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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第47部

230正樹★:2018/01/10(水) 02:26:20
 
 「〜の歓心を買うことができれば、少なくとも数百万人の規模の政治的動員力を確保することができることに気付(きづ)き給え(たま)!に目を向け給(たま)え!」
 
 
 
>>225で忘れたことでの本文を追加!
 


右を見遣りて下を見遣りて、國を想わば♪(^^ゞ

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 http://yukurinashi.blog.so-net.ne.jp/
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社会に対しての希望や願望を「現実の選択」にすることを欲(ほっ)しているのなら、満足することでの真っ当な職を死に物狂いで必死に探していることでの公共職安(ハローワーク)での求職者達の歓心を買い、数百万人以上の規模の政治的動員力を確保し給(たま)え!?
2018-01-01 18:39 nice!(0) コメント(0)
 http://yukurinashi.blog.so-net.ne.jp/2018-01-01-1843
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佐治芳彦『政治闘争の流れからみた日本史の謎と素顔-古代王朝から大政奉還までの政権争奪の謎』(日本文芸社:118頁〜119頁)親鸞と日蓮はどうして既成仏教を乗り越えたか?鎌倉時代のイメージは、プラグマティズムである。底辺の民衆も、宗教を、仏の慈悲を望んでいた。極楽浄土を願う者には、身分の上下はない。いや、身分が低く、生活が苦しいからこそ、より熱烈に成仏(じょうぶつ)を願っていたと言える。にも拘(かかわ)らず既成仏教は、そのような人々に門を閉ざしていたのである。親鸞と日蓮が現れたことは、それの意味で、まさにグッド・タイミングであった。二人は既成仏教に飽き足らず、新たに宗派を開いたものの、信者を獲得することが困難だった。目ぼしい階層の人々は、既に既成教団に組み込まれてたいからである。だが、この二人が偉大だったところは、方針を転換し、対象を社会の最底辺に蠢(うごめ)く人々に求めたことである。親鸞は、越前から日本海沿岸、更に信州のいくつかの河筋(かわすじ)の海の民(うみのたみ)・山の民(やまのたみ)らを門徒として組織した。日蓮も自らをセンダラ(不可触賤民)の子と称して、やはり差別されたことでの底辺の人々に呼び掛けた。これらの布教作戦(キャンペーン)は、既成仏教の、いわば盲点を突くこととなり、大きな成功を収めたのである。すなわち、室町末期から激発したことでの一向一揆(いっこういっき)、法華一揆(ほっけいっき)の中心勢力は、親鸞が、日蓮がオルグ(組織化)したことでの「山の民」「海の民」であったからである。


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