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満 州

1NAME:2012/09/29(土) 01:55:42
満 州

2NAME:2012/09/29(土) 02:01:24
満洲国開拓団の殉難
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-730.html

中国共産党は、大躍進政策の失敗で、自国民4300万人を餓死させている。
文化大革命では、3000万人の自国民を殺害している。

近年にいたっても、天安門事件では、平和デモを行う学生を相手に人民解放軍を出動させ、無差別に発砲し、学生たちを戦車で轢き殺した。
支那政府は、学生の死亡者を319人と発表しているけれど、実数は数万人の死者を出しているといわれている。

近年にいたっても、天安門事件では、平和デモを行う学生を相手に人民解放軍を出動させ、無差別に発砲し、学生たちを戦車で轢き殺した。
支那政府は、学生の死亡者を319人と発表しているけれど、実数は数万人の死者を出しているといわれている。

平成にはいってからも、法輪功(気功術の一派)に対し、生きたまま臓器をくり抜くなどの拷問を行い、これまでに3000人以上が虐殺されているといわれている。
この件では、法輪功を学ぶ若い女性に対し、顔面にスタンガンの電撃を繰り返し浴びせて傷つけた写真が流出し、世界が震撼したけれど、日本のメディアでは、日中記者交換協定があるせいか、こうした事件をまったく報道しません。

3NAME:2014/01/11(土) 03:50:06
(過去 2014 未来)「満州国化」する日本 山室信一さん
2014年1月10日05時00分
http://digital.asahi.com/articles/DA3S10917668.html?_requesturl=articles/DA3S10917668.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S10917668

かつて中国の東北部に、13年間だけ存在した「国」があった。満州国と呼ばれたその国は、高い理想を掲げながら、矛盾と偽りに満ちていた。安倍政権の誕生から1年を経た今、山室信一さんは「いま進んでいることは、日本の満州国化だと思っています」という。2014年の日本は、あの国とどこが似てきているのだろうか。

 ――いまの日本が「満州国化」しているというのは、どういうことでしょうか。

 「安倍さんは『自立する国家』を掲げてきました。でも現実には、特定秘密保護法やTPPなどで、アメリカのかいらい国家という性格が強くなってきているのではないか。理想国家の建設を掲げながら、日本のかいらい国家への道を歩んだ満州国に似てきています」

 ――安倍首相は『新しい国へ』という著書があるように、国をつくり直す意識が強いようにも思えます。

 「強いでしょうね。『戦後レジームからの脱却』と言いますが、日本国憲法のもとで国家意識が薄れていったのが戦後だという意識があるのでしょう。だから、もう一度、国家主導体制をつくることが戦後民主主義から『日本を取り戻す』ことに直結すると意識されているようです」

 ――安倍首相の祖父の岸信介・元首相は、満州国の高級官僚として統制経済を進めた人でした。

 「岸と安倍さんは発想がよく似ています。2人とも多元的な勢力の存在が嫌いのようですね。権力が一元化されていないと、物事がうまく進まないと考える。満州国では関東軍と革新官僚だけで全部を決めた。今の安倍政権のように1強多弱になってしまうと、自民・公明という一元的な権力で全て決められる。満州国と同じシステムが今、小選挙区制の下で偶然にでき上がっています」

 ――決められない政治への国民の失望が、1強多弱を生んだのでは。

 「これも戦前と同じで、1920年代の対外的危機に際し、民政党と政友会が党争に明け暮れて何も決められなかった。政党政治に対する幻滅が国民に広まり、軍の統率力や官僚の統制に期待したところがあった。もちろん今とは状況が大きく違いますが、出てきている情景は重なって見えます」

 ――情景が再現されてきたと。

 「満州国にいた官僚たちは、戦後の経済政策を担った経済安定本部にもたくさん入っています。『秩序と統制』が国家のあるべき姿だと考えた岸は、満州国で試みたことを戦後に実施し、高度成長の基盤をつくった。岸だけではなく、椎名悦三郎などの満州派は自民党内で力を持ちました。統制国家の実験室であった満州国はある意味で、海を越えて戦後の日本と地続きでもあるのです」

