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原田さん 弱者支え50年

1鷹嘴:2012/06/13(水) 17:31:08
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/news/20120612-OYT8T01557.htm
原田さん 弱者支え50年

水俣病胎児性患者たちと原田さん(左)(2010年5月1日、水俣市で) 常に弱い者に寄り添う医者だった。水俣病の診察と研究に生涯をささげ、77歳で死去した元熊本学園大教授・原田正純さん。訃報から一夜明けた12日、仲間の研究者は涙ながらに偉業をたたえ、被害者たちは「ありがとう」と半世紀以上にわたる支援に感謝した。

■被害者たち

 原田さんは1972年に第1回国連人間環境会議が開かれたスウェーデン・ストックホルムで水俣病の被害実態を訴えたことがある。

 その際、傍らに立ち一緒に世界に向かって声を上げた胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は12日、水俣市の通所施設「遠見の家」で記者団の取材に応じ、「いつもニコニコして何でも話ができる先生だった。本当に残念です。ありがとう。お疲れさま」とねぎらった。

 同市の別の通所施設で原田さんが理事を務めていた「ほっとはうす」では加藤タケ子施設長(61)が声を詰まらせた。「この1か月は毎週、胎児性患者たちを連れてお見舞いに行った。『元気をもらったよ』と終始、優しい笑顔で応じていた姿が忘れられない」

 この施設に通う胎児性患者の加賀田清子さん(56)は、自らの携帯電話で撮影し保存していた原田さんの写真に見入り、「あまりに早過ぎる」と涙を流していた。

■熊本学園大



原田さんの遺影を横に記者会見する花田教授 熊本学園大の水俣学研究センターでは同日、センター長の花田昌宣教授(59)が、穏やかに笑う原田さんの遺影を横に記者会見した。

 原田さんは1999年に熊本大を退官し、熊本学園大の教壇へと移った。2005年のセンター開設と同時にセンター長に就任。補佐役を務めたのが花田教授だった。

 以来、2人は手を携えて水俣病問題を医学、環境、法律などあらゆる分野からとらえる「水俣学」の研究や講義に取り組んできた。

 花田教授は時折、涙ぐみながら会見し、「『弱い者とともに』を軸とする反骨の人だった」と尊敬する故人をそう表現。さらに、水俣学について、「君たちが作り上げていくんだ」と言われたエピソードを紹介し、「気持ちを受け継ぎ、水俣病問題に取り組んでいきたい」と述べた。

 花田教授によると、原田さんは4月末に入院したが、5月6日に「自分の体になりゆきを任せたい」として退院。それ以来、輸血を受けながら自宅療養を続け、容体を聞きつけて来た人たちと面会していた。

 水俣病などの教訓を次世代の子供たちに伝える絵本の出版を企画していたが、かなわなかったという。

2鷹嘴:2012/06/13(水) 17:32:29
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kumamoto/news/20120612-OYT8T01557.htm
原田さん 弱者支え50年
■行政関係者

 蒲島知事は12日、県庁で記者団の取材に応じ、「水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。常識を覆して胎児性患者を発見し、水俣病を通して公害問題に世界的な貢献をされた。残念でならない」と語った。

 宮本勝彬・水俣市長は「まことに残念な思い。水俣病の発生当初から患者に寄り添い、患者を支えてこられた。原田先生のご意思を大切にしていかなければならない」とコメントを出した。

 同市立水俣病資料館は13日、原田さんの活動の記録を展示する追悼コーナーを設ける。入館は無料。

◇水俣病・CO中毒 法廷証言100回超

 原田さんが治療、研究に没頭したのは、水俣病だけでなく、炭じん爆発事故による一酸化炭素(CO)中毒や、ダイオキシン類による油症にも及んだ。

 1960年に医師免許を取得し、すぐに遭遇した水俣病。続いて目を向けたのは死者458人、CO中毒患者839人を出した旧三井三池炭鉱三川鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発事故(63年)だった。

