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ドンドゥク・クーラルと仏教大革命feat.精霊しゃん達

1名無し同志:2021/01/09(土) 16:19:48 ID:YEn73vZ.
トゥバのお坊さん、ええ男やわぁ
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Donduk_Kuular.jpg

56名無し同志:2022/08/13(土) 09:36:09 ID:rTor5kLg
「生き神」生活を続ける女性、ネパール地震で初めて歩く
tps://www.google.com/amp/s/www.afpbb.com/articles/amp/3055209
> 2歳で俗世間から離れ、今もその生活様式を守っているダナ・クマリ・バジラチャルヤ(Dhana Kumari Bajracharya)さん(63)は、
>AFPに取材に応じ、クマリとしては異例の30年間に及ぶ生活について語った。
>1980年代にクマリを解任されたときのうずくような痛みは今も消えないという。
>��4月25日にマグニチュード(M)7.8の大地震が起きる前は、バジラチャルヤさんが公の場に姿を現すのは、
>華麗な装飾が施された木製のみこしで運ばれるときだけだった。
(中略)
>「あんな形で住まいを離れるとは思ってもみなかった」と話すバジラチャルヤさんは、8800人以上が犠牲になった大地震のショックを今も引きずっていた。
>「恐らく、人々が以前ほど伝統を重んじていないことに、神々がお怒りなのだろう」
(中略)
>30年たっても、突然クマリを解任されたことはつらい思い出だ。
>「私をすげ替える根拠は彼らにはなかった」とバジラチャルヤさんはAFPに語った。
>「私は少し腹を立てていた…。女神がまだ自分の中にいるのを感じていたから」
(Wikiより)
>首都カトマンドゥのクマリの館に住む、かつては国王もひれ伏したロイヤル・クマリが最も有名であり、国の運命を占う予言者でもある。
>クマリという場合、概ねロイヤル・クマリを表す。
>ネパール国内各地の村や町にも多数存在するクマリはローカル・クマリと呼ばれている。

昔のお化粧「花鈿(かでん)、靨鈿(ようでん)」
tp://mayuriyuki.blog105.fc2.com/blog-entry-2056.html?sp
> もともとは呉時代の美女が顔に負った傷をかくすために始めたものが、多くの女性の心をとらえたといいます。
>私もほっぺたのそばかすの上に、何かかわいいものを描いてみたいなあ…ちょっと考えてしまいました(笑)

血天井
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E5%A4%A9%E4%BA%95
>ちなみに、通常床板には1寸(約30mm)以上の厚みの材を使用するため、
>これをそのまま天井に再利用するのは難しく、薄く削り直す必要があるが、
>このような再加工は江戸時代までの加工技術では非常に難易度の高い作業である。
>なお、木材を素手で触れた場合、脂分の酸化により血天井に類似した模様が浮かび上がることがあり、
>このような現象を防ぐには手袋の着用や丁寧な拭き取りが必要である。
>この現象は表面状態の変質によるものなので、現象発生後は拭き取りにより除去することはできず、研磨や切削が必要である。

57名無し同志:2022/09/25(日) 11:22:27 ID:Z.DLkOa6
プリティダービー(鎌倉時代)
tps://intojapanwaraku.com/culture/121900/

58名無し同志:2022/10/06(木) 18:19:05 ID:RS2MOiFA
法難は何処にでもある

上海日本人僧侶襲撃事件
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E5%83%A7%E4%BE%B6%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
> 1932年1月18日午後4時ころ馬玉山路を団扇太鼓をならし南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた
>いずれも日本人の日蓮宗日本山妙法寺の僧侶2名と信徒3名が、
>抗日運動の活動根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。
>その結果、僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。犯人は中華民国側の警察官の到着が遅れたため逃亡した。
>日本政府は現地の「抗日会」による犯行であるとして、村井倉松上海総領事を通じて抗議し
>反日組織の解散と反日報道機関の閉鎖を要求したが、上海の工部局(市政府)は応じなかった。
(中略) 田中によると、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者であった板垣征四郎大佐と
>関東軍高級参謀花谷正少佐から「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と工作資金2万円で依頼され、謀略を準備していた。
>また、この謀略の実行者は憲兵大尉の重藤憲史と田中の愛人で「東洋のマタ・ハリ」こと川島芳子であり、
>田中から1万円の工作資金を渡され、中国人を雇い日本人僧侶を襲撃するよう命じられ、その通りに動いたという。
> テレビ番組のために日本山妙法寺を訪れたNHKディレクター織田柳太郎によると、妙法寺側は「決して謀略ではない」と言っている、という。
>日本山妙法寺長老今井行順は「それを軍部がやらしたとか、何かいっていますけれども、全部うそです。この事件は全くの偶然です。
>ただこの事件を上海事変のきっかけに軍部が利用したのです。この事件を確かに利用はした。けれども事件が起きたのは全くの偶然です。」と述べている。

チャムドの戦い
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%83%89%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
> チベット代表団は最終的に1950年9月16日にデリーで中国側大使の袁仲賢と会った。
>袁は「チベットが中国の一部とみなす」「中国がチベットの国防を担当する」「中国がチベットの貿易と外交を担当する」三点の提案を伝え、
>受け入れれば平和的な「解放」になり、さもなくば戦争であるとした。
>チベットは法王とパトロンとしての中藏関係維持を考えており、
>9月19日に代表長のツェポン(蔵相)ワンチュク・デデン・シャカッパは協力を推進し、実施に幾つかの条件をつけた。
>特に中国軍のチベット駐留は、当時チベットには周辺国家に脅威がなく、
>もしインドやネパールから攻撃されれば中国に軍事的支援を求めることができたため必要ないとされており、これは大きな議論となった。
> ラサで議論が行われている間、10月7日に中国兵は東チベットへと侵攻し、5地点から「事実上」の国境を超えた。
>目的はチベット侵攻自体ではなく、チベット軍をチャムドで包囲殲滅し、ラサ政府の思惑をくじき、
>その圧力下で北京に交渉者を送らせて平和的にチベット編入を行う条約に署名させることであった。
>10月21日、ラサは共産党政府との協議のために北京に駐在していた代表団に直ちに去るように指示し、
>ダライ・ラマの身柄が保障されるのであれば、他の2項を除く最初の要求には合意するとした。
>> 後にマハーカーラ神の前で占い、これらの3点は受け入れられず、
>チベットは外国の手に落ちるだろうと告げられたため最初の要求への合意も取り消された。
> 人民解放軍の侵入以前、カム人とチベット政府の間の関係は酷く悪かった。
>このためにカム人はかろうじて反対するか、あるいはチャムドでの共産党の行動に加わった。
>人民解放軍はカム人から抵抗をあまり受けずにカムを占領した。カム人とチベット政府の関係はきわめて乏しいものであった。
>パンダツァン・ラプガはンガプー・ンガワン・ジクメに、いくらかのカム人の戦士をチベット政府がカムの独立を認めることと引き換えに
>抵抗に参加させることを提案したが、ンガプーはこれは拒否した。
(中略) 人民解放軍に加わった一部のカム人は4年後にカム反乱を起こす。
>地元の武将たちは後に共通目的の下で団結し、CIAの援助を受けてチュシ・ガンドゥクを結成した。
> 共産党政府はこの戦いを「英国主義、奴隷主義の分離主義者」で
>「前にダライラマの師であったレティン・リンポチェ、ジャムペル・イェーシェー・ギャルツェンの死に責任がある」
>タクタ・リンポチェ、ガワン・スンラプ・ストブに対抗するものと定義している。

59名無し同志:2022/10/06(木) 18:22:25 ID:RS2MOiFA
2007年ミャンマー反政府デモ
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/2007%E5%B9%B4%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BC%E5%8F%8D%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%83%87%E3%83%A2
> 抗議の主な原因は過去2年間で9倍以上に跳ね上がっていたガソリンなどの燃料価格を突然500%も引き上げた事であった。
>学生と反政府活動家らによる活動は、何十人もの逮捕者、拘留者を出し、抗議のデモンストレーションは軍事政権によって、早急かつ厳しく対処された。
>しかし9月18日から、抗議は何千もの仏教の僧侶によって行われた。
>対する軍事政権側は軍特殊部隊を使って寺院を急襲、抗議勢力の僧侶を逮捕・拘束した他、市民デモ隊への発砲などの強硬手段を行使した。
>若干のニュース報道は僧衣の色から、これらの抗議をサフラン革命��(Saffron Revolution)と呼んだ。
(中略) 9月22日、デモがミャンマーの5つの官区に広がり、およそ2000人の僧侶がヤンゴンを行進し、1万人がマンダレーを行進した。
>民主化運動指導者のアウンサンスーチーは未だ自宅監禁中にもかかわらず、仏教僧の賛同を受け入れるために、
>彼女の住居の入口で短い時間ながら、公の場に姿を見せることにした。
> 9月23日、150人の尼がヤンゴンで抗議に加わった。
>その日、約15,000人の僧侶と一般市民は、ミャンマー軍事政権に対する抗議がエスカレートした6日目に、ヤンゴンの通りを行進した。
>ビルマ暫定軍事政権が退けられるまで、全ビルマ仏教僧連盟は抗議を続けると誓った。
> 9月24日、ヤンゴンでのデモ30,000人から100,000人の間まで膨れ上がった。
>BBCは、2人の有名な俳優、コメディアンの Zargana と映画俳優の Kyaw Thu が僧侶に食物と水を提供するために
>早くからヤンゴンのシュエダゴン・パゴダへ行ったと報じた。
>デモ行進後、およそ1,000人の僧侶はアウンサンスーチーを迎えるために家に向かったが、警察によって立ち入りを拒否された。
>その後、軍事政権の宗教大臣、Thura Myint Maung 准将は抗議を導いている僧侶に「規約」を越えないよう警告した。
(中略) ミャンマー政府は、公共インターネットの接続を遮断した。 これ以外にもデモ参加者側に軍事政権側がスパイを送り込んでいることも発覚している。
>また、1988年のデモの時は参加者の特定に時間を要したことから、デモ隊をビデオ撮影し、
>身元を特定した上でデモに参加した僧を拘束するなど、短期的な決着を図ったとされる。
>また、今回のヤンゴンのデモの制圧に投入された軍には、1988年のときと同様、精鋭部隊とされる第77軽歩兵師団が含まれている。
>この師団は、歴史的にビルマ民族に抑圧され複雑な民族感情を持つとされるチン族や、
>身寄りのないものや孤児を物心つく前から軍事教育した者を中心に編成したため、
市民に銃を向けることをためらわないとされ、恐れられている。

60名無し同志:2022/10/06(木) 19:03:01 ID:RS2MOiFA
戦国時代に戦も政治もバリバリ! 延暦寺・本願寺・興福寺の実力とはtps://bushoojapan.com/bushoo/jisya/2021/10/22/116050
> (延暦寺は)都の北東=鬼門に当たるという立地から、「平安京の守護者」を自他ともに認めていた存在でもあります。
>皇族や公家からも尊崇され、延喜五年(905)4月には、宇多法皇が比叡山で受戒していますから、皇室から公認されたも同然でした。
(中略) 三代目の天台座主(てんだいざす・天台宗トップのこと)である慈覚大師こと「円仁」と、
>同じく五代目の天台座主である智証大師「円珍」、それぞれの教えを信じる人々が対立したのです。
>これと同時に、延暦寺の僧侶たちは武器を手に取り、僧兵と化していきました。
>僧侶なら口で言い負かさないとダメな気がしますが、この時代の日本人は身分が高かろうと低かろうと、現代と比べてかなり荒っぽいですからね。
(中略) 延暦寺は荘園も広げており、土地の防備のため武力を常備しておくようになります。
>寺院なのに「土地と兵糧と兵力が揃ってしまった」んですね。
>「僧侶とは一体?」とググりたくなるような有様で、このあたりから貴族や皇族が入門することも増えていきます。
>そんなわけで、延暦寺には土地・財力・権威・兵糧・兵力全てが揃いました。
(中略) (本願寺は)最初は「土地は覚信尼(親鸞末子)のもの、廟堂は真宗信徒の共有」とされていたのですが、
>建治三年(1277年)9月からは「土地も廟堂も信徒の共有だが、覚信尼が廟堂を管理する」形態に変わっています。
>この「大谷廟堂の管理役」は留守職と呼ばれ、覚信尼の子孫が世襲することになりました。
(中略) 浄土真宗の拡大に伴い、武家では警戒する動きも出てきています。
>例えば、永正元年(1504年)には、北条早雲で知られる後北条氏が、領内の真宗を禁じていました。
>50年という期限付きではあったし、後半には形骸化していたようですが、それだけ危険視されていたということがわかりますね。
(中略) 最終的には六角氏と結んだ比叡山側が法華衆の拠点を焼き払い、法華宗従は3000人(1万人とも)が殺される結果に。
>このとき延暦寺の勢力が放った火は法華衆の拠点以外にも飛び火いたしまして、結果、京都が大炎上(物理)。
>これが天文法華の乱です。
(中略) 貞観年間(859〜877年)、摂関家が春日社の祭祀を振興したり、大和国の領国化を進めた折、
>摂関家と関係の深い興福寺は「春日大明神は法相擁護の神(だからウチが支配しても問題ないよね)」という屁理屈をこねて、見事に吸収してしまいます。
>政治的な動きバリバリですが、このときは荒事(武力行使)を用いてないので、まぁ、政治力に長けていたんですね。
> 彼らは次に【大和の支配権】を主張しました。現代の奈良県ですね。
>理由が、これまたかなりの屁理屈。「摂関家と縁のあるウチが、摂関家の代官の代わりに大和を支配するのは当たり前ですよね^^」という主張です。
>しかしこれにより、大和の土豪たちも興福寺に従わざるを得なくなるんですからスゴい。
(中略) 自衛のための手段がいつの間にか制御しきれなくなる――というのは戦国時代の寺院に限らない話です。
>同じ轍を踏まないようにしたいものですね。

61名無し同志:2022/10/09(日) 22:58:41 ID:B9ztr8w2
バッファロー・バイユー
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%A6%E3%83%BC
> ヒューストン西郊のケイティ市に水源を発し、ヒューストンのダウンタウン、
>ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルへと流れる。
>ヒューストン・シップ・チャネルからはガルベストン湾を通り、メキシコ湾に注ぐ。
(中略) このバッファロー・バイユーと支流の存在から、ヒューストンは「バイユー・シティ」と呼ばれている。
>支流の1つであるホワイト・オーク・バイユーとバッファロー・バイユーの本流の合流点は、
>ヒューストンの創設者であるアレン兄弟が降り立った地であることから、アレンズ・ランディング(Allen's Landing)と呼ばれている。
>このバイユーの河岸には大小の公園が整備されており、市民の憩いの場ともなっている。
(中略) もともとのヒューストン港は、現在は公園になっているこのアレンズ・ランディングのあたりにあった。
>このアレンズ・ランディングをはじめ、バッファロー・バイユーの河岸には初期のヒューストンの史跡や古い埠頭、港湾施設が数多く見られる。
> 1970年代頃から、ヒューストンの急激な都市化や産業の発展によって、バッファロー・バイユーの水質は悪化してきていた。
>しかし、2002年に「マスタープラン」と呼ばれる20ヵ年の再生事業計画が実行に移され、水質の浄化、および親水性の高い公園の整備が進められている。
>この再生事業にかかる費用は約8億ドルと見積もられている。
>この再生事業の成果も出始めており、バッファロー・バイユーではカヌーやカヤックを楽しむ人の姿も見られるようになった。

食虫植物ムジナモ自生地、聖地に? 来春朝ドラモデルが発見
tps://mainichi.jp/articles/20220626/k00/00m/040/034000c
> 開発が進むにしたがい、ムジナモの生育地は激減した。羽生市三田ケ谷の宝蔵寺沼は、ムジナモの自生地として唯一、国の天然記念物に指定されている。
>沼近くの耕地で1921年に生息が確認されて以降、地元の人の手で守られながら、何度か絶滅の危機を乗り越えてきた。

