したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第50部

490正樹★:2020/08/11(火) 03:19:16
 
「日航123便墜落 圧力隔壁説をくつがえす」公式ブログ

1985年に起きた日航123便墜落事故を、当時日本航空スチュワーデスとして勤務していた著者・青山透子が、事故の真相を追い求めて綴ったノンフィクション

2015-09-03

なぜ松永はウソをついたのか〜中曽根氏の戦後日本外交から読み解く

 http://tenku123.hateblo.jp/entry/2015/09/03/194727
 http://tenku123.hateblo.jp/entry/2015/09/03/194727

「中曽根康弘が語る戦後日本外交(2012年、新潮社)」から見えた事実 

                                   青山透子

随分と分厚い本の中で、日航機墜落事故(p417-p418)は、たったの2ページだけ記されていた。その内容は、遺族への哀悼の意や事故原因には一切触れず、終始言い訳のような内容であった。

その中で、新聞報道とのズレの部分は次のところである。事故の報告をいつ聞いたのか、という質問(中島琢磨龍谷大学准教授)に対して、中曽根氏は「日航ジャンボ機墜落事故の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で、午後7時過ぎでした」と答えている。しかし、当時の新聞報道では、上野駅から官邸に直行せずに40分以上もかけて走り、さらに到着後に囲まれた記者たちの問いかけに、「ほう、そんな事故があったのか」と答え、記者から言われて初めて知った、と記されている。2012年に聞いた時期を訂正している、ということになる。または昔の自分の言動を忘れて、素直に答えた、とも言える。

本当は、軽井沢から戻る列車の中の車掌用電話で知り、官邸に到着後、こちらから(官邸)から、対策の指令も出した、と述べているのだ。

さらに、墜落場所の情報が二転三転したという点については、

「米軍もレーダーで監視していたから、当然事故については知っていました。あの時は官邸から米軍に連絡は取らなかった。しかし、恐らく防衛庁と米軍でやり取りがあったのだろう」

と中曽根氏は述べている。米軍と防衛庁が勝手にやり取りをして、首相が知らないわけはない。もしそれが本当ならば、全くシビリアンコントロールが効いていないことになる。

 

正樹-競売の如(ごと)く揺さ振りを掛けよ
@zunnagaru
·
10分
返信先:
@jcast_news
さん
「日航123便異常発生の1985年8月12日18時24分から上野駅到着の19時台まで中曽根
@yasutaka_nksn
の康弘が乗車中の上越新幹線『あさひ』号200系グリーン車の乗務員室(車掌室)の列車無線電話への在日米軍等の傍受音声の情報公開」を米国政府に要望しよう!



正樹-競売の如(ごと)く揺さ振りを掛けよ
@zunnagaru

返信先:
@jcast_news
さん

「日航123便異常発生の1985年8月12日18時24分から上野駅到着の19時台まで中曽根
@yasutaka_nksn
の康弘が乗車中の上越新幹線『あさひ』号200系グリーン車の乗務員室(車掌室)の列車無線電話への在日米軍等の傍受音声の情報公開」を米国政府に要望しよう!

午前2:53 · 2020年8月11日·Twitter Web App
 https://twitter.com/zunnagaru/status/1292881892593696769
 https://twitter.com/zunnagaru/status/1292881892593696769
J-CASTニュース
@jcast_news
·
8月6日
お盆前の成田空港に「JL123」便が現れた怪 日航ジャンボ機事故で「欠番」のはずが...
#JAL #JL123 #フライトレーダー24 #日本航空 #日航ジャンボ機事故


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板