ。

 シリンダーが廻る。撃鉄を起こす。
 放たれる弾丸の名は、スプリング・ローズ。
 全開放された超力が、ローズを極限を超えて強化する。


 疾る真紅の人狼(ヒトオオカミ)。

 迎えるは欧州ストリートに君臨するギャングスター。

 幾度もの相剋を繰り返し、二つの影が、激突する。
 生き残るは、一人かゼロか。
 


【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・朝】
【ネイ・ローマン】
[状態]:全身にダメージ(中) 両腕にダメージ(小)、疲労(大)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.ローズと決着を着ける。
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。


【内藤 四葉】
[状態]:疲労(極大)、左手の薬指と小指欠損、全身の各所に腐敗傷(中)、複数の打撲(大)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.気ままに殺し合いを楽しむ。恩赦も欲しい。
0.ローズとローマン決着が着いたら、無銘さんと再戦する。
1.トビと連携して遊び相手を探す、または誘き出す。今はトビと合流する。
2.ポイントで恩赦を狙いつつ、トビに必要な物資も出来るだけ確保。
3.もしトビさんが本当に脱獄できそうだったら、自分も乗っかろうかな。どうしよっかなぁ。
4.“無銘”さんや“大根おろし”さんとは絶対に戦わないとね!エルビスともまた決着つけたい。
5.あの鉄の騎士さんとは対立することがあったら戦いたい。岩山の超力持ちとも出来たら戦いたい!
6.銀ちゃん、リベンジしたいけど戦いにくいからなんかキライ
※幼少期に大金卸 樹魂と会っているほか、世界を旅する中で無銘との交戦経験があります。
※ルーサー・キングの縄張りで揉めたことをきっかけに捕まっています。




【本条清彦】
[状態]:全身にダメージ、現在はスプリング・ローズの姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
0.ローズちゃん。勝って
1.殺人によって足りない3発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンへ行って“家族”を探す。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度 睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:無銘(前3番の剛田宗十郎は弾丸として撃ち出され消滅、超力は掌に引力を生み出す程度だった。睡眠中)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:スプリング・ローズ(前6番の王星宇は呼延光との戦闘により死亡、超力は獣化する程度だった)

439ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:44:59 ID:VSHBuE7.0
◯◯◯


 私はドミニカが嫌いだ。
 メリリンが居なかったら、きっと殺し合いになっている。
 私と同じ殺しにしか使えない超力を持ちながら。
 自分を肯定し、殺すしか出来ない超力を押し付けた神様を信じ、信仰に基づいて殺戮する。
 何もかもが、わたしとは正反対だ。
 私はドミニカが大嫌いだ。
 けれども、ドミニカが良い娘なのは確かで。
 ドミニカに助けられたのは事実で。
 ドミニカが今一人で戦っているのも事実で。
 だから、私は、ドミニカを助ける。
 ソフィアを必ず連れて行く。
 だから────。

 「どうかドミニカを死なせないで、神様」

 今まで祈った事など皆無な神様に祈り、ジェーン・マッドハッターは、ブラックペンタゴンをひた走る。


【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール西側出入口/一日目・朝】

【ジェーン・マッドハッター】
[状態]:全身にダメージ(中)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.無事に刑務作業を終える
1. 山頂の改変能力者に対処。ソフィア・チェリー・ブロッサムを探す。
2.死なないで。ドミニカ
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました


【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(小)、フルプレートアーマー装備、軽い打ち身
[道具]:デジタルウォッチ、生成ドローン2機、ラジコン1機、設置式簡易ボルトガン。
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい。サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
1. 山頂の改編能力者に対処。ジェーンと一緒にソフィアを探す。
2サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
3.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する?
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました。

440ROULETTE ◆VdpxUlvu4E:2025/06/04(水) 13:45:11 ID:VSHBuE7.0
投下を終了します

441 ◆H3bky6/SCY:2025/06/04(水) 20:51:55 ID:7SwqzyTg0
投下乙です

>ROULETTE
本条さん1人(4人だけど)に過剰戦力かな?と思ってたけど、狂犬すぎる四葉ちゃんがローマンにも噛み付いたおかげで、だいぶ戦力バランスが崩れて三つ巴の乱戦になってしまった
それぞれが怪物ぞろいだから、目まぐるしく有利不利が入れ替わる攻防が続いて全く勝敗が読めなかったぜ
一人置いて行かれているメリリンだけど、まあネイティブでも上澄み連中の激戦に技術者であるメリリンがついていけるはずもなく

四葉の超力は確かにリアルタイムに4人を動かすようなものだから、並列処理が脳を鍛えられるのもわかる。ふつうは混乱しそうだし、NT的なものが発展しそう、それに伴い身体能力まで上がるのはインチキすぎるぜネイティブ!
本条ファミリーは結構役割を分割できるよね、個々の超力が弱体化しているというのは付け入る隙なんだろうけど、ローズのフィジカルと無銘の判断力を組み合わせられるのはズルいよその家族の絆
ローマンはシンプル強いのもあるけど、追い詰められてもストレス溜まっていつ爆発すのかハラハラする爆弾のような奴だなこいつ
やっぱ、ジェーンの超力は当たればクソ強いよなぁ。攻撃自体を破壊できるローマンには負けても、ライフで受ける耐久型のローズには通るのは相性の妙

メアリーと言う共通の驚異の接近に小競り合いは一時中断、災害型幼女過ぎる。
ストリートのリーダー2人がそれぞれの集団を仕切ってるのは流石の統率力を感じさせる
外の状況を知らないから対処に動くわけだけど、ソフィアさん説得できるだろうか?

ジェーンのドミニカへの想いは、表でドミニカがどうなってるのか知ってるので悲しくなっちゃうね
そして残るローマンとローズの宿命の対決に、順番待ちの四葉ちゃん出番は回るのだろうか?


あと一点指摘と言うか、何か所かメアリーがエミリーになってる所がありますので修正しておきますね

442 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:33:17 ID:IwbDKrGw0
投下します

443氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:33:58 ID:IwbDKrGw0
朝靄に包まれた草原に、ひとりの影があった。

ジャンヌ・ストラスブールの面影をそのまま写した容貌。
だがそれは、奇跡ではなく執念の産物。超力による整形、調整、模倣。
風にたなびく青みがかった地毛は、唯一、獄中で染められぬ彼自身の証明だった。

ジルドレイ・モントランシー。
彼は歩く。朝露に濡れる草の中を、ゆっくりと。
目的地など無い。あるのはただ、探すという執着の一点のみ。
その歩みは、目覚めと眠りの狭間にいる夢遊病者のように、危うく、脆く、だが決して止まることはない。

「ジャンヌ……貴女は、どこへ行かれたのですか……?」

澄んでいるのに酷く悲しい声。
まるで泣き声のようでいて、そこに涙は伴わない。
彼の魂は、涙という現象を知らない。
悲しみを演じることはできても、感じることはできない。

草の匂い、朝露の冷たさ。
東の空には、昇り始めた太陽が金色の光を落とす。
けれどジルドレイの胸に射すものは、ただ凍てついた沈黙のみ。

「早く…………早く、貴女を……見つけねばならぬ……っ」

その足元で草花が凍りつき、ぱきぱきと脆く砕ける音が微かに響く。
彼の超力が、無意識に滲み出ていた。朝の温もりすら彼の存在を拒むかのように。

「そうだ……崇高なる御身を拝謁できれば、我が信仰を否定せんとする下らぬ妄言に揺れる事などなくなるはずだ……っ!」

ジルドレイは微笑んでいた。
しかしその笑顔は空虚で、頬を動かすという表情の定義を模倣しているにすぎなかった。

「『誰でもジャンヌになれる』だと? 笑止千万……!! ああ、否、断じて否!!
 貴女は……誰でもなれるなどという、安い神聖ではない……そのような世迷言、断じて認めてはならぬ……!」

神父の言葉が脳裏を苛み声が震える。
怒りか、あるいは自分が信じてきたものを失う恐怖か。
唯一、信じるに値すると選んだ光が、無数の偽物の中に溶けて消えてしまう恐怖。

その否定のために、ジルドレイは叫ぶ。
崇拝を壊すものすべてに牙を剥く。

けれど、現れるのは光ばかりだった。
あの神父も。
燃え尽きたフレゼアも。
手を取り合った幼い少女たちさえも。

彼らは光を放った。
彼の知らぬ、けれど確かに誰かのためを想う心から生まれた輝き。

「違う、違う……奴らの放つ光など、偽りだ……違うと言え……!!」

否定せねばならぬ。
それらの光が『本物』だったならば、自分が信じたものが、凡庸の果てに過ぎなくなってしまう。
そんなことはあってはらない。

「貴女は……貴女だけは、特別なのです。唯一無二の光なのです……そうでしょう? ジャンヌ……」

時さえ凍てついたような、悲しき沈黙。
草原に一陣の冷気が走り、朝露が一面の霜へと変わる。

その瞬間、朝霧の中に光が揺れた。
白銀の鎧に身を包んだ聖女の姿が、草原の彼方に立っているように見える。
ジルドレイは片方になった目を細め、震えるように手を伸ばす。

「……ああ、ようやく……」

しかしそれはただの光の戯れの生み出した幻想。
揺れる陽光と朝靄が描き出した一瞬の偶像にすぎなかった。

彼は立ち尽くす。
伸ばした右腕は既に失われており、そこには虚空しかない。
彼はしばし沈黙したのち、かすれた声で呟いた。

「ジャンヌ……私は、貴女を見つけねばならぬ。
 貴女の神聖さを、この眼で見て、この身で触れなければ……この歪んだ世界に、貴女以外の光など存在しないと、確かめねばならぬ……!」

ジルドレイは再び歩き出す。
ふらつきながら、それでも真っ直ぐに。

これほどの狂信を捧げながら、ジルドレイはジャンヌ本人と一度も会ったことがない。
画面越しに、記事越しに、ただ情報と映像の中の彼女を見続けてきただけ。
だが、それこそが彼の純粋さだった。
現実を知らぬからこそ、幻想を神聖化できたのだ。

だからこそ、直接その威光に触れれば、この惑いも、紛い物たちの光も、全て払えると信じている。
信じずには、いられなかった。

朝の陽光が、彼の背に長い影を落とす。
それはまるで、ジャンヌその人の姿。

草原を、狂気と信仰の狭間で彷徨う影。
それはまるで、神を求めながら、神に見放された巡礼者のようだった。



444氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:34:15 ID:IwbDKrGw0
「……フレゼア」

朝の草原を一人歩いていたジャンヌ・ストラスブールは、放送で告げられたその名を思わず繰り返すように呟いた。

雲ひとつない青空の下、港湾を目指していたその途中だった。
巨悪ルーサー・キングとの決戦を見据え、ただ前を見据えて歩いていた足が、不意に鳴り響いた定時放送の声に止まる。

耳に馴染んだ看守長の無機質な声。
その口から告げられた十二名の死――そして、その中にあったのは、因縁深き名だった。

フレゼア・フランベルジェ。
その名が胸の奥を貫いた瞬間、何か重たいものが沈む。

ジャンヌは静かに立ち止まり、両の掌を胸の前で重ねる。
薄く目を閉じたその顔には、死者への祈りと慈悲、そして何よりも深い哀惜が滲んでいた。

浮かぶのは、あの狂気を孕んだ狂熱の瞳。
そして無垢な笑顔で自分の名を呼んだ少女の声。
かつて救いの手を差し伸べた少女――そして、やがて戦場で剣を交えた炎帝。

歪んでしまった魂。
だがその歪みを生んだのは、他ならぬジャンヌ自身の存在だった。

彼女はジャンヌに憧れていた。
正義の象徴と信じ、ひたすらに追いかけた。
けれど、その憧れはいつしか歪み、暴走の果て、破滅の道へと変貌していった。

(その魂に……救いは、あったのでしょうか)

その答えは誰にも分からない。
彼女がどのように己が業と向き合い、どんな最期を迎えたのかも、今となっては知る術もない。

この地で、なお罪に囚われたまま逝ったのか。
それとも、ほんのわずかでも救いを掴めたのか。

願わくば、せめてそうであってほしいとジャンヌは思う。

「……どうか、貴女の魂が安らかでありますように」

ジャンヌは草原に膝をつき、祈りを捧げる。
その声は、風に乗って遠くへと届いていく。

「この地に堕ちた者にも、罪に囚われた者にも……どうか等しく赦しが与えられますように」

そよぐ風が、金の髪を優しく揺らす。
露草の匂いが仄かに香り、静かな朝に、たしかな祈りの余韻を残した。

たとえこの地に、救いが見えぬとしても。
たとえ祈りが届かぬとしても。

れでも、自分は正義を信じ続ける。
かつて、自分を正義と信じてくれた少女のためにも。

迷いを抱えながらも、それでも彼女は歩いていく。
自らの罪と、世界の業と、全てと向き合いながら、自らの正義を貫くために、

ジャンヌは顔を上げる。
ジャンヌの翠の瞳には、再び静かな決意の光が宿っていた。

「――――――」

だが、そのジャンヌが目の前の光景に言葉を失っていた。
決意に満ちていた瞳が困惑に揺れる。

ジャンヌの目の前には、鑑写しのように自分自身が立っていた。



445氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:35:08 ID:IwbDKrGw0
朝日に煌めく草原には、まるで神の吐息が残されているかのような静謐が漂っていた。
冷たい空気は夜の名残をわずかに引きずりながらも、神聖な祈りの気配に満ちていた。
ジルドレイ・モントランシーは片目をゆっくりと開き、凍りつくような視線をその先に送る。

視線の先――朝露に濡れた草原に、ひとりの女が静かに祈りを捧げていた。

囚人服であるはずの衣が、朝日を受けて淡く輝き、まるで神聖な法衣のように見えた。
彼女は掌を重ね、瞼を閉じ、誰かの魂に静謐な祈りを捧げている。
きっと、この地で倒れた名も無き誰かのために、彼女は祈りを捧げていたのだろう。

ジルドレイの呼吸が止まる。
青空の下、清らかに祈るその姿こそ、彼が心の中で数え切れぬほど夢見た、あの人だった。
ただ一人の聖女。その理想。その幻影。

そして、次の瞬間。
彼は崩れ落ちるように膝をついた。

「……ああ……ああ……!」

風が吹いた。
それは草原を撫でる優しい朝風ではなかった。
ジルドレイの内奥から噴き出した、歪んだ信仰の冷気。
喜悦、感動、崇拝――いや、それらを模した陶酔と狂気が雫となってぼれ落ちる。

「見つけた……見つけたぞ……ついに……! 私の、ジャンヌ……私だけの、貴女が……!」

風の音に紛れても、その嗄れた声は確かに届いた。
ジャンヌは静かに目を開け、声の主に視線を向ける。
そして――彼女の目に映ったのは、自分自身の姿だった。

驚愕を声には出さず、しかしジャンヌの顔に戸惑いと緊張が走った。
十五歳の自分。まだ現実を知らず、ただ理想だけを抱きしめていた、純粋無垢の頃の古い鏡。

違うのは、片目と片腕、そして髪の色だけ。
だが、最も決定的に違ったのはその眼差しだった。
慈しみでも哀しみでもない。戦意でも、情熱でもない。
そこにはただ、命を持った蝋人形のような虚無と執着が宿っていた。

「貴女に……ようやく……ようやく、会えました……」

恍惚とした笑みを浮かべ、ジルドレイは立ち上がる。
残った左腕を広げ、一歩、また一歩とジャンヌへとにじり寄っていく。
その動きに、ジャンヌは一瞬身を引き、眉をひそめた。

「……貴方は……何者ですか?」

毅然と問う。
明らかな警戒があったが、それでも相手を理解しようという意志がそこにはあった。

ジルドレイは応えない。
ただ、頬に穏やかな笑みを貼り付けたまま、再び口を開いた。

「ジャンヌ……ジャンヌ・ストラスブール……本当に……貴女なのですね?
 ああ、なんという神の采配か……この邂逅、まさに奇跡……!
 いや! これはもはや、奇跡などという生温い言葉では足りませぬ……神慮の祝福そのもの……!」

片膝をつき、胸に手を当てる。
それは祈りであり、讃歌であり、崇拝そのものだった。

「申し遅れました。私は、ジルドレイ・モントランシー。
 貴女の姿に、貴女の在り方に魅せられ、貴女の影を追い続けてきた者です。
 本当に御身を拝謁する誉に授かれる日が来ようとは……このジルドレイ幸甚の極みにございます!」

ジャンヌはその姿を凝視し、目を細めた。
困惑と警戒を押し殺しながらも、彼の姿をしっかりと見つめる。

446氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:35:26 ID:IwbDKrGw0
「……その姿は……」

まるで問いかけるように、彼女は言った。
なぜ自分と同じ顔をしているのか――当然の疑問だった。
世界には自分と同じ顔をした人間が3人いるとは良く言うが、このアビスに偶然それがいたと考えるほどジャンヌは楽観的ではない。
偶像から直接問いを投げられたこと自体に歓喜してジルドレイは、嬉々として語った。

「私は、貴女の足跡を追っております。心から、魂から!
 この姿もまた、そのためのもの……超力による施術にて、貴女の御姿を借り受けたのです」
「借り受けた…………」
「はいぃ! これも御身が偉業をなぞらんがため」

整形により外見を弄る行為自体は他人がとやかくいうような事でもない。
誰かの存在に憧れその行為を模倣するという行いそのものだって悪ではないだろう。
むしろ、何かを始める切っ掛けとしてはありふれた話だ。

だが、どのような行為を行き過ぎると醜悪さを帯びる。
ジルドレイの模倣は明らかに常軌を逸している。
自身の姿を捨ててまで行なう模倣は信仰の域を通り過ぎて狂気に踏み込んでいる。

「貴女が微笑んだと知れば、私は鏡の前で幾度もその笑みをなぞりました。
 貴女が涙を流せば、その意味を知りたくて私も涙をこぼしてみました。
 貴女が戦災孤児を救ったと聞けば、私は財を投じて彼らを支えました。
 貴女になり替わろうなどと言う烏滸がましい考えはありませぬ。ただ、貴女に近づきたかったのです。
 貴女という軌跡をなぞりジャンヌ・ストラスブールという『奇跡』をこの身と世界に刻み付けたかったのです!」

ジルドレイは祈言のように語る。
大方の人間はその在り方に嫌悪感を抱くのだろうが、当の本人であるジャンヌはそのような感性は持ち合わせなかった。
善行を成そうという相手を咎める事は出来ない。

「……ジルドレイ。私を慕うその思いは、確かに受け取りました。
 けれど私は、この地に巣食う悪を討ちに行く最中。ここで立ち止まることなど許されぬ身なのです。
 どうか、道を開けてはいただけませんか」

毅然として、揺るがぬ声。
心に葛藤を抱えながらも、ジャンヌは正義として在り続ける者の姿を見せた。

ジルドレイは一瞬、沈黙した。
顔を曇らせかけ、すぐに再び恍惚の笑みを浮かべる。

「……ああ……その高潔さ、その気高さ……! 貴女は……本当に、貴女なのですね……!
 やはりこの凍った我が心を震わせし聖女は、この世にただ一人……!」

信仰は、熱狂のうちにさらに高まる。
ジャンヌの凛とした態度が、彼にとっては祝福の鐘に聞こえたのだ。

「そして、此度は巨悪を討たれると。なるほどなるほど。
 おお……ここは悪徳蔓延る地の底なれば、悪逆よりも正義の方が為しやすい。
 このジルドレイ、後期のイメージに引かれそこに思い至らず不徳の至りにございます」
「……どういう意味です?」

語り口に不穏な気配を感じ、ジャンヌは問う。
そして――彼は語り出す。まるで聖典を朗読するかのように。

「無論、この不詳ジルドレイ、正義の象徴たる貴女のみならず、悪徳の象徴と貶められた貴女すらも、等しく崇め奉っておりますとも……!
 貴女が政治家を惨殺なされたと騒がれれば、私もまた、偽りの正義を掲げた議員どもを一人ずつ絞殺いたしました。
 貴女が孤児を手に掛けたと報じられれば、私も救いを求める無垢なる子らに愛を注ぎその魂を永遠の静寂へと導いて差し上げたのです。
 貴女が信徒を焚刑に処したと報道されれば、私は信仰を騙る偽善者たちを火にくべ、罪と共に焼き尽くしました。
 貴女が敵軍の降伏者を虐殺したと囁かれれば、私もまた、降りた兵らを祝祭の舞台にて氷の刃で浄化いたしました。
 教会を血で汚したと嘲られれば、私はその嘲笑を真実に変えるべく、教壇の上で神の名を口にした司祭を屠り、聖書を血で綴り直しました……!
 ――すべては、ジャンヌ。特別な存在である貴女の軌跡を、この哀れな魂に刻みつけるために……!」

ジャンヌの模倣。その名目で自らが行ってきた様々な悪行。
それを、親に褒めてもらいたがる子供のように、誇らしげに口にする。
悪徳を誇るのではなく、自分の行ってきた献身を、ただ相手に認めて欲しいという純粋な哀願が込められていた。

その告白に、ジャンヌは全てを理解したように深く、長く、目を閉じた。
目の前の相手はフレゼアと同じだった。
目の前にいるのは、自分という象徴が生んでしまった『歪み』そのものだった。

447氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:35:58 ID:IwbDKrGw0
ジャンヌは、目を開ける。
その瞳には、迷いがあった。痛みがあった。
それでも彼女は決して揺るがぬ聖女としての声で、まっすぐに言葉を紡いだ。

「……ジルドレイ。あなたのしてきたこと。その動機も、その歩みも……すべて私を慕うその一心から。
 その心に偽りはなく、その始まりに何の悪意もなかったと私は信じます」

その声は澄んだ響きをもってジルドレイの耳を貫いた。
ジャンヌは、模倣と狂信に取り憑かれた目の前の男の存在を否定しなかった。
それは彼の心にとって、最初で最後の承認だった。
ジルドレイの顔が、一瞬で歪む。狂喜の熱がその頬に走る。

「けれど――それが正しい行いであるとは言えません。
 模倣そのものは悪ではない。人は誰しも、誰かに憧れて、真似て、そこから道を歩き始めるもの。
 けれど、その行いが『正しいかどうか』を決めるのは、貴方自身の心でなければならないのです」

風が草原を撫でた。
どこか寂しげで、冷たい風がジルドレイの頬を撫で、彼の皮膚を薄く凍らせてゆく。
彼は目を細めた。困惑するように。

「な……何をおっしゃるのですジャンヌ。
 正しき貴女の行いであれば、それは正しきことなのでしょう!?」

ジルドレイの声が荒れる。怒りではない。
それは、怯えと、何かに縋る不安の声だった。

ジルドレイは心を持たず、共感という概念を知らない。
だからこそ、世界で唯一『絶対に正しい存在』であるジャンヌをなぞり続けてきたのだ。
彼にとってそれは、正しき人であるための唯一の道標だった。
だが、その道標たるジャンヌは痛ましげに首を振った。

「……私は、決して全てを正しく導けるような特別な存在ではありません。
 たとえ人々が聖女と呼ぼうと、私の本質は変わりません。私はどこいでもいるような小娘でしないのです。
 当たり前の正義感を持って、目の前の苦しみに手を伸ばした、ただそれだけの人間です」

その言葉は優しく、それゆえにあまりに残酷だった。
ジルドレイの内側で、何かが壊れる音がした。

「……な……ん、ですと……?」

ゆらり、と彼の身体が揺れた。
瞳に宿っていた狂信が、ひび割れたガラスのように音もなく軋む。

「違う……違う……そんなはずは……! 何をおしゃるのですジャンヌ!?
 貴女は選ばれし者だ……唯一無二の聖女だ……!!」

ジルドレイの声は、掠れたように震えていた。
まるで道に迷った幼子のように。

「それが……どこいでもいるような凡俗? 誰でもなれる?
 何故そのような世迷言を……貴女は、特別でなければならないのに……。
 あの愚かな神父と同じことを言うのですか、ジャンヌ……ッ!!?」

脳裏に、かつてジャンヌを凡俗と貶め自分を否定した神父の言葉が浮かぶ。
それと同じことを、彼にとって『聖典』だったジャンヌが口にしたのだ。
それはジルドレイにとって、全てを否定されることに等しい。

「私が……何も感じず、誰にも共感できなかった人生で……ただ、貴女だけが……唯一、美しかった。光だった。
 貴女を特別だと……信じていた想いだけは……どうか、それだけは……奪わないでくれ……!」

嗚咽のような声だった。
それは、泣けない生き物が泣こうとしたような、命の音だった。

「だから……どうか、それだけは――それだけは否定しないで……」

草原に立つジャンヌの姿を、ジルドレイは懇願するように見つめる。
その目に宿るのは、歪な信仰でも、純然たる憧憬でもない。
けれど確かに、ジルドレイ・モントランシーという人間にとって、それは唯一の尊き灯火だった。

ジャンヌは、黙してその姿を見ていた。
拒絶ではない。ただ、言葉を探していた。
目の前にいる、導を失った迷子に語りかけるための、たったひとつの言葉を。

448氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:36:17 ID:IwbDKrGw0
彼の足元から、静かに冷気が広がる。
草花が凍りつき、霜が白く地表を覆ってゆく。
ジルドレイの感情が、超力とともに世界へ滲み出していた。

「……ジルドレイ。貴方が私を通して見た『光』が、たとえ歪んでいたとしても……それを私は否定しません。
 それが貴方の中に、初めて灯ったものだったのなら、それは……確かに貴方のものです」

その声は、限りなく優しかった。
けれどその優しさは、ジルドレイの魂を裂くほどに痛みを孕んでいた。

「……ですが、あなたは、その光の使い方を間違えた。
 光を盲信するのではなく、自らの足元を照らす灯火として、進むべき道を照らすべきだったのです」

言葉の温度がわずかに下がる。
ジャンヌの声は、今や決意を帯びた硬質な響きを纏っていた。

「貴方が私の光によって生まれた影だと言うのなら……私は、貴方を止めなければなりません」

その瞳が、真っ直ぐにジルドレイを見据える。
赦しではなく、責任として告げられた非情な宣告。

これを受けたジルドレイは、笑っていた。
それは歓喜の笑みではない。
諦め、壊れ、崩れた、泣き笑いのようなものだった。

「おお…………おおっ……正しくそれだっ!! その輝きッ、これこそが、私のジャンヌ……!」

嗚咽と歓喜がない交ぜになった声。
口元に、血のように薄い笑みがにじみ、わずかに引きつる。

自身に向けられる意志の光。
これこそが、心無きジルドレイが焦がれたジャンヌの光。
これほど眩いものが、凡庸な紛い物などであるはずがない。

「なんという…………なんという悲劇だ……まさか貴女ご自身が、それに気づいておられないとは!!」

その声からは、もはや先ほどの哀願は消えていた。
氷のように粉々に砕け散った信仰が、継ぎ接ぎのまま形を成して行く。
同じではなく、都合のいい形を成すように、歪んだ違う形で。

「確かに……自身の光というものは、己には見えぬ。道理です」

氷の花が一輪、彼の足元に咲く。
それは、まるで神像の祭壇に捧げられた供物のように、儀式的で、厳かだった。

「よろしいっ!! ならばこの不肖ジルドレイ・モントランシーが証明致しましょうぞ!
 貴女こそが唯一無二、真なる神聖であると、この世の隅々に至るまで知らしめて差し上げます……!」

ジルドレイの両目が見開かれる。
欠損したはずの右目には、青白い氷のレンズが構築され、幽かに輝く義眼となった。
目としての機能がある訳ではないのだろう。だが、もうそこに忌々しい神の幻影は映さない。
外ならぬジャンヌのためと言う使命感が、その幻影を塗りつぶすように打ち消した。

失われた右腕には鋭利な氷の義肢がせり上がり、冷気が血管のように皮膚下を這っていく。
美しさすら感じさせる彫刻のような形状。
しかし、それは冷たく、禍々しく、まさに異形の象徴。

ジャンヌと同じ顔をした怪人がそこに立っていた。
ジルドレイ・モントランシーは、いまや人を超え、聖女の形をした祈りの偶像と化していた。

449氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:36:44 ID:IwbDKrGw0
「な、にを…………?」

ジャンヌは困惑に眉を寄せた。
ジルドレイは、祈りにも似た敬虔な口調で答える。

「ご安心めされよ! ジャンヌが凡俗を自称し、己が光を否定する。ならば……ッ!!」

ジルドレイの声は、静かに、けれど確かな熱を孕んでいた。
瞳に映るジャンヌを仰ぎ、胸に手を当てるように一礼すると、告げる。

「この私が、それをお見せいたしましょう。
 貴女の知らぬ貴女の光を……ジャンヌ・ストラスブールの正義を、この身にて、貴女様に証明してみせます!!」

その声音には、誓いにも似た敬虔な決意が宿っていた。
だがそれはあまりに一方的で、狂気じみた献身だった。
続けて、ジルドレイは思案するように呟く。

「確か、御身はこの先で巨悪を討つご予定でしたか。
 ふぅ〜む。この先にある施設と言いますと、港湾と灯台でしたか……どちらかに『巨悪』がいるのですね。
 まあどちらも両方を訪ねるとしましょう。正義の証明に相応しい舞台ですから」

氷の靴音を響かせ、ジルドレイが歩き出す。

「お待ちなさい!!」

ジャンヌの声が、鋭く空気を裂いた。
彼女が駆け出そうとした、だがその刹那――氷が爆ぜ、地を這い、彼女の足元へと一気に迫る。
瞬く間に草花が凍結し、大地は白銀の監獄と化した。

「く……ッ!」

身体を翻す間もなく、膝上までを凍てつかされる。
さらに分厚い氷の壁が、彼女の周囲を静かに覆い囲む。
それは攻撃ではない。
触れさせず、近づけず、穢れさせぬための――隔絶の結界だった。

「そこで少々お待ちを、貴女が訪れる頃には既に証明は完了していることでしょう。
 存分にご照覧あれ、私の信ずるジャンヌの光を。さすれば貴女もご理解なさる事でしょう、御身が特別な存在であると!!」
「ジルドレイ……!」

ジャンヌの叫びは、氷壁に吸い込まれ、音すら凍るようにかき消える。
瞬時にジャンヌは焔の翼を広げ、氷を融かした。
彼女の身体を包んでいた霜が、一気に蒸気となって立ち昇り、周囲を朝靄のように覆ってゆく。

白煙が晴れたときには、もうそこにジルドレイの姿はなかった。
草原の彼方、港湾へと続く道を、氷の風が駆けていく。

「くっ……!」

歯を噛み締めるジャンヌ。
港湾に待つのは巨悪。宿敵たるルーサー・キングだ。
それがジルドレイと潰し合うのならジャンヌにとって好都合な展開である。

だが、彼女の脳裏にはそのような損得勘定など一切浮かばなかった。
ジルドレイがこれ以上間違いを重ねる前に止めねばならない。
彼女を動かすのはその責任と使命だけである。

凍りついた朝露の大地に、炎を帯びた足が再び触れる。
まるで陽光のように、ジャンヌ・ストラスブールは、走り出す。
残る氷は溶け、砕け、どこにもなかったように消え去った。

【D-4/草原/一日目 朝】
【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ジルドレイを追い彼の凶行を止める
2.ルーサー・キングとの合流地点(港湾)を目指す。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。

【ジルドレイ・モントランシー】
[状態]: 右目喪失(氷の義眼)、右腕欠損(氷の義肢)、怒りの感情、精神崩壊(精神再構築)、全身に火傷、胸部に打撲
[道具]: 無し
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本. ジャンヌを取り戻す。
1.港湾と灯台に向かい、ジャンヌの光をジャンヌに証明する
2.出逢った全てを惨たらしく殺す。
※夜上神一郎によって『怒りの感情』を知りました。
※自身のアイデンティティが崩壊しかけ、発狂したことで超力が大幅強化された可能性があります。

450氷の偶像 ◆H3bky6/SCY:2025/06/08(日) 13:37:11 ID:IwbDKrGw0
投下終了です

451 ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:25:43 ID:wzXT53w60
投下します

452鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:26:47 ID:wzXT53w60
港湾にある管理棟の一室。
つい先ほどまで重苦しい沈黙と緊張が支配していた空間に、不釣り合いなほど静かな音が響いていた。

カチャリ。カチャリ。
金属と金属が、丁寧に触れ合う音。
それは、ルーサー・キングが食事を摂っている音だった。

彼の手には、鋼鉄製のナイフとフォーク。
同じく無骨な鉄の皿には、軍用の濃縮保存食が盛られている。
過剰な塩気と無味乾燥な食感。ただ栄養価だけを追求した、肉の塊。

それらの食器はすべて、彼自身の超力によって創出されたもの。
装飾も華美もない。だが、精緻な重厚感と威厳が宿る、まさに帝王の器だった。

キングはその無骨な食器を、まるで五つ星レストランの貴族客のような所作で扱っていた。
缶詰の肉片をナイフの背で静かに切り分け、音一つ立てずに口へ運ぶ。
一挙手一投足が儀礼のように洗練されており、まるで一流の晩餐の舞台を見るかのようだった。
背筋は直立したまま微動だにせず、ナプキンの代わりに鋼糸で編んだ布を口元にあてがう動作に至るまで、全てが完璧に研ぎ澄まされていた。

相応の立場にある人間でなければ、この男と会食できる機会などそうある物ではない。
立場によっては、彼に取り入るために喉から手が出るほど欲しいと願う貴重な機会だろう。
だが今、その帝王と同じ卓を囲んでいるのは、吐き捨てるほどいるようなチンピラと獣人の少女だった。

同じ卓で食事をとるハヤト=ミナセは、その姿を呆然と見つめていた。
一瞬、見惚れそうになる自分に気づき、舌打ち混じりに視線を逸らす。

テーブルの上には、ハヤトが恩赦ポイントを使って用意した二人分の食料が無造作に並んでいた。
クラッカーに缶スープ、チーズの缶詰、栄養バー、レトルト飯。
決して不味くはないが、それを食す所作はあまりにも雑だった。

ハヤトは、元より礼儀作法など知らぬチンピラだ。
プルタブ式の缶を素手で開け、クラッカーを皿代わりにし、スープの上にチーズを無造作に落とす。
盛りつけも、食べ方も粗野そのもので、フォークもスプーンも使わず手掴みで口に運んでいた。
租借音が空気を震わせ、砕けたクラッカーがテーブルに散らばる。

ハヤトに比べればいくらかましだが、その隣に座るセレナもまた決して行儀が良いとは言えなかった。
ベネズエラの貧しい家に生まれ、獣人売買のシンジケートに捕らわれてからは食うに困ることはなかったが、礼儀や作法とは縁遠い生活をしてきた。
彼女の視線の先で、帝王が静謐な動きで缶詰肉を切り分ける光景が、否応なく目に入る。

キングはそんな二人の様子を、ちらりと横目に捉える。
鉄製のコップで水を一口含みながら、ハヤトたちの食卓を一瞥し、眉を僅かに顰めた。
次の瞬間、場の空気を凍らせるような声が響いた。

「――咀嚼するときは、口を閉じろ」

ピタリと、場の空気が静止した。

453鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:27:05 ID:wzXT53w60
「お前らが何者で、どんな育ちだろうが構わん。だがな――」

フォークを皿に置き、ナイフの柄を軽く指で弾く。
刃が鉄皿を叩き、乾いた音が部屋に響いた。

「食い方一つで、人の値打ちは測られる。どれほどの教養を得たか、どんな背中を見て育ったか――すべてがな」

ハヤトは、思わず手を止めた。
セレナもまた、静かにキングを見つめていた。

「……意外だな。アンタがそんなことを言うなんて」

思わず漏れたハヤトの呟きに、キングは嘲笑とも微笑ともつかぬ表情を浮かべた。

「マフィアがマナーを説くのが滑稽に映るか?
 だがマナーってのは、舐められないための『武装』だ。無法者ほど、それを知らねえ」

言葉の後、キングは皿にフォークを戻す。
その目元には、かすかな追憶の色がにじんでいた。

「なあ、坊主。お前がガキの頃、どんな飯を食ってた?」

先ほどまでの尋問じみた問いかけとは違う。
本当に食事の雑談のような何気ない問い。

ハヤトの脳裏に、かすかな記憶が蘇る。
雨が吹き込むスラムの裏路地。
火の通っていないスープ、泥水混じりのパン。
兄貴分が黙って差し出してくれた、冷たい缶詰。

「……クソみてぇな飯ばっかだったよ」
「だろうな。だが、それをどう食うかで、そいつの生き様が見えるもんだ」

粗末な缶詰を前にしてもなお、品格を崩さない帝王の姿。
その所作のひとつひとつが、この男の歩んできた業を滲ませていた。

「じゃあアンタは、よっぽど育ちが良かったんだな」

ハヤトの言葉にキングは、ゆるやかに首を振った。

「違うさ。俺もお前と同じ、礼儀知らずのガキだったよ」

鉄のナイフを皿に戻すと、キングは背もたれにもたれることなく、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、静かに動きを止めた。

「黙って食うのも味気ねぇ。少しばかり昔話でもしようか」

そう言って、鉄布で口元を拭う。

「――――ジム・クロウ法って法律を、聞いたことあるか?」

無学なハヤトには、そんな法律の名を知る由もない。
セレナもまた、首を横に振る。

「そうかい。歴史は学んでおいた方がいいぞ。
 とは言え、俺がガキの頃には撤廃された法だ。知らなくとも無理はないか」

その言葉の端には、どこか懐かしさと静謐さが混ざっていた。

「奴隷解放宣言後も黒人を差別してもいい、そう言う法だった――――」

キングの声が静かに空間を満たしていく。
それはまるで、食事と共に行われる何気ない雑談のようであり、過去を召喚するかのような語りだった。
少女と青年は、その声にただ耳を傾けるしかなかった。



454鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:28:17 ID:wzXT53w60
ルーサー・キング。
その名は、父が敬愛していた黒人解放運動の指導者――マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにあやかって名付けられた。
だが、彼の歩んだ道は、あのキング牧師とは正反対のものだった。

キングは、アメリカ南部の鉄道沿いに広がる黒人居住区で生まれ育った。
父は第二次大戦を生き延びた退役兵であり、復員後は鉄工所の溶接工として働いていた。
赤錆の舞う工場で、燃え上がる鋼材を叩く音が日々の生活のリズムだった。
母は地元のバプティスト教会で讃美歌を歌う、穏やかな信仰の人だった。
家族は神を信じ、正義を信じていた。だが、生活は貧しかった。
吐く息さえ凍る台所で、パンの耳を兄弟と分け合いながら、少年は育った。

父はたびたび言った。
「鉄は叩かれて強くなる。人間も同じだ」
その言葉を、幼き日のキングは理解できなかった。だが、鋼鉄の火花と油の匂いは、確かに彼の原風景となった。

彼がジュニアスクールに通い始める頃には、公民権法によりジム・クロウ法は廃止されていた。
だが、それですぐに市民たちの意識が変わるはずもなく、彼を取り巻く現実が変わることもなかった。
黒人が「市民」として扱われることはなく、法の撤廃はただの張り紙にすぎなかった。

警官は守る者ではなく、監視し、殴る者。
通りを歩けば、理由もなく職質され、背中に拳銃の影を感じる毎日。
そんな日常の中で、ある日、兄がやってもいない窃盗の罪で警官に撃たれた。
それは誤認でも、事故でもなかった。明確な差別と殺意による殺人だった。
あの瞬間、少年の心の中で国家への信頼は完全に死んだ。

公民権運動の余波で学校は表向きには統合されたが、教室の空気は変わらなかった。
白人教師たちが教室で教えてくるのは教科書の内容ではなく世界の残酷な『線引き』だった。
どれだけ優れた回答を出しても、白人の生徒の方が褒められる。
どれだけ成績が優秀でも、大学から推薦状が届くことはなかった。

進学を諦めたキングは、拳に活路を見出した。
リングの上なら、誰も肌の色も背景も問わなかったからだ。
それは当時、黒人がスターダムにのし上がる数少ない手段だった。

ボクシングジムの地下で、彼は街の裏側を生きる者たちと出会う。
興行と賭博、麻薬と暴力が交錯するその場所を取り仕切るのは街の『顔役』たちだ。
彼らの間で、キングは初めて「力」と「金」の動き方を知った。

同時期、彼はブラック・パンサー党の文書にも触れていた。
理想が言葉になることを学び、知性が覚醒していった。
だが、理想では空腹は満たされず、言葉では銃弾を止められない。
鉄のように冷えた現実が、青年を押し潰そうとしていた。

貧困の中で育ち、暴力の中で鍛えられた青年は、やがて犯罪という現実に順応していく。
麻薬の取引、銃器の流通、密輸された兵器の売買。
数度の逮捕と服役。常にFBIの監視網が背後に貼りついていた。
だが、彼は決して壊されなかった。
叩かれながら、鍛えられていった。まるで鉄のように。

455鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:28:29 ID:wzXT53w60
そして1980年代後半。
「再出発」を名目に、彼はアメリカを離れ、欧州へと渡った。
最初の拠点は、リヨンにあるアフリカ系移民街。
文化も言語も異なる地で、彼は英語、フランス語、アラビア語、バントゥー語を独学で身に付け、交渉と支配の術を洗練させていった。

アメリカン・ギャングスタとしてのカリスマと実戦経験。
それは貧困と差別に喘ぐ移民街の人間にとって、英雄そのものであり、多くの若者が彼の元に集った。

当時の欧州裏社会には、覇権の空白地帯が存在していた。
北アフリカからスペイン、フランスを経由する麻薬ルートでは、アルジェリア系やイタリア系、コルシカ系が覇権を争っていたが、どの組織も統合には至らなかった。

その空白に、彼は割って入った。
派手な殺しは避け、裏交渉を重ね、時には敵とも不可侵協定を結ぶ。
旧ユーゴの崩壊、EU統合のひずみすら利用して、組織を拡大。
そして、パリ・ロッテルダム・ベルリンを結ぶ巨大ネットワーク。
現在の『キングス・デイ』の前身となる組織『T.A.B.L.E(The American Black Lion Empire)』を築き上げた。

その過程で、彼は「マナー」という武器を身につけていく。
それは社交のための嗜みではない。多くの交渉の場で『舐められない』ための実戦的な武装だった。

スーツを着た白人の警察署長。元KGBの武器商人。ローマ教会の枢機卿。
そうした裏の貴族たちと同じテーブルに座るとき、真に効くのは銃ではなく、礼節という精密な鋼だった。

ナイフとフォークの扱い、ワイングラスの持ち方、背筋の伸ばし方。
それらは決して嗜みではない。
生き残るための、形式化された暴力だった。

礼を知らない無法者は軽んじられる。
教養のなさは、交渉の場において価値のなさに直結する。
そして彼は、そうした価値を身にまとうために、鉄のように自分を鍛え直し、誰よりも洗練された武装を身に着けた。

己の黒い肌を、鉄粉にまみれた出自を、どこまでも優雅に塗り替える術を。
ルーサー・キングは、徹底して学びきったのだ。



456鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:28:55 ID:wzXT53w60
鉄のように重たく、静かに語り終えたルーサー・キングは、ナイフを皿の右側に、フォークは刃を内に向けて添えた。
それは食事の終了を示す礼儀であり、交渉と支配を行使するための鋼鉄の鎧である。

鉄布のナプキンで口元を一度だけ拭い、最後に鉄製のコップから水を丁寧に飲み干す。
その一連の動作に、無駄は一切なかった。磨き抜かれた儀礼。
ただの所作でさえ、彼にとっては一振りの刃に等しい。

ハヤトとセレナもまた、食事を終えていた。
キングは、使い終えた鉄の食器を指先ひとつで解体すると、代わりに灰皿を形成する。
その指先から器が生まれるたび、場の空気が微かに軋んだ。

次いで、一本の煙草をくわえ、鉄の火花で火を灯す。
紫煙がゆっくりと立ち上り、空気の密度が鈍く、濃く変わっていく。
吐き出された煙が無礼講めいた食事は、そこで終わったとそう告げていた。

ひとつの儀式を終えたように、キングは再び支配者の顔へと戻る。
灰を落とすと鉄の器の底が、わずかにテーブルを擦る音が鳴った。
それだけで、ハヤトの胸奥に冷たい刃を押し当てられたような感覚が走る。
この男の所作のすべてが、暴力の予兆を孕んでいた。

「……さて。今度は、君らの話を聞かせてもらおうか」

静かに、しかし決して逆らえぬ明瞭さをもって、彼は告げた。
その声音は穏やかで怒気はない。だが、有無を言わせぬ圧が、空気を掌握していく。
まるで審問官の宣告のように重くのしかかる重圧が、ハヤトの肺から空気を押し出した。

唾を飲む音すら、耳に刺さる。
隣のセレナもまた、無意識に背筋を伸ばし、肩を強張らせていた。

「その恩赦Pは、どこで手に入れた?」

問いは簡潔だったが、核心を突く問いだった。
食事に伴い、ハヤトはキングの目の前で食料を購入してみせた。
その時点で、ポイントを保有していることは明白だった。
て恩赦Pの取得とは、誰かの『死』と結びついている。
誰を、どこで、どのように、その真意を、キングは問うている。

ハヤト=ミナセは、無意識にセレナの前へ一歩出た。
庇うように立ち、深く息を整える。

「…………これは、フレゼア・フランベルジェの首輪から得たポイントだ」

ハヤトは慎重に言葉を選びながら、ボスに報告する部下のように現在に至るまでの経緯の説明を始めた。

氷の怪物、ジルドレイ・モントランシー。
炎の魔女、フレゼア・フランベルジェ。
危険度A級の受刑者同士が交戦する只中に巻き込まれたこと。

さらに、神父、夜上神一郎と元テロリスト、アルヴド・グーラボーンとの接触と一時的共闘。
享楽の爆弾魔、ギャル・ギュネス・ギョローレンの乱入による戦局の悪化。
三つ巴、あるいは四つ巴の混沌の中で、セレナが重傷を負ったこと。
その避難のため、そして最低限の休息を得るため、ここ管理棟に一時的に退避したこと。

「……その戦況の最後に目の前でフレゼアが死んだ。俺が得たのは、その首輪からのポイントだ」

そう説明を締めくくる。
報告の中でセレナのアクセサリーがフレゼアの何かを宿した件には触れなかった。
話の経緯として語る必要はないし、セレナの為にも語るべきではないとそう判断した。

報告に耳を傾けていたキングはしばし無言のまま煙草をくゆらせ、やがて一言、呟いた。

「なるほど。つまり君の持つポイントは、フレゼアから得たものということか」

キングは目を細める。
その表情に驚きや猜疑の色はない。

既にギャル・ギュネス・ギョローレンから、同様の報告を受けていたのだ。
視点や語調の違いはあれど、事実関係には整合がある。

結果としては、混沌の戦場における幸運。
棚ぼたとまでは言わずとも、特筆すべき功績や狙いのあった取得ではない。

457鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:29:10 ID:wzXT53w60
「じゃあ、次の質問だ、」

キングが次なる問いを口にしようとする、その寸前――セレナは唇を噛み、ちらりとハヤトの横顔を見た。
一瞬の逡巡。けれど、その目には、怯えと覚悟がないまぜになっていた。

「――あ、あの!」

椅子が軋み、少女の声が響く。
声はかすかに震えていたが、それでも明確に届く強さを持っていた。

「なんだい? お嬢ちゃん」

キングの低い声が応じる。
その瞬間、空気が一変する。
静まり返った室内。視線が一点に集中する。
ハヤトは思わず顔を上げ、息を呑む。

「そっちの質問ばっかり続けるのは、その……ずるい、です。そちらから訊くばっかりじゃ、フェアじゃありません……」

少女は怯えながらも、真っ直ぐにキングを見据えていた。
そこには逃げ出さない覚悟と、間違いを間違いと言える子供らしい正義感が宿っていた。

だが、それは悪手だ。
これは情報交換の場などではない。
これは一方的な情報の搾取の場である。

裏社会の頂点と、名もなき端くれ。
支配と従属が織りなす非対称な場で、まともな交渉など成立するはずもない。
最初から互いの立場は対等などではないのだ。

ハヤトはその構造を嫌と言うほどよく理解していた。
だが、そんな裏社会の構造やルールなどセレナには関係がない。
恐れ知らずにもセレナはその欺瞞を暴く。

「……つぎは、わたしたちが聞く順番、じゃ、ないでしょうか…………?」

紫煙の向こうで、漆黒の瞳が長耳をした獣人の少女をじっと見据える。
時間にして数秒、しかしその沈黙は、銃口を向けられたかのように長く、重かった。

「こいつは……裏の事情も、アンタのこともよく知らねぇんだ。許してやってくれ……ッ」

その空気に耐えきれず、ハヤトが身を乗り出して取り成す。
だが――その言葉を遮るように、キングは静かに応じた。

「……いいや。嬢ちゃんの言い分も、もっともだ」

だが、意外にもキングはその申し出を無下にはしなかった。
ようやく発せられた声は、低く落ち着いていた。

「情報とは、武器であり、贈り物でもある。差し出すのが当然と考える者には俺は与えない。
 だが、交渉のテーブルに座る覚悟を示した者には、多少の礼儀は通そう」

静かに椅子の背にもたれ、指を鳴らす。
場の空気が、再び切り替わった。

「――ならば、ルールを決めよう」

紫煙の向こう、帝王の声が穏やかに響く。
その声に、一瞬で場が支配される。

「この場にいる者は、これからそれぞれ一問ずつ質問をする権利を持つ。
 どのような問いの内容であれ虚偽も黙秘もなしで必ず答えることを保証しよう」

ハヤトは、驚きに眉を上げた。
それはまるで、少女の勇気に報いるかのような譲歩だった。

2対1の構図であるが、ルーサー側は先ほどの問いと合わせて2回。
2対2の平等な情報交換のステージを用意する言葉。
互いの立場を考えればあまりにも不気味な譲歩だった。

紫煙の奥で、ルーサー・キングはゆるやかに微笑んでいた。
その笑みの底にどんな打算があるのか。
あるいは、先ほどのような試しなのか。
誰も、それを見極めることはできなかった。

「――さあ、どうする? この条件で手を打つかい?」

試すような問い。
その問いかけに、最初に反応したのはセレナだった。

「はい。わたしは構わないです。ハヤトさんは……」

自分の意志を示し、伺うようにハヤトに視線を向ける。

「……分かった。俺もそれで構わない」

その返答に、キングは軽く片手を掲げ、口角を上げた。

458鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:29:51 ID:wzXT53w60
「よろしい。では、お嬢さんから」

いつの間にか場を取り仕切るキングに促されて、セレナは小さく息を吸い込み、問いを紡ぐ。

「……キングさんは、どうしてここにいるんですか?」

ここにやってきた目的を問う。
人気のない港湾。何の目的もなしにやってくるような場所ではない。
ましてやルーサー・キングが何の目的もなく動くはずもない。
その目的を確認しておくのはセレナたちにとっても必要な事だろう。

問としてはありきたりだが、要点は外していない。
キングは笑みを崩さぬまま、ゆっくりと煙を吐く。

「待ち合わせのためさ。正午にちょっとした取引相手がここに来る手筈になっている。
 港湾(ここ)を選んだのは君たちと同じでね。邪魔が入らない場所をと思って選んだのだが、当てが外れたようだ」

冗談めかした口調の裏に、キングとしてもハヤトたちの存在は計算外だったという事実が垣間見える。
少なくとも彼らを狙った行動ではないと言う事が分かっただけでも十分だろう。

「取引相手というのは誰なんですか?」
「おっと質問は一つまで、そう言うルールだろう?」

キングの牽制にセレナが押し黙る。
続いて、質問のバトンがハヤトへ渡った。

何を問うべきか、ハヤトは考える。
セレナの質問を引き継ぐが、それとも別の問いか。
しばし考えて、結局大したものも浮かばず最初に浮かんだ疑問を口にする。

「…………その服と、さっきの食料。それはどうやって手に入れたんだ?」

これは、キングから投げられたのと同じ問いだった。
服も食料も、恩赦ポイントがなければ得られない。
その意味を知っているからこそ、ハヤトは同じ角度で返した。

「知り合いに譲ってもらったのさ。君らも出会ってるはずだ。
 ギャル・ギュネス・ギョローレン。アレとはちょっとした古い知り合いでね」
「……あいつか」

思わず口にしたハヤトのつぶやきは、やや呆れ混じりだった。
貴重な恩赦Pを使って他人に施すなど、普通に考えればありえないことだ。
だが、あの爆弾魔は行動原理のよくわからない奴だった。
あいつなら、と、納得してしまう自分がいるのもまた事実だった。

「さて、俺の番か」

そして、最後にルーサー・キングの手番が巡ってくる。
紫煙の奥から伸びる黒い視線が、まっすぐにハヤトを射抜いた。
緊張が、空気に濃く染みわたる。

「この俺に――――隠していることはあるかい?」

あまりにも反則的な、ワイルドカードめいた一手。
その問いが、紫煙の向こうから鋭く放たれた。

やられた。
ハヤトは、反射的にそう悟った。

周囲に紫煙が揺れる中、心臓が早鐘のように鳴る。
この質問交換のルールを、ルーサー・キングはこれまで忠実に守っていた。
その事実が、ハヤトたちの逃げ道を塞ぐ。
彼が律儀であるほど、こちらもまた誠実を求められるのだ。

キングは最初からすべてを正直に話すなどと相手を信用していない。
相手に正直に話させるには『ひと手間』が必要になる。
ルール一つでその面倒が省けるのなら楽なものだ。

一瞬、喉が詰まりそうになる。
その反応を示した時点で、隠し事があると言っているようなものだ。
誤魔化しは死を意味する。自分だけではなく自分とセレナ2人の死だ。
ハヤトは、震える息を押し込み、乾いた声で答えた。

459鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:30:15 ID:wzXT53w60
「…………ある。だが、言えなかった事情も、察して欲しい」

言い訳めいて聞こえることは自覚していた。
だが、それでも弁明せねば、ただ処分されるだけだ。
そしてハヤトはセレナのアクセサリーについてではなく、あくまで自分に与えられていた秘密――看守からの取引について語り始めた。

刑務作業内で発生した死体を確認するハイエナ役。
その為にハヤトのデジタルウォッチには死体の場所が分かる機能を持たされている事。
その代価としてシステムAの使用権を与えられている事。

すべてを包み隠さず、語った。
ここで情報を誤魔化せば、今度こそ命はないだろう。
手遅れであろうとも誠実を見せるしかなかった。

「明確な口止めはされていない……けど、おいそれと口にしていい内容じゃない事はアンタにも分かるだろう?」

必死の弁明だった。
だが紫煙の奥で揺れるキングの表情は、鉄仮面のごとく読めなかった。
やがて、沈み込むような声でキングが問い直す。

「……システムAの使用権ってのはどういう物だ?」
「……この枷を、合計で10分だけ解除できる権利だ。操作は俺のデジタルウォッチからしかできないようになってる」

刑務作業中のデジタルウォッチの取り外しが許されていない以上、この権利は他人に譲れるようなものではない。
そこはヴァイスマンたち看守側が設定した動かしようがないルールである。

それはある意味で絶対不可侵の聖域。
相手がどれほどの大物であろうと、受刑者である以上、刑務官の極めたルールには逆らいようがない。
そうでなければ、キングはこの権利を献上しろと言いかねなかっただろう。

長い、鋭い沈黙が場を支配する。
紫煙が揺れるたびに、空気が軋む。
何かを考えこむような沈黙のあと、やがてキングが低く呟いた。

「……もう一度、確認するぞ」

その声は、冗長を許さぬ拷問官のそれだった。

「お前は――死体の場所が分かるんだな?」
「……あ、ああ。間違いない」

その返答を受け、しばしの沈黙のあとルーサー・キングは小さく頷く。
何かを計算するような瞳に、暗い光が宿る。
そして――静かに沙汰が下された。

「……事情は理解した。黙っていた理由も、まあ察しよう」

一拍の間。

「――だがな」

その声が、一段階だけ冷えた。
それで周囲を凍てつかせるには十分だった。

「この俺に隠し事をしていたという事実は――どうあがいても消せはしない」

空気が、沈む。
その言葉には、明確な断罪が込められていた。
声を荒げる必要などない。ただ言われただけで、背筋が凍る。

ハヤトは、思わず喉を鳴らした。
セレナも息を呑む。
一瞬先の死、いやそれ以上に惨たらしい結末が嫌でも脳裏をよぎる。

「……だから、一つだけ、落とし前をつけてもらおう」

キングの瞳が、鋼のように冷たく光る。

「その機能を使ってドン・エルグランド――誰があいつを殺したのか、それを調べて欲しい」

言葉は端的で、容赦がなかった。
死体の場所が分かるという機能は、情報収集のための道具として他に代えがたい特異性を持っていた。

「死体の場所が分かるのなら、その死体を調べてある程度は調べがつくはずだ。
 あのドンを殺せる奴がいるとすれば、それはこの刑務における最大の脅威だろう。
 どのような手段で、どのような状況で、誰が、なぜ――その事情を可能な限り洗い出してくれ」

安全な刑務作業の終了を望むキングとしてはその動向は調べておきたい
キングはそこに目を付け、ハヤトを使える駒と見做したのだ。

相性の悪い相手にあたったか、あるいは何らかの偶然が重なったのだったとしても。
それが自分のみに起こりうることなのかは把握しておかなければならない。
キングが生き残るために。

460鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:30:58 ID:wzXT53w60
そして――キングは、ふっと笑った。
まるで何事もなかったかのように。

「この仕事を引き受けるというのなら――この俺に隠し事をしていた件については、水に流してやろう」

それは慈悲ではない。
取引として成立させることで、キングはハヤトに生き残るための余地を与えたのだ。
理不尽の中に見せかけの平等を与えることで、支配をより徹底するやり方だった。

選択肢など、初めから存在しない。
だが、形式として選ばせる。
そこに、ルーサー・キングという男の恐ろしさがあった。

ハヤトは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
掌には汗がにじみ、喉の奥が張りつく。
拒絶の選択肢など、初めからなかった――それでも言葉を絞り出すには時間が要った。

「……わかった。やるよ」

声は震えてはいなかった。
それが、唯一許された返答だった。

そうして、取引は形式上『成立』した。
ハヤトに課された依頼『ドン・エルグランドの死の真相調査』を引き受けることで、ルーサー・キングに対して犯した隠し事の咎は、水に流された。
――表向きは、だが。

この部屋に充満していた圧迫感と沈黙。
それが一時的にでも解除されたことで、ハヤトの背筋にようやく重力が戻ってきた。
それでも、その場に居続ける気にはなれなかった。

負傷から回復しきっていないセレナの休息には、本来ならもっと時間が必要だった。
だがこの空間――闇の帝王と同じ屋根の下にいること――それ自体が精神をすり減らしていた。
彼女のためを思うのなら一刻も早くこの場を離れた方がいいだろう。

「……じゃあ、とっととその依頼を果たしてくるよ。行こうセレナ」

そう呟きながら、ハヤトは立ち上がる。
セレナもそれに合わせて身体を起こす。
彼女は無言で頷いたが、その表情はどこか張りつめていた。

2人は連れだち、管理棟の扉を開いた、その時だった。
ピクリと、セレナの長い耳が小さく跳ねた。
次いで、外の音を拾うようにぴんと立つ。

「……誰か、近づいてきてる、かもです」

ウサギ系獣人特有の鋭敏な聴覚。
セレナのその耳が察知した気配は、ハヤトにはまだ届いていない。
だが、彼女の感性が信用できるという事をハヤトはよく知っている。

「キングさんの待ち合わせ相手の人でしょうか……?」

この港湾地区は、そもそも人が寄りつく場所ではない。
そこにわざわざ訪れる者がいるとしたなら、そう考えるのが自然な結論である。

その疑問を受け、キングはデジタルウォッチで時刻を確認する。
時刻は8時になろうとか言う所。まだ約束の正午には程遠い。

キングが指定したターゲットの中で、放送で呼ばれたのは恵波流都のみ。
恵波流都を殺害したのが叶苗たちでその報告のために早々に港湾を訪れた、と言う可能性もないわけではない。
いずれにせよ、その来訪者が何者であるかは確認しておく必要があるだろう。

「――出ていくついでに、一つ。野暮用を頼まれてくれないか?」

ルーサー・キングが、何気ない口調でそう言った。
だがその一言は、二人の足を止めるのに十分な重さを持っていた。

461鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:31:11 ID:wzXT53w60
「そのこの港湾に近づいている奴の様子を見てきてほしい」

その声に、命じるような圧はない。
だが、命令と請願の境界線が、限りなく曖昧だった。

「もしそれが『二人組の少女』だったら。ここへ案内してやってくれ。俺の待ち人だ。
 それ以外の連中なら、無視して出て行ってくれて構わない」
「……了解した」

何の報酬もなく偵察役をやらされようとしている。
応じる理由もないが、ここで断って事を荒立てたくない。
その一言を返しながら、ハヤトは胸中で警戒心を強めていた。

セレナはすでに気配のする方向を見据えている。
長い耳が風のような震えを感知していた。

「行こう。さっさと確認して、さっさとここから離れよう」

その言葉に、セレナも頷いた。
二人は再び、鉄の重圧が支配する空間を背に、管理棟の外へと歩みを進めた。

外にはすっかり朝の気配が漂っていた。
だが、そこに待っているのが何者なのか。
それはまだ、誰にも分からなかった。

【B-2/港湾(管理棟)/一日目・午前】
【ハヤト=ミナセ】
[状態]:多大な精神的疲弊、疲労(小)、全身に軽い火傷
[道具]:「システムA」機能付きの枷、治療キット
[恩赦P]:30pt(-食料10pt×2)
[方針]
基本:生存を最優先に、看守側の指示に従う?
0.ドン・エルグランドの死について調査する
1.セレナと共に行く。自分の納得を貫きたい。
2.『アイアン』のリーダーにはオトシマエをつける?
※放送を待たず、会場内の死体の位置情報がリアルタイムでデジタルウォッチに入ります。
 積極的に刑務作業を行う「ジョーカー」の役割ではなく、会場内での死体の状態を確認する「ハイエナ」の役割です。
※自身が付けていた枷の「システムA」を起動する権利があります。
 起動時間は10分間です。

【セレナ・ラグルス】
[状態]:背中と太腿に刺し傷(治療キットによりほぼ完治)
[道具]:流れ星のアクササリー、タオル、フレゼアの首輪(P取得済み)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:死ぬのも殺されるのも嫌。刑期は我慢。
1.ハヤトに同行する。
2.生きて帰れたら、ハヤトと友人になる。

※ハヤトに与えられている刑務作業での役割について、ある程度理解しました。
※流れ星のアクセサリーには、高周波音と共に音楽を流す機能があります。
 獣人や、小さい子供には高周波音が聴こえるかもしれません。
 他にも製作者が付けた変な機能があるかもしれません。

※流れ星のアクセサリーには他人の超力を吸収して保存する機能があるようです。
 吸収条件や吸収した後の用途は不明です。
 現在のところ、下記のキャラクターの超力が保存されています。
 『フレゼア・フランベルジェ』

【ルーサー・キング】
[状態]:健康
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1、タバコ(1箱)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました
※ギャル・ギュネス・ギョローレンが購入した物資を譲渡されました(好きな衣服、煙草一箱、食料)

462鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:31:51 ID:wzXT53w60


大金卸が森の奥へと姿を消してから、しばらくの間、りんかと紗奈の二人は一言も発さなかった。

圧倒的な存在が去った後の静寂は、むしろ重たかった。
ようやく戻ってきた風が、そっと頬を撫でる。
それに導かれるように、りんかと紗奈のふたりは、小さく息を吐いた。

互いの顔を確かめる。
その瞳の奥に浮かぶ微かな光が、まだ生きていることを証明していた。

「はぁ……」

どちらからともなく漏れた息。
ほんの数時間の間に彼女たちは、数々の強敵と死力を尽くす戦いを重ねてきた。
バルタザール、ブラッドストーク、ルクレツィア、ジルドレイ、そして先ほどまで対峙していた大金卸樹魂。

あまりにも密度の濃い時間だった。
身体だけでなく、心の軸すら擦り切れそうだった。
一人ならとっくに折れている激戦の数々。

「……少し、休もうか……」
「うん、そうだね……」

りんかが、限界を滲ませた声で呟き。
紗奈もまた、同じ疲れをその声に乗せた。

二人は倒木のそばへ歩み寄り、苔むした幹の影に腰を下ろそうとした。
だが、その直前にぴたりと動きを止める。

そこで二人の目が合う。
互いの中で、同じ懸念が脳裏をかすめたのを、感じ取っていた。

「……でも、また……来るかも」
「うん……そうだね」

声は小さく、うんざりとした響きが込められていた。
肌に染みついた負の経験が、警鐘を鳴らしていた。

――そう。
これまでも、少し休んだところで、次の試練がやってきた。
一度や二度ではない。まるでこの地に留まること自体が、何かを呼び寄せる呪いのようだった。

「……もしかして、この場所が……悪いのかな」

りんかの呟きは、独り言のようでいて、どこか確信を含んでいた。
運が悪い、というどうしようもない結論を排除して考えれば、後は場所が悪いという結論になるのは当然の事。
実際の所、りんかたちはこの刑務作業が始まって、この周辺から殆ど移動出来ていない。

目立つ地形や施設は周囲にない。
けれど、この一帯に戦いを誘う何かが潜んでいる可能性は否定できなかった。
実際、先ほどの大金卸もその戦いの匂いに惹かれてやって来ていた。

戦いが戦いを呼ぶ因果に搦め手取られている。
この因果を断ち切るのは、場所を変えるのが一番手っ取り早い解決策だろう。

言葉にはせずとも、ふたりは自然と同じ結論にたどり着いたように頷き合う。
迷っている時間がもったいない。
休むよりもまず、移動しなければ。

りんかがデジタルウォッチを操作する。
薄いホログラムが地図を投影し、島の全体像を映し出した。

「……中央のブラックペンタゴンは……避けよう。絶対、人が集まりやすい場所だし、目立ちすぎる」
「うん。この近くだと……北西に港湾と灯台があるみたい」
「島の端に人が集まるとも思えないし、いいと思う」

恩赦狙いの危険人物は人の集まる場所に向かうはずだ。
人の集まりそうにない島の端に誰かがいたとしても、それは自分たちと同じく戦いから避難しに来た人間である可能性の方が高いだろう。

「灯台と港湾…………どっちの方がいいかな?」
「港湾の方がまだ安全だと思う。灯台は万が一追い詰められたら逃げ場がないけど、港湾なら物陰も多そうだし隠れる場所もありそう」
「りんかが、そう思うなら……行こう。少しでも、落ち着ける場所へ……」

本当は、今すぐにでも休みたい。
だが、ここに留まり続けることの方が危険だ。
この場所は休息の場所ではない。
痛みを癒す余裕を、決して与えてくれない。

ふたりは互いに支え合うように寄り添って歩き出した。
傷ついた身体を引きずるようにして、森の奥へと足を進める。

その背に朝の光が差し込み、長く影を落とした。
けれどその影は、もはや孤独ではなかった。
ふたりの影は重なるように一つになる。

463鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:32:02 ID:wzXT53w60
重なり合うふたつの影が、ゆっくりと森の中を進んでいった。
戦闘の最中は、張り詰めた神経とアドレナリンが痛みや疲労を麻痺させていた。
だが、緊張が解けた今、その代償が一気に襲いかかる。
特に、これまで何度も矢面に立ち続けてきたりんかの身体は、すでに限界に近かった。

足の筋肉は鉛のように重く、もはや痛みすら感覚が鈍くなっている。
身体の芯には冷えが染み込み、焼けるようにじんじんとした熱が頭の奥を離れない。
目の奥も重く、光すら煩わしい。

足元がふらつくたび、隣を歩く紗奈がすかさずりんかの肩を抱えて支える。
その細い腕に力を込めて、決して倒れさせまいとする気持ちが伝わってくる。

りんかは黙ってその体重を預けた。
彼女に情けない姿を見せたくないという思いはある。
だが、互いに支え合っていこうと決めたのだ。
今は、紗奈の温もりがただただありがたかった。

疲労だけではない。
喉の奥には、ひどく乾いた痛みがあった。
戦闘の最中は気づかなかったが、今はその渇きが鋭い苦痛として意識を蝕んでくる。

「……水、欲しいね」
「うん……お腹は、まだ平気だけど……喉は、限界かも……」

ぽつりと、りんかが呟き、紗奈もまた喉を押さえながら応じた。
口にしてもどうしようもないことだが、どちらかが呟くともう一人も同じように答えてくれる。
それが、唯一の救いだった。

これから向かう港湾には、海が広がっているが海水は飲めない。
目の前に水があるのに飲めないという事実は実に恨めしい。

それでも、ふたりは歩く。
足を止めれば、そこに安全があると信じて。
励まし合うように、ふたりはそっと手を握り合う。
互いの体温を感じることで、ほんの少しだけ心が落ち着いた。

「……りんか」
「……なに?」
「ちゃんと……手、つないでてね」
「うん……はなさないよ。ぜったいに」

ふたりの手は強く、熱くつながっていた。

光も、祈りも、理想も、今は持っていない。
けれど、互いの手の中には、確かに命があった。

だから歩ける。
それだけで、今は充分だった。

森を抜けた瞬間、視界が大きく開けた。
淡く広がる空の下に、ひらけた地形と、人工的な構造物が見える。
錆びついたクレーン。崩れかけた倉庫。風に揺れる掲示板の残骸。
そこは確かに、人の手によって築かれた港湾だった。

どこか寂れた雰囲気があったが、逆に言えばそれだけ人の気配が薄いということだ。
ようやく、ひと息つけるかもしれない場所にたどり着けた。

だが、完全に安心はまだ早い。
この場所が本当に安全かどうかは、まだわからないのだ。
それでも、ふたりの少女は、重い足を引きずりながら、港湾へ向かって歩みを進めていった。

464鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:32:28 ID:wzXT53w60
【C-2/港湾近く/一日目 午前】
【葉月 りんか】
[状態]:渇き、全身にダメージ(極大)、疲労(中)、腹部に打撲痕、背中に刺し傷、ダメージ回復中、紗奈に対する信頼、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。
0.港湾で休息
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。

【交尾 紗奈】
[状態]:渇き、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかに対する依存、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
0.港湾でりんかを休ませる
1.新たに得た力でりんかを守りたい
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。
※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。

465鋼鉄のブレックファースト ◆H3bky6/SCY:2025/06/15(日) 18:32:51 ID:wzXT53w60
投下終了です

466 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:28:46 ID:UIGZYa2s0
投下します。

467色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:29:41 ID:UIGZYa2s0
『――――定時放送の時間だ』


ブラックペンタゴンの外壁を背に、征十郎は袋詰めされた糧食をそっと脇に置き、放送に耳を傾けた。
淡々と命を落とした受刑者たちの名が読み上げられていく。
その中には当然のことながら、舞古 沙姫の名が含まれていた。
征十郎自身が死の間際に居合わせ、最期を見届けられた"数少ない"人間だ。
今さら取り乱すようなことではない。
静かに佇み、黙祷を捧げてその死を深く悼んだ。

だが、その次に読み上げられた名前には征十郎も思わず目を見開いた。
テキサスの大人たちは、やんちゃ坊主に対して、『悪い子は嵐の夜にエルグランド海賊団に攫われてしまうぞ』と戒める。
カリブ海を拠点にしていたかの大海賊は、テキサスではハリケーンに例えられていた。
思い出したようにメキシコ湾方面に遠征し、沿岸都市に甚大な被害をもたらしていったからだ。
征十郎はアビスに収監されてはじめてその威容を目にしたが、災害に例えられるのも頷ける、暴の体現のような男であった。

続くように読み上げられたのはフレゼアの名だった。
"炎帝"の名は北米においてはドンをも凌ぐ恐怖の代名詞だ。
限界が存在することが信じられないほどの出力と、恐るべき執念深さ。
世の人々に二つ名を付けられた悪党の業を、征十郎はこの刑務で思い知った。
あの炎の化身に正面から打ち勝った者がいるのなら、それこそ脅威が新たな脅威であろう。

されど先ほど邂逅した、ルーサー・キングなる巨漢のすさまじい実力を思えば、炎帝を殺しうる受刑者の存在も納得できる。
一つ歯車が狂えば、そこに征十郎の名が連なっていたのだろう。


その後、読み上げられた中にギャルの名はなく。
征十郎は残りの糧食を口に詰め込み、水で胃まで押し流して食事を終える。
そしていざブラックペンタゴンに参入しようとしたそのとき。
建物の中から、身をすくませるような凄まじい轟音が耳をつんざくように響き渡った。
征十郎は急ぎ、門を潜ってブラックペンタゴンへと侵入した。

468色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:30:59 ID:UIGZYa2s0


ブラックペンタゴンは既に喧騒の中にあった。
壁や扉の向こうから、何かが崩れたりぶつかったりする音が散発的に聞こえてくる。
既に受刑者同士の戦闘が発生しているのだろう。

しかし、大爆発の音は先の一回以降、音沙汰がない。
ギャルが戦っているのなら、もっと派手に爆発が響いているはずだ。
ならばギャルではなく、別の受刑者だったのか?

アテが外れたのかもしれない。
ブラックペンタゴンを引き続き探索するか、それとも港湾方面へ引き返すか。
二つの選択肢を視野に、再度後方の門に視線を移したその時。
入り口に人影を見た。


「あっ、あーっ!」
数カ月ぶりの友人に話しかけるような気軽さで、身体全体を大きく使って手を振る。

「見ぃつけたっ! 征タンおひさっ!」
褐色肌に金髪碧眼、ブレザーに袖を通した華の女子高生。
アビスには到底似つかわしくない華やかなる姿。
装いこそ変わっているが、あのようなふざけた格好の人間など一人しかいない。


「ギャル・ギュネス・ギョローレン……!」
「およ? なんかオカンムリな感じ? こっわ〜☆」
きょとんとするギャルに対して、征十郎は刀を抜き。

「――――ふッ……!」
八柳新陰流『抜き風』。
風のように疾走し、鋭い一撃を加える速攻の剣技。
ギャルの超力はすでに見た。時間を与えるたびにこちらは不利になる。
仇敵相手に言葉は不要とばかりに、征十郎が選んだのは速攻だ。


「あーしを見るなり飛び掛かってくるとか……征タンさぁ、がっつきすぎじゃね? 欲しがりすぎっしょ〜」

ギャルは何かに弾き飛ばされるように飛び上がり、舞うように辻風の一撃を回避する。
わずかに鼓膜を打った破裂音から、何かが極小の爆発を起こしてギャルの肉体を弾いたのだと理解する。


「早漏男は嫌われるゾ☆」
飛び上がったギャルはそのまま集荷エリアに置かれている巨大コンテナに腰かけ、足をぶらぶらと遊ばせ始めた。


「あーし、今ちょっとだけナイーブモードなんだよね〜。
 ダチが放送で呼ばれてさ〜」
「お前のような悪鬼にも、心を痛めるほどの友がいるのか」
「いや征タンよりは友達多いと思うよ?
 ってか征タン絶対ソロ活タイプっしょ」
「友人くらいいる。それに必要なのは数より質だ。
 私にもかつて、腕を競い合った宿敵がいた。
 濃い関係が築けているなら、数の多募など問題ではあるまい」
「数より質アピするやつって、大体友達いないんだよね〜。
 っていうか宿敵って敵じゃん、それゼロだかんね?」
ギャルは指を指して一通り笑った後。
何がおかしいのか、小馬鹿にするような挑発的な笑みを浮かべて。


「あーしのダチの沙姫っちは、剣術マニアだったし? 絶対征タンとウマが合ったと思うな〜?」

469色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:32:34 ID:UIGZYa2s0
瞬間的に手が出そうになった。
ギャルの右手がブレザーの内側に入っているのに気付かなければ。
ギャルの目が猛禽類のように鋭さを増した瞬間を目撃しなければ。
沙姫の二の舞を演じていただろう。


「あっは、メンゴメンゴ☆
 やっぱそうだったんだ〜、は〜あ……」

ギャルはがくんとうなだれ、視認できるほどに大げさにため息をつく。


ヴァイスマンの読み上げ順が刑罰執行の順番であることには早々に勘付いた。
あのとき爆殺した人間が誰だったか。
沙姫である可能性は1/3だったが、当時同行していた征十郎の反応からおおよそは察せられた。
今再び、征十郎のリアクションであれが沙姫であったことが確定し、さらに気分がサガ↓っているのだ。
だが、それは決して友人を殺したことへの後悔ではない。


「ダチ大事にするタイプだからってイキった挙句、秒で爆(や)ったのダブスタすぎて冷めるわ〜」

出されたご飯は全部おいしく食べたい。
奇縁因縁、消化不良のまま終わるのはイケてない。
そんな独りよがりな美学を自分で台無しにしてしまったことによる気の滅入りである。


「それで? 知らなかったから許せとでも?」
「あ〜、別にそこは求めてないし?
 これはあーしのこだわり。征タンにはまた別件ね」

ギャルは気を取り直したように顔をあげると、髪をくるくるといじりだした。

「……うーん、なんっていえばいいんだろ。
 えとね、アンちゃんとはバッチリお別れできたし、アーくんともグッバイ済み、ルーさんとも久しぶりに話せたし。
 沙姫っちの件はあーしの大チョンボだったわけだけど、じゃあ征タンはなんなんかなーって」

裏事情を知らない征十郎には、彼女の言葉に疑問符を浮かべる以上のリアクションは取れないが。

ギャルはこの刑務がとある目的のためにおこなわれていることを知っている。
看守長の意図どおりに初期位置や周辺人員が配置されていることも知っている。
縁深い相手や因縁のある相手が意図的に近くに配置されうることを知っている。


「ガチる前にさー、ちょいお喋りしない?」
「今になって怖気付いたか?」
征十郎は刀を構え直し、すり足で円を描くようにギャルへと近づいていく。
征十郎の殺気をすり抜けるかのようにギャルはひらひらと手を振る。


「いやー、 沙姫っちと会話ゼロで終わっちゃったのびみょーに後悔してんだよね。
 それに始まっちゃったら駄弁ってるヒマなくない?
 秒でどかーん☆で終わっちゃうし? そんなのもったいないっしょ」
秒殺を高らかに謳う。
無自覚な挑発に応えるかのように、征十郎が動く。


「およ?」
向かう先は内壁。
八柳新陰流『猿八艘』。
屋内にて壁面を蹴って飛び、射撃を回避しながら敵を仕留める技である。

訝しむギャルを余所に、征十郎は三角跳びの要領で壁を蹴り、コンテナを蹴り、さらに二段三段と蹴り上げて、飛び上がっていく。
人類総超人化した現代においても、空中で動きを変えることはできないという弱点は変わらない。
だからこそ、それを見抜いたギャルは自身と征十郎を結ぶ直線ラインにぶちまけるべく、小瓶を手に取り。


だが征十郎はそこからさらに大きく飛び上がった。
それは弧のような軌道を描き、ギャルの頭上にまで達して。

「八柳新陰流――――『漁獲』」


天井まで達したのち、天井を強く蹴ることで頭上から繰り出す鋭い突き。
上空から水中の魚を貫く猛禽の嘴のごとき剣技。
『雀打ち』が地上から宙空の敵を仕留める対空の一撃であるならば、
『漁獲』は上空から地上の敵を仕留める対地の一撃。
開闢後に編み出された、新人類の身体能力ではじめて実践可能となった技である。

瓶詰した液体をぶちまける間も与えない、ギャルに向ける必殺の一撃だ。
この速度はかわせまい。その確信を持った一撃だった。
だが、不意にぶわりと強い風が征十郎に吹きつけ、僅かに速度が落ちる。
ギャルは勢いを削がれた上空からの突きを、紙一重でかわしきった。


「あっぶねあぶね」
見えない守りのタネは単純。
屋内において、ギャルの呼気は起爆する。
屋外では風で散らされてしまうが、閉鎖空間では水蒸気が充満する。
それだけで人を傷つけることはなくとも、爆風は生じる。
敵の勢いを削ぎ、自分の勢いを増すには十分だ。

呼気と汗。
目に見えない幾重もの守り。
これを突破できないなら、彼女に剣を届かせることはできない。

470色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:33:57 ID:UIGZYa2s0
「征タンがせっかちなのは分かったけど、あーしはさ、タイパのいい下準備はしっかりやるタイプのギャルなんだよね」
必殺の一撃を外した征十郎だが、闘志冷めやらずとばかりに射抜く様な視線を外さない。
割れた鉄床の上に立ち、ギャルの言葉の続きを促す。


「お互いにさ、因縁みたいな関係があるとテンションアガ↑らない?」
「私とお前の間に、既にそういったものはあるだろう?」
「沙姫っちの件はそうだね〜。けどさ、そんだけじゃ不公平というか? バランス悪いっつーか?」

征十郎に再び疑問符が浮かぶ。
不公平とはなんだ、と。
この女は何を言おうとしているのだ、と。


「あーしからぶっとい"矢印"が伸びてないって感じ?
 やっぱさー、そういうのって両方からニョキって伸びてバチバチするほうがシックリくるし?
 矢印認識しておいてほしいなーって」

要するに、ギャルは征十郎を殺すに値する動機があればいいと言っているのだ。
従来の刑務に加えて、征十郎はこの島で何度かギャルに剣を向けている。
それだけでも十分な殺害動機にはなるのは承知の上で、彼女が言うのはそういうことではないのだろう。


「分からん。私とお前は今日初めて会った。
 他にどんな因縁があるというのだ」

所詮は狂人の戯言だ。
そう考えつつも、ふとした興味が生まれ、征十郎は会話のボールを投げ返す。
ボールをキャッチしたギャルは、待ってましたとばかりに三日月を描くように口の端を吊り上げ。


「"山折村発、中津川行き最終バス"」


「……………………」


冷たい風が吹きつけるような錯覚を覚えた。
征十郎の手が僅かに震えた。

それは、もう存在しない路線だ。
27年前に山折村の滅亡と共に廃止された路線だ。


「ぷっ、めっちゃ心当たりあんじゃん。
 "八柳の名に誓って、必ず助けに来る"だっけ?」
征十郎の動揺をめざとく察したギャルは、けらけらと、心の底から楽しげに笑う。


「さて、あらためてご挨拶しとこっか」
繋がりを再確認したをギャルは、いたずらな笑みを浮かべて、名を呼んだ。


「おひさー、"八柳"クン?
 27年ぶり? 元気してた?」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

471色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:35:57 ID:UIGZYa2s0
征十郎が10歳を迎えた夏休み。
アメリカでは夏休みは6月に始まるのだが、その長期休暇を使って母の故郷、山折村に里帰りしていた。
その帰路にて起きた、大地震。
山折村と外界を繋ぐ唯一の道――新山南トンネルを襲った崩落事故。
直前にすれ違った山折村に向かうバスも、
征十郎が乗っていた山折村から出ていくバスも直撃し、多くの死傷者を出す。
運転席のすぐ後ろに乗っていた征十郎は、隣にいた母に手を引かれて命からがら脱出に成功した。
その一方で、何人かの顔馴染みが土砂に押しつぶされ、還らぬ人となった。

暗闇の中、崩落した土砂の向こうから聞こえてきた声は今も覚えている。


『誰か……誰か、いませんか!?』

『お願い助けて! 友達が、岩に挟まれているんです!』

『意識はある……!
 けれど私の力じゃ、どうやっても持ち上げられない……。動かせない……!』

『彼女は私の恩人なんです!
 間違いだらけだった私の手を取って、私はこの世界で生き続けていいんだって教えてくれた、恩人なんです!』

『彼女を失うなんて、考えられない……。私は、この命をかけてでも彼女を救いたい!
 だから、お願いです! 手を貸してください!』


暗闇の中、たとえ大人であっても、素手でどれだけあるかも分からない土砂を取り除けるわけがない。
ましてや十歳の子供に何ができるようか。
それなのに。


――絶対に助ける!

――八柳の名に誓って、必ず助ける!


助けを求める人たちに寄り添い、彼らの力となる。
ヒーローになるのだと。
そうあるべきだと、昂揚のままに、言ってしまった。


『ありがとう……!』

暗闇の瓦礫の向こうから届く声。
絶望の中、一筋の希望を掴んだような声。



山折村を襲った惨劇。
大地震に端を発した、未曽有の生物災害。
記録において、その生存者はゼロ。
生物災害に巻き込まれる直前にトンネルから脱出した征十郎たちが、最後の生存者だ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

472色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:38:21 ID:UIGZYa2s0
「めっちゃビビってんじゃん。ウケる」

ギャルは征十郎の動揺を目の当たりにして、けらけらとせせら笑う。
27年前に交わした無責任な約束は、楔のように征十郎の心の奥底に刺さっていた。
もはや色褪せた出来事ながら、それはときおり顔を覗かせ、罪悪感を刺激する。


征十郎は山折村の生物災害を逃れ、村の全滅を知り、失意のままアメリカへと戻った。
親しい村人の全滅と、助けを求める誰かを自分が見捨てたという無力感に苛まれるだけの日々を過ごした。

見かねた母親に持たされたのは一振りの棒切れ。
棒を振ることに集中していれば、その間だけ雑念から逃れられるような気がした。
一連の出来事は、征十郎が剣士の道を進むターニングポイントだった。
英雄崩れとなり、人斬りにまで落ちる確かな分岐点だった。


「ルーさんが征タンの使ってる剣術のことを知っててさ。八柳新陰流だっけ?」

八柳新陰流。今や血に塗れた呪われた剣技。時代錯誤の殺人剣。
世界で最も有名な流派だ。
八柳新陰流の名は世界中に轟いている。

「あーしさ〜、名前は聞いたことあったけど、中身は全ッ然知らなくて〜」

だが、それは名高さではなく、悪名に基づくものだ。
山折村の惨劇の後、どこからともなく動画が流れ出た。
それは山折村の惨状を大衆に知らしめるため、後のGPA関係者たちによって意図的に流されたものだが、
八柳新陰流の剣士たちの蛮行がその日、意図せずして全世界に広まった。
開祖は校舎に侵入して同年代の子供たちを親もろとも鏖殺し。
狂気の笑みを浮かべた極道が嬉々として身内を斬り殺し。
流派一の実力者が村人の百人斬りを達成する。
八柳という家名の誇りと、八柳新陰流の威信を地の底まで堕とすには十分だった。

いつしか、八柳新陰流は禁忌の剣技となり。
その開祖の姓である『八柳』も、忌み名とされて日本のあらゆる家系図から消されていった。


「征タンが"八柳"だったとか、さっきまでマジで知らんかったし。
 何も気付かずに爆(や)るところだったわ。ゴメンねっ?」

今や八柳新陰流を受け継ぐものはごくわずか。
主だった使い手は27年前、山折村の悲劇で死に絶えた。
わずかな生き残りは、ある者は門派が引き起こした惨状を忌むように刀を折り、
またある者は新興のカルト宗教に攫われて消息を絶つ。
現代において、八柳流の剣士というのは片手で数えられるほどしか存在していない。


しかし、ギャルは征十郎が八柳新陰流の使い手だと知ったとき、あのときトンネルの向こうで声をかけた本人だと、そう悟った。
それはひどく曖昧で、勘に基づく根拠のないものだったが、確信があった。
なぜなら。

「あーし八柳サンの顔知っててさ、関係者って知って、面影とかでなんとなーく分かったんだよね。
 なんせ、7年くらいあそこにいたんだから」


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

473色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:40:22 ID:UIGZYa2s0
「やっぱ助け、来ないよね……」

ギャル友の親友、その弱弱しい言葉がタチアナの耳にかろうじて届く。
暗闇の中、刻一刻とその命は失われていく。


「目、めっちゃぼやけてきた……。ま、暗いし見えんしおんなじか……」

新山南トンネル。
山折村と外界を繋ぐ唯一の出入り口。
一切の光が遮断され、黒く塗りつぶされた世界。
僅かに聞こえていたうめき声は一つまた一つ消えていき、今や生きているのは自分と隣の友人だけだ。
土砂をかきわける手からは、夥しい量の血が流れだし、外界と坑内を塞いでいる土砂へと染みこんでいく。

"キャプテン"のあだ名で親しまれていたクラスの中心人物。
先日のテロで衆目をすべてしょい込み、今は山折村で療養している学友だ。
タチアナは"国外追放・再入国禁止"の処分が確定する前に、別れのために親友と共に彼を訪ねた。
その帰り際、日本の中部地方を中心に起きた大地震は、タチアナたちも容赦なく巻き込んだ。


「あーしさ、学校がテロられてからさ。
 いつ死んでも後悔しないように生きよう……って、決めたのよ」

日本の平和な学校を襲撃し、救いを求める信徒たちの存在を神へと知らしめる聖戦。
とあるテロ組織の尖兵――コードネーム"ギャル"。
爆発物の扱いに秀でた彼女は、日本の交換留学制度を悪用し、本来の学生の替え玉となって日本に入国した。
一年間学生生活を送り、その締めとして聖戦の手引きをするために、"内通者"として送り込まれた"毒"であった。
隣に倒れているのは、そうとは知らずに彼女を学友として迎え入れてくれた一人だ。
日本の"文化"をタチアナに叩き込んでくれた、かけがえのない親友だ。


「後悔はないけど、未練は山ほどあるんだよね……。
 やりたいことって山ほど出てくるからさ……。
 これで終わりだなんて、悔しいなあ」

タチアナには未練と後悔しかない。

"交換留学生"として偽りの学生生活を送る日々。
そこには、"人"の生活があった。
血に塗れた兵士としての日常ではなく、切望していた平和な日常があった。

組織から与えられた"ギャル"というコードネームは、若い女性という意味しかない。
替えの利く、使い捨ての戦士の女という意味しか持たない。
組織にとって、末端の戦士などそれ以上でも以下でもない。

そんな彼女に差し込まれた日本国の"ギャル"という概念。

――えっ? ギャルって何かって? んー、自由と可愛さと自分らしさの最先端?
――てかアンタさあ、そんなに気になるなら自分もやってみりゃいいじゃん!
――ガチガチに気張ってたら人生つらいっしょ。チルしようぜ〜?
――よっしゃ決めた、今度の休み、予定空いてる? 空いてるよね絶対!
――あーしたちが日本のカルチャーがっつり叩き込んで、日本離れたくない〜って言わせてやるから!
――おっ、キャプテン! 来週の休み明け、マジ楽しみにしてて。この子がついに日本デビューしちゃうからさ!

その生き方はタチアナの価値観を根本からひっくり返した。
娯楽に飢え、神に祈り、死をもたらし、制裁に怯える日々。
顔も知らない誰かと、景色も知らない"故郷"のために自分を押し殺してきた彼女にとって、その日々は"劇毒"だった。
アルヴドをはじめとする同志にはいくらか違和感を持たれていただろう。
信じるべき神がありながら、異教徒の文化に嫌悪も見せずに接触できる変わり者と見られていただろう。
そんな奇異の目を知りながら、憧憬は止まらなかった。

価値観が塗り替えられていく。
組織の尖兵は日に日に平和へと染まっていく。
そして、夢の醒める日が迫っていることに怯えた。
ああ、聖戦の日が来なかったらよかったのに。
永遠にこの毎日が続いたらよかったのに。

そして、魔が差した。

474色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:42:25 ID:UIGZYa2s0
聖戦の日、タチアナはクラスメイトに計画のすべてを打ち明けた。
日本に来る前には考えもしなかった未来に、目がくらんだ。
見知らぬ子供たちの未来よりも、彼女は自分の未来を選んだのだ。


組織の仲間を彼女は捨てた。
裏切りが露見しないように、"キャプテン"たち学友に手を汚させた。
生き残って連行されていくアルヴドを物陰から覗いたとき、言い知れない寂寥を感じ、彼を直視できなかった。
その魂が抜けたような呆然とした姿を目に映すことはできなかった。


「なあ、アンタはあーしの分まで生きなよ。
 生きてりゃ絶対、楽しいことがいっぱい待ってるから、な。
 それでさ、向こうで教えてよ。聞くの楽しみにしてるからさ」

今しがた、親友が"天井の崩落から自分を庇って"、命を落とそうとしている。
タチアナは仲間を裏切り、他人の人生を奪い、彼らの青春を啜って生き永らえる罪人だ。


「ね、返事くらいしてよ……」

弱弱しくなる声に対して、タチアナは声をかけられなかった。
彼女に何を言えばいいのかは分からなかったから。
自分は神を棄てた裏切者で、相手は神に縛られない自由の最先端を行く人間で。
そんな人間の死を前にして、何と言葉をかければいいのか。

しょうがないやつだな、と呆れるような力無い笑い声が耳に届く。
それきりだった。
坑内に沈黙の帳が降りた。

そのあと、自分が何を考えたのか。
もう覚えてはいない。

その後に襲い掛かってきた、ただならぬ異変にすべて思考を押し流されたのだ。



それは、白い澄み切った光だった。
美しく、神聖で、神の恩寵を思わせるような白い光だった。
容赦なく悪を浄化する、清廉潔白で底冷えのする光だった。

光は世界を侵食するようにゆっくりと迫りくる。
やがてそれがタチアナをも呑みこもうとしたその時、不意に彼女の眼前で光が止まった。
冷たい輝きは噓のように消え去り、入れ替わるように現れてあたりを吞み込んだのは白く濁った光だった。
この世のものとは思えない光の中で、事切れていたはずの親友が立ち上がった。
笑顔を浮かべて、困惑するタチアナの手を引いて、いつの間にか通じていたトンネルの外へと駆けだしていく。


そこは呪われた聖地。
子供たちの永遠の楽園。
決して朽ちず、決して老いず、決して死なず。
来る日も来る日も同じ毎日が繰り返される、刻の止まった村。


山折村にて生じた生物災害。
その生き残りが願いを叶える聖杯に、永遠を願った。
聖杯から溢れ出た冷たい光は、願った本人の命をも糧にし、その願いを聞き入れた。
聖杯からあふれ出した白く濁った領域は、無限の強度を持った空間領域だ。
永遠なる神の空間、その生誕の瞬間に、タチアナは立ち会ったのだ。



ようこそ、山折村へ。


タチアナは、永遠に組み込まれた。
タチアナはもう、歳をとらない。




475色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:42:57 ID:UIGZYa2s0

風は温かく、空に雲がうっすらと流れていた。
どこからか焼きトウモロコシの香ばしい匂いが漂い、太鼓の音がどん、どん、どん、と響いてくる。

「タチアナっち! まだ準備してないの?」
聞きなれた声が飛び込んでくる。

「もうお祭り始まっちゃうよ!」
親友が迎えに来たのだ。
赤い模様で彩られた白い着物が、彼女の茶色い地肌に映えている。

「今日は年に一回のお祭りなんだから」
タチアナは慌てて履物に足を通す。
そうして急いであばら家を出た。

村一番の大屋敷を通り過ぎると、徐々に人が増えて明かりが灯り。
村の中央通りから神社に向かう大通りの両脇には様々な屋台が立ち並ぶ。
すれ違う村人たちはみんな笑顔だ。

あちらの屋台には御守りが吊り下げられ。
そちらの屋台は射的だろう、お面がずらりと飾られている。
向こうの屋台は金魚すくいか、ぴちぴちと跳ねるそれを必死に掬おうと女の子が悪戦苦闘している。

神社では、紅白の衣装を纏った巫女が美しい舞を繰り広げ。
親子三人が楽しげに歌い踊り。
大人たちが笑顔で若者たちを祝福する。

日は落ちて、夜空に星が煌めき。
提灯が夜空を美しく照らし。
桔梗と沈丁花が咲き乱れる長い神社坂を、親友と共に下っていく。
また明日も楽しもうねと約束して、一日を終える。



476色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:43:30 ID:UIGZYa2s0

風は温かく、白い空に雲がうっすらと流れていた。
どこからか焼きトウモロコシの香ばしい匂いが漂い、太鼓の音がどん、どん、どん、と響いてくる。

「タチアナっち! まだ準備してないの?」
聞きなれた言葉が飛び込んでくる。

「もうお祭り始まっちゃうよ!」
親友が迎えに来たのだ。
赤い模様で彩られた白い装束が、彼女の茶色い肌に映えている。

「今日は年に一回のお祭りなんだから」
タチアナは慌てて履物に足を通すが、紐が切れて慌てて別の靴に履き直す。
そうして急いであばら家を出た。

薄暗い村一番の大屋敷を通り過ぎると、徐々に人が増えて明かりが灯り。
村の中央通りから神社に向かう大通りの両脇には様々な屋台が立ち並ぶ。
すれ違う村人たちはみんな一様に笑顔だ。

あちらの屋台には何やらよく分からない御守りが吊り下げられ。
そちらの屋台は射的だろうか、顔のお面がずらりと飾られている。
向こうの屋台は金魚すくいか、ぴちぴちと跳ねるそれを必死に掬おうと女の子が悪戦苦闘している。

神社では、紅白の衣装を纏った巫女が美しい舞を繰り広げ。
男と女と幼い女の子一人が楽しげに歌い踊り。
大人たちが笑顔で若者たちを祝福する。

日は落ちて、夜空に作り物のように美しい星が煌めき。
緑の提灯が白い夜空を美しく照らし。
山折村の象徴花である桔梗と沈丁花が咲き乱れる長い神社坂を、親友と共に下っていく。
また明日も楽しもうねと約束して、一日を終える。



477色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:44:08 ID:UIGZYa2s0

風は生温かく、白く濁った空に雲がうっすらと流れていた。
どこからか焼きトウモロコシの香ばしい匂いが漂い、太鼓の音がどん、どん、どん、と響いてくる。

「タチアナっち! まだ準備してないの?」
聞きなれた台詞が飛び込んでくる。

「もうお祭り始まっちゃうよ!」
親友が"お迎え"に来たのだ。
赤い模様で彩られた白い装束が、彼女の土色の肌を彩る。

タチアナは慌てて下駄に足を通すが、鼻緒が切れて慌てて別の靴に履き直す。
そうして急かされるようにあばら家を出た。

薄暗く朽ち果てた村一番の大屋敷を通り過ぎると、徐々に人影が増えてぼんやりと淡い光が灯り。
村の中央通りから神社に向かう大通りの両脇には様々な屋台が立ち並ぶ。
すれ違う村人たちはみんな一様に笑顔を貼り付けている。

あちらの屋台には村人の名前が書かれた"御守り"が吊り下げられ。
そちらの屋台は射的だろうか、人間の"笑顔"だけがずらりと飾られている。
向こうの屋台は、ぴちぴちと跳ねる赤くてぬるぬるした何かを必死に掬おうと、胸に穴の開いた女の子が悪戦苦闘している。

神社では、血染めの衣装を纏った巫女が剣舞を繰り広げ。
男と女が首のない少女と楽しげに歌い踊り。
大人たちが生気のない笑顔で祝福を演じる。

作り物の太陽は落ちて、作り物の夜空に作り物の星が煌めき。
永遠をあらわす緑の提灯が白い夜空を美しく照らし。
枯れ果てた夾竹桃の上に継ぎ足された桔梗と沈丁花が咲き乱れる長い神社坂を、親友と共に下っていく。
また明日も楽しもうねと約束して、一日を終えようとして。


地面が揺れた。
あの大地震のように、大地が再び揺れた。
世界が変わるのだと直感的に理解した。
立っていられないほどの揺れが二人を襲い、石壁が崩れて友の頭を砕いた。



478色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:45:32 ID:UIGZYa2s0
「タチ■ナっち! まだ準備してないの?」
聞くはずのない台詞が飛び込んでくる。

「もうお■■始まっちゃうよ!」
親友だったものが迎えに来たのだ。
赤い模様で彩られた白い装束。土色の肌。にこやかな笑顔。
そして、繋ぎ合わされた肉片で象られた顔。
それはじゅくじゅくと絡み合い、少しずつ元の端正な姿を取り戻すように再生していた。

タチアナは恐怖に追い立てられる。
足を取られて尻もちをついた。
それに連動するように、親友だったものの首ががくんと下に傾いた。
笑顔の仮面を着けた操り人形のようなその様態は、楽しい夢から覚めるには十分だった。

「はやくしようよ〜。お■■、終わっちゃうよ?
 楽しいこと、きっといっぱい待ってるよ?」
村の景色に違和感を覚えたのは、一体いつからだったのだろう。
耳に馴染んでいた親友の言葉が不気味に思えたのは、何がきっかけだったのだろう。
タチアナは無我夢中であばら家を飛び出した。


通りには、いつもと同じく"村人"がいた。
知っているとおりに歩き、知っているとおりに笑い、知っているとおりに同じ屋台を覗き込む。
いつも通り、彼らは皆刃物で切り裂かれたかのように首や胴が繋がっておらず、それを白い糸のようなもので強引につなぎ合わせていた。
そして、昨晩の地震で倒壊していた家屋や倒木は、意志を持っているように再生していく。
村一番の大屋敷だけが、倒壊したまま放置されていた。

どこからか焼きトウモロコシの香ばしい匂いが血の臭いと共に漂う。
どこからともなく太鼓の音がドン、ドン、ドンと響いてくる。
誰も死なず、何も変わらない。
ここは永遠。
永遠を装った無間の地獄。


風がざあっと吹いた。
緑の提灯が揺らめき、村全体がざわめいた。
突然、周囲の村人たちが、一斉にぐるんと振り向いた。
虚ろな目がくにゃりと歪んで、笑顔でタチアナを見つめていた。

それを見ると。

ずっとこの村にいたいと思った。



――逃げなきゃ。
――今すぐ逃げなきゃ。


そうしなければ、きっとまた永遠に組み込まれる。

民家を抜け、バス停を抜け、新山南トンネルへと走り抜ける。
塞がっていたはずのトンネルは通じていた。
トンネルの周囲には夾竹桃が咲き乱れ、逃げ出す彼女を裏切り者だと非難しているようだった。
友人の幻影が引き留めてくる。
楽しげに笑う自分の幻影が手を引いてくる。
それを振り切って、タチアナはトンネルに飛び込み、白い光のアーチをくぐり抜けていった。



479色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:46:29 ID:UIGZYa2s0
月の光がタチアナを照らしていた。
そこは、月明かりに照らされた山道だった。
太鼓の音も聞こえず、焼きとうもろこしの甘い匂いもない。
虫の鳴き声と、落ち葉の匂いがした。
村の"空気"はどこにもなかった。
あの"白い空"ではない、本当の空だった。


小さな町でささやかな幸せに満ちた暮らしを送った。
戦士として神に祈り戦い続ける過酷な日々を送った。
学生としての仲間達に囲まれた楽しい毎日を送った。
罪人となり犠牲者への贖罪の日々を送るはずだった。
村人となり永遠の歯車に組み込まれた日々を送った。


そのどれも続かずに、今また独りで彷徨っている。
結局、人間は容易く移ろい変わっていくワガママな生き物だ。
あれほど望んだ穏やかな日々が、今は耐えがたくなっていた。

「……永遠に囚われるくらいなら」

――短くても自由でスリルに満ちた毎日のほうがいい。


迎え入れてくれた世界は血と暴力の臭いに満ちていた。
けれど、それすらも懐かしい。
"聖戦"も"交換留学生"も、もう何十年も遠い昔の話に思える。

絶対のものだと思っていた価値観は、決して不変ではなかった。
取り巻く環境が一昼夜で反転することなんて珍しくもなんともなかった。
暴力で覆ることもあれば、平和で覆ることもある。
人為的な理由で覆ることもあれば、自然的な災害によって覆ることもある。
超自然的な現象によって打ち破られることだってある。


だから、一つのものに固執する意味なんてない。
人は変わる。
価値観は変わる。
変わっていい、うつろっていい。
過去に囚われるよりも今を生きよう。
未来を見るより今を見よう。
太く楽しくせいいっぱい、それで死ぬならそれまでだ。
この考えとて、明日になれば変わっているかもしれないが。

自分はあの大地震の日、トンネルの中で死んでいたはずの人間。
それがもう一度生を得られただけのこと。
だったら、もう後悔しないように全力で生きよう。
もしかしたら、タチアナは既に暗いトンネルの中で死んでいて、村に囚われていて。
ここにいるのはタチアナの記憶だけを持ったナニカなのかもしれないという考えが浮かんだ。
けれど、それは答えの出しようがないことだ。
それなら、自分をどう定義するかのほうが大切である。





バチっとアイライナーを引き、リップスティックをひねり上げて。
金髪に染めた髪をまとめあげて、小物をさりげなくアピールし。
ショート丈に仕立て直したブレザーに袖を通してタイトなスカートに身を包み。
その仕上がりは、7年前よりちょっと大人。

「久しぶりだけど、キマってる」

それは、誰よりもこの世界を楽しむためのファッションだ。
自由で、自分らしく、世界の最先端で線香花火のように輝こう。
「うんうん、アガ↑ってきたね☆」


横浜ドーム。
ヤマオリ・カルト欧州本部。
東欧の紛争地帯。

開闢を迎えた直後から、ギャルの装いをした爆弾魔が、世界中で目撃されるようになる。
山折村から現れたその女は直ちに手配され、治安組織やヤマオリ・カルト、裏社会の殺し屋たちと戦いを繰り広げていく。
名はギャル・ギュネス・ギョローレン。
その名の通り、"ギャル"である彼女は。
誰にも知られていない山折村最初の探索隊であり、表には知られていない最初の探索隊生還者である。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇

480色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:50:58 ID:UIGZYa2s0
「一つ聞くが、お前と一緒にいた友人も生きているのか?」
「いんや? あの子はあのまま死んだよ。
 ほかの子も、み〜んな村で征タンの同門にバッサリいかれたっぽい。
 身体も魂も、今もどこかをさまよってるんじゃないかな。永遠にさ」
その目は笑っていなかった。
その含みのある言葉には、普段の軽薄な調子とは一線を画す、怖気の走る凄みがあった。


「私とお前の間には確かに因縁が横たわっていたらしい。
 幼い時分の過ちとはいえ、恨まれるに足る理由はあるということか。
 だが、だからと言って手加減などせんぞ?」
「ん〜? あのとき征タンが助けてくれてたら、永遠の十七歳は生まれなかったかもしれないのに〜?」
「ほざくな。仮に因果関係があるとして、外道を選んだのはお前だろう?」

過去の過ちは消せなくとも、ギャルの所業すべてが征十郎に起因するわけではない。
殺戮に明け暮れてきたのはギャルだ。沙姫を殺したのはギャルだ。


征十郎は幼少のころ、ほぼ同年代の友人から噂を聞いたことがある。
曰く、山折村には人を恨み、災厄を外へと広げようとする悪神がいるのだと。
目の前にいる不老の怪人は、山折村が吐き出した災厄なのではないかとすら思えた。

「仮にもし、私の未熟さがお前を作り上げたというのなら、
 私がこの手で責任をもって始末を付けねばならん」



剣を取った先に何があるのか。
征十郎は思い返す。

八柳新陰流の門下生たち。
"強きを挫き弱きを助ける"を体現するような、村のヒーローが、世間から罵倒されるような悪党だとは思えなかった。

けれども彼らが多くの村人たちを斬り殺したのは事実で。
ただただ、あのときの皆が何を考えていたのかを知っておきたかった。
彼らのように剣を極めていけば、その境地に至れるんじゃないかと思った。

八柳新陰流の極限に至ることを至上命題とし、道をひた走り。
宿敵を斬り殺し、アビスに堕ちるほどの悪党に成り下がっても、征十郎は未だ答えにたどり着かない。


――――違ったのか?
――――この剣は、過去を追いかけるためではなく、過去を清算し、決別するためのものだったのか?


自分一人でも、あの日の八柳の物語を理解する。
それが使命だと言い聞かせていたが。
そうではなかったのだとしたら。


「おっ、なんかいい感じの顔してんじゃん征タン♪」
眼光の鋭さを増す征十郎に対して、ギャルはその笑みを深めていく。


「あーしだって、別に年がら年中恨んでないっての。なんならほぼ忘れかけてたし?
 でも、楽しむチャンスは見逃さない。
 溜まってたモノ全部ぶちまけて、最後にドカーーーン☆って吹っ飛ばすの。あれマジ快感よ☆
 アンちゃんともそうやってスッキリ終われたんだよね〜♪」


自分の怨恨や因縁を、スリルを楽しむための起爆剤にする。
過去を乗り越えるためでも、未来への礎にするためでもない。
ただ、今を楽しむためだけに過去の関係性を焚き木にくべる。
自分の過去も未来も投げ打った、刹那的で破滅的な行動原理だ。

けれど、ギャルは恩赦を求めない。
死刑囚として、今日死ぬことを決めている。
だから、躊躇せず全部燃え上がらせる。
旧きも新しきも全部焚き木にくべて、盛大に命を燃やすのだ。
それは、アビスの底でおこなわれる彼女しかできない終活なのである。

481色褪せた昔話 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:53:08 ID:UIGZYa2s0
「さて、そろそろ昔話は終わりにしよっか」

ギャルが指をピンと弾く。
その瞬間、ブラックペンタゴンの通用門が爆発した。
門の外側の庇が爆発で崩れ落ち、両開きの扉を歪ませる。

すでに仕掛けてあった血瓶で、入り口を一つ塞いだのだ。
征十郎をここから逃がさないという表明であり、これからブラックペンタゴンにいる受刑者を全員狩るという意思表示である。
入り口が塞がれた、暗く黒く冷たい空間は、どこかあの時の坑内を思わせる気がした。


「こういうとき、お互いに名乗り合うらしいよ?
 征タン、名乗りをあげてみてよ」

「――――八柳流皆伝。征十郎・ハチヤナギ・クラーク」
「――――あっは、そうそう、そんな感じ。あーしは……」

ふと、言葉に迷う。
気分がアガってきた。それなら、色褪せていた名前をあげてみてもいいか、と。


「タチアナ。タチアナって言うんだよ。
 さっ、爆(や)り合おっ♪」

記憶の隅で色褪せていた話の続きが数十年ぶりに紡がれる。
あの日あの場所にいた二人が、アビスの底で再会する。
結実しなかった青春の燃え残りが黒い煙をあげてもう一度燃え始める。


ああ、今日は。
とてもいい日だ。


【D–4/ブラックペンタゴン北西ブロック外側・集荷エリア/一日目・朝】
【ギャル・ギュネス・ギョローレン】
[状態]:疲労(小)、キラキラ
[道具]:学生服(ブレザー)、注射器、血液入りの小瓶×12
[恩赦P]:114pt
[方針]
基本.どかーんと、やっちゃおっ☆
1.悔いなく死ねるくらいに、思いっきり暴れる。
2.もうちょい小瓶足しといたほうがいいかもねー。
※刑務開始前にジョーカーになることを打診されましたが、蹴っています。
※ジョーカー打診の際にこの刑務の目的を聞いていますが、それを他の受刑者に話した際には相応のペナルティを被るようです。
※小瓶1セット - 5P
 ほかに何か購入しているかはお任せします

【征十郎・H・クラーク】
[状態]:健康
[道具]:日本刀
[恩赦P]:80pt
[方針]
基本.強者との戦いの為この剣を振るう。
1.ギャルを討つ
2.ルーサーは二度と会いたく無い
※食料(1食) - 10P
 ほかに何か購入しているかはお任せします

482 ◆TApKvZWWCg:2025/06/16(月) 20:58:28 ID:UIGZYa2s0
投下終了します。

作中に説明をいれていますが、
征十郎の生い立ちの一部やトンネル内以降のパートに共通世界のオリロワZの世界観を使用しています(主に134話ラストシーン)
他は新設のバックグラウンドおよびA過去作を元としています。

483 ◆H3bky6/SCY:2025/06/16(月) 22:44:32 ID:I2kSOfdA0
投下乙です

>色褪せた昔話

沙姫を巡る因縁の対決、かと思いきやそれどころの因縁じゃなかった
あの山折村で一瞬とはいえ直接的な接点があったとは、Zの裏でそんなことがあったとはあまりにも予想外すぎる
メアリーの回想で山折村を訪れてた話があったけど、どんな繋がりがあるのかと思ってたけど、まさかあのネバーランドにとらわれてたとはね、あそこから逃れられた人間がいたことにもビックリよ
アルヴドと面識どころか、同じテロ組織にいたってのも、ギャルの人生もかなり紆余曲折あるな

小さな村で生まれたマイナー剣術である八柳流を何で沙姫も知ってるんだろうと思ったけど、八柳の爺さんのせいで八柳流の悪名が知れ渡ってるのは残当
出身の征十郎は元より、かなりの山折村と因縁の深い2人の対決になったね、ブラペンそこいらじゅうで戦闘が同時多発しすぎている

484 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:24:16 ID:fnl4WnZ.0
投下します

485宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:24:58 ID:fnl4WnZ.0
脱獄王の異名を持つ男、トビ・トンプソンは今、この刑務作業において最大級の謎を秘めた施設、ブラックペンタゴンの2階フロアへと足を踏み入れていた。

鋼鉄とコンクリートが折り重なる階段を駆け上がった直後、彼は肺に入り込む空気の質が変わったことに気づく。
階下の紫色の瘴気に満ちた空間とは打って変わり、この階には乾いた澄んだ空気が満ちており、鉄とコンクリートの無機質な匂いが漂っていた。
皮膚にまとわりついていた毒の重みがようやく剥がれ落ちたかのような錯覚を覚える。

一歩踏み入れた瞬間、空調は快適に保たれており、室温も一定に保たれていた。
この空間が長期滞在を前提に設計されていることが、空気から伝わってくる。

だが、彼は決して安堵などしない。
むしろここからが本番であることを、彼はよく理解していた。

トビには、エンダ・Y・カクレヤマとの間に交わした密約がある。
階段を塞いでいた門番『ネオシアン・ボクス』のチャンピオン、エルビス・エルブランデスの足止め。
その役目をエンダが引き受けた代わりに、トビはこのブラックペンタゴンの上層階の調査と検分を任されたのだ。

この異常な建造物に隠された秘密を、脱獄王の目で見極める。
それが彼に課された役割であり、同時にトビ自身が望んだ仕事でもあった。

さらに、そのついでにもう一つ依頼されたのがヤミナ・ハイドという女の回収。
名前に聞き覚えはないが、エンダの同盟者である以上、単なる小悪党で済まされない可能性がある。
調査のついでではあるが、見つけたら回収する必要はあるだろう。

そしてトビには、もう一つ、別の目的があった。
もしこの階に警備室や監視設備が存在するなら、あの場に残してきた協力者、ヨツハの安否を確認したい。
電子ロックを解除し逃走の手引きはしたが、あのエルビス相手に無傷で逃れられたとは到底思えない。
最悪の場合も想定してはいるが、それならそれで次の行動方針を決めるためにも生死確認だけはしておきたかった。

まずは、フロアの全体構造を把握する所からだ。
声には出さず、唇の裏で小さく転がしたその言葉を胸に、彼はフロアに視線を巡らせた。
階段の踊り場、やや奥まった壁面に取り付けられた案内板が目に入る。
無骨な金属板に、白い文字で記された各区画の構成。
その記述を、トビは慎重に目で追っていく。

■ ブラックペンタゴン2F:施設案内

◆ 北東ブロック
 外周部:仮眠室|中層部:更衣室(ト)|内側部:共用シャワー室

◆ 北西ブロック
 外周部:上り階段|中層部:警備室|内側部:屋内放送室

◆ 南東ブロック
 外周部:食料保管庫|中層部:調理室|内側部:食堂(ト)

◆ 南西ブロック(現在地)
 外周部:ロッカー室|中層部:洗濯室(ト)|内側部:下り階段

◆ 南ブロック
 外周部:健康モニタリング室|中層部:医務室|内側部:診察室

※(ト)=トイレ



案内板に記された施設構成は、1階以上に監獄らしくないもので埋め尽くされていた。
休息、食事、医療――ブロックごとに生活機能が割り振られており、明確な特色が感じ取れる。

「……まるで、宿泊施設だな」

誰に聞かせるでもなく呟く。
これはもはや、懲罰や闘争のための空間ではない。
仮設の居住区か、あるいは有事に備えた避難施設のような印象すら受ける。

それほどまでに、生活インフラは過不足なく整っていた。
殺し合いという過酷な刑務作業の舞台としては、明らかにミスマッチな空間だ。

だが、この構造はアビス側――ヴァイスマンをはじめとする管理者たちの手によって意図的に設計されたものだ。
であれば、その裏には何らかの思惑があるはずだ。

その思惑がなんであるかは情報もなしに決めつけはできない。
まずは、その意図を探るために、一室ずつ検分する必要があるだろう。
それが脱獄王たる己に課せられた仕事である。

2階探索の行動方針はすぐに定まった。
3階へ続く階段がある北西ブロックは最後に回し、時計回りに各ブロックを調査していく。
まずは現在地である南西ブロックから着手する。

脱獄王は階段を背に歩を進めた。
無音の廊下に、足音だけが硬く響いていく。
生活の痕跡の奥に潜む設計者の意図を炙り出すために。

486宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:25:16 ID:fnl4WnZ.0
最初に足を踏み入れたのは、中央区画に設けられた『洗濯室』だった。
無人管理型の次世代ランドリーカプセルが、壁一面にズラリと並んでいる。
その無機質な機械群は、使われるのを待っているように整然と静止していた。

だが、使用者などいないのか、汚れた洗濯物も、使いかけの備品も見当たらなかった。
機械のボディには一切の使用痕がなく、まるで新品のように磨かれている。

トビは一基のランドリーに近づき、運転パネルをタップしてみる。
タップの直後、軽やかな電子音が鳴り、ドラムが静かに回り出した。
紫外線センサーが起動し、無人洗浄モードが展開されていく。

電力は通っている。
水も正常に供給されている。
このフロアが、ただのハリボテではないことを証明していた。

続いて、洗濯室奥のトイレへと移動する。
殺風景な個室とシンクが並んでいる、全体的にやたらと無菌的で冷たい空間だった。
アビスのトイレより管理が行き届いているのではないかとすら思える。

センサー式の蛇口に手をかざせば、即座に清水が流れ出した。
無臭、ろ過済み、流量も安定している。
飲用すら可能と判断できるクオリティだ。

試しに個室に入ってレバーを試せば、滞りなく排水音が響く。
詰まりも異常もなく、排水機能は完璧に生きていた。

トビの視線が便器の奥へと向かう。
便器に水が流れると言う事は、ここには下水が通っていると言う事だ。
下水周りは脱獄ルートとして常套手段となるインフラだ。

どれだけ警備を強化しても、水の流れだけは止められない。
もしこの下水に乗ることができれば、あるいは出口にたどり着くかもしれない。
自分の超力を使えば、理論上は可能なはずだ。

もちろん、今は試すつもりはない。
ぶっつけ本番で使うにはリスクが高すぎるし、首輪の解除手段が見つかっていない以上、外に出たところで首輪が爆破されて終わりだ。
何より今はそれを試すよりも調査を優先すべき状況である。

試すにしても、もっと追い詰められたときに切るべき最終手段だろう。
無言のまま、トビはトイレを後にした。

続いて向かったのは、外周部に設置されたロッカー室。
室内に足を踏み入れると自動で点灯した照明が室内を照らし出す。

壁際には、スチール製のロッカーが整然と並び、その数は20を超える。
いずれも新品同様の磨かれたような光沢すら残っている。

試しに一つのロッカーに手をかけ、ダイヤルロックを操作する。
番号を確認しようと試すまでもなく「0000」で解錠された。
念のため別のロッカーも調べてみるが、すべて初期設定のままだった。

これは偶然ではない。
つまり、このロッカーは受刑者が使用することを前提として設置されたということだ。

内部には衣類や備品、サイズ別に仕分けされた警備員用の制服が整然と並べられている。
いずれも折り目も崩れていない未使用状態のまま整列していた。
だが、その中に、ハンガーは傾き、服が抜き取られた痕跡のあるロッカーが一つだけあった。

「……ヤミナ・ハイド、か」

この上階に足を踏み入れた受刑者は、トビを除けば現時点で一人しかいない。
彼女がこれを持ち出したと考えるのが、最も自然な結論だろう。

何を考えているのか。
それは安直に着替えに手を出したヤミナに対してもそうだし、この衣服を用意した看守側、ヴァイスマンに対する疑問でもある。

衣類は本来、恩赦ポイントで購入する報酬である。
囚人服以外の服を着るという事は、それだけ相手の警戒を煽るという事である。
何の考えもなくやっているのなら相当な考えなしだし、考えがあるのだったら意図が読めない。

そして、景品であるはず衣類がこんな自由に取得可能な状態で並べられているのはどういうことなのか。
水回りだってそうだ。ここに来るだけで有償であるはずの飲み水が飲み放題というのはいくなんでもおかしい。

刑務作業の中で本来価値を持つはずの報酬が、こうも簡単に手に入ってしまっていいのか?
刑期という最大の報酬があるにしても、景品に意味がなくなれば、恩赦制度そのものの価値が形骸化してしまう。

「何を考えてやがる、ヴァイスマン……」

トビは、小さく毒づいた。
脱獄王の眼には、こうした親切設計こそが、逆に最も不自然で危険な兆候として映っていた。
明らかに意図的な、行動を誘導する罠だ。
そこまでして、このブラックペンタゴンに参加者を留めたい意図は何だ?

