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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第38部

94正樹★:2014/12/27(土) 00:19:50
 
[27部−856]
 
株式会社プロダクションリアライズ
 http://realize.chu.jp/top.htm
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  白木悠吏阿 -しらきゆりあ-
   http://realize.chu.jp/profile_shiraki_yuria.html
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>>156>>482
 
 俳優・仲代達矢さん
 終戦で大人への不信感を持った、14歳にして虚無感を抱く
 私は1932年(昭和7)年生まれですから、太平洋戦争の戦時体制下で
小学校から軍国教育を受けた少年でした。とにかく国のために死ぬ、一億総玉砕
と言う言葉で頭のてっぺんから足のつま先まで軍国主義を叩き込まれ、幼過ぎて
戦争について何かを考えるなどとは思いもしなかったのです。
 だから中学1年生で8月15日の終戦を迎えた時は、大人たちの豹変振りに
ただただ強いショックを受けました。昨日まで厳しい顔で鬼畜米英と言い続けて
いたのに、あの日一日にして民主主義を唱え、親米派を語り平和を標榜する。
私は僅(わず)か14歳にして大人に対して強い不信感を抱くようになります。
そして大人に裏切られた私達昭和一ケタ世代は、戦争について語ることを嫌い、
避けて来てしまいました。
 75歳になった今に、次の世代に自分達なりの戦争観を伝えなかった責任を
痛切に感じます。人間と言うモノはあっと言う間に体制に呑み込まれてしまう
もので、その体制を冷静に批判する力も抵抗する精神も持ち得ないと、戦争の
ように愚かな行為へと突進してしまうことを。
 私は俳優として修業することになった新劇には、既成の物に対してアンチの
精神が息衝(づ)いていて、例えば小説では伏せ字と言う物がありますが、
新劇でも軍国政権下では翻訳劇の『どん底』を演じる際に「自由」と声に出せ
なかったそうです。その言葉を言ったら劇場にいる検閲官に止められ、千田
是也先生を始めそれを敢えてやろうとしたことでの当時の新劇人は、みな牢獄に
叩き込まれ、終戦によって解放されてから、やっと新劇は活躍する時代を迎えます。
 
           ===朝日新聞2008年8月17日(日)===


>>157>>482
 
>>156
 
 作家・石牟礼道子さん(81)
 1956年5月1日  水俣病の公式確認
 1958年  詩人・谷川雁氏、記録作家・上野英信氏らと同人誌『サークル
       村』に参加
 1968年  水俣病患者を支援する水俣病市民会議の結成に参加。政府が
       水俣病を公害病と認定。
 1969年  『苦海浄土−わが水俣病』を発表。患者らがチッソを相手取り
       損害賠償請求訴訟を起こす。
 1973年  患者側が勝訴。
 1974年  『苦海浄土』第3部『天の魚』を刊行。
 2002年  水俣病をテーマにした新作能『不知火』を発表。
 2004年  未完だった『苦海浄土』第2部『神々の村』を刊行し、3部作が
       完結。全集『不知火』の刊行が始まる。
 終戦のときは18歳で国民学校の代用教員をしておりました。
 戦後の反動は大きかった。使って来た教科書は軍国主義的なところを消さにゃ
ならんと言って、私は非常に抵抗を感じながら生徒たちに墨を引かせました。
昨日までは「撃ちてし止(や)まん」とか「鬼畜米英」と言っていたんですよ。
今日からは自由主義、民主主義と言って。
 民主主義がいいのかもしれないけど、戦勝国の言いなりで良いのだろうかと
思いました。死んだ人たちに何と言えばいいのだろうか、靖国に祀(まつ)られて
神様になんなはったと言うけれど。
 
           ===朝日新聞2008年8月18日(月)===


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