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東日本大震災

1 NAME :2012/03/17(土) 15:52:09
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm
 屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。

 いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。

 11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。

 海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」

 引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。

 佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。

 「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。

 波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」

 1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。

124 NAME :2016/03/12(土) 01:38:01
 自然災害の前で個々の人間は弱いものだ。一方、人間の善意と友情と助け合いは絶大な力を示している。中国は日本の隣国として、同じく地震の被害に見舞われてきた。08年に中国四川省で?川大地震が起きた後、日本の各界が援助の手を差し伸べ、日本の救援隊と医療チームが被災地で救出・治療活動に当たったことは、中国の人々にとって記憶に新しく、またその時のことがあるだけに、日本の皆さんの苦しみを我がことのように感じた。中国政府、民間および在日華僑、中国系企業と留学生が次々に立ち上がり、日本の被災地に義援金や物資を届け、見舞いの言葉と声援を送った。

 中国からの最初の支援物資は震災の3日後に届いた。中国国際救援隊は3月13日に日本に入り、津波の被害が大きかった岩手県大船渡市で救援活動を始めた。最も早く被災地に入り、最も長く捜索・救援活動を行った国際救援隊の一つだった。当時の国土交通相が被災地に救援物資を運ぶために燃料油が必要だとして中国に支援を求めた際、中国政府はすぐにガソリン1万トンとディーゼル油1万トンを無償で提供することを決定した。東京電力が福島第1原発の冷却作業のため中国の建機大手「三一重工」の大型ポンプ車を購入したいというと、三一重工は他国に輸出する契約の違反となることもいとわず、売値100万ドルで62メートルのアームを持つポンプ車を無償で提供した。このポンプ車はその後、日本の皆さんに「大キリン」と呼ばれるようになった。

 空前の災難を経験し、我々は自然の怖さを一層深く認識し、また日々の生活をより大切にするようにもなった。東日本大震災発生の年、私は5回にわたって被災地を訪れ、被害の状況をこの目で見た。その後も福島や宮城などを何度も訪れた。この5年間、被災地復興の進展ぶりを目にするとともに、現地の方々の驚くべき意志の強さに深く感銘を受けた。

 この5年間、私は常に考えてきた。中日両国は隣国として、自然災害が発生した時、支援国はいかにしてより的確に必要な物資と援助を提供するか、支援される国はいかにしてこれを有効に活用するか、双方が普段から意思疎通を図り、共通の行動基準を作り上げることが必要だろう。

 命の安全が重大な脅威にさらされた時、両国の間で見過ごせない意見の相違や矛盾はなく、防災や緊急援助にせよ、被災地の再建にせよ、双方がともに協力すべき重要な課題であり、中日両国にとって戦略的互恵関係の重要な中身でもある。中日関係の更なる改善と発展を図るには、この分野から始めてもいいのではないか。 最後に、東日本大震災の被災地の方々に謹んでお見舞い申し上げるとともに、被災地の早期復興を心から祈りたい。

125 NAME :2016/03/13(日) 00:23:57
【東日本大震災5年】
台湾で大震災の追悼・感謝式典 日本側、「真の友人」と謝意
2016.3.11 18:32更新
http://www.sankei.com/world/news/160311/wor1603110019-n1.html

【台北=田中靖人】東日本大震災から5年となった11日、台北市内で、台湾日本人会などが主催する「追悼・感謝会」が開かれた。式典には日台の関係者約150人が出席し、台湾側から蘇嘉全立法院長(国会議長に相当)らが献花に訪れた。

 台湾の対日窓口機関、亜東関係協会の李嘉進会長は「台湾は5年前に日本を支援した初心を忘れていない。その気持ちを元に、台湾と日本の関係がますます発展するよう期待する」とあいさつ。対台湾窓口機関、交流協会台北事務所の沼田幹男代表(駐台大使)は、台湾から200億円を超す義援金が送られたことを念頭に、「日本人に台湾という真の友人がいることを強く思い起こさせた」と改めて謝意を表明した。

 式典ではこのほか、台湾の赤十字からの義援金22億円を充当して昨年末、病院を再建した宮城県南三陸町の佐藤仁町長のビデオメッセージや、台湾のロックバンド「滅火器」が被災地で撮影した復興応援ビデオが放映された。