シンガポールの壮大すぎる人工植物園ガーデンズ・バイ・ザ・ベイの楽しみ方
tps://www.expedia.co.jp/stories/%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%82%ac%e3%83%9d%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%81%ae%e5%a3%ae%e5%a4%a7%e3%81%99%e3%81%8e%e3%82%8b%e4%ba%ba%e5%b7%a5%e6%a4%8d%e7%89%a9%e5%9c%92%e3%82%ac%e3%83%bc%e3%83%87%e3%83%b3%e3%82%ba/
> なかでも見どころが集約しているのは「ベイ・サウス・ガーデン」。
>「スーパーツリー・グローブ」とその間を結ぶ「OCBCスカイウェイ」、地中海の気候を再現した「フラワー・ドーム」、
>霧が立ち込める「クラウド・フォレスト」、水生生物が生息する湖「ドラゴンフライ&キングフィッシャー・レイク」、
>子どもが楽しめる「ファーイースト・オーガニゼーション・チルドレンズ・ガーデン」がハイライト。
>日本の“禅”をコンセプトにしたミニマルな屋外ガーデンも、このエリアに新しくオープンしました。
> 「OCBCスカイウェイ」「フラワー・ドーム」「クラウド・フォレスト」以外は朝5時から深夜2時までオープンしていて入場無料。
>これなら地元っ子も、リフレッシュしに気軽に立ち寄れるわけです。

62名無し同志:2022/10/09(日) 23:01:04 ID:B9ztr8w2
糺の森(ただすのもり)
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%BA%E3%81%AE%E6%A3%AE
> 京都市左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社)の境内にある社叢林である。
>かつて京都に平安京が置かれた時代には約495万平方メートルの広さがあったが、
>応仁の乱など京都を舞台とする中世の戦乱や、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、現在の面積まで減少した。
>特に1470年(文明2年)6月14日に応仁の乱の兵火を被った糺の森は、このとき総面積の7割を焼失している。
> 糺の森はこの一帯が山城国(山代国・山背国)と呼ばれていた頃の植物相をおおむね留めている原生林であり、
>ケヤキやエノキなどニレ科の落葉樹を中心に、約40種・4,700本の樹木が生育している。
>森は賀茂川と高野川に挟まれるように広がり、南北に細長い。林床を縫ってこれらの川に注ぐ数本の清流があり、周辺には水辺を好む植物も茂る。
>古くは『源氏物語』や『枕草子』に謳われ、今なお親林の場として人々に憩いを提供する史跡である。
(中略) 糺の森は原生林ではあるがいわゆる原始林ではなく、ある程度維持管理されてきた森林である。
>樹種の傾向は河畔林のそれであるが、森にはクスノキなども生えており、
>これは1934年(昭和9年)の室戸台風と翌年の大水害を経て植生回復のために植栽されたものである。
>他にも赤椿のように、神社としての機能や格式に係る理由から人為的に植えられた植物もある。
>社叢林としての糺の森の特徴として、常緑の針葉樹が非常に少なく、落葉樹中心の明るい森であることが挙げられる。
>一般的な神社の境内は神秘的な暗い森が好まれるため、針葉樹が献木されて鬱蒼とする例が多い。
>鴨の七不思議

竹生島(ちくぶじま)
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%9F%E5%B3%B6
> 宝厳寺、都久夫須麻神社と数軒の土産物店が港の近くに所在する。寺社関係者ならびに店舗従業員は、いずれも島外から通っており、夜間は宿直者が泊まっている。
>竹生島の南岸、竹生島港から西に向かって島を回ると竹生島で最も雄大な断崖が広がり、
>東から順に笈岩、��風岩、富士岩、笠岩、稚児足跡岩、盗賊岩、荒神岩、夕立岩と呼ばれる奇岩が並ぶ。
>東岸、竹生島港から東に向かって島を回ると仁王崎が南南東に向かって伸び、その根元には都久夫須麻神社本殿、先端には神社拝殿と聖武天皇供養塔がある。
>さらに東に回ると、��風岩と呼ばれる切り立った崖がそびえ、北東に小島が隣在する。
>そのさらに北側の崖に霊窟と呼ばれる洞窟が開いており、行者の修行に利用されている。
>北西には、断崖で囲まれた竹生島の唯一の砂浜である弁天浜が広がる。
(中略) 後述のカワウによる害が発生するまでは、島全体が常緑樹で覆われていた。
>1972年から1973年の滋賀県内植生調査資料によると、当時は、高木層はシイやコジイ、ヤブニッケイ、モチノキなどによって覆われ、
>亜高木層では、日光があまり注がれない薄暗い環境に適するヤブニッケイやモチノキ、シロダモ、ヤブツバキなどの常緑種を主とし、
>比較的明るい場所にタラノキが生育していた。
>低木層ではヤブニッケイやアオキ、ヤブツバキ、チマキザザが多く、林床に生える草本層ではベニシダが多く、
>次いでヤブニッケイやヤブミョウガ、イタビカズラ、フユイチゴ、アオキ、ジャノヒゲ、イノデなどが生えていた。
> カワウの爆発的な繁殖以前にはシラサギの大繁殖地として有名であった。
>特にシラサギ類(ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アマサギ)とゴイサギのコロニーは湖北地方で唯一のものであり、長浜市の鳥にシラサギが選ばれる由縁となっている。
>現在のコロニーは島の西南斜面にあり、2016年8月の調査では250羽のサギ類がカウントされた。
(中略) 北側の対岸である葛籠尾崎の沿岸や竹生島との間には湖底遺跡(葛籠尾崎湖底遺跡)がある。
>最大で水深70mほどの湖底から、漁師の網に引っ掛かるなどして約140点もの土師器・須恵器や土器が、ほぼ原形をとどめたまま引き揚げられている。
>これらの製作年代は縄文時代早期から弥生時代、さらに中世まで幅広い時代に及ぶと考えられている。
>遺跡の形成過程については、津波などで集落が水没した、船が沈んだ、祭祀として沈められた、付近の山地の山崩れにより移動したなど諸説ある。
>水深や水流に阻まれて人間による潜水調査には限界があるため、ロボットによる探査が計画されている。
>同様の遺跡は世界でも類例がなく、沈積原因は今なお大きな謎に包まれている。

63名無し同志:2022/10/13(木) 20:05:30 ID:Zqf0RbAQ
以心崇伝
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A5%E5%BF%83%E5%B4%87%E4%BC%9D
> 本光国師の称は、寛永3年(1626年)に後水尾天皇の師となり授けられたもの。俗姓は一色氏。
>徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる。
>その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った。
> 慶長17年(1612年)元佶が65歳で没すると、貿易立国を目指す家康の下、明や朝鮮をはじめタイ(アユタヤ王朝)、ベトナム(黎朝)など東南アジア諸国との交易、
>西欧諸国との接触、外交文書の起草や朱印状の事務取扱は崇伝が一手に引き受けるようになる。
>また寺社行政はじめ宗教関係の法則も崇伝の担当となり京都所司代・板倉勝重と共に後の寺社奉行のもととなる全国の寺社を統括する仕事に取り掛かる。
(中略) キリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わる(以上の3法令を起草したと言われる)。
>また寺社を利用した行政システムを作り本寺末寺制を確立し宗教統制を図ると同時に、檀家寺請制度で民衆統制を図った。
>寺請制は現在の檀家制度の元となるが当初はキリシタン対策として行われた宗門改めから作られた
>檀家証明書が宗門人別帳と呼ばれ、一家ごとに生年死亡年月日を記録した。
>その寺請証文が移動の際に必要となると過去帳も同時に作られるようになった。
>これらの寺の記録は戸籍となり、このような事務を通じて、寺院を封建支配の末端行政機構とした。
>しかし、その事により宗旨替えが禁止され信仰と関わりなく特定の寺院の檀家に固定される事となる。
(中略) 外交、寺社対策、江戸幕府のすべての法律制定に関わった優れた学僧であったが、
>その権勢の大きさと朝廷の権威を喪失させ天皇を退位させるなど目的を達成する為の強引とも思える政治手法により、
>世人から「黒衣の宰相」「大欲山気根院僭上寺悪国師」と称された。
>また朝廷の権威を地に落とした紫衣事件では沢庵に「天魔外道」と評されるほどだった。
>しかし、崇伝自身は幕府の安定こそ世の中の安定とし、遺言としてすべては江戸の事を第一に考え
>平和を長続きさせ南禅寺の事は二の次に置くようにと弟子達に言い残しており幕府の安定の上の平和を第一としていた。

オマケ
ミハイル・スースロフ
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%95
> 事実上のソ連ナンバー2としてクレムリンに君臨し、その黒幕的な役割から「灰色の枢機卿」、「陰の実力者」の異名を取った。
(中略) フルシチョフ失脚後は党中央委員会イデオロギー担当書記として、
>第一書記(後に書記長)のレオニード・ブレジネフ、首相のアレクセイ・コスイギンと並び1960年代のソ連の最有力政治家の1人として影響力を発揮する。
>フルシチョフ追放に際しては、スースロフは後任の第一書記になろうとすればなれたのだが、敢えてイデオロギー問題に専念するほうを選んだという。
>スースロフ以降、イデオロギー担当書記は政治局員と最高会議連邦会議外交委員長を兼ねて「第二書記」と見做されるようになり、
>ユーリ・アンドロポフ、コンスタンティン・チェルネンコ、ミハイル・ゴルバチョフの先例となった。
>しかし、スースロフ自身はソ連の指導者となることに決して興味があるわけではなく、舞台裏の男であり続けることに満足していた。
>彼はかねてより最高指導者1人だけが強力な権限を握る政治を批判する思想を持っており、
>党内民主主義の実現を望み、スターリンやフルシチョフの時代に見られたような一人制の再構築に強く反対した。
>故に1970年に浮上したブレジネフの首相職兼任人事に反対し、その人事が流れるということもあった。
>スースロフはブレジネフ、キリレンコとともに党指導部内の非公式トロイカ体制の一員としての地位を占め、
>書記長のブレジネフ、国家元首である最高会議幹部会議長のポドゴルヌイ、首相のコスイギンに次ぐ党内序列4位に位置付けられた。
>また、彼はブレジネフ政権において書記局と政治局の両方に在籍している4人のうちの1人でもあった。
>(他の3人は、ブレジネフ、アンドレイ・キリレンコ、フョードル・クラコフ)
(中略) スースロフの葬儀は大々的に行われ、1953年のヨシフ・スターリンの葬儀以来最大のものとなった。
>ソ連全土で4日間の服喪期間が設けられ、1月29日の葬儀の日には小学校から大学まで休校となり、モスクワに出入りする道路は完全に封鎖された。
>ソ連の全てのテレビ局が、赤の広場で行われた葬儀をソ連全土に中継で放映した。
>葬儀では、ブレジネフ書記長やグリシン政治局員らが追悼演説を行い、国歌が演奏され、幹部らが敬礼する中、レーニン廟裏の革命元勲墓に遺体が埋葬された(埋葬場所はスターリンの隣である)。

64名無し同志:2022/10/20(木) 11:05:36 ID:ocCmdtNQ
諸行無常

落城や廃城となった城趾に、寺や神社が建てられているのが比較的多いのはなぜでしょうか?この現象は地域性があるのかもしれませんが、関東のことです。
tps://question.realestate.yahoo.co.jp/knowledge/chiebukuro/detail/1313715733/
> 「落城したところ」というのは、当然に人が多数死んでいるわけですから(それもロクな死に方でなく・・・)、
>そんなところに住みたいと思う人なんていないでしょう。縁起が悪いのは当たり前ですが、それ以前の問題だと思います。
>現代でさえ、人が死んだ賃貸物件には借り手がつきません。今でも薄気味悪い病院なんかの廃墟が時々ありますが、誰も近寄りませんよね?同じことだと思います。
>地元の村人が、死者の供養に参拝しにくるくらいで、普通は誰も近寄るのを避けるのではないでしょうか。
>(代々供養されていれば、寺社になる可能性も高いです。)
> また、落城した時に落ち延びた人がほとぼりが冷めた頃に戻ってきて、城址に住んで、余生をひたすら死んだ人(家族や仲間ですから)の供養をして過ごす・・・という話もよく聞きますね。
>おそらく、これが城址が寺社になっている一番の理由ではないですか?
>また、(落城した城主の)味方の武将が、供養のために寄進して寺社を建てさせることも結構あったと思います。
> 平和になったので廃城にする場合は、土地を寺社に寄進することもあったのではないでしょうか。
>他の方が仰っているように、城下には元々城主に縁ある寺社があるものですから、
>廃城の際にはその寺社が城の敷地を引き継ぐケースも多かったでしょう。(安土城はこのケース。)
> ちなみに私は名古屋の出身ですが、やはり同じように有名な城址や古戦場は、だいたい一部が寺社の境内になって残っていますね。
>(有名なところでは、末盛城、守山城は、城郭全体がほぼそのまま寺社になっていてなかなか興味深いですよ。)
>ただし、記録にもほとんど登場しない大多数の小城は、ほとんど容赦なく宅地化されており、びっくりするくらいに跡形も残っておりません。

> もうひとつ大きな理由として、戦国時代までの城というのは基本的に、
>敵から守りやすい(=人が来にくい)天然の要害に築くわけで、居住に適さない地形が多いと思います。
>山や丘陵の上とか、沼地に囲まれたところとか・・・。
>現代では、沼地も舗装され、丘陵も削られて平らになっていたりして、周りに人が住むようになっているでしょうが、当時は決してそうではなかったはずです。
>城主も普段は、平野に建てた館で過ごしており、敵に攻められた時に、山上の城にのぼって籠城する・・・のが普通です。
>信長が築いた岐阜城というのがありますが、あれも山上に城があるのですが、イメージに反して信長は麓にある居館で生活しており、ほとんど城に入ることはなかったらしいです。
>江戸時代になってからは、街中の一等地に堂々と「平城」を築くようになるので、事情が変わってきますが、戦争の多い時代の城は、わざわざ人が住まないようなところに築いたのです。
>(だから、廃城後も住宅開発が進まずに、必然的に寺社の領域になった・・・と。)

> 名古屋にもうひとつ有名な城址→寺社となっている物件があったことを忘れていました。
>本文中で触れている末盛城は織田信秀の居城でしたが、信秀がその前に居城としていた「古渡城」というのがあります。
>この古渡城は廃城になってから100年ほど、戦略上の理由なのかなぜか跡地が利用されていなかったようですが、
>1690年に尾張藩主より跡地1万坪が本願寺に寄進され、この地方で最大の寺院「東別院」となっています。(名古屋周辺の人間なら誰でも知っているほどの名刹)
>当時の有力な寺社はかなり広大な敷地を必要としたため、
>(交通の要衝などの)一等地にあった城が廃城になった場合には、このように跡地の有効利用として寺社に寄進されたケースもあったでしょう。

65名無し同志:2022/10/20(木) 11:08:17 ID:ocCmdtNQ
(別の意見だと)
> いくつかの説があります。大部分は↑の方々が申されていますので、その他の説を御紹介します。
>前提として城主が鬼門除けに神社(祠)をまつっていた。
>① 戦国時代に寺社に対して戦闘を行ったのは織田信長位です。
>他の武将は神仏に対しては権力を削ぐ政策はしても根絶やしにするようなことはしていません。亡将の恨みを恐れたかもしれません。
>② ①の事例をいいことに旧領民の一部が侵略者に対してのせめてもの抵抗として、寺社の存続を願った。
>↑の方々で漏れている点は、廃城となった最大の要因は徳川幕府による一藩一城の制度です。これによって多くの支城が廃城化されました。
>ところが未だ戦国一世が藩主になっている時代ですから、国人、隣国、領民一揆に備えて短期間で城砦として再生できるようなものを必要とし、
>幕府には「菩提寺の建立」と届け万一騒乱の事態には城砦になる寺社の建立を行っています。
>仙台藩の松島の瑞巌寺は伊達正宗によって建立された寺院ではありますが、用途目的は第二の城として築かれています。
>こうして幕府に対して表向きは「支城を廃して従順を示し、寺社を建立して平和を誓い」としていたわけです。
> 最後の廃城は明治維新です。例を挙げると、佐倉城は石垣を外して土塁にしました。
>その後陸軍の連隊本部になったのですが、旧幕府時代の鎮守の祠は兵舎等の建築のために移築はされましたが旧城内に存続しました。理由は明治時代初期の「廃仏毀釈」運動です。
>上記のような理由で、廃城=落城と考えるよりも、廃城=徳川幕府&明治政府方針によるものが多い。ということを考慮しての説です。

66名無し同志:2022/10/29(土) 10:09:39 ID:uQUARpKs
>山海慧菩薩(さんかいえ) >箜篌(くご) 山海の仏日の様に光り輝き恵も山海の様に無限広大な神秘を具える
>光明王菩薩(こうみょうおう) >琵琶(びわ) 知恵を象徴し輝きを持ち心と身から出る具体的象徴の光を備える
>華厳王菩薩(けごんおう)>  鉦鼓(しょうこ) 色とりどりの華によって荘厳せられる蓮華蔵世界の王
>衆宝王菩薩(しゅうほうおう) >鐃(銅鑼)(にょう) 煩悩を断ち衆生の軟弱な菩提心を堅強にする
>月光王菩薩(がっこうおう) >振鼓(しんこ) 月光を純真無垢に宝珠として観じ熱毒に病む衆生に清涼を得させる
>日照王菩薩(にっしょうおう) >羯鼓(かっこ) 暗夜を照らす日天のように煩悩の闇を照らしそのわざわいを救う
>三昧王菩薩(ざんまいおう) >華鬘(けまん) 衆生の乱れる心を統一し心安らかに安定の境に導いてくれる
>定自在王菩薩(じょうじざいおう) >太鼓(たいこ) 自由自在に仏と共に絶対の安らぎを与えてくれる
>大自在王菩薩(だいじざいおう) >華幢(けどう) 神変無碍自在の徳をもって一切衆生を度生する
>菩薩の王でありその力量は智慧の働きにおいて功徳も秀でている
>大威徳王菩薩(だいいとくおう) >供華(くげ) 悪を制する大威の勢いと善を守る大徳の功を衆生に施される
>無辺身菩薩(むへんしん) >香炉(こうろ) 永久無辺いつでもどこでも果てしなくいます

67名無し同志:2022/11/12(土) 20:35:40 ID:S8g0sjdo
>>63関連

天海
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%B5%B7
> 黒衣の宰相
> 「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものである。
>天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えたとされる。
>なお、富士山は実際には「北」(真北)から112度ずれているが、天海を始めとする当時の江戸の人々は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたという。
>江戸城の大手門の向きが「北」からずれているのも、富士山を「北」とみなしたためだとされる。
> また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされる。
>陰陽道の知識により、地形の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされる。
> 天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と「の」の字型の堀とが交差点であり、城門と見張所がある要所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされる。
>将門の首塚は奥州道に通じる大手門、将門の胴を祀る神田神社は上州道に通じる神田橋門、将門の手を祀る鳥越神社は奥州道に通じる浅草橋門、将門の足を祀る津久土八幡神社は中山道に通じる牛込門、
>将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門に置かれたとされる。
>天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされる。

68名無し同志:2022/12/31(土) 00:35:58 ID:pOOXOuVk
法の裁きと集落の人間関係 プロムプラシット寺院事件:癒えない傷跡
http://peacebuilding.asia/promprasit/
タイといいアメリカといい、ディープサウスってさぁ...