 当初からCO中毒患者の診察を続け、患者の脳波測定の結果をもとにCO中毒が脳に障害を残すことを医師団として突き止めた。

 自らも胃がんや脳梗塞を患いながら、事故に関する集会やシンポジウムで壇上に立ち続け、「三池の経験を未来に生かすことが患者、家族に報いるせめてもの手段」と訴えた。水俣病とCO中毒に関する訴訟で証人として法廷に立った回数は100回を超えた。

 CO中毒患者や家族、支援者らでつくる「三池高次脳連絡会議」議長の芳川勝さん(69)(大牟田市)は「診察だけでなく、患者の医療体制を整えるために一緒に上京して要望活動をしたこともある」と振り返った。

 また、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用油にダイオキシン類が混入し、68年に表面化したカネミ油症問題では、「黒い赤ちゃん」とも呼ばれた胎児性油症患者を中心に検診にあたった。長崎県五島市の患者団体「カネミ油症五島市の会」の宿輪敏子事務局長(50)は「長年、患者に寄り添って被害の大きさや公的救済の必要性を訴えていただいた」と感謝の言葉を述べた。

 ベトナム戦争で散布された枯れ葉剤によるダイオキシン類被害を調査するため現地に赴いたこともある。

(2012年6月13日 読売新聞)

3鷹嘴:2012/06/13(水) 17:35:31
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012061302000128.html
原田正純氏死去 水俣病の教えは今も
2012年6月13日

 原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。患者に寄り添い、その暮らしから真実を読み取ろうと試みた。弱いから見えるものがある。原田さんが提唱した水俣学は、弱者に学べと訴える。

 水俣病とは、何だろう。水俣病研究の第一人者、原田正純さんの生涯をかけた問いだった。

 水俣病多発地帯、ミカン畑に囲まれた熊本県水俣市湯堂の集落を、原田さんは「わたしの原風景」と書いている。

 半世紀以上前、熊本大学の若き医師として、朽ちかけた貧しい患者の家を訪ね歩いた。診察を拒否する患者たち。水俣病と診断されて、風評被害に遭うのが怖い。大学病院の医師が診察を拒否されるなど、想像すらしなかった。

 しかし、原田さんは、その現実を直視した。

 「治らない病気を前にしたとき、先生たちに何ができるのですか」。患者からのこの厳しい問いかけに、真っすぐ向き合うことにした。

 水俣病の原因は、チッソという化学会社が、水俣湾に垂れ流した有機水銀だ。高度経済成長を牽引(けんいん)した、元は「国策企業」である。これらは疑う余地がない。しかし、水俣病の正体は、いまだ判明していない。政府と最高裁で病気の認定基準が違う。補償が膨らまないように、国が配慮しているようにも見える。

 水俣病はなぜ起きて、なぜ終わらないのか。

 原田さんは、自らを問い詰めた。本当は極めて社会的、政治的、経済的な“水俣事件”を医学に独占させたこと、医学に丸投げしたことが間違っていたと気が付いた。そして「専門家とは何か」という新たな問いにたどり着く。

 「専門家と素人」の壁を取り払い、水俣病にかかわり合ったさまざまな分野の人の話をみんなで聞きながら、私たちの生き方や社会のあり方を見直そう。そう考えて提唱されたのが「水俣学」だった。人々の健康を奪い、地域のきずなを引き裂いた水俣の悲劇を繰り返さないために。

 原田さんの願いは、かなえられたのか。私たちは今、原子力ムラに封印された科学に対する不信に揺れている。政府は原発再稼働へと急いでいる。

 福島で何が起こったか。水俣学の手法で検証してみたらどうだろう。情報を全面的に開示させ、私たち自身の暮らしに当てはめて、それぞれに考えよう。水俣学は、今に生きているのである。

4鷹嘴:2012/06/13(水) 17:37:39
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307193
原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者
2012年6月12日 01:14 カテゴリー:社会
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 死去した原田正純9 件氏=2011年1月撮影 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純9 件(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。


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