126 NAME :2016/03/19(土) 17:27:59
【東日本大震災5年】トモダチ作戦は「義務ではなく、愛によるものだった」 元在日米軍司令官
http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%90%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD%EF%BC%95%E5%B9%B4%E3%80%91%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%81%E4%BD%9C%E6%88%A6%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%BE%A9%E5%8B%99%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%81%E6%84%9B%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%8D-%E5%85%83%E5%9C%A8%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%8F%B8%E4%BB%A4%E5%AE%98/ar-AAgEw0w#page=2

2011年3月11日午後2時46分、横田基地にある在日米軍司令部。バートン・フィールド司令官は、第5空軍の面々と会議を開いていた。「いつもとは違う大きな揺れ」に、建物から外へ飛び出した。 揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。

 慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。 福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。

 頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか。(日本政府などから)要請された場合、米国人と他の外国人、日本人をいかに避難させるか」… 自衛隊の依頼を受け米軍が担ったのは、小学校などの清掃と、救援物資を空輸できるよう、使用不能状態にあった仙台空港を再開させることだった。

   ×    ×

 フィールド司令官は仙台へ飛んだ。だが空港には降りられなかった。上空から見た空港は水浸し。「車も家もすべて破壊されているようだ。空港も何カ月も使えないだろう」と思った。 その日の夜、横田へ戻ると、嘉手納基地(沖縄県)に駐留する空軍第353特殊作戦群のロバート・トス大佐が、こう言った。

 「われわれが仙台空港を、できるだけ早く復旧するようにします」 大佐らは宮城県知事、仙台市長と会い、海兵隊などと協力し、がれきなどに覆われた滑走路を整備して、復旧に全力を挙げる。C130輸送機が最初に仙台空港に着陸したのは、16日のことである。 フィールド司令官は「友人、同盟国としてやるべきことをした。それはただ義務ということではなく、愛によるものだった。われわれは手助けをしただけで、真のヒーローは自衛隊だ」と話す。(ワシントン 青木伸行)

127 NAME :2016/09/04(日) 22:29:11
【東日本大震災】
津波で亡くなった子供の幽霊が自宅跡地に戻ってきてくれた…遺族の心を癒す「震災怪談」が次々と寄せられ
2016.9.4 18:00更新
http://www.sankei.com/premium/news/160904/prm1609040017-n1.html

東日本大震災後、津波の被災地では心霊体験が多く語られるようになった。そんな体験談を東北地方の作家らが取材し、「震災怪談」として作品化した。30日で発生から2000日。作品は単なる娯楽ではなく、死者への供養や鎮魂とともに、遺族の心を癒やす効果もあるとして注目を集めている。(大渡美咲、写真も)

 震災怪談集「渚にて あの日からの〈みちのく怪談〉」を出版したのは仙台市の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」。実話を基にした10人の作家による45編が収録されている。 荒蝦夷の土方正志代表は「震災怪談は泣ける話ではなく、リアルな死が背景にある。5年たってまだ語れない人も立ち直れない人もいる。怪談が表現のツールになれば」と話す。

 《帰ろうと下駄箱のカギを外して中からブーツを取り出し、脚を入れた瞬間。白い花弁が一房、靴の中にあった。(中略)二週間後、木棺に入れられて、父が帰ってきた。胸の上に、白い花が添えられていた。靴の中に入っていた、あの白い花と同じものだった》 震災で父の勉さん=当時(53)=を亡くした須藤文音(あやね)さん(28)は体験した出来事を怪談「白い花弁」としてつづった。勉さんは宮城県気仙沼市で津波に巻き込まれ、2週間後に遺体で見つかった。その2週間、文音さんの身近で不思議な出来事があった。 「父の亡くなった状況は今でも分からない。でも書いているうちに、成仏してほしいという思いとともに、父の最期が痛くなかったらいいな、苦しくなかったらいいな、と思えるようになった」