“禁断の王国”の未来
外国人に扉を開きつつあるヒマラヤ奥地の秘境ムスタン
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/121800591/?ST=m_news
> 彼は着古したジーンズ姿で、何世紀もの歴史をもつ王宮内にある、天井の低い部屋の真ん中に立って、数珠を手に経を唱えていた。
>壁や、屋根を支える柱には、金色の衣をまとって穏やかにくつろぐ姿や火焔(かえん)を背負って剣を手に憤怒の相を見せる、諸仏諸尊の複雑に入り組んだ仏画が描かれている。
>王宮は、ヒマラヤ山脈北端の殺風景な丘の懐にひっそりと立っている。10月半ば、土壁の部屋は寒々としていて、冬の訪れが近いことを感じさせた。
(中略) 私の左手には、床から天井まで届く、金箔に覆われた白檀材の棚があり、その中には諸仏諸尊の小さな銅像が雑然と置かれていた。
>ヤクのバターを燃やすランプからは、酸っぱいような独特の香りが立ち込めていた。
> これらの像は単なる芸術品ではなく、魂を宿し、古代から王家を見守ってきた仏たちだとジグメは語る。
>祭壇に置かれる前に、悟りを開いた高僧が像に魂を吹き込む儀式を行うという。
> 現実には、こうした仏の像を守っているのはジグメの方だ。仏教美術品は、闇市場で相当な額で取引される。
>仏教徒の多い、この孤絶した都においては、これまで盗難の心配をする必要はほとんどなかった。
>だが、外界がすぐ近くまで迫った今、ジグメが抱える数多くの心配事のなかに、美術品の盗難が加わった。

法輪功
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%BC%AA%E5%8A%9F
> 法輪功の特徴は、たんなる健康法にとどまらず、「真・善・忍」を中心とする「宇宙大法」を身に着けることにより、より高い次元に修煉できると説いている。
>「真」は真なる言動をなし、虚偽の言動をなさず、将来「返本帰真」に達すること、
>「善」は慈悲心をもち、人を苛めず、弱者を思いやり、人を助け善行をなすこと、
>「忍」は困難や屈辱に際しても、受け流し耐え、恨みや憎しみをもたず、仇を討たないこととされる。
> 「返本帰真」とは、世俗の慾望を捨て、人間本来の自然な姿と理念の境地に達することを意味する。
>莫 (1999, pp.��59��60) はこれらの教えについて、世俗の栄達に対する批判的な眼差しによるものであり、
>中国の一般民衆が慣れ親しんでいる仏教、道教、儒教などの伝統的な価値観をうまくミックスしたもので、
>市場経済の変化についていけない信奉者たちの悩みをわかりやすい表現を用いて効果的に取り除こうとしたものであると評している。
(中略) 法輪功では内面の向上に重点が置かれているため、他の多くの気功法同様、金銭や利益が絡む活動はいっさい許されていない。
>そのため、現在は各地のボランティアの手によって、無償で気功動作の指導が行われている。
>『転法輪』は市場相場より安価で提供され、お布施の類も一切ない。
>一方で今 (1999, p.��35) は、執着しないかぎりにおいては利益を得ることを拒んではおらず、「いわば『社会主義市場経済』をある意味で肯定している」と指摘している。

69名無し同志:2023/01/01(日) 11:25:28 ID:U2tZP5nA
Qoobo(クーボ)は、しっぽのついたクッション型セラピーロボットです。
https://store.ux-xu.com/products/qoobo
> そっと撫でるとふわふわと、たくさん撫でるとぶんぶんと、そしてときどき気まぐれに、しっぽを振って応えてくれます。
>それは、動物のようにあなたを癒やすコミュニケーション。
>しっぽセラピーで、癒やしのある毎日がはじまります。

夏は金色で冬は青くなるトナカイの目、どうなっている?
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/122200601/?ST=m_news
> 極地に近い高緯度にすむトナカイ(Rangifer tarandus)は、太陽の光がほとんど当たらない冬の間、食料を探したり、
>捕食者から逃れたりしやすいように、目の構造を変化させることができるという。
> トナカイの目の奥には、輝板(タペータム)と呼ばれる鏡のような層がある。
>夏の間、それはターコイズブルーの筋が入った黄金色のオパールのように輝いているが、冬になると深い豊かな青色に変わる。こんな芸当ができる哺乳類はトナカイだけだ。
(中略) ほぼ暗闇のなかだけで生きていると、取り入れられる光子は一つも取りこぼしたくない。しかし、目の中に入った光子を網膜の光受容体がうまく受け止められないことがある。
>すると、その後ろにある輝板がそれを跳ね返し、もう一度網膜に吸収させることができる。
>ネコなど一部の夜行性の動物は、輝板の跳ね返しによって光受容体に当たる光を倍以上にすることができると、米テネシー大学ノックスビル校の動物眼科学者ブレイディー・フート氏は説明する。
>輝板の色は動物によって異なるが、多くの場合、黄味がかった金色か緑がかった色をしている。ネコやアライグマの目が暗闇で不気味に光るのはこのためだ。
> では、トナカイの輝板はなぜ冬になると青色になるのだろうか。それはおそらく、長い薄闇が続く冬期に、青やそれ以下の波長の範囲で光を最大限に吸収するためだと思われる。
>人間の目で見える色は、波長が400ナノメートル前後の青色から700ナノメートル前後の赤色までだが、
>トナカイはそれよりも短い波長の紫外線まで知覚できる。紫外線は人間の目には有害で、雪目などの損傷の原因となる。
> 紫外線が見えることの利点は2つあると、フォスベリー氏は言う。まず、雪のなかで食べ物が見つけやすくなる。
>トナカイが冬に食べる地衣類は紫外線を吸収するため、暗闇で紫外線を跳ね返す雪のなかで目立って見える。
>また、トナカイを捕食するオオカミやホッキョクグマの毛皮も紫外線を吸収するため、やはり雪を背景にしたときにトナカイの目につきやすい。
(何故、色が変わるのか) トナカイの輝板は、液体のなかに浮遊する極小のコラーゲンの線維が並んだ特殊な結晶(フォトニック結晶)でできている。
>解剖の結果、この結晶が夏と冬で形を変え、それによって輝板の色が変化していることが明らかになった。
>夏に採取された眼球は、液体に浮かぶ線維がまばらで、結晶は赤みがかった光をよく反射する。
>冬に採取した眼球には線維がぎっしりと詰まり、主に青い光や、それに近い紫外線までも反射できるようになる。
> 暗闇でトナカイの瞳孔が開き、目の中を流れる水を排出する小さな出口がふさがれ、眼圧が上昇する。
>すると、輝板のコラーゲンが圧迫されて、水晶体の形が変わる。明るくなる夏は、瞳孔が元に戻るようだ。
> 「冬のトナカイの目は、夏の千倍以上敏感になります」と、テイラー氏は言う。
>しかし、その特徴的な適応がトナカイに害をもたらす場合がある。ジェフリー氏によると、昔からサーミ族がトナカイを放牧してきた地域に、今は高圧線が引かれている。
>そこから放出される紫外線が、トナカイの目には花火のように見え、トナカイたちを怯えさせるという。サーミ族は現在、トナカイの群れを守るため裁判で戦っている。

世界初のクローンホッキョクオオカミ 中国ハルビン市に登場
https://www.afpbb.com/articles/-/3426644?utm_source=headlines.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink
> 世界初のクローンに成功したホッキョクオオカミのドナー細胞はホッキョクオオカミ「マヤ」の皮膚サンプルから採取しており、代理母はビーグル犬でした。
>今年の夏、クローンホッキョクオオカミの赤ちゃん2匹が相次いで誕生しましたが、うち1匹は新生児溶血で死亡。
>今回姿を見せたのは6月10日に生まれたクローンホッキョクオオカミで、現在の各指標から非常に健康であることが示されています。

70名無し同志:2023/01/03(火) 17:24:43 ID:fMHwnPf6
ダウラギリ
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%83%AA
> ダウラギリはサンスクリット語で「白い山」という意味である。カンチェンジュンガの存在が知られるまでの約30年間、世界一高い山と考えられていた。
(登山) 初登頂は、1960年にクルト・ディムベルガーらスイス・オーストリアの登山隊によって成し遂げられた。これは、飛行機を利用した初のヒマラヤ登山でもある。
>飛行機は5200 mのタパ峠と北東コル5877 m地点に着陸し、当時の着陸高度記録を作った。この際に使用した飛行機(ピラタス PC-6)は、山に近づく際に破損したため山の中に捨てられた。
> チョンバルダン氷河上にベースキャンプを構え北東稜から登るルートが最も一般的なルートとなっているが、
>前進キャンプの設営や荷揚げ、高度順応の為に雪崩の多発地帯である北壁基部を何度も往復する必要があるため、登攀の難易度に反して遭難事故が発生しやすい。

『スキーの起源』⑤ - 【中央アジアの岩絵】
tp://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-158.html
> アルタイ山脈はモンゴルでは西の端のバヤン・ウルギー県に位置する。端ということは他の国と国境を接するということで、その国はロシア、中国、カザフスンの3ケ国になる。
>逆に言うと、この山脈により、人の行き来が遮断され国境を作ったということなのだろう。
> この岩絵は一人の人間と2匹の動物が描かれている。人は弓を引き絞って獲物を狙っている。獲物の角はやたらに長くて節くれだっている。
>なにやら怪獣のように見えるが、どうやら野生のヤギのアイベックスのようだ。この地方のアイベックスはシベリア・アイベックスという種類だという。
(中略・もう1枚の岩絵について) この岩絵は人はアイベックスを追って狩りをしている所を描いているのだろう。
>山でスキーを楽しんでいるところに、たまたまアイベックスが現れたというのを描いたわけではない。
>そうすると、人が手に持つのはストックだろうか?こういった場合人が手にするのは、最初に紹介したモンゴルの岩絵と同様に弓ではないだろうか?
>さらにここに描かれたストックであるが、左右の手に2本である。現在でもこの地域の人の伝統的なスキーでは『タイヤク』と呼ばれる1本の杖が使用されている。非常に奇妙である。
(中略) 新疆ウイグル自治区は第二次世界大戦後の1946年に中国共産党により武力統一された。各民族の長い歴史からすると、つい最近のことである。そしてそれは現在でも続いている。
>そして今やその中国共産党はトゥバ族のみならず、他の少数民族にも毛皮スキーをはかせ、『スキー発祥の地は中国である。』といった大キャンペーンをはっているようである。
>この岩絵はそれを証明するための『物証』ということなのだろうか?中国はこの岩絵はBC3000年頃に描かれたと主張しているという。
>スキーにまでも政治を持ち込むとは、まったくうんざりしてしまう。

プラーン・サームヨート
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%88
> 寺院はおそらく12世紀末から13世紀、クメール支配によるジャヤーヴァルマン7世(在位1181-1218年/20年)の統治時代に構築された。
>もともとの機能は明確ではないが、アンコールの多くの寺院と同様に、プラーン・サームヨートは当初ヒンドゥー教の寺院であり、3基の塔はヒンドゥー教の神ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神一体を表すものとされる。
> しかしながら、ジャヤーヴァルマンは大乗仏教徒であったため、仏教寺院として建立されたとして仏教により捉えることもできる。
>すなわち中央塔堂は釈迦如来(仏陀)を表し、南の塔堂は菩薩(聖観音、Avalokite���vara)を象徴しており、北の塔堂は般若波羅蜜多母 (Prajnaparamita) を表すものとする。
>ただし、3基の塔にはそれぞれシヴァ・リンガが残ることから、その歴史のなかでヒンドゥー教の聖域としての時代があったことは確かである。
> 17世紀、アユタヤ王朝の王ナーラーイ(在位1656-1688年)のもとで寺院は修復され、上座部仏教寺院に改宗された。
>ナーラーイは煉瓦による礼拝堂(ウィハーン、wihan)を建立し、そこにアユタヤ様式の仏像を安置した。
>1994年、寺院はタイ芸術局により修復された。
> 今日、プラーン・サームヨートは、ロッブリーの主要な観光地でありランドマークの1つである。
>ただしそれは必ずしも遺跡だけではなく、サルが集まる場所として知られることによる。

71名無し同志:2023/01/15(日) 00:48:27 ID:4wC1/hLE
「これを作った人は神」ドイツ人研究家が絶賛 比類なき能面「山姥」
https://www.asahi.com/sp/articles/ASR135V8VQDMPCVL014.html?utm_source=newsshowcase&utm_medium=discover&utm_campaign=CCwQ3Z3d1PGQ56OmARil7ZferZeuvYEBKikIMBD-hImqztqbqAcYlP7iwsnKuJK_ASoQCAAqBwgKMLuYlQsw9PeqAw&utm_content=related
> この能面「山姥(やまんば)」は、他に類例がない、極めて珍しい造形をしています。
>「山姥」という能の演目でも、「白頭(はくとう)」という小書(特殊演出)がつく場合にのみつける面です。

【紅白】氷川きよし、ラストステージに会場ざわつく!とんでも衣装で熱唱「また必ず帰ってきます!」23年から活動休止
https://hochi.news/articles/20221231-OHT1T51009.html?page=1
> 鳥のような巨大なセットの上に登り、金色のド派手な衣装に身を包んだ氷川。“とんでも衣装”に会場がざわつくなか、長髪を振り乱しながら熱唱した。
>歌唱終了後、「また必ず帰ってきます!」と笑顔で観客に手を振った。

音声で聴く 志真うたの 歴史の陰に名湯あり
上杉謙信が川中島で陣を張った野沢温泉
https://www.sankei.com/article/20221104-FS7PBC43A5CTZHOQERZKQ2W4DY/
> 今回は、軍神と恐れられた上杉謙信(1530〜78年)と野沢温泉(長野県野沢温泉村)の関係。
>謙信は温泉近くに陣を張り、武田軍と向かい合いましたが、住民たちは普段と変わらずに温泉を利用していたそうです。

