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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第40部

735正樹★:2015/10/09(金) 00:51:23
 
1990年、8月11日の夕方、明日は三人の命日だからと英治さんところ(つい、そう言ってしまう)へ寄って手桶を借りてお墓まいりをした。夏は蚊が発生するので伏せてあった花立ての筒を起こし、水を注いで、持って来た菊やりんどうなどの花を供えた。一年前、キミエおばあさんが病に倒れ家を離れてからからは、英治さんの姉妹が交替で留守宅の世話をしているのだが、「お墓にまで、なかなか行き届かなくて」と、洗濯物を取り込んでいたおばさんは苦笑しながら言った。
 それから3日後の「赤旗」投書欄、「川上さん夫婦の記録残したい」が目に入った時、「さあ、どうしよう」と、そのことが頭から離れなくなってしまった。そんなところへ、佐々木隆一さんが「出雲でやろう、二人が救援会の関係で旅行に出たのだから、救援会がやることにしよう」と言って下さった時には、これで何とか出来ると思え、これまでの長年のもやが晴れる気持ちになった。
 6年前の8月12日、夕闇が迫る頃、川上さん一家を知る者を大きな驚きと、続く悲しみの中におとし込んでしまった日航機墜落事故。
 あの日、私も夕食をとりながら〝日航機レーダーから機影消える〟とのテレビのテロップを横目に見、「また日航か」と思っているところへ電話のベルが鳴った。「まさか、そんなこと」と繰り返しながら英治さんところへ行くと、キミエおばあさんとおばさん二人がいて、すでに大阪のおばさんからも連絡が入っていて、おばあさんは私の顔を見るなり「祝部さん、今度の旅行を思い立ったは、英治かね、和ちゃんかね……」と問い詰めるように言われたが、返す言葉はなかった。やがて家の中は人の出入りで騒然となった。
 カタカナで発表される搭乗者名簿はカワカミエイジ以外はカワカミフサコ、カワカミエイイチ、カワカミテツジで「カワカミエイジはどこにでもある名前だ、汽車に乗ったかもしれない」などと、みんな無事を祈った。
 やがて夜が明け、現地に向かう千春君らを見送って、昼前になった。目の前の有線放送電話のベルが鳴って、受話器を取ると「慶子ちゃんがテレビに・・・・・・」の声が飛び込んだ。「慶子が無事なら三人も……」と待ったが、その日は何の情報も入らなかった。夕飯におばあさんは、「慶子が助かったから」と赤飯を炊いた。
 14日の午後2時25分、「和子さんの確認をした、免許証で……」、そして4時53分に英治さんの、5時58分に咲子ちゃん確認の悲しい知らせが次々に入った。「慶子が助かったけん……」と言う以外に、みんな慰めの言葉も出なかった。
 お寺さんへの連絡、お通夜や葬儀の準備、その間にマスコミ取材への対応、臨時電話の申し込み、それにしても毎日暑い日が続く。17日昼前に遺骨になってしまった三人が帰ってきた。18日午後4時からの葬儀には沢山の方の参列をいただいた。


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