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満 州
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:2012/09/29(土) 01:55:42
満 州
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:2015/08/29(土) 19:42:38
’45年4月に配属された満州新京の部隊では、日本政府のうそを目の当たりにした。「日本国内では“満州は5民族が仲よく暮らす楽園”と宣伝されていましたが、とんでもない。日本軍はふんぞり返りわが物顔。略奪、暴行、強姦を繰り返していました。特に慰安所の周りはひどかった」 という猪熊さんは、当時16歳の少年だった。慰安婦を買うことに抵抗したところ、理不尽な制裁が待ち受けていた。「“貴様、上官を侮辱する気か”と、烈火のごとく怒鳴られました。“女も買えないやつに敵が殺せるか”とぶん殴られ、蹴飛ばされ、踏みつけられ、血だるまになりました」
終戦後はソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。氷点下30度、足は凍傷になり、食料はなく、毎日バタバタと人が倒れ、6人に1人が亡くなった収容所生活。「医務室の前に、遺体が並べられますが、朝になると裸になっている。生きているやつが身ぐるみ剥(は)いで、パンに変えているんです。同部屋の戦友が下痢をしていると、“明日も治らなければ、こいつの飯も食べられる”と心の中で願っている。常に励まし助け合ったなんていうのは捏造。人を助けていたら、自分が死ぬという過酷な状況でした」 生きるか死ぬかの瀬戸際で、空腹の兵士はやがて、腹いっぱい食べて威張っている上官を引きずり下ろすという民主運動を起こしたという。 約2年にわたる捕虜生活の末、’47年12月に京都・舞鶴港に帰国。父と、人間魚雷の特攻隊員になった三男の死を知らされたのは、自宅に戻ってからだった。
少年兵への志願を許してくれたときの父の寂しそうな表情を戦地で思い浮かべながら、“何としても生きて帰って親孝行しなければならない”という気持ちをよりどころに忍耐してきた猪熊さん。現実はあまりにも残酷だった。“残りの家族と助け合って生き延びていこう”という思いを支えに戦後の復興を生き、10数年前からは戦争の真実を包み隠さず伝える「語り部」活動に、心血を注いでいる。「戦争は、日本が抱えた負の遺産です。被害者としても加害者としても、反省することばかりです。(安保法制を進める)安倍総理にも若い人にも、歴史をきちんと勉強して、間違った道を選ばないようにしてほしい、いや、しなければならないのです」 少年のような強い眼差(まなざ)しで、猪熊さんは語気を強めた。
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:2015/09/13(日) 15:05:08
【満州文化物語(6)】
“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
2015.9.13 12:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n1.html
満鉄が作った未来都市
「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904〜05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。
社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》
汚名だけ着せられて
この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。
撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。
だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。
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:2015/09/13(日) 15:06:47
殺戮、放火、破壊…
濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。