き【柝】
https://kotobank.jp/word/%E6%9F%9D-49797#:~:text=%E3%81%8D%E3%80%90%E6%9F%9D%E3%80%91,%E6%8B%8D%E5%AD%90%E6%9C%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%86%E3%80%82
> 神事や祭礼をはじめ民俗芸能,見世物,相撲,人形浄瑠璃,歌舞伎などの開始,段落,終了の合図として打たれる四角に削った二つの木片。拍子木ともいう。
>雅楽の笏拍子(しやくびようし)や声明(しようみよう)の割笏(かいしやく)のように,楽器としての性格の強いものから,夜番の拍子木のように合図として伝達する性格までの幅がある。
>いずれにしても,響きのよさが重要視されるので,堅い樫材を使用し,1本を二つに割って削る。

72名無し同志:2023/01/22(日) 20:44:23 ID:10rBdAh.
上野山福祥寺 諸堂案内
tps://www.sumadera.or.jp/keidai/
>本堂 >護摩堂 >大師堂 >寺務所・納経所 >本坊・書院 
>源平の庭 >宝物館 >仁王門・龍華橋 >三重塔 >奥の院 >敦盛塚
>青葉殿(納骨堂、しょうようでん) >正覚院(しょうかくいん) >櫻樹院(おうじゅいん) >蓮生院(れんしょういん)
>親子地蔵 >神戸七福神霊場 >出世稲荷社 >ひとすじ辨財天(べんさいてん) >祈りの回廊 亜細亜万神殿(ネパール大震災復興紀念堂) >八角堂(経木供養所)

73名無し同志:2023/01/22(日) 21:49:43 ID:10rBdAh.
シベリアの人里離れた島に残る謎の要塞跡、それが、ポル=バジンである
https://jp.rbth.com/science/87004-shiberia-no-nazo-no-y%C5%8Dsai-por-bazhyn
> ポル=バジン(トゥヴァ語で、「粘土の家」の意)が人々に知られるようになったのは、131年前。
>所はトゥヴァ共和国、モンゴルとの国境に近い、風光明媚なテレホリ湖の島。この難所を訪れた民俗学者ドミトリー・クレメンツが発見した古代要塞は、センセーションを巻き起こした。
> 正確な長方形の廃墟の内部は、迷宮状の区画に仕切られていた。形は仏教ないしヒンドゥー教の曼荼羅を思わせ、それまでトゥヴァ共和国内で発見されたものとは全く異なっていた。
>東側の壁の付近は、儀式を執り行う宮殿前の広場を思わせた。広場の奥にはかつて円柱をそなえた華麗な宮殿があったようだ。
>残存するその壁は高さ10メートルに達し、円柱を支える骨組みも残っていた。
(伝承) 湖の真ん中に浮かぶ謎の要塞は、様々なバリエーションでトゥヴァ人の口頭伝承に多く登場する。
>中でも最も有名なトゥヴァの物語は、「ロバの耳のハーン」である。
>地元民は湖と要塞を神聖なものとして崇め、湖中には青い牛メエンデルが棲むと信じる。メエンデルは夜毎に岸に上がっては、人間の恐怖心を喰らうという。
>別の伝説では、この島にはチンギス・ハンの墓が隠されているという。また、チベットにある伝説の国・シャンバラへの入り口だと信じる者もいたが、実際、ソ連では真剣にシャンバラを捜索していた。
(セヴィヤン・ヴァインシュテインの探検) 彼らは要塞の内部に27の庭付き住居を確認し、丘陵の1つを掘り返したところ、崩壊した宮殿跡を発見した。
>宮殿の屋根は36本の木製の支柱で支えられ、素焼きの瓦で覆われていた。
>同じく宮殿跡からは幾何学模様の壁画が発見されたが、それらは赤、オレンジ、黄色などの暖色を用いた実に鮮やかなものだった。板張りの床も一部分が残されていた。
(用途) しかし最も説得力のある仮説は、僧院だったというものである。仏教の歴史は中央アジアと密接に関係している。
>仏教発祥の地であるインドと、中世初期に仏教が盛んだった中国を繋ぐのが、中央アジアなのだ。
>「私が見たポル=バジンの写真は、7〜8世紀頃に中央アジアに広く分布した仏教寺院と設計がよく似ていた。」
>2007年にそう語ったのは、ロシア国立東洋美術館の学術研究担当副館長、ティグラン・ムクルトィチェフ。
> 一方で同氏は、古代東洋の別の宗教、マニ教の寺院という可能性も排除しなかった。
>マニ教は3世紀のメソポタミヤで発生し、数世紀にわたってウイグル帝国に浸透していた。
>「仏教寺院はこんにちでもよく知られているが、マニ教寺院については遥かに研究が少ない」と、ムクルトィチェフは指摘する。
(中略) 「私たちはフローニンゲンに、ポル=バジルの壁面からカラマツの切片を3つ送りました。
> 調査用にはその中から樹皮がよく保存された一片が選ばれ、樹皮側から3番目の年輪に、確かに三宅イベントが発見されたのです。
> 最も若い年輪を調べた結果、フローニンゲンの年輪年代学研究者はこの樹木が夏に切られたことを突き止めました。
> こうして、建設された年代に加え、季節まで判明したのです。すなわち、777年の夏です。」
> 考古学者によると、建設には夏季2シーズンを要した。当時、君主はマニ教を導入するという、極端な宗教改革を断行した。
>779年、ウイグル帝国では反マニ教の反乱が発生して君主は殺害され、宗教改革は撤回された。この事実が、全てを物語る。
> 「一連のデータを基に、この建築群は防衛目的ではなく、宗教儀式用、すなわちマニ教の僧院であったと推定できます。
> 僧院が建設されたのが反乱の直前なら、それまでの統治者はこの施設を利用できずに終わり、新たな統治者には必要とされなかったということです。
> 使用された形跡が無いという、ポル=バジンの最大の謎は、こうして説明可能です」と、アンドレイ・パーニンは語る。

1/22追記
https://mobile.twitter.com/siro7low/status/1005840436244635648
> 大宝城模型。大宝城は大宝沼に周囲を囲まれた水城でした。城主は下妻氏。
>模型では大宝沼を介して関城も望めるように再現しました。南の追手、北の搦手は現在も遺構が残ってます。

74名無し同志:2023/04/02(日) 00:04:03 ID:jb8fJb3k
法難山の如し

アンコールワット不法占拠者の「強制退去」中止を アムネスティ
https://www.afpbb.com/articles/-/3458117?act=all
> カンボジア政府は昨年、同遺跡の広大な敷地に不法に暮らす人々を、
>25キロ離れた田んぼだった土地につくる新集落に移住させる計画を打ち出した。
> 当局は、移住は国連教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)の世界遺産にも登録されている遺跡を守るためだと主張。
>不法占拠者の集落でごみが発生しているほか、水資源の乱用などもあり、周辺環境が破壊されていると説明した。
(中略) 移住した家庭には幅20メートル、長さ30メートルの土地と現金350ドル(約4万6000円)、屋根用のブリキ板30枚、生活保護カードが与えられる。
>だが、家は自力で建てなければならない。

メタバースで坐禅会 仮想空間に没入感 リアルの良さ気付きも 横須賀・独園寺
https://www.chugainippoh.co.jp/article/news/20230310-010.html
> コロナ禍で不安を感じている人、入院などの事情で外出できない人のために「メタバース坐禅会」を企画。
>2021年5月から始め、原則毎月1回開催している。

ショル人 〜伝統が現代まで伝わるシベリアの少数民族〜
https://www.hiroki-ru.work/entry/20201102/1604304063
> ソ連時代の1926年、ショル人の民族自決のための「ゴルノ・ショル地方」が作られます。
>しかし、このゴルノ・ショル地方は1938年にショル人の人口減少などを理由に廃止されていしまいました。
>その後、ショル人による自治区や共和国などは作られることなく、現在に至ります。
(中略) Мылтык-Пайрам(ミルティク・パイラム)は1月18日。この日は団子のような民族料理を食べる祝日です。
>その団子の中には、今年の運勢を暗示する小さなものが入っています。それを予想しながら団子を食べる祝日だそうです。
> Чыл пазы(チル・パーズィ)はショル人の新年。3月20日か3月21日の春分の日に祝われます。
>火を囲んで歌ったり踊ったり、人によってはクマなどの生き物に変装をしたりして新年を祝うそうです!

75名無し同志:2023/04/08(土) 17:18:01 ID:2GbEahaA
日本がコレ関係で西洋から学ぶ要素あるのか…?

4/6 埼玉県で初となる仏教寺院でのLGBTQ WEDDINGが開催
tps://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000042519.html
> 仏教では「生きとし生けるもの皆幸せであれ」というブッダの教えに従い、性別に関係なく心の在り方次第で誰しもが幸せになれる平等の精神を説いております。
>最明寺では2021年のコロナ禍においてLGBTQ成人式などを開催する「SAITAMA RAINBOW PRIDE2021」(主催:SAITAMA RAINBOW PRIDE実行委員会)
>のオンライン配信の会場になる等、日頃よりLGBTQフレンドリーな寺院として地域の当事者たちと交流をしております。

関連
ひとつの塵のなかにも
tps://www.engakuji.or.jp/blog/34502/
> 帰宗禅師はそこで、「椰子の実ほどの頭の中に、どうして万巻の書物が納まるのですか」と言われました。
>「もしあなたが一人の詩人だったら、一枚の紙に雲を見るだろう。
> 雲がなかったら雨は降らないから。雨が降らなかったら、木は育たず紙はできないから。」
>「もしあなたが一人の詩人だったら、一杯のご飯やお惣菜の上に、太陽や雲を見るだろう。
> 太陽や雲がなかったら光も温度も雨もないから。」
>「華厳思想にあっては、一切の現象は孤立しない。
> 孤立せる現象など、この宇宙に存在しないという。
> 一切の現象は相互に相対的に依存しあう関係にあるとするのである。
> 華厳の用語でいえば、重々無尽ということであり、たがいにかかわりあい、交錯しあい、無限に連続し、往復し、かさなりあって、
> その無限の微小・巨大といった運動をつづけ、さらには際限もなくあらたな関係をうみつづけている。
> 大は宇宙から小は細胞の内部までそうであり、そのような無数の関係運動体の総和を華厳にあっては″世界″というらしい。
>その世界が、唯心的に、つまり浄められ高められた心で観じられ、
> 巨大な光明として絶対肯定されるときにこそ真理の世界(法界)がうまれるというのが、華厳思想なのである。」

「えっ、人がいる!?」明治初期の熊本城の写真パネルをよく見ると石垣に… 天守閣内の展示で読者発見 正体は?
tps://kumanichi.com/articles/948292
> 熊本城の石垣は2016年の熊本地震によって至る所で崩落したが、150年近く前に車夫が登った石垣は当時のままという。
>昭和の終わり頃までは石垣に登って子どもが遊んでいたという話もあるそうだ。

76名無し同志:2023/07/13(木) 15:33:51 ID:cbinMRzQ
灯りに関して数点

献灯とは?献灯の宗教的な意味や、ろうそくの歴史からご説明します。
https://www.e-sogi.com/guide/14165/
> 神社や寺院に灯明を奉納すること、または灯明そのもののことを指す言葉です。
> 葬儀の際には、ろうそくに火を灯して故人を供養しますが、火は古来より、さまざまな宗教で信仰の対象となりました。
> 神道で最初に生まれた神とされるイザナギ、イザナミの子はカクヅチと言います。
>カクヅチは火の神であり、そこから多くの神々が生まれたとされています。
> 浄土系の仏教では、ろうそくは極楽浄土に向かう死者の道標であるという教えもあります。
(中略) 仏教には「光明とは智慧のかたちなり」という教えがあります。光は心の闇を照らし仏様の知恵と慈悲を讃えるといった意味です。
>電気のない時代から、明かりは寺院や儀式で用いられてきました。
>火の明かりが邪気を払うという思想は、はるか昔から受け継がれてきたのです。
> また、初期仏典には、ブッダのため火を灯すことはとても徳の高い行為であると記述されているそうです。
>仏典には、
>「裕福だが不信心な人のろうそくはあっという間に消えるのに対し、ブッダにろうそくを捧げた貧しく清い老女のろうそくは消えなかった」
>という物語も残されています。
(中略) 当時の仏師たちは、照明の当たり具合を計算しながら仏像を作りました。
>仏像は、拝観する人の目線と、本来灯明が当たる場所を意識しながら彫られています。
>仏師たちは、光がいかに人々の信仰心を喚起するかを知っていたと言えます。

仏教豆知識〜自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)〜
http://fukagawafudou.jugem.jp/?eid=2158#gsc.tab=0
> お釈迦様が入滅の際、弟子に伝えた言葉です。
> お釈迦様亡き後、
>「誰かの言葉や教えに左右されることなく、これまで積み重ねてきた行いを信じ、
> 自らの心に従い正しい教えを拠りどころとして、この先も精進していきなさい」
>という教えです。

不滅の法灯
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%BB%85%E3%81%AE%E6%B3%95%E7%81%AF
> 最澄の
>「明らけく後の 仏の御世までも 光りつたへよ法のともしび
> (仏の光であり、法華経の教えを表すこの光を、末法の世を乗り越えて弥勒如来がお出ましになるまで
>  消えることなくこの比叡山でお守りし、すべての世の中を照らすように)」
>との願いを込めたと伝わる。
> 菜種油を燃料にして灯芯が浸り、火が点るという原始的な構造の灯篭内で、現在も燃え続けている。
>毎日、朝夕の2回、燃料の菜種油を絶やさないように僧侶が菜種油を注ぎ足し続けている。
>油を断つことは比叡山で学ぶ僧侶がいなくなることを意味しており、これが「油断」の語源になったと言われている。
>分灯

修二会
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E4%BA%8C%E4%BC%9A
> 3月1日の本行に入る前に「別火」と呼ばれる前行がある。
>戒壇院の庫裡(別火坊)で練行衆が精進潔斎して合宿生活を行うのである。
>世間の火をいっさい用いず、火打ち石でおこした特別の火だけを利用して生活するのでこのように言われる。

77名無し同志:2023/10/10(火) 19:06:03 ID:9oI4ZtL6
彼らに救いがあらんことを

テルマ(蔵: gter ma、「宝」)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%9E_(%E5%AE%97%E6%95%99)
> パドマサンバヴァ(蓮華に生じた者)と彼の弟子にしてダーキニー(修法のパートナー)のイェシェ・ツォギェルが、
>将来テルマの発掘者テルトン(gter ston、「宝を顕わにする者」)が適切な時に発掘できるように、地中や弟子たちの心の中に埋蔵した霊的な宝物とされ、
>「大地のテルマ(sa gter、サテル)」と「霊感のテルマ(dgongs gter、ゴンテル)」の二種がある。
>テルトンはほとんどの場合、パドマサンバヴァの弟子の化身とされる。
> 「大地のテルマ」は、山河や岩など自然の地形や、寺院などの建築物の中に隠された物理的な物体
>(仏像や巻物など)を用いるテルマであり、テルトンがそれを発見した後、
>霊感によって解読し、宝物の言葉と意味を文字に筆記したものである。
> 「霊感のテルマ」は、物理的な物体を用いないテルマであり、
>パドマサンバヴァの弟子たちの心相続(Mindstream)の中に隠され、その化身とされるテルトンが、
>霊感の中で自らの心に明瞭に生じた宝物の言葉と意味を文字に筆記したものである。
(中略) チベット仏教のなかでも、リメー運動の強い影響を受けるニンマ派、カギュ派、サキャ派からは、
>現在までパドマサンバヴァの弟子たちの化身が多数現れて膨大な量のテルマを発掘して来たが、
>ゲルク派からはテルトンはほとんど輩出しておらず、テルマの伝統は発展しなかった。

リメ運動
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A1%E9%81%8B%E5%8B%95
> チベット語で「偏り無し」という意味である。
> これは、宗派の壁を超えて仏教のさまざまな相承系譜を収集し、
>多様なものを多様なままで不偏的に平等に扱い、複数の伝統を混ぜ合わせることなく
>包括的・統合的にアプローチしようとするものであった。
>チベットの文化的ルネサンスとも評される。
(中略) ジャムヤン・キェンツェが発起人で、ジャムグン・コントゥルが運動を取りまとめる役割を果たした。
>リメパたちの活動はデルゲ王国の宮廷と、当地のサキャ派、カギュ派、ニンマ派、ボン教の寺院ネットワークの支援を受けた。

78名無し同志:2023/12/23(土) 16:04:39 ID:V1qeoXu2
四阿をこれほどカッコいいと思ったのは初めてかもしれない

マンダレー
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AC%E3%83%BC
> マンダレーは、1859年5月23日に王ミンドン・ミンによって建設され、
>1885年の第三次英緬戦争を経て大英帝国に併合されるまで、
>ビルマで独立を保った最後の王朝の首都(1860年-1885年)であった。
> ビルマの他の町とは異なり、マンダレーは、近隣に Hti Baunga という名の村が存在したとはいえ、
>より小さな居留地が町の一部へと発展したものではない。
>マンダレーは、仏教の2400周年の祝祭の機にまさにこの場所に偉大な都市(仏教の都)が現れるであろうという
>ブッダの予言に従って、標高 236 メートルのマンダレー丘のふもとに建設された。
(都市計画) 王は、同時に、7つの建造物の基礎も定めた。
>城壁で囲まれた王都、それを取り囲む堀、
>Maha Lawka Marazein 仏塔(クドードーパゴダ)、
>Pahtan-haw Shwe Thein という名の高位叙階式場、
>Atumashi (比類なき)僧院、
>トゥダマーザヤッ(����������������������; 説教のための公会堂)、仏典を収めた図書館が、それである。
> 王都全体は「レーチュンアウンミェー」(����������������������������������)〈四島の上に立つ栄光の地〉と呼ばれ、
>王宮は Mya Nan San Kyaw (名高きエメラルドの王宮)と呼ばれた。
>王国の新首都は「ヤダナーボン・ネーピードー」
>(����������������������������������; そのパーリ語名である Ratanapura〈宝石の都〉のビルマ語訳)と呼ばれた。
>その後、呼び名が丘にちなんでマンダレーになった。
>その名は、パーリ語の Mandala (「平原」を意味する。)
>-マンダレーは太鼓の表面のように平坦であるといわれる-の派生語であり、
>パーリ語の Mandare (「幸運の地」を意味する。)の派生語でもある。
(文化) マンダレーは、ミャンマーにおける仏教文化と信仰の中心であり、無数の僧院と700を超えるパゴダがある。
>マンダレー丘のふもとには、世界最大の本としても知られる、世界の公式「仏典」がクドードーパゴダの中にある。
>そこには仏教のパーリ経典が全文彫り込まれた729枚の石盤が、1枚ずつ白い仏塔に納められている。
<Lion Throne(獅子の玉座)
<フマンナンドー(女官たちの御殿)

王宮は復元されているけど、略奪された財宝も現地人に複製させるご予定で?