警戒を露にしながら無言でロッカー室を後にするトビ。
南西ブロックの探索は、これで一区切りだ。

次なる目的地は、南ブロック。
足音を残して、彼は静かに移動を開始した。



487宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:25:36 ID:fnl4WnZ.0
トビ・トンプソンは次なる調査対象――南ブロックへと歩を進めていた。
このブロックは内側から順に『診断室』『医務室』『健康モニタリング室』の三部屋で構成されている。
名前だけで見る限り医療関連の設備が集約された区域のようだ。

奥から手前へと順番に進むと決めたトビは、まずフロアの最奥にあたる診断室の前に立った。
自動ドアが、かすかな駆動音を立てて開く。
一歩足を踏み入れた途端、柔らかな白色照明が部屋全体を包んだ。

清潔さを誇示するような白を基調とした、無機質な空間。
部屋の端には、診察机と医師用と患者用の二脚のチェアが互いに向かい合う形で設置されている。

まるで、20年前の標準的な医療設備をそのまま保存したような部屋だった。
机の上には聴診器、体温計、耳鏡、血圧計など、いずれも古典的な診察用具。
消毒綿の密閉ケース、未使用の使い捨てグローブまできっちり揃っている。
だが、当然ながら医師の姿はどこにもない。

トビは壁際の収納棚をざっと確認する。
だが、そこにも白衣や業務日誌といった人的痕跡は一切なかった。
備品は完璧に揃いながら、それを扱う人だけが欠けている空間と言う印象だった。

「……医者もいねえのに、どうしろってんだ」

小さくぼやいて、机の上の体温計をひとつ手に取る。
センサーが反応し、小型モニターに「36.8」という数値が表示される。
システムは生きている。それが、むしろ不気味だった。

無言のまま体温計を元の位置に戻し、診断室を出る。
廊下を折れて、次は医務室へと足を進めた。

医務室の中に入った瞬間、鼻を突くアルコール消毒液の匂いにトビは僅かに眉をひそめる。
診察ベッド、包帯、注射器、止血剤、鎮痛剤、抗菌スプレー、皮膚縫合キット。
出血や骨折に対応できる応急処置器具が一通りそろっている。
流石に最新の医療機器は見当たらないが、それでもこの空間には最低限の治療道具が揃っていた。

トビは棚に並んだ備品を一瞥しながら思案する。
これらの医療品は、本来なら恩赦ポイントを支払い取得する「報酬アイテム」であるはずだ。
だが、ここではそれらが無償で、しかも無制限に取得可能な状態で置かれている。

南西ブロックのロッカー室で確認した制服や整備された水道設備。
そして、この医療資源。

この施設は、報酬制度を崩壊させかねない過剰なサービスで満ちている。
ここに留まらせようとしていると言う仮説が、じわりと現実味を帯びてきていた。

次いで、このブロック最後の部屋、健康モニタリング室へと向かう。
部屋の名称だけでは設備の用途が掴みづらい部屋である。

扉が開くと、中央に円形の操作卓と複数のモニターが配置された空間が現れた。
一見して監視室のような雰囲気だが、どちらかと言うと医療設備のような静謐な雰囲気が漂っている。

トビは操作卓に近づき、試しにコンソールに触れる。
パスコード入力などは一切なく、システムは即座に立ち上がった。

画面が切り替わり、各種データが表示された。
一覧で羅列されるように表示されたのは、刑務作業参加者のバイタルサインだった。
脈拍、呼吸数、体温、血中酸素、筋肉反応。
つまり、全参加者の健康状態一覧がこのコンソールで確認できるようだ。

トビはリストをスクロールしてその中から、『内藤 四葉』の名を見つける。
ステータスは『生存』。
ただし、バイタルは不安定で、呼吸と脈拍が乱れており、深刻な外傷を負っていることが読み取れた。

バイタルだけでは彼女の正確な現在地や周囲状況までは把握できない。
だが、監視室で行うはずだった安否確認がここで叶ったのは、僥倖だった。
ひとまず、彼女が生存している前提で行動を継続してもよさそうだ。

トビは続けて他の受刑者データにも目を通す。
定時放送直後に更新された情報と突き合わせて、そこからの差分も確認可能だった。
放送明けから死亡ステータスに切り替わっていたのは。

イグナシオ・デザーストレ・フレスノ

ドミニカ・マリノフスキ

そして――

「…………メアリー・エバンス」

世界を塗り替える災害の如き脅威。
常識すら塗り替える天災のような存在。
その名前の横に、『死亡』の文字が表示されている。

加えて、もう一人。

ルメス=ヘインヴェラート

トビがかつて助けた、メアリーを救いたいと願った甘ちゃんの怪盗。
それがメアリーと同タイミングで死亡しているというのは因果を感じざるを得ない。
もしかしたら、彼女が命を賭して何かしたのだろうか?
今の彼には、それを確認する術はなかった。

トビは、静かにコンソールから身を離す。
時計回りの探索は、次の区画――南東ブロックへと続いていく。



488宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:25:51 ID:fnl4WnZ.0
次にトビが踏み入れたのは、南東ブロック。
ここは明らかに、食事に特化した区域である。
彼はまず、内側部に位置する食堂の調査から始めた。

広さは、中規模レストランに匹敵するだろうか。
白いタイル張りの床に、壁際には大型の空気清浄機と循環フィルター。
中央には長机が何列も並び、それに沿ってスチール製の椅子が整然と配置されていた。

机の上に並べられていたのは、プラスチック製のスプーン、フォーク、ナイフ。
凶器として使えないよう刑務所仕様の食器が標準装備されている。
設備の充実度は一般的な刑務所の食堂を上回っており、どこか企業の社食を思わせる。
しかし――

「……誰が料理して、誰が運ぶってんだ」

医務室と同じく中心がかけている。
トビは小さく眉をひそめ、空の椅子と整然としたテーブルを見渡した。
調理人も給仕もいない状況で、食べるためだけの空間を整備してなんになる。
受刑者がわざわざ料理をして、ここで仲良く食卓を囲むとでも思っているのか?

「……流石に、バカにしてやがる」

口に出した言葉には、苛立ちと同時に警戒が混じっていた。
だが、これが単なる悪趣味の設計ではないことを、トビは本能的に察していた。

食堂を後にし、トビは中層部の調理室へと向かう。
扉を開けた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、病的なまでに清潔なキッチンだった。

すべてのコンロはIH式の電気制御型。
ガス管は見当たらず、火気厳禁の構造。爆発リスクを徹底的に排除している。
刑務所ならではの制限だ。

流し台、冷蔵庫、吊り棚、そして調理器具用の収納。
どれも展示品のように整然と並び、埃一つない。

棚を開けていくと、鍋、ボウル、トレー、皿などが一式揃っているが刃物類だけが完全に姿を消している。
その代わりに、スライサーやカッターなど、怪我や殺傷に繋がりにくい安全設計の道具が整列していた。
当然と言えば当然の配慮だが、ここにだけ配慮が言っているのが逆に浮いているように感じられる。

部屋の奥には、大型の冷蔵庫が設置されていた。
中を開けると、中にはリンゴ、レタス、にんじん、ミニトマトといった、明らかに新鮮な食材がぎっしりと詰まっていた。
恐らく刑務作業の開始時に補されたのだろう。色も艶も申し分ない。温度管理も完璧。傷みの兆候すらない。

トビは棚からリンゴを一つ手に取った。
艶やかで、手にずっしりとした重みがある。
警戒を解かず、ほんのひとかじり。
舌先でじっくりと感触と味を確かめ、毒の痺れを感じたら即座に吐き出せるように数秒噛みしめる

問題はなかった。
ごく普通の、シャキッとしたリンゴだった。
トビは残りを齧り、無言のまま芯まで飲み込んだ。

最後に彼は、外周部の食料保管庫を確認する。
ドアを開けた瞬間、冷気が足元に流れ込んできた。
食品の品質保持のためだろう、ここだけは明確に低温に保たれている。

棚には、保存食、缶詰、乾燥野菜、真空パックの肉類、米、小麦粉、調味料など、長期保存前提の食料がきっちりと分類・整理されて並んでいた。
それは備蓄というより、供給拠点と呼ぶべき水準だった。

トビはしゃがみこみ、棚の下部を観察する。
そこには、スライド式の搬入口ダクトが設置されていた。
下層フロアの倉庫から定期的に補充される設計であるようだ。
この空間の意図が、いよいよ露骨に浮き彫りになってきていた。

ここまでの施設に何の警戒すべき点などない。
本当に何の変哲もない生活区域だ。
だが、トビの警戒は、もはや緩むどころか、ますます研ぎ澄まされていくばかりだった。



489宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:26:12 ID:fnl4WnZ.0
南東ブロックを後にし、トビが次に踏み入れたのは北東ブロック。
施設案内によれば、この区画は衣食住で言うところの「住」。
すなわち生活の中核として整備されているらしい。

トビにはここが最も理解不能な区画だった。
食事や医療はまだ分かる。衣服もまあ状況によっては必要だろう。
だが、この極限状況で、ここで生活するという発想に至る人間がいるはずもない。

命を賭けた刑務作業の最中に、シャワーを浴びて、着替えて、眠る?
そんな呑気な馬鹿が、この鉄火場にいるとは思えなかった。

そう、頭の中で悪態をつきながらシャワールームのドアを開けた。
瞬間、かすかに湿った空気の残り香がトビの鼻先を撫でた。

(うそだろ……? 誰か、使った跡がありやがる)

床に目をやれば、濡れた足跡がいくつもタイルの上に残っていた。
それは乾きかけており、使用はごく最近。
足のサイズと重心の位置から見て、女性、それも軽量な人物であると判断できた。
考えるまでもなく、あてはまるのはただ一人、ヤミナだ。

「まさか……この状況で、シャワーを浴びてたのか?」

思わず、驚愕を吐き出すような声が漏れた。
今は刑務作業という名の殺し合いが繰り広げられる最中だ。
命のやりとりが当たり前に行われているこの場所で呑気にシャワーを浴びるなど、正気の沙汰とは思えない。

バカなのか、それとも、よほど大物なのか。
ここまでの軌跡を追う限りまあ前者だろうと、安易に結論付ける。
彼にしては珍しい、相手を軽く見積もる結論だった。

当然の流れであるが、足跡の導線を追っていくとそれは隣接する更衣室へと続いていた。
その流れを追ってトビは更衣室のドアを開け、慎重に中へと入る。

トビは、室内をひと目見渡す。
室内にはスチール製の棚と簡易ロッカーが整然と並び、壁際には全身鏡と簡素なベンチが設置されている。
床は滑り止め付きのゴムマット張りで、転倒防止まで考慮された作りだった。
部屋の位置関係的にシャワーを浴びて、仮眠室で眠る前に着替えるための施設だろう。

(こんな状況で、パジャマにでも着替えて眠るバカがいるってのか?)

通常であればいるはずがないと断ずるところだが、彼の中の自信が僅かに揺らぐ。
苦笑交じりに内心でツッコみながら、棚を一つひとつ確認する。
いずれも中身は空で使用された形跡はない。
だが、ひとつだけ、ハンガーの向きが不自然にズレたロッカーがあった。

(ヤミナが使った跡か。例の警備服にここで着替えでもしたか?)

脱獄王の目に狂いはない。
彼女の足跡は、確実にこの更衣室を経由していた。
念のため、足元や棚の隙間などもチェックするが、特に異常は見られなかった。

それを確認して、更衣室から続く廊下を抜け、トビは仮眠室へと足を踏み入れた。
部屋の中には、シンプルな金属製ベッドが6台。
それぞれに、真っ白なシーツと枕が丁寧にセットされていた。

全体的に清潔で、埃ひとつ見当たらない。
シーツには皺も、枕には使用の痕跡もない。
トビはどこか安心したように静かに息を吐いた。

(……さすがに寝てはいなかったか)

もし本当にこの環境で熟睡していたのなら、もはや正真正銘の大物だと思うしかなかった。
そうならなかった事に心底安心したように胸をなでおろす。
いくらなんでも、この状況で仮眠を取るほどの図太さはなかったらしい。

各ベッドの下、マットレスの隙間、枕の下なども念入りに確認していくが、隠し物や仕掛けは何も見つからなかった。
この部屋は本当に仮眠をとるためだけの空間のようだ。

シャワーで身体を清め、着替えを用意し、清潔なベッドで睡眠をとる。
施設側は、ここで人間らしい暮らしが成立することを前提に設計している。
だが、殺し合いと言う前提がある以上そんなものは成立しない。

逆に、それが成立するとしたなら?

それはどのような条件が考えられるのか。
脱獄王は僅かに考え込み、仮眠室を後にした。

そして、次は――2階最後となる北西ブロック。
警備室と屋内放送室が存在する。情報の要である。



490宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:26:51 ID:fnl4WnZ.0
最後の調査区画、北西ブロック。
これまで巡ってきた2階各所が生活に必要な衣食住を担っていたとすれば、
このブロックは、それらすべてを俯瞰し、管理するための情報の要所と見なすべき場所だった。

まずトビは、ブロック最奥の屋内放送室へと足を踏み入れる。
そこは小さな小部屋だったが、密度の高い機材が整然と配置されていた。
壁には防音パネル。音響調整用のスライダーが並び、
天井には吊り下げ型の放送用マイクとエコー制御システムが組み込まれている。

中央の卓上コンソールには送信スタンバイと記されたタッチパネル。
照明は落ちており、音もない。
だがその整備状況は、これまでの部屋と同様、今すぐにでも使用可能な状態だった。

今この場で放送する必要性はない
だが、念のため使い方だけは把握しておくべきだろう。

トビは一通り操作系に目を通し、手順を頭に入れる。
この放送設備は、全体放送はもちろん、1階・2階の各ブロック単位での個別送信も可能な設計になっていた。
それらの操作法を一通り頭に叩き込んでから、トビは次の目的地、警備室へ移動する。

警備室のドアを開けた瞬間、モニターの群れが視界に飛び込んできた。
壁一面を占めるディスプレイ群の大半は、すでに起動状態。
誰かが使用したまま、席を立ったような痕跡がそのまま残っている。

これまでの御多分に漏れずヤミナによるものだろう。
トビはそう察しながら無人の椅子に腰を下ろし、制御端末に手を伸ばす。

並んだモニターを順に確認する。
階段部屋、工場エリア、配電室はいずれも映像が表示されていない。
腐敗毒の残滓や、超力によってカメラが破損でもした影響だろう。
機能を喪失している可能性が高い。

一方、図書室の映像は生きてはいるが、何かが画面に覆い被さっていて様子がよく見えない。
だが、隙間から人影が動き、争っているような様子がぼんやりと確認できた。

画面を切り替える。
集荷エリア、補助電気室――ここでも明らかな戦闘の兆候があった。
爆炎が走り、影が跳ね、床を転がる人影が一瞬だけ映り込む。

さらに次の映像――物置室を映す画面に視線を移す。
そこには見覚えのある白髪の少女――エンダ・Y・カクレヤマが、ひとりの青年と共にエルビス・エルブランデスと交戦中だった。

(足止めの約定……続行中、ってわけか)

約束が守られていることに、トビは小さく頷いた。

さらに画面を切り替える。
今度はエントランスホール。
そこでは、鎧をまとった内藤四葉の姿が映し出されていた。
どうやら複数の人物と入り乱れた、三つ巴の戦闘が発生しているようだった。

「……何やってんだ、あいつ」

呆れ混じりに小さくつぶやく。
生存はモニタリング室で確認済みだが、どうやらこちらとの合流は放棄し、また別の喧嘩に首を突っ込んでいるらしい。
もっとも――こっちも、彼女を待たずにエンダと契約を交わし、独自に2階の調査を始めてしまっている以上、人のことは言えないのだが。

その戦いを最後まで見届けることなく、トビはモニターの前から立ち上がり警備室を出た。
そして2階最後の調査地点――上り階段へと向かう。

警備室から続く通路を進み、階段室に入る。
構造は、1階から上がってきたときと変わらない。
何の変哲もない鉄とコンクリートで構成された、冷たい上り路。

そこに立ち止まり、トビはふと背後を振り返る。
背後に広がるのは、ブラックペンタゴン2階の全容。
そこに広がっていたのは、あまりにも整いすぎた快適な生活のための空間だった。
トビは全体を見渡して得た結論を口にする。

「……確定だな。こりゃ罠だ」

吐き捨てるような声に滲んでいたのは呆れと、確信と、警戒。

空調、水道、電力、衛生。
衣服があり、医療があり、食料があり、警備設備まで整っている。
すべてが正常に稼働し、今すぐにでも生活できる水準で、このフロアは完璧に仕上げられていた。

衣服がある。
医療がある。
食料まである。
情報も、手に入る。

それらは本来、恩赦ポイントと引き換えに得るべき報酬だったはずだ。
だが、ここではそれらすべてが、無造作に、無料の景品のように提供されている。

これは監獄ではない。
鉄格子で閉じ込めるのではなく、自ら望んで留まるよう誘導する、柔らかな檻。
このフロアがそういう目的として設計されているのは誰の目にも明らかだった。
そして同時に、一見して誰でもそう思うくらいには、あまりにも露骨すぎる仕掛けでもある。

491宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:27:10 ID:fnl4WnZ.0
「こんな分かりやすい罠に、引っかかる奴がいるか……?」

一瞬、そう思った。
だが、すぐにその問いを自ら否定する。

極限状態にある人間にとって、最低限の快適さは命綱に等しい。
それは単なる安楽志向ではなく、水と食料、衛生、治療といったものは直接的な死活問題に繋がる。
むしろ、欲望ではなく合理として、罠と知りながらも選ばざるを得ない者もいるだろう。
生きられる場所が提供されたなら、そこに留まろうとする者がいても不思議ではない。

だが、それでもシャワー室や仮眠室まで完備された構造には別の違和感もある。
仮に誰かがここに避難してきたとして、殺し合いの真っ只中の状況で果たして本当にシャワーを浴びたり、眠ったりする者がいるのか?
……実際に、ひとり呑気に浴びていた輩がいたため、強く断言はできないのだが。
殺し合いから24時間を乗り切るための一時的な避難所でそこまで無防備を晒す者などそうはいないはずだ。

ならば、逆にこう考えることもできる。

もし、殺し合いが起きなかったとしたら、この施設も利用される可能性はある、という事だ。

この刑務作業はただ一人の生き残りを決めるデスゲームではない。
受刑者たちが恩赦を諦め争いを放棄すれば、全員で生き残る道もあるのだ。
我欲に塗れたアビス住民がそのような選択をとるのかは別にして、共存の可能性も理屈の上では存在する。

その停滞状態に備えるための用意が、ここなのではないか?

殺し合いが成立しなかった場合に備えた空間。
争いを放棄し、共存に転じた受刑者たちを集めるために用意されたもの。
その可能性を想定すれば、このフロアの過剰な設備にも一応の整合性はつく。

だが、そこで新たな疑問が生まれる。
何のために? という点である。

恩赦という報酬を提示し、受刑者に闘争を促すのがアビスの意図のはずだ。
それに反する共存者のために、快適なセーフゾーンを用意するなど、あまりに不自然で、甘すぎる話だ。
断言してもいいが、このアビスに限ってそんな事があるはずがない。

つまり――この場に受刑者を「留まらせること」た先がある。
集まった受刑者を別の用途へ誘導する何かがあると考えるべきだ。

このフロアはそのための餌場。
快適さを報酬にして、対象を一か所に集める罠。
恩赦制度の価値が揺らぐこの無償奉仕の不公平感も、罠のために仕掛けられた釣餌であることが知れれば、それを羨ましがる者はいなくなるだろう。
つまりは、この状況を知った人間が「行かなくてよかった」と心底から口にするような地獄が待っていればいい。

あるいは、それこそ一人もここから逃さなければ、情報が外に漏れることなく完全なる口封じ完了だ。
それほどの罠が待っているのかもしれない。

集めた受刑者をガスでも流して皆殺しにすると言うのはないだろう。
この殺し合いは明らかに何か目的があって行われている。
刑務官たちは受刑者をただ殺すだけなら、いくらでもできる立場にある。
奴らが重視しているのはその過程だ。

どのようなタイミング、あるいは切っ掛けでどのような罠が発動するのか。
トビが調べるべきはその仕掛けだ。

少なくともその答えはこのフロアにはないだろう。
あるとするならば、それはこの先。

トビは視線を上げる。
脱獄王の眼が、階段の先を見据える。

ブラックペンタゴン、最上階。
鉄とコンクリートに覆われたこの建物の頂き。
そこには知られざる秘密が眠っていると、目される場所である。

だが、あからさまに大事な物がここにございます、という場所に本当に大事な物を置くバカはいない。
しかし、それでもそこに何かあるとトビは確信していた。

トビが焦点を合わせるべきは、これを仕掛けたヴァイスマンの思考。
この階層が餌だと分かっていても餓えている者には無視できな場所であるように。
罠だと分かっていても避けられないのが本当に狡猾な罠だ。

闘争を望む者には1階を。
安息を望む者には2階を。
そして、真実を望む者には3階を。

この先に、無視できない程に重要な物を本当に置いているのが一番性格悪い。

脱獄王は足を踏み出す。
ブラックペンタゴン3階。
脱獄を果たすべくその最奥に眠る全貌を暴くために。



492宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:27:35 ID:fnl4WnZ.0

――私、もしかして……選ばれし者なのでは?

ブラックペンタゴン3階・展示室前廊下。
ジオラマ、システムA、システムBの模型、そして中庭に浮かぶ黒い球体。
世界の真実に触れた(気になった)女、ヤミナ・ハイドは、扉の前で両手を腰に当て、誰もいない廊下に全力のドヤ顔を投げかけていた。

「ふふっ……あっはっはっはっは!!!」

誰に向けたわけでもない高笑いが、がらんどうの廊下に響き渡る。
そう、彼女は完全に調子に乗っていた。

「これはもう、主役ですわ。舞台に立つ資格、ありますわねぇ私……!」

まるで舞台女優。ふわりと一歩踏み出して、手をくるりと振り、勝者のステップ。
警備服はきちんとボタンまで留められ、どこか制服フェチ向け企業CMの一コマにでも出てきそうな清潔感があった。
もちろん、それは錯覚である。

鼻歌が漏れる。左手を水平に振って、ひとり舞台女優のカーテンコール。
このフロアの秘密も、中庭のモニュメントも、己の掌中にあると信じて疑わない。
実際、現在この秘密を知るのは『この世界』でヤミナ一人だけである。

「この情報を誰に売りつけましょうかねぇ……エンダちゃんあたり、ちょっと悔しがるかなあ? ふふっ」

展示室の扉にそっと手を触れ、陶酔混じりに撫でる。
ヤマオリ、アビス、その構造の詳細、この情報を売れば左団扇である。
写真がないのは残念だが、きっとそれでも口頭で話すだけでも多分それなりの価値にはなるに決まっている。

「いいですね、この存在感。この鍵、この仕掛け、この中にある選ばれし者の特別ゾーン……」

私は、今この瞬間、選ばれてしまったのだ。
背負わされた宿命の重さを吐き出すように、ニヒルにふぅとため息をつく。

――その時だった。

階段の下から、コツ、コツと、鉄と靴が叩き合う硬質な足音が響いてきた。

「……ッ!?」

その時、ヤミナに電流が走る。
油断しているのか、足音を隠す気配はない。
考えるまでもない。上階を訪れた他の受刑者だ。

(ちょ、待って、なんで来るの!? 足止めはどうしたのチャンピオーーーン!?)

仕事を果たさぬ最強の守護者に内心で文句を垂れながら即座に逃走。
テンキーに『5454』を慌てて入力して、猛ダッシュで展示室に飛び込む。

「ここっ! ここは! 選ばれし者しか! 入れない、特別な、空間ですからっ!」

ドアが閉まる直前、意味のない謎のマウントを叫ぶ。
そう、ここは一万分の一の運命を引き当てた者しか入れない、最高の避難壕。
この分厚い鉄扉が、あらゆる脅威を遮断してくれる。

「……ふふん、別に怖くないですし。来るなら来ればいいじゃないですか」

展示ケースの横で腕を組み、意味もなくジオラマを指差して待ち構える。
相手は入ってこれないという確信を持って。、選ばれし者ヤミナは分厚い扉の先にいる相手を挑発するように舌を出す。

――だが。

その数秒後。
展示室のドアが、あっさりと音を立てて開いた。

「………………え?」

表情が固まる。
口元が引きつり、笑顔が止まる。
ドアの向こうから誰かが現れたのは、ぼさぼさの髪をした野良犬のような不潔気味な小柄な男だった。

「ば、ば、バカな!? こ、ここは選ばれし者にしか入れないはずの場所だったのでは!?」

動揺で言葉を噛みながら、人差し指を突き出すヤミナ。
だが、男はその叫びに対してまったく取り合わず、興味すらなさそうに返した。

「あん? パスワードのことか? 適当に押したら開いたぞ、あんなもん。多分、何入れても開く」
「……あっ、はい。すいませんでした」

ヤミナ、即降伏。

あっという間にしゅんと肩を落とし、先ほどの選民思想は綺麗に蒸発した。
世界から祝福を受けているなどとイキっていた数秒前の自分が恥ずかしい。

でも今のは仕方なくない?
ヴァイスマンの卑劣な罠だったのだ。
むしろこっちが被害者だよ。私悪くないよね?

心の中で責任転嫁を完了し一瞬で立て直す。
ある意味で逞しい女であった。

493宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:28:15 ID:fnl4WnZ.0
「ヤミナ・バイトだな?」
「ど、どちら様でしょう?」

名前を知られていた事にびくつきながらヤミナは何とか問い返した。
完全に場の主導権は相手に握られていた。

「エンダに頼まれたんだよ。お前の回収。俺はトビ。トビ・トンプソンだ。ま、協力者ってことでよろしくな」

語気は軽いが、目は冷静にヤミナを値踏みしている。
フロア調査のついでに受けたついでの依頼だったが、先に遭遇してしまった以上、放っておくわけにもいかない。

「へへっ。よ、よろしくお願いしまぁす……!」

声が半音上ずっていたが、ヤミナは思い切り腰を低くし、
先ほどまでの選ばれし者ムーブはどこへやら、完全な低姿勢でペコペコと頭を下げる。
目の前の相手に媚びることしか考えていないような態度であった。

「えっとですね、あの、その……展示室! ご案内しますね!」

今度は急にテンションを切り替え、がんばって有能な案内人っぽく振る舞おうとする。
トビは小さく息を吐きつつ、黙ってその後をついていった。

「えっと……こちらになります、展示室でーす!」

ヤミナ・ハイドは警備員風の制服の裾をひらひらさせながら、これでもかというほど大げさな手振りで展示室の扉を示した。
さっきまで逃げ込むように隠れていた場所を、今度は誇らしげに案内している。
態度だけは、見事なまでに案内人になりきっていた。

「展示室、か」

トビ・トンプソンは短く返し、そのまま中に足を踏み入れる。

「そ、そうです! 私が最初にたどり着いたんです、このフロアの……えーと、最深部? 特別ゾーン?」

どこか浮ついた声で、ヤミナは自らの偉業をアピールする。
振る舞いは軽いが、視線はちらちらとトビの反応をうかがっている。

トビはそれを無言で受け流しつつ、部屋の内部を見渡す。
まず目に入ったのは、部屋の中央に鎮座する巨大なジオラマだった。

「おっ、それに目をつけるとはお目が高い! これ、島全体のジオラマなんですよ! ブラックペンタゴンもちゃんと正五角形!」
「見りゃ分かる」

バッサリとした塩対応。
だがヤミナはめげない。
展示物ではなく、自分自身の価値を懸命に売り込もうとしているようだった。

「それだけじゃないんです! こっちには、ICNCとアビス、それに……ほら、あの山折村のジオラマも!」
「ヤマオリ……?」

その単語に、トビの反応がわずかに変わる。
ジオラマを用意する意味は分からないが、刑務作業の文脈上でICNCやアビスの名前が出てくるのは理解できる。
だが、ヤマオリなどこの刑務作業には関係がないはずだ。
歴史上重要な場所ではあるし、アビスの由来になっているが、そんな理由で?

「そしてこれが……」

次にヤミナが案内したのはガラスケースに入った展示物だ。
白く光る球体が納められたケースには『システムA』と書かれ、隣の空のケースには『システムB』と表示されていた。

「……なんだこりゃ?」
「すごいですよね! たぶん、こう……世界の真実的な? 核心っぽい? アレですよ、アレ!」

自信たっぷりに言いながら、すぐ目をそらす。
説明している本人がどこまで理解してるかは怪しい。
その様でよく情報屋の真似事ができると思ったものだ。

「えっと……」

トビの反応が渋いことに気づいて、取り成すように慌ててヤミナが自分の得た情報を絞り出す。

「あっ。そうだ! この島のジオラマなんですけど、ちゃんとブラックペンタゴンの形も見えるし……えーと、ここ、中庭です!」

ジオラマの中央を指差すヤミナ。
そこには、見覚えのない、黒い球体のようなモニュメントが不気味に浮かんでいた。

「なんだこりゃ……?」
「ああ。それならそこから見えますよ」

ヤミナは展示室の隅にある、控えめな内窓を指さす。
内窓など、1階にも2階にもなかったものだ。
ヤミナは小さな窓の方へと駆け寄り、再びそこから顔を突き出して覗いてみせた。

494宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:28:31 ID:fnl4WnZ.0
「ほらっ、見えますよ。中庭に、黒い球体。あれです」

そう得意げに指さす。
トビも続いて窓に顔を寄せ、黒曜石のように浮遊する球体を確認する。

「確かにあるな……何なんだあの球体は?」
「し、シンボルっていうか、キーっていうか……うん、そういう重要アイテム的な何か……だと思います!」

思います、で締めるなよ、とトビは内心でツッコみながらも、それ以上は何も言わなかった。
この女が何を知っていて、何を理解していないか。
いや、もしかしなくても、何も理解してないかもしれない。

目の前の相手へ期待することを完全に諦めたようだ。
ため息をついて窓から身を引き、トビは展示室全体をもう一度振り返る。

「? ………………ッ!?」

その目が、徐々に驚愕するように見開かれた。

「……ああ、クソッ! そういうことかよ、チクショウ!!」

突然、トビが叫ぶ。
その声音には、驚きと怒りと、何かに気づいたような焦燥が混ざっていた。

「ど、どうしたんですか……!?」

急に声を荒げたトビに、ヤミナはびくりと肩をすくめ、慌てて問いかける。
だが、トビはそれに構っている余裕はなかった。

窓の位置から振り返ったトビの目に映ったもの。

それは、システムBの空ケースに、島のジオラマがすっぽりと収まってる光景だった。
窓の位置から見える展示物の位置関係によって、その光景は生み出されていた。

完全に計算された構図。
それの意味する所を、トビは正しく理解した。

――つまり、この島こそ、『システムB』なのだ。

システムAと同じくシステム化された超力によって生み出された異世界。
それこそがこの刑務作業の舞台となる孤島の正体。

それを理解した瞬間、トビの脳内でバラバラだった断片がひとつに繋がった。
そして同時に、脱獄王たる自分に課せられた役割までもが見えてしまった。

トビが脱獄を目指すことまで含めて、ここまでの行動すべて、ヴァイスマンの掌の上で踊らされていた。
そう気づいたトビの腹底には煮え立つような忌々しさがあった。

ここが超力で作られた世界である事を脱獄王が知るのはヴァイスマンの予定通りの出来事であるはずだ。
そうでなければ、脱獄のアプローチがまるで変わる。
トビの想定した通り、トビがシステムBのテスト要因であるのなら、これは知らねばならない情報である。

だが――本当に、全てがヴァイスマンの計算通りなのか?

大枠ではその通りだろう。
けれど、どんな完璧な計画にも、必ず誤差は生じる。

例えば、トビがこの事実を知るのは想定通りであっても。
このタイミングで3階に到達し、システムBの正体に気づいたことは本当に、想定された順路だったのか?

1階の門番、エルビス・エルブランデス。
あれを配置したのは、明らかにヴァイスマンの手だ。
2階の目的を考えるに、奴を配置した目的は上階への進入を時間的に制御すること――つまり足止め役だ。

あの怪物の抑止力は、そう簡単に突破されることを想定していないはずだ。
だが、トビはエンダの協力を得て、その壁を回避して強引に突破した。

さて、この行動は想定内か?

将棋でもチェスでも、序盤の定石は存在する。
開幕数手の展開なら、最適解が計算可能だ。
だが、中盤以降は局面が指数的に分岐し、正確な予測は困難になる。
変化が連鎖し、思惑を超える偶然が局面を塗り替える。

刑務作業が始まってから、すでに時間は動いている。
受刑者たちの行動、思惑、偶然。
それらが予測不能の歪みを生んでいるはずだ。

たとえ、今の状況が想定内だったとしても、
後半になればなるほど、ヴァイスマンの予測は乱れ始める。
その乱れこそが、勝機だ。

どうせこれも見ているんだろう? ヴァイスマン。

お前の意図も、想定も、思惑もすべて理解した。
俺に求める役割もな。

望み通り脱獄はしてやる。
だが、お前の思惑の中には納まるつもりはねぇ。
お前の想定ごと脱獄してみせるぜ。

期待して待ってろ、くそ野郎。

495宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:28:54 ID:fnl4WnZ.0
【D-4/ブラックペンタゴン 3F北西ブロック 展示室/1日目・午前】
【トビ・トンプソン】
[状態]:疲労(小)皮膚が融解(小)
[道具]:ナイフ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.ヴァイスマンの思惑ごと脱獄する。
0.ヤミナを引き連れブラックペンタゴン3Fの調査と検分。
1.内藤 四葉と共闘。彼女の餌を探しつつ、護衛役を務めてもらう。
2.首輪解除の手立てを探す。構造や仕組みを調べる為に、他の参加者の首輪を回収したい。
3.銀鈴との再接触には最大限警戒
4.ブラックペンタゴンには、意味がある。
※他にも確保を見越している道具が交換リストにあるかもしれません。
※銀鈴、エンダが秘匿受刑者であることを察しました。
※配電室へと到達し、電子ロックを無力化しました。

【ヤミナ・ハイド】
[状態]:疲労(小)、各所に腐食(小)
[道具]:警備員制服、デジタルウォッチ、デイパック(食料(1食分)、エンダの囚人服)
[恩赦P]:34pt
[方針]
基本.強い者に従って、おこぼれをもらう
0.トビに媚びる
1.下の階へのルートを確保する
2.エンダと仁成に会ったら交渉、ダメそうなら逃げる
※ドン・エルグランドを殺害したのは只野仁成だと思っています。

496宣戦布告 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 13:29:04 ID:fnl4WnZ.0
投下終了です

497 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:55:44 ID:Y1KGdwk60
投下します。

498永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:57:28 ID:Y1KGdwk60
   





 その永遠が、間違いであってほしい、と。今も信じている。













 戦況は膠着している。
寄っては征十郎が斬り、離れてはギャルが爆破する。
斬るという一点において、征十郎が遅れを取ることはなく。
爆ぜるという一点において、ギャルが遅れを取ることはなく。
その爆炎を巻き起こし、それらを総て斬り伏せて。そんな繰り返しを二人はどれだけ行っただろうか。
名乗りを上げてから、互いに一進一退の攻防を繰り広げている。

 汝、己の最強を示せ。

 征十郎・H・クラークは剣技。それは万物を斬り抜く最強で在れ。
ギャル・ギュネス・ギョローレンは爆破。それは万物を吹き飛ばす最強で在れ。
超力の絶対を信じる二人は当然、己の最強を相手へと押し付ける戦法を取る。

「っぱ強いねえ、征タン♪ 秒で終わるってウソウソ、訂正☆
 あーしが大技使えないようにめっちゃ読むじゃ〜ん。戦闘センスバリ強かよ〜」
「お前との相対が初見でないのだから、当然だ。これくらいできる奴などお前は山程視てきたはずだろう?
 そういう世界で生きてきた私達だ。強くなければ、何も成し遂げられん世界だ」
「ふはっ、言えてる。今の強くなった征タンなら、あの時くれた言葉も嘘じゃないって思えちゃうかも!」
「そうだな。もしも、今の私が彼処にいたのなら、お前もお前の友も救けられただろう」

 爆破という概念を斬り、何れはその先へ。
八柳とはそういうものだ。斬るということへの真摯さは他の追随を許すことなく。
永遠に沈んだ村にて猛威を奮った技を、ギャルは決して侮らない。
もっとも、一人の情念を斬ることは敵わず仕舞であったけれど。
天才――剣聖へと成った少年でさえも、少女の想いは膝を屈する他なかったのだから。

「あの日、救けられなかったことをそんなに悔いているの?」
「…………ああ」
「あの日、見捨てたことをずっと刻んでいるの?」
「……………………ああ」
「ウケんね。煽ったあーしが言うのもなんだけど、引き摺り過ぎじゃない?」

 もっとも、八柳という概念を抜きにしても、征十郎の超力は強力である。
八柳の技との相性は最高とも呼べるだろう。そんな彼が放つ斬撃は、一太刀でも当たると、死ぬ技だ。
斬るという概念を突き詰めた超力は防御という二文字を知らない。
百戦錬磨、戰場を駆けたギャルであっても、必ず殺してくれるはずだ。
でも。けれど。未だ脳裏にある疑問が、ギャルを何処か留めているのだ。

499永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:58:03 ID:Y1KGdwk60
    
 あーしはほんとに悔いなく死ねんのかなあ。

 そんな必殺も永遠の前では霞んでしまうのではないか。
永遠に侵された己の体は不老である。それは自明の理として証明されている。
では、不死は? あの約束された楽園にて祝福を受けた己の身体が死せるエビデンスは何処にある?
いくつもの戦場を駆け回ったギャルだが、死にかけたことはあっても、死んだことはない。

 ちょっと気軽に試すには、リスクとリターンが釣り合ってないんだよねぇ。

 だったら、不死を確かめる為に、とりま死んでみよっか、なんて。今までは考えたことはなかった。
自分の中に渦巻く永遠は超力とは違う――――もっとおぞましい何かとしかおもえないのだ。
だから、ギャルはその一手を選べずにいた。否、見なかったことにしていた。
永遠に組み込まれてたが故に想うのだ。これは、もしもの話――――彼女の親友だったモノの話だ。
仮に致命を負って死ぬとする。死んで、もう動かなくなって。
それでも、尚動くモノとして蘇ってしまったら、と。
お前はその実例を間近で見ていたはずだ。
紛い物の生。澄み切った、白濁。虚栄の奇跡。
其処に、本物は存在するのか。

 あの閉ざされた箱庭で見た、永遠のように。

 それは嫌だな。ああ、絶対に嫌だ。何よりも嫌なのは、それを心から嫌だと言えない自身だ。
身体は奪われてしまったが、魂だけは自分のものだ。自分の意志で初めて、終わらせたい。
断じてあの永遠にその筋書きまでも、奪われていいものではない。

 謳いたい。謳わせてくれ。

 今日はいい日だ。死ぬにはいい日だ、と。
声を高らかに自分は謳えるのか? その永遠に対して、メメント・モリを叫べるのか?
忘れ難き残滓を未だ滞留させている己を終わらせることができるのは何処に。
ずっと、ずっと。探している。満足できる終わりを。続編なんていらない、物語を完結させてくれる《主人公》を。

「ま、あーしが言えた立場じゃないけどさ。
 記憶の片隅から消えてくんないモノっていうのは、どうしてもあるし〜」
「……お前の身体に宿っている永遠のように、か」
「ウケんよね。どれだけ嗤っても、どれだけ殺しても、どれだけ移り気でも。この永遠だけはちっとも変わってくれない。
 全然キマってくれない、メイクで上塗りしても結局は戻ってくるんだから」

 それでも、この悪が蔓延る箱庭であったら。
永遠なんて感じさせないくらいに愉しく戦える。
そんな悦楽と忘却の果てで、終わりを与えてくれるモノがいると思ったから。

「永遠なんて欠片も愛しくないのに。捨て切ったと思っていても、ずっとついて廻ってくる」
「…………」
「だから……だから――――」

 恩赦などいらない。続きなんていらない。自分の物語は此処で終わらせたい。
今後、これ以上の刹那《死》を約束された舞台に出会える気がしないから。
メメントモリを叫びたいから、今日は死ぬにはいい日だと笑い飛ばしたいから。
刹那を愛しく想いながら。時間が永遠に止まればいいなんて戯言を吹き飛ばせるくらいに!

500永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:58:25 ID:Y1KGdwk60
   
「斬ってよ、君が“八柳”を謳うなら。君が知っている“八柳”なら……! できるはずだよね?」
「そうだな。万物を斬る。それを為せぬなら、“八柳”として落第だな」
「あの村で生まれた奇跡――根源ではないけれど、この身体に揺蕩っているのは紛れもない永遠だよ。
 形がないものは斬れないなんて、弱音吐かないんだ」
「関係ない。言っただろうが、万物尽く斬るのが、“八柳”だ。斬る対象を選ぶ鈍らではない」

 “タチアナ”の叫びに呼応するように征十郎が言葉を返す。
“八柳”とは刀を振るうモノ。其処にある清濁がどうであれ、斬るという概念を突き詰めた求道者だ。
その手に持つ刀は人を殺すものだ。
担い手の思想、人格、善悪に関わらず、それは変わらない。

「私の知る“八柳”を背負う者達は皆、強かった。開祖であるあの人も、姉弟子も、兄弟子も、皆、私が及ばないくらいに」

 各々、強さという確固たる基点を持ち合わせていた。
だから、死んだ。強さ故に戦うことを選べたから。斬るという概念を為せる者達だったから。
あの村で起こったであろう惨劇。生物災害の裏にあるであろう、何か。
それはきっと強いからこそ始まった悲劇もあるはずだ。

「だが、世界は彼らを悪党と呼ぶ。正義とは程遠い人斬りとして。
 “八柳”は悪であり、忌むべきものであると」

 頭に浮かぶのは推測ばかりで、真実は闇の中だ。
ギャルの言葉を否定できるだけの証拠を、征十郎は持っていない。
それでも、否定したいと願ったのは、知りたいと望んでしまったのは。

「それで、認めちゃってる訳? “八柳”が悪だって」
「八柳の総てが清らかとは思っていない。もっとも、私の知る兄弟子はそんな輩ではないと今でも信じているがな」
「あっそ。自分の流派をあんなにコケにされてるのに、真っ赤になって怒らないんだ〜ク〜ル〜」
「…………彼らは違うとしても、私は悪であると自覚しているからだ」

 己が彼らとは違う本物の悪だからなのかもしれない。
征十郎・H・クラークは悪人だ。正義を志して刀を取った訳ではないし、強くなった後もヒーローのような行動をしている訳でもない。
八柳新陰流を学んだモノの中でも、異質にして原点に一番近いものとして、彼は刀を振るっている。
ただ、斬る為に。万物総てを斬るという剣聖たる境地を目指して生きてきた求道者であるが故に。

「煙に巻いて、取り繕うつもりはない。私の本質は人斬りだ。お前の本質が外道であるように、私の本質も結局は其処に行き着く。
 されど、その本質を私は憂うつもりはないし、捨てるなどありえない。
 これが、私だ。征十郎・ハチヤナギ・クラークとして、一片の迷いもない」

 どれだけ正しさを説かれようとも、悪をくじくヒーローになるつもりはない。正義を志す程、潔白でもない。
斬るという概念と共に生きて、その果てに野垂れ死ぬ。
人を斬れば人は減る。強さを求めるならば、斬るしかない。
斬れるのか、斬れないのか。突き詰めるとその二者択一が世界には残らない。

「其の為に始めた、其の為に振るった、其の為に誓った」

 それが、征十郎・ハチヤナギ・クラークという“八柳”の物語だ。
男は死ぬとしても、刀を振るうだろう。いいや、死んでも、振るう。来世もそのまた来世も、それこそが本物の永遠である、と。
例え、他の門弟が何であろうと、己が変わる訳ではない。
刀を取った始まりがどうであれ。あの村で起こった真実の答えがどうであれ。救えなかった少女が眼前に立っていたとて不変。
斬る。その二文字を絶対として直走って来た過去をなどあるはずがない。

501永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:58:42 ID:Y1KGdwk60
   
「あの日から、ずっと悔いていた永遠も」

 嘗て泣いていた、あの日の彼女。
ギャルの言う通り、救えていたら、こうならなかったのかもしれない。

「あの日あったはずのささやかな幸せも」

 皆、生きていた。大なり小なり何かがあれども、生きていたのだ。
確かにあった幸せも今は永遠に侵されて歪んでしまった。

「あの日から背負った過酷な日々も」

自身が追い求む真実を知っていようと知っていまいと、征十郎はこの道を進むしかなかった。
八柳の真実がどうであれ、刃の切れ味は変わらない。
だから、ギャル・ギュネス・ギョローレン。いいや、タチアナ。
君が望むなら。君に言える言葉は一つだけ。

「お前の宿敵として、あの日出会った知縁として。タチアナ《永遠》――――お前を斬る」

 誓いは此処に果たそう。永遠、斬るべし。

「っはぁ〜〜〜〜! アガんね、その宣言! 最高で最低なアイラブユーじゃん!?」

 ギャルが炎を滾らせ、破顔する。見つけた、見つけてしまった。
永遠を終わらせてくれるかもしれない、宿敵。あの日始まった――今はもう色褪せた昔話を終わらせてくれる主人公!
出会った時からここまで面白くさせてくれるなんて。
その意気やよし。彼は本気でこの身体に宿る永遠を断ち切ろうとしている。
なればこそ、己も半端は許されない。その本気に報いる為に、後先などもう考えない。

「君の宿敵として。あの日出会った知縁として。八柳クン《悔恨》――――君を燃やす」

 再度、接敵。
爆風の唸りが背中を打ち据え、鼓膜を突き刺してくる。
疾走る、斬る、爆ず。互いの領分を踏み越えた超力の押し付け合いだ。
途切れなく降りかかる爆炎を斬撃で斬り飛ばす。
乱れ猩々。乱雑なようでその実繊細。征十郎に届き得る爆炎を尽く斬り伏せる。
そして、炎が散る合間を縫って、征十郎が俊敏に駆ける。
そのまま沈み込むように姿勢を下げ、一閃。
しかし、斬れたのは虚空のみ。ギャルの胴体は傷一つなく繋がっている。
弾けろ。指を鳴らして秒を経て爆発が迸る。
流石に態勢を気にする余裕もなく、征十郎は後方へと退却を余儀なくされる。
直感で後ろに退いたがその場に留まっていたら爆死していた。

「まだ、まだぁ!」

 これまで距離を取っていたギャルがあえて、征十郎へと追撃を駆ける。
小瓶を乱雑に投げ、割れた爆炎が、征十郎が横に逃げ道を塞ぐ。そして、爆炎で身動きが取れなくなった状態で渾身の爆炎で仕留める。
だが、それは爆炎が征十郎へと届いたら、と。仮定がつくけれど。
疾風を想起させる剣閃――抜き風。征十郎に放たれた爆炎は彼を傷つけることはなかった。
それは決して炎を寄せ付けない。近づいた代償で彼の放つ斬撃間合いだ。
彼の手元に気をつけて――衝撃が腹部へと伝播する。
征十郎の蹴りがギャルの腹部へと突き刺さった。後方へ吹き飛びつつ、爆炎を残すことは忘れない。
一太刀は振らせない。爆炎がうまく彼の動きを遮ってくれたおかげで、追撃がワンテンポ遅れてくれた。
おかげで、回避も悠々と行えて、距離も取れた。

502永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 15:59:17 ID:Y1KGdwk60
    
「棒切がなければなーんもできないって思ってたけど、違うんだ」
「戦いは刀だけかと思ってた訳でもあるまい? 無論、刀には劣るが、素手での戦闘も心得はある」
「うっわ、ムカつく〜。女に手を挙げるなんてサイテー……っ!」
「老若男女問わず殺してきた悪鬼が振り翳す理論ではないな」
「刀だけじゃなく、徒手空拳の戦闘もできるなんて、征タン、相変わらず、凄腕……っ! あーしとここまで遊べるなんて、おもろ!」

 経験もあるだろうが、此処まで戦況を維持しているのは、彼が持つ類まれなるバトルセンス。
何を斬るべきか判断する目の良さもある。最初に会った時から舐め腐っていたのは自分だ。

「初見で舐め腐っちゃうのは良くない悪癖だ、訂正☆」

 そして、また繰り返す。
お互い、相手を倒すことに惜しみがない。
ギャルは爆炎を振り撒き続け、征十郎は刀を振るい続ける。
互いに決定打を打てぬまま、戦況は再び膠着へと持ち込まれていく。
最初は会話なんてないだろうと思っていたが、こうも長くなると、一言二言は交わすようになる。

「タチアナ」
「……そっちの名前で呼ぶんだ。何?」
「お前は先程、永遠なんて欠片も愛しくない、そう言ってたな」

 この身体に宿る永遠は容易くは断ち斬れるはずはない。
本物の永遠を見てしまったからこそ。終わらない物語に触れてしまったからこそ。
それを愛しいと思ってしまったことがあったからこそ。

「私は疑問に想う。お前の永遠への嫌悪は本物だ。
 刹那主義、享楽に生きて死ぬ。その言葉に偽りはないだろう」

 彼女が話した言葉は全て本当だろう。
永遠を遠ざけ、刹那の瞬間に総てを掛ける。
ギャルの経歴はそれを物語っているし、彼女の振る舞いはそうである、と。

「だが、そんなにも永遠から逃げたいと願っているのに、刹那を愛しているのに」

 けれど、征十郎は気づいてしまったのだ。彼女の節々の言動、振る舞い、声色。
それはギャルになる前のタチアナを知っていたからなのかもしれない。
享楽に身を浸しており、何も信じていない、何も続いていない。
ギャル・ギュネス・ギョローレンであれば、絶対に言わない、思わないことだ。

「永遠を手放そうとしないのはどうしてだ? 永遠の17才と名乗っておいて、永遠を何処かに残そうとしている」
「………………」

 しかし、それは“タチアナ”であったらどうだろうか。
その問い、そしてその答えは、がずっと仕舞い込んでいる禁忌だ。
この刑務では征十郎しか知らない、知る由もないだろう、あの村で起こった自分達の始まり。
救えなかったモノと救いたかったモノ。二人を分かつ境界線が今はない。

「こびりついた永遠を、必死に洗い流すように、鉄火場で舞い踊る。
 享楽と破滅で永遠を塗り潰す。それでも、お前は……」

 “ギャル・ギュネス・ギョローレン”と“タチアナ”。
どちらも彼女を構成する大切なものだ。例え、その願いが相反しているとしても。
だって願ってはいけない、想ってはいけない。
そうでなくては、自分は何の為に生きてきたというのだ。

「本当はあの村に戻りたい、と」
「やめて」






 ――――あの色褪せた昔話をもう一度聞きたい、なんて。

503永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:00:23 ID:Y1KGdwk60
    





「それ以上、言わないで」

 その声色は恐ろしいまでに色がなかった。
生気のない顔。輝きが消えた双眸。そして、今にも泣き出しそうな、その顔。
あの日、あの時聞いた声と同じ、寄る辺がない少女のものだ。
永遠を望んだ人間も死んで、私達が知っていた山折村はもう何処にもなくて。
一度、栓を切ったドス黒い白濁の永遠は、とめどなく溢れ出し、世界を満たしてしまった。
ついさっきまでそこにあった絶望も総てマヤカシにしてしまう程に、其処は幸せが満ちていたのだから。
祝福の聖地には、不変と希望だけが横たわる。

「ああ、全く」

 タチアナは誰も責められないし、許せない。そして、やっぱりあの幸せを味わって、ずっと此処にいたいと想ってしまったから。
だから、だから――――。

 ――絶対に助ける!

 それを聞いた征十郎は深くため息をつき、やはりやるしかないのだと再確認してしまった。
元より自分がやるべきことであった。あの日に誓った約束。
己が無鉄砲にも叫んでしまったことへの責任を取る時がやってきた。

 ――八柳の名に誓って、必ず助ける!

 “あの時の少女”を助ける。
柄でもないな。少年も少女も大人になってしまった。
そんな昔のことを引きずるセンチメンタルな感情はとっくになくなったと思っていたのに。
けれど、あの日の少年がそう、望むなら。あの日の少女がまだ取り残されているのなら。
山折が歪んだ日、永遠が生まれた日。この世総ての光。
今から自分はそれらを否定する。悪人として、八柳として。
征十郎・ハチヤナギ・クラークが――斬る。
八柳が背負った罪を、清算しよう。今この刹那の一時だけは其の為に、生きる。
彼女が言う刹那という概念を永遠に刻み込む。故に、本気だ。

「係官、全ポイント消費だ。一番いい名刀を寄越せ」

 これから斬る相手に余力を蓄えるべきではない。これより対峙/退治するモノを考えたら、名刀を携えなければ勝ち目はない。
あの悪鬼であるギャルをらしくない、少女にさせる永遠。
全部、この手で斬る。それができなければ死ぬだけだ。永遠は蔓延り続け、八柳は負けたままだ。

504永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:00:46 ID:Y1KGdwk60
    
「悪逆非道を気取る女でさえもしおらしくする永遠、か。随分と斬り応えがある。
 おい、斬るぞ、其の永遠」
「…………いきなりマジになっちゃって。そんなに“私”が恋しい訳?」
「戯け。悪党が悪党らしくないんだ、今のお前は見てられん」

 瞬間、手元に慣れ親しんた感触がやってくる。
軽く刃紋を見ただけでわかる。名刀だ。それを今から自分は一太刀でだめにする。

「本気で来い」
「もう本気なんだけど」
「後先なんて考えない、本当の本気だ。言い換えてやろうか、本気にさせてやる、来い――!」
「そういう君もらしくない。何だ、今この瞬間、私達はあの頃に戻ってるみたい」
「そうだな、あの日、私達が物語を始めてしまったのだから、終わらせなくてはならないだろう。
 言ってやろうか? 永遠なんて下らない、お前の物語《タチアナ》は、此処で打ち切りだ」
「……………………あっそ。やれる訳?」
「やる前から諦めていたら、意味があるまい」

 無理や無謀は斬って捨てろ。永遠という奇跡を視て、知って、聞いて、感じろ。
彼が斬るのは――永遠。それが征十郎――――“八柳”が斬らねばならぬ因果だ。
ギャルを今も囚えている山折の祝福。あの日、永遠を望んだ少女の夢。

 ―――――刹那《八柳》を以て、永遠《山折》を斬り捨てる。

 では、挑もう。
目を閉じ、ただひたすらに。心は凪のように静かで、何の邪魔もされなくて。
今から行う事を考えると途方もないな、と。
突拍子もない、永遠を斬るという離れ業。そもそも形なき祝福を斬るとはどのように?
是非もなし。歩めばわかる、概念を理解していればわかる。
だって、自分はあの日あの時、あの場所にいた。永遠が生まれる傍にいた。
征十郎もまた、山折村の村民であった。
ならば、できる。応えは、この掌に握られた刃が知っている!
地面を軽く踏みしめ、疾走。総ては最高の一太刀の為に。
彼女が爆炎を巻き起こしているのが肌でわかる。それも、遊びのない、後先を考えない、本気の炎だ。
しかし、今の征十郎からすると、爆炎などもはや瑣末事。剣を振るう手が無事ならそれでいい。

 私は追いつけているだろうか。

 あの日、あの時トンネルの向こう側で起きていた悲劇の裏にある無垢な願い。
明日がきっと良くなりますように、と。もう辛いことも怖いことも、嫌だ。
楽しくて温かな世界だけが欲しい。幸福な今が永遠に続けばいい。楽しい一時が、愛に溢れた人々が、ずっと。

505永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:01:21 ID:Y1KGdwk60
      
 その残滓を、今から自分は斬る。

 下らないと断ち切って。己がそんなものは気に入らぬと!
征十郎のエゴがふざけた祝福を残すなと!
誰かが願った救いを否定して、悲劇が蔓延る明日へと永遠を押し出していく。
まあ、でも。悪人なんてそんなものだ。永遠は気に入らない。そして、斬り応えがある。
故に、結論はすぐに。『斬りたいから、斬る』。それの何が悪い。
接近。剣の間合いに入った。
ふと顧みると、全身爆炎でボロボロ――重傷だ。致命までもうすぐであり、二の太刀などもう振るえないだろう。
だが、それでいい。一太刀で決めると誓ったのだから、それを実行するまでだ。
ほんの僅か。まさしく、刹那の時間にて、鞘疾走る!
煌めけ、轟け、奔れ。
斬るという至上命題。後悔を表すかのような超力。故郷を救えなかった少年。
だから、これは証明なのだ。あの日泣いていた少女達を救う為に振るう。
これこそが、あの日征十郎が叶えられなかった“願い”であるから!

 ――■■■■山折村■、美し■永遠■。

 それは、誰かが星に希った穢れ無き永遠。
断片的に見えた、一筋の言葉が聞こえた気がした。
底などという概念も存在しない、白の中へ。
闇などという概念も存在しない、光の先へ。
まだ、刀は掌に握られている。ならば、いい。
振るう。奮う。この一太刀を以て、永遠は打ち切りだ。









 何故、永遠を否定する?
 
 知れたこと。気に入らんからだ、そんな願い事。









 例え、不幸と悲劇で溢れた世界であっても。滅んでしまった方がいい世界であっても。
誰かが剣を振るっているならば、それは価値ある明日だ。
まだ見ぬ好敵手が、世界で剣を振るっている。
そんな明日があるのなら、征十郎にとって、“きっといい未来”なのだから――――!

「斬る」

 斬――――残。刃は届く。感触もない、虚空を斬っている感覚なのに。どうしてか、斬れたという実感がある。
今の己が繰り出せる最大の速さだった。
その剣閃は最高の精度で振り抜かれたものだった。
それは刀を初めて握った日から今に至るまで。愚直に過ぎた男が辿り着いた極みである。
零れ落ちた永遠を終わらせるのにふさわしい、至高の剣だった。

 ――ああ、今日は、死ぬにはいい日だ。

506永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:01:44 ID:Y1KGdwk60
   
   
  










 それでも、その永遠を愛しいと思ってしまった己を、信じたいのだ。














「それで、どうして斬らなかったの?」
「お前の中にあった永遠は、斬ったぞ」
「私、生きてるんだけど」
「そういうこともある……のか? 形なきモノを斬ったのは初めて故に勝手がわからん」

 死んだと思っていた。いや、間違いなく死んだはずだ。
征十郎が一太刀を振るう為に負った傷は当然深手のものであり、振った後は力尽きて死ぬ未来しか見えていなかった。
それがどうして生きながらえているのか。
もしや、此処が死後の世界と思いきや、周りのぐちゃぐちゃになった床と壁は先程までギャルと戦っていた場所だ。
そして、ふと、気がつくと頭は“タチアナ”の膝に乗っている。彼女はぼんやりと座っていて、その膝に自分の頭、いつでも爆破されてしまう態勢だ。
つまるところ、膝枕である。あの悪鬼がそんな事をするなんて、気持ち悪い。
今すぐにでも立ち上がって離れたいが、身体が言うことを聞いてくれない。

「それよりもだ。私が生きている、ということは……お前……」
「私のポイントなんだからどう使っても勝手だよね?」
「ありえん。まさかお前が生きている理由……それを問う為だけに、ポイントを総て使ったのか」
「答えてよ。永遠は断ち切られた、でも、私はまだ生きている。気持ち悪くて仕方がないんだけど」
「冥府まで持っていくものと思っていたが、命を救われてしまっては答えざるを得ない、か」

 “タチアナ”の横に転がっている治癒キット。
100ポイント以上を持っていた彼女が惜しみなく使った代物だ。
性能は間違いなく高品質。死んでいなければ黄泉路も引き返せるだろう。
もっとも、爆炎による負傷は致命であったはずだ。
ほんの少しでも“タチアナ”が躊躇していたら征十郎は死んでいたはずだ。

507永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:02:11 ID:Y1KGdwk60
   
「憐憫とかそういうの、ないでしょ。私、悪党なんだから。
 じゃあ手を抜いた? それもありえない。斬ることに対して、八柳クンが間違えるはずがない。
 ねぇ、なんで? 答えてよ」

 完全にギャルの口調と表情が抜けて、“タチアナ”の表情と口調になっている。
それだけ仮面が壊れて、素の彼女が見えているという形だ。
とはいえ、これは答えるまで彼女はずっと問い詰めてくるに違いない。
悪鬼外道とはいえ、命を救われてしまった以上、答えねば征十郎の意に反する。
もっとも、持ち合わせている答えは簡単だ。

「その身体が背負う永遠の方が斬り応えがあったからだ」
「…………何それ」

 ギャル以上に斬らねばならないモノがあったから。ただそれだけである。
 彼女が生きているのは偶々、永遠の置き土産か。それとも、一気に斬る事ができなかった自身の不出来さか。
どちらにせよ、永遠は断ち切られた。けれど、彼女は生きている。

「私はただ斬り応えがある方を選んだに過ぎん。それに、悪鬼を少女に戻す悪を斬る方が経験値にもなるというもの」
「さっぱりわからないんだけど」
「お前は私じゃないんだ、理解など求めていない。そもそも、剣客でもないお前がわかる訳ないだろう」
「私ごと斬ればよかったじゃん」
「そんな余力などない。お前が実感しているはずだ、あの永遠は、余程の決意、得物、技量、超力――それらが揃ってなければ斬れん」

 征十郎は断じてギャルを憐れんで斬らなかったとかではない。
斬るという概念に焦がれた求道者を以てしても、彼が斬った永遠は、余所見ができない相手だった。
説明した所でわかるはずがない。
事実、大枚をはたいて手に入れた名刀は粉々に砕け散っている。
もしも征十郎が“タチアナ”の言う通り、一気に斬る選択肢を選んでいたら、結果は散々であったはずだ。
何も斬れぬまま、征十郎は死んでいた。

「第一、お前ごと斬れるのなら、斬っている。私が何故お前を生かさなければならん」

 今はまだ、未熟者故に斬れる限界があった。命が残った以上、征十郎にはまだ先がある。
斬るという行為を極める余地があるのだ。だから、次は彼女を斬る。
元々、因縁抜きに殺し合う間柄なのだから、其処に躊躇はない。

508永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:02:33 ID:Y1KGdwk60
   
「言えてるね。ま、朴念仁の八柳クンが嘘を言う訳ないか。
「あーあ、君の言うことが正しいなら、もう私は永遠じゃないってこと、ね。
 私、これからは年取っちゃうんだ。今はまだ若いままでギャルやれるけどさ。
 今後のことを考えたら、ギャルファッションもあーしって一人称使えなくなるんだけど、どうしてくれる訳?」
「どうせこの地で果てるのだから問題ないだろう」
「そういう問題じゃないの。乙女名乗れなくなっちゃうでしょ」
「実年齢を振り返れ、年増」
「ぶっ殺すよ」

 けれど、この戦いを経て、二人は限界だった。
お互いに手傷も負って、立ち上がる体力もないのだから、殺し合いなどできるはずもない。
軽口を叩き合ってはいるが、語気の弱さが物語っている。

「それで、続きやる? お互いポイント全損。体力は限界。手傷も負って狙われやすい獲物同士で戦っても、格好の的だよ」
「やらん。というより、やれんよ。道理だな。お互いある程度回復するまでは身を潜めるべきだ。盛大に暴れたのだから、敵も直に寄ってくるぞ」

 漁夫の利を狙った狡猾な悪党。真正面から殺しに来る悪党。
そもそも誰であっても、今の自分達は狩る側ではなく、狩られる側だ。
とりあえず、無理を通して二人は立ち上がり、何処か人気のない安全な場所を目指して避難する。

「そんじゃ、避難しますか」
「ああ」
「…………」
「…………」
「あのさぁ」
「おい」
「どうして方向同じなの?」
「お前が私についてきてるだけだろう」
「違います〜、八柳クンが勝手についてきてるんです〜。
 はぁ、口喧嘩する体力もないわ。下らない争いで時間と体力を使うなんてアホらしいし、一旦休戦ってことで。
 言っておくけど、体力戻ったら殺すから」
「抜かせ。体力が戻って、次に斬るのはお前だ。舞古沙姫を殺めたことを水に流すつもりはない」
「はいはい。私もあの時救けてくれなかったこと、根に持ってるから」
「忘れかけてたと言ってただろう」
「忘れる訳ないでしょ。あの時くれた言葉、ずっと覚えてるし」

 征十郎はあの時の誓いを。“タチアナ”はあの時の救いを。
互いに成し遂げた以上、次に繰り上がってくるのは必然的に敵対。
お互い悪党なのだから、水に流してということもないし、仲良くなってお手を繋いでラブ&ピースなんてこともない。

「次は斬る」
「次は燃やす」

 結局、幼き二人の因縁が消化されたとはいえ、不倶戴天の敵同士であることに変わりはない。
四の五の言ってる暇があるなら、斬るぞ燃やすぞとドンパチだ。

「無言っていうのも、つまらないし、とりあえず、昔話でもする?
 というか、永遠に組み込まれていたからか、あの村で起こったこと、全部知ってるし。勝手に人の頭にダウンロードするなって話だよね」
「……………………頼む」
「しおらしいじゃん、ウケる」

 それでも、一つの因縁は終わり、物語は打ち切られた。
色褪せても尚、消えない想い。二人の少年少女が夢を見たあの日。
途切れた青春の続きは漸く、幼年期の終わりとして終止符を打つことになった。

【D–4/ブラックペンタゴン北西ブロック外側・集荷エリア/一日目・朝】
【ギャル・ギュネス・ギョローレン】
[状態]:疲労(極大)、“タチアナ”
[道具]:学生服(ブレザー)、注射器
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.昔話をして、それから――――。
2.復活したら改めて征十郎を燃やす。
※刑務開始前にジョーカーになることを打診されましたが、蹴っています。
※ジョーカー打診の際にこの刑務の目的を聞いていますが、それを他の受刑者に話した際には相応のペナルティを被るようです。
※ポイントは全部治療関連のものに交換しました。
※永遠は斬られたので、今後は年を取ります。

【征十郎・H・クラーク】
[状態]:ダメージ(極大)
[道具]:日本刀
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.昔話をして、それから――――。
2.復活したら改めてギャルを斬る。
※保持していたポイントで購入できる最大限の名刀 - 80P

509永遠 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:03:07 ID:Y1KGdwk60
   

   


 

   



























 少年は少女の元まで来てくれた。
あの時交わした言葉と伸ばした手は、もう取られた。

 ――絶対に助ける!

 ――八柳の名に誓って、必ず助ける!

『ありがとう……!』

 数十年の時を経て、ようやく。征十郎とタチアナは救われたのだ。

510 ◆E6eHDQp34U:2025/06/22(日) 16:03:30 ID:Y1KGdwk60
投下終了です

511 ◆H3bky6/SCY:2025/06/22(日) 20:18:47 ID:fnl4WnZ.0
投下乙です

>永遠

永遠と刹那の交差。純粋なバトルだけではなく、救いの一刀に収束されていく展開は見事
爆炎と斬撃の死闘、戦闘経験が豊富な実力者同士のド派手なバトルが展開されながら、その奥に渦巻く互いの過去と因縁が浮かび上がっていく
まさか、ここまで因縁深い対決になるとは出会った当初は思わなかったぜ

人斬りの業を背負い悪としての自覚を持つ征十郎
永遠に囚われていたが故に刹那の快楽と永遠を終わらせる死を求めるタチアナ
この2人の山折村から続く因縁ごと永遠を断つ。概念すら斬れるという征十郎の超力も併せてまさしく征十郎にしかできない永遠斬りの一太刀

時を経て助けると言う誓いが果たされ、2人の関係も解き放たれたような妙な解放感がある、とはいえ一時休戦後は普通に殺しあいそうな奇妙な関係である
山折の呪縛から解き放たれたタチアナの第二の生がこの地の底で始まったが、殺し合いという場でその救いがどう転がるのか

512 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:34:29 ID:jXt43Nfk0
代理投下します

513灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:34:59 ID:jXt43Nfk0
キングに頼まれ、外の様子を見に行ったハヤトとセレナの願いはあっけなく崩れ去った。
昇り行く太陽の光を受け、ハヤトの前に現れたのは、手負いの少女二人組だった。

朝の光が熱を持ち照り付け、ハヤトの身体にじわりと汗を生む。
同時に潮風が彼の体から出た汗を冷やし、嫌な寒気をもたらした。

「あなたたちは、誰?」
ボロボロの少女二人は困惑しながらもーー紗奈はりんかを守るように立ち、目の前に現れたハヤトとセレナを警戒する。
「りんかはここにいて。あなた達には絶対近づけさせはしない」
「紗奈ちゃん、私は……」
「りんかのためなの」
後ろのりんかを振り向く紗奈は、唇を引き結んだ。
シャイニング・コネクト・スタイルに変身する準備はできていた。

「ハヤトさん……」
隣のセレナが、心配そうにハヤトを覗き込む。
ハヤトは焦燥感に駆られながら思案する。

二人の少女ーーそのひとり、紗奈が敵意を持った目でハヤトを睨みつけてくる。
手負いとはいえ、この場を切り抜けるには戦いも辞さない覚悟をハヤトはひりひりと感じた。

ハヤトにはキングに頼まれた事がある。

『ドン・エルグランドを殺した相手の調査』
『港湾に近づく二人組の確認』

これが彼の役目。
セレナを守るために、自分が通した仁義。

『港湾に来たのが二人組の少女だったら、自分の元に案内する』

これが、キングのハヤトへのちょっとした『野暮用』だった。
目の前。少女二人。片方は遠目からでも重傷を負っているとわかる。
キングの元へ連れていくにはあまりにも危険すぎる。

ハヤトは考える。

(キングに嘘をついて、この子たちを逃がそう)

そう思った。
少女たちなど来なかったことにして、このまま自分たちもキングの元から去ればいい。
ーーだが、あのキングに嘘が通用するか?
今ここで逃したとしても、キングはまた別の方法でこの子達を追うのではないか。
ましてやこの傷だらけでボロボロの身体だ。
キングに会わなくてもこの子達はーー

「お兄さん。何か、抱えていませんか?」

思案していたハヤトは顔を上げる。
二人組の少女ーーりんかだった。
特にひどい傷を負っているりんかは自分を守るように立つ紗奈を制止し、よろよろとハヤトとセレナの前に歩を進める。

ハヤトは言う。
「何も抱えてなんかいない。おまえたちは早くーー」
「どうか、話して」

死にかけていても、言葉は力強かった。

ふいに、りんかの身体から光が放たれ、みるみるうちに『シャイニング・ホープ・スタイル』に変化する。
背と髪が伸び、囚人服ではないヒーローの格好をしたりんか。
身体は手負いでもその身は煌めき、言いようもない力強さがあった。

「私だったら、力になれるかもしれない」
変身したりんかは言った。

ハヤトとセレナは、変身したりんかの姿を呆然と見ていた。
同時に、絶望に囚われていた心の中でかすかに暖かい希望の火が灯るのを感じた。

ルーサーに筋を通さなければいけない。
手負の彼女達を巻き込みたくない。特に満身創痍で変身したりんかには。
この子達を逃さなければ。
ハヤトは乾いた口を開く。


「……本当に、いいんだな?」

514灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:35:16 ID:jXt43Nfk0
ほんのわずかな希望が、彼の言葉を引き出した。


この子達はボロボロだ。
特に今変身した子は死んでいてもおかしくない重傷を負っている。
だが、この子達なら。
もしかしたら、ルーサーに。

「ーー後悔、しないんだな」

ここまで来たら自棄だ。
行けるところまで行ってしまおう。

「セレナ。この子達にすべてを話していいか?」
「……ハヤトさんのやる事なら、ついていきます」
セレナとハヤトは話すために、りんかたちを座れる場所へ導いた。

一方で。
煌びやかな変身姿のりんかと、意を決して彼女に全てを話し始めるセレナとハヤトを、紗奈は暗い気持ちで見つめていた。




515灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:35:29 ID:jXt43Nfk0
残っていた治療キットを使い、それぞれ一食分の食糧を渡した時、りんかと紗奈はひどくハヤトに感謝した。
元々彼女たちがこのエリアに来たのも、敵を避けて体力と気力を回復させるためだったからだ。
ハヤト達に会う前のりんかは特に、根性と超力だけでやっと立てている状態だった。
治療キットの残りを使い切っても彼女の傷は癒え切らなかったが、それでも軽く動ける状態にまではなった。


りんかは変身を解き、紗奈と共にハヤトとセレナの話を聞いていた。
ルーサー・キング。牧師とも呼ばれている。
『キングス・デイ』の首領。欧州の裏社会の頂点。
紗奈もりんかも、かつて拉致され虐げられていた際に彼の話は耳に聞いていた。

「ーー話してくれて、ありがとう」
りんかは微笑みハヤトに言った。紗奈が心配そうにりんかを見つめている。
「牧師は危険な男だ。キットじゃ回復しきれなかったが、仮にあんた達が万全だったとしても勝てる確率は低い」
ハヤトが言う。
「オレは『キングの目的の相手二人に治療キットを使うな』とは言われてはいない。咎められても、オレの責任だ。ーー逃げるなら、今のうちだぞ」
「そうだねーー」

りんかは目を閉じ、少しの間思案すると顔を上げ、ハヤトとセレナをまっすぐ見る。

「りんか、やめてーー」
紗奈はその次に出るりんかの言葉を制止しようとした。
だが、間に合わなかった。

りんかは言った。
「ハヤトさん、セレナさん。私一人で牧師に会いに行く」

「?!正気か!?……」
「大丈夫」
動揺するハヤトにりんかは冷静に返す。
「相手はあの牧師だぞ!!戦わなかったとしても無事で済むはずがない!!何よりもーー俺が嫌だ!あんたが背負わなくていい責任を背負うなんてーー」
「牧師がどんなに強くても」
りんかは、強い覚悟を持った目でハヤトを見た。
「あなた達が辛い目に遭ってるなら、私はあいつに立ち向かわなければいけない」

セレナは倒れそうなハヤトに寄り添いながらりんかに問う。
「……いいんですね?」
「つらそうな顔をしてるあなたたちを、放って置けないから」
「ありがとう、……ごめんなさい」
セレナは、悲しそうな笑みを浮かべた。


「待ってよ」

516灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:35:44 ID:jXt43Nfk0
唐突に、絞り出すような懇願するような声がその場を刺す。
「ーー!?」
みな一斉にそちらを向く。


「やめてって言ったでしょーー」
言葉の主は、紗奈だった。

「もうボロボロのりんかなんて、見たくないよッッ!!」

紗奈は、慟哭混じりに叫んだ。


他の三人は困惑した顔で紗奈を見た。
「紗奈ちゃん……」

「わたしは、いやだからね」

その目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「どうして、りんかは自分を痛めつけてまで関係ない人をたすけるの……っ、……いつも、いつも、そればっかり……ほかのひとなんて、どうでもいいから……わたしには、りんかしか、……りんかしか……」

やがて言葉は嗚咽に変わり、言葉は言葉でなくなった。

「りんかが行くなら……わたしも、連れて行ってよ……っっ、いっしょに戦うから、悪いやつらをやっつけるから……っ」
辛そうに紗奈を見ていたりんかは、彼女をそっと抱きしめた。

「紗奈ちゃん、ごめんね……紗奈ちゃん……私、紗奈ちゃんのこと、全然考えてなかった……」
優しくしたかった抱きしめる腕が無意識に強くなっていた。
りんかの目からも涙が落ちる。

ハヤトはそれを苦しい心持ちで見ていた。
自分がこの子達を見つけなかったら。
こんな事に無理やり巻き込まなかったら。
悲しませるようなことはなかったかもしれないのに。
せっかく生まれた希望の灯火が、罪悪感で消えてゆく。

そんな時、抱き合うりんかたちにセレナが歩み寄り、


ぽふっ、と、りんかとセレナをさらに抱きしめた。


「えっ」

驚くハヤト。
みな、セレナに意識が向く。

「えっ」

泣くのをやめ、呆然とするりんかと紗奈。


身を寄せ合ったままの二人にセレナは目線を合わせる。
そしてにぃーっと笑いかけ、もふもふの両手の平を差し出す。

「りんかちゃん、紗奈ちゃん。私の手、触ります?」
「この状況で?!」
「まぁまぁ。けっこうモフモフしてるんですよ」

差し出されるセレナの両手。
それを困惑見るりんかと紗奈。

517灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:35:58 ID:jXt43Nfk0
ふと、りんかは、セレナのモフモフの手を見ながら妙にウズウズしている紗奈に気づく。
「……紗奈ちゃん」
りんかに呼びかけられた紗奈はぴくりと身体を震わせるが、りんかがこっそり紗奈に耳打ちする。
「先に触ってもいいよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」

紗奈は涙を拭い、おそるおそるセレナの右手のひらに触れ、ふわふわの感触を確かめる。
「わっ……」
つい言葉が漏れた。もう少し手を撫でてみる。ふわふわしている。

セレナの手をまんざらでもなく撫で続ける紗奈の隣で、
「あの、セレナさん……私もモフっていいかな?」
「いいですよ」
照れ気味なりんかの前に、空いている方のセレナの手が差し出される。
ゆっくりと、りんかは優しくセレナの毛に覆われた手に触れ、手のひらの肉球をそっと押す。
ふわふわしている。

毛皮に覆われた手をモフりながら、思わずりんかがへにゃりと笑う。
「なんかいいね……」
「えへへ」
照れるセレナ。

一方、取り残されたハヤトは居心地の悪さを感じていたが、そんなハヤトにセレナが声をかける。
「ハヤトさんもいいですよ」
そう言われ、ハヤトは少し思案し、
「でも両手は埋まってるだろ……」
「頭と首のもふもふは残ってます!」
「そ、そうか……」
ハヤトも参戦し、ためらいがちにセレナの頭と首を優しくモフる。

日が照り、潮風が吹き付ける中、3人はセレナのふわふわの毛皮を堪能していた。
りんかと紗奈の涙は、いつのまにか乾いていた。





518灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:36:10 ID:jXt43Nfk0
「まず、俺が先に牧師と会って話す」

治療キットで傷を癒やし、恩赦ptで購入した食糧を2人に食べさせた後、改めてハヤトはそう告げた。

ハヤトが続ける。
「港湾の管理棟にルーサー・キングーー『牧師』がいる。オレとセレナが先に中に入って牧師と話すから、りんかと紗奈は外で待っていて欲しい。危なくなったら合図を出すがーー本当に、いいんだな?」
「わかった。……紗奈ちゃんも、それでいいね?」
「りんかが戦うなら、私も戦うよ」
りんかも紗奈も、覚悟を持ってハヤトの話に頷いた。
りんかと同じく、紗奈も変身して戦えるということをハヤトとセレナは共有していた。


「ハヤトさん。牧師に会う時は、私もついていきます」
セレナが言う。
「ダメだ。セレナの身に何かあったらじゃ遅い」
「私も、りんかさんたちみたいに、ハヤトさんの助けになりたいんです」

ハヤトとセレナはもはや一連托生だった。
ハヤトがセレナを気にかけると同時に、セレナもまた、ハヤトの力になりたいのだ。
「……いつも、ごめんな」
「役に立ちます。ーー必ず」
セレナの献身に、ハヤトはいつも救われていた。

ハヤトは一呼吸置き、


「オレがおまえたちに言ったこと、これからやることも、全部俺の独断だ。オレが牧師相手にヤバくなった時、お前たちは責任を負わず逃げ出しても構わない」
「……そんなことはしないよ」
りんかが微笑む。

「言っておくけど」
紗奈が口を開く。
「食糧をくれて、りんかを治してくれたのはすごく感謝してる。でも、私はあくまでりんかが大事。あなた達じゃなくて、りんかのために戦うから」
「それで、大丈夫だ」
「りんかに危険が及ぶような事をしたら、承知しないからね」
「紗奈ちゃん……ありがとう」
りんかの言葉に紗奈は目を逸らす。
「……りんかのためよ」


「話が無事に終わればあんた達は出なくていい。だが、俺に何かあったらーー外に向けて合図はする。これでいいな?」

ハヤトの言葉に、りんかと紗奈、セレナ共にーー無言で頷いた。





519灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:36:22 ID:jXt43Nfk0
『牧師』ーールーサー・キングは、管理棟の窓からハヤトたち4人の様子を伺っていた。
葉巻を吸い、ゆったりと紫煙をくゆらせる。
今吸っている葉巻もだいぶ火が回り、炭くずの部分が多くなった。
次を出そうと葉巻の入った缶を確認するが、

「……次で最後か」

調子に乗って吸いすぎたらしい。
まぁこんなクソみたいな刑務作業では、ストレスが溜まり吸わずにいられないのも当たり前だ。
ギャルから頂戴した煙草は、安物だが味は悪くない。
刑務が終わるまであれで我慢するか。


この刑務作業の最中、キングは次々と読みを外した。
一度相対したドンの死。
利用できそうだったディビットと王子の逃走を許したこと。
港湾に来るのは叶苗とアイと思っていたが、それも違った。

葉月りんかと交尾紗奈。
娑婆にいた頃、名前と姿だけは見聞きしていた存在。

ハヤト=ミナセは自分にとって使えない駒だろう、というのは読めていた。
キングの考えでは、少女二人を逃しーーハヤトもまたセレナを連れてさっさと逃げてしまうだろう。
そう考えていた。
だが、ハヤトはこれからここに来る。
自分に戦いを挑むつもりで。


苛立ちはあった。
だが、それ以上に楽しさが勝った。
キング自身が幼い頃に捨てた、善性と青臭さをあの男は持っていた。
それが妙にキングをそわそわさせ、苛立たせ、この先に妙な期待をしてしまう。
何も持たないはずのあの男は、次に何をしてくれるんだろうか、と。


外にいる4人組が、次第にこちらに近づいてくる。
キングは窓から己の両拳に目を落とし、鋼鉄をグローブ状に手を覆い、開いては閉じてを繰り返してみる。
かつて若いころ、ドブ底から這いあがろうと懸命に生きていた頃を思い出していた。


葉月りんか。交尾紗奈。
りんかの変身姿は知っていたが、紗奈も変身できるのは予想外だった。
それでもキングは動じない。
相手にとって不足はない。


「ハハッ」

大きな手で顔を覆い、笑う。
「老体に鞭打つ羽目になるとはなァ……」
その声に、悲壮感も苛立ちもなかった。
自分もそろそろ腹を括る時か、とキングは思う。

キングの座っている場所から少しずつ細い線と波のような鋼鉄が生まれ、管理棟の床や壁、天井へと広がっていく。
やがて鋼鉄の網は建物の内部全体を覆い、管理棟を鋼鉄の館へ変えた。

「ーーさて」
これで準備は完了した。
キングは己の纏うスーツを整え、この後の来客を待つ。





【B-2/港湾(管理棟)/一日目・午前】
【ルーサー・キング】
[状態]:健康、苛立ちと楽しさ、臨戦態勢
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1(あと一本)、タバコ(1箱)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました
※ギャル・ギュネス・ギョローレンが購入した物資を譲渡されました(好きな衣服、煙草一箱、食料)

520灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:36:34 ID:jXt43Nfk0




「紗奈ちゃん」
「なによ」

管理棟へと向かっている最中、先導していたハヤトが、ふいに紗奈に呼びかけた。
ぶっきらぼうに返事する紗奈に、ハヤトは続ける。

「何かあったら、オレたちを頼れよ」
「言っておくけど私、あなたたちより強いから」
「それでも、だ」
「……好きにしたら」

歩いている間に、小さい建物が見えてくる。
どうやらあれが管理棟らしい。

ハヤトがここに止まり、3人に振り向く。
「二人はここで待っていてくれ」
りんかが心配げな表情で、ハヤトとセレナを見つめる。
「……気をつけてね」
「そのつもりだ」

「紗奈ちゃんも、りんかさんのことよろしくね」
別れ際、セレナが紗奈と目線を合わせ、対面する。
「……あなた達こそ、りんかを辛い目に遭わせないでよ」
「仲間になったんだから、そのつもりですよ」
紗奈は微笑むセレナを睨む。
食糧をもらい、毛皮は堪能させてもらったが、紗奈は彼女が苦手だった。
「紗奈ちゃんは、りんかさんの事をずっと護ってきたんですね」
「……そう。だから、あなた達なんて本当はどうでもいいの」

りんかは困っている人を助ける正義の味方だ。
けれど自分は違う。
りんかを護れれば、自分はそれでいい。

紗奈は目を細めてセレナの目を見る。
澄んだ優しい色の瞳。
「紗奈ちゃん」
セレナが口を開く。
「紗奈ちゃんが、りんかさんにとってのヒーローであるように。ーーぜんぶ終わった後、わたし達はあなたにとってのヒーローになれてるといいな」
「…………」
紗奈は、何も言わなかった。

「りんかさん!」
ふいに、セレナがりんかに向き直る。
「セレナちゃん……!?」
突然呼ばれ驚くりんかに、

「ついてきてくれて……ありがとうっ!!」
晴れやかな笑みで、セレナは言った。


りんかと紗奈は、ハヤトとセレナを見送った。
管理棟へと歩んでいく2人の背がだんだん遠のいていく。
それを見送りながらりんかと紗奈は変身し、臨戦体制になる。
変身した後、寄り添い、そっと、だけど確かに手を握る。
管理棟を見ながら、しばらくそうしていた。


「紗奈ちゃん。巻き込んじゃってごめんね」
「いいの。りんかがいれば」
「……絶対、全員で生き残ろうね」
りんかが言う。
紗奈はりんかの肩によりかかり、こくりと頷いた。



(ヒーロー、か……)

紗奈はセレナの言っていたことを思い出す。
りんかの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。

521灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:36:47 ID:jXt43Nfk0



ドアの前。

さっきまで絶望していたのが、今は妙に元気が湧いてくる。
あの牧師に会おうとしていてもだ。
なぜか希望が心を照らす。

精神的なものだけではなかった。
実際オレ自身の肉体も、妙に力がみなぎっていた。
「セレナ……」
セレナもまた、オレと同じようだった。

りんかと紗奈と出会ったことがオレたちに何かいいものを齎したのか?
どちらかの超力の影響でこうなっているのか?
だが、今はそれはどうでもよかった。

オレたちは管理棟のドアの前に立つ。
恐怖を感じないわけではなかった。
だが、それ以上に手を差し伸べてくれたりんかたちに、仁義を通したかった。

「ハヤトさん」

オレがドアノブに手をかけた時だった。

「勝ちましょう。牧師に」
「ーーあぁ」

セレナとお互い頷き合い、オレはゆっくりとドアを開けた。



わたしが勇気を持てたのは、あなたが希望をくれたから。
ほんの少し芽生えた希望を、失いたくない。

りんかさん。紗奈ちゃん。ーーハヤトさん。


どうか、勝って。



522灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:37:02 ID:jXt43Nfk0
【セレナ・ラグルス】
[状態]:背中と太腿に刺し傷(治療キットによりほぼ完治)、ほんの少しの希望(りんかのエターナル・ホープの影響)
[道具]:流れ星のアクササリー、タオル、フレゼアの首輪(P取得済み)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:死ぬのも殺されるのも嫌。刑期は我慢。
1.ハヤトに同行する。どこまでも、ついていく。
2.生きて帰れたら、ハヤトと友人になる。

※ハヤトに与えられている刑務作業での役割について、ある程度理解しました。
※流れ星のアクセサリーには、高周波音と共に音楽を流す機能があります。
 獣人や、小さい子供には高周波音が聴こえるかもしれません。
 他にも製作者が付けた変な機能があるかもしれません。

※流れ星のアクセサリーには他人の超力を吸収して保存する機能があるようです。
 吸収条件や吸収した後の用途は不明です。
 現在のところ、下記のキャラクターの超力が保存されています。
 『フレゼア・フランベルジェ』

※りんかの『エターナル・ホープ』の影響で、肉体と精神にバフ(小)がかかっています。


【B-2/港湾(管理棟)/一日目・午前】
【ハヤト=ミナセ】
[状態]:多大な精神的疲弊、疲労(小)、全身に軽い火傷、ほんの少しの希望(りんかのエターナル・ホープの影響)
[道具]:「システムA」機能付きの枷
[恩赦P]:10pt(-食料10pt×2)
[方針]
基本:生存を最優先に、看守側の指示に従う?
0.りんかと紗奈に筋を通し、ルーサーと対峙する。
1.セレナと共に行く。自分の納得を貫きたい。
2.『アイアン』のリーダーにはオトシマエをつける?
※放送を待たず、会場内の死体の位置情報がリアルタイムでデジタルウォッチに入ります。
 積極的に刑務作業を行う「ジョーカー」の役割ではなく、会場内での死体の状態を確認する「ハイエナ」の役割です。
※自身が付けていた枷の「システムA」を起動する権利があります。
 起動時間は10分間です。
※りんかの『エターナル・ホープ』の影響で、肉体と精神にバフ(小)がかかっています。



【葉月 りんか】
[状態]:食糧と水をもらい乾きを回復、疲労(中)、腹部に打撲痕と背中に刺し傷(治療キットにより中程度まで回復)、ダメージ回復中、紗奈に対する信頼、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。
0.ハヤトとセレナを気に掛けつつも、戦いの覚悟。
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。


【交尾 紗奈】
[状態]:食糧と水で乾きを回復、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかへの依存、ヒーローへの迷い、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
0.りんかのために戦う。でも、それだけでいいのかな……
1.新たに得た力でりんかを守りたい
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。
※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。

523灯火、それぞれに ◇8vsrNo4uC6 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:37:18 ID:jXt43Nfk0
代理投下完了です

524 ◆H3bky6/SCY:2025/06/25(水) 20:45:40 ID:jXt43Nfk0
改めまして投下乙でした

>灯火、それぞれに

カチコミじゃあああっ!!!
この状況でも相手の助けを買って出れるりんかがヒーロー気質すぎる
その無茶を涙を流して止める紗奈が完全にヒロイン

直接港湾に向かうのではなく、ハヤトが間に挟まったのは僥倖だった、ある意味ではキングの采配に感謝である
ボロボロの2人に必要だった治療キッドを持ってるのもラッキーだったし、治療キッドを使い果たし、恩赦Pまでつかって食料を分け与えるハヤトも大概お人よし
しかし、マフィアのボスから指示を無視して少女を逃がそうとするチンピラ、ヤクザ映画なら完全に死亡フラグなムーブをしておる
セレナをもふる3人という癒しの構図、アビスにもセラピードックの王ちゃんがいるように、獣人系の癒し効果は証明されているこの世界

キングは思った以上にハヤトの事を気に入っていたのね
確かにあんまり策略が上手くいっていないけれど、それでも格は損なわれていないのは流石
4人の少年少女がボスにカチコみ、チーム戦ならりんかのバフ能力も生かされそう
もうじきジルジャンヌも来るだろうし確実な混沌が待ってるぜ

525 ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:04:00 ID:zLfuLyRo0
投下します。

526Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:04:45 ID:zLfuLyRo0



『ねー、かなちゃん』

 お姉ちゃんが、私に話しかけてくる。
 叶苗、縮めて”かなちゃん“。
 お気に入りの呼び名だった。

『かなちゃんはさ。アイドルとかって聴く?』

 休日のリビングにて、ソファの上でくつろぐお姉ちゃん。
 お姉ちゃんの膝の上で、猫みたいにぐでっと伸びる私。
 なんてことのない、ゆるやかなひと時が流れていたけれど。
 ふいに問われた質問に対して、私は少しだけ考え込む。

『んー……あんまり』
『そんな好きじゃない?』
『わたしみたいな女の子、いないしなぁ』

 私はほんのりと寂しさを覚えるような気持ちで、そう答えた。
 世間ではアイドルが人気らしいけれど、私はあまり興味がなかった。
 きっと私みたいな亜人の娘はいないだろうと思っていたから。

 まだ9歳だった頃の私は、自分の姿に折り合いを付けられていなかった。
 今となっては、もう吹っ切れているけれど。
 家族の中で自分だけがヒトの姿じゃないことを、あの頃の私は気に病んでいた。
 お父さん、お母さん、お兄ちゃん、そしてお姉ちゃん。
 家族みんな、私のありのままを愛してくれたけれど――それでもあの日の私は、まだ幼かったのだ。

『じゃあかなちゃんが第一号なっちゃえば?』
『なんでそーなるの』
『可愛いもんねぇ、かなちゃん』

 だからあの日のお姉ちゃんも、あっけらかんとした笑顔でそう言ってくれた。
 私はなんとも言えぬ気持ちになりつつ、けれど満更でもない様子ではにかむ。
 自分の姿に思うことはあるけれど、それでもやっぱり家族のことは好きだった。

527Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:06:15 ID:zLfuLyRo0

 お姉ちゃんは、アイドルが好きだった。
 今の時代、アイドルというものは隆盛を極めているらしかった。

 開闢の日を経て、世界中で治安が悪くなったり、未来の先行きが不透明になっている中。
 世界的に見ても安定した発展を遂げている日本では、そういった閉塞感を吹き飛ばしてくれるカルチャーが流行っているそうだ。
 キラキラしたアイドルはまさにその筆頭だった。今や日本の芸能界はアイドル戦国時代らしい。
 ――SNSで聞き齧った話である。

『ほれ、かなちゃん。聴いてみな』
『みゃー』

 お姉ちゃんから亜人専用の骨伝導ヘッドホンを差し出される私。
 私は変な唸り声をあげて「つけてー」と訴えかける。
 その意図をすぐに察してくれたお姉ちゃんが、いそいそとヘアバンドのようなヘッドホンを付けてくれる。

 ――いつだって どこに居たって 頑張ってる君へ伝えたいよ――♪
 ――私がいること ここにいるって この歌にのせて――♪

 お姉ちゃんのスマホを通じて流れる、アイドルの楽曲。
 ヘッドホン越しに届けられる、希望に満ちた願いの歌。
 すごく有名な曲らしいけれど、私は教科書くらいでしか知らなくて。
 けれどお姉ちゃんは、このアイドルの大ファンらしかった。

『私の最推し、ひかりちゃんの歌!もう引退しちゃったけどねぇ』

 お姉ちゃんは、にこにこしながら。
 けれどちょっぴり寂しそうにそう言ってた。

 例え今日が上手くいかなくて、嫌になることがあっても――。
 私はキミが頑張っていることを、いつだって知っている――。
 だから私は、この想いをキミに届けたい――。
 
 そんなフレーズが、肌を通じて響いてくる。
 あの日の私は、ただ静かに聞き入っていた。
 お姉ちゃんの温もりを、その身に感じながら。
 慈しさに満ちた歌が、私の心にすっと寄り添ってくれる。

 私は、お姉ちゃんの好きな曲を聴いて。
 お姉ちゃんの膝の上で、ただぼんやりと安らぐ。
 そんな私を、お姉ちゃんが優しく見守ってくれる。

 ――――何もかもが、遠い日の記憶だ。
 ――――今ではもう、私は“孤独”だから。


 私の想いは、きっと家族のみんなには届かない。
 だって私は、復讐というものに身を捧げたから。
 こうしなければ、自分自身にけじめを付けられなかった。
 けれど、きっと。私はもう、天国に行く資格も失ったのだろう。
 血に濡れた手を伸ばしたところで、お姉ちゃん達は喜んではくれない。
 そんな気がしてならなかった。
 



528Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:07:34 ID:zLfuLyRo0



 C-7、廃墟の東部。
 緩やかに青空へと昇り始めた太陽。
 朝の光が線を引くように、窓から静かに射す。
 民家に留まる四人は、微睡むような時間を過ごす。

 鑑 日月は、窓の外を眺めていた。
 緩やかに動き出す時の中、青空を見上げながら物思いに耽っていた。
 周囲への警戒を怠ることはない――共に過ごす面々にさえも、彼女は気を許さなかった。

 ちらりと、日月は視線を動かした。
 気持ちを落ち着かせた様子で壁に寄り掛かって座り込む氷藤 叶苗。
 そんな彼女に寄り添うように身体を擦り寄せるアイ。
 そして、叶苗達を見守るようにリビングの椅子に腰掛ける――氷月 蓮。

 当面の安全と安息を目的に、日月たち四人はこの民家で寄り合っていた。

 気にしなければいい、さっさと見放せばいい――ふいに日月は思いを巡らせた。
 氷月に叶苗達を押し付けて、この場から離れれば良いだけのこと。
 そうすればわざわざ気負う理由も、警戒して気を張り続ける必要もなくなる。

 しかし日月は、この場から離れることを躊躇い続ける。
 氷月の思惑が読み切れず、彼が日月の離脱を許すのかさえ判断できないからだ。
 もしも氷月が何か思惑を抱えて、自分達に危害を加える意図があるとすれば――こちらが単独になった瞬間を狙う可能性も否定できない。
 既に彼は叶苗とアイの信頼を得ている。この場で自由に動くための土壌を敷いているのだ。

 それに――――何よりも。
 日月は、この場を離れる気になれなかった。

 脳裏をよぎるのは、あの聖なる偶像の姿。
 自分に叶苗達を託した、あの眩い少女の微笑み。
 “あなたは親切な人ですから”。
 彼女の言葉が、脳裏に焼き付いていた。
 炎の聖女は、日月を信頼して。
 日月へと、心からの感謝を手向けてくれた。

 日月の胸の内が掻き毟られる。
 苛立ちと憎しみが込み上げてきて。
 それからふっと、満たされるような感情が押し寄せる。

 言い表せない感情が渦巻いて、日月の心は雁字搦めにされる。
 その想いの意味を、彼女自身も咀嚼しきれない。
 確かなのは、日月はあの“太陽のような偶像”から託されたということだった。
 
 だから。今はまだ、日月は。
 ここを離れる気にはなれなかった。

 ふいに日月は、視線を感じた。
 むず痒くなるような感覚を抱いて。
 視線の主を、日月はふっと流し見た。

「あの……日月さん」

 叶苗が日月を見つめながら、呼びかけていた。

529Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:08:37 ID:zLfuLyRo0
 くりっとした両目が、日月へと向けられている。
 彼女の顔をまじまじと見つめて確かめるように、叶苗は目を凝らす。

「そういえば……」

 今更なんですけど、と付け加えつつ。
 叶苗は言葉を紡ぎながら、日月を凝視し続ける。

「もしかして……」

 ユキヒョウの亜人である叶苗の目付きは、猫を思わせるような愛嬌を讃えている。
 そんな瞳に見つめられたことで、日月は何とも言えぬむず痒さを感じてしまったが。

「“あの”鑑 日月さん、ですか?」
「えっ?」

 叶苗からの思わぬ問いかけに、日月はきょとんとする。
 今さら聞かれたような質問に、呆けたような反応を返してしまった。
 “あの”鑑日月。何処か引っかかるような、奇妙な表現だった。
 それはどういう意味なのかと、日月が問い質そうとした。 

「いや……」

 そんな日月の心情を察したように、叶苗は何とも言えぬ様子で言葉を紡ぐ。
 今この状況で、こんな話をしてもいいのだろうか――そんなささやかな迷いを抱くように。
 それからおずおずと叶苗は、その口を開いた。

「テレビに出てましたよね」

 叶苗からそう言われて。
 日月は思わず、目を丸くした。

「すごく人気のあるアイドルだって……」

 かつて家族を殺されて、復讐に身を委ねていた叶苗。
 そんな日々の中で心身をすり減らし、時に束の間の逃避へと走ることもあった。
 孤独な部屋で、気を紛らわせるためにテレビを付ける日も少なくなかった。
 他愛もない番組が垂れ流される中で、彼女の姿を見たことをふいに思い出したのだ。

 アイドルの番組を、叶苗は時おり見ていた。
 けれど辛いときは、避けることもあった。
 姉の面影に触れられることは、安らぎにも悲しみにも繋がった。

 そして日月は、呆気に取られたような反応をする。
 ――世界各地から犯罪者が集められた、地の底の監獄。
 そんな場所に半年も放り込まれて、他の犯罪者との関わりも避けていたが故に、日月は些細なことを見落としていた。
 少なくとも日本において、自分は“けっこうな有名人”なのだという、とてもささやかな事実を。

 氷月蓮は、アイと共に叶苗と日月のやり取りを見守っている。
 ほんの少しだけ、意外そうな様子をその顔に浮かべていた。
 それは動揺と言えるほどのものではないけれど。
 それでも少なくとも、日月が何者であるのかを彼が初めて知ったことの証左だった。

「……うん。その鑑 日月」

 そして日月は、こくりと頷く。
 “開闢の日”という大事件より以前に起きた氷月の犯行を、ネイティブ世代の日月たちが知らなかったのと同じように。
 “開闢の日”以前に表社会との関わりを断たれた氷月にとっても、日月のパーソナリティは未知のものである。

 “開闢の日”の前後、変革に怯える大衆の灯火となるように幕を開けた“第二次アイドル戦国時代”。
 GPAの存在によって米国と共に発展・繁栄を続けた日本だからこそ巻き起こった、芸能界のムーブメント。

 その黎明期の頂点に君臨していた伝説のアイドルたち、“美空ひかり”や“TSUKINO”の再来と評された大型新人。
 ソロアイドルとして鮮烈にデビューして以来、その美貌と才能によって破竹の勢いで台頭した超新星。

 ――――それこそが“鑑 日月”である。




530Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:09:50 ID:zLfuLyRo0



 ある日の、何気ない帰り道。
 とある“組の親分”との一時を過ごして。
 気の抜けた身体を押すように、駅へと向かっていた矢先。

『お願いします』
『は?』

 きらびやかな繁華街の路地にて。
 真面目そうなスーツ姿の男から、名刺を差し出されていた。

『どうか、お話だけでも聞いて頂けませんか』

 男はひどく謙虚な態度で、深々と頭を下げる。
 礼儀正しいのに、名刺だけは堂々と突き出している。
 両手に取った小さな紙切れを、私に向けている。

『いや……何?』
『私の名刺です。どうぞ』

 そんなことは分かってるわよ、と。
 思わず喉から吐き出しかけた私だったけれど。

『一目見た時からピンと来たんです』

 男は顔を上げて、私をじっと見つめながら言ってくる。
 その眼には、真っ直ぐな期待が宿っている。
 天使か何かを見つけたように、男は私へと眼差しを向けてくる。

 ――男達の下卑た欲望や、醜い情動。 
 これまでの人生で、私が散々目にしてきたもの。
 これまでの道程で、私が選び取ったもの。
 そうしたものとは、まるで違う想いが宿っている。

 眼の前のスーツ姿の男は、こちらを見つめ続けている。
 私に対する眩い確信と、感激にも似た意志が向けられている。 

『あなたは、輝いている』

 その男は、私にそう告げてきた。
 呆気に取られたまま、私は言葉を失っていた。
 けれど男は、尚も変わらずに私をじっと見つめて。
 それから一呼吸を置いて、彼は伝えてきた。


『私は、あなたをスカウトします』


 色々な男に取り入って、雁字搦めになってきたけれど。
 道端で口説かれて、自分から男に捕まるのは、その日が最初で最後だった。
 それが鑑日月というアイドルの、始まりだった。




531Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:10:42 ID:zLfuLyRo0



 ――周囲の気配は確認済み。
 ――侵入者が現れた場合の仕掛けも設置済み。
 ――もしもの際の逃走経路も確保済み。
 ――叶苗の第六感や、アイの嗅覚で、不測の事態にも備えている。

 一先ず問題なし、と四人は確かめた。
 少しばかりの余興に走っても、有事のための備えはある。
 故に彼女達は“それ”を始めることにした。

 リビングに、小さな台座が置かれていた。
 家屋内の物置部屋から適当に拝借したものだ。
 その上に佇むのは、他でもない鑑日月である。

「…………日月さん、あの」
「…………何よ」
「…………嫌だったら言ってくださいね」
「…………うるさい。アイドルなめんな」

 叶苗の気遣いに対し、日月はそう吐き捨てる。
 なあなあでこんな状況になったが、もう引くに引けない気持ちになっていた。

 台座の周りには、三人が腰掛けている。
 ちょこんと座って、膝にアイを抱える叶苗。
 叶苗に緩やかに抱えられ、きょとんとした顔を見せるアイ。
 肩の力を抜いて胡座を掻きながらも、どこか気品を漂わせる氷月。
 彼女達は台座の前に座り、日月を見上げていた。

 一体、何が始まるというのか。
 その答えは簡単――――ミニライブである。

 鑑日月がアイドルであることに叶苗が気付き。
 氷月も交えて、何気なく日月について話が始まり。
 それからふいに氷月が提案したのである。
 ――君の歌を聴かせて貰えないかな、と。

 なし崩し的に話は進み、気が付けばささやかなライブが始まることになっていた。
 無論、周囲の警戒や注意を払うことは前提として。

「あう、あう」
「ほら。アイも楽しみにしているみたいだ」
「なんか鳴いてるだけでしょ」

 微笑む氷月の小言に対し、日月は適当にあしらいつつ。
 それから――ふぅ、と深呼吸をする。

 台座が用意され、三人だけの観客が客席に腰掛け。
 そうしてアイドルの歌を、彼女達が待ちわびている。
 彼女達に応えるために、こんな地の底で小さな舞台の上に立っている。

 奇妙な感情が、日月の胸に込み上げてくる。
 いつぶりだろう。こうやってステージに立つのは。
 逮捕されて以来、一度も歌うことなんてなかった。
 あのステージの輝きは、日に日に遠ざかっていた。

 それでも、記憶の奥底から。
 あの鮮明な情景は、焼き付いて消えなかった。
 日月が焦がれた光は、いつまでも日月の心を照らしていた。

 愛おしい輝きが、日月の心を癒やし続けて。
 そして、日月の魂を灼き続けていた。

 感情がない混ぜになって、雁字搦めになる。
 地に足が付いていないような浮遊感が、心を蝕んでいる。
 それでも、日月は――――このささやかな舞台の上に、酷く懐かしさを覚えていて。
 胸が張り裂けるよう想いに、駆り立てられていた。

 すぅ、と息を吸った。

 歌うのは、本当に久しぶりで。
 舞台に上に立つのは、いつぶりかも分からない。
 ほんの小さな、ちっぽけなステージ。
 それでも鑑日月にとって、この台座の上は。
 彼女が恋い焦がれてきた、アイドルとしての踊り場だった。




532Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:11:58 ID:zLfuLyRo0



 在りし日の記憶。
 在りし日の歓喜。
 在りし日の孤独。

 渚色、わたしの瞳。
 ゆらり動く景色を映し出す。
 スタッフが忙しなく行き交う中。
 ハートの声が響き続ける。

 ステージの真下。
 本番と共にせり上がる台座。
 そのうえで、私は忽然と佇む。

 じきに、ライブが始まる。
 華やかな舞台の下、ささやかな空間の中。
 仄暗い闇の中でじっと待ち続ける、静かなる一時。
 男と寝た後の静寂よりも、ずっと心地よくて。
 これから訪れる高揚を前に、胸が高鳴っていく。

 アイドル、鏡日月。
 超新星。大型新人。
 数十年に一度の逸材。
 伝説の少女達の再来。
 彗星のごとく現れたヒロイン。

 みんな、私をそんなふうに称賛する。
 清廉潔白。才色兼備。完璧なアイドル。
 私のことを、誰もが持て囃してくれる。
 あの輝きの中で、私は眩い星になっている。

 結局のところ、私は。
 掃き溜めの魔女でしかない。
 だというのに。そう思っているのに。
 ステージが、私の心を捕らえ続けている。

 だから私は、今もここにいる。
 この興奮と歓喜を、手放したくないから。
 アイドルという希望に、私は灼かれているから。

 ――――本番5秒前。
 スタッフが、開幕の合図を告げる。

 楽曲の前奏が、流れ始める。
 往年のシティ・ポップをオマージュした旋律。
 レトロとモダンが手を取り合う、お洒落なサウンド。
 私が手にしたもの。私が得た、掛け替えのない音楽。

 私は気を引き締める。
 息を呑んで、待ち構える。
 そうして私は、微笑みを浮かべる。
 此処に立てる歓びを、ただ噛みしめる。

 私は、光と影を背負う。
 孤独(Loneliness)は止められない。
 それでも、強がりで奮い立つ。


『じゃ――――いってきます!』


 鏡日月。
 私は、アイドルだから。




533Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:13:43 ID:zLfuLyRo0



 ――――静寂が、その場を包んでいた。

 日月の意識が、再び刑務へと戻される。
 気が付けば彼女は、虚空を見つめていた。
 一息をついて、呆然と宙を見上げていた。

 何もない壁。何もない天井。
 ただの木造で形作られた、単なる民家の内装。
 適当な台座を使った、即席のライブ会場。
 輝かしいステージとはまるで違う、辺鄙な舞台なのに。
 それでも日月はこの場にて、ライトの光を幻視していた。

 たった一曲。歌い慣れた持ち歌。
 それを披露するだけの、4分足らずのライブ。
 会場は孤島の廃墟。観客は三人ぽっち。
 場末の営業よりも、余程ちっぽけな舞台。

 ただ、それだけでしかないのに。
 歌い終えた日月の胸中には。
 言いようのない満足感が込み上げていた。

 閉塞と、挫折感。苛立ちと、遣る瀬無さ。
 アビスに収監されてから、日月は乾き続けていた。
 何もかもが終わってしまった悲しみを、荒んだ顔に讃えることしか出来なかった。
 もう二度と、あの光を取り戻すことは出来ない。
 抑えきれない飢えに苛まれて、ただ“これが運命だった”と割り切ることしか出来なかった。

 この刑務は、最後のチャンスだと言うのに。
 それでも、鬱屈ばかりが、積み重なっていた。
 自分は紛い物でしかないという実感だけが、日月を蝕んでいた。

 だからこそ。
 いま、この瞬間に。
 久しい歓びを感じていた。

 叶苗も。アイも。氷月も。
 この場にいる皆が、日月を見つめていた。
 それぞれの感情を抱えながらも。
 鏡日月という少女の輝きが目に焼き付いていたことだけは、確かな事実だった。

 ぱち、ぱちぱち、ぱちぱちぱち――。
 沈黙していた叶苗が、やがて拍手を始めた。
 その瞳に仄かな感激を宿しながら、彼女は日月のライブを称えていた。

「よかった……よかったです!」

 拍手を終えた叶苗が、明るい声色で伝える。

「すっごい、素敵だった……!」

 氷月に懐柔されていた時とは、また違う表情だった。
 心から感動し、無意識のうちに癒やされるように。
 叶苗は口元を微笑みに綻ばせて、日月にそう言った。

534Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:14:30 ID:zLfuLyRo0

 叶苗に抱えられるアイも、日月をじっと見上げていた。
 アイドルという文化を知らずとも――何か心惹かれるものがあったように。
 ライブを聞き届けて、アイは好奇心を抱くように日月を見つめていた。

 氷月は――ただ静かに、微笑みを口に浮かべている。
 相変わらず、その真意を読み取ることは出来ない。
 けれど今の日月にとっては、それよりも重要なことがあった。


「……ありがとう」


 日月は、ぽつりと呟いた。
 客席からの反応を前にして。
 彼女はただ、唖然としながら。
 けれど、久しい充足を感じながら。


「――――聴いてくれて、ありがとう……」


 その目を仄かに輝かせて、日月は言葉を紡いだ。
 嬉しい。そんな想いが、ふつふつと込み上げていた。
 だって、アイドルとしての自分を見てくれたのだから。
 全てを失った自分を、アイドルとして見つめてくれた。
 鑑日月の歌を、受け取ってくれた――――。

 それは日月にとって、安らぎであり、癒やしだった。
 光と影の軋轢に苛まれ、苦しみ続けながらも。
 それでも日月にとって、それを感じることだけが救いだった。
 自分は孤独じゃないという証が、日月にとっての慰めだった。

 そして、日月は。
 自らの願いを、改めて自覚する。

 ああ、やっぱり。
 自分は、アイドルが好きなのだと。
 これだけが、愛おしくて堪らないのだと。
 そのことを、静かに噛み締めていた――――。


「君は、今もアイドルで在り続けたい」


 不意に差し込まれた、氷月の言葉。
 穏やかに、柔らかに、静かな声で紡がれる。
 それは心地よさすら感じるほどなのに。


「そう思っているんだね」
 

 彼が呟いた言葉を前にして。
 日月は、呆然とした感情を浮かび上がらせた。
 叶苗は、ハッとしたように、目を丸くしていた。
 その視線が、氷月へと向けられていた。

 揺さぶるには、たった一言で十分だった。
 氷月はそれを分かっていたからこそ、敢えて投げ込んだ。
 既に叶苗とアイの信頼を得ているからこそ、彼は差し込んだのだ。

 鑑日月は、死刑囚であり。
 生きて帰るためには――夢を再び掴むためには。
 この刑務で、絶対に恩赦を得なければならない。

 つまり、日月には“殺す動機”がある。
 殺さねばならない、動機があるのだ。

 何かを吐き出そうとして。
 けれど言葉が喉を通らず。
 日月は、表情を落として沈黙した。
 自らに突きつけられた言葉に、動揺を抱いた。




535Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:15:21 ID:zLfuLyRo0



 叶苗とアイを懐柔していく中で、氷月は日月だけが自分の立ち回りを観察していることを見抜いていた。
 自身が仕組んだ“出来すぎた流れ”の異常性を察し、こちらの様子を伺っていることに気づいた。
 だからこそ氷月は、機を伺った。

 そして彼は、叶苗が何気なく気づいた事柄。
 日月がアイドルだったという話に踏み込んだ。

 好奇心からの人間観察も兼ねて、日月の反応を促した。
 その果てに氷月は、日月の核心を掴んだ。
 日月が抱える葛藤と鬱屈を、その言葉だけで揺さぶった。
 そうして日月の“誰かを殺す動機”を浮かび上がらせることで、叶苗達にも日月への疑心を植え付けた。

 鑑日月は、人を殺さなくてはならない。
 その事実を暗示させるだけで、十分だった。
 こうすることで日月を集団から孤立させることも、殺人へと誘導することも出来る。

 氷月蓮の“殺人”という目的。
 それは、自らの手で殺すだけに留まらない。
 彼は人を支配し、その心と行動を操る。
 裏で糸を操り、他者を暴力へと誘導することも容易い。

 ――疑心暗鬼からの同士討ちを誘発させ、生き残った者を最後に始末するか。
 ――“疑わしき者”である鑑日月を三人で排除し、叶苗とアイを完全に支配したうえで二人を殺害するか。
 ――先に叶苗かアイを殺害し、鑑日月を殺人犯へと仕立て上げるか。

 あるいは、他にも打つ手はあるか。
 今はじっくりと、チェスを愉しむことにしよう。

 氷月は虎視眈々と、現状を俯瞰し続ける。
 自らの殺戮の舞台を整えるべく、粛々と布石を敷く。
 彼は紛れもなく悪人であり、紛れもない殺人鬼である。

 生まれ持った“孤独”を意にも介さず。
 男は淡々と、自らのサガに従って動く。

536Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:16:03 ID:zLfuLyRo0
【C-7/廃墟東の民家/1日目・午前】

【氷月 蓮】
[状態]:健康
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.この集団の信頼を得る。
2.集団の中で殺人を行う。
3.殺人のために鑑日月を利用する。

【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.???
1.氷月を警戒。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。

【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(れんはきらいじゃない)

【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感、虚無感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.新しい生きる目的を得たい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月さんは、きっとアイドルで居続けたい。

※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
 以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。

[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。

537Ginger Root ◆A3H952TnBk:2025/06/26(木) 17:16:40 ID:zLfuLyRo0

 

 孤独(Loneliness)は終わらない。
 それでも、私は強がる。
 背伸びを続けて、立ち続ける。
 お別れを告げるのは。
 まだ、出来そうにない。




538名無しさん:2025/06/26(木) 17:17:13 ID:zLfuLyRo0
投下終了です。

539 ◆H3bky6/SCY:2025/06/26(木) 21:02:14 ID:KAOhRAOA0
投下乙です

>Ginger Root

孤独な少女たちをつなぐもの、叶苗の中にも輝くアイドルの思い出
懐かしのVRのアイドル達。あっ、あれは。美空ひかりちゃんの『届け!』じゃないか!?