文音さんは書くことや話すことで徐々に勉さんの死を受け入れられるようになったといい、「怪談は父と私をつなぐツール。生きている人と亡くなっている人をつないでいる」と語る。 文芸評論家の東雅夫さんによると、関東大震災(大正12年)後もこうした実話を基にした震災怪談が作品になったといい、「怪談は死者の話を生きている人が書いて生きている人が読む。亡くなった人の物語を生者が言葉にし、語り、共有することで鎮魂や供養になっている」と解説する。

 一方、平成7年の阪神大震災後にこうした動きがなかったのは、津波と火災による被害の違いや、「遠野物語」の舞台でもある東北地方ならではの文化に由来するのではないかとも分析する。 《知り合った人から“某所に出る子供の幽霊”の話を聞いた。絶句した。なぜならその子供を知っていたからだ。目撃されたのは、確かにその子の家の跡地。語られた背格好も、その子と一致する》

 被災地出身で怪談作家の小田イ輔さんは知人や顔見知りの人の死を体験した。「自分の身内が流されて5年たって落ち着いたとはいえない。津波で亡くなった、新聞に名前が載った、で終わりじゃない。その人が生きていた証しを拾い上げて残す。誰にも訪れる『死』を突き詰めたのが怪談だ」と話している。

128 NAME :2017/03/06(月) 02:53:22
遺族が経験した「3.11後の霊体験」とは何か 亡くなった時間に、お別れのあいさつに
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e9%81%ba%e6%97%8f%e3%81%8c%e7%b5%8c%e9%a8%93%e3%81%97%e3%81%9f%ef%bd%a2311%e5%be%8c%e3%81%ae%e9%9c%8a%e4%bd%93%e9%a8%93%ef%bd%a3%e3%81%a8%e3%81%af%e4%bd%95%e3%81%8b-%e4%ba%a1%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%a3%e3%81%9f%e6%99%82%e9%96%93%e3%81%ab%ef%bd%a4%e3%81%8a%e5%88%a5%e3%82%8c%e3%81%ae%e3%81%82%e3%81%84%e3%81%95%e3%81%a4%e3%81%ab/ar-AAnM7V6?ocid=iehp#page=2

あの日から、もうすぐ6年の月日が経とうとしているが、今だに震災について語るべき言葉を持っていない。身の回りで大きな被害があったわけでもない。知人や親戚が被災地にいたわけでもない。ボランティア活動に参加したこともない。

 そんな自分が何を語ろうとしても、言葉が軽くなってしまう。同じようなためらいを感じている方は、案外多いのかもしれない。しかし本書『魂でもいいから、そばにいて』は、意外な切り口からそのような壁を取り払ってくれ、最も大切な姿勢が何かを教えてくれた。

 数年前から被災地で、まことしやかに囁かれてきた不思議な体験の数々。多くの人にとってかけがえのないものでありながら、「誰も信じてくれないから」と胸に秘められてきたのは、大切な「亡き人との再会」ともいえる体験談であった。偶然の一言では片付けられない話ばかりが、次々と飛び出してくる。

被災地で囁かれてきた不思議な体験の数々

 中でも圧倒的に多いのは、亡くなった家族が夢に現れるという現象である。夢とは思えないほどリアリティに溢れ、当人と言葉を交わすようなケースも多い。その次に多いのが、「お知らせ」というものだ。亡くなった時間に、お別れの挨拶に来たという証言する人は少なくない。また、携帯電話を通しての不思議な現象も散見された。

 このような霊的体験は、阪神・淡路大震災の時にはほとんど見られなかったという。オガミサマと呼ばれるイタコのような風習が古くから生活の一部になっていたように、東北には土着の宗教心が今も潜在意識の中でしっかり流れている。それが霊を見たり、感じさせたりということにつながっていくのだろうか。

 被災で亡くなった人と残された人。その差に、何か明白な原因があったわけではない。あまりにも理不尽な分断が、ある日突然起こった。だからこそ両者は、その分断を目には見えない何かで埋めようとするのかもしれない。