79名無し同志:2023/12/25(月) 21:31:56 ID:pXmkMt4I
哀愁を感じる

Soviet Tuvan folk master Dongak Okaanchik 1896-1972
tps://soviet-art.ru/soviet-tuvan-folk-master-dongak-okaanchik-1896-1972/
> The peasant and the arat. 1964.
> Cedar, aluminum, carving, attachments.
> Sculpture for the Centenary of the Unification of Tuva and Russia

80名無し同志:2024/01/14(日) 17:41:11 ID:KiGwD/IM
さてウクライナ戦中・戦後はどういった扱いになっているやら...

抑圧されたチュルミット・ダジとケムチクオールを追悼する胸像が建てられる予定
tps://xn--80adihlp9be0f.xn--p1ai/?p=7295
<チュルミット・ダジ・サニ・シリ・オグル(1894-1938)
> 1921 年に TPR が結成された後、彼はラマ僧の学業を放棄し、革命的なアラット運動に参加しました。
(中略) ソビエト国家制度の盲目的コピーに熱烈な反対者として、
>彼は「遊牧民」トゥヴァの発展のための独自の道を提唱した。
>1936 年、チャーミット ダジーは産業の発展への多大な貢献により共和国勲章を授与されました。
>入植地は彼の栄誉にちなんで名付けられ、後にチュルミット=ダジーが積極的に主張した
>アスベスト鉱床の開発、抽出、処理のために有名なアク=ドヴラック市となる。
<アディグ・チュリュシュ・ケムチク・オール・オルドゥカイ・オグル(1893-1938)
> 1930 年から 1933 年にかけて、彼は新聞「Shyn」(「真実」)の編集長を務めました。
(中略) 1933 年にトゥヴァで協同組合農業と個人の私的農業を組み合わせることを提唱し、
>それによってトゥヴァの新しい社会主義開発モデルへの移行と
>伝統的な遊牧経済の維持との間の妥協点を見つけ出したのも彼でした。
<オユン タンチャイ チランデー オグル (1894 〜 1938 年) 共和国大使や外務大臣を歴任

祖国の英雄を称えることが、アホ大国を貶すことになりはしないだろうか?

81名無し同志:2024/01/14(日) 21:16:02 ID:spu1JWNs
はたして露助は家族とか同胞と見ていたのだろうか...?
(※わざわざ石炭のある土地にヨーロッパ側からパイプラインを引いて依存させた)

悲劇的な運命をたどった家族
tps://www.tuva.asia/news/tuva/8849-tanchay.html
> チランダイは鍛冶に従事しており、
>人々は彼のことを「鍛冶屋チランダイ(кузнец Чырандай)」と呼んでいました。
>若い頃、彼は金持ちの牧畜民でした。
>彼はホムス、リンビ、ドシュプルルを完璧に演奏し、歌うことができました。
(中略) 同氏は、TNRPのエリートたちがこよなく愛したごちそうに国民のお金を不法に使っていると非難した。
>したがって、(サルチャク・)トーカが明らかに自己保存の意識を欠いている銀行家を擁護するために
>時々山のように立ち上がったとは考えられません。
>彼の背後では政治的陰謀が絡み始め、「タンチャエビ人(танчаевцы)」という攻撃的なあだ名が使われるようになった。
(中略) 1938 年 7 月 11 日、TPR の司令官、コミッショナーのクジュゲト・サリュグセレンが逮捕されましたが、
>逮捕中は一時的に勤務していませんでした。
>7月31日、彼らは貿易産業大臣のサット・ロプサンと、当時印刷所の所長を務めていた
>ソフトゥフトランス社の前所長であるホワルイグ・トトカンの2名を同時に連行し、8月22日には拘束した。
>オユン・センギジク、共和国副検察官。
(見世物裁判) 続いて、逮捕された人々の主な目的は
>「日本の援助を得てトゥヴァ革命政府を打倒し、TPRの独立を排除し、封建制度を回復すること」であり、
>「タンチャイとタンジンは彼らの反革命目標を認識していた」と述べた。
(任務)
>「1. 反革命組織チュルミット・ダジ―・タンチャイの共犯者を全員撲滅するためには、
> 昼夜を問わずたゆまぬ努力を続け、“必殺の一撃”を加えなければならない。
> 2. すべてのパオ、すべてのアラトに革命法をもたらし、説明すること。
> 3. 革命の警戒心を高め、常に問題を認識し、鋭い耳と真の嗅覚を持ち、党と政府の決定を誠実に実行する。」
(※死刑判決の一覧あり)
> 兄弟たちは皆に食べさせるために、魚を釣ったりウサギを捕まえたりしなければなりませんでした。
>時々彼らは獲物を持たずに戻ってきて、家族は空腹のままでした。
>一家の当主が射殺された後、財産は没収され、子供たちは防寒着も靴も履かずに残されました。
>彼らはボートでエニセイ川を渡ってきたエールベカ村の人々や親戚に助けられた。
<キジル・ハヴァク(レッドヒル)鉱山
<ブレンスカヤ草原で密かに処刑された7人の埋葬地

どうもトカの誤訳で「土岐」と出るらしい(皇族に弓引いた頼遠がソ連受けしたのかな?)
あと「名誉回復」を「更生」としたらしい段落があるけど、流石に誤訳だと思いたい

82名無し同志:2024/01/17(水) 19:07:40 ID:nmGoY/26
モンゴルの列車駅と言われたら信じるかもしれん

芦屋仏教会館
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E5%B1%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E4%BC%9A%E9%A4%A8
> 仏教講演会のほか、各種文化教室に利用される。
>建物正面の窓には蓮の花をモチーフにしたステンドグラスが配され、
>また聖徳太子像が鎮座する壇を正面に固定椅子と机が整然と並ぶなど、
>キリスト教の教会のような雰囲気を持つ。
> 1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、
>周辺の洋風建築の殆どが全壊する中、芦屋仏教会館の被害は軽微であった。
>その後、2003年(平成15年)には芦屋西部第一地区震災復興土地区画整理事業の
>道路拡張工事に伴い、曳家工法により西側に約2.5m移築された。

おまけ
蔵屋敷
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%B1%8B%E6%95%B7
> また、大名のみならず有力な旗本・公家・寺社の中には自前の蔵屋敷を持つものもいた。
(中略) なお、商業を賎しむ儒教的観念の影響を受けて、
>ほとんどの大名が自己所有の蔵屋敷であっても有力商人を
>表向きの名義人(名代(なだい/みょうだい))としてそこから借り受けている事としており、
>大坂では安濃津藩・伊予松山藩の2藩のみが自己所有の蔵屋敷の存在を公然としていただけだったとされている。

後者は地下銀行ってやつ?(多分違う)

83名無し同志:2024/01/18(木) 09:13:49 ID:ba0fYefs
367 日曜8時の名無しさん 2024/01/14(日) 22:07:03.11 ID:e7pLle8C
近年の研究では藤原経清について永承2年(1047年)の五位以上の藤原氏交名を記した
『造興福寺記』に名前が見えており、
同時期に陸奥国在住で後に権守となった藤原説貞と同格に扱われていることから
実際に藤原氏の一族であったかはともかく、
少なくとも当時の藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは確認されている

394 日曜8時の名無しさん sage 2024/01/14(日) 22:17:21.85 ID:YHCoV0Tj
>>367
藤原氏を名乗ることを認めるバーターで寺院造営の献金をさせたともいえる

tps://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1704951259/

84名無し同志:2024/01/26(金) 08:07:18 ID:bzlot5bM
各地の灰を売ればいいと思うよ

サウィン祭(万霊節)
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E7%A5%AD
<すなわち夏の終わりと冬の始まりにあたる10月31日の前夜祭とと11月1日の祝祭(ケルト人は1年を夏=光と冬=闇に二分する)。
> サウィンは夏の収穫を祝う行事であり、余剰分の作物や屠殺された家畜が共食に供される。死者の魂が現世に帰ってくる日だともされた。
>異界と通じる時期であることを利用して占いが行われる。かがり火が伝統的に祝祭の一環として焚かれる。

千葉厄除け不動尊
tps://www.amazon.co.jp/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%8E%84%E9%99%A4%E3%81%91%E4%B8%8D%E5%8B%95%E5%B0%8A-%E3%80%90%E5%8E%84%E9%99%A4%E3%81%91%E7%81%B0%EF%BC%88%E3%81%8A%E6%B8%85%E3%82%81%E7%81%B0%EF%BC%89%E3%80%91%E5%8D%83%E8%91%89%E5%8E%84%E9%99%A4%E3%81%91%E4%B8%8D%E5%8B%95%E5%B0%8A%E3%81%AB%E3%81%A6%E3%80%81%E5%BE%A1%E4%B8%8D%E5%8B%95%E3%81%AE%E3%83%81%E3%82%AB%E3%83%A9%E5%BE%A1%E8%AD%B7%E6%91%A9%E7%A5%88%E7%A5%B7%E3%81%AE%E7%81%B0%E3%82%92%E3%81%8A%E5%AE%88%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82/dp/B00QDB0S0C
>[Annoying ashes]: This is a protective of the ashes of the everlasting chikara and praying in the prevention.

成分分析なんて先ずやらないだろうし...

85名無し同志:2024/03/12(火) 08:19:16 ID:Ge/yMK86
77 名無しさんの次レスにご期待下さい (ワッチョイ 0252-mSl3) sage 2024/03/11(月) 19:48:09.01 ID:2NmnVBvE0
戦闘中に「お前は私の父だ」と言われても相当動揺すると思うが
新田さんじゃなくても顔の横に「?」が浮かぶレベルで

81 名無しさんの次レスにご期待下さい (スププ Sda2-QATo) 2024/03/11(月) 20:10:47.83 ID:8m4YfMIcd
>>77
それな、チベット密教に伝わる秘密集会タントラという経典に
「汝は汝の父である」という言葉があって、この経典の最高奥義として儀礼の最後に授けられるとされてるんよ。
大雑把にいうと「この世の全てはお前の心が感じてはじめて存在していると認識出来る」という意味で
仏教の学説唯識に由来するらしいが、まあ意味全然ワカランよね、書いてる俺も分からん。

90 名無しさんの次レスにご期待下さい (ワッチョイ 0252-mSl3) sage 2024/03/11(月) 21:58:07.58 ID:2NmnVBvE0
>>81
いわゆる「我思う、故に我あり」って奴でしょ?
そこまでワケわからんって程でもないと思うが
宗教と哲学って割と似てるとこあるよね
まぁ2500年前のインドのパンチの時代から現代まで、人間が考える事ってそんな変わってないって事だよね

91 名無しさんの次レスにご期待下さい (ワッチョイ d10b-a64b) 2024/03/12(火) 00:18:23.75 ID:NKXjMxS90
胡蝶の夢みたいな「全部幻だったら?」という想像自体は人間誰しも持ってるわけで我思う故に〜はそれに対する「悩んでるお前は現に実在するじゃん」というアンサーなのよな

92 名無しさんの次レスにご期待下さい (ワッチョイ 024d-UCxz) 2024/03/12(火) 02:06:32.66 ID:+JtDMfLd0
>>90-91
でも「我思う我」が「我」なのか「蝶」なのかというね

https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/wcomic/1710115645/

86名無し同志:2024/04/13(土) 20:20:14 ID:SkMbhlZ6
大澤雅休、もはや画のような書

黒嶽黒谿(陳列拒否作)
tp://www.all-japan-arts.com/rekishi/1203rekishi.html
> この ″事件″には、実は伏線があって、
>昭和二十六年(一九五一)の日展に出品した上田桑鳩『愛』が、
>愛という文字ではなく「品」のようなかたちに書いてあったことから、
>日本画家の松林桂月らの日展当局者から「日展にふさわしくない」と痛烈に批判を浴び問題化したことがあった。
> 日展も戦後直ぐには時代状況もあって比較的自由な雰囲気で、
>昭和二十三年(一九四八)から参加した第五科書には、保守から前衛系までが幅広く参加した。
>しかし、日展は文展、帝展の系譜を引く。わが国アカデミズムのいわば本山であった。
>洋画などでは戦前に二科会が誕生するなど、伝統と革新の分離はすんでいたが、
>書壇は、いまだ入りまじり混沌としていたのである。
>日展としても戦後の混乱が漸く落ちついてくると、アカデミズム本来の姿が強く意識されてきたにちがいない。

関連?
古本夜話933 シルヴァン・レヴィ『仏教人文主義』とマルセル・モース
tps://odamitsuo.hatenablog.com/entry/2019/08/12/000000
> 大正八年に万国学士院会議がパリで開かれ、日本から高楠先生が出席された。
>当時フランスは東洋学の世界的権威と自負していて、
>印度、中央アジアなどで発掘された梵本の解読も進み、
>シルヴァンレヴィ教授のように、西域の未知語亀�朴(クツチヤ)語を自由に解される学究もいられたから、
>日本の碩学高楠博士を迎えて、フランス語の仏教辞典編纂の企画が、
>セナール学士院長やレヴィ教授をまじえて、商議された。
> 高楠先生はその時、(中略)仏教研究の最も完成しているのは日本であるから、
>日本語を元にしなくては、真の仏教辞典は出来ぬと力説され、
>レヴィ教授もセナール院長もこれに同意されて、およその方針が決まったという。

渡辺 玄対(わたなべ げんたい・1749-1822)先生に学ぶ
tps://www.google.com/amp/s/amp.amebaownd.com/posts/11449364
> 玄対が私淑した藍瑛は、中国の伝統的な浙派の構図に、当時流行した
>呉派の文人画法を取り入れ、南北合法の画風といわれる明代末・清代初めの画家だ。
>それを受け継いだ玄対の折衷的な画風は、さまざまな画法を貪欲に吸収する
>谷文晁とも共鳴して、ともに江戸後期の写生画の基礎をつくった。
>この画譜では、山水画を描く際に必要な皴法や点景の描き方などの知識が詳細に図示されている。

梵字と仏教
tps://fukoku-kobo.net/smartphone/page1.html
> 古くは悉曇(シッタン)文字と呼ばれ、仏像や仏具、経典等と同等に大切に扱われています。
>しかし現在、インドや中国での梵字は廃れてしまい、主に日本だけで使われています。

87名無し同志:2024/04/13(土) 21:03:14 ID:SkMbhlZ6
とりあえず仏教用語その他を並べる

Pavarika : マンゴーの木立
ナランダ : 蓮のある場所、知恵を授ける場所、惜しみなく与える場所
Ban Raja : 森の民(=クスンダ)

リシパタナ : 仙人の飛行場
シンハプラ : ライオンの街

ガウパリン、サマクハン(仏像や彫像の座、ミャンマー)
蘭若(らんにゃ) : 仏道修行に適する閑静な場所、練若、浄院
貫首(かんじゅ) : 天台座主、管主、頭に立つ人
法嗣(ほうし、はっす) : 仏法上の弟子
案者 : 知恵者 探題 : 出題者
護持僧(貴人の身体鎮護を行った) 武家〜・将軍〜・幕府〜
坊官 : 仏教界の政所、及び所属し門跡に近侍した僧侶
同朋衆(どうほうしゅう) : 将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々、合戦に同行する陣僧に由来
梵天 : 具足(修験道)
竜象之力 : 賢者や得の高い僧侶、学識や得が人並み外れて高い
竪義(りゅうぎ) : 法会の儀式、義を立てて主張すること
円成(えんじょう) : 円満に成就すること、完成

88名無し同志:2024/04/13(土) 21:08:51 ID:SkMbhlZ6
ツイ村のテンジンがほぼドンドゥクまんまでなんかワロタ

89名無し同志:2024/04/21(日) 12:05:01 ID:Ga4SMZ.U
カルトvsカルト...