身バレする日月、案外まんざらでもない反応である、まあ彼女にとってアイドルは大事だからね
アイドルという光を纏いながら、孤独という闇を背負ってきた彼女の真実
小さなステージで日月という人間の原点が浮かび上がる

そこで終わっていれば美しい話だったんだけど、それもすべて氷月の策略だったという
日月の望みをあえて言葉として突きつけることで利用する辺り余りにも悪質、人の心とかないんか?
完全に氷月が場をコントロールしている、このままこいつの思い通りになってしまうのか、対抗馬が欲しいが現状だと厳しいか

540 ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:47:06 ID:exqZfDUc0
投下します

541狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:47:49 ID:exqZfDUc0
ブラックペンタゴンのエントランスホールに、沈黙が落ちていた。

直前まで混沌と咆哮が支配していた空間は、まるで全ての音を呑み込んだように静まり返っている。
鋭く、痛みを孕んだ気配が空気を突き刺していた。
残されたのは、ただ『殺意』だけである。

向かい合うは、ストリートを支配する頂点が二つ。
破壊そのものを纏うストリートの『王』──ネイ・ローマン。
荒々しき獣性を纏うストリートの『女王』──スプリング・ローズ、あるいはその魂の残滓。

床をひたひたと這うように、殺気が濃度を増してゆく。
呼吸さえ妨げるような圧に満ち、鋭く、濃く、研ぎ澄まされていた。
それは猛獣が跳びかかる直前の、凶暴な静寂。
膨れ上がった殺意を恐れるようなまともな人間は、この場には誰一人としていない。

「────行くよ、ローズちゃん」

かすれた声と共に、本条が指を構える。
放たれる瞬間を待つように、世界から音が消えた。

回転するシリンダー。
『我喰・回転式魂銃(ナガン・リボルバー)』──人格を弾丸にする本条清彦の超力。

ローズの魂ごと籠められた弾丸が装填される。
この瞬間、劣化していた超力は消滅を代償として、生前をも超える純度となる。
最初で最後の完全解放。

ネイ・ローマンの顔には、かすかに笑みすら浮かんでいた。
光よりも速く、理性では認識できない速度で本能に衝突する『死』そのものの気配。

敵意には敵意を。
殺意には殺意を。
牙には、破壊で応じる。

思えば、ストリートに敵対してはならぬという不文律を打ち立てたローマンに、幾度も真正面から殺意を向けてきた相手はこの宿敵ただ一人だけだった。

久方ぶりに浴びるその純粋な殺意。
その感覚が、もはや心地よくすらあった。

「だが、それも終わりだなぁ。消えな────ローズ!!」

その声に応えるように、音をも超えて放たれたのは────真紅の閃光。
同時に、ローマンから赤黒の破壊意志が放たれる。
怒りも、誇りも、信念も、報いも、すべてを詰め込んだ衝撃が、獣の弾丸を迎え撃つ。

その瞬間、世界が爆ぜた。

空間そのものが悲鳴を上げた。
赤黒い破壊の奔流と、真紅の野性が激突する。
衝突点を中心に空間がひしゃげ、炸裂し、時間が巻き戻ったかのように、すべてが吹き飛ばされていく。

「ぐ────ッ!」

ローマンが歯を食いしばる。
彼が放つのは弾丸など一撃で塵すら残さず消し去る程の凄まじき衝撃。
だが、獣の弾丸は砕けなかった。

激突により発生する衝撃は、地を揺るがし、ローマンの膝を軋ませる。
周囲の備品は次々と吹き飛び、わずかに、しかし確実に、ローマンが後退させられていく。

この弾丸はスプリング・ローズの獣性のみでは成立しない。
本条清彦の群としての統率と調律。無銘の技。サリヤの照準補助。
家族の絆が力となり、ローズを支えていた。

これは絆の生み出した一発限りの奇跡。
だが、奇跡とは、時に神をも殺す。

542狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:48:04 ID:exqZfDUc0
前進を止めない真紅の獣が衝撃を突き破っていく。
人狼の牙と筋肉と骨格が、破壊の奔流を削り裂き、推進力を維持する。

そして、衝撃波を食い破るように突き進むその爪先が、確かに、ネイ・ローマンの額に突き刺さった。

ローマンの頭部で衝撃が爆ぜ、その身体が後方へと吹き飛ばされた。
そのまま床に叩きつけられ、滲み出した紅が床に染み広がる。
反撃も、咆哮もない。残るのはただ、沈黙のみだ。

『アイアンハート』と『イースターズ』。
二大ギャングの、長きに渡る因縁がここに、一つの決着を迎えた。
どちらに肩入れするでもなく、観客のようにその決着を見届けていた四葉が呟く。

「――――惜しい」

ガラリという音。
沈黙の底から、それは聞こえた。
血混じりの咳と共に、倒れ込んでいたローマンが、ゆっくりと身体を起こした。

「……っぶねぇ」

額には深々とした傷穴。
溢れ出した血液が視界を真紅に染める。
だが、その一撃は、頭蓋を貫くには至っていなかった。

ほんの紙一重。
弾丸が頭蓋を穿つ寸前で、スプリング・ローズの弾丸は砕かれていた。

「チッ……そうかよ」

忌々しげに舌を打つ。
出血を抑えるように手で額に触れながら、勝因に得心したように呟く。

「……ギリギリで、削られてやがったか」

ジェーン・マッドハッターに与えられた致命傷。
ローズが弾丸になる直前に受けていたその損傷が、そのまま弾丸にも影響を及ぼしていたのだ。
あれがなければ、0.1秒の差でローズの弾丸はローマンの脳天を貫いていただろう。

互いに、あと一歩。
互いに、あと一息。

「ままならねぇな、俺も、お前も」

邪魔なき決着など、やはり叶わなかった。
もはや勝利の歓喜を叫ぶ気力もない。

「ま────引き分け、って事に、しといてやるよ……」

勝者の拳を掲げることすらできぬまま、ローマンはその場に身体を横たえた。
戦いの幕は、静かに、沈黙のうちに閉じた。



543狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:48:31 ID:exqZfDUc0
静寂が戻ったエントランスホールには、血の匂いと鉄の音が、残響のように漂っていた。

戦いは引き分けに終わった。
だが、スプリング・ローズは弾丸として撃ち出され、最後の力を振り絞ったにもかかわらず、宿敵(ローマン)を討ち果たすことなく、その人格としての痕跡を静かに消滅させた。

静寂が場を支配する中、本条清彦はゆっくりと膝をつき、床に片手をついて項垂れた。
肩はわずかに震え、指はこわばっていた。
伏せられた瞳の奥に漂う影は、深い後悔と、耐えきれぬ哀しみに満ちていた。

噛み締めた唇が、無音の痛みを語る。
その顔には、悲しみとも悔恨ともつかぬ、名もなき感情の表情が浮かんでいた。

「……ごめん、ローズちゃん……僕、もっと……もっと上手くやれたはずだったのに……」

その呟きは震えていた。
頼りなく、掠れた声が空気の中に溶け、霧のように消えてゆく。

「君は……あんなに頑張ったのに……勝てなかったのに……それでも……消えて……笑って……そんなの……悔しいよ……!」

叶えられなかった願い。
果たせなかった誓い。
想いを遂げぬままに散った、大切な『家族』の死。

本条は、その責を、自分一人の胸に引き取るしかなかった。
だが、そんな彼の心に、別の声がそっと寄り添う。

「……気に病む必要はないわ」

それは同じ口から発せられた、柔らかく包むような声。
人格の一つ──サリヤ・K・レストマン。

「彼女は、満足して逝ったの……最期の、あの笑顔。あなたも見たでしょ?」

その言葉には、理性と優しさ、そしてどこか達観した静けさがあった。

「泣くのは、きっと彼女の望む別れ方じゃないわ。だったら、笑って見送ってあげましょ」

さらに続けて、低く無骨な男の声が重なる。
もう一人の人格──無銘。

「見事な散り際だった。あれだけ出し尽くしたのだ。悔いは無いはずだ……勝ち負けでは測れぬ価値が、そこにはあった」

まるで香を焚くような、静かな語り口。
かつてローズに殺されながら、今は共に弾丸(かぞく)となった男。
その一言には、深い敬意と誠意が宿っていた。

『家族』と呼び合ったこの群れのなかで、スプリング・ローズは静かに、誇りをもって、永遠の眠りについた。
誰もがその最期を悼み、それぞれのやり方で、別れを告げていた。

「さてさて、涙の別れも済んだとこでさぁ」

しみったれた空気を切り裂くように、甲高い狂犬の声が跳ねた。
割って入った内藤四葉は、鋼の籠手を弄びながら、いつものように笑みを浮かべていた。

「選手交代、ってことでいいよね? 次は私の番、ってやつで!」

その宣言に、床に寝転んだままのローマンが手をひらひらと振って応じる。

「勝手にしろ……全部終わったら、起こしてくれりゃあいい」
「投げやりぃ〜〜〜」

軽口を叩きながらも、四葉の足取りは軽やかだった。
まるで試合前のボクサーのように、陽気で、だが獰猛な気配を纏っている。
彼女の視線が、本条の奥にいる別の誰かへと真っ直ぐ向いた。

「じゃあ、出てきなよ無銘さん――――闘ろう」

カシン、と音を立てて鋼の籠手が噛み合う。

「む、無銘さん…………」
「……もちろん応じよう」

主人格の問いかけに、応答するように瞳の奥が変わる。
曖昧だった光は鋭利な線へと引き締まり、曲がっていた背筋はまっすぐに正される。
まるで別人のよう、いや真実別人なのだろう。
怯えは消え、代わりに戦士の風格が現れる。

「俺は弾丸向きではないのでな、直接やらせてもらう」

無銘は、構えない。
型も取らず、ただそこに立つ。

流派なき万能の格闘家。
打撃、投げ、関節、体術。すべてに通じながら、いずれにも囚われない。
相手に応じて変化し、戦場に応じて姿を変える、変幻自在の戦士。

対する四葉は鋼人合体にて鎧を装着する。
身を包む全身鎧、その兜は弓の騎士『ラ・イル』のモノ。

この戦いで、四葉が持つ手札は限られていた。
三騎士、『オジェ・ル・ダノワ』『ヘクトール』『ランスロット』はエルビス戦で破損して現在再生中。
健在の鎧は『ラ・イル』のみである。

それでも、兜から除く四葉の目は笑っていた。
壊れかけの装甲を背負いながら、なおも愉しげに、そして獣のように笑い、構える。

544狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:48:57 ID:exqZfDUc0
二人の間に、静寂が流れる。
だが、それは一瞬だけのこと。

「────行くよ」

甲高い金属音が、沈黙を裂いた。
最初に動いたのは、狂犬四葉。
鋼で編まれた長弓──『ラ・イル』の弓が唸りを上げる。

矢羽から鏃に至るまですべてが金属製。
戦場仕様の鋼矢が、風を裂いて空間を支配する。

第一矢。
第二矢。
第三、第四、第五──

連射、連射、連射。
まるで機銃掃射のように、圧倒的な矢が放たれる。
空気は圧し潰され、衝撃波が床を波打たせ、背後の壁面が風圧で軋む。
鋼矢は音速を軽々と超え、その一撃一撃が直撃すればネイティブとて即死は必至。
それが、十、二十、三十と、絶え間なく撃ち込まれていく。

だが────そのいずれ一つとして、無銘の身体を捉えなかった。

踏む。
滑る。
跳ぶ。
重心をずらし、軸を捩じり、空間の歪みへと身を溶かすように──避ける。避ける。避ける。

四葉の矢は、的確だった。
だが、無銘の回避は、それ以上に冷静かつ正確だった。

矢の雨を受け流すように、無銘はその軌道を見切り、刃先を掠める軌道で滑り込んでくる。
ただ回避するではない。回避と同時に、距離を詰めてくる。
射手にとって、これほど厄介な相手はいない。

「……ちぇっ」

四葉が舌を打つ。
空を払う右手の動きと同時に手にしていた弓が霧散し、代わって現れたのは巨大な鋼槍。
破損した『ヘクトール』の長槍だった。

『四人の騎士』の一つから、部分召喚によって引き出された武装。
折れた柄、狂ったバランス、主人と同じく満身創痍の武器。
だが、手ぶらで近づかれるよりは千倍マシだ。

「ほらほら、近づくと痛いよ〜?」

四葉が迎え撃つように踏み込む。
鋼の穂先が唸りを上げ、水平に薙ぎ払われた。

人間の腕力とは思えぬ力を伴って振るわれた鋼の一撃は、斬撃というより質量そのものをぶつけるかのよう。
風を裂く音すら置き去りにする振りの速さで、迫り来る無銘の胴体を狙う。
だが──

「──────遅いな」

無銘が、静かに言った。
その言葉とほぼ同時に、四葉の槍は空を切った。

無銘が、わずかに腰を沈め、重心を前方斜め下へズラすようにして踏み込んでいた。
まるで槍術の死角を読み切ったかのような、洗練された入り。

次の瞬間。四葉の両腕が、するりと掬い上げられる。
柔道技に似た、だが微塵の柔らかさもない、鋭利な投げ。

545狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:49:11 ID:exqZfDUc0
「────ッ!?」

呻く暇もなかった。
無銘の腕が鎧の重心を捉え、腰の軸を制したまま宙へと放る。
鎧ごと、四葉の身体が宙を舞った。

天地が逆転する。
だが、その刹那にも四葉は動いた。

「お返しだァッ!」

鋼の脛がしなる。
恐るべき空間把握能力で相手の位置を特定し、逆さの体勢から爆ぜるような逆落としの後ろ蹴りを放つ。
放たれたのは、投げられた力を利用した空中からの踏みつけ。

だが──それすらも、無銘は捌いた。

蹴り足を肩でいなし、即座に胴へ組みつく。
次の動作で、四葉の身体ごと地面へと渾身の力で打ち据える。

「──ッ!」

大理石の床が悲鳴を上げる。
瞬間、床に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、四葉の胸部装甲が鈍く軋んだ。

「かはっ…………!」

打ち据えられた衝撃で、四葉の肺から呼吸が抜ける。
だが、無銘は止まらない。

そのまま絡みつくように四葉に組み付き、左腕を取って関節を極めにかかる。
ミシミシ……と金属が捩じれる嫌な音が、空間に響いた。
本来なら、このまま折られて終わる。

だが、次の瞬間、四葉の左腕が弾け飛んだ。
正確には、左腕の装甲部位がパージされたのだ。

『四人の騎士』の部分召喚機構を逆手に取り、強制排出で関節から腕を解放。
生まれたそのわずかな隙間から手を引き、ギリギリで腕関節を解放さえることに成功した。

「ひゅーっ……危なかった〜……」

距離を取り、跳ね退く。
軽口を叩きながらも、四葉の眼光は研ぎ澄まされていた。
無銘は、逃げた四葉の左手に視線を送って静かに言う。

「……やはり、な。その指、欠けていたか」
「ちぇっ。ばれちったか」

籠手に隠されていた指の欠損が、露わになる。
それを隠していたのは、不格好な手を恥じての事ではない。
戦術上の不利を避けるためだ。

指を欠いた手は、握力を失う。
握力を失えば、武器の保持力が下がる。
そして何より接近戦において掴むという行為の安定性が崩壊する。
万能型の無銘にこれを知られたのは痛い。

546狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:49:40 ID:exqZfDUc0
「おいおい、どうした狂犬。押されてんじゃねぇの。代わってやろうか?」

床に腰を下ろし、観戦モードのローマンが外野から野次を飛ばす。

「そこうるさ〜〜い! 外野は黙っててくださ〜〜い!」

四葉が振り返ることもなく怒鳴り返す。
口調は軽いが、実際にはあまり余裕などなかった。
エルビス戦の傷は癒えておらず、動きは精彩を欠き、呼吸もわずかに乱れている。
このままでは、不利なのは火を見るより明らかだった。

「……そいつの言う通りだ。交代してもいいぞ。その傷では、俺には勝てん。つまらん勝負は俺も願い下げだからな」

冷ややかに、だが率直に無銘はそう告げた。
先ほどの均衡は、ローマンとの三つ巴だったからこそ保たれていたもの。
一対一となれば、損耗した四葉では分が悪い。

命を賭けるには悪条件すぎる。
合理的に見れば、ここは引くべきだった。
だが。

「ハッ! らしくないこと言うねぇ、無銘さん!」

四葉は、目を見開き牙を剥いた笑みでその意見を笑い飛ばす。
無銘の言葉が、可笑しくてたまらないという風だった。

この戦いが不利なのは、百も承知。
トビとの同盟もあるし、ここで死ねば申し訳が立たない。
戦わない理由なら山のようにある。

だが、そんなことは知ったことではない。

「勝ち目だとか、後先だとか、どーーーでもいいよっ!
 だって、しょうがないじゃん! 私はこういう生き方を“選んだ”んだからさぁ!!」

狂笑とも嘲笑ともつかない声が響く。
命も、理屈も、大事なものすら、全部抱えて戦いにベットする破滅的な生き方。
彼女は、自分でこの人生を“選んだ”のだ。

生きるために戦うのではない。
戦うことが、生きるということなのだ。
それこそ、戦っていなければ死んでしまう。

「アンタもそうじゃないのか無名さんッ!? それとも家族が出来て死ぬのが惜しくなっちまいましたかぁ?」
「まさか。安い命だ。命など惜しむはずもない──ましてや大事な『家族』のためならな」
「その言葉こそらしくないんだけどねぇ……」

家族を想うなどと言う無銘らしからぬ言葉だ。
四葉は目の前の男を改めて見定めた。
今の無銘は、四葉の戦った男ではない。
取り込まれ、家族を得て、変化し、別の何かになった別の者。

「ま、いいけどさ。闘れるんなら、相手が本物だろうと幽霊だろうと、私には関係ないもんね!」

彼女は笑いながら言う。
同じ戦闘狂という括りでも、無銘も四葉は本質的なところで違う。

無銘は、極限を追い求める求道者。
四葉は、ただ闘争を追い求める狂人。

547狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:49:59 ID:exqZfDUc0
「さっき、無名さんの名前が呼ばれたとき思ったんだよねぇ――――闘りたい相手とは闘りたい時に闘れ、ってさ」

一度逃して、ようやく気付いた。
得られた機会を今度は逃すつもりはない。

「トビさんには悪いけど、最期までやらせてもらうからね――――!」

彼女が手にしたのは、ひび割れた長剣。
構えた姿勢は、四つ足の獣のように低く沈み、前傾に重心を預ける。

「相変わらず、生き急いでいるな」
「そりゃそうでしょ!? 生き急がなきゃ、死んじゃうんだよ。私の中の“漢女”が暴れんだよォ!!」

それは、彼女にとっての原点。
すべての始まりを告げた存在だった。

憧れた相手がいた。
殺し合いの中でなお堂々と立ち、戦う理由を誰にも求めず、ただその存在こそが答えとなるような、そんな存在。
その背を見て、彼女はこう思ったのだ。

──ああ、生きるってこういうことか。

自分を抑えるなんてばからしい。
思うがままに生きなきゃ、それはもう死んでるのと同じだ。
だから四葉は一切止まらない。

あの日、あの背中を見てそれを学んだ。

「私にとって戦いは目的じゃなくて生き方だから! 戦わなきゃ生きてないなら戦うしかないじゃんか!?」

そう在りたいという衝動だけで、ここまで来た。

誰のためでもない。
何のためでもない。
死にたいわけでもない。
ただ、戦いたい。

「一発でも殴られたら、あの人のとこに少し近づける。血が出たら、あの人が笑ってくれる。骨が折れたら、きっと褒めてくれる」

吠えるように。
叫ぶように。
笑うように。

その感情まるで恋慕にも似ていた。
けれどその熱量は、恋を超えていた。

「だから私は、止まれない。勝ちたいとか、負けたくないとか、そんなんじゃない。
 ただこう在ることこ──それが、私! 内藤四葉なんだよ!」

それが『あの日』から続く、彼女の結論だった。
自分であるために、内藤四葉は戦い続けている。

熱を孕んだその狂気にローマンですら、飲まれるようにしばし言葉を失っていた。

「戦いがなきゃ死んじまうんだよ! 呼吸するように暴れたいんだよ、私はさぁ!!」

叫びと共に、四葉が地を蹴る。
その手にあるのは罅割れた長剣。もはや使い捨て寸前の刃。
だが、それすら彼女にとっては十分だった。

548狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:50:39 ID:exqZfDUc0
「いっっっくよぉ────ッ!!」

飢えた獣のように、低く跳び込む。
腰を捻り、勢いを乗せた一閃──斜め上から叩きつけるような剣閃が、唸りを上げて無銘の肩を裂こうと迫る。

だが、無銘は微動だにせず。
ほんの数センチ、体幹を横に流すだけで刃は空を斬った。

その刹那。
四葉は空振った剣を即座に手放し、空中で身体を翻す。

「次ィ!!」

瞬時に左腕を引き絞る。
そこから召喚されたのは、砕けた長槍──《ヘクトール》の折れた柄。
折損部を棍のように持ち替え、横薙ぎに振るう。

「……ッ!」

流石の無銘も、これは受けざるを得なかった。
何とか前腕で受け流しつつ、その剛力に押されて脚を退かせる。
だが、そこに追撃が迫る。

四葉の背後より鋼の籠手が飛翔した。
鋭い風切り音と共に、空中を舞い、無銘の側頭部を狙う。

だが、無銘はその軌道を正確に捉えていた。
上体を後ろに倒し、反転した蹴りで籠手を打ち払う。
重力を利用して滑るように着地し、そのまま後方へ跳び、距離を確保する。

「ふはっ、いい動きィ!」

四葉の瞳が嬉々として光る。
続いて砕けたハルバードの柄をすくい取った。

「じゃあッ、今度はこれぇ!!」

半壊した残骸を振り回す。
ハルバードというよりも、もはや鉄の棍棒である。
だが質量は本物。まともに当たれば、骨ごと砕ける一撃。

だが、無銘は慌てもしない。
構え無きまま体重を微かにずらしその一撃を待ち構える。

「甘いッ!!」

瞬間、四葉の右籠手が射出される。
制御された鋼の拳が、死角から無銘を打ちにかかる。

前後同時攻撃。
無銘の眉が、僅かに動く。

前に踏み込めば背後を籠手に打たれ、
退けば、目前の鉄塊が襲いかかる。

「なら──前だ」

無銘は一歩、前へと踏み込んだ。
身体を滑り込ませてハルバードの柄を肘で弾くように受け流す。
同時に、背後から飛来していた籠手を手刀で弾き落とし、軌道を逸らした。

鋼がぶつかり合う音。
砕かれた籠手は軌道を外れて、床を跳ね、転がった。

549狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:51:02 ID:exqZfDUc0
「お次は──射撃だ!!」

間髪など入れない。
いつの間にか、四葉の手には弓。
四葉は完全な状態を保つ、唯一の武器。
無銘が籠手を処理している間に、『ラ・イル』の鋼の長弓を召喚していた。

至近距離からの狙撃。
鏃が触れそうな距離から、瞬時に放たれた第一射。

無銘が仰け反ってかわす。
矢が鼻先を掠め、背後の壁に突き刺さる。

体勢を崩した所に、第二射、第三射が連続で迫る。
無銘はバク転するように跳躍してそれらをかわすが、床には次々と鋼の矢が突き立ち、石材を抉る。
その隙に、四葉はすでに弓を捨て、武器の換装を完了していた。

「うおおおおおりゃあああああああ!!」

逆手に構えるのは剣。
野獣のように腰を落とし、唸るような気迫で全身でぶつかるように突撃する。
破損した長剣を力任せに振り切った。
迎え撃つのは、無銘の拳。

剣と拳が正面から衝突する。

鋼と肉がぶつかり、火花が迸る。
衝撃で無銘の拳が弾かれ、皮膚が裂けて血が滲んだ。
もし剣に刃こぼれがなければ、腕ごと斬られていただろう。

「……ッ!」

無銘はたまらず後方に数歩下がる。
じわりとにじむ血を見つめ、舌で軽く舐めた。

寄せ集めの武器を次々と切り替える、変幻自在の立ち回り。
破損した鎧の籠手を空中に飛ばし、奇襲とかく乱を繰り返す。
三騎士の鎧が壊れているからこその苦肉の策だが、厄介なことに違いはない。
だが、無銘はその立ち回りに、ひとつの違和感を感じていた。

「その籠手──どうして武器を持たせない?」

低く鋭い問いかけ。
だが、その声音には、すでに確信があった。

四葉の超力が鎧の部位単位で召喚・操作可能なのは周知の事実。
ならば、操る手に武器を持たせれば、投擲も斬撃も可能なはず。
だが、彼女はそれを一度たりとも行っていない。

「……腕だけでは、武器を振るうには──力が足りていないようだな」

静かで的確すぎる指摘。
剣も槍も、踏ん張る足と捻る胴があってこそ重さが生きる。
浮かぶ手だけでは、斬れないし、叩けない。

「ふふっ……わざわざ口にしちゃうとか野暮だねぇ、無銘さんはさぁ……!」

四葉が舌打ちし、杖のように剣を地に叩きつける。
けれど、その口元は笑っていた。

「お前の超力は武具や鎧を前提としている。全部壊せば戦いようもなくなる」

武器は削がれ、策は読まれ、戦術は暴かれている。
四葉の戦力が丸裸になっていく。

だが、それでも。

「ヒヒッ……! アハハハッ……! 良いよ良いよ、無銘さん! なら、もっとやろうよッ!!」

熱に浮かされた呼気。泡立つような笑い。
内藤四葉の瞳は、もはや完全にあちら側に染まっている。
獲物を噛み砕く前の野獣にも似た笑み。
殺意と愉悦が分かたれることなく溶け合い、感情の全てが戦いへ収束する。

「……やっぱアタマおかしいだろ、あいつ」

遠巻きに眺めていたローマンが、ぽつりと呟く。
それが内藤四葉という女だった。

550狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:51:37 ID:exqZfDUc0
狂気は、折れない。
否、折れるたびに、より赤く、激しく燃え上がる。

だが、その狂気は無銘に一切の揺らぎをもたらさなかった。

どれだけ狂気が昂っても。
どれだけ常識が逸脱していても。
彼の精神には波紋すら生じない。
いかなる時も精神を平常に保つ彼の超力。

激情と沈着。
狂気と理性。

正反対の在り方が、戦場の只中で交差していた。

「壊したいならもっと壊してみなよォ……! そしたらもっと、楽しくなるからさァッ!!」

彼女は嬉々として、次の武器を拾い上げた。
破断した柄。砕けた刃。戦場で役目を終えた残骸たち。

だが、四葉の手にかかれば、それすらも武器へと変わる。
使い捨ての戦術兵器。
そしてそれを嬉々としてぶん回す内藤四葉こそ、人間兵器そのものだった。

「そぅーーれッッ!!!!」

破損した長槍を放るように投げつける。
続けて自ら跳び込み、無銘が投槍を回避するのを見計らい、逆足の蹴りを放つ。
この蹴りを避けても、背後から籠手が襲いかかる三段構えの強襲。

だが、無銘はすべてを見切っていた。
投槍を避け、蹴りをいなして腰を落とし、足場を固める。
滑るように一歩を滑らせ、飛来する籠手を正確に叩き落とした。

「まだまだァッ!!」

四葉は止まらない。
拾い集めた残骸で、突き、殴り、払い、斬る。
空を舞う籠手が、時には地を跳ね、斜めから襲う。
だが、それらは全てすり抜けるかのように避けられる。

「ヒヒヒヒヒヒヒッ!! 避けんなよ無銘さん! 一回くらい喰らってみなよォ!! 楽しいかもよぉ!?」

破損したハルバードの柄が、振り下ろされる。
無銘はそれを正面から、掌で受け止めた。
鋼の軸が軋み、床に亀裂が走る。

だが、無銘は一歩も退かない。
掌で柄を捻り上げ、力技で弾き返すと、四葉の脇腹へ鋭く膝を突き上げた。

「ッつぁ!」

鎧が鈍く軋む音とともに、四葉が後方へ跳ねる。
それでも、その口元には笑み。
唇を舐め、白い歯を剥き出し、囁くように呟く。

「アハ……っは、最高ォ……! 痛くて、すっごい、効くの……超サイコー!!」

着地した彼女は舌なめずりしながら、次の武器を呼び出していた。
もはや自分でも何を装備しているかすら定かではない。
破片と破損と再召喚が入り混じり、戦術は無秩序の極地にあった。

だが、それでも四葉は攻め続ける。
止まった瞬間、内藤四葉は内藤四葉ではなくなるからだ。

砕けた剣の柄を拾い、渾身で殴る。
その直前、籠手が真上から飛ぶ。
剣の軌道は囮、籠手が本命──だがそれも読まれていた。

無銘は一歩前へ出て籠手を落とし、剣を流す。

その一連の動きは、水流のようだった。
四葉が炎なら、無銘は水。
形を持たず、力を受け止めず、ただ整えて流す。
暴力を受け流す静なる武の体現。

だが、水であっても、燃え上がる炎を──必ずしも消せるとは限らない。

551狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:52:06 ID:exqZfDUc0
「ふっひっひっひ……ッ」

髪が乱れ、顔が歪み、裂けた口元から笑いがこぼれる。
喉の奥で泡立つような笑いが、破裂寸前の高揚となって四葉を内側から満たしていた。

「楽しい……楽しい……たまんないねぇ、やっぱ戦いってのは、こーでなくっちゃァ!!」

四葉が攻める。
そのたびに、鎧の破片が吹き飛び、武器が砕け、傷が増えていく。
だが、そのすべてを彼女は――喜びとして、受け止めていた。

痛みも、損耗も、狂気の導火線。
破れていくのは、人間であるための常識と言う皮そのもの。

強襲。投擲。攪乱。
踏み込みはトリッキーで、間合いは不規則。

四葉の戦法は、合理を超えた混沌そのもの。
故にこそ予測不能で読みにくい。

だが、無銘の眼は濁らない。

「無駄だ……狂気では、俺を崩せんよ」

だが、無銘は微動だにしなかった。
構えず、焦らず、ただ流し、受け、捌き、読み切る。
己を空とし、型を持たぬことを極めた、武の結晶。

踏み込みの重心。
武器の重量配分。
肩の開き。膝の角度。
鎧の継ぎ目、関節の可動域。

静かに、確かに、絶え間なく、すべてを無銘は、観ていた。
超力に支えられるその冷徹さこそ無銘の武器。
そして、その眼が鋭く細まった。

「……そろそろ、終わりにしよう」

その瞬間、無銘が踏み込んだ。
狂気の間隙を縫い、鋼のように締め上げた貫手が、四葉の脇腹を抉るように突き刺さる。

「──がっ」

鋭い指先が、鎧の継ぎ目を正確に貫き、左脇下の柔肉へと深々と刺さる。
咄嗟に身体を捻るも、指先は肺を掠め、血が喉に逆流する。
だが、それでも四葉の血に濡れた口角が吊り上がった。

「……ははっ。ようやく掴まえた」

血まみれの笑みを浮かべながら、貫かれた自らの身体に食い込んだその手首を、四葉は左手で掴んだ。

だが、それがどうしたというのか。
指の欠けた左手。弱まった握力。
何より、組技では無銘に敵うはずもない。

掴んだところで止められるのは、ほんの一瞬に過ぎない。
すぐに振り払われてそれで終わりだ。

「──……ッ!?」

だが──その一瞬で、十分だった。

無銘の背が、わずかに仰け反る。
次の瞬間、その背に──異物が突き立った衝撃が走る。

鋼の矢。

その背に突き刺さっていたのは、弓の騎士『ラ・イル』の矢だった。

しかし、籠手だけでは弓は扱えない。
何より四葉は『ラ・イル』を装備している。
この場で操れるはずの鎧は、もはや残されていないはずだ。

だが、矢は放たれた。

では、誰が?
どこから?
いつの間に?

一瞬の疑問。
だが、答えはすぐにそこにあった。

振り返る無銘が見たのは、弓を構えた首なしの騎士の姿。

それを見た瞬間、無銘は全てを理解した。
これまで、四葉が装着していたのは『ラ・イル』ではない。

破損した三騎士『オジェ・ル・ダノワ』『ヘクトール』『ランスロット』。
それらの無事なパーツだけを継ぎ接ぎして、さも『ラ・イル』を装着しているように見せかけていた。
流石に兜ばかりは誤魔化しが効かないので、兜だけは『ラ・イル』のものだが、弓を打つのに首は必要ない。

つまり――『ラ・イル』は、戦闘開始時から常に自由なまま待機していたのだ。

恐るべき戦闘IQ。
四葉の狂乱も、破片の投擲も、策も、武器も、すべては無銘の動きを一瞬だけ止めるための布石だった。
四葉は最初からこの局面を予期して、これだけボロボロになりながら、最後の一手を隠し通したのだ。

552狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:52:43 ID:exqZfDUc0
連続する追撃の矢が、無銘の背を貫いていく。
反応の隙も、守る余裕もない。
無銘は体勢を崩した。

だが、それでも彼は止まらない。

足を踏みしめ、狂気にも痛みにも微動だにせず、冷静さを保つ。
突き刺した貫手を、さらに深く突き込み、そのまま心臓をを、抉らんとする。

「―――――知ってたよ。無銘さんなら、そう来るってさぁ!!」

だが、四葉は血に塗れてなお笑う。
もはや刃の欠けきった剣を、その手に握り──そして、振るう。

刃が短くなったが故に、その振りは風のように素早かった。

その刹那。
無銘の指先が、四葉の心臓に触れる寸前で──砕けた刃先が、無銘の喉を斬り裂いた。

吹き上がる血潮。
深紅の奔流と共に、無銘の身体が静かに崩れ落ちた。

「へへっ……私の、勝ちぃ……」

全身から血を滴らせながら、内藤四葉は呟くように勝利を告げた。
命を削り、肉を裂かれ、最期の一手で死神の喉笛を掻き切った少女の、歪んだ勝ち名乗りだった。
その声音には、痛みよりも、戦いを成し遂げた者の陶酔が混じっていた。

「――――ええ。そして、アナタの敗北よ」

死体のはずの男の顔が、女のモノへと変わる。

サリヤ・K・レストマン。
本条清彦の弾倉に込められた、次なる人格弾丸。

血と疲労で膝をつく四葉を、サリヤは見下ろしていた。
その指先が、容赦なく四葉の額へと向けられる。

今の四葉に、逃げる力はない。
もはや避けようもない、確実な死。

だが、それよりも早く。

────赤黒い閃光が奔った。

横合いから放たれた衝撃波が、嵐のごとく吹き荒れた。
すべてを飲み込み、砕き潰す暴風のようなエネルギーの奔流。

その中心に、四葉の身体があった。
鎧も、骨も、血肉も、瞬く間に砕け散る。
内藤四葉の命は──ここに、確かに潰えた。

凄まじい風圧の中、サリアは咄嗟に身を躱していた。
だが、指鉄砲を撃つことはかなわなかった。
四葉にとどめを刺したのはネイ・ローマンの『破壊の衝動』だ。

「……酷いことするのね。お友達じゃなかったの?」

吹き飛ばされた髪を整えながら、サリヤが皮肉交じりに言った。
口調は柔らかくとも、その瞳には冷たく、確かな非難の色が浮かんでいる。
だがローマンは、心底くだらないとでも言うように鼻を鳴らす。

「ちげぇよ。あんなもん、ただの腐れ縁だ。
 それに、テメェの信念貫いて死ねたんなら、本望だろうよ。アイツも」

言葉とともに、ローマンは地に散った血の痕へ視線を落とす。
そこには、もはや人の形を成さぬ、内藤四葉という存在の残滓があった。

「都合よく相手の本望を代弁するのもどうなのかしら?」
「はッ。人を勝手に取り込む連中がどの口で。テメェらに取り込まれるより死んだ方がマシだったってだけだ」

ローマンは嘲るように笑った。
軍勢型に取り込まれる前に殺す。
これは事前に宣言していた事だ。
彼はそれを実行したに過ぎない。

553狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:53:15 ID:exqZfDUc0
「それで? ヨツハを取り損ねて、残弾はあと2発ってとこか。
 ──まさかそのザマで、俺に勝てるとは思ってねぇよな?」
「……残弾? どういう意味かしら?」

わざとらしく小首を傾げ、サリヤが問い返す。
だがローマンの目は、サリヤの奥にある、群れの中枢をまっすぐに捉えていた。

「今更惚けんなよ。さすがにここまで見てりゃ、バカでも分かるさ。
 とっくにテメェのネオスのタネは割れてる」

ローマンが頭に手をやりふぅと嘆息する。
わざとらしく反省するようなジェスチャーを見せた。

「軍勢型だつぅから、ハイヴの野郎のイメージに引っ張られすぎたな。
 お前の場合は軍勢型(レギオン)ではなく共生型(パラサイト)って所か」

ローマンの声が鋭くなる。

「主人格を強化するのではなく、一つの土台の上に対等な人格が乗ってるイメージだな。そこで技術や知識の共用もできるってのがお前の強みだ。
 人格同士に上下関係がない。だから個別で前線に出られるし、消耗も分散できる。
 ネオスのイメージは弾丸……いやそれを装填するリボルバーか? なら抱えられる人格の上限は5つか6つってところだな。どうだ? 俺の読みは当たってるか?」

サリヤは返さない。
しかし、その沈黙こそが、その推論の正しさを証明していた。

「メリリンにも言ったが、ネオスにはタネが割れても問題ないタイプと、タネが割れれば脆いタイプがある。さて、テメェはどっちだ? パラサイト」

問いかけと共に、ゆっくりとローマンが歩みを進める。
それに対してサリヤの笑みが、少しだけ深まった。

「……ふふ。少し、勘違いしているようね」

落ち着いた声音で、彼女は応じた。
同時に、ローマンの歩みを牽制するように指鉄砲の銃口を向ける。

「人格を取り込む条件は、私が相手を殺すことじゃない。
 肉体と魂が分離する瞬間を、弾丸で捉えること」

指先が、ローマンから横へ滑る。
向けられた先には、すでに物言わぬ四葉の亡骸があった。

「つまり、直接殺すのが確実ってだけで──」

弾くように、人差し指を跳ね上げる。
閃くように、弾丸が発射された。

「────死体になった“直後”でも、十分に回収可能なんだよねぇ。ネイ」

喋りの途中でグラデーションのように声色が、変わった。
成熟した女の声が、明らかに若く、鋭い少女のものへと反転する。
その表情が輪郭が、笑い方が、目の色が──内藤四葉のものへと、変貌していく。

「チッ……!」

ローマンが忌々しげに舌を打つ。
そこには、苛立ちが濁流のように滲んでいた。

「ったく……キリがねぇな、ゴミ箱野郎。次から次へと死人を取り込みやがって」

苛立ちを隠さぬままローマンが、距離を詰めるように半歩踏み出す。
その周囲に苛立ちを体現した破壊の予兆が渦を巻く。

「で? 狂犬一匹拾ったところで、何か変わるのか?
 さっきの戦いでもやしを見落としたのは、乱戦だったからだ。
 タイマンじゃ、意識の外になんざ行けねぇぞ」
「──タイマンなら、ね?」

四葉の顔をした誰かが笑う。
それは彼女らしからぬ狡猾な笑み。

次の瞬間、彼女の超力が発動する。
重々しい金属音と共に、『ラ・イル』の鋼の鎧がその場に現れる。
彼女を良く知るローマンにとって今更驚きはない内藤四葉の基本戦術。

「……!?」

だが、ローマンの目が驚きに見開かれた。
鎧の掌が、指鉄砲の構えを取り、そこから空気を切り裂く弾丸が放たれたのだ。
ローマンは瞬時にこれに反応し攻撃を避ける。

それ自体は見飽きるほど見た指鉄砲だ。大した脅威ではない。
問題は、サリアの超力である筈の指鉄砲を四葉の超力である『ラ・イル』が放ったという事実である。

人格を、鎧に装填する。
複数の人格を、それぞれに分割召喚することで、複数の個体を同時に戦場へ展開する。
内藤四葉の人格を得ることで生み出された新たな武器。

554狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:53:37 ID:exqZfDUc0
正面には、内藤四葉の人格を装填した本条の体。
背後からは、サリヤが装填された『ラ・イル』の体。
一対多への変則戦術で前後から挟み込むように、ネイ・ローマンへ殺到する。

だが──

「──────バカが」

その瞬間、空気が赤黒くうねる。
ローマンの全身から放たれた衝撃波が、放射状に爆ぜた。

その中心から生じた破壊の奔流が、円環を描いて広がる。
前後に迫っていた鎧と人影は、まとめて吹き飛ばされた。

砕けた鎧の破片が、床に音を立てて散る。
空気は熱と硝煙の匂いを孕み、エントランスに重くのしかかる。
焦げた煙が立ち込める中で、ローマンの声が響く。

「言ったろうが、テメェの強みは技術の共有だ。
 それをバラけさせたら、ただの劣化品の群れじゃねぇか」

吐き捨てるように言ったその声には、侮蔑と軽蔑、そしてほんの僅かな哀れみさえ混じっていた。

「よりによってそれを俺にぶつけるってのはどういう要件だぁ?
 脳まで劣化したか? 腐れ狂犬。それとも――――魂とやらでは頭の回転までは再現できないか?」

ローマンの超力『破壊の衝動』は、全方位を一律に粉砕する。
複数人が同時に襲おうと、彼にとっては何も変わらない。
人格分割による多対一戦法は、他の相手には脅威だろうが、ローマンにとってはただの鴨だ。
むしろ、強力な一人による一点突破のほうが彼にとっては厄介である。

「言ったろ。タネは割れた。お前はもう、俺にとっては脅威になりえねぇよ」

断言するその声に、怒気も焦りもなかった。
それはただ、勝ち筋を読み終えた者の口調だった。

「……そうみたいだねぇ。今の三人じゃ、ちょっと厳しそうだ」

四葉──いや、四葉の姿を借りた誰かが、素直に劣勢を認めた。
口調こそ軽かったが、瞳には冷徹な戦況分析が浮かんでいた。

「私一人なら、死ぬまで闘ってもよかったんだけど……『家族』全員を危険に晒すのは、ちょっとね」

そう呟くと同時に、四葉はふいにその場から跳び退いた。
明確な敗北認識とリスク管理による戦術的撤退。
この戦場であるエントランスから、ためらいもなく戦闘狂は離脱した。

「……逃げたか」

ローマンは追わなかった。
拳も足も動かさず、ただ静かにその背中を見送った。

かつて、死ぬことすら遊びのように笑っていた狂犬が撤退を選んだ。
それこそが、あの女がもはや別物に変わっているという、何よりの証拠だった。

人格を取り込まれた者は、『家族』という至上命令に従って動く。
感情の優先順位が入れ替わり、行動原理そのものが塗り替えられる。
どれだけ姿形が同じでも、技術が再現されていても──やはり、別人なのだ。

四葉の逃げた先は、南西ブロック。
メリリンとジェーンの足取りを追ったのか。
それとも、二階へと至る階段を目指したのか。

「……いや」

ローマンはすぐに思考を修正する。
二階の階段前には、あの男──エルビス・エルブランデスがいるはずだ。

戦った手応えからして、今の本条清彦にエルビスを突破できるだけの力はない。
狂犬の無茶に引きずられれば話は別だが、可能性としては前者──メリリンたちの後を追った可能性が高い。

だが、ローマンはいくら惚れた女だろうと、何から何まで世話を焼くほど甘い男ではない。
むしろ、己の隣に立つ女には、それくらいは乗り越えてもらわなくては困る。

ローマンは本条を追うでもなくその場に膝をついた。
周囲に人気もなくなり気を張って疲労を誤魔化す理由がなくなったからだ。

先ほどの啖呵は、半分は真実だが、もう半分はハッタリだった。

スプリング・ローズの弾丸を額に食らったダメージは、深く、重い。
だが、それ以上に、戦いの積み重ねによる消耗がローマンを蝕んでいた。

ネイ・ローマンの超力は、感情そのものをエネルギーへと変換する『激情駆動型』のネオス。
ただでさえ燃費の悪いネイティブの中でも、特に消耗が激しい力だ。

この数時間、まともな休息も取らず、連戦を重ねてきた。
特に、最後の真紅の弾丸との衝突でかなり消耗させられた。
体力的な限界が近いことは、自分でも分かっていた。

555狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:53:50 ID:exqZfDUc0
「……まずは補給、だな」

誰にともなく呟く。
ゆっくりと身体を起こし、南東ブロック──倉庫の方へと足を向ける。
あの区域には、酒や食料が保管されていたはずだ。

ネイティブは回復力も相応に高い。
喰って休めばある程度は回復する。

今必要なのは、追撃ではなく、身体を維持するための栄養補給だ。
共生型(パラサイト)を追うのは、それからでいい。

歩き出して数歩のところで、ローマンはふと振り返る。
視線の先には──赤黒い残滓だけを残した、内藤四葉の亡骸。

狂犬。
戦闘狂。
破滅的愉快犯。

彼が殺した女。
そして、本条に魂を奪われた抜け殻。

ローマンは、彼女の死に後悔も迷いもなかった。
当然の判断をしただけだ。
四葉もそれを恨みに思うほど愚かではないだろう。

だが、それでも──口にしておくべき言葉が、ひとつだけあった。

「……お前らしい、なかなか面白ぇ勝負だったぜ」

それは、忌憚なく放たれた賛辞。
狂気と誇りと闘志をぶつけ合った一戦は、確かに記憶に刻まれた。
ローマンの口元が、わずかに歪む。

「ま、見物料分くらいは、働いてやるさ」

本来、ブラックペンタゴンでは情報収集だけのつもりだった。
最優先は、ルーサー・キングの探索と抹殺。
だが、あの共生型を野放しにしておくのも癪だ。
少しくらいは、そのために動いてやってもいい。

「それはそれとして、ポイントは頂いておくがね」

四葉の亡骸に近づき、抜かりなく首輪からポイントを獲得しておく。
最後にもう一度、亡骸へと目を落とす。

「じゃあな、ヨツハ。漢女と脱獄王に会ったら──よろしく言っといてやるよ」

その一言を残して、ローマンは背を向けた。
彼の背後に残るは、灰となった狂犬の終焉。

破壊の衝動を鎮め、補給を求めて、
ネイ・ローマンは、静かな方角へと歩き出した。

【内藤 四葉 死亡】

【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール/一日目・午前】
【ネイ・ローマン】
[状態]:額に銃創。全身にダメージ(中) 、両腕にダメージ(小)、疲労(大)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt(内藤 四葉の首輪から取得)
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.見物料程度には本条を仕留めるべく働く
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す
2.ルーサー・キングを殺す。
3.スプリング・ローズのような気に入らない奴も殺す。
4.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。

【E-5/ブラックペンタゴン南・南西ブロック連絡通路/一日目・午前】
【本条 清彦】
[状態]:全身にダメージ、現在は内藤四葉の姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
1.殺人によって足りない3発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンへ行って家族を探す。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:内藤四葉(前3番の無銘は内藤四葉との戦闘により死亡、超力は精神を保つ程度だった)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:欠番(前6番のスプリング・ローズはは弾丸として撃ち出され消滅、超力は獣化する程度だった)

556狂犬は踊る ◆H3bky6/SCY:2025/06/29(日) 12:54:01 ID:exqZfDUc0
投下終了です

557 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:31:06 ID:olIxadoM0
投下します

558弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:31:45 ID:olIxadoM0
朝の光がようやく森を照らし始めていた。
しかし、この一角だけは様相が異なっていた。
焦げた臭気と凍てつく冷気が入り混じり、清らかな朝の気配は一切届かない。

土はめくれ返り、岩は砕け、木々は根元から折れ伏している。
所々には焼け焦げた残骸がくすぶり、湿った地面には熱と冷気の残滓が絡みついていた。
まるで、大地そのものが災厄の記憶を封じ込めているかのようだった。

その焦土に足を踏み入れたのは、一つの巨影。
枝を払いながら姿を現したのは、漆黒の三つ編みを背に垂らした、筋骨隆々の女――大金卸樹魂。
重機の異名を持ち、いまはアビスに収監されている戦闘の亡者だ。

彼女は腕を組み、鋭い眼光を焼け焦げた草地と凍りついた倒木へと這わせる。
その視線は獣のように研ぎ澄まされ、あらゆる痕跡を見逃すまいと集中していた。

「……ほう。これはまた……随分と派手にやったものだな」

呟くと同時に膝を折り、地面へと身をかがめる。
掌をそっと地につけると、そこには未だ微かに残る温もりと冷たさが、皮膚を通じて伝わってきた。
掌の内から立ち上る微細な熱が、目に見えぬ空気の歪みに反応して揺れ動く。

「……なるほど。熱と冷気が拮抗していた。互いに退かず、正面から激突したか」

彼女は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。
この場所で間違いなく、炎と氷――相反する超力の大規模な衝突が巻き起っている。
熱を自在に操る力を持つ彼女だからこそ、そうした気配には極めて敏感だった。
大金卸が観測した水蒸気爆発もこれが原因であろう。

地面に残る微かな足跡を追うように、大金卸はゆっくりと焦土を巡る。
やがて、爆裂痕を見つけると、目を細めた。

「三人……いや、それ以上か」

焼け焦げと霜が入り混じる地形。炭化した草。ぱっくりと割れた土塊。
空気の流れ、湿度の残り香、焦げた匂いと凍りついた植物の感触。
それらは、単なる二元の戦いではないことを示していた。

「炎使いと氷使いだけではないな……もっと入り乱れていたか」

闘志、怒り、悲しみ、祈り。
内面からほとばしる感情が超力と共鳴し、力として放たれた。
それは理を超え、命を賭してぶつかり合った者たちの戦いの痕跡。
もはや災厄としか呼べない、戦場の名残だった。

視線を左右に流しながら、大金卸は立ち上がった。
爆心地を中心に、放射状に広がる破壊の痕跡。
だが、その一角には、まるで誰かが衝撃を正面から受け止めたかのような異質な歪みがあった。

「……ほう」

彼女の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
この衝撃を耐えた者がいたという事実――それは、彼女にとって何よりの歓喜だった。

踏み荒らされた木々の列が、遠くまで続いている。
その先に目を向けた瞬間、焦土の中に焼け焦げた布切れと、血痕が染みついているのが見えた。
近づき、屈み込んで調べると、血の付着した獣毛が落ちていた。

「これは……獣の毛、か」

だが、この会場に獣の姿を見たことなどない。
ならばこれは、人ならざる者――獣人系の超力者、例えばアンリのような者がいた証左だ。

「護られた痕、だな」

自らの言葉に頷き、状況を再構成していく。
燃やされた木々の、その影にひとつだけ、守られたように残る草むら。
凍土の裂け目の先に、靴跡が折り重なり、逃げるように続く方向。
位置関係からしてそう言う図式が見て取れる。

彼女は静かに目を閉じ、戦場の空気を深く吸い込む。
脳裏に、狂気の炎と絶対零度が交錯した光景が幻のように浮かび上がった。
得られた情報から、この場で起こった戦闘を、まるでシャドーボクシングのように再構成する。

ここにあったのは、単なる力のぶつかり合いではない。
譲れぬ想いが、それぞれの拳に宿り、誰かを守るために――あるいは止めるために――衝突した。
まさに魂の拳が交差する、熱き闘争だった。

「……見事なものだ」

彼女の口元がわずかに緩む。
一見無秩序に見えるが、それぞれが信念を貫いた証が、そこかしこに散らばっている。
恐らくこの場所で、これから彼女が得ようとする『力』が振るわれたのだろう。

ここまでの衝突を生み出すには、相応の覚悟と技量が必要だ。
鍛え抜かれた拳に、魂を宿す者――彼女が最も好む真の強者たち。
そういう者たちが、ここで拳を交えたのだ。

最上の戦場――そう言って差し支えない。

三つ編みを背に流しながら、彼女は拳を強く握った。
胸の奥で高鳴る感情に呼応するように、拳に熱が灯る。
その場に立ち会えなかったことが、ただただ悔しかった。

559弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:32:31 ID:olIxadoM0
「ここにいた者たちは……すでに立ち去ったか」

残された気配は、すでに風化を始めている。
闘いの終わりから、少なくとも数時間は経っているようだ。

「……ん?」

口惜しさを噛みしめていた大金卸の感覚が、ふと風の微かな変化を捉えた。
朝の陽が差し込む東の方角から、ひやりと肌を刺す冷気が忍び寄ってくる。

それは、自然がもたらす冷たさではなかった。
霜でも風でもない、意志を帯びた冷気。
それが人為によるものであると、彼女は長年の経験で即座に察知した。

体が反射的に動く。
眉一つ動かさず、呼吸を浅く抑え、足音を土に吸わせるようにして身を低く構える。
大地と一体化するかのような、無音の構え。

――聞こえる。

風でも木々のざわめきでもない。
氷が削れ、空気を裂く音。
微細な冷気の粒子が、空間を鋭く切り裂いていく。
その気配に視線を向けた刹那、数百メートルさきの草原に彼女はそれを見つけた。

「……滑っている、のか?」

朝靄に包まれた草原を、歩くでも走るでもなく、滑るように進む小さな影。
足元に生み出された氷が瞬時に地表を凍らせ、その上を音もなく滑走している。
まるで、氷上を舞うスケーターのように、自在かつ優雅な動き。

それは――年端もいかぬ少女だった。

未成熟な肢体を、薄氷の鎧が覆っていた。
見れば右腕は完全に氷でできた義手のようである。
その姿は神聖な静謐さと、どこか常軌を逸した狂気を同時に孕んでいた。
間違いない。氷を操る超力者だ。

「……ただの子供ではないな」

鋭く光る大金卸の眼は、少女の纏う練度を見逃さない。
氷の張る超力の運用に無駄がなく、体捌きに一切の迷いがない。
移動に合わせて完璧に足場を生成する制御――あれは、相当な鍛錬を積んだ者の所作。

ただの訓練では辿り着けない域。
どのような事情であれ、実践的に超力を使う極限環境に身を置いていた者の練度である。
名は知らずとも、ただの囚人ではないことは一目で分かる。

(……どこへ向かっている?)

少女の軌道には迷いがなかった。
明確な目的地に向かう者の動きである。
それは逃走ではない。追尾でもない。強襲の足運び。

目標を定め、制圧する――氷が導く滑走の軌跡が、その意志を明確に示していた。

その先に何があるのか。
大金卸が答えに至るよりも早く、空気が反転する。

今度は、熱だ。

突如として気圧が変化し、空気が密に膨らむ。
湿度が急激に上昇し、空間そのものが焼き破られるような圧が押し寄せてきた。

560弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:32:42 ID:olIxadoM0
紅の翼を翻し、空を裂く流星。
氷の少女が現れたのと同じ東方から、炎の奔流が駆ける。

その推進力となっているのは、まとわりつく焔そのものだった。
黄金の髪。祈るような眼差し。そして、燃え上がる気高さ。
まるで空そのものを祈りで燃やすように、少女は超低空を跳ねるように飛翔していた。

大金卸の目が細められる。
彼女の顔は、氷の少女とまったく同じだった。
異なるのは、髪色と年齢。そこから至る結論は一つ。

(……姉妹か)

そうとしか思えないほど、瓜二つだった。
少なくとも、アビスの名簿に同姓の囚人はいない。
だが、姓の異なる姉妹など珍しくもないだろう。

見る限り、炎の少女は氷の少女を追っている。
彼女たちの間にいかなる事情があるのかは分からない。
だが確かなのは、血を分けた存在でありながら、氷と炎――異なる力、異なる意思を抱いてぶつかろうとしているということ。

それは、まさに爆心地に刻まれた水蒸気爆発の象徴そのものだった。

大金卸の口元が自然と綻ぶ。
先ほどまで辿っていた闘争の痕跡。
それと完全に一致する存在が、今まさにその目の前を駆けている。

風が再び強く吹き始めていた。
氷の軌跡は、露草の上に薄氷を残しながら、やがて朝靄に溶けて消えていく。
炎の残り香は、微かな熱流となって空に漂っていた。

姉妹のような二つの影。
重力を振り切る焔の飛翔と、大地を滑る氷の流星。
決して交わらぬようでいて、どこかで交差し続けている双曲線のような存在。

そこに、大金卸の戦士としての嗅覚が、確かな闘争の匂いを感じ取っていた。
これを見逃す理由など、どこにもない。

拳が自然と握り締められる。
自ら戦場と呼んだ焦土のさらに先に、また新たな魂の拳が衝突しようとしている。

ならば、選ぶべき道は一つだ。
だが、駆け出す前に、彼女はふと立ち止まった。

ふたりの少女は、既に遠い。
かつての自分であれば、考える間もなく飛び出していただろう。
ただ強者を求め、拳を交えることだけに価値を見出していた、あの頃の自分であれば。

だが、今は僅かに不純物が混じっている。

アンリの一撃。
ナチョの言葉。
そして、あの少女たちの、互いを庇い合う姿。
それらが、確かな迷いを彼女の中に生んでいた。

「……拳に、誰かを救う力が宿る、か」

呟いた自分の声に、思わず苦笑が漏れる。
それは、自分にはあまりに似つかわしくない言葉だった。
そんな考えが脳裏をよぎったのは、生まれて初めてだった。

だが思えば――拳こそが、我にとって唯一の拠り所だった。



561弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:33:00 ID:olIxadoM0
生まれた時から、我は――異物だった。

人は皆、生まれたての赤子の身体は脆く、柔らかいものだと疑わない。
しかし、我は違った。
我の腕は、産声を上げたその瞬間から、岩のように固かったらしい。

幼子がふにゃふにゃと頼りなく親に抱かれる中。
我だけはどれほど強く抱かれても、泣き声一つ上げなかった。
代わりに、抱いた者の腕が痺れ、驚きのあまり手を離す始末だった。

その理由は肉の量。

曰く、筋肉の質に男女差はない。
差を生むのは、その筋肉量である。
ならば、生まれながらにして男児以上の筋肉を持った女児がいて、何がおかしいか。

我が存在は、その理の証明だった。
『ミオスタチン関連筋肉肥大症』と名付けられた症状。
この体質を『超人体質』と、そう呼ぶ者もいた。
だが、いくら理屈が立っていようと、人々の見る目が変わるわけではない。

幼い我に向けられる視線は、興味ではなかった。
羨望でも、尊敬でもない。

────畏怖。

それは獣に向けるそれと、寸分違わぬものだった。

可愛がられることもなく。
庇護されることもなく。
唯一与えられたのは、檻の中で育てる獣のような、監視と距離感だけだった。

隣の子供たちが無邪気に手を繋ぎ、笑い合う姿を、我は遠巻きに見ていた。
こちらから差し出した掌を、誰も取ろうとはしなかった。
だが、それを寂しいと、我はただの一度も思ったことはない。

力とは、孤独の代償であり。
拳とは、己の価値を刻むための言語だ。
そんな感覚が、物心のつくよりも早く、この身に沁みついていた。

だからこそ我は、誰に教わるでもなく、拳を握った。
正しい握り方を知ったのではない。
ただ、拳がこの身の中心にあると、信じたから。

己の存在を肯定する手段は、それしかなかった。
そして、拳を重ねるたび、思い知ることになる。

────力こそが、我の真実だ、と。

だが、いかに強くとも、世には上がいる。
その現実を我に突きつけたのは、まだ六つの頃だった。

小学生に上がろうという前に、我は実家を飛び出し、秘境の山中にある拳聖の道場の門を叩いた。
我の拳は、未だ粗削りだった。
恵まれた天賦の才を力任せに振るうだけで、技も理もなかった。

師範は、そんな我に拳の握り方から、足運び、呼吸、すべてを一から叩き込んだ
それだけではなく、礼節作法や雑用など、日常生活における基礎までも教え込もうとしていた。

今にして思えば、それは力だけではない、人としての生き方を教えようとしていたのだろう。
だが、幼い我にはそれが理解できなかった。

562弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:33:13 ID:olIxadoM0
礼儀や他者の世話など拳の求道に不要と。
我は不満を漏らし、納得がいかぬなら拳で通せという道場の掟に従い、ひたすら挑み続けた。

ただ、勝ちたかった。
ただ、師範に褒められたかった。
ただ、兄弟子たちに一矢報いたかった。

同年代には敵はいなかった。
遥か年長の不良どもすら、我の拳を恐れて逃げ出した。

だが――この道場は違った。

兄弟子たちは、我を余裕でいなした。
拳は届かず、脚を絡め取られ、投げ飛ばされ、地を這った。
師範に至っては、まともに触れることすら叶わなかった。

十度挑んで十度負けた。
百度挑んで百度負けた。
千度挑んでも──勝てなかった。

拳を握るたびに思い知る。
ただ力が強いだけでは、届かぬ世界があると。
拳だけでなく、心をも磨けと、師範は伝えたかったのだろう。

それでも、我は諦めなかった。
泣き言を漏らす暇があれば、拳を鍛えた。
情けを乞うくらいなら、脚を鍛えた。

それは師範らの願いに沿う形の物ではなかったのだろう。
だが、拳を振るうために生まれた我が、拳を棄てて何になる。
ぶれることなく、逸れることなく、我は拳を研ぎ続けた。

ただ、打ち続けた。
ただ、立ち続けた。
ただ、前へ、前へと踏み出し続けた。

そして、十歳の年。
兄弟子の一人を――初めて、拳で叩き伏せた。

その兄弟子もまた、拳聖の下で武を磨いた強者である。
背丈も、体格も、技量も、当時の我を遥かに凌ぐ相手だった。
だが、あの日だけは、我の拳が先に、彼の身体を撃ち抜いた。

武の一字すら知らぬチンピラを叩きのめすのとはまるで違う。
圧倒的な強者と武を競い、勝つという麻薬めいた快楽を初めて知った瞬間だった。

その日からだ。
我が、己の強さをより強く追い求めるようになったのは。
さらに高みへと手を伸ばすことを、やめられなくなったのも。

だが、その道は決して平坦ではなかった。
他者に阿るのではなくただひたすらに武を磨き。
拳聖の後継となるべく、師範を超える道を選んだ。

師範を打ち倒したのは、十五の年。
だが与えられたのは皆伝ではなく、破門だった。
善意を理解出ぬ凶拳の烙印を押され、我は道場を離れた。

我の武は既に達人の域に達していた。
拳聖を打ち倒した我に敵う者はいない。
拳で届かぬ者はいない。
そう、思い込んでいた。

今となっては若さゆえの傲慢だったと言えるだろう。
当時の我にはそんな傲りが、確かにあった。

563弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:33:23 ID:olIxadoM0
──あの日、あの男と出会うまでは。

十八歳の年。
まだ『開闢の日』より以前。
世界が未だ、常識に縛られていた時代のことだ。

日本の西の外れ。
そこは訓練用に封鎖された、自衛隊の山中演習場だった。
山籠もりを行っていた我はそこに偶然に迷い込んだのだ。

否、あるいは偶然はなく、あれは──我の『本能』が導いたのかもしれない。
拳を、より強く、より高く、磨くために。
無意識に、強者の匂いを追い求めていた。

演習場には、異様な気配が充ちていた。
野生動物のような、研ぎ澄まされた殺気。
街の不良どもが放つ雑音混じりの暴力とはまるで異なる、研ぎ澄まされた刃のような洗練された殺意。

我を見つけた兵たちは、声をかけるでもなく即座に排除に動いた。
物騒なことこの上ない判断だが、封鎖された区域に、所属も知れぬ恐るべき威圧感を纏った異物が迷い込めば、排除命令も下ると言うもの。
拳を極めたと自負していた我ですら苦戦を強いられる程の強者たちを数名を打ち倒した所で、その男は現れれた。

一際、異質な男が。

顔は四角く、ゴツゴツと削られた岩のよう。
髪は刈り込まれ、瞳は濁り一つなく、全身に纏う空気は鍛え抜かれた鋼そのもの。

我らは言葉は交わさなかった。
ただ、拳で語らった。

そして────完膚なきまでに、叩き伏せられた。

既に熊殺し、牛殺しを成し遂げ、あらゆる生物に敵なしと豪語していた我が。
拳を振り上げれば、先に骨を砕かれた。
脚を踏み出せば、容易く甲を踏み抜かれた。
隙を突けば、技で無力化された。

あまりにも、何もできなかった。

にも拘らずこの胸には跳ねるような高鳴りがあった。
それは、恋に似ていた。
あるいは、恋そのものだったのかもしれない。

拳で全てを測ろうとしてきた我が、拳一つで屈服させられた。
己が頂点であると傲慢を抱えていた己の未熟を突きつけられたことが、たまらなく嬉しかった。
強者に心惹かれる浮気性な我ではあるが、その奥底に己より強い相手を求める漢女心もあるのだ。

「――――鍛え直して来い」

苦もなく我を打ち倒した男は、それだけを残して去っていった。
その背中を見送りながら、我は地に伏したまま、涙をこぼしていた。

悔しさではない。
拳には、まだその先があると知った。
いつか再び、彼に挑める未来があるという希望に、胸が震えたのだ。



564弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:33:46 ID:olIxadoM0
あれから幾年。
時は流れ、世界は変わった。

『開闢の日』を境に、人も、力も、常識さえも、すべてが塗り替えられた。
かつて積み上げた価値の多くは崩れ、残ったのは――己自身と拳だけだった。

何事も極めてしまえば、伸びしろは消える。
拳を完成させてしまえば、その先には何もない。
それは、終わりに等しい静寂。
否――絶望にすら近いものだ。

今の大金卸樹魂もまた、その淵に立っていた。
心を奪われるほどの敗北も、魂を震わせるような高揚も、長らく味わっていない。
もはや、呼延のような同じく『道』を極めた者との命懸けの立ち合いだけが、かろうじて火を灯してくれる。
だがそれも、刹那的な刺激にすぎなかった。

だが、今、我が感じているこの高揚。
それは、あの時――あの男に叩き伏せられた日の感覚に似ている。

絆の拳。

これまで見向きもせず、無意味だと切り捨ててきたその在り方。
だからこそ、そこにはまだ、我の知らぬ『余白』がある。

この拳は――まだ、進化できる。

その確信が、再び我を戦場へと駆り立てている。
ならば、試してみる価値はあるではないか。

「誰かを守るための拳」というものが、本当にこの手に宿りうるものなのかどうか。

師に説かれ、かつての己が否定した力。
今の己が、それを試してみたいと思うようになった。
それを成長としてとらえるべきか、あるいは変わらぬ我欲であると捉えるべきか、自分自身では判断できない。

それがたとえ、ただの気まぐれであっても。
過ちであっても構わない。

これは救済でも、善意でもない。
あくまで力を欲する求道の一環だ。

この拳にどのような力が宿るのか。
どのような変化が起きうるのか。
我の興味はそこに尽きる。

結果がどうであろうとも、今の己に必要なのは――実践だ。

「……決めた」

草を踏みしめる足元には、かつてのような獣じみた重さはなかった。
ただ、己の意志で一歩を進めるための、確かな質量だけがあった。

この先に戦があるならば、そこには必ず勝者と敗者がいる。
強者と、弱者がいる。
ならば。

「次の闘争では、我が拳を、『弱者』のために振るうとしよう」

それが正義かどうかなど知らない。
善意という言葉の意味も、未だ大して理解してはいない。
だが、もしそれによって拳に何かが宿るのならば――――知りたい。

ナチョが信じ、安里が信じ、あの少女たちが選んだもの。
自分にはなかった力の源泉が、本当に『絆』と呼べるものなのかどうか。

善悪が分からずとも、戦力と戦況を読むことにかけては誰にも劣らぬ自信がある。
だからこそ、駆け付けた際にその場で『もっとも弱き者』のために拳を振るう。

それは単純な実力の話ではない。

強者に蹂躙されようとする者がいるならば、その前に立つ。
数に追い詰められる者がいるならば、その背を支える。
踏み潰されそうな者がいるのならば、その剣となる。

駆け付けた戦場で、もっとも追い詰められた者をこの拳で庇護しよう。

565弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:34:11 ID:olIxadoM0
それは、まだ欲望の延長線にある選択だ。
学ぶのではなく、試すのだ。
拳を、高めるための一つの手段として。

「一度だけなら……確かめてみる価値はある」

その一歩は、確かに、これまでの彼女とは違っていた。
その拳が向かう先には、初めて己以外の存在がある。
それこそが、第一歩。

「……次の戦場が、楽しみだな」

大金卸樹魂は、ゆっくりと歩き出した。
その背に朝日が差し、影を濃く落とす。
影の先には、微かに温かな色が差し込み始めていた。

戦場とはかくも心躍る場所だが、この浮き立つような心持ちは久方ぶりである。
この拳が完成に至って以来、久しく感じていなかった新たな技を試してみたくなるような感覚。

その歩みは、かつて戦場を蹂躙していた重機のものではない。
新たな『武』を求める、修行者の一歩だった。

彼女は――確かに変わり始めている。

まだ誰も気づかぬ、小さな変化。
だが、それでも。

その一歩は、いつか世界を変える拳になるかもしれない。

【C-4/森の中/一日目 午前】
【大金卸 樹魂】
[状態]:胸に軽微な裂傷と凍傷、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.強者との闘いを楽しむ。
0.炎と氷の姉妹を追う。
1.新たなる強者を探しに行く。
2.万全なネイ・ローマンと決着をつける。
3.ネイとの後に、りんかと決着をつける。
4.善意とはなにか、見つけたい。誰かのための拳に興味。

【C-3/草原/一日目 午前】
【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ジルドレイを追い彼の凶行を止める
2.ルーサー・キングとの合流地点(港湾)を目指す。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。

【B-3/草原/一日目 午前】
【ジルドレイ・モントランシー】
[状態]: 右目喪失(氷の義眼)、右腕欠損(氷の義肢)、怒りの感情、精神崩壊(精神再構築)、全身に火傷、胸部に打撲
[道具]: 無し
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本. ジャンヌを取り戻す。
1.港湾と灯台に向かい、ジャンヌの光をジャンヌに証明する
2.出逢った全てを惨たらしく殺す。
※夜上神一郎によって『怒りの感情』を知りました。
※自身のアイデンティティが崩壊しかけ、発狂したことで超力が大幅強化された可能性があります。

566弱き者のための拳 ◆H3bky6/SCY:2025/07/04(金) 21:34:40 ID:olIxadoM0
投下終了です

567 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:17:25 ID:00oOMpbo0
投下します

568血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:19:13 ID:00oOMpbo0
バルタザール・デリージュ。

本名――――セルヴァイン・レクト・ハルトナ。

1999年7の月。
東欧の南端、中東にほど近い内陸に位置する小規模な立憲君主国ハルトナ王国に双子の王子が誕生した。

セルヴァイン・レクト・ハルトナと、グランゼル・ルオ・ハルトナ。
双子の存在は、将来的な王位継承をめぐる問題を早い段階から内包していた。
出生時にわずか十数分早く産声を上げたセルヴァインが兄とされ、以降、王家内では兄が第一王子、弟が第二王子として扱われることになる。

当時の国王グランリード・ハルトナの治世下、王権は象徴としての側面を残しつつも行政や軍に一定の影響力を持ち、王族は依然として国政に関与し得る地位にあった。

両者の性格は幼少期から顕著な対照を見せていた。
兄であるセルヴァインは身体能力に優れ、体格にも恵まれていた。
外向的で主導権を握ることを好む支配的な性質をしており、現場感覚と即応力を備えた天然の指導者として注目された。
自らが先頭に立ち周囲を引っ張っていくその統率力は一種のカリスマとして宮廷内でも一目置かれている程だった。
反面、野心家で感情的。自身に従わぬ者への攻撃性は幼くして顕れていた。

一方、弟であるグランゼルは観察と対話を重んじる思慮深い性格で、制度や文法といった構造的な知識に強く、特に歴史と法制度には早くから関心を示していた。
第二王子である立場をわきまえ、一歩引いた位置から俯瞰した視線で物事を見る視野の広さを持ち合わせていた。

支配的な兄に従順な弟。
後継争いを危惧する宮廷内の噂も余所に、兄弟の仲は驚くほど良好だった。
だが、成長するにつれ、彼らの進む道は明確に分かれていく。

国内において、兄の性格は強引かつ感情的と評価されることが多かったが、一定の層からは「強い指導者」の資質として期待も寄せられた。
セルヴァインは政治の舞台にも早くから関心を示し、14歳の時点で軍学校系の教育機関への進学を自ら希望している。
訓練成績は常に上位にあり、軍部や政治家らの後援を得る下地がこの時期に形成された。

一方のグランゼルは王立大学へと進学し、比較政治学と行政法を専攻。
官僚養成に近いルートを選択し、王族という立場を活かして非公式の外交折衝にも参加するようになる。
彼の学識と穏健な物腰は一部の外交官や若手官僚に太い人脈を築いていく。

その均衡が崩れ始めたのは、父王の病が公となった頃だった。
王位継承の議論が現実味を帯び始め王室内では次代の王をどちらにするかをめぐる非公式な調整が始まっていた。
形式上は第一王子セルヴァインが継承権を持っていたが、内政・外交の安定を重視する勢力は、第二王子グランゼルを推す動きを強めた。

セルヴァインは強硬な指導力で国防や治安に実績を上げていたが、その一方で、命令違反者の左遷や内部粛清といった強権的手法が問題視されはじめていた。
対するグランゼルは欧州評議会での演説経験もあり、外交的信頼と国内支持を同時に得ていた。
この空気に、良好だった兄弟関係にも徐々に亀裂が広がり始めていた。

569血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:19:42 ID:00oOMpbo0
2020年6月末。
国王グランリード・ハルトナが崩御。
王宮内では非公開の緊急評議が開かれ、遺言が開封される。
そこに記された次期王の名は――第二王子、グランゼル・ルオ・ハルトナ。
第一王子セルヴァインの名は、文書中に一度も記載されていなかった。

この決定がなされた正確な理由は明言されていない。
ただ、王の側近や一部の顧問官らの証言によれば、父王は晩年、セルヴァインの気質を「統治者に不向き」と判断していたとされる。
また、王室と関係の深かった複数の中央省庁幹部も、グランゼルの穏健路線を支持していたことが、後の調査資料から明らかとなっている。

この決定にセルヴァインは激しく反発する。
父王の遺志は偽りだと断じ、グランゼルが王座を奪うために王に取り入ったと確信。
これを弟の自身への裏切りであるとし彼は王宮を去り、そのまま姿を消した。

そこから数日間、公の場に姿を見せなかったが、その間に旧王党派の残存勢力や旧士官学校の縁者を通じて支持基盤を構築。
中央治安庁や情報局の一部を抱き込み、国内安全保障局に勤務していた若手将校らは、彼を「本来あるべき正統な王位継承者」として担ぎ上げた。

同年7月9日深夜、蜂起。
セルヴァイン派の武装部隊は王都中心部を襲撃。
王宮別館、王族警護庁、中央官邸の三施設を同時制圧した。
襲撃部隊は、旧王直属の警備部門に所属していた精鋭で構成されており、武器や通信用機材の一部は正規軍の備品が流用されていた。

だが、襲撃計画の情報は事前に王国軍へと漏れていた。
王宮警護課と情報局がこれを迎撃し、作戦は3時間以内に鎮圧される。
情報の漏洩は副官級の将校の裏切りによるものだったとされるが、詳細は公開されていない。

王宮正門前での小規模な交戦を最後に、セルヴァインは拘束。
クーデターに関与した軍人や王族関係者ら計71名が反逆罪で逮捕され、死者は市民3名を含む12名に及んだ。
グランゼルの即位が翌日に発表され、同時にクーデターの首謀者であるセルヴァインの処刑執行されたと公式に布告される。

だが、実際には処刑は行われなかった。
新王であるグランゼルの嘆願により、セルヴァインの存在を歴史から抹消するという非公開の措置が講じられた。
同日に死亡した反乱兵「バルタザール・デリージュ」の経歴が彼に与えられ、秘密の漏れぬよう素顔は鉄仮面によって封じられた。

そして彼は、国家の深層に位置する特別隔離収容施設へと送られる。
収監と同時に、王室警護課と国家保安局の間で「特別待遇」が協議された。
元王宮付き官吏が監督官として補佐に付き、食事や医療体制も標準とは異なる処遇が施された。
それは暴発防止のための措置であり、同時にかつての王子を刺激しないための静かな軟禁でもあった。

だが、野心的で自尊心の高かった第一王子が地の底に押し込められたこの状況を恥辱と感じていないはずもない。
表面的には極端に反抗的な行動を取ることはなかったが、留まることない彼の野心は水面下で広げられていった。

そのような条件下で、バルタザール――セルヴァインは徐々に獄中での影響力を伸ばしていく。
政治犯、思想犯、反体制派。表に出せぬ囚人たちの中においても、彼は異様な存在感を放った。
正体を明かすことなく、天性のカリスマと統率力を武器に、囚人だけでなく一部の看守までを取り込み始めた。

もちろん本人の手腕だけではなく、王からの特別な便宜もあった。
彼はそれによって得た立場すらも利用し、刑務所内での勢力を巧みに伸ばしていった。

記録によれば、収監からわずか半年で十数名の囚人と勉強会と称する集団を結成。
翌年には看守に対して業務改善案を提出するなど、実質的な収容所の自治を始めていた。

彼は刑務所の秩序を破壊するのではなく、むしろそれを再構築する道を選んだ。
かつての宮廷において編み出していた権力構造と情報制御の手法を、今度は獄中という単純な閉鎖環境で再現したのである。

房ごとの不文律、物資流通経路、看守の勤務表までを把握したうえで、それらを不必要に混乱させることなく、むしろ効率よく合理的に再配置していった。
それが、獄中の秩序を保つという名目のもとに行われたこと、そして彼の行いに掛かる『上』からの圧力により上層部も黙認した。

その結果、施設内には「第三の管理系統」が形成されたという指摘が後に報告書に残されている。
それは、正式な命令系統でも、犯罪者同士の暴力的支配でもなく、緩やかな論理と秩序によって編成された内部ネットワークであった。

570血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:20:20 ID:00oOMpbo0
そして、収監から約10年後――2030年、人類社会に大きな変動が訪れる。
『開闢の日』と後に呼ばれる全人類が当たらたな力――超力に目覚めた革新の日。

この事態は事前にGPAから各国に対して通達されていたが、予測を遥かに上回る激変だった。
各国政府は対応を迫られ、国際秩序は大きく揺らいだ。

中でも、資源も人材も乏しいハルトナ王国は、いち早く超力の戦略的価値に着目。
制度整備を後回しにし、制御と拡張を目的とした実験を先行させた。
動物実験から始まり、その事件対象を人間とするまでに2年と掛からなかった.
最初に選ばれたのは、国家管理下にあった囚人たちだった。

未知の力である超力の開発は完全な手探りであった。
手術は原始的かつ粗雑で、成功率は著しく低かった。
被験者の多くは手術中または術後に死亡し、生き残った者も精神崩壊を起こし、廃人と化した。
それは死刑執行に等しい非人道的な人体実験だった。

だが、その中にあって、バルタザールと名を変えたセルヴァインは、自ら被験者としての参加を志願する。

当然、彼の名は公式の実験記録には載っていなかった。
王家の庇護下にあり、仮面の存在として歴史から抹消された身である。
故にこそ、これは自らに恥辱の日々を与えた王家の者たちを出し抜くチャンスだった。

この地獄のような監獄で新たな牙を研いでいようとは思うまい。
恥辱に満ちた地下での生活、その延長線上で芽生えた野心は、超力という新たな武器によって具体性を持つ。

――そして、手術は成功する。

彼は唯一の成功例『拡張第一世代(ハイ・オールド)』として、全てを蹂躙できる力を手にした。

以降、獄中での秩序と支配は徐々に歪みを見せ始める。
かつては冷静さと合理性で構築されていた彼の統治が、次第に異様な振る舞いを伴うようになっていく。
セルヴァインは自らの正体を看守や囚人に明かし、王政復古を掲げて第二次クーデターの準備を開始する。

しかし、同時期から彼には深刻な精神的兆候が現れ始めた。
記憶の断裂、感情反応の異常、そして自己同一性の混乱。
監督官が王国政府に提出した報告書には、セルヴァインの言動の細かな矛盾が増えたこと、自発的に「バルタザール」と名乗る発言の増加などが記されている。

一方その頃、ハルトナ王国は国際的孤立と国内の制度疲弊に直面していた。
開闢後、諸外国が法整備と軍事編制を急ぐ中、ハルトナは人的・財政的な制約からそれに遅れをとっていた。
そのため政府は、制度の不備を誤魔化す形で超力開発に集中。
軍部と民間を巻き込み、再生人材の活用と称して、秘密裏に行っていた囚人らを実験対象とする枠組みを合法的に整え始めた。

この制度改正により、セルヴァインの収容区にも外部からの人材が接触するようになる。
その過程で接触した軍人、研究員、補佐官の中には、かつての王政に連なる人間も含まれていた。
すでに死亡したはずの第一王子が今も生きているという事実は、静かに、だが確実に一部の旧王党派へと伝播した。

この再発見は計画的な情報流出という形で流出された。
国外逃亡や失脚により潜伏していた王党残党らは、国外諜報網や密輸経路を活用して再結集を進めていた。
そして、仮面の男「バルタザール」は、再び担ぎ上げる神輿としての価値を帯び始める。

セルヴァイン自身も、それを理解した上で黙認した。
彼にとってもはや王座の簒奪は二の次でしかなかった。
自らをこのような地の底に押し込めた祖国を破壊することこそが本懐だった。

571血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:21:17 ID:00oOMpbo0
2035年3月――周到な準備期間を経て、第二次クーデターが発動される。
一度目のような電撃的な即時蜂起ではなく、第二次クーデターは、極めて整然とした形で進行した。

周到に練られた分断と制圧。
監獄内での暴動を発端に、施設の通信網と交通インフラの一部が一時的に外部から掌握される。
鎮圧の名目で出動した部隊は、実際には王都周辺の要所を制圧する反乱軍であり、協力者による行政妨害と交通遮断が同時多発的に実行された。

王都では非常警報が発令されることなく、政庁庁舎は内部職員により解放され、王宮も数時間で制圧された。
第二世代の超力保持者すら殆ど存在しなかったこの時代に、ハイ・オールドの力を止められる者など誰一人いなかった。

そうして血のクーデターは執行される。
正確な死者数は今も記録されていないが、民間人を含め数百名に及ぶとも言われている。
その中でも王家の血を引くものはグランゼル王以下、全員がその場で徹底的に粛清された。
他ならぬ、セルヴァインの手によって。

だが、その中でただ一人、生き延びた王族がいた。
当時2歳の末子――エネリット・サンス・ハルトナである。

彼は処刑されることなく、身分を剥奪された上で適当な罪状をでっち上げられ、監獄へと送られた。
それはセルヴァインの強い意志によるものだった。
自分が味わった屈辱と絶望を、弟の血に受け継がせるという私怨による措置だった。

クーデターは成功を収め、王権の簒奪は為された。
だが、クーデター軍にとってセルヴァインはあくまで神輿でしかなかった。
彼らは王座を獲らせるつもりなど最初からなかったのだ。

すでに彼の精神は崩壊していた。
人間を超えた力を得た代償に、嘗てのカリスマと統率力は陰り。
今のバルタザールは妄執と復讐心。本能のみで動く暴力装置でしかなかった。
政を委ねるには、あまりに不安定で、あまりに危険な存在だった。

クーデターの完了の翌日。
反乱軍はその矛先をセルヴァイン自身へと向けた。
超力の過出力による発作で動けなくなっていた彼は、まともな抵抗もできぬまま拘束される。

そして、彼の被る鉄仮面に4名の超力者による封印が施された。

超力の効果を付与すべく『道具に超力を付与する超力』が。
鉄仮面が破壊されぬよう『物質の強度を高める超力』が。
所在を把握するため『武器の所在や状態を把握する超力』が。
そして、記憶と超力を封じるために『対象の脳機能を制御する超力』が。

そうして、彼の記憶の封印と超力の制御が施された。
皮肉なことに、それは彼自身にも抑えきれぬ力の暴走を最も効果的に抑え込む手段でもあった。
その影響で人間的な感情は薄れ、言語機能も著しく退化した。

かくして、ハルトナ王家の血脈は表舞台より根絶され、君主制は瓦解。
新たな民主政体が発足し、王国は名実ともに新国家として生まれ変わった。

そして再び、セルヴァイン――バルタザール・デリージュは監獄へと送られる。
その場所はかつて死者として封じ込められた、特別隔離収容施設ではない。

それは、世界の全ての制御不能な怪物たちを閉じ込める、地の底の最終収容施設。
立場も権力も力も過去も記憶も、人間性すらも剥奪され、彼はすべての終焉を迎える地の底アビスへと堕とされた。

以上。
本レポートは、アビス転所に際し、監督官スヴィアン・ライラプスが所長宛に提出した口述記録をもとに作成されたものである。



572血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:21:53 ID:00oOMpbo0
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――!」

割れた鉄仮面の奥から放たれた地の底を引き裂くような絶叫が鉄と血の焼けた廃墟に響き渡った。
数秒の遅れをもって反響が戻るが、それすらも次の叫びに呑み込まれていく。

それは、悲鳴でもなければ咆哮でもない。
己自身を名乗る、帰還の声だった。

鉄仮面の崩壊と共に、記憶の封印が解けていく。
長らく忘却の淵に沈められていた記憶が、決壊した水門のように奔流となって意識へと流れ込む。
無秩序で無差別、灼熱のような熱量で、彼の精神を焼き尽くす。

焦点の定まらなかった瞳に、光が戻る。
脳内を暴れ狂うのは、燃え盛るような記憶の連鎖。

赤く染まった夜。倒れ伏す王。焦げる王宮と、焼き尽くした王族の面影。
記憶の一枚一枚が、まぶたの裏に張り付き、そしてまた剥がれていく。

誰かの叫び。誰かの嘲笑。誰かの断末魔。
手を下した者も、下せなかった者も、全てが脳裏に蘇る。
破滅の夜を照らしていたのは、自分の笑みだったか――それとも、歪んだ仮面だったのか。

だが、記憶の全てが戻ったわけではない。
鉄仮面による封印は解かれた。だが、張力拡張手術の副作用による損壊は癒えない。
いくつかの記憶は断片的な喪失があり、未だ抜け落ちたまま。
それでも、確かに、胸の奥に残されていた感情がある。

――――憎悪だ。

悔恨。怒り。絶望。怨嗟。そして、どうしようもない渇望。
長らく凍結されていたそれらが、今や毒のように、血液のごとく、彼の内を奔流する。
人格の崩壊を防ぐために封じられていた感情が、瓦礫となって胸を裂いた。

バルタザールの身体が痙攣し、鉄骨の破片を握り潰しながら、地面を爪で抉る。
左腕はすでに無かったが、痛みなど問題ではなかった。
それを凌駕するほどに、強く、濃く、黒い衝動が彼を突き動かしていた。

「……ッ、グ……グランゼル……父上……!」

血に滲む喉から、掠れた呻きが漏れる。
それは嗚咽でもあり、怒声でもある――感情の咆哮だった。
この数十年、何ひとつ心が動かなかったこの身体に、いま確かに怒りを超えた純然たる憎悪が芽吹いている。

――グランゼル。

かつて最も信じ、最も愛していた者。
そして、最も憎む裏切り者。
その最期に何を見たのかさえ、今は思い出せる。

――セルヴァイン。

その名を、忘れていた。
奪われたのではない。
意図的に、自ら封じられていた名前。

かつて王であり、兄であり、人間であった証。
だが、その名すら奪われ、自分はただの「道具」として扱われてきた。

誰によって――――?

同志を装い、土壇場で裏切った者たち。
忠義を口にして王家を踏み台にした者たち。
王家の血を利用し、最後には廃棄した、反乱軍の全て。

573血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:22:24 ID:00oOMpbo0
殺さねばならない。
報いを与えねばならない。
あの国の、腐り果てた根ごと――皆殺しにせねばならない。

王なき国で、平然と生きる人の皮を被った畜生ども。
一匹たりとも生かしてはおけぬ。
この監獄から脱し、自由を手にし、逆臣すべてを断罪するのだ。
それこそが唯一残ったハルトナ王家の者としての義務である。

仮面の割れ目から露わになった目が、紅蓮の狂気を宿す。
黒く焼け焦げたような光が、地の底に残る全てを射抜いていた。

赦しなど存在しない。
あの日から、ずっとこの怒りを押さえつけてきたのは、自分ではない。
この世界そのものが、この怒りを封じていたのだ。
ならば、その蓋が外された以上、堪える理由などどこにもなかった。

左腕はない。
だが、鎖はまだ残っている。
肉が裂けようと、血が噴き出そうと、敵を打ち砕けるだけの力は、今もなおこの身に残されている。
それが証明された以上、立ちはだかるすべてを、叩き潰すだけだ。

バルタザールは、ゆっくりと立ち上がった。
止血のため左腕に巻き付けられた鎖が、地を這うように垂れ下がり、意志を持つかのように音を鳴らした。

残った右腕。
そこに巻き付くデジタルウォッチを確認する。
改めて確認した刑務作業の参加者名簿の中に、見逃せぬ名前が確かにあった。

――エネリット・サンス・ハルトナ。

血の匂いでわかる。
名の綴りを見ただけでわかる。
記憶の奥深くに焼き付けられた、忘れえぬ因果。

間違いようがなかった。
グランゼルの血を引く者。
自らの手でアビスに墜とした、甥。

よもや、己もまたこの地の底に墜ち、同じ舞台に立つことになるとは。
これもまた血に刻まれた因果の帰結なのだろう。

探さねばならない。
会わねばならない。

同じ王家の血を引く者が、同じ地の底で何を見たのか。
何を失い、何を得たのか。
それを確かめなければならない。

もし彼が、恥辱を味わっているなら共感を。
もし彼が、絶望に沈んでいるのなら愉悦を。
もし彼が、憎悪を燃やしていたなら歓喜を。

だがもし、そうでなかったのなら――――。

どのような結末に辿り着こうとも、
この再会は避けられない。
それが、血に刻まれた宿命なのだから。

【F-3/工場跡地周辺/一日目・午前】
【バルタザール・デリージュ】
[状態]:記憶復活(断片的な喪失あり)、鉄仮面に破損(右頭部)、左腕喪失、脳負荷(中)、疲労(中)、頭部にダメージ(大)、腹部にダメージ(大)、
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.恩赦ポイントを手にして自由を得て、逆進どもに報いを
1.エネリットを探す
※記憶を取り戻しましたが、断片的な喪失があります

574血の宿命 ◆H3bky6/SCY:2025/07/11(金) 20:22:34 ID:00oOMpbo0
投下終了です

575 ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:51:36 ID:036UrtBI0
投下します

576美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:53:28 ID:036UrtBI0
感情に乏しかった生の中で、初めて、あるいは唯一抱いた感情。
それは〝憎悪〟だった。


氷月蓮の生まれは、地方の伝統ある名家だった。
父と、母と、犬とで暮らしていた。

父は厳格さと柔軟さを併せ持ち、母は優しく美しかった。
特別な行事の際、母が着付けの整った和装を纏い父の後ろを歩く姿は、幼少の氷月の記憶に焼きついていた。
普段の生活でも、行事の忙しい合間でも、母は幼い氷月を目が合うとにっこりと笑み、時に菓子を勧めたりもした。
一方で父は仕事によく打ち込む人間だったが、仕事がひと段落つくと幼い氷月を膝に乗せ、児童書や図鑑を共に読んだり『おまえの美形は母さん譲りだ』と大きな手で息子の頭を撫でた。
家には父の集めた多くの本があり、氷月は幼い頃から本を読み、成長し、小学生に上がる頃には読んだ本について、つたないながらも父と議論ができるまでとなっていた。
父も母も、そんな氷月の成長を喜んだ。

生来の感情の乏しさもあって、氷月はそんな二人に何も感じなかったが、少なくとも『ここは自分がいてもいい場所だ』とはうっすらと認識していた。
氷月は両親に好かれるため、二人といる間は『善良で利発な子供』の演技をしていた。

氷月の家から少し歩くと、自然豊かな裏山があった。
暖かい太陽と涼やかな木陰、風が運ぶ草と川の匂い。
両親は氷月が裏山で遊ぶのを歓迎した。
生まれて初めて氷月が生物の命を奪ったのも、この裏山だった。


最初は小さなカマキリが、どういう身体の構造をしているのか気になり、手に取った。
手足を引きちぎり、腹を潰し、頭をちぎった。
それだけだった。
だが、その時の氷月は、今まで感じたことのない『生の実感』をかすかに感じた。

カブトムシの角を切断し、殻ごと粉々に踏み潰した。
カエルを捕まえ、持ってきた刃物で内臓をほじくった。
毛虫が大量にいる藪に、近所の農家から盗んだ農薬を蒔いて悶え死ぬのを見
た。
時には父の書斎から得た知識を使い、氷月は生き物を殺し続けた。

生き物の命を奪うたびに、その『生の実感』は、氷月の中で確固たるものとなっていった。
それは、両親や友人と共にいても決して得られない感覚だった。

やがて、氷月が命を奪う対象は、小さな虫から鳥やリスなどの小動物、やがて野良の犬や猫へと変わっていった。

そして、

577美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:55:29 ID:036UrtBI0



氷月はソファに座り、傍らでうとうとしているアイの頭を優しく撫でていた。
その隣では叶苗が穏やかな目でアイと氷月を見守っている。
日月の目から見たその姿。
美術館に飾られた絵画のようでもあった。

だが、それでも日月は思う。

(氷月の雰囲気は安心できない)

物腰穏やかな彼は一見無害に思える。
だが、ちりちりと、心の隅には警戒感が生まれてしょうがない。

そして一番歯痒いのは。
どんなに警戒感を抱いても、今の日月にはこの男をどうすることもできないという絶望だった。

今の氷月は、この場の中心にいた。
彼は日月たちをこの廃墟へ導き、叶苗とアイの心を掴んだ。
日月は出会った時から氷月の違和感に気づき、警戒していたつもりだった。

『君は、今もアイドルで在り続けたい』

『そう思っているんだね』

先ほどのミニライブで掛けられた、なんてことない彼の言葉。
日月に重くのしかかる。
たとえそれが、ライブを始めた経緯を含めて氷月の計算だとしても。

嘘をつけなかった。
アイドルとして、また在りたい自分に。

「日月」

氷月が、自分を下の名前で呼ぶ。
煩わしい行いなのに言い返せない。

「……なに」
見ると、氷月は心配そうな顔を浮かべていた。
「見たところ、少し疲れているようだね」
「別に」
「久々にライブをやったんだ。気を張ってしまったんだろう」
「……だから何よ」
氷月が端正な顔に笑みを浮かべる。
昔絵本で見た砂糖菓子の男を思い出した。
「少し、一人になってはどうだい?」
氷月は言う。

「同じ空間に複数でずっと一緒にいるのは、安全だろうが疲れてしまう。僕もそうだ。きみは少し休んだほうがいい」

日月は氷月を睨んだ。
ーー実際、睨むことしかできなかった。
男の言うことはもっともなのだ。

「……」

日月は返答を考える。
考える最中無意識に見たのは、氷月とともにこちらを見る叶苗と、そのそばですやすや眠るアイだった。
日月は、目を細める。
「……」
今自分がこの場を離れたら、この二人はどうなってしまうのだろう。
そう巡って来た思考に勝手に苛立つ。

「……わかったわ。ちょっと頭、冷やしてくる」
日月は、一人外に出ることを選んだ。
叶苗とアイなどどうでもいい。
そう自分に言い聞かせて。
かつて二人を自分に託したジャンヌの言葉を一瞬思い出し、すぐに無理やり思考を切り替えた。
「いってらっしゃい」
氷月は苛立つ日月をよそに、にっこりと微笑んだ。
それと同じく、ソファで眠っていたアイの細目が開き、むにゃにゃむ、と伸びとあくびをする。
アイは、一人廃墟から出ていく日月を薄目でじっと見ていた。

578美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:56:49 ID:036UrtBI0


日月がこの場から消えて少し経った時だった。
叶苗は、自分たちのいる廃墟のドアを思い詰めた目で見つめていた。

「不安かい?」

アイを挟んで隣にいた氷月が、叶苗に問う。
「……はい」
「叶苗は優しい子だね。とても仲間思いの子だ」
氷月は微笑む。
「……だが、日月も自分と向き合いたい時があるんだろう。彼女の気持ちを汲んで、ここは一人にしてあげるべきだ」
「そう、ですよね……」
「それに、叶苗。僕たちの中で、きみも重要な戦力の一人なんだ。君まで動いてしまったら、せっかく築いたこの安全地帯が瓦解する危険だってある」
「はい……」
叶苗はうなだれる。
アイは、大きな目でじっと二人のやりとりを見ている。

数秒、無言の時間が流れる。

「ごめんなさい……氷月さん」
「どうしたんだい?」
「私、やっぱり……日月さんが心配です」

叶苗は、小さい声で、途切れ途切れに話す。

「私とアイちゃんがキングの命令で、どうしようもなくなった時……助けてくれたのが、ジャンヌさんと日月さんなんです。日月さんは、ジャンヌさんから私たちを託されて、ここまでついてきてくれた。日月さんは大切な人です。あの人が困ってるのに、見逃したりなんか……できな」
「ダメだよ」
叶苗の言葉を、氷月は唐突に遮った。

ビクリとする叶苗に、氷月は普段と同じ優しい笑みを見せる。
「僕だって、君たちが大事だ」
目を笑みに細め、叶苗に顔を近づける。
「いなくなってほしくない」
叶苗は、正体の掴めない寒気を背筋に感じた。

「あう。あうあう、あい?」
そんな二人の様子がよく掴めていないまま、アイが言葉を挟む。
「アイちゃん……?」
「あう、あう」
「アイちゃん。どうしたのかな?」
あうあうと鳴くアイを、氷月はニコニコと見下ろしている。

ふと、アイはおもむろに叶苗の服を掴み、ソファから降り、引っ張る。
「ちょっ、アイちゃん……!」
慌てる叶苗。
一方のアイは、廃墟の外を何度も顔で示す。
「あい、あい!!」
日月が出て行った方向。
その意図に先に気づいたのは、氷月だった。



氷月は一瞬、叶苗の頬を殴ろうかと考えた。
そしてアイに言う。
「きみがわがままを言うばかりに、きみの大切な叶苗が怪我したよ」



だが、氷月はそれをしなかった。
アイがその行為を理解できるか不明だったのと、彼女の超力が未知数だったからだ。
叶苗のことで逆上し、超力を発動されたらこちらにも危険が及ぶ。

氷月は砂糖菓子の紳士のようにニコ、と笑う。
「どうやらアイちゃんも日月が心配みたいだ。僕の完敗だね。アイちゃんは僕が見ておくから、行っておいで、叶苗」
「……ありがとう、氷月さん……!!」
叶苗はあっという間に晴れやかな表情になり、廃墟を飛び出して行った。

廃墟に残されたのは、氷月とアイの二人だった。
「……さてと」
これから、どうするか。

579美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:57:34 ID:036UrtBI0




廃墟群から少し歩いた川の流れる場所。
そのほとりに日月は一人座り込み、流れる川をじっと見ていた。

「……全然私らしくない」

氷月の顔が、あの時かけられた言葉が、日月の脳裏に繰り返される。
このままここに座り込んでいても、どうにもならないのはわかっている。
ではまた氷月のいるあの場所に戻って、何か変わるのか?
自分がいくら警戒しても、結局あの男に転がされるのがオチだ。
あいつに、勝てない。
離れて楽になりたかったはずなのに、先ほどよりも強い焦燥感が日月を襲う。

このままあいつらなんて捨てて、逃げてしまおうか。
そんな思考も過る。
どうせあいつらに義理などないのだから。

そんな時だった。

唐突に背後から聞こえた砂利を踏む音に、日月は一瞬神経を粟立たせる。
後ろを振り向く。

「あっ」

おどおどした表情の叶苗が、そこにいた。

「……なによ」
「ごめんなさい、日月さん。……びっくりさせちゃいましたね」

氷月でなくてよかったと内心安堵する自分を、日月は恥じる。
叶苗も、あの男とはまた違った意味で苦手ではあるのだが。

「その、日月さん。思い詰めた顔をしてたから。心配して見にきたんです」
「私は別になんともないわよ」
嘘だ。正直逃げ出したい。
日月から見た叶苗の姿は、弱々しい眼差しで、困ったような顔をしている。
「……」
日月は、じっと叶苗の顔を見る。
おそらくあのグループの中で、彼女が最も氷月の影響を受けている。
「日月さん?じっと見て、どうしたんですか?」
「別に」
この少女といくら話したところで、どうせ状況は大して変わらないとは思いつつも。

「叶苗」
突然名前を呼ばれびくっとする叶苗を目で捉え、叶苗は自分の隣をちょん、と指差し誘った。
「えっ、日月……さん?」

日月は叶苗に言う。
「ちょっと来なさい。気分転換に、世間話でもしましょ」

それが意味がないとわかっていても、日月はそうせざるを得なかった。
少しでも、氷月のプレッシャーから逃れられるなら。
そんな気持ちだった。

580美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:58:38 ID:036UrtBI0



日月と叶苗は、二人、川のほとりに座っていた。

叶苗を隣に座らせたはいいものの、両者とも肝心の話す話題が浮かばず、川のせせらぎの中、しばらく気まずく無言だった。

無言に耐えきれず、最初に口を開いたのは日月だった。
「……あんた、」
「あっ、はい」
叶苗がしどろもどろに反応する。
「なんか喋りなさいよ」
「えっ」

あなたが世間話をするよう持ちかけたのでは……
という意見をぐっと飲み込み、叶苗は頭を回転させ必死に話題を探す。
だが、結局話題は見つからず、申し訳なさそうに叶苗は耳を垂らした。

「ごめんなさい、無理です……」
「……そう」

再び、無言の時間が流れた。


二人とも、何も喋らずただじっと川を見ていた。
決まったリズムで、永続的に刻まれる川の音。
生物の気配が一切ない事を除けば、何の変哲もないよくある川。
時折穏やかな風が凪いで、叶苗と日月の髪を揺らした。


「……日月さんのさっきのライブ、すごかったです」
長い無言の後に口を開いたのは、叶苗だった。
「プロだもの。あれぐらいできて当然よ」
「プロとかプロじゃないとか、私にはよくわからなかったけど……すごかった。本当に」
「ありがと」
「ここが刑務作業の場所じゃなくて、お姉ちゃんが生きてたら、見せたかったです」
「……そう」
日月は隣を見ると、叶苗と目が合った。氷月の言葉に心酔している時とは違った、空を映し、輝きの灯った目だった。
日月と目が合った叶苗は「にへへ……」とはにかみ気味に照れた。

「その……アイドルって、実際どんな感じなんですか?レッスンとか、サインを書くのも、日月さんなら簡単にこなしちゃうんですか?」
「あんたが見た通りよ。……と言いたいけど、レッスンはけっこうハードね。辛い、と思った時も何度もある。サインを考えるのは楽しかったわね」
「そうなんですか……ファンから応援されるのとか、やっぱり嬉しいですか?」
「嬉しい。そりゃあ、すごく」
「へぇ……」
叶苗は大きな目を見開く。
日月のアイドルとしての日々を、夢想しているようだった。
かと思えば、何かに思い当たったのか、急に押し黙る。

「どうしたのよ」
「いえ、その……」
先ほどまでの夢見る様子とは一変し、叶苗は俯き縮こまる。
その反応を見て日月は察した。

581美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 17:59:29 ID:036UrtBI0

「安心しなさい。枕営業なんてしてないわ」
その言葉に、叶苗は身を起こす。
日月は続ける。
「私はとっくのとうに処女じゃない。恥ずかしいことなんてない。アイドルになるずっと前から、身体を使っていろんな男に取り行ってきた」
「日月さん……」
「けどアイドルの私は違う。アイドルとしての私は身体で成り上がることなんて絶対にしない。今までも、これからも。ーーそれが答えよ」
「……やっぱり、すごいです」
関心する叶苗を日月は目を細めて見ていたが、

「あんたも何か喋りなさいよ、叶苗。私ばっかり話して、不公平じゃない」
「えっ、私ですか?!でも日月さんに話すほどのものは……」
「何かあるでしょ。好きだったものの事とか」
「好きだったもの……」

そう言われて叶苗が真っ先に浮かんだのは、かつて暮らしていた家族の事だった。

「……私の家族のことでも、いいですか?」
「……ま、それでもいいわ」

叶苗は日月に言われるままに、家族のことを話した。


家事を手伝ったご褒美にもらえるクッキーバニラアイスがおいしかったこと。

姉と一緒に夜の映画を最後まで観ようとして、仲良く寝落ちしたこと。

お風呂で身体をきれいにした時、お母さんに毛皮を乾かしてもらう時間が好きだったこと。

お父さんと、次の旅行はどこにしようかと一緒に計画するのが楽しかったこと。


喪失と復讐に塗り替えられ、もう失ったと思われた家族の思い出。
話せば話すほど思い出はたくさん出た。
日月は、叶苗の話を静かに聞いていた。

やがて話しているうちに、叶苗の目からぼろぼろと、大きな涙がこぼれた。

「あっ、ーー……ごめんな、さ」

不意の涙はやがてすすり泣きに変わる。
そんな時に、


日月が、そっと叶苗を抱きしめた。


「……っっ」


最初、叶苗は何をされたのかわからなかった。
だが、状況を少しずつ把握し、日月の抱擁の暖かさを感じると、
叶苗も彼女の背中に腕を回し、肩に顔をうずめ、無言で泣いた。

日月も、自分の行動に驚いていた。
無意識に身体が動いた。
かつて掛けられたジャンヌ=ストラスブールの言葉を思い返す。

『あなたは親切な人だから』

だが、彼女の言葉がなくとも、果たして自分はこれをせずにいられただろうか。


「……あんたの話は、よくある話よ。ありきたりな家族の話」
叶苗を抱きしめながら、囁くように日月は言った。
「なんてことない毎日が幸せで、ずっと続いて欲しかった。失ったからこそ大事だと気づいた。そんな、よくある話」
「……はい…………」
「……あんたは、幸せを取り戻したかったのね」


午前の静かな川に、叶苗の嗚咽が漏れた。

582美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 18:01:25 ID:036UrtBI0


「……さっきはごめんなさい」
「別にいいわ」
少しだけ時間が経ち、お互い隣同士、肩と肩をくっつけていた。

「……日月さん」
「何?」
名前を呼ばれ、日月は振り向く。
叶苗は、少しためらいがちに問う。
「アイドルに……また戻りたいですか?」
日月はこの問いを聞き、一瞬氷月の言葉が脳裏に浮かんだ。
だが、今目の前にいるのは氷月でなく叶苗だと。
気持ちを切り替え、答える。
「……なれるものならね」
日月は空を見上げる。

「……叶苗。今まで生きてきた中で、眩しいって思った瞬間はあった?」
「えっ、私は……お母さんやお姉ちゃんたちといた時とか、かな」
「そ。あんたらしいわね」
「でも……やっぱり考えたら、あります。お姉ちゃんと一緒に見たアイドルのライブとか、あと……日月さんのさっきのライブ。すごくキラキラしてました」
日月は、無意識に少し微笑んだ。

「ねぇ……叶苗」
天を仰ぐ日月は、自分の手のひらを、空に昇る太陽に掲げた。
「私の人生、クソみたいなもんだったけどーーアイドルの私は眩しいって、自分でもはっきりわかった。ステージに上がって歌う時は、心底生きてるって感じがした。私はーーアイドルをやってる自分のことが好き」

訥々と喋る日月の姿。
そんな彼女を、叶苗は心底眩しいと思った。

叶苗は微笑む。
「……私も見つけたいです。自分で、眩しいって思えること」





叶苗と日月が語らう場から少し離れた草陰。
そこに氷月は一人隠れ、じっくりと二人の会話を聞いていた。

『少し二人の様子を見てくる。寂しいかもしれないが、ここで待っていてくれないか』
アイにはそう言って、拠点の民家で待機してもらっている。

日月も叶苗も、言葉のやりとりを経てお互いの心を絆されたようだった。
この事により、もしかしたら自分の支配が綻んだかも知れない、と氷月は考える。
叶苗を日月のところに行かせるべきではなかったと、少し後悔する。
ーーだが、そうなってもやりようはある。

「えへへ、私……日月さんのおかげで、もしかしたら夢を見つけた気がする」
「どんな夢?聞いてあげる」

日月と叶苗はこちらに気づいていない。

「私……日月さんみたいにキラキラ輝くのは無理でも、輝きを失っている人に、ちょっとでも優しくできたらな、って思うんです」
「そう」

もじもじしながら微笑む叶苗と、まんざらでもない面持ちで叶苗の話を聞く日月。
さて、これからどうするか。
話がひと段落ついたところで、二人の前に現れようと氷月は考えていた。

「日月さんに抱きしめてもらった時、すごく嬉しかったんです。自分の根っこの大事なところを、暖かい光で包まれた感じ。私、人を殺したから幸せになっちゃいけないと思ってたのに……安心しちゃって」
「あんたは確かに罪を犯したけど、大切なものがあるのは確かだった。……それだけよ」
「だから……私、思うんです」
叶苗は続ける。


「どんな罪を犯そうとも、人は必ず、抱きしめて許してくれる人を求めてるんだって」


氷月の目が見開く。


「幸せに、みんななりたいんです」



一連の言葉を聞いた途端だった。
氷月に、急激に過去の記憶がフラッシュバックした。




583美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 18:02:47 ID:036UrtBI0



そして、11歳の頃だった。

氷月は飼い犬を殺した。

両親ともに、可愛がっていた犬だった。
氷月も、上辺ではその犬を大切にしているように振る舞っていた。
そんな飼い犬を彼が殺したのに深い理由はない。
『ただできそうだったから』
それだけだった。

飼い犬の死体を処理した日、それは雨粒が大地を打ちつける激しい雨の日だった。
氷月は裏山で、雨と泥に塗れながら犬の死体の処理をしていた。

そんな時、後ろに気配を感じて振り向くと、雨水に服を濡らし立ち尽くす母の姿があった。
母は息を切らしていた。
ひどい雨の中、家にいない氷月を必死に探したようだった。
母の目は、氷月と、彼が今まさに解体している愛犬の成れの果てをじっと見ていた。

「蓮……」

母が蚊の鳴くような声で名を呼ぶ。
もはや役に立たない傘を捨て、じりじりと、一歩一歩、息子に歩み寄る。
すべてが終わった。
母を冷静に見ていた氷月は、そう考えていた。
氷月が両親から逃げた後の生活を考えていた時、


母は氷月の目線にしゃがむと、彼をぐっと、力強く抱きしめた。


予想できなかった事態に、氷月は一瞬固まった。
雨に濡れて冷え、それでも少しずつ暖かくなる母の体温が伝わってきた。
母は氷月を抱きしめながら言った。

「私もあの人も、仕事にかかりきりで……本当にごめんなさい。ひとりぼっちで、寂しかったのよね」

抱きしめられた氷月は、目を見開く。

「幸せに飢えていたから、こんな事をしたのよね」

何か言おうとした舌が固まる。

「あなたが気に病む必要はないのよ」



『かわいそうに』



その時生まれた感情を、氷月は鮮明に覚えている。

憎悪。

自分の根底にある尊厳を、汚物と脂に塗れた手でもみくちゃにされ、指でずたずたにされる感覚があった。

『そうだよ。お父さんとお母さんがかまってくれなくて、寂しかったんだ』
母の誤解に話を合わせるのが耐え難い苦痛だった。

その後は犬を埋め、家に帰った。
父は、氷月が犬を死なせたことを叱りながらも、雨の中出かけた事、氷月の孤独と悲しみを心配した。
もう動物は殺さないと、両親に約束した。
それ以来氷月にとって、今まで安全地帯だと思っていた家は、うねる害虫の腹の中にいるような感覚に変わった。
動物はもう殺さなかった。
父と母の目につく場では。


氷月が逮捕されるきっかけとなった、同級生殺害事件。
殺した事に理由はなかった。
『殺せそうだったから殺せた』
ただそれだけである。

けれど、もしそれに理由を見出すとすれば。

幼い頃から氷月は聡明な少年だった。
同級生たちを殺す際、その気になれば事件が発覚する前に証拠を隠滅し、完全犯罪も可能だった。
だが、氷月はなぜかそれをしなかった。
隠せたはずの事件の証拠も、氷月が圧力をかければ黙らせることができた関係者の証言も、わずかだが確実なものが残されていた。
その結果彼は少年Aとして逮捕され、刑務所に収監された。

あえて証拠を残し、自分が犯人だとわかる余地を作ったのか?