 「それが一番よく表れているのは軍隊です。もともと満州国は関東軍による占領下に置かれて、独自の軍隊を持たず警察組織だけあればいいとして出発した。それがやがて満州国軍として肥大化していき、関東軍に牛耳られるようになった。これはまさに戦後の自衛隊と米軍の関係です。警察予備隊から自衛隊に肥大し、米軍に依存することなしには存続できない体制となっている」

4NAME:2014/01/11(土) 03:50:50
 ――安倍政権は特定秘密保護法をかなり強引に成立させました。

 「それもアメリカへの従属とともに、権力の一元化とつながっています。情報の偏在は権力を生む。満州国で岸がやろうとした統制経済も、基本的に政府に情報が全部集まらなければできない」

 「特定秘密保護法と、岸の日米安保条約改定も重なって見えます。安保反対のデモが国会を取り巻いていたとき、『国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には声なき声が聞こえる』と岸は言いました。おそらく安倍さんはそれを思い浮かべていたのではないか。今度も騒いでいるのは国会の周りの少数派だけで、背後には声なき多数派が自分を支持している、だから一部の反対を押し切ってでも法案を通すことが自分の政治家としての歴史的使命だ、と」

 ――安倍政権のアジアへの姿勢はやはり岸政権に近いのでしょうか。

 「岸は戦後初めて東南アジアを訪問した首相でした。『日本がアジアの盟主にならなければならないという私の意識は、実は私が満州国に行ったときの意識と同じで戦前も戦後も一貫している』と語っています。日本がアジアの先頭に立っているという意識を持ち、東南アジア諸国との関係を深めることでアメリカに対抗しようとした。アジアを盾に『対米対等』を目指す二重性があった」

 「一方、安倍さんのアジア観はわかりにくい。もともとは対米対等をめざして集団的自衛権をと思っていたのでしょう。でも、中国の台頭や靖国参拝による反発などもあって、アジアの旗頭としてアメリカに対抗するという手段はとれない。それどころか、東アジアでの孤立化を招いたことで対米従属化を強めるしかなく、特定秘密保護法をつくるなど、政策選択の幅を自ら狭めています」

 ――安倍首相と岸元首相は、似ているようでも違うと。

 「岸の本質は経済官僚です。経済力強化が国家の強盛に不可欠だと一貫して考えた。総力戦体制のもとでは経済力イコール軍事力ですから、富国と強兵は一致していました」

 「安倍さんは、自分の領分を持っていない。官房長官以外には閣僚を経験せず、若くして首相になった。自分の核がないから、官僚やブレーンが持ち込んでくるものをバキューム効果のように取り込んでいく。それが安倍政権に対する野党の攻めにくさになっていると思われます」

5NAME:2014/01/11(土) 03:51:22
 ――「理想国家をつくる」という発想では共通しているのでは。

 「もともと日本人は、国家というのは与えられたものだという意識が強いんです。欧米では国家は人々が契約でつくるという意識があるのですが、日本では国体が連綿と続いてきたとされて、人がつくる余地がない。明治憲法も新しくつくったのではなく、あくまでも『皇祖皇宗ノ遺訓』を明文化したにすぎないと説かれました。しかし、これは明治以後に『創られた伝統』といえます」

 「岸の場合は例外的に、国家をつくるという発想があったと思われます。彼が若いときに愛読した北一輝の『日本改造法案大綱』は、憲法を停止して、華族制度廃止や私有財産制度の制限など、国家の根幹を変えてしまおうというものです。ただ、日本で国家をつくりかえようとすると、必ず天皇制の問題とぶつかる。満州だったから、ゼロから新しい国家をつくる夢を見ることができた」

 ――安倍さんも「美しい国」をつくろうとしているのでは。

 「安倍さんの国家観は、自然主義的とでも言いましょうか、国はあくまで自然にあったもので、しかも国家主導は正しいという発想です。戦後レジームだけが否定すべきもので、それ以前の体制は『美しい国』だったと。国家は美しい国土という伝統の中にあって、人がつくるものではない」

 「もともと存在した国が、戦後の自由主義や個人主義などの思想によって汚されてきた。汚れを除けば、美しい国を取り戻すことができるはずだと。その汚れの元凶が今の憲法なのでしょう」

 ――最近は改憲論をトーンダウンさせている印象もありますが。

 「おそらく安倍さんは、憲法を変えればみんな変わると思っていたのでしょう。戦後レジームの頂点にある憲法を壊せば、すべて正常に戻ると。しかし96条改正への反対が強かったので、解釈や立法で変えてしまおうという方向に行っている」

