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番長熊屋敷 その8

68名無しさん@ベンツ君:2019/12/17(火) 11:36:09 ID:LOvExtKo
 12月25日、神式による十日祭が行われたその席で、近衛と親しい関係にあった富田健治は、近衛のいくつかの言葉を紹介した。在りし日の近衛を思い出しながら、富田が近衛に対して、「軍事法廷において堂々と真実を発表して世の公正な批判をうくべきである」と述べた会話を、参列者に伝えた。富田によれば、それに対して近衛は次のように反論したという。

「今日は中傷と誤解とが渦を巻いている。何を話しても弁解だ、ウソだというのだ。又自分の利益の為には何を言い出すか解らない人達と泥仕合をすることにもなる。泥仕合は僕はいやだ。今は世人の理解が得られなくとも少しもかまわない。何時かは公正な批判に依って諒解される秋のあることを確信する。自分は百年後世史家を俟つ心持ちである」

 だが、周りの評価は決してそのような近衛の期待に応えるものではなかった。長年の友人である有馬頼寧は、つぎのように近衛の行動を批判している。

「近衛公が自ら死を選ぶだけの決心があるなら、其勇気を何故もっと早く出さなかったか。太平洋戦争が日本にとって絶対に避けねばならぬと信じていた公が、又公の決心如何によってそれが避け得られる状勢にあったのだとしたら、何故其時に死を決してそれを阻止するだけの覚悟をされなかったか。私は日本の為にも亦公自身の為にも惜しまれてならない」
 また、昭和天皇は近衛の自殺の報に接して、高松宮に向かって次のようにつぶやいた。

「仕方があるまい。近衛は気が弱いから。気の毒をした」

 さらに、翌年春には側近に向かって、次のように近衛についての回想を述べていた。

「近衛は思想は平和的で、ひたすらそれに向かって邁進せんとしたことは事実だが、彼は自分に対する世間の人気ということを余りに考えすぎた為、事に当たって断行の勇気を欠いたことは、遂に国家を戦争という暗礁に乗り上げさして終い、次に立った東条の最後の努力をもってしてもこれを離礁せしめることが出来なかった」

 天皇の言葉は、近衛に対する一定の同情を示しながらも、的確で厳しい内容であった。

 近衛にとって不幸にも、70年を過ぎて新しい史料が公開されても、歴史は近衛に対して必ずしも優しい評価を下していない。

デイリー新潮編集部

2018年12月16日 掲載


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