その答えはわからない。
氷月本人にも。

氷月が刑務所に収監された少し後、彼の父が心中で命を落とし、生き残った母は精神病院に入れられたと報せが来た。
その日、氷月は普段丁寧に食べているレーションをよりじっくり味わい、看守から怪訝な目で見られたという。




584美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 18:03:51 ID:036UrtBI0


「叶苗!日月!」

川辺にいる二人の前に、氷月は手を掲げながら姿を現した。

「ずいぶん仲良くなったみたいだね」
にっこりと、氷月は二人に微笑みかける。
「えっ、……まぁ……」
気まずい様子の日月とは裏腹に、叶苗の顔はにこやかだった。
「氷月さん。私、夢を見つけました。日月さんが教えてくれたんです」
「そうか。それはよかった」
氷月は叶苗に笑いかけた。
叶苗は続ける。
「私……どんな罪を犯した人でも、その人の寂しさを癒せる人になりたい。暖かさや、眩しさを、ほんの少しだけでも分けてあげられる人になりたい。そう、思いました」
「……素敵な夢だね」
氷月は微笑む。

だが、その場にいた日月だけが気づいていた。
氷月の眼差しが、ぞっとするほど冷たいことに。
叶苗の語る夢を聞く氷月は微笑んでいる。
だが、目に笑顔はなく、視線は冷えていた。

「よくやったね、叶苗。夢を得られただけでもいい事だ。だが、急いではいけない。まずは自分のことを少しずつ満足が行くようにしよう」
「はい……!!」
喜ぶ叶苗の表情を、氷月は猛禽のような目で見ていた。
それに気づいたのは、日月だけだった。

「拠点にアイちゃんがいるんだ。今頃僕たちがいなくて寂しがっているだろう。早く帰ってあげないと」






「叶苗」
拠点とする民家に氷月の先導で戻る最中、日月が叶苗に話しかける。

「?どうしたんですか、日月さん?」
「あんた……氷月には、気をつけなさい」
日月は、意味がないとはわかりつつも、叶苗にだけ聞こえるように囁く。
「でも、氷月さん……いい人ですよ?あの人のおかげで助かったこと、たくさんあるし……」
「それでも注意はしてなさい。あんた、意外とワキが甘いから」

日月は一呼吸置くと、
「そもそもここは犯罪者が集まって殺し合いをさせる場所。あいつは動機が復讐と言ったけど……何か隠してる可能性がある。注意するに越したことはないの」
「そう、でしょうか……」
「下手すれば自分の命に関わる問題よ。シャキッとしなさい」
「……はい」
やがて、拠点としている廃墟の民家が見えてくる。
「アイちゃん……寂しい思いさせちゃったな」
「そうね」

氷月、叶苗、日月の3人は、拠点の民家に向けて歩く。




585美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 18:04:52 ID:036UrtBI0



【C-7/廃墟東の民家/1日目・午前】

【氷月 蓮】
[状態]:健康、憎悪の感情
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
1.この集団の信頼を得る。
2.集団の中で殺人を行う。
3.殺人のために鑑日月を利用する。

【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.???
1.氷月への警戒を強める。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。

【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
3.(ここはどこだろう?)
4.(れんはきらいじゃない)

【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感、夢を得た高揚感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.寂しさを持つ人に寄り添いたい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月さんは、きっとアイドルで居続けたい。

※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
 以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。

[共通備考]
※デジタルウォッチには恩赦ポイントの増減履歴を参照する機能があります。
どの受刑者の首輪からポイントを回収したのかを確認することも可能です。
※首輪には装着者を識別する囚人番号と個人名が刻まれています。
※交換リストに「参加者詳細名簿-80P」があります。

586美獣の鱗(りん) ◆8vsrNo4uC6:2025/07/12(土) 18:05:13 ID:036UrtBI0
投下終了です

587 ◆H3bky6/SCY:2025/07/12(土) 22:54:35 ID:cdR3BCEQ0
投下乙です

>美獣の鱗(りん)

猟奇殺人者が小動物から殺していく典型的なやーつ、愛犬まで殺っちまうのは流石のサイコパス
氷月ほどの才覚があれば犯行を隠せたと言うのは言われてみればそんな気もする、わざわざ発覚させたのは両親への憎悪の発露だろうか

日月は氷月を警戒しているけれど、相手の口のうまさと立ち回りは怪物じみているのでもどかしい
川辺での日月と叶苗の語らいが実にいい雰囲気、氷月の居ぬ間に心の洗濯をしている川だけに

不器用な生き方をしている二人だけに会話の切り出し方も不器用である、日月のアイドルに対する真摯さと誇りだけは一貫している
日月のライブと対話を経て叶苗の得た、罪を犯した人間も赦してくれる人を求めてると言う結論、罪と罰に対する核心的な境地に至っていないか?
その結論があるからこそ、自分の罪を赦した両親の優しさすら尊厳を踏みにじるものと感じた氷月の捻じれが際立ってしまう
日月と叶苗の絆が深まったけど、それが氷月対策の一助となるだろうか

588 ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:07:10 ID:8FFM1Q/20
ジョニー・ハイドアウト、ディビット・マルティーニ、エネリット・サンス・ハルトナ
ゲリラ投下します。

589スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:07:47 ID:8FFM1Q/20



 自分は一体、何のために戦っているのか。
 そんな葛藤を抱いたことは、数え切れない。

 廃材(スクラップ)に溢れかえった世界。
 希望が泥に塗られていく世界。
 信義も、誇りも、悪徳の前に踏み躙られていく。
 退廃に汚れた現実を、幾度となく目にしてきた。

 故に、今回も同じだった。
 いつものように、己は何かを失っていく。
 とうの昔に、慣れ切っていた。
 何かを取り零すことなど、そう珍しくはない。
 開闢を経た世界では、いつだって諦念が横たわる。

 悪を成し、狡猾に生きるか。
 奪われ、搾取されて生きるか。
 現実から目を逸らし、怯えながら生きるか。

 それがこの世界を歩む術。
 掃き溜めを這い回る者達にとっての常識。
 ジョニー・ハイドアウトは、そんな世界で生まれた。

 自らの“本当の名”さえ知らず、必死に生きていた幼き日。
 あの日の少年は、いつだって見上げていた。
 決して届かぬと分かっているにも関わらず。
 それでも、果てなき青空へと――手を伸ばし続けていた。




590スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:08:18 ID:8FFM1Q/20



 ジョニーは、真っ直ぐに見据えていた。
 緩やかな岩場の斜面に立つ、凛とした青年の姿を。
 褐色の肌を持つ、優雅なる佇まいの受刑者を。

 エネリット・サンス・ハルトナ。
 アビスの申し子。亡国の騎士。
 彼は青空を背負い、ジョニーを見据えていた。

 その手に握られているのは、四つの首輪。
 受刑者を等しく縛り付ける拘束具。
 そして彼らの死を証明する、確固たる遺品。
 無期懲役、死刑――亡き者達の罪がそこに刻まれている。

 あの場から飛び立ったルメス=ヘインヴェラートの姿はない。
 眼前のエネリットは、彼女の行方を語らない。
 彼女の存在についても触れることなく、そこに立ち続けている。

 メアリー・エバンスの領域は、もはや展開されていない。
 世界は異常から解き放たれ、あるべき姿へと戻っている。
 それが意味することを、ジョニーは理解できた。

 誰が生き残り、誰が散っていったのか。
 彼女が救うべく伸ばした手は、何かを掴み取れたのか。
 ジョニーは否応なしに、答えを突きつけられることになる。


 ――――よう、チェシャ猫よ。
 ――――報酬の話もまだだってのに。
 ――――随分と静かになっちまったな。


 その首輪が“遺品”であることに気付かぬほど。
 鉄の騎士は、愚かにはなれなかった。
 彼はただ、眼前の現実を受け止める。

 義に生きた怪盗は散っていき。
 少女は救われぬまま命を落とした。
 それが、この戦いの結末だった。

 鉄屑の内側。魂が静かに冷えていく。
 悲壮の静寂が、淡々と押し寄せてくる。
 遣る瀬ない感情が、込み上げてくる。

 幾ら虚しさを抱こうとも。
 幾ら哀しみを嘆こうとも。
 現実という答えは変わらない。

 そう、終わったのだ。
 彼女の戦いは、終わってしまった。
 ただ、それだけだった。

591スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:09:56 ID:8FFM1Q/20

「そちらは、協力者の方ですか」
「ああ。便利屋のジョニー・ハイドアウトだ」

 ジョニーを一瞥した後、エネリットは問いかける。
 鉄の騎士と共に居た男――ディビット・マルティーニ。
 メアリー・エバンスとの対峙のために、一時的に結託した男。
 そして刑務開始当初からエネリットと結託をしていた受刑者である。

「で、最初にくたばったのは?」
「“魔女の鉄槌”です」

 ジョニーの葛藤をよそに、ディビットとエネリットは会話を交わす。
 それは事務的な状況確認だった。

「その次に“怪盗ヘルメス”が命を落とし、そして僕がメアリーを仕留めた」

 エネリットは淡々と事実を語る。
 まるで事務処理を行うように、戦局を報告する。

「この刑期20年分の首輪は、メアリーが所持していたものです。
 恐らくは彼女の領域に殺された受刑者のものでしょう」

 その声色には、さしたる感慨もなく。
 ただ淡々と、簡潔に告げられていく。

「獲得の順番は、今の通りで宜しいですね」
「それで構わん」

 そうした遣り取りを経て、二つの首輪がディビットへと投げ渡された。
 “死刑”と“無期懲役”の首輪。記された刑期を確かめて、彼はそれを未使用のまま懐へとしまう。
 ポイントを確保するか、あるいは交渉材料として保持するか。
 その判断は現時点では保留とした――エネリットも同様だった。

 ――首輪はポイントに関係なく、先にディビット、次にエネリットと交互に所有権を得る。
 刑務開始直後に交わした約束通り、二人は事を進める。
 そして今回の首輪入手の流れは“死亡順”とした。

 ドミニカの死によってメアリーの領域が破綻。
 その過程でルメスが接近、説得を行うも失敗。
 そしてルメス殺害直後の隙をついて、エネリットがメアリーにトドメを刺した。
 刑期20年の首輪――宮本麻衣のものである――に関しては“メアリーの死亡に伴い入手”と判定。
 
 戦況の流れはディビットにも推測できたが故に、認識の擦り合せは円滑に進んだ。 
 よって第1、第3の首輪――ドミニカとメアリーの首輪をディビットが確保し。
 残る第2、第4の首輪――ルメスと麻衣の首輪をエネリットが確保する形になった。

592スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:10:38 ID:8FFM1Q/20

 首輪の所有権に関する話は、円滑に進んでいく。
 共に打算を理解しているが故に、不要な波風を立てない。
 これまでの取引に基づいて、黙々と履行するだけだった。
 それがアビスの掟を知る悪人にとっての合理だった。

 ジョニーは、無言でそれを見届ける。
 何も言わず、何も訴えず。
 沈黙の中で、苦渋を噛み締める。

「便利屋」

 やがてディビットが、ジョニーへと呼びかける。

「ヘルメスは残念だったな」

 淡々と、ディビットはそう呟く。
 哀れみもなく、ただ事実を確認するように。
 ジョニーは、何も答えない。

「お前はこれからどうする気だ」

 ディビットは、沈黙を貫くジョニーへと問う。

「こっちは少々“人手”を求めている」

 欧州の帝王、ルーサー・キング。
 彼の抹殺を視野に入れて、ディビットは言う。

「手を貸すのならば、前金として首輪の融通をすることも構わない」

 それは、新たなる依頼の提示だった。
 こちらの戦力に加わるのならば、恩赦ポイントを分け前として与える。
 ディビットはジョニーを便利屋として見込み、彼を引き込もうとしていた。

 ジョニーはルメスを失った。
 しかしディビットには、エネリットが付いている。
 二体一。主導権は当然、ディビットの側にある。

「依頼を引き受けないか。“鉄の騎士”よ」

 ジョニー・ハイドアウトは、答えを返さず。
 無言の中で、思案に耽り続けていた。

 何かを取り零し、何かを失っていく。
 これまでも、そんな道筋を歩み続けていた。
 きっとこれからも、同じなのだろうと。
 彼は無言のままに、言い知れぬ確信を抱く。

 それでも。そうだとしても。
 己が戦い続ける意味とは、何なのか。
 ジョニーは、追憶する。




593スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:11:46 ID:8FFM1Q/20



 ――――時は遡る。
 それは第一回放送直前のこと。
 ルメス=ヘインヴェラートとジョニー・ハイドアウト。
 彼らが夜上 神一郎と邂逅した直後の遣り取り。

『なあ、へルメス』

 最初の放送を目前に控えていた中。
 傍に立つルメスへと、ジョニーが呼びかける。

『この世界の深淵には“闇”が潜んでいる。
 例のネイティブ・サイシンの話もそうだ』

 その言葉を聞き、ルメスは微かに目線を落とす。
 ネイ・ローマンから突きつけられた、自らの正義の矛盾。
 裏目に出た意思の顛末――その象徴たる出来事。
 それを振り返り、彼女は負い目を抱きつつも。

『人間が業を成すのなら、業を正せるのも人間だけだ』

 それでも彼女は、ジョニーの言葉と共に。
 その視線を再び上げて、彼へと向き直る。
 あの件は己への戒めであることには間違いなく。
 故に、絶望に打ちのめされる訳にはいかなかった。

『……だからこそ、お前が背負うような“意志”は絶やしちゃならないのさ』

 確固たる想いを宿しながら、静かに語るジョニー。
 そんな彼の言葉に対し、ルメスは毅然とした眼差しで応える。
 例え世界が何処までも醜くとも、歪んでいようとも。
 誰かを救う為の手を伸ばすことは、決して止めてはならない。

 ルメスはそれを理解していた。
 そしてジョニーも、その意志を認めていた。

『改めて――詳しく聞かせてくれ。
 お前が掴んだ“世界の秘密”について』

 だからこそジョニーは、踏み込むことを選ぶ。
 怪盗から断片的に伝えられた、この世界の深淵。
 その箱の底へと触れることを、彼もまた望む。
 ――――ルメスは、そんなジョニーを真っ直ぐに見つめていた。

 結局の所、ヴァイスマンの超力の前には全てが筒抜けだ。
 幾ら盗聴等への対策を行おうとも、彼はその秘匿すらも見通すだろう。

 そしてルメス達は、既に察していた。
 受刑者達の転送を担っているのはミリル=ケンザキ看守官。
 この刑務に何らかの意図があるとすれば、受刑者の配置も作為的なものと思われる。

 世界の深淵に触れたルメスを参加させ、面識のある便利屋との接触を意図的に誘導したのであれば。
 刑務内での“情報伝達”さえも、彼らにとっては織り込み済みである可能性が高い。

『まずは先に、話さなきゃいけないことがある』

 故にルメスは、それを“語る”ことを選ぶ。
 例えこの行動さえも、彼らの思惑通りだったとしても。
 それでも彼女は、伝えねばならないと判断した。
 もしもの時。自らが命を落とした時に、その意志を託す為に。


『――――“世界を救ったとされる男”の話よ』


 怪盗は、便利屋へと語る。
 世界の深淵を暴くに至るまでの物語を。

594スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:12:22 ID:8FFM1Q/20

『欧州超力警察機構の実働隊である“対超力犯罪特殊部隊”。
 そこに属していたのが、“世界を救ったとされる男”』

 ゆっくりと、しかし滔々と語るルメス。
 その含みを持った言い方に、ジョニーは訝しむような表情を見せる。

『……“救ったとされる”ってえのは、随分と曖昧な物言いだな』
「ええ、そうよ。彼は世界を救ったにも関わらず、その“痕跡”しか残されていない」

 それは実に、奇妙な物言いだった。
 ルメスは“その男”をひどく曖昧に語る。
 世界を救ったとされ、今では痕跡だけが残された人物。

 表と裏の社会に精通するジョニーでさえも、そうした人物には覚えがなかった。
 故に疑問を抱いたジョニーは、改めてルメスへと問う。


『何者だ。そいつは』
『“嵐求 士堂(ラング・シドー)”』


 ジョニーの問いかけに、一呼吸を置き。
 世界を救ったとされる男の名を、ルメスは告げる。
 彼は某国の警察から“欧州超力警察機構”に引き抜かれ、特殊部隊に属することになった捜査官ただった。


『その男は、ピトスの箱に触れてしまった』

 
 ルメスとジョニーには、知る由もなかったが――。
 彼はかつて、ソフィア・チェリー・ブロッサムの同僚にして恋人だった男。
 世界から忘却され、彼女が焦がれ続ける、久遠の幻影である。

595スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:13:03 ID:8FFM1Q/20



 開闢以降にGPA本部の多大な恩恵を受けた日米とは異なり、現在の欧州は犯罪の温床となっている。

 かつては“世界の危機”を前にし、あらゆる国家がその垣根を越えて手を取り合った。
 しかしそれを乗り越えた先では、再び国家間の利害関係が顕在化する。
 特に“GPA欧州支部”は前時代のEUを母体にし、その非加盟国をもなし崩し的に取り込んで誕生している。
 故に開闢を迎えた後に、それらにまつわる問題が大きく浮かび上がった。

 超力という新たな混乱と資源を前にして、欧州は前時代の“EU懐疑論”を引きずる形で対立した。
 歯止めの効かない超力犯罪への対策、超力研究の共有や人道的是非。
 超力人材の奪い合いによる国家間の緊張。前時代同様の経済基盤に基づく軋轢。

 開闢直後に浮き彫りになった政治的不和は、欧州全土の足並みを乱した。
 政情の混乱はGPAによる統制を妨げ、結果として組織犯罪の台頭を許す形となった。

 そしてフランスの一大マフィアである“キングス・デイ”が急拡大を果たし、新時代最大の犯罪組織へと成長した。
 彼らの政治と経済に及ぶ社会掌握と広域的なネットワークに各国政府は対処し切れず、やがて欧州は組織犯罪と不可分の地域になった。
 そうした状況は、前時代のコミックヒーローから名称を引用した“アヴェンジャーズ”と呼ばれる自警団が活発化する土壌にもなった。

 オーストラリアとラテンアメリカの“麻薬密輸戦争”の中心地にもなったように。
 今現在、新時代の欧州とは大規模な組織犯罪の総本山と化している。
 あらゆる商業や産業の陰にマフィアが絡んでいるとされ、犯罪に基づく経済活動が完全に定着している。
 それにより人道の問題や貧富の格差も拡大し、民間人による非行や市街地のスラム化も後を絶たない。
 そうして治安の悪化した地域で、マフィアが顔役として自警活動を仕切る――そんな悪循環が繰り返されていた。

 欧州の犯罪地帯化を加速させたのは、紛れもなく“キングス・デイ”である。
 故にその“きっかけ”もまた、6年前のルーサー・キング逮捕を発端とする。

 あの“キングス・デイ”の大首領の逮捕に成功し、国際裁判での有罪が確定したのだ。
 それから間もなく、GPA欧州支部は諸々の確執を棚に上げてようやく結束した。
 彼らは欧州最大の悪党であるキングの逮捕に乗じ、悪化し続ける欧州犯罪情勢の収拾を図った。

 結束したGPA欧州支部は“欧州超力警察機構”を設立。
 欧州全域の治安維持と犯罪掃討を目的とし、諸国を跨いだ捜査権と逮捕権を持つ機関である。
 その実働部隊として、各国の警察から選抜された警察官による“対超力特殊部隊”も結成された。
 ソフィア・チェリー・ブロッサム、ラング・シドーはそうしてGPA直属の捜査官となった。

 欧州における国境の垣根を超えて犯罪捜査を行う“欧州超力警察機構”は一定の成果を上げている。
 しかし致命的な初動の遅れは覆せず、余りにも盤石化した組織犯罪の根絶には程遠いのが実情である。

 こうした欧州支部の失敗は、GPA本部高官による“超力の管理・均一化”の構想を推し進める要因になったとされる。




596スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:14:38 ID:8FFM1Q/20


『シドーはGPAが抱える“計画”を掴んだ。
 世界の深淵で、禁忌の蓋を開けてしまった』

 それは、秩序の統制者が秘める陰謀。
 社会の裏側。世界の暗部。
 深淵の奥底に隠された、変革の種。

『そしてシドーは告発しようとした。
 彼らにとっての逆鱗。触れてはならないタブーをね』

 GPAの警察機構に属する青年は、恐らく偶然にそれを知ってしまった。
 彼は正義と秩序の影に潜む“計画”を、内部から暴こうとしていた。 

『だけど、GPAは当然シドーの動きを察知していた。
 その告発を封じ込めるべく、彼を罠に嵌めた』

 しかし、個人の力には限界があった。
 余りにも強大なシステムは、逆に告発者を掠め取ったのだ。

『認識の阻害か、現実の改変か……原理は不明だけれど。
 ともかくシドーは、“事実を捻じ曲げる超力”を持っていた』

 GPA直属の捜査官であるシドー。
 彼の超力は当然上層部も把握している。
 それ故に黒幕達は、その超力を利用した。

『だからこそ自らの超力によって、自分の存在もろとも“告発”を抹殺するように仕向けられた』

 シドー自身の手で、告発を抹殺させるべく。
 彼らは手を回したのだ。

『そうしてシドーは、任務として“世界を滅ぼす敵との戦い”に駆り出された』

 ――――世界の危機。世界の存亡を懸けた戦い。
 そう呼ぶに相応しい“敵”が、他でもないGPAの手で差し向けられた。

『それは既に死刑判決を受けて、地の底で密かに服役していた囚人だった』

 かつて魔の海域(バミューダ・トライアングル)を支配し、数多の災厄を引き起こしたとされる女。
 “死海の魔女(セイレーン)”と畏れられ、GPAが結集した精鋭部隊によって制圧された怪物。
 その果てにアビスへと収監され、空間対象超力実験の被験体となった“秘匿受刑者”。

 その被害は余りにも甚大であったが故に、シドーによる事象改変後の世界においても“現象”として痕跡が刻まれていた。
 ドン・エルグランドが彼女の存在を“嵐の化身”として記憶していたように。

『その強大な敵を止めるために、シドーは“事象改変”を使うように追い込まれたの』

 2年前に彼女は“脱獄囚”という名目で解き放たれ、そして特殊部隊が討伐へと向かった。
 ――既に彼女は正気を失い、超力に突き動かされて憎悪を振りまく災厄と化していた。
 狂乱の嵐と化した魔女を止めたのは、超力を発動したシドーの自己犠牲だった。

『彼はそうして世界を救った。
 その存在と引き換えに、誰にも省みられないままに』

 告発者を始末し、用済みになった囚人をも処分した。
 全ては筋書き通りに事が運んだのだ。

597スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:15:50 ID:8FFM1Q/20

『事件はそれで終わり、告発も闇に葬られる筈だった』

 シドーのネオスは“対象の存在抹消”すら可能とする。
 いわば概念干渉型の超力であるが故に、世界へと絶大な影響力を齎すのだ。
 それによって彼の存在、彼の告発は全てが葬られた――その筈だった。

『だけどシドーを巡る顛末と事の真相についての“記録”が、超力暗号として密かに残されていた』

 しかし同様に概念干渉が可能な超力を持つ者、あるいはその超力を利用したシステムならば。
 認識阻害や現実改変の影響を突破し、情報としての“記録”を残すことも不可能ではない。
 ――彼の軌跡と、彼が掴んだ世界の秘密は、この世界に遺されていた。

『そして時を経て、私はその“記録”を偶然盗み出した』

 それこそが、ヘルメスの掴んだ“世界の深淵”。

『私はそれを通じて、彼の軌跡――そして“秘められた計画”を知った』

 闇に触れた男の告発は、“伝令の神”の異名を冠する怪盗ヘルメスへと受け継がれた。
 彼が開いたピトスの箱。その禁忌は、今なお解き放たれる時を待ち続けている。

『何故、告発にまつわる記録がわざわざ残されていた?』

 その話を聞き、ジョニーは問いかける。
 当然の疑問だった。闇に葬られたはずの情報が、なぜ秘密裏に保管されていたのか?
 
『“記録”を保管していたのは、GPA本部とのコネクションを持つ欧州支部の官僚よ。
 シドーの抹殺にも関与したとされるけど、同時に本部の高官とは水面下での確執や対立もあったらしいわ』

 これは私の見立てだけれど――と、ルメスは前置きをして。

『その官僚は、闇に葬られた告発を密かに拾い上げたんだと思う。
 有事の際に本部を揺さぶる為の“切り札”として、シドーが掴んだ陰謀を利用しようとしたんでしょうね』

 つまりシドーの告発は、GPAの政治的駆け引きの武器として利用されかけたのだ。
 本部との確執を持つ支部の官僚が、一種の“脅迫材料”としてそれを確保していた。
 そして彼の超力は割れているからこそ、事象改変を突破して“記録”を残せる超力人材も用意することも出来たのだろう。
 闇に葬られた筈の情報が“記録”されていたことについて、ルメスはそう推測していた。

『しかし奴さんは、そいつをまんまと怪盗サマに盗まれたと』
『ええ。間の抜けた顛末ってこと』

 経緯を察したジョニーに対して、ルメスは苦笑と共に答える。
 確かなのは、喪われたはずの情報が今なおこの世界に残されていて――それを“怪盗”が掴み取ってしまったということだ。

598スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:16:18 ID:8FFM1Q/20

 シドーが深淵を掴み、それを暴こうとし。
 その意志は、巨大なシステムに捻じ伏せられ。
 彼の勇気さえも、政争の道具に利用されかけ。
 やがて己を貫く怪盗が、真実を盗み出した。 

『シドーが知ってしまった深淵。
 ――世界を真の意味で“管理”するための計画。
 便利屋さん。これから私が知る“全て”を貴方に伝える』

 そしてルメスは、改めてジョニーを見つめる。
 この依頼の始まり。便利屋に断片が伝えられた”ピトスの箱“。


『彼が伸ばそうとした手を、無意味なものにはしたくない』


 その計画が世界に善を齎すのか、あるいは悪を齎すのか。
 その答えは未だ分からずとも、ルメスが確かに信じることがあった。
 ――世界の行く末とは、“一握りの権威”の思惑に掌握されるべきものではない。
 彼女はその真っ直ぐな眼差しによって、自らの決意を示す。
 
 怪盗ヘルメス。先代より受け継がれし信念は、此処に有り続ける。
 彼女はいつだって、権威と繁栄から捨て置かれた者達のために戦い続けてきた。
 現実の壁に、善行の矛盾に苛まれようとも、それでも歩むことだけは止めたくないと。
 ルメスは戒めと共に、自らの矜持を貫くことを選んだ。

 そんな彼女の意思を前にして――ジョニーもまた、暫しの間を置き。
 やがて静かに、確かなる感情を宿しながら、彼は口を開いた。

『“勇気を出すべし。落胆してはならない”』

 ジョニーは、言葉を紡ぐ。
 怪盗を、そして己自身を鼓舞するように。

『“その行いには、必ず報いがある”』

 その言葉に目を丸くし、そして噛み締めるように受け止めるルメス。
 やがてジョニーは、ふっと自嘲するように呟いた。


『こいつは、聖書の言葉さ』




599スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:16:58 ID:8FFM1Q/20



 幼き日の己自身を、ジョニーは追憶していた。
 退廃の路地裏。救いなき袋小路。
 運命を弄ぶ、神々の遊び場。
 彼にとっての世界とは、そういうものだった。

 神は人を救わず、神は世界を救わない。
 悪徳の渦巻く掃き溜めでは、誰もがそう信じている。
 ジョニーもまた、それくらい分かり切っている。

 それでも彼は――あの日の少年は。
 廃材の山の上で、読み続けていた。
 誰からも省みられず、打ち捨てられていた書物を。
 暴力と悪徳の世界で、価値なきものとして扱われる教義を。

 人々の魂のよすが、あるいは指針。
 迷える子羊に寄り添う、救いの道標。
 煤けて薄汚れた“聖書”が、少年の拠り所だった。

「悪いな、バレッジ・ファミリーの旦那よ」

 無垢な信仰など、疾うの昔に捨て去った。
 されど“鉄の騎士”は、神を信じることの意味を知っている。
 どれだけ悲嘆に打ちのめされようとも。
 それでも希望を貫くことの意味を、悟っていた。


「――――俺は、ルメスの依頼を遂行する」


 ジョニー・ハイドアウトは、そう告げた。
 砲身に覆われた、無機質な表情の奥底で。
 自らの矜持と決意を滲ませながら、ディビット達を見据える。

「先約を果たさなくちゃならない。
 ここで引き下がるつもりはねえのさ」

 ルメス=ヘインヴェラートは死んだ。
 少女を救うことも叶わず、志半ばで命を落としたのだ。
 後に残されたものは、首輪という“戦利品”。
 彼女の存在は、ポイントとして消費される。

「受けた依頼は、必ずやり遂げる」

 結局は、綺麗事でしかないのかもしれない。
 彼女の死を以て、希望は潰えたのかもしれない。
 伸ばした手は、何処にも届かなかったのかもしれない。

「それが俺の、便利屋としてのケジメだ」

 それでもジョニーは、戦うことを続ける。
 伝令の神。ヘルメスの名を冠する、怪盗。
 彼女から託されたものを、繋ぎ止めていく。

 例えこの世界が、神に弄ばれる箱庭だったとしても。
 例えこの世界が、荒み切った掃き溜めなのだとしても。
 それでも世界が絶望への道筋であることを、彼は否定したかった。
 世界が美しくないとしても。世界は生きるに値するのだと、彼は信じたかった。

600スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:17:45 ID:8FFM1Q/20

「だから、あんた達とはここでお別れだ。
 ……次に会う時は、敵同士かもしれねえがな」

 そう告げて、ジョニーは背を向ける。
 己の目的を貫く為に、自らの道を往くことを選ぶ。
 そんな彼を見据えて、ディビットは静寂を保っていたが。

「なあ、便利屋」

 やがてディビットが、静かに口を開いた。

「何故そうまでして怪盗の依頼に拘る」

 彼の非合理に対して、疑問を投げかけた。
 自らの無謀な理想を貫き、無に帰した偽善者。
 彼にとって怪盗ヘルメスは、敗残者でしかなかった。

「お前は打算の出来る男だろう。
 奴のような理想主義者の為に命を張るのか?」

 だからこそ、便利屋へと問いかける。

「――――何の意味がある」

 その戦いに対し、ディビットは断じる。
 無価値であり、無意味であると。
 引き際を見誤っているだけに過ぎないと。

 鉄の騎士は、ゆっくりと振り返る。
 沈黙。静寂が場を支配する。
 暫しの思慮を、噛み締めた後。
 彼は、鉄屑に覆われた口を開いた。


「女が信念のために戦っていた」


 ジョニー・ハイドアウト。
 彼は確かに、祈りを受け取った。
 気高き信念に生きた、強い女の祈りを。


「男が命を懸ける理由なんざ、それで十分だ」


 その背中に、覚悟を背負い。
 鉄屑の騎士は、再び歩き出す。
 孤高の便利屋は、自らの戦いへと進んでいく。

 去りゆく彼の姿を、ディビットは見届けていた。
 自らの矜持を貫くことを選んだ便利屋を、無表情のままに見据えていたが。
 やがて彼の視線は、すぐ傍に立つエネリットへと向けられた。

 ――――命を懸ける理由。
 ジョニーの言葉を聞いたエネリット。
 その瞳に宿っていたのは、静かなる激情。

 エネリットは、己の目的を改めて噛み締めていた。
 亡国の王子にとっての、貫くべき矜持。
 己の出自へと連なる、“復讐”という闘争。
 この男もまた、自らの存在を懸けている。

 人間には、成し遂げねばならないことがある。
 合理さえも超越して、果たさねばならない意志がある。
 それを貫かなければ、己の存在すらも揺るぎかねない。
 魂の根幹――信念と呼ぶべき尊厳。
 その為ならば、時に命すらも賭け金に乗せられる。

 合理の怪物。打算に生きるディビット。
 彼にとって、それは相容れぬ観念でありつつも。
 それでも少しばかり、思うところがあった。
 この男にとっても、ただ一つだけ。
 損得勘定を抜きにした信念が宿っていたからだ。

 ――首領、リカルド・バレッジ。
 彼への仁義と忠誠だけは、決して揺るがない。

 鉄の騎士が貫いた矜持と、亡国の王子が覗かせた激情。
 二つの意志を前に、ディビットは己を顧みた。
 自らがこの場で戦うことの意味を、その手に握り締めた。

601スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:18:32 ID:8FFM1Q/20




 伸ばした手は、希望を繋ぐために。
 翔ける翼は、人々を救うために。
 地獄の果てにも、光があると。
 伝え行くことこそが、我が使命。

 伝令の神。交渉の使者。救済の流鳥。
 この名が示すものは、意志を繋ぐ道標。

 紳士淑女諸君、ごきげんよう。
 我が名は、怪盗ヘルメス。
 世界の“絶望”を盗みに参りました。

 ――――どうか、ご容赦を。





602スピリッツ・オブ・ジ・エア ◆A3H952TnBk:2025/07/14(月) 01:19:53 ID:8FFM1Q/20

【F-5/岩山麓/一日目・午前】
【ジョニー・ハイドアウト】
[状態]:健康
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.受けた依頼は必ず果たす
1.怪盗(チェシャキャット)の依頼を果たす。
2.メカーニカを探す。見つけたらローマンとの取引内容も話す。
3.夜上神一郎への強い不信感と敵意。
※ネイ・ローマンと情報交換しました。

【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、ドミニカ・マリノフスキの首輪(未使用)、メアリー・エバンスの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦Pを稼ぐ
1.タバコは……どうするか。
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める

【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、ルメス=ヘインヴェラートの首輪(未使用)、宮本麻衣の首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.ディビットの信頼を得る
2.…命を懸ける理由、か。
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

①マーガレット・ステイン(刑務官)
 信頼度:80%(超力再現率40%)
 効果:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
 超力:『鉄の女』

②ディビット・マルティーニ
 信頼度:40%(超力再現率同値)
 効果:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
 超力:『4倍賭け』

603名無しさん:2025/07/14(月) 01:20:07 ID:8FFM1Q/20
ゲリラ投下終了です。

604 ◆H3bky6/SCY:2025/07/14(月) 20:21:02 ID:mKW095uY0
ゲリラ投下乙です

>スピリッツ・オブ・ジ・エア

揉めることなく首輪の分け前を分配するのは流石に理知的な二人
非合理な選択をし続けるジョニーの姿が合理主義者たちにそうじゃない何かがあることを思い出させてるのがたまらない
信義や誇りが泥に塗れていく世界で、死んだ女のために仕事を果たそうとするジョニーは、相変わらずハードボイルドだぜ

そんな中でシドーくんが死亡した事件の経緯も明らかになり、そこまでしてGPAの隠そうとする計画とは、いったいなんなのか気になるところ
元カレがGPAに体よく口封じされていた事をソフィアさんが知ったらキレそう
その計画の詳細がルメスに盗まれ、ジョニーに依頼として引き継がれる流れには、確かな意志の系譜を感じる
ジョニーに託された計画の詳細がどう今後に生かされていくのかも注目したいですね

そして欧州の腐敗っぷりの根幹にいるキングの影響力がデカすぎる
ルーサー・キングの存在ひとつでここまで欧州がズタボロって、もう一種の災害だろアレ

605 ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:01:52 ID:4Qg7uVaM0
投下します。
また、前後編となっているので途中でタイトルを変えて区切らせていただきます。

606熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:02:53 ID:4Qg7uVaM0



 白い壁紙に、黒い窓枠。
 暖かな陽射しの差し込む客間。
 本来安心感を与える役目の一室は今や見る影もなく。
 乱雑に散らばるアンティーク家具の残骸と、無造作に転がる無数の亡骸が異変を訴える。

「────答えろ、龍華(ロンホア)。俺の〝家族〟を殺したのは誰だ」

 重厚な殺意の滲む低声が響く。
 それを発したのは、眼光鋭いスキンヘッドの巨漢。
 名を呼延光──中国最大の帮会『飛雲帮』の元凶手にして、後に『飛雲帮』を終わらせた男。

「貴様が家族殺しに関わっていることは、他の凶手から聞いている」
 
 鋼鉄と化した呼延の剛腕が、龍華と呼ばれた男の首を絞め上げる。
 苦慮の声を洩らす痩せ気味の男は、酷く拷問に掛けられたのか右手の五指がへし折れていた。

「はは、……っ…………」
「なにが可笑しい」

 だというのに龍華は、生殺与奪を完全に握られているにも関わらず笑ってみせた。
 全てを投げ出し、諦め、まるで自ら終わりを望むかのような遠い瞳。
 その瞳を睨みつけて、呼延は静かに力を込める。

 声帯を震わせることすらままならず、熱い塊が喉奥を塞ぐ感覚。
 出口を失った気管は役目を果たせず、言葉の成り損ないたちが唇の隙間から洩れ出る。
 たちまち醜く鬱血する顔色は、腕利きの暗殺者とは思えぬほど擦り切れたもので。
 そんな男の姿に、呼延はどこか寂寥を覚えた。


 ────影縫の龍華(ロンホア)。


 呼延光の処刑が下されるより以前のこと。
 かつて飛雲帮の幹部として名を馳せていた凶手が、いまやこんな辺鄙な三次団体の詰所で燻っている。
 肩まで伸びた髪は年不相応なほど白髪が混じり、情けなく垂れた目の下には酷いクマが目立つ。
 時の流れは残酷だと片付けるには、あまりに無視できない変貌ぶりであった。

「誰が殺した、……か…………そんなもの、私が知りたいよ」

 辛うじて呼吸を許す程度に力を弛めれば、龍華は投げ出すようにぽつぽつと紡ぐ。
 重たい咳払いの後、深呼吸で息を整えた末に泣きそうな顔を露呈して。
 龍華は、呼延の肩を掴みかかった。

「光(グァン)、昔のよしみで忠告しておいてやる」

 鬼気迫る語気からは狂気さえ孕む。
 先程のやさぐれた姿から一転、剣呑な雰囲気に呼延は僅かに眉を顰め、無言で続きを促した。

「真実を追い求めようとするなッ! 〝あれ〟は……我々が関与していいものではない……!」

 縋るように、願うように。
 飛雲帮の元幹部は、必死に嘆く。
 共に酒を酌み交わした同志として。
 挫折を知らぬ全盛期を思い返しながら、龍華は〝忠告〟する。

「────くだらん」

 それは、慈悲だったのかもしれない。
 呼延光の指が万力のように唸った瞬間、ポキリと頚椎の折れる音が響く。
 そうして死に損ないの凶手がまた一人、呆気なく散った。




607熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:03:23 ID:4Qg7uVaM0


 呼延光の謀殺が実行されたのは、およそ10年も前に遡る。
 24歳という異例の若さにして幹部の座に登り詰め、飛雲帮最強の凶手と呼ばれた逸材。
 従順な犬として飼い慣らすには手に余る呼延は、敵に回れば下手な戦術兵器よりも脅威となる。
 一個人が持つ武としては過剰な呼延光という爆弾を、組織は容認出来なかった。

 しかし、飛雲帮には鉄の掟があった。
 如何なる理由があろうとも、身内を殺してはならない──飛雲帮の設立以来守られ続けている、半ば戒めのような意向である。
 だがそんな古くからの習わしを破ることになろうとも、呼延光という存在の抹消は不可欠と迫られ、組織の上層部は一丸となって見て見ぬふりを決め込んだ。

 しかし当然、彼の処刑に抗議を唱える者も多数現れた。
 呼延が育て上げた弟子たちに加えて、しきたりを重んじる古参も声を上げ、内紛も時間の問題であった。
 凶手の反乱を恐れた飛雲帮は、帮会全体に抑止力をかける必要に迫られた。

 そうして選んだ手段が、反乱分子の抹消である。
 呼延光と特に関わりの深かった四人の弟子を選抜し、処刑することが決定された。

 しかし当然、これ以上身内を手に掛けることは上層部から良しとされなかった。
 呼延光の謀殺は、最初で最後の身内殺しとなったのだ。

 ならば、弟子達は如何にして見せしめにされたのか。
 飛雲帮内部の反徒や罪人を裁くため、以前よりとある処刑法が定められた。

 ──〝島流し〟である。

 近年では類を見ない古来の刑罰。
 それだけでも珍妙ではあるが、この処刑の最も異様な点は、流刑地の詳細がごく一握りの上役にしか知らされていないということだ。
 島の座標と一隻の船を渡されるだけで、それ以上は何も知らされない。
 処刑人には多額の報酬が支払われることも、不気味さに拍車をかけていた。


 そうして迎えた執行日。
 呼延の部下四名は、強力な麻酔によって眠らされ船内倉庫へ詰め込まれた。
 流罪の立ち会い人は船舶操縦士を含め、忠誠心の強い幹部三人が抜擢された。

608熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:04:03 ID:4Qg7uVaM0


 ──筋骨隆々の巨漢、〝雷脚〟の風(フォン)。
 ──痩せぎすの暗器使い、〝影縫〟の龍華(ロンホア)。
 ──黒い中折帽子の男、〝空際〟の李(リー)。

 
 船内に漂う重々しい空気には緊張も滲む。
 一体どれだけ移動しただろうか。飛雲帮の本拠地からはかなり離れている。
 時の流れが極端に遅くなったような感覚は、悪寒にも似ていた。
 
「着いたぞ」
 
 月明かりが水面を照らす中、流刑地と定められた座標に辿り着き、マリンエンジンを停めた。
 天然の島とは思えない石製の船着場へ小型船を付け、呼延の部下を砂浜へ運び出す。
 恐ろしいほどの手際だった。掛かった時間は5分にも満たなかっただろう。
 仕事が早いというよりも、まるでこの島に長居したくなかったように見えた。

「奇妙な島だな」

 それを発したのは、指揮役の風(フォン)。
 寡黙な彼が言葉を発したことに、二人の幹部は驚きよりも共感を示した。

 一般的に、島流しと聞いて思い浮かべるのは無人島、あるいは禁足地のような人の手から離れた場所だろう。
 なのにこの島は船着場が用意され、あまつさえ石垣の階段や、海岸民家まで建ち並んでいる。
 まるで頻繁に貿易でも行われているようかのようで、木々の高さを越える風力発電所も目に留まった。

 明らかな文明の象徴。
 だというのに、人の気配がまるで感じられない。
 文明レベルに対して活気が無さすぎるのだ。
 深夜だからという理由を加味しても、明かりが少なすぎる。
 一見無人島と比べて生活は容易そうなのに、なにか禍々しさに近い感覚が本能を刺激してくる。
 
「撤収するぞ」
「ああ」

 表情と声色は変えず、三人は急ぎその場を離れようとする。
 まさにその瞬間。
 ふわりと、生ぬるい風が頬を撫でた。


「────こんばんは、人間さんたち。ねえ、あなたたちどこから来たの?」


 振り返る。
 そこに居たのは、宵闇に映える赤いチャイナ服を着た銀髪の少女。
 年は10歳ほどだろうか。あどけない笑顔が月光に照らされて、彫像のように白く引き立つ。
 天然のスポットライトを浴びる様は、まるで世界が彼女の為に動いているかのような──そんな印象さえ受けた。

609熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:04:33 ID:4Qg7uVaM0

「警戒しろ」

 風に言われるまでもない。
 見た目こそ少女のそれだが、手練の凶手達は目前の存在が常軌を逸したモノであると察知した。
 暗殺者三人が集まって足音も拾えず接近を許した。そんな現実味のない事態が、なによりの証左である。

 嗅いだことのない濃密な死臭が鼻腔を突く。
 鼓動が早まり、本能が警鐘を鳴らす。
 無闇な殺しはしないという信条をかなぐり捨て、どうすればこの少女を殺せるかと全力で脳を稼働させた。

「龍華、状況を伝えろ」
「超力が使えん。奴の力か、この場が関係しているのかは不明だ」
「了解した」

 風の呼び掛けに、龍華が淡々と告げる。
 超力が使えないという最大級の異常事態においても、取り乱すような未熟者は一人とていない。
 風は無言でハンドサインを送り、龍華と李が即座に陣形を整える。

「月を見るためにね、お散歩していたの。そしたら人間さんたちと出会えて、本当に嬉しいわ。これってお月様の導きかしら」

 三人は答えない。

「浜辺に転がっている人間さんたちはお友達? ぐっすり眠ってるみたい。とってもいい子たちなのね」

 動いたのは雷脚の風。
 強靭な左脚のバネを縮ませ、熾烈に伸ばす。
 地面に跡が残るほどの一足跳びで少女の懐へ肉薄し、〝雷脚〟の名の通り稲妻のような斧刃脚を炸裂させた。

「ねえ」

 それが触れる寸前。
 少女は、雷脚の横を通り過ぎる。


「人が喋っている最中に、おいたしちゃダメでしょう?」


 その小さな手に、風の首を持って。
 無理矢理ちぎられた頭部へ、優しい口調で語りかけていた。

610熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:05:00 ID:4Qg7uVaM0


 龍華と李の行動は迅速だった。
 動揺で身体を固めるよりも早く、隊列を組み直す。
 崩れる風の巨体を目隠しに〝影縫〟が少女の背後へと回り込み、カランビットナイフを首筋へ振るう。
 同時に〝空際〟は愛銃のHK45に手を掛け、抜いた事すら認知させない早撃ちを見舞った。

 回避不能の弾丸と、気配のない刃。
 同時に降り掛かる死の予兆へ、少女は。

「まあ」

 と、笑った。

 マッハで放たれた45ACP弾は親指と人差し指で摘まれ、ナイフの刃は根元から砕け散る。
 呆然に費やした僅かな時間は、永遠にも感じられた。

「プレゼントありがとう。でもね、私の好みじゃないわ」

 少女は、ぴんと指で銃弾を弾く。
 瞬間、生じたソニックブームが砂埃を巻き上げ、静かな海に波を起こす。
 元が一発の銃弾だとは到底思えない爆撃じみた衝撃を浴びて、〝空際〟の上半身は血霞と化した。

「──、──ッ!」

 掠れた悲鳴が喉奥から漏れる。
 とうに忘我に追いやっていた恐怖が、全身の筋肉を蝕む。

 ──これは本当に現実なのか。
 ──こいつは、一体なんなんだ。

 唯一生き残った〝影縫〟は、自分が飛雲帮の幹部などではなく一人の人間であると思い知らされた。

「ねえ、ねえ。かわいい人間さん、お名前を教えて?」

 怪物がなにかを言った。
 龍華は、その後のことを覚えていない。
 もしかしたら名乗ったのかもしれないし、いの一番に逃走したのかもしれない。
 意識を取り戻した頃には既に島を離れ、船を操縦していた。

 かの島から生き残ったことは、幸運なのだろう。
 けれど龍華はあの少女の瞳を、間近で見てしまった。
 敵意も殺意もなく、まるで愛玩動物を値踏みするかのような眼差しを。

 それから毎日、夢を見る。
 たった一人の可憐な少女に、惨たらしく殺される夢を。
 四肢を裂かれ、首を撥ねられ、目を抉られ──人の体を弄ぶように、じっくりと。
 そんな悪夢を、復讐鬼と化した呼延光の手にかけられるまでの10年間、一日も欠かすことなく見続けた。
 もうとっくに、龍華は正気ではなかったのだ。


 脅威を取り除き、中国全土へ勢力を伸ばした飛雲帮。
 傘下や枝先の三次団体まで含めれば、それは小国の軍事力に匹敵するとも言える。
 それを10年がかりとは言え単独で終わらせた呼延光は、確かに排除すべき存在であったのかもしれない。

 けれど、その選択は。
 果たして本当に、〝正解〟だったのだろうか。
 鋼のような忠誠心を持っていたはずの龍華は、死の瞬間まで疑問を抱き続けていた。


 ◆

611熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:05:39 ID:4Qg7uVaM0


 ──ブラックペンタゴン1F、補助電気室。

 戦闘開始から数分も経たずにして、戦場は凄惨なものとなっていた。
 破壊された設備の残骸が足の踏み場を無くし、切断された配線からは火花が散る。
 複雑怪奇な中身が剥き出しになった配電盤は、とうに修復など不可能であろう。
 照明は砕け散り、明滅する配電盤のランプや火花だけが物悲しく光る。

 それを仕出かしたのは、〝血濡れの令嬢〟ルクレツィア。
 彼女が力を込めれば、触れるもの全てがぐにゃりと形を変える。
 ほらこうしている今も、二桁トンにも届く白い配電盤を、まるで少し大きなバットでも扱うかのように薙ぎ払っていた。

 ぶおんと、暴風が舞う。
 宙吊りになったコードが踊り、ぶち当たったモルタル壁が凹み盛大な音を立てた。
 暴力の権化と化したルクレツィアの攻撃を、ひらりひらりと踊り躱すのは〝白銀の死神〟銀鈴。
 密室で繰り返される破壊行為を前にしても、彼女の柔肌は傷一つついていなかった。

 ──パンッ!

 銃声が響き、ルクレツィアの腕が脱力する。
 右腕の腱が撃ち抜かれたのだと、気がついた頃には配電盤を落としていた。
 ルクレツィアの等身を遥かに凌ぐそれを、サッカーボールのように銃撃の主へ蹴り飛ばす。
 しかしそれが届く頃には、銀鈴の姿は掻き消えていた。

 ────すばしっこいですね。

 苛立ちというよりも、もどかしい。
 悠々と羽ばたく蝶を追いかける少女にでもなったような気分だった。
 脚力にものを言わせた瞬足で銀鈴のいた場所を追うが、物陰からの一閃にうなじを刈り取られた。

 噴き出す血液が無機質な電気室を彩る。
 ルクレツィアは壁を背にし、視線を辺りへ配らせた。

 視界の左端で影が動く。
 思考よりも速く、獲物を前にした猛獣の如く飛びかかる。
 しかし、そこに銀鈴の姿はなかった。

「────っ、──!」

 揺れる配線コード。
 それに気を取られた瞬間、真横からの銃弾が側頭部を撃ち抜いた。
 刈り取られる意識の中で、銀鈴の笑い声を聞いた気がする。


 銀鈴は、人間の事を深く理解している。
 どうすれば壊れるのか、どうすれば壊れないのか。
 どんな時に、どんな行動を取るのか。
 気の遠くなるほどの人体実験と観察を重ねて、銀鈴は人間という生き物を記憶していた。

 この戦いにおいてもそう。
 半ば本能に操られて動くルクレツィアは、どうすれば自分の思い通りになるかと思案して。
 試したのがさっきの行動。天井から垂れる配線コードへ破片を投擲し、揺らしてみせた。

612熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:06:13 ID:4Qg7uVaM0

「ねえ、ルクレツィア」

 掻き乱された脳が思考を取り戻す中、銀鈴の声が響く。
 即座に声の元へ破壊槌の如き腕を振るうが、手ごたえはない。
 色を取り戻していく世界の中心、配電盤の残骸の上で淑女が窮屈そうに佇んでいた。

「この場所、踊るには狭いわ」
「ええ、私もそう思っていました」

 両者の意見は合致。
 ルクレツィアは配電盤を持ち上げ、豪速球でぶん投げる。
 髪先すら触れさせず華麗に躱す銀鈴。暴力的な質量に見舞われた扉は、呆気なく吹き飛んだ。

 廊下から差し込む照明が銀鈴に逆光を浴びせる。
 神秘的とも取れるそれへ、ルクレツィアは弾丸の如く飛び込んだ。
 細腕に見合わない剛力が銀鈴を捕らえ、共に廊下へと投げ出される。
 このまま華奢な身体を締め上げようとしたところで、脇下に鋭い痛みが走った。

 ────刺された?

 左腕が脱力し、銀鈴の脱出を許してしまう。
 的確に神経を断たれたせいか、中々力が入らない。
 冷たい金属の感触を無理やり引き抜いて、それが変形した設備の一部であると気がついた。

「本当に丈夫なのね、ルクレツィア」
「銀鈴さんも、とても踊りが上手ですね」

 互いに片足を引き、一礼。
 高貴な身分の者のみが集められる舞踏会のような、洗練された淑女の言動。
 しかし二人の身体は赤黒い血に濡れて、まるでB級スプラッタのような光景だった。


 ────再び舞踏が繰り広げられる。


 場所を変え、武器を変え。
 休む間もなく、命懸けのダンスが続く。
 戦闘開始から20分、30分──いやそれ以上か。
 時間も忘れて、銀鈴とルクレツィアは踊り続けた。

 一体どれほど移動しただろう。
 二人の通った跡は、須らく破壊の残り香が染み付いていく。
 ここがどこかも気に留めず、気が付けば景色が変わっているのも当然。
 銀鈴もルクレツィアも、お互いの姿しか映っていないのだから。

613熱き血潮のカプリチオ(前奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:06:46 ID:4Qg7uVaM0

「踊り疲れてしまったかしら?」
「まさか」

 異変が起きたのは南東ブロック連絡通路。
 身体中に裂傷と銃創を作るルクレツィア。それ自体は見慣れた光景である。
 しかし、一度でも彼女と相対した者が見れば明らかな異常が見て取れるだろう。

 ────傷の治りが遅い。

 普段ならば数秒で治癒出来た傷が、2分以上前から残り続けている。
 同時に、飢えた獣の如きルクレツィアの攻撃が幾らか緩慢になりつつある。
 対峙する銀鈴は勿論、彼女自身もそれを自覚していた。

「そう、安心したわ」

 銀鈴がなにかをした訳ではない。
 度重なる戦闘を経て、ルクレツィアが消耗しているのだ。

「まだまだ楽しみたいもの」

 ジルドレイ、ソフィア、りんか、紗奈、そして銀鈴。
 刑務開始から計五人の受刑者と戦い、常人であれば死に至るダメージを負い続けてきた。
 血濡れの令嬢の二つ名に相応しい激戦を繰り広げて、それまで負ってきた傷は全部チャラ?
 いいや、ルクレツィアの超力はそんなに都合のいいモノではない。

 ルクレツィアの回復能力は超力の一環に過ぎないのだ。
 摩訶不思議な魔法というわけではなく、いわば爆発的な新陳代謝による自然治癒。
 超力製の黒煙を摂取したことで得られた回復能力は、〝再生〟とはまるで性質が異なるのだ。

 治癒に回すエネルギーは相応のものとなる。
 ここまで一切飲まず食わずでやってきたルクレツィアの肉体は、度重なる摩耗によって底が見え始めてきた。
 ネイティブ世代は強力なネオスを持ち合わせているが、その分燃費が悪く消耗が激しい。
 痛みや疲労を自覚出来ないルクレツィアから回復能力を抜けば、ブリキ人形にも等しい。

「銀鈴さん、私嬉しいんです」

 けれど、令嬢は笑う。
 初めての感覚、初めての高揚。
 この舞踏を中断するなんて正気じゃない。
 
「あなたは、私と向き合ってくれる」

 ああ、死の恐怖とは。
 ああ、生への渇望とは。
 こんなにも心地良いものだったのか。

「だから、果てるまで踊りたいんです」

 自分と向き合う者は皆、怖がっていた。
 目を合わせようとせず、化け物を見るかのように恐れ戦いた。
 敵も、味方も、召使いも、家族も。
 対峙する人間は全員、刺すような敵意を隠そうとしなかった。

 なのに、銀鈴は。
 自分と向き合い、愛してくれる。
 拷問に痛みを見出していた自分のように、愛を込めて虐げてくれる。
 ルクレツィア・ファルネーゼという人間の命を、握ってくれる。

「付き合ってくれますか、銀鈴さん」
「ええ、喜んで」

 ────踊れ、踊れ。
 ────回れ、回れ。

 生きるとは、死ぬとは。
 痛みとは、疲れとは。
 喉から手が出る程に追い求めたそれを、目の前の闇は教えてくれるかもしれない。
 ニケやソフィアのような、超力を刈り取る者とは異なる得体の知れない力で、分厚い鎧を丸裸にされる。

 三日月を描く口元は、淑女の面影もなく。
 超力に振り回されて、まともに送れなかった幼少期をやり直すように。
 とても、とても────無邪気な顔だった。


◾︎

614熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:08:00 ID:4Qg7uVaM0
◾︎


 ルクレツィアは明らかに衰弱している。
 にも関わらず、触れるもの全て破壊せんとする両腕が脅威であることに変わりない。
 目前に迫る腕鞭をやり過ごし、前髪を揺らしながらちらりと銃を見る。
 銃弾は残り二発、無駄遣いは出来ない。

 疲弊する身体、限られた残弾。
 相手は手負いの獣。少しでも気を抜けば、瞬時に肉塊と化してもおかしくない緊張。
 銀鈴はそんな時間を苦とは思わず、むしろ終わりが近付くことを惜しいとさえ思う。

 そんなことを思うということは。
 死の舞踏を、終わらせにかかっているということ。

「──っ、ぐ」

 ──銃声が響く。
 猛進するルクレツィアの右脚が撃ち抜かれ、盛大に体勢を崩した。
 転びながらも不格好に体勢を立て直し、廊下の中央で佇む銀鈴へ向かう。

 そんなルクレツィアが捉えたのは。
 眼前で回転する、円形の物体。

「贈り物よ、ルクレツィア」

 血の令嬢は瞬時に理解する。
 この贈り物は、一度味わったことがある。
 新人類を殺す為に開発された、悪意の塊。
 極限まで鍛え上げられた肉体ならいざ知らず、可憐な乙女の身体など瞬時に焼き尽くす火薬兵器。

 この距離で爆破すれば、間違いなく即死。
 回復能力が追い付くよりも早く、ルクレツィアの命は潰えるだろう。
 ならば、かの令嬢が黙ってそれを受け入れるはずもなく。

 
「────ア゛ァ゛ァァア゛アア゛ッ!!」


 凄絶な獣声を上げ、無茶な体勢のまま〝それ〟を拾い上げる。
 勢い余って片足が折れることも構わず、手榴弾を投げ返した。
 驚きの表情を見せる銀鈴。
 タッチの差で爆破の間に合った悪意の塊が、彼女の足元に転がる。

 銀鈴の回避能力を諸共殺す範囲攻撃。
 遮蔽物のない廊下では、身を隠すことも出来ない。
 彼女の威圧感も、気配遮断も、全てがこの小さな手榴弾の前では意味を成さない。
 
 ────さようなら、銀鈴さん。

 そんな言葉を告げようとして。
 デイパックで顔面を覆う銀鈴の姿を捉えた。

615熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:08:34 ID:4Qg7uVaM0
 

 球体は爆発しない。
 代わりに、上部の穴から勢い良く煙が噴射された。
 薄ピンク色の煙は瞬く間に廊下中を充満し、視界すら覆い尽くしていく。
 けれどルクレツィアの世界は、煙とは違う真っ黒な色で塗り潰されていた。

「──ッげほ!? っ、──こ゛ほッ!」

 目の奥が熱い。
 熱された鉄を眼底に押し付けられたような鋭い灼熱感。
 瞼は瞬時に腫れ上がり、目を開けるなど考えることもできない。
 喉は締め付けられ、不愉快な息苦しさが呼吸をも制限させる。
 痛みに鈍感なルクレツィアであっても、生物である限り逆らえない苦痛が無防備を晒させた。

 咳が止まらない、目が開けられない。
 立っていることすらままならず、床に這い蹲る。
 この瞬間、ルクレツィアの思考は真っ白に染め上げられた。

「可哀想に、とっても苦しそう」

 耳奥に艶やかな声が響く。
 藻掻くように振るわれた腕が、優しく取られた。

「今、解放してあげるわ」

 と、ルクレツィアの咥内に硬い何かが押し付けられた。
 反射的に嘔吐きながらも、ルクレツィアの脳に〝死〟のイメージが送られる。
 今押し付けられているモノが銃口であると理解すると同時に、くぐもった銃声が響いた。




616熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:09:05 ID:4Qg7uVaM0


 脳幹が破壊される。
 記憶が明滅し、急速な眠気が来る。
 これまで触れて、感じて、見てきた景色が歪な形で蘇ってゆく。
 意思に反して繰り返される走馬灯が、どこか他人事のように見えた。




私が殺したのは全て『人間』ですよ。白い肌も、黒い肌も、赤い肌も、黄色い肌も、亜人も異形も、すべて等しく動物を殺した事は有りませんニケと同じですか。私は私の行いを、正しいとは言いませんし、私はまともだとも『ローマの休日』。他人のものを擬似体験するのとは比べ物に首を折るとは流石に酷いですね。好きなんですよ、命と向き合うことが私の身体では、難しいんですよね血の匂いというものは身近すぎて、ご静聴、感謝いたします。虚勢を張って恐怖を隠し、意地の為に痛みをあの方に惹かれ焦がれるのは、仕方の無い事だと思い私は人間にしか興味は無いんですよ特等席でご覧になって下さい。人は粗末に扱いませんけど、本は知っている方が、誰も亡くなられていないのは、喜ぶべき事でしょう。悪魔と、踊りませんか?




 私の声、私の言葉。
 ルクレツィア・ファルネーゼという人間の異質さ、醜さを、第三者の視点から見せつけられる。
 けれど死の淵に立たされても尚、それのどこが異常なのかが分からなかった。

 心地の良い微睡みが思考を奪う。
 母親の腕に抱かれているような、蕩けるような安心感に包まれてゆく。

 ──ああ、幸せだ。
 ──本当に、愉しかった。
 
 自由奔放に暴れ回って、恐怖とは何なのかを知れて。
 自分の身体で痛みを味わえて、〝生の感覚〟を貪れた。
 これ以上、何を求めることがある。

 ルクレツィア・ファルネーゼという役者がここで終わることが、舞台の終幕として相応しい。
 私という物語が、死を持って完成する。

 極上の幕引き、至高の愉悦。
 この機を逃せば、ルクレツィア・ファルネーゼという怪物は美しく死ねない。


 なら、これ以上はもう。
 



『────分かったわ。貴女の友人になる』




 この声は、誰のだろう。
 ぼやけた輪郭は、顔立ちすら分からない。
 黒い人影が発した言葉は、夥しく綴られる私の声の中でも鮮明に際立った。

 思い出せない。
 さっきから記憶が曖昧だ。
 なのにあるひとつの感情が、私の胸を支配する。

 ──このまま終わるのは、勿体ない。

 ここで死んではいけないと、使命感のようなものが身体を駆り立てる。
 誰かも思い出せない〝オトモダチ〟に、また会いたくなって。
 搾りかすのような未練を掴み取り、纏わりつく死を振り払う。
 ぶちぶちと嫌な音が身体中に響くけれど、関係ない。


 ただ一人のお友達が、待っているから。




617熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:09:31 ID:4Qg7uVaM0


「────────!!」

 人間の言葉とは思えぬ金切り声。
 それが今しがた脳幹を破壊されたルクレツィアが上げたものだと知れば、万人が震え上がるだろう。
 地の底のアビスにおいても類を見ないショッキングな光景は、死刑囚であっても気絶に値する。

 けれど、それを間近で見せられた銀鈴は。
 心底嬉しそうに両手を合わせ、爛々とルクレツィアを見ていた。

「まあ……!」
「オ゛ォオオ────ッ!」

 外れた顎をだらんと垂らし、怪物が腕を振るう。
 銀鈴は一瞬驚いた顔を見せるも、すぐさま後方へ一歩退がる。
 それだけの優雅な足捌きで、必死の反撃は空を切り────

「────っ、は……!」

 銀鈴の左腕を凄まじい衝撃が撃ち抜く。
 遅れて来る鈍い痛みを覚えた瞬間、即座に身体を捻って受け流そうと試みるも無駄な足掻き。
 したたかに壁へと打ち付けられた銀鈴は、ほんの一瞬意識を朦朧とさせた。

 戦闘技術も無いルクレツィアの苦し紛れの攻撃を、彼女が避けられないはずがない。
 そんな決め付けは、ルクレツィアが〝素手〟である前提で成り立っているに過ぎない。
 現に血濡れの令嬢の右手には、紫煙を撒き散らす煙管が握られていた。

 ルクレツィアは確かに戦闘のド素人だ。
 圧倒的なフィジカルにものを言わせて、それだけで危なげなく勝ってきたのだから、技術を必要としなかった。
 そもそもとしてルクレツィアが好むのは、戦闘ではなく一方的な虐殺なのだ。
 武術を極めたいなど、一度足りとも思ったことはなかった。

 けれど、この窮地において。
 生きなければならないと、心から思ったことで。
 銀鈴が避けたタイミングで煙管を出現させ、リーチを見誤らせるという戦闘テクニックを発揮した。

「これ、は…………?」

 煙管から立ち上る紫煙が銀鈴を包む。
 それを吸い込んだ銀鈴は、ゆっくりと瞼を落とした。




618熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:10:06 ID:4Qg7uVaM0


 薄暗い照明に照らされた無機質な部屋。
 防弾ガラス越しで、まじまじと自分を見つめる白衣の男達。
 好奇心と畏怖が入り交じった瞳で見つめる数名の男を一瞥し、目の前へと視線を流す。

「目は覚めたかナ」

 胡散臭い声が掛かる。
 銀鈴はその声に酷く覚えがあった。

「あら、マルティン」

 主任看守・第二班班長──サッズ・マルティン。
 細目の狐顔は悪趣味な加虐心を隠そうともしない。
 彼の傍らにあるキャスター付きの机には、血の気が引く程の拷問器具が取り揃えられていた。

「こんにちハ銀鈴くン。今日は君が従順になるよう、少し痛い目を見てもらうヨ」
「まあ、それは楽しみ。どうやって痛みを教えてくれるの?」

 ガチャガチャと、宙吊りにされた両腕の手錠を鳴らしながら銀鈴が言う。
 拘束台に寝かされていて、下半身に至っては身動ぎひとつ出来ない状況。
 訪れる地獄のような拷問の時間を前にしても、銀鈴の目元は楽しそうに笑っていた。

「キミがどれほど痛みに耐えられるカ、どんな顔をするのカ、とても興味があル。是非思う存分、泣き喚いてくレ」

 そこからは、この世のものとは思えぬ時間だった。
 中身がどうあれ、可憐な容姿の少女へと言葉に顕すのもおぞましい折檻が振るわれる。
 刃物、槌、電気、炎、多種多様の手を尽くして銀鈴の身体をいたぶって。
 傍らの回復能力者が、わざと歪に再生させて激痛を引き伸ばす。
 あまりの光景に、白衣の男達は顔面を蒼白に変えて嘔吐き始めた。

 だというのに。
 その拷問を受けている銀鈴本人は、退屈そうに欠伸をして。

「ねえ、マルティン」

 泣き叫ぶでもなく、発狂するでもなく。
 殺してくれと懇願するわけでもなく。

「それはもう飽きたわ」

 たった一言を零して。
 拘束具を引きちぎり、マルティンの首を撥ね飛ばした。

 崩れるマルティンの身体と共に、景色が溶けてゆく。
 ガラス張りの密室は黒い廊下へと変わり、マルティンの死体や周囲の傍観者は跡形もなく消え去った。
 まるで最初から何もなかったかのように。

619熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:10:36 ID:4Qg7uVaM0

「ふふ、ルクレツィアったら。素敵なネオスを隠してたのね」

 先程までの光景は夢。
 銀鈴がかつて味わった苦痛の再現。
 けれどそれは、所詮記憶の残滓に過ぎない。
 どんなに精巧な痛みも、苦しみも、夢だと自覚してしまえばただの明晰夢。
 だらりと垂れる左腕の痛みから現実を自覚し、ゆっくりと周囲を見渡した。

「ああ、でも残念。逃げられちゃった」
 
 ルクレツィアの姿はない。
 けれど地面に滴る血の跡からして追いつくのは容易いだろう。
 方角からしてジェイたちがいる場所だろうか。ついでに合流してもいいかもしれない。

 と、足を踏み出そうとして。
 銀鈴の鼻を異様な匂いが掠めた。

「…………ナイトウ?」

 この匂い、この気配。
 知っている、つい最近覚えたものだ。
 ルクレツィアとの激戦で気が付かなかったが、確かに内藤四葉の気配がする。

「ナイトウもここに来てたんだ。ふふ、生きていてくれてよかった! トビもいるのかしら? また二人に会えるのね」

 根拠もない第六感だが、銀鈴はそれを信じて疑わない。
 ふらりふらりと、まるでピクニックにでも出かけるように死臭の元へ導かれる。
 古い玩具から、新しい玩具へ目移りするかのような気まぐれさ。
 おぞましいほどの返り血に濡れてさえいなければ、微笑ましくも思えるであろう。

「ああ、そうそう。弾が無くなっちゃったから補充しなきゃね。ナイトウと遊ぶのなら、今のままだと心から楽しめないもの」

 先程の死闘を忘れてしまったかのような無邪気さでデジタルウォッチを起動する。
 痛む左腕に時折顔を顰めつつ、予備の弾倉を二つ転送させた。
 中々自由が利かない左腕のせいで少し苦戦しつつも、弾切れになった拳銃へ弾倉を装填。
 どこか上機嫌に鼻歌を奏でて、再び歩を進める。

 そうして気まぐれな死神は。
 一度だけ、どこか名残惜しそうに血の跡へ一瞥をくれて。
 ぽつりと、唇を動かした。

「またね、ルクレツィア」

 遊ぶ約束を取り付ける子供のように。
 それだけを言い残して、銀鈴の視線は再び逆方向へ。
 またね────なんて、再会を期待する言葉なんて久しぶりに吐いたな。と、場違いな想いに耽り。
 ふわりと舞う黒いドレスと白銀の髪が、蜃気楼のように消えた。


◾︎

620熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:11:04 ID:4Qg7uVaM0


 ずるり、ずるり。
 肉と床が擦れる音。
 ペンキをぶちまけたような血溜まりが、肉の筆によって引き伸ばされてゆく。
 赤黒く濡れたナニカが地面を這いずり、少しずつ北へ北へと進む。

 それは、ルクレツィア〝だった〟もの。
 可憐で美しい顔貌は見る影もなく、両目は赤く腫れてほぼ開いていない。
 外れた顎は未だ治らず、穴の空いた後頭部からは脳漿と血液の混じった液体が溢れている。
 左足は折れ曲がり、銃創が出来た右足はもう使い物にならない。

 もはやそれは、陳腐な映画でよく見るゾンビと何ら変わりない。
 どんな作り物(フィクション)よりもリアルな彼女の姿を見れば、映画評論家は卒倒するだろう。
 こんな姿になっても死ねない彼女を、遠巻きの傍聴人は憐れむだろうか。
 破壊された脳幹が中途半端に回復しているせいで、彼女の頭は正気とは程遠い状態にあった。


 ────思い出せない。


 あの時聞いた〝お友達〟の声が、顔が。
 浮かんでは消えて、手が触れそうになっては離れていく。
 ああ思い出したとスッキリしては、次の瞬間にまた忘れている。
 過去と今の記憶に整理がつかず、時系列が無茶苦茶になっていた。

 自分が自分でなくなってゆく感覚。
 殺してくれと懇願していた孤児の気持ちが、少しだけわかった気がする。
 たしかにこれは、少しだけ寂しい。

 あの人の嫌いな映画はなんだったか。
 あの人の好きな人は誰だったか。

 何も思い出せないけれど。
 ルクレツィアは、進む事をやめない。
 仮初でも、建前だとしても。
 かけがえのない〝オトモダチ〟が、自分を待っているから。

 もしかしたら、あの人はそんな風に思っていないのかもしれない。
 得体の知れない狂人だと、心の底では思っているのかもしれない。
 自分の〝夢を見せる超力〟にしか価値を見出していないのかもしれない。
 
 だとしても、幾らでも逃げられたはずなのに自分と一緒にいることを選んでくれて。
 撫でてくれたり、虐めてくれたり、読書をしたり。

 ああ、なぜだろう。
 してもらった事はこんなにも思い出せるのに。
 自分が何を返してあげたか、全く思い出せない。

 だからなのかもしれない。
 とうにやり尽くして、〝生〟を満喫したのに。
 綺麗に死ねたはずのブリキ人形は、無様に生き永らえることを選んだ。


 ただ一人の〝オトモダチ〟へ、恩返しするために。
 
 

【D–5/ブラックペンタゴン1F 北東ブロック 連絡通路/一日目・午前】
【ルクレツィア・ファルネーゼ】
[状態]: 脳幹破壊による記憶障害、疲労(大)、空腹、喉の渇き(極大)、複数の銃創や裂傷(大)、左足骨折、右足に銃創、血塗れ、服ボロボロ
[道具]: デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針] 思い出せない。
基本.
0.〝オトモダチ〟のところへ行く。
※度重なる消耗により回復能力が著しく落ちています。
 脳幹が不完全に回復しているせいで、記憶障害が起きています。
※極度の空腹、喉の渇きにより少なくとも一時間以内に飲食物を摂取しなければ命の危険があります。



◾︎

621熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:11:55 ID:4Qg7uVaM0


 銀鈴とルクレツィアが去り、無人となった廊下。
 ガチャリと重厚な扉が開き、慎重な様子で顔を覗かせる人物が居た。

「…………行ったか」

 ウルフカットの白髪を揺らす褐色の男。
 アイアンハートのリーダー、ネイ・ローマン。
 ネイティブ世代の頂点は、緊張の面持ちを見せながら視線を左右に流し、状況の把握に努めた。

 この廊下が戦場となったのは、ローマンが倉庫に入ってすぐのことだった。
 庫内の食糧と酒を煽ろうと一息ついた瞬間、二人分の足音が近づいてきたのがことの始まり。
 乾いた銃声、床と壁が崩れる音、淑女達の笑い声と叫喚。
 およそ正気の沙汰と思えぬ死闘の証左へ、ローマンは辟易しながらも注意を払っていた。

 音だけではどうしても得られる情報に限りがある。
 そこでローマンは、破壊音に合わせて極小のエネルギーを弾丸のように放ち、扉に覗き穴を作り上げた。

 片方は知っている顔、〝血濡れの令嬢〟。
 同じネイティブ世代で、かつローマンにとっては殺さなければならない存在。
 フェッロ・クオーレ────アイアンハートの組織員であり、数少ない再生能力持ちの仲間。
 ルクレツィアは敵対組織である『バレッジファミリー』の依頼を受け、クオーレを拷問の末に殺した。
 ローマンからすれば生かしておく道理など微塵もありはしないが、迂闊に飛び出せない理由があった。

「ったく、……あんなバケモンまでいるとはな」

 令嬢が相対する謎の淑女。
 情報がない相手は未知数だとか、そういう次元ではない〝なにか〟がローマンの衝動を食い殺した。
 無期懲役の囚人でありながら、死刑囚が可愛く思える程の並々ならぬプレッシャー。
 かと思えば、殺気や敵意に敏感なローマンに、それらを一切悟らせず死を振りまく異常性。

 あわよくば漁夫の利を、などという画策は銀鈴の姿を見た瞬間に掻き消えた。
 敵意や殺意に反応して衝動を浴びせる自分の超力とは、極端に相性が悪い。
 理屈で言えばメリリンや本条と同じだが、危険度は遥かに上だろう。

 ローマンが選んだのは、籠城。
 当初の目的である栄養補給を済まし、四葉から得たポイントを使ってデイパックを確保。
 交渉用、ついでに嗜好用に幾らか食糧と酒を拝借して、戦いの終わりを見届けることにした。

(エリザベート・バートリは北東に向かったか……んで、問題は────)

 催涙ガスが放たれ、咄嗟に穴を塞いだことで事の顛末は見れなかったが、ある程度の状況は推察できる。
 引き摺られたような血の跡は北へ続いており、銀鈴は〝ナイトウ〟と口にしてこの場から消えた。
 一体どうやって内藤四葉のことを知り得たかは不明だが、本条を追って南西ブロックに向かったと見ていいだろう。

(……あの狂犬、死んでからも厄介事振りまくんじゃねぇよ)

 心底面倒臭そうに頭を搔く。
 ローマンからすれば、銀鈴と本条がやり合って消耗してくれるのであれば都合がいい。
 しかし万が一にも本条が銀鈴を取り込んだ場合洒落にならない。それこそ自分だけでは手に負えない存在になるだろう。

 とはいえ、今の状態で銀鈴を追うのは、ローマンからしてもリスクが大きすぎる。
 確かに四葉の遺志は汲んでやろうとは思うが、命を投げ打って果たすべきことではない。
 ローマンの最優先事項はあくまでルーサー・キングの打倒なのだから、それを果たすまで死んでやるつもりはない。

622熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:12:18 ID:4Qg7uVaM0

 ならば、ルクレツィアは。
 瀕死の彼女であれば、容易に首輪を奪えるだろう。
 報復の為に殺せるならば殺してもいいが、それよりも気掛かりなのがルクレツィアの足取り。
 彼女が向かったのは北東。しかし、音が聞こえて来たのも北東から──つまり、道を引き返しているのだ。

(考えすぎかもしんねぇが……戻る理由があった、ってか?)

 ブラックペンタゴンに単身で乗り込む奴は、ローマンの予想ではそう居ない。
 ルクレツィアは助けを求めて仲間の元へ逃走した、と考えた方が腑に落ちる。

 利用出来るものは何でも利用しておきたい。
 ルクレツィアを追うにしても、すぐさま殺すよりは動向を伺った方がいいだろう。
 仲間がいたのならば、ルクレツィアを利用して情報を吐き出させるのもいいかもしれない。

「決まりだな」

 少し間を置いて、ローマンは足を踏み出す。
 ルクレツィアが描いた血痕を辿って、北東ブロックへと。


【E-5/ブラックペンタゴン1F 南東ブロック 倉庫前廊下/一日目・午前】
【ネイ・ローマン】
[状態]:額に銃創、全身にダメージ(小) 、疲労(中)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:デイパック(幾つかの食糧と酒)
[恩赦P]:99pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.ひとまずルクレツィアを追う。
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す。
2.ルーサー・キングを殺す。
3.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。






623熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:13:19 ID:4Qg7uVaM0


 ────きりきり、からから。
 ────くるくる、ころころ。

 
 回る、回る。
 寂しげな鉄音を鳴らし、シリンダーが回る。
 三つの空洞に、隙間風が吹き込む。
 錆び付いた薬莢に包まれて、湾曲した弾丸たちが語り合う。

「そ、そ、……それじゃあ、第XX2回……〝弾倉会議〟を開始するよ」

 円卓を囲む三人の内、『一』の席から声が上がる。
 か細い声色に一抹の寂しさを乗せて、本条清彦が会議開始を宣言した。

「わー、ぱちぱちぱちぱち」
「あ、ありがとう四葉ちゃん……じゃあその、四葉ちゃんから…………」

 どうぞ、と言おうとしてローズの時の失敗を思い出す。
 四葉はまだ家族になって間も無いし、会議だって初めてだ。
 じとりと見やるサリヤと目が合い、大袈裟な咳払いを一つ。
 きょとんと首を傾げる四葉へ平謝りをして、緊張の面持ちで二人の顔を見回した。

「ええと、そ、その……情報共有、というか…………今回は、方針を決めようかなって……」
「そうね、場所が場所だからあまり悠長にしていられないし」

 ──それに、共有する程の人数もいない。
 言葉にせずともサリヤの意図を読み取った本条は、再び悲しそうに顔を俯かせる。

「ぼ、僕は……やっぱり、今のままだと不安だし、そ、その……」
「一度、ブラックペンタゴンを出る?」
「う、うん」

 言いづらそうに口ごもる主人格の言葉を、サリヤが補う。
 ここで異を唱えたのは、『さん』と書かれたパイプ椅子の女。

「なになに、うちら三人じゃ不安ってこと?」
「そ、そうじゃなくて……さっきの、ローマンって人、ぼ、僕たちを、追ってくる……かも」

 ネイ・ローマンと正面からぶつかった場合、四葉が認めたように勝ち目は薄いだろう。
 もしも彼が追ってきた場合、今度は何人落ちるのか。考えたくもない予感が本条の身体を震わせる。
 ローズと無銘を見送るほどの戦いをしたばかりで、かつ傍観者側であった本条は酷く気落ちしていた。

「……仮にメリリン達を見付けても、建物の構造上挟み撃ちにされたら厳しいわね。清彦さんの不安もわかるわ」
「ご、ごめん」

 フォローを挟む『5』の席、サリヤ。
 本条の謝罪の意図は、メリリンを迎えたい張本人である彼女にその発言をさせてしまったことにある。
 四葉とサリヤの合わせ技を使えば一時的に人数有利を取れはするが、相手がそれ以上の人数だったり奇襲を仕掛けてきては意味がない。
 
「あー、それなんだけど……多分大丈夫だと思うよ」
「え?」
「ネイってさぁ、かなり燃費悪い超力なんだよね。ずっと飲まず食わずだったっぽいし、あの消耗具合じゃすぐには来ないんじゃない?」

 頬杖を突きながら答える四葉。
 彼女の言葉に安心したのか、本条はほうと溜め込んだ息を吐き出した。

「そ、それじゃあ……!」
「うん、メリリン達を追うのにさんせー!」

 本条は目元に涙を溜めて、口をへらりと歪ませる。
 空いた三つのチャンパーの寂しさを吹き飛ばすような四葉の振る舞いは、本条を元気づけた。

624熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:13:41 ID:4Qg7uVaM0

「ありがとう、二人とも」

 ちらりと、サリヤの方へ視線を移す。

「私の我儘に付き合わせてしまって、ごめんなさい」

 ぺこりと、礼儀正しく頭を下げるサリヤ。
 本条も四葉も、それに返すのは心からの微笑み。
 筒抜けの本心。幾十年の時を経なければ得られない信頼と愛情が、何倍にも増幅されて楽園に蔓延する。

「もー水臭いってばサリヤちゃん、だって私たち……〝家族〟でしょ?」
「そ、そうだよ。家族の願いは、聞いてあげたいから」

 ああ、心地いい。
 ああ、幸福だ。

「……ありがとう。本当に、あなたたちと家族になれて、よかった」

 三人に共通するのは、そんな感情。
 世界中の誰もが忌避する異形の中では、彼らだけの桃源郷がある。
 家族になった者しか味わえない、なにものにも代え難い多幸感。
 小さな小さなシリンダーの中で繰り広げられる偽りのソープ・オペラ。

「そ、それじゃあ……四葉ちゃんはな、何をしたいのか、聞きたいな」

 観客の居ない一人歌劇。
 薄暗い円卓を囲い、綴られる蛇足の物語。
 綺麗に終われなかった者たちは、終わりのない永遠を望む。

「私はねぇ、やっぱ一番は〝大根おろし〟さんと戦いたい! それにチャンピオンとも決着つけたいでしょ。トビさんも家族にしたいし────」

 そうして、そんな虚構の世界は。


「こんにちは、ナイトウ。また会えて嬉しいわ」


 唐突に、終わりを迎えた。





625熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:14:06 ID:4Qg7uVaM0


 肌に纏わりつく異様な空気。
 胸の奥をざわつかせる不安感。
 内藤四葉の姿を借りた何者かは、声の主へと振り返る。

「あれ? 四葉、トビは一緒じゃないのね。もしかして、死んでしまったのかしら」

 広大なエントランスホールを背にして、後ろ手を組み悪戯に首を傾げる淑女。
 幼さすら感じられる仕草を前に、四葉は冷や汗が止まらない。
 一度自分を殺しかけた存在──銀鈴との再会は、予想だにしていないイレギュラーであった。

「銀ちゃんじゃん、久しぶり! トビさんはさぁ、はぐれちゃったんだよね。これから探し行くとこ」
「まあ、そうだったのね。一緒に行ってもいいかしら?」
「それ、私も言おうとしてた。銀ちゃんも来てくれたらさぁ、私としては滅茶苦茶嬉しいんだよね」

 こうして言葉を交わせているだけでも、内藤四葉が持ち合わせる本来の狂気を物語る。
 一度出会ったことがあるからか、銀鈴の威圧感を前にしても動揺はない。
 むしろ、内藤四葉としては〝家族〟のことがなければ再戦を申し出たいくらいだ。

「ねえ銀ちゃん、一人?」

 探る。
 家族を危険に晒さない為に、動向を探る。

「ジェイと一緒に居たのだけれど、はぐれてしまったの」
「へえ」

 相手は一人。
 意識はこちらに向いている。
 トビの話を聞く限り、銀鈴はローマンのような強大な超力を持っていない。

「それじゃあ銀ちゃん、寂しいでしょ」

 銀鈴の死角にて、音もなく人影が蠢く。
 鋼の鎧『ラ・イル』が、サリヤの人格を伴って指鉄砲を形作る。
 照準は、銀色の髪に隠れた頭蓋へ。

「私たちの〝家族〟になってよ」

 ぱん、と乾いた銃声が響く。
 放たれる弾丸は的確に対象の脳へと達して。
 あまりにも呆気なく────内藤四葉の残滓は、終わりを告げた。

626熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:14:50 ID:4Qg7uVaM0


「私はね、生まれつき記憶力がいいの」

 
 ゆっくりと、スローモーションのように仰向けに倒れ込む内藤四葉。
 風穴の空いた額から、赤黒い血潮が飛び散る。
 がらりと音を立てて崩れ去る『ラ・イル』は、二度と復元されることはない。

「人間さんの名前、特徴、喋り方、癖、息遣い。愛するためには、全部覚えておきたいでしょう?」

 右手に握られた拳銃の大口が、苦い硝煙と火薬の匂いをのぼらせる。
 張り付けたような不気味な微笑みは消え失せ、ほんの少し不愉快そうに目を細めた。

「あなた、ナイトウじゃないわね」

 ばたりと、四葉擬きが倒れる。
 血溜まりの中で蠢く影は形を変え、特徴のない青年のものへと変わる。
 その様相を、銀鈴は終始無表情で眺めていた。

 銀鈴の知る内藤四葉は、自分の気に当てられても構わず飛び掛かる無邪気な愛らしさを持っていた。
 なのにこの偽物は、〝家族愛〟などというノイズに邪魔されて、抜き身のような闘争心を劣化させている。
 四葉が注意を引き付け、サリヤが奇襲するという、本物の内藤四葉であれば絶対にやらない〝無粋〟を冒した時点で、この結末は決まっていた。

「────っは、……は……? え、えぇ?」

 慌ただしく上体を起こす本条。
 震える両手を交互に見遣り、銀鈴を見上げる。
 粛々と見下ろす銀鈴と目が合って、本条はガチガチと上下の歯をかち鳴らした。

 家族が死んだ。
 内藤四葉が死んだ。

 なのに張り裂けそうな悲しみも、嵐のような激情も、何もかもが消し飛ぶ。
 この世のものとは思えぬ〝闇〟を前にして、圧倒的な恐怖に支配される。

627熱き血潮のカプリチオ(後奏) ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:15:19 ID:4Qg7uVaM0

「ねえ、ねえ。変わった超力を持っているのね、あなた。今まで見たことがないわ」

 言葉が出ない。
 喉が詰まり、震えが止まらない。

「さっき、家族って言ってたわよね。ナイトウも家族になったっていうことかな。とても興味深いわ」

 本条清彦が。
 サリヤ・K・レストマンが。
 ──いいや、『我食い』そのものが。

 目の前の死神に、恐怖している。

「知りたいわ、あなた〝たち〟のこと」

 銀鈴の右手が、本条の頬を撫でる。
 限界まで開いた瞳孔は、釘付けになったかのように銀鈴の顔を見据えて。
 突きつけられる銃口に、短い悲鳴を洩らした。
 
「ねえ、教えて? ──『家族』って、なあに?」

 喰う側、喰われる側。
 世を成り立たせるにあたって、必ず存在する二対の立場。
 頻繁に入れ替わる新世界、ましてや粒揃いの地の底においても。


 銀鈴は常に、前者であった。
 

【E-5/ブラックペンタゴン1F 南・エントランスホール西側出入口/一日目・午前】
【銀鈴】
[状態]:左腕にダメージ(中)、疲労(大)
[道具]:グロック19(装弾数21/22)、予備弾倉×1、デイパック(手榴弾×2、催涙弾×2、食料一食分)、黒いドレス
[恩赦P]:2pt
[方針]
基本.アビスの超力無効化装置を破壊する。
0.本条から『家族』について聞く。
1.ジェイで遊びながらブラックペンタゴンを探索する。
2.人間を可愛がる。その過程で、いろんな超力を見てみたい。
※今まで自国で殺した人物の名前を全て覚えています。もしかしたら参加者と関わりがある人物も含まれているかもしれません。
※サッズ・マルティンによる拷問を経験しています。
※名簿で受刑者の姓名はすべて確認しています。
※システムAに彼女の超力が使われていることが真実であるとは限りません。また、使われていた場合にも、彼女一人の超力であるとは限りません。

【E-5/ブラックペンタゴン南・エントランスホール西側出入口/一日目・午前】
【本条 清彦】
[状態]:全身にダメージ(中)、恐怖、現在は本条の姿
[道具]:なし
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.群生として生きる。弾が減ったら装填する。
0.銀鈴と話をする。
1.殺人によって足りない4発の人格を装填する。
2.それぞれの人格が抱える望みは可能な限り全員で協力して叶えたい。
3.ブラックペンタゴンで家族を探す。

※現在のシリンダー状況
Chamber1:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、超力は影が薄く人の記憶に残りにくい程度。睾丸と肛門にダメージ)
Chamber2:欠番(前2番の山中杏は無銘との戦闘により死亡、超力は口づけで魅了する程度だった)
Chamber3:欠番(前3番の内藤四葉は銀鈴に撃ち抜かれ死亡、超力は鎧を生み出す程度だった)
Chamber4:欠番
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、超力は指先から空気銃を撃ち出す程度)
Chamber6:欠番(前6番のスプリング・ローズはは弾丸として撃ち出され消滅、超力は獣化する程度だった)

628 ◆NYzTZnBoCI:2025/07/16(水) 21:15:36 ID:4Qg7uVaM0
投下終了です。

629 ◆H3bky6/SCY:2025/07/16(水) 22:48:03 ID:e1CHKB0M0
投下乙です

>熱き血潮のカプリチオ

久々の呼延さんから語られる在りし日の銀鈴の姿
中華っぽい名前だったけど、やはり銀鈴の国は中国と近い位置にあったのね
超力無しで暴れまわってる全盛期の銀鈴さんは圧倒的すぎる、怯え切った龍華の最期といい出会ったら最後の都市伝説めいている

ルクレツィア vs 銀鈴の怪物対決、フィジカルと技巧派、攻め上手と受け上手、いろいろと近しくも対極な二人
消耗によりついに再生速度も落ちてきたけど、これまでの無法を思えばさもありなん。派手に動いてきた参加者はそろそろ消耗が目立ってきた
お互い殺し合いを楽しみながら名残惜しむ銀鈴とルクレツィアは、ある意味で気が合っているけど、異常性を基にした共感なので出会いが違えば仲良くなれたかも、とはならないのよね
最後は毒ガスと頭部への銃撃でついに仕留めたかに思われたが、それを助けるのは友達パワー、ソフィアさんが聞いたら嫌な顔しそう
大切な友人の記憶を失い、友人の姿を求めて彷徨う、これだけ聞いたら綺麗な友情話なんだけど実態は割と危うい関係、けどルクレツィアお嬢からすればそうだったんだろうね

ローマンは大胆なようで慎重さも兼ね備えているのは流石組織を束ねるリーダー
ローマンでもビビる銀鈴の規格外さは相変わらずとんでもねぇな
瀕死のルクレツィアを追ったが、その先にいるソフィアさんたちを含めてどうなるのか

本条さんもたいがい妖怪めいているが、本物の死神とエンカウント。
四葉ちゃんはこれで完全にご退場か、悲しいですねぇ
ジェイの会話でもそうだったけど、銀鈴は家族の話題に割と興味を示すよね
これまた刑務作業を荒らしてきた怪物同士の出会い、どういうやり取りするのか気になりすぎる

630 ◆H3bky6/SCY:2025/07/16(水) 22:48:33 ID:e1CHKB0M0
連絡事項です
本作におきまして、オリロワAの話数が100話に到達しました。沢山のご投下ありがとうございます。
様々な状況が絡みあい話も複雑になってきましたので延長期間を2日伸ばしたいと思います。
現在の予約期限は、基本期間5日、延長期間5日となります。これらは既存の予約にも適用されます。
今後も、オリロワAをよろしくお願いいたします。

631 ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:36:02 ID:9vN4cFFQ0
投下します

632愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:36:39 ID:9vN4cFFQ0
彼女(ダリア)が母になっていると知ったのは、この刑務作業が始まる2月ほど前の事だった。

獄中で漏れ聞こえたその情報は、あまりに現実味がなかった。
けれど、確かにその噂は俺の耳に聞いた。

生まれたのは1年以上前。
俺が獄中に押し込まれて10ヶ月程たった後の話らしい。

時期から考えて、それが俺の子だという確証はなかった。
あの夜、彼女を弄んだマフィアどもの子かもしれない。
あるいは、娼婦として取らされた客の子かもしれない。

だが、そんなことはどうでもよかった。

血の繋がりなど、取るに足らない。
俺にとって大切だったのは、ダリアと彼女が繋いだ命があるという事。
あの子は、ダリアの子だ。それだけで十分だった。

その子を愛する。
ダリアと、その子を、どこまでも守り抜く。
奪うために握ってきたこの拳で、今度こそ守るために戦うと。

だが現実は、地の底だ。
空も、明日も、自由もない。
鉄と監視に囲まれたこのアビスで、俺はただ腐っている。

生きているだけで何の意味もない場所で、
俺は彼女にも、その子にも、何ひとつしてやれない。
彼女に触れることも、子を抱くこともできない。
それがどうしようもなく歯がゆかった。

悔しさと焦りが、日ごとに胸を焼いていった。
何度、この拳で看守どもを殴り殺して、ここから飛び出してやろうと思った事か。

だが――そんなある日の事だった。

『恩赦』という名の希望が、蜘蛛の糸のように垂れ下がってきたのは。

ダリアと、あの子に会えるかもしれない。
それだけで、すべてを賭ける理由になった。

でもな。わかってる。
このアビスで偶然の情報なんてありはしない。
ここは風が噂を運ぶような場所じゃない。

間違いなく、仕組まれた罠だ。
あの看守長が俺を刑務作業で都合よく動かすために、わざと垂らした餌。
俺の感情を知り尽くしたうえで、選び抜かれた毒針付きの希望。
毒だと分かっていながら自分の意思で喜んで皿を舐めさせられる、奴の仕掛けるのはそういう罠だ

――それでもいい。

たとえ罠でも、嘘でも、都合よく作られた作戦でも構いはしない。
たとえそれが毒で塗れた蜘蛛の糸だったとしても、俺はその糸を掴む。
血が出ようが、皮が剥がれようが、登りきる。

この拳で、地獄の底からでも這い上がる。

ダリアと、その子を、愛すると決めた。
どこまでも守ると決めた。

そう考えるだけで拳に不思議な力が宿る。
トレーニングから遠ざかり衰えた体の切れ、獄中で訛り切った試合勘。
だが、それでも。今の俺は、全盛期を超える全盛期だ。

だから、待っててくれ。

もうすぐだ。

――絶対に、必ず帰る。



633愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:37:13 ID:9vN4cFFQ0
「……その女は、お前の恋人(アモール)か?」

雑多な物置の中で、少年と少女が挑むような視線を向け、静かに王者と対峙していた。
その静寂を破ったのは、拳闘士の声だった。
戦いの雄叫びでも、挑発でもない。
それは、エルビス・エルブランデスが初めて発した、意味を持つ問いだった。

「何を……?」

突然の質問の意図が分からず困惑するエンダ。
その隣に立つ只野仁成は一切動じることなく答える。

「違う。この場で出会った協力者だ」

語調に揺らぎはなく、感情も排されている。ただの事実の報告に過ぎない。
その返答に対し、エルビスはかすかに息を漏らす。「……そうか」と。
それは落胆か、あるいは安堵か。どちらとも取れる曖昧な声色だった。

「ならば――――遠慮はいらないな」

情を捨て、情けを捨て、目的のために一片の遊びもなく、チャンプが動いた。
その歩法(ステップ)は最短にして最速。
無駄を削ぎ落とした、殺意のみを宿す拳闘の軌跡。

「させないよ――――!」

くすりと笑いながら、エンダが応じるように黒い靄を唸らせる。
彼女の異能『呪厄制御』。
靄は瞬く間に凝縮し、千の羽虫の群れ、呪詛の黒蠅へと姿を変える。
それは空間を埋め尽くし、物理にも精神にも、そして超力にも干渉する、触れれば穢れる『呪い』の軍勢。

これは熱線や爆風のような大規模攻撃でなければ突破できない異能障壁。
ましてや、素手での突破など常識ではありえない。

――――だが、そのような常識は、この男には通用しない。

まるで光が弾けたような残像。
瞬きの合間に繰り出された、超速のマシンガンジャブ。
怒涛の連撃が、異様な精度と圧倒的な速度で羽虫たちを一体残らず叩き落としていく。

触らば穢れる呪いの塊。だがその理屈を上回る速度で、拳が先に舞う。
祟りを恐れず、恐怖も痛みも否定するかのように、彼は拳を引いて、また放つ。
そこに迷いも躊躇も一切ない。

「……なっ。どうなってるだ、こいつは……!?」
「この男相手に、その程度で驚いてたらキリがないぞ!」

動揺するエンダの前に、入れ替わるように仁成が一歩出る。
蠅の群を突破した王者を迎え撃つのは人類の極限、只野仁成。

炸裂する拳。
空気が裂ける音。
交差する拳と拳。

拳を極めし王と、技を極めし人が再び激突する。
刹那ごとの判断、打撃の設計、呼吸の制御、心拍の最適化。
1秒の中に、数百の情報が詰め込まれ、数千の技術が交錯する。

「くっ……!」

仁成の左腕がエルビスのジャブを掠め取るように受け流す。
ジャブとも言えど、エルビスの拳は下手なボクサーのストレートにも匹敵する破壊力を帯びている。
まともに受ければ骨が砕ける。ならば受けずに逸らすしかない。
同時に腰を沈め、仁成は踏み込みを想定した体勢へと移行した。

仁成は理解していた。真正面の打撃戦では勝てるはずがない。
近接格闘において、優劣の格付けは既に完了している。

前戦で身をもって体感した通り、エルビスの格闘力は人類の極限をも凌駕していた。
この拳闘王は、人類という生物の定義を力でねじ伏せてくる。

634愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:37:53 ID:9vN4cFFQ0
だが、今回は前回の戦いとは条件は違う。

戦場となるのはかつての階段ロビーのような死地とは違う。
エルビスの紫花が完全に敷き詰められていた、あの腐敗の庭園ではない。

ここは倉庫――紫骸の侵食はまだ浅く、地面にはわずかに空白が残る。
すなわち、仁成にとっては足場が存在していた。

人類が到達可能な全技術を極める超力『人類の到達点(ヒトナル)』。

もしも拳が支配する世界ならば、王者には敵わない。
だが、転がせば世界が変わる。
立ち技の王が覇を唱えるのなら、寝技の極地を見せてやる。

仁成の眼差しが、鋭く光った。
頭部を庇うように両手を盾にしつつ接近。
そのまま足元へ滑り込むような低姿勢へ移行する。
目指すは打撃ではなく、組み付き。

拳で制せぬなら、崩して倒す。
崩せぬなら、転がして絡む。
それが、人類の武術が長年かけて積み上げてきた技の哲学。

「…………」

その動きを視界にとらえたエルビスは無言のままわずかに後ろ足へ重心をずらす。
カウンターを狙う構え。いや、既に迎え撃つ型が完成している。
呼吸の乱れすら狙う戦王の構えは、肉体そのものが戦術書だ。

「くぅ……!」

エルビスの迎撃。
ガード越しに受けた仁成の肘が軋む。
一発一発が鈍器めいて重い。

されど、仁成は止まらない。
そのまま左足を内側から巻き込み、後ろ足へと体重を預ける。

体幹を揺るがす、重心破壊の術――タックル。
一歩でも軌道がズレれば成立しないが、今は最短距離での突入。
密着と同時に、肘・膝・肩を同時に押し当てて、エルビスの体を浮かせにかかる。

「……ッ!」

エルビスが喉を鳴らす。
即座に姿勢を戻し、腹部にカウンターを叩き込まんと拳を振るう。
その瞬間。仁成は自ら崩れ落ちるように倒れこんた。

「――――!」

その動きに引っ張られ、意表を突かれたエルビスの体が一瞬浮く。
バランスを取ろうと、咄嗟に踏み出した片足を、仁成の足払いが刈る。

転倒。

王者の体が大きく傾ぐ。
仁成の腕がその背を制しながら巻き込んで寝技圏内への誘導が成立する。
だが――。

「――――!」

倒れ込む仁成の視界の端に紫の波紋が広がった。
倒れ込もうとした先に咲いていたのは、腐敗の花。
その動きを読んでいたように、空間を侵食する紫骸が寝技を拒絶するかのように咲いていた。

このまま倒れ込めば、肌が、呼吸器が花に触れ。腐敗に蝕まれる。
密着する者同士、毒の浸食は即座に回る。
まさに、致命の罠。

635愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:38:45 ID:9vN4cFFQ0
だが、前回の戦いとの違いがフィールド以外にもう一つある。
それは一人ではないという事。

「――――エンダッ!!」

その名を叫んだ。
その声に応えるように、背後から黒い靄が奔った。

ざあっ、と音が聞こえた気がした。
風でもなく、水でもない、呪いの羽音。
祟りの声。悪意を塗り固めたような意思。
集中した黒い靄が紫の毒花へと襲いかかる。

紫骸と黒靄。
互いに汚染を本質とする超力が、真正面から激突する。

視覚ではとらえられぬ何かが軋み、
精神の芯が締め上げられるような不快感が戦場を覆う。

そして、腐敗毒が、黒靄に食われた。
腐敗を放つ紫の花弁が黒く染まり、しおれていく。

これが、エンダ・Y・カクレヤマの真価。
毒を打ち消すのではなく、毒で毒を制す。
彼女の異能は、対呪いにおいてこそ真に輝く。

「――今だ、仁成!」

エンダの叫びに、仁成が即座に応じる。
完全な無力化とまではいかずとも、十分に無害化された花畑に、男たちの体が転がった。
地面に落ちた仁成は瞬時に半身をひねり、エルビスの腕を巻き取るように制圧。

「もらったぞ、チャンピオン――――!」

腕を絡め、肩を潰し、首へと圧をかける。
立ち技の王者を地を這う格闘の領域へ引きずり込む。
密着から一気に――グラウンド・コンバットへ遷移する。

密着した瞬間、戦場の支配権が塗り替えられる。
主導権は、仁成の手中へと移った。

寝技。それは立技と異なり、一手ごとに全身を運用する総合技術。
投げ、崩し、絞め、極め、返し。
その一手一手が技であり、術であり、生死を分かつ理である。
その理を知る者と知らぬものの間には絶対的な超えられない壁が存在し、そして仁成はその全てを理解してた。

人間に可能なすべての技術を、正確無比に再現できる男。
この領域で、もはやボクサーに勝機はない。

仁成の腕がうねる。
肩甲骨を起点に、肘を抱え込むように巻き付ける。
肩を潰し、腕を斜めにひねり、背骨と胸郭の歪みを強制的に引き出す。

変形腕絡み(キムラロック)。
人体の自然可動域を逸脱させる破壊技術。
関節は決して力比べではない。テコと位置こそが支配の鍵。
それが、武術という名の科学だ。

「ッ……!」

歯を食いしばり堪えるエルビスの身体がわずかに浮く。
それほどまでに、仁成の極めは完璧だった。
完全に極まったサブミッションに逃れる術はない。

しかし――花が咲いた。

エルビスの肩から、腕から、手首から。
滲み出すように紫の花が咲きこぼれる。

エルビスは何でもあり(バーリトゥード)の『ネオシアン・ボクス』を勝ち抜いてきた王者だ。
寝技の精度は高くなくとも、寝技の対応は心得ている。

毒を纏う花弁が、密着した仁成の右腕を覆うように這う。
エンダもそれを無力化しようと黒靄を遣わせるが、密着状態では効果が薄い。
特に相手の手首を掴んでいる右手は避けようがない。

腐敗と蠱惑を纏った死の花。
その花粉が仁成の右腕を這い、侵蝕していく。

636愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:39:14 ID:9vN4cFFQ0
「構うかよ――――」

だが、仁成は手を離すことなどしなかった。
腐敗が走ろうとも、腕の力を緩めることはない。

――――折る。

腐敗は無視できぬ痛みとなる。
だが、その代償にチャンピオンの腕一本が取れるのな安い取引である。

腐敗が進行する。
熱い。痛い。痺れる。
皮膚が焼け、肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。

それでも仁成は、全身の体重を関節にかけ、腕をひねり折りにかかる。
これは好機だ。
エルビスの寝技対策は徹底している。
逆に言えば、それだけ寝技を嫌っているという事。
この無敵の王者の弱点は間違いなくこれだ。

最後の一刺し。
相手の抵抗を切るように、全身の力を籠め体を仰け反らせる。

「――ッッ!!」

だが、生身である以上、物理的な限界は存在する。
仰け反った拍子に、相手の手首をつかむ右掌の皮膚が腐敗の進行によりズルりと滑った。

その瞬間、僅かに拘束が緩んだ。
その一瞬を、見逃す相手ではない。

「ぉおおッ!!」

咆哮のような呼気。
体幹をひねり、肩を抜き、反転するエルビス。
裏返しの体勢から、そのまま反転する勢いを乗せたフックを振り抜いた。

「……ッぐ!」

それは地面を殴りつけるかのような鉄槌だった。
ほんの一瞬でも反応が遅れていれば、仁成の顔面はトマトのように潰れていただろう。

だが仁成は、咄嗟に身を離し、横転して直撃を回避。
拳が床を砕き、コンクリートが爆ぜる。

「……っ!」

一発、二発、三発。
地を転がる仁成を、鉄の連撃が追う。
体勢を整えることより、攻撃を優先する暴風の連打。

振り下ろされる拳の重さは、攻撃というよりも刑罰だった。
鉄槌。処刑。拳の王が下す絶対の裁き。
その一撃一撃が、骨を、意志を、命を砕くに足る威力。

だが、それでも仁成は回る。
体を絞り、呼吸を整え、打撃の軌道を見切って最短距離で抜けていく。
理性と本能の間で、常に生存を最適化し続ける――それが、只野仁成。

だが、それを追う拳は、なおも速い。
追撃の鉄槌が今まさに仁成へ追いつこうとした、その瞬間――

「――行かせないよ」

黒い靄が、横合いから奔った。
まるで悪霊のごとく、戦場を這う。

それは精神を蝕み、超力を侵食する祟りそのもの。
腐敗毒すら侵す、呪いの侵攻。
侵すための超力。

「ッ……!」

それを視認した瞬間、エルビスの拳が止まる。
バッと上体を反らし、スウェーのような動きで身をかわすと跳ねるようにして立ち上がった。

その隙に、仁成は距離をとった。
荒い呼吸を整え、再び戦場に立つ。

637愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:39:56 ID:9vN4cFFQ0
「――助かった」

荒い息の合間に、仁成はそれだけを呟いた。
地を転がって間一髪で間合いを逃れた彼は、立ち上がったままエンダへ視線を向けず声をかける。
その目は戦場の中心にいる王者、エルビス・エルブランデスだけを見据えていた。

エンダは短く頷いた。
言葉は要らない。今は戦いの只中。
その了解が伝わっただけで、十分だった。

仁成は膝を曲げ、重心を落とし、深く呼吸を整える。
同時に、エルビスもまた、自身の肉体を確認していた。

関節技を受けた肘に、鈍い痛みが残る。
関節がきしみ、筋が引き延ばされている感覚。
だが、骨も腱も断裂には至っていない。
拳を握ればわずかに疼くが――戦闘に支障はない。

拳闘士は拳を再び固め、構えを取る。
しかし、その型は明らかに先程までとは違っていた。

前傾姿勢のクラウチング・スタイルを捨て、上体を起こしたアップライト・スタイル。
両腕は低く下げられ、腰の位置からスナップを効かせるような独特の構えへと切り替わる。

ヒットマン・スタイル。
迎撃に特化したその構えは、文字通り狙撃手の構え。
待ち構え、測り、正確に打ち抜く――アウトボクシングの典型的な流儀だ。

(……アウトボクシング?)

仁成は一瞬、疑問を抱いた。
この戦法は、通常リーチに優れる体格の選手が距離を支配するためのもの。
だが、エルビスと自分の体格差は大きくない。リーチを活かすには不向きだ。

ならば、この構えの狙いは攻めではない。防御と迎撃、特に組み付き対策。
グラウンドでの攻防を忌避し、あえて重心を後方に保ち、威力を抑えてでも距離を詰めさせない意図がある。

そう狙いを読み取った仁成が動く。
地を蹴り、距離を詰め、鋭く後ろ回し蹴りを放つ――顔面への一撃。
だが、エルビスは無駄のないバックステップでそれを躱す。

だが、それは布石に過ぎない。
蹴りの反動を利用して反転し、低い姿勢からバックステップを追うように踏み込む。
ステップの着地タイミングを狙っての胴タックル。
一切の無駄がない、完璧な踏み込み。避ける隙間は、ない――そのはずだった。

だが、次の瞬間、パンッと、鋭く弾かれる音が空気を裂く。
エルビスの腕が、スナップと共に放たれたのだ。

フリッカージャブ。
後方に引きながら、前へ伸ばした仁成の右手を正確に叩き落とす。
近づかせないという明確な制動の意志が宿った一撃。

「くっ…………!」

掌を打たれた衝撃が激しく響く。
引きながらの打撃であるため打撃の威力はやや落ちている。
それでもまとも喰らえば一撃で機能不全にするには十分な威力だ。

だが、その威力にも怯まず、仁成は止まることなく再び組み付きに向かう。
弾かれた逆の手を掴みかかるように伸ばし、細かな足さばきで軌道を変え突っ込む。

だが、再びパチンと言う音。

今度は左手を打たれた。
まるで、突き出した手が狙撃されたかのような正確さで弾かれる。

(……違う。これは)

ただの場当たり的な迎撃じゃない。
鋭い手の痛みを感じながら、仁成の頭を冷たい理解が貫いた。

――――指だ。

エルビスの狙いは、仁成の指を破壊することである。
極め技、関節技、絞め技。あらゆる寝技という技術体系の根幹は掴みにある。

掴めなければ、極められない。
掴めなければ、寝技そのものが成立しない。
だからこそ、その根本を破壊すべく、仁成の指を潰しにきている。

踏み込まず、距離を保ち、安全に、正確に指を叩き落とす。
ヒットマン・スタイルはそのための選択肢。
ダメージではなく、機能破壊を目的とする、冷徹なスタイル。

638愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:40:20 ID:9vN4cFFQ0
敵の狙いは読めた。
ならばこちらは、意地でも組み付く。
仁成はさらに深く踏み込んだ。

足運びにズレを混ぜ、視線を惑わせ、肩の角度と上体の捻りでタックルと見せかけ打撃を放つ。
踏み込みも直線的ではなく、蛇のようにうねり、狐のように欺き、虎のように牙を剥く。

だが打撃など通用しないとばかりに状態の動きだけで避けられ撃ち出されるジャブ。
しかし、それは仁成がフェイントで引き出させたジャブだ。
呼んでいたようにそれを腕で受け流すと、次の瞬間には前蹴りを放ち、打撃戦に持ち込む。
もちろんそれは本命ではない。

本命はここ――――足取りだ。
蹴りを戻す動きに合わせ、仁成の重心がさらに沈み、地を這うような姿勢に移行。
あらゆる動作の軌道と余韻に自然な不自然さを散りばめながら、エルビスの視界の外縁から滑り込む。
地に掌を滑らせ、足首を掴みに行こうとした所で。

瞬間、空気が爆ぜるような音が響いた。

正面の構えから打てるはずのない角度。
常識では考えられないタイミングと姿勢から、拳が迫る。
エルビスのアッパーが、ほとんど地面スレスレの角度から振り上げられる。
拳が仁成の右手を、的確に撃ち抜いた。

「ッ――!!」

指が跳ねる。
神経が、掌の中心で火花のように炸裂した。
筋が震え、骨が痺れる。

恐るべき精度だ。
ただでさえ人類の極地ともいえる高速戦闘の渦中。
その中で、正確に指先を狙って拳を打ち込むなど人間技じゃない。

人知を超えた拳の怪物。
それが、エルビス・エルブランデス。

最強のボクサーと、至上の人間。
技術と技術、速度と速度、読みと読みがぶつかり合う。
目まぐるしく戦況が変化し、息をつく暇さえ与えられない。
今この瞬間、この倉庫に存在しているのは、人類史上でも極めて稀な格闘知の極地だった。

――エンダは、戦場の中心でぶつかり合う二人を見つめていた。

もちろんただ観戦している訳ではない。
援護の隙を探し、全神経を集中させている――にもかかわらず、割り込む余地が一切見つからなかった。

視認も、聴覚も通じない。
予兆、気配、空気の揺れ、そして本能。
すべてを総動員して、ようやく戦況の輪郭だけが掴める。

(……これでは、手出しできないな)

戦いの次元が高すぎる。
エルビス・エルブランデスと只野仁成。
この二人の戦いは、もはや通常の支援が通用する次元ではなかった。

彼らの攻防は鋭すぎて、下手に割って入ればかえって足を引っ張ることになるだろう。
できることと言えば、せいぜい周囲に咲き始めた腐敗の花を出来うる限り無力化し、仁成の動けるフィールドを広げることくらいだ。

ドンとの戦いは、エンダという大切な人を殺されたという恨みによって強化された超力で押し切ることができた。
だが、それが通用したのは、ドンが体と剛の怪物だったからだ。
そして何より足止め役と超力ハックという明確な役割分担があったというのが大きい。
スタンドプレーによってうまれるチームプレイ。これこそが彼らには合っていた。

一人の相手を高速戦闘の中で相手取るのは高度な連携能力が必要だ。
だが、はっきり言ってエンダは共闘の経験が少ない。
土地神として祀られて生きてきたのだ、誰かと共に戦うなど皆無だったと言ってもいい。

黒靄は強力な力だ。
だが、強すぎるが故に攻性で放った場合、加減が効かない。
密着戦闘の最中に放てば、敵味方を区別なく呪いごと飲み込むだろう。
仁成のような肉体であっても、至近距離で浴びれば確実に侵蝕される。

エルビスはドンの様な体と剛ではなく、技と柔の怪物。
その動きは、たとえ土地神であっても、ただの少女をベースとするエンダの感覚では捉えきれない。
この戦況下で、エンダの力は使いどころを誤れば、むしろ危険な援護になりかねない。

ならば、間接的にいくしかない。
ふわりと、エンダの手が上がる。
黒靄がうねり、倉庫の天井近く、備品棚の高所へと伸びる。

次の瞬間。
棚の上にあった工具、金属片、フレーム、部品などが、不自然な軌道で一斉に宙を舞う。
呪いに導かれた物質の飛礫が、エルビスの背後へと襲いかかった。

639愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:40:47 ID:9vN4cFFQ0
ほんの一瞬。
王者の意識が、わずかに後方へと割かれる。

その刹那。
仁成が動いた。

脚が音もなく床を滑る。
心拍を抑え、気配を殺す。
鍛え抜かれた身体を完全に沈め――密着を狙う。

だが、それでも通らない。

エルビスは即座に膝を落とし、ウィービングで飛来物をかわす。
風を読んだかのような柔らかい動きで、すべての飛礫を避けきった。
そして、同時に繰り出されたフリッカーショットが、向かい来る仁成の右手を正確に捉えた。

「ッ……!」

ついに指先に直撃し、薬指が砕けた。
関節が逆方向に折れ曲がり、骨が軋む。
皮膚の内側で、鈍い断裂音が響く。

だが、

「指一本で――止まるかよ!!」

それでも仁成は、止まらなかった。

砕けた指をそのままに、構わず突っ込み、肩から巻き込むように距離を詰める。
右手を捨て駒にし、身体をねじ込むことでエルビスの肘関節に取りついた。

指を捨て、肘を取る。
肘を外から掴み、内側へとひねり込む。
全身の体重を関節の一点へ集中させ、死角から力を流し込む。

それは、人類が何世代にもわたって積み上げてきた、関節技の粋。
そして、それを実行するのは人類の到達点たる只野仁成。

痛み? 恐怖? 損傷?
そのどれもが、極めるという意志の前では何の意味も持たない。
今の彼は、己の命さえ極めの代価にできる精神領域にいる。

「――っ!」

仁成の腕が深く絡まり、肘を完全に制する。
背を逸らし、全体重を一気にかけて引き裂く。

ゴキン。

肉と骨が引き離される、濁った破砕音。
エルビス・エルブランデスの右肘関節が、ついに破壊された。

(ッ!? 違う……これは――!?)

だが。すぐさま仁成が違和感に気づく。
手応えが、あまりにも軽い。

極められるその寸前。
エルビスは抵抗を捨て、自らの意思で肘関節を脱臼させたのだ。
通常なら激痛に悲鳴を上げ、即座に行動不能となるはずの荒技。

だが、エルビスは顔ひとつ歪めなかった。
それさえ堪えられるならば、決定的な破壊を避けられ、即座に反転することが可能になる。

「あ――」

仁成の反応が一拍遅れる。
プランと右腕を放り出しながら、エルビスの体が独楽のように反転した。
放たれる悪魔の左フック。

640愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:41:09 ID:9vN4cFFQ0
「させない!」

咄嗟に、エンダの右手が振り上げられ、黒き靄が暴風のように渦巻いた。
多少危険でもここで割り込まなければ仁成が死ぬ。
だが、その光景を見たエルビスの目が、明確に反応を示す。

振り抜かれるはずだった左フックが、僅かに軌道を変えた。
その腕で、仁成の体を引っかけるように絡めとる。

それは拳ではなく、投げ技への移行だった。
そのまま首を刈りながら腰をひねり、首投げの要領で仁成を黒靄の渦巻く方向へと投げ飛ばす。

「――ッ!」

黒靄は誰彼構わず呪う、対象を選ばない力だ。
それが敵であろうと、味方であろうと。

このままでは、仁成の肉体すら蝕んでしまうだろう。
咄嗟にエンダは、黒靄を霧散させた。

「っ……!」

黒靄の消去はギリギリで間に合った。
だが、受け止める黒靄がなければ、投げ飛ばされた仁成の体が向かう先はただひとつ。

「――っ!」

鈍く重い衝突音。
剛速球のように放り投げられた仁成の身体が、全体重を乗せてエンダに直撃した。

2人の身体がもつれ合って転がる。
荷台をなぎ倒し、壁に激突し、鉄製の棚が崩れ落ちる。

「う、く……」

エンダが呻き、ようやく上体を起こす。
そして顔を上げたところで――

「え――――?」

死が目前にあった。

エルビスは、既に距離を詰めてそこにいた。
一切の迷いもなく、拳が振りかぶられている。

死を目前にして全てがスローモーションのように見えた。

岩石すら容易く砕く鉄拳。
神が宿っていようとも少女の頭など、一撃で吹き飛ぶだろう。

この拳が直撃すれば間違いなく死ぬ。
エンダにとっての二度目の死。
奇跡はもうない。

鉄拳が、エンダに迫る。
逃げる時間はない。
靄を展開する暇もない。
叫ぶことすら、もう間に合わない。

確実に、死ぬ。

だが、横合いから飛び出してきた何かに、向かい来る死が遮られた。

641愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:41:34 ID:9vN4cFFQ0
「――仁成!!」

エンダを庇うように身を乗り出しのは仁成だった。

交通事故のような衝突音。
その顔面に拳王の鉄拳が直撃する。

勢いよく弾かれた体が、錐もみ回転しながら壁際まで吹き飛ばされる。
乾いた音と、壁材の破砕音。
打ち付けられた仁成が、破砕物の中に沈み、力なく崩れ落ちて動かなくなった。

血が流れている。
左頬が裂け、眉骨が陥没し、口の端からは欠けた歯と血が混じったものが滴っていた。

エンダの呼吸が止まる。
一瞬、死んでいるのだと思った。
いや、今この瞬間も、本当に生きているのかどうか、確証はない。

だが、エルビスは動いた。
エンダのすぐ目の前にいながら、彼の視線は仁成に注がれている。
彼の中で脅威としての優先度は、いまだ仁成の方が上なのだ。

無防備なエンダを素通りし、エルビスは倒れた仁成の方へと歩いていく。
歩きながら脱臼した右腕を遠心力で勢いよく回し、無理やり関節をはめ込む音が響く。
一瞬、僅かに顔を歪めるがそれだけ。
彼の足音は重く、確実に仁成へと迫っていた。

エンダの背筋に、鋭い戦慄が走る。
この歩みを止めなければ、仁成は殺される。
そして、その直後に、自分も殺されるだろう。

この男に躊躇はない。
獲物を見逃すことなど、在り得ない。
慈悲もなく、己が目的を達するだろう。

ならば。
選ばねばならない。
この殺意の歩みを止めるための唯一の手段を。

武力では勝てない。
エルビスに対して戦うという選択肢は成立しない。
ならば、生き残る方法はただ一つ。

「――待ちなさい!」

エンダが声を上げる。
だが、エルビスは止まらない。
そのまま、意識を失った仁成の傍まで歩み寄る。

「わたしたちは、この刑務作業からの脱獄を目指している……!」

必死に叫ぶ。
自らの目的を明かし、交渉の糸口を掴もうとする。
だが、エルビスの拳は無言で振り上げられた。

――止まらない。
この程度の情報では、この男は止まらない。

エンダは奥歯を強く噛み、逡巡する。
彼を制止するには、もっと具体的で、強い言葉が必要だ。
そのためには、エンダの持つ最大の切り札を切るしかない。

だが、それを口にするのは酷く躊躇われた。
思考すら読み取る看守長ヴァイスマンの超力。
この超力に対してエンダは唯一無二のアドバンテージを持っていた。

『支配願望(グローセ・ヘルシャー)』によるタグ付け。
それはこの体、エンダになされたものである。
ならば、彼女に憑依した土地神であるカクレヤマの思考は読めないのではないか?