 「これは逆説的な状況で、憲法の条文を守ればいいという護憲の虚をつかれてしまった。頂点が不変でも解釈や法令で基盤を壊されれば、憲法秩序の全体が崩れてしまいます」

     ■     ■

 ――満州国の歴史から教訓として生かせるものがあるとすれば、どのようなことでしょうか。

 「権力の一元化は、特定の局面突破には効果的かもしれません。しかし一点突破だけを考えていると、全体のバランスが崩れる。満州国は、軍事的な統制だけすればいいと考えたのが崩壊のもとになった。安倍政権も、アメリカとの関係さえうまくいけばいいという一点だけを考えていると、対アジア関係や国内の産業構造が崩壊していきかねません」

 「満州国は、当初の理想とは全く逆の方向に動いていきました。最初は王道楽土や五族協和を掲げていたのが、対外戦争に危機感をあおって統制を強めるなかで、お互いが監視し排斥し合う『兵営国家』になっていった。安倍さんが掲げるような美しい国の理想というのが本当は一番危ない。ベクトルが反転して動き出す可能性をつねに考えておく必要があると思います」

 (聞き手・尾沢智史)

     *

 やまむろしんいち 京都大学人文科学研究所長 51年生まれ。専門は法政思想連鎖史。京都大学人文科学研究所教授。著書に「キメラ―満洲国の肖像」「憲法9条の思想水脈」。

 ◆キーワード

 <満州国> 1931年9月の満州事変の後、32年3月に中国東北部につくられた国家。清朝最後の皇帝・溥儀が執政(のち皇帝)となった。「王道楽土」の建設、「五族(日・満・漢・モンゴル・朝鮮)協和」を掲げたが、実質は日本のかいらい国家。国際連盟は満州国を認めなかった。45年8月、日本の敗戦とともに消滅。

6NAME:2014/02/26(水) 06:50:36
満州族の侵略を許したのと同じ手法で旧日本軍の罪を許すべき!英字紙の主張に反論―SP華字紙
配信日時:2014年2月20日 12時11分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83631

2014年2月17日、シンガポール華字紙・聯合早報は、日本右翼、日本軍国主義の危機を前に旧日本軍の罪を許すことはできないと論じている。 シンガポール英字紙ザ・ストレーツ・タイムズは記事「中国は満州族問題と同じ手法ができる」を掲載した。370年前の満州族の侵略を許したのと同じ手法で、2次世界大戦中の旧日本軍の罪を許すべきだと説いた。 満州族の征服により清朝が誕生したが、その初期には数々の残虐な行為があったことが史書に記されている。しかしその満州族も今では中国を形成する多民族の一つとなり、中国の歴史教科書もかつての暴行を取り上げることはない。それは過去の忘却ではなく、寛容な許しによってもたらされたものだ。同じように日本を許すべきだというのがザ・ストレーツ・タイムズの主張だ。

この主張に聯合早報は反論している。許しは歴史事実の誠実な理解と尊重のもとに成り立つものであり、日本右翼は世界主流の歴史観とは異なる観点を見せており、このような状況で被害者が一方的に加害者を許すなどとはばかばかしくも軽率な行為だと批判した。 70年前の日本の侵略は中華民族滅亡の危機だったが、今、日本軍国主義は再び脅威をもたらそうとしている。それは日本右翼が言動だけではなく行動に移そうとしているからであり、過去の歴史を理解し向き合うことは、日中関係だけではなくアジアと世界にとっても極めて重要だと主張した。(翻訳・編集/KT)

7NAME:2014/03/16(日) 22:17:51
とても見ていることが出来なかったTV「開拓者たち」
http://seigi.txt-nifty.com/mutsu/2012/01/tv-2b85.html
NHKテレビで「開拓者たち」というドラマを少し見たが見ていられずチャンネルを変えた。満州の開拓者たちに突如、日ソ不可侵条約を破りソ連軍が侵攻し想像を絶する苦難の逃避行が始まる。略奪暴行の殺戮の中の逃避行、自決する者もいる。肉親の死体を埋葬も出来ず捨てながら逃げる開拓者たち!なぜ、見ていられなかったか!私の両親も満州からの引揚者からである。昭和22年に舞鶴に引揚げてきたと聞いている。物心ついた時に祖父が逃避行で匪賊に襲われた話や兄の正治が亡くなった話などを聞いていた。