崔済愚
tps://www.y-history.net/appendix/wh1303-142.html
> 東学が目指すのは人と天を一体化させ、地上に天国を実現するというものであり、
>呪文を唱えるなどわかりやすい教義であったので、民衆に急速に広がった。
>朝鮮王朝の大院君政府は東学の広がりを危険な思想と考え、1863年に教祖崔済愚を捕らえて翌年処刑した。
>二代目教祖崔時亨は、崔済愚は無実であるとしてさらに活動を広め、秘密組織を作っていった。
(Wikiによれば) かれは、やがて(先天開闢に対する)理想的な「後天開闢」の時代がやってくるので、
>人びとは東学の信者となり、熱心に呪文(至気今至、願為大降、侍天主造化定、永世不忘万事知)を唱えて修養に励み、
>霊符を飲むことで天と人が一体となり、地上天国が実現することを説いた

関連?
白凌阿(Balingga)
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%87%8C%E9%98%BF
> 天涯孤独で、馬を売って生活していたが、1859年よりジョソト・アイマク(卓索図盟)と奉天の境界で反清活動を開始し、
>ホルチン王旗から財宝を奪い貧しい民衆に分け与えた。
>1861年1月、漢人の王達と連合して義州を占領したが、盛京将軍玉明の反撃にあって王達は捕えられ処刑された。
>その後、3月に白凌阿は漢人の李鳳奎・才宝善と連携して朝陽・赤峰を襲撃して役所を焼き、囚人を釈放した。
>しかし根拠地である朝陽郊外の鳳凰山を撤退するところを清軍に襲われ、李鳳奎は捕えられ処刑された。
>その後白凌阿は山林に入ってのゲリラ戦に戦術を転換し、ジェリム・アイマク(哲里木盟)から吉林省の境界にかけて活動し清軍をしばしば破った。
>しかし1868年、清軍とモンゴル王公軍に敗れ、捕えられ処刑された。

天地会
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E4%BC%9A
> 民の相互救済組織はやがて“反清復明”《清朝「女真族/満人」異民族支配を倒し明朝「漢民族」を復活させる》を主旨へと変わってゆく。
(職位) 正統系統の天地会すなわち洪門、正確な名称は、「洪門天地会」長房の組織内部の職位について、
>天地会の組織には棍(こん)、扇(さん)、鞋(がい)この三つの職位である。
>これを三花(さんか)三つの花と例えられている。
<「洪棍」(ほんこん)、元帥 
<「白扇」(ぱいさん)、文職軍師・宰相
<「草鞋」(そうがい)、文武職・将軍
<「四九」(しく)、一般会員 <「香主」(こうしゅ)、儀式を取り仕切る

90名無し同志:2024/04/21(日) 12:27:16 ID:Ga4SMZ.U
国内にせよ国外にせよ、だな

仏像ブームで盗難多発、対策は3Dプリンターで「お身代わり」
tps://www.yomiuri.co.jp/culture/20220611-OYT1T50280/?gaa_at=g&gaa_n=ARTJ-U-OfmmHD6Gm51vx5h42ZV-nDYu2x7SJP_2TX_Z8jAlEAOcEFxNe8b6uP8EGn8s%3D&gaa_ts=661c09de&utm_source=newsshowcase&utm_medium=discover&utm_campaign=CCwqGQgwKhAIACoHCAow19feCjDotNYBMIL8_wIwza6sAw&utm_content=related&gaa_sig=bwTQVmQcChWigsiBPoj_ELs77qfX8J6GbcWQqD3-c_Xmx_TakABGan-qok7s8TbwKXpzzdeLUp-LjC4a1Zbr7g%3D%3D
> オーストラリアの弁護士で、刀愛好家のイアン・ブルックスさん(66)は
>2018年にネットのオークションで、��一口(ひとふり)��の日本刀を購入した。
>出来ばえの良さから相当な名品であると考え、刃の長さや��鐔(つば)��に彫られた銘や図柄などを調査した結果、
>鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)の所有で、戦前に国宝に指定された刀の可能性が高いと判明した。
> 戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は武装解除のため火器や刀剣の提出を命じた。
>鎌倉時代の刀工・則重の作とみられ、江戸時代に薩摩藩主が鹿児島神宮に奉納した名刀も戦後の混乱期に流出したと考えられる。
(中略) 対策が急務となる中、和歌山県広川町では地域住民と文化財担当者が協力し、
>仏像の写真撮影を行い、データベース化してきた。
>盗難に遭った場合でも、所有者の元に戻るためには、証拠となる写真が欠かせない。
(お身代わり仏像) 地元の高校・大学生が関わり、これまで32体が完成している。
>通常より製作費も安くでき、次世代に文化財の重要性を伝える点でも意義深い“和歌山モデル”には、他県からも問い合わせが多いという。

関連
アイヌのお守り カムイニポポ
tps://www.mingei-ezorisu.com/shop/?p=192
> 昔からニポポ人形といって、エカシ(酋長)、メノコ(女性)が対で並んでいる置物もありますが、
>表と裏をエカシ、メノコで彫った両面彫りのものを『カムイニポポ』といって民芸品のお守りとして彫られてきました。
>ひげを生やしている方が酋長(エカシ)、大きなタマサイというネックレスをし、
>口の周りに入れ墨をしている方が女性(メノコ)です。
>持っていると災難を身代わってくれるとも言われ、交通安全、無病息災のお守りです。

ウミテング
tps://churaumi.okinawa/sp/fishbook/00000442/
> 左右に大きく広がる胸ビレと、足のように動く腹ビレが特徴。
>海底を移動しながら、底生動物を捕食する。単独かペアで観察されることが多い。

うさぎ年だし白兎駅に行って狛兎を拝もう
tps://dailyportalz.jp/kiji/shirouzagi-station
> 子だくさんでぴょんぴょん飛び跳ねるうさぎは「繁栄」「豊穣」「飛翔」などの象徴とされ、縁起の良い干支と言われている。
<うさぎってどうしてもかわいくなっちゃうけど狛兎として威厳も出さなければという作り手の葛藤がみえる表情。

納殿(おさめどの)
tps://kotobank.jp/word/%E7%B4%8D%E6%AE%BF-1282924
>金銀、調度、衣服などの貴重品を納めておく所。納戸(なんど)。

91名無し同志:2024/04/28(日) 10:25:30 ID:UenK8rts
とりあえず概略を読む

司馬遼太郎の『空海の風景』に異議あり
tps://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/miyasaka/post-234.html
> この本が、空海を単に「素材」として選んで書いた純然たるフィクションとしての小説だったならば、
>そこにどれほど荒唐無稽なことが書かれていようと、問題にするつもりはない。
>むしろ胸のすくような無比の超人ぶりを講談風に描き出してくれていたら、拍手喝采を送るだけのことだった。
> しかし、大岡信が指摘しているように、この本は
>「伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いている」ことは確かであり、学術的成果もしっかり踏まえている。。
(中略) 空海に関して、このような評価を下した人がかつていただろうか。
>空海はずるくて「日本史上類のない大山師にちがいない」と。
> 満濃池修築が空海の自作自演であったという証拠はない。だが、百歩譲って仮に司馬の夢想する通りのことだったとしよう。
>つまり満濃池の修築を願う地元民の声を代弁して、空海自身が誰かの名前で朝廷に嘆願し、結局は空海が出向くことになった。
>そうだとしても、一番喜んだのは讃岐の地元民たちであった。それは空海にとっては当然の衆生済度の実践であった。
> 満濃池の修築に関して、空海はその天才をいかんなく発揮した。
>現代の土木工学の観点からしても驚嘆すべき技法を駆使して満濃池を修築した。
>しかし、その大事業の達成をもって、空海は偉大な天才だったと、司馬は認めているのではない。
>自作自演をした「日本史上類のない大山師」であったというところに、空海の天才を認めているのである。
>古今まれにみる信じがたい評価(?)である。そうまでいわれても、弘法大師空海を祖と仰ぐわれわれ真言末徒は、この小説家に賛辞を送るのだろうか。
(中略) 司馬は色情にこだわりすぎている。
>『三教指帰』のモチーフを、司馬は色情に歪曲している。前代未聞の解釈である。
(中略) 結論として言えば、『空海の風景』はよく文献を調べて書いているものの、司馬の本にしては駄作と断ぜざるをえない。
>この駄作に与えられた芸術院恩賜賞とは何だろう。

オマケ
お茶の間で流すのか?厳しすぎる描写に悲鳴【どうする家康】
tps://www.lmaga.jp/news/2023/02/610486/#google_vignette
> 「三河一向一揆」の実態が、嫌というほど克明に描かれた第8回。
>「なんでここまで家臣たちが裏切るの?」と思われそうだけど、「一向宗を信じて、死後は阿弥陀様に救われる」というのは、
>今でいうと「定年退職後、子や孫に囲まれて安定した老後を送る」といった理想の未来予想図。
>つまりは「仕事を取るか、家庭を取るか」ぐらい厳しい選択だったのだ。
>しかも肝心の「仕事」=家康はどうも頼りない、と来れば「家庭」を取るのは当然と言えるだろう。

非人について〜その⑭ 京の声聞師たち・中世のカルト教団「彼の法(かのほう)」集団
tps://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/10/03/122145
> この「彼の法」集団は13世紀前半に成立した教団で、密教本流から分派したというよりは、
>田舎の民間信仰をベースに真言密教を聞きかじった者が、その教えをミックスさせたもののようだ。
>荼枳尼天(だきにてん)を祭り、人間の頭蓋骨を細工した「髑髏本尊」の前で性的な儀式を行うという、
>まるで漫画に出てきそうな「カルトの極み」集団である。
(中略) どうも「彼の法」の本尊に使用する髑髏は、高貴な身分の者のそれであるほど霊験あらかたである、
>という設定だったらしく、それを欲した者の犯行だったようだ。
>同年同日の「民経記」には「世間には髑髏の儀式を行う僧侶で溢れかえっている」とまで記している。
>こんな騒動が起きるほど、「彼の法」は一時相当に流行っていたのだ。
<声聞師集団 <通夜参詣の術

92名無し同志:2024/05/04(土) 15:00:44 ID:fDS6iw/s
お坊さんの造形物その他を見る

大橋コレクション 斎藤真成(僧侶、洋画家)
tps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/95180
左から三番目の鍬を持ったり農家?が素敵

広目天は情報の神
tp://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/virupaksa.html
> 四天王はすべて甲冑で身を固め、岩の上に立つか、 もしくは邪鬼を踏んで立ち、
>それぞれに剣や鉾、槍、棒などの武器を持っている。 ところが、これらのうち、西方守護の広目天だけは違っている。
>> 武器は持たず、右手に筆、左手に巻物 (巻子) を持つ。
>有名な東大寺戒壇院の四天王像では、広目天は目を細め、厳しく眉根を寄せ、
> 遙かなる草原の彼方の遠方を窺うかのように凝視している。
> 広目天は梵語では 「ビルバクシャ」。
>> 直訳すると 「通常ならざる目を持つ者」 となるそうだが、その意味は千里の遠くをも見通す者と云うことだろう。

【開幕】「仏具の世界 信仰と美のかたち」根津美術館で3月31日まで 仏具のイメージが変わる?!
tps://artexhibition.jp/topics/news/20230217-AEJ1250094/
<仏を荘厳する
> 荘厳するとは、仏像や寺院を美しく厳かに飾ることです。
>こちらのお経は金で書かれているだけでなく、
>>巻物の軸や巻物を納める道具(経帙(きょうちつ))も美しく飾られています。
<華籠(けこ)
>法会の散華さんげの時に使う花を入れる器です。
<宝相華銀平文袈裟箱
<幡(寺院を荘厳する法具)

丹波の茶道具 茶の湯を彩る兵庫のやきもの
tps://www.mcart.jp/exhibition/e3404/
> 水指や花入、茶入や茶碗など、趣向を凝らした茶陶とともに、茶葉を入れる耳付の壺が数多く生み出されました。
> 丹波の茶道具には、工具で素朴な文様を施したものや端正な形状のもの、
>別の素材で作られた茶道具の姿形を写したものなど、当時の流行や茶人の好みが反映されています。
>また、暮らしの中で用いる壺や桶が茶の湯に適した道具として茶人に取り上げられ、茶道具に見立てられたものもあります。

十一面千手千眼観音菩薩(サハスラブジャ) - 36cm
tps://www.tirakita.com/ti_rsdl/ti_rsdl_1524.shtml
> ある経典では蓮華王ともされ、究極の観音として信仰されている菩薩です。
>無数の眼により苦しむものをくまなく見守り、無数の手により地獄の亡者すら救済するという極めて大きな慈悲を表します。
>柔らかでありながら透徹した眼差しはすべてを見透かすようです。

おまけ
監視カメラ社会・日本で、なぜか宗教施設では設置が進まない…これから仏像盗難が確実に増えるワケ
tps://president.jp/articles/-/68437
> 一度だけではなく、繰り返し盗難に遭っている寺もある。
>聖徳太子の発願によって開かれたと伝わる鶴林寺(兵庫県加古川市)は国宝2件、
>重要文化財18件という国内有数の文化財保有寺院であり、「西の法隆寺」とも呼ばれる。
>しかし、寺の歴史は、文化財盗難の歴史でもあった。
<なで仏(内陣(仏殿の中にあり、儀式をする中核の場所)から出して祀り、参拝者が患部と同じ場所をなでる)
(盗まれやすい条件)
>① 遠くからお堂や神社が確認できる
>② 看板や地図でお堂が認知されやすい
>③ 車でそばまで入ることができる
>④ 進入路が人目に触れず、身を隠せる死角がある
>⑤ 無住である

93名無し同志:2024/05/04(土) 15:14:15 ID:fDS6iw/s
ムックダーハーン : 瓔珞(ようらく、ハーラ、ケーユーラ、仏像の首飾りや胸飾り)

髑髏や蛇をモチーフにすることもあるのだと

94名無し同志:2024/05/23(木) 19:19:21 ID:PLe9j0Cg
人には娯楽や信仰心が欠かせないらしい

大鹿歌舞伎
tp://www.vill.ooshika.nagano.jp/2017/12/01/%e5%a4%a7%e9%b9%bf%e6%ad%8c%e8%88%9e%e4%bc%8e/
> 全国各地の地芝居を伝える村の中でも、大鹿村はその舞台の数の多さで抜きんでています。
>かつて、小さな集落の氏神の祭りに、わずかな戸数の集落だけで歌舞伎を上演できたといわれています。
>多くの人が歌舞伎を演じ、浄瑠璃を語ったこの村では、幕末から明治にかけて村内に点在する神社やお堂の境内13カ所に
>芝居専用の舞台が、神社の前宮などの名で建てられたという記録があり、現在は7つの舞台が残っています。
> 近年、春と秋の定期公演でもっぱら使用されているのは、大磧神社の舞台(下市場)と市場神社の舞台(塩河)の2つです。
>>いずれも間口六間・奥行き四間の舞台で、回り舞台があり、上手に太夫座が付設されています。
>耕地の少ない急峻な山々に囲まれたわずかな平地に生きる村人は、食を切り詰めてまで歌舞伎のための舞台を建立してきました。
>当時わずか数十戸の集落にこんなににも舞台が造られたのは驚きです。
>今も残るこの舞台には、大鹿村の人々の心意気と底知れないエネルギーが受け継がれています。