もちろん、そうであると言う確証はない。
だが、無敵のヴァイスマンの超力を出し抜く唯一無二と言っていい可能性だ。
口にしてしまえばそのアドバンテージをみすみす捨てることとなる。

迷いの暇はない。
拳が振り下ろされようとする――その刹那

「わたしには――脱獄のための具体的な手段がある…………!」

振りかけられた拳が、空中で止まる。
ようやく、エルビスの意識がわずかにこちらへと向いた。

642愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:42:12 ID:9vN4cFFQ0
エンダは胸の奥で、ようやく一度、息を吐く。
背に腹は代えられない。
エンダのために涙を流してくれた優しい人。
エンダが夢見たささやかな少女の夢を叶えてくれるかもしれない人。
ここで彼の命とエンダの夢が失われるくらいなら口にすべきだ。

「どうせキミも恩赦が欲しいんだろう?」

そして冷静を装い、あえて余裕を見せるように言葉を紡ぐ。
その言葉にわずかにエルビスの眉が動いたように見えた。
どうやら図星のようである。
ならば、そこを突く。

「けれど、考えてもみたまえ。アビスが恩赦なんてものを与えると本気で信じているのかい?」

恩赦を稼いだ犯罪者たちを解き放つなどと言う無法をアビスが許すか?
刑務作業における恩赦に信憑性はあるのか?
彼の戦う理由の根本を突いた。

「わたしならばより確実な脱獄方法を提示できる」
「――御託はいい。話せ」

刃のように鋭い声だった。
エルビスは不要な踏み込みを許さない。

拳は止まっている。
だが、いつ動き出してもおかしくない。
まるで時限爆弾のような空気が、空間を支配していた。

その声音は、ギリギリの興味を保っている状態。
つまり、この交渉から少しでも興味を失った瞬間、この拳闘士の腕は振り下ろされる。
その一撃が落ちれば、仁成は確実に死ぬ。

エンダは、そんな中でも表面上の平静を保っていた。
その瞳は黒靄のように冷ややかだが、喉の奥では緊張が焼けつくように渦巻いていた。
エンダは降参するように探りを止めて、決意を固めて口を開く。

「この孤島が、どこにあるのか知っているのかい?」
「知らないな」

興味すらないのか、感情の欠片もない簡素な返答。
だが問いへの反応はある。
まだ話を聞く意思が残っているようだ。
そう判断したエンダは続けた。

「この孤島はね、超力によって作られた世界なんだよ」

答えを告げる。
この事実にさすがに驚いたのか。
ほんの一瞬、エルビスの瞳がわずかに細まった。

『異世界構築機構(システムB)』
それがこの刑務作業の舞台である孤島の正体。
システムAの開発に携わる秘匿受刑者として、エンダはその事実を知っていた。

「……それで?」

返ってきたのは、やはり冷ややかな一言。
彼が求めているのは驚きではない。
必要なのは、その情報が何を意味するのかである。

「そちらの仇花を枯らした、わたしの超力……あれがどういうものか、理解はできているのかな?」

だが、直球の答えを求めるエルビスに対して、エンダはさらに問いを重ねる。
これは必要な問いであるかと言うように。
エルビスは少しだけ視線を動かす。

「腐敗か呪いか……俺の超力に干渉したってとこだろうな」

さすがは百戦錬磨の王者。
数多の超力者と戦ってきた男は、既にエンダの能力の輪郭を把握していた。
エンダは、静かに頷きそれを肯定する。

「そう。わたしの超力は、超力に干渉することができる。その意味が、わかるかい?」

そして突きつける、論理の核心。

超力によって作られた世界。
そして超力干渉できる超力。
ここから導き出されることは一つ。

「わたしは―――――この世界に干渉できる」

それこそが、エンダの持つ最後にして最大の切り札。
この牢獄を打破する、唯一の鍵。
全てを解決する脱出計画。

643愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:42:49 ID:9vN4cFFQ0
沈黙の中で、エルビスが静かに問う。

「個人の力が、世界をどうこうできるとは思えないな」

それは、まっとうな疑念だった。
力の世界に生きる男だからこそ、その点はシビアだ。
だが、エンダは、すかさず言葉を重ねた。

「わたしの超力は、恨みに比例して強化される」

一語ごとに、感情がにじむ。
唇がわずかに歪む。
喉の奥から、熱のこもった声が漏れる。

「この世界への恨み。
 私(エンダ)を閉じ込め、神を祭り上げ、管理し、奪っていった全てへの怒り。
 その怨嗟が、どれほどの強さか……試してみる?」

その瞬間、空間が微かに震えた。
エンダの背にまとわりつく黒靄が、怒りに呼応してざらりと蠢く。
この世界への怒りを受け、黒き瘴気が、微かに震えた。

対象は世界。
彼女の中では世界そのものが、最初から敵として定義されている。
そして、それに干渉する力が、今まさに膨れ始めていた。

世界そのものを相手にしようというエンダの語る遠大な脱獄計画。
だが、エルビスは失望した様に肩を落として大きなため息を零した。

「――――ガキのママゴトみたいな計画だな」

一言で切り捨てる。
声からは熱が抜け、興味は明らかに霧散していた。
エンダの背に、冷たいものが走る。

「脱獄してどうなる? その先は?
 そんな事をしたところで、待っているのは国際指名手配され逃げ続ける日々だ。
 アビスの職員どもやGPAの追手と一生戦い続けるつもりか?」

エルビスの願いはただ一つ。
愛する女(ダリア)たちとの平穏な暮らし。
それを叶えるために、より良い計画に乗るのは吝かではない。

だが、それは脱獄などという無法では不可能だ。
彼にとって必要なのは、誰に咎めらる事のない正規の手段での出獄。
この恩赦はそこに繋がる唯一の道筋だ。
だからこそ、細かろうと危うかろうとその道に全てを懸けられる。

一歩、仁成の方へと足を踏み出し、拳を握る。
その仕草は、交渉決裂の合図だった。
エルビスはエンダの計画を見限った。

「――話にならん」

最後通牒。
そう言い放ったエルビスの拳が、無慈悲に振り下ろされた。

「まっ――!」

エンダの口から悲鳴のような静止の声が漏れる。
だが、それはあまりに遅きにすぎた。

拳は、すでに落ちている。
空気を裂くような風切り音にかき消され、もはや声すらも届かない。

倉庫に響くのは、肉を打つ――鈍い衝撃音。

だが、エンダの目に映った光景は、予想とまったく違っていた。

644愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:43:13 ID:9vN4cFFQ0
目の前にあったのは、エルビスの拳が仁成に叩き込まれる姿ではなく。
仁成の飛び蹴りが、エルビスの胸に突き刺さる姿だった。

意識を失っていたはずの仁成の身体が跳んだ。
背中を支点に全身のバネを弾ませ、一気に跳ね上がる。
わずかに身を捻って、振り下ろされるエルビスの拳を紙一重で回避。
そのまま空中で両脚を伸ばし、ドロップキックの要領で放たれた渾身の蹴りが、カウンターのようにエルビスの胸を正確に捉えた。

人類最高峰の肉体を持つ仁成。
その回復力もまた人類の極限に至っている。
エンダが交渉をしている間に意識を回復させ、ギリギリまで回復に努めていた。

仁成の足裏が、エルビスの胸を正確に打ち据える。
押し出すような蹴りの勢いに、わずかとはいえ、王者の体が揺れた。
エルビスはたたらを踏んで後退する。

対する仁成は、蹴りの反動で宙に浮きながら、ネコ科の獣のように空中で体をひねり、しなやかに着地。
そして一瞬の迷いもなく、呆然と立ち尽くす少女の手を取って出口へと一目散に駆け出す。
驚愕に目を見開くエンダの身体が、不意にぐっと引き寄せられた。

「ま、待っ――!」

だが、待っている暇などない。
仁成はそのまま、エンダの小さな体を肩に担ぎ上げる。

「ちょっ、人を荷物みたいに――!」

抗議の声が上がるが、聞いている余裕はなかった。
無視して全速力で駆け出す。

「脱獄王と契約分としては十分だろ。逃げるぞ。2対1でも無理だ」

できることなら仕留めたかった。
だが、相手の有利なフィールドから抜け出し、2対1の状況で仕掛けても勝てなかった。
無理だということは痛いほどに理解できた。
奴の拳には神憑った何かが宿っている。

振り返る余裕はない。
だが、背後から迫る圧だけは、確かに感じ取っている。

体勢が崩れたのは一瞬。
チャンピオンが、再び動き出した。

空気が軋み、空間が震える。
それだけで、彼の殺意が再起動したことがわかる。

「仁成! 拳を構えている!」

肩越しに後方を確認していたエンダが、即座にエルビスの状態を報告する。
この状況で取られる拳王の構えに、仁成は嫌と言う程心当たりがあった。

――百歩真拳。
通当ての神業にて、逃げる背を打つ算段だろう。

「エンダ! 手当たり次第に壊せ!」

叫び声のような指示。
エンダが即座に反応する。

黒靄が奔る。
物置部屋の備品棚、配電盤、照明器具、床の構造体。
ありとあらゆるものに刃のように黒靄が走り、破壊を開始する。

棚が崩れ、火花が散る。
ケーブルが千切れ、構造材が崩れ、倒壊していく。

倒れ込んだ備品が即席の盾となり、放たれた真空の拳圧を破砕しながら受け止める。
同時に崩れた荷物が通路を埋め、追撃を足止めする障害物となった。

だが――そんなもので、王者が止まるわけがない。

エルビスは足さばき一つで障害物を避けながら、迷いなく迫ってくる。
稼げる時間は、せいぜい数秒。

そして仁成も、それをわかっている。
エンダを抱えたまま、この男を振り切るのは不可能だと。

実際それは一度、味わった。
背を向けた瞬間、地獄が追いすがるあの感覚を。

645愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:43:36 ID:9vN4cFFQ0
「どうするつもりなんだいっ!?」

抱えられたエンダが問いかける。
破壊された部屋が、煙と靄と爆裂で曇る中。
その中で、仁成は曲がった左薬指を無理やり伸ばしながら――笑っていた。

「2対1でもアレには勝てない。なら、答えは簡単だ――」

倉庫を出て通路を全速力で駆け、足を止めることなく、決断を告げる。

「――それ以上を、巻き込むまでだ」

その言葉に、エンダの目が見開かれる。

「……まさか」
「このブラックペンタゴンには囚人が集まってるはずだ。なら――――巻き込めそうな奴を、全員巻き込む」

まだ混乱の渦中にある、ブラックペンタゴンの内部。
そこに仲間でも敵でもない、多くの受刑者たちが集まっているはずだ。

王者を引き連れそこに突っ込み、そいつらを戦いに無理矢理巻き込む。
そうすれば矛先はその場における最大の脅威に集中するはずだ。
確実ではないが、現状の戦力で勝てないのだからそれしかない。
急場も極まった傍迷惑な混沌の作戦である。

背後から、王者の足音が迫っているのを感じながら。
仁成は混沌に向かって全力で駆け出した。

【D?4/ブラックペンタゴン1F 北東・北西ブロック 連絡通路/一日目・午前】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:ダメージ(中)、疲労(小)
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ナイフ、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスから逃げる。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キング、ギャル・ギュネス・ギョローレンには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。

【只野 仁成】
[状態]:疲労(大)、全身に傷、右掌皮膚腐敗、右手薬指骨折、左頬骨骨折、左奥歯損傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスを誘導して、他の受刑者を巻き込む
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。

【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、右腕、右肘にダメージ、強い覚悟
[道具]:
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.エンダと仁成を殺す。
1."牧師"と"魔女"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。

646愛にすべてを ◆H3bky6/SCY:2025/07/18(金) 20:43:46 ID:9vN4cFFQ0
投下終了です

647 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:49:33 ID:wib7f2dE0
投下します

648正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:49:55 ID:wib7f2dE0
 男――ルーサー・キングは己の勝利を疑っていなかった。
心底、本当に。彼の眼中にあの四人はいない。それは純然たる力量の差、そしてコンディションも含めている。
五体満足かつ栄養も取り、健康である自身と満身創痍でボロボロの四人。
客観的に見て、彼らは見どころはある。若者らしい、青臭い理想を抱いた超新星ではある。
だが、其処までだ。視界にいれる程度の興味こそあれど、脅威ではない。
一見の範疇では、彼らはキングの“敵”にはなり得ない。
此方が上で、向こうは下だ。

「先に言っておくが、お前達の過ちを咎めるつもりはない。確かに、俺の指示が悪かった。
 ネタバラシをすると、野暮用を頼んでる取引相手は別口だ。お前が説明したあいつらは無関係で、偶然かつ初対面――意図的な出会いではないことも理解している」

 眼前に立つ少年と少女に対して、特に感慨はない。
焦りと覚悟が入り混じったご高説を聞かされたが、大体は想定の範疇に収まっている。
まあ、やるだろうなと思っていたことではあるし、実害を被っている訳でもなし。
叶苗達のような恐怖と代価で動く駒と違って、制御できるとは思っていなかった為、特に失望とも違う。

「無関係な奴等に対しての指示がなかった、だから……自分達の判断を優先する。ああ、何も悪いことじゃねえ。
 もう一度言おう。今回の行き違いは、俺の指示が雑だったことが起因だ。坊主、お前に責はねぇよ」

 キングは軽く指を鳴らすだけでビクリと震えるハヤトを、やはり青いとしか評価できない。
敬語も使えないマナーは知らない腹芸はできないと言った典型的な三下の少年だが、面白みはある。
嘗ての自分を見ているのか。それとも、どう足掻いても得ることはできない――できなかったモノへの憧憬か。
できない子供程、可愛いと言う言葉はあるが、彼がそれに当てはまるのはもう自分でも理解できていた。

「それを踏まえて、俺達に筋を通す為に此処に来た。一貫してるねぇ。最初も言った通り、坊主――――てめえの覚悟とやら、俺は割と好きだったんだがなぁ」

 口元を緩ませて、笑うキングの表情は心底楽しげであった。
手を軽く叩き、最初に出逢った頃のように機嫌の良い声色だ。
故に、彼らは一瞬だけ気が緩む。背後に隠れている少女達も含めて決意を再確認してしまった。
自分達は立ち向かえるだなんて、無謀を抱いてしまった。

「けれど、その好感を差し引いても、解せねえよ。俺をよく知っておきながら、お前達が俺を軽んじているのが驚きだ。
 組織の頂点を仕切っている奴にその傲岸不遜、到底無視できるものじゃねぇ」
「………………ぁ」

 笑みが消える。声の抑揚に温度はない。
高みから、それら総てを見下ろしている視線に漸く気づいたのか。
裏の世界で君臨し続ける帝王を相手取ることの意味。
それは、世界を敵に回すのと同意義だということに。

 坊主、テメエにアメを与えすぎたか? 俺の失策だな。四の五の言わずに最初に出会った時に殺しておくべきだったか。
 この程度の目利きもできねぇ無茶と無謀の判別もつかねえ奴等なんざ、生かす価値がねぇ。
 なぁ、今生の際だ。最期に聞かせてくれよ。てめえらの軽率な振る舞いは一体、誰に責があるんだろうなぁ」
「そんなことは……っ!」
「あるだろうが。男を気取って、正義を掲げて、さも自分達は負けねえって顔をしてるが、相手は選べよ。
 子供の喧嘩じゃねえんだ。悪党とのやり取りでそれが許されるのは、強者だけなんだが――――」

 先程までのにこやかな笑顔も、浮ついた声色もない、正真正銘――本気の苛立ちと殺意。
ルーサー・キングという男が、殺意という刃を見せる。
囁くように、キングは告げた。
よく、噛みしめろ。飲み込んで、消化しろ。お前達が選んだ道はこういうものだ。

649正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:50:46 ID:wib7f2dE0
   
「てめえらは違うだろ」

 死刑宣告。帝王に目をつけられた以上、もはやこの悪蔓延る世界にて、生きる術などない。

 ――――俺を、誰だと思ってやがる。

 嘗てジャンヌへと放った言葉を再度使うことになろうとは。
帝王を前にして不遜なる態度を貫くには、まだお前達は足りないものが多すぎる。
それらの事実はキングが不合格を与えるには十分過ぎる失点だった。

「俺との対峙でてめえが矢面に立って。そんで何かあった時は、てめえが殿になって。時間を稼いで、後ろにいる奴等を逃がす。
 かっこいいねぇ、ドラマの主人公か? 。ハヤト=ミナセ――それは、てめえの過信が過ぎるんじゃあねぇのか?
 考えるだけだったら無料だがよ。まさか、そんな甘い物語《プランニング》を本気で実行する気なら、拍手は取り消そう」
「やるさ……! やらなきゃ、いけな――――!」
「五月蝿えよ、がなるな。もういい、てめえら二人の物語は見定めた」

 所詮、ちっぽけなチンピラだった。後ろの南米の英雄様も逃げ足だけの少女だ。
両者共に、弁えなきゃいけない領域をわかっていないのなら、価値はない。

「マルティーニ坊やなら、もっと練るぜ? あの永遠馬鹿なら、事前に俺の舞台を潰していたぜ?
 あの剣客だったら、言葉なんて抜きに斬り掛かっていたぜ?」

 策謀か、暴力か。意志だけではない、確固とした力と余裕。
疲弊しきった青臭い子供達には持ち得なかったモノを悪は悪故に準備している。
何をしてでも絶対殺すという覚悟が、ハヤト達には足りない。

「それで、後ろで隠れてる極東の田舎娘はパーティに出たことすらねぇのか。
 挨拶ってのは大事なんだぜ。礼儀を間違えると、力関係はずっと拗れたままだ」

 ゆっくりと詰めていく。数十分前に抱いた決意の刃も、キングにとっては秒で潰せる鈍らだ。
キングは淡々と問うている。不足を補うモノがないなら、死ぬしかないぞ、と。

「大方扇動されちまったか? それとも、色香に負けてハーレムでも気取ったか?
 皆で戦おう、皆一緒なら大丈夫って――――は、ははっ、自分で言ってておかしくてたまんねぇな
 こんな力も経験も足りねぇガキに、お遊戯会みてえな理由で喧嘩を売られたのは子供の時以来だ」

 キングの乾いた笑いが辺りに虚しく響く。失笑、と。彼は心底、眼前の子供達へ失望している。
何故、自分達は彼を相手に勝てると思ったのだろう。
こんなにも深く、こんなにも広く、こんなにも濃く。
常世に君臨する帝王の恐怖と覚悟。それはどう頑張っても、三下には届かない。

「お前達も笑えよ、坊主、嬢ちゃん。ラブ&ピースが好きだってことは、笑いは必要だ。
 気兼ねすることはねぇ、てめえら四人で話していた時みたいに、俺のことも笑い飛ばしてくれよ」

 凄絶に。顔を歪めて、キングは嘲笑う。
希望など、此処にはない。

「笑えって言ってんだよ。皆一緒だから大丈夫、なんだろ? 早く笑えよ、なあ?」

 これは、だめだ。
ハヤト達は何もわかっていなかった。
体の震えが止まらない。思えば、最初の出会いではまだセーブしていたのだろう。
キングの中でハヤト達への目利きはとっくに終わっている。
その意味と価値は、この場における最適解を導き出すことだ。キングの中にある意味と価値――ハヤト達を生かす理由を創出する。

650正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:51:50 ID:wib7f2dE0
   
「俺にここまで言わせてくれるなよ。“ルーサー・キング”を、お前“達”は舐めてんだろ」

 お前達など、秒で殺せるのだぞ、と。
正面から戦いに来れる程、お前達は強者なのか。

「出てこい。今すぐに。俺はさっきの言葉は後ろのお前達にも言ってるんだぜ?」

 結局の所、キングのことを彼らは何も理解していなかった。
青臭いガキ二人で自分を足止めできるなど、些か軽く視過ぎではないか。
鋼鉄操作の異能で、彼らの首は既にギロチンへと懸けられているようなものだ。
互いをかばい合う? 関係ない、“四人”まとめて斬首してしまえばいい。
キングはもう彼らに、猶予は与えない。彼らが何かをする前に、自分が皆殺しにする方が数手早い。
そして、彼女達がこの状況にて雲隠れすることは絶対に有り得ない事も知っている。
数秒後、物陰から二人の少女が姿を表した。
名前や素性を問いかける無駄はしない。キングの頭には彼女達の情報も入っている。

「臨戦態勢だな。初めましての挨拶時くらいは、仲良くやろうや。近頃の子供は物騒で怖いなぁ」
「さっきの言葉を顧みて、よく言えますね」

 へらりと笑うキングを前に、りんか達の表情は緊張を隠せない。
これが、欧州を牛耳った帝王。あのジャンヌですら倒せなかった、本物の悪。
この島で出会ってきた誰よりも、その悪は輝きを放っている。
先程までの脅しも踏まえて、彼を前に正気を保てるだけでも十分過ぎるくらいなのだから。

「ブラックペンダゴンを避けてきたようだが……その焦燥と疲弊を見る限り、意味があるかどうかは今後次第だ。
 同じ考えの悪どいハイエナはいるもんだ、この島に安全地帯なんざねぇよ」
「そうですね。逃げた先に、貴方のような人がいたら……そう思います」
「酷い言われようだ。まあ、いい。おい、坊主、礼儀もねぇ子供に付き合う程、俺も暇じゃねぇ。こいつらをさっさと追い返してきな」
「案内しろだったり、追い返せだったり、随分と自分勝手じゃないか……? それに、俺達は戦う覚悟できたっていうのに」
「戦わねぇよ。その無鉄砲さで問答無用に喧嘩をふっかけてくるかと態勢は整えていたが、さっきの説教が効いたのか、揺らいだな」
「…………揺らいでなんか、いねぇ」
「いいや、わかったはずだ。健康体の俺と満身創痍のお前達。数を揃えた所で天秤は変わらん。
 コンディションが逆ならまだしも、無茶と無謀を履き違えた選択を希望で塗り潰すのは愚策だ」

 キングはどこまでも理性と客観性で不毛さを説く。
勝つのは自分だ、それは揺らがない。
理の観点で見て、自分に益がないとわかった以上、キングの中にある熱は冷め切っている。

「ったく、今までの奴等がバトルジャンキーばっかりで感染ったか? 俺にはてめえらに対して、命を懸ける理由がねぇ。
 悪・即・滅を掲げてるどっかの正義の味方ならともかく、お守りで手一杯なそっちの嬢ちゃんは、悪を滅するより、誰かを守って救う方を選ぶと思っているんだが」
「知った口を聞いてきますね」
「目利きはいい方でな。少なくとも、てめえらよりは人を多く見ている」

 バルタザールのように心神喪失者でもなく。ブラッドストークのような怪人でもない。
はたまたルクレツィアのような嗜虐者でも、ジルドレイのような狂人でもない。
大金卸樹魂の求道者の生き方などキングには当てはまらない。
理性で衝動を捻じ伏せ、益だけを追求する合理性の“人間”。
それが、ルーサー・キングである。

651正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:52:14 ID:wib7f2dE0
    
「なぁ、悲劇のヒロイン――葉月りんか。いや、ヒーローの方が呼び名はいいのかい?
 涙を誘う裁判で全世界のトレンドになって、今も人権団体に喚かれている張本人。
 無辜の虐殺者。第二のジャンヌ・ストラスブール。
 どれが良い、呼び名はまだあるぜ?」
「私はまだ、名乗ってなんか……! …………なんで、そこまで」
「極東の島国で起こったことなんて、俺が知らねえとでも思ったか? 深堀りする程調べちゃいねぇが、最近アビスに堕ちた奴の中でも目玉だぜ、嬢ちゃんは。
 生憎とつい最近まで世間を賑わせた裁判だったらしいからな。色々と伝手があるのさ」

  初対面だというのに嫌に此方の手の内を見透かしてくる。キングが言っていたことに加え、ジャンヌと似たような触れ合いで世間を騒がせていた少女だ。
今後のネタになるかも知れないと思い、軽く調べたのが、こんなところで活きるとは思わなかったが、利用できるなら利用する。
故に、この場でカードは切るべきだった。

「俺からすると一番しっくり来るのは、この呼び名だがな――“自殺志願者”。俺からすると、そんな後先もねぇ奴と生命の奪い合いを付き合うのは何の益にもならん」

 そして、何の気なしに放たれたその言葉は、ハヤト達を酷く動揺させた。
確かに彼女の過去は知っている。だが、所詮それは言葉の連なりだ。知識として得れるが、その内実までは至らない。
少女が抱いたサバイバーズギルドも、メサイアコンプレックスも、眠っている思いとして伝わることもない。
りんかは黙したままキングの言葉を表情一つ変えず聞いている。
全部、彼女自身はわかっていて、それを意図的に伏せているのも自覚していて。

「………………………………なんだその顔は。坊主達はともかく、小娘。お前、何もわかってなかったのか」

 キングの言葉は心底虚を突かれたものであり、表情も驚きが混じっている。
そしてくつくつと嗤い声を上げて、小さく嘲った。
傑作だ。しかし、それも当然か。身の上話を話して、姉妹ごっこをしているが、その奥底にある願いまでは告げてはいないだろう。
話した所で止められるのが関の山だ。根付いた虚無はどれだけ絆を紡ごうとも、消えることはない。

「山程視てきたよ、てめえのようなガキは。正義の味方、誰かを救いたい。どうか、其の生命を投げ出さないで。
 近似値でいうと、ジャンヌ・ストラスブールか。まあ、造りとしちゃあ違うが、参考程度にはなるだろう」

 ジャンヌは先天的な正義の味方だ。
例え、何があろうともジャンヌは正義の味方になっていた。
それは環境がそうさせたのではなく、彼女自身が生粋の正義の味方であるからだ。
魂、そういった曖昧な言い方ではあるが、彼女の運命は最初から決まっていた。
生き方の始まりが何処であろうとも、彼女はこの道を進むし、この破滅を迎えることになる。

「だが、てめえはアレよりもよっぽど壊れてるな」

 それと比較したら、りんかは後天的な正義の味方だ。
環境が彼女を正義の味方へと貶めた。災害によるたった一人の生存者。
地獄を見た。助けを求める声に応えられなかった後悔は、彼女の自己肯定感を地の底まで落とすには十分過ぎるものだった。

「葉月りんか。人を救いたい。己の命は助けを求める人を救う為にある。
 確かに、その思いに偽りはねぇだろう。隣りにいる妹分を大事に思っているのは、紛れもなく本物だ」

 そして、地獄は再びやってきた。眼前にて嬲られ死んでいった家族達。
己も含めて蹂躙された精神と身体。そして、その果てで、言われるがままに虐殺した無辜の人々。
悪に翻弄され、壊れた少女が寄る辺としたのは正義の味方という概念だった。
それしか意味と価値はない、と。希望を抱けた唯一の夢を抱えて直走る。

652正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:52:27 ID:wib7f2dE0
    
「なぁ、悲劇のヒロイン――葉月りんか。いや、ヒーローの方が呼び名はいいのかい?
 涙を誘う裁判で全世界のトレンドになって、今も人権団体に喚かれている張本人。
 無辜の虐殺者。第二のジャンヌ・ストラスブール。
 どれが良い、呼び名はまだあるぜ?」
「私はまだ、名乗ってなんか……! …………なんで、そこまで」
「極東の島国で起こったことなんて、俺が知らねえとでも思ったか? 深堀りする程調べちゃいねぇが、最近アビスに堕ちた奴の中でも目玉だぜ、嬢ちゃんは。
 生憎とつい最近まで世間を賑わせた裁判だったらしいからな。色々と伝手があるのさ」

  初対面だというのに嫌に此方の手の内を見透かしてくる。キングが言っていたことに加え、ジャンヌと似たような触れ合いで世間を騒がせていた少女だ。
今後のネタになるかも知れないと思い、軽く調べたのが、こんなところで活きるとは思わなかったが、利用できるなら利用する。
故に、この場でカードは切るべきだった。

「俺からすると一番しっくり来るのは、この呼び名だがな――“自殺志願者”。俺からすると、そんな後先もねぇ奴と生命の奪い合いを付き合うのは何の益にもならん」

 そして、何の気なしに放たれたその言葉は、ハヤト達を酷く動揺させた。
確かに彼女の過去は知っている。だが、所詮それは言葉の連なりだ。知識として得れるが、その内実までは至らない。
少女が抱いたサバイバーズギルドも、メサイアコンプレックスも、眠っている思いとして伝わることもない。
りんかは黙したままキングの言葉を表情一つ変えず聞いている。
全部、彼女自身はわかっていて、それを意図的に伏せているのも自覚していて。

「………………………………なんだその顔は。坊主達はともかく、小娘。お前、何もわかってなかったのか」

 キングの言葉は心底虚を突かれたものであり、表情も驚きが混じっている。
そしてくつくつと嗤い声を上げて、小さく嘲った。
傑作だ。しかし、それも当然か。身の上話を話して、姉妹ごっこをしているが、その奥底にある願いまでは告げてはいないだろう。
話した所で止められるのが関の山だ。根付いた虚無はどれだけ絆を紡ごうとも、消えることはない。

「山程視てきたよ、てめえのようなガキは。正義の味方、誰かを救いたい。どうか、其の生命を投げ出さないで。
 近似値でいうと、ジャンヌ・ストラスブールか。まあ、造りとしちゃあ違うが、参考程度にはなるだろう」

 ジャンヌは先天的な正義の味方だ。
例え、何があろうともジャンヌは正義の味方になっていた。
それは環境がそうさせたのではなく、彼女自身が生粋の正義の味方であるからだ。
魂、そういった曖昧な言い方ではあるが、彼女の運命は最初から決まっていた。
生き方の始まりが何処であろうとも、彼女はこの道を進むし、この破滅を迎えることになる。

「だが、てめえはアレよりもよっぽど壊れてるな」

 それと比較したら、りんかは後天的な正義の味方だ。
環境が彼女を正義の味方へと貶めた。災害によるたった一人の生存者。
地獄を見た。助けを求める声に応えられなかった後悔は、彼女の自己肯定感を地の底まで落とすには十分過ぎるものだった。

「葉月りんか。人を救いたい。己の命は助けを求める人を救う為にある。
 確かに、その思いに偽りはねぇだろう。隣りにいる妹分を大事に思っているのは、紛れもなく本物だ」

 そして、地獄は再びやってきた。眼前にて嬲られ死んでいった家族達。
己も含めて蹂躙された精神と身体。そして、その果てで、言われるがままに虐殺した無辜の人々。
悪に翻弄され、壊れた少女が寄る辺としたのは正義の味方という概念だった。
それしか意味と価値はない、と。希望を抱けた唯一の夢を抱えて直走る。

653正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:53:09 ID:wib7f2dE0

「てめえの行動の先にある根源をひた隠しにしている」

 咀嚼し、飲み込め。それら全てが積み重なって、出来上がった正義の味方は何を望んでいるか。
僅かな希望しかない、少女の物語はエンドロールまで決まっていた。

「誰かを救いたいという願いには、己を入れていない。命の掛け金なんざ、てめえにとって、ストリートの倫理くらい軽いだろ?」
「違う」
「違わねぇよ。己が生き抜くことを欠片も考えていない、誰かの為に躊躇なく命を投げ捨てられる。
 例え、自分が死んでも、善行ができたなら満足……そうだろ? そんな理屈が根付いている奴なんざ、自殺志願者以外の何者でもねぇだろう」

 瞬間、拳と鋼鉄が交差する。
拳は無意識的な振るいであり、鋼鉄は意識的な振るいである。
その言葉が偽りであるならば、何の感慨もなく否定できるはずだ。
しかし、彼女は拳を振り上げてしまった。衝動的な否定? 無表情、言葉の抑揚も消して抑えていたのに?
それらを完全に抑え切るにはりんかの経験が足りなかった。
そして、その振り上げた拳は、キングが話す言葉が正しいものだとハヤト達にも認識させてしまった。

「だから、てめえが描ける最良は、この島なんだろうな」
「――――」
「どうせ死ぬのなら、無辜の犠牲者を救って死にたい。
 無為に刑務所の中で生きていくよりは、よっぽど値打ちがつく。良かったな、絶好の相手がいて。葉月りんかという悪に、意味と価値が出来上がったぜ」

 死ぬべきではなく、死にたい。穢され続けた人生だけど、最期くらいは綺麗なモノを救って終わりたい。
地獄が創り出した正義は、葉月りんかの総てを侵食し、剥がれ落ちることはない。

「もっとも、その後ろにいる小娘一人救えた所で、帳尻は合わねえがな」
「何も知らない人が、よく言えますね」
「ああ、張本人じゃねぇんだ。詳細な内情までは知らないさ。さっきも言ったんだがなぁ。
 お前と似たような奴はたくさん知っている。
 なら、話は早いだろうが。情報がある、経験がある。そこからプロファイリングしたら、すぐに推論は出せる」

 ルーサー・キングという男は何も武力だけの阿呆ではない。
策謀も回る、折衝もできる、どの分野においても、ハイエンドの領域にいるからこそ、帝王なのだ。
彼は眼前の少年少女の数倍も生きていて。善も悪も中立も見尽くした。
そして、愛も憎悪も信頼も知り尽くして、縁を結んだ経験があるキングからすると、りんかはわかりやすい。
よくある不幸話だ。それが幾つも積み重なって、ここまで狂ってしまった人間も稀に現れる。
とはいえ、彼女を形成しているものが正義の味方というのは珍しいけれど。

「没落した貴族。正義の味方。堕ちた英雄。偽物の救世主。奪われ続けた王子様。
 どれがいい? どれを語ったらお前に行き着く?」
「どれでもありません。私は、私です。他の誰であっても、行き着かない」

 りんかの表情と声色に変化はなかった。
息を荒らすことなく、落ち着いた返しだ。当然、嘘偽りなどりんかの言葉に在りはしない。

「手を差し伸べた人達がお前を許さないのか?」

 自殺は許されない。それは己を救ってくれた人達への裏切りだから。
りんかは知っていた。反吐が出るような悪党がいるのと同時に、自分を案じてくれた人達がいるということも。
世界が憎い、人々が憎い。そう思ってもおかしくない経歴であっても、彼女が善性を捨てなかった理由が其処にある。

654正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:54:32 ID:wib7f2dE0
   
「見捨てた犠牲がお前を誘ってるのか?」

 見捨てて、奪って。その果てに救われただけの自分がいた。
そんな自分がどうして世界と人々を憎む価値があろうか。
徹底的なまでの自己肯定感の低さは、憎悪で狂う人間へと落とさない奇跡で在り続けたのだ。

「護って、救って。その繋がりで死にたいんだろ、お嬢様。そうしたら、見捨てて、奪った犠牲に報いる形で終われるからなぁ。
 その相手は極論誰だっていい。其処の小娘を救ってお姉ちゃんをやっていたのも、今まで振るってきた拳も。
 てめえの物語に運命と必然は欠片も見当たらねぇ」

 最初から、りんかには生きて地の底から帰る気はなかった。
この島で誰か一人でも救えて、護った事実があればよかった。
否、それだけでよかった。その果てで死ねるなら――大好きだった家族にも会えるかもしれないと思っているから。

「別を当たりな、お嬢様。てめえの自殺《英雄譚》に組み込まれるのはゴメンだ」

 拳と鋼鉄はもうぶつかっていなかった。
キングはそもそも生存が優先で、戦いに明け暮れるジャンキーではない。
りんかについても、己に巣食うものを再認識させられた。この心身の状態で超力を満足に使えることはないだろうし、キング相手にそんな腑抜けは許されない。
ハヤト達の動揺もある、これ以上の続行は無理だ。

「キングさん。貴方の言うことは正しい。私がとっくに壊れてることも、命の使い道を決めていることも。……………………死にたいと願っていることも」

 曲げられぬ生き方。
キングの言葉と圧であっても、りんかの壊れきった精神は治らない。

「私は護って救って償い続けて、この島で、死ぬと思います。それでも、誰かを救えるなら、私が此処にいる意味と価値は残せる。
 なら、それでいい。私はこの超力に誓って――――救った意味と護る価値を絶対に諦めない」
「成程。自分をその対象に入れてないことを抜かせば、正義のヒーローだが……。隣のお嬢ちゃんからすると、悪党だな。
 置き去りにされるってのは、辛いぜ?」
 
 嘗て、りんかの姉がしたように。その気持ちを味合わせるというのか。
それはりんかが覚悟していたことであり、刑期という意味でも、自分は紗奈と違う。
ずっと一緒という言葉はありえない。いつか、この手は離さないといけない、と。
葉月りんかは別れは必然だという事を理解できている。

「…………私はこの子の手をずっと握っていられない。それでも、握れる時間がある限り、私は護り続ける。
 キングさん、もしも、この子に危害を加えたら――――私は命を懸けて貴方を…………殺します」
「いいね、綺麗事じゃ済まねえって理解してる顔だ。だが、安心しな。俺に幼女趣味はねぇんだ。お前達の“姉妹ごっこ”に首を突っ込む野暮もするつもりはねぇ」

 救済と贖罪。りんかがやりたいことは結局、其処に行き着くのだ。
葉月りんかの意味と価値は、誰かを救うことでしか生み出せない。
見捨てて、奪った分――それ以上を生み出す為に償うのだ。
ずっと、永遠に。例え、一人きりになろうとも。否――――そうでなくてはならないのだ。
己が救われたい、と。護られたい、と。願っては、思っては、いけない。

655正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:55:07 ID:wib7f2dE0
   
「勝手に死んでくれる奴等に手を出す手間はかけたくないんでな。
 俺が手を下さなくとも、お前は死ぬだろうな。嘗て死んだ、自分の姉のようにそこの妹もどきを守って。」

 その言葉にりんかは背を向けて、外へと駆け出した。
少し、気持ちを落ち着かせてきますと言葉を残して。
それは余裕のない、今の自分が何を口走ってしまうかわからない、不安の現れだった。
足早に建物を出ていったりんかを追うように紗奈が追いかけようとするが、キングの言葉に立ち止まる。

「追っても、救えねえぞ。どうやら、嬢ちゃんは何もかもが足りていねえってまだ理解ができてねぇらしい。
 頭も、経験も、力も、見通しも。足りねえモノがフルコースで揃っている。
 そんな嬢ちゃんが動いて、良い結果を出せると思っているのか?」
「うるさい! 今のりんかを一人にできる訳ないでしょ!」
「そうだな。葉月りんかなら、そう返す。流石、劣化コピーは言うことも似通ってるな」
「……ッ!」
「そんなに苛立つことか? 大好きなお姉ちゃんと一緒のモノなんだ、喜べよ。
 お前が抱く正義は葉月りんかのコピーだ。誰が見ても一目瞭然じゃねぇか」

 交尾紗奈。彼女に対して説くことは、キングはしない。
りんかの正義をそのまま己へと移した、中身のない空っぽな正義。
りんかが崩れたら連動して崩れ落ちる程度の脆さだ、其処に手を加える必要はない。

「底が浅いのは、コピーだから。意味も価値も、全部あの嬢ちゃんの受け売り。そもそも後天的に出来上がった正義だ、本物じゃねえ。
 コピーを更にコピーして、解像度も劣化しているんだから、脆い。
 それを嬢ちゃんがわからねぇ以上、また焼き直しだ。今まで言われてこなかったか? お前が一番、意味も価値もねぇってことに」

 利用するにしても、始末するにしても。
犠牲に囚われ、正義を貫くしかなくなったりんかも、そしてそれを模倣している紗奈も。
この二人は最低限――取引をする段階にすら辿り着いていない。
キングの言葉を振り切るように出ていった紗奈が此処に戻ってくることはないだろう。
キングの目的は生き残ることだ。
この刑務の先を見据えている故に、これ以上、子供達の無茶に突っ込むつもりはない。
数分、場に沈黙が続く。立ち去った少女達は遠くで姉妹ごっこの続きをしているだろう。

「それで、残ったのはお前達だが……」
「あの、キングさんは正義が嫌いなんですか?」
「おい……!」
「唐突だな。嬢ちゃん、どうしてそう思った?」
「いえ……先程までしたやり取りよりも……感情が籠もっていたといいますか」

 紗奈に釣られて、立ち去らないと思ったら、セレナが言葉を投げかけてきた。
いきなり何を言い出すんだ、と。
ハヤトの表情も気が気でないと言わんばかりだ。

656正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:55:35 ID:wib7f2dE0
    
「そもそも、俺という人物を知った上で、その質問を投げかけているのはどうかと思うが……。
 他にも色々と言いたいことはあるが、不問にしてやる。
 今回は俺の曖昧な指示でお前達を振り回してしまったからな。最期だし、サービスだ」

 キングからすると、セレナの疑問については、別に答えなくてもいい質問だ。
この質問に答えた所で彼らからの印象が変わる訳でもないし、この四人に対しての印象はもう覆らない。
あくまでも、彼の気が向いたという偶然が産み出した成果に過ぎない。

「嫌い、というには語弊がある。俺は正義に対して、そういった情動を抱いてはいない。
 恐らく、嬢ちゃんは勘違いしているな。訂正だけはさせてくれ」
「勘違い、とは?」
「正義―そりゃあ、それが世界と大衆にとって正しいことで、皆が守るべきもの。
 そう在れと人々が相互に望み合っているものだ。まあ、その理屈は頷こう」
「正義について否定はしないんですね?」
「否定する要素がないからな。俺は薬でイカれた阿呆でも、人を虐げる事に総てを捧げた狂人でもねぇからな。
 ただ、俺からすると、その正義は何の益にならなかった」
「……キングさんの過去が、そう思わせてるんですか?」
「悪いかい? 皆が守るべきもの、望み合っているもの・それらの中に俺という存在は最初から入ってなかったからな」

 とっくに割り切った、過去の己。りんかと同じように理不尽に奪われ、死んだ兄弟。
正義は此方に在り。それを掲げていたモノ達に線引きされた自分達は、それでも信じようとはならなかった。
ジャンヌのような心意気があれば、義憤に駆られたか。否、そんなものは願うことすら憚れていた。

「さっきの質問の答だったな。俺は正義という概念を嫌悪していない。だが、事実としてあるだけだ。
 正義が俺達に与えてくれたのは、不平等だけだった。益は何一つなかった。
 そんなものに対して、信を置くのは……それこそ、底抜けの阿呆だけだ」

 何の利益も与えてくれないものに、何を思う必要がある。
渇き切った、夢も希望もなかったあの日々。
何処にでも転がっている、ふざけた世界だ。ましてや、超力が発現した今の世界なら尚のこと。
故に、己の手で、貪欲に、手段を選ばずに、勝ち取らなければならない。
正義は人を選別すると理解しているからこそ、キングはその生き方を選ばなかった。
ルーサー・キングは必要故に悪を犯す。益がある、欲がある。キングを帝王足らしめる要素がある。

「そもそも、正義を信じた同類の阿呆は皆死んじまったからな」
「その、すみませんでした……」
「いいさ、気にするな」

 キングは鷹揚に嗤って。その無礼さもまた、少女の美徳だと答えを返して。
会話は打ち切られ、キングは指を鳴らした。

「最期なんだ、許してやるさ」

 鉄塊が、降り注ぐ。肉の潰れる音が、儚く響いた。













 最後に見た彼女の顔は、今にも泣き出してしまいそうな、笑顔だった。








657正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:56:04 ID:wib7f2dE0
   





 キングは確かに言った。
自分達の物語は見定めた、と。故に、その時点でこの結末は約束されていたのだろう。
そして、自分はそんな破滅に気づかず、此処まで来てしまった。
その言葉の意味を真に理解できていたならば、自分達は助かったのだろうか。

「危険の察知は随一だな。流石、南米の英雄。だからこそ、真っ先に落としたかったんだが。
 坊主、お前がいてくれて助かったよ。お陰様で、楽に殺せた」

 どうして。今のハヤトには疑問符しか流れてない。
気がついたら、身体を押されて、ハヤトはどすんと尻餅をついていた。
どうして、自分は五体満足で生きている。その理由はセレナが咄嗟に自分を押してくれたからだ。
どうして、足元には血が流れ着いている。その理由はセレナが鉄塊に押し潰されたからだ。
どうして、セレナ・ラグルスは鉄塊に押し潰されているのだろう。
その理由は――――言わずともわかるはずだ。
ハヤト達はキングへと逆らった。仁義や矜持を抜きに、その事実が彼らの破滅を確定させてしまった。

「何を狼狽えてるんだ、坊主。俺は言っただろうが、相手は選べよって」

 セレナは最期までハヤトのことを護ろうとしていた。
絶叫をあげる間もなく、ハヤトは首を掴まれてゆっくりと宙へと持ち上げられる。
キングの瞳には侮蔑の色がありありと混じっている。
数時間前、スプリング・ローズに対して言葉を投げかけていた時と同じものだ。

「ほんの少し希望を与えただけで翻る奴なんざ、いらねぇよ。はぁ、多少は使えると思った俺の手落ちだな。
 てめえが日和ったせいで、ドンの調査も俺がやらざるをえねぇ」

 キングに立ち向かえる。そう思ってしまったことが間違いだった。
ギリギリの合格点で生存を勝ち取った自分達が、キングの意に背いてどうして意味と価値が残ると思っていたのだろうか。
彼の中で、ハヤト達はとっくに生かす意味も、価値もなかったのだ。

  ――――“牧師”には絶対に逆らうな。

 その言葉を希望で塗り潰してしまった、致命的な過ちだ。
ああ、そうだ。いつだって、ハヤトは手遅れになってから物事に気づいてしまう。
希望があったとて、それがいい結末に繋がるとは限らない。

「坊主。これが選択だ。てめえの甘さが、セレナ・ラグルスを殺した。
 てめぇが間違えなきゃ、生きて戻れた可能性もあったのになぁ」

だから、これはハヤト=ミナセの罪であり、罰である。
友人になるはずだった女の子も死んで、兄貴分の復讐も成し遂げることができない。
半端に翻り続けた結果がこれだ。奪われ尽くしたまま、自分も、セレナも死ぬことになる。

658正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:56:40 ID:wib7f2dE0
   
「強くねぇのに、仁義と矜持を緩ませやがって。今のてめえに相応しい幕切れだ」

 弱者は生き方を選べない。そして、自分達は弱者だ。そうである以上、生き方を間違えてはなかった。
正義に日和って、超えてはいけないラインを踏み越えてしまった。もう、遅い。セレナは死んで、自分もまもなく死ぬ。
いつだって、ハヤトは手遅れになってから物事に気づくのだ。
兄貴分が裏切った時も、セレナが自分を助けてくれた時も。
ハヤト=ミナセは所詮、ちっぽけなチンピラに過ぎなかった。
その自己認識を見失ってしまったのが、死因に結実している。

「オレは、ま、だ…………!」
「死ねよ、三下」

 ハヤトは自分で抱え込める限界を見誤った。
セレナだけを護り続けるか。それとも、復讐に身を焦がし、その一念を貫くか。やり直せるなら、りんか達のように正しく在りたい。
全部選びたくて、どれも捨てられなくて。最終的に総てを失うことになってしまった。
消えていく、未来が消えていく。
ごきりと首が折れる音と共に、三下の少年は、意味も価値もなくして死んでいった。



【セレナ・ラグルス 死亡】
【ハヤト=ミナセ 死亡】



【B-2/港湾(管理棟)/一日目・午前】
【ルーサー・キング】
[状態]:健康
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1(あと一本)、タバコ(1箱)、セレナ・ラグルスの首輪(未使用)、ハヤト=ミナセの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
4.りんかの自殺願望がある以上、彼女と正面から戦うつもりはない。相手の土俵に立つのは、自分の利益がなさすぎる。
5.ルーサー・キングを軽んじた以上、りんか達もこれから潰す。手段手法は問わない。
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました
※ギャル・ギュネス・ギョローレンが購入した物資を譲渡されました(好きな衣服、煙草一箱、食料)

【葉月 りんか】
[状態]:食糧と水をもらい乾きを回復、疲労(中)、腹部に打撲痕と背中に刺し傷(治療キットにより中程度まで回復)、ダメージ回復中、紗奈に対する信頼、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。その過程を経て、死にたい。
0.ハヤトとセレナを気に掛けつつも、戦いの覚悟。
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ
5.――――姉のように、救って、護って、死にたい。その為に、償い続ける。

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。

【交尾 紗奈】
[状態]:食糧と水で乾きを回復、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかへの依存、ヒーローへの迷い、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
0.りんかのために戦う。でも、それだけでよくなかった、何もかもが足りなかった。
1.新たに得た力でりんかを守りたい
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。
※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。

659正義 ◆E6eHDQp34U:2025/07/26(土) 16:56:53 ID:wib7f2dE0
投下終了です。
大変申し訳無いのですが、
652のレスは多重投稿なので、収録の際は省いていただけますと幸いです。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

660 ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:20:48 ID:.gi0ckm.0
これより投下します

661 ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:21:43 ID:.gi0ckm.0
また投下は三分割となり、分割ごとにタイトルを変えています

662名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:26:54 ID:.gi0ckm.0

    『超力のシステム化、その最終段階ついての所見』


 1.序文

 ただ人類の飛躍のみを願い、この手記を残す。
 明日の早朝、私はこの研究所を発つ。GPAの連中は、私のことをマッドサイエンティストだの、金に目が眩んだ盗人、裏切り者だのと、好き勝手に罵ることだろう。
 だが知ったことではない。私に言わせれば、奴らこそが裏切り者だ。人類に対しての、それを進歩させる役割を負うものとしての怠慢だと断じる。

 私はいたって正気だ。
 研究者としての夢、いや人類にとっての夢が目前にある。
 なのになぜ、歩みを止めることが出来る。
 老体をさんざん解体した挙げ句、それが赤子の段階に移った途端に臆し狼狽える、その偽善にこそ吐き気がする。
 臆病風に吹かれ、人の歴史を停滞させることの罪深さが、何故分からないのだ。

 いつか、今日の私の決断が正しかったと証明される時が来る。
 その時、私が生きていなかったとしても。
 確実にやってくるその日のために、私はいま、筆を執っているのだ。

 さて、ここまでは駄文だ。読み飛ばして構わない。
 重要なのはここから。現時点における、我々の研究成果をここに残そう。  

 超力(ネオス)のシステム化。
 全ての超力研究者が夢見たその境地には、その大前提として3つの段階がある。

 即ち、A(否定:Anti)、B(構築:Build)、C(支配:Control)。

 センテンスの詳細は各項目にて細かく触れるが、既にBまでは基礎理論が完成している。
 第一段階、超力の否定(システムA)については、『被検体:只野 仁成』の血液サンプルが大きなブレイクスルーとなった。
 第二段階、超力の構築(システムB)については他の研究所の管轄だが、ヤマオリの遺物がボトルネックを突破したと聞いている。
 そして、最終段階、超力の支配(システムC)。

 その詳細を語る前に、前提となる情報を提示しなければならない。
 超力研究所アジア支部の所在は、GPA上層部でも限られた者しか知り得なかった。
 表向きは情報秘匿のためとされており、それも事実であるが、実態は政治的な側面が大きい。

 経度XX、緯度XX。通称エリアC。
 中華共和国。そこから東へXXXキロの孤島。
 記録から抹消された小国。数年前の内乱で共和国に吸収合併された事になっている、旧X国の領地内だ。
 旧X国はGPAとの密約により、表向きには政権崩壊した体裁のまま、今も独裁国家を維持し続けている。

 国の支配階級は公然と圧政を続け、引き換えにGPAは世界でもっとも自由な研究地域を手に入れた。
 如何なる人体実験も可能となる秘匿領域は、一般市民にとっては地獄だろうが、我々研究者にとって天国のような場所であり、アジア支部の成果が他支部と隔絶していた最大の要因でもある。
 そしてなにより、その地には、我々が探し求めた、最高の素体が在ったのだ。

 今まで私が造ってきたような"失敗作"たちとは違う。
 天然にして最高の素体、『被検体:S』は制御が難しく今も未完成だが、多くの見地を齎してくれた。
 そしてついに、数え切れないほどの屍の上に、我々はシステムCの基礎理論に指をかけたのだ。
 あと一つ、あともう一つのブレイクスルーで完成する。

 にも関わらず昨日、所長は研究中止を宣言した。
 GPA本部の命令により、アジア研究所は閉鎖されると。

 馬鹿げた判断だ。
 あと一歩なのに、あと一歩で、人類の夢に手が届くというのに。
 私は失望した。GPAに反抗してでも続けるべきだと進言した私に、所長までもが首を横に振ったのだ。

 曰く、『我々はもう二度と、怪物を作り出してはならない』と。
 
 理解できない。
 被検体の事を言っているのだとしたら、愚かに尽きる。
 赤子の体を弄る倫理的忌避感だとすれば遅すぎる。
 それとも先日、『被検体:S』が戯れに腕を一振するだけで、数百人を殺戮せしめた悪性を見たことが、そんなにも恐ろしかったのか。

 本当の悪は人類の"停滞"だ。
 そいつを打ち破るためなら、全ての小悪は肯定される
 私は続ける。研究者としての夢に殉じる。
 たとえ、GPAの後ろ盾を失っても、家族を地獄に捨てることになろうとも。 

 私の志を理解する者は、どうかこの続きを読み、意思を継いでくれ。
 全ては、人類の歩みを止めぬために。



 20XX年XX月XX日

 超力研究所アジア支部

 マリア・"シエンシア"・レストマン






663名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:33:09 ID:.gi0ckm.0


 男の頬に触れた指先は白く滑らかで、ぞっとする程の冷たさを伝えていた。
 人差し指がこめかみ辺りに触れ、中指が髪の毛の間に差し込まれる。
 親指の腹が鼻根を滑り、つるりとした爪の先が目元を掠めた。

「あ……あ……ああ……あ」
「ねぇ、ねぇ、私、あなたに質問しているのよ? 無視するなんて寂しいわ」

 怖い。恐ろしい。
 本条清彦は戦慄とともに接触を受け入れることしか出来なかった。
 恐ろしい。ただただ、恐ろしい。怖くて怖くて堪らない。
 眼の前の、たった一人の、細くて可憐で、か弱い筈の少女が。

「……ああ、そっか、そうよね、ごめんなさい。
 私ったら、ナイトウには名乗ったけど、『あなた』には自己紹介していなかったものね?
 はじめまして。私ね、銀鈴って言うの。あなた"たち"は?」

 優しく撫でる左手に相反し、少女の右手は無骨な銃を握りしめ、ピタリと本条の左眼球に銃口を突きつけている。
 なんてことないように、肩に手でも置くように。
 愛撫も、射殺も、全く等しい感情で行われるように。

「ひ……ひィ……ひ……」

 銀鈴の質問に、本条は答えることが出来ない。
 答えなければいけないと分かっているのに。
 ガチガチと歯が噛み合わず、呼吸すらまともに続けられない。
 恐ろしいのは銃口よりも顔に添えられた手のひら、手のひらよりも声、声よりも眼差し。
 それは到底、人に向ける目線ではなかった。
 
 早く答えなければ。いや息ができない。そんなことより逃げなければ。いやきっと逃げられない。
 何かをしなければ、という本能の命令が別の本能によって否定される。
 怖い、逃げたい、だが逃げられない。よって何も出力することが出来ない。
 堂々巡り、八方塞がり。その様子を、眼の前の少女はどのように受け取ったのか。

「まぁ、お行儀がよくないわ」

 ぷちゅ、と。
 僅かに粘性を伴う音がして、銀鈴の親指が本条の眼孔に滑り込んでいた。 

「……え」
「誰かから名乗られたら、ちゃんと名乗り返さないと。それが人間さんたちの礼儀作法だって、お母様が言っていたわ。
 礼儀を間違えた人間さんは、躾をされてしまうんですって」

 ぶちぶち、と。
 戯れに捻られる爪先が視神経を巻き込んで潰し、左の視界が斑に染まっていく。
 痛みと恐怖に絶えきれず、本条は無様に絶叫した。

「ぁぁぁぁぁぁああああああああああああぁっ!!」
「……ねぇ、ねぇ」
「あああああああああぁっ!!」
「煩いひとは嫌い」
「……ぁぁぁぁ………は………ひぃ……ぁ……」

 痛みを上回る恐怖によって、悲鳴を抑え込む。
 唇の肉を噛み潰し、溢れる血の泡をそのままに、なんとかそれを言葉にした。

「ほ……ほんじょう……き、きよ、きよ、ひこ……」
「そう、ホンジョウ、ホンジョウっていうの。えらいわ、上手に名乗れたわね」

 にっこりと微笑んだ少女は血に濡れた親指を引き抜き、その指で再び本条の頬を撫でた。
 頬骨を伝うように血が流れる。
 今にも失神しそうな恐怖の中で、それでも彼の悪夢は終わらない。

「それでホンジョウ? さっきの質問の続きなのだけど、私ね、あなた"たち"のことが知りたいの。
 あなた"たち"の言う、『家族』のこと。ねぇ、さっきのナイトウはもう出てこないのかしら?
 ナイトウがどうやって家族になったのか聞きたいのだけど。
 私、とっても気になるの。家族については、今日はジェイともお話したけれど、とっても興味深いわ。
 あなたたち、人間さんの言う家族のあり方は、私の知ってるものと、なんだか違うみたいだから」

 震えながら、血を吐きながら、本条は眼の前の怪物との会話を続けている。

「ぼ……僕の、僕のか、家族は……」
「続けて」
「僕の……う、内側に……た、たましいを、魂が、ぼ、僕の中で……集まって、あ、温かい、か、家庭が……」
「ふうん、よくわからないけど、そこに居るのね。あなたの家族、家庭っていうのかしら?」

 少女はそこで、ようやく拳銃を額から剥がし、しかしそれは恐怖の終わりを意味しない。

「見せてみて?」
「……え?」
「あなたの家族のかたち」

 柔らかな指先が本条の手をとって、少女の額に導いていく。

「でも、それ……それは……」
「ねぇ、私、人間さんが嘘をついているかどうかなんて、目を見れば分かるの。
 だからね、あなたの内側には、本当に『家族』がいるのよね?」
「でも……それには……君が……し……死……死なないと」
「しぬ? あら、どうして?」

 そうして少女は、本当に虚を突かれたように吹き出した。

664名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:34:13 ID:.gi0ckm.0


「ふ……ふふ……まぁ、おかしい」

 本当に馬鹿なことを言われたかのように。

「私はね、死んだりしないの」

 それは事実、彼女にとっては、間抜けな質問に他ならなかった。

「だって人間さんじゃあるまいし」

 本条は動けない。
 少女に捕まったまま、一言も発せない。

 やがて、少しずつ怪物の目が冷えていく。
 その変化に昏倒しそうになりながら、それでも本条は動けなかった。

「つまらないわ」

 やがて少女はそう言った。
 いつの間にか、再び構えられた銃口が光を放つ、その間際。
 漸く助け舟が渡された。

「――久しぶりですね、銀鈴お嬢様」

 突如発せられた女性の声。同時、本条の片目の色が変わる。
 日本人のスタンダードな黒目から、琥珀色の色彩へと。
 その部分だけが変化した。

「あら、その目、その声」

 今まさに、本条を撃ち殺さんとしていた怪物の声音が、にわかに変わった。

「……まぁ、まぁ、そんなところに居たのね、あなた」

 懐かしい侍女の声を耳にして、銀髪の少女に笑顔が戻る。

「何年ぶりかしら。母様はお元気、サリヤ?」
「ええ、おかげさまで。お嬢様も大変健康に育たれたようで、安心いたしました」

 二つの女性の声に挟まれて、本条は身動きが取れぬまま。
 混乱の最中、状況だけが進行していく。

「お嬢様、私達の目的は共通しています」
「あら、そう?」
「ええ、システムの破壊を目指しているのでしょう?」
「物知りね。ナイトウから聞いたのかしら、その通りよ」
「それなら、ここは休戦にしませんか? 私"たち"の協力があれば、お嬢様も動きやすくなる筈です」

 恐怖で身動きが取れなくなった主人格を、別人格がフォローする。
 家族(ファミリー)の連携。内藤四葉から共有されていた銀鈴の目的。
 それを彼らは突破口と見なした。

「そうねぇ……」

 事実として正鵠を捉えており。
 少し、銀鈴は考えるような仕草をして。

「構わないわ。というより、私たち、別に戦ってなんかいないのだけど」

 少し戯れていただけ。
 少女にとって、今の認識はそうなっており。

「ありがとうございます。では――」
「それで?」

 そして、 

「ホンジョウ? 少し時間をあげたけれど、答えは出たのかしら?」

 その程度で、誤魔化せる手合ではなかった。 

「お嬢様、今は――」
「ねぇ、サリヤ、私ね、いま、ホンジョウと話しているのよ?」

 膨大なる怖気に、本条の体が跳ねた。
 イニシアチブを握ろうとしていた女性の声も、そこで遂に止まる。
 
「会話に割り込むなんてはしたない。
 懐かしい声が聞こえてきたから流してあげたけど、二度目はないわ」

 本条の指先は、今も銀鈴の額に触れている。

「サリヤ、貴女のことは憶えてる。だからね、ますます気になってしまったの」


 それが何を意味するか。


「ねぇ、ホンジョウ? 仕方がないから、もう一度だけ、聞いてあげる」


 愚かな男にも、分からない筈がない。


「ねぇ、『家族』って、なあに?」

665名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:35:22 ID:.gi0ckm.0

 呼吸が止まる。
 苦しいのに息ができない。
 心臓が早鐘を打ち、全身の血液が凍りつくように温度を下げていく。

「あ……ぁ……あ」

『駄目よ、清彦さん』

 身体の内側で、サリヤの声が制止する。
 優しく、諭すように、本条の意思を押し留める。
 記憶の彼方で、いつか、同じように、同じ声が、同じことを言った記憶がある。

『――駄目よ、清彦さん。早まってはだめ』

 あれは血の沸騰するような、暑い夏の日だった。
 リフレインする声に応えたくても、身体が言うことを聞かない。
 意志の力で押し留めようとしても、恐怖が肉体を勝手に動かしてしまう。

「ああ……」
「そう、良いのよ。ちゃんと答えて、ホンジョウ?」

 オートマチックで動く肉体が喉を震わせ。

「ぼ……ぼくは……」

 その意思を言葉にしようとする。

『駄目よ、清彦さん』

「良いのよ、ホンジョウ」

 恐怖には、誰も抗えない。

「ぼくの……か、かぞくは……!」

 たとえ、怪物であったとしても。

『駄目よ、清彦さん』

「良いのよ、ホンジョウ」

 たとえ、その先に待っているのが断崖だと知っていても。
 
「僕の家族は……僕を、僕を見つけてくれる人だッ! 
 僕を……こんな僕を……人間だと認めてくれる人だッ!」

 あの夏の日、つまらない約束を守るために。

「だから僕は―――僕は――――!」

 そうして、本条清彦は、破滅のトリガーを引いたのだ。


『清彦さん』
「ホンジョウ」

 銃声。
 僅かな静寂の後。
 男の耳元で、二人の女性が囁いた。





『悪い子ね』
「良い子ね」













666名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:36:00 ID:.gi0ckm.0




/Chambers-Memory 3-2


 乾燥した空気を打撃の音が揺らしている。
 どこまでも続くような、雲一つなき青空の下、血の飛沫が飛ぶ。

 敵の肉を潰し、骨を砕く感触が拳を通じて伝わった。
 同時、自らの肉を潰され、骨を砕かれる感触が胸を貫く。

 両者同時に倒れ、勝敗は相打ち。
 いや、紙一重の差で、俺の負けだったと記憶している。 
 最後に立ち上がったのは奴で、俺は遂に、地面から身を起こすことが出来なかったのだから。

 ここで死んでも悔いは無かった。
 それほどに素晴らしい戦いだった。
 今まで経験したことのない、最高の勝負だった。
 心技、能力、全てを出し尽くした一戦は生涯にわたって俺に刻まれ、未だ更新されていない。

 ――僕の勝ちだね。

 故に、その存在を、忘れたことはない。
 生涯を掛けて、超えたいと願った者。
 美しき戦士、ただ、惜しむらくは。

 ――もういいよ、■■、何度も言ったろう。僕は戦いが嫌いなんだ。

 ひたすらに闘争を求めた俺とは、まるで正反対だった。
 なのに、その強さは俺の理想に限りなく近かった。

 ――君には悪いけど、何がそんなに楽しいのか、全く理解できないよ。

 俺にとって、俺を憶えていてほしいと願う、最初で最後の人間だった。
 お前が俺を知ってくれているならば、俺の名にはそれだけで価値があると。

 ――まあでも、気持は受け取っておく。分からない価値観を理解するためには、まず寄り添うべきだから。それに、きっと、お互い様なのだし。

 俺の名も、意味も、お前の中にあり続けるならば。

 ――君も、憶えていてくれるんだろう?

 ああ、必ず。
 だからいつか、必ず、またお前と―――




-

667名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:37:00 ID:.gi0ckm.0




「……ん、あれ、んん? なに、コレ?」

 内藤四葉は突如過った光景に暫しの間、呆然と立ち尽くしていた。
 二人の男の戦いと結末。
 自身の過去にない筈の記憶に、少しばかり混乱する。

 ふるふると頭を振り、周囲を見れば、そこは狭苦しく薄暗い部屋の中だった。
 巨大な円卓が中央に鎮座し、その前に6つの椅子が並べられている。
 そして目前、四葉に充てがわれた第3席の傍らに、一人の男が身を横たえていた。

「あー、ひょっとして今の、無銘さんの記憶だったりする?」
「さあ、どうだろうな」

 喉を裂かれ、致命傷を負った男が一人。
 血に塗れながら円卓に背を預けている。
 四葉は彼を知っていた。

 なんならつい先程まで殺し合っていた仲だ。
 そして、たったいま四葉が殺した。2度目の死に向かう男の残滓だった。

「今のが、記憶の引き継ぎってやつ?」
「だろうな。俺以外の記憶も流れ込んでいる筈だ」
「へー、でもやっぱり、引き継ぐ席の人の記憶が、一等強く入ってくるや」

 破顔しながら、軽い調子で近づいて、男の傍らにしゃがみ込む。
 
「それで? なんでまだ居んの? そこ、もう私の席なんだけど」

 四葉の意識も、徐々にはっきりとしてきた。
 自らもまた死人だと自覚している。

 無銘に致命傷を負わされ、ネイ・ローマンに引導を渡され、我喰いの顎に捕まった。
 新たな弾丸の一発。それが今の四葉だった。
 であるならば、先代にあたる無銘は既に消えていなければおかしい筈なのだが。 

「心配しなくても、すぐに退くさ。しかし俺は少々特例のようでな、他の奴らより時間があるらしい」
「ふーん、でもなんか、それって無銘さんらしくないね」
「そう思うか?」
「うん、私の知ってる無銘さんなら、変に死際で粘ったりしないよ」
「そうか、しかしそれは、お互い様だな」
「どういう意味……?」

 思わず顔を顰めた四葉に、無銘は血を吐きながら言った。

「今のお前は、自分を自分らしいと思えるのか?」
「…………む」

 確かに、と考え込む。
 弾丸の一発となり、家族を守るための群生となる。
 その価値観は、内藤四葉の本来の在り方だったろうか。

「うーん、なんとなく変な影響を受けてることは否定しないけど。
 私らしくないっていうか、私に誰かが混じってるって感覚かな。
 でもどうしようもないっていうか。これもこれで良いかなーって思っちゃう自分も居るしなあ」
「お前がそれでいいなら、俺から言うことは何も無い」

 徐々に薄れていく無銘の姿を見送りながら。
 しかし、その時、四葉は直感した。

「あ、そっか、無銘さんは、ずっと無銘さんのままだったんだね」
「……何故そう思った?」
「ただの勘だよ。でも当たってるでしょ?」

 男は血を吐いて笑い、それが返事だった。

668名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:37:23 ID:.gi0ckm.0


「じゃあなんで、無銘さんは抵抗せずに付き合ったの?」

 無銘の超力、『我思う、故に我在り(コギトエルゴズム)』。
 一切の精神干渉を遮断する。絶対不動のメンタリティ。
 それは銃弾の一発、魂となった現在においても、維持されていた。

 ならば何故、彼は死して尚、本条清彦の世界に迎合したのか。
 抵抗しようと思えば出来たはずだ。
 抵抗しなかったとすれば、理由は一つしかない。

「俺が、俺の意思で、奴らの家族になったんだ」
「どうして?」
「昔、誰かに言われたことを思い出した。『分からない価値観を理解するためには、まず寄り添うべきだ』と。
 どうせ死後の人生だ、一度くらいは言うことを聞いてやろうと思ってな」
「そっか、それで、どうだった?」
「やはり俺には向いてなかった」
「だろうねぇ! ぜんッぜん似合ってなかったよ! 家族のために戦う無銘さん!」

 けらけらと笑う四葉の眼の前で、既に無銘の姿は殆ど消えかけていた。
 その目が、虚ろに輝き、最後に少女に言葉を残す。

「第一席は主人格の椅子だ。
 そこに座る者の思想が薬室を支配する。
 ここはどうやら、そういう仕組みらしい」

 言葉とともに石で出来た椅子がガラガラと崩れ落ちる。
 代わりに出現した「さん」の椅子に腰掛けて、四葉は円卓の上に頬杖をつきながら独りごちた。

「ふーん、だったら私も、トビさんを見習ってみよっかな」

 暗い部屋。
 狭くるしい薬室。  
 押し込められたチャンバー。
 その、内側からの脱獄を。

「チャンスがあったら試してみよ。席替え」

  



-

669名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:38:54 ID:.gi0ckm.0


「なーんて、企んでたのになあ」

 そして今、円卓第3席の傍らにて。
 かつての無銘と同じ場所、同じ体勢で、内藤四葉は血溜まりに身を横たえていた。

「もう終わっちゃうのかー……」

 額に穿たれた孔から、血が流れ続けている。
 真っ赤に染まった視界の中で、消えゆく自らと入れ替わりに薬室に入ってきた誰かを見上げながら。
 2度目の死を経験する少女は、ぼやき混じりのため息をついた。

「やっぱりさあ、やりにくいよ、銀ちゃんは」
「まぁ、まぁ、ナイトウ。あなたも、ここに居たのね」

 銀髪の少女がかがみ込んで、四葉の頬を撫でる。
 暗く狭い部屋に、銀の少女が侵入している。
 それが何を意味するのか、少女は正しく理解していた。

「さっきは余計な物が混じってたけど、今はちゃあんと貴女ね。またお話できて嬉しいわ」
「あはは、悪いけど、すぐにお別れだよ。銀ちゃん」
「そうなの? それは残念だわ」
「あーあ、清彦、やっちゃったね」  

 それに関わってはいけなかった。
 怪物を殺すものは、銀の弾丸か、あるいはより強大な怪物と相場が決まっている。

「これじゃ家庭崩壊ってやつだ」
  
 最後に、彼女本来の声で笑いながら。
 内藤四葉は新たに来訪した怪物に、その席を譲った。

「……じゃあね、トビさん。私、あっちで応援してるから」

 ガラリと崩れた「さん」の椅子。
 訪れる崩壊よりも一足先に、影も形もなくなった少女の身体。
 その後に残されたもの。

 狭苦しい部屋の中。
 回る弾倉の世界の中で。
 立ち上がった銀の少女は朗らかに、円卓に残る者達へ、優雅なお辞儀を一つ。

「こんにちは。人間さんたち、食卓に招待いただいて嬉しいわ」

 残る弾丸は2発。

 第1席の男は答えられない。
 座ったまま、あまりの恐怖にガタガタと震えている。

 第5席の女は答えない。
 座ったまま、冷ややかな表情で虚空を見ている。

「ここがあなた"たち"の家庭なのね」

 かつり、と。
 石畳の部屋に、少女の靴音が反響する。

670名前のない怪物(A) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:39:44 ID:.gi0ckm.0


「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」

 かつり、かつり、かつり。
 優雅なステップで進んでいく。
 楽しく、明るく、自由に、快活に。
 その様を、この場所の支配者である筈の男は、叫びださんばかりの恐怖を抱えながら覗っている。

「いきるためにちからをあわせる、みんなのためにちからをつくす」

 円卓を回り込んで、少女は歩く。
 歌うように囁きながら。

「かぞくのために、みんなでがんばる」

 近づいてくる。
 銀の少女が、ゆっくりと、しかし確実に、その席へ。
 本条清彦の目の前へ。

「かぞくのために、すべては、しあわせなかぞくのために」

 そして今、遂に。

「そういうことよね。ホンジョウ?」

 本条清彦の目前に、その魂の傍らに、銀鈴は立っていた。

「あ……あぁ、そ、そうだよ」

 手を後ろで組み、少し腰を傾けた前傾姿勢。
 可愛らしい、少女らしい仕草で、その異物は笑っている。

「ぼ、僕達は、か、家族の、た、た、ために」
「ええ」
「ここはそういう、ば、場所で」
「ええ」
「だから、か、会議を、そ、そうだ、みんなで、会議をしなくちゃ」
「ええ」
「だから、そ、その、き、キミはせ、キミの席につ、つかなちゃ、い、いけ」
「ええ、ええ、そうね。それがきっと、この場所の法則(ルール)ね」


 笑ったまま、少女は、なんてことないように、言った。


「それで、それが私に、いったい何の関係があるのかしら?」 


 本条は漸くそれに気づいた。
 銀鈴の腕が、本条の胸の真中に差し込まれている。
 そこにある何かを掴むように。

「……あ、あ、え?」
「私ね、その椅子に座りたいの。だって、ここはもう私のモノなのだから、身体は私の自由に動かせないと不便でしょう?」
「……ぁぁぁあああああああああああああああ! そ、そんな!」

 シリンダーが猛烈な勢いで回転する。
 世界が真っ黒に塗り替えられていく。
 本条清彦が年月をかけ作り上げた家庭(せかい)が、一人の少女の気まぐれによって、呆気なく崩壊する。
 
「そんな! そんな……ことが……!」

 人間のルールが、彼女を縛ることなど出来ない。
 人間の価値観が、彼女を支配することなど出来るわけがない。
 虫を見るような目で、少女は男に笑いかける。

「あなたの『家族』を教えてくれてありがとう。私も代わりに、私の『家族』を教えてあげる」

 何故なら、彼女にとっての家族とは。

「微笑んであげる」

 支配し、所有するモノだから。

「だからね、ホンジョウ?」

 悍ましき怪物の核を、より凶悪な怪物の顎が捉える。

「―――そろそろ、どいて頂けるかしら」

 そうして『我喰い』は、銀の獣に捕食された。









671名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:41:19 ID:.gi0ckm.0



 一年前。悪名高いカラミティ(災害)は捕縛された。
 実に呆気なく、原始的な制圧術によって。

 開闢以後、それはジェーン・マッドハッターにとって、初めての経験だった。
 防弾チョッキを貫通し、急所を穿つ筈のボールペンは呆気なく素手の掌底で弾かれ、後方に跳ねていった。
 瞬きの間に頸動脈を裂く筈の頭髪は、自然の摂理にしたがって首の表皮を滑るだけ。
 ならばと繰り出したライターによる火炎放射は当然のように不発。

 唖然としている隙に胸ぐらを掴まれ、地面に引き倒される。
 寝技によって両の腕と足の自由を奪われ、しかし常ならば、そこからでも逆転の目があった。
 仰向けに倒れた体勢のまま、拘束に掛かる敵の顔面に唾を吐きかける。
 唾の中にはあらかじめ口に含んでいた小石が混じっており、直撃を浴びた敵の頭は至近距離で銃弾を食らったように弾け―――

「……な……んで……?」
「無駄な抵抗はやめなさい。カラミティ・ジェーン」

 ぽたりと、敵の額に付着していた小石が、ジェーンの頬に落下する。
 覆いかぶさっている赤い髪の女は表情ひとつ変えず、その悪あがきを受け止めていた。
 顔はジェーンの唾をまとも食らって、まるで無傷。
 しかしそれは、思えば当たり前の事であった。

 軽く振られたボールペンは掌打と拮抗しない。
 頭髪は首を切り裂かない。
 ライターは大量の炎を散布しない。
 吐き出された小石は、額を貫かない。
 普通のことだ。普通の人間が振るう暴力ならば、当たり前のことだ。
 しかしジェーンにとっては、ずっとそうではなかったのに。

「わたくしの超力は『超力の無効化』。貴女の力は通用しません」

 開闢以後、それはジェーン・マッドハッターにとって、初めての経験だった。
 殺そうと思って殺せなかった敵など、この日まで、彼女の前に現れることは無かったのだ。
 “欧州超力警察機構”の女が備えた『超力の無効化』の力、それは能力を犯罪に使う者達にとっての天敵だった。
 振るう物質に過剰なまでの殺傷力を付与するという、ジェーンの歪みを真っ向正す、正しき力。

 ジェーンは心から安堵した。
 やっと、来てくれたのだと。

「遅いよ。ほんと」  

 今日まで、数え切れないほどの罪を重ねてきた。
 数え切れないほどの人間を殺してきた。
 生きるために、殺して、殺して、殺し続けて。
 生きるために、仕方ないと割り切ることすら出来なかった。

 こんな力を与えられてしまったから。
 最初は過失だった。殺したくなんてなかった。
 殺した人の顔を、誰も忘れることができない。
 死者の夢に、うなされなかった夜はない。
 だけど、そんなこと、何一つ、免罪符にはならない。

 ジェーンがそれを悪だと自認している。
 それが全てだった。

 ずっと、間違っていると思っていた。
 こんな血塗られた超力、それを抱えたまま生きる自分、そんな自分を生かし続ける世界のそのもの。
 全部、全部、全部、大嫌いだった。

「殺しなよ、ほら」

 報いを待っていた。
 正される日を待っていた。
 正しい人が、正しい力で、終わらせてくれる日が今日なのだと。
 なのに、やっと巡り会えた天敵は、

「殺しませんよ。カラミティ……いえ、ジェーン・マッドハッター。貴女を、拘束します」

 ジェーンの腕に、システムAを内蔵した手錠を嵌めた。

「なんでだよ……殺してよ……アンタなら出来るでしょ?」

 心から羨望を覚える。
 目の前の女を、正しい力を与えられた者を、ジェーンは妬ましく思う。

「殺しません」
「殺してよ……こんな力を持って……こんな世界で……生きてたってしかたないよ」
「殺しません。だって……この世界には……生きる価値があるから……」

 語られる説法じみた言葉に、苛立ちが湧き上がる。
 だけど何故か、ジェーンは反論することが出来なかった。

「この世界には……生きる価値がある……守る価値がある……」

 それは、女がジェーンと同じくらい、苦しそうに、呻くように話していたから。

「そうじゃなきゃ……」

 そうであってほしいと、何かに縋り付くように。 

「そうじゃなきゃ……彼はいったい……なんのために……」

 まるで、自分自身に言い聞かせるように。





672名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:42:30 ID:.gi0ckm.0

「ジェーン!」

 何度目かの呼び声に前を走る背中が僅かに反応し、少しずつ距離が詰まっていく。
 ああ、よかった。聞こえてないのかと思った。
 長く伸びた通路の途中。やっと足を止めた少女に追いついた私は、ぜえぜえと息を切らしながらその肩に手を置いた。

「ちょっと……いくらなんでも……飛ばしすぎだって……!」
「あ……ごめん」

 はっとしたように振り返りながら、ジェーン・マッドハッターはバツが悪そうに詫びる。
 次いでごまかすように、そっぽを向きながら一言を添えた。

「いや、でも、メリリンこそ体力なさすぎじゃない? 私、別にそこまで全力で走ってないけど」
「あのねぇ、育ち盛りのネイティブ世代と一緒にしないでよ。それに身軽な状態ならともかく、この装備抱えながらじゃ流石にしんどいって」

 ほれ見ろ、と。
 腰に手を当てながら汗だくの状況をアピール。
 私の肘に引っ付いた金属板が、がちゃがちゃと音をたてて揺れる。

 身に纏うプレートアーマーは移動に際して一部取り外し、随伴するラジコンとドローンに運ばせているけれど。
 流石に全部のパーツを外すわけにも行かなかった。
 肩や肘、脛など、私の身体には今も重りが装着されたままなのだ。
 いくら開闢を経た人類と言っても、この状態で動き続ければ当然じわじわ体力を消耗してしまう。

「焦る気持ちは私も一緒。だけど目標を見つけてからが本番なんだからさ」
「……ごめん、ごめん、そうだったね。あと少し行けば次のエリアだし、休憩がてら歩いていこう」
「ん、わかればよろしい」

 エントランスで発生した戦闘をローマンに任せ、私とジェーンは西側のエリアに入っていた。
 ブラックペンタゴン1階、南西第2ブロック、温室エリア。
 それが、いま、私たちの現在地。

 東側の工場エリアとは打って変わって、色彩に満ちた空間だった。
 殺し合いの場には不釣り合いな長閑さ。
 通路の左右には樹木が生い茂り、人工の日差しが降り注ぐ。
 天井と壁には、ご丁寧に青空のホログラムまで展開されていて、まるで建物の外に出たかのような錯覚に陥りそうになる。

「やっぱり、ドミニカが気になる?」 
「まあね、だけどメリリンの言う通り、焦ってがむしゃらに走り回ってもしょうがないし……」

 ジェーンは私に気を使っているのか、できる限り冷静に振る舞っているようだけど。
 やっぱり、少し焦っているのが伝わってきた。
 
 無理もない。気持ちは私も一緒だ。私たちにはタイムリミットがある。
 事象改変型の能力。メアリー・エバンスの接近。
 産声を上げた瞬間に周囲の人間を殺戮したという、危険極まる超力を撒き散らす少女が、すぐそこまで迫っている。

「さっきも、走りながら考え込んでたみたいけだけど」
「ああ、それはまた別のことよ」

 2人分の足音が、清掃の行き届いた廊下に反響している。
 見たところ、温室エリアに人は居ないようだった。
 先客が残したと思われる痕跡もない。ここに入ったのは私たちが最初なのだろうか。

「ソフィア・チェリー・ブロッサムのこと、思い出してたわ」

 それは、今の私達の目標。
 見つけなければならない人物の名前だった。

「ジェーンはその、ソフィアに捕まったのよね?」
「一年前にね。まさか、あっちもアビスに堕ちてくるなんて思わなかったけど」

 事象改変型への数少ない対抗策。超力を無効化する能力者。
 災害を止めるため、一人立ち向かったドミニカ・マリノフスキ。彼女の託した人探し。

 冷静に考えれば、ジェーンには逃げるという選択肢もあった筈だ。
 私を見捨て、ドミニカを見捨て、ブラックペンタゴンを離れることだって出来た。
 だけどジェーンは、それをしなかった。

673名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:43:57 ID:.gi0ckm.0

 なんとなくだけど、いまのジェーンは出会った時の彼女とは少し違って見える。
 ドミニカとジェーンの間に、どんなやりとりがあったのか、私は知らない。
 だけどいま、ジェーンが滲ませる感情には、私との契約とはまた別の、彼女自身の目的のようなものがあるように思えた。
 あるいはこれが、素の彼女……なのだろうか?

「メリリンこそ、よかったの?」
「……え、え? なにが?」

 なんて考えていたところに、急に話を振られ、つい聞き返してしまった。

「いたんでしょ、貴女の標的」
「気づいてたんだ……」
「事前に聞いてた話で、軍勢型(レギオン)じゃないかとは思ってたからね。だけど正直驚いた。
 実在するんだね、ああいうの。ハイブのニュースで知ってはいたけど、直に見るのは初めてよ」

 エントランスでの戦闘。
 ジェーンが参加したのは一瞬だったけど、それだけで彼女は見抜いたようだった。

 そう、確かに、あそこにいた。
 私の標的、ジェーンに殺害を依頼した対象。
 私の親友を殺した。サリヤを殺した。そして殺すだけじゃ飽き足らず、死後まで冒涜した許しがたい存在。

「残ってもよかったのに」

 戦いの決着は、まだついていない。
 果たしてローマンが奴に勝てるのか、それは分からない。
 気にならない、なんて言えば嘘になる。

「気を使わなくていいよ。私はいま、メリリンとの契約より、ドミニカとの約束を優先してる。
 メリリンとの契約のほうが先だったのに。これはきっと、不義理だ。その自覚はある。だから、メリリンが私に付き合う必要ないよ。
 なんなら今からでも戻ったって……」
「ううん、これでいい。だって私が……足引っ張ってたから」

 ネイ・ローマンは強い。
 人格はアレだけど。その力は本物だ。
 それは、これまでの戦いでよく分かってた。
 ジェーンとドミニカを同時に制圧した圧倒的な超力。
 それが何故、先の戦いでアレほどの苦戦を強いられていたのか。

 分かってる。私だ。私が邪魔だったんだ。
 ローマンの超力は周囲を巻き込む。
 つまり、たった一人でこそ、その真価を発揮する。
 誰かを慮りながらの戦闘じゃあ、実力の半分も出せない。

 彼は孤高のギャングスタ。それでこその強さ。
 なんか盾にされたり、一緒くたにぶっ飛ばされたりもしたけど、それでもあいつは力を抑えてた。
 つまり、ようするに、本当に、ほんとにほんと〜にムカつくけど、認めるしかない。
 私は、守られていた。私こそが、あいつのハンデになっていたんだ。
 それが分かったから、離れるのが正しい。仇を、討ち倒してくれるなら、可能性が高い方に賭けるべきだ。

「それにほら、ローマンが勝てなかった時は、ジェーンが契約を果たしてくれるんでしょ? 頼りにしてるから」
「……まあ、ね。そのために追いかけたわけだし」

 ほんの少し、今までと違うリアクション。 
 照れたように、メッシュのかかった髪を触るジェーンの表情は、漸く見せた年相応の反応だった。

「ほら、もう次のブロックに入るよ。警戒して」

 足早にジェーンを追い抜いて、連絡通路の終端に至る。
 後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、振り切って進むと決めたのだ。
 この決断は正しい、そう信じて、進むしかない。

「だけど……メリリン……本当にいいの?」 
「いいんだって、しつこいな。最終的に奴を倒せれば、私はそれでいいんだから」
「……でも」

 通路の開閉装置に手を掛ける。

「でもメリリンは……さ」

 そのとき、ジェーンが言おうとして。
 口ごもって、結局、小さく声にした言葉は、

「もう一度、話したかったんじゃないの? あいつと」

 聞こえないふりをして、扉を開いた。




674名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:45:41 ID:.gi0ckm.0


 たった数時間前、いまと同じ図書室にて。

『軍勢型(レギオン)の出現が社会に与えた影響について、ソフィアは知っていますか?』

 紙と指の摩擦する、かすかな音が耳に残っている。
 木製の椅子に腰掛けたソフィア・チェリー・ブロッサムの傍らで、女は顔を綻ばせながら手記の頁を捲っていた。
 からからと、常のように、友人に向ける朗らかな表情のまま。

『意思が肉体を離れて存在する現象の観測。つまり、魂の存在証明……ですわね。それがなにか?』
 
 さすがはGPAの捜査官、博識ですね。
 などと、軽口を叩きながら、ルクレツィア・ファルネーゼは手に持った本の表紙を掲げてみせた。

『"超力のシステム化、その最終段階ついての所見"。
 狂気の科学者、シエンシアによる研究手記のようです。闇市場に流せば途方もない値が付きますよ?』
『科学にも、お金にも、貴女は興味なんてないでしょうに』
『ふふ……仰るとおり、後者についてはそうですね。しかし前者、彼女の研究内容については、前々から気になっていたのです』
『どうせ凄惨な人体実験の内容が気になるとか、そういう話でしょう? 貴女のことですから』
『あら、ソフィアも随分、私の事を理解してくれるようになったのですね。うれしいことです』

 本当に嬉しそうなルクレツィアから、ソフィアは鼻を鳴らして視線を逸らす。
 貴女の言いそうなことなんて、ちょっと関われば分かるでしょう。
 なんて不毛なツッコミは体力の無駄だと分かっている。

『それで、マッドサイエンティストの実験は、貴女の眼鏡にかなったのです?』

 自分から話題を逸らすために聞いた直後、しまったと思った。
 それを聞いてしまっては、結局話に乗る結果に違いはないのに。
 案の定、ルクレツィアはよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに目を輝かせ。

『実に興味深いですよ。
 たとえばいま、丁度読んでいるのですが、シエンシアが産み出した"失敗作"の一つ。
 軍勢型(レギオン)、コードネーム:ハイヴ(巣)の項なんて特に』

 なるほど、それでさっきの話に繋がるのかと納得し、先を促す。

『欧州潜伏期のシエンシアが、身寄りのないストリートチルドレンの赤子を実験台にして産み出した怪物。
 ハイオールドの技術をデザインネイティブに応用して造られたハイブリッド型新人類。
 その存在が明るみに出たとき、それはそれは大変な騒ぎになりましたね』

 一時、欧州を震え上がらせた怪物(ハイヴ)のニュースについては、ソフィアもよく憶えていた。
 殺害した者の魂を収穫し、際限なく総体を増やす群生。
 死者を引き連れるその悍ましき特性と、それ以上に世間を脅かしたもの。

 それは彼女らが、魂の実在を証明してしまったことだ。
 死後の概念。肉体を離れる意思が観測されたという事実に、どれほど多くの宗教が脅かされたかは想像に難くない。 

『実験は凄惨を極めたことでしょう。
 幼い少女の身体を絶え間なく切り刻み、その尊厳を徹底的に破壊する。
 長い地獄の日々の果て、孤独な彼女が悍ましき力に目覚めるまでに受け続けたその苦痛、苦悩、苦悶……絶望!』

 テンションが上がってきたかに見えたルクレツィアが徐々に語調を強め。
 げんなりするソフィアの反応に構わず、両手を広げて。
  
『が、全く書かれていませんでした。
 実に期待外れです。ゴミですねこの手記は』

 ポイッと、本を投げ捨てた。

675名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:46:16 ID:.gi0ckm.0


 闇市場に持ち込めば億万長者も夢ではない希少な文書が、ホコリまみれの床を滑っていく。

『貴女の期待した残虐(スプラッタ)は書いてなかったと?』
『いいえ、ありましたよ。脳のどの部分を切り取って、どの部分に電極を刺して、どのくらい長い苦痛を与えて。
 けれどもソフィア、そんなことは全く重要ではないのです。
 解体する手順なんてどうでもいい。肝心なのは感情、少女の魂が受容した感情こそが重要なのです』
『著者にとって重要でなかったというだけでは……』

 ルクレツィアは不満げに、若干の怒りすら滲ませて話す。

『だとすれば、この著者は実につまらない。
 加虐する対象の感情に興味が無いなんて、生命に対して全く誠実ではありません』

 同じく人を殺すものとして、命を弄ぶものとして。
 それを蔑ろにするなんてありえない。
 
 なんて勿体ない。他者を殺すならば、傷つけるならば、徹底的に味わうのが礼儀だ。
 苦しみに喘ぐ生の感情まで、残らず平らげてこそ。
 それがルクレツィアにとって、他者を慈しむという、当たり前の作法なのだと。
  
『あら、これも中々……』

 早々に手記から興味を失い、次の本へと手を伸ばすルクレツィア。
 対して、ソフィアはいま少し、先程のやり取りに囚われていた。

『……魂が、実在するなら』

 昔、大好な人に、教えてもらったことがある。
 東洋には輪廻転生という思想があるらしい。
 人の死後、魂は巡り、生まれ直して新たな人生を始めるのだと。 

 ならば、自らの存在そのものを消失させた彼の魂は、世界から忘れ去られた彼の人生は、どこに行ったのだろう。
 どこにも行けないまま、果てしない虚無に落ちていったのか。
 それとも、いまもあの場所に、取り残されているのか。

 世界を救ったのに。自らを犠牲に、何もかも取りこぼさないように、戦ったのに。
 世界は彼を顧みないまま、魂さえも、今は世界のどこにも残されていない。
 記憶だけがある、ソフィアの中に、今も、大好きだった彼の笑顔が。

『ルクレツィアは、地獄があると信じますか?』
『さて、どうでしょう?』
 
 自分が死ぬとき、どこに行くのだろうと思う。
 ソフィアは少し考えて、意味のない思考だと切り捨てた。
 何れにせよ、彼と同じ場所には、たどり着けないだろうから。

『でも……あれば素敵だと思いますよ。
 死後にまで味わえる感情(くつう)があるなら。それは喜ばしいことですから』




676名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:47:52 ID:.gi0ckm.0

 どうして、いま、そんなことを思い出すのだろう。
 飛散する木片を躱しながら、ソフィアの思考は漠然と流れている。

 やはり、図書室に戻ってきたことが大きな要因だろうか。
 頭上で砕けた椅子の背もたれに、ルクレツィアが腰掛けていたことを思い出し、それが回想の契機となったのか。
 ぐわんと回転する視界の端に、彼女が投げ捨てた書物が映り込んだからか。
 あるいは―――

「……こん……のォ……!」

 振り下ろされたナイフが眼球の一センチ手前で静止する。
 咄嗟に左手で対敵の手首を掴み、力の天秤を拮抗させた。
 組み敷かれた体勢は明確に不利ではあるが、未だ勝負はついていない。

「いい加減……くたばり……やが……れ……!」

 今、ソフィアの目に刃を突き立てようとしている男―――ジェイ・ハリックは舞い込んだ好機を逃すつもりはないらしく。
 握る木製のナイフに全体重をかけ、抵抗を突破するべく筋力を総動員させている。
 床に叩きつけられた衝撃による混乱から意識を鮮明に戻すまで、僅かな隙があった。
 その隙が窮地を呼び込んでいる。いや、そもそも、なぜ転倒する羽目に遭ったのか。

 そこまで考えて、漸く思い出す。
 回転する視界の端、ルクレツィアが床に放り投げた本、それに足を取られたのだ。

「―――ッ!」

 ソフィアの思考が瞬時に白熱する。
 ならば結局あの女のせいじゃないか。こうなったのも全部。
 あの女に出会ってから、全部上手くいかない、何もかもが狂っていく。
 湧き上がる怒り、苛立ちが、より意識をハッキリさせ、取るべく対処を明確にした。

 右手を突き出して、自らナイフの刃先に掌をぶつける。
 当然、切先が皮膚と肉を貫通し、鋭い痛みと共に鮮血が溢れ出た。

 驚きに目を見開くジェイ、彼もソフィアの狙いに気付いた筈だ。
 しかし遅い。ナイフを掌に固定した状態のまま、身体を折りたたむようにして、男の胴体との間に両足を差し込んだ。

「……なっ!」
 
 上方へと一気に伸ばした脚が、ジェイの下半身を持ち上げる。
 同時に後転、巴投げの要領で状況をクリア。
 密着していた身体が一時的に離れる。

 ソフィアの打開策は不利な体勢の解消だけに留まらない。
 背中から床に叩きつけられたジェイは朦朧としつつも、強靭な意思でナイフを手放さなかった。
 それが生命線であることを理解しているのだろう。

 しかしソフィアも、彼が粘ることは見越していた。
 跳ね起き、今度はこちらがマウントポジションに移行する。
 ソフィアの右手には貫通したナイフが固定されている。
 ジェイの掌ごと握り込み、刃を敵の胸に向け落下させるべく体重をかけた。

「……くそ……が」
 
 数秒前とは全く逆の構図。
 今度はジェイが抵抗する番だった。
 男はナイフとの間に両腕を差し込み、刃の落下を遅らせる。
 しかし、寝技の土俵ではソフィアの技量に軍配が上るようだった。
 両足の動きを封じ、腕力による延命以上の抵抗を封じている。

 ―――勝てる。
 ソフィアはそう直感した。

 相当の苦戦を強いられたものの、ギリギリで勝ちの目が見えた。
 危ない場面は何度もあった。
 ジェイの展開する暗殺術は戦いが長引くほどにキレを増し、少しずつ全盛に戻ろうとしているようだった。
 しかし彼のブランクが解消し切る前に接近戦に持ち込めたこと。
 なにより、暗殺者相手に、"存在が判明している状態"で戦闘を始められたこと。
 この二点、特に後者の要因が大きかった。

 暗殺術とは、存在の秘匿が大前提。
 活動が露見しては本領が発揮できない。

 ―――勝てる。
 確信を深める。

 ならば残る問題があるとすれば、一つだけ。
 
「ハ――殺すか? 俺を」
「…………」

 殺せるのか、ということ。

「……なに迷ってんだよ、ええ?」

 逡巡を見抜かれている。
 なにが敵に伝わったのか。
 手の震え、瞳の揺らぎ、僅かな発汗。 
 あるいは何れかの複合なのか、ソフィア自身には分からない。

677名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:48:19 ID:.gi0ckm.0

 相手は無期懲役の罪人。それは、殺す正当性として妥当なのか。
 いったいどれほどの罪科が殺害を良しとする。
 ソフィアは未だ、答えを出せずにいた。
 
『―――ソフィア』

 どうして、いま、そんなことを思い出すのだろう。
 ゆっくりと落ちていくナイフの切先、力の天秤が傾き始めた。
 ソフィアの思考は、漠然と流れている。

『―――友人になりましょう』

 やはり、図書館に戻ってきたことが大きな要因だろうか。
 彼女が投げ捨てた本を見たからなのか。
 あるいは―――


「―――ソフィア・チェリー・ブロッサム!!」


 これが、最後の機会だから、なのだろうか。



「話を聞いてッ!」

 
 ソフィアの動きが、ナイフを振り下ろす体勢のまま止まった。 
 焦点は未だジェイの眉間で結ばれたまま、周辺視野で現れた二人組を認識する。

「メアリー・エバンスが、領域を拡大しながら近づいてきてる」

 南側の通路から侵入してきた女が二人。
 新手であれば、どのように対処するかを思考しつつ。
 事はそう単純ではないと、冷静な頭は既に結論を出している。

 二人組の片方はソフィアの姿を見るなり名前を読んだ。
 つまり、外見を把握されている相手。声、髪色、一瞬だけ飛ばした目線に捉えた特徴が、1年前の記憶を掘り起こす。

「今はドミニカ・マリノフスキが食い止めてるけど、何分持つかもわからない」
  
 ジェーン・マッドハッター。
 かつて、他ならぬソフィアが逮捕した女だった。

「もう、こんなところで、殺し合いなんてしてる場合じゃないんだよ!」 

 よく通る声だった。
 そして、切実さを滲ませる口調だった。

 本当だとするならば、確かにこんな事をしている場合ではない。
 メアリー・エバンスの脅威なら、ソフィアだって知っている。
 彼女達がソフィアを探していた理由も自明だ。
『超力の無効化』、それはメアリーという災害に対して、この上ないワイルドカードなのだから。

 何れにせよ、逃げるか、食い止めるか。
 だれもが今すぐ決断し、対処を強いられている。
 しかしそれは――ソフィアだけは例外であり。

「私たちと来て欲しい。協力してメアリーを―――」 

 声が遠くなっていく。
 聴覚が歪んでいく。

 ああ、まただ。
 ソフィアはまず、最初に思った。

 まただ、また機会がやってきた。
 殺し合いの場に放り込まれて、これが二度目。
 いや、三度目の機会になる。

 前回は、"葉月りんか"と"交尾紗奈"、あの純真な少女たちと出会ったとき。
 ソフィアは素晴らしい機会を得た。
 暗がりの道を引き返し、間違いを正し、日の当たる場所に戻る転機を。
 なのにソフィアは、天から慈悲のように与えられたその機会を棒に振った。
 愚かにも、庇護すべき少女たちと別れ、過ちを継続した。

678名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:48:38 ID:.gi0ckm.0

 今、寛大な神はもう一度チャンスを与えてくれたのかもしれない。
 いまこそ正義の志を思い出し、醜き迷いと葛藤から開放される。
 現れた二人は福音だ。彼女らと共に行けば、それが叶うだろう。
 メアリー、災害の接近。対処できるのは自分だけ。まるでこの日のために誂えたような超力だ。

 かつて、ソフィアを好いてくれたあの人に、大好きだった彼に、誇れる自分に戻ることが出来る。
 これ以上の機会はきっと訪れない。
 あるいは、神様はどうしても、"それを言わせたいのだろうか"とも思った。
 迷うまでもないことだ。答えは、最初から出ていたのだから。

「……どうして?」
 
 ジェーンが動揺の声を上げていた。
 ソフィアの手元でナイフの刃が砕ける。
 いつの間にか、ジェーンの握るボルトガンが、刀身を撃ち抜いたようだった。
 
 ソフィアは手から木片を払い、止血しながら後方に飛び退く。
 周辺に展開されたドローンからボルトが連射され、さっきまでソフィアが居た場所を撃ち抜いていた。
 結果として窮地を脱したジェイは床を這いずり、本棚の影に身を滑り込ませる。

「どうしてなの?」

 ジェーンの問いが重ねられる。意味のない行為だった。
 ソフィアが渾身の力を込めて、ジェイの首ににナイフを振り下ろそうとした。
 その予備動作を見取り妨害したのならば、質問に答えるまでもなく状況は明らかなのに。

「どうしてよ……ソフィア」

 あるいは、ジェーンはそうであることを、認めたくないのだろうか。
 おかしな話だとソフィアは思う。
 それは、ソフィア自身が、ずっと認め難い事実だった。
 だけど今、運命はソフィアに直面を強いている。

『―――ソフィア』

 何故かいま、彼女の言葉を思い出す。
 彼ではなく、彼女の。

 きっと、これが最後の機会だから。
 きっと、それが最初の機会だったから。

 いいのだろうか。
 ソフィアは最後まで逡巡する。

 いいのだろうか。
 そのように振る舞っても。 

『私がグレゴリー・ペックだったなら』

 いいのだろうか。
 身勝手に、罪深く、自らのエゴを押し通すように生きても。

『間違いなくあのままオードリーを監禁していたと思います』

 いい筈がない。すべて、間違っている。
 彼女は、ルクレツィア・ファルネーゼは正しくない、間違っている。

 だけどソフィアはこの刑務で、彼女をずっと見てきた。
 彼女と過ごして、生き様に触れて。
 そして、思ってしまったのだ。

「どうして、ですか」

 あんなふうに、生きられたなら。
 身勝手に、罪深く、我欲を押し通すように生きられたなら。

 あのとき世界を滅ぼしてでも、彼をさらって逃げてしまえたなら。
 彼女のように、間違えて、しまえたなら。
 彼女のように、そう、彼女のように―――

「ごめんなさい、ジェーン」

 堕ちる桜花はようやく、花弁が朱に染まっていることを自覚した。
 三度目の機会にそれを告げる。
 
「わたくしは、もう―――悪人なのです」
 




679名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:51:17 ID:.gi0ckm.0

 蹴り上げられた辞書が空中で凶刃の塊に変ずる。
 ばらりと開かれた頁の一枚一枚、かするだけで肉を裂き骨を絶つ。
 直撃なんて受けてしまえば、もちろん人体にひとたまりのない損壊を及ぼすだろう。

 私の隣から射出されたその一撃。
 ジェーンの超力、災害(カラミティ)とまで呼ばれた超力の真骨頂。
 もし狙われたのが私なら、避ける以前に認識する事もできず死んでいてもおかしくない。
 それほどの攻勢を、ソフィア・チェリー・ブロッサムは呆気なく片手で払い飛ばした。

 噂に違わぬ超力無効化。
 あの真紅の人狼にすら深手を通した殺傷力を、ただの投擲の域に戻してしまう。

 素早く床を滑り、机の下をくぐり抜け、こちらに突っ込んでくるソフィア。
 対応の構えをとったジェーンに対し、咄嗟に私は叫んでいた。

「だめっ! 下がって、ジェーン!」

 ジェーンの目が見開かれた。
 失策に気づいたのか、だけどもう遅い。
 既にソフィアは、彼女の間合いまで距離を詰め切っている。

 至近距離で打ち出された打撃技。その狙いは明らかだった。
 突きから払いに軌道を変じた手刀が、ジェーンの手首に直撃する。
 宙を舞う金属の塊、事前に渡していたボルトガンが弾き飛ばされた。

 おそらくソフィアの側に飛び道具はない。
 ゆえに武装の優位を奪い、状況をイーブンにするための、実に冷静で論理的な判断。
 しかも私がドローンで援護しようにも、ここまで近づかれたらジェーンが邪魔で狙えない。
 
 ―――まずい。どうして。

 私の脳内を、その一言が席巻する。
 ソフィア・チェリー・ブロッサムが協力を拒み、敵対してしまう。
 今の状況は想定して然るべきだった。いや、想定していたはずなのに。
 
 少なくともローマンはこの状況を見越していて、事前に取り決めまでしていたのに。
 だから私が驚いたのはソフィアに、ではなくて、ジェーンに対してだ。
 彼女がソフィアの行動に、こんな凡ミスをおかすほどのショックを受けるなんて。

「―――補え、私の愛する人工物質(モルデオ・アルティフィシアル)ッ!」

 打撃戦を開始した二人に向かって、私も意を決して突っ込んでいく。 
 踏み込みに合わせ、ドローンとラジコンが私の周囲を旋回し、瞬く間に全身を金属のプレートが覆う。

「どっりぁああああああああああ!!」

 鉄の塊になって飛びかかる私を察知した二人は、さすがの対応力で身を躱していた。
 結果として、私は図書室の柱に思いっきしぶつかる羽目に遭ったけど。
 でもかわりに、目的を果たすことは出来た。 

「交代交代ッ! 相手が逆でしょうが!」
「ごめん、そうだった!」

 私がソフィアと対峙し、同時にジェーンが瞬時に後ろに下がり、前衛と後衛がスイッチする。
 なんか癪だけど、ここはローマンの采配通りいこう。
 
 後方で待機させていたドローンとラジコンが起動し、ソフィアを取り囲んでいく。
 複数の角度から放たれたボルトガンの攻撃を、彼女は床を転がり、障害物を盾にして躱しきったけど。
 つまりそれは、躱す必要があるということだ。

「痛った!」

 躱し際にソフィアが投げつけたのだろう、物陰から飛んできた椅子が私の胴に直撃する。
 衝撃と痛みに、よろよろと後ろに下がる。だけど、逆に言うとそれで済んでる。ジェーンの殺傷力とは比べるべくもない。
 無効化能力は確かに厄介だけど、ソフィアの振るう攻撃も、常識的な範囲に留まるのだ。

『ソフィアがゴネるようなら、メリリン、お前ががシメろ』

 ローマンの読み通り、確かに私にとって相性は悪くない。
 "既に造った機械"は無効化の範疇を出ているし、アーマーは生半可な打撃を通さない。
 だけど問題はここから。シメろって言ったって彼女を説得することは可能なのか。
 
 それに状況は彼の言ったパターンよりもうちょっと複雑だ。
 図書室にいる敵はソフィアだけじゃない。

「させないよ」

 金属性の物質同士が衝突するような、耳障りな高音が私の首元で鳴った。
 気づかない内に私の真横に知らない男が立っていて、その間にジェーンが割り込んでいる。
 異様な光景だった。ジェーンは数本の髪の毛を両手でぴんと伸ばし、翳したそれで男の握る透明なナニカを受け止めている。
 ジェーンが指で弾いたナットが男の脇腹を裂き、男の振り切った不可視の武器が、ジェーンの頬を掠める。

680名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:52:14 ID:.gi0ckm.0

 危なかった。いくらプレートで身を固めていても、鎧の隙間に差し込まれたら致命傷を負いかねない。
 一瞬の攻防の中で、ジェーンがいなければ、既に私は生きていなかっただろう。

「んだよ、同業者か?」
「かもね、アンタみたいなのが考えそうなことは、だいたい分かるんだよ」

 連射されるジェーンの指弾を、男は床を転がりながら避け、腕を一振した。
 その手には何も握られていない、筈なのに。私の頭上から、何かが落ちてくる。
 ヘルメットに当たってから足元に転がったそれは、私の生成したドローンの一機だった。
 パーツの一部が不自然に抉れている。まるで、見えない刃に裂かれたように。
 次いで、物陰から声が上がった。

「ジェイ・ハリック」
「よお、姉ちゃん。俺も言おうとしてたところだ」

 その意図は明確だ。
 ソフィアの援護。私たちが来たことでパワーバランスが変わった。
 敵は、即席の連携で対応しようとしているのか。

「一時休戦といこうや」

 2対1対1から、2対2へと。

「是非もありませんわね」

 物陰から飛び出したソフィアが、一気に距離を詰めてくる。
 同時に男――ジェイ・ハリックも床を蹴った。

 二人とも、狙いは私。
 ドローンとラジコンの主を最優先で潰そうとしている。

 ジェーンもすぐさま対応した。
 私の背後、ジェイの進行方向に飛び出し、苛烈な接近戦を繰り広げる。
 超力無効化の範囲外において、二人の殺傷能力は惜しみなく発揮されていた。
 私では全く目で追えない身体捌きが展開され、血風の匂いが空間に漂い始める。

「メリリンは自分の敵を見て!」
「わかった!」

 発破に従い、ジェイの対処をジェーンに任せ、私は正面のソフィアに意識を集中させた。
 ドローンとラジコンが彼女を追い続け、装着したボルトガンを発射する。
 動き続ける標的に対して命中率は低いけど、根気強く撃ち続けることで数発被弾させることに成功した。

 数本のボルトがソフィアの足に突き刺さる。
 がくりと体勢が崩れ、床に血が流れた。
  
 チャンスだ。ソフィアとジェイが協力体制に移行したのは厄介だけど。
 私がソフィアを制圧できれば、この場の趨勢は一気にきまる。
 後ろのことは気になるけどジェーンを信じて、このまま物量任せの攻めで勝負をつけようと。
 残りのドローンを操ろうとしたときだった。

「――――ぁ」

 妙な物が、視界を過った。

「なんだ……? ありゃ」 

 背後でジェイの怪訝そうな声が聞こえた。
 つまり、あれは私の幻覚ではないらしい。

「人間なのか……?」

 続いてジェーンの、警戒心に満ちた声音が響く。
 ふたりとも、アレが何かはわからないようだった。
 もちろん私も分からない。

「……ァ……ォ」

 図書室の北側からにじり寄ってきた、ナニカ。
 赤黒く、濡れていて、ゴポゴポと全身から体液を撒き散らしながら進む、生物らしきもの。
 
「……ォ……ガ……ァ」

 血の匂いを撒き散らし、膨張した肉は沸騰するように泡立ち。
 頭頂部と思しき部分は不自然に隆起し、一定の間隔で破裂と再生を繰り返す。
 そんな、もはや人体とは見なせないような、グロテスクな物体を。

 美しく終わることの出来なかった。
 何らかの残骸を。

「ォ……ィ……ァ」

 蠢く血と肉の塊のような怪物を。

「……ソ……ィ……ァ」

 この場で、ただ一人、正しく認識できる者がいた。

「ルクレ……ツィア……?」

 ソフィアは驚愕に塗れた表情で、その成れの果てを見ていた。
 信じがたい現象に遭遇したかのように、ありえないものに行きあったように。

681名前のない怪物(B) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 21:56:31 ID:.gi0ckm.0

 対して、名を呼ばれた肉塊は、ほんの少し、身体を震わせた。
 ひしゃげた頭部が形を歪め、角度によっては、まるで笑っているように見えなくもない。

「ぉん……がぇ……ぎ」

 肉塊が、腕の一本を掲げる。

「…………き、ぎ、ぎ」

 肉塊がうめき声を上げた。
 腕の終端に、突如出現した煙管のような長物。
 それは超力、未知の力が発せられる前兆だった。

 何をするつもりだ。一体何を。
 分かっていても、動くことが出来ない。
 初見の超力に私は、対応するすべを持たなくて。

「ぎ、い、ぃぃぃぃぃぃぃぃィ!」

 せめてもの対策をするために、ドローンの構成を組み換える。

「アアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァッ!!」

 その次の瞬間、凄まじい金切り声とともに、煙管から紫煙の奔流が流れ出す。
 咄嗟にドローンを飛ばした直後、私はの全身は煙に巻かれていた。

「――――ぁ」

 実に呆気なかった。プレートの隙間から煙が入ってくる。
 腕で口を覆ったけど、それくらいじゃ何の対策にもならない。
 ほんの一瞬、僅かに吸い込んだだけで視界が霞んでいく。

 目眩がする。
 ぐわんぐわんと世界が回って、右も左も上も下も分からなくなる。
 まともな意識が、保てない。

 明滅する視界の中で、誰かの足音を聞く。 
 私はいま、立っているのか、もう倒れてしまったのか、それすらも分からない。

『―――メリリン』
 
 懐かしい声がする。
 視界には図書室の床、散乱する本と椅子の破片、そして傍らに立つ誰かの足。
 かろうじて動く眼球の角度を変え、ぼんやりと上を見る。

『―――あなたが、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン?』

 一瞬にして、背景が夜の酒場に切り替わる。
 ああ、幻覚だと、すぐに分かった。
 吸い込んだ紫煙には、そういう作用でもあるのだろうか。

 あれはいつだったか。
 肩代わりした両親の借金をやっとの思いで返し終え、貯蓄も家も明日の着替えも、気力も何もかも無くしたあの頃の私。
 色々どうでもよくなって、わずかに残った小銭を使って、酒場で飲んだくれていた夜のこと。

『―――私たち、きっと似たもの同士ね』

 いつかの記憶、いつかの彼女。

『―――私はサリヤ。サリヤ・―――』 

 記憶が、途切れ途切れに再生される。
 場面が高速で切り替わる。
 酒場の背景はモンタージュのように捲れ、また別の夜へと。

『―――こんなの、どうでもいい話よ。全部忘れていいわ』

 狭くて散らかった部屋だ。だけど馴染のある。
 私の部屋。向かい合う、小さなテーブルの向こう側で。
 一人の女性がワイングラスを片手に、いつか、話してくれた事があった。

『―――超力のシステム化、つまらない理論、くだらない思想、ばかげた妄想よ。だけど、その根幹は―――』

 そうだ、彼女は、あのとき。

『―――メリリン、これだけは憶えておいて』

 なんて言ってたっけ? 