「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。
そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」
翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。
翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)
■平頂山(へいちょうざん)事件 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。
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:2016/09/19(月) 23:33:07
日本へ嫌がらせの夫をツイートで称賛、中国卓球の元スターに批判殺到「ホテルで全ての蛇口開いた」
2016.9.19 20:35更新
http://www.sankei.com/world/news/160919/wor1609190037-n1.html
シドニー、アテネ、北京の五輪3大会で金メダルを獲得した中国女子卓球界のスター、王楠・元選手(37)が、自らの夫が日本を訪問した際にホテルで行った日本への嫌がらせを称賛するようなコメントを短文投稿サイト「微博(ウェイボ)」で発表、ネット上で強い反発を招いている。
王氏は満州事変の発端となった柳条湖事件から85年の今月18日、夫の投稿を微博で紹介。夫は「小さな国にいじめられたのを忘れられない」などと言及した上で「過去に訪日した際は、腹いせにホテルの部屋で全ての蛇口を開いて水を流した」と明らかにした。
夫は「こんなことをしても無駄だと今は分かった」と説明。王氏は夫を「何て率直なのだろう」と称賛し「9・18を永遠に忘れない」と表明した。これに対し、ネット上では「水資源は世界のものではないのか」「病的で狭量な愛国だ」「嫌いなら訪日しなければいい」と批判の書き込みが殺到した。(共同)
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:2019/02/15(金) 23:54:32
昭和天皇の87年
満州に吹き荒れた排日の嵐 事なかれ外交の限界と挫折
2019.2.10
https://special.sankei.com/f/society/article/20190210/0001.html
中村大尉殺害事件を報じる新聞記事。こうした報道が、満州事変へとつながった
■第96回 戦争と報道(2)
満州事変を主導した軍部と、扇動した新聞メディア。だが、満州における権益保護を訴え、関東軍の積極行動を支持した新聞などの主張が、すべて理のないものだったわけではない。
1928(昭和3)年6月の張作霖爆殺事件以降、満州に排日の嵐が吹き荒れていたからだ。 民間外交団体が編集した対支回顧録によると、こんなことが頻繁に起きていたという。
一、日本人が馬車や人力車に乗っていると多数の群衆が取り囲んで降ろし、従わないと袋だたきにする。
一、日本人が郊外でピクニックをし、弁当をひろげると寄ってたかって奪ってしまう。
一、日本人が買い物しようとするのを群衆が妨害し、抵抗しようものならこれ幸いと殴る…。
過激な排日をあおったのは張の息子、張学良だ。父を爆殺された恨みに燃える学良は、日本人への土地の賃借を禁止し、鉱山採掘権も否認するなど、日本が持つ条約上の権益を次々に侵していった。
こうした事態に、日本政府が適切に対応したとは言い難い。不干渉政策をとる外相の幣原喜重郎は、在住邦人の代表が政府に窮状を訴えても、なかなか腰を上げようとしなかった。
在住邦人の若手らでつくる満州青年連盟の理事、山口重次はのちにこう書き残している。
「排日行為は、至るところ公然とおこなわれ、満州における日本の権益は無残にもふみにじられたが、日本政府は、これに対し、何ら手をくだそうとしなかった」(※1)
× × ×
そんな中、昭和6年7月に満州の万宝山地区で朝鮮人入植者と中国人農民とが衝突し、「朝鮮人側に多数の死傷者が出た」とする新聞の誤報によって朝鮮各地の中国人が多数殺害される万宝山事件が発生。同年8月には満州北部に潜入していた日本軍将校が中国兵に捕らえられ、銃殺のうえ遺体を焼き捨てられる中村大尉殺害事件も発覚する。