 ヤルタ会談でアメリカのルーズベルト大統領は、日ソ不可侵条約を破り満州に侵攻すれば、北方四島をソ連が獲れば良いともち掛けた。硫黄島などの戦闘で2万人以上の米軍の死傷者を出していたからである。植民地の分配は、当時の帝国主義では、当然であったろうが憤りを感じるのは、満州国の役人と関東軍の行動である。8月15日の敗戦を開拓者、一般人に知らせず護りもしない。いつから江戸を戦火から護るため無血開城をした勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、土方歳三などの武士がいなくなったのか。関東軍が一般人を護らなかったのが誠に残念である。少なくとも士官など武士たるものは、七生報国、最後の最後まで国、民のため命を捨てるものと信じる。

8NAME:2014/05/26(月) 22:29:15
清朝最後の王女、愛新覚羅顕キさん死去 「東洋のマタハリ」川島芳子の妹
2014.5.26 20:28
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140526/chn14052620280010-n1.htm

「東洋のマタハリ」と呼ばれた川島芳子の妹で、清朝の粛親王の末娘だった愛新覚羅顕キ(=王へんに奇)(あいしんかくら・けんき)さんが26日未明、心不全のため北京市内の病院で死去した。95歳だった。4月に体調を崩し入院していた。葬儀は28日、北京郊外の八宝山公墓の梅庁で行われる。 幼少期に満州国の皇族として日本に留学。学習院、日本女子大に学び、大手繊維メーカー「鐘紡」の北京支社で勤務中に終戦を迎えた。日本軍のために情報活動を行ったとして処刑された芳子の妹であることなどを理由に、中国当局に「日本のスパイ」などのぬれぎぬを着せられ、農村での強制労働を含めて計23年間も監禁された。

 獄中から中国の最高実力者、トウ小平に無実を訴える手紙を書いたことなどをきっかけに名誉回復された。翻訳の仕事をしながら、北京で日本語学校を設立。頻繁に訪日し、講演活動を通じて日本語教育に力を注いだ。日本で出版した自伝『清朝の王女に生れて−日中のはざまで』(中央公論)が大きな話題となった。晩年、日中関係が悪化しても親日派を自認してはばからなかった。 亡くなる直前に電話で日本の友人に「中日友好。日本の皆さんによろしくお伝えください」と話していたという。(北京 矢板明夫)

9NAME:2015/08/29(土) 19:37:54
【戦争の証言】元少年兵「目の前に仲間11人のバラバラ遺体が」
2015年08月29日(土) 05時00分
〈週刊女性9月8日号〉
http://www.jprime.jp/tv_net/nippon/17606

安保関連法案の参院特別委の審議は、自衛隊が法案成立を前提に秘密裏に作成していた内部文書をめぐって紛糾。国会では「軍」や「シビリアンコントロール(文民統制)」などの怖いキーワードが飛び交う。防衛省の来年度予算要求は過去最高の5兆円を上回る見通し。第2次安倍政権発足後、防衛予算は年々増えている。70年前、国民は戦争から解放された。肉親や友人ら大切な人を失った。なぜ、また戦争に怯えなくてはならないのか。私たちは戦争の怖さを体験者から学んだはずなのに……。あの夏、何があったのか、戦争体験者に聞いた。

◆「目の前に仲間11人のバラバラ遺体。頭は真っ白で泣く余裕はなかった」
ーー猪熊得郎さん(神奈川・横須賀市 元少年兵)

「普段は“戦争万歳、万歳”と言っている大人たちも、いざ子どもが兵隊に行くとなると賛成するはずがありません。でも“戦争に行くな”とは言えないから“20歳の徴兵まで待て、なぜ急いで少年兵になるんだ”と、父にはひどく説得されました」 1944年4月、中学を卒業したばかりの猪熊得郎さん(86)は、3人の兄に続けとばかり“俺も戦争に行かなきゃ”と気持ちがはやっていた当時の自分を、「戦争しか知らない子どもだった」と回想する。「父親の説得に聞く耳を持たず、3日間絶食などのハンストをしました。4日目に父が“わかった、仕方ない。でも命だけは大切にしなさい”と折れました。その時のね、親父の寂しそうな顔といったら……。いまでも忘れられませんね、最大の親不孝ですよ」