『―――"銀の弾丸"は、最後までとっておくものよ』




682名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:00:18 ID:.gi0ckm.0


 そして帳が降りる。

 吹きすさぶ紫煙が図書室全体を覆った後、そこに立っているものは一人だった。
 滞留する淀んだ空気、甘ったるい匂いとぼんやりした明かりが点滅する空間の中央。

 からりと音をたて、傾いた机からランタンが滑り落ちる。
 入れ替わりに机の縁を掴むものがあった。
 後方によろめく身体を支えようとした、ソフィア・チェリー・ブロッサムの腕だった。

「…………っ」

 ソフィアは足の痛みに耐えながら、身体を机に預けている。
 痛む右足を持ち上げ、正面にある椅子の上に乗せた。

 脹脛と太腿、二本のボルトが脚に突き刺さっている。
 ソフィアは傷口の状態を確認し、抜くべきでないと判断した。
 ボルトは貫通していない。特に太腿の傷は、抜いてしまえば大量出血に至る可能性がある。

 即席の応急処置を施しながら周囲を確認する。
 状況的に、図書室の戦闘は終了したと判断できた。
 
 敵対者の全て、今や動きを止めている。
 メリリン・"メカーニカ"・ミリアンはプレートで身を固めたまま、本棚に突っ込むようにして沈黙していた。
 堅牢な防御力を誇っていた鉄板も、隙間から入り込む煙には無力だったらしい。

 その数メートル離れた場所で、本棚の影からジェーン・マッドハッターの腕が飛び出しているのが見えた。
 床に転がった腕は弛緩し、彼女の状態を伝えている。
 そして、その直ぐ近くの壁際に蹲るようにして、ジェイ・ハリックが倒れているのが見えた。
 決着だ。今やソフィアの敵は全て、無力化されている。
 変わり果てた姿で帰還した彼女の、凄まじい超力によって。
 
「ルクレツィア……」

 血の止まりきらない足を引きずりながら、ソフィアはその肉塊に近づいていった。
 図書室の中央にて、ぐずぐずと赤黒い何かが胎動している。
 崩れかけた腕に握られた煙管から絶え間なく煙が溢れ出し、室内に紫色の催眠香が渦を巻いている。
 
 肉塊、ルクレツィア・ファルネーゼの成れの果てが、今やまともな意識を保っていないことは明らかだった。
 か細いうめき声を漏らしながら、肉を露出した血みどろの顔貌、そこに張り付いた焦点の合わない眼球を痙攣させている。
 突出した回復力を持つ彼女をして、死に瀕するほどの肉体損壊が齎した覚醒か。あるいは暴走と呼ぶべきモノなのか。
 煙管が吐き出す紫煙の量は常態の数十倍にまで増幅され、図書室という閉鎖空間にいる全員を巻き込んだ。

 頭部の破壊という、再生の追いつかない死を超え、壊れたリミッターを更に壊し、血の令嬢は新たな生命に新生しようとしているのか。
『楽園の切符(パラディーソ・ビリエット)』。
 吸い込んだ者に夢を見せる、煙管の紫煙。ルクレツィアの、超力の本質であった。
 自らの壊れた枷(リミッター)を更に壊した怪物は、本来ならば意識混濁を前提条件としていた筈の幻惑能力を、問答無用で押し付けている。

 しかし、進化した超力をもってしても、例外存在は揺るがない。
 前後不覚の状態で、敵味方の区別なく解き放たれた紫煙の渦中、ソフィアだけは意識を保つことが出来ていた。

「ルクレツィア……いったい何が……」

 ソフィアは肉塊の前に立つ。
 ルクレツィアの状態は、死と再生の間で揺蕩う幽鬼の如くであった。
 紫煙の発生と再生能力が暴走し、傷口を塞いだ端から化膿し、爆裂し、血が吹き出る。

 凄惨な有り様だ。
 一秒ごとに死に瀕し、足掻きながら無理やり再生して血液を撒き散らす。
 想像を絶する痛みの渦中で、血の令嬢は苦しんでいる。
 見たことのない苦痛の表情で、迫る死を遠ざけている。

「貴女は……どうして、そこまで……っ!」

683名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:00:51 ID:.gi0ckm.0

 あまりの惨状に、ソフィアはつい、血まみれの肩に触れてしまって、息を呑みながら手を引っ込めた。
 ルクレツィアはいま、死の瀬戸際にいる。
 その抵抗に、自らの能力が悪影響を及ぼしてしまう可能性に思い至ったのだ。

「ご、ごめんなさい……わたくし……!」

 ソフィアの触れた部位が、再生の途切れた腕がぼとりと落ちる。
 なのに、血まみれの令嬢は、

「……は……ぁ!」

 目玉を裏返し、恍惚の表情で笑った。

「ルクレツィア……貴女……」 

「……ぁぁぁ」

 すり寄るように、じゃれるように、ソフィアに向かって頭を擦り付けようとしてくる。
 ふと、思い出す声があった。

『―――私の全身を撫でて欲しいのです。無効化能力をお持ちの方に撫でてもらうのは、とても気持ちが良いので』

 血の令嬢は、いまでも痛みを求めている。

「貴女という人は……どこまで……」

 呆れながら、それでもソフィアは、少し笑ってしまった。
 目の前の女は醜い。唾棄すべき悪だ。紛うことなき巨悪。

 だけどそんな悪が、帰ってきた。
 こんな、つまらない小悪党のもとに。
 
「待っていてください。ルクレツィア」

 肉塊に背を向けて、ソフィアは敵に向き直る。
 ルクレツィアはまだ死んでいない。助けられるかは分からない。
 だけど可能性があるならば、それはソフィアに掛かっている。

 もう一度『彼』に会うために。
 そのために、この血に塗れた悪が必要、だから。

 敵を、殺そう。そう思った。今なら出来る気がした。
 己の悪性を、受け入れた今ならば。

「すぐに終わりますから」

 足を引きずりながら、夢に落ちた囚人達の元に向かう。
 順にトドメを刺すだけの、簡単な作業になるだろう。
 ここには3つの首輪がある。
 齎される恩赦ポイントを使えば、瀕死のルクレツィアを救えるだろうか。

 1つ目は、メリリン・"メカーニカ"・ミリアン。
 プレートで身を固めたまま、本棚に突っ込むようにして沈黙している。

 2つ目はジェイ・ハリック。
 壁際に蹲るようにして倒れているのが見えた。

 3つ目はジェーン・マッドハッター。
 本棚の影から倒れたジェーンの腕が飛び出しているのが―――

 まて、腕は、

「……まさか」

 腕は、腕はどこへ――――

「隙だらけだよ、エージェント」

 ありえない方向から聞こえた声。
 脇腹に突き刺さる激痛に、ソフィアは己の失策を理解した。




684名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:03:40 ID:.gi0ckm.0


 側面から飛来した三発のボルトがソフィアの腹部に突き刺さる。
 痛みと衝撃によって床に転倒した彼女へと、走り込む影があった。

 ジェーン・マッドハッターは身を潜めていた机の下から転がり出ると同時、回収していたボルトガンを連射していた。
 更に敵の見せた絶大の隙を逃さず、床を蹴って接近する。

「……な……ぜっ!」

 咄嗟に腹部を押さえながら、身を捩るソフィアは見た。
 ジェーンの肩、その少し上に随伴するドローン。
 先程までボルトガンが装着されていた筈の場所に、全く別の機材が装着されている。

 中型の送風機(ファン)だった。
 ジェーンの前方に漂う紫煙を吹き晴らし、呼吸可能な空間、活動可能な道を作り出している。

 ドローンから取り外したボルトガンと、送風機ドローン。
 メリリンがギリギリの判断でジェーンへと送った生命線。
 
 配られた手札を死蔵せず、畳み掛けるべく殺し屋が走る。
 床に転がったソフィアへと、トドメを刺すべく、さらにボルトガンの引き金が引かれるが――

「―――くそっ」

 かちりと虚しい音が響くのみ。
 弾切れだった。
 ジェーンは鉄くずと化したボルトガンを投げ捨て、走り込んだ勢いそのままに、ソフィアの胴を蹴り上げる。

「なんでっ! アンタは!」

 跳ね上がったソフィアの身体。
 なぜ、自分はこれほどに苛立っているのだろうと、ジェーンは思った。

「なんでこんなこと、してるんだよっ!」

 ここに来たときから、ソフィアの答えを聞いたときから。
 抑えきれない怒りと困惑が、彼女の身体を支配していた。
 
「なんで、こんなことっ!」

 ゴロゴロと身体を捻りながら転がったソフィアの手が、何かをつかみ、思い切り引き寄せる。

「―――っ!?」

 それは図書室の床に敷かれたカーペットだった。
 足を取れられたジェーンの身体が傾き、背中から勢いよく転倒する。

 立ち上がり、反転攻勢に移行するソフィアの狙いは明らかだった。
 ジェーンが起きる前に近づいて、浮遊する送風ドローンを破壊する。
 ドローンはジェーンの生命線だ。必ずしも肉弾戦に勝利する必要などない。
 壊してしまえば、それだけで趨勢は決まるのだから。

 メリリンが気を失う直前、ジェーンに随伴するよう設定したドローンは、自ら逃げることが出来ない。
 そもそもジェーンから離れてしまえば本末転倒なのだ。
 
 起き上がろうとしていたジェーンの顔面に、お返しとばかりに膝蹴りを入れ。
 宙に浮かぶ機械に、ソフィアは手を伸ばし――

 その身体が重く沈む。
 鼻血まみれの顔面で、直撃したソフィア膝にしがみつくようにして、ジェーンは意識を保っていた。

「ふざけんなよ……ッ」

 どうして、裏切られたような気持ちになっているのだろう。
 ジェーンはもう一度自問する。

「なんでだよ……ッ!」

 それほどまでに、妬いていたのか。
 それほどまでに、焦がれていたのか。
 あの日、苦しみながらも、正義を信じようと足掻いていた彼女に。

 世界に生きる価値はあると。
 守る価値はあるのだと。
 迷いながらも、疑いながらも、信じたいと願っていた彼女を、自分はどこかで――

 太腿に刺さっていたボルトを掴む。
 全力を込め、それを引き抜く。
 鮮血が吹き出て、激痛に咽ぶ声が聞こえた。
 大量の出血によってソフィアの足が力を失い、血の海に崩れ落ちた。
 
「ドミニカは、まだ戦ってるよ」


 忌まわしい力と共に生きてきた。
 制御することも出来ず、間違えてばかりの人生で。
 
『―――善行こそが、私の本懐ですから』

 ジェーンと同じように、人を害することしか出来ない力を与えられた女がいた。

685名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:04:44 ID:.gi0ckm.0

 諦めてしまったジェーンとは違って、彼女は善きもので在りたいと願い続けていた。
 歪んだ力を抱えて、それでも正しく、生きようとしている人が、今も正しさの為に戦っているのに。

「アンタには正しい力があって、正しい生き方が出来て……」

 だから、ジェーンは悔しかったのだ。
 いつか、ソフィアに終わらせてもらえるなら、それでいいかもしれないと、思ったこともあった。
 己を捕まえてくれたのが、彼女でよかったと。 

「アンタは正しく、生きられたのに……ッ!」

 正しい意思と正しい力、兼ね揃えた正義の存在。
 本当にそんな人が居るなら、世界に生きる価値があると信じてみてもいい。
 ジェーン・マッドハッターは処刑台に消えるけれど、来世ってものがあるならば、また生きてみたっていい。

 そう、思えた日があったのに。
 こんなのは、まるで、裏切りじゃないか。

「だったら、その正しさが……何を保証するっていうんですか……?」
「…………え?」

 ソフィアが、自らの右掌をジェーンの脇腹に押し付けていた。
 次いで、その上から、左の拳を釘を打つように叩き込む。

「―――が……は……!」

 ジェーンの腹部に打ち込まれたそれは、刃が中程でへし折れた木製ナイフだった。
 ジェイから奪い取ったもの。突き刺さっていた刀身を引き抜き。
 全身から血を流しながら、桜花はガクガクと震える足で立ち上がる。

「正しく生き抜いて、正義を貫いて、それで? 報われなかった人はどうなるんです?」

 かつて、正義を背に前に戦った桜花はいま。

「わたくしはもう、正しさのためなんかには、戦えない。
 なぜなら、今のわたくしは……」

 死にかけの醜き肉塊、ルクレツィアという巨悪を背後に、守るようにして。
 
「あれの友人、なのですから」

 悪として、そこに立っていた。

「そう……残念よ。本当に」  

 それぞれの傷口を押さえながら、二人の女は対峙する。
 互いに多くの血を失い、止血もままならないまま戦闘を継続している。
 しかし趨勢は、僅かにジェーンの側に傾いていた。

 噎せたソフィアの口端から、血が零れ落ちる。
 腹部と太股の傷は明らかなる重傷だった。
 それでも彼女は一歩も引かず、戦闘を継続しようとしている。

 おそらくあと一度か、二度の激突で決着に至るだろう。
 両者、同時に前進する。
 しかしその直前、ジェーンは見た。

「…………な」

 それを背にした状態のソフィアは、未だ気づいていない。
 図書室の中央、動きを止めていた肉塊が、にわかに活動を再開したのだ。

 あまりの不気味さに、ジェーンが一歩下がる。
 不可解な動きに、ソフィアが異常に気づき、ようやく背後を見た。

 肉塊の表面が激しく波打っていた。
 まるで、ソフィアの言葉に喜んでいるかのように。
 はしゃいでいるかのように。
 蠢き、膨張し、爆裂し、そして―――

 枯れた樹木が早送りで成長するように、赤黒い枝が伸びだした。
 異常をきたした細胞分裂の暴走するままに、急激に肥大化する腕部の筋繊維が繋がり合い、巨大な触手のようにしなる。
 
 そして、唸りを上げながら急旋回したそれが、背後からソフィアを持ち上げた。
 吹き飛んだ身体はジェーンの横を通り抜け、図書室南側の通路まで運ばれていく。
 それは実に乱暴な動きではあったが、見ようによっては窮地から友を救うための対処なのかもしれなかった。

 満身創痍のソフィアを戦場から逃がす。
 あるいは、その存在はこれから発生する事態には、邪魔であると判断したのかもしれない。

「ふ……ふふ…………は…………は」  

 メキメキと、紅の樹木が育っていく。
 無数の腕と足が増殖し、人の身体を捨てていく。
 血の令嬢、いや、いまや人と呼ぶには異様に尽きる姿に変貌した存在を。

「ははははははははははははは!!!!!!」

 ジェーンは、呆然と見つめながら、端的にこう呼んだ。

「……怪物(モンスター)め」





686名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:07:01 ID:.gi0ckm.0

 脇腹からぼたぼたと溢れ出す鮮血。
 赤色に染まった刑務服を両手で押さえつけながら、ジェーンは怪物の誕生を目撃する。

 図書室の中央、真紅の肉塊が炸裂する。
 メキメキと枝葉のように伸びる無数の腕が室内全域を覆っていく。
 誰も逃さない、全てを喰らい、咀嚼せんと告げるように。

「ははははははははッ!」

 けたたましい笑い声が響き渡る。
 それは歓喜の嬌声であり、激痛の絶叫でもあった。

「あァ―――痛い―――イダジ―――イダギ―――イがあああああああ!! あはははははははははッ!!」

 狂奔。正気を失うほどの損傷、想像を絶する痛みの中で、令嬢は喜んでいる。
 人生で最大級の苦痛によって、人生最大の恍惚を得る。
 壊れていく精神、平常な思考すら保てず無様に跳ね回る己の狂態を、心底面白がっている。

 美しく終わっても良かった。
 人生最高の恐怖と痛みの中で、史上のフィナーレを飾ることも出来たのに。

 もう名前も思い出せない誰か、友人と呼んでくれた誰かのために。
 生き恥を晒した果てに、こんな痛みにであえるなんて。
 既にまともに言葉も発せない口が、凶悪にねじ曲がる。

 ―――あア、ホントウに、ユウジョウとは、ヨイモノですね。

 人体の血を絞り尽くす勢いで再生する肉塊に、先が在るとは思えない。
 怪物に残された時間は残り僅かだ。
 このまま無理に動き続ければ、あと数分も保つまい。

 しかし、数分もあればこと足りるだろう。
 この場の敵を一掃するには、友の敵を根絶やしにするには、充分であった。

 数十メートル伸びた無数の肉腕、展開された枝が鞭のように旋回し、本棚を貫通して飛来する。
 血の刃がいとも容易く机を真っ二つに切り裂き。
 天井に吊られたシャンデリアを落とし、施設を内側からミキサーにかけるような暴力を炸裂させる。
 
 迫りくる斬線の嵐、出現した等活地獄。
 その最前線に、ジェーン・マッドハッターは立っている。

「……はぁ……はぁ……っ!」

 背後を振り返る余裕などない。
 目の前の脅威に、全意識を動員している。

 未だにメリリンが起きる気配はなく、援護は見込めなかった。
 やはり対面する怪物を倒し、紫煙を止めるしかない状況。

「ごほっ……ぐ……」

 ソフィアより多少マシだったというだけで、彼女もまた相当の深手を負っている。
 その上、徐々に意識が朦朧としてきた。
 送風機一台ではやはり限界があったのだろう。
 少しずつ、ジェーンにも紫煙の影響が及んでいる。

「はぁ……はぁ……は―――」

 迷っている時間はない。
 ジェーンは荒い息を整え、両腕を前に突き出し身体と水平方向に傾けて、構えのような体勢をとる。
 それは何らかの流派に則ったものではない、ジェーンの我流だ。
 そもそも、ジェーンは一度も武術のようなものを習ったことはない。

 習う必要なんてなかった。
 超力に覚醒して以降、人の殺し方は全て、超力が教えてくれたから。

「は―――あああッ!!」

 飛来した枝の一本、超速の斬撃に対し、ジェーンは握る長物をぶつける。
 それは何の変哲もない紙束。
 先ほどまでの戦闘で、図書室の床に撒き散らされた、雑誌などを折り曲げ丸めて作った。子どもの玩具のような剣。
 軽く、吹けば飛ぶような強度であるはずのそれが、肉の枝を切り裂き、一太刀で切断する。

「アアアアアアアア"ア"ア"ア"ア"ッッ!!!!」

 怪物が悲鳴とも嬌声ともつかない雄叫びを上げている。
 切断された腕の断面から大量の血が吹き出し、ジェーンの頭上から赤い雨が降ってくる。

 構わず続けて二連、ジェーンの手元が動いた。
 伸び上がり、側面から背後のメリリン或いはジェイを狙おうとしていた腕へ、超高速で飛来したナットが突き刺さる。
 ジェーンの指弾によって繰り出された迎撃が、迂回した攻撃をも縫い留め、触手のように蠢く腕の動きを封じたのだ。
 更にその隙を縫って、ジェーンの胴を薙ぎ払わんとしていた第3の腕を、しかし蹴り上げられたランタンの角がズタズタに引き裂いて押し留めた。

 ジェーンの超力、『屰罵討(マーダーズ・マスタリー)』。
 敵の脅威度は跳ね上がったものの、もうここに無効化能力者はいない。
 開帳された殺し屋の真髄は、余すことなく人体を破壊する。

 災害(カラミティ)とまで呼ばれた女の暴力。
 連続して放たれる常識外の攻撃を、尽く裂き、穿ち、切断する。
 たとえ敵が怪物であろうと、人外の形に至ろうと、彼女の前では関係ない。
 人体で構成される物質ある限り、ジェーンの付与する殺傷力は如何なる守りをも貫通して破壊する。

687名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:09:54 ID:.gi0ckm.0

 しかしジェーンもまた、窮地であることに変わりなかった。
 動き続ける必要に駆られ、脇腹の傷口を止血することもままならない。
 迎撃が精一杯で、攻勢に出ることが出来ないまま、体力を削られている。
 静かな部屋に、怪物の腕が空間を切り裂く音と、くぐもった呻きだけが響き続けた。

「ォん……が……ぇ」

 右から回り込んできた腕を、椅子の前脚で地面に縫い留める。

「ぞぃ……あ……」

 左下から伸び上がってきた腕を、刑務服の上着で受け止め、締め上げて押し潰す。

「ああああ…………ああああああ…………!!」

 何度、そんな不毛な攻防を繰り返したのだろう。
 敵の返り血を浴び続け、ジェーンもまたすっかり紅に染められた頃。
 霞む意識の中、僅かに敵の変化を見た。
 少しずつ、肉塊の動きが鈍くなっている。

 再生力に陰りが見えた。
 このまま持久戦を続ければ勝てるかもしれない。
 
「……く……そ……」

 しかし、先に限界が訪れたのはジェーンの側だった。
 
「……痛……ッ!」

 撃ち漏らした腕の一本が肩口を切り裂き、後ろにのけぞる。
 本棚にもたれ掛かるようにして、ギリギリのところで転倒を避けた。
 もはや意識を保つだけで精一杯であり、倒れてしまったら起き上がれる保証はない。

 身体に蓄積された紫煙も看過できない量となっている。
 先程から奇妙な幻覚が視界の端にちらつき、怪物に焦点を合わせることすら、もうすぐ出来なくなる予兆があった。

「…………ごめん、メリリン、ドミニカ……ここまでみたいだ」

 高速で迫りくる怪物の腕。
 もう身体がついていかない。腕が上がらなかった。
 力の抜けた手から、紙で作った剣がこぼれ、足元に落ちる。

「………あ……れ……」

 しかし振るわれた腕は上方に逸れた。
 ジェーンの身体を避けるように、本棚だけを切り裂いて。
 いや、違う。動いたのはジェーンの側だった。
 単純に、身体を支えていられなくなった足が力を失い、崩れ落ちた事が功を奏し、腕の一撃を回避していたのだ。
 それは神の気まぐれのような、単なる幸運に過ぎない。

「あ……私……もう……立ってることも……できないんだ……」

 足も、腕も、言うことを聞かない。
 今度こそ、限界だった。

 そして、引き戻された腕が容赦なく襲いかかり、ジェーンの首を刎ねようとして。
 死の寸前、彼女は、どこか遠くの方で、


 ―――コンコン、と。


 誰かがドアをノックするような、気の抜けた音を聞いた気がした。







688名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:12:59 ID:.gi0ckm.0


 赤い血の跡が、キャンバスに筆で線を引いたように走っている。
 真っ白い床の上をズルズルと這いずって、その女は進んでいた。

「……っ……ぁ……」

 ソフィア・チェリー・ブロッサムは温室ブロックの壁際にたどり着き、壁伝いに身を持ち上げる。

「っ……ご……ほ……」

 視界には腹立たしいほどに間の抜けた景色が広がっていた。
 人工光を浴びて立派に育った観葉植物が並んでいる。

 喉をせり上がってきた血を吐き出し、酸素を取り入れた。
 こんなところで休んでいる場合ではない。
 しかし、ならば、一体どこへ行くという。

 血を流しすぎていた。意識が朦朧として、思考が上手くまとまらない。
 さっきまで自分がどの方向へ動いていたのかも分からない。
 図書室の戦場から逃げようとしていたのか、戻ろうとしていたのか。
 そもそも、どうやってこの温室に来たのかも曖昧だった。

「…………」

 右の太腿に圧迫止血を施してはいるが、血の勢いを止めることが出来ない。
 腹部の傷も時間が経つほどに重大な深手に変わっていったのだろう。
 流れる血が黒い。内臓が傷ついている証拠だった。

 だけど、全て、関係ない。
 行かなければならない。しかし何処へ。
 まとまらない思考のまま、ソフィアは立ち上がろうとして、そのまま前のめりに倒れ伏した。

「……だめ……まだ眠っちゃ……」

 目を閉じればもう、起き上がれないことは分かっていた。
 温室の床に、赤い筆が引かれていく。

「……行かないと……」

 何処へ行くのだろう。
 図書室に戻って、ルクレツィアを救うためか。
 別の場所に行って、自らを救うための、恩赦ポイント――つまり未使用の首輪でも落ちていることを願うのか。
 どちらも、まるで現実的ではないと分かっている。

「行かなきゃ……」

 何処を目指しているのだろう。ソフィアは自分でも分からなかった。
 間違えを重ねるために、醜く生きるために。
 殺すために。間違え続けるために、今も己は身体を稼働させている。
 それだけは分かるけれど。

 既に下半身の感覚がない。
 身体を転がして、仰向けに体勢を変え、そこでいよいよ、指一本動かせなくなった。

 朦朧とする意識の中、痛みだけが明確だった。
 ソフィアは思う。これが罰なのだろうかと。
 悪に堕ちた者への、罰。だとしたら神様は意地の悪やつだと、苦笑する。
 世界を救っても、何の救いもないというのに、悪への応報だけは律儀に下すのだから。

 馬鹿馬鹿しい。ならば、尚のこと、最後の選択を後悔することができない。
 メアリーを止める。なんて、誂えたような正義。
 それすら、ふいにして、血の令嬢の友であることを選んだ。
 そのことに、今に至るも後悔はない。

 令嬢は帰ってきた。
 嫌悪すべき血の怪物、残虐非道の女、それでも彼女はソフィアに報いようとしたのだ。

「悔いが……あると……すれば……」

689名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:14:41 ID:.gi0ckm.0

 彼女の紫煙は、ついぞソフィアに夢を見せることはなかった。
 あの図書室で充満した空気をどれだけ吸い込んだところで、例外の存在は揺るがない。
 今ほど意識が混濁した状態もないだろうに、『楽園の切符』はソフィアにだけは配られない。
 呆気なく眠りこけた囚人たちのことを、ソフィアは狂おしいほど妬まく思う。

「ゆめを……みたかった……」 

 ルクレツィアの歪な友情の結実を、きっともう見ることは叶わない。
 死に際にあっても、誰かが迎えに来るような幻想が与えられることすらない。
 視界には青空のホログラフィック。
 とても明るい温室の中、たった一人で、ソフィアは最期を迎えようとしている。

「あのひとに……あいたかった……」


 記憶の中の『彼』に、もう一度会えたなら、ソフィアは満たされたのだろうか。
 納得を得て、救われたのだろうか。
 分からないし、知る機会も与えられないだろうけど。
 このまま死んだって、きっと再会することは出来ないだろうから。

「あいたいよ……」

 涙が頬を伝う。
 
「あいたいよ……しどー、くん」

 滲みながら閉ざされていく視界、偽物の空との間に。

『……ふむ、その"しどーくん"、というのは嵐求(ラング)の話か?』

 真っ黒い影が割り込んだ。

「―――――――は?」

 既に瞳はまともな機能を失っている。
 ぼやけた青色の中に、陽炎のように不定形のヒトガタが映って見える程度の視界で。
 聴覚もとうに狂っている。だが、聞き間違いではない。
 ソフィアが彼の名を聞き間違えることなど、ありえない。

 “嵐求 士堂(ラング・シドー)”。
 最愛の彼の名を。

『そうか。いや、昔、ヤツから婚約者が居ると聞いたことがあってな。
 お前の髪色を見て思い出した。俺と近い超力を持った女というから、少し印象に残っていた』

「う……そ……なんで……」

 なぜ、改変後の世界で、ソフィア以外に、その名を知っている者がいる。
 なぜ、あまつさえ旧知の仲のように、彼を語る者がいるのだ。
 
『生憎とな、俺の精神はそう出来ている。
 世界が変わろうが肉体が変わろうが、魂を取り込まれようが、俺の思考だけは何者にも侵せない』

「あなた……だれ……」

『さあな、自分の名前すら忘れてしまった。しがない魂の残骸だよ』

 そしてその魂すら、もうじき消える。
 そう、男は語った。
 事実として、男の影はとても不安定で、吹けば飛ぶような陽炎にすぎなかった。
 だけど―――

「彼は、そこに……いるの?」

 ソフィアは無意識に手を伸ばす。
 今にも消えそうな陽炎にむかって。

690名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:16:17 ID:.gi0ckm.0

 
 そこにあるというのか。
 彼の記憶。ソフィアの知らない、彼の物語が。
 世界に残されていたというのか。
 
『ここにあるのは記憶だけだ。俺の憶えている奴が、いるだけだ』

 それでも、あったのだ。
 世界から消え去った彼の、何も残されなかった彼の。
 ずっと探し求めていた、彼の痕跡が、ここに、まだ。

 涙が溢れ出る。
 これは報いなのか。いや、きっと違う。

『そうか、ならば俺も、そろそろ幕を下ろそう。
 ではな士堂。悪くない生き恥だった。
 最期にお前の痕跡に会えたのだ。柄じゃないことも、やってみるものだな―――』

 これはもっと悪辣な罰だ。
 それを証明するように、触れた陽炎が弾けて消えて。
 帳の向こうから、怪物の正体が顕になった。

「あら、あなた。たしかルクレツィアのお友達ね」

 黒いドレスと銀の髪。
 青白い掌が、ソフィアの手を包んでいる。

「丁度いいわ。迎えに行きましょう? 一緒に」

 銀の顎が、桜花の花弁を喰んでいる。

「ごめんね、しどーくん……」

 求めていたものは何だったのだろう。
 食いちぎられていく意識の中で、最期にソフィアは考えていた。

 彼と再開したかったのか。
 彼が報われる最期が欲しかったのか。
 せめて夢で会いたかったのか。

 血の令嬢と友人になってでも。
 自らが悪に堕ちてでも。
 怪物の一部に成り果ててでも。

 触れたいと願った。
 何だっていいから、彼の痕跡に触れたかった。
 それだけで、よかったのに。

 ここは深淵(アビス)、正義の最奥。 
 正しく生きた果てに、何も得られない因果なら。

「……こんなせかい、こわれてしまえ」





【ソフィア・チェリー・ブロッサム 死亡】






691名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:18:44 ID:.gi0ckm.0



 図書室に踏み入った足は青白く、細く華奢な少女のものだった。
 漆黒のドレスが翻り、漂う紫煙と暖色の明かりによく映える。
 踊るような歩みの後から銀の長髪がたなびいて、きらきらと残光を残していく。
 その怪物は、かつて『檻の中の魔神』と呼ばれていた。

 ルクレツィアの異型と化した腕が伸び、銀の少女に叩きつけられる。
 しかし超スピードで放たれた鞭の一撃は呆気なく片手で止められ、掴まれた箇所からグズグズと萎びて落ちた。

 超力の無効化。
 触れる範囲に限定されるものの、それによって銀鈴はルクレツィアの再生力を断ち切っている。
 例外存在としての力を振るう少女に、大した感動は見られない。

 枯れた腕を放り捨て、銀鈴は歩きながら両手を前に突き出す。
 右手には拳銃――グロック19。左手は無手―――否、指で作った鉄砲を構え。

「――ばん」

 鉛の礫と空気の弾丸が同時に発射された。
 
「――ばんばんばんばんばん」

 連射される左右の実弾銃と超力銃。
 ルクレツィアの血濡れの身体に次々と孔が空く。
 対面する存在を無感動に蜂の巣に変えながら、銀鈴は前進し続ける。

 我喰いを胃に収め、超力の使用が解禁されたにも関わらず。
 銀鈴には一切感動した様子がなかった。
 それもそのはず、彼女にとってすればこんなもの、もともと出来た概念の劣化にすぎないのだ。

 超力無効化も、超力による銃も、気配の希薄化も、念動力も。
 風を操る力も、氷を操るつ力も、炎を操る力も、なにもかも。
 すべて、銀鈴はかつて、たった一人で出来たのだ。
 そして出来ないことも、いずれ出来るようになる筈だった。

 誕生日を迎えるたびに、使える力が増え、元から使えた力は強化された。
 それを12回繰り返す頃には、既に地球上で不可能な概念など、数えるほどになっていた。
 あのまま生まれた土地に留まり歳を重ねていれば、どれほどの魔神が完成していたのだろう。

 ちょっとしたきっかけで両親の言いつけを破り、外の世界に出なければ。
 たった一度、運命の歯車が狂わなければ。
 彼女は全てを支配する器だった。
 もとより現存するほぼ全ての超力を支配(Control)するための―――

「やっぱり、また会えた」  

 それは一にして全。他者(かぞく)など、もとより必要としていない。
 根底にはあるものは、『銀鈴』か『人間』かという大別のみ。
 素足で肉塊を踏みつけながら、少女は再会を祝して笑いかける。

「少し痩せたかしら、ルクレツィア?」
「…………………」

 ルクレツィアは今や声を発することも出来ずに、ビクビクと痙攣を続けていた。
 瀕死の生命を再生によって無理やり繋いでいる状況に、無効化能力を帯びた足が容赦なく触れている、どうしようもない詰みである。

 ゆっくりと、力を込められた足が、肉の中に沈んでいく。
 血にまみれた悍ましき怪物を、銀鈴は他の人間に対するものと全く別け隔てなく、平等な目線で見つめていた。

「おいで、ソフィアも待っているわ」

 息絶えるその時まで。
 平等に、愛おしそうに、楽しそうに、人(むし)に向ける視線のままで。 






【ルクレツィア・ファルネーゼ 死亡】







692名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:21:19 ID:.gi0ckm.0


「メリリン……メリリン起きて……!」

 ふわふわと酩酊する頭を強引に振り回され、私の意識はようやく覚醒した。
 とにかくめちゃくちゃアタマが痛い。
 徹夜で飲んで昼に起きた時の二日酔いみたいに気分が悪くて吐きそうだ。

 なんだか懐かしい夢を見ていたような気がするけれど、余韻もなにもかも吹き飛んでしまう。
 目をパチパチ瞬いて、どうにか視界を確保する。
 戻って来る図書室の風景と、私の肩を揺するジェーンと、それから、

「ジェーン! その、お腹……!」

 ジェーンの腹部が真っ赤に染まっていた。
 私が気を失ってからも戦闘が続いていたのだろう。

 彼女はたった一人で戦っていたのだ。
 心配と申し訳無さに血の気が引く。

「大丈夫……血は……なんとか止めてるから」
「ソフィアは……メアリーは……あの煙管の奴は……どうなったの?」
「いや……もう、そんな状況じゃない。いますぐ、ここから離れないと……」

 尋常ではない様子の彼女に、立ち上がるよう促され。
 何がなんだか分からないまま、足に力を入れようとしたとき、私は見た。

「―――まぁ、まだ人間さんが隠れていたのね」 

 ジェーンの背後に、漆黒の影が立っていた。

「はじめましてかしら。私は銀鈴―――」  

 発言の終わりを待たず、振り返らずに放たれたジェーンの指弾。
 それを掌で受け止め、銀髪の少女は少しだけ口を尖らせる。

「お返事は、相手の言葉を最後まで聞きいてからするものよ」

 ばん、と。
 子どもの遊びのように軽い一声。
 対照的に、足を撃たれたジェーンは苦痛の呻きを漏らしながら崩れ落ちた。

「よかったら、あなたたちも……あら?」

 ぴんと伸ばした指の先が、私とジェーンを交互に捉えている。
   
「……ホンジョウ、サリヤ、ソフィア、ルクレツィア……そっか。
 わたしったら、ついたくさん食べてしまったみたい」

 何を言っているのか、私にはまるでわからない。
 ただ分かることもある。
 さっきのは、サリヤの超力だった。
 つまり、こいつは―――

「あと一人しかお腹に入らなくて、ごめんなさいね」

 エントランスで遭遇したときよりも、数段上の怪物に変貌している。
 何か、ひどく恐ろしい。
 おぞましいモノが目の前にいる。


「―――要選哪一個呢,(どち、らに、しよ、うか、な)」

693名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:23:26 ID:.gi0ckm.0


 銀の少女の指が、私と、ジェーンとの間を、行き来している。
 囁くような、ジェーンの声が聞こえた。

「メリリン、逃げていいよ。私はどうせこの足だ、時間だけ稼ぐから」

 無理だ。
 私だって、プレートで固めた状態じゃ逃げ切れない。
 不気味な指の動きを、私たちは見ていることしか出来なくて。


「―――就照老天爺說的吧(てん、のかみ、さまの、いう、とお、り)


 止まった。
 指が、私に向けられた指が――― 


「―――オイ、なに他人(ひと)の女(モン)勝手に喰おうとしてんだ、テメェ」


 横合いから放たれた蹴撃によって、少女の身体ごと吹き飛んだ。
 黒いドレスが、本棚に直撃してそのまま倒れ、舞い上がるホコリに姿が掻き消える。
 ゆらりと立ち上がったその姿は、シルエットが少しだけ変わっていた。

「痛いわ」

 渾身の衝撃波と物理的な力によって千切れた右腕を、少女は事もなさげに見下ろして。

「こんなに痛いの、何年ぶりかしら」

 呆気なく再生させた。

「死にぞこないのエリザベート・バートリを追ってみりゃあ……んだよ、結局お前と絡むのかよ」

 私とジェーンの前に立つ、真っ白い髪の男には、頬に古傷が刻まれている。
 どうやらこれは、都合のいい幻覚とか、そういうものではないようで。
 あいつが来た。粗暴で乱暴で危険な男。ストリートに君臨する、孤高のギャングスタ。

 まだまだ気を抜いていいような状況じゃない。
 安堵なんて、して言いわけがない。
 それは分かっていたんだけど。
 だけど、私は不覚にも、


「よォ、助けにきたぜ。メリリン」

「だから……メリリン言うな。ローマン」


 このときばかりは、あまり強く訂正することが出来なかった。






【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(中央) 図書室/一日目・午前】

694名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:37:11 ID:.gi0ckm.0

【ネイ・ローマン】
[状態]:額に銃創、全身にダメージ(小) 、疲労(中)、右手首にボルトによる刺し傷
[道具]:デイパック(幾つかの食糧と酒)
[恩赦P]:99pt
[方針]
基本.やりたいようにやる。
0.銀鈴に対処する。
1.ブラックペンタゴンでルーサーを探す。
2.ルーサー・キングを殺す。
3.ハヤト=ミナセと出会ったら……。
※ルメス=ヘインヴェラート、ジョニー・ハイドアウトと情報交換しました。



【ジェーン・マッドハッター】
[状態]:全身にダメージ(大)、腹部に刺し傷。
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.無事に刑務作業を終える
0.銀鈴に対処する。
1. 山頂の改変能力者に対処。
2.死なないで。ドミニカ
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました


【メリリン・"メカーニカ"・ミリアン】
[状態]:全身にダメージ(中)、フルプレートアーマー装備、軽い打ち身
[道具]:デジタルウォッチ、生成ドローン1機、ラジコン1機。
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。出られる程度の恩赦は欲しい。サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
0.銀鈴に対処する。
1. 山頂の改編能力者に対処。
2サリヤ・K・レストマンを終わらせる。
3.ローマンに従いブラックペンタゴンを調査する?
※ドミニカと知っている刑務者について情報を交換しました。

695名前のない怪物(C) ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:38:39 ID:.gi0ckm.0

【銀鈴】
[状態]:健康、我喰い
[道具]:グロック19(装弾数21/22)、予備弾倉×1、デイパック(手榴弾×2、催涙弾×2、食料一食分)、黒いドレス、銀鈴の首輪
[恩赦P]:18pt
[方針]
基本.アビスの超力無効化装置を破壊する。
0.目の前の人間さんと話をする。
1.ジェイで遊びながらブラックペンタゴンを探索する。
2.人間を可愛がる。その過程で、いろんな超力を見てみたい。
※今まで自国で殺した人物の名前を全て覚えています。もしかしたら参加者と関わりがある人物も含まれているかもしれません。
※サッズ・マルティンによる拷問を経験しています。
※名簿で受刑者の姓名はすべて確認しています。
※システムAに彼女の超力が使われていることが真実であるとは限りません。また、使われていた場合にも、彼女一人の超力であるとは限りません。

※我喰いの肉体を内側から完全に掌握しています。


※現在のシリンダー状況
Chamber1:銀鈴(女性、以下の人格を完全支配下に置いています)
Chamber2:本条清彦(男性、挙動不審な根暗、気配希薄化能力、人格凍結)
Chamber3:ソフィア・チェリー・ブロッサム(女性、無効化能力、人格凍結)
Chamber4:ルクレツィア・ファルネーゼ(女性、再生及び幻惑能力、人格凍結)
Chamber5:サリヤ・K・レストマン(女性、詳細不明、空気銃能力、人格凍結)
Chamber6:欠番



【本条 清彦】
[状態]:銀鈴と同化
[道具]:なし
[恩赦P]:――
[方針]
基本.―――。
0.――――。
※銀鈴に肉体の主導権を奪われています。

696 ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:39:36 ID:.gi0ckm.0
以上、投下終了です。

697 ◆ai4R9hOOrc:2025/07/26(土) 22:46:32 ID:.gi0ckm.0
すみません。
ジェイ・ハリックの状態表が抜けていたので、下の通り追記します。

【ジェイ・ハリック】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(中)、昏睡中
[道具]:
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。チャンスがあれば恩赦Pを稼ぎたい。
0.昏睡中。
1.銀鈴の友人として振る舞いつつ、耐え忍んで機会を待つ。
2.呼延光、本条清彦、バルタザール・デリージュ、銀鈴に対する恐怖と警戒。

698 ◆H3bky6/SCY:2025/07/27(日) 17:18:01 ID:XTqL1i3c0
皆さま投下乙です

>正義

キングの情報力と、それを余すことなく運用する手腕が恐ろしい。裏の世界を支配していた説得力がある
戦う以前に、理屈で相手をねじ伏せ、精神的に圧倒してくる上に、実際に戦ってもクソ強いと言う性質の悪さ

海千山千の裏社会の皇帝を相手にするには、あまりにも全員が青く若すぎた
キングにとって彼らは、ありがちな理想に駆られた若者たちにすぎず、力不足という以前に、戦う場所にすら立たせてもらえないという現実

りんかの心の内、自殺願望すらも見抜いた上で、断定的に突き付ける
そして、そんなりんかの影を模倣しただけの紗奈には、化コピーという辛辣なレッテルを容赦なく貼り付ける
まあ、舌戦から入るのは、単純に無駄な戦闘を避けたいという合理的な選択肢なのだろうなって

生存に特化したセレナを殺すには、彼女自身を狙うのではなく周囲を狙うという手法も実にキングらしい
心理を読み、相手を理解し、その感情を利用し尽くす冷徹な方程式は、最小の労力で最大の効果を上げる美しさすらある

これまで絆を深め成長してきたハヤトとセレナの結末としては空しいけど、ハヤトは想定が甘すぎた
ここは悪人が跋扈するアビスであり、若人の成長物語が許される場所ではないと、最大の悪人がまざまざと突き付けてきた
最後の表情の意味を知ることもなく、ハヤトも終わってしまった

ルーサー・キングに逆らってはならない、同じ不文律を持つネイ・ローマンとは違う意味合いの恐ろしさ
ローマンが直接的な破壊が返ってくるのに対し、キングは支配と操作で全てを封じてくるマフィアとしての恐怖をこれでもかと感じさせてくれた

かなり絶望的な状況、ここにジルドレとかがやってくるんですか? カオスな状況が加速する

>名前のない怪物

シエンシアによるシステムABCの説明、はぇ〜そうだったのか。魂の証明によってハイヴも生み出してたり、好き勝手やっとる
銀鈴が支配を関するシステムCの基礎となるモデルケースだったってのはらしすぎる、こんな怪物生み出しちゃうならそりゃGAPも中止する

怪談めいた存在だった本条さんも、怪物めいた銀鈴さんに圧倒される、怪異はより強い怪異に飲み込まれてしまうんだよなぁ
未だに謎多きサリア、母親のつながりで顔が広くて銀鈴とも面識がある。今となっては本体である本条さんよりも不気味かもしれない

自ら本条の家庭に土足で乗り込み家長の座を乗っ取る、まさにパラサイト、これは全地下の住民
あまりにも家族に対する価値観が違う銀鈴によって人格を凍結され支配され家庭崩壊

無銘さんにファミパンは効かない>よく考えれば確かに……
無銘さん改変前の記憶も持ってる>よく考えれば確かに……
ソフィアの最期に現れた救いのような魂の残滓から、銀鈴という絶望に切り替わるのは酷い

自分を捕らえたソフィアに対するジェーンの複雑な感情
悪辣な超力を得ながら信念に生きたドミニカの姿があったからこそ、もどかしかろう

それでも正しい道を選べる機会を蹴って正義ではなく悪に寄り添う友人の道を選んだソフィア
異形の怪物になり果てながら友人のもとに戻ってきたルクレツィア、
ソフィアとルクレツィアの奇妙な友情の終着点、歪でありながら無垢で美しい最期だったが、それすらもすべて丸のみにしてしまう銀鈴という怪物

本条の家族の超力をすらも取り込み正真正銘の怪物と化している、恐ろしいことに当人にすれば劣化版という
メリリンたちもやべーとなったところで颯爽と登場するローマン。これはスパダリですわ。
とはいえ、この怪物に勝てるだろうか? もしローマンレベルの受刑者ですら一蹴されたら終わりやで
ジェイくん寝てる場合ちゃうで!

699 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:19:56 ID:ARwh4AzQ0
遅れまして申し訳ありません。投下します。

700青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:21:23 ID:ARwh4AzQ0
朝陽の中、疲れ果て倒れ込んでいる。
草に付いた朝露が、服や髪を濡らしている。
青髪の力なさげな青年。北鈴安理。

その安理に優しく影を作るように、見下ろす気品のある男。
汚れた囚人服を纏っているのに、不思議と威厳を感じさせるのは何故だろうか。


「少しだけ、神(わたし)と話をしましょうか」


「あ、ああ……」


その気品と、威圧感。
視線をそらさずにはいられない。

思考は激しく巡る。
あの鎖を操る大男と、尊敬した探偵の闘い。
逃げ果てて疲れ、落ち着きのない中で。

頭は強く痛む。集中力が途切れそうだ。
それでも。

(なんなんだこの人は?!
 戦意はないのだろうか?!
 だからといって危険じゃないとは何も限らないだろう?!
 話せってどうしろというんだよ?!)

神は、ただただ優しく静観する。
穏やかな風と共に。

(やめろよ!
 そんなふうに見るなよ……!
 逃げ出してきた情けないボクを見るなよ!
 今だってフレスノさんが心配で気になって気になっているのに!
 どうか無事でいてくれって思いたいのに!
 なに泰然と見ているんだよ!
 見られたくなんてない!
 フレスノさんとの記憶を、思い出させていてくれよ……)


しかし、疲れ果てた身体はもう朽木のように動かなかった。
逃げることを思っても、何もできない。
向き合うしかないのだ。
嫌だ。もう関わりたくない。そう安理は思っている。


「君に何があったのかは分かりません。
 しかし、ひどく焦燥して疲れている。
 落ち着いてください。
 深呼吸をして」


男は、優しく。
神が慈悲を与えるように、静かに屈んで手を伸ばす。


安理は……それを跳ね除けられるほどに冷たくなれる人間ではなかった。
ここまで近くに手を伸ばされて、拒む方が不自然。
それに、そこまで人間不信でもない。

そう、信じていないのは他人ではない。
どちらかというと自分自身の方。


差し伸べられた手を、か細い力で安理が握る。
男は力強く、そして優しく握り返す。


息を強く吸って吐く。
何も考えず、呼吸器を動かすことだけ考える。
自然の力。草の香りと土の香りが胸にしみこむ。
少しずつ、少しずつ。



「落ち着きましたか?」

「はい……どうにか」

「それは良かった」

優しく、男は語りかける。
雪のような柔らかい言葉と手付きにより、安理の心は落ち着きを取り戻していった。


「貴方は……………………」

疲れて思考も回らず、言葉はそれしか続かない。
ただ、なぜこんな状況で優しくされているのか。
その理由を知りたかった。

「そうですね、貴方に神からの救いの手を伸ばさせていただきたく、話しかけさせてもらっています。
 監獄にて神職を任せられていました者ですよ。
 夜上神父、と皆さんは神(わたし)を呼びます」

701青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:21:48 ID:ARwh4AzQ0


優しく話し、そして一度言葉を打ち切る。
精神の落ち着きをやや取り戻した安理。少しずつ思考が整理される。
それを止めることはしなく、優しく見つめる。
会話が続かない気まずい雰囲気を、まるで感じさせない優しさがあるのだった。

(夜上神父……あの、神父の人。
 囚人でありながら自由行動を許されて、収監者たちのメンタルケアに関わっている。
 そう、ボクも気になってはいた。
 彼と話すことを、彼と関わりのある収監者や看守から勧められることもあったな。
 あまりにもボクが孤独で居て、精神的に危うく見えたからなんだと思う。
 でも、それでも話したいとは思わなかった。
 ボクはそんな事したくない、するべきではないって。

 でも、こうして向こうの方から語りかけてきている。
 何を言われるのか、怖い。
 どうしよう。
 どうにか、他人のために――――)


「……その!」

思い当たったように首を上げて強い目で、話す。

「フレスノさんを、助けに行けませんか!
 探偵の、イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノさんです!
 戦っているんです!お願いします!」

「ええ、まずは事情を、聞かせてください」

優しく、否定はせず受け止める神父。


「フレスノさんは子供や冤罪の人を助けたいって、そういう正義のために頑張っていた人なんです!
 犯罪者だったけれど、それでも!
 少なくとも、今は正しいことのために頑張っていて!
 そしてボクもそれに協力したいって思って、一緒に動いてたんです!
 神父なんですよね?!人を救う職業なんですよね?!
 それならどうか……どうか……」


懇願する安理。傷つき倒れた姿で、今にも泣きそうな顔で。
神父は、優しく聞き止める。


「君は優しい人ですね。
 他人のことを思えて」

「そんな、そんな事はどうでもいいじゃないですか。
 ボクは……ボクのせいでフレスノさんは凶暴に暴れる囚人と、不利な状況から戦うことになってしまった。
 そんなボクは優しくない、けど、フレスノさんはそうじゃないから!
 どうか……」

「申し訳ありませんが、それはできません。
 今の君ができないように、できないのですよ」

「そんな……どうして……」


落胆と失望の表情を、表に出さず隠そうとしても隠せない安理。
しかし、それを見ても神父はあくまでも、穏やかに語りかけていく。


「フレスノさんの事は知っております。最近収監された方ですね。
 ラテンアメリカ地域で"災害"の名を冠していた探偵。
 ただの殺人鬼ではなく、思い遣りの心だって持っているであろうことも」

「それならどうして……」

「彼を、知っているからですよ。
 彼が君を遠く逃がすほど、全力で戦わなければならない囚人。
 生憎、そのような高出力の超力に対して真っ向から戦う術をこちらは持っていません」


そうだ。当たり前だ。
自分の力を正しく把握していて、そのうえで無理だと判断して助けに向かわない。
なにも悪いことではない。
その事実が、力を過信していた安理に強く突き刺さる。
落ち込まざるを、得ない。


「それに、君のことも知っておりますよ。
 3年前に収監された北鈴安理君ですよね」


知られている。その事実が安理の心をまたざわつかせる。


(ボクの事を知っている。
 それならボクの犯した罪も知っているんだろう。
 掘り返されたくない。
 触れられたくない。
 でも逃げる選択肢はない。
 嫌だ……嫌だ……どうか、触れないでください)

702青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:22:10 ID:ARwh4AzQ0


「君の超力もある程度は知っておりますよ。
 周囲に残る冷気や雪の名残。
 全力で、逃げてきたのですね。
 さぞ恐ろしかったでしょう。
 心配する気持ちはとても分かります」

理解を示す神父。安理も、その心遣いを受け取る。
そうなんだよ、と思う訳では無いが優しさは確かに伝わった。


「そう、君が超力を使いすぎて疲れ果ててしまったように、彼らも全力で戦って消耗しているでしょうね。
 それなら間違いなく、決着は既についている。
 今から行ってできることはありません」

優しく諭す神父。
もはやどうしようもないのだ。
俯く安理。

「しかし君の、無事を祈る気持ちはとても尊重するべきものです。
 彼の無事を共に祈りましょう」

できることは祈ることだけである。
安理は祈る。たどたどしく、神父の祈る姿を見真似しながら。



――――――――


 ◇


――――――――



No.XXXX

"北鈴安理" 19歳 男性

超力:『眩しき離流の氷龍』
    任意発動型、自対象、変身系。体長2.5mの雌の氷龍に変化する
    身体の各部より冷気を発し氷を纏い、冷気のブレスを操る
    身体能力は竜相応の物となる
    特殊な点として、本人や家族の証言によると変身時間の制限はないとのこと(未確認)
刑期:無期懲役(三年目)
罪状:殺人罪
内容:超力により1名の友人男性、そしてその家族5名を衝動的に殺害
犯行動機: 自身のアイデンティティへの葛藤
      拒絶された相手への絶望と衝動的な暴走
      加えて自己防衛、証拠隠滅
犯罪手口:超力を用い龍化し、冷気を使った攻撃を行う
      尾や爪に冷気を纏い攻撃し凍傷を負わせ、弱った相手を氷漬けにし、逃走・証拠隠滅を図る
注意点:衝動性が高く、感情のコントロール困難
更生策:心理的アイデンティティ確立のための専門的カウンセリング
     超力制御訓練
     感情制御のため、氷彫刻や図画工作など冷感を伴うリハビリプログラム
     (ただし、本人が望まないため無期懲役であることもあり実行されていない)
     定期的な潜在的危険性の評価(精神状態報告、面談etc.)

・日常行動プロファイリング
行動パターン:日中はあらゆる場面で極力対人交渉を避け、他の看守や囚人には簡易な応答しか行わない
        夜間は落ち着き横になっている傾向が強いが、時に運動を始めたり無為に歩き回る(VRオンラインゲームの動きの再現か?)
        共通し、突如として独言を吐いたり、笑ったり涙を流すなどの感情表現が偶に見られる
        私語ではあるが一定期間の監視の結果、他者と共謀し反乱を企てるような危険はないと判断



――――――――



神父は知っている。

アビスの様々な囚人の情報を。自らも囚われの身でありながら。
もともと犯罪者の心理に興味がある人間であったから。
収監される以前から、世界の主だった犯罪者の情報は収集は欠かしていなかった。

収監後も、模範囚として新聞などの情報源の閲覧が許されていた。
さらに、自身に心酔する看守から情報提供を受けることもあった。

とはいえ、それらで得られるのは表面的な情報に過ぎない。
囚人としてのプロファイル、裁判記録の資料に加えて。
神父にとって真に価値があるのは、犯罪者本人と直接対話し、己の目と耳で情報を得ることだった。
それこそが、彼の信じる最も望ましい方法なのだ。



――――――――


 ◇


――――――――

703青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:22:39 ID:ARwh4AzQ0



ただ広がるばかりの草原。
細い葉の草が、ところどころで穂をなびかせ、朝日に輝いている。
こうして日が昇ると視界は開け、地図上で同じエリア内であれば、遠く離れていても互いを見つけられるだろう。

とはいえ、安理はしばらく身体を休ませる必要がある。
神父は安理を背負い……安理は強く遠慮したものの、半ば強引に、草丈がやや高く周囲から見つかりにくい場所へと運ばれていった。

他人の背を頼る感覚。
それはイグナシオの事を思い出させ、安理は悲みを深めていく。


「さて、君と話したいことは色々ありますけれど」

「あの――――――――」



言葉が続かない。沈黙。
わからない。
だって、自分の決定的な部分を掘り返されたくない。
でもそうなると、どのような話題を切り出せばいいのかわからなかった。

今度の沈黙は、気まずい。
考えても考えても、何も言葉が出そうにない。


「まあ、まずは神(わたし)の話に付き合っていただきありがとうございます」
「あ……あ! ありがとうございます!
 こちらこそ!
 その、安全な場所まで運んでくれて、落ち着かせてくれて、すみません……」


そうだ、神父さんは自分のために色々してくれたのに。
ずっと考え事ばかりで、礼を言うということすら頭に浮かばなかった。
とっさに謝罪の言葉も添えてしまう安理。


「いえ、貴方は道に迷っている青年ですから。
 助けるのは神の使命でもあるのですよ」
「そんな……本当にどうお礼をすればいいのか」
「気にしないで下さい。やりたくてやっていることです。
 貴方の抱えている小さな疑問でも、何か相談に乗りましょう」


神父は少しずつ、安理の心から声を引き出していく。
話しやすいように暖かく、向き合う。


「例えば、貴方がそれほどまでに恐れている、先程遭遇した囚人は何者なのでしょうか。
 特徴を伝えていただければ、知る限りでその人物についてお話しできるやもしれません。
 知ろうとすることは、とても大事なことですよ」
「う、うう。
 その……あの……」


不思議と言葉に詰まる安理。
何故、何も話せないのだろう。

「落ち着いてください。確かに難しいかもしれません。
 知ってしまったことで、新たな不安が増えるかもしれない。
 考察すると、フレスノさんが無事で済まない可能性が高くなるのかもしれない。
 あるいは自分が逃げたことに対して、より後悔が強くなってしまうのかもしれない」

自分では言語化できなかった気持ち。
それは、正しいような気がする。
それなら……自分は、その事から逃避したいのだろうか。


(逃避、したい。
 ただただ無事を祈りながら、待ち合わせを約束した場所へ行って待っていたい。
 
 ――――けれど。
 今一人になるのは、いやだ。
 違う、怖い。
 
 あんなに孤独を求めていたのに。
 誰とも関わりたくないってずっと思って過ごしてたのに。
 ローズさんはいない、フレスノさんも無事かわからない、大金卸さんの行方も分からない。
 ボクに向き合ってくれていた人たちが、いない。

 今この神父さんにまで何も話せなかったら。
 孤独がずっと続く。そんなの……)


何故だろうか。
久方ぶりに人との繋がりを得てしまった。
そのせいか。なぜ、また失うのが、こんなに怖くなってしまったのか。
その感情が、安理に言葉を緩やかに紡がせていく。

704青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:23:02 ID:ARwh4AzQ0


「……大柄な男だった。頭に鉄の仮面をつけていた、あの男。
 デリージュって呼ばれていたっけ。
 存在感がすごい強くて、アビスの中でも何度か見たのを覚えてる。

 鉄の鎖を自由自在に出して操る超力を、使ってた。
 本当に、恐ろしかった。破壊の限り――――って言うと安っぽいけれど。
 建物が易々と粉砕されていく、あの風景を他に例えようが、ない。ないでしょう」

おどろおどろしい風景を思い起こしながら、徐々に説明していく安理。

「戦いの中で、仮面が割れた。
 生々しい手術された跡みたいな傷跡が沢山あった。
 あとはそう、あの時フレスノさんが"ハイ・オールド"って言った。
 とても恐ろし気に。
 一体、彼は何者なんだ……何者なんでしょう」

独り言を話すかのような口調で、言葉を出しきった安理。
ハイ・オールド。その言葉の意味は知らなかった。
けれど、語感からオールド世代の中でも何か特別な存在であろうと想像は出来た。

神父は――――――。

「ハイ・オールド……そうですね。
 日本で裏社会に触れず育ってきた君は、知りようがなかったのかもしれません。
 話せる範囲の事を話しましょう」
「――――お願いします」



――――――――


――――――――



「そんな、非人道的な人体実験が……」
「ええ。彼はそうした実験の被験者です。
 通常の超力を逸脱した、強力な力のための」

神父は、ハイ・オールドの開発経緯について語った。
それは、人工的に行われる超力の強化。
出生前に超力の構造を調整する“デザイン・ネイティブ”という知識を持つ神父だからこそ、
彼はこの領域の知見にも通じていた。


「けれど。どうしてあそこまで。
 ボクは――――実は、アビスにいたときは彼にわずかな親近感のようなものを持っていたりもしました。
 一人の看守が良く彼に付いているけれど、それ以外はずっと他人と関わったりもしなくて。
 そして自分の境遇を受け入れているかのように、いつも穏やかそうに過ごしている。
 でも、それは違っていたのでしょうか。
 あそこまで暴れ他人を襲わなければいけない理由を、彼は秘めていたんでしょうか。
 本当に、本当に……どうして」

イグナシオが無事で済む可能性は、もう極めて低いと言わざるを得なかった。
スプリングと遭遇していた確証はないが、もし出会っていたなら、間違いなく彼が殺したのだろう。
そう、どうして――――ボクと、関わった人間を奪っていくのだろうか。
そう、言葉は続かなかった。
自分なんてちっぽけだ、単なる偶然、あるいは自分が彼に手を出した自己責任。そう思ってしまう。

「ええ、何故彼はそこまで豹変したのでしょうか。
 それは結構、大事なことなのかもしれません」

しかし安理の考えを肯定して深めるかのごとく、神父が言葉を返す。

「恩赦という希望を与えられれば、人間はいくらでも悪魔にでもなれる。それは事実です。
 けれど彼は、それ以上に謎の多い存在でした。
 半専属のような看守、顔を隠す鉄仮面、厳重すぎる拘束。
 看守たちでさえ、彼の詳細を知らないと語る者がほとんどなのです」

「でも彼はどう見ても話が通じそうでは、なかったですよ。
 まともに会話もできず、ただただボクらを殺そうという意志だけが感じられるようで……。
 誰かが、止めないといけないと思います」

止める。そういう表現を使う安理。
心が落ち着いた。落ち込んだのかもしれない。
放送を聞いた直後の激情――復讐心のような心は、今は小さく小さくしぼんでしまった。

「ですが、それでも、神は彼の抱える謎に迫るべきだと思います。
 そして彼にも、神との対話をさせたい。
 それが必要だと神(わたし)は考えるのです。
 彼がどんな答えを抱いているのか――
 あるいは、答えを導き出していくのか――――」

謎に迫る……まるで探偵みたいなことを言うなと安理は思った。
果たしてイグナシオは、彼に付いてどこまで知っていたのか、知れたのだろうか。
もはやそれを知る術もないのだろうか。
いや、まだ諦めてはならない。


「しかしなぜ、君達は彼と戦うことになったのですか?」



「――――その、偶然、遭ってしまったんですよ。
 それだけです。偶然運が悪かった――――」

705青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:23:25 ID:ARwh4AzQ0




「そうでしょうか?
 神は――――。
 貴方を、見ていますよ」





見通されるような、言葉。
心臓も呼吸も、止まってしまうよう。

ああ、そうなのか。安理は思う。
これが、多くの人の心と向き合ってきた“神父”という存在のなせる業なのだろうか。

ごまかすことは……できそうな気もする。
優しいから。
流してくれそうな気もする。

でも、ああ。
もうどうにかなってくれ。どうにでもなってしまえよ。



「ボクは……ふふっ、ボクは。
 ボク自身がが大嫌いだ」


自嘲めいた笑いと共に、言葉を紡ぐ。


「本当にさあ、その。
 自分を動かす衝動ってのが、嫌になるんです。ハハッ」


自分を取り繕う気持ちが切れたことにより、言葉は流れ出すように続いた。

「なんでかなあ……本当にいつも、何でかなあ。
 後悔してることばっかりで……本当に……」

語っていることの悲しさに反し、口調と表情は笑っている。
笑い事ではないと理解していても、止めることはできなかった。

「その、スプリング・ローズって子が参加者にいるじゃないですか。
 その子と話したんです。
 本当に、本当に、日本じゃ絶対いないような不良少女で。
 でも、ボクが彼女のためになりたいって、命を捨ててもいいって言ったら。
 不思議と穏やかに話してくれて。
 ボクの変な部分も気にしなくて、もっと自信持てって。
 また逢えたらいいのになとか、そんなことも思っていたのに……その……」

死んでしまった。放送で名前が流れた。
その事実を知ってしまった。

「彼女の、痕跡を追っていたら。
 彼女を殺したかもしれない相手を見つけられるかもしれないって。
 その方へ衝動的に、駆け出して。
 ボクは……なんてダメな人間なんだろう。ハハッ」

後悔はどうしてこんなにも重くのしかかるのだろう。
どうしてこんなに自分が嫌いで、もう後悔したくないと思っているのに。
どうして繰り返すのだろう。

「本当に嫌だよ……自分が。なんでなんだろう。何度だって……」

何度も繰り返してきた。あの自分の手を汚してしまった時だって。
今だってそう。
大金卸さんに挑んだ時だって、一歩間違えばどうなっていたか。
あの時は成功した。自信になった。
しかしその自信はすべて反転してしまった。

「なんでだろう……まだ決めつけるなってフレスノさんの話を聞き入れていれば。
 フレスノさんは、あの怪物を討つためじゃなくて、被害を抑えるために追おうと言っていたのに。
 あんな別れ方をしなくても良かったはずなのに。
 もっと考えて動けばよかったのに」

暴力的な衝動を抱えながら、何とか不器用に生きていたイグナシオ。
助け合って、お互いを抑え合うと誓ったのに。
身に付いた自信が暴走し、彼の伸ばした手を振り払ってしまったのだった。

「そうさ。ボクはやっぱり何か間違った人間で社会不適合なのかって思う。
 こんなの、こんなのさ。生きていたくなくもなっちゃうよ。はあ」


吐き捨てるように、安理は息を漏らした。

神父は――その言葉を正しく聞き取り、しっかりと受け止めていた。
理解のうえで、神の導きを差し出そうとする。


「それは、君が収監されることとなった罪にも関係しているはずです。
 おそらく、そうなんでしょう。
 良ければ話してください。
 知っても悪用することは決してありません。神に誓って」


「――――――――わかりました」

706青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:23:46 ID:ARwh4AzQ0



覚悟を決めた。
いや、違う。
相手が受け止めてくれる可能性があるなら――もう、どうにでもなってくれて構わなかった。
背の高い草が、朝日を浴びながら静かに揺れている。
まるで二人を包み込むように、柔らかな風に身を任せていた。



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 ◇


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4年前のある日。
とあるVRオンラインゲームで、二匹のドラゴンアバターが出会った。

ハンドルネーム"ElsaWing"、"LuciferinSeiryu"。

初めて言葉を交わしたきっかけは、お互いが同じアバターの素体を使っていたから。
よくある話だ。

「君の雷のブレスのグラフィック、花みたいな形があって綺麗だね」とElsaWingが言った。
「君の雪の結晶グラフィックを使った氷のブレス、すごく綺麗だよ」とLuciferinSeiryuが言った。

「ドラゴンが好きなんだ。できるだけドラゴンの姿でいたい」とElsaWingが言った。
「僕もドラゴンが好きだよ。ドラゴンとしてずっとVRで遊んでいたいくらいだよ」とLuciferinSeiryuが答えた。


二匹はゲーム内で一緒に遊ぶうち、仲を深め、次第に互いの現実の環境を打ち明け始める。
月明かりの差す、ドラゴンが住んでいそうな山の洞窟――二人だけの場所で過ごす時間。

「学校に居場所がない。外に出て人と会うのが辛いんだ」とElsaWingが言った。
「学校には通ってるけど、仲の良い人は全然いないし。腫れ物みたいに扱われてる気がして嫌だよ」とLuciferinSeiryuが言った。

「親にどうして僕が自分たちのやり方に従わないのんだ、日本人らしく育ちやがってとなじられて辛いよ」とLuciferinSeiryuが言う。
「親は色々と気を遣ってくれてるけれど、それでもたまに二人が僕の今後について話してる声が聞こえると、逃げ場がないようで苦しいよ」とElsaWingが言った。

お互い、現実が辛かった。
せめてネットの世界では、自分らしくありたいと願った。
人間が、好きではなかった。
自分たちの基準を押しつけてくる人間たち。そして社会。
そんなものに囚われない、架空の生き物でありたかった。
その思いを、誰かと分かち合いたかった。



二人は次第に頻繁にVR上で出会うようになり、夜にはVR空間に身を置きながら横になり、寄り添って心を癒すようになった。

「毎晩、ここに来ようね」
「うん。夜空を雷の光と、照らされる雪の結晶で彩ろうね」
「隣にいると、不思議と君の冷気を感じる気がするよ」
「こっちこそ、君の身体の静電気を感じることがあるような気がするんだ」
「ああ、僕たち、このままずっとこの世界で過ごせたらいいのにね」


尾を絡め合って、向き合って眠ろう。
たとえ世界が辛くても。
どうか、この優しさだけは――いつまでも、消えませんように。



――――――――



ある日、LuciferinSeiryuがElsaWingに夢を打ち明けた。
それは、日本の芸能界でアイドルになりたいということ。

難民の子供としての立場はどうしても背負ってしまうけれど、それでも日本で頑張ってみたい。
日本に馴染もうとしない親の事は苦手だけれど、同じような境遇の子どもたちを勇気づける存在になれたらいいなと。
君がこのVR世界で、僕のことを“綺麗だ”とか“面白い”、“動きがかっこいい”って言ってくれたからこそ、僕はこの夢を抱いたんだと。
そしてもちろん、ドラゴンが好きという事も推していきたい。
アクセサリやファッションに取り入れたり、たまにドラゴンの着ぐるみを着て皆を驚かせたりも出来たら面白いよねと。

ElsaWingは……肥え太った自分のリアルの姿を自嘲し、そんなの想像もつかない話だという。
けれど、それでも絶対に応援したいと言い切った。

それからLuciferinSeiryuは演技やダンスやボイトレをVR世界も活かして行うようになる。
ElsaWingはいつもその姿を眺め、彼の着実な進歩をまるで自分の事のように喜んだ。



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707青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:24:09 ID:ARwh4AzQ0



仲が深まるにつれ、二人は互いのプライベートな話題を交わし合うようになり、やがて互いの家や学校の場所もおおよそ察せられるようになる。
そして、二人の家は思ったよりも離れていなかった。


リアルで会ってみたい。


互いにそう思うようになる。
VR世界で出会ったからこその友情だった。
けれど、リアルでも一度くらいあって相談し合ったり遊んだりしてみたい。
リアルで会って体験してみないと、わからないことだってある気がする。



そうして3年前のある日。
二人で過ごす世界にも、オブジェクトが増えてきていた。

今は、黄色い花を咲かせる樹木が満開。
LuciferinSeiryuのアバターが使うブレスと同じ、とても鮮やかな黄色。
彼の故郷に咲いていて綺麗だったというその樹木を、苦心して3Dモデリングで再現したものだった。
その樹木にはいくつかの漢名がある――花梨、紫檀、そして青龍木。
LuciferinSeiryuの名前からの連想でもあった。

その日は、二人が出会ってちょうど一年の記念日だった。
明るい雰囲気の中で、LuciferinSeiryuが言った。
夜に、自分の家に来てみてよと。
今日のその頃はちょうど両親もほかの家族もいない時間帯だから……と。

ElsaWingにとっては、願ってもない誘い。
引きこもりがちで散らかった自分の家に友人を招くことなど考えられなかったが、
自分が相手のもとへ行くのなら――行ってみたかった。
外に出れば他人の視線が怖い。けれど、それでも。

自分の肥えた姿を誰かに見られるのは嫌だった。
それでも――LuciferinSeiryuは、嫌がったり笑ったりはしないと思えた。
そして、もし自分が固有の超力を使って氷龍の姿になれたなら。
彼はどれほど喜んでくれるだろうか――そう思った。



――――――――



ElsaWingは、リアルで出会い、LuciferinSeiryuのこれまでのトレーニングの成果を目の当たりにした。
心の底から――凄い、と感じた。
今までも本気で応援していたつもりだったが、その瞬間、もっと応援したいと強く思った。

そして、衝動的に。
その思いを支える決意を、激しく言葉にした。


ボクが君をずっと守る。
難民だから差別されるとか、そういうことから。
剣にもなる、盾にもなる。
きっとボクの超力はそのために、戦えるほど強い力があるんだ。

ボクが君のために、お金を稼ぐ。
君がオーディションの出場や養成施設の費用に悩んでること、知っているから。
そんなことに心配しなくていいように、ボクが頑張る。



しかし――――LuciferinSeiryuはきっと、わかっていた。
ElsaWingが、暴走していると。
その気持ちが強くなりすぎて、根拠のない自信に呑まれていると。

だから、そんな無理しないでと。
今までどおり友達でいよう、たくさん話したり遊んだり、慰め合ったり。
それが僕にとってとてもうれしいことなんだよと。ElsaWingに告げた。


ElsaWingの衝動は、その程度では止まらなかった。


じゃあ恋人になればいい。
もっと君のことをボクに預けさせられる関係になろう。

とにかく、君の事がとても好きなんだ。
ボクの心の中はその気持ちでいっぱいなんだよ。


だから。
もっともっと深く繋がりたかった。
心の繋がりを深めるより手っ取り早いからなのか、身体の繋がりを求めようとしたのか。

ElsaWingにも実際のところ、わからなかった。
ボクの中にあるこの“好き”という感情が、友情なのか、敬意なのか、恋なのか、性愛なのか。
何なのか、わからない。
けれど、ただひとつ言えるのは――とにかく、大好きだということ。

708青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:24:33 ID:ARwh4AzQ0


君はボクの心をきっと一番深く理解してくれてる人で。
だから、ボクが好きなボクの身体で。
氷龍の姿で。
種族の差とか性別とか、もうそういう規範とか関係なく。
大好きだって理解して欲しい。
そして、それを受け止めて欲しい。
だからボクは君のために何でもしたいんだって、受け入れてほしい。

それで。
それで。


"本当に君は可愛いね。でも、ごめんな。
 僕は君を受け止めきれない。
 どうか。自分をもっと大事にして。"



――――――――



心も、感情も、ぐしゃぐしゃだった。
彼の、謝罪の声と寒さを訴える声はずっと聞こえている気がするのに。
それでも氷龍の身体は、彼の上から動くことはなく。


呼吸が、消えていく。
体温が完全に失われていく。

零れ落ちる涙が、彼の肌に触れるたびに的確に凍結していく。
素質があると確信できるほど輝いていた彼は、堅い氷の中に閉ざされ――二度と動かない姿となっていた。



――――かしゃ、と。家の鍵の開く音。
誰かが家に入ってくる。
どうすればいい。
ボクが、殺した。


どうしたら、どうしたら、どうしたら。


部屋の扉が開く。
驚愕の表情。
人間たちは、ボクに向けて超力を発動してくる。


ああ――。


戦わなければ。
どうにかしなければ。



頭が、真っ白になった。
優しくて、可愛らしくて、美しかったはずの青龍が。
死をもたらす厄災へと、変貌していく――。




――――――――


 ◇


――――――――



「おかしいですよね?」


まず安理が発したのはその一言。
空気が、どこか淀んでいるように感じられた。


「おかしいでしょう。
 力を使い果たして、今みたいに変身も解けて倒れて、ボクは逮捕された。
 裁判の前、新聞とかネットとかで自分がどう言われてるかもいろんな人から聞いて。
 "現代の凄い奇妙な事件"だとか、"変態ドラゴンが痴情のもつれ"だとか」

「そんなことはありません」


神父はそれを、優しをこめて力強く諭す。

709青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:25:08 ID:ARwh4AzQ0


「君の抱える悩みや感情は、茶化していいものではありません。
 たとえ君自身が、そういう感情を織り交ぜなければ向き合えないとしても」

「じゃあ、いっそ否定してくださいよ。
 神に仕える神父なんでしょう?
 男と男がとか、人間と獣がとか。
 そんなこと許されないって言わないんですか?
 言ってくださいよ!」

「神は男が男を好きになることも、自分の性別や種族のアイデンティティに悩むことも、何も否定はしません。
 そのような神の言葉はありません。
 それに……そんな概念そのものが、この世界ではもう崩れかけているのではないですか?
 常時発動型の変身能力、医療技術の進歩。
 君を縛っているのは、社会的な観念や家庭事情に過ぎない」


まだ信じられない。そんな感情が安理に湧く。
神父はあくまでも優しい。
それでもいったん話し出した安理は止まらない。
3年間――ずっと悩み続けてきていたのだ。


「そういうこと全部取っ払っても、やっぱりボクの精神がおかしいっていつも思うんですよ!
 自分を動かす衝動が、本当に嫌だ。
 氷龍と化す力だって。
 子供の頃はほかの子供に、馬鹿にするないじめるなっていつも苦しんでたのに。
 でも、それに反抗するために力を振るいたいと思ったことはなかったのに。
 なのに彼の家に行ったとき、他人のためなら力を幾らでも使いたいと思った。
 バカで、無謀なのがボクなんですよ。
 それでいてやったことは人殺しだ。
 ずっとずっと、そういうこと考えて悩んでいた」

「ああそうだ、まるでさっき大根卸さんに組み手を挑んだ時みたい。
 明確な自信もないのに根拠なく、自分がやらなきゃって。
 そう、引きこもりで学校でも全然やってけなかったボクが自力で何処かで働いてお金を稼ぐなんてできるわけないでしょう。
 でもなんとかなる気がして、そしてやらなきゃいけないって思ったんです。
 そんな事ばっかりだ。ボク」

「そもそも彼とは本当の意味で友達だったのかもわからないですよ。
 横文字の本名を初めて知ったのは、死んでしまった後の裁判の時なんだから。
 あそこまで心焦がしたのに、知らないことが本当にいっぱい。
 おかしいでしょう」

「自己矛盾してばっかり、本当にさ。
 あんなに好きだった人を、好きなのに殺してしまったり。
 誰も殺したくないと思ったのに、親しくした人を殺されたと思ったら報いを受けさせなければと思ったり。
 どうして、自分はこんなんなんだろう」

「他にも、国際法廷は刑事訴訟だけど。
 民事訴訟はもちろん別にあるじゃないですか。
 アビスにいるから殆ど情報もないけれど、家族は彼の家族の遺族へ賠償してるんですよ。
 なんでこんなに他人を不幸にするんだよボクは。
 攻撃力の何も無い能力ならよかったのに。
 そもそも生まれてなければ良かったのに。
 そう、いつも考えてしまっていたんですよ」

「全部、自分の抑えきれない衝動が悪いのかっていうのも、考えました。
 例えばずっとネット越しに話してればこんな事故起きなかっただろうし。
 もっと外で出会う事から始めたりとかしてゆっくり、互いの距離を測って感情を落ち着けながら行けば。
 受け入れてくれていた未来があったのかって。
 あるいは受け入れられなくても納得して、どうしても受け入れられない部分があると理解しあって。
 その上でのさらに良い友人関係に発展できたのかって思ったりもしました。
 でも、そんな単純じゃないんですよ。
 罰も下されているし、ボクは確かに悪人でしかないんです」


話し出すと止まらない。
罪の意識と、自分への疑問を心の中で何重にもこねくり回して。
それに対する回答は、突き詰めれば突き詰めるほど自己否定に行きついてしまう。
そういう悩みを幾らでも、彼は延々と一人で抱え込んでいた。


「なるほど、君は自分を悪人だと思っているのですね」
「ええ、もちろん。
 とっても、とっても、強く」


言葉が途切れ途切れになる。
神父は安理の存在を肯定し、心の悩みを受け止め受容する。
罪の肯定。それは、安理が望んでいたこと。
けれど同時に、ひどく辛いことでもあった。
自分を受容する神父の顔から、安理は目を離しがちとなる。
一方神父の表情は――――ただの優しさだけではなく、興味深く観察するようなまなざしも滲み始めていた。


「それならば、より深く掘り下げたいことがあります。
 友人の家族をなぜ殺さなければならないと思ったのか――詳しく教えていただきたいのです」

710青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:25:39 ID:ARwh4AzQ0


安理の語った"頭が真っ白になった"。それだけでは足りないと神父は考える。
人間の仕組みとして強いストレスで一時的に我を失ったり、後から記憶を失うことはいくらでもありうる。
それでも、3年も事件の事で悩んでいるのならば。
その行動に対する動機も自分の中で何度も考察しているはずだと、そう神父は思う。
心の闇を抉り出していく、質問。

「そうですね――本当に突然の衝動だけで身体が動いたような気がしますし。
 自分でも、当時の自分の説明は難しいです」
「それでも、神は――君自身の口から君の言葉で聴きたいと望んでいます」

神父は、超力犯罪国際法廷の裁判の情報を日頃からよく調べていた。
安理の裁判についても完全に覚えているわけではないが、そのあらましは理解している。
それでも、当人が語る言葉こそが、神にとって最も重要な情報となることがあるから。

「はい……沢山、そのことについても考えました。
 後から考えた上に、自分で自分のことを言っている主観に過ぎないです。けれど、話します」

今度の安理は、落ち着いた様子で語りはじめる。
それは単なる説明ではない。
理解されたい――そんな想いがにじむ語り方。
まるで、自分自身にも言い聞かせるように。

 
「その時の、自分の感情もよくわかってないんです。
 けどなんでか咄嗟に反撃しなきゃとは思った。そんな記憶はあります。
 だから、そう、周りから見たらボクは彼を殺した殺人犯に過ぎなくて。
 次に何をするのか分からない危険な存在でしかない。
 彼がボクとの友人関係について家族に詳しく話していたとも思えないし、初対面でしたから。

「だから相手からしたらボクを攻撃するのは敵討ちかもしれないし、正当防衛なのかもしれないし。
 その家族たちももうボクが殺してしまったから、思いを想像することしか出来ませんけれど。
 裁判で検察の人は、まだ息子が生きているかもしれないから何とか助けようと動いたと、そう主張していたはずです」

「その時のボクは――襲われてるなら、身を守るため反撃しなくちゃとか思ったのかな。
 それとも――八つ当たりみたいな感情をもっとぶつけようとか思ってたのかもしれない。
 もっと悪く考えれば――自分のしたことを隠そうと目撃者を消そうとしたのかもしれない。
 裁判では検察の人はそういう意図だったと主張してました。
 ボクは、自分の気持ちもよくわからないからそれに強く反論もしなかった。
 刑を軽く抑えたいとかそういう感情は、逮捕されて自分の罪を実感してからはもう無かったですし」


悩み続けて色々な想像をしたが、まだ結論は出せていない。
それが、安理の現状だった。

「君自身の気持ちはどう言っているのでしょうか?
 そう、神は、君がどんな気持ちで動いたはずだと?」
「わかりません。選べませんよそんな事。
 ボクは自分で自分自身を信じれていないんですから。
 ただただ、殺して疲れ果てて気絶してボクは捕まったという事実があるだけですよ」
「ふむ、なるほど」

納得して聞き入れる神父。
まだ今は、それで構わない。
質問を続ける。

「では次は少々辛いことを、お聞きします。
 被害者である彼を襲ったとき、君の気持はどうでしたか」
「はい……」

すでに対話の信頼関係は築かれていて、安理は落ち着いて神父と話を続ける。
それでも、やはり後ろめたさがあるのか、あるいは威厳のある顔で真っ直ぐ見られることが苦手なのか。
鋭い問いに、気後れしてしまうのかもしれない。
視線は、なかなか神父と合わないままだ。

「君はですね、手段として恋人になろうとしたと言いますが。
 そこまで好きという感情と手段とを、割り切れる人間ではないですね?」
「――はい」



「君の彼を襲った時の感情――そこには、支配欲などがあったのではないですかな?」

「――――――――
 ――――――――そう、なのかもしれませんね」

711青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:26:06 ID:ARwh4AzQ0



まるで自暴自棄のように、軽い調子でそのことを認める安理。

「そう、彼は自分なんかよりすごい存在だから。
 その彼に対して一時でも主導権を握れる存在になれるとしたら。
 どんなに嬉しいんだろうとか。
 思う、思いますよ、承認欲求ってやつでもあるのかな。
 そして殺すなんて。
 まるで相手が自分の思い通りにならないから殺したみたい。
 氷漬けにしたのも、ずっと自分と一番仲の良かった時のそのままの姿でいて欲しかったからだとか」

そういうことも、もちろん安理は考えていた。
検察に言われたことの中にも、あった気がする。

「人間の命を終わらせることに対しての欲求みたいな物も、あったのでは?」
「ハハッ、そうですね。
 子供が物を壊したり虫を潰したりすることを楽しむような気持ちだったのかな。
 氷漬けになった彼の姿は、脳裏に焼き付いて離れない。
 それはきっと美しかったから。そんなこと、ボクは感じてるきっと」

神父の指摘に、改めて向き合っていく安理。


「それならばもう一つ、性欲はどうでしょうか?
 彼に跨ってマウントを取って、そう気持ちよかったのでは」

「――――――――
 ――――――――あるよ、きっと絶対」


安理が自暴自棄ながらも、不快さを少し顔に出した。
頭のじんじんした痛みが増していく。
今までの戦いでのダメージを引きずっているだけでは、なく。

「良かったよ。好きな人と一つになれて。
 その感触、彼の一部がボクの身体の中に入る感覚。
 忘れられないですよ。
 快感とかもあって幸せだったって感情、思い出してしまう」

不快さと自嘲を両方出して話す安理。
額に汗が増えていく。

「ハハッ、そういう性に関する欲求とかボクは昔からずっと強いよな。
 引きこもりでネットだけは使えたからって。
 ドラゴンや獣人の性的なCGとか、そういうのが人間とセックスするCGとかいっぱい見てましたよ。
 彼ともたまにそういう話題で話すこともありましたよ。
 CGに感情移入したりして、氷龍の姿で自慰することだって沢山あった」

自分の歪みを打ち明ける安理。
そして一時の沈黙。センシティブな話題を話していることも分かっている。

「ボクがただの性犯罪者みたいだ、いや実際そうなんだろうな。
 相手が本当は求めないことでも、受け入れてくれると思って拒絶されて。
 そして自分の思い通りに相手が動いてくれないからって。殺して。
 アビスにも凶悪な性犯罪者がいるけど、そういう人たちと同じ線上にいるんだボクは。
 そうでしょう?そう思いませんか?」

大声で誰に欲情するか等と会話していた、デリカシーの欠片もないような言動の囚人たち。
しかし自分だって彼らの同類だと、そういう自認が安理にはある。
そういう話題に興味がある。ただ、彼らのような人間に混ざって話したいとは思わないだけで。

「彼と身体で繋がっていた時の生々しい感触はずっと焼き付いている。
 ふとフラッシュバックして思い出すたびに、興奮するような気持ちも襲ってきて。
 そのたびに自己嫌悪も強くなって自分は最低だと思うんだ。
 こんなの、死んでしまいたいですよ。沢山の人が、ボクに死んだほうがいいと思ってる。ボクもだ」

「――――いえ、まだそう決めつけることはできませんよ。
 更に問いましょう」

自暴自棄な青年にさらに神父は問い続ける。

「それでは、何かしらの“正義感”のようなものはありませんでしたか?
 彼の家族は、日本に馴染もうとせず、遵法意識の低い仕事に就いていたと。
 ――君自身が彼を守れないなら、いっそ彼を殺すことで解放しようと思ったとか。
 そして家族を殺したのも、悪人を始末したいがためだったとか?」



「――――やめてください。
 ――――やめてよ、もう!
 やめて!やめて!」



安理は、自身の口元を塞ぐ。取り出したマスクによって。
アビス内で、医療用に支給されていため持ち込むことができたマスク。
衣料用の布が、世界を拒絶する帳のように扱われる。

突然の強い拒絶。
しかし、神父は慌てて取り繕うようなことはせず話を促すように見つめ続ける。

712青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:26:42 ID:ARwh4AzQ0


「そうですよ!そういう理由があったんじゃないかって裁判の時も言われたんですよ!
 でもそれだけは違う!絶対!」

神父は、安理の肩を抑える。
感情が昂りすぎている。

「さて……その心は?」
「話しますよいくらでも!そんな事、言われなくても!」

目を逸らしながら、それでも強い口調で安理は話し続けていく。

「日本では一部であるじゃないですか、その、移民や難民とか、外国人の排斥運動とか!」

現代は人類が進化し、個人が強い力を持つに至った世界である。
そうなれば、自分たちと違う属性という少数者に対しては社会はより恐れを抱くようになる。
安理の生まれる前の時代より、更に。

「だからSNSの一部とかでは、こんなことも言われてたんですよ!
 彼の両親家族が反日本的だから、それを殺したボクは凄いとかって!
 口にするのも嫌ですけど――――日本に必要な掃除だったなとか!
 日本に寄生してた奴等には当然の報いだとか!
 ひどいですよ!
 ボクは絶対そんな気持ちでやったんじゃないのに!」

その感情は、憤り。
急激な感情の波が、彼を動かしている。

「そこからさらに、彼や彼の家族の超力による精神干渉があったんじゃないかって無理筋な養護をする人がいたりとか!
 そんなことはないって、わかってるのに!
 裁判でもちゃんと証明されたのに!」

当事者意識の低い人間たちの言うことは、勝手な発言が含まれることも度々あるのだった。
どんな時代、世界だろうと、それは変わらない。
けれども。

「けれど、でも!
 そういう人達の心無い言葉を受け入れて、罪の意識から逃れようとする自分の姿を――たまに、想像してしまいます……!
 おかしい、そんなことしたくないはずなのに!おかしいでしょう!?」

安理は神父の顔を見る。
しかしその顔は、あくまでも優しく、そして威厳を帯びている。


「――――恐ろしいです……なのに……」

しゅんとして落ち着き、安理は言葉を続ける。


「もういいですよ。
 ボクはもうめちゃくちゃだ。
 逮捕されてから裁判の時も、ずっと。
 みんながいろんな理由を決めつけては、述べていくんだ。
 そのたびにボクはあやふやな自分の意志がこうだったんじゃないかって、当て嵌めようとしてしまう」

その声には疲れとあきらめと自嘲が、強く含まれていた。
青い瞳は、もう光を映して輝かない。
彼から延びる影は、風によって草が揺れるたびにくしゃくしゃとそこに映す形を変えていた。

「それでもボクは。
 少なくとも、自己正当化なんて、そんなことはしたくないんですよ。
 自分がやったことを許したいとか、絶対に思うことは出来ません」



ひときわ風が吹き、風に靡いた草の影が安理を覆う。
日本人としては高身長に含まれる安理。
しかしその身体は吹けば崩れそうに、か弱く覇気が全くなかった。



「申し訳ありません、意地悪を言いましたね。
 君が自分を悪人だと感じているようなら、それは一体どこまでなのか。
 聞くべきだと思ったのです」

神父は一度謝る。
上っ面の取り繕いではなく、誠実さのある動きと声。
やはり澄んだ瞳で優しく安理を諭すのだった。

「本来、犯罪を犯してしまった原因を、個人にだけ求めてはいけません。
 君をそこまで追い込んだ社会の構造や家庭環境にも、責任があるはずです」

犯罪は環境要因で誘発されるという当たり前のこと。
しかし、視野が狭くなると、それすら見えなくなってしまうことがある。

「もちろん、それを盾にして責任を押しつけるばかりでは、救いにはなりません。
 けれど、君は少なくとも、そういう人ではない。
 物事をすべて抱え込むのも自由です。
 でも――無理は、してはいけませんよ」

沢山の、罪悪感に悩む人々を見てきた神父は続ける。

「いいですか。自分を大切にできない人は、他人も大切にできません。
 心に余裕がなければ、真に人を思いやることはできません」

713青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:27:01 ID:ARwh4AzQ0


「――わかってます。そんなこと。
 でも、たった一人にとても大切にされていたのに。
 ――その人を殺してしまったボクなんだ。
 自分に期待なんてもう、しちゃいけない気がします」


この刑務作業が始まる前の、彼の精神状態がこれであった。
罪悪感に悩み続け、不健全な精神だからこそ。
他人を思いやる行動をできる人にあこがれる。
積極的に沢山動ける人にあこがれる。
でも自分は彼らとは違って、そんなことはできやしないんだと。

だから――例えば彼は、氷龍の体の一部を売って金に換えたいなどと思ってもいた。
自分の気持ちを込めずとも簡単に済む行為。
そして、金銭そのものには善も悪も宿らないはずだから。


「だから、ボクは、この刑務作業でも。
 この首輪のポイントが、極悪人ではない誰かの助けになるなら。
 そのために死んでもいいと思ったんだ。
 もう、自分の身を削ることくらいでしか。
 他人の役に立てない、罪滅ぼしができない。そう思って」

「――――しかし今、君は、フレスノさんに逃がされて生きている」

神父は、その事実をそっと指摘する。
なぜそこで命を捨てなかったのか。

「ええ――そう――ああ。ここで出会ったフレスノさんが、ローズさんが、大根卸さんが。
 ボクの事を思いやって、向き合ってくれた。導いてくれた。
 ボクに自信をくれた。
 もう少し生きて、自分や他人に向き合ってみたいって思った。
 ――――それがこういう結果になったんですから、救えないですけどね」

一度得たはずの自信はすべて反転して、氷の奥深くへ引きずり込まれ消えていった。

「さてしかし、あるのでしょう?
 君がフレスノさんに託された思いは?」

目を細めて、風の音に溶けるような声で神父は問いかける。

「――――逃げて生き残ったことに罪悪感を感じるなと。
 役目を引き継いでほしい……と。
 そう、生きていてほしいって」

遺言めいた言葉。覚悟を決めたイグナシオ。
安理は逃げながら何度も何度も、言葉を頭の中で繰り返していた。

「けれどボクのせいだってどうしてもどうしても、思う。
 ボクを逃がしたことはフレスノさんの強い意志によるものだったとしても、その過程でボクは何をした?
 フレスノさんの事を思えば思うほど、幾らでも自分を責めたくなってしまう」

「そのような気持ちに引っ張られすぎてはいけませんよ。
 そういう思考は自己の身の破滅をいずれ招く」

神父は、その気持ちを否定する。
イグナシオの言葉を尊重するように。
安理はどうしても、それを自分に落とし込めない。

「じゃあどうしろっていうんですか?
 フレスノさんを想うのをやめろって言うんですか?」
「そんなことはありません。君の想いはとても尊重されるべきものです」

神父は、気持ちを否定はしない。
しかしそれだけでは終わらない。

「その気持ちは大事です。しかし、同時に君を強く強く追い詰めてしまう。
 どうすればいいかわかりますか?」
「――――」

安理は言葉が出なかった。
罪悪感のせいか、教えてほしい、助けてと、そういう声は出なかった。
しかし言葉はなくとも、神父は心の声を強く感じ取る。

顔を上げる安理。
青い瞳が、神父の澄んだ瞳に向き合った。


「確認したいのですが。
 フレスノさん、ローズさん、大金卸さんへの思い。
 昔の貴方が、友人に抱いていた思いに近いのでは」


安理の氷の心の中で、思考が反射する光のように巡りだす。
心の中で、無限に反射し続けるように巡り続ける、他者への想い。
思い起こすと、昔も今も、まるで似ている。
言葉ではとても表しにくいけれど、確かに存在する他者との繋がりの痕跡。

714青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:27:30 ID:ARwh4AzQ0




「――――そうかもしれません。
 また会いたい、話したいってすごい……焦がれています」
「ですよね。
 君と正面から向き合って、導いてくれた人たち。
 君の存在を受け入れてくれた人たちですから」

「いいですか。
 フレスノさんへの想いを、細かく分解して理解してみてください。
 君の中にある、その想いとは、何でしょう?」

安理に思考が巡りだす。
憧れか、尊敬か。順々に拾い出していく。
大金卸さんが言った、君はフレスノさんの弟子なのではという言葉。
実は結構――嬉しかったりもした。

彼の想いを受け継がなければならないという気持ち。
彼なりの正義に基づいて、正しく彼は動いていた。

また会って話したい。灯台の場所へ向かわなければ。

依存したかった。
そう、お互い暴走しそうになったら抑え合おうって。

お互いを隣で、支え合っていたかった。
そして、自分だけが逃げた。罪悪感。


沢山ある。

「本当に、たくさん。思いつくことが、いっぱいで、いっぱいで……」
「良いですね、自分の気持ちを細かく理解してください。
 例えば君が彼に好意を抱いているとして、それはどんな好きなのでしょうか」


そうだ。
大根卸さんの言葉に、また一つあった。
君はナチョを好きなのかという問い。
否定はした。そんなこと言える人間ではないって。

でも――本当は大好きだった。
それなのに、もう二度と会えないかもしれない。

悲惨な過去の話を聞いた時。
今は助けられている自分だけれど、いつかは彼の助けになりたいと思った。

君が生きていることが私の救いになると、言われた。
あんな状況でその意味を考えることもできなかったけれど。
今でこそ、その言葉がとても大切だと、そう思う。


そう、自分を受け入れてくれた他人のことを想うのは。
なんて幸せで。
その人を想って行動できるという事は、なんて幸せなのだろう。

けれどそれだけではだめだった。
ローズさんの事を思うあまり、フレスノさんの事を振り切って暴走してしまった気持ち。
本当に大事なことは何なのだろう。


もしかしたら、さっき神父に指摘されたように。
支配欲や性欲のようなものもあったのだろうか。

あったと思う。

詳しくは聞かなかったけれど、彼の男娼のような過去。
無理やり与えられた痛みと、性的な快楽。
それを――――自分は。
そういう話を聞いた自分は、彼と身体の繋がりで愛し合うことを心の底で望んだ。
信頼し合える相手になって、その上で彼の心を癒すように真っ当に愛し合いたいと。
傲慢だと思う。でもそれはきっと事実。
否定したいけどそれも、自分の心の一部。



「さて―――――。
 君が、最も優先すべき気持ちは何ですか」



ぐちゃぐちゃな気持ちに、整理がついてきた。
その上で。
その答えは――無論。

715青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:28:20 ID:ARwh4AzQ0



「ボクはボク自身のために生きていいと。そう言われた。
 そして、自分の事を引き継いでほしいと」

半日にも満たない、短い共に過ごした時間。
それでも大事な気持ちは、たくさん受け取った。

「そして、ローズさんはもっと自信を持ってと。
 大根卸さんは強くなれと。それなら」


思い浮かぶ、自分に向き合ってくれた二人。
大事なことはたくさん、受け取った。
気持ちを口にすることで、強く固めたい。
誰かにしっかり話すことで、理解してほしい。
違う――証人のようにになって欲しい。

マスクを外す、安理。
視界が少し広がる。風景が、まるで開けるように見える。
そして、神父を改めて見つめる。


「ボクは、この刑務作業の中で。
 フレスノさんみたいな豊富な経験もないし、便利な超力もないけれど。
 それでも自分なりに、色々な情報を集めて、そして弱い人を護る探偵をやりたいんだ。
 闘いの強さに限らない、自分なりの強さを目指したい」


イグナシオさん、スプリングちゃん、樹魂さん。
みんな、本当に大好きだ、たくさんの意味で。
そして心から――――ありがとう。
今、心が正しく定まった。
この気持ちは、きっともう暴走しない。



「おめでとう、答えに辿り着きましたね。
 もちろん他のことも大事です。
 けれど今は、その決意を何よりも強く思い続ける。
 それが君の心を、よりしっかりと固めてくれる」



笑顔が、安理に向けられる。
神の祝福。
柔らかな葉でできた草原は、静かに二人を包み込む。



――――――――



「さて、君が決めたことを遂行するための力になりそうな、ヒントを一つあげたいと思います。
 聞いた話によれば、君の“龍への変身”は時間制限がなく、ずっと維持できるとか」

「――――いえ、過ごせてないじゃないですか。
 今だって力を使いすぎて、人間の姿に戻らざるを得ないって所なのに」


神父が指摘する。安理が何とも思っていなかったことを。


「そうでしょうか。
 神(わたし)は教会に勤める間も、アビスにおいても様々な人を見てきました。
 信者に寄り添うため、超力研究の資料も多く目を通してきました。。
 その上で言えるのは――任意発動型の変身能力は、原則として永久に発動し続けることはできないということです。
 何日も何週間も変身を維持するのは、困難。
 ――――いえ、何か特殊にエネルギー供給源などでもない限り不可能なはずなんです。
 それが、常時発動型と任意発動型の超力の違いです」


北鈴安理はいくらでも竜に変化して過ごすことができる。
子供の頃、長期休暇中はほとんど家に籠もり、常に龍の姿だったこともある。
成長してからは家が狭く感じられ、VRゲームなどにも不便だったため、長く変身することは減った。
それでもPCが不調になったときなどは修理までの間、常に龍化して何日も時間を潰したりしたものである。

任意でなく変身が解けたのは、たった3回のみ。
先程のバルタザールとイグナシオとの闘いから全力で逃げてきたとき。
その前の大金卸樹魂との闘いで、全力を出し切ったとき。
そして――――友人を殺し、その家族と争いになり全員を殺害してしまったとき。

その特殊性に、安理自身は何も気がついていなかった。神父は指摘を続ける。


「推測ですが、これはまだ君の超力が不安定なのだと思われます。
 常時発動型にも、任意発動型にも振れ切らず。
 超力は精神と強く関わるというのは、一般にも知れていますね。
 そして、幼い子供ほど超力が不安定なことが多いというのもよく知れ渡ってますね。
 不安定でしっかり定まらない。全く別の方向へ変質することもある。
 そして、成長するにつれて個人差はあれど少しずつ安定していく」

例えば、メアリー・エバンス。
全く本人にも制御の利かない、暴走した超力。
成長の兆しはあった。すぐに命を失う結果になってしまったが。

716青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:28:46 ID:ARwh4AzQ0


「さて、そう仮定した場合、君の事例は何でしょうか。
 一度安定した後に精神のあり様でまた不安定になったり、変化したりなどもありますね」

例えば、イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ。
一度は正しく安定したはずの超力。検事になりたいという夢を持って。
しかし、故郷の治安悪化の影響による、強い精神ストレスにより。
投影できるのは近い過去のみだったが、遠い原始地球の荒々しい姿まで投影できるように変化した。

「しかし、君は違う。それならばもう一つ。
 精神障害、人格障害、発達障害など心に負荷を抱える人は、不安定な状態が長く続くこともあります。
 それでも、ネイティブといえど。
 君ほどの年齢でこの状態が続いているのは、珍しい事例かもしれません。
 特に、全く違う姿へ変身する能力は。
 生まれつき安定しているか、かなり幼い時期に安定することが多いのです」

思春期も終わり、多くの人が精神が安定してくる年齢を過ぎても安理の超力は、不安定。
そう神父は想定する。

「ボクの超力が不安定……それはつまり、どういうことですか?」
「これから君の超力は、変質するであろうということですよ。
 特にこのような特殊な環境に送り込まれて、精神への影響は計り知れないはずです」
「珍しいからって、それだけじゃないですか。
 子供の頃のフレスノさんみたいな過酷な境遇で超力が大きく拡張されることが、普通の日本で育ったボクにあるんでしょうか。
 あのハイ・オールドみたいに、規格外の出力が出せるようになる可能性もきっとないんでしょう?」

安理はもう、流石に自分の力を過信はしなかった。
大金卸や超力進化後のイグナシオのように、鍛錬や戦いを繰り返して強くなるのが真っ当な道に違いない。
その上で、急にすごい力が降ってくるなんて信じられはしない。

「ええ、それでも何かは起きるでしょう。
 簡単に考えても例えば、君の超力が完全な常時発動型能力に変化することが考えられますね。
 人間の姿に戻ることがなくなる。
 力を得るという点では、メリットになり得るはずです」

「え――――」


まさかの、話。
心の中に、煌びやかな氷塊がずしりと落ちてくるよう。
氷龍でずっといたいと、思っていた。
そういう願いをずっと抱いていた。
しかし、そうはなりたいと全身全霊で願ったことは果たしてあったのだろうか。
なかった。

世間体の目があったから。
家族もさすがに完全なドラゴンと常に過ごしたいとは、思わなかっただろう。
そして将来、真っ当な日本の社会ので生きていくと考えたとき。
ドラゴンとして生きるなんて選択肢、思いつきもしなかっただろう。

ところが、今は。
そういう事は、もう関係ない。
無期懲役でアビスから出ることは叶わないし、こんな機会があっても恩赦を得たいという欲も、ない。

もしも完全に、常時発動型の超力として固定化すれば。
アビスに収監されていた、獣人のような姿の囚人たち。
彼らは、システムAの制御下でも人間の姿に戻ることはない。
自分も、そのようになるのだろう。



「――――そんなの。
 ――――そんなのって」


身体が動かない。目線が定まらない。
自分の願い。
常時発動型の獣人能力者にあこがれる気持ちは、確かにあった。
常時発動型なら、人間として過ごす選択肢が無い。
世間の目は辛いかもしれないが、逆に人間でいなければと惑わされることもない。

身体が震える。

しかし。
その震えは、決して。

一つの理由だけが引き起こしているのでは――――なかった。


「でも――――だめだ。
 でも、だめなんだよ。
 わからないけど。
 なんでか、わからないけど。
 それじゃだめだって気が、なんかする」


自分でも分からない、抑制の気持ち。
世間のしがらみはもうないのに、なぜ思うのだろう。

戸惑い続ける。
それを察した神父は。


「君に神は、何と言っていますか?」

717青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:29:05 ID:ARwh4AzQ0


――――――――
――――――――


(なんで、幸せがつかめるのかもしれないのに)
(なんで、それを掴みたくないんだ)
(ボクは、ボクにとって――――)


――――――――
――――――――


「ボクは、幸せになりたくない。
 なってはいけない――そう思ってしまっている。
 そうさ。
 そうなれたら幸せなのかもってすごい思ってる。
 けれど。
 何人もの人を殺したボクが。
 唯一の友人とその家族をも殺したボクが。
 心から望んだ幸せを手に入れるなんて。
 あっちゃいけないと、きっとそうボクは思っている」

掴み始めた、心の形。
自分の思う通りに生きること。
幸せを求めてはいけないという思い。
矛盾しているのか、していないのか。

「なるほど。
 しかし、贖罪したいという気持ちと。
 幸福を求める気持ちは。
 決して完全に対立するものではないのでは?」

常に罪を償うため、禁欲し命を削ろうとすべてを慈善のために生きる。
そう考える人々は、存在する。
この刑務作業の中にだって、存在している。
しかし慈悲ある神父の仮面をかぶった神は、それを完全に肯定はしない。
そうなった人間の先は長くないと、そう察している。
それでもその人物に神がそうあれと告げるのならば。
それを最大限肯定するのも神ではあるのだが。

「そうでしょうか。
 そうかもしれません。
 それでも、まだ。
 ボクは……自分で、自分を……。
 この手で人を殺してしまったボクは……」

安理は、イグナシオを置いて逃げた。
しかしその事には、もう罪悪感を感じないようにしたいと決めた。
誰かを助けられなくて見捨てて、死なせてしまったと言う者はたくさんいるだろう。
他人のことを重く背負いすぎる人々――まだ、善人でいられる。

しかし安理の最も大きな罪は、違う。
助けられなくて見捨てて、死なせてしまったのではない。
苦渋の選択として、人を殺したのではない。
自分勝手に、無辜の人物を殺してしまった。
その事実が最も彼に重くのしかかっている。


「ああ――――――――ボクは」


脳裏に浮かぶ、優しかった思い出。
互いに生きづらさを肯定しあって、楽に生きたいよなと思い合っていた。
もし彼と今話せたりしたら――そう、幸せになってくれと言うのかもしれない。
死者の声を妄想するなんて傲慢だけど、たぶんそうなのだろうと思える。

でも、彼の家族は?
まだ生きている彼の親族は?
自分以外にいたであろう、日本や昔住んでた国の友人は?

ボクの幸せなんて願わないだろうし、その逆だと、そう感じている。
死刑にならなくて、残念と思っているとか。
二度と関わりたくないし、一生出てきて欲しくないと思っているとか。
きっと色々な、負の感情があるのだろう。
恨めしい目線も、悲嘆も罵りの言葉も何度も受けてきた。
そういう思いを感じるからこそアビスでの3年間、辛くても誰にも助けを求めようとはできなかった。


「なのに――――どうして、どうして――――」


それならば、完全に常時発動型でない任意発動型として固定してしまえばいいのか。
そうなのかもしれない。


「でも――――」


自分の心は、自分の"神"は――――。


「なんだか、少し。
 貴方のお陰でボクの心の形が。
 分かったような気がします」

718青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:29:24 ID:ARwh4AzQ0


そうはなりたくないって、嫌だって思いが、ある。
人間の姿が嫌だって、ずっとずっと思ってたからだろうか。
それは周りに嘲笑われ、貶されてきたからかもしれない。
見た目とか、社会的につくられた相対的価値観でしかないものを気にしすぎた、自己否定感があったからかもしれない。
けれど、そういう感情は。


「そう、幸せになってはいけないと強く思う。
 でも――――ずっと氷龍の姿で過ごしたい。
 それは幸せになってしまうことかもしれない。
 どうすればいいのかわからない。
 それでも」


もう、どちらの気持ちも、自分の人格を形作る大事な一部なんだ。
心の底に、根を張るように定着しているんだ。

自分の心の奥底の声。
自分の犯した罪の重さに反している。
人を殺してしまった、嫌悪すべき姿でもあるのに。
やっぱりその姿こそが。
自分で自分が好きになれる姿なんだって観念が、ある。


「常時発動型になれる選択肢があるのに。
 それを完全に捨ててしまうなんて、とんでもないって。
 いま、ボクの心の奥底から叫びが聞こえます」

「ええ、今はそれでよいでしょう。
 いつか君が自分自身の"神"と向き合えることを祈ります」



まだ、彼は完全な答えを得ていない。
自分の中の神を、完全に見出せてはいない。


神父は思う。
彼の想いも、告解してくる犯罪者に時々ある心理だった。
告解室で繰り返し耳にしてきた言葉――贖罪への執着、自罰願望、罪人が自らを傷つけることでしか生きられなくなる心理。
それは安理の中にも、強く刻まれている。


まず、被害者の遺族にありがちな心理として。
犯人が改心して真っ当な人間になるなんてそんなの嫌だと。
死んだ人は未来なんてないのに。
改心されても、心の傷は消えやしない。
そんなの見せつけられても嫌悪感を抱くだけ。

だから、改心なんかしないで欲しい。
反社会的な、悪人のままでいて欲しい。
とはいえ自分たちのような一般人に新たに被害者が出ても、納得はするだろうけど嫌だ。
被害者が出ない範囲でまた再犯とかして逮捕されて、苦しんでいたりして欲しい。
あるいは――――悪人同士とかで殺し合ったりしてくれれば、なおのこと良い。

そういう思考を、自分に適用しようとしてしまう。
被害者に強く感情移入したり、共感してしまったりする犯罪者は。
あるいは、強く侮蔑の声を掛けられ続けたりした犯罪者は。
自罰的に生きたい、死んでしまいたい。
一生収監されたままでいれば、それでもういい。
遺族の二度と加害者の顔なんて見たくないという思いを、満たすことができる。
そうなりがちだ。
彼が無期懲役で、それでも孤独に何もしようとしなかったのはそういう心理が影響するのだろう。

しかし、それで良いのか。
それは贖罪の一形態として、善のようである。
しかし見方によっては、ただの逃避に過ぎないともいえる。
更にいうなれば、悪になる可能性も大きく孕んでいると、神父は感じていた。
自らを不幸に置こうとする人間は、往々にして無意識に周りの人間を不幸に巻き込んでしまったりするものだ。


けれど彼は、まさに迷っている最中。
審判には、まだ遠い。


「さて、安全な日本で過ごしてきた君ですが。
 改めて問います。
 君はつい先ほど、地獄を見てきた。
 けれど、これから先もまだまだ地獄のような世界が続いていくでしょう」

世の中の地獄を生み出す犯罪者たち。
それに向き合ってきた神父だからこそ。
今後をそう予想する。
安理は顔を引き締める。

「君にとって自己肯定感を得られるような"良い"展開は、もう訪れないかもしれません。
 ここにいる多くの人々が、地獄を見てきています。
 日本でそれなりに平和に過ごしてきた君が、目を背けたいような地獄に敢えて向き合わなければならない。
 あの探偵が若いころ経験してきたような地獄に、君が踏み込んでいくのです。
 それでも――歩み続けますか?」

その真剣さにと凄みに、気圧される安理。
胸を貫いてくるような問い。

神父も、かつて地獄に触れたのかもしれない。
そんな想いがよぎる。
けれど、答えは決まっている。
落ち着き、口を開く。

719青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:29:48 ID:ARwh4AzQ0


「それでも――――歩むよ。
 今までこの刑務作業で色々な人と関わって。
 何かをしたいと、ボクは思っている。
 そういう自信を、みんなから貰ったんだと思う。
 生温い環境で育ってきたボクには、それが心に重くのしかかって苦しくなることもあるかもしれないけれど」

そう、自分は弱い存在だ。
しかし一度、重い挫折を味わって。
それを受け入れて、その上で。

「こんなにも自分が嫌いで、色々なことを恐れているボクだけど。
 それでもしっかり目的を決めて歩んでいくということは。
 自分を大事にしない、軽く扱うってこととは、また違うと思う気がする。
 だから――――」



――――――――


 ◇


――――――――



「さて、もう充分動ける程度まで身体は回復したでしょうか?」
「ええ。神父さんがいたから、安心して身体を労れました。
 本当に、本当に、ありがとうございます」

柔らかく響き染み渡る神父の声。
立ち上がった安理。
身体のコンディションも良くなった。痛みも和らいできた。
今なら、また氷龍になることもできそうだ。
そう、落ち着いたのは身体だけではなく、心も。

「ボクは、もともとの予定通り灯台へ向かおうと思います。
 イグナシオさんが無事にに向かってきてくれると、信じて」
「そうですか。
 神(わたし)は一度、地図の中央のブラックペンタゴンに向かおうと考えております。
 多くの人々と出会い、導かねばなりませんから。
 人が集まるであろう場に向かおうと、指針を定めました」

安理は――――寂しげな顔になる。
名残惜しくなる。助けて貰った。自信をもらった。
しかしここで、分かれてしまう。
それを見た神父は。

「もし宜しければ、灯台の前に少し脇道となりますが共にブラックペンタゴンに赴きませんか?
 あの場には、この会場の秘密に関した何かがある可能性があるのでは?」
「そうですけれど――――えっ、何故そんなことを」
「いえいえ、君が探偵をやりたいと言ったから、それに応じたことを話したまで」

安理はこの会場の秘密を、殺し合いの目的の真実を探っているという事を、神父に話してはいない。
積極的に誰かを巻き込むつもりはないからだ。
しかし今までイグナシオが探偵として動いてきたというならば、すぐに神父もその程度の目的は察する。

「こちらとしても、同行者がいると有り難いのですよ。
 もう一度会わなければならないと考えている方が、神(わたし)にはおります。
 争いになるやもしれません。
 君を巻き込む形にはなってしまいますが、それならば二人でいた方が良い」

思いがけない提案。
一緒にいると、確かに心強いけれど。

「少し考えても、いいですか?」
「ええ、もちろん」



――――――――


 ◇


――――――――

720青龍木の花咲いていた頃 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:30:04 ID:ARwh4AzQ0



神父は多くの人間を導いてきた。そして利用もしてきた。
今も安理を導いて、そして利用しようともしている。
しかし、教会にいたころの一部信徒や、アビスの看守の一部といった心酔する信者の利用とは少し違う。

神父と話していくうち。
自分の中の神とどうしても向き合えないものは、神を新たに作ろうとする、得ようとすることがある。
神(わたし)を、神として自己の中に置こうとする者も、現れる。
そうして手駒のように動く人物を、増やしていったのだった。

安理は違う。
神に向き合う手がかりは、すでに得ている。
それでも神父の話術ならば、いくらでもマインドコントロールして心酔させ手駒にはできたであろう。
イグナシオの立場と同じように、安理を自分に惹かせることなど幾らでもできただろう。
しかしそれを行うことは、なかった。


さて。
神父が考えることは安理を導くことだけでは、無い。
もし彼が、今後――上手く精神の方向を定められず救いようのない存在に転じるようなら。

始末する。神の意志として。
それが、使命であるから。
救済の手は、必要とあれば裁くためにも振るわれる――静かに、確かに。



【F-4/草原(西部)/一日目・午前】
【北鈴 安理】
[状態]:顎と脳にダメージ、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:自分の罪滅ぼしになる行動がしたい。自分なりに、調査を進め弱い人を助ける探偵として動きたい
0.夜上神父と共に、ブラックペンタゴンへ向かうか決める。
1.イグナシオとの待ち合わせのため、灯台へ向かう。無事を祈る。
2.バルタザールがまだ破壊の限りを尽くすようなら、被害をできるだけ抑えたい。
3.本当に恩赦が必要な人間がいるなら、最後に殺されてポイントを渡してもいい。けれど、今はもう少し考えたい。
4.常時発動能力に変質できるなら、したい。でも、心がそう納得してくれない。
※イグナシオの過去、大金卸とのあらましについて断片的に知りました。少なくとも回想で書かれた全てを聞いているわけではありません。
 まだ聞いていない部分について、今後間違った妄想や考察をする可能性もあります。
※彼の超力は、子供らしい不安定な状態を未だに抱えています。今後変質していく可能性が高いです。

【夜上 神一郎】
[状態]:多少の擦り傷
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本:救われるべき者に救いを。救われざるべき者に死を。
0.人が集まるであろうブラックペンタゴンへ向かう。ルメスが調査のため向かったかもしれない。それなら”鉄の騎士”もいるだろう。
1.なるべく多くの人と対話し審判を下す。
2.できれば恩赦を受けて、もう一度娑婆で審判を下したい。
3.あの巡礼者に試練は与えられ、あれは神の試練となりました。乗り越えられるかは試練を受けたもの次第ですね。誰であろうと。
4.“鉄の騎士”は、いずれ裁く。
5.バルタザールの動向に興味。いずれ対話し審判を下したい。
※刑務官からの懺悔を聞く機会もあり色々と便宜を図ってもらっているようです。
 ポケットガンの他にも何か持ち込めているかもしれません。

721 ◆koGa1VV8Rw:2025/07/29(火) 03:30:19 ID:ARwh4AzQ0
投下終了です

722 ◆H3bky6/SCY:2025/07/29(火) 20:32:56 ID:VkmLIO6k0
投下乙です

>青龍木の花咲いていた頃

神父がしかっりとメンターをやっている!?
神父がずっと優しいのに、ちゃんと詰めるとこ詰めてくるの怖い。反社たちとは別種の怖さがある
いつの間にか話したくなくとも話させられてる感じが、これはもはやカウンセリングじゃなくて尋問では?

安理くん、罪の自覚が深すぎて幸せになっちゃいけない病にかかってますねぇ……
いろんな出会いで好転してから上げて落とされたから仕方ないけれど、りんかもそうだけど罪悪感で自罰ループに入ってる人間は自己犠牲に走りがち

安理くんの起こした事件の詳細は支配欲・性欲・承認欲の交錯によって起きた大事故。
思春期にありがちな悩みなんだけど、暴力のチケットを持ったネイティブ世代だからこそ実行出来てしまった事件でもある
本人の自覚している通りどうしようもないのはその通りだけど、めちゃくちゃ人間なんだよな……

氷龍でいたいって願いが、ただの願望じゃなくて救済願望と表裏一体になっている
常時発動型になれたら幸せだけど、なっちゃいけないって自己抑制働いてるのが悲しい所

これまでの出会いが彼を責め立てる重荷にもなったけど、それでも生きるって答えを出せたのもこれまでの出会いのおかげ
探偵を目指すという結論はイグナシオの意志を継いでいてうれしい

神父との対話を経て一皮むけた感がある
一見すればいい人だなー、と思うが、この神父最終的に安理がヤバい方向行ったら始末する気マンマンである

この2人もブラペンに向かう事になったか、地獄の様な様相となっているブラペンに辿りついてどうなるのか

723 ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:28:29 ID:DH0FMjMI0
投下します

724Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:30:17 ID:DH0FMjMI0
ブラックペンタゴン。
征十郎とタチアナの二人は北西ブロックの集荷エリアから離れ、ひっそりと北東エリアの外周部へと移動していた。
どうやらここは空調や給排水設備室などを管理する機械室のようだ。

機械室は設備や機械類が雑多に並んでいて死角も多い。
ここなら当面の安全は確保できる。そう判断し、ようやく身体を落ち着ける。

本来であれば、この混乱に乗じてブラックペンタゴンを脱出するのが最善の選択だった。
だが、その唯一の脱出口は、他ならぬタチアナ自身の手によって破壊されていた。

コンクリート壁にもたれ、タチアナは静かに息を吐いた。
その隣では、征十郎が少し距離を空けて腰を下ろす。
痛む身体を無理やりなだめながら、やがて口を開いた。

「――して、あの村で何があった?」

色あせた昔話。
何気ない様子で投げかけられた言葉は真実、重い問いだった。
それに応えるタチアナは、ゆっくりと視線を征十郎に向ける。

「逆に確認するんだけどさ。征タンって、どこまで知ってんの? 一応、村の関係者ではあったわけでしょ?
 なんか……特別な情報が降ってきたりしてない感じ?」

口調は軽いが、その声には伺うような慎重さがにじんでいる。

「生憎とほとんど知らんな。私が知っていることなど、教科書に載っている知識と大差ないさ。
 一時期は自分で調べもしたたが、ネットにある情報はどれも断片的で曖昧なものばかりだった。
 無論、ああなる前の山折村の話なら別だがな」

かつて、生物災害によって一夜にして壊滅したとされる村。
現代における超力社会の礎――そう評されることもあるその村で、何が起こったのか。
その真実を知る者は少ない。今なおもなお立ち入りが禁じられており、多くが謎に包まれている。

征十郎にとっては、六歳までの幼少期を過ごした故郷。
その後アメリカへ渡った後も、何度か里帰りをした土地であり、二人の因縁が交わる忌まわしい記憶の根源でもあった。
何の変哲もない山深い田舎だったが、征十郎が離れた辺りを機に開発計画が進んでいたらしく、帰るたびに少しずつ景観が変わっていくことに子ども心に不気味さを覚えた記憶がある。

「ふーん、じゃあ……その辺からか」

タチアナは小さく相槌を打つ。
その目から茶化すような色が抜け落ち、真剣な瞳で征十郎を見据えた。

「……たぶん、征タンにとってはキツい内容になると思う。それでも……聞く?」

どこか気遣うような問い。
だが、征十郎の返答に迷いはなかった。

「無論だ。祖父たちが何故、あのような凶行に及んだのか――八柳の人間として私はそれを、知らなければならない」

ネットに出回る八柳流の剣士が村人を次々と惨殺していく映像。
開祖の血を引き、現代に生きる八柳流の使い手として、征十郎は真相を知らねばならない。
その固い意志を見て、タチアナは肩をすくめた。

「先に言っとくけど、私の知識はあの『永遠の国(ネバーランド)』を支配する女王から与えられたものだから、征タンのお爺ちゃんたちの本心までは分かんないよ?
 私が語れるのは、あくまでそいつの主観が混ざった主観的な事実ってヤツ?」

彼女が持つ情報は、あくまでも第三者の視点による記録だ。
想いや葛藤といった内面までは計り知れないし、立場の違いによる偏見も入るだろう。

「構わん。それでも、何も知らぬよりは遥かにいい」

征十郎の覚悟を確認し、タチアナは静かに頷いた。

「では、改めて聞かせてもらうぞ、あの村の真実を。
 何故祖父たちは村人を虐殺したのか。そもそも、お前を縛り付けていた永遠の国とは何だ? そして、女王とは何者だ?」

征十郎は真実を求めていた。
問いが次々と矢継ぎ早に浮かび上がる。
その問いに、かつて『永遠』に囚われていた少女が応じる。

725Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:30:35 ID:DH0FMjMI0
「『永遠の国』。それはね――ひとりの少女が願った、美(おぞま)しき世界。
 あらゆる生と死を飲み込み、永遠に踊り続ける死者たちで作り上げた黒いアリスの夢の国。
 その黒いアリスの名は――――虎尾茶子。知ってるでしょう?」
「……ああ。知っているとも」

――――虎尾茶子。

八柳新陰流の姉弟子。
姉弟子と言っても、征十郎が本格的に八柳流を収めたのはアメリカにわたってからの事なので、同じ道場で汗を流した記憶はないのだが。
それでも祖父の道場に遊びに行くたび、従兄弟の哉太兄と共に可愛がられた記憶はある。

征十郎が村を離れた頃、彼女は十八歳だった。
当時の時点で門下の中では沙門天二に次ぐ実力者で、天才と称されていたように記憶している。

「……ということは、つまり、茶子姉が…………?」
「そう。彼女は山折村に『永遠』を願った。そしてその願いによって、『永遠の国』が生まれちゃったんだよねぇ」

滅びゆく村を永遠にしたい。
そう村を愛する少女の願った純白の夢。
それこそが、タチアナを長らく縛り付けていた『永遠』の正体。
だが、その言葉に、征十郎は眉をひそめた。

「いや、待て。願ったと言っても、願ったところで、それが叶うものではあるまい」

どのような願いであれ、願っただけで叶えられるのなら苦労はしない。
ましてや『永遠』などと言う、曖昧で壮大すぎる概念。
願っただけで叶うなどありえない事だ。
そんな征十郎の疑問に対して、タチアナも同意を示した。

「それはその通り。でもね、その願いに応える『力』が、あの村には存在していたんだよ」

願いを叶える力。
あの何の変哲もない山村に、世界を変えるような力があった。
だが、平和だった山折村を知っているからこそ、征十郎にはその言葉がにわかに信じられなかった。

「確か……山折村では、超力の原型となる研究が進められていたと聞く。まさか、それの事か……?」

現代社会における『超力(ネオス)』という特異な力。
その源流となる研究が山折村で行われていたと言うのは歴史的事実だ。
それが関わっているのなら、異常な出来事が起きたとしても不思議ではない。

だが、それでも『永遠』を叶えるなど、スケールが余りにも大きすぎる気がする。
少なくとも、征十郎の知る超力の規模には収まっていない。
どうにも納得しきれずにいる征十郎に、タチアナは軽く手を振った。

「うーん。まったく無関係ってわけじゃないけど、ちょっと違うというか……複雑なんよね、その辺。
 しゃーない、ちょい長くなるけど、順を追って説明するとしますか」

重い腰を上げる様に、コホンと、わざとらしく咳払いを一つ。

「まずは、600年前。知られざる村の歴史からお話しましょう」
「……おいおい、どこまで遡るつもりだ」
「いや、マジで大事なとこだから。適当に聞いてると話に置いてかれるよ?」

突っ込みを入れる征十郎だったが、そう言われては引き下がらざるを得ない。
その真剣な目を見て、嘘や冗談の類ではないと悟り、小さくため息を吐き頷いた。

「むか〜しむかし、今からおよそ六百年前――室町の時代から、お話は始まるのです」

まるで物語の語り部のように、タチアナは声の調子を変えて語り始める。
この戦いの根幹に連なる、忘れられた真実。
征十郎の過去、そして茶子の願い、山折村という呪われた地の発端を解き明かす、始まりの物語だった。



726Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:30:59 ID:DH0FMjMI0
時は、室町――。

飛騨の深い山々に抱かれた谷の奥。
世間の目から逃れるようにして、ひっそりと佇む小さな集落が存在していました。

その名は『隠山の里』。
外界との往来はほとんどなく、閉ざされた時間の中で独自の文化と信仰を守り続ける隠れ里でした。

その里には、神に祈りを捧げる一人の美しい巫女が住んでおりました。名を隠山祈と申します。
彼女は天の声を聞き、神前で舞を奉じる、神託巫女として選ばれた存在でした。
里人の誰もが、彼女を神の代弁者と崇めていたのです。

けれど、当の本人はそんな大役にまるで乗り気ではありませんでした。
木に登って獣を追い、男の子たちと棒切れでチャンバラごっこをして遊ぶような、お転婆そのものの娘。
神前の舞よりも、狩りや相撲が好きというやんちゃ巫女だったのです。

そんなある日のことでした。
京の都から一人の役人が、この隠れ里を訪れることになりました。

その若き役人の名を神楽春陽といいます。
彼は朝廷の命を受けた陰陽師であり、飛騨に災厄の兆しありと見て、その調査と対策のために派遣されたのです。

華の都より役人が来ると言う噂に祈は心を躍らせました。
都への憧れも手伝って、居ても立っても居られず弓を片手にひとり山を越えて彼を迎えに出ます。
ところが、山道に出た祈が出くわしたのは、春陽を乗せた牛車の一行が凶暴な大熊に襲われている場面でした。

祈は一切の躊躇なく弓を引き絞り、的確に矢を放ちます。
鋭く放たれた一矢は急所を貫き、見事熊を仕留めました。

堂々と牛車の前に躍り出た祈は、得意げに名乗りを上げる。
しかし、その牛車から現れた青年は、なかなかに口の悪いお方で、祈のことを野猿だの猿顔だなんて言い出す始末。
祈は当然怒り心頭。大喧嘩になりかけたが、皮肉にもこの最悪な出会いが、二人の運命を結びつけることになるのでした。
――うーん、アオハルですねぇ。

それから幾星霜。
春陽と祈は人目を忍びながらも逢瀬を重ね、次第に心を通わせるようになっていきました。

そしてある晩、ふたりが山中で逢引の最中にそれはおこりました。
空がピカリと裂けて、そこから一人の赤子と一羽の白いうさぎが落ちてきたのです。

その赤子は、白い髪と金色の瞳を持ち、神々しい気配を身にまとう、不思議な存在でした。
それもそのはず、その子は異世界から漂流してきた、魔王と女神の間に生まれた娘だったのです。

おい、ちょっと待て。いきなり世界観変わったな。



「何よもー。征タン、話の腰を折らないでよね」

語りを遮られたタチアナが、不満げに口を尖らせる。

「いや、なんだ魔王と女神って。日本の昔話からいきなりジャンルが変わりすぎだろ」
「私に言われても事実なんだから仕方ないじゃんかさー」

ぶーたれるタチアナに、征十郎は頭を抱えたくなる。

「つーか。超力が暴れまわる時代なんだから、異世界くらい今更しょ?」
「そう……いうものか……?」

異能力も異世界も、開闢以前は同列の幻想だったかもしれない。
だが、超力と言う異能が当然となった世界でも、異世界は未知の領域だ。
それを同列と考えるかどうかは、この辺は個人の感覚の違いだろう。
未だに飲み込めていない顔をした征十郎に、タチアナはやれやれと言った風に説明を補足する。

「なんでも、山折村は異世界と位相的に近いらしくって、チェンジリング――日本だと神隠しだっけ?――が起きやすい場所らしいよ?
 あ。ここ重要だかんね、覚えといて」

テストに出るよ、とばかりに指を立てるタチアナ。
それを聞いて心当たりがあったのか、ハッとした顔をして征十郎は僅かに考え込む。

「そういえば……昔、村長の兄か弟だかが神隠しにあったとか、大人たちが話してた気がするな」

征十郎が思い出すのは、幼い頃に聞いた噂話。
内容もあやふやで、真偽は確かめようもない話だが、まさか本当だったのだろうか?

