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時事問題議論総合スレッド ②

1444元気者警部:2010/07/06(火) 21:18:08
【今日は何の日】1989年:パンチェン・ラマが死去 より
パンチェン・ラマ10世 写真 ttp://img.gazo-ch.net/bbs/2/img/201007/754384.jpg

【今日は何の日】1989年:パンチェン・ラマが死去
Y! 【コラム】 2008/01/28(月) 08:54

  1989年1月28日、パンチェン・ラマ10世が死去した。

  パンチェン・ラマは、チベット仏教の主流であるゲルク派(黄帽派)で、ダライ・ラマに次ぐ宗教指導者の称号。阿弥陀如来の化身で、死後は転生するとされる。チベット第2の都市、シガツェにあるタシルンポ僧院の座主を代々務めている。

  しかし、代々のダライ・ラマとパンチェン・ラマの関係は必ずしも良好でなかった。その背景には、ダライ・ラマが住むチベット第1の都市のラサとシガツェの勢力争いがあった。

  パンチェン・ラマ10世チューキ・ギャルツェンは1938年12月生まれ。パンチェン・ラマ9世が1937年に死去したことを受け、41年に転生者として認められた。49年6月には国民党政府も転生を認めた。

  当時、国民党は共産党との内戦で敗色濃厚だった。パンチェン・ラマ10世は台湾への逃亡を勧められたが、断ったという。49年10月の中華人民共和国成立後も共産党との関係は比較的良好で、59年にダライ・ラマ14世がインドに亡命した後もチベットに残った。

  64年5月、ダライ・ラマ支持を表明して逮捕。66年には少数民族の伝統文化を徹底否定する文化大革命が発生したこともあり、78年まで独房で監禁されたとされる。

  文化大革命終了後の78年から死去するまで、全国人民代表大会の副委員長を務めた。その間、87年には全国人民代表大会(全人代)チベット自治区常務委員会で、中国政府のチベット自治政策を強く批判した。

  1989年1月28日、シガツェで心臓発作により死去。これを受け、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府は95年、ゲンドゥン・チューキ・ニマ少年(当時6歳)をパンチェン・ラマの転生者としてを認定した。

  一方、中国政府はチベット亡命政府の認定を承認せず、ニマ少年を連行。中国政府が承認した6歳のギェンツェン・ノルブ少年が、パンチェン・ラマ11世として即位した。

  写真は第7期全国人民代表大会第1回会議終了後の記者会見でのパンチェン・ラマ10世。1988年3月撮影。(編集担当:梅本可奈子・如月隼人)


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