 あの悲劇を一刻も早く忘れたい、でも大切な人のことを忘れたくない。そんな忘却へのジレンマが、その人固有の物語を生み出していく。本書は、そんな人々の物語だ。

129 NAME :2017/03/06(月) 02:54:58
 “私は眠ったら妻や娘に逢えると思うから、自分自身が死んだつもりになって寝るんです。(亀井繁さん)”

 妻と娘を喪った、亀井繁さん。遺体が見つかり、火葬を終えた日の夜中のこと、二人が自分に向かって手を振っている姿を目の当たりにする。「ああ逢いに来てくれたんだ」と手を伸ばしたその時、目が醒めたという。繁さんはその後も何度か同じような経験をし、こうした出来事を大学ノートに記録するようになった。

 夢のようなひと時を、夢の中で過ごす。ある時は「私がいないとつまんない?」と妻から尋ねられ、ある時は「どこにも行かないよ」と声を掛けられた。むろん夢から醒めてしまえば、想像を絶する地獄が待っている。だが、夢の中だけでもあの頃に戻れるのであれば、たしかな希望を感じることができるそうだ。

その霊も誰かの大切な家族だった

 “他人の霊を見たら怖いでしょうね。でも私は見方が変わりました。その霊も誰かの大切な家族だったんだと思えば、ちっとも怖くないと思えるようになったんです(永沼恵子さん)”

 当時8歳だった息子の琴君を喪った、永沼恵子さん。何気なく携帯の写メで家の写真を撮ったら、なんと窓に琴君の顔が写っていたのだという。それを皮切りに、次々と不思議なことが起こっていく。風邪もなく窓も閉めきっているのに、ティッシュが激しく揺れたり、どたんと大きな音がしたり、天井や壁を走り回る音がしたり。

 琴くんの足音が聞こえてくるーーそう思えるだけでも亡くなった我が子の気遣いとして感じられ、頑張っている姿を見せなければと前を向けるのだという。子供を喪うことは、未来を奪われることにも等しい。それでも子供との思い出が、確かに未来を創っているのだ。

 “夢の中でお父さんにぐっと手を握られたりハグされたりするでしょ? お父さんの手は大きくて温かいんですよ(菅野佳代子さん)”

 市役所勤務の夫を喪った、菅野佳代子さん。仮設住宅に移った2013年くらいから夢に旦那さんが出てくるようになった。鮮明な映像で音も大きく、現実と錯覚するほどのリアリティであったという。

 生きている「死者」を抱きしめるような感覚が、生活を穏やかに包み込んでくれる。だから現実にはいないはずの仮設住宅でも、旦那さんと二人っきりで生活している気がするそうだ。

生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいる

 在りし日の思い出、亡くなった悲しみ、夢で再会できた喜び。それらがシームレスにつながり、一つの物語が形成されていく。その過程において、著者は同じ人に最低3回は話を聞いたそうだ。その物語も、決して不変なものばかりではなかった。他者に語ることで語り手が少しずつ変化を加えつつ、自らが納得できる物語として完成したのである。

 それは事実と言えるものなのか。そう指摘することは容易い。しかしその物語で、遺された人たちが生きる力を取り戻し、少しずつ心の復興が進んでいることは、紛れもない「事実」である。

 被災者たちを襲ったのは、津波だけではなかった。時を追うごとに、さまざまな困難が襲いかかってくる。一番キツいのは、「あの時もし、こうしていたら、家族は助かったのかもしれない」と、自分で自分を攻め続けてしまうことだ。その悩みは内省的なものであるがゆえに、表面化しづらく根も深い。だが、当人たちそれぞれの不思議な物語が、彼らを罪の意識から解放してくれるのだ。

 「生者が死者を記憶に刻み続けることで、死者は生き続ける。私は、その記憶を刻む器なのだ」と、著者は語る。それぞれの話が共鳴することによって生まれる、新たな共同体感覚。それがさらに、誰かを孤独から救い出すことへつながっていくのかもしれない。第三者に出来る唯一にして最大のことは、ただひたすら器に描かれた物語を記憶に刻んでいくことだけだろう。

 幸せと絶望があまりにも理不尽に分断されたことで、現実と虚構が入れ替わっていく。だが一体、何が現実で、何が虚構なのか。常識や思い込みといったものこそ、虚構に過ぎないのかもしれない。我々にそれを決めることなど、決して出来はしないはずだ。