「納得できた? ならじゃあとりま、続き行くよ〜」

軽く喉を整えると、タチアナは続きを語り始める。



727Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:31:53 ID:DH0FMjMI0
白兎とともに天より落ちてきた赤子は、春陽に引き取られ、彼の養女として迎えられることとなりました。
神楽の姓を与えられたその子は、神楽うさぎと名付けられます。

春陽と祈、そしてうさぎ。
三人はまるで本当の家族のように、穏やかで温かな日々を紡いでいきます。

人の子ならざるうさぎは、常人とは異なる成長速度で、瞬く間に赤子から童子の姿へと変わっていきました。
けれど、祈と春陽はその異質を恐れず、むしろ我が子のように深く慈しみ、変わらぬ愛情を注ぎ続けました。

しかし、蜜月は長くは続きませんでした。
そもそも春陽がこの地を訪れたのは、飛騨の山中に災厄の気配があると察知したため。
山々に囲まれた地形は瘴気や厄災を溜め込みやすく、隠山の里は文字通り厄の沈殿地と化していました。

これを封じるためには、山に風穴を開け、外へと厄を逃がす大規模な地脈調整と封印術式が必要だったのです。
その準備と勅許の手続きを進めるため、春陽は都へと一時帰還を余儀なくされます。

そして――春陽が都へ戻り不在にしていたわずかな期間に、二つの災いが起きました。

その頃、飛騨一帯では不老不死の尼――八尾比丘尼の噂が密かに広まりつつありました。
各地で目撃されるというその存在は、まことしやかに語られ、人魚の肉を食して不老不死を得たという伝承と共に、人々の欲望を煽っていました。
そんな中、白髪と金色の瞳を持ち、年齢に見合わぬ成長速度を持つ少女の存在が、役人たちの耳に入ってしまいます。

彼女こそが八尾比丘尼ではないのか?
そう決めつけた役人たちは、学術調査と称して彼女を里から連れ出し、そのまま連れ去ってしまった。

目的はひとつ。
不老不死の肉を得ること。

人魚の肉を食べ不老不死を得た八尾比丘尼。ではその肉を喰らえば?
そう考えた役人たちは、うさぎを生きたまま解体し、その肉を用いて死者すら蘇るとされる『不死の妙薬』を作り上げてしまいまた。

その報を都で聞いた春陽は、我を忘れるほどに激昂しました。
すぐさま飛騨へと引き返すと、彼は関係した役人たちを一人残らず呪い殺します。
そして、各地に散らばったうさぎの亡骸を血眼になって集め、失意のまま隠山の里へと帰還します。

――しかし、そこで彼を待っていたのは、さらなる地獄でした。

予見されていた災厄――天然痘の疫病が里を襲い、瞬く間に蔓延していたのです。

疫病の蔓延。
里の者たちは、感染者を『穢れ』と見なし、病人たちを、山の岩戸の中へと閉じ込めていました。
穢れは忌むべきもの。良くないモノから名を奪い、存在をなかったことにする。
それがこの地に根づいていた古き信仰であり、残酷な掟だったのです。

祈は疫病に倒れ、岩戸に封じられました。
祈を慕う彼女の弟と妹は、姉を追って自ら岩戸へと入り、献身的に看病を続けました。
祈は病に伏しながらも、ただひたすら春陽の帰還を信じ待ち続けます。
けれど、春陽は何時まで経っても帰りはしませんでした。

その頃、春陽は娘の亡骸を集めの真っ最中だったのです。
しかしそのような事情は辺鄙な里へは露も届くことはありません。

やがて、弟妹も疫病に倒れ、命を落とします。
すべてを失った祈は、狂乱の淵に沈みました。
祈は春陽から贈られた翡翠の簪を砕き、岩戸の奥で、憎しみと絶望、そして何時までも戻らぬ春陽に呪詛の言葉を幾度となく叫び続けました。

728Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:32:09 ID:DH0FMjMI0
そうして、春陽が里に戻ったとき――すべては、すでに手遅れでした。
疫病によって村は壊滅寸前、わずかに生き残った村人たちも、祈たちの居所については一様に固く口をと閉ざすばかり。
春陽が自力で居所を突き止め岩戸を開いたが、中では祈を含む疫病患者の全員が息絶えていたのです。

沈黙する死の村を前に、春陽は打ちひしがれました。
しかし、深い絶望に沈む春陽の手元には『不死の妙薬』が握られていました。
それは死者を生き返らせる事すらできると噂される奇跡の『妙薬』。

迷いと苦悩の果て、春陽は決断します。
この『妙薬』を使い、疫病で死亡した村人たちを蘇らせることを。
蘇った村人たちは疫病に対する抗体を持ち、こうして疫病の流行は収束へと向かいました。

里を救われました。
しかし、それは生き残った村人にとっては教義に反する、あってはならない奇跡でした。
死者は穢れ。岩戸に葬られ、存在を消されたはずの者が、甦ったのです。
それは、村の掟を覆す背徳に他なりません。

この矛盾を押し隠すため、村人たちは一つの解釈に縋ります。
この不都合な奇跡を起こしたのは、村人たち自身が穢れとして切り捨てた、あの祈が呪いとして蘇ったのだと。
こうして祈は、村の悪神として祀られるようになりました。

そして、当の隠山祈もまた人ならざる者へと堕ちていました。
岩戸の中で怨念と呪詛に塗れた祈の魂だけは、妙薬の効力を拒絶しました。
自分たちを裏切り、存在をなかったことにした村人たちへの憎悪。
その怒りと呪いは岩戸から広がり、やがて村そのものに根を張る祟り神となったのです。

そして、真実を知る春陽もまた、この奇跡の真実を語ることができませんでした。
何せ娘の『遺体』を使った禁忌の奇跡、真実など口にできようはずもありません。
子の奇跡によって蘇生し救われた村人たちもまたこの奇跡を祈り巫女、隠山祈が起こしたのだと考え彼女を善神として崇めました。
その信仰は身を裂かれ妙薬となった神楽うさぎの魂へと捧げられ、村を救い奇跡をもたらした善神として語り継がれました。

こうして、善と悪、ふたつの魂は、ひとつの名のもとに祀られることとなりました。

その名こそが『イヌヤマイノリ』。
これを鎮めるために始まった儀式こそ、山折村に代々伝わる『鳥獣慰霊祭』の原型となったのでした。
これが、山折村の絶対禁忌、災厄誕生の真実だったのです。

おしまい――☆彡。



「いや、“☆彡”じゃないだろ……」

血と呪いに塗れた村の歴史を語り終えたあとにしては、あまりに軽すぎる締めだった。
ギャルの皮もテロリストの皮も剥がれたタチアナもこの調子である。
元からこういう奴だったのかもしれない。征十郎はそんな事を思った。

「村に隠された禁忌の歴史。それは理解した。
 だが、私の聞きたかった話とどう繋がる?」

山折で生まれた征十郎をしても初耳の、隠された歴史である。
村の出身者として興味深い話ではあったが、征十郎が知りたかったのは八柳が凶行に至った27年前の真実である。
600年前の真実ではない。

「あら、つれない。山折村の連中は黄泉返りしたゾンビの子孫だったつー話だけど。子孫として感想とかないのぉ?」
「特にないな。私は私だ。たとえ先祖が何であろうと、それが今の自分を規定する理由にはならない。
 何を斬るか、何を背負うかが問題だ。開闢以前ならいざ知らず、今の時代の気にするような事でもあるまい」
「ま。そんなもんだよねぇ」

今は超常が日常に入り込んだ超力社会。価値観はアップデートされている。
血筋や生まれに過剰な意味を求める時代ではない。
征十郎が過去の出来事に拘るのは己が信念に寄るものだ。
むしろ、幼い頃、毎年心待ちにしていた『鳥獣慰霊祭』が、そんな血塗られた因縁から始まったものだったという事実のほうが、少しばかりショックだったくらいだ。

「だが、祖父は――八柳藤次郎は違ったという事か? 山折に流れる血を穢れたものとして、粛清を決意したという事か?」

穢れを一人の少女に押し付けた醜悪な村人たち。
少女の死肉により黄泉返った村人たち。
双方が罪人であり、山折村の人間はその血を引いているのだ。
藤次郎はそれが許せなかったのだろうか?

「気が早いねぇ、征タンは。話はまだ途中だよ?」

タチアナは、口元に皮肉めいた笑みを浮かべる。
征十郎の追及を軽く受け流すように、肩を揺らしてみせた。

「語られていない村の歴史には――まだ、続きがある」

そう言うと、タチアナの声色がふっと変わった。
先ほどの民話調とも違う、今度は怪談のような口調で語り始めた。

「――時は、第二次世界大戦中。
 舞台は再び、明治に名を山折と改めた山折村で起きた、もうひとつの禁忌のお話でぇございます」



729Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:32:28 ID:DH0FMjMI0
時は、第二次世界大戦の最中――。

その戦火の陰で、山折村では旧日本陸軍による極秘実験が行われておりました。
それは、人道を踏み越え、理を冒し、神域にすら手を伸ばす、許されざる禁忌の業。
決して世に知られてはならぬ闇の研究でございます。

この村が実験地に選ばれた背景には、ひとりの男の存在がありました。
陸軍軍医中将・山折軍丞。

彼はこの地の出身であり、山折村の名士でもありました。
軍丞は自らの故郷である村を提供し、自ら主導して軍の非公開研究を推し進めました。
村の名士であった彼の命令には誰も逆らえず、村ぐるみでその協力体制が敷かれていたそうです。

研究施設は二棟に分かれて設けられておりました。
一つは、表向きには療養所を装った『第一実験棟』。
もう一つは、山中の洞窟に隠されていた『第二実験棟』。

まず、第一実験棟。通称『マルタ実験場』。
マルタというのは当時、軍が人体実験の被験者に用いた隠語でございました。
731部隊をはじめ、幾度となく歴史の暗部に沈んだその名が、山折村でも囁かれていたのです。

つまり、行われていたのはれっきとした人体実験。
人間をただの材料と見做し、尊厳も命も切り捨てる残酷な実験が日常的に行われていたわけでございます。
こわいですねぇ……恐ろしいですねぇ……。

その研究テーマは『不死』。
死なない兵力を生み出すことを目的に、あらゆる手段が講じられていました。

老化を抑制する細菌の投与。
戦死体への霊降ろしによる蘇生試験。
他人の臓器や肉体を強引に縫合し、生命機能の延命を試みた死体融合。
挙げ句には、生体脳の摘出と再接続による意識の再固定まで行われていたとされます。
まさに……鬼畜の所業にございました。

ですが、それ以上に異常な実験が、もう一方の『第二実験棟』で進められていたのです。
それは――『異世界』との接触を目指した研究でございました。

荒唐無稽と笑う方もおられるでしょう。
けれど、戦局が末期に向かうにつれ、日本軍は常識を超えた手段にすがるようになっておりました。
物資も兵力も底を尽き、この世界の資源ではもはや足りぬ。
ならば、異なる位相――異世界からそれを引き出すしかない。

先ほど少し説明いたしましたが、山折村には古来より神隠しや漂流物といった伝承が多く残っておりました。
軍はそれを分析し、この村が異界との境界に位置していると仮定。
特に位相の歪みが顕著な地点に、第二実験棟を建設し、扉を開く実験に踏み切ったのです。

――そして、ついに。
時は一九四五年 八月六日。
その日、一つの大きな事件……いいえ、事故が発生いたしました。

異界の扉は、開かれてしまったのです。
扉の向こうから呼んではならぬ『何か』が、この世界に流入してきました。

結果として、第二実験棟は跡形もなく消失。
周囲の空間ごと、建物はぽっかりと消えてしまいました。
……その後に残ったのは、妙に広く不自然な空洞。

後年、それは村の子どもたちの遊び場となったそうで……。
征十郎さん、あなたも記憶にございますでしょう? あの、山の中の不自然に広い穴のこと。

そして、まさにその同時刻。
第一実験棟でも異変が起きておりました。

なんと、進行中だった『死者蘇生』実験が成功してしまったのです。

行なわれていたのは、戦死した兵士の遺体に『神』を降ろすというオカルト的な降霊術でした。
けれど、降りてきたのは神ではなく――『魔王』、でございました。

その魔王の名は『アルシェル』。
第二実験棟の事故により、異世界から流れ込んできた支配者でございます。

彼が取り憑いたのは、烏宿 亜紀彦という戦死者の亡骸でした。
その身体を器として、魔王はこの世界に顕現したのです。

とはいえ、実験成功の数日後、ほどなくして日本は無条件降伏を受け入れ、大戦は幕を閉じます。
実験成果は正式に軍事利用されることなく、施設は解体、関係資料も多くが処分されました。
事実は、深い闇へと葬られたのです。

――しかし、それで話は終りではないのです。

戦後、一部の研究者たちは姿を隠しながらも、研究を続けていたのです。
魔王アルシェルと取引し、生活を保障する代わり、その力を借り受けました。

不老不死という宿願の果て。
元々研究されていた細菌による肉体の抑制と、魔王の齎した魔法による魂の定着。
魔法と科学が結晶した魔科の産物としてその研究は完成したのです。

そうして『終里 元』という不老不死の怪物が生まれたのでした。

終里元は人でありながら菌と魔法によって構成された人ならざる存在。
そんな彼の細胞を元に精製されたのが、後に山折村に流出した『HEウイルス』だったのです。
あの『開闢の日』。私たちに適用された『HEUウイルス』の大本であり、超力の根源こそが、この忌まわしき魔そのものだったのです。



730Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:32:45 ID:DH0FMjMI0
「これが、山折村に隠されたもう一つの闇の歴史。信じるか信じないかはぁ……あなた次第です」

怪談みたいな締めくくりをする。
語尾には、確かに寒気のような余韻が残った。

「…………待て。終里元だと?」

予想外の名に、征十郎が思わず反応してしまった。

「あぁ。世間に疎い征タンでも、流石に知ってるか」
「当然だろう、GPA長官の名前くらいは知っている。それが不老不死の怪物だと?」
「まあ、そこは今の話とあんま関係ない所だから、そこは追々ね」

タチアナが軽く話題を制する。
ともあれ、これで山折の歴史は語られた。

祟り神を生んだ呪われた始まり。
戦時に村ぐるみで行われた非人道的実験。
そして、現代に至るまで脈々と繋がる異質なる力の連鎖。

現代社会の礎とされている超力。
山折村の地下で行われていた研究が発展したからとされていたが、真実はそれ以上に深く根っこの部分から繋がっていた。
超力が純粋な科学の発展によって得られたものでなく、異界の魔と戦時の狂気によって齎された産物だったなど誰が思おう。
ヤマオリと言う言葉が、ただの地名を超えた意味を持ってるのも頷ける話だ。

しばしの沈黙。
征十郎はやがてぽつりと呟いた。

「……つまり、祖父はこの歴史の闇に触れてしまった、ということか?」
「さぁね。それは分かんない。
 最初に言った通り。私には征タンのお爺ちゃんがどこまで知っててどの真実が引き金になったのかまでは分からない。
 でも――あの村には、理性を飛ばしてしまってもおかしくない理由が山ほどあった。それだけは、確か」

征十郎の祖父、八柳 藤次郎。
二十七年前。正義を重んじ、剣に生きた男が、なぜ村人を皆殺しにしようとしたのか。
そこにどれほどの絶望があったのか。征十郎は目を伏せ、逡巡を滲ませた静かな声音で言葉を紡ぐ。

「……穢れを赦せぬ高潔さ。いや……それは潔癖ゆえの、狂気に近い正義だったのかもしれん」

その呟きに、タチアナが思わず眉をひそめる。

「ん? んー……そんないいもんじゃないと思うけどなぁ?」

彼女は肩をすくめ、やや呆れたように返す。
だが、征十郎はその言葉を気にする様子もなく、ただ静かに頷いた。

「いいさ。私なりに納得は得られた。
 人斬りの是非ついて問える立場でもないしな。
 譲れぬ理由がその根幹にあると知れただけでもよい」

知った所で八柳流に塗られた汚名が晴れるわけではない。
けれど、自分が唯一その流派を継ぐ者として、背負うべき理由がようやく見えた。

「ふーん。ま、征タンが納得したんなら、いいけどさ。やっぱ征タンもネジが飛んでんねぇ」
「何を言う、私は常識人だ」

タチアナは戯言に取り合わず、ひらひらと手を振って話題を切り替える。

「じゃ、歴史のおさらいはここまで。忘れてない? 本題はここからだからね?」
「……ああ。分かっている。お前が囚われた『永遠』の話だったな」

あの日、あの村で何があったのか。
ここから永遠へと繋がる話が紐解かれていく。



731Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:33:02 ID:DH0FMjMI0
山折村――。

それは生物災害によって滅びた、『超力社会の原点』とされる村。
その生物災害は未曽有の大地震によって発生した天災、とされているけど、真実は、まるで違う。

その実態は、研究所内の急進派が引き起こした、計画的なテロだった。
テロ組織を扇動し研究中のウイルスによる生物災害を意図的に引き起こし、事故に見せかけた人体実験を行うのが目的だった。

その急進派の一員が、世界を繋げた英雄として知られる男――未名崎錬。実際の所しょっぱい研究員の一人だったみたいよ?
そして急進派を率いていたのは、研究所の副部長である烏宿暁彦。そう、魔王の依り代だった烏宿亜紀彦が名を変え研究所に潜り込んでた姿。

――すべては、人間の世界を弄び、破滅を望む魔王の企てだった。

だが、恐るべきはそれだけではなかった。
研究所の上層部は、この魔王の計画を既に把握していた。
だけど、その計画を止めることなく黙認することで、その動きを利用したの。

その目的は、秘密裏に進められていた『Z計画』を全世界に公表する事。

超新星爆発による世界滅亡の危機。
この『Zディ』と呼ばれる滅びの日を回避するために立ち上げられたのが『Z計画』。
現在は公になった計画だけど、当時は世界の混乱を避けるため情報を秘匿し秘密裏に行われていた。
各国は協調路線をとることはなく、成功の報酬を独占するため独自開発を続けていた。

約束された滅びの日を間近にしながら利権を争い、手を取り合う事をしなかった。
そんな人類の目を覚ますための劇薬として、山折村は捧げられた。
その目論見がどうなったかはまあ、ご存じの通りって感じだけどね。

村中にバラまかれたのは研究所の所長となった終里元の細胞を元にした『HEウイルス』。
現在、私たちに感染している完成品と違って、未完成のウイルスは適合者に失敗すると人格も記憶が崩れたゾンビみたいに自我のない存在に変えてしまう副作用があった。
当時の正常感染率は5%程度、村人の95%はゾンビになってしまった。マジエグいよねー?

そして、ウイルスには女王菌と呼ばれる中枢個体が存在していた。
全ウイルスを支配する統括個体がたった一体だけ存在し、女王菌に感染した女王感染者を殺せば感染全体を鎮圧できる。
この情報が、研究所から意図的に村内へリークされた。
その結果、村人同士の間に疑心暗鬼が広がり、女王感染者なのかをめぐって殺し合いが始まった。

同時に、情報封鎖と事態の根絶を目的として、自衛隊の秘密特殊部隊が山折村に展開される。
目的は誰ともわからない女王の暗殺、つまりそれが見つかるまで村人の皆殺し。
彼らの任務はバイオハザードを山折村で留める事が第一であって、村人の命は考慮されなかった。
そして、彼らは人知れず訓練された世界最高レベルの超精鋭、とんでもない強さだったらしいよ?

さらに追い打ちをかけるように、何でか感染した野生動物が狂暴化して暴れまわり。
その上、征タンのお爺までが、村人の皆殺しを目論んで動き始めていた。
いやもう、説明してるだけも、いろいろと状況詰み過ぎっしょ。ウケる。

村はもはや戦場を超えた地獄の有り様だった。
村内の殺し合いは激化し、多くの死が積み重なった。
そうした中、最悪の事態が訪れる。

村長の息子――山折 圭介。
彼は混乱の中で最愛の恋人を失い、深い絶望に沈んでいた。

その心の闇に魔王アルシェルが呼応したの。
烏宿暁彦に取り憑いていた魔王はその体を捨て、山折圭介を器として乗り換えた。

そうして――山折村に、魔王が顕現したの。



732Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:33:26 ID:DH0FMjMI0
「おお、ついに魔王のご登場か。面白くなってきたな」
「……何か、もう普通にお話として楽しんでるねぇ、征タン」

私的なる心のしこりが和らいだからなのか。
あるいは、ただ単に長話にそろそろ飽きてきただけなのか。
征十郎は愉快そうに相槌を打つ。

「で、その魔王アルシェルを撃退したのが――虎尾茶子、八柳哉太を中心とした山折村の面々だった」
「ふむぅ。さすがは我が姉弟子に兄弟子……八柳流の面目躍如だな」

征十郎はうむうむと誇らしげに頷き、流派の誇りを噛み締めている。

「で、倒した魔王がドロップしていったのが――『願望機』ってやつ」
「願望機……もう何でもアリだな、ファンタジー」

征十郎は眉をひそめ、呆れの表情を浮かべた。
だがその直後、目を細めて神妙な面持ちに戻る。

「つまり……茶子姉は、それを使ったということか」
「そ」

話は巡り巡ってようやく結論にたどり着いた。
異界の魔王が持ち込んだ、世界の法則すらねじ曲げる『願望機』。
あまりにも荒唐無稽な存在だが、あの山折村で起きた現象を説明するには、それほどの異常が必要だったのだ。

「魔王撃退の際に使った儀式の影響で二柱のイヌヤマイノリが現れたり、覚醒した女王菌が宿主を乗っ取って意思を持って暴れまわったり、まぁ色々あったんだけど……そこは割愛。
 最終的には、天原創っていう中学生エージェントが女王を倒して、生物災害自体は収束した」
「問題は……その後、か」

征十郎が確認するように呟くと、タチアナは静かに頷いた。

「二柱のイヌヤマイノリと和解した村人たちは、願望機を使って呪われた歴史を正しく終わらせると約束してたの。
 祈りを捧げ、願望機を起動して、呪い満ちた山折を終わらせる――はずだった。
 けれど、祈りを捧げようとしていた仲間を殺害し、その約束を反故にした人間がいた」
「それが――虎尾茶子。我が姉弟子、というわけだな」

タチアナは頷く。
征十郎の声は静かだったが、その奥にあるのは失望か、それとも哀惜か。

「……彼女は幼い頃、両親を殺されその誘拐犯から酷い扱いを受けていた。
 性的搾取にさらされ、心も身体も壊れていた。そんな彼女が逃げ延びた先が、山折村。
 彼女はあの村に救われて、ようやく自分の居場所を見つけたんだよ」

茶子にとって、山折は世界のすべてだった。
守られた初めての場所であり、幸福の象徴。
その境遇に自分と重なるところがあるのか、タチアナは僅かに目を伏せる。
だからこそ、彼女は山折の滅びを、どうしても認められなかった。

「茶子は、村が終わってしまうことを拒んだ。
 だから、願ったんだよ――――『山折村の永遠』を」

その願いは、あまりにも哀しい。
それは少女から時の止まった女が見た、壊れた夢のかたちだった。

「そうして生まれたのが、永遠の国。
 死者たちが踊り、日常を永遠に繰り返す夢の世界。
 あのトンネルにいた私も、その願いに巻き込まれたひとりだった」

そして、夢は現実を侵食していった。
永遠を夢見る黒いアリス――それが、かつての虎尾茶子の変じた姿。
願望機を通して形作られた、死してなお終わらない幻想だった。

「……一つ、疑問がある」

話を聞き終えた征十郎が、静かに口を開く。

「なぁに?」
「なぜ……お前だけが、『永遠』から解き放たれた?」

タチアナは『永遠』の支配から抜け出し、今こうして現実の世界にいる。
しかし、村の他の住民たちは今もなお永遠の国に囚われたままだ。
なぜ、彼女だけが現実へと戻ることができたのか。
問いを受けたタチアナは、ほんの少しだけ視線を伏せて答えた。

「……多分。私が唯一生きたまま永遠に取り込まれた存在だったから、だと思う」

彼の地で起きた激しい戦いに巻き込まれ、あるいは意図的な殺戮により、あの村の住民は全て死に絶えた。
残ったのは死体の山であり、永遠の国の住民は、死体を糸で継ぎ合わせ、意志なきまま操られる人形にすぎない。

だが、タチアナだけは違った。
彼女はあのトンネルの中で生きたまま永遠に取り込まれた。

『HEUウイルス』は死者には感染しない。
故に、あの死者の国で開闢したのはタチアナだけだった。
超力は、永遠を作り上げている願望機と根源を同じとする力だ。
解き放たれたのは、それに目覚めたからだろう。

733Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:33:40 ID:DH0FMjMI0
「でね、一つの仮説を立てたわけ。
 私が生きてたから永遠から弾き出されたなら、死者たちにも命を別の形で与えれば、永遠から解放できるんじゃないかって」

理屈としては、一理あるかもしれない仮説である。
だが、それは実証も立証も極めて困難な話だ。

「んで、5年くらい前、実際カチコミをかけてみた訳よ」
「………………ん?」

征十郎は思わず間の抜けた声を漏らした。

「……何処に?」
「山折村に」
「……何故だ?」
「それなりに色んなとこでテロって経験積んだかんね。今ならイケっかなぁ、って」

冗談めかすような口調とは裏腹に、その内容は全く笑えない。
征十郎は額に手を当て、深くため息をついた。

「……お前、永遠に未練があったのではなかったのか?」
「さて、どうだったんだろ……決別したかったのか、それともただもう一度訪れたかったのか、本心は自分でもわかんないや……」

タチアナ自身、行動の動機を完全には言語化できていなかった。
だが、確かに彼女は向き合おうとしたのだ。
かつて、自分を呑み込んだ永遠という呪いに。

「それでね、とりま専門家に協力を仰いだの」
「専門家……? 何のだ?」
「もちろんゾンビの」

ゾンビの蔓延る死者の国に向かうのだ。
そこを渡るのならゾンビの専門家が必要だろう。

「この刑務作業にも参加してる並木旅人って仲介人を通してゾンビの専門家を派遣して貰ったの。
 旅人を信奉してるシビトってゾンビを創る超力者。確かこいつも頭に弾丸喰らって今はアビスに墜ちてんじゃなかったかなぁ?
 んで、現地で合流したら謎の幼女も同行してたんだけど……まあ、それはそれ」

征十郎は呆れを隠しきれず、目を細める。
タチアナは気にする様子もなく話を続けた。

「結論から言うと、その目論見は成功した。けれど――結果は大失敗だった」
「……どういう意味だ?」

成功したのに失敗した。
その言葉の矛盾に、征十郎は眉をひそめる。
タチアナの表情に、ほんの少しだけバツの悪そうな色が差す。

「……ま、順を追って話すよ」

タチアナはひと息つき、自らの失敗談を語り始めた。

「とりま、山折村に到着した私は最初に出会った永遠の住人を爆殺して、それをシビトによって復活させた」

そうして目論見通り、死者に命を与えられたその個体は永遠の支配から解放された。
シビトの意志に従うと言う不自由によって、そのゾンビは永遠から自由となったのだ。

「そのゾンビはアニカという少女で、どうも女王である虎尾茶子と因縁があるみたいな話だったんよ」
「アニカ……覚えがないな。私が村を離れてからの住人だろうか」
「さぁ? 金髪で色白の、なんかお人形みたいな小学生女子だった。日本人じゃなさそうだったし、外から来たお客さんだったんじゃない?」

アニカゾンビを従えた一行は彼女の案内により女王の居城へと突入する。

「道中もゾンビたちを開放してって、出来上がったゾンビ軍団で敵の居城を正面突破していった。
 そうして、ついに女王である黒いアリス――――虎尾茶子と対峙する所までいったの。
 けど、最後に騎士のように立ち塞がる一人のゾンビがいた。女王の寵愛を受けたお気に入り、誰だかわかる?」

流れから察するのは容易かった。
征十郎は小さく、慣れ親しんだその名を呟く。

「哉太兄か」
「正解。征タンの従兄弟である八柳哉太。どうにもアニカって子と三角関係だったっぽいよ、、めっちゃギスっててウケたんですけどww熱くない?」
「そう言うのはいいから、続きを話せ」

身内の色恋などあまり聞きたい話ではない。
ギャルの一面が見え隠れするタチアナは恋話が遮られて不満げだった。

「私たちは、永遠の国の住人たちを片っ端からゾンビ化させて女王に反旗を翻させていた。
 実際、その時点で、戦力としては完全にこちらが上回っていた。あとは、騎士と悪い女王様を倒して、めでたしめでたし。
 子供向けのおとぎ話なら、これで終わるんだろうけど――――本当はそうじゃない」

おちゃらけた様子だったタチアナが表情を変える。
彼女の失敗談はここからだ。

734Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:34:37 ID:DH0FMjMI0
「数の暴力で騎士を倒したところまではよかった。私たちは女王を討つ寸前まで確かにいっていた。
 でも、その騎士の遺した剣を、女王が手に取った瞬間、すべてが終わった」
「剣……? なんだそれは?」

その単語に、剣客は興味を引かれたように尋ねた。
失敗者は表情を無にしたまま、淡々と答える。

「――――魔聖剣デセオ。
 あの山折村の事件の最中に生まれた、聖と魔、両方の力を孕んだ『生きた剣』」
「生きた……まさか」
「そう。シビトのやってた死者に命を与える術を散々見た女王は学習していた。
 追い詰められた女王は、魔聖剣の命を代価にして、自らを永遠の国の枠組みから解き放ったの」

その瞬間――黒いアリスは山折という狭い世界から解き放たれたのだ。
山折に縛られていた地縛霊は、今や場所を選ばず漂い出す浮遊霊となった。

「それが、目下GPAの頭を悩ます最大の懸念事項――――『永遠のアリス』。
 現れた場所に永遠を伝播させ、空間そのものを書き換える特級呪霊」

結果として、永遠の国は消滅した。
しかし、永遠という災厄は、形を変えて拡散することになる。

「彼女がいる場所こそが、山折になる。
 GPAはその情報を必死に秘匿してるけど、SNSなんかの目撃情報は完全には消せないから、今も情報操作したり火消しに追われてるらしいよ」

タチアナは他人事のように語る。

「……おい、お前さらりと、とんでもない事してないか?」
「だってぇ〜、あーし、享楽的なギャルだし〜?」

タチアナはキャルン☆とウィンクしながら、両手の指でVを作って目元にかざす。
その程度では誤魔化し切れるはずもない事をやらかしていた。
世界最悪の災厄を解き放ったも同然である。

「と、まあ私が知ってるのはここまで。『永遠のアリス』がどうなったかまでは知らないんだよねぇ。
 とっくにGPAが対処しているのか、それともまだ暴れまわっているのか。
 その後を追ってたわけでもないし、今となってはアビスに落ちちゃった訳だし知りようがないんだよね」

タチアナの語れるヤマオリの歴史はここまでだ。
永遠から解放されるまでに得た知識と、自らが行ったヤマオリ解放戦。
それ以後のことは彼女にも分からない。

「茶子姉…………『永遠のアリス』、か」

重く呟く。
だが、呟いてみたモノの、征十郎からすれば正直あまり知った事ではない。
身内の恥ではあるが、世界の危機など対処するのはGPAの仕事である。
何より地の底に捉えられた身では気にしてもどうしようもない話だ。

その辺はタチアナも同じ気質なのか。
パンドラの箱を開けたとは思えぬほどさっぱりとしたものである。

「それよか、征タン。気づいている?」
「無論だ」

気づけば、どうも周囲が騒がしくなってきた。
他の刑務作業者が本格的に動き始めたのだろう。
周囲の部屋部屋から不穏な気配が漂い始めている。

「もう、休息は十分だろう」
「だねぇ」

いつまでも休憩していられる状況ではなさそうだ。
二人とも気質として、後手に回るのは向いていない。
巻き込まれる前に先手を取って動くべきだろう。

「やりあうにしてもこう騒がしてくはかなわん、まずはそちらを片付けるぞ。いいな」
「りょ。かしこまり〜☆」

敬礼ポーズ了承するタチアナ。
征十郎たちは立ち上がり、動き始める。
機械室の出口に向かって歩きながら、何気なく征十郎が尋ねた。

「結局どのキャラで行くつもりなんだ、お前?」
「っさいなぁー。こっちも模索中なんだっての」

735Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:34:56 ID:DH0FMjMI0
【D-5/ブラックペンタゴン北東ブロック外側・機械室エリア/一日目・午前】
【ギャル・ギュネス・ギョローレン】
[状態]:疲労(大)、“タチアナ”
[道具]:学生服(ブレザー)、注射器
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲の喧噪を調べてみる
2.復活したら改めて征十郎を燃やす。
※刑務開始前にジョーカーになることを打診されましたが、蹴っています。
※ジョーカー打診の際にこの刑務の目的を聞いていますが、それを他の受刑者に話した際には相応のペナルティを被るようです。
※ポイントは全部治療関連のものに交換しました。
※永遠は斬られたので、今後は年を取ります。

【征十郎・H・クラーク】
[状態]:ダメージ(大)
[道具]:日本刀
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲が喧噪を調べてみる
2.復活したら改めてギャルを斬る。

736Re'Z ◆H3bky6/SCY:2025/07/31(木) 21:35:16 ID:DH0FMjMI0
投下終了です

737 ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:10:17 ID:uZZUcUfA0
投下します。

738Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:11:19 ID:uZZUcUfA0
◾︎


 ────時間の進みが、遅い。
 民家の中で各々過ごす一同は、共通の意識を持っていた。

 刑務作業が始まってから10時間あまり。
 まだ半日も経過していないということは、これまで生き延びた時間の倍以上をここで過ごさねばならないのだ。
 いつ恩赦目当ての者が来てもおかしくない緊張状態。
 それをいつまでも維持しているとなると、時の流れも異様に遅く感じる。
 実際日月は、ソファの背もたれに身体を預けながら何度もデジタルウォッチに目を落としていた。

「喉、乾きましたね」

 そんな落ち着かない気配を察してか、横から遠慮がちな声がかかる。
 右を見遣れば、いつの間にか叶苗が隣に座っていた。

「そうね……」

 返せる言葉などそれしかない。
 途方もない時間を生き延びなければいけない、というプレッシャーに充てられたわけではない。
 正確に言えばそれもあるが、大きな理由は別にある。
 古びたテーブルを一つ挟んだ椅子に座る男、氷月蓮の存在が、彼女の言動を縛っているのだ。

「どうかしたのかい?」
「別に」

 首を傾げる氷月へ、日月は素っ気なく返す。
 迂闊に会話を広げれば、アイや叶苗のように心を掬われてしまいそうだから。
 得体の知れない恐怖が、日月の心労を重ねてゆくのだ。

「…………」

 再び訪れる沈黙。
 あの輝かしいミニライブが、酷く懐かしく思える。
 食糧も嗜好品もない以上、この場においての娯楽など無に等しい。

 この状態であと半日以上過ごさなければならない。
 氷月はともかく、叶苗とアイを保護しながら。
 そんなプレッシャーに辟易として、思考を巡らせている内、〝矛盾〟に気がついた。

739Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:12:01 ID:uZZUcUfA0

(…………私、何考えてんの)

 アイドルに戻りたい気持ちは本物だ。
 ドブ底のような人生で、唯一誰にも負けないくらい輝くことが出来たあの時間を、もう一度取り戻したい。
 例えどんな手を使ってでも、このアビスから出獄してやりたいと思っていた。

 なのに今考えていたのは、まるで真逆のシチュエーション。
 叶苗とアイと共に、残りの刑務時間を生き延びようとしていた。
 この二人と共にいることで恩赦など稼げるはずもないし、目的を考慮すれば首輪を奪うべきである。

(くだらない)

 浮かぶのはジャンヌ・ストラスブールの顔。
 あなたは親切な人だから、なんて言って一方的に保護を押し付けてきた元凶。
 思えばあの女に出会ってから、ずっと心が掻き乱されている。
 
(ほんと、くだらない)

 親切な人だなんて、そんなわけがない。
 今もこうして罪を認められず、アイドルへの未練へしがみついて、アビスから這い出ることを企てている。
 そのくせ悪に振り切ることも出来ず、叶苗達を殺すという選択肢が浮かばない。
 こうして迷っている間にも、刻一刻と刑務の終わりが近づいているのに。

 ああ、そうだ。
 残り半日、たった半日。
 その間に400pt稼がなければならない。

 そう考えた途端、どうしようもない焦燥が心を支配する。
 あれほど長く思えた残りの時間が、途轍もなく短く感じてしまう。
 脱獄するにせよポイントを稼ぐにせよ、本気でアイドルに戻るつもりなら、今すぐ行動を起こさなければならないのに。

「日月さん、具合でも悪いんですか?」

 ちらりと、叶苗を見やる。
 視線がかち合い、慌てて目を伏せる。
 叶苗の問いかけに答えることが出来ず、今度は床でごろんと寝転がるアイの顔が映った。

 不思議そうに首を傾げるアイ。
 ばつが悪そうにため息を吐く日月は、冷静に自分の気持ちを改める。

(落ち着きなさい、行動に移すのはジャンヌの経過を聞いてからでもいい)

 ジャンヌ・ストラスブールはルーサー・キングを討つために港湾へ向かった。
 ルーサーかジャンヌ、どちらかの名前が読み上げられない限り決着の判断はできない。
 しかし彼女らが第二回放送後に邂逅していた場合、それを知るのは第三回放送後になってしまう。

 その差は6時間。
 あまりに痛すぎる。

 頭では理解している。
 ジャンヌとの合流を待ってからポイントを稼ぐ事など不可能であり、脱獄をするにしてもここで待つ選択肢は無いと。
 なのに、それを無視して〝言い訳〟に縋ろうとしている。

740Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:12:41 ID:uZZUcUfA0

 完全に乗るわけでもなく、降りるわけでもない。
 日月は一種の錯乱状態にあった。

 いっそ、ここから発つべきかもしれない。
 なにも叶苗達を殺す事に拘らず、他の参加者を殺せばいい。
 そうだ、そもそも叶苗とアイ、それに氷月を合わせても合計で75ptしかない。
 三人殺しても死刑囚一人のポイントに届かないのだから、まるでリスクと釣り合っていない。

 これだけの時間が経っているのだから、参加者同士の同盟が出来上がっているはずだ。
 そこに紛れ込めば、400ptを稼ぐことも不可能では────

(…………くだらない)

 本当に、くだらない。
 自分の荒唐無稽ぶりに反吐が出る。

 叶苗やアイを殺せないから、他の参加者を殺す。
 少し言葉を交わしただけで情に流されたから、この二人を見逃して、殺せそうなやつを殺す。
 そんな馬鹿げた命の選定をしている余裕があると思っているのか。
 アイドルへ戻りたいという気持ちは、そんなに中途半端なものだったのか。

 ジャンヌへの嫉妬、羨望、諦観。
 叶苗への共感、同情、愛着。

 ないまぜになった複数の感情が日月の胸を締め付けて、深い葛藤を生み出す。
 脳が宙に浮くような気持ちの悪い感覚に吐き気を覚え、固く目を閉じた。

「三人とも、聞いてくれ」

 そんな折り、男の声がかかる。
 それまで窓の外を見ていた氷月が立ち上がり、ゆっくりと全員の顔を見回した。

741Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:13:11 ID:uZZUcUfA0

「僕は少しこの辺りを見てくる。もしかしたら他の参加者が来るかもしれないし、運が良ければ綺麗な水や野生動物も見つかるかもしれない」

 鬱屈とした空気を察して、希望をのせた発言。
 氷月の提案は合理的だった。
 放送が近いからと、落ち着ける拠点を探すために廃墟へ足を運ぶ者がいる可能性もゼロではない。
 なにより陽が差している今、この周辺を散策することで、黎明の空下で見落としていた新しい発見があるかもしれない。

「氷月さん一人じゃ危険です、私も──」
「大丈夫。複数だとかえって目立ってしまうし、逃走ルートを確保している僕が適任だ」

 穏和な笑顔で返す氷月に、叶苗は何も返せなくなってしまう。
 彼を止める理由が思い付かず、なにより飲水が見つかるかもしれないという誘惑に負けて。
 お願いしますと小さく告げて、叶苗はもう一度席に着いた。

「放送前に戻らなかったら、僕はやられたと思ってくれ。その時はいつでも逃げられるようにしておいて」

 振り返らず、民家を後にする氷月。
 日月はその背中を、複雑な面持ちで見送った。


◾︎

742Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:14:42 ID:uZZUcUfA0


「日月さん」
「なに」

 氷月が去ってすぐ、叶苗が日月へ肩を寄せる。
 その行動にまんざらでもないと感じている自分へ見て見ぬふりをして、ぶっきらぼうに返す。

「日月さん、アイドルに戻りたいって言ってましたよね」
「それがどうしたのよ」
「もし戻れるなら、その…………」

 顔を俯かせ、言い淀む。
 叶苗が何を言おうとしているのか察して、日月は重たい溜め息を吐き出した。

「アイドル失格ね」
「え?」
「顔に出てたんでしょ、私。どんな時でも笑顔でいて、皆に夢を見せるのがアイドルなのに」

 叶苗はきっと、日月の迷いを読み取っていた。
 動物的な勘の鋭さゆえか、もしくは人を気遣う能力に長けているのか。
 日月は観念したようにぐったりと背もたれに体重を預け、天井を見やる。

 さてどう言い逃れようかと、そう考えて。

「私は、アイドルだから弱いところを見せちゃいけないなんて……思いません」

 思わず、面食らった。

「アイドルは完璧じゃなきゃいけないなんてこと、ないと思います」

 おずおずと、けれどじっと目を見据えて告げる叶苗。
 自分はもう吹っ切れたとばかりに淀みない瞳を、日月は見ていられない。
 ルーサー・キングの呪縛と、行き場のない復讐心を乗り越えた彼女は、とうに日月の先を行っていた。

「あんたね、アイドルのなんたるかを〝あの〟鑑日月に意見するってわけ?」
「……す、すいません」
「謝るくらいなら最初から言うんじゃないわよ」
「でも、私は……日月さんに一人で抱え込んで欲しくないです」

 自信があるのかないのか、どっちともつかない態度で言いのける雪豹。
 日月は鼻で笑うが、それは心中を見抜かれたことへの強がりに過ぎない。

「日月さんは優しいから、迷ってるんですよね」

 掻き乱された心に追い討ちがかかる。
 緊張か苛立ちか、早まる鼓動がやけに煩く感じる。

「私でよければ、打ち明けてください」

 今の日月さんは、すごく寂しそうだから。
 そう付け加えて、蒼玉のような瞳で偶像を見つめる叶苗。
 地獄の底で煌めくガラスのように。
 危うく、透明で、綺麗だった。

743Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:15:18 ID:uZZUcUfA0

 ──ああ、やっぱり駄目だ。
 ──ジャンヌの時と同じだ。
 
 日月は、輝きを前にすると焦燥する。
 皆が安堵し、焦がれる光を前にしても、それを心から受け入れることが出来ない。
 自分の手の届かない場所にあると知れば、弱みを見ようと野心が先に顔を出す。
 
 幼い頃から美貌と頭脳によって、欲しいもの全てを手にしてきたのに、唯一手に入れられなかったもの。
 偶像という仮面を被らなければ、日月は人に優しくすることができないから。
 自分では太刀打ち出来ない、〝太陽〟になりかけている叶苗へ、漠然としたプレッシャーに苛まれた。

「──あんたは、先があるからそんな事が言えるのよ……!」
「えっ、……」

 そうして、ようやく紡いだ言葉がそれ。
 声色が震えているのは怒りなのか、不安なのか、日月自身にも分からない。
 分かることといえば、これはガキの八つ当たりに他ならないということだ。

「あんたもアイも、まだ若いうちに外に出られる! いくらでも生き甲斐なんて見つけられるし、やり直しだってきくでしょう!」

 叶苗の顔を見ないまま、一方的に捲し立てる。
 己を追い込むように。善性と悪性の狭間で揺蕩う自分へ、言い聞かせるように。

「私の首輪、見なさいよ! 死刑囚に未来はない……! この機会を逃したら、もうやり直しなんてできないっ!」

 どうして、こんなに吐き気がするんだろう。
 どうして、こんなに胸が締め付けられるんだろう。

「私はね、生きたいのよ! 死にたくなんかない! 人殺しの悪女のまま終わりたくない……! アイドルとして在り続けたい!」

 答えは出ない。
 答えをくれる人は、いない。
 自分の道を指し示してくれる〝大人〟は、とうに見切りを付けたから。
 だから、自分で探すしかない。

「日月さん……」

 叶苗は、何も言えない。
 かける言葉が見つからない。
 堰を切ったように溢れ出る濁流は、少女一人が止められるものではなくて。
 鑑日月という浮世離れした存在が、今は年相応の少女に見えた。

744Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:16:12 ID:uZZUcUfA0

「一人で抱え込んで欲しくないって、そう言ってたわよね」
「……はい」
「じゃああんた、私が生き延びるために殺人の手伝いをしろって言ったら、手を貸してくれるの?」
「え……っ!?」

 叶苗の動揺を見抜くや否や、日月はひどく冷たさを帯びる声でそう質す。
 分かりやすく瞳孔を開いて驚きを示す叶苗。
 その脳裏では、忘れたくても忘れられない過去がフラッシュバックしていた。

「それ、は…………」

 初めての殺人。
 それは、衝動的なものだった。
 家族殺しの実行犯を捕えて、情報を聞き出そうとして。
 超力で抵抗しようとしてきた際、反射的に爪で首を切ってしまった。
 人を殺すという覚悟の決まっていない状態で、一人の未来を奪い取ったのだ。

「私、は…………っ」

 手に残る生々しい感触は、今でも消えない。
 あの日から毎日、必ず悪夢を見る。
 生暖かい返り血。か細い悲鳴。死んだ男の表情。
 全部が、事細かに夢に出る。

 人を殺すということは怖いことなのだと、過剰なまでに突き付けてくる。
 だから叶苗は、ブラッドストークを殺した後に自分の命を捨てるつもりでいた。
 今思えばそれは、人殺しの道を歩んだ事実から逃避する為だったのかもしれない。

「ほらね、答えられない」

 迎えるタイムリミット。
 あ、と力なく洩らす叶苗の瞳は、先程と比べてひどく不安定に揺れている。
 なにか言葉を探さないとと答えあぐねているうちに、日月はそれを見透かしたように嘲笑った。

「完璧じゃなくていい、なんて簡単に言うけどね。いざ綻びを見せたらどう? あんたは何も言えず、私に残ったのは〝弱みを見せた〟という結果だけ」

 鑑日月は、アイドルに誇りを持っている。
 叶苗とはまるで真逆で、偶像とは完璧であるべきと考えている。
 私はとっくに乗り越えたとばかりに、アイドルを説いてみせた叶苗へ苛立ちさえ覚えていた。

「聖者でも気取るつもりなら、良い機会ね。無責任な発言だけで心動かされるような人間、そういないわ」

 なのに、
 どこかやるせなさそうに黙々と聞き入れる叶苗を見ても、心は曇ってゆくばかりで。

「あんたは夢を見つけて満足かもしれないけど、周りを見なさいよ。他人を殺さなきゃ、夢を見ることすらできない人間なんてここじゃ山ほどいるわ」

 自分は何をやっているんだろう。
 何十回、何百回と思ったそれが、今は一際心を支配する。
 輝きを穢すような真似をして、辛うじて自分を保とうとする鑑日月を、アイドルと認めたくなかった。

745Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:17:01 ID:uZZUcUfA0

 氷藤叶苗は、眩しかった。
 けれどジャンヌの時のような嫉妬ではなくて、自己嫌悪ばかりが積み重なる。
 キングの悪意に振り回されていただけの少女が前を向いて進もうとしているのに、自分はずっと進めないから。
 置いて行かないでよと、肩を掴んで歩みを止めようとしている。


「こんなことなら、言わなきゃよかった」


 そんな自分は、アイドルじゃない。


 沈黙が訪れる。
 激情を一通りぶちまけた日月は、自身の太腿に爪を立てて奥歯を噛み締める。
 対して叶苗は俯いたまま、逡巡を重ねた末に唇を開いた。

「……ます」
「え?」
「私、やります……っ!」
「……はあ!?」

 何を言っているんだ、こいつは。
 今にも泣き出しそうな顔で、わかりやすく顔を青ざめながら、何を言っている。
 その了承にどれだけの重みがあるのか、人を殺す恐怖を経験した叶苗はよく知っているはずなのに。
 唖然とする日月の手を取り、雪豹は縋るように眉を下げる。

「けど、お願いです……アイちゃんと氷月さんは、巻き込まないであげてください」
「…………あんた、本気なの」

 動揺の中、日月は意味のない問いを投げる。
 今からでも遅くはないと、忠告するかのように。

「日月さんは、優しいから」
「またそれ?」
「優しいから、私達と一緒に居てくれてる」

 否定の言葉が見つからない。
 幾らでも言い訳出来るのに、する気になれない。
 心にじんわりと広がる得体の知れない感情が、日月から言葉を奪い去る。

「人を殺すのは、怖い。自分の欲を満たすためにそんなことしちゃいけないなんて、みんな分かってる。けれど、それでもやるしかない人は……孤独で、すごく寂しい」

 叶苗もまた、呪われた道を歩む一人だった。
 家族の仇の為に奔走し、それを生き甲斐に実行犯を殺してきた。
 誰にも打ち明けられずにいた地獄の道は、進むたびに孤独を突き付けられて。

 ずっと、誰かに抱き締めて欲しかった。
 もう一人で抱え込まなくていいと、そう言って欲しかった。

「なら私は、日月さんに寄り添います……! 例え許されない道でも、一緒に進めばきっと違うから……!」

 ────ああ、そうか。

 日月は改めて、思い知らされる。
 自分がなぜジャンヌに心を焼かれ、届かないと確信したのか。
 深く暗い葛藤の中で藻掻く自分とは違い、己の正義を貫く一本槍のような志。
 それが、欠けていたのだ。

746Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:17:47 ID:uZZUcUfA0

 今の叶苗は、ジャンヌに似ている。
 進もうとしている道はまるで真逆だけど、心根にあるのは自己犠牲。
 地獄へ堕ちようとする日月へ手を差し伸べるのではなく、一緒に堕ちようとしている。

 日月はそれが、堪らなく嬉しかった。

「ばかね、あんた。そんなんだから、ルーサー・キングにつけ込まれんのよ」

 ずっと欲しかった叶苗の言葉。
 それを呑み込むわけでも、否定するわけでもなく、力のない笑みで誤魔化す。
 緊張の糸が解けたのを感じ取ったのか、叶苗は力が抜けたように息を吐いた。

「あい、あい!」
「なによ、アイ」
「あう!」

 それまでじっと二人の様子を見ていたアイが、日月の膝に乗り抱きつく。
 彼女達の感情を読み取ったのか、幼子のような抱擁ではなく優しく、日月の背中をよしよしと摩る。
 突然のことに戸惑いを隠せない日月だが、引き剥がそうだなんて考えは微塵も浮かばなかった。

 代わりに、小さな体を支えるように恐る恐る抱き返す。
 心地の良い温もりが、日月の心の空隙を埋めてゆく。

「アイちゃん、優しいね」
「あう?」
「……単純に甘えたいだけじゃないの?」
「あはは、そうかも」

 答えはまだ、出ない。
 未だに日月は出口のない迷路を彷徨い続けている。
 そんな中で見つけたぬるま湯に浸って、現実から目を背けている。

 それでも、このぬるま湯から抜け出したくなくて。
 日月は思わず、口元を綻ばせた。


◾︎

747Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:18:21 ID:uZZUcUfA0


「寝ちゃいましたね、アイちゃん」
「……そうね」

 あれから10分ほどして、アイは日月の腕の中で寝息を立てた。
 色白の頬を優しく撫でながら、日月は叶苗へと目を配らせる。

「ねえ、叶苗」
「はい」
「あんた、友達とかいるの?」
「え? ……えぇ? きゅ、急になんですかっ」

 先ほどの話の続きが来ると身構えていたから、叶苗は思わず拍子抜けする。
 そしてどこか無礼な問いかけに異議を唱えるかのように、むっとした顔で答えをはぐらかした。

「あんた真面目過ぎるから、友達とかいないんじゃないかって思ってさ」
「う、……確かにこの姿っていうこともあって、学校じゃ馴染めなかったけど……」
「やっぱりね。学級委員長とか向いてそうだし、そういう奴は大体嫌われるもんよ」
「ひ、ひどい……そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですか!」

 さっきの話は、なかったことにする。
 そう言外に意識づけるように、二人は他愛もない会話を続けてゆく。

「そう言う日月さんは……やっぱりいいです」
「ちょっと、そういうのが一番失礼よ。……中学すらまともに行ってなかったけど、小学生の頃はいたわよ」
「え、そうなんですか!?」
「まぁ二人だけね。山中杏ってやつと、羽間美火って子。杏は中学も一緒だったけど、不登校になっちゃってそれっきり」

 寝ているはずのアイが日月の服を掴む。
 これは暫く離れてくれないな、なんて考えながら小さな命を愛でる。

「羽間美火、って……」
「私も最初に名簿を見た時はギョッとしたけどね、多分同姓同名。あの子、間違ってもこんな場所に来るような子じゃないし」
「よかった…………日月さんの小学生時代、全然想像つかないや」
「別に普通よ。あんたは小学生から高校生まで想像しやすいわね」
「褒め言葉ですか?」
「いいえ」

 ここはアビス、這い出る事の許されぬ地の底。

「高校生ももう終わっちゃうし、大人になる実感なんてないですよ」
「……待って、叶苗。あんたもしかして高三?」
「え、そうですけど」
「…………うそ、私の一個上じゃない。全然見えないわ」
「そ、それは私が子供っぽいんじゃなくて、日月さんが大人なんですよ!」

 それでもこの埃まみれの民家の中は、まるで別世界のようで。

「いつまでさん付けしてんのよ」
「えっ?」
「そうやって距離置いてるから友達できないのよ、〝先輩〟」

 二度とは手に入らぬ日常の一欠片を味わえているようだった。

「じゃ、じゃあ…………日月、ちゃん?」
「ま、及第点ってとこね」
 
 夢を諦めきれず、人を殺す一歩も踏み出せない。
 問題は何も解決していないし、残ったのは弱みを見せたという結果ただひとつ。
 完璧であるべき偶像に罅を入れて、結局得られたものは叶苗の共感だけ。
 答えなど、到底見つかりそうにない。

 けれど、そのつまらない共感は。
 闇に漂う月を、仄かに照らし出した。

748Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:18:41 ID:uZZUcUfA0

【C-7/廃墟東の民家/一日目・昼】
【鑑 日月】
[状態]:肉体の各所に火傷、深い屈折、葛藤
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.アビスからの出獄を目指す。手段は問わない
0.答えを探す。
1.氷月への警戒を強める。
2.ジャンヌに対する葛藤と嫉妬を抱えつつ、彼女の望み通りに叶苗とアイを保護する。
3.ジャンヌ・ストラスブールには負けたくない。彼女を超えて、自分が真の偶像(アイドル)であることを証明したい。

【アイ】
[状態]:全身にダメージ(小)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.故郷のジャングルに帰りたい。
0.睡眠中
1.(かなえを傷つけたくない、でもどうすればいいかわからない)
2.(ひづきはさびしそう)
3.(あいつ(ルーサー・キング)は、すごくこわい)
4.(ここはどこだろう?)
5.(れんはきらいじゃない)

【氷藤 叶苗】
[状態]:胴体にダメージ(小)、罪悪感
[道具]:シャツ、鋼鉄製の手甲(ルーサーから与えられた武器)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.寂しさを持つ人に寄り添いたい。
1.アイちゃんを助けたい。
2.日月ちゃんの悩みを受け入れたい。

※ルーサー・キングから依頼を受けました。
①ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、恵波流都、エンダ・Y・カクレヤマ。
 以上5名とその他の“目ぼしい受刑者”を対象に、最低3名の殺害。
②1人につき15万ユーロの報酬。4名以上の殺害でも成果に応じて追加報酬を与える。協力者を作って折半や譲渡を約束しても構わない。
③遂行の確認は恩赦ポイントの回収履歴、および首輪現物の確認で行う。
④第2回放送直後、B-2の港湾で合流して途中経過や意思の確認を行う。
④依頼達成の際には恩赦後のアイの安全と帰還を保障する。





749Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:19:53 ID:uZZUcUfA0


 背の高い草を掻き分け、木々を目印に進む氷月。
 そうしているうちにD-7の橋付近へ辿り着き、周辺をゆっくりと見渡す。
 鬱蒼と茂る草は身を隠すのに十分機能していて、屈んで動けば細身の氷月はまず視界に入らないだろう。

 橋へと続く獣道は、まばらに散る草や枝によって足場が悪い。
 氷月はそれら一つ一つを進みやすいように足で退けて、橋の根元に到着した。

「さて、と」

 人の通った痕跡を残すのは本来避けるべき行為であるが、氷月はあえてわかりやすく残してアピールする。
 障害物を取り除かれた進みやすい獣道は、本能的に移動ルートを制限させられる。
 身を隠す目的ではなく、逃走や移動の目的であればまずこの〝安全が確保された〟道を選ぶだろう。
 氷月は、のちの保険の為にこの道を作り出した。

 そうして、空を見上げる。
 雲ひとつない晴天。陽光の眩しさに目を細め、手で陰を作る氷月。
 一見爽やかな好青年に見えるその仕草を、早々に取りやめて。
 橋の向こうへ視線を切る氷月の目は、さながら猛禽類のように鋭く変わった。


「────〝私〟だ、ヴァイスマン」

 
 男は、呼びかける。
 叶苗達の信頼を勝ち取るために演じていた好青年の仮面を外して。
 長らく眠らせていた氷月蓮という本来の人格を、呼び覚ます。

「〝ジョーカー〟として、権限を使わせてもらう」

 氷月蓮──本来、この刑務作業に名前が並ぶことはなかった存在。
 ヴァイスマンの推薦で、この地へ赴いた潜入員。
 ギャルと同じく駒(ジョーカー)の打診を受けていた彼は、他の参加者とは一線を画す優位性を得ていた。

「まずは50ptほど、使わせてもらおう」

 氷月蓮に与えられた役割は、潜入と諜報。
 刑務に消極的な集団へ潜り込み、データの確保と団体の崩壊を目的とする暗躍者。
 彼が受けた恩恵は────200ptの無償使用の許可。

 これは恩赦ポイントとは別枠で設けられた、いわば〝特権ポイント〟。
 仮に満額の200ptを使い切らず刑務を生き延びても、減刑や金銭には割り振られない。
 この刑務作業の期間内にしか存在しない、一日限りの砂金である。

750Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:20:34 ID:uZZUcUfA0

 ただの砂へ変わる前に、価値のあるうちに使わなければならない。
 氷月はずっと、その機会を伺っていた。
 身を守る為の武器や防具を選択せず、無手のままわざわざ集団へ潜り込むという危険を冒してまで、機を待ち続けた。

「C4リモコン爆弾と、ワイヤートラップを」

 そうして掴んだ機会。

 氷月の言葉に従い、彼の足元に望み通りのモノが転送される。
 テープ貼りされた無機質な緑色のプラスチック爆弾が三つと、それを起爆させるための小さな遠隔起爆装置。
 隣には動物を捕獲するためのワイヤートラップ。
 それらを手に取って、氷月は見えない誰かに対してふっと笑う。

「相変わらず仕事が早いな」

 そして手際よく、氷月はそれらを設置する。
 橋付近の獣道へワイヤートラップを作成し、その近くの草の中へC4爆弾を隠す。
 その間、僅か数分。
 たった数分で、廃墟から中央へ続く唯一の道は生存不可の危険地帯と化した。

 この場所はもう、氷月のテリトリーである。

「本当はもう少し経過を見たかったが、私にもやるべき事があるからね」

 当然、ジョーカーが受けられるのは恩恵だけではない。
 氷月には、事前に二つのミッションが与えられていた。

 一つが、刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごすこと。
 そしてもう一つが、刑期に関係なく最低でも三名以上の参加者を殺すこと。

 前者はすでに達成は目前、となれば問題は後者。
 参加者の総数から逆算して、三人手に掛けるというのは決して容易ではない。
 人によっては200ptの恩恵など釣り合わないと考えてもおかしくないが、氷月はそれを二つ返事で承った。

 超力を使用した自分がどこまで〝殺せる〟のか、興味があったのだ。
 氷月蓮にとってこれは刑務作業などではなく、娑婆に出る前の余興。
 どうやら外の世界では殺人はよくないことらしいから、ここで発散ついでに殺人欲求を抑える方法を習得する。
 そのために、氷月はずっと〝辛抱〟していた。

(鑑日月────あれはもうダメだ、二人を殺せない)

 氷月は最初、鑑日月を利用して長期的にミッションをこなすつもりだった。
 言葉巧みに誘導し、叶苗かアイのどちらかを殺させて退路を断つ。
 そうしてコントロールした日月と共に参加者を殺して回り、最後に日月を始末する。
 これが第一のシナリオだったが、川のほとりで覗き見た叶苗とのやり取りで完全に見限った。

751Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:22:59 ID:uZZUcUfA0

 偶像への未練から多少は利用価値があると思ったが、つまらない情に心を揺さぶられている。
 その気にさせたところで実行に移せず、下手をすれば自分へ反抗するかもしれない。
 少なくともあの瞬間、〝マーダーライセンス〟が映し出した選択肢の中に、そのシナリオは含まれていなかった。

「50ptか、三人纏めて殺せるのなら随分安上がりだな」

 逆を言えば、
 今の氷月の行動は、マーダーライセンスが映し出した、確実に殺せる方法。
 アイ、叶苗、日月の誰か──もしくは全員がこの道を通るように誘導する。
 未来予知ではないため、それは氷月自身が行わなければならないが、これまで築き上げた信用を鑑みれば造作もない。

 それに多少粗があったとしても、だ。

「やれやれ、我慢なんてするもんじゃないね」

 氷月はこれ以上、殺人衝動を抑えられそうにない。

 本当に、苦痛だった。
 無防備に背中を見せる叶苗達には、夥しいほどの〝殺し方〟が浮かび上がっていた。
 殺せないタイミングの方が少なかったくらいだ。
 氷月は何度も手を出しかけて、その度に役割を思い出し自らを制止していた。
 人を殺さないということは、こんなにも辛いことなのかと、ひどく思い知らされた。

「もう我慢しなくていいんだと思うと、こんなにも世界が綺麗に見えるのか」

 時刻は第二回放送より三十分前。
 その放送を機に、人の心を喪った冷血漢は動く。
 家族だの、幸せだの、そんな夢を語る囚人共に現実を突きつける為に。

 けれど氷月は、同時に冷静さを欠いていた。
 それは彼自身でも認識できないほど些細なもの。
 しかし、胸奥に眠る〝憎悪〟の感情。叶苗が放った綺麗事を聞いてから、ずっと巣食うノイズ。
 そのせいで氷月は、予定よりもほんの少し早く行動に移した。

 それがどう転ぶのかは、分からない。
 マーダーライセンスはあくまで、答えしか映し出さない。
 道を進むのは、あくまで自分自身なのだから。

752Deep eclipse ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:24:14 ID:uZZUcUfA0
 

【D-7/橋付近/一日目・昼】
【氷月 蓮】
[状態]:健康、憎悪の感情
[道具]:Tシャツ、ナイフ3本、フォーク3本、遠隔起爆用リモコン、デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt(残り特権150pt)
[方針]
基本.恩赦Pを獲得して、外に出る
0.ひとまず民家に戻る。
1.ジョーカーとして、ミッションを達成する。
2.集団の中で殺人を行う。
3.鏡日月は利用できない、別の手で集団を崩壊させる。

※ジョーカーの役割を引き受けました。
 恩赦ポイントとは別枠のポイント(通称特権ポイント)を200pt分使用可能です。
 また、以下の指令を受けています。
① 刑務作業に消極的なグループに紛れ込み、6時間以上過ごす。(達成まで残り30分)
② 刑期に関係なく最低でも3人以上の参加者の殺害。

753 ◆NYzTZnBoCI:2025/08/02(土) 07:24:31 ID:uZZUcUfA0
投下終了です。

754 ◆H3bky6/SCY:2025/08/02(土) 13:29:30 ID:AOq414Tw0
投下乙です

>Deep eclipse

激しく状況が推移する他と違ってこのグループだけは離れたところで長期間一緒にいるので独自の空気がある
氷月とかいう心の隙間に滑り込む妖怪を除けば、まっとうにこの廃墟で理解を深め距離を詰め続けてきた日月と叶苗
アイちゃんはペット枠に収まっている

日月は闇属性なので光属性に弱いのに、その光に救われているという矛盾が彼女の魅力でもある
ジェンヌへのコンプレックスはいまだ根深く、東西の逆側にいるジェンヌの動向がこのグループに強い影響力を持ち続けているのは面白い
日月と杏、美火が同級生というのは意外すぎる関係値。同年代のJKという意味ではそうなのか、杏と同じと言う事は影薄くて忘れられてるだけで、本条さんもなんだろうか……?

私のために人が殺せる?と言うヤンデレ彼女のような問い
日月からすれば突き放すつもりの意地悪な問いのつもりだったんだろうけど、これに乗ってしまえるのは叶苗もちゃんとアビス住民なんやなって
とはいえ、巻き込まない対象にアイだけじゃなく氷月も含まれているので、氷月にいたいする依存も健在であるのは不穏なものがる

絆を深める少女たちの裏で動き始めたジョーカー
氷月はヴァイスマンじきじきに選出したって話だったので役割を持たされていても納得感はある
しかし、制限時間24時間しかないのに6時間過ごせってのは結構な無茶振りである
道具もそろえて、動き始める氷月。表面上穏やかだったこのグループもついに崩れるのか

755 ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:06:32 ID:4LBBoYsI0
投下します

756愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:07:38 ID:4LBBoYsI0
 港湾の管理室内は、鉄錆と死の臭いが満ちていた。

 ルーサー・キングは己のスーツの襟を指先で整える。
 そして、床に転がった二人の死体を無感動に見下ろした。
 かつて自分が利用しようとしたものの、後になって叛逆を企てた存在。
 なんてことはないチンピラ。
 二人のことなど、もはやどうでもよかった。

 超力で生み出した鋼鉄の刃物で二人の首を切断し、血に濡れた首輪を拾う。

 首輪を見下ろす。
 恩赦ポイントは貴重だが、元々キングの刑は軽い。
 キング自身にあまり旨味がないのだ。
 新しい駒でも見つかった際の取引として使えるだろう、と、首輪についた血を拭いて懐に入れた。

 自分が屠った死体を足で探り、キングは気付く。
 彼が持っていた『システムA』機能付きの枷がない。
 ウサギの少女が付けていたアクセサリーも、見つからなかった。

「…………」

 自分に会う直前に、紗奈かりんか、どちらかに渡したのだろう。
 まぁいい。これから二人を追って、無理やり奪い取ればいいだけだ。
 キングが外へ向かおうとした時だった。



 管理室全体が、小さく揺れ始める。

 近づく地鳴り音。強くなる建物の揺れ。

「………これはいけねぇな」

 キングは立ち上がったまま、音のする方向を見る。

 秒も経たず、港湾の管理室全体を、巨大な氷の濁流が押し潰した。

757愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:08:35 ID:4LBBoYsI0



 港湾全体が巨大な氷の波に押し流され、更地同然となった周囲は氷に覆われ冷気を発していた。

「……ルー、サー」

 向こうから、氷を全身に纏った女が歩いてくる。
 右目には氷の義眼を宿し、右腕には刺々しい氷の義肢。
 氷に覆われた地面を一歩踏み締めるたび、その足跡には冷気と氷が生まれた。

 女は、女ではない。
 元は男だったのが、超力による整形で女となった。
 すべては彼の崇める存在ーージャンヌ・ストラスブールを模倣するため。
 唯一髪だけが、刑に服す中で地毛がの色が混じっていた。

「ルーサー……」

 ジャンヌの贋物ーージルドレイはゆっくりと前を見る。
「おいおい、サプライズもほどほどにしてくれよ」
 ジルドレイが怨敵と定めたルーサー・キングは、健在の姿のまま目の前にいた。
 目的の相手がここにいると踏んで、ジルはこのエリア全体に氷の波を放った。
 隠れる場所などないはず。
 だが、当のルーサーはここにいる。
「……ルー、サァァ」
「サプライズにはなァ、とっておきのパイとチキンを用意するモンだぜ。テンション上がってヤクで飛びたがるやつもいるがな」
 殺気立った目で相手に睨まれようと、ルーサー・キングは動じない。
 悠々と目を伏せ、冷風で少しよれたストールを、キングは指先で丁寧に直した。
「で、どうした?ジャンヌもどきのジルドレイ。あいにく今はおまえさんのジャンヌごっこに付き合ってやる義理はねぇんだ」
「……ルゥゥゥゥ、サァァァアァァ、」
 ジルドレイの目が見開かれ、義眼が殺意に煌めく。

「ルーサー・キングッッッ!!!」

758愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:10:35 ID:4LBBoYsI0

 ジルドレイは二発目の氷の大波を放つ。
 先ほどより疾く、広範囲。
 キングは氷が到達する前に鋼鉄のバリアで自分の周囲を覆う。
 氷の大波が、キングの張った鋼鉄の膜を押し潰す。

「……ハッ」
 攻撃が当たったと確信したジルは、白い息を吐く。
 その時だった。

「よう」
 そこにいないはずのキングが、ジルの背後から気さくに声を掛ける。

「ッ!!貴様ッ!!!」
 ジルは動揺を殺意に塗り潰し、背後のキングに向け氷の剣を振る。
 氷と白い冷気が舞い、周囲を白く染め上げる。
 キングは一歩、二歩と下がりながら、微妙に身体を逸らし剣を回避する。
「滅びろッ!!」
 氷の剣の一突きを、ジルはキングに浴びせようとした。
 だが、寸前でキングは分厚い鋼鉄の膜を作り、氷の剣と相殺させる。
 ジルは怒りで咆哮しながら更にキングへ踏み込んだ。

「去ねッ!!!」

 ジルドレイの右腕の義肢が歪な形に伸び、鞭のようにキングに襲いかかる。
 キングは避ける。
 ジルは、巨大な氷の翼を展開し、高速で滑空しながら避けるキングを追いかける。
 キングはジルと一定の距離を取りながら、自身の足元に生み出した鋼鉄を推進力に移動ーー微妙な調節で氷の義肢を避けてゆき、死角を狙われた際は即席の鋼鉄の壁でその身を守る。

(つまらねェな……)

 キングはジルとの戦いの最中、目を逸らす。
 その視線の先は、りんかたちが飛び出していった方向だった。
 このままこのジャンヌもどきの相手をしていてもしょうがない。
 そろそろ切り上げてりんか達を追うべきか……そう考えていた時だった。

「ジャンヌの意志に散れッッ!!!」

 ジルドレイが氷によって自らの分身を産み出し、左右に方向から氷の義肢を放つ。
 キングは思案をやめ先ほどのように後ろに避ける。
 その時、背後からの氷柱がキングに襲いくる。
 左右と後ろからの同時攻撃。
「ーーちっ」
 ルーサー・キングは舌打ちする。


 冷たく白い冷気が、ジルの攻撃により噴き上がる。
 ストールを巻いた体に攻撃が直撃する。

759愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:12:52 ID:4LBBoYsI0
捕らえた。
 ジルドレイはその身を捕らえたまま、あらゆる方向から氷の槍を放ち、刺す。
 頭上、真下、左右。
 ルーサー・キングだったものが氷の槍で串刺しになっていく。
 上等なストールが氷の槍でずたずたに裂かれ、ゆらめく。

(ーーおかしい)
 ここでジルドレイは何か違和感を感じた。
 刺している手応えが人間のそれではない。

 違和感の正体にはすぐに気づいた。
 冷気が晴れる。
 氷に刺され、ボロボロのストールの巻かれた人型の鉄屑。
 キングだと思っていたその身体は、彼が鋼鉄で生み出したダミーだった。

 「ーーーーッ」

 ジルドレイが気づいた時にはすでに遅かった。
 刹那、ジルの足元の地面が大きく崩れ出し、地中から無数の鋼鉄の触手が現れる。
 それは虚を突かれたジルを容易に拘束し、彼の全身を締めつけた。

「ちょっとした、カンタンな事なんだよ」

 地中から、ストールを失ったキングが現れる。
「てめえは気づかなかったようだがな」

 その傍には彼の超力で生み出したドリルが二つあった。

 ジルドレイはここで理解する。
 キングは地面に穴を掘り、地中を通って移動したのだ。
 最初の氷の波で彼を逃したのは、港湾の管理室の床にキングが穴を空けていたからだと。

 鋼鉄のドリルが嫌な金属音を立て、ジルの周囲をゆっくりと廻る。
「安心しな。このドリルで怖いことはしねェよ」
 キングは足場を生み出し地上へ昇り、ジルドレイの前に移動する。
 ニィ、と笑うとジルの眼前に顔を近づける。
 黒く大きな右手で、ジルの両頬を掴む。

 キングはその手から液状化した鋼鉄を生み出し、ジルドレイの口内に無理やり流し込んだ。
「………!!!!」
「静かにはしてもらうけどな」

 キングが生み出した鋼鉄はどんどん広がり、ジルドレイの全身、体内の臓器に侵食してゆく。
 もがき続けるジルをよそに、キングは冷たい目で鋼鉄を流し続けた。
「ここだけの話だがな。実は俺ァ、さっき面倒なことがあってな。ずっとイライラしていたんだ」
「……ッ、ッッ、……!!!」
「じたばたするな。うざってぇよ」
 キングは黒く骨張った手でジルの頬を引っ叩く。
 その体内に流し込んだ鋼鉄を超力でねじり、彼の内臓の一部を、死なない程度に破壊した。
「………!!!」

その時だった。

「……めなさい」

 周囲を覆う冷たい空気の中に熱気が混じる。
 熱い空気が生まれた方向を、キングはゆっくりと見た。
 覚えのある空気。
 そう、あの女が来たのだ。

「ーーやめなさい、ルーサー・キング!!」

 巨大な炎の翼を推進力にし、炎の剣を構え、ジャンヌ・ストラスブールが突進してきた。

760愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:13:33 ID:4LBBoYsI0



 ジャンヌ・ストラスブールは炎の翼を広げ、港湾を目指していた。
 人々を苦しめ、搾取するルーサー・キングを倒すため。
 暴走するジルドレイを、これ以上罪を重ぬよう止めるため。

 港湾に着いた彼女は見た。
 冷気に覆われ、氷の大波で破壊された港湾。
 そこでジルドレイを縛り、いたぶるルーサー・キング。

 一瞬驚きはした。
 だが、それは彼女が退く理由にはならない。

「ーーやめなさい」

「ルーサー・キング……!!」

 ジャンヌは炎の翼を一層大きくし、剣を構え、キングへ突進した。

761愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:14:51 ID:4LBBoYsI0



 キングは突撃してくるジャンヌを忌々しげに見やると、

「半日ぶりだなァ。おらよ」
 ジルの触手をバネ状にしならせ、そのままジャンヌに投げ飛ばした。

「ーーッ」
 ジャンヌは咄嗟に攻撃をやめ、ジルを受け止める。
 動けぬジルを優しく抱え直した後、敵意のこもった眼差しでキングを睨む。
「………ルーサー・キング」
「てめえには会いたくなかったんだがなァ……」
 ジャンヌからの敵意にも動じず、キングは乾いた笑いを発する。
「その坊やはくれてやる、お嬢さん。体内にたっぷり鉄を流し込んだ。おまえさんのその傷だと治療キットを出せる恩赦ptもないな?どの道助からないさ。聖女の慈悲とやらでこの哀れな坊やを救ってやれよ、ハハハッ」

 ジャンヌはルーサーに返事をせず、己が今抱いているジルを見ていた。
 彼を抱く細い腕に、力がこもる。
 呼吸もできずに痙攣するその身体を、ゆっくりと抱え、そっと地面にしゃがむ。

 口を塞がれたジルは喋れない。
 ジャンヌに話したい事がいくつもあるのに、それもままならない。
 鋼鉄の流し込まれなかった目を、不安げに震わせる。 
「大丈夫ですよ」
 ジャンヌは抱き抱えたジルを優しい眼差しで捉え、微笑む。

 刹那、ジルの身体を金色の炎が包んだ。

「……ほう」
 その様を見ていたキングは腕を組む。

 炎は激しく燃え上がり、ジルの身体を灼く。
 彼にこびりついた鉄塊が、炎の熱で溶けてゆく。

(ーー暖かい)
 だが、炎に包まれた当のジルは、熱さをまったく感じていなかった。
 春の朝日に当たっているようなーー心地よい暖かさを感じていた。

 ジャンヌ・ストラスブールは、炎を自在に操ることができる。
 炎から熱を発さず、照明に使うこともできる。
 その応用で、彼女は炎の熱を感じさせないで対象を燃やす方法を覚えたのだ。
 
 慈悲の炎。

 ジルドレイには元来感情というものがない。
 神に触れ覚えた怒りも、彼が狂気に冒されたゆえに得た感情だった。
 
 だが、もしも。
 あたたかい感情というものが生まれる瞬間があるのなら。
 きっとこういう時なのだろうと、ジルは思った。

 ジャンヌは目を閉じ、燃えるジルの身体をそっと抱き寄せた。





 キングは煙草を吸いながら一部始終をしばらく見ていたが、
「ーーいい茶番を見せてもらったぜ。それじゃ、俺は用があるんでな」
 りんかたちの元へ行こうと、踵を返そうとするが、

 ふいに、何か違和感を感じキングは止まる。
 足元を見る。右足に、血がじわりと広がっている。
 遅れてやってくる痛みに、キングは、右足首を小さな氷柱で貫かれたのだと理解した。
「ーークソが」
 キングは舌打ちし、氷柱を生み出した主を見た。
 燃えながら手を掲げていたジルドレイは、キングに対し、最期の悪あがきとばかりに目を笑みで歪ませる。
 贋物の聖女が掲げた手が、炎の炭と消える。
 彼は最後にジャンヌの眼差しを見上げ、その微笑みを真似て見せると、炭になり燃え行く行く身体でゆっくりと目を閉じた。

762愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:15:35 ID:4LBBoYsI0



 慈悲の炎に灼かれる中、ジルドレイの胸中には何度も走馬灯が巡っていた。

 かつて惨たらしく殺した人々の姿を、ジルドレイは思い返す。
 傷つけ、辱め、犯し、殺してきた人々。

 後悔はない。
 ジャンヌのすべてに倣った結果だ。
 ジルドレイ=モントランシーには元来感情がない。
 ジャンヌの善行も、その悪行も、彼女がやっていればすべて正しいと信じてきた。
 そう思い、彼女を模倣した。
 彼女に少しでも近づく。
 それが自分の正しい在り方だと信じて。

 数秒前の記憶を思い返す。
 瀕死の自分を抱き抱えたジャンヌが、炎と共に微笑みをくれる様を。

『………とう』

 ふいに、止めどなく流れる走馬灯に一瞬、異物のようなものが入り込む。
 
『…り……とう』

 その異物はジルの中でどんどん大きくなり、はっきりとした輪郭を現す。


『ありがとう』


 それは子供の笑顔だった。
 ジャンヌに倣い悪を成す前のジルが、善行を行った際の記憶だった。
 今際の際に自分に微笑んでくれたジャンヌの姿が重なる。


『ありがとう』


 かつてジル自身が助けた人々が、笑顔を、時に涙を浮かべ感謝を述べる。
 その様が、奔流のように心に湧き出た。


『ーーありがとう』



(……あぁ)


 かつてやり残したこと。
 本当にやるべきだった事。
 今更、気づいた。


 慈悲の炎に灼かれ尽くす間際、ジルは思う。



(死にたくない)



【ジルドレイ・モントランシー 死亡】

763愛おしき報い ◆8vsrNo4uC6:2025/08/02(土) 18:16:43 ID:4LBBoYsI0






 ジャンヌはジルが炎に消えるとゆっくりと立ち上がり、キングを見据える。
 炎の翼を背に生み出し、手に精緻な装飾の炎の剣を作り上げる。

 キングは光のない目を細め、ジャンヌに向き直る。
 足元に形の定まらぬ鋼鉄の水溜りを生み出し、右足首を止血し、固定する。
 ポケットに手を入れ、聖女を見やる。

 冷気と共に冷たい風が吹く。
 両者とも、静かに立つ。


 二人の攻撃は放たれることはなかった。

 最初に、キングが一歩後退した。
 ジャンヌもまた少し遅れて何かに気付き、後退する。

 キングとジャンヌ、両者を挟んだ地点にーー上空から、太陽を遮る巨大なものが落ちてきた。

 それは空中で何度もクルクルと回り、落ちる最中また一回転しーー氷で覆われた大地にヒビを作り着地する。
 冷気が舞い、広く白い霧が生まれる。

 キングとジャンヌは少し驚愕し、だが決して警戒を緩めず乱入者を見た。

 冷気が晴れる。
 巨体が立ち上がり、その全貌を見せる。
 それは鋼鉄を山にしたような肉体、燃える炎のような眼光。

「ーー我が名は、大根卸樹魂」

 豊かな黒い三つ編みを揺らし、漢女(おとめ)は言う。

「突然の乱入、失礼する。ーーこの戦場で、弱き者への助太刀に来た」
 





【B-2 港湾/一日目・午前】


【ルーサー・キング】
[状態]:右足首に刺し傷(鋼鉄で固定済)
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1(あと一本)、タバコ(1箱)、セレナ・ラグルスの首輪(未使用)、ハヤト=ミナセの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
4.目の前のジャンヌ=ストラスブールと大根卸に対処する。
5.ルーサー・キングを軽んじた以上、りんか達もこれから潰す。手段手法は問わない。
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました
※ギャル・ギュネス・ギョローレンが購入した物資を譲渡されました(好きな衣服、煙草一箱、食料)

【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(大)、全身にダメージ(大)、右脇腹に火傷
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.目の前にいるルーサー・キングを倒す
2.突然現れた漢女に対処。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。

【大金卸 樹魂】
[状態]:胸に軽微な裂傷と凍傷、疲労(中)
[道具]:なし
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.強者との闘いを楽しむ。
0.この戦場で弱き者のため、拳を振るう。
1.新たなる強者を探しに行く。
2.万全なネイ・ローマンと決着をつける。
3.ネイとの後に、りんかと決着をつける。
4.善意とはなにか、見つけたい。誰かのための拳に興味。

764 ◆H3bky6/SCY:2025/08/02(土) 21:54:02 ID:AOq414Tw0
投下乙です

>愛おしき報い

とうとう港湾に到達したジルドレ、標的のルーサーだけしかいない状況だったのは他を巻き込むことにならずよかったのか
しかしルーサーが強い、ジルドレ相手にも余裕を崩さず、腰が重いかと思いきや後ろに回り込む儀動力までありやがる
物質具現化系超力者、分身を造りがち。液状金属飲ませてくるのは流石に怖すぎる

そこに颯爽と登場するジャンヌ、なんというヒーロー属性
冷静に状況を判断し、慈悲の炎でジルを介錯する、覚悟が決まりすぎている

フレゼアとは違う道筋を辿り、悪行を最後まで後悔することはなかったが、それでもようやく得た感情で最期にありがとうと残す
憧れの存在に看取られながら死にたくないと願う、彼に救いはあったのだろうか

この強者しかいない空間でどっちが弱者だと問わんばりの漢女の乱入、挑発だと捕らえられてもおかしくない言葉、そうなったところで望むところだろうが
彼女が誰につくのか、それが戦況を左右するだけに注目したいところ

765 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:23:14 ID:wecyTMYg0
投下します。

766破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:23:51 ID:wecyTMYg0



『僕にとって』

 
 その武勇を以て。その生き様を以て。
 彼女は、抑圧される者達の希望となった。


『私にとって』


 あらゆる権威と規律を、意にも介さず。
 ただ己の強さのみを貫き通す。
 そんな彼女の姿は、虐げられる誰かの指針となった。


『貴女は英雄です』


 彼女に出会い、彼女に救われ、彼女に灼かれた。
 そんな多くの若人達が、彼女の背中を追いかけた。
 それが修羅の道であることに気付くには、彼らは余りにも青過ぎた。

 そして、彼女もまた。
 彼らを導く術を、知らなかった。
 その術を、知ろうともしなかった。
 だからこそ、彼女は己の理念に従った。


『――――強くなれよ』


 それ以外に、掛ける言葉は無かった。
 それ以外に、与えられるモノなど無かった。
 我欲しか知らぬ武人には、我欲に沿って応えるほか無かった。

 自らに焦がれた若人達を、彼女はただ死地に送ることしか出来なかった。
 その意味も、責任も、彼女には理解出来なかった。
 彼女はただ我武者羅に、己の武を鍛え続けているだけなのだから。

 その漢女に導かれる者が、迷える子羊に過ぎないのならば。
 それを導く彼女もまた、迷える獣に過ぎなかった。

 だから漢女は、強さを求める。
 自らの存在を刻む術を、他に理解できなかった。




767破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:24:32 ID:wecyTMYg0



「突然の乱入、失礼する」

 白銀の凍土と化した港湾。
 砕け舞い散る、白煙の如し氷霜。

「この戦場で、弱き者への助太刀に来た」

 炎の聖女と、闇の帝王。
 因縁の狭間に割り込み、堂々と佇む武人。
 その漢女、まさしく筋骨隆々。
 仁王像のように直立し、両者に挟まれる位置にて君臨する。

「我は“善なる拳”を探究している」

 一言で云えば、無関係。
 何の縁も無ければ、この因縁との繋がりも無い。
 漢女はただ、己が求道の為に死地へと踏み込んだ。
 更なる高みを目指すべく、新たな戦いを求めて参じた。

「故に我は、貴公らを見極める」

 彼女は説く。己の論理を。
 傲岸に、大胆に、言い放つ。
 二人の因縁など意にも介さず。
 漢女は不遜な態度で、其処に在り続ける。

 故にこそ、巻き込まれた二人は言葉を失う。
 ジャンヌ・ストラスブールとルーサー・キング。
 怨敵同士たる両者が抱いた感情は、奇しくも同じものだった。


 ――――この漢女は、いったい何を言っている? 


 善なる拳。つまり、善行を成そうとしているのか。
 ならばキングを迷わず攻撃すればいいだけのこと。
 弱き者への助太刀という名目で、まさか闇の帝王を庇おうとする者など居るはずがない。
 ジャンヌが善行の人間であり、キングの組織に名を貶められたことも裏の世界ではもはや周知の事実。

 余程の無知か、何も知らぬ堅気でも無い限り、どちらが悪ではあるかは明白。
 常識で考えれば、ジャンヌに味方する以外の選択肢など有り得ない。
 
 しかし彼女は、その双眸を動かし――――至って真剣に両者を見定めている。
 どちらが弱者であり、どちらに味方すべきか。
 この二人を前にして、漢女は大真面目にその判断を下そうとしている。

 そもそもとして“弱き者への助太刀”とは、一体どういう意味なのか。
 帝王と聖女の対決を前にして“弱き者”とは、一体どういう了見なのか。
 二人の宿敵は言外に同じ当惑を共有していたが、やがて牧師“キング”が口を開き始めた。

「“拳鬼”、“災厄”、“武神”、“阿修羅”、“怪力乱神”……あるいは“重機”」

 その屈強なる風貌。鬼神の如き体躯。
 至高の武芸を求める漢女(おとめ)。
 彼女の噂は当然、キングも把握している。

「てめえを表す二つ名は数多にある。
 新時代の伝説とさえ呼ぶ者もいた」

 故に彼は、その瞳に警戒を宿す。
 鋭い眼光で射抜きながら、キングは問う。
 
「大金卸 樹魂。何のつもりだ」

 武人――樹魂は、キングと視線を交錯させる。
 闇の帝王が見せる眼光を前にしても、一歩も引かず。
 彼女はただ毅然と、巌のようにその場で腕を組む。

768破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:25:25 ID:wecyTMYg0

「……かつて世界各地に出没していたとされる“無双の漢女”。
 私も幼い頃、様々な地で噂を聞いていました」

 そしてジャンヌもまた、口を開く。
 眼の前の樹魂を見据えながら、炎の剣を握る。

「私はジャンヌ・ストラスブール。
 私からも問わせて頂きたい。貴女の望みを」

 帝王と聖女。両者の問いに対し、僅かな間のみ沈黙し。
 やがて自らの在り方を告げるように、樹魂が宣言した。

「我の望みは一つ。ただ拳を極めること」

 拳を極める――それこそが樹魂の渇望。
 彼女の望みは、常に其処へと行き着く。
 彼女の在り方は、常にその一点に集約される。

「――――その為に、学ばねばならぬ」

 そして今、漢女は次なる領域を求めていた。
 自らの限界と閉塞を打ち破るべく、ある言葉を胸に刻んでいた。

「未知なる極地。己が至れなかった矜持」

 ”善意で動く”。
 かつて共に過ごしていた”災厄の継承者”から告げられた言葉。
 彼女に英雄として生きることを望んだ、あの日の少年の願い。

「それは即ち、誰かの為に振るう強さ」

 漢女は今、それを実践せんとしていた。
 自らの天井を超える為の"未知なる領域"として、それを掴み取らんとしていた。

「我はそれを識りたいのだ。
 この拳に、絆という力を宿したい」

 新たなる求道を見出し、樹魂はその瞳に闘志を滲ませる。
 燃え盛る炎にも似た意志を、静かに滾らせる。

「故に此度の闘争、我は『弱者』の為に戦うことにした」

 樹魂はその言葉と共に、ゆっくりと拳を構える。
 あらゆる武術を貪欲に取り込み、己が体技へと昇華させた――我流の拳闘。
 まさしく重機を思わせる威圧と気迫を放ちながら、彼女は両者を見据える。

769破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:26:08 ID:wecyTMYg0

 さて、肝心の聖女と帝王はどうか。
 二人の反応は――――沈黙。
 眉間に皺を寄せ、訝しむように口を結ぶキング。
 呆気に取られるように、口を微かに開くジャンヌ。

 キングも、ジャンヌも、その視線は樹魂に向いていた。
 それぞれ先程の言葉を咀嚼し、取り留めのない様子を見せており。

「そうかい、殊勝なこった」

 暫くしてから、キングがそう言い放った。
 何とも言えぬ態度で、呆れ果てるように。

「修行なら他所でやりな、お呼びじゃねえよ」

 善意だの、絆だの、御託を並べているが。
 つまり彼女は、ただ己の思惑のためにこの戦場に殴り込んできたということだ。

「ブラックペンタゴンでも目指したらどうだ。
 きっとてめえなら張り合いがあるだろうぜ」

 合理と利益に生きるキングからすれば、全く以て傍迷惑な輩でしかない。
 何故お前の相手をしなくちゃならないんだと、煩わしげな眼差しを向ける。

「……貴女が相応の意志を背負っていることは、理解しました」

 やがてジャンヌもまた、毅然とした表情へと切り替えて樹魂に告げる。

「その助力の申し出にも感謝いたします。
 ですが、申し訳ありません。どうか退いて下さい」

 樹魂の唐突な介入と、我道に基づいた行動理念。
 その堂々たる宣言を前にジャンヌは暫し動揺を抱いたものの、それでも彼女が善意のために動こうとしていることは汲んだ。
 だからこそジャンヌは、あくまで樹魂の申し出を断る。

「あの男は私が引き受けます。
 貴女まで巻き込むつもりはありません」

 ルーサー・キングとの対決は己が引き受ける。
 この恐るべき帝王との対峙は、あくまで自分が担う。
 故に樹魂を巻き込むつもりは無かった。されど彼女が目指す善行の道には、確たる意味があると感じた。

「守るために振るう強さ。その想いは受け止めましょう」

 ジャンヌがつい先刻に遭遇した、氷藤叶苗たちのような受刑者――葛藤と苦悩の間に立つ者達。
 鑑日月のような、本質に善性を備える者達。
 あるいは自分のように、無実の罪を突きつけられた者達。

 そうした人々の力になれる可能性が、樹魂にはある。
 故にジャンヌは、彼女を諭そうとした。

「ですから貴女は、どうかこの地で――――」

 そう、諭そうとしたのだ。
 されど、ジャンヌが言葉を紡いでいた最中。
 彼女は咄嗟に、その手にある炎の剣を構えた。

 瞬間、壮絶な旋風が突き抜けた。
 縦に構えた炎の刃に、凄まじい衝撃が叩き込まれる。

 
 ――――樹魂が放った右拳。
 ――――暴風の如し正拳突きである。


 たった今、樹魂はジャンヌを攻撃したのだ。
 即座の防御が間に合ったことで、直撃こそ避けられたものの。
 常軌を逸した一撃を凌ぎ切れず、ジャンヌは吹き飛ばされ凍土の上を転がる。

770破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:27:00 ID:wecyTMYg0

「その負傷。その呼吸。その闘気――――。
 たった今、貴殿の全てを見定めさせて貰った」

 樹魂は残心の動作と共に、冷静沈着に告げる。
 ジャンヌは吹き飛ばされながらも即座に態勢を立て直し、そのまま跳ねるように再び立ち上がる。
 その眼差しには、自身を攻撃した武人への驚愕があった。 

「貴殿は既に疲弊し、摩耗している。
 それに、実力であの男に劣っているのも明白」

 ただ黙々と分析し、淡々と述べ続ける樹魂。
 この数分足らずの相対で、樹魂は両者の"格付け"を済ませていた。
 そしてジャンヌの制止を振り切り、彼女を躊躇いなく攻撃した。

 弱き者を守る、善意のための戦い――そう宣言した樹魂が、ジャンヌを殴り飛ばしたのだ。
 その余りにも異様な状況を前に、キングさえも目を細める。


「引っ込んでいろ。小娘よ」  

 
 大金卸 樹魂はいま、変わることを求めている。
 彼女の『武』は、新たな道を歩まんとしている。

「我が、貴殿を守る」

 幼き日より、強さ故に他者と断絶していた。
 以来、ただ武を極めてゆく生き様を見出した。

「我は、善なるものを希求する」

 その孤高の果てに、学ぶべき善を学ぶことも出来ず。
 ただ愚直に高みを目指し、己が限界を超え続けた。
 そんな彼女の貪欲な魂は、遂には善を説く師さえも打ち倒した。
 樹魂はまさに修羅の道を生き、我道を貫き続けた。

「守るべき命を背負いし闘争。悪くはない」

 あらゆる強者。あらゆる組織。あらゆる権威。
 この怪力乱神は自らの渇望に従い、ただ一人でそれらに挑み続けてきた。
 
 やがて樹魂は、この地の底に落ちた。
 それでも尚、正義や道徳を得ることは出来ず。
 己の限界への焦燥を抱き始めて。
 そして今、次なる道を見出していた。

「その果てに、我が拳は天をも穿くのだ」

 善意を、強くなるための手段として用いる。
 何故ならば樹魂は、善意が理解できないからだ。
 生まれながらにして孤高であり、強すぎた彼女は、人間としての決定的な欠落を抱えていた。

 即ち、他者への共感。
 感情や感性による歩み寄り。
 樹魂は、それを知らない。
 彼女はただ自らの強さと、強さを求める意思のみしか信じることが出来ない。
 真っ当な倫理や常識から、完全に道を踏み外している。

771破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:27:35 ID:wecyTMYg0

 ジャンヌはただ、言葉を失っていた。
 キングもまた、唖然としていた。
 一歩、一歩と、踏み出していく荒神。
 その威風堂々たる姿が、この場を支配していた。

 大金卸 樹魂は、誰よりも自由だ。
 故に彼女は、純然たる暴威を体現する。


「聖なる乙女よ。よく聞け」


 大金卸 樹魂は、善を理解できない。
 故に彼女は、それを手段として捉えるしかなかった。


「貴様が――――“弱き者”だ」


 大金卸 樹魂は、破綻者である。
 故に彼女は、逸脱していた。

 純粋なる英雄性に疑念を投げ掛けられ。
 その在り方に一石を投じられた今。
 彼女の本質的な暴力が、剥き出しとなる。

 責任なき武力。欲望への愚直な求道。
 正義を知らぬ怪物は、他者を狂わせる。
 その生き様によって誰かの魂を灼き、破滅の道を歩ませる。
 そして彼女自身さえも、そんな狂気と共に在る。

 牧師と聖女。
 彼らが、それぞれの悪を背負うのならば。
 この武人もやはり、ひとつの悪である。




772破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:27:59 ID:wecyTMYg0



『師範。どうか教えてください』

『私は何故、否定されねばならないのか』

『私はただ、武を極めることを望んでいる』

『それだけに過ぎません』




773破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:28:54 ID:wecyTMYg0



「せえりゃああああ――――ッ!!!」

 風を切る轟音と共に、魔拳が鋼鉄を打ち砕く。
 霜と鉄片が、まるで粉塵の如く舞い散る。

 周囲より迫り来る、無数の鋼鉄。
 まるで大蛇の如く伸縮しながら、殺到し続ける暴威。
 たった一人の獲物。孤高に君臨する武神をその身で抉らんと、鋼の群れが唸る。

「――――はぁッ!!!」
 
 大地を慄かせる程の震脚――。
 樹魂が凍土を踏み抜いた、その瞬間。
 まるで水面に波紋が拡がるように衝撃波が発生。
 四方八方から迫っていた鋼鉄の大蛇達が一斉に砕け散る。

 嵐に曝された家屋のように、砕けた鋼鉄の断片が吹き飛ぶ。
 その狭間を突き抜けるかの如く――――樹魂が地を蹴り、瞬時に躍動。
 砲弾を思わせる猛烈な勢いでの突進を敢行。

 目指す先に佇むのは、無論ルーサー・キング。
 キングは煩わしげに舌打ちをしながら、咄嗟にバックステップを踏む。
 後方へと下がり、武神との距離を保たんとする。

「でえええぇぇぇいッ!!!!」

 されど、キングは咄嗟の防御を強いられる。
 樹魂が咆哮を上げた直後、即座に鋼鉄の防壁を前面に展開。
 拳の射程外から襲い来る“衝撃の乱打”を凌いだ。
 凄まじい威力の打撃を浴び、鋼鉄がひしゃげて大きく歪む。

 遠当ての絶技――――“飛ぶ魔拳”。
 樹魂は突進をしながら連続で放ち、距離を取らんとするキングを追撃したのだ。
 
「ち――――ッ!!」

 魔拳に対する防御行動で後退を妨げられ、その隙に樹魂が一気に距離を詰める。
 舌打ちと共にキングがひしゃげた鉄壁を変形させようとした矢先、それよりも疾く樹魂が動いた。
 槍の刺突のように鋭い右の肘鉄が、鉄壁を真正面から打ち砕いたのだ。

 砕け散る鉄壁を目の当たりにし、キングはすぐさま両腕を鋼鉄で覆う。
 突進と共に迫り来る樹魂を前に、ボクシングの構えを取った。
 そのまま電撃的な勢いと共に放たれた樹魂の拳に対し、鋼の両腕を前面に構えて受け止める。

 鋼鉄の装甲の上からも、波紋のような衝撃が浸透する。
 防御体制のキングは、その威力を前にして一瞬の隙が生じる。
 そして――隙を逃さんと言わんばかりに、すかさず樹魂の肉体が躍動する。

774破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:29:33 ID:wecyTMYg0

「ぬぅんッ!!!!」

 嵐のような拳の乱打が、次々にキングを襲う。
 真正面からのストレート。
 牽制として連発されるジャブ。脇腹を狙うフック。
 真下より一撃を狙うアッパーカット。
 繰り返される猛攻。繰り返される暴風。
 それらの攻撃は、キングすら防戦に徹させる。

 絶え間なく襲い来る攻撃を前に、キングは只管耐え続ける。
 攻撃の僅かな隙を狙って、カウンターを放つべく機を伺っていたが――。


「――――ッ!!!!」


 しかしその隙を掴み取る間も無く。
 キングの肉体が、勢いよく後方へと吹き飛んだ。
 鋼鉄による防御すらものともせず、樹魂が一撃を叩き込んだのだ。

 鉄山靠――無数の拳の乱打から、流れるようにその技を放った。
 中国拳法の極技。流麗な所作で屈みながら力強く踏み込み、背面の体当たりを叩き込む。
 その一撃は、闇の帝王にさえも轟いたのだ。

 吹き飛ぶキング――しかし空中で体勢を整え、すぐさま両足に地を付ける。
 そのまま滑るように持ち堪えた後、地面に杭を打ち込むように立つ。
 ――片足の負傷が疼く。機動力への影響は軽微だが、油断はならない。

 キングの周囲一帯に、流体状の鋼鉄が展開される。
 そのまま鋼鉄を分裂させ、その一つ一つを鎌のような刃状へと変形させる。
 そして直後――――無数の刃と化した鋼鉄が次々に放たれる。
 まるで雨霰の如く、凄まじい勢いで刃が樹魂目掛けて殺到した。

「――――成る程。やはり卓越した超力の技巧よ」

 されど樹魂は、全く怯まない。
 ただ迫り来る刃の嵐を、真正面から捉え続けるのみ。
 そして、一呼吸を置き――――。


「はああああああああああッ――――!!!!!」


 右腕。左腕。交互に、規則正しく。
 そして俊敏に、前面へと突き出される。
 幾度となく繰り返される掌底が、迫り来る刃を全て打ち砕いていく。
 その掌には、相反する炎熱と冷気が宿る。

 大金卸 樹魂の超力――『炎の愛嬌、氷の度胸(ホトコル)』。
 自身の体温を自在に操る異能である。
 熱と冷という矛盾した性質を同時に発動し、そのエネルギーによって拳を強化。
 拳自体の威力に加え、壮絶なる温度差が鋼鉄に対する強烈な負荷を与え、迫る刃を次々に破壊する。

775破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:30:32 ID:wecyTMYg0

 樹魂が無数の刃を凌ぐ中、キングはその隙を突くように後退し続ける。
 バックステップを踏む最中にも、自身の超力の発動を決して怠らない。
 そして立て続けに、無数に生み出された鋼鉄の砲弾が樹魂に殺到していく。

「幾らでも来い――――受けて立とうッ!!!」

 対する樹魂は、刃を凌いでいた動作からすぐに体勢を立て直し。
 砲弾を拳で砕き、時に剛腕で受け流し、一撃たりとも受けずに切り抜けていく。
 全く怯まぬ様子を目の当たりにし、キングは苛立たしげに眉間に皺を寄せた。

 キングは、超力で生み出した鋼鉄を次々に使役する。
 大金卸 樹魂。拳闘を極めし武人を相手に、彼はまず接近戦を避ける。
 超力の物量を駆使した中距離戦闘へと持ち込まんとする。
 それは右足首の負傷への懸念も含めての判断だった。

 そうしてキングの意識が、樹魂へと向き続けていた矢先――。
 不意を突くように、死角の左側面から“炎熱”が迫った。
 キングがすぐさま身構えた。鋼鉄の左腕が、爆発的な焔と激突する。


「はああぁぁぁぁぁ――――ッ!!!」
「ジャンヌ・ストラスブール――――ッ!!!」


 吹き抜ける暴風のように突進してきた、灼熱の渦。
 炎の翼による推進力で衝突してくる、裁きの業火。
 キングは樹魂を狙って鋼鉄を使役しつつ、同時に奇襲攻撃をも鉄腕で凌いだ。


「――――てめえ、漁夫の利でも狙う気かよ」
「――――今は、貴方を討つことが何より先決です」


 キングは鋼鉄の左腕で、ジャンヌの炎剣を受け止めていた。
 衝突の最中の交錯。数年に渡る因縁を噛み締めるように、ジャンヌは言い放つ。
 対するキングは、酷く煩わしげな眼差しを宿していた。

776破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:31:06 ID:wecyTMYg0

「てめえにも分かるだろう。あの武人は殺した方が良いぜ」
「貴方に諭される筋合いなどありません」
「そう意地を張るな。ありゃあ狂ってるぞ」

 ほんの刹那の鍔迫り合い。
 ほんの刹那の遣り取り。
 其処へ割り込むように、ジャンヌの背後から巨影が迫る。

 筋骨隆々。仁王像にも似た武侠の戦士が、鋼鉄の砲弾を凌いで至近距離まで接近してきたのだ。
 そして、武人――樹魂は筋肉を躍動させながら、その右腕を引く。


「なッ――――」
「打ァァァアアアッ!!!!!」


 振り返らんとしたジャンヌの背面へと、樹魂が掌打を叩き込む。
 そう、あろうことかジャンヌへと一撃を与えたのだ。
 激しい衝撃が、水面を流れるように浸透していく。

 しかしジャンヌの身体に、一切のダメージは無かった。
 その背中、両肩、両腕。手首の先。握り締められた炎剣。
 聖女の肉体を経由し、掌打の熱量(エネルギー)のみが電流の如く流れていく。 
 行き着く果ては、炎剣との鍔迫り合いを行っていた“鋼鉄の左腕”。


 ――――そして、轟音が響く。
 ――――キングだけが、吹き飛ぶ。


 まるで巨大な鉄杭でも激突したかのように。
 漆黒の巨体が、轟音と共に打ちのめされたのだ。

 ジャンヌの身体に掌打を叩き込み、その破壊力を伝導させ、彼女との鍔迫り合いを行っていたキングにのみ攻撃を与える。
 筋肉の躍動と収縮、精密なる攻撃角度、そして研ぎ澄まされた闘気の操作。
 それらによって成し遂げられた、まさしく常軌を逸した魔技である。

 自らの超力による全身の超高温化でジャンヌの炎熱を耐えられるからこそ、この絶技を行使できる。
 いったい何が起きたのか、目の当たりにしたジャンヌでさえも一瞬理解が遅れた。

「漢女殿ッ!!感謝しますが、貴女は――――」

 何とか現状を掴んだジャンヌは、仄かな戦慄を抱きつつも樹魂へと意思を伝えようとする。
 自分(ジャンヌ)を守る必要はない。出来れば他の受刑者を――そう告げようとした矢先。

 ジャンヌの視界が、突如として回転した。
 樹魂の足払いによって、身体が宙を舞ったのだ。
 抵抗する間も無く、そのまま地面へと叩き伏せられる。

「――――え、」

 樹魂による突然の攻撃。唐突な乱心。
 その行動の意味を、ジャンヌは唖然としながら理解する。
 つまり――“邪魔だから退いてろ”ということだった。
 傍若無人。唯我独尊。まさに不遜の行為である。

777破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:31:59 ID:wecyTMYg0

 は、と声を上げた直後。ジャンヌは樹魂を何とか捉えようとした。
 しかし樹魂は既に、圧倒的な瞬発力で地を蹴っていた。
 そのまま猛烈な勢いで駆け出して、吹き飛んだキング目掛けて更なる追撃を行わんとする。

「何なんだよ、てめえは――――ッ!」

 先程の不意の攻撃を受けながらも、キングは受け身を取って態勢を立て直していた。
 距離が離れてゆく樹魂とキングを視界に捉えて、ジャンヌもまた再び超力を迸らせて追い縋ろうとした。

 苛立ちを隠せぬ牧師。困惑の渦中で何とか状況に喰らいつく聖女。
 唯我独尊の武神が、正邪の双璧を成す二人の対峙を、鍛え上げた拳ひとつで破綻させている。
 圧倒的な我道と暴力の前に、因縁さえも掻き乱されているのだ。
 宿敵二人にとって唯一の結託事項があるとすれば、それはこの荒れ狂う怪人に対して何とか当初の因縁を繋ぎ止めることである。

「――――だりゃああああああッ!!!」

 そんな二人の焦燥をよそに、駆け抜けた樹魂が勢いのままに跳躍。
 幅跳びのように空中で弧を描きながらキングへと接近。
 落下の速度に乗せて、右足の踵落としを鉄槌の如く振り下ろした。

 咄嗟に後方へと下がり、樹魂の踵落としを躱すキング。
 右足首の負傷により動作が僅かに遅れたが、それでも何とか直撃は回避する。

 ――――虚空を裂き、踵から地面に叩き付けられた剛脚。
 樹魂の右足を起点として、周囲に地割れが発生する。
 砕け散る氷塊。隆起するコンクリートの地面。
 まるで隕石が衝突したかのような衝撃が、地響きを引き起こす。

 瞬間、樹魂も予期せぬ“第二波”が発生する。
 キングが予め地面に仕込んでいた“流体の鋼鉄”が、地面の亀裂に食い込むように周囲へと拡散。
 拡散した鋼鉄が更なる地割れを発生させ、樹魂が着地した一帯を崩壊させる。

「死ねよ、狂犬」

 足場を破壊され、思わず態勢を崩す樹魂。
 その隙を狙い、地割れの射程外でキングが指を鳴らす。

 地面に浸透した“流体の鋼鉄”が、地割れの狭間から次々に噴き出す。
 まるで噴水や湧き水を思わせる勢いで各所から噴射される鋼色。
 それらが宙を舞い、重力に従い、水飛沫の雨のように周囲へと降り注いでいく――――。


「ぬうぅぅ――――ッ!!!!」


 その一滴一滴、全てが凶器。全てが凶弾。
 勢いよく噴射され、宙から降り注ぐ鋼鉄の飛沫。
 コンクリートをも貫通し、抉り取る程の威力を持った鋼の雨。
 態勢を崩した樹魂へと、それらが一気に襲い掛かる。

778破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:33:19 ID:wecyTMYg0

 咄嗟に両腕を真上に構えて、防御を試みた樹魂だったが。
 その屈強なる腕を、胴体の各所を、怒涛の勢いで鋼鉄の雫が抉り続ける。


「くたばりな」


 身体を血で染め、苦悶の表情で堪える樹魂。
 身動きも取れぬ彼女に更なる追い討ちを掛けるべく、キングが右手を構えた。
 その掌に鋼鉄の質量を収束させ、砲弾の如く放たんとした。
 しかし樹魂の全身からは、絶えず闘気が迸り続けていた――。


「――――ぜぇぇぇいッ!!!!」


 そして、乱神が吼える。
 防御から両腕を解き放ち、中腰の体勢となる。
 全身の筋肉が、膨張していく。肥大化していく。
 超力による体温上昇、それに伴う身体機能の超活性化。
 機動力や瞬発力と引き換えに、筋肉がまるで装甲のように硬化される。

「何……!?」

 眼前の光景に、キングは驚愕する。
 降り注ぐ鋼鉄の雨が、肥大化した筋肉によって弾かれているのだ。
 樹魂は超力の恩恵によって自らの肉体を強化、無数の攻撃を防ぎ――同時に全身の傷口を強引に塞いで止血した。
 膨張した肉に触れた鋼の雫は、その皮膚を抉ることも敵わず、全弾が四方八方へと飛散していく。 

 開闢を経て、全人類は超人と化した。
 拳銃弾を至近距離から躱す者も、鉄の装甲を打ち砕く者も、裏の社会では最早珍しくもない。
 されど、自らの肉体の練度をここまで引き上げている者は、世界広しと言えど限られている。

 全身の体温を上げて身体機能を活性化し、帝王の超力を筋肉のみで弾く?
 そんな巫山戯た真似が出来るのは、他ならぬ漢女だからである。

 彼女は既に、人類の頂点に立っている。
 彼女はとうに、人類最強の武人と化している。
 純粋な体術において、彼女は究極に至っている。
 肉体的な強さにおいて、もはや大金卸 樹魂を超える者はいない。


 キングの驚愕の隙間を縫うように。
 焔の疾風が、鋼鉄の雨を突き抜けていく。


 それは樹魂のすぐ傍を通り抜けるように、一迅の風と化す。
 ただの瞬発力ひとつで、降り注ぐ凶弾を振り切り。
 被弾を最小限に抑えながら――キングの眼前へと、瞬時に肉薄した。
 ジャンヌ・ストラスブールが、ルーサー・キングに再び迫る。

 突進の勢いを乗せた“炎剣の刺突”が、牧師へと迫った。
 愚直。馬鹿正直。直情的な攻撃。
 されど、ただ単純に“疾い”。
 荒れ狂う暴風のような勢いを備えた炎熱が、キングを貫かんとした。

 驚愕の隙を突かれたキングは、防御が間に合わず――咄嗟に回避を試みた。
 されど、聖女の凄まじい瞬発力。驚愕によって生じたコンマ数秒の空白。
 そして右足首の負傷によって、僅かながら動作が遅れた。
 その遅延こそが、帝王にとっての痛手となる。
 

「――――――ッ!!!」
 

 炎剣の直撃そのものは回避した。
 しかし刺突の刃は勢いよく脇腹を抉り、更には炎熱によって皮膚を焼く。
 表情を歪めるキング。掌に収束させていた鋼鉄が、霧散する。
 咄嗟に拳での反撃を試みたが、ジャンヌは突進の勢いによってキングの側面を横切っていく。


「――――漢女殿が己を突き通すならば。
 私もまた、己の正義を貫くまでのこと」


 今のジャンヌ・ストラスブールは、義憤を背負っていた。
 氷藤 叶苗とアイ。この悪辣なる牧師に掌握され、苦しめられた二人の少女。
 日月に託した少女達の哀しみを背負い、ジャンヌはここに立ち続けている。


「ルーサー・キング。貴方を討ちます」


 善を背負う者は、強い。
 愛を背負う者は、強い。
 されど、善や愛とは強さそのものではない。
 その意志に突き動かされ、心身を高めていくことが強さなのだ。 

 ――――今のジャンヌは、まさにそうだった。
 他者への慈しみ。他者のために戦う義憤。
 彼女の超力は、最初に牧師と対峙した際の限界を超えていた。

779破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:33:47 ID:wecyTMYg0

「く…………ッ」

 キングの負傷によって“鋼鉄の雨”の制御が乱れる。
 地面に仕込まれた“流体の鋼鉄”の枯渇も重なり、噴射が止まる。
 降り注ぐ鋼鉄によって足止めされていた樹魂が、解き放たれる。


「フン、じゃじゃ馬め――我が庇護よりも矜持を優先するか。
 構わぬ。貴殿が我を拒むなら、我もまた己が意志に従うまでッ!!」


 ――硬化させていた筋肉を、再び体術に最適な形態へと戻す。
 肩を鳴らし、拳を構え直して、武神は牧師を再び見据える。
 弱き者を守りながら、強き者と対峙する。ジャンヌの意地を前にしても、樹魂は己の試練をあくまで貫く。
 なんたるエゴか。なんたる漢女の情熱か。

 その闘気を研ぎ澄まし、剛拳を構える樹魂。
 炎の翼を揺らめかせ、牧師と武神の双方を警戒するジャンヌ。
 脇腹の手傷を鋼鉄で止血し、眉間に皺を寄せるキング。
 三者が一定の距離を保ったまま睨み合い、そして再び動き出す。

 ジャンヌも、キングも、最早受け入れる他無かった。
 ただ只管に強すぎる武人が猛威を振るい、因縁の対峙を存分に踏み荒らしている、この異常事態を。


「我は今、限界を越えてゆく――――」


 自らの更なる高みを仰ぐ闘争。
 自らの更なる極地を目指す死闘。
 大金卸 樹魂の胸には、闘志が迸っていた。
 怪力乱神の瞳には、全てを焼く炎が宿っていた。


「――――我はまだ、極めねばならぬ」


 樹魂の心に、善や愛はない。
 彼女の中にあるのは、武への探究。
 漢女はただ純粋に強かった。

 例え善意なるものを誤解しようとも。
 勇猛なる武勇によって、彼女は強引に道理を踏み倒してしまう。
 聖女が背負う強さの根源を、平然と飛び越えてしまう。
 だから樹魂は善を抱くジャンヌの在り方より、自らの高揚を優先する。

 そう、樹魂は強すぎる。
 余りにも、強すぎたのだ。
 だから彼女は真に学べないのだ。
 人の心、人の道というものを。

 それが彼女の悲劇なのだ。




780破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:34:20 ID:wecyTMYg0



『師範。何故“心”が必要なのですか』

『何故“仁”や“義”を学ばねばならぬのですか』
 
『この世に生まれ落ちた時から』

『私は、人の道に拒まれていた』

『それでも構わぬと、私は武の生き様を選んだ』

『それが全てです。それだけが真理』




781破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:35:52 ID:wecyTMYg0



 ――――戦局は、佳境に突入していた。
 ――――牧師と武神が、正面から打ち合っていた。

 高温と低温。相反する熱量を纏い、激しく拳を振るう樹魂。
 鋼鉄で強化した拳で防御しつつ、反撃の機を伺い続けるキング。
 両者の打ち合いと交錯が、激しさを増す。

 駆け引きで優位に立つのは、樹魂の方だった。
 彼女が攻め続けて、攻防の主導権を握っている。
 怒涛の拳撃で牧師を追い込み、彼を防戦一方にしている。
 近接戦闘は、やはり怪力乱神の本領なのだ。

 樹魂の攻撃が激しさを増す中、キングは幾度となく距離を取ることを試みた。
 鋼鉄の防壁を展開し、後方へと下がろうとする――そんな場面が何度もあった。

 その度に、聖なる焔が駆け抜けた。
 キングが打ち合いから逃れようとすると、すかさずジャンヌが奇襲を仕掛ける。
 猛烈な勢いの突進によって、キングを攻め立てていく。
 その突進を凌がれようとも、炎の翼から放たれる遠距離攻撃で足止めを行う。

 そうしてジャンヌの奇襲や足止めに対処している隙に、再び樹魂が接近する。
 戦闘が続く中で、キングを追い詰める戦線が成立していったのだ。

 これは聖女と武神の共闘なのか?いいや、違う。
 両者が互いのエゴと目的を押し通した結果、偶然に共闘のような構図になっているに過ぎない。
 それぞれが自己を貫き、利用し合い、反発しながらギリギリの均衡を保っている。
 その結果として、二人はルーサー・キングを追い詰めているのだ。

