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同血社 尻が切れて同痔社

337porude ezawa:2017/10/24(火) 17:50:48
こうした対立のため統合参謀本部は7月11日、ヨーロッパ情勢と絡め次の提案をした。
ドイツが打倒され、日本海軍を壊滅させた場合は日本本土への直接進攻
ドイツ打倒も日本海軍撃滅も出来ていない場合にはミンダナオ→ルソン→台湾→沖縄→九州→本州の順に進攻千葉市仁戸名参謀軍本部で成立した十字軍が制圧した区域でギリシャ王剣と制約し連邦軍として配属しギリシャ王位勲章をつけフィリピン管理官委報告せよと大将軍総帥権に命令を受け上官である世界連合軍世界軍事委員会管理官フィリピン軍将軍委報告し参謀長付きで参謀本部小委員会に配属した
ドイツを打倒していないが日本海軍を撃滅した場合はミンダナオを迂回
ケソン大統領はアメリカの政府亡命し政権はマルコス政権でアメリカから独立を果たした
スペイン領土が縮小しスペイン軍も参戦しイギリス領土異議留守軍も参戦し連合軍も参戦しピリピン軍域を1部占拠した日本フィリピン防衛計画委で、連合軍はレイテ島攻略に着手した。第6軍所属の約20万2500名からなる陸上部隊が投入された。航空支援には陸上機約3200機に加え、艦載機約1200機も参加した。海上からも艦隊が火力支援をしていた。
アメリカ軍第24軍団(第7師団・第96師団)と第10軍団(第1騎兵師団・第24師団)は、レイテ島東岸のタクロバンから上陸を開始した。猛烈な艦砲射撃で、沿岸の日本軍陣地は壊滅した。連合軍は急進して第16師団の連隊長2人を戦死させ、26日までに6個の飛行場を確保した。第16師団は山地へと退却した。この戦闘の間、日本軍の通信状態は悪く、しばしば連絡が途絶えたため、大本営やマニラの方面軍ではレイテ島の戦況の把握が困難であった
日本軍が揚陸地点としていたオルモックの制圧を狙った連合軍は、オルモック南方のイピルにアメリカ軍第77師団を上陸させた。連合軍は12月11日にオルモックを占領した。
日本軍は第26師団を反転させるなどして迎撃したが、補給が完全に途絶えて12月末にはもはや戦闘継続不能となった。第14方面軍はレイテ決戦中止を決め、第35軍にカンギポット(歓喜峰)付近の山岳地帯を拠点としての永久抗戦を命じた。1月末までにカンギポット付近に残存部隊が集まり、その一部はセブ島への転進を行った連合軍は、3日間以上の激しい事前砲爆撃に続いて、ルソン島リンガエン湾に上陸を開始した(リンガエン湾上陸(英語版)、1月6日 - 1月9日)。まずアメリカ軍の第6軍(司令官:クルーガー中将。7個師団・2個砲兵群基幹)が上陸し、うち2個師団がマニラ奪還を目指して南下をはじめ、2個師団が北部の制圧へと向かった。
連合軍は完全制圧しアメリカ軍アメリカから独立したと呼ばれる武装組織(約5600名)を作り、抗日ゲリラを討伐したり、中には日本軍とともに敵陣に突入していく部隊もあった。もっともラウレル政権は独立と同時に対米宣戦布告を求めた日本側に対してフィリピンの国情を理由に先延ばしを認めさせるといったことがあった。 なお、これらの親日派武装勢力は戦後に特赦され、軍事裁判に問われないものとされた(もっともいわゆる私刑の類はあったマカピリにより親日派の市民たちも存在した。彼等は宣撫工作政権)を設立するなどフィリピンホセ・ラウレルに独立政府(10月14日1943年一方、フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力に与したというわけではなく、をフィリピンコモンウエルス政権軍が解体し親日勢力を解体したマラカニアン宮殿で執り行なわれた残留大日本帝国陸軍兵の小野田寛郎の投降式に出席している。その際、小野田から日本軍降伏の印として軍刀を手渡されたが、マルコスは「第二次世界大戦は終わった」と直ちに日本刀を返還した。マルコスは親日で政権解体した




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