いずれも中国側に一方的な非があるわけではないが、積もりに積もった恨みの火薬庫に、マッチを投げ入れるには十分だった。 満州事変当時、アメリカの上海副領事だったラルフ・タウンゼントは、中国の排日政策は国内の不満を外に向けさせるためであると指摘した上で、こう書いている。 「確かに、条約、協定、議定書などに従えば、日本が満州を占領したのは悪い。しかしながら、見方を変えれば日本が正しかったとも言える。いくら条約を結んでも、日本の権益を不安に曝(さら)す中国人の妨害行動は収まらなかった。条約は守らない、地下工作・破壊活動は止まない。こういうことが何年も続いた。(中略)中国にいる数千の米英人は、日本人と同じ苦悩を味わっているから、気持ちがよくわかる。大半は内心、日本を応援したと思う」
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:2019/02/15(金) 23:54:59
× × ×
政府の不拡大方針に反して暴走する関東軍を、当時の国民世論は熱狂的に支持した。中国の不法行為に断固たる措置をとらない外相、幣原喜重郎の方針にフラストレーションがたまっていたからだ。 関東軍の暴走を止めようとした奉天総領事代理の森島守人ですら、のちにこう書いている。
「幣原外相がワシントン会議後の国際的風潮を理解し、かつこれが実現に渾身(こんしん)の勇を揮(ふる)った点において、第一人者たることは何人も否定し得ないが、(中略)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条溝を惹起(じゃっき)したのだと酷評した者すらあった」(※2)
外交における事なかれ主義が、かえって国際関係を悪化させる場合のあることは、いつの時代も変わらない。満州事変の処理に失敗し、国民からの支持も失った幣原は、内閣総辞職とともに下野した。昭和6年12月のことである--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
◇
(※1)山口重次らの手記などによれば、日本側にも大きな問題があった。昭和恐慌などのあおりで満州に渡った新興住民の中には、中国人を見下して横柄な態度をとる者が少なくなく、それが排日を助長していたという(※2) 文中の「ワシントン会議」は第一次世界大戦後のアジア太平洋地域の勢力関係を画定するため1921〜22年に開かれた国際会議で、海軍軍縮に関する5カ国条約、中国に関する9カ国条約、太平洋問題に関する4カ国条約が結ばれた。「柳条溝」は柳条湖のこと
【参考・引用文献】
○東亜同文会編「続対支回顧録〈上〉」(原書房)
○山口重次著「悲劇の将軍 石原莞爾」(世界社)
○ラルフ・タウンゼント著、田中秀雄ら訳「暗黒大陸 中国の真実」(芙蓉書房出版)
○森島守人著「陰謀・暗殺・軍刀-一外校官の回想」(岩波書店)
○種稲秀司著「満州事変に於ける幣原外交の再検討〈I〉」(政治経済史学会編「月刊政治経済史学」526号収録)
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:2022/02/04(金) 00:00:59
東トルキスタン共和国亡命政府日本支部さん
2017/2/14 21:53
中国による東トルキスタン侵略を肯定している人物に、大日本帝国による満州事変を批判できる権利は無いですよね?
日中戦争の真実
https://remnant-p.com/yomu.htm
https://remnant-p.com/rekishi05.htm
日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
満州は中国の領土ではない
つぎに、満州のことをみてみましょう。朝鮮半島の北隣、現在の中国人が「中国東北部」と呼ぶ地です。
満州というのは、もともと中国に清朝をうち建てた満州族(女真族)の故郷です。清朝は満州族がつくった王朝であって、漢族は被支配民族だったのです。
中国で「義和団の乱」(北清事変・一九〇〇年)が起きたとき、ロシアはそのどさくさにまぎれて、満州を不法に占領し、そこに居すわってしまいました。満州にロシアが居すわることは日本にとっても脅威でしたから、日本はロシアを追い出すために、日露戦争を戦います。
日本は日露戦争に勝利し、満州からロシアを追放すると共に、満州を清朝に返してあげます。ジョンストン(満州国皇帝となった溥儀の家庭教師)の書いた『紫禁城の黄昏』には、日本が満州を清朝に取り返してくれたときのことが詳しく書かれています。
日本はこのとき、満州における鉄道の権利と、遼東半島の租借権を獲得します。それは満州を取り返してくれたことに対する、清朝からのお礼の意味もありました。
