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安倍晋三が辞任するのを願うスレ6

127。・゜*ヽ(´ー`)/。・゜*:2017/07/30(日) 01:52:33 ID:2JvsOOl2
塚本幼稚園の経営は、戦後の「子沢山社会」の波に乗り順調に拡大。大阪市住之江区南港、兵庫県川西市清和台にも「支店網」を築くまでにもなった。昭和50年ごろからは各地の自治体から「小学校を作ってはどうか?」との提案が持ちかけられるようになる。しかしどの計画も具体化するたびに、法や規制の壁に阻まれ頓挫した。

 平成9年、小学校建設の夢半ばで寛氏は他界する。その後の学園の経営を引き継いだのが、寛氏の長女・絢子氏の夫である籠池氏だ。小学校建設を「先代からの宿願」として引き継いだ籠池氏は、2代目理事長に就任した直後からさまざまな活動を展開するようになった。

 転機が訪れたのは平成18年。第一次安倍内閣誕生の年だ。この年の12月、安倍内閣は教育基本法改正を断行する。

 「うれしかったね。一人の愛国者として素直にうれしかった。学校法人の経営者としても『これで、ようやく教育現場で愛国心を正面から教えられる』との喜びもあった。で、同時に、文科省の方針としても愛国心をカリキュラムとして扱うというのだから、以前から自分でもやりたいと思っていた愛国教育を学園のカリキュラムとして育てられれば、規制の壁も突破できるんではないかなと思うたんよ」(籠池氏)

 ご真影遙拝(しんえいようはい)、教育勅語の奉読、軍歌・戦時歌謡の斉唱などの「愛国教育」はかくて誕生した。それは籠池氏が青年期から胸に抱いていた彼なりの「愛国心」と、安倍内閣による教育基本法改正という「時代の風」と、小学校建設という「年来の宿願」がない交ぜになったものだった。

 籠池氏の狙いは正しかった。塚本幼稚園が愛国教育に力を入れれば入れるほど幼稚園の評判は高まりつづけた。各方面からの視察が相次いだ。その評判を聞きつけた中山成彬や山田宏など、「愛国心」を売りにする政治家たちが、「人を集めるコンテンツ」としての塚本幼稚園に目をつけるのは時間の問題だった。「愛国論評」で売り出し中だった青山繁晴や竹田恒泰などの保守論壇人たちも同様。彼らが塚本幼稚園で相次いで講演したのは、なにも籠池氏側からのアプローチだけが理由ではない。
安倍・籠池「蜜月」のころ
 実際にあの当時の保守業界では「塚本幼稚園の愛国教育」が「流行(はや)って」いた。当時のあの界隈(かいわい)の人士が幼児教育を語る際のトレンドは、「愛国教育に邁進(まいしん)する塚本幼稚園を称揚する」ことだった。現に、青山繁晴は当時ネットメディアに出演した際、「塚本幼稚園の籠池園長は立派。塚本幼稚園がんばれ!」と宣伝までしていたではないか。
こうした背景を踏まえれば、籠池氏が安倍晋三夫婦と接近し得たことは、極めて自然だったことが理解できるだろう。「施政方針演説の直後の辞任」という前代未聞の醜態をさらして総理の座をほうり投げた安倍晋三を、保守業界は支え続けた。保守論壇誌には安倍再起論が盛んに掲載され、各地の保守団体のイベントでは安倍晋三をゲストとして招聘(しょうへい)する動きが続いた。

 そんな流れの中で籠池氏の周りでも「愛国教育で名高い塚本幼稚園で、安倍晋三講演会が開催できないか」との企画が立ち上がる。籠池氏が安倍サイドと初めてコンタクトをとったのは平成23年暮れのこと。人を介して電話で昭恵氏と会話したのが最初だという。昭恵氏と会話を重ねるなかで講演会の計画は具体化していき、平成24年10月に実現の運びとなったが、突如、安倍は総裁選への出馬を表明。講演会は直前にキャンセルとなり、籠池氏の手元には安倍事務所からの丁寧な謝罪の手紙が届いた。

 その後も籠池氏と昭恵氏の交流は続き、「安倍晋三記念小学校」という名称の応諾も、平成26年3月に東京のホテルオークラで行われた籠池夫妻と昭恵氏の会食も、「極めて自然な会話の中で」(籠池氏談)次々と決まっていった。籠池氏によれば、昭恵氏からは「普段から、主人は塚本幼稚園の教育内容に感心しており、いまも総裁選出馬で講演会が取りやめになったことを残念に思っており、いつかはお邪魔してお話したいと言っている」との話を何度も聞かされたのだという。


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