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【原発】原発情報 避難所 21 【放射能】

832転載無用:2020/01/26(日) 14:13:55 ID:lT0Lge3M0
>>831
作業員の何人かは労災認定が下りている。
また、訴訟が起きている。

「原発をつくらせない人びと」はまだ序章しか読んでいないがこのような話があった。
能登半島の珠洲市の話だ。

とりわけ忘れがたいのは立花正寛さんだ。
日本原電の敦賀原発から8キロメートルの場所にある、寺の僧侶だった。

ある日、あつまった珠洲の人びとをまえに、正寛さんは話をした。
コバルトやセシウムの汚染が近くの畑などで徐々に広がっていること。
正寛さんの門徒たちは、ひとりをのぞいて全員、がんで亡くなっていること。
「わしらのいのちをすり減らしてつくっている電気」だと、
原発ができて23年たってやっと、敦賀の人たちも言うようになったと―。
「原発では死亡者が出ていないと言われています。
でも、少なくとも私の知っている限りでは、
私がお葬式した人たちはおそらく九分九厘まで、原発に関係した死に方をしています」
1993年3月の珠洲でそう語った正寛さん自身、しばらくのちに、がんがみつかった。

病床の彼は静かに響く穏やかな低音で、「僕が話していたとおりでしょう?」と、眞如さんに語りかけた。
自分の門徒はひとりをのぞいて皆、がんで亡くなっている、
正寛さんが珠洲で話してから、まだ10ヶ月しか経っていない。
その2ヵ月後正寛さんは亡くなった。まだ40代だった。

2003年珠洲に原発を計画していた電力会社3社の社長が珠洲市役所を訪れ、
計画を「凍結」すると申し入れた。

「あと5年、いや10年かな、抵抗をつづければ、原発は経済的に破綻して撤退せざる得なくなるでしょう。
あと10年、頑張ってください」
敦賀の正寛さんが、珠洲市高屋町の眞如さんをそう励ました1993年の夏からちょうど10年たっていた。
珠洲に計画が浮上した年から29年目、ようやくの終息だった。

…まぁ…因果関係は証明できないんですけどね。

掲載新聞記事(福井新聞)’93.7.7
掲載新聞記事(福井新聞)’93.7.8
https://mukakumuhei.com/history/page/9/

敦賀の市長はあの高木だった。




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