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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第43部
501
:
正樹★
:2016/07/29(金) 00:59:30
事故機[編集]
123便に使用されたボーイング747SR型機(機体番号JA8119)は1974年(昭和49年)1月に製造された。本事故を受け、1985年8月19日付で登録抹消。[1]本機は日本の航空会社で運航していた同型機が墜落事故によって登録抹消された初のケースであり、ボーイング747型旅客機が日本の航空会社から全機退役となった2016年現在、日本国内の同型機において墜落事故により登録抹消された唯一の機体である[要出典]。
事故発生当日、管轄の運輸大臣である山下徳夫は倒産が決定的となった三光汽船の処理に当たるため直前の便(福岡発羽田行日本航空366便)でこの事故機に搭乗して上京していた。また、球団社長の中埜肇を失った阪神タイガースの選手・首脳陣たちも山下と共にこの事故機に搭乗していた[※ 4]。
墜落前の事故[編集]
1978年(昭和53年)6月2日、羽田発伊丹行き115便として本機が伊丹空港に着陸しようとした際、機体尾部が滑走路と接触し中破する事故が発生したが(日本航空115便しりもち事故)、この事故によって生じた損傷の修理を製造元のボーイングが行った際、後部圧力隔壁を修理する中で発生した作業ミスが本事故の主原因と結論付けられている。
1985年2月から本事故までの間、本機では客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。事故調査報告書は、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている[c 1]。
事故の経過[編集]
事故当日のJA8119型機[編集]
事故当日、JA8119型機のフライトプラン:JAL123便として伊丹空港に向けて羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだ後、伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。
使用された JA8119型機(就航以来の飛行回数:約18,800回)の当日の運航予定 503・504便で羽田 - 千歳線1往復
363・366便で羽田 - 福岡線1往復
123・130便で羽田 - 伊丹線1往復 123便で5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
乗務員:以下の通り計15人。年齢・総飛行時間はともに事故当時。 運航乗務員 機長:高濱雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間41分)[※ 5]
副操縦士:佐々木祐(ささき ゆたか、39歳・機長昇格訓練生 DC-8では機長として乗務 総飛行時間3,963時間34分)
航空機関士:福田博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間03分) コックピットでは機長昇格訓練の為、通常とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が機長席に座り操縦し、クルーへの指示を担当。訓練教官である高濱機長は副操縦士席で佐々木副操縦士の指導や無線交信などの副操縦士の業務を担当。
当日、福田機関士は羽田 - 福岡線363・366便で JA8119に、佐々木副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、高濱機長は当日最初のフライトであった。
客室乗務員 チーフパーサー:波多野純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)以下女性乗務員11人
乗客は509人。搭乗方式はボーディング・ブリッジではなく、搭乗待合室から地上に降りて徒歩でタラップを昇る搭乗であった。
18時04分、乗員乗客524人を乗せたJA8119型機はJAL123便として定刻より4分遅れで[※ 6]羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に当時の滑走路15L[※ 7]から離陸した。
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