130 NAME :2017/03/07(火) 20:14:39
東日本大震災
津波の高さ、目で確かめて 銀座のビルに巨大垂れ幕
2017.3.7 18:20
http://www.sankei.com/photo/story/news/170307/sty1703070009-n1.html

東日本大震災の発生から6年を迎えるのを前に、IT大手ヤフーは東京・銀座のソニービル壁面に、岩手県大船渡市を襲った津波の高さを示す巨大な垂れ幕を設置した。防災意識を高めてもらうのが狙い。12日まで。

 垂れ幕は高さ28.5メートルの白地に、黒字で「あの日を忘れない。それが、一番の防災」などのメッセージをつづったシンプルなデザイン。大船渡市で観測された津波と同じ高さ16.7メートルの位置に横に赤い線を引いて、視覚に訴えている。

 ヤフーの広報担当者は「インターネットでも災害情報を伝えているが、ほかにも一人でも多くの方が防災への想像力を高められるきっかけを発信したい」と話している。.

ソニービルに掲出されたYAHOO!の広告。大船渡市で観測された津波の高さ16.7メートルが示されている=7日午後、東京・銀座(桐原正道撮影)

131 NAME :2018/07/07(土) 23:48:01
長友、仙台で被災地子供から質問「なんで金髪に?」
2018/7/7(土) 19:34配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180707-00261069-nksports-socc

日本代表DF長友佑都(31=ガラタサライ)がワールドカップ(W杯)ロシア大会から帰国2日後の7日、仙台市内を訪れ、被災地の子どもたちを喜ばせるだけでなく、自身も活力を得た。

少年サッカー大会会場となっていた蒲町小を訪問。ワールドカップ応援の感謝と、夢を持って努力する強い気持ちを持つことを伝えた。質問タイムでは「日本代表で一番仲が良い選手は?」の問いに「香川真司。同じ時期に代表に入ってやってきたし、人間性も素晴らしい。人の見えないところで努力を重ねているからこそ10番を背負える。その裏の努力を僕は見ています」。

 「なんで金髪にしたの?」には「日本代表が6カ月間勝てなくて批判も受けた。『オジサン、オジサン』とも言われていた。自分の気持ちも変えたかったし、チームを明るい雰囲気にしたかった」と明かした。

 甚大な津波被害を受けた沿岸部にも足を運んだ。遺構として保存され、校舎内には写真や映像が展示されている荒浜小も見学した。同小近くにある荒浜慈聖観音の慰霊碑には献花し、合掌。14年W杯ブラジル大会直後にも仙台を訪問しており「4年前に力をもらった感謝もあるし、また元気をもらいたいと思った。このエネルギーで4年後(のワールドカップ)も狙いたい」と力強く話した。

132 NAME :2018/07/17(火) 12:37:24
「支援金」と「義援金」、お金が届く相手が違います
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%80%8c%e6%94%af%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e7%be%a9%e6%8f%b4%e9%87%91%e3%80%8d%e3%80%81%e3%81%8a%e9%87%91%e3%81%8c%e5%b1%8a%e3%81%8f%e7%9b%b8%e6%89%8b%e3%81%8c%e9%81%95%e3%81%84%e3%81%be%e3%81%99/ar-AAA7OFn#page=2
2018/07/16 07:37

支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。
義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられる

西日本豪雨災害の被災地に届ける「支援金」や「義援金」の募集が始まっている。「被災地の役に立ちたい」という気持ちがこもったお金だからこそ、使われ方を理解しておきたい。改めて、「支援金」と「義援金」の違いって――。

 被災地への支援金募集を始めた日本財団によると、支援金とは自分が応援したい団体、関心がある分野の団体を選んで寄付し、被災地の支援活動に役立ててもらうお金。財団では、避難所へのトイレ設置、ボランティアセンターの運営などの使い道を想定している。

 一方、義援金とは、被災者にお悔やみや応援の気持ちを込めて直接届けるお金。日本赤十字社によると、個人や企業などから寄せられた義援金は、各自治体の義援金配分委員会で協議のうえ、市町村を通じて被災者に直接、届けられるという。 「義援金と支援金の違い」は、日本財団のHP(https://www.nippon-foundation.or.jp/what/spotlight/tohoku_earthquake/infographics/)で、わかりやすく図解している。(小若理恵)