しかし、満州は当時、盗賊の跋扈する無法地帯であり、今日のイラクより治安の悪い所でした。そのため国際条約のもと、権益を守るために日本の「関東軍」がそこに駐留していました。今日でいう平和維持軍、守備軍です。
この満州には、張作霖の一家が統治者として支配していました。関東軍は当初、この統治者と共同路線を歩もうとします。しかし張は、盗賊あがりの暴君で、満州の民衆にすさまじいばかりの搾取を行なっていました。盗賊がそのまま支配者となっていたのです。G・B・レーは、「張作霖一家が三千万民衆から搾取した収入は、南京政府の収入より多くなくとも之に匹敵するものであった」と書いています。さらに張の親子は、条約を無視して満州の経済権益を日本から奪い取ろうとするなど、露骨な背信行為に出てきました。それを目の当たりにした関東軍は、軍事行動を起こし、張の軍隊を満州から駆逐します。
これが満州事変です。これは日本軍の武力侵略の第一歩であると語られていますが、実際のところ当時、日本軍による張の軍隊の駆逐をみた満州全土の民衆は、大喝采を叫び、日本に感謝したのです。なぜなら張の軍閥政権は、
「軍費を捻出するために広大肥沃な満州の土地を荒らし、民衆の膏血の七、八割は軍費に充てられ、商民の三割はついに破産した」
と言われたほど、ひどい搾取を行なっていたからでした。
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:2022/02/04(金) 00:01:37
当時の諸外国の反応も、日本の行動はやむを得なかったとしました。アメリカ公使、ジョン・V・A・マクワリーは、張の行動は中国国民党政府が仕掛けたものであり、これは彼らが『自ら招いた』災いだ述べました。アメリカの新聞記者、ウォルター・リップマンも、
「日本は激しい挑発に直面しながら、通常の国際的基準からすればきわめて忍耐強かった」と記述しています。当時のイギリス陸軍の元師も、「彼ら(日本)はひどい挑発を受けてきた。……彼らが満州で地歩を固めれば、それは共産主義の侵略に対する真の防壁となる」と述べました。
さて、そののちこの満州の地に、日本の指導によって「満州国」がつくられました。満州国の皇帝となったのは、清朝のラスト・エンペラーだった溥儀です。清朝が滅亡したとき、日本の公使観に溥儀が逃げてきたのです。清朝というのは、満州人が中国を支配した王朝でした。ですから満州は、清朝を支配した皇帝の故郷です。溥儀は、自分の故郷の満州に帰り、そこに国をつくりたいと言いました。それで日本は、その希望を受け、満州に満州国を建国したのです。満州国では、皇帝が満州人であるだけでなく、大臣もひとり残らず満州人か清朝の遺臣でした。日本はその建国を指導したわけです。満州国はまだひとり立ちできる状態ではありませんでしたから、日本はその建国をバックアップしました。
満州国の首都・新京。すばらしい国造りが進んだ。
中国は、日本によるこの満州国建国も、「中国の領土への侵略だった」と非難します。しかし実際のところ、かつて満州の地が中国の領土だったことは一度もありません。なぜなら、満州は万里の長城の外側(関外)の地なのです。
かつて清朝打倒の革命運動を主導した孫文のビジョンにも、満州は含まれていませんでした。孫文にとって、満州は中国ではなかったからです。蒋介石も、「満州は中国の領土ではない」と公言していた時期があります。ところがその後、蒋介石の政府も、毛沢東の中国共産党も、満州の経済発展をみると一転して「満州は中国の領土だ」と言い出しました。しかし、まったく厚顔無恥と言わざるを得ません。満州が中国の領土である根拠など、どこにもないのです。
人々の中には、「満州は清朝の皇帝の故郷だったのなら、やはり満州は中国の領土ではないのか」というかたもいるかもしれません。しかし、たとえば元の時代に、中国はモンゴルに支配されました。では、モンゴルは中国の領土かというと、そうではないでしょう。また、かつてインドネシアはオランダに支配されました。ではオランダは、インドネシアの領土かというと、そんなことは暴論ということになるでしょう。同様に、満州は清朝を支配した満州人の故郷ですが、中国の領土ではないのです。
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:2022/02/04(金) 00:01:52
奇跡の国・満州国