関連?
旅 710 東筑摩郡の一部を訪ねる(3)
tps://0743sh0927sh.seesaa.net/article/201710article_16.html
> 天永3年(1112)福満寺住職真海法印の代には、
>聖山の中腹(現在の寺所・てらどこ)の壮大な本堂を中心にして、七堂伽藍が整い、
>東谷六房・西谷六房の12が甍を競って全盛を極めたといわれています。
>今は、薬師の蓮池、鐘搗堂、小庫裡、坊平、西大門、東大門、半在家、十王堂、などの地名にその名残をとどめています。
(中略) 福満寺は創建当時から天台密教の寺であり鎮護国家・五穀豊穣・除災招福を祈る祈祷寺であり、
>>檀家を持たないため地域の人々によって守り続けられてきた寺である。
>現在も上井堀区百十戸村持ちの寺として維持されている。
>この寺は平安初期に開基され、鎌倉・室町・江戸とそれぞれの時代に造顕された
>多くの仏像を安置しており、国指定重要文化財5体をはじめ40数体を数える。
<蕎麦塚 <炭焼小屋 <アミターバ(無量光仏)

多田三八郎の妖怪退治 上田市虚空蔵山のクハジャ他一編
tps://japan-bunka.com/tadasannpati-kasya-2001/
(火車鬼) 肝取り(きもとり)、クワシャ、テンマル他多数の呼び名もあり、文中の長野県南佐久郡ではキャシャと呼ばれると聞く。
>火車とは葬式や墓場から死体を奪う妖怪とされ、平安期の火に包まれた牛車の姿は多くの人が思い描けると思う。
>時代は下り江戸期になると猫又がその正体とされ、鳥山石燕『画図百鬼夜行』などにも描かれている。
>全国各地には火車から亡骸を守る風習(火車除けの呪い、楽器を使う、棺桶に髪剃を置く他多数)
>が数多く残っていることを考えても、かなり身近で気を使うべき妖怪だったことが窺い知れる。

おまけ
タイで大ブームの日本の“ある食べ物”とは?「意外」「え、知らなかった」
tps://www.kurashiru.com/articles/973bf53c-9c4a-40a9-b118-3c54a10f9449
> タイでは最近、日本の焼き芋がおいしいと大ブームなんだとか。
>私たちにとっては「いつものおやつ」的な存在の「焼き芋」がタイでそんなに人気を博しているなんて、なんだかうれしいですよね。

95名無し同志:2024/05/26(日) 12:38:36 ID:84xV2FC2
さてカルムイキアの明日は何処へ…?

〜メルマガ「ロシア政治経済ジャーナル」配信10周年記念!国際関係アナリスト北野幸伯独占インタビュー〜
tps://rpejournal.com/kitanonokoe.html
> 大学卒業の1996年に大統領の面接を受けたんですが、
>「君はどんなことがしたいんだ?」と尋ねられて、3つプレゼンしました。
> 1つ目は、日本から最新の農業技術を持ってきて、カルムイク共和国を農業大国にすること。
>どういうことかと言うと、砂漠化が大変深刻な問題となっているカルムィキヤ自治共和国の土地を有効利用するため、
>日本の農業技術を導入し、普及しようという提案です。
> 2つ目は、観光資源としてチベット仏教を発展させ、日本の仏教界と結びつけることで仏教を大復興させること。
>カルムィキヤ自治共和国は、ヨーロッパでは珍しくチベット仏教の国なんです。
>まわりはほぼロシア正教とイスラム教なのですが、ここだけチベット仏教国なんです。
>チベット仏教は非常にお寺も美しいですし、外国人にとってエキゾチックな魅力がありますから、
>観光資源として、チベット仏教を発展させたらよいのではと思い提案しました。
>>ロシア人のヒッピーなんかも、ここへ修行に来るんじゃないかなって(笑)。
>ただ、基本的にカルムィキヤ共和国の仏教は、ソ連時代にたくさん破壊されてしまったので、
>それならば日本の仏教界を結びつけることで大復興させられたらと思いました。
> 3つ目は、日本企業を山のように呼び込んで投資させること。これはまあ、月並みですが(苦笑)。
>このような3つのプレゼンをしたところ、大統領が感動して「ぜひともやってください」と。
(中略)
>いちのへ:北野さんはご一緒にチェスをされたりは?
>北野:いえいえ。私は将棋です(笑)
<TV映画『イサエフ』

おまけ
紅燈祭(赤燈籠)
tp://www.athenee.net/culturalcenter/database/title/title_k/ko/redlantem.html
> ナジモヴァが混血娘マー・リーと白人令嬢ブランシュの二役を演じる。
>19世紀末の北京、マー・リーは外国人排斥を叫ぶ義和団に参加。
>混血の医学生サム・ワンは紅燈祭の夜、彼女を女神に仕立て、迷信深い民衆を扇動する。

チャクリー改革
tps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E6%94%B9%E9%9D%A9
> ラーマ5世による教育制度の拡充は、国家を近代化するにあたり、近代国家にふさわしい人材を育成することは必須であった。
>まずは王室専用の学校の拡充、義務教育の導入である。また、王室師弟の留学を促進した。
>この風習は現在でも続いていて、タイ社会では中流階級以上の子弟が海外に留学するのは
>一種のファッションとなっており、現在の官僚はほとんどが海外留学経験者となっている。
<『ダルノーワート』(タイで初の新聞)
<「チャオムアン」とよばれた一種の知事
<「タート」「プライ」という一種の奴隷

軌道エレベーター建設予定地で最高の墓参りをしてきた話(スリランカ/シーギリヤ・ロック)
tps://wivern.exblog.jp/26378743/
<アーサー・C・クラークのSF小説『楽園の泉』
> 「ヤッカガラ(『楽園の泉』に於けるシギリヤ・ロックの名前)」
>はあまりにあっけなく姿を現したが、その威容は心を震わせるに充分なものだった。
>ひたすらに孤独で、屹立しており、ここに宮殿を作った王のカッサパ1世の臆病な心がそのまま残っているかのようだった。
> 土塁と掘割と、多数の遺構に囲まれたシギリヤ・ロックの裾野を歩く。
>近づいてくる岩は小さいようで大きく、大きいようで小さい。
>高さは東京で見る高層ビルと大差ないのだが、ひたすらに幅と奥行きがあるため、体積はその何十倍にも及ぶ。
(中略) 軌道エレベーターの地上駅となる「スリパーダ(=アダムス・ピーク)」はシギリヤから見ることはできないほど遠いが、
>もし軌道エレベーターが宇宙へと伸びれば、それはこの山頂からも一条の筋として眺めることができるだろう。

96名無し同志:2024/05/26(日) 12:46:47 ID:84xV2FC2
続き

北海道の建築めぐり/おすすめ有名建築一覧【5選】!
tp://jpn-architecture.com/recommended/trip/best-hokkaido#google_vignette
<真駒内滝野霊園頭大仏
> 霊園は札幌郊外の高台に位置した自然豊かな場所となっており、霊園の総面積は180haと、道内最大規模の墓地となっています。
>園内には他にもモアイ像やストーンサークルなど多くの石造モニュメントが点在しており、親しみのある霊園となっています。
> その中でも高さ13.5m、総重量1,500の大仏は2001年に造成されましたが、
>当初は平地に鎮座しているのみで、今ほど注目度は高くはありませんでした。
>そこで安藤忠雄氏の構想により、
>>大仏を上底の直径13.72m、下底の直径27m、高さ10.55mの円錐台形状のコンクリートで囲み、さらにその周りに土を被せました。
>結果、丘のてっぺんから2.95m上に顔を出した「頭大仏」となり、今では世界中からも多くの礼拝者が訪れます。

岩手県 歴史短訪
⑥平泉文化と毛越寺
tps://eritokyo.jp/independent/aoyama-touhoku10121..html
> 非常に残念なことだが、毛越寺では嘉禄2年(1226)、天正元年(1573)、慶長2年(1597)に起きた
>三度の火災で伽藍は焼失、藤原三代の滅亡とともに毛越寺のたくさんの伽藍も消えていった。
> しかし、平安時代を代表する浄土式庭園、往事の平泉文化を表す毛越寺の庭園は、今なお平泉の地に残されている。
>東西に長い大泉池、南東に出島、また金堂、開山堂、嘉祥寺、講堂、金堂円隆寺、鐘楼、経楼、常行堂、常行堂、法華堂は、
>それぞれの礎石が残されており、見ることが出来る。

奈良ホテルの歴史
tps://www.narahotel.co.jp/about/history/
> 明治39年、西村は眺望に恵まれた高畑町飛鳥山を坪1円で買収し、
>翌年の明治40年に都ホテルなど4ホテルを統合した大日本ホテル株式会社を設立しました。
>奈良ホテルの建設は鉄道院がおこない、鹿鳴館の建設費用の約2倍である35万円がかけられました。
>「建物新築に際しては、古建築との調和を保持すべし」との県議会決議に従い和洋折衷様式を採用、
>周囲の景観との調和した見事な建物ができあがりました。
(中略) 国営で利潤に追われることがなく、
>宿泊客は「高等官以上又は資本金一定額以上の会社の重役」の原則が厳格に守られ、
>空室が沢山あっても満室とお断りすることがよくあったといいます。
>従業員の待遇は、当時18歳の女子客室係の給与が32歳の住友金属に勤める兄の給与と同額だったそうです。
>良家の子女が行儀見習として勤める例が多かったようです。
(中略) 米軍接収期間中、米兵の管理は厳格になされていたようで、奈良ホテルは明るく健康的な所だったといいます。
>従業員達は、米兵の残り物とはいえ、ちゃんとした食事ができ、給与も世間一般よりは良かったようです。
>米軍スタッフも日本人従業員に気遣って催しを開いたりしていたそうで、
>当時若かった従業員達の多くは、楽しかった時代としてその頃を回想します。

古城山ミニ大桑城
tps://www.its-mo.com/poi/KNK_ZPOI-00000000000002912114/

97名無し同志:2024/06/08(土) 10:17:21 ID:CLHMz9MU
チャンパーサック王国の日本語wikiに載ってる超能力僧オン・サー、少なくとも英語ラオ語の記事にはいないっぽい…(黒歴史?)

98名無し同志:2024/06/10(月) 00:49:34 ID:ZcHp8CpY
人はあらゆるところで暮らそうとする、そのうち宇宙でも

「断崖村」が歩んできた貧困脱却の道
tp://j.people.com.cn/n3/2020/1207/c94475-9796464.html
<昭覚県支爾莫郷阿土列爾(アトゥラール)村
> 2020年5月、「断崖村」の貧困世帯84世帯は、貧困者支援のために建設された住居に移転し、
>「階段のある団地」に住むようになった。
>村民らの移住は海外メディアの注目も集め、米CNNの記事は、「村民の雲と霧の中での生活は幕を閉じた」と伝えた。
> 新しい居住地となった昭覚県の中心地に近い場所にある南坪コミュニティは清潔で整然としていて、家も広々としていて明るい。
>そして、定期的に、文化活動やスポーツ活動が企画され、皆が楽しく暮らしている。
>その近くには幼稚園や学校、病院などの公共サービス施設もある。
>放課後、子供たちはつるや木で作られたはしごを登って家に帰る必要はなく、コミュニティの施設で友達と楽しく遊ぶことができる。
<断崖村宿

オマケ
熊に9年間も育てられ、人間性を失った…行方不明ののち発見された子どもが語った「人さらい熊」の真実
tps://president.jp/articles/-/66519
> ある日、二ッ岩というところで女性が畑仕事をしていた。
>そこに子供の泣き声が聞こえ、驚いて行ってみると、熊が女性の子どもをさらっていくところだった。
>母親は驚いたが、死に物狂いで熊の後を追い、崖を登って熊に追い付いた。
>熊は女性の執念に圧倒されたのか、子供を放し、山林の中に姿を消した。
>子供にはカスリ傷ひとつなかったという。
>(『北の語り 第二号』北海道口承文芸研究会の「羆見聞記 網走在住 小笠原勇氏」をもとに作成)
<「大蛇に呑まれたのではなかろうか」とか、「頭は赤く首から下肢は真っ黒な老狐に連れて行かれたのだ」など

氷上の大移動 〜チベット 天空の村〜
tps://www.nhk.jp/p/ts/NY2Y5ZJZ5Q/
>▼チベットのツイ村は標高5070m。過酷な環境のため平均寿命は45歳。村人は500年の間、羊の放牧を営んできた
>▼村には樹木が生えず、冬にはわずかな草もなくなる。草が残るのは、村から5キロ離れた湖の島だけ。通称「神が住む島」。
>▼2月、氷点下20度になると、湖は氷に覆われ突風が吹き荒れる。
>村人は生き抜くため、2千頭の羊を島に大移動させ、放牧する。
>今回は予想外のトラブルが相次ぎ、追い詰められるが・・・。

99名無し同志:2024/09/14(土) 20:36:57 ID:SgSs9x7M
露助(タンヌ…)wikiを漁る

トゥヴァ共和国国立博物館(アルダン・マーディル)
tps://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%9D%D0%B0%D1%86%D0%B8%D0%BE%D0%BD%D0%B0%D0%BB%D1%8C%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D0%BC%D1%83%D0%B7%D0%B5%D0%B9_%D0%A0%D0%B5%D1%81%D0%BF%D1%83%D0%B1%D0%BB%D0%B8%D0%BA%D0%B8_%D0%A2%D1%8B%D0%B2%D0%B0
> 1997年11月、当博物館の展覧会「アジア中心部におけるチュルク語を話す人々のシャーマニズム」が
>アントワープ(ベルギー)で開幕し、その後(1998年)ウィーン(オーストリア)とブレーメン(ドイツ)でも展示されました。
> 2016年9月、ブリヤート共和国国立博物館(ウラン・ウデ)で展覧会「スキタイとシベリアの動物様式の世界:文化の対話」が、
>トランスバイカリア島(ウランウデ)の人民民族博物館で「ナディア・ルシェワのグラフィックス」が開催された。
<スキタイの金
(仏教のコレクション) 釈迦牟尼仏の(大きな)小像の中に長年隠されていた謎が解けたことはセンセーションを巻き起こした。
>修復作業の結果、彫像の頭部から 36 点の仏教遺物が発見され、その独特の価値と神聖さに誰もが驚きました。
>これらの遺物の年齢は約1000年前のもので、包まれていた紙によって特定された。

トゥヴァの政治弾圧歴史博物館(アルダン・マディール別館)
tps://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D1%83%D0%B7%D0%B5%D0%B9_%D0%B8%D1%81%D1%82%D0%BE%D1%80%D0%B8%D0%B8_%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D1%82%D0%B8%D1%87%D0%B5%D1%81%D0%BA%D0%B8%D1%85_%D1%80%D0%B5%D0%BF%D1%80%D0%B5%D1%81%D1%81%D0%B8%D0%B9_%D0%B2_%D0%A2%D1%83%D0%B2%D0%B5
<トゥヴァの政治的弾圧の犠牲者を追悼する記念碑「征服されざる者」著者 - 同志オンダール
> 1930 年代にNKVD��TNR(トゥバ人民共和国)の特別司令官のオフィスがあった建物を利用しています。
>ここで、TNRの指導者に対する捜査が行われた。囚人たちは建物の地下室に監禁されていました。
>この建物は、さまざまな時代にさまざまな目的で使用されました。
>たとえば、ソ連時代には新聞「ティヴァニン・アニヤクタリ」の編集局の建物でした。
>1994 年以来、政治弾圧博物館のために特別に修復されています。

Sat Churmit-Tazhy Sany-Shiri-oglu
tps://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%A7%D1%83%D1%80%D0%BC%D0%B8%D1%82-%D0%94%D0%B0%D0%B6%D1%8B,_%D0%A1%D0%B0%D1%82
> 領主の息子。彼の父親は高官でした。マイダ=ロブンの祖父はラマ僧であり、ニジネ=チャダンスキー僧院の建設に参加した。
>チュルミット・タジィはモンゴルのオルガン・ウーレット僧院で仏教教育を受けました。
>彼は古いモンゴル語とチベット語の文字をよく知っていました。
>革命前のトゥヴァでは最も教育を受けた人物の一人であった。
> 1921 年 8 月以来、彼はズン・ケムチク・コズン(17ある地方自治体の一)の管理に積極的に参加しました。
>彼はヴェルクネ・チャダン僧院のラマ僧でした。
(中略) 彼はアラットの大衆の宗教的感情と信仰の根絶、修道院の破壊と破壊に反対した。
> 1936年、彼はトゥヴァにあるそれまで閉鎖されていた4つの仏教寺院を開く許可を与えた。
>演説の中で彼は、トゥヴァの経済の基礎は牛の繁殖であると述べた。
<チャダン : 低く成長する藪