 ’28年、東京・日本橋で、猪熊さんは生まれた。「小学3年生のときに中国との戦争が始まり、中学1年のときに太平洋戦争が始まりました」というきな臭い時代だったが、「“時代のせい”という言い方はしたくない。流行に乗ったのではなく、銃弾が飛び交う戦地に自分は飛び込んでいくのだ、ということを考えたうえで決断しました」 と自ら陸軍特別幹部候補生に志願したことを振り返った。

毎日毎日、怒鳴られ、どつかれ、ひっぱたかれる軍隊生活。16歳で初めて戦闘を体験した際、「“ああ、戦争は殺すか殺されるかなんだ。やらなければ、やられる”ということを骨身に感じました」という。仲間11人が、目の前で戦死したときのことが、今も脳裏から離れない。「壕内の無線の送信所の入り口に、米軍の爆弾が落ち、中にいた全員が死亡。私は砲弾を避けながら、送信所に向かっているところでした。あたりには、遺体がバラバラに散らばっていました。腕やら首やら、胴体やら……。頭は真っ白で怖いというよりパニック。無我夢中のまま遺体を集めました。涙は出なかったですね。そんな余裕はなかった」

10NAME:2015/08/29(土) 19:42:38
 ’45年4月に配属された満州新京の部隊では、日本政府のうそを目の当たりにした。「日本国内では“満州は5民族が仲よく暮らす楽園”と宣伝されていましたが、とんでもない。日本軍はふんぞり返りわが物顔。略奪、暴行、強姦を繰り返していました。特に慰安所の周りはひどかった」 という猪熊さんは、当時16歳の少年だった。慰安婦を買うことに抵抗したところ、理不尽な制裁が待ち受けていた。「“貴様、上官を侮辱する気か”と、烈火のごとく怒鳴られました。“女も買えないやつに敵が殺せるか”とぶん殴られ、蹴飛ばされ、踏みつけられ、血だるまになりました」

 終戦後はソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。氷点下30度、足は凍傷になり、食料はなく、毎日バタバタと人が倒れ、6人に1人が亡くなった収容所生活。「医務室の前に、遺体が並べられますが、朝になると裸になっている。生きているやつが身ぐるみ剥(は)いで、パンに変えているんです。同部屋の戦友が下痢をしていると、“明日も治らなければ、こいつの飯も食べられる”と心の中で願っている。常に励まし助け合ったなんていうのは捏造。人を助けていたら、自分が死ぬという過酷な状況でした」 生きるか死ぬかの瀬戸際で、空腹の兵士はやがて、腹いっぱい食べて威張っている上官を引きずり下ろすという民主運動を起こしたという。 約2年にわたる捕虜生活の末、’47年12月に京都・舞鶴港に帰国。父と、人間魚雷の特攻隊員になった三男の死を知らされたのは、自宅に戻ってからだった。

 少年兵への志願を許してくれたときの父の寂しそうな表情を戦地で思い浮かべながら、“何としても生きて帰って親孝行しなければならない”という気持ちをよりどころに忍耐してきた猪熊さん。現実はあまりにも残酷だった。“残りの家族と助け合って生き延びていこう”という思いを支えに戦後の復興を生き、10数年前からは戦争の真実を包み隠さず伝える「語り部」活動に、心血を注いでいる。「戦争は、日本が抱えた負の遺産です。被害者としても加害者としても、反省することばかりです。(安保法制を進める)安倍総理にも若い人にも、歴史をきちんと勉強して、間違った道を選ばないようにしてほしい、いや、しなければならないのです」 少年のような強い眼差(まなざ)しで、猪熊さんは語気を強めた。

11NAME:2015/09/13(日) 15:05:08
【満州文化物語(6)】
“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
2015.9.13 12:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/150913/prm1509130026-n1.html

満鉄が作った未来都市

 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904〜05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。

 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》

汚名だけ着せられて

 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。

 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。

 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。

12NAME:2015/09/13(日) 15:06:47
殺戮、放火、破壊…

 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。

 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。

 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」

翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。

 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

■平頂山(へいちょうざん)事件 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。


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