清朝が滅びたとき、満州人の皇帝が満州に自分の国家を建てるのは、きわめて合理的なことでした。満州国は、わずか一三年間の王国でしたが、世界史上、奇跡の国でした。そこには建国以降、年間一〇〇万人を超える人々がなだれこみました。人々は中国内地の略奪、虐殺、貧窮に満ちた生活を捨て、この平和な桃源郷を目指して移住してきたのです。一九三二年の建国時に約三〇〇〇万人だった満州の人口は、終戦時の一九四五年には、四五〇〇万人以上にも増えていました。現在の日本の人口の約半分もの人々が、そこに暮らしていたのです。もし今日の中国人がいうように、当時の満州が略奪と虐殺の地獄だったなら、絶対にこのような現象はみられなかったはずです。 満州国では「五族協和」をかかげていました。いろいろな民族の人々が、満州国の平和と繁栄にあこがれ、自分もそれにあやかりたいと競ってやって来ました。そして彼らにより、この何もない原始的だった地が、きわめて短期間のうちに近代的な法治国家、平和国家、一大重工業国家として成長したのです。しかし、「五族協和といっても、実際は日本が指導した国で、その中枢には日本人が大多数を占めていたではないか」という批判もあるでしょう。けれども、これは満州国がひとり立ちする時までは、やむを得ないことでした。なぜなら日本人以外は、字も読めない人々がほとんどであり、教育もなく、国家の理念すら理解しない人々だったからです。
そうした中、日本がリーダー的な役割をすることが求められたのです。そして実際、満州国には、様々な民族が年間一〇〇万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだのです。 満州国の新京・日本橋町。満州国は、周囲からみると別天地であり、様々な民族が年間100万人以上なだれ込み、共に国造りに励んだ。
かつて盗賊的な軍閥に支配され、搾取にあえいでいたこの地は、満州国の建国によって全く生まれ変わりました。治安がみごとに確立され、つぎには近代的な司法制度、法律が完備され、賄賂の悪習も追放されました。政府の財政も確立されました。貨幣の統一もわずか二年間で達成されました。満州の総面積は、現在の日本の領土の約三倍あります。日本人はその広大な国土に、鉄道、道路、港湾、空港のほか、上下水道、治山治水、電力供給など、様々な国土開発計画を実施しました。首都・新京は、じつに先進的な百万人都市として建設されました。路面はすべて舗装され、東京にもなかった下水道が敷かれ、水洗便所が使用されました。また、以前は鍋・釜しか製造できなかった満州は、やがて自動車や飛行機まで製造する一大産業国家に変身しました。日本はそこに学校を建て、教育を普及させるとともに、病院を建て、風土病、伝染病を駆逐していきました。もちろん、まだまだ改革しなければならないものは残っていましたし、戦時経済のひっ迫した状況もありました。
しかし全体的にみれば、そこは搾取や略奪のない、生命・財産の保護される平和郷であり、周辺地域から比べれば非常に優れたアジア人の王道楽土となっていたのです。もし日本が敗戦することなく、満州国が存続していたら、満州国は間違いなく、その後のアジアにおいて巨大な発展を遂げ、アジアの平和と繁栄に寄与する重要な国家となっていたでしょう。まさにアジアのアメリカ合衆国となっていたに違いありません。しかし日本の敗戦後、満州国は中国の一部(東北部)とされました。そして日本がそこに残した遺産は、その後の中国の重工業の九〇%を支え、中国の経済的基礎となりました。戦後の中国は、この満州国の遺産で食いつないだのです。
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:2022/05/31(火) 21:25:48
満州 感染 NHK 「満州 難民感染都市知られざる悲劇」
初回放送日: 2021年3月28日
https://www.nhk.jp/p/bs1sp/ts/YMKV7LM62W/episode/te/YRWQV125WW/
敗戦後の旧満州で発疹チフスなど感染症の拡大が起きていた。瀋陽で日本人居留民を救う為、治療を続けた満州医科大の医師・看護師の知られざる闘いに新史料と証言で迫る。
昭和20年、敗戦後の旧満州に残され日本人居留民は150万余り。ソ連軍の侵攻のなか奉天(現・瀋陽)など大都市に流れ込み次々に発疹チフスにたおれた。この時、患者の治療に当たったのは満州医科大学の医師、学生、看護師。ワクチンの製造を試みたが、医師もまた感染症で命を落としていく。ようやく終息するも、ペスト、次いでコレラが発生する。引き揚げに至るまで続いた知られざる感染症との闘いを貴重な証言や新資料で描く。
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