モンゴリア関連も
シチェティンキン、ピョートル・エフィモヴィッチ
tps://ru.m.wikipedia.org/wiki/%D0%A9%D0%B5%D1%82%D0%B8%D0%BD%D0%BA%D0%B8%D0%BD,_%D0%9F%D1%91%D1%82%D1%80_%D0%95%D1%84%D0%B8%D0%BC%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87
> 1921年3月から、スフバートルの要請とV.I.レーニンの指示で革命モンゴルを支援するために派遣された赤軍遠征軍団の一員として、
> 1921年5月から8月にかけてR.F.ウンゲルン=シュテルンベルク中尉
>(モンゴル人民共和国政府より「鉄のバティール(железный батыр)」の名誉称号を授与された)将軍のアジア師団との戦いに参加した。
>1921年8月19日、赤軍第35騎兵連隊の一部であるシチェティンキン指揮下の分遣隊がウンゲルンを捕らえ、
>モンゴルの王子ビシェレルトゥ・グンの捕虜となった。
> 1971年、スヴェルドロフスク映画スタジオは長編映画「遊牧戦線」を制作し、その主人公の1人がP.E.シチェティンキンでした。
>シチェティンキンの役はピョートル・グレボフが演じた。
<Хатан-Батор : ハタン・バートル(皇妃の勇者)

100名無し同志:2024/09/14(土) 21:03:55 ID:SgSs9x7M
パトローナムかな

モンゴルでトナカイに乗ってクランベリーを摘もう。
〜モンゴル武者修行ツアー・上級編〜
tps://www.monosus.co.jp/posts/2018/08/150000.html
> まずは首都ウランバートルからフブスグル県の街、ムルンへ。ここまでは飛行機で向かいます。約1時間半。
>ムルン空港は冬は閉鎖されていたそうですが、最近冬も飛行機が飛ぶようになったそうです。
> 夜明け前についたツァガンノール(白い湖)は、名前の通り湖のほとりにある集落です。
>ここでホーショルをいただいたのですが、これがいつもモンゴルで食べていた肉のホーショルではなく
>魚!そしてキノコが入っています。初めて食べたのですが、間違いなく今まで食べたホーショルの中で一番のおいしさでした。
>湖のそばだからこそ食べられる味です。
(タイガ) あまり大きくは育ちませんが細い針葉樹が所狭しと生えています。駆け足をしているとあやうく串刺しになりそうに。
> 馬は自分の頭の高さで障害物を判断するので、自分が木に突っ込まないようにするには先を見て早めに馬を操らなければなりません。
>小さな川もいくつか渡ります。山の中では速く走るよりもいかにうまく馬を操れるかが面白いところでです。
<オルツと呼ばれる住居(テントのようなもの)が点在する遊牧民の秋営地
> ゲルよりもかなり簡素な作りで、木枠を布で覆っているだけです。
>ゲルは分厚いフェルトでおおわれているのに、寒さの厳しいタイガでは布だけなのが不思議です。
>寒い時期は着込んで薪を燃やし続けているそうです。
(長老の家) 小さく見えますが、中に入ると意外と広いのです。
>外にはソーラーパネル、中に薪ストーブがあるのはゲル生活と同じ。
>食料に持ってきた羊肉の塊は、あっという間に切り分けられオルツの中にぶら下げられ干し肉にされました。
(トナカイのミルク) とてもまったりとしていて濃いのですが後味は何か植物的な香りがしてさっぱりです。
>今まで飲んだミルクの中で一番おいしい!当然ミルクでつくるスーテーツァイ(乳茶)もおいしい。
>オルツに戻って座るたびに飲んでいました。
>ちなみに、トナカイの好きな苔は人間には高血圧の薬になるそうです。
>食べてみたのですがトナカイミルクの後味はこの苔の香りと似ている気がしました。
<トナカイを誘導するのに岩塩が使われています。
(狼) 現在は保護されていて狩れないため、数が増えてトナカイが襲われてしまうとか。
>そのためたくさんの犬たちが狼たちからトナカイを守っています。
>昼間はだらっとしていますが、夜には活躍しているはず。
>狼の気配を感じると一斉に吠えるそうです。そういえば夜中に騒いでいたな…。
<41の川から一つずつ取ってきた41の石 <羊、トナカイ、熊の肩甲骨で占うト骨占い
バグ(村)<ソム(郡)<アイマク(県)

オマケ
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない
tps://www.minnano-jouba.com/blog/word/%E9%A6%AC%E3%82%92%E6%B0%B4%E8%BE%BA%E3%81%AB%E9%80%A3%E3%82%8C%E3%81%A6%E8%A1%8C%E3%81%8F%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%82%82%E3%80%81%E6%B0%B4%E3%82%92%E9%A3%B2%E3%81%BE.html
> 馬が水を飲むかどうかは馬次第なので、人は他人に対して機会を与えることはできるが、
>それを実行するかどうかは本人のやる気次第であるという意味ですね。

「水を飲まなくても…」モンゴル研究者が『VIVANT』に指摘したい“あるシーン”とは
https://bunshun.jp/articles/-/65667?page=3
> アドとは、モンゴル語で「悪魔」を意味する。悪魔の砂漠である。
>この砂漠は、バルカ共和国の南東部に広がっている、という設定だ。
>しかし実際にはこのあたりに砂漠はなく、3000〜4000メートル級の山々が連なる。モンゴル・アルタイ山脈である。
<ゴビ砂漠に位置するバヤンザグの「炎の崖」
(中略) ただし一点だけ指摘しておくと、ラクダは2週間ほど水を飲まずとも生きていられる。
>第3話で、乃木を乗せたラクダが疲れて動かなくなってしまうシーンがあったが、
>長さ200kmほどの小さなアド砂漠で倒れることはないかと思われる。
<匈奴(フンヌ)デール
(カザフ人の服装) 一般的にチャパンと呼ばれる刺繍入りの黒いコートをまとい、タキヤと呼ばれる平たい円筒形の帽子を被るのである。
>カザフ人女性も顔を覆い隠すことはしない。

101名無し同志:2024/12/06(金) 00:24:17 ID:AMt80Gt2
城の中に寺社仏閣を建てるのはよくあるけど、寺の中に宮殿て立つんだな

21世紀に作られたロシアの息をのむような建造物10選
tps://jp.rbth.com/travel/88955-21-seiki-ni-tukurareta-kenzoubutu
> 2002年、重要な遺物がダツァンに収められた。
>これは1927年に結跏趺坐の姿勢で瞑想し、仏教の教えに従って涅槃に入ったラマ・ダシ=ドルジョ・イチゲロフの不朽の遺体である。
>彼の遺体は今日まで結跏趺坐の姿勢で座っており、2008年にダツァンに彼のために別の神聖な家、
>つまりハンボ=ラマ・イチゲロフ宮殿が建てられた。

102名無し同志:2024/12/24(火) 21:29:14 ID:AI4qIro.
シベリア式茶道の一期一会
tps://jp.rbth.com/travel/2015/06/19/53321
> ガラス製のティーポットの底にタイムの細かい紫色の花を振り入れ、
>乾燥したメリッサの葉とスグリの葉を入れて、
>最後に高山植物サガン・ダリ(カラフトミヤマツツジ)の葉を少し加える、というのが私流。
>キッチンは5分後、タイガ、山、シベリアのベリーの繊細で豊潤な香りに満たされる。
> サガン・ダリとは、サヤン山脈の標高の高い場所、チベット、ブリヤート共和国の丘陵地帯で育つ低木で、
>滋養強壮効果がある。
>チベット人はサガン・ダリの葉について「寿命を延ばすハーブ」と語っていた。
(スッツグ・シャイ) 板状の緑茶を冷たい水に浸し、そのまま沸騰させ、ラクダや羊の乳(これが最高とされる)を追加する。
>そして大きなスプーンで乳の入った茶をすくい、高い位置から叩きこむように戻しながらかき混ぜていく。
>再び沸騰したら、塩を加える。溶かしたバターや脂肪の多い羊尾を入れることもある。
>塩と乳の入った茶はお椀に注ぐ。
<かじり茶

天然酵母のクラッカー
tps://shop.bourbon.jp/products/detail/HE-35342-C
> 自然界に生きる野生の酵母と植物性の乳酸菌を大切に育ててつくった天然酵母種を使用し、
>じっくり発酵させて焼きあげたクラッカーです。

カナリア諸島のコーヒー事情2 バラキート
tps://canary-stay.blogspot.com/2016/12/blog-post.html?m=1
> テネリフェ島とラ・パルマ島だけのオリジナルコーヒー。
>不思議なことに、カナリア諸島の他の島々では飲むことができません。 
>以前グラン・カナリア島に行ったときにバルで「バラキートを!」と頼んだところ
>「それは何?」と聞かれてびっくりしました。
(中略) 「バラキート」と頼むと「コン・トド?(con todo)全部入れて?」とたまに聞かれることもあります。
>普通のバラキート?それともリキュールなどの全部入り?という意味ですね。

これはバリキャリ女性にはきつい…スープストックの「離乳食無料提供」が炎上した一番の原因
tps://president.jp/articles/-/69867
> 私も個人的にスープストックを使うときは、駅の乗り換え時か、子どもの塾の帰りを待つなどのすきま時間、
>疲れ果ててファミレスにすら行く気力のないときであり、何よりも理由は駅に近い、駅中にあるという立地による。
>さらに料理が健康的で、なによりも一人客が多く静かですいており、疲れないというのが付加的な魅力だった。
>少なくとも、友達と誘い合わせていくような使い方はしたことがない。
>徹底的に女性の一人客が目立つ静かなお店、というイメージがある。
(中略) 広めの店舗の場合は、家族向けの居心地のいい空間を新たに作るといった工夫をすることも、可能だったかもしれない。
>そうしたことをせずに、いきなり、これまでの顧客にそっぽを向いたように思われるような施策を取ることは、得策ではなかっただろう。

103名無し同志:2025/02/16(日) 11:10:00 ID:RQEp5PI2
"『古代中国』夫婦の寝室に侍女がいた理由とは?〜ただの世話係じゃなかった" tps://l.smartnews.com/m-iTTHm1P/SZ1yB1
> 中国の古い建築様式では、冬の冷え込みが厳しく、夏は蒸し暑さが厳しかった。
>そのため、寒い季節には暖を用意し、主人が目を覚ますたびに布団を整え、
>暑い季節には扇を使って寝室の空気を入れ替えるなど、快適な環境を維持することが求められた。
>また、夜中にのどが渇いたときの飲み水を用意したり、体調が優れない場合には薬を取りに行ったりすることもあった。
> また、盗賊や火事などの突発的な危険に備え、侍女は常に主人の近くで待機し、
>異変があればすぐに知らせる役割も果たしていた。
>主人の気まぐれによる呼び出しも多かった。
>特に貴族や富裕層の家庭では、夜中に読書をしたり、談話をしたりするために侍女を呼び出すこともあった。
<通房�葵鬟(つうぼうようはん)
> 古代中国の儒教社会では家族の秩序を重んじ、「家の中で満足させれば外に出て行かない」という風潮があり、
>正妻が信頼する侍女を夫に与えることもあった。
> 実際、中国四大名著の一つ『※紅楼夢(こうろうむ)』では、名門貴族の女性・王熙鳳(おう きほう)の侍女・平児(へいじ)が、
>夫の通房�葵鬟となり、夫婦の寝室に仕えていた。
>これは、正妻が夫の気を外に向けさせないための手段の一つだった。
> 中華民国時代(1912〜1949年)には、人身売買が法的に禁止されたものの、
>「養女」として引き取られた少女が実質的に侍女のように扱われるケースがあった。
>戦前の上海など都市部では、裕福な家庭が「妹仔(メイド)」を雇う習慣があり、旧来の主従関係は完全には消えていなかった。

アジアにおける乳房観 Part4
モンゴル文化と女性
〜モンゴル民族衣装の変容と下着観 〜
tps://www.wacoal.jp/nyubou-bunka/lecture/post-37.html
> モンゴルでは女性の社会的地位が高く、医者、弁護士、学校の先生の70%が女性であり、
>普段の日常生活は男性よりも女性の方が偉いことや家事に占めるお母さんの割合は21%と非常に低く、
>あとは全部子供が行うそうです。
>モンゴルでは1924年に社会主義国になる以前から女性の社会的地位が高く、社会主義によって女性解放が進み、
>社会進出がさらに進んだことが女性の社会的地位を高くしたのではないかという事でした。
> モンゴルの女性はスラッと手足が長く、メリハリのあるボディで、歩く姿や姿勢が美しく、欧米型の体型の人が多いこと、
>主な下着の販売店はザハと呼ばれる市場、ショッピングモール、デパート、オンラインショップであり、
>ザハは1000円程度で購入できるが試着室もなく、物もあまり良くないこと、
>ショッピングモールやデパートは物も良く2000〜4000円程度で売られているそうです。
> 5社のメーカーのデザイナーにインタビューされた結果、伝統的なデールを維持しつつ、
>洋風のスタイルとミックスしたり、一見ドレスのような中にデール風の襟をデザインしたり、
>洋服のシャツとスカートのように上下に分離したデールや日本風の和柄の布を使ったデールなど、デールが洋服化しているそうです。
>中にはコスプレ的なものもあり、はたしてデールといえるのか感じるものもあるそうですが、
>洋服であろうとコスプレであろうと、ワンポイントの民族的シンボルを入れさせえすればデールだと主張しているそうです。

ソフロロジー式分娩法
tps://www.ishiguro.or.jp/diagnosis/obstetrics/sophrology/
> ソフロロジーはインドのヨガや日本の禅に源流を発し、すべてをあるがままに、
>しかも前向きに受け入れるという東洋的発想に、西洋で用いられているリラックス法が結びつけられており、
>分娩時の苦痛だけでなく、産褥期や母乳育児に関するトラブルなど、人生の苦局に立たされたときに応用できる幅広い方法です。
>つまり、人生において難問や不慮の出来事に直面した際、いかによく心身をコントロールするかを教える、
>いわば苦しみを喜びに変える処方せんとでもいえるものです。
> “私は、生命の運搬人”と考えましょう。
>この気持ちによって陣痛の痛みを受け止め、乗り越えられる「超痛分娩」とも言われます。

104名無し同志:2025/05/06(火) 12:28:46 ID:FEx8/8FQ
極楽寺(鳴門市) 日照山 抱き地蔵
ターメリック 土臭さ
インドのダバ(食堂) 座敷席
トゥバ料理 ブーズ ホーメイ酒 アルキ ホブズ
宇宙テント ライフ1.0 重量
チャツネ 加熱するタイプ

20年間も五体投地で祈りを捧げ続けた老チベット仏教僧の足跡を深く刻む床
tps://dailynewsagency.com/2014/05/28/monk-praying-1000-times-a-epr/
> 70歳になる Hua Chi 氏は日々の五体投地について
>「初めの数年間は一日に2000回〜3000回祈っていました。
> しかし老いるにつれ回数が減少し、現在は一日に1000回程度祈るのみです」
>と語っており、
>さらに寒さの厳しい冬は一日500回程しか出来ない日もあると小さな声で付け加えています。
> 一番深いところで約3cmの溝を形成しています。

105名無し同志:2025/05/08(木) 19:47:36 ID:iyEaGkPU
馬の背を分ける 夕立
シベリアのバンパイア鹿カバルガー 豆鹿
Nobuya Monta 与ひょうの決意
エロすぎる寺院 インド
3頭の白馬 冬は雪で抱擁

『そこは駐車場ではない 牛の餌を生産している畑です』
農家さんから釣り人へ注意喚起、以前は逆ギレされ怖い思いをした事も…
tps://togetter.com/li/2546678
> 牛屋やってる友人は、無断駐車されている牧草畑の駐車される側に牛の糞尿集めて積んで肥料作ってましたよ。
>あと、犬小屋置いて放し飼いもしてました。
>3日で無断駐車が消えました。
> 枯れ草の上に車止めたら火が出るかもやで。
> あと山菜泥棒もはやく天に召されてください


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