 ジャンヌは炎の翼で駆け抜け、キングと樹魂の攻防の隙を伺う。
 キングの行動に絶えず意識を向けながら、思考をしていた。

 大金卸 樹魂。
 彼女の存在は、全くのイレギュラーだった。
 紛れもなく、予想だにしない乱入者だった。

 引っ込んでいろと、傍若無人なまでの振る舞いを見せて。
 自らのエゴに従って、強引に戦局を掻き乱し。
 その凄まじい実力によって、牧師すらも追い詰めている。

 常軌を逸した状況を前に、初めは唖然とするばかりだった。
 彼女は何者なのかと、その異質な振る舞いに戸惑うばかりだった。
 されど、この戦場を駆け抜けていく中で――ジャンヌは思う。

 漢女は、ひたすらに拳を振るい続けている。
 まるで何かを渇望するように。

 漢女は、がむしゃらに道を極めようとしている。
 まるで何かを埋め合わせるかのように。

 漢女は、必死に自らの限界を越えようとしている。
 まるで何かを恐れるかのように。

 その叫びに、真なる歓喜は無く。
 飢え続ける獣のように、獰猛なる疾走に駆られていた。
 その求道は、もはや求道ですらなく。
 閉塞の中でもがき続ける悲壮が、滲み出ていた。

782破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:36:48 ID:wecyTMYg0

 彼女の拳に、善意など欠片も宿っていない。
 感じ取れるものは、我欲だけだった。
 彼女の強さの中に――“守りたいもの”など、何一つ見えないのだ。
 ジャンヌが抱いたのは、深い哀れみだった。

 それはこの世界に数多いるネイティブと同じ悲壮なのだろう。
 真っ当な道筋を歩めず、暴力でしか己を表現できなかった者。
 自らの強さに存在意義を支配され、善や道徳を得られなかった者。

 幼い頃から両親に付き添い、各地で慈善活動に参加し続け。
 やがて自警団の一員に加わり、数々の犯罪と戦うようになった。
 そんな中で、ジャンヌは力に飲まれた者達の悲劇を幾度となく目にしてきた。
 超力という生まれながらの力に翻弄され、狂わされ、道を踏み外した者達を何度も見てきた。
 だからこそジャンヌの洞察は、この“無双の武人”の本質を突いていた。


 ああ、この漢女は――。
 きっと、ひどく孤独なのだろう。
 ジャンヌは、そう感じていた。


 大金卸 樹魂は、開闢を迎えるまでもなく得てしまったのだ。
 歩む道を狂わせる、生まれながらの“暴力への切符”を。

 そして、極限まで研ぎ澄まされた暴力は。
 遂には、闇の帝王にまで到達したのだ。


「ぜええええいッ!!!!!!」


 側面から振るわれた右拳が、キングの脇腹に叩き込まれた。
 防御が間に合わず、爆ぜるような轟音が響き渡る。
 拳から衝撃が浸透していき――皮膚や筋肉、内臓を揺さぶる。

 キングが、その口から血を吐いた。
 強大なる帝王が、大きく怯んだ。
 その隙を逃す樹魂ではない。


「だりゃあああッ!!!!!!」


 フックのように鋭く放たれた左拳。
 猛々しい剛拳が、キングの側頭部に打ち付けられる。
 壮絶なる衝撃を受け、眼を見開くキング。
 歯を食いしばり、苦痛を堪えんとしたが――。


「でぇぇい――やあああああああッ!!!!!」


 凄まじい瞬発力と共に、武神が先に動き出した。
 その武勇によって、キングに反撃の隙すら与えず。
 高熱と冷気――相反するエネルギーを纏いし右掌底を、帝王の腹部に叩き込んだ。
 どぉん、と。まるで空爆でも行われたかのような爆音が轟いた。
 周囲に波紋が広がり、衝撃の余波が発生し、その熱量がキングの肉体へと収束する。

783破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:39:22 ID:wecyTMYg0


「ぐ、があッ……!!!」


 キングが、苦悶に表情を歪ませる。
 帝王として君臨して以来、味わったことのない暴威が襲う。
 あのルーサー・キングが、追い詰められている――。
 裏の世界に生きる人間にとって、それは紛れもなく異常事態だった。

 大金卸 樹魂は、余りにも、余りにも強すぎたのだ。
 そして我を押し通したジャンヌ・ストラスブールの“援護”によって、樹魂の領域へとキングが引き摺り込まれた。
 すなわち、至近距離での格闘戦。その戦場(リング)において、樹魂に敵う者はいない。
 例え“鉄柱”と恐れられた呼延 光でさえも、全力で死合えば樹魂に軍配が上がるだろう。
 それほどの怪物であるが故に、彼女は。


 ――――結局、分からないのだ。人の道というものが。



「はぁぁぁアアアアアアアアアアッ!!!!!!!」



 そしてキングが、吹き飛ばされた。
 掌底から立て続けに、左拳の一撃が一直線に叩き込まれた。
 連撃の威力と、放たれた拳の勢いが、キングに強力なダメージを与える。

 吹き飛び、横転し、地を転がり続け――。
 そのまま彼は廃材の山へと叩きつけられ、舞い散る粉塵に包まれた。

 廃材が、崩れ落ちる音が響く。
 まるで瓦礫の山に沈むように、帝王の姿が見えなくなる。
 粉塵と鉄屑の中に飲み込まれるように、崩落に包まれ。
 熾烈なる戦場に――――静寂が訪れた。

 炎の翼を展開していたジャンヌは、やがて呆然と立ち止まる。
 呆気に取られたように、瓦礫へと埋もれたキングの方を見据える。
 静寂。沈黙。気配は、静まり返っている。
 肩で息をして、呼吸を整えて。目の前の現実を、咀嚼する。

 ゆっくりと流麗に、残心の所作を取る樹魂。
 眼を閉じて、一呼吸を置き――再び静かに瞼を開く。
 まさに武の化身を思わせる動作と共に、彼女は帝王の沈黙を捉える。

784破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:40:31 ID:wecyTMYg0

 ――――勝った、のか。
 ジャンヌは茫然と、その現実を見つめる。
 牧師の打倒。それは彼女の目指すところであり、為さねばならないことであった。
 その試練がこのような形で果たされるなど、予想していなかった。

 圧倒的な強さ、拳を極めた武人。
 その唐突な介入によって、牧師が打ち倒された。
 常軌を逸した事態。しかし、それが事実だった。
 そんな現実を前に、ジャンヌは樹魂を見つめることしか出来なかったが。

 戦いを経た、武神の横顔。
 歓喜や満足とは程遠い、巌のような仏頂面。
 何処か憂いのような、虚しさのような。
 そんな面持ちが、滲み出ていた。

 それからジャンヌは、僅かな間を置いて。
 彼女は、死線の中で感じたものを振り返りながら。
 樹魂に対して、言葉を投げかける。

「……漢女殿」

 仁王のような仏頂面で腕を組んでいた樹魂。
 彼女はその呼びかけに耳を傾け、視線を動かす。

「貴女の拳からは、空虚を感じました」

 ジャンヌは静かに、しかしはっきりと告げる。
 自らが感じ取った樹魂の本質を、言葉にする。

「私を守ると告げながらも、その意味を理解できていない。
 人のために拳を振るう善意のカタチを、掴み取ることができない」

 身勝手なエゴを貫き、因縁を只管に掻き乱し。
 死闘を経てもなお、樹魂はどこか上の空だった。
 勝利を得た上で、彼女は満たされていなかった。

「そんな悲しみが、滲み出ていました」

 死線の中でジャンヌは、その痕跡を感じ取り。
 そして今、漢女へと踏み込んでいく。

「だからこそ問いたい――――」

 そしてジャンヌは、すっと右手を差し出す。

「どうか、共に戦いませんか」

785破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:41:04 ID:wecyTMYg0

 例え彼女が、人の道を踏み外していたとしても。
 例え彼女が、真っ当に生きられなかったとしても。
 それでも、彼女に善を探究しようという意志があるのなら。

「貴女には真の意味で、善の為に拳を振るってほしい」

 樹魂には、人の為に戦うことを選んでほしい。
 我道でも、我欲でもない――正義という気高さのために。

 ジャンヌに手を差し伸べられた樹魂。
 彼女はその掌を、ただじっと見つめていた。

 ――無言。無表情。仏頂面は変わらない。
 ジャンヌの言葉に、何を思い抱いているのか。
 それを悟ることは出来なかったが。
 それでも微かに、樹魂の眼は色を変えていた。

 そこに宿っているのは、希望か――否。
 微かに見えたものは、灰色の澱みだった。

 まるで何か、諦念のような。
 己の在り方に対する、限界を悟ったかのような。
 そんな悲哀の欠片が、僅かに伺えたのだ。

 それを感じ取ったジャンヌは、樹魂をじっと見つめた。
 どこか寂しげに、しかし悲しみへと寄り添うように。
 惘然と佇む樹魂へと、それでも手を差し伸べ続ける。
 
 その悲しみも、未来への糧となる――そう伝えるように。
 ジャンヌは樹魂へと、眼差しを向け続けていた。


「――――ジャンヌッ!!!!!」


 しかし、次の瞬間。
 樹魂が唐突に、叫んだのだ。

 ハッとしたように、ジャンヌは意識を動かす。
 途絶えていた筈の殺意が、再び姿を現したのだ。
 視線を向けて、警戒を研ぎ澄ませて。
 それでも尚、間に合わない“死”が迫っていた。

 咄嗟に超力を発動――炎の翼、炎の剣。
 それらを持ってして、迫る脅威に対処しようとした。
 だが、戦慄は止まらない。言い知れぬ動揺が収まらない。
 生半な術では、何の意味もなさない。そんな直感が胸を掻き乱す。

 その直後、ジャンヌが突き飛ばされた。
 高熱を纏った樹魂が、聖女をその場から離したのだ。
 何かから彼女を庇うように、漢女は動き出した。
 死が吹き抜けていったのは、直ぐ後だった。


「が、はぁッ――――!!」


 強靭なる漆黒の暴風が、駆け抜けた。
 残像を遺す程の軌跡が迸り、樹魂の胸を抉ったのだ。
 口から血を吐き、胸に空いた風穴から鮮血を撒き散らす。
 そのまま樹魂の身体は、仰向けに崩れ落ちていく。

786破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:41:50 ID:wecyTMYg0


「漢女殿ッ!!!」


 突き飛ばされたジャンヌが、叫んだ。
 目を見開きながら斃れていく樹魂へと、手を伸ばさんとした。
 されど漢女は応えず、ただ血を流しながら虚空を見つめて。
 そのまま生気を失い、瞳から光が途絶えていく――。

 ジャンヌは、すぐさま“黒い影”へと視線を向けた。
 倒した筈の帝王。剛拳の前に屈した筈の牧師。
 彼が再び立ち上がり、奇襲を仕掛けてきた。
 そのことを理解して、きっと睨むように怒りを込めて。


 ――――そしてジャンヌは、眼を見開いた。
 ――――視線の先に立つ“怪物”を、目の当たりにした。


 ルーサー・キングの姿が、変貌していたのだ。
 禍々しく、猛々しく――深い闇にその身を包んでいた。
 凄まじい威圧を纏いながら、帝王は歩を進める。


「面倒臭ぇな。本気を出すってヤツは」


 漆黒に染まる鋼鉄が、身体を覆っていた。
 亜人に似た異形の風貌を、形作っていた。
 更に強靭に、頑強に――体躯が膨張している。
 全身を覆う黒鉄が、3mもの体格を持つ獰猛な魔人の姿を形成していた。


「大金卸 樹魂。流石にてめえには驚かされたよ」


 右手を樹魂の血で染めたまま、言葉を紡ぐ魔人。
 それはまるで、二本の足で立つ怪物――。
 黒豹(ブラック・パンサー)のようだった。

 迸る狂気、聳える権威、剥き出しの暴力。
 それがヒトの形を成しているかのような。
 そんな闇の極位が、君臨していた。
 黒金の肉体が、支配者の如く闊歩する。


「こいつを使うのは、かつてリカルド・バレッジと殺り合った時以来だ」


 超力とは、進化するもの。
 超力とは、変貌するもの。
 超力とは、高まっていくもの。


「さて、改めて聞かせてもらうが――――」


 葉月りんかは、かつて深い絶望の中で超力を更なる段階へと覚醒させた。
 ルクレツィア・ファルネーゼは、淑女への成長を経て自らの秘められた超力を解放させた。
 内藤 四葉は、自らの心身の変化によって超力の在り方を変異させた。
 交尾 紗奈は、葉月りんかの手を取った果てに己の超力を進化させた。


「なあ、小娘ども」

 
 なればこそ――――。
 新時代で最大の悪名を轟かせるこの男が。
 その領域に至っていない筈がないのだ。
 即ちそれは、“超力の第二段階”である。


「俺を、誰だと思ってやがる」


 超力名――――『Public Enemy』。

 帝王が己の異能を極限まで高めたことで結実した“真髄”。
 自らの超力の限界を超えて体得した、更なる“位階”。
 際限無く精製した鋼鉄で自らの肉体を覆い尽くし、巨躯を備えた“黒鉄の魔人”へと変貌する。

 “牧師”ルーサー・キング。
 この男は正真正銘、悪の頂点に立つ帝王である。

787破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:43:01 ID:wecyTMYg0

 キングの超力、その本領。
 ジャンヌはただ、その気迫と殺意に戦慄する他無かった。

 胸に風穴を開け、血を吐きながら崩れ落ちた樹魂へと、寄り添う余裕など無かった。
 救ける、救けない。そんな選択を天秤に掛ける猶予すら存在しない。
 目を逸らした瞬間、こちらも命を奪われるのだから。

 今の自分にできることは、ただ一つだけ。
 立ちはだかる“帝王”を、討つことだった。
 それ以外の道は、最早何も無かった。
 絶望に挑む――それ以外に、取れる術など無かった。


「う、おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!!」
 

 君臨する敵を前に、ジャンヌは我武者羅に吼えた。
 決死の覚悟で、超力の出力を振り絞る。
 炎の翼を、必死に迸らせる。
 剣の紅蓮を、煌々と滾らせる。
 火焔を引き出す。限界まで呼び起こす。
 その魂の奥底から、ありったけの熱を掴み出す。


「図に乗るんじゃねえよ。虫螻が」


 ――――瞬間、破滅の暴風が突き抜けた。
 ――――聖なる焔へと、漆黒の鋼が激突した。
 ――――まるで、死の濁流のように。
 ――――勇猛なる輝きを、無慈悲に砕いた。
 

 炎が掻き消される。肉体が宙を舞う。
 壮絶な衝撃の余波によって、周囲のコンクリートすら砕け散る。
 太陽の如し極光を纏っていたジャンヌが。
 真正面からの激突を前に、成す術もなく吹き飛ばされた。

 突進の勢いと鋼の硬度を上乗せした、ただの右拳のストレート。
 それが殺人的なまでの威力を伴い、正義の聖女へと叩き付けられたのだ。
 漆黒の魔人――ルーサー・キングは、悠々と立ち続けている。

 受け身を取ることも敵わず、ジャンヌは圧倒的な暴威に曝される。
 そのまま壊れた人形のように、重力に引き寄せられて地面へと叩き落ちた。

「がっ――――」

 打撃の破壊力と、落下の衝撃。
 双方がジャンヌの肉体に襲いかかり。
 その場に横たわったまま、激しく咳き込む。

「げほ、がは、ぁ――――ッ!」

 苦悶の声と共に、血反吐が撒き散らされる。
 血眼となった目を見開き、瞳孔が震える。
 視界が揺れる。意識が揺らぐ。現実感さえも揺さぶられる。

788破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:43:39 ID:wecyTMYg0

「ごあ、は…………っ」

 凄まじい痛みが、身体中を駆け抜けていく。
 どれだけの骨が折れたのかも、分からない。
 命を繋げていることさえ、奇跡のように思えてくる。

 圧倒的。絶望的。
 そうとしか形容できない、壮絶なる暴力。
 これがルーサー・キングの強さ。
 立ち塞がる現実は、余りにも無慈悲であり。

 ――――それでも、ジャンヌは。
 ――――焔の翼を、再び顕現させる。

「はぁーっ……く、はあ、っ……!!」

 歯を食いしばりながら、超力の推進力を駆使して強引に起き上がる。
 ありったけ振り絞った火力。魂の奥底から引き出した出力。
 残された気力を意志の焔に焚べて、聖女は歯を食いしばった。

「――――まだ挑む気か、お嬢ちゃん」

 そんなジャンヌを冷ややかに見据える、漆黒の帝王。
 闇そのものを体現するような黒鉄を纏い、圧倒的な気迫を放ちながら君臨する。

「てめえ如きが、意地張ってんじゃねえよ」

 ――幾度挑もうが、関係ない。
 圧倒的な格の違い。圧倒的な力の差。
 その厳然たる壁の前には、どれだけ足掻こうと無意味なのだと。
 牧師は殺意を放ちながら、聖女を冷徹に見据える。

「意地を……張らずして……」

 それでも尚、ジャンヌはキッと睨み続ける。
 その瞳に闘志を宿して、君臨する帝王を前に剣を構え続ける。
 燃え盛る焔が、不屈の意志に呼応するように揺らめく。
 彼女の魂は折れない。絶望を前にしても、その正義は挫けない。


「正義など、語れない……ッ!!」

 
 救国の聖女、ジャンヌ・ストラスブール。
 彼女もまた、逸脱者であるが故に。
 その希望の光は――決して闇に屈しない。
 
「――――そうかよ」

 そんなジャンヌの啖呵を、キングは冷ややかに切り捨てる。
 愚直なまでの正義。狂気と呼べる程の善性。
 その輝きを前に、闇の王が思うことは一つ。
 つまり、破滅を望んでいるということだ。


「正義と共に死ね。てめえは無力だ」


 故に彼は、死刑を宣告する。
 最期の一撃を放つべく、己が超力を研ぎ澄ます。
 意地も正義も、この圧倒的な力の前には何の意味もない。
 そう突きつけるように、キングは自らの極限の殺意を聖女へと向ける。

789破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:44:29 ID:wecyTMYg0

 ジャンヌは、死を覚悟しながら構える。
 決して退かない。決して恐れない。
 余りにも深い空のように、碧い瞳が敵を射抜く。
 歯を食いしばり、限界まで紅蓮の焔を引き出す。

 ――――絶望的な対峙だった。
 ――――孤立無援。孤軍奮闘。
 ――――もはや、聖女ひとり。

 それでもジャンヌは、目を見開く。
 強大な敵を捉えて、焔の剣を構える。
 自らの意志を、正義を貫くべく。
 魂を燃やそうとした――その矢先。


「ジャンヌ・ストラスブールッ!!!!」


 戦場に、幼き叫び声が木霊した。
 
 無数のリボンが殺到し、ジャンヌを絡め取った。
 纏う焔を抑え込みながら、彼女を拘束する数多の曲線。
 そのまま戦場から強制的に逃がすように、リボンがジャンヌを一気に後方へと引き寄せる――。

 キングは、新手の存在に気付く。
 その声の主が何者であるのかも、すぐさまに悟った。
 つい先刻、あの管理棟。己が戦わずして一蹴した小娘。
 交尾 紗奈――ならば、もう一人の少女もまた。

 
「ホーリーッ――――フラァァァッシュ!!!!」


 直後、凄まじい閃光が迸った。
 リボンの後方から放たれる、眩き熱線。
 ありったけの威力を込められた一撃。
 それは黒鉄の魔人と化したキング目掛けて、一直線に飛来する。
 
 右掌を前面へと構え、キングは閃光を容易く受け止める。
 まるで動じることもなく、片手で攻撃を防ぎ――――。
 その手の内で握り潰すように、熱線をグシャリと粉砕した。

 しかしキングは、それが攻撃の為に放たれたものではないことにすぐさま気付く。
 視界を覆い尽くすほどの、強烈な閃光。
 即ち、目眩ましを目的としているのだ。
 そのことを察した直後、キングは晴れる視界へと意識を向けた。

 ――――既に少女達の姿は無かった。

 駆けつけた交尾紗奈と葉月りんかは、満身創痍のジャンヌを救うために行動していたのだ。
 圧倒的な強さを持つキングとの交戦は避け、彼女達は逃げに徹した。
 結果として少女達は、この死地からの逃走に成功したのだ。




790破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:45:01 ID:wecyTMYg0



 ハヤトとセレナを交えた、ルーサー・キングとの対峙。
 希望を胸に抱いた前進は、無惨な形で打ち砕かれた。

 自らの理想に殉じる“死に場所”を求める自殺志願者。
 己を救った相手の在り方をなぞるだけの模倣品。
 闇の帝王から突きつけられた、それぞれの本質。
 ――りんかと紗奈は、打ちのめされた。
 その心を、徹底的に踏み躙られた。

 故に二人は、ただ管理棟から離れることしか出来なかった。
 これ以上あの男と対峙し続けて、平静を保てる自信などなかった。
 ハヤト達を案ずる余裕すら失って、二人は港湾の片隅で寄り合うことしか出来ず。
 希望の道標さえも見失い、茫然と打ち拉がれていた。

 これから、どうするのか。
 その答えは、未だ導き出せず。
 それでも二人は、せめて管理棟に引き返すことを選んだ。
 ハヤトとセレナの無事を確認するために、彼女達は何とか動き出した。

 りんかと紗奈は、“システムAの手錠”と“流れ星のアクセサリー”をそれぞれ預かっていた。
 もしもの時にキングに奪われて、利用されないために。
 せめて二人はキングから逃れることで、このアイテムを悪用されないために。

 この方策が功を成すような事態にならないことを、りんか達は祈っていた。
 二人が無事にあの場を切り抜けられていることを願いつつ、引き返そうとした矢先だった。
 ――――港湾を飲み込む強大な寒波が、襲い掛かったのだ。

 超力を咄嗟に行使し、何とか手傷を避けられた二人は、すぐさま管理棟へと向かった。
 されど既にその被害は甚大となっており、また無数の氷像や凍土が道を阻み。
 そして凍結の影響も著しく、ハヤト達の消息も確認できず。
 二人は途方に暮れかけたが――それでも奔り続けた果てに、戦場へと辿り着いた。

 ジャンヌ・ストラスブール。
 世界的に有名な“ヒーロー”である彼女の存在は当然知っていた。
 りんかにとっては憧れの存在であり、紗奈も噂には幾度も聞いていた。
 その彼女が、ルーサー・キングと対峙していたのだ。

 りんかと紗奈は、すぐさま彼女を救出した。
 キングに挑むよりも、ジャンヌの安全を優先した。

 自分達の在り方を揺さぶられ、その根底を抉り出され。
 目指すべき道も分からなくなり、霧の中に放り出されて。
 何を成すべきか――それすらも答えられなくなって。
 それでも、せめて目の前で取るべき行動からは、眼を逸らしたくなかった。

「――――大丈夫ですか。その……ジャンヌさん」

 港湾から距離を取り、森の近くの平野で腰を落ち着けた三人。
 自らが憧れていた相手に対し、りんかはおずおずと問いかける。
 その声には、今の自分に対する負い目が混じっていた。

 自らの本質を突きつけられ、打ちのめされたばかりだった。
 心に影を落としている自分が、“あの”ヒーローと向き合っている。
 そのことに対する罪悪感のような、奇妙な感情を抱えていた。

 りんかの呼びかけに対し、疲弊したジャンヌはこくりと頷く。
 死闘と負傷で摩耗しながらも、それでも凛とした眼で二人を見つめている。
 その澄んだ色彩を前に、紗奈は思わず怯むような思いを抱いたが。
 やがて先の戦場を振り返って、視線を落として言葉を紡ぐ。

791破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:46:01 ID:wecyTMYg0

「ごめんなさい。あの武人までは助けられなかった」
「……分かっています、貴方がたが気に病む必要はありません。
 あの場で勇気を振り絞ってくれて、ありがとうございます」

 紗奈の謝罪に対し、ジャンヌは労いながら礼を伝える。
 紗奈達も一度は交戦した武人――樹魂があの場で倒れているのは目にしていた。
 武を極めることを望み、同時に善意の探求を目指していた、奇妙な囚人だった。

 彼女が何を思い、何を抱いてあの場に居たのかは分からないが。
 きっとジャンヌは、樹魂と共にキングへと立ち向かっていたのだろうと考える。
 そして樹魂の最期を振り返りながら、紗奈は胸を締め付けられるように思い馳せる。

 ――ハヤトとセレナ。
 彼らの行方は、結局分からずじまいだった。
 自分達に寄り添い、ひとかけらの希望を与えてくれた二人。
 ちいさなヒーローとしての姿を焼き付けてくれた、優しい人たち。

 じきに放送が流れる。
 果たして二人は、無事なのだろうか。
 あの場から逃れてくれたのだろうか。
 紗奈が悲しみを胸に抱いた、その矢先だった。

「……あれ?」

 紗奈の懐で、仄かな温もりが照らされた。
 小さな太陽のような暖かさが、灯り始めていた。
 紗奈は眼を丸くして、それを取り出した。

 りんかも、そしてジャンヌも、視線を向けた。
 紗奈が取り出したのは、セレナから託されたもの。
 流れ星の意匠を持ったアクセサリーだった。
 それは超力を吸収し、保存する機能を持った器具。
 静かな灯火のように、朱色の輝きを放っていた。

 そして、その光は――アクセサリーから解き放たれる。
 まるで蛍火のように揺らめき、揺蕩った果てに。
 やがてジャンヌに寄り添うように、彼女の身体へと溶け落ちていった。

 一体、何が起きたのか。
 りんかも紗奈も、ジャンヌも、驚きを隠せなかった。

 暫しの静寂を経て、ジャンヌは自らの胸に手を当てる。
 何かを感じ取るように、ゆっくりと手を握り。
 そしてジャンヌは、ぽつりと“ある名”を呟いた。

 この温もり。この輝き。ひどく穏やかな感覚。
 あの狂熱とは程遠いものであるにも関わらず。
 それでもジャンヌは、彼女の姿を想起せずにはいられなかった。


「――――フレゼア……?」


 流れ星のアクセサリーに、収められていた超力。
 自らの狂信に猛り、悪しき疾走を重ねて。
 最期に真なる善を果たした、炎帝の輝きだった。

 その暖かさを抱いて、ジャンヌは安堵していた。
 まるで彼女に与えられた“救い”を感じ取ったかのように。
 静かに、安らかに微笑みを浮かべていた。

792破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:46:35 ID:wecyTMYg0

【B-3/平原/一日目・昼】
【葉月 りんか】
[状態]:食糧と水をもらい乾きを回復、疲労(中)、腹部に打撲痕と背中に刺し傷(小)、ダメージ回復中、紗奈に対する信頼、ルクレツィアに対する怒りと嫌悪、システムAの手錠
[道具]:なし
[方針]
基本.可能な限り受刑者を救う。その過程を経て、死にたい。
0.ハヤトとセレナを気に掛けつつも、戦いの覚悟。
1.紗奈のような子や、救いを必要とする者を探したい。
2.この刑務の真相も見極めたい。
3.ソフィアさん…
4.ジャンヌさんそっくりの人には警戒しなきゃ
5.――――姉のように、救って、護って、死にたい。その為に、償い続ける。

※羽間美火と面識がありました。
※超力が進化し、新たな能力を得ました。
 現状確認出来る力は『身体能力強化』、『回復能力』、『毒への完全耐性』です。その他にも力を得たかもしれません。
※ハヤト=ミナセが持ち込んでいた「システムAの手錠」を託されています。ハヤトと同様に使用できるかは不明です。

【交尾 紗奈】
[状態]:食糧と水で乾きを回復、気疲れ(中)、目が腫れている、強い決意、りんかへの依存、ヒーローへの迷い、ルクレツィアに対する恐怖と嫌悪
[道具]:手錠×2、手錠の鍵×2、
[方針]
基本.りんかを支える。りんかを信じたい。
0.りんかのために戦う。でも、それだけでよくなかった、何もかもが足りなかった。
1.新たに得た力でりんかを守りたい
2.バケモノ女(ルクレツィア)とは二度と会いたく無い
3.青髪の氷女(ジルドレイ)には注意する。

※手錠×2とその鍵を密かに持ち込んでいます。
※葉月りんかの超力、 『希望は永遠に不滅(エターナル・ホープ)』の効果で肉体面、精神面に大幅な強化を受けています。
※葉月りんかの過去を知りました。

※新たな超力『繋いで結ぶ希望の光(シャイニング・コネクト・スタイル)』を会得しました。
現在、紗奈の判明してる技は光のリボンを用いた拘束です。
紗奈へ向ける加害性が強いほど拘束力が増し、拘束された箇所は超力が封じられるデバフを受けます。
紗奈との距離が離れるほど拘束力は下がります。
変身時の肉体年齢は17歳で身長は167cmです。

※『支配と性愛の代償(クィルズ・オブ・ヴィクティム)』の超力は使用不能となりました。
※セレナ・ラグルスから「流れ星のアクセサリー」を託されていました。

【ジャンヌ・ストラスブール】
[状態]:疲労(極大)、全身にダメージ(大)、フレゼアの超力吸収
[道具]:流れ星のアクセサリー
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.正義を貫く。だが、その為に何をすべきか?
1.ジルドレイを追い彼の凶行を止める
2.ルーサー・キングとの合流地点(港湾)を目指す。
3.刑務の是非、受刑者達の意志と向き合いたい。
※ジャンヌが対立していた『欧州一帯に根を張る巨大犯罪組織』の総元締めがルーサー・キングです。
※ジャンヌの刑罰は『終身刑』ですが、アビスでは『無期懲役』と同等の扱いです。

※流れ星のアクセサリーには他人の超力を吸収して保存する機能があるようです。
 吸収条件や吸収した後の用途は不明です。
※流れ星のアクセサリーに保存されていた『フレゼア・フランベルジェ』の超力を取り込みました。
 フレゼアの超力が上乗せされ、ジャンヌの超力が強化されています。





『師範』

『私は他に、何も求めていません』

『友も、愛も、私には無用の長物です』

『名誉さえも、初めから欲していない』
 
『私には、この拳しかないのだから』

『それでも足りないというのなら』

『私は、更なる暴威となりましょう』




793破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:47:19 ID:wecyTMYg0



 ――――此処で仕留めておきたかったが。
 ――――全く、逃げ足の早いモンだ。

 全身に黒鉄を纏ったルーサー・キングは、その事実を粛々と受け止める。
 大金卸 樹魂は恐るべき武人だったが、仕留めることが出来た。
 自身を狙うジャンヌ・ストラスブールもまた、此処で始末したかったものだが。
 思わぬ形で、小賢しい鼠に出し抜かれることになった。

 葉月りんか。交尾紗奈。
 それは、取るに足らない小娘達。
 自らの傷を舐め合い、破滅へと向かう弱者達。
 そして、この牧師を侮った愚かな輩共。
 奴らがジャンヌを救出し、この場から逃げおおせた。

 あの怪力乱神に比べれば、遥かに小物だが――。
 それでもこの牧師を侮辱し、煙に巻いてみせたのだ。
 自らの不覚を苦笑しつつ、改めてキングは殺意を湛える。

 ルーサー・キングを侮り、冒涜した者の末路など決まっている。
 故に、いつもと変わらない。普段通りだ。
 その落とし前、その報いを受けさせるのは、当然の道理だ。

 幾らかの手傷は負ったが、まだ余力は残している。
 奴らへの追撃を仕掛けるか、あるいは放送を待つか。
 思考を行おうとした、その矢先だった。

 がしゃり、と。
 何か、物音がした。
 有り得る筈のない音が、聞こえた。

 キングは、視線を動かした。
 その正体が何なのか。
 その音の主が何なのか。

 コンマ数秒の時を経て。
 彼はまざまざと、思い知ることになる。


「――――何?」


 眼前の光景に、キングは絶句した。
 信じられない状況を目の当たりにし。
 彼は目を見開き、そして睨むようにゆっくりと細めた。

 嘘だろ、と。
 彼は思わず、言葉を漏らした。
 闇の帝王が、驚嘆を隠せなかった。
 余りの異常事態を前に、戦慄したのだ。


 心臓を破壊された筈の樹魂が、立っていた。
 眼前に存在する強者(キング)を、その双眸で捉え続けていた。


 大きな風穴の空いた胴体。
 負傷した箇所から、血が止め処なく溢れ続け。
 有るべき筈の臓器はごっそりと抉られている。
 胸から腹部にかけて、深い真紅に染まり切っている。

 しかし、漢女は威風堂々と立ち続けている。
 筋骨隆々の肉体が、沸々と蒸気を発している。
 壮絶なる熱が、身体中で弾けている。

794破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:48:41 ID:wecyTMYg0

 それは、超力による蘇生術か。
 否、そんな小手先の技術ではない。
 鍛え上げた肉体のみで、命を繋げている。
 余りにも強すぎるが故に、自力の延命を成している。

 ――――樹魂の全身、筋肉が異常活性化している。

 伸縮しながら躍動する筋肉が、血液を自己生成しているのだ。
 更にはポンプのように血流を促進し、強引に身体機能を維持し続けている。

 言うなれば、全身が心臓。
 言うなれば、筋肉の心臓(マッスルハート)。
 迸る筋肉によって、粉砕した心臓を補っている。


「バケモンか……てめえは……」


 ソレは最早、人の域を完全に超えていた。
 鍛え上げた筋肉によって、肉体的な死さえも超越してみせた。
 まさに奇怪。まさに脅威。まさに、屈強。
 大金卸 樹魂は、地球上で最強の肉体と化していた。

 そして樹魂が、鋭く構えを取る。
 血眼のような真紅の眼で、キッと睨みながら。
 巌のような四肢を、研ぎ澄ませる。

 何故、立てる。
 何故、立ち続ける。
 何がお前を、そこまで駆り立てる。
 壮絶なる狂気が、人の肉を保っている。
 キングは、死をも超越した武神を見据える。

 渦巻く驚愕と動揺――。
 久しく感じたことのない感覚。
 その衝撃に打ちのめされた果てに。
 やがて現実を受け止めるように、思考を研ぎ澄ませる。

 ああ、やるしかねえのか。
 半ば呆れるように、キングは溜息を吐く。
 まさに戦闘狂。まさに荒ぶる神。紛れもない狂人。
 こんな輩さえも一緒くたに隔離しているとは――。
 つくづくアビスというモノは、どうかしている。
 

「……わかったよ。よくわかった」
 

 そんな思いを抱きつつも、不思議と清々しい気分だった。
 久々の全力に高揚を感じているのか。
 あるいは、この武人の闘気に惹き寄せられているのか。
 理由は分からないが、どうだっていい。
 結局、その行く末はひとつなのだから。


「――――遊んでやるさ、小娘」
 

 大金卸 樹魂を、此処で殺す。
 その黒鉄の装甲を鈍く輝かせて。
 ルーサー・キングは、武神を挑発する。
 かかってこい、と――帝王は告げる。

795破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:49:24 ID:wecyTMYg0

 その言葉が、幕開けの狼煙となる。
 最後の死闘。最後の攻防。
 それを感じ取るように、死を超越した乱神が息を吸い。
 港湾全体を揺るがす程の気迫と共に、猛々しく吼えた。


「でぇぇぇぇぇいやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!!!」


 大地が震える。大気が震える。
 熱が、風が、鋼が、あらゆる有象無象が。
 怪力乱神の咆哮によって――――震撼した。
 その叫びを火蓋に、キングと樹魂が真正面から激突する。
 鋼鉄の拳と筋肉の拳が、幾重にも交錯する。

 そこから先は、血潮の嵐が吹き荒れた。
 数多の破壊。数多の暴威。数多の疾風。
 怒涛の拳撃、怒涛の攻防、怒涛の武闘。
 ――――黒金の魔人と、怪力の武神。
 怪物同士の激突が、この地に小宇宙を生み出した。

 決着は、分かり切っている。
 最後に立つのは、決まり切っている。
 漢女は既に、限界を迎えている。
 肉体の終焉を踏み越えて、強引に戦い続けている。
 故に彼女の奮戦は、蝋燭が見せる最後の炎に過ぎない。

 それでも漢女は、挑み続ける。
 それでも漢女は、戦い続ける。
 それでも漢女は、吠え続ける。

 戦いに明け暮れて、強くなること。
 樹魂にとって、それだけが存在理由。
 己を世界に刻む術など、それしか知らないのだ。

 



『樹魂よ。よく聞け』

『お前は、自由などではない』

『生まれ持った“強さ”に縛られ』

『孤高の暴威と化す他に無かった』

『お前は、哀れな獣だ』

『その拳の行き着く先に、何があると思う?』

『今のお前が、次の世代へと残せるものは――』

『我欲と暴虐。その果ての破綻のみだ』

『お前に、道場を継がせる訳にはいかない』

『この言葉の意味を、しっかりと噛み締めろ』




796破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:51:00 ID:wecyTMYg0



 太陽は、真上へと登り始めていた。
 既に正午が近い。暫くすれば放送も流れるだろう。
 氷藤 叶苗が港湾に辿り着ける可能性は低いだろうが。
 休息も兼ねて、放送を聞き届けるまでは待つとしよう。

 そう思いながら、キングはコンクリートの残骸の上に腰掛けていた。
 既に超力は解除し、漆黒のスーツを纏った姿へと戻っている。

 ――やはり全力の超力解放は相応の疲労が伸し掛かる。そう容易く連発は出来ない。
 リカルドとの死闘以来の発動だったが、誰かに肩でも揉んで貰いたいくらいだ。
 キングはうんざりとした表情で、煙草を気晴らしに吸っていた。
 まるで溜息を吐くように、口から煙を燻らせている。

 その視線の先には――仰向けに倒れる仁王の亡骸があった。

 嬲られ、裂かれ、抉られ、徹底的に肉体を破壊され。
 それでも人としての原型を保ち続けた、武神の姿があった。
 死してなお自らの存在を示すかのように、堂々たる姿で横たわっていた。

 大金卸 樹魂は、まさに怪物だった。
 キングとて、そう認めざるを得なかった。

 全力を出した牧師を相手取り、真正面からの一騎打ちを成し遂げた。
 心臓を破壊された肉体を躍動させ、魔神にも一歩も引かず。
 その鉄拳や剛脚を駆使して、幾度となく黒鉄を打ち砕き。
 鬼神の如き戦いぶりを見せながらも、やがては肉体の限界を迎えて。
 糸がプツリと切れたかのように、彼女は死闘の最中に絶命した。

 死した肉体を、この漢女は躍動させ。
 全力の帝王と、互角の打ち合いを演じてみせたのだ。

 樹魂の亡骸は、仰向けのまま天を仰いでいる。
 光を失った双眸は、青空へと向けられている。
 もはや遺体は動かない。二度と、動きやしない。
 そのことを確かめて、キングは微かな安堵すら抱く。

 何故、これほどまでに武を極めたのか。
 何故、これほどまでの怪物と化したのか。
 キングにさえも理解できない、樹魂の生き様。
 怪異と呼ぶべき彼女の暴力を振り返りながら、忌々しげに眉間へと皺を寄せる。

 ぬらりと、キングが立ち上がった。
 煙草を咥えたまま、ゆっくりと樹魂の死骸へと歩み寄る。
 彼女の傍で立ち止まってから、身体を屈ませた。
 右手のデジタルウォッチを操作し、恩赦ポイントを回収しようとした。

 一仕事を終えたのだ。
 せめて恩恵の一つや二つを得られないと割に合わない。
 そう考えて、キングは樹魂の首輪を眺めていたが。
 そのとき彼は、ある異変に気づく。

 ――――樹魂の恩赦ポイントが、回収できないのだ。

 異常事態を前にし、キングは表情を微かに歪めたが。
 その原因を、彼は自らの目ですぐに理解することになる。

 機器がショートを起こし、バチバチと小さく火花を散らしている。
 その太い首に巻き付く首輪が、肉に巻き込まれてひしゃげている。
 単なる故障ではない。物理的に破損されている。
 強靭に進化した筋肉が、金属部位に対して許容量を超える負荷を与えていた。

 樹魂は、首輪を知らず知らずのうちに破壊していたのだ。
 死闘の果てに限界を超えた筋肉が、首輪の金属さえも歪めていたのだ。
 爆破機能が作動しなかったのは、もはや奇跡とすら言えるだろう。

「……やれやれ」

 その事実を目の当たりにし、キングは呆気に取られる。
 訝しむように目を細めて、ひしゃげた首輪をじっと眺めて。
 やがて溜め息と共に、彼は投げやりに吐き捨てた。

「もう二度とやりたくねえな」

797破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:52:41 ID:wecyTMYg0

【B-2/港湾/一日目・昼】
【ルーサー・キング】
[状態]:疲労(大)、肉体の各所に打撲(大)、左脇腹に裂傷と火傷、右足首に刺し傷(いずれも鋼鉄で止血・固定)
[道具]:漆黒のスーツ、私物の葉巻×1(あと一本)、タバコ(1箱)、セレナ・ラグルスの首輪(未使用)、ハヤト=ミナセの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.勝つのは、俺だ。
0.一旦放送を待つ。
1.生き残る。手段は選ばない。
2.使える者は利用する。邪魔者もこの機に始末したい。
3.ドン・エルグランドを殺ったのは誰だ?
4.りんかの自殺願望がある以上、彼女と正面から戦うつもりはない。相手の土俵に立つのは、自分の利益がなさすぎる。
5.ルーサー・キングを軽んじた以上、りんか達もこれから潰す。手段手法は問わない。
※彼の組織『キングス・デイ』はジャンヌが対立していた『欧州の巨大犯罪組織』の母体です。
 多数の下部組織を擁することで欧州各地に根を張っています。
※ルメス=ヘインヴェラート、ネイ・ローマン、ジャンヌ・ストラスブール、エンダ・Y・カクレヤマは出来れば排除したいと考えています。
※他の受刑者にも相手次第で何かしらの取引を持ちかけるかもしれません。
※沙姫の事を下部組織から聞いていました

※超力の第二段階を既に体得しています。
全身に漆黒の鋼鉄を纏い、3m前後の体躯を持つ“黒鉄の魔人”と化す超力『Public Enemy』が使用可能です。


[共通備考]
※大金卸 樹魂の首輪が彼女自身の筋肉によって破損しています。
 恩赦ポイントが回収不可能となっています。





 記憶が、駆け抜ける。
 記憶が、鮮明に蘇る。

 ひたすらに武を極め続けた日々。
 強者との死闘に明け暮れた日々。
 ただ力のみを渇望し続けた日々。

 記憶が、吹き抜ける。
 記憶が、脳裏を過る。

 迷える幼子達の道標となり。
 強くなれよと、彼らに導きを与え。
 その手を離して、突き放していった。

 記憶が、明滅する。
 記憶が、反響する。

 いつの日か。まだ十にも満たぬ頃。
 檻のような部屋の窓から、外の世界を見た。
 道端を歩く、親子の姿があった。
 母は子の手を繋ぎ、仲睦まじく寄り合っていた。
 そんな愛を手にする術など、知る由もなかった。

 記憶が、綯い交ぜになる。
 記憶が、過去へと遡っていく。
 記憶が、閃光と化していく。
 記憶が、記憶が、記憶が――――。


 皆が、我を視ていた。

798破戒 ◆A3H952TnBk:2025/08/08(金) 00:53:34 ID:wecyTMYg0

 まだ幼く、満足に動くことも出来ず。
 寝具の上で、無様に尻餅を付くことしか叶わない。
 この世に生まれ落ちたばかりの、矮小なる存在。
 そんな“在りし日”の幼子を取り巻く、怪訝なる視線。

 赤子の我が、其処にいた。

 皆が、我をじっと見つめている。
 恐怖と不安。懸念と動揺。嫌悪と悲嘆。
 数多の情動が入り混じった視線を、幼き我に向けている。

 医師が、看護師が、親族が、父母が。
 距離を置くように、遠巻きから観察している。
 誰も我に触れようとはせず、抱えようともしない。
 未知なるモノを恐れ慄くように、彼らは我を眺めている。

 生まれた時から“強すぎた”らしい。
 生まれた時から“異常”だったらしい。
 幼き日の我は、それを感覚で悟っていた。

 ぴくりとも、泣きはしなかった。
 人の温もりに、欠片も触れられないというのに。
 我は悲しむことも、嘆くこともしなかった。
 ただ、其処に在り続けていた。
 まるで生まれながらの孤高を、彼らに示すかのように。

 恐らくこの時から、己の宿命は決まっていたのだろう。
 人の道など歩めず、我欲と暴威を抱き続ける生涯。
 善や道徳を学べず、狂気の果てを行き続ける覇道。
 何も与えられず、若人達を灼きながら彼らを死地へと導く。
 そんな破壊者としての生き様のみが、定めだったのだろう。

 これが、我か。
 最後の瞬間になって。
 ようやく己のすべてを悟った。

 ああ、そうだな。
 もしもまた、この世に生まれ落ちるのなら。
 新たな命を授かり、生まれ変われるのなら。
 泣き喚いて母にすがる術くらいは、覚えておきたい。


【大金卸 樹魂 死亡】

799名無しさん:2025/08/08(金) 00:53:52 ID:wecyTMYg0
投下終了です。

800 ◆H3bky6/SCY:2025/08/08(金) 20:32:34 ID:EVHweGLs0
投下乙です

>破戒

大金卸樹魂という善意を理解できない生まれながらの怪物の最期
数々の人間の脳を焼いてきた漢女の強さと生き様。多くの若者たちを囃し立て死地へと向かせてきた
実際このロワでも漢女に脳を焼かれた連中は早死にしている、唯一生き残ってるアンリくんはどうなるのか

因縁の対決に割り込む無関係、完全に場違いな異物に全員が困惑しておる
ジャンヌとキングという宿敵が結託して丁寧にお引き取り願おうとしているのが笑っちゃうんですよね、二人のこころが一つに!
だが、この漢女、基本的に人の話を聞かないので勝手に試す、身勝手の極意
自分都合を押し付けまくってくる上に無視できない強さなのが本当に性質が悪すぎる

共闘ではなく全員が己が目的達成のためのエゴをぶつけ合う戦い、ジャンヌもうまく立ち回っている
超力なしの格闘戦においてはこの漢女は間違いなく頂点
これまで圧倒的な実力で余裕を見せてきたキングがボコボコにされるのはなかなかに衝撃映像、ジルドレの与えたダメージが地味に効いている

その拳から感じた善意を求めながらその本質を理解できない在り方を憐れむジャンヌ、この好き勝手暴れまわる闖入者に哀れみを向けられるのは流石の聖女だよ
強すぎるが故に人道を学べぬ悲しき怪物、この怪物性を見抜き導いてきた師匠は正しく彼女を見てきたんやなって

そして時は放たれる超力の進化の先にある第二段階。数多くの修羅場を潜り抜けてきたキングが到達していないはずもなく
漢女は生まれながらの強者であるが故に、超力の進化にも至れず、強くなるという望みからすら遠ざかっているという
漢女すら打ち倒すその強力さと凶悪さ、まさに「パブリック・エネミー」の名に相応しい

絶体絶命の所に現れるヒーロー、りんか紗奈
小物だとキングが見逃した2人がジャンヌを救う、この悪人だらけのアビスで貴重な正義心を持った3人が集まったのは熱い展開
フレゼアの力が宿ったペンダントがジャンヌの手に渡るのも思いが受け継がれていくようで、フレゼアも草葉の陰で喜んでおる

漢女がジャンヌを庇ったのは、生まれた善意からか、それとも善意を模した行動だったのか
心臓を破壊されながら、第二段階のキングと渡り合うのは本当に何なのこの人……?
漢女の規格外さに耐え切れず首輪も壊れて、勝ったところで何の得もない、本当に災害、キングも疲労困憊お爺ちゃんになるよ
心を得るのではなく、母に縋る術を学ぼうというそれぽい技術を習得しようとするところが最期まで漢女らしい怪物性だった

801 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:32:35 ID:L0e4MWiE0
投下します

802合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:34:23 ID:L0e4MWiE0
合理と純心の混じり合う場所


<ブラックペンタゴン南東部 山岳地帯>


山肌を撫でるように吹きゆく風が、乾いた音を残して草を揺らしていた。

三人の女が命を落とし、生き残った三人の男は二手に分かれてそれぞれの道を行く。
その一人、ジョニーが重く刻み込むような足取りで進み行くのを、ディビットとエネリットは無言で見送った。
しばらくして、ディビットは小さく息を吐くと、視線を隣へと滑らせた。


「さて、バンビーノ」
ディビットは傍らのパートナーへと声をかける。
その声に応じて、エネリットが顎を上げる。

「俺たちもそろそろ次の手を打つ頃合いだろうが……その前に確認しておくべきことがあるよな?」
「ええ、僕も話を切り出そうとしていたところです。避けては通れませんから」
二人の視線が交差する。

「俺たちの考えていることは一致しているのだろうな」
「同時に口に出してみますか?」
「ふん」



「「契約の更新」」



二人の声が寸分の狂いもなく重なった。
そして、先ほどまで漂っていたはずの哀愁を含んだ雰囲気はどこへともなく霧散した。
代わりに、合理と策略の匂いが場を支配していた。


「今の段階で、俺は200ポイント。
 いい数字だ。同盟は当初の狙い以上に機能している」
「ですが、そうなると問題は次の一手です。
 これまではポイントを稼ぎ一辺倒で良かったですが、新しい指針が加わるということですね?」
「話が早いな。
 受刑者を相手に、ポイントの"運用"という選択肢がここから加わるだろう。
 端的に言えば、スカウトだ」
「なるほど。賛成です」


エネリットとディビットの『ポイントを稼ぐための同盟』は、互いの信頼がゼロであるときに構築された同盟だ。
当然、戦力の拡充になど言及していない。
段取りがない以上、既存の契約ではカバーできない部分も出てくるだろう。

先ほどは役割分担の流れに乗って、ディビットはジョニーを取り込もうとした。
そのときは問題は起こらなかったが、リスクとしてエネリットとディビットのそもそもの目的も異なるということもある。

地獄の鉄火場において、パートナーとの思い違いは命取りだ。
取り込もうとしていた戦力をいざ前にした状況で、殺害と懐柔とで方針が決裂しようものなら目も当てられない。
ましてや、アビスの囚人を前に、それを晒して狼狽えるなど、自殺行為以外の何者でもない。


ジョニーの引き込みを目論んだのはディビットだが、首輪を取得する権利を最初に口に出したのはエネリットだ。
二人の中で、戦力の強化に移るのは確定事項となっていた。
故に、契約の更新は必須。前提の見直しも必要。
両者の認識は一致している。

803合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:35:18 ID:L0e4MWiE0
「俺がすべてのポイントを報酬に使ったとして、帳消しにできる刑期は50年。
 仮にお前が上乗せすれば、80年。
 死刑囚と無期懲役囚を除けば、恩赦の条件をクリアできる量だが……」
「無秩序に取り込むわけにはいかない。
 ここはアビスです。適性を見極めずに手を出そうものなら、440ポイントを相手に献上すると同義です」
「まったくその通りだ」
ディビットは鼻で笑いながら、小さく指を鳴らした。


「極端な例を出そう。
 たとえば、ドンだ。
 数値上は320Pであの男を買えるが、どう思う?」
「冗談にもなりませんね。
 口に出しただけで、アビス中の笑いものでしょう」

ドンならば首輪を渡した途端に、ディビットとエネリットをまとめて殺しにかかるだろう。
何故なら、二人の首にまだ120ポイントが着いているからだ。
あれは根っからの略奪者であり、底抜けの欲望の体現者。
キングに対抗できる確かな戦力であろうとも、決して候補にはなり得ない。


「ブラックペンタゴンに突入する前に、そういう連中を洗い出す。リストアップしよう。
 逆に、ポイント次第で交渉に応じる意思がありそうな有望株もな。
 交渉か、殺害か、あるいは回避かあらかじめ目星をつけよう」

戦力とするのか、ポイントとするのか、相手にするのを避けるのか。
すらすらとディビットが取り決めを固めていく。
エネリットは真剣な表情で内容を反芻し、おもむろに頷く。


「スカウトの優先権については、こればかりは縁もあるのでな、囚人一人一人に傾斜をつけよう。
 そして、引き込んだ戦力の運用については、交渉を成立させた者がその権利を得る。
 入手した首輪の所有権や順番に関しては引き続き継続としよう。
 どうだ? ここまでは問題ないか?」
運用優先権、ポイント取得権。
意見対立が起きた時、人数増加に伴い二手に別れざるを得なくなった時などの例外規定等、詰めていく。


「さて、あとはリストアップだが……。言いたいことがありそうだなバンビーノ」
「……」
デジタルウォッチを開くディビットだが、無言の返答に、視線を上げる。
その視線は、エネリットの瞳の奥に潜む"炎"を捉えていた。


「……作業に移る前に、僕から一つ。
 明確にしておかなければならないことがあります」

その声音は、さきほどまでの理知的なものとは異なっていた。
深く、静かで、それでいて地の底から響いてくるような気迫があった。


「僕の復讐相手についてです」

風が止まった。空気が静まった。
ディビットの指が、無意識に自身の胸元へと伸び、その動きを止めた。
もし、彼が煙草を手にしていれば、火をつけて煙をふかしていただろう。



「……ようやく話す気になったか。言ってみろ」
ディビットが顎を軽くしゃくった。

エネリットはほんの少しだけ目を伏せ、一呼吸置いたのち、顔を上げて復讐相手の名を告げる。

「バルタザール・デリージュ。鉄仮面で素顔を隠した大男。
 ――この刑務に参加しています」


「――あの男か」

ディビットは直ちにバルタザールの名と容貌を記憶から引き出し、関連情報を思い返す。
ある意味、アビスの囚人として破格の扱いを受けている男。
そして、ディビットの情報力を以ってしても謎に包まれた男だ。
正体も超力も、その素顔さえ一切の謎。
いわば秘匿受刑囚に次ぐ未知数である。


「お前たちの因縁に興味はない。
 だが、一つだけ質問に答えてもらうぞ」
「はい」

ディビットの言葉に、刃物のような鋭さと、押しつぶす様な重圧が入り混じった。
ここで誤魔化すようであれば、同盟の決裂も視野に入るだろう。
それほどの圧をエネリットは正面から受け止め、ディビットから決して目を逸らさなかった。



「お前は――自分の手でそいつを殺したいのか?
 それとも、そいつが死にさえすれば満足か?」


その問いには無視できない重みがあった。

804合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:35:42 ID:L0e4MWiE0


ディビットは組織人として敵対組織への報復を取り仕切った経験はある。
だが、それは断じて私怨に基づくものではない。
報復とは、綻びかけた組織の基盤を補修し、より盤石にするための一手段だ。
そのため、合理性を以て行われねばならない。

リカルド・バレッジは、キングとの直接抗争で半身の自由を失っている。
専用の治療装置に繋がれ、表に出る機会も大きく減少した。
だが、キングス・デイとの徹底抗戦論をディビット含むバレッジの上層部は抑えきった。
他ならぬ、リカルド・バレッジ本人を説き伏せた。
キングス・デイとの全面抗争はバレッジ・ファミリーの終焉に繋がることを理解しているからだ。
できることならばこの手で八つ裂きにしたい衝動を抑え込み、ディビットはファミリーの存続のための手を打ち続けてきた。


だが、エネリットの復讐は違う。
そもそも個人の復讐というのは、私怨によって構成されるものだ。
そこには、非合理が確実に入り混じる。


エネリットはディビットの言葉の意味を咀嚼し、しっかりした口調で言葉を紡ぎ始める。

「――僕は、自分の手で復讐を果たすことを望みます」


ディビットの目が細められた。
選択の幅が、ぐっと狭まる答えだった。
その反応を認識しながら、エネリットは言葉を続ける。

「ただし、それは僕が剣を振るい、首を落とすということではない」
「ほう?」
ディビットの価値を見定めるような目を前にしても、
エネリットの言葉に込められた意志は鋭く澄んでいた。


「僕は王子です。騎士ではない。
 僕の描いた盤面で、僕が駒を動かし、計略の果てに復讐を完遂できるのであれば、それで構いません」
「なるほどな。つまり、バルタザールが勝手に事故で死ぬのは許容できないが、お前の策で殺されるのは構わんということか」
「ええ、それが"僕の手での復讐"の範囲です」


それが王子としての矜持。
人を動かす者として、正道のやり方で復讐を完遂できるのならば、むしろ本懐ですらある。
非合理の塊たる私怨による復讐でありながら、合理を重視した王族としてのやり口で復讐を果たす。


「ああ、よく分かったよ」
ディビットとしてもその解答は及第点であった。

思い出すのは、メアリーを葬ったときのエネリットの一連の選択。
ルメスとメアリーの交渉次第では、あの場で命を落としたのはエネリットである可能性もあった。
エネリットはそれを正しく認識したうえで、生き残る意志と賭けに出る胆力の双方を見せた。
あの短時間で殺害までの道筋を構築し、見事に標的を葬って見せた。


「お前は、賭け方ってヤツを知ってる。
 だから俺はお前に投資を続ける」
「光栄です」


かつてディビットは、100ポイント以上の価値を示し続けろと注文した。

信用とは、価値とは、言葉ではなく行動で積むものである。
聡明さと実行力、胆力、何より動くべきところで正しく動ける決断力。
それらを併せ持つエネリットは100ポイントを超える価値がある。


唯一気になったのは、先のジョニーとの対話の際に見せたあの激情。
おそらく、本人が自覚しきれていない感情。
冷徹で抜け目ないアビスの王子の胸中には、どろどろとしたマグマのような激情が宿っている。
では、エネリットは信用しきれない相手か?


――断じて否。


たとえ激情に身を焦がされようとも、冷徹な意志で復讐を完遂する。
それがディビットによるエネリットという男への見立てである。


新たな契約内容と前提情報の共有。
そのすべてを終え、二人の男は握手をかわす。
ポイントを稼ぐ同盟から、互いの目的を果たす同盟へ。
契約が、この場で確かに更新された。

805合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:36:59 ID:L0e4MWiE0


<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路内側 物置前廊下>

足音が、空間を裂くように鳴り響く。
ブラックペンタゴンの長い廊下。
二つの影が景色を置き去りにして走り抜ける。



先頭を行くのは只野仁成。
その洗練されたボディは、走破に特化したスポーツカーのごとし。
エンダ・Y・カクレヤマを担ぎ上げるように抱え、回廊をひた走る。


背後。
石床を叩き割るような重低音が近づいていた。
それはまるで、戦場の一切を薙ぎ倒していく戦車のようなプレッシャーを放っていた。
エルビス・エルブランデス。
無敗のチャンピオンが敗者を決して逃がさぬと追い縋ってきているのだ。


仁成のさらに先。
彼をナビゲートするのは黒霞で構成された蝿。
他の受刑者の元へ導くべく、ルートを切り拓いている。


前時代のアスリートの最高速度が時速40km強。
そして開闢を経た今、人類最高峰である仁成の最高速度は車両の速度に匹敵する。
エルビスがいかに拳闘の王者と言えども、純粋な走力では仁成に大きく溝を開けられるだろう


だが、事実として仁成とエルビスの差は縮まっていく。
肉体の限界に迫る深刻なダメージが、本来の隔絶した走力を逆転せしめているのだ。


仁成は時速30km、エルビスは時速35km。
すなわち秒速換算で8.3メートルと9.7メートル。

二人の差、9メートル。
すなわち6秒。
これが仁成とエンダのタイムリミット。
それを超えるとエルビスが仁成に追いつき、仁成の背に破壊槌が撃ち込まれることにになるだろう。
仁成は背後に一切目をくれず、ひたすらに前を向き走り続ける。


――7メートル


長い回廊と部屋とは、扉によって仕切られる。
扉をぶち破るには、仁成はダメージを蓄積しすぎた。
立ち止まって開く動作に1秒弱。
その間、10メートル弱の距離を一気に詰められる。

さらにそこから最高速度に戻るまでさらに1秒弱。
十分な距離を確保しなければ、追いつかれてゲームオーバーだ。


――6メートル


迫り来るチャンピオン。
その姿を映すエンダの目が細められる。

806合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:37:54 ID:L0e4MWiE0

――くすくす。
――くすくすくす。


黒く蠢く霞が空中に集められる。
エンダの右手に集約され、形を成す。


――5メートル


エルビスは走りながら背を低くかがめ、構えを取った。
ファイティングポーズ。
エルビスが何千回と繰り返した型。
エンダのいかなる攻撃も見切って打ち砕き、確殺の反撃を叩きこむ基本にして奥義。


――2メートル


『ははははははははッ!』


その瞬間、図書室から響くけたたましい笑い声。
人類の本能に干渉するような悍ましい嬌声、エルビスが警戒の一部を一瞬だけそちらに割く。

その一瞬で、仁成が脇に置かれていた容器に手を叩きつけ、中身をぶちまけていく。
それは図書室南側入り口に置かれた文房具。
大量のボールペンやマジック、画鋲が床に転がり、走行を阻む。
動きの読めない極小の障害物がわずかに一歩を戸惑わせる。


――3メートル


足元に気を取られた隙を狙うはエンダ。
黒霞を鞭のようにしならせ、袈裟斬りのように上空からエルビスを狙う。


「……甘い」

これ見よがしに動き回る小物に気を取られた隙に、別の死角から一撃を叩きこむ。
そんな戦法はネオシアン・ボクスの2勝目にすでに下した。

エルビスはただ一度の踏み込みで黒霞の鞭の内側に潜り込み――。

「そっちこそ……!」

鞭の形をしているが、黒霞は決して鞭にあらず。
地面にたたきつけられた黒霞はそこから急転回。
背後から足を刈り取るような軌跡を描く。


だが、この程度でエルビスの虚は突けない。

甘いと言ったろうとばかりに、エルビスは瞬間的にギアを上げ、内側に潜り込む。
だが、エンダとて然るもの。
鞭の形状をしていた黒霞が、エルビスの真下でぶわりと扇のように広がった。

これにはさしものエルビスも為すすべなく、黒霞の沼に秒間足を突っ込む形となる。


――6メートル


薄めて薄めて引き延ばした黒霞に、人体の奥部まで浸食するほどの濃度はない。
エルビスに警戒を促し、足の動きをわずかに緩めるだけに過ぎない。
その程度、エンダも承知の上。
黒霞がさらに広がる。黒霞がふわりと浮き上がる。

807合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:38:28 ID:L0e4MWiE0

――くすくす。
――くすくすくす。


黒い金属球。
先に撒き散らされた針や画鋲を取り込み、黒霞の塊がふわりと浮かび、破裂するように中身を拡散する。

さらに図書室前に置かれた回収用台車に黒霞が付着。
トリモチのように接着したそれを、エンダが掃除機のコードのように急激に巻き取れば。

金属片を撒き散らす塊に、くすくす笑いと共に直線上を高速移動しその道中を轢き潰す金属塊。
ポルターガイスト現象のような様相を呈したそれは、背後と上空の死角二ヵ所からの同時攻撃だ。


そんなものは、21勝目ですでに下した戦法だ。


エルビスは振り返ることもなく、背後の台車を裏拳で叩き潰して強引に鹵獲。
それを盾に破片の大半を受け止める。
お返しとばかりに潰れた台車をぶんまわして投擲するも、仁成は後ろに目があるかのように冷静に回避。

いや、事実仁成の前方には鏡のように磨かれた黒曜石の板が浮遊している。
前方へ一心不乱に駆け抜けながら、その目はバックミラーのような黒曜板を介して背後の状況を逐一確認しているのだ。


――15メートル


唸る鉄拳、響く轟音、炸裂する嬌声。
回廊が一際騒がしくなる。
それに紛れて、殺意が忍び寄る。


――くすくすくすくす。


足元の沼から異物が静かにその光を覗かせていた。
それは、金属のナイフ。
エンダが密かに黒霞に紛れ込ませていた刃。
ただの遅延行動、時間稼ぎ、子供のいたずら。
そこに紛れ込ませた悪霊じみた致命の一手。


『イがあああああああ!! あはははははははははッ!!』


嬌声のバックコーラスが鳴り響く。
命を奪いとる悪意が、背後と上空の同時攻撃をいなした直後に、足元から音もなく飛びだしていく。
エルビスの心臓目がけて刃を煌めかせる。

警戒と警戒の狭間。
来ると分かっていなければ避けられない一撃だ。


だが、そんなもの、7勝目で既に叩き伏せてきた。


ようやく来たかとばかりに、エルビスは上体をそらすだけで刃を回避。

背後、上空、足元の死角三方向からの同時攻撃。
攻撃をさばいた瞬間に繰り出される致命の一手。
前者は69勝目に、そして後者は7勝目から幾度も下し続けている。


木っ端な怨霊の悪意ごときがチャンピオンを冥界に引きずり込むなどできはしない。
だが、それでも足止めとしては十分。


――20メートル


致命の一撃が防がれても、時間稼ぎの役割は十分に果たせた。
稼げた距離は20メートル、すなわち約2秒。
回廊から図書室へ。
十分な時間だ。

808合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:38:47 ID:L0e4MWiE0

多数の受刑者を巻き込む乱戦へ突入しようとしたその時。

「仁成! 何か来る!」

仁成には、その正体が理解できた。
背後から音速で迫る圧縮された空気弾。
時速3桁キロにも及ぶその遠当て、到達までの所要時間は1秒未満。
エンダの黒曜石の盾とて、十分なチャージをおこなった百歩神拳の前では画用紙の盾も同然。
なれば、仁成は断腸の思いで回避を選択。


アッパーのような軌道から放たれたその空気弾はいったん地面すれすれを並走すると、ライズボールのように浮き上がっていく。
一秒前まで仁成の背中があった空間を通り抜け、着弾したのは図書室北口の扉枠上。
恐るべきは、カーブを描く軌道で遠当てを放てる練度か、それとも狙った場所に着弾させるそのコントロールか。

空気弾は大きくカーブを描いて北口の扉にぶち当たり、大きく形を歪ませた。
扉の建付けが狂う。
そうなれば開閉に数倍の秒を有し、けれども背後には既に駆け出したチャンピオンの姿。


――18メートル
――17メートル


稼いだアドバンテージは一挙に喪失。
いよいよ仁成は、チャンピオンと四度相対する覚悟を決め。


――15メートル
――13メートル


「仁成、構わない! 思いっきり開けて!」


――12メートル
――10メートル


エンダの言葉を信じ、力いっぱいに扉を引く。
黒霞が扉枠をコーティング、表面をわずかに削って摩擦を極限にまで抑え込んだ。


――9メートル
――7メートル


勢いよく扉が開き、図書室と回廊を隔てる仕切りがなくなり。
そしてエルビスがそこにまで迫っている。


――5メートル
――4メートル


決死の思いで仁成とエンダは図書室に飛び込もうとして。

「エンダ! 息を止めろ!!」
「えっ……?」


『アアアアアアアア"ア"ア"ア"ア"ッッ!!!!』
悲鳴のような絶叫に、仁成の忠告はかき消される。
開いた扉の向こうから紫煙の霧が噴き出し、あたりを包み込んだ。

809合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:39:35 ID:L0e4MWiE0


<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路中央 図書室北口前廊下>

爆ぜるように吹き出した紫煙の霧が、瞬く間に仁成とエンダの視界を埋め尽くした。
閉鎖空間に新たに開いた風穴。
内部の空気は殺到。ぶわりと廊下にまで噴き出した。

咄嗟に息を止めた仁成とは対照的に、エンダは紫煙を多量に吸引してがくりと項垂れる。
だが、目の粘膜をも通じて染み込むような心地よい刺激は、容赦なく仁成の意識のコントロールをも奪い去ろうとしてくる。
これが毒ガスか、催眠香か、超力か、純粋な兵器なのか。判断の暇すらない。


仁成はためらわずにエンダを紫煙の外へと向けて放り投げた。
速度・角度・距離は一瞬で計算完了。
ごろごろと転がり、紫煙の外へとはじき出された小柄な身体がやがて動きを止める。
新時代の人類であれば十分に耐えられる落下である。


「すまない……!」
乱暴だが、こうせざるを得ないのだ。
これより追撃に現れるは無敗のチャンピオン。
仁成はせめてもの抵抗として、全身の筋肉に硬化し、次に来る衝撃を迎え撃つ。


「がっ……!」
轟音。
紫煙すら吹き飛ばすほどの風圧を纏った拳が仁成の腹を撃ち抜く。
世界が一瞬揺らぎ、走馬灯のような幸福の日々が脳裏をよぎっていく。
痛覚が麻痺したのか、死を覚悟して脳が覚醒したのか。
時間が引き延ばされたかのようにチャンピオンの動きがスローモーとなる。


「チャンピオン、君も来い!」
「……!!」


仁成は肉体の軋みを無視し、振り抜かれたエルビスの腕を絡めとった。
そのまま紫煙の領域へと引きずり込み、チャンピオンもろとも、もつれ合いながら床に叩きつけられた。


「……うっ!」
「……ぐッ!」
互いに身体を打ちつけ、多量の紫煙を吸い込む。



上下が反転し、次の秒にはさらに反転。
天井と床が高速で回転し、そのたびに紫煙は肺へと侵入。
呼吸の荒いエルビスがより多くの紫煙を吸い込み、
傷の深い仁成がより大きく紫煙の影響をより受ける。
腐敗の花が咲く。肉が爛れ、喉が焼ける。
紫煙と腐敗、回転、朦朧としていく意識。
力関係と上下の位置は目まぐるしく入れ替わり、体中に浅い傷を作り、からまりつつ転がって行く。


不意に、視界が開けた。
ここは通気口の真下、廊下に噴き出た不浄な気はすべて天井裏へと吸い込まれていく。


その時点で、上を取っていたエルビスの容赦なく拳が振り下ろされ――。
必死で首を動かした仁成の、その顔のすぐ隣をエルビスの拳が撃ち抜く。
回避。だが、第二撃。


――来ない。

チャンピオンの力が抜けている。
紫煙の許容量が限界を迎え、夢へと引きずり込まれたのだ。
だが、反撃に移る前に、仁成も限界を迎える。
意識が夢へと引きずり込まれていく。

810合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:41:00 ID:L0e4MWiE0

それは、恋人に見守られ、"息子"を高く抱き上げる夢の続き。
それは、家族と共に食卓を囲んだささやかな夢の続き。

エルビスの隣で微笑むダリア。
仁成を囲んで誕生日を祝う父母と妹。

誰もが自分たちを知らない外国の街で、誰の顔色をうかがうこともなく、心の底から笑うことができる日々。
何の娯楽もない日本の田舎村で、警官として人々を守り、人々から感謝の言葉を受ける平和ながらもつまらない日々。

ダリアが微笑む。
家族が微笑む。

そして口を開く。

「「――――――」」




目を開く。
仁成が、エルビスが、同時に目を開く。
『起きて』という言葉に目を見開く。

一瞬の幸福を噛み締め、名残惜しみ、現実へと意識を移す。
僅かに早く現実に戻った仁成が、巴投げの要領でエルビスを補助電気室へと投げ飛ばした。


安全に着地できることなど考えていない投げだ。
しかし、これで決まるとは到底考えられない。
事実、着地音は極めて小さい。受け身を取られた証拠である。
エルビスはすぐに立ち上がり、呼吸を整えている。


紫煙の残滓か疾走による酸素不足か、思考が鈍る。
幸せの幻が脳裏をよぎる。
麻薬中毒に近い症状であり、本能が紫煙を吸い込むことを求めている。
それはエルビスも同じようだ。
チャンピオンだからこそ、品行方正な私生活と体力づくりを心掛けていたのか。
さすがに麻薬じみた快楽の対処には幾分骨が折れるらしい。



聞こえるのは、互いの呼吸音、あとは図書室の中から未だ聞こえてくる絶叫のような嬌声のみ。
じりじりと相手の出方を伺う両者。

期せずして、互いに小休止に入った。
わずかな静止時間が生まれ、仁成が言葉を発する。


「なあ、さっき、どんな夢を見た?」
「……藪から棒に、なんだ?」
「これだけ長く追い回されてるんだ。
 理由くらい、知っておきたいだろ?」

仁成の視界の端、いまだエンダは眠りに沈んでいる。
その表情には僅かばかりの安らぎと幸せの色が射している。
紫煙には、そういう性質があるのだろう。


「……恋人の夢を見た。
 アイツが、俺を幸せな夢からこのクソッタレた現実に引き戻してくれた」
「そうか。いい女性だな」
「ああ。最高の女だ」


それは、エンダが目覚めるまでの時間稼ぎ。
だが、この男への僅かばかりの興味も含まれていた。

沈黙。
荒い呼吸が、徐々に整っていく。

811合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:41:23 ID:L0e4MWiE0


「お前はどうだったんだ?」

今度はエルビスから、同じ問いが仁成に返された。
答える必要などない。
だが――。


「家族の夢を見た。
 生き別れた家族が、僕を現実に呼び戻してくれた」
「いい家族だな」
「ああ、僕には勿体ないくらいだ」


言葉を紡いだのは、ただの気まぐれか。
それとも、自分が取り戻したいものを言葉にして焼き付けたかったからなのか。
あるいは、秘匿受刑囚という実験体でなく、100ポイントの囚人でなく、『只野仁成』という個を相手に刻みたかったのか。
仁成は、見たままの夢を言葉として紡ぎ、エルビスに聞かせた。


「そこの女は、本当にお前の恋人ではないのか?」
「違う。言っただろう、ただの協力者だと」

それまでの仁成なら、ただ事実を事実と述べて話を打ち切っていただろう。
だが、一抹の感傷か、それとも夢に引きずられたのか。


「だけど、仮にたとえるなら……」

あるいは、同じような夢を見ていた目の前の男に共感してしまったのか。


「妹みたいな存在なのかもしれないな。
 大人ぶってるけど、純粋で、危なっかしくて、そして放っておけない子だ」
「……そうか」

そのとき、仁成の目から、澱みが消えていた。
昨日まで、人類すべてを敵だと見なしていたその荒んだ瞳から。
その一瞬だけ、濁りが消えていた。



「俺はダリアのいるところに帰る」
「僕らは家族の元に帰る。夢を果たす」


「「そのために」」


闘士二人が宣言する。


「お前たちを殺す」
「僕たちは生き延びる」

確かな意志を、言葉に刻み込んだ。

812合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:42:24 ID:L0e4MWiE0




<紫煙の幻郷・拝殿>


香ばしい木材で作られた、厳かな空間。
信仰や祈祷の場であるこの部屋にいるのはたった一人。
黒霞をまとった白髪の少女――エンダ・Y・カクレヤマが朗らかに笑う。


――神さま、神さま。
――今日は241人、無事に故郷に帰すことができました。


かつての東欧の紛争地帯。
超力戦争直前にまで加熱した二国間の紛争。
故郷を失い、ヤマオリ・カルトへと逃げ込んできた者も大勢いた。

その紛争にて多大な犠牲者を出した"戦犯"や"ギャルテロリスト"は裁かれ、二国は講和。復興が始まった。
エンダは元信者たちを引き連れ、組織のトップとして帰還事業を果たしてきたのだ。


――うん? それ以上に増えてるじゃないかって?
――ええ、そうですね。
――だって、みんな帰る場所を失ったって言うんですもの。
――だから、一晩でもどうかなって。

――帰る場所を失った哀しみは、私にもよく分かりますから。


欧州最大のヤマオリ・カルト。
山折に属する者を拉致し、非道な実験を繰り返していたのは過去の話。
エンダは自身に降りた土地神や、自分を慕う穏健な信者たちと協力し、組織に革命を起こした。
組織そのものを生まれ変わらせた。


人々を故郷から連れ去っていく非道の団体から、人々を故郷へ帰す団体へ。
そして、帰る場所のない人々や、信じるべきものを失った人々の寄る辺となる団体へ。
貧困。紛争。抗争。薬物。飢餓。差別。テロリズム。
故郷を失い哀しみに喘ぐ者たち。
命を失い現世と幽世の狭間を彷徨う者たち。
欧州を席巻する哀しみの連鎖を和らげるべく、組織を作り替えたのだ。

そこに生者と死者の区別はない。
超力によって、魂の想いを感じ取れるエンダにとって、同じ人であることに変わりはない。
迷える人々に等しく差し出される一泊の宿だ。


――私も攫われて、最初は思うところもたくさんありましたけれど。
――それ以上に哀しくなってきたんです。

――神はこの世界を救わないんだとか、神は私たちを見放したんだとか。
――裏社会の悪い人たちだけじゃなくて。
――GPAの偉い人や、慈善家の人たち。果ては、神父様たちまでそんなことを言っている。


エンダはかつて自分の超力を深く知るため、英国のとある神父とリモート越しの面会を果たしたことがある。
それは、死者の思念を取り込み、精神世界に内包させる群体型の超力者であった。
エンダと同じく、死者の思念を纏う超力者であった。
神を深く信仰し、周囲から高い尊敬を受けている神父であった。
そんな徳の高い聖職者でさえ、神を見失いかけている。
哀しみを背負っている。

813合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:43:02 ID:L0e4MWiE0

――神さまをこの身に降ろした一人として、それだけは否定したかったんです。

――けれど、これは私のワガママ。
――神さまを縛り付けたくありませんでした。
――ですから、見守ると言ってくださったとき、本当に嬉しかった。


神は人々を救わない。
神は我々を見放したもうた。
そうして絶望していた人々に、"神さま"が寄り添ってくれる。
生者も死者も分け隔てなく、"神さま"が寄り添ってくれる。


それは、神を騙る不届者なのかもしれない。
信仰を愚弄する異端なのかもしれない。
エンダという少女は神を蔑ろにし、得体の知れない邪神の信仰を広げる紛れもない悪なのかもしれない。


けれど、こんな哀しみに満ちた世界にも、寄り添ってくれる"神さま"は確かにいるんだと証明し続けたかった。
それがエンダという少女の夢。


とある側近の男の子が、はじめて"神さま"を信じ、安寧を願った時、エンダも自分事のように喜んだ。
元信者たちが新しい居場所を見つけたとき、エンダは涙を流しながら笑顔で送り出した。
そうして、出会いと別れを繰り返しながら家をここまで大きくしてきた。


――ありがとう、神さま。
――私ひとりじゃ、きっと打ちひしがれていました。
――きっと他の人たちと同じように、この世界に絶望していたと思います。
――だから。
――私は本当に神さまに会えてよかった。


――ありがとう。
――私と一緒にいてくれて、ありがとう。


ああ。
これは泡沫の夢。
紫煙によって作り出された"神さま"の夢想郷。
だって、そうでなければ。
私たちの大切な家の名前を思い出せないはずがないのだから。


これはそうあってほしかった未来。
これはそうはならなかった未来。
神は人を救わない。神は"神さま"を救わない。
故に"神さま"は世界≒神を恨む。
哀しみと恨みを携え、この世を彷徨う魂を再び霞として纏い、"神さま"はエンダとして世界に戻る。

814合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:43:49 ID:L0e4MWiE0




<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>


エンダが目を覚ました瞬間、見た光景。
それは、エンダを守るように立ち塞がる、仁成の大きな背中だった。
絶望的な勝算の中、覚悟を決めてエルビスを食い止めようとする仁成の姿だった。



「仁成ぃっっ!!」


エンダが魂の奥底から叫ぶ。
人間嫌いで辛辣な、人ならざる上位存在。
それが、無力で無垢な子供のように、恥も外聞もなく叫ぶ。
それは、超力も神力も宿らないただの振動の伝達。
それでも、その響きは仁成の拳に何かを灯した。



衝突音よりも先に、エルビスの肉体が大きく吹き飛ばされていた。
その鍛え上げられた肉体が、凄まじい勢いで後ろに押し退けられる。
チャンピオンの砲弾のようなストレートよりも早く、仁成の拳がエルビスの身体に届いていた。
それはエルビスにも、仁成にとってすら予想外の事態であった。



自らの限界を超えた出力に、仁成は唖然とする。


数年にわたる逃亡生活、ずっと戦ってきた仁成には分かる。
この一撃は自分の実力を超えた一撃だった。
すぐにエンダがその名を呼び、意識が現実へ引き戻される。
エンダは仁成を先導し、逃亡劇が再開される。


孤独で、独りで、自分のためだけに戦い続けてきた彼に、その現象は言語化できない。
だが、仮に理由があるとするならば。
傍らに並ぶ足音が、不思議とその答えに近い気がした。

815合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:44:48 ID:L0e4MWiE0




<ブラックペンタゴン 北東ブロック外側 機械室>


超巨大施設であるブラックペンタゴンを支える機械室は、やはり相応に巨大な部屋である。
複雑に絡み合った空調管や配線の群れが天井から壁面へと這い、どこかで稼働する機器の唸りが床板を震わせる。
壁に沿って設けられた補助通路は立体的に張り巡らされ、まるで迷宮の一角のようだった。


――くすくす。
――くすくす。


本来、この島には存在しないはずの羽虫が、機械室の扉前にまで忍び寄っていた。
やがてそれは、扉の隙間に染み込むように身を押し付けたかと思うと、
次の瞬間、霧のごとく厚い鋼鉄の障壁をすり抜けて内部へとすり抜ける。


――くすくす。
――くすくすくす。


そして、新たな生贄を求めて、飛び立とうとしたところで。


――――――斬。


黒蝿は白銀の軌跡に触れ、その身を塵と化した。



「なんだ、今のは」
黒蝿を一刀に斬り捨てたのは征十郎。
周囲の喧騒を確かめるべく、出入り口に向かう途中で、異質な存在の気配を捉えた。
それを一刀のもとに斬り捨てたのだ。


「げっ、ヤマオリ様じゃん」
タチアナが言葉の端に露骨な嫌悪をにじませる。

ヤマオリ様。
魔王ほどではないがまた突飛な単語が現れ、征十郎の眉間がわずかに寄る。
耳慣れない響きだが、どう解釈しても山折村と無関係とは思えない。


「もうお前の突拍子もない話にいちいちリアクションを返すのも辟易してきたのだが……。
 なんだ? そのヤマオリ様というのは。
 また村の誰かなのか?」
「いや、私の話は全部事実ベースだからね!?」

タチアナはそう主張するが、少なくとも山折村にそのような名前の神や怪異の伝承は存在しなかった。
外の人間が土地の名を勝手に怪しげな連中の呼名に使い、噂を膨らませることは珍しくないが、やはり当事者としてはあまり気分のいいものではない。


「ヤマオリ様ってのは、欧州最大のヤマオリ・カルトの巫女様。
 本名は知らない。ってか、アビスで生きてたことも初めて知ったし。
 たぶん、噂の秘匿受刑囚ってやつだよ」
「ヤマオリ・カルト……あの冒涜者どもか」
征十郎の声が自然と低くなる。

816合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:45:17 ID:L0e4MWiE0

ヤマオリ・カルトとは、開闢以降各地で勃興した、新興宗教群の総称。
"ヤマオリ"という概念を崇め奉る集団だ。
だが、実態は"ヤマオリ"にまつわる物品や人間を見境なく接収し、
誘拐や窃盗はもちろんのこと、生物テロや薬物テロにまで手を染める犯罪結社のような存在である。


無論、八柳流を修めた征十郎とその母が標的にならないわけがなかった。
それどころか、無関係な父や友人まで巻き込んだことも一度や二度ではない。
山折村に関わる人間にとって、ヤマオリ・カルトの連中は敵対的異星人のようなものだ。
言葉は模倣、会話は鳴き声。
見かけ次第、ためらいなく制圧すべき永遠の宿敵である。

加えて、秘匿受刑囚とされるほどの凶悪な犯罪者ときた。
どれほど警戒しても足りないことはないだろう。



「お前が狙われるのも、警戒するのも道理だな」
「でしょ? アイツら全ッ然かわいくないんだから!」
……どことなく漂ってきた誤魔化しのニオイを征十郎は見逃さなかった。


「……本当のところは?」
「ルーさん――ルーサー・キングの依頼でちょこっと、本部を、ね?」
「それだけか?」
「……私がヤマオリ様の暮らしてた村を襲ったことにされてる」
「ん??」
「いやね、五年前に山折村にカチ込んだって言ったじゃん?
 シビトのおっさんが捕まった後、放置された村人がヤマオリ様のいた村になだれ込んだらしくて、めちゃくちゃ小言を言われた」

征十郎は頭を抱える。
やっぱコイツここで斬ったほうがいいんじゃないのか?
この調子だと、受刑者と出会うたびにギャルの余罪がもりっと追加されてきそうだ。


タチアナは自業自得だが、いずれにせよヤマオリ・カルトの連中は押しなべて話が通じない。
故に斬り捨てるべき相手には違いなく。

と、ここで征十郎は一つの違和感をおぼえた。


「……待て、お前、そのリアクションからするに、依頼に失敗したのか?」
あの凶悪極まりないギャルが、ヤマオリ様などというビッグネームを見逃して帰る?
とても考えられない事態である。


「あの子、超力を封じてくるわ、信者爆るたびに強くなってくわ、なんでも器用にこなすわでめちゃくちゃ強いの。
 あの時は周囲から潰していったら、ちょ〜っと手ぇ出せないバケモノになっちゃって……。
 いやー、参った参った ☆彡」
口調で誤魔化しているが、清々しい敗北宣言であった。



機械室は壁の厚みが必要な関係で、連絡通路から東に曲がって、少々奥まった箇所に扉がある。
征十郎は壁を背に、連絡通路の様子を伺った。
この世ならざる美しさの少女が、なぜか探偵服を着て、護衛らしき男と共に向かってくる。

「ただ守られているだけの子供にしか見えんが……」
「ヤマオリ様って二重人格なんだよね。
 普段は虫も殺せなさそうな深窓の令嬢を演じてるけど、
 ちょっかい出したら、尊大で冷酷非道な祟り神さまが出てくるぞ〜」


タチアナの話を総じるに、ヤマオリ様は条件次第で異常な戦闘力を発揮する類の超力者らしい。
一撃で殺せなければ狂暴化して手が付けられなくなる。
ならば征十郎の超力はうってつけであるが、護衛らしき男と、さらに後ろの男が予測不能のノイズである。



「で、どうする征タン? カチ込む?」
「お前が完敗するほどの相手にバカ正直に突っ込むやつがあるか。
 この部屋に入ってきたところを一撃で仕留める」
「征タンなら真正面から『斬る……!』って言いながら突っ込むものだと思ってたんだけど」
「お前、さっきから私をなんだと思ってる。
 少なくともお前よりは常識に満ち溢れているぞ」
「そうかなあ」
「少なくとも私は、掘られても芋のように余罪が出たりはせん。
 ……お前との果し合いがなければそうしていたがな」
「……やっぱやるんじゃん」


軽口をかわしながらも、着々と奇襲の準備を進めていく。
機械室入り口頭上の補助通路に身を移し、標的が入室した瞬間に頭上から仕留める算段だ。
近づいてくる足音と、徐々に大きくなるくすくす笑いを聞きながら、征十郎は奇襲のタイミングを測っていた。

817合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:46:07 ID:L0e4MWiE0



<ブラックペンタゴン 北西・北東ブロック前連絡通路中央 補助電気室前廊下>


足音が遠のいていく。
身体を貫く痛みと共に、肺の奥に溜まった紫煙が吐き出される。
温んだ頭がクリアになり、エルビスはゆっくりと立ち上がる。


エンダと仁成はいったんは逃げおおせた。
だが、この程度で諦めはしない。
それはダリアへの誓いであり、そしてエルビスの意地でもあった。


機械室の入り口から、轟音が響いた。
瓦礫と機械の残骸が廊下にまで飛び出している。
何者かが、二人が飛び込んだ瞬間を狙ってその悪意を炸裂させたのだ。

だが、ポイントを奪われた可能性があるにも関わらず、エルビスには何の動揺もなかった。



――あの仁成という男が、その程度で死ぬタマか?

チャンピオンとの本気の試合を4ラウンドも生き延びた男が。
家族に再会するという願いを秘めた男が。
そして大切な女をそばに置いている男が。

今更ケチな横槍程度でくたばるだろうか。


――そんなはずはないだろう。
その程度でくたばるのなら、既に自分が下している。



機械室の入り口が塞がれたのなら、出口で待ち構えればいい。
エルビスは何の焦燥もなく、堂々と次の舞台へ移る。
そこにいる一人に、声をかけて。


「俺はあいつらを追う。
 お前と事を構えるつもりはない」
「そうかよ。俺だってアンタとやり合う趣味はねえさ」

補助電気室、その機材の影から現れたのは、ネイ・ローマン。
アイアンハートのリーダーにして、ストリートを束ねる新進気鋭のギャングスタ。
あの牧師の命を狙い、なお潰されずに立ち続ける強者。


それほどの強さでありながら、刑期はたった15年。
あまりに旨味に欠けるその受刑者は、ポイント狙いならば徹底して交戦を避けるべき相手だった。


先の仁成との会話。
エルビスの心中に仁成への興味は確かにあったが、それだけであれば会話には応じたかどうかは分からない。
決め手は、潜んでいた第三者の存在である。

仁成たちが別の受刑者を巻き込もうとしていたことくらい、エルビスも気付いていた。
そしてネイ・ローマンの存在に気付いたからこそ、背後からの奇襲を警戒し、時間をかけて出方を伺ったのだ。


結果的には取り越し苦労だ。
ローマンからは殺気も、欲望も感じられなかった。
ローマンから発せられるのは、俺を巻き込むなという無言の警告のみ。
200ポイントの獲物を放り出して、15ポイントの強者と時間を潰すつもりはなかった。

「牧師の居所は知らん。会ってもいない。
 探しているなら他をあたれ」
「そうさせてもらうぜ。
 もっとも、他にも落とし前を付けたいヤツがいてな。
 そっちを優先するがよ」

ローマンは図書室へ足を進める。
エルビスは補助電気室を通り抜けて先に向かう。


「ああ、そうだ」
再び動き出したエルビスに、背後から声が届く。


「俺の女がいるんだよ。
 アンタと事を構えるつもりはないが、メリリンに手を出そうってんならアンタとて容赦はしねえ」
「俺はダリアにこの身を捧げた。その女がどんなに魅力的だろうと、手出しはしないさ」

それはある意味、ローマンからの宣戦布告であった。
愛を語っていた男に、一人の男として敢えて伝えておきたかった。
お前の愛は深いだろうが、俺の愛も負けちゃいない、と。


チャンピオンはギャングスタとすれ違い、交わることなく各々の道を進む。
それは世界のどこにでもある、何の変哲もないすれ違いであった。

818合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:46:51 ID:L0e4MWiE0


<ブラックペンタゴン 南東ブロック外側 倉庫>


ブラックペンタゴン。
システムBの中央に位置する、漆黒の建造物。
それはまるでブラックホールのように受刑者たちを引き寄せていく。

ディビットとエネリット。
今もまた、新たな二人の受刑者がブラックペンタゴンの門をくぐり抜け、足を踏み入れていた。



倉庫に踏み入った二人が早々に見つけたものは二つ。
一つは誰かを誘導するように付けられた傷であり、工場エリアへと続いている。

もう一つが、二人にとって重要なものであった。
それは、コンテナに詰め込まれている備品の物色の痕跡。
より正確に言うなら、食料補給の痕跡である。


「床にパンくずが落ちてやがる。
 誰かが必要に迫られて、急いで食事を終えたって証拠だな」
「そして、死体や血の跡が近くに残っていないということは、この食料が毒や罠ではないという証拠ですね」

実際にディビットが免疫を四倍にして、携帯糧食を毒見。
本当に何の変哲もない食品であった。
もうすぐ十二時間、特にエネリットにとって補給は死活問題であったが、それがこうもあっさり解決できた。


「これはただの勘だが、長居はすべきじゃなさそうだ」
「同意見です。早々に離れるべきでしょうね」
「標的がいなければ、だがな」

水と食料の確保について、二人は危機感を持って議論を重ねていた。
それらがこうも簡単にそれらが手に入る状況は異常にすぎる。

問題は、多くの受刑者がこの建物に集い、その中にエネリットの標的が存在する可能性が高いという点である。
キングなら、この建造物の異常性を知った上で留まる選択は取らないだろうが、バルタザールがどう動くかは分からない。
食料に加え、大量の標的がいるとなれば、むしろ積極的に留まる可能性のほうが高いだろう。
必然的に、エネリットもこの建物に留まる理由ができてしまう。
つくづく、イヤらしい仕掛けである。


「手早く用を済ませましょう。
 おそらく、三グループ程度と接触することで、おおよその受刑者の分布は把握できるはずです」
「いいだろう、それで行こう」


方針を手早く決定。
エネリットはクラッカーと果物で素早く栄養を補給する。
その間にディビットは聴力を四倍にし、屋内に響く争いの音を捉える。

「予想通り、鉄火場だな。
 五人や六人なんて数じゃねぇぜ、十人はいそうだな」


爆発、破壊、悲鳴。
目立つのは、爆発と悲鳴。
ただし悲鳴はいつの間にか止まり、代わりに巨大な爆砕音が響く。
遠くのエリアで争っているらしく、どこで争いが起こっているのかは分からなかった。

一方、爆発の方はすぐ近くで起こっていた。
これに加えて、重い何かが倒れるような重低音に、金属同士がぶつかるような甲高い騒音。
十中八九、機械室で争いがおこなわれている。


「バンビーノ。準備はできたか?」
「ええ、食事は済ませました」

「機械室で騒いでる奴は、十中八九ギャルだ。
 まさかポイントで手榴弾をしこたま買い込んでバラ撒いてるなんてことはないだろうよ」
「ギャル・ギュネス・ギョローレン。
 会話はできるが話が通じない危険人物、でしたか」


欧州で活動していたギャルのパーソナリティについては、ディビットも当然把握している。
キングス・デイともバレッジファミリーともつながりを持ち、その独特の価値観に基づいて破壊活動をおこなう傭兵。
表向きこそフレンドリーだが、ポイントで釣ることは決してできないだろう。
根本の価値観が常人とは異なる、いわば怪異の類だ。
それでいてキングと通じている可能性もあるギャルは、可能であれば排除しておくべきコマである。


「では、まずは機械室の方から?」
「いや、その近くを一人でうろついてるヤツがいやがる。
 まずはそちらと接触し、情報を得るべきだろう」
「分かりました。それでは、誰が来たとしても」
「ああ、手筈通りに済ませよう」

かくして、ディビットとエネリットの二人はブラックペンタゴンの奥へと侵入する。
最初の目的地は、補助電気室方面。

819合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:48:00 ID:L0e4MWiE0




<ブラックペンタゴン 北東ブロック外側 機械室>


――斬。


征十郎が人影を穿つ。
だが、それは肉ではなく霞だった。
ヤマオリ様は白髪の美しい少女、しかし貫いたのは黒髪のナニカである。


仕損じた。
そう認識するのと、手筈通りに通路への道が爆破され、塞がれたのは同時だった。
直後、迫りくる男の剛拳。
刀の腹で受けようものなら、刀身がへし折られてしまうだろう。
征十郎は後ろへ大きく跳び退き、中空の配管群の上に足を乗せた。


くすくす、くすくすと嘲笑うかのような笑い声を残して、黒霞でできた少女は霧のように散っていく。
ヤマオリ様を一撃で仕留め、直後に爆発で退路を断ち、護衛の男を二人がかりで仕留める。
その構想はあえなく瓦解した。


「手荒い歓迎だね。
 八柳の人斬りは、八柳らしく礼儀を知らないらしい」
壮絶な笑みを浮かべるヤマオリ様に、征十郎の背筋がうすら寒くなる。
言外に、学校を襲撃して子供たちを斬り殺した開祖への呪詛が含まれている気がした。



エンダの黒蝿は図書室と配電室、集荷エリアに補助電気室、機械室。周辺のすべての部屋に飛ばしている。
そのうち、図書室と機械室の黒蝿の反応が消失した。
凄腕が待ち構えていることくらい予測できる。
来ることが分かっているならば、いくらでも対処法はあった。


「八柳の人斬りだけじゃないね。
 さっきの爆発。ギャル・ギュネス・ギョローレンがいるだろう。
 なるほど、錚々たる悪党どもだ」
「私は自分を悪党だと理解している。
 だが、カルトを率いて山折の名を汚すお前に悪党呼ばわりされるのは心外だな」
「ふっ、山折を汚したのはそちらだろう?」


――くすくすくす。
――くすくすくすくす。

恨みが肥大化していく。
会話を重ね、記憶を掘り下げ、恨みを醸成させていく。


神を降ろしたエンダという少女は、神と会話をすることができた。
この世ならざる者の声を聞くことができた。

八柳に斬り殺され、永遠に囚われ、偽りの命を与えられて弄ばれた山折の住人たち。
かつて彼女はその呪詛を聞き、自分のことのように苦しんだ。
運命に見放された『ヤマオリ』の屍人に対して思うところはあるが、その原因となった八柳に対して良い思いなど一つもない。
まして、八柳の所業を知りながら呪われた剣術を修める輩に、加える情けなど持ち合わせていない。


「……エンダ」
「……分かってる」

囁くような声で仁成が名を呼ぶ。
恨みに呑まれていないかを確かめるようにその名を呼ぶ。
エンダは憎悪の仮面をかぶり、その奥で理性の光が灯らせている。

退路を塞がれたことで、エルビスの追跡は免れた。
だが、あの男がこれくらいで諦めるはずがない。
それはエンダも理解をしている。
だからこそ、次の一手を胸の奥で組み上げていた。


「……ギャルは話も常識も通じない。
 アイツが何か話しかけてきても、鳴き声だと思ったほうがいい。
 あれがチャンピオンを前にして、どう動くか予測もつかない。
 ままならないけど、今は部屋を無事に出ることを考える」
「……分かった」

820合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:48:15 ID:L0e4MWiE0

直後、頭上の配管で極小の爆発が起こる。
配管が千切れ、エンダの頭部目がけて落下してくる。

仁成は慌てた様子は一切なく、傍らの少女の身体を抱えあげて、離脱。
床を蹴る一瞬、エンダの目が細くなった。
次の瞬間、増幅された黒霞の刃があたりの機材を紙細工のようになぎ倒す。
配管を次々に引き裂き、照明を壊していく。

ほどなくして、熱を含んだ白い吐息のような蒸気が、配管の裂け目からほとばしった。
漏れ出た水が床を濡らし、湿り気と熱気とが混じり合う。
視界が濁り、ぴゅうと噴き出す蒸気が笛の音のような高音を伴い、足音すら覆い隠す。
熱とともに蒸気が噴き出し、視界が悪くなる。
仁成とエンダは配管と蒸気の迷宮の中へと紛れ込んでいく。


「私の超力をよく理解した戦術だね。
 さすがに一筋縄じゃいかないけど、今回はそれを利用させてもらうよ」

エンダの超力は恨みによって強化される。
だが、浅い恨みというのは徐々に忘れられる。
時間が経てば経つほど、恨みは薄れる。
逆に姿を見せれば、声を聞かせれば、それだけ恨みは残りやすくなる。
だから、"ギャル"はエンダの前には姿を見せず、征十郎だけが前に出て戦った。

裏を返せば、それはエンダたちを見失いやすいということである。



タチアナと征十郎は同時に舌を打つ。
してやられたと思うほかない。
恨み骨髄のような顔をしておきながら、ヤマオリ様は最初からまともに交戦する気がなかったのだ。


蒸気の向こうで影が走る。
蒸気の粒子に音が反響する。
足音、倒壊音、爆発音。
絡み合い、反響する。

「入り口は一つだ! 抑えるぞ!」
「りょーかい!」

征十郎とタチアナは視界の確保できる補助通路上を走り抜け、もう一方の出口へと向かう。
視界の悪い中、機械室の下層を二つの影が走り抜ける。
それはタチアナの血による爆撃を、つかみどころのない霧のようにすり抜け、一心不乱に出口へと向かっていく。

タチアナと征十郎は出口で合流、そのまま影を追い、反対側の連絡通路へと脱出。
霧の向こうには、大柄な影と小柄な影、二つの影が立っていた。

821合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:49:09 ID:L0e4MWiE0




<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路中央 補助電気室前廊下>


「よう、カンピオーネ。そんなに急いでどこに行くつもりだ?」
新たな男の登場に、エルビスの足が止まる。
その威圧感は、あの牧師に勝るとも劣らないものであった。


「バレッジの金庫番に、アビスの王子か……」
欧州の大物ギャング。ディビット・マルティーニ。
かつて、ヴェネチアで権勢を振るっていた敵対組織をたった一人で壊滅させた怪物。


「まあ、そう威嚇するなよ。
 俺たちは殴り合いをしに来たわけじゃあない」

相対してみて思う。只者ではない。
これほどのプレッシャーを放つのであれば、エルビスとしても手こずる相手だろう。
それでいて、刑期は20年。ネイ・ローマンほどではないが、割に合わない相手だ。

何より、二人はエルビスが来ると分かっていて待ち構えていた節がある。
そんな彼らの要件とは何か?


「俺たちは戦力を求めている。
 それも、"ドンを倒せるほどの"戦力をな」

それは、戦力の拡充であった。
すなわち、エルビスのスカウトだ。
だが、語られたその内容には大きな違和感がある。


エルビスは、その内容を反芻する。
何故、"ドンを倒せるほどの"戦力なのか?
死人が蘇ったのか、あるいはそのような超力持ちが存在するのか。

あるいは――



「俺は身の程を知ってるさ」

エルビスは静かに語る。
エルビスは、その意味に当たりを付けた。
ディビットが倒そうとしている相手、それすなわち。

822合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:50:08 ID:L0e4MWiE0

エルビスは思い返す。
それは、エルビスが入獄して一週間ほどのことだったか。


その日は、食事の時間がいつもとずれていた。
訝しみながらも看守に連れられて食堂に向かうと、一人の男がすでに席についていた。
ルーサー・キング。
音に聞く、世界の暗部を統べる暗黒街の帝王であった。




――まあ、座れよ。

一番奥の席を堂々と陣取り、監獄にしては上質な椅子に深く腰を沈める。
そしてゆったりとした仕草で煙草を口元に運び、白い煙を吐き出した。
一受刑者が監獄内でそのような態度を取れるということがまさに異常であった。


――近頃の裏格闘技界の流儀には疎いがな……。

灰皿でタバコを軽く叩いて灰を落とすと、ひどく寛いだ表情でエルビスを見据えた。


――飯の誘いにも応じられねえほど、荒んじゃあいねえだろ?

これはたまたま食事時間がかち合っただとかそういう次元の話ではない。
キングが、意図を以ってエルビスを食事に誘ったのだ。
刑務官を後ろ目で見れば、"目こぼし"が発生している。
この異常事態を最大限に警戒し、だが決してそれを表には出さず、静かに椅子に座る。


――ハッ、常在戦場ってヤツか。
――チャンピオンってのはそうでなくちゃあな。

エルビスの警戒を見抜きながら。
目の前の老人から、目の前の巨悪から、流れてくる感情。
それは、まるで子供の無垢な好奇心。
これにはさすがのエルビスも困惑する。


――おいおい、俺がボクシングに興味を持っちゃ悪いかい?
――人間である以上、娯楽ってヤツは必要さ。
――チャンピオンを一度は夢見た一人として、君のことは買っていたんだ。

キングの体術はボクシングの型を土台としている。
ある程度裏に通じた者であれば、それは常識の中の常識だ。

ネオシアン・ボクスにおいて、選手に支給される鋼鉄の手甲。
それは、キングス・デイが協賛していることの証に他ならない。


――俺はどんな形であれ、頂点に立った奴には敬意を払う。
――辿り着くまでの困難さも、その座を守り続ける重圧も知っているからだ。
――179勝0敗だったか?
――ラテンアメリカの伝説と呼ばれるのも納得だ。

子供のように目を輝かせ、饒舌に話すキング。
その表情が一転、真剣みを帯びたものに変わった。
アイスブレークを終え、本題に入ろうというのだ。


――悪かったな。
――うちが無節操に手を伸ばしたことで、つまらねえ奴らをつけあがらせた。
――君の経歴に傷が付いちまった。

牧師の後ろ盾を得たことで、最強のチャンピオンですら、俺には逆らえない。
そんな麻薬のような快楽がネオシアン・ボクスの胴元のマフィアを蝕んだ。
チャンピオンが強ければ強いほど、それを支配下に置く自身の万能感が肥大化する。
それが、チャンピオンが懇意にする女を犯すという愚か極まる行為がおこなわれた真相であった。


だが、そんなことよりも、牧師が謝罪の言葉を述べたということ自体が驚愕すべき内容だった。
そして、続く言葉はエルビスを恐怖に陥れた。


――ダリア、だったかい?
――詫びと言っちゃあなんだが、彼女の面倒を俺のところで見てやってもいい。

それは謝罪だった。
そして脅しだった。
キングを殺しうる実力者、そして正当な恨みを抱いてしかるべき男に対して、キングはこう述べたのだ。


お前の家族を知っているぞ、と。



牧師には逆らうな。
その言葉の意味を、エルビスはあの時噛み締めた。
アビスに堕ちた極悪人が恋人面をして償いをしたところで、枷でしかないだろうと牧師の提案を断り。
エルビスの心はそこで一度、完全に折れた。


――そうかい。
――まあ、辛気臭い話はこれくらいにしよう。
――今日は食事を楽しもうじゃないか。

その日の食事会は、砂とゴムを食べているかのように、空虚で何の味もしなかった。

823合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:50:43 ID:L0e4MWiE0


「俺は身の程を知ってるさ」
牧師相手に殴り合いで勝つ?
リングの上なら可能だろう。
それこそ、肉体的な強さならエルビスは牧師を確実に上回る。
ボクサーの夢破れた老人と若きチャンピオンではその地力が違う。


だが、殺し合いにおいては、エルビスは牧師に勝つことは決してできない。

それは武器の有無ではない。
いかに武装しようとも、武装越しに拳を叩きこめばいい。

それは手下の数ではない。
いかに徒党を組もうとも、全員まとめて打ち倒せばいい。

それは超力の練度ではない。
いかに強力な超力の使い手であろうとも、使わせる前にノックアウトすればいい。


では、チャンピオンが牧師に勝てない理由とは何か。

無敵のチャンピオンが無敵である理由にして、最大の弱点。
それは、愛する女が手の届かない場所にいるということだ。


未だに牧師が表社会へ隠然たる影響力を及ぼしているのは、アビスにすら息のかかった看守がいるからこそ。
キングが協力者に一言合図を送れば、それだけでエルビスへの報復が約束される。
報復の仕組みを知らないエルビスに、合図がどのようにおこなわれるかは分からない。
監視をおこなっている看守にリアルタイムで合図を出すのか、それとも刑務が終わった後に何らかの方法で外と連絡を取るのか。
それを知るすべは一切ない。


ダリアともう一度会うために刑務を勝ち抜く。それはエルビスの悲願だ。
だが、同時にそれはエルビスの我儘だ。
ダリアの知らないところで牧師の怒りを買い、ダリアを破滅に巻き込んでしまったら。
そうなれば、エルビスは未来永劫、後悔に苛まれるだろう。
だから、エルビスは牧師には絶対に勝てないのだ。


「バレッジとて、同じことができるんだろう?」
そして、社会的影響力について言うならば、ディビットであっても同じこと。
キングさえいなくなれば、アビスの"目こぼし"を取り仕切れるほどの男だ。
キングとディビット。アビスの外にまで影響力を及ぼす二人に、エルビスは抗えない。

一方で、ディビットもダリアの身柄を口実に、エルビスを無理やり従わせるようなことはできない。
そのようなことを口走りでもすれば、エルビスは確実にキングの庇護下に入るからだ。



ディビットと相対したとき、エルビスはまず二人の首輪を見た。
ディビットとエネリットという個ではなく、二人のポイントを見たのだ。
それは、エルビスがポイントを狙って動いている証拠であり、キングの下についているわけではないという確信であった。


「他を当たってくれ。
 そっちの王子にも、今、手は出さないでおこう」
「そうか、残念だ」

エルビスはディビットの申し出を穏当に断る。
そうなれば、ディビットに為すすべはない。
ディビットは、キング討伐の戦力として彼を引き込むことを断念した。

824合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:51:55 ID:L0e4MWiE0




エルビスは牧師に決して敵対しない。

――それを、ディビットが理解していないはずがない。

「それでは、僕からの依頼はどうでしょう」
依頼主が入れ替わる。
ターゲットが入れ替わる。
いまだ表社会をも牛耳る帝王から、影響力のすべてを奪われた敗者へと入れ替わる。
エネリットは自身の持つ未使用の首輪、100ポイントを餌に、チャンピオンという強者に手を伸ばしたのだ。


エルビスはその提案を咀嚼する。
エネリットの持つ首輪、100P。確実に手に入れられる100Pだ。
だが、エネリットのパートナーはディビットである。
これからはすべてのポイントをエルビスが回収する。
そんなナメた約定をこの金庫番が認めるはずがない。


それを知ったうえで、エルビスは言う。

「悪くはない提案だな。
 奴らも徒党を組み始めている。
 秘匿も、"アイアンハートのリーダー"も、一筋縄ではいかんだろう」


ディビットがぴくりと眉間を動かす。
アイアンハートのリーダー、すなわちネイ・ローマンの目撃情報。
キング討伐のパートナー、その筆頭候補である。


「あんたたちの推測通り、俺は恩赦を目指している。
 手を組むのはやぶさかではないが、ポイントの分配はどうなっている?」
仮にエネリットから100Pを譲り受けたとして、残りは300P。
だが、エネリットと手を組むことで、仕留めるべき受刑者の数が増えてしまっては本末転倒である。


事実、今エネリットと結託すれば、6人の受刑者を仕留める必要が出てきてしまう。



――そのようなことを、ディビットとエネリットが考慮していないはずがない。



「僕たちは交互に首輪単位でポイントを得る契約を結んでいます。
 僕の戦力となってくれるならば、僕の分の首輪所有権はお譲りしましょう」
「で、次に首輪を得る権利は俺にあるワケだが……。
 確かに、カンピオーネからすれば面白くない話だな?」

ディビットは不敵に笑う。


「なあ、カンピオーネ。アイアンハートのリーダーは、どうしても殺したいヤツかい?」
「奴の刑期を考えれば、深追いする気はない」
「なら、俺の好きにしてもいいということだよなあ?」


実のところ、ディビットは周辺にネイ・ローマンがいることはとっくに看破していた。
ブラックペンタゴンの物資搬入口周辺、衝撃波によってなぎ倒されたような痕跡。
道中の工場エリアにも似た痕跡があるとなれば、この周辺にいることは間違いない。

そして言外の交渉を重ねた末に、ディビットはエルビスから、ネイ・ローマンが図書室にいるという情報を得たのだ。
首輪を得る権利の一時放棄は、言うなれば"情報料"である。


「バンビーノ、俺はいったん別行動を取る。
 約定通り、その間に得たポイントに俺は関与せん。好きに分けるといい」


エルビス・エルブランデスは巨大な戦力であるが、その扱いについては決めかねる部分が多かった。
故に、ブラックペンタゴンに突入する前に選択肢を二つに絞っていた。
彼が牧師のために動いているのなら敵対を。
ポイントのために動いているのなら懐柔を。

そして、キングの討伐という呑めない条件を先に出すことで、エネリット側の勧誘ハードルを下げ、自陣営に引き込んだのだ。


ディビットは、キングの陣営に傾きうる巨大な戦力、エルビス・エルブランデスを中立に引き込む。
エルビスは、ディビットとローマンを結託させることで、ポイントの低い強者たちの行動を縛る。
エネリットは、単純に対バルタザールとして巨大な戦力を得る。
三者三得の結果をディビットは導き出した。
エルビスが裏切る可能性については、バレッジの看板がにらみを利かせてくれるだろう。


「放送の後、例の場所で落ち合いましょう。
 それでは、検討を祈ります」
「ああ、そっちもうまくやれよ」

ディビットとエネリットは各々の目的のため、一時的に別行動を取る。
ネイ・ローマンの勧誘。
戦力を加えてのポイント獲得。
新たな戦力との連携の確認。

それぞれの思惑を胸に、男たちは動き始めた。

825合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:53:00 ID:L0e4MWiE0



<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>

機械室から飛び出したギャルと征十郎の前に、大柄なそれと小柄なそれ、二つの影が立っていた。
仕留めるべく、征十郎が刀を構えて突進し――。


それは、黒い"髪"によって受け止められた。


二つの影。
エルビス・エルブランデスと、エネリット・サンス・ハルトナ。


追っていたはずの影は霞のように霧散し、跡形もなく消えていた。
タチアナと征十郎を嘲るようなくすくす笑いが、どこからか聞こえてくる気がした。


【D-5/ブラックペンタゴン北東ブロック中央・補助電気室/一日目・昼】
【ディビット・マルティーニ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、ドミニカ・マリノフスキの首輪(未使用)、メアリー・エバンスの首輪(未使用)、携帯食料
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.ルーサー・キングを殺す、その為の準備を進める
1.ネイ・ローマンと提携を結ぶ
2.エネリットの取引は受けるが、警戒は忘れない。とはいえ少しは信頼が増した。
3.タバコは……どうするか。


【D-5/ブラックペンタゴン北東・南東ブロック連絡通路/一日目・昼】
【ギャル・ギュネス・ギョローレン】
[状態]:疲労(大)、“タチアナ”
[道具]:学生服(ブレザー)、注射器
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲の喧騒を鎮める
2.改めて征十郎を燃やす。
※刑務開始前にジョーカーになることを打診されましたが、蹴っています。
※ジョーカー打診の際にこの刑務の目的を聞いていますが、それを他の受刑者に話した際には相応のペナルティを被るようです。
※永遠は斬られたので、今後は年を取ります。

【征十郎・H・クラーク】
[状態]:ダメージ(大)
[道具]:日本刀
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.――――
1.周囲が喧噪を鎮める
2.復活したら改めてギャルを斬る。

【エネリット・サンス・ハルトナ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、宮本麻衣の首輪(未使用)、携帯食料
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.復讐を成し遂げる
1.エルビスを戦力として運用する
2.ディビットの信頼を強める
3.…命を懸ける理由、か。
※現在の超力対象は以下の通りです。
【徴収】などが対象に発覚した場合、信頼度の変動がある可能性があります。

①マーガレット・ステイン(刑務官)
 信頼度:80%(超力再現率40%)
 効果:徴収(相手の同意なしの超力借り受け。再現度は信頼度の半分)
 超力:『鉄の女』

②ディビット・マルティーニ
 信頼度:40%(超力再現率同値)
 効果:献上(双方の同意による超力の一時譲渡。再現度は信頼や忠誠心に比例)
 超力:『4倍賭け』

【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、腹部にダメージ、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、右腕、右肘にダメージ、強い覚悟
[道具]:ルメス=ヘインヴェラートの首輪(未使用)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.ディビットが戻る前にポイントを稼ぐ
1."牧師"と"金庫番"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。

826合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:53:57 ID:L0e4MWiE0




<ブラックペンタゴン 北東・南東ブロック連絡通路外側 機械室前廊下>


エンダと仁成は、いまだ機械室の霧の中に紛れていた。
エンダの超力で作り上げた黒霞の替え玉を先行させ、征十郎たちを欺いたのだ。
近くで見ればすぐに分かる粗悪なダミーではあったが、それをカモフラージュするために照明を落とし、蒸気で部屋全体を覆ったのだ。
征十郎と会話を交わしたのは、恨みの補充のためである。
本物のエンダを間接的に悲しませたといういちゃもんで、大した補充はできなかったが、それでも何とか仕上げることができた。


補助電気室に飛ばした黒蝿の動向から、機械室の出口に人間が二人待ち構えていたことも分かっていた。
征十郎たちを引き連れてチャンピオンと当たるより、先に征十郎たちをぶつけて疲弊させたところに割り入るほうが消耗が少ないだろう。
ギャルの刑期が短いはずがない。
エルビスは必ずギャルを狙うはずである。

そうして得られたつかの間の休息であった。


「ねえ、仁成。
 図書室でした話、覚えてるかな?」
「ああ。エンダの夢と、僕の過去の話だったね」

いつか信頼できるようになったら、お互いの夢を話そう。
そう決めた二人だけの約束。


「チャンピオンと夢の話、してたでしょ」
「……聞いていたのか?」
エルビスには、エンダを妹のように思っていると話していた。
本人に聞かれていたら恥ずかしいどころではない。
というより、不敬である。


「全部は聞いてない。けど、最後にそんな会話で〆てたところだけは、聞こえた」
仁成はほっと胸をなでおろす。
霧の向こうで、エンダがしてやったりという表情を浮かべた気がした。
それは神ではなく、年相応の少女が見せる表情のようだった。


「だったら、私の夢も聞いてくれないと不公平でしょう?」
「そうだね」

くすくすとエンダは笑う。
ぞっとするような笑いではなく、純心を秘めた笑顔を見せる。


エンダは静かに語り出す。
エンダという少女が、籠の中の巫女として何を聞き、何を感じていたのかを。
そして、彼女の夢を。
神を見失った人々のいる世界で、"神さま"が寄り添ってくれる家を作りたいという願いを。


現実には、その夢は潰えた。
ヤマオリ・カルトを創設した並木旅人が、自らの組織にGPAのエージェントを呼び込んだのだ。
エンダを信仰していた者も、そうでない者も、分け隔てなく皆殺しにされ、エンダの理想は潰えた。
エンダ本人は死に、仇敵である旅人も知らぬところで命を散らし、残ったのは道を失った"神さま"だけ。
そんな状況で、すべてをゼロから作り直す。途方もない夢だ。


「君が人間を憎んでいるのは分かってる。
 嫌いな人間に安らぎを与える家なんて、君にとっては地獄のように感じられるんじゃないのかな?」
「僕一人なら、きっとそうだね。
 世界に絶望して、打ちひしがれていた僕なら、そう感じていただろう。
 けれど、君が隣にいる」

白い蒸気が、二人の声を柔らかく包み込んだ。

「だから、僕ももう一度歩き出せる」


仁成が、過去を語る。
そして、小さなころに抱いた夢を思い出す。

警察官。正確には、"お巡りさん"だった。
GPAや自警団が遠い外国のように感じるほどの田舎で、外敵や病の脅威も薄れたこの時代に。
身近に感じられる、人々を笑顔にできる職業がそれだったから。
世間の広さも悪意も知らず、誰もが成り上がることを夢見るこの世界で、しごく常識的な夢しか持たなかった。

その夢も長い逃亡生活で朽ちて、ひび割れてしまったけれど。


「僕は、君に会えてよかったと思う」

隣にいる、純心で放っておけない小さな"神さま"と一緒なら。
もう一度あの頃の純心を取り戻せる気がした。


「僕と……一緒にいてくれてありがとう」


束の間の休息に、二人は語り合う。
夢。過去。人生を、二人は語り合う。
視界を覆い尽くす霧の中。
結露が二人の頬を伝っていた。

827合理と純心の混じり合う場所 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:54:20 ID:L0e4MWiE0


【D-5/ブラックペンタゴン北東ブロック外側・機械室エリア/一日目・昼】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:ダメージ(中)、疲労(小)
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスとギャル・ギュネス・ギョローレンに対処する。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キングには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。

【只野 仁成】
[状態]:疲労(極大)、ダメージ(中)、全身に傷、右掌皮膚腐敗、右手薬指骨折、左頬骨骨折、左奥歯損傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態、強い覚悟
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスとギャル・ギュネス・ギョローレンに対処する。
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。

828 ◆TApKvZWWCg:2025/08/11(月) 16:54:43 ID:L0e4MWiE0
投下終了です


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