133 NAME :2018/08/06(月) 22:49:13
水害、石碑の訴え届かず 明治に44人死亡の小屋浦地区
2018/08/05 05:03
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e6%b0%b4%e5%ae%b3%e3%80%81%e7%9f%b3%e7%a2%91%e3%81%ae%e8%a8%b4%e3%81%88%e5%b1%8a%e3%81%8b%e3%81%9a-%e6%98%8e%e6%b2%bb%e3%81%ab%ef%bc%94%ef%bc%94%e4%ba%ba%e6%ad%bb%e4%ba%a1%e3%81%ae%e5%b0%8f%e5%b1%8b%e6%b5%a6%e5%9c%b0%e5%8c%ba/ar-BBLuJ6L?ocid=iehp#page=2

西日本豪雨で大きな被害が出た広島県坂町の小屋浦地区。海の近くまで山が迫り、天地(てんち)川沿いを中心に約800世帯が住む。被害が集中した地域には、100年以上前に44人が死亡した土砂災害を伝える石碑があったが、悲劇は繰り返された。 今回の豪雨で、天地川の河口から1300メートル上流の砂防ダムが崩壊し、土石流が集落を襲った。支流域も含め、地区全体で15人が死亡、1人が行方不明になった。うち上流の小屋浦4丁目の住民が10人、下流の2〜3丁目が6人。16人の平均年齢は78歳だった。

 この地区では1907(明治40)年7月にも大雨で土石流が発生し、甚大な被害が出たことがあった。町史などによると、その3〜4年後の10年と11年、2基の石碑が建立された。被災の生々しい状況が漢文で記され、死没者全員の名前が刻まれている。当初は河口付近にあったが、2004年にいずれも川沿いの公園に移設された。お年寄りがゲートボールを楽しむ一角だ。 4丁目の山あいに住む西山シマ子さん(87)は公園を散歩する時、石碑に手を合わせてきた。犠牲になった祖父母らの名前が刻まれているからだ。小さい頃から「この辺は100年に一度、大事(おおごと)がある」と聞いてきた。砂防ダムの完成は1950年。住民も材料の石を搬入する作業に加わり、「これで100年は持つ」と歓迎したという。

 天地川は堤防の幅が最大10メートルほどの小さな川で、流量も少ない。川の近くに住む女性(76)は泥だらけになった自宅の片付けに追われながら、「昔は泳いだり洗濯をしたりしていた。あんなに荒れた川は初めて見た」と話した。豪雨の後、石碑のことを思い出し、「前もこんなんじゃったんやろか」と初めて身をもって考えたという。 県によると、崩壊した砂防ダムは高さ11・5メートル、幅50メートルの石積み構造。15年2月の定期点検では「経過観察」とされ、補修の緊急性はさほど高くないとされた。県は今回の土石流で崩壊したのは、「せき止め可能な9千立方メートルを上回る土砂が押し寄せた」のが原因とみている。 一方、県は1基では万が一に対応できないとして、4倍の能力を持つ2基目を造る計画を10年以上前に策定していた。現在、工事用道路づくりに着手しているものの、本体着工の時期は決まっていない。その隙間を突くように、今回の水害は起きた。

© 朝日新聞 111年前の被害を伝える公園内の2基の石碑。その前のスペースは天地川をあふれさせた流木などの仮置き場になっている=2018年7月30日、広島県坂町小屋浦4丁目、遠山武撮影

坂町の坂郷土史会は明治の水害から100年が過ぎた08年7月、町内で「水害史料展」を開催し、「山や崖に囲まれた地形では、集中豪雨に遭遇すると被害は必至」と警鐘を鳴らしていた。ただ、同会副会長で地元に住む中屋敷康さん(78)は「実際に起きるとは予想もしなかった」と打ち明けた。 石碑を今の場所に移転させたのは住民組織の「小屋浦講(こう)連合会」。移転した後、お盆前に毎年、石碑周辺の清掃活動を続けてきたが、今年は見送る。会長の山下幸博さん(66)は言う。「川は長い間安全だったので大丈夫と思っていた。自然の恐ろしさを身をもって知った。災害はいつ起こるか分からない